卒業

卒業

5回に分けて投稿した作品をまとめました。

アリサ

 その日圭は急いでいた。授業が始まる。ギリギリまで仕事をしていた。親方は早く行け、と急かしてくれたが、もう夜学はやめてしまおうかと考えていた時期だった。

 正門を入ったところで女生徒とぶつかりそうになった。女生徒は身軽によけたが、よけようとした圭が倒れた。
 女生徒は自転車を起こし、大丈夫? と聞いた。声はイメージしていたより低音だった。起き上がった圭が見た女は遠目に見ていた女とは違った。
 遠目では茶髪に染めパーマをかけていた。H校は校則がゆるいが見かけないタイプだ。衣替えの時期を過ぎても上着を着ていた。上着を着ていても胸の大きさは隠せない。
 2年生か? いや、見かけたのはこの春からだ。部活のあと正門の前で集まっている。男の中に女がひとり。下僕を引き連れて帰っていく。圭の嫌いなタイプだった。
「ごめん。君の方こそ大丈夫か? ブレーキが効かなくなってたんだ」
「すぐそこに自転車屋、あるわ」
 ぶっきらぼうな言い方だ。
「ああ、時間がないんだよ。自転車屋の開いている時間には行けないんだ」
 君たちと違って……圭は苛立った自分を恥じ校舎に入った。

 女はドリーと呼ばれていた。遠目でも目立っていた。男子に取り巻かれチヤホヤされていた女が、圭の汚い自転車を軽々と起こした。
 ドリー? 茶髪にパーマは地毛だ。たぶん。

 授業が終わり自転車を漕いだ。軽くなりブレーキが直っていた。まさか? 鍵はとうになくしていた。自転車が自然に直るはずがない。すぐそばに自転車屋あるわ……
 まさか、あの子がオレのために? 

 翌日ドリーは圭のところへ歩いてきた。うしろで大勢の下僕が見つめている。
「君が直しに行ってくれたのか?」
「迷惑だった?」
「いや、助かったよ。行く暇なかったんだ」
 ドリーはレシートをよこした。
「安くしてくれたわ。磨いてくれたし。サビは落ちないけど」
(君が行けばサービスするだろう。若くても年配でも、男なら君を見て……)
「きれいになったよ。ありがとう」
 圭は札を出し渡した。
「お釣りはお駄賃でいい?」
 圭はうなずく。
「駅の近くのコンビニ、パパが経営してるの。買いに来て」
 しっかり営業して帰って行った。パパ、という言葉もあの子が言うと意味深だ。

 夜学をやめる気はふっとんだ。毎日圭はドリーの顔を見るのが楽しみになった。会えるのはほんの少しだ。話すわけでもない。本名さえ知らない。
 しかし、ドリーは圭を見てくれた。圭を見て微笑む。優越感が湧いた。うしろで見ている男子たちに。  
 しかし、そんな微笑みはダメだ。世界史の先生の口癖……官能的なくちびる……

 その日は間に合いそうになかった。圭は諦めていた。向こうからドリーが歩いてきた。取り巻きに囲まれて。圭は通り過ぎようとした。
「待って」
 自転車はスッと止まった。ドリーは駆けてきてカバンからビニール袋を出しよこした。
「家庭科で作ったの」
 ああ、ドリー、と男子が嘆く。圭はすでに漕いでいた。君の作ったクッキーならだれもが欲しがるだろうに。
 翌日礼を言うとメモをよこした。携帯の電話番号とアドレス。alissa@……
 その夜にメールした。自己紹介。

 僕は斉田圭。1年の2学期までは全日制にいたんだ。父が亡くなり今は親方について仕事を教わってる。
 趣味、スポーツ観戦。サッカー部だった。

 返信。

 私は今井美登利。自分の名前好きじゃないからドリーと呼んで。
 部活は軽音楽。ピアノと歌が好き。スポーツも得意。中学は陸上やってた。走り高跳。

 メールで話す。美登利のことを知っていく。美登利はたけくらべの美登利。かわいいじゃないか。
 好きな言葉は?
 禁欲? 自己犠牲? 
 なに? 君はクリスチャンか? 

 違うわ。外見が派手だから……贅沢で自己中だと思われてる。

 君の本質は僕が知ってるよ。

 夏休みに入ると顔を見られなくて寂しかった。 
 休みの日、圭はコンビニに行った。ドリーはレジにいた。カゴに商品を入れレジに並ぶ。前の中年の男が
「君のフィギュアないの?」
と聞いている。ドリーは何事もないように接客している。圭はカゴを乱暴に置いた。男は圭を見て出て行った。ありがとうございました、とドリーが言う。
「礼なんか言うなよ」
「いいお客さんよ。たくさん買いに来てくれる。慣れてるし」
 ドリーは袋に詰め手渡した。買いに来てくれたのね、と聞かれ現場が近くなんだと嘘をついた。言いたくはなかった。かっこよくエクステリア。外構工事……

 翌日親方とコンビニに入った。思った通りの反応。男好きする顔だ。親方は圭の気持ちに気づき毎朝寄ってくれる。休みには海に誘えと言った。初めての誘いが海?
 親方夫婦と6年生の娘、ドリーは初め忙しいからと断ったが来た。奥さんも瞬間的に眉をひそめ、娘の弘美は敵対心を燃やした。
 圭のために地味にしてきたのがわかる。地味にすると余計に際立つ。肌の白さ。睫毛の長さ。水着のうえに揃いのスカートに胸を隠すパーカー。 
 海には入らず海岸で弘美と砂遊び。奥さんに言われ圭はドリーと海に入った。パーカーを脱いだ下にはまだタンクトップを着ていた。ドリーはどんどん泳いでいく。圭は追いかけた。そして捕まえた。ドリーの左手首。

 帰りの車でドリーははしゃいでいた。歌を歌い親方に褒められていた。疲れた弘美は圭にもたれ眠っていた。
 ドリーは奥さんが寝ても疲れもみせず外を見ていた。涙が流れていた。車の後部座席で圭は慰めることもできなかった。真夏に長袖を羽織っている。手首を隠すために。

 少女の涙が私の一生を決定した。
『狭き門』にそんな文章があったはずだ。車の中で静かに涙を流していたドリー。
 ドリーの涙がオレの一生を決定した。

 コンビニの前で圭も降りた。約束だ。帰ったら話すと。ドリーは5階の自分の部屋に通した。父は店だから、と。
「嫌われたわね。奥さんにも弘美ちゃんにも」
「そんなことないよ」
「いつもそうだった」
 ドリーは本を取った。
(アンドレ ジッド『狭き門』)
 1年の時の倫理の教材だった。
「私はアリサなの」

『狭き門』
 倫理の時間グループで話し合い、幸子は怒っていた。三沢がなにも意見を出さないって。圭が聞くとあいつは、
「オレもアリサだ」
と拗ねた。

 美登利の母はアリサの母親と同じことをした。若い男と不倫して出て行った。
「以前は酒屋だったの。真面目な父は客商売だから顔には出さず置いていかれた私を哀れんだ。親戚は、おまえのママはしょうがないな、と聞こえるように言った。結婚前からそうだったのよ。近所中で知らないものはない。学校でもインランと呼ばれた。意味もわからない頃よ。大人たちは聞こえるように話した。あの子も今にきっと……
 私はパパが大好きだった。具合が悪い時も看病してくれたのはパパだった。ママは実家の親に甘やかされお金もあったからホスト遊び。母性なんてなかった。私は大嫌いだった。パパに似たかった。性格は父親似なの。外見は大嫌いなママに似てくる。
 男は、生徒も先生も私にチヤホヤした。そのぶん女には嫌われたわ。真面目にして、勉強も習い事も運動も頑張っても。
 そのうち開き直った。私が頼めば店の売り上げが伸びる。あなたも買いに来てくれたでしょ。
 真面目なのよ。私は真面目で几帳面。神経質なくらい。アリサのように愛より神を選ぶの」
 圭はなにも返せない。
「あなただっていやらしい事考えたでしょ? だったら諦めて。なんで私が自分の名を嫌いだかわかる? 美登利は遊女になるのよ。私は処女のまま死ぬの」
 
 圭は三沢英幸を思った。
 美登利は似ている。あいつに。

親友

 大きな邸の坊ちゃんは窓から圭を見ていた。目が合った。慌てて圭はシャツを着た。女かと思った。この美少年がピアノの奏者?
「圭君、あの子の友達になってくれない?」
 邸の気さくな女主人が言った。
「友達って、お願いされてなるもんじゃないですよ」
「……そうよね」
 痛快だった。大きな邸の女主人に小倅が生意気なことを言った。

 坊ちゃんは圭に興味を持ったようだ。女主人の代わりに飲み物を差し入れに来た。裸の圭を見る。まさか……ドキドキしてシャツを着てすぐに仕事に戻った。
 坊ちゃんは土の袋を持ち上げた。圭と同じように。父が止めた。腰でも痛めたら大変だ。背はまだ20センチは低かった。しかし手は大きかった。ピアノのせいか……坊ちゃんは軽々と持ち上げた。
 トラックと花壇を何度も往復し重い土を運んだ。ペースを乱されたのは圭のほうだ。汗がダラダラ出て呼吸も乱れた。後ろを向くと坊ちゃんは息も切らさず涼しい顔をして圭を見た。暑くて圭はシャツを脱ぎ放り投げた。ペースを上げ、離したと思い後ろを向いた。坊ちゃんはすぐそばにいて笑った。ヒヒッ……と。
 すごいな……呼吸を整え言おうとして聞かれた。何才ですか? 父が答えた。15ですよ。今度H高に入学……坊ちゃんは、僕も、とは言わなかった。困ったような、嬉しいような微妙な表情だった。

「ひ弱な坊ちゃんだったのに、すごい力と根性だ」
「あの奥さんは後妻なの?」
「前の奥さんは……そっくりだな。坊ちゃんは。辛いだろうな、旦那様は」
「死んだの?」
「出て行ったんだ。坊ちゃんを残して」
「どうして?」
「さあ、大旦那様を介護して、長いこと介護して、亡くなって少しすると……いい夫婦だったのに。坊ちゃんは、大奥様にかわいがられて、わがままに育てられてた。亜紀さんはすごいな。むずかしい年頃なのに……礼儀正しく育てた」


 入学してすぐに気づいた。三沢は気づかれないとでも思ったのか? 
 圭は気づいた。三沢が幸子に気があることまで。同じ女を好きになった。ライバルのはずなのに……ふたりは親しくなった。亜紀に頼まれたからではない。話していて楽しかった。物知りだった。背と体格以外では勝てないだろう。それもいつまで? 

