不機嫌な理由
楽聖ベートーヴェンのエピソードと曲を。
マカロニチーズ
某サイトの作品を読んで彼が不機嫌だったわけがわかりました。こんなエッセイを投稿しているのに知りませんでした。
その日は、好物のマカロニチーズのチーズの量が少なかったから……
彼はコーヒーとお酒が大好きで、ビールを飲みながら煙草を吸うのが楽しみだった。
コーヒーは豆の数が常に60粒でなければダメというこだわりよう。
私もコーヒー豆を数えてみた。60粒で8グラム。 (私はマグカップなので12グラム)
彼の食生活は決して高価なものではなかった……らしい。
教科書などにのっている彼の顔が、少しこわい顔になっているのは、
その日の朝食のマカロニが茹ですぎだった、という説もある。
パンと生卵を入れて煮込んだスープや、魚料理に肉料理、茹でたてのマカロニにチーズを和えたものが大好物であった。
またワインを嗜み、銘柄は安物のトカイワインを好んでいた。父親に似て大の酒好きであった。
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン
ドイツの作曲家、ピアニスト (1770年12月16日頃-1827年3月26日)
音楽史において極めて重要な作曲家の一人であり、日本では「楽聖」とも呼ばれる。
その作品は古典派音楽の集大成かつロマン派音楽の先駆とされ、後世の音楽家たちに多大な影響を与えた。
(Wikipediaより)
ウィーンへ
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンは、神聖