 夏休みに急接近した。クラス合宿の出し物のダンス、練習をさぼった三沢の家に教えに行った。亜紀さんも娘の彩も、隣の幼なじみの夏生(なつお)まで来て皆で踊った。
 亜紀さんは歌を知っていた。キャシーの亡霊の動画を見て、いやがる三沢に女装させた。楽しい夏休みだった。父親は入学式で来賓の挨拶をしたかっこいい男だった。幸子が惹かれていた。すごい素敵な人、と。
 ダンスを披露した。女装した三沢はゾッとするほどきれいだ。夏生も化粧した。三沢が変身させた。頬の傷がうすくなりかわいい女の子になった。

 この家は……この家族はうまくいっているのか? 父に聞いた前妻がいた。亡霊になって息子の中に。
 元夫は息子を見ていた。愛した妻の面影を。余程愛した女だったのだろう。親に反対されすべてを捨ててこの家を出たという。戻ってきたのは会社が倒産寸前、大旦那様は脳梗塞で倒れ、大奥様は介護で体を壊した……
 なにがあったのだろう? この家に。なにがあったのだろう? 夏生との間に。夏生は三沢を慕っていた。
 圭には想像できた。10年後にはこの邸であのふたりは……

 夏が終わると差は縮んだ。距離も縮んだ。あいつは打ち明けた。母親のことまで。
「8歳になる前に出て行った。よく覚えてないんだ。おばあちゃん子だったし。母は祖父の介護をしていた、祖父が死んでも財産ももらえず男を作って出て行った……」
 淡々と話した。
「大きな邸も社長夫人の座も息子まで捨てて、余程セックスが素晴らしかったんだ……」
「誰が言ったんだ? そんなこと?」
「周りの大人たちさ。かわいそうな女たち……欲求不満かな?」
 あいつは笑った。ヒヒッ……と。
「オレの母親は亜紀だ」

 
 圭が夜学に移ると言ったとき、三沢は金を貸してやると言った。考えたすえに言ったのだ。
「学費だけじゃない。家賃に生活費、母は病弱だから医者代もかかる。そんなに持っているのか?」
「母の形見のダイヤがある。加工してない、でかいやつ」
「形見なら大事にしろよ」
「ただの石さ。嫌な思い出しかない」
「そんなもので友情が買えると思っているのか?」
 本当は嬉しかったのだ。気持ちだけでも嬉しかった。三沢は取り返しのつかないことを言ってしまったと思ったのだろう。
「ああ。買えるさ。金があれば友達でもなんだって……」
「じゃあ、そうしろよ。彼女も買え」
 喧嘩別れした。最後のセリフが本心ではないことはわかっていた。
「ダイヤは夏生のものだ。夏生の頬の傷はオレがやったんだ。殴ってガラスをかぶった。ダイヤくらいじゃ償いきれない。
 取り換えるか? 圭、オレの罪と……」

 抱き合っていたらよかった。あいつがいじらしかったのに意地を張ってしまった。大事な親友をなくした。

月光

 今年の1年生のアイドルは美登利(みどり)だ。皆にドリーと呼ばれた。家が駅の近くでコンビニを経営している。
 男子は夕方買いに行く。古文の若い講師も美術の教師も寄るらしい。学校ではチヤホヤされている彼女が、店では愛想がいいらしい。

 ドリーは三沢君には関心を示さなかった。私は後輩から情報を得た。中学でも男の教師と噂があった。小学生のときから男の教師にはひいきされていた……
 母親は……淫乱……男を作り娘を捨てて出ていった。

 リストカットしていたみたい。腕にあとが痛々しい……
 リストカット、三沢君が知れば関心を示すだろう。母親に捨てられた同志。きっかけがあればふたりは急接近する。彼は弱い者には優しい。
 しかし、名前を出すと彼は露骨に嫌な顔をした。
「女子には好かれないだろ?」

 女子は嫌う。陰口はひどい。
 淫乱……魔性の女……
 ドリーは気にしない。
 強い。女友達は必要ない。成績はいいし、運動神経は抜群だ。
 写真部がモデルを頼むとドリーは引き受けた。
 できあがったドリーの写真は魔性の女ではなく、恋をしている少女だった。

 
 文化祭。三沢君は強制的に音楽部所属だからまたピアノを演奏する。
 体育館へ行くとドリーが入口で誰かを待っていた。彼は男子に人気のあるハスキーボイスの女生徒には目もくれないで通り過ぎた。

「圭」

 ドリーが呼んだ。魔法の言葉だ。
 彼は振り返った。かつて同じクラスで過ごした圭にドリーは駆け寄った。男子は憮然として見ていた。圭は私に気づき、隣にいた彼を見ると、やっぱりな、という顔をした。
 過去を忘れたように圭は近づいてきた。彼とハイタッチ。

 ドリーが圭にまとわりつく。 
「前のほうで見ててね。圭のためだけに歌うから」
 見ていて恥ずかしくなる。圭は彼の隣に座って話しながら舞台を見ていた。軽音部のドリーは部員が準備している間にピアノを拭く。鍵盤を丁寧に。椅子も。
 きれい好きだ。いや、それ以上だ。誰も気がつかない。この少女は? 

 ドリーの歌が始まった。ピアノを弾きながらドリーが歌う。圭だけのための『月光』
 魅力的なハスキーボイス。男子の歓声と拍手。 
 そのあとは彼の演奏だ。ドリーが戻り、彼が座っていた椅子を圭はさりげなく拭いた。ドリーが座る。
 今度は女子の歓声。彼は予定していた曲とは違う曲を演奏した。私にもわかった。ベートーベンの『月光』
「いやなやつ」
 ドリーが怒る。
「あんな嫌味なやつが親友だったの?」
「おまえも弾けるのか? この曲」
「1楽章はね。3楽章は無理」
「なるほど」
 彼が戻ると圭の隣にはドリーが座っていた。彼は壁際に立ち圭が立ち上がるのを待っていた。

 グランドで4人で立ち話。私が美登利さん、と呼ぶとドリー、と言い直させた。
 ドリーは圭の腕をつかみ急かす。
「じゃあな、三沢」

 友情も再びは得べず?

「どうして月光にしたの?」
「さあ、いやがらせかな。どう見たって圭のタイプじゃない」
「あなたでも見かけで判断するのね」
(ドリーはあなたにそっくりよ。圭にじゃれついて、圭のことが好きで好きでたまらない)
「ドリーか、自分の名前が嫌いなんだな。たけくらべの美登利か」
(美登利は遊女になるのよ。いやでも決まっているの。ドリーは見かけとは全然違う。圭は理解している。リストカットも)
「君の名前は両親の思いが込められてるね」
(あなたは名前で呼ばせないのね。英語の英に不幸の幸)

 ドリーは私に会うと手を振り近づいてきた。
「三沢さんと付き合ってるんでしょ?」
「友達よ」
「圭とは? 同じクラスだったでしょ?」
「一緒にクラス委員をやっただけ。斉田君は三沢君と特別だったのよ。三沢君は斉田君に夢中、ふたりは……」
 冗談を言って笑った。

後輩

 幸子と別れて半年、僕は幼馴染の夏生(なつお)の家庭教師をしていた。
 橘 夏生、17歳。高校3年。身長163センチ、体重は48キロ。ブラのサイズはDだった。洗濯物をチラッと見た。レースひとつついてない色気のない下着。
 ショートカットで肌はきめ細かい。頬の傷跡はまわりの皮膚より白く、見慣れた僕にはたいしたことのないように見えるが、初めての人から見たらやはり残酷なのか? 馴染みすぎててわからない。
 目は一重で鼻筋は整っている。小顔だ。唇は厚いが亜紀はセクシーだと言う。そして歯並びは完璧だ。
 横顔は左から見るとかわいい。頬に傷はないから。雰囲気は中性的、最近では下級生の女子にプレゼントをもらってきた。
 勉強はトップスリー。スポーツ万能。子供の頃から習ったものは、ピアノ、水泳、テニス、体操、英語、フランス語少々。
 趣味で作るケーキはどこの有名店のより僕の口に合っている。器用だからデコレーションもうまい。いっときパティシエになろうなんて言っていた。
 編み物も上手だ。僕のセーターは毎年増えていく。着ていないと怒る。高度な編み方らしくよく褒められる。縫い物も得意だ。彩の人形のドレスは亜紀には無理だ。レースやビーズをくっつけて、彩のリクエスト通りに作ってやる。この間の彩のピアノの発表会の3段フリフリのドレスも夏生の手作りだ。
 頬の傷さえなかったら、誰よりも女らしく生きてきただろうに。
「エーちゃん、幸子さんは元気?」
「別れた」
 さらっと言った。
「なんで?」
「彼女には好きな男がいた」
「嘘だね」
「僕よりずっといい奴だ。人間的にも、ずっと上」
「あの女、おかしいよ。潔癖症すぎる。あんなんで恋愛なんてできるわけない」
 思わず頬を叩いた。
「サディスト」
 夏生も思わず言った。
 しばし罰の悪い間だった。

 君は覚えているのか? 頬を叩いたのは2度目だ。しかし、夏生は頬の傷に関しては感情をなくすことの訓練ができていた。叩いた頬にふれたがなにも言わない。左手で右頬にふれた。傷痕をなぞった。今を逃したら聞くことはできない。
 夏生はなにも言わない。
「サディストだよ。僕は。ずっとそう思ってただろ? 僕は謝ってもいない。君が自分で転んだって言ったから。大人たちもそういうことにした。僕も忘れそうになるよ。君にしたこと」
「……」
「いっそ、責めてくれよ。君の青春を壊したって」
 しばし考えたあと夏生は言った。
「彼氏ができた」
 僕は吹き出した。なにを考え、なにを言うんだ?
「そいつに会わせろよ」
「じゃあ試験勉強みて。病気で留年した友達がいるの」


 その日、ふたりは来た。紹介され僕は和樹を見て嫌なやつを思い出した。それから美登利を見てさらに見つめた。まさかと思った。和樹が僕を見つめ、美登利はまるで初対面のように振る舞った。
 冷静を保ちふたりの勉強を見た。長年夏生を教え、夏生のために自分の試験問題を取ってあった。美登利は遅れていたので必死だった。
「パパを悲しませたくないの。絶対卒業して店を手伝うの」

 美登利の家はコンビニを経営しているが人手が足りないらしい。
 夏生の母親がおやつも食事も出してくれたが数口食べただけだった。
 犬が嫌いだ。手と顔を舐められ本気で怒った。洗面所で舐められたところをゴシゴシ洗っていた。
 潔癖症か? この家で食べたものは個包装の菓子。ボトルの飲み物。気づかれないように隠している。
「菌、付いてない?」
 美登利が聞いた。心配そうな目で。
「それだけ洗えば付いてないよ」
「菌、付いてない?」
 美登利はもう1度聞いた。
「付いてないっ!」
 思わず大声を出すとホッとした顔をした。
 嫌われたな、と風呂場で犬を洗ってやる。なぜか美登利は僕のそばを離れなかった。彼女にドライヤーを使わせた。洗った毛を恐る恐る撫でる。
「菌、付いてない」
 自分で言い納得させる。

 1年の時、軽音部だった美登利は男子生徒のアイドルだった。巨乳のハスキーボイス。病気で長期欠席していたという美登利に、かつての輝きはない。
 和樹のほうはときどき僕を観察している。夏生の話だと篠田葉月を好きだったという。葉月はテニス部の2つ上の先輩にあたる。
 僕は和樹と美登利を車で送っていった。和樹の家は母親が美容院を経営している。姉が3人。
「なるほどね。女慣れしてるよ。羨ましいね」
 少し憮然とした。

 そのあと美登利を送りながら聞いた。
「圭は元気かい?」
 無視して携帯をいじっている。
 僕は車を止め後部座席に移った。
「なにがあった? 何キロ痩せた?」
「近づかないで。苦手なのよ」
「なにが?」
「息がかかるの、苦手なの」
「……君は借金しにきたんだぞ。圭のために」
 圭の名は美登利の頭の中にはないらしい。なおも問いただすと美登利はポケットから薬を取り出し、吸入した。
「息苦しいから歩いていく」

 圭とは終わったのか? 去年金を借りにきた美登利。借金を頼むには態度がでかかった。
「圭の親友だったんでしょ? 大変なのよ。おかあさんが入院して手術しなきゃならないの。圭は昼も夜も働いて‥‥お願い、必ず返すから。1年で返す。返せなかったら、好きにしていいわ……」
 美登利はじっと僕を見た。自分の魅力を知っていた。
 好きな男のために尽くすたけくらべの美登利。
 かつて圭の父親が亡くなり夜学に移ると聞いたとき、金を出してやると言ってしまった。働いたら返してくれればいい。奨学金だと思えば……圭のプライドを傷つけ親友を失った。

 美登利には絶対僕の名は出すな、と釘を刺した。
 しかし、美登利はすぐに返してきた。
「必要なくなった。親方が貸してくれたって。よかった。これでおかあさん、手術できる」
 圭のことが好きで好きで、圭のためなら献身的だったのに。そんなこと嘘のような、借金のことさえなかったように。

美登利

 試験の成績は皆よかった。ヤマカンが当たった。
 解放されて夏生の家で集う。犬は美登利の膝の上にいる。大丈夫なようだ。夏生がピアノを弾く。和樹は歌う。はやりの歌を。歌い慣れている。僕が弾くと美登利はハッとする。
「やめてよ」
「君の歌、感動した」
 3年前の文化祭で歌った歌を僕が歌う。夏生が合わせる。
「ダメだな、ドリーじゃないと声が合わない」
 夏生の母親に勧められ美登利は歌った。僕の伴奏で。ハスキーボイスで会場を魅了した美登利だった。驚いたのは圭の登場。男生徒が皆、自分のものにしたかった女は、夜学生の圭に駆け寄って行った。圭は羨ましいくらい皆の前でドリーに甘えられていた。

 次に美登利は弾いた。楽譜を開きベートーベンの1番、1楽章。
「これ、好きだわ。発表会で弾いた」
 僕が好きなのは4楽章。美登利に代わり弾く。よく弾いた曲だ。悲しみと怒りを叩きつけた。美登利がページをめくる……

 夏生は和樹と喋っていた。いちゃついていた。ムカつく男だ。聴けよ。演奏を。腕が鈍ったか? 

 美登利は魅了されたようだ。
「ゾクゾクする。私も弾きたい。教えて……」

 家でレッスンしてやる。美登利を亜紀に会わせた。雑然としたリビング。ホコリなんかで死にはしないわ、という亜紀。怖気付いて帰るか? 
 亜紀はすぐ気づいたがなにも言わない。さりげなくウェットティッシュを置く。意外だったようだ。美登利を見てなにを感じたか? 圭の彼女だったと知ったらどんな顔をするだろう?
「おにいちゃんのあたらしいカノジョォ?」
 彩はませた口をきく。庭から駆けてきた手と服には土がついている。荒療治になるか? 

 亜紀に頼まれ犬の散歩に行った。美登利は恐る恐る便をつかむ。肛門を拭く。ウェットティッシュを何枚も使う。
「自分のうんちは平気なのか?」
 美登利が呆れた顔で僕を見る。
「あんたって、圭の言ったとおり……」
「圭がなんて言った?」
「……みかけと全然違うって……私と似てるって」
 美登利は風呂場でズボンをまくり犬を洗う。まくった手首にサポーターを巻いていた。
「重いもの持つから痛めたの」
 恵まれたお坊ちゃんとは違うんだ……圭の声と重なる。
 美登利は丁寧に洗う。ペニスも肛門も口の中も。丁寧に丁寧に丁寧に……亜紀が耳元でささやく。
「あの子と寝るときはこんなに洗われるわね」


 美登利はレッスンに来る。弾く前にピアノを磨く。数日で上達していた。熱心にハノンから練習してくる。貸してやったハンドグリッパーで指の力もついていた。
 美登利が使うトイレと洗面所はピカピカになる。雑然としたリビングは整頓されていく。こんな病気なら歓迎だ。体重は増えているようだ。
 額が曲がっていると椅子に乗り直す。ホコリを拭き取る。
「なんて書いてあるの?」
「青春のときを無駄にするな、と。掃除と手洗いで無駄にするな、と」
「わかってるわよ。亜紀さんみたいだったらどんなに楽か……亜紀さんがママだったらよかった」
「ああ、僕は幸せだ」
 スープの匂いがしてきた。いい匂い……と美登利が言うが……
「犬に、鷄の手羽先を茹でてる。そのあとが人間様のスープ」
 美登利は蓋をあけて驚く。丸ごとの皮付きのジャガイモ、キャベツ、カブ、玉ねぎ、にんじん……ハサミで切って盛り付ける。
「君には無理だ」
「亜紀さんのなら平気」
 美登利は口に含む。味は確かだ。これだけは絶品だ。美登利とふたりで鍋いっぱい平らげた。亜紀は呆れたが美登利の食欲を喜んで、今度は美登利に作らせた。話している。
 パパにお持ち帰り? パパ以外にいないの? 食べさせてあげたい人……

 美登利はドクター亜紀のカウンセリングに来る。亜紀は圭の元彼女の力になろうとしている。庭仕事をさせる。彩と3人で花を植える。手袋をして。
 話している。楽しそうに。体重は増えているようだ。
 夜中にメールがきた。 
(起きてる?)
(眠れないのか?)
(興奮して目が冴えて……写真送るね)
(よせ、いらない)
 画像が送られてくる。イングリッシュガーデン?
(なに考えてるの? こういう素敵な花壇にしたい)

 美登利は園芸に魅せられた。本を買い研究する。亜紀に任せられ美登利ははりきった。連日付き合わされ足りない植物を買いに行き、植えるのを手伝わされた。
「花の名前、よく知ってるのね」
「手伝わされたからな。死んだ母に。自慢の庭だった。5年前にガレージ増やしてバラは半分に減った」
 かつて圭と父親が工事した庭。圭と僕が土を入れた花壇。センスのない花壇が変わっていく。美登利のレイアウトで。
 土の汚れも気にならなくなる。手袋をしていない。悲鳴をあげていた虫にも驚かなくなる。中腰で長い時間……
「少し休めよ。腰痛めるぞ。手首も」
 根性のある女だ。体力も戻ってきたようだ。日に当たり健康的になり、かつてのドリーに戻っていく……
 完成したイングリッシュガーデンは見事だった。訪れるものが目を奪われた。

 夏生の18歳の誕生日、夏生の父親も僕の両親も妹の彩も美登利も集まった。
 父は息子が傷つけた幼馴染みの誕生日には毎年都合をつけて出る。僕の罪を幼いなりに庇ってくれた夏生の優先順位は娘の彩より高い。
 父は美登利に花壇の礼を言い褒めた。進路について聞いている。美登利は進学はしない。父の知り合いの造園会社を紹介しようか、と言われ考えている。

 和樹が夏生をエスコートしてやってきた。夏生は恥ずかしがりなかなか入ってこない。
 そこにいたのは夏生ではなかった。ふわっとしたショートカットにナチュラルメイクだが、頬の傷は薄くなっていた。ピンクの口紅に淡いピンクのワンピース。夏生にピンク? ミニスカートから伸びた足は長い。皆絶句。彩が、
「ナツオ、ウソォ」
と叫んだ。皆口々に褒める。夏生は照れて顔を隠す。美登利が、耳打ちした。息がかかった。
「この服和樹のプレゼントよ。このブランド、高いわよ」
 夏生は和樹の母親や3人の姉にいじられて変身した。
 両親は涙ぐんでいた。僕は声も出ない。亜紀がうしろから肩を抱いた。
 もう重荷はおろしていいのよ、と言うように。父はなにも言わない。自分の罪だと言ったくせに。
 夏生に化粧? パパの領分じゃないか? いや、僕がやるべきだった。なぜ思いつかなかったのだろう? 亜紀も。
 男の格好をしているのが当たり前になっていた。
 先を越された。

 負けた。君はこんなにきれいになって、もう僕など必要ない。
 重荷がおりるより寂しかった。大事な妹のような幼馴染みは初めて恋を知りどんどん変わっていく。
 妹の彩でさえ和樹に甘え和樹の隣に座り、兄貴などいらなくなったようだ。
「和ちゃん」
と彩が呼んだ。
 それだけのことだ。
「彩っ。おまえはこっちだよ」
 僕は彩を抱き和樹のそばから離した。
「いやだァ、和ちゃんのそばがいい」

『和ちゃん』
 幼い夏生が言ったそのひとことが僕を悪魔にした。

 和樹の隣に戻る彩。彩は和樹を選んだ。父はなにも感じていないようだった。
 彩が口ずさむ。5年も前に皆で踊った『嵐が丘』を。
 みんなで踊ったのよ、と。
 おにいちゃんは女装したの……
 勘弁してくれ。 
 夏生がピアノを弾いた。高音で歌う。彩が僕を引っ張った。
「おにいちゃんは見てるから彩、ひとりで踊ってきな」
 彩は舌打ちをして踊る。
 彩は、父親似だ。顔もそうだが背も高い。頭はいいし運動神経もいい。リーダーシップもある。彩が男の子だったら? いや、女でも父は彩にあとを継がせたいだろう。親戚も納得する。そのほうがいい。そのほうが気楽だ。
「三沢さんの女装、絶賛の嵐だったって?」
「圭に頼まれてやったんだ。君と同じ。圭のためならなんだってできた」


 夏休みに三沢家の別荘に行った。  
 和樹は親たちに評判がよかった。話題に加わる。スポーツの話、相撲やゴルフまで。広く浅い。
「ゴルフやってみたいんです」
「じゃ、今度練習場で教えるわよ」
 と、亜紀が言う。親たちに相槌を打ち酌をする。夏生と彩の頭や肩に触る。

 夜、外でバーベキューをした。僕と夏生と和樹で肉を焼く。彩は和樹にまとわりつく。大人たちと美登利は座っていた。
 美登利の隣に父が座った。除菌ティッシュの箱を置いた。父は美登利と話していた。美登利が笑う。体重も少しずつ増え、人目を引く女に戻っていた。病気と闘っている美登利に以前の軽薄さはない。僕は焼けた肉を運んだ。
「なにを話していたの?」
「本の話だ」
 本? 僕とは話したこともない。
 父は彩と花火をしにいった。まともには僕の顔を見ない。
 寝るのは和樹と同じ部屋だった。彩は和ちゃんと風呂に入ると言い、僕に叱られ、それでも和ちゃんと一緒に寝るときかず、眠った彩を亜紀のところへ連れていった。父は酒を飲んでいた。
 戻ると和樹は篠田葉月のことを聞いてきた。和樹は親たちがいなくなると態度を変える。
「葉月さんと付き合ってたんですか?」 
 亜紀から情報を聞き出したらしい。
「葉月先輩に幸子さん、皆、目立つ人ばかりですね。ドリーも、ドリーがあんなになったのは三沢さんのせい?」
「……」
「ドリーのこと意味深にみつめてる」
「誤解だよ。ドリーのことは僕が知りたいくらいだ。それにね、篠田さんがうちに来たのは僕に会うためじゃない。彼女は僕の父に会いに来たんだ。入学式に倒れて、父に抱き上げられ彼女は父に恋をした。父はモテるからね。君の恋敵は三沢英輔だよ」
 思いもしなかったろ? 
 幸子も父をステキだと言った。
 入学式に目が合ったの。私を見て笑った、と思ったけど、あれはあなたを見ていたのね。変わり者のあなたを心配して。あなたは下を向いていたけど……

同志

 眠れなくて2階へ行った。この頃思い出す。忘れたいから消えていた記憶。
 僕は祖母と寝ていた。祖父が亡くなると祖母はさらに僕をかわいがった。夜中目が覚めると長い怖い階段を登りママのところへ行った。ママは掛け布団を持ち上げ僕を入れる……懐かしい香り……

 奥の部屋は立ち入り禁止だ。ママが使っていた部屋。かつての夫婦の寝室に明かりが見えた。そっと開ける。座っている父の後ろ姿が見えた。酒を飲んでいる。
 ノックをした。締め出されると思ったが父は、一緒に飲もう、と言い自分のグラスをよこした。
「眠れないのか?」
 話題は美登利のことになる。
「美少女だな。なにを悩む? 贅沢だな」
 冷たい口調だった。意外だった。
「強迫神経症か? おまけに……」
「なに?」
「おまえに感謝してたぞ。犬にもさわれるようになった。亜紀のスープも飲めるようになったと。しっかりした娘だ。近くを通ったら店に買いにこいって。アドレスも教えてくれた」
 若い娘にはもてるんだな。
「店を手伝いながら園芸の資格を取りたいそうだ」
 話が続かない。普通の父子でもこうなのか? いつも亜紀がいた。亜紀を通して僕たちは話をした。ふたりだと話題を探し、諦める。
 グラスが空になり、父が注いだ。ひとつのグラスで順番に飲む。

「美登利と本の話をしていたの?」
 父は答えない。2度聞くことはできなかった。 
 父は歌をくちずさむ。
 Don't give up……

「ママの好きな歌だ」
「ああ、強い女だった。たくましい女だ」
「酔ったの?」
 亜紀と混同している。
「パパは忙しすぎるよ。だから彩が和樹なんかに懐くんだ」
「和樹か」
 話が思わぬ方向に。
 僕も『和樹』に懐いていた。ママを奪って行った『和樹』に。
「……パパの望みはおまえと彩の幸せだけだ。あとは……亜紀はちょっと面白い女だ。家事はだめだけど」
「おかあさんは頑張ってるよ。最初はすごかったけど……おかあさんのおかげで僕は丈夫になった」
「初めて会ったときにホースで水をかけられた」
「……」
「ひどい父親だったからな」
 父は珍しく僕を見つめた。じっと見つめた。
英幸(えいこう)、パパを許すな」
 そのひとことが涙腺をこわした。涙がポタポタこぼれた。意思とは関係なく。情けない。
 父は僕の肩を叩き出て行った。
 
 許してるよ。もう、とっくに許してる。 


 美登利がドアを開けた。
「立ち入り禁止だ。掃除してない。君には無理だ」
 階下のリビングで美登利は話す。
「今は最高の時なの。もうすぐ私を産んだ女が死ぬのよ」
 幸子の話を思い出す。
 圭と年上の女が一緒にいた。親密そうだった、と。
 サッカーに夢中だった少年は年上の女と……不潔!

「……圭は君のおかあさんと……?」
 美登利が僕を殴った。肯定したようなものだ。
「こんなことだろうと思った」
 いつのまにか和樹がきて、誤解して僕に殴りかかる。夏生と彩以外全員が起きてきた。

 鼻血だ。ポタポタ血が流れる。僕は震えその場にしゃがんだ。血圧が下がり心拍が上がる。

 夏生がガラスをかぶって血だらけだ。僕のせいだ。僕が殴った。夏生があいつの名を言ったから。夏生のせいでママが出ていったから。
「和ちゃん、どうしているかな? ピアノうまかったね。死んじゃうなんてかわいそう……」
『和ちゃん』に僕はなついていた。祖母は僕にピアノを習わせた。祖母も『和ちゃん』が好きだった。夏生のママも芙美子叔母さんも好きだった。『和ちゃん』は芙美子叔母さんと結婚するのだと思っていた。
 僕がママに教えなければママは出ていかなかった。なにもかも捨てて、余命宣告されていた男を選びはしなかった。


 美登利が父の胸に飛び込み泣いた。衝撃だ。なぜ父の胸なんだ? 大丈夫なのか? 父の息と体臭? 
 別荘中が大騒ぎになっているのに夏生は起きてこない。
 僕は美登利の荷物を取りにいった。夏生は幸せそうに眠っていた。美登利の荷物は一目瞭然、几帳面に引き出しに並んでいた。亜紀に見習わせたい。
「さわらないで」
と言う美登利の手を引っ張った。夏生は目を覚まさない。

 病院へ向かう。車の中で美登利ははしゃいでいた。
「おじさまとだったらよかった。ステキな人。好きになりそう。メルアド教えちゃった」
 病院に着いたが美登利は降りない。手を引っ張ると、
「圭がいるわ。私はまた元に戻る。そうさせたいの? 圭のおかあさんはママと同じ病院に入院してた。ママと顔見知りになって買い物とか頼まれるようになった。死を宣告された女に同情したのよ。特別室に見舞客も来ない哀れな女に。圭は見捨てられないはず」

 僕は見舞客を装い病室を聞いた。すでに亡くなっていた母親は葬儀場の霊安室に移されていた。
 戻ると美登利は歌を歌っていた。
「異邦人だな。まるで」
「なに? なに? 異邦人?」
 夜が明ける。
「海で泳ぐか?」
「無理」
「プールは?」
「もっと無理」
「体育は? 授業は出てないのか?」
「しょうがないでしょ。失神するわ」
「バカ。体育で単位落とすぞ」
「夏休みの補習も無理」
「ドリー。誰でも恐怖症はあるよ。僕だって克服するよう努力してる」


 美登利は家には帰れないと言う、あの女が死んだ日にパパとふたりきりになりたくない。
 誰もいない三沢家。ソファーで眠った美登利をベッドに移す。僕は机に伏して考えた。圭のこと。考えても仕方ない。無理だ。
『卒業』のラストは有名だが、続きは無理だろう? 
 美登利は目を覚ますと悲鳴を上げた。
「なにもしてないよ」
「信じられない。あなたのシーツなんて。無理。卒倒する」
「そんなに汚いか? 父に抱かれてたくせに」
 美登利はポロポロ泣き出した。
「来いよ。全部吐き出せよ。僕たちは母親に捨てられた同志だ」
 素直に美登利は僕の胸で泣いた。

 美登利は母親の見舞いに行った。祖父に頼まれて行ったのだ。乳癌なのに手術を拒否してる……
 贅沢な特別室に若い男がいた。手術をすすめていた。哀願していた。
 美登利は来たことを後悔した。母親は喜んだ。
「来てくれたのね、大きくなったわね、私に似てきたわね、ね、圭?」
 驚愕。圭の顔が目に浮かぶ。
「ママの恋人?」
 美登利は気丈だった。
「責めないで。もうすぐ死ぬのよ。今までこんなに親身になってくれた男はいなかった。手術しろって言うの。どうせ死ぬのよ。きれいまま死にたい」
「よろしくね、圭……さん。ママをよろしく」
 圭は追いかけることもできなかった。追いかけてこられない関係なのだ。金を出したのは美登利の母親だった。あとは考えたくはない……
 息ができなくて廊下で倒れた。目が覚めたらすべてが汚れていた。

先生

「オレが治してやる。荒療治だ。午後はプールに放り込んでやる。犬だって大丈夫になっただろ? 亜紀のひどい料理も食べられるようになったろ?」
 美登利は自分の作った花壇に水を撒き手入れをした。バラにも詳しくなっていた。咲いている花を切り落としグラスに刺した。
 午後、プールサイドで、美登利は爪先立ちで歩いた。面積の多い水着。体重は半分は戻ったか?
「プールは塩素で殺菌してあるんだ。菌もウイルスも移らないように」
 放り込まれそうになりつかんできた左手首を見た。
 美登利は振り払いプールに飛び込んだ。泳ぐ。きれいなフォームだ。僕はあとを追いかけた。美登利は速かった。身軽に上がる。捕まえて問い詰める。
「小学5年の時よ。それきりやってない。あとで話す」

 僕は何年か前のことを思い出した。圭と同じ電車に乗り通学していた。駅前の商店街、まだ開いていない店の前に女が寝ていた。酒臭い、まだ15 歳くらいの少女だった。
 その少女は僕を見ると立ち上がり抱きついてきた。振りほどこうと腕をつかむと美登利よりも痛々しい傷の跡がたくさんあった。
 リストカット、初めて見た。
 少女はうつろな目をして離れていった。

 あの少女は僕だ。亜紀がいなければ、夏生がいなければ……ピアノに逃避していなければ……僕もさまよっていたかもしれない。

 僕の家に戻り美登利はシャワーをもう1度浴びた。念入りに。
「襲わないでよ。唾液や体液、我慢できない。発狂するから」

 リビングのロッキングチェアに座り告白が始まった。
「初恋は10歳の時よ。17歳年上の担任の先生。小学5年のときの担任。奥さんも男の子もいた。
 ママに出ていかれた私を励まし、交換ノートをしていた。先生のおかげで勉強も運動も頑張れた。女子にはひいきだって言われたけど。
 そのうちパパが携帯買ってくれて、先生とメールした。朝も夜も、奥さんがお風呂入ってるときも。寝る前には、おやすみを。
 私は先生の特別な生徒。同級生の女子は気づいていた。お土産買ってきてくれたし、ペンダントももらった。
 大好きだったの。先生がいなかったらあの時期を乗り切れなかったと思う。
 先生の用事で放課後出かける時も一緒に連れてってくれた。車で。
 ラーメン食べたりハンバーガー食べたりしたわ。
 私が遊園地行きたいって言ったら計画してくれて、嬉しくて私は喋っちゃったの。その子がおかあさんに話して、そんなバカなことあるわけないでしょって、パパに電話してきた。
 パパは私が眠っているときにメールを見てびっくりしたと思う。
 美登利、かわいいな、好きだよ、なんてメールだもの。
 
 運動会に先生の奥さんも男の子も見にきていて、楽しそうにしてた。私は嫉妬したの。先生のところへ行って、なにも言わず見つめたわ。先生のパーカーの紐をいじりながら。先生は驚いたけど見つめ返してくれた。私は愛されてるって確信した。
 パパが私を引っ張っていった。
 それから少しして先生は学校を辞めた。携帯もつながらなくなった。パパは私が傷つくから大袈裟にはしなかった。郷里に戻るとか、そんなんだったと思う。
 学校には知られなかったけど、女子は私のせいだと。10歳の娘が誘惑したみたいに言ったわ。母親の血だって。 
 パパもそう思ってるんだ……私は見放された。
 相談する先生もいなくなり、女子には汚らわしいものでも見るような目で見られた。パパにも、嫌われたかと思った。
 母の実家にあずけられるのではないかと思って、私は腕を切ったの。パパの気を引くために。私を見捨てないでほしかった。

 元々気が強いからね、私は。負けるのは嫌だった。悪口を言う女の、好きな男を誘惑してやった。私が見つめれば私の言いなり。いちゃいちゃしてやったわ」
「ロリコンか? 今でも同じことしてる」
「違う。愛し合ってたの。魂が触れるのを感じた」
「今の君には興味を示さないだろう。巨乳は……なくなったが毛が生えてる」
「殴るわよ。先生は10歳の私にはなにもしなかったわよ。あれは、愛じゃないの?」
 問いかける美登利の目は純粋だった。無垢な子供の目。
「私は、先生の前途を壊した。家庭を壊したかもしれない。

 中学は皆と違うところへいった。知ってる子のいないところ。神経質になって、しょっちゅう手を洗ってた。でも陸上部に入ったの。顧問の男の先生に誘われて。
 走って汗かいて疲れて、シャワー浴びないで眠っちゃった。先生のおかげで軽い潔癖症はすぐ治った。高飛びをやったの。先生は30代の独身の男の先生。怖い先生だった。
 朝練、放課後、土日も練習。怖い先生が新鮮だった。パパは優しくて気の弱い人だったし、男子にはチヤホヤされたしね。
 パパはスポーツに打ち込んで喜んでくれた。大会にも出て記録も出したし。
 受験前まで部活頑張って最後の日、先生は私を抱きしめた。信用していた先生が私を抱きしめたの。
 いやじゃなかった……私って魅力あるんだ、さすがママの娘……
 いやじゃないけど、パパには嫌われる。

 私は師弟関係の抱擁だと思うようにした。先生の前途を壊せる。噂にはなっていたし……パパに軽蔑されたくなかった。ママの血が流れていると思われたくなかった。私は……魔性の女」
 僕はわざと吹き出した。
「以前の私ならあなたのパパだって誘惑できたわ」
「じゃあ、誘惑してみろよ。巨乳に戻って」

 母親の葬儀には出ずに、美登利は火葬の間ずっと外にいた。
「おじさまからメールがきた」
 わざと大げさに喜ぶ。
「辛かったら、亜紀のところに来なさい……」
 
 美登利をH高まで送る。プールの補習。その間、音楽室に行ってみた。卒業して3年たった。ピアノを弾く。
『ミラボー橋』を口ずさむ。
 やり直せたら……高1の秋に。圭との友情を壊す前に。
 いや、過去は振り返らない。

愛の方程式

 秋、夏生が変わった。無口になった。泣いたのがわかった。
「和樹と喧嘩でもしたのか?」
 うん、と夏生はうなずく。
 ふたりの帰りが遅い。僕は窓から見ていた。夏生を送ってきた和樹は、名残惜しそうに夏生の髪にふれ肩に手を置き、帰っていった。

 追いかけ怒った。帰りが遅いと。
「もう18ですよ。ボクたち。夏生の両親にも認めてもらってる」
「じゃあ、泣かせるな。夏生を」
 橘家でなにかが起きていた。おばさんは、
英幸(えいこう)、今は聞かないで」
と言った。英幸、と呼ぶときは深刻なときだ。
 僕だけ蚊帳の外。 

 そして車の窓から見た。産婦人科へふたりは入っていった。
(知り合いの赤ちゃんでも見にきたに違いない)
 そう思い、そう和樹に尋ねた。
「僕たちの赤ん坊は幻だった。妊娠してたら結婚したのに。そうだったらどんなにいいか」
 腹に1発。別荘でのお返しだ。和樹は黙って殴られた。2発目は亜紀が止めた。
「外でなにやってるの? 通報されるわよ」

 気がついたら夏生はもう僕の夏生ではなくなっていた。いや、修正されただけだ。夏生は僕のために違う道を選んでいただけた。
 長い年月、湧き上がる感情を押し殺していた。誰よりも女らしいのに。
 夏生は和樹を選んだ。
「夏生、大学行かないそうよ」
「え?」
「夏生の志望は服飾学校。夢はドレスや舞台衣装を作ること。なんで気がつかなかったんだろう?  あんなに器用なのに」
 服飾学校? 考えもしなかった。ずっとそばで見守っていたのに。夏生はひとことも洩らさなかった。
 夢はドレスを作ること? 人形や彩の服を作っていた。目を輝かせて。
 夏生は気がつかせなかった。夏生はドレスを着たかったのだ。毎年のピアノの発表会、色とりどりのドレスで着飾った少女たちの中で、誰よりも上手な夏生は男の格好で登場した。
 僕のせいで夏生は女でいることを諦めた。それを……
 負けた。和樹に負けた。


 美登利の部屋で勉強を教える。ベランダにプランターの寄せ植えがいくつもあった。
「君が植えたのか?」
「そうよ。素敵にできたでしょ? 今度、バラのフェスティバルがあるの。つれていってくれない?」
「ああ。試験、頑張ったらな」
「数学苦手、知ってる? ノーベル賞取った、なんだっけ? 統合失調症で……映画になった……」
「知ってるよ。ジョン ナッシュ。圭に……」
 圭に勧められて僕も観た。  
『圭』は禁句だ。

 圭は当時、愛を信じられないでいた僕に実話だから、と勧めた。
「面倒くさいの省いてセックスしようぜ……あっただろう? このセリフ」
 圭に何度も茶化して言って呆れられた。圭といると楽しかった。
「謎に満ちた愛の方程式の中に理は存在するのです。今夜、私があるのは君のお陰だ。君がいて私がある。ありがとう」
「なんでも暗記してるの?」
「ノートに書き留めておく」
 圭はセックスしたのか? 美登利と? 美登利の母親と?

 美登利と見に行ったバラの祭典。美登利は夢中だった。興奮して写真を撮る。それを再現する。 
 店先の左側のスペースに寄せ植えのコーナーができた。パンジー、ハボタン、ストック……見事なリース、ハンギングバスケットが増えていく。客が感心して眺めている。
「売ってくれって言われるの。注文がくるのよ」
 美登利とのデートは庭園と大きな園芸店。熱中するものを見つけた女は輝く。

 終業式間近、美登利はまた体育で単位を落としそうになった。
「あの先生、私のこと毛嫌いしてる。体育館で、体育座りなんて無理、寝るなんて無理」
「補習は学校の周り百周? 80キロ? 無理だな」
「大丈夫よ。陸上部だったの。体重も戻ったし。お願い、練習付き合って。足も、心臓も大丈夫。弱いのは精神だけ」
 スポーツセンターで美登利と走る。マラソン大会の前にはよく亜紀に走らされた。亜紀は独身時代が長かったからいろいろなことをやっていた。フルマラソンにも出場していたことがあった。
 美登利はすぐに走れるようになった。
 マラソンの補習。年内に終わるのか? 毎日学校まで迎えにいく。美登利は座席に乗り横になる。
「汗臭くない?」
「君の汗なら歓迎だ」
「足がパンパン」

 風呂に浸かっている間、美登利の部屋を眺める。几帳面な女だ。病的かもしれない。読書家だ。  
 圭が読んでいた本。映画のビデオ。捨てなかったのか? 圭の好きな映画だ。この部屋でふたりで観たのか? 
 1冊の本を手に取り開いた。
『この顔と生きていく』
 先天性の顔の奇形。これも圭の本か? 自分の顔を嫌う美登利に……
 夢中で読んだ。ハッとした。
「美登利?」
 浴槽で寝ている美登利を起こした。
「見たわね?」
「バカ、死ぬぞ。早く上がれ』

 美登利が出てくる前に部屋を出た。情けない俗物だ。圭の愛した女の裸を見て逃げ出した。
 最終日に美登利は走り切り抱きついた。
「苦手じゃないのか?  息と体臭」
「先生がシュークリームくれた。根性あるって」
 車の中で食べる。僕の口にも入れる。僕の口の周りのクリームを指で取り舐める。
「進歩したな」
「お礼するわ。キスしていいわ。あなたとならできそう」
「無理するなよ」
「キスするとアドレナリンが放出されコレステロール値が下がる。細菌を交換することで免疫力を高める効果がある」
「亜紀に聞いたのか?」
「自分で調べた。でも歯を磨いてからね。唾液の交換は無理」

 美登利の部屋でキスをした。コンビニで歯ブラシを買わされ念入りに磨かされた。美登利の唇にふれる。上唇を挟み、下唇を挟む。長い時間。体がうずく。
「さすが、キスもうまいのね」
「初めてだよ」
 美登利は吹き出した。 
「口開けろよ」
「無理。気絶する」
「唾液の交換しようぜ。唾液には殺菌消毒作用がある」
 ぎこちなく舌を絡める。
「気絶しないのか?」
 聞きたい。圭は? 圭とはしたんだろ? ヘビーなキス。 圭とは寝たんだろ?
「面倒くさいの省いてセックスしようぜ」
「ここじゃ無理」
「どこならできる? できるのか? 僕と?」
「あなたはきれいだから」
「きれい? どこが? 心か?」
 美登利は僕の顎をさする。
「きれいよ。女だったらよかったのに」
「子供の頃は女みたいだって言われた。コンプレックスだ。だから鍛えた」
 美登利は化粧道具を出し笑いながら僕に化粧した。写真を撮り父に送ろうとした。
「駄目だよ」
 携帯を取り上げた。中を見るのはご法度だが……
 内容は僕のことばかりだった。
 勉強の教え方が上手。優しい人、思いやりのある人……
 美登利を通して息子のことを知ろうとしているのか? 自分で聞けばいいのに。
 女だったら、僕が女だったら、父はどうしただろう? 溺愛しただろうか?

「キスの報告はするなよ」
 美登利に化粧をしてやる。変身させてやる。美しくないドリーに。平凡で真面目で地味な女に。
「すごい。メイクアップアーティストになれば? コンプレックスだった。派手な顔。亜紀さんには贅沢だって怒られたけど」

親友の愛した女

 美登利の父親が礼だと言い、フグをご馳走してくれた。 
 美登利は笑った。
 僕は伸ばしかけの口髭にメガネ。
 メガネをずっとかけていればよかった。
「気にしてるの? あなたは男らしいわよ」

 父親は酒が入ると涙もろかった。美登利は父親には優しい。
 僕は過去を振り返る。
 どうにかできなかったのか? パパと僕の過去は? パパは僕が寝たふりをしていると、泣きながら謝った。叩いた頬を撫で謝り続けた……

「あなたと結婚したらパパが喜ぶ。結婚しない?」

 毎年夏生と行っていたクリスマスコンサート。今年は断られ美登利と出かけた。肩を抱き頬寄せる。髭が痛いと美登利が笑う。
 仕事の疲れでコンサートの間、美登利は眠っていた。第9のラスト、美登利を起こした。クラッカーが鳴り拍手した。夏生ではない女とのクリスマスコンサート……


 大晦日の夜ひとりぼっちだ。梅酒で酔った情けない僕は美登利を呼び出した。
「さっきまで働いてたのよ。もう寝るだけ。大晦日も元旦も関係ないの」
「誰もいないんだ。ああ、旅行だよ。水入らずで。僕だけひとりだよ。来いよ。タクシー捕まえてきてくれ」

 来てくれるとは思わなかったが美登利は来た。
「酔ってるの? あなたらしくないわね」
「ああ、君が来てくれなかったら、なにかやらかしてた」
 美登利は散らかったテーブルを片付けた。
「君も飲めよ。亜紀の作った梅酒だ」
 美登利はひとくち飲んだ。
「芳醇。缶のとは全然違う」
「だから飲みすぎる」

 隣に座らせ話す。仕事で疲れ切った19歳の美登利。疲れ切った美登利に母の話をする。
「ママは19歳でパパと結婚した。中卒で都会に出てきて、田舎に仕送り。働いて疲れて寝るだけ。水泳だけが楽しみだった。パパはプールで会ってそんなママがいとしくて、親の反対押し切って結婚した」
 美登利は1杯飲むと眠気に負けて寝息を立てた。疲れて眠る女。第一印象はあてにならないものだ。ひたむきで必死に生きている美登利はママと重なった。

 酔うと思い出す。抑えてきたことが蘇る。死んだママの顔。眠っているようなママの顔……
「おい、眠るなよ。生きて……いるよな」
 眠っている美登利の顔をさわりキスした。額、頬に鼻に唇に。舌を入れると美登利は腕を回してきた。
「20歳過ぎた男に礼はキスだけか?」
 酔いが、出してはいけない名前を出した。
「圭とは寝たんだろ?」
 美登利は平気だった。その名には耐性ができていた。
「寝たのは君の母親とか?」 
 美登利の肩が震える。
「おまえに似てたんだろ、ママは。顔も体も声も」
 言い過ぎた。
 謝り土下座する。父そっくりだ。
 手を取ったが振り払われる。
「許さないか? ダメなのか? おまえのたったひとりの、おまえの……」
「圭は死んだの」
 美登利はコートを羽織る。もう僕を見ない。
「待てよ。帰らないでくれ」
「飲み過ぎよ。みっともない。もう寝たら?」
「帰らないでくれ。ひとりにしないでくれ」
 美登利を引き止め話した。パパのこと、亜紀のこと。亜紀の従姉妹のこと……
「瑤子、ひと回り年上の……僕の初恋かな」
「いくつのときよ?」
「11歳くらいかな」
 美登利は大声を出して笑った。そのあとは夏生のこと、和樹のこと。
「和樹は大嫌いだ。ママを奪っていったやつに似てる。名前も……夏生はどうしてあんなやつと……」
 そのあとはところどころしか記憶がない。飲まないと誓ったのに。情けない。
 美登利は僕の話を聞きそばにいてくれた。酔いが、なにを喋らせたのか?

 僕は美登利に甘えた。美登利は抵抗しなかった。痩せた女が元の体型を取り戻していた。数日のマラソンで健康美を取り戻していた。
「あなたのおかげ……」
 頭の隅で止める声がした。圭の愛した女、この女を抱いたら完全に圭を失う。

 美登利は脱がせた服を畳む。ちょっと待って、と言い几帳面に。僕の服も畳む。下着も。
「君の番だ」
「シャワー浴びなきゃ」
「好きだよ。君の汗の匂い。もっと嗅ぎたかった」
 美登利は叩いた。
 バスルームでシャワーを浴びながら抱きしめた。唾液の痕をシャワーが流す。
 
「病気、ないでしょうね? 感染症なんか移したら死ぬわよ」
 美登利は泡だらけにして僕を洗った。犬を洗ったように。
「今日、大丈夫?」
「知らないわ」
「女だろ?」
「あんなに痩せたのよ。生理も止まった。今はめちゃくちゃ」
 勢いのままベッドに運ぶ。
「シーツ、無理」
「変えたよ。新しい年だからな」
 美登利は電気の明るさにだけ文句をつけた。ふたりで妥協した薄明かりの中、コンドームをつけると
「切れない? 怖いから2重に、3重にして」

 花開き折るに堪へなば 、直ちに(すべから)く折るべし


 僕は体を離し隣に寝た。圭の大事な女。圭が大事にした女の体を指でなぞる。
「愛しいよ。君が」
「処女だから? 最初は軽蔑してたでしょ? 1年の時は」
「ああ。なぜ圭が君と付き合っているのかわからなかった。どう考えても圭のタイプじゃなかった。君は、清潔で純粋、真面目で努力家、几帳面、根性もある。父親思い……」
「どうしたの? 美登利の水揚げしないの?」
 美登利の体を唾液で汚す。美登利は抵抗もせず気絶もせず死にもしなかった。念入りな愛撫を……
「眠るなよ」
 美登利には限界だった。連日の立ち仕事。荒療治に疲れ眠りに落ちていく。
 圭の愛した女。僕は決めた。

 僕たちは親を乗り越えたんだ。僕たちは同志だよ。君を愛している。愛おしい。本気だ。
 結婚しよう。この家からも解放だ。会社は彩が継げばいい。オレはおまえと結婚する。大事にするよ。大事にする。おまえのパパも……

アリサ

 美登利は仕事の時間が迫っても起きなかった。
 僕は美登利のために浴槽に湯を張りバラの精油を落とした。夢うつつの美登利の頬をつつき目を覚まさせる。

「ああ、いい香り。贅沢ね。ダマスクローズ、高いんでしょ?」
「父の会社の商品だよ。元々は小さな石鹸工場だ」
「あなた、跡継ぎなのね。」
「さあ、僕は血統が悪いからな。君と結婚してコンビニ継ごうか」
 聞こえなかったようだ。
「美登利、僕は酔って何を喋った?」
 酔うと失われた記憶が蘇るようだ。しかし酔いが覚めれば覚えていない。
「歌ってたわ。夜中にピアノ弾いて。ネコ踏んじゃった、ネコごめんなさい……
 幸せだったって。パパとママと……」

 美登利を送り車を駐車場に止めたまま離れられずにいた。
 美登利は店の外に出てくると年賀を売り始めた。寒い中、道行く人に声かける。いじらしい、またママと重なる。
 しかし美登利のハスキーボイスが男に財布を出させる。店のためと開き直っているようだ。積み重ねた箱がみるみるなくなっていく。 
 女性客には通用しない。表面だけしか見ない女に美登利は嫌われる。夏生が初めてできた女友達だと言っていた。夏生は逆に男みたいな性格だからうまくいくのだろうか?
「媚び売るなよ」
 僕は隣で販売を手伝った。女性客に丁寧に礼儀正しく勧める。品物は減っていく。


 あの夜のことはなにもなかったように美登利は接した。勉強を終え美登利の肩に腕を回す。
「旅行しよう。キャンプしよう。風呂も入れない」
「行かない。もう卒業できるから」
「卒業したらもう僕は必要ない?」
「お礼はしてあるでしょ? お釣りがくるくらい」
「……」
「あなたは、いい人よ。お酒なんか飲まないで、いい人のままでいてくれればよかったのに」
「僕は本気だ。結婚も考えた」
 フン……美登利は鼻で笑った?
「さすが、ドリーはすごいわね。三沢英幸をその気にさせるなんて」
「ああ。君のためなら家も捨てる。大事にするよ。君のパパも。理想的だろ? 僕は?」
「圭のことばかり言うくせに。忘れたいのに」
「……言わないよ。もう言わない」
「あなたといると圭のこと忘れられない。セットでついてくるの」
「……」
「あなたのせいで、いやらしいことばかり考えてる。バスルームであなたがしたこと……快感だった。シャワー浴びるたび……」
 美登利は手首を見せた。新しい傷跡が生々しい。
「だから罰を与えたのよ」
 美登利は剃刀を出し脅した。
「私はママみたいになる。だから罰を」
 いきなりの展開に僕は言葉をなくした。
「私はアリサなの」
「アリサ?」
「狭き門、倫理で読まされたでしょ? アリサはジェロームとの愛を諦め神を選んだ」
「ジェロームはアリサを奪うべきだった」
「ママみたいになりたくない」
 振りかざされた剃刀。
「よせっ」
 血が飛んだ。
 奪った瞬間手のひらを傷つけた。美登利は僕が流した血には臆病だった。
 僕はもっとうろたえた。血圧が下がり心拍は上がる。
「血が怖いの?」
「夏生がガラスに突っ込んで血だらけだ。僕のせいだ。僕は必死でガラスをどけた。僕の手からも血が流れた」
「怖い思いをしたのね。かわいそうに」
 美登利はおじけずいた僕の手の傷を自分の唾液で消毒した。
「僕はもう君を助けられない」
「いい人ね。一生忘れないわ」
 美登利は僕の手を治療した。
「僕は消えるから、頼むからやめてくれ。もう傷つけないで。そばにいたいよ。君のそばに」
 美登利は小さくごめんと言った。
「一生結婚しない。パパのそばにいる。犬を飼おうと思うの。もう克服できたから」
 僕が未練がましく動かないでいると美登利はまた脅した。僕は恐ろしい場所から逃げるようにして出てきた。

 負けた。もう少しだったのに。原因もわからない。なぜなんだ? 
 圭。結局ダメだった。あんなに、あんなに愛してやったのに。美登利の気持ちがわからない。

 いや、おかしい。こんな別れなんて。こんな結末はおかしい……
 戻って……いや、戻れない。情けない。
 心配だ。美登利が心配なのにそばにいられない。どうすればいい?

封印

 母が死んだ。
 長い闘病生活だった。入退院の繰り返し。
 葬儀が終わると気が抜けた。数日眠れない日が続いた。風邪気味で薬も飲んでいた。心の中は空虚だ。がらんどう……

 1カ所だけ封印している場所がある。7年前の恋だ。封印してある。思い出すと辛いから。
 抑える。思うのを抑える。あんなに好きだった女、いや、まだ少女のままだった。深い悩みを抱えていた……
 力になると誓ったのに、あの少女の涙が一生を決定したと思ったのに、残酷に残酷に裏切ってしまった。
 どうすることもできなかった。謝ることも。2度と顔を合わせることはできなかった。

 衝撃……
 自損事故か、よかった。誰も巻き込んでいないならいい。
 死んでもいい。死んでもいい。あの女が呼んでいる。悲しい女だ。
 愛した少女の母親。愛した少女の憎んだ母親、あの女が呼んでいる。
「来てくれたのね、大きくなったわね、私に似てきたわね、ね、圭?」

「ママの恋人?」
「責めないで。もうすぐ死ぬのよ。今までこんなに親身になってくれた男はいなかった。手術しろって言うの。どうせ死ぬのよ。きれいまま死にたい」
「よろしくね、圭……さん。ママをよろしく」

 ドリー。許してくれ。幸せでいてくれ。おまえといた時間だけが幸せだった……


 屋上で女はタバコを吸っていた。特別室の女だ。
「なに? 悪い? それとも心配してくれるの?」
「別に」
「坊や、毎日きてるわね。おかあさん? 幸せね」
 圭は黙っていた。金のことで頭がいっぱいだ。
「ねえ、買い物頼まれてくれない? 頼める人、誰もいないのよ。天涯孤独なの」
 最初は雑誌やCDだった。多すぎる駄賃をくれた。
「取っておきなさい。どうせ死ぬのよ。使いきれないの」
 何度目かに、ある男を探してくれと頼まれた。
「初めての男。反対され見合いさせられ、駆け落ちしたけど連れ戻された。死ぬ前にどうしているか知りたい」 

 興信所に頼むだけで簡単だった。
 かつて駆け落ちした男には妻も子もいた。
「私が死んだら、伝えてくれない? お嬢さんが愛したのは1人だけだったと。あ、もしかしたら坊やを好きになるかも」

 女は金を貸してくれた。貸したのではない。先生に話をつけ母の手術の段取りをつけていた。圭は断れなかった。
「返すよ。必ず返す」
「無理よ。死ぬほうが早いから。その代わり付き合いなさい。遊びたいの。死ぬ前に」

 ボーリングをした。力のない女はうまかった。圭は初めてだった。女に教えられストライクをとった。
 酒を飲みにいきダンスを教わり歌を歌った。金のため……それだけではない。同情……それもある。だが、初めての男を生涯思い続けた女に感心した。
 その店で幸子に会った。言われたことが引っかかった。女が歌いにいったとき、
「うまいわね。プロ級ね。ねえ、ドリーに似てない? ドリーはどうなったの? あの巨乳のハスキーボイス。男子のセックスシンボル。寝たの? 圭君? あのサッカーに明け暮れていた少年は今は年上の女と、不潔」

 圭はもう1度女に聞いた? 身内はいないのか? 女は嘘がうまかった。平気で嘘をつく女なのだ。
 その夜、飲み慣れない酒とひどい疲労で女の部屋で眠ってしまった。
 美登利の夢を見た。圭の母親のことを自分のことのように心配して励ましてくれている。美登利がいるから夜学も卒業できた。辛い境遇も恨まずにすんだ。
 美登利が、美登利の声が圭を誘った。決して許さない唇、性的な行為は嫌った。ふれあうのは手と腕、頬、髪……美登利がしないことなのになぜ? 酔いが判断力を鈍らせた。
 愕然とした。女は、死を覚悟していた女は最後の男にすがりついた。


 圭は帽子を被りマスクとサングラスをしてドリーの部屋を見上げた。電気がついている。
 とてつもない悲しみを与えてしまった。美登利は心の病気になった。1年留年した。
 情報は母親が教えた。聞き出させた。母親を断ち切ることはできなかった。金を借りている。もうすぐ死んでいく女だ。憎んでいても美登利の母親だ。
 美登利に対しては、もうどうすることもできない。窓を見上げて、電気が消えるまで見守る。そんな日々が続いた。

 遠目で痩せすぎた美登利がやがて元気を取り戻した。下ばかり向いていた美登利が前を向くようになった。
 同じクラスの橘夏生と親しくなり、彼女の家で勉強しているという。夏生のそばにはあいつがいる。
 あいつが美登利を送ってきた。美登利の隣に三沢がいた。かつて圭の親友だった男。美登利に似た境遇の、すねていた男。美登利は笑っている。
 三沢が美登利を立ち直らせている。三沢なら安心だ。安心して任せられる……

入居者

 三沢英幸(えいこう)と別れたあと、部屋を借りにきた男がいた。最初日本人だとは思わなかった。日焼けして髪と髭もボサボサだった。
 汚すぎてありえない……
 アジアの各地を旅してきた男は1銭も値切らず決めてくれたのだ。
 いい間借り人だった。朝晩店で弁当や飲み物、雑貨や下着まで買ってくれた。家賃も遅れたことはない。毎日1度は顔を見る。レジで話をする。
 気さくな男だ。入居した時は大学生だった。美登利に興味を持ったようだ。口が悪い。
 キャバクラなら稼げるだろうに、と。

 毎日朝はおにぎりとサンドイッチ。夜は弁当。
「野菜不足ね」
「たまになにか作ってくれよ。サービス悪いと出ていくぞ」
 出ていかれたら困る。美登利はスープを差し入れした。丸ごとの鶏肉、ジャガイモ、玉ねぎ、にんじん、カブ、大きく刻んだキャベツ。
「ハサミで切って食べてね」
 それがうまいと絶賛された。1度で食べてしまうほどうまかった。
 お礼に……抱いてやろうか、と軽口。

 翌年は就職した。髪も髭もさっぱりしたら別人のように見えた。就職先は株式会社ミサワ。
 えっ? 
 知っているの? 
 ええ、いいえ……

 この男のために何度か料理した。今度のリクエストはきんぴらごぼうだった。太くて硬いのが食べたいと。
 君も食べたいだろ? 
 美登利は作って持っていった。部屋には入らない。玄関で味見させた。
「いい歯ごたえだけど少し味が薄いな」
「自分で作れば?」
 なんだろう? この男は? なぜこの男のために得意でもない料理をしたのだろう? 褒め上手だ。軽口も楽しい。

 信也はすねる美登利がかわいかった。知り合って2年か……
 偶然ではない。失恋してから3年以上経つのか……
 失恋して自殺をあいつに止められ旅に出た。
 ベナレスで夜明けのガンジス川を見た。素晴らしかった。あいつの言った通り。
 貧しい村でかわいそうな子供を見た。悩みなどちっぽけなものだ。苦しかった恋は終わった。もう未練はない。熱病にかかっていたのだ。もう完全に治った。

 半開きのドアが開けられた。恋の後遺症が残っていた。
「マサル……」
 恋した女の息子は14か? 13か? ひとつの違いで全然違う。勝はナイフを握りしめていた。
「先生、久しぶり。もう新しい女か? オレの家をめちゃめちゃにしておいて」
 美登利は……この女は落ち着いていた。
「新しい女じゃないわ。家賃の取り立てに来ただけよ」
「勝、いくつになった?」
「13だよ。ぎりぎり」
「そうか、では、やれよ」

 勝の家庭教師をしていた。あの女はよく苦情を言った。ドア越しに聞いていたのだろう。国語や算数ではなく社会に熱が入ってしまった。受験とは関係ないことを質問され……時間の無駄ではないのに。
 そのうちあの女は信也の熱弁を楽しむようになった。自分も勉強したいと言い出した。とりあえず英会話。海外ドラマを字幕なしで観れるように……
 教える場所が変わっていった。あの女は、近くまで来たからと信也の部屋に来た。
 
 勝は信也が誘導した心臓の場所めがけ、ナイフを突き刺した……
 美登利の腕から血が流れた。勝は怖気ずく。
 信也が手当てをした。ガーゼで押さえ止血した。
「たいしたことないわ」
「縫わなきゃだめだ。オレがやったことにしてくれ。オレのせいなんだ」
 信也は勝を逃がそうとした。
「最低の男ね。あなた、帰りなさい。こんな男のためにつまらない……」
「どうしてそんな男をかばうんだ?」
「家賃が入らなくなると困るの」
 信也がタクシーを呼んだ。
「勝、オレを刺すのはあとにしてくれ。離れろ。警察沙汰になるかもしれない」
「帰りなさい。私があなたのことは守るから」
 美登利は腕を見せた。ほかにも傷つけた跡が何か所かあった。
「自傷行為の常習者だから大丈夫よ」

 勝を置いてふたりはタクシーで病院へ行った。美登利はひとことも喋らない。信也も言い訳はしない。家庭をめちゃくちゃにしたのは……
 元々めちゃくちゃだった。中学受験が終われば離婚すると、そんな話を信じた……
 病院で美登利は見事に演技した。この人が離れていくから引き止めようとした……捨てないで、と。


 電話をしたときあいつは、勝手にしろ、と言った。
 どうやって死ぬんだ? 電話してきてオレに後始末をさせる気か? 手首切るのはやめてくれ。オレは血は苦手なんだ。首吊りも嫌だ。感電死はどうだ? 電線巻きつけて。待て。義母に薬もらってやる。安楽死させてやる……
 あいつはずっと喋りながら車を走らせてきた。死ぬ気なんてないくせに……たかが1度の失恋で死んでたらオレなんて10回は死んでる。
 おまえは失恋なんか経験ないだろ? 
 あるよ……
 あいつは長々と自分の失恋話を1度目……高校の同級生。出会いから初体験まで、こまごまと。 
 2度目、小学校の同級生……時間稼ぎに……
 ベナレスで夜明けのガンジス川を見たんだ……
 おまえもそうしろ。おまえの悩みなんてどんなにちっぽけなものか……
 信也は聞くだけになった。あいつは部屋に着くまで喋り続けた。顔を見るとホッとしたようだ。 
 あいつの言う通りにした。
 あいつの言う通りだった。
 傷を癒し帰るとあいつは最新の失恋話をした……

 病院から戻ると勝が店の外で待っていた。タクシーから美登利が降りると駆け寄った。信也のことは無視した。
 美登利は勝を自分の部屋に連れていった。信也には口もきかず。小1時間、勝は美登利の部屋にいた。
 信也は何度もドアの前まで行った。なにを話している? 
 勝と美登利と、あいつは同じ境遇になった。母親が不倫した。子を捨てた。勝の母親は子ではなく信也を捨てた。父親も不倫していた。修復できないはずなのになぜ別れない? 

 ようやく勝が出てきた。ドアの外の信也を見ると床に唾を吐いた。怒りが沸いた。
「美登利が止めなければ今頃は……犯罪者だ。おまえの家庭は……」
「美登利さんがかばってくれたのは僕だ。おまえじゃない」
 美登利は無視して勝を駅まで送り戻った。腕をつかみ問い詰める。
「なにを話していたんだ?」
「身の上話よ」
「君の、そのリストカットのわけか?」
「あんた、知ってたの? 傷跡見ても驚かなかった。冷静だった。止血するの上手だった。まるで私が切るのわかってるみたいに」
「……」
「あんた、三沢さんの知り合い?」
「……鋭いな」
「三沢さんの会社に就職した。あの人がいなくなったらあんたが現れた」
「頼まれたんだ。君が心配だから様子を知らせてくれって。君が自分を傷つけないか心配で」
「なんであんたみたいな男に? 敵じゃないの。私たちの」
「本気だった。純情だったんだ。振られて死のうとした。三沢に助けられた」
「助けることないのに」
「お節介なんだ」
「……あの人はどうしてる?」
「どうして別れた? あんな条件のいい男」
「あの人は?」
「元気だよ。幼馴染みの子と結婚するだろうよ」
「やっぱりね」
「身を引いたのか? 愛してたんじゃないのか?」
「……自己犠牲、快感だった」
「もっと愛してる男がいるんじゃないのか?」
「……どうして、そう思うの?」
「2年も観察してた」
「勝君と結婚する。あの子が18歳になったら」
「……バカなことを」
「約束したのよ」

 次の日の夜、勝は店で品出しをしていた。
「15歳にならないとバイトはできないぞ」
「手伝ってるだけだよ。彼女、腕痛いから」
「彼女か?」
「高校生になったら家を出てここでバイトしながら高校へ行く。卒業したら彼女と結婚する」
「バカなことを。そのとき美登利は26歳だ」
「あんただって10も上の女と……」
「結婚するつもりだった。おまえも引き取るつもりだった」
 勝の目に涙が浮かぶ。
 そのあと勝は店先の花の手入れをした。花がらを摘み丁寧に水やりをしている。
 あの女も、勝の母親も園芸が趣味だった。洒落た家、センスのいい庭。幸せに見えた家庭……

「勝、駅まで送るわ」
 犬を散歩させながら美登利は勝を送っていく。
 戻るとまた口論になる。
「18になるまで、やらせるなよ。淫行になるぞ」
 美登利はにらむ。
「あの子はママが大好きだった」
 信也はなにも言えない。10歳の勝は幸せだった。
 何回か勝は来た。店を手伝い美登利が送っていく。土日は朝から来て花壇の手入れを手伝っていた。信也を見てもなにも言わなくなった。

 勝も信也もいるときだった。弘美が訪ねてきた。  
 圭が事故を起こした。
 重体……
 よろける美登利を勝が支えた。
「お願いです。うわ言でドリーって。お願い。付いててあげて」
 美登利は部屋にこもった。
 部屋には圭に借りたままの本がある。DVDもある。返す日などこないのに捨てることはできなかった。
 あの残酷な出来事から4年経つ。もう立ち直っていた。圭の親友だった三沢が立ち直らせた。そのあとは信也が……

 美登利は部屋から出てこない。信也は三沢に電話した。しばらくぶりだ。ここ数日の出来事は知らせていない。
 圭の名を出すと衝撃を受けているのが伝わってきた。
 30分もしないうちに三沢は来た。美登利の父親に部屋の鍵を借り強引に美登利を連れ出した。三沢に抱えられ美登利は車に乗せられ去った。  
 残された伸也と勝はタクシーで追いかけた。後部座席にふたりで座った。
「あの人は誰? ケイって美登利さんの彼氏?」
「彼氏ならすっ飛んでいくだろ?」


 病室で美登利は圭の手を握った。握れた。怖かった。拒否してしまうのではないかと。
「圭、目を開けて。大好きな圭」
 圭は目を開けない。
 美登利はなにも飲まず食べない……
「圭、辛かったね。ごめんね。そばにいてあげられなくて……」
 美登利はずっと圭の手を握っていた。三沢が水を飲ませようとしたが美登利には聞こえない。
「口移しで飲ませるぞ」
 大声で言われようやく我に返った。
「圭、死ぬの?」
「死なないよ。再手術する。必ずうまくいく」
 三沢が美登利の、世話をした。病室を離れない美登利の着替えを取りに行き、近くの銭湯に連れていった。食事を差し入れし目の前で食べさせた。
 手術の朝、三沢と美登利は輸血した。

 手術の間、三沢と美登利と弘美がロビーで待った。長い時間待たされた。三沢が弘美を励ましている。
 弘美……
 まだ小学生だった。
 海に行った。弘美の両親と、圭と。あたたかな家族。圭を慕い美登利に嫉妬していた。
 ずっとそばにいてくれたのだろう。圭の辛い時期、家族は圭のことを親身に心配して面倒をみてくれていたのだろう。
 集中治療室にはふたりしか入れない。弘美は三沢と美登利に譲った。ずっと身近にいたのに。1番会いたいだろうに。

 手術はうまくいった。うまくいくと回復は早かった。体から管が次々に外れていく。
 圭の意識が戻ったとき、そばにいたのは弘美だった。
 夢を見ていたのか? ドリーの声が聞こえた。懐かしい声だった。

(血をあげたからね。私の血が圭の中に入ったのよ。やっとひとつになれたね)

「輸血してくれた。ドリーと三沢さん。ずっとついててくれたわ」

(弘美ちゃん、ずっと圭のこと好きなのね。ずっとそばにいてくれたのね。弘美ちゃんならいいよ。
 圭、弘美ちゃん、大事にしてあげてね……)


 信也は部屋を出ようと片付けた。美登利が止めた。
「家賃入らないと困るの」
「なぜ圭とはだめなんだ? 障害はない」
「譲ったの。弘美に。それに他に好きな人がいる」
「三沢か?」
「三沢さんは夏生に譲った」
「バカか?」
「あんたは誰にも譲らない。ずっとここにいて店で買って私の料理を食べるの」
「勝はどうする?」
「……いつか誰かに譲る」
「そうか、そうなるだろうな。勝は、もう来ない。圭さんを看病するおまえを見て諦めた。悲しむのは嫌だって。おまえが悲しむのは嫌だ……」  

親友

 夏生と結婚した年に家を2世帯住宅に建て替えた。外溝工事に来ていたのが圭だった。圭は親方と仕事をしていた。
 僕は飲み物を差し入れした。事故で入院していたとき以来だ。
 手術から目覚めた圭は弘美から、美登利が輸血をしてくれたことを聞いた。美登利は圭の意識が戻ると去って行った。弘美に看病を頼んで。
 美登利は弘美に譲ったのだ。夏生に僕を譲ったように。輸血したことで、美登利は圭と結ばれた。僕の血も混じったわけだが……
 美登利は圭が弘美と結ばれることを望んでいた。


「夏生と結婚したのか? そうなるとは思っていたが」
 高校入学の前の春休みに圭と初めて会った。あのときと同じように僕は手伝った。ブロックを壊し、車に運ぶ。あのときと違うのは、父親の代わりが親方であること、それに……
 小型のミキサー車が入ってきた。降りてきた男、いや、女を見て驚いた。病院で圭の世話を焼いていた弘美だった。真っ黒に日焼けし、男に混じって引けを取らずに働く。
「かっこいいなぁ、弘美ちゃん」
 僕が言うと圭は優しい目で弘美を見た。

 圭は知りたいだろうが聞いてはこない。美登利がどうしているかを。
 美登利は信也と付き合っている。教えると圭は安心したようだ。
「三沢さん、釣り行かない?」
 弘美が誘った。
「海釣りか?」
「ヒラマサよ」
「ヒラマサを、君が釣るの?」
「女も多いのよ」
「じゃあ、夏生も誘うか」
「奥さん、仕事してるの?」
「ああ。ウェディングドレス作ってる。プレゼントしようか?」


    (了)

卒業

『この家には亡霊がいる』の美登利を主人公にしてまとめました。

卒業

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日
2024-06-01

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. アリサ
  2. 親友
  3. 月光
  4. 後輩
  5. 美登利
  6. 同志
  7. 先生
  8. 愛の方程式
  9. 親友の愛した女
  10. アリサ
  11. 封印
  12. 入居者
  13. 親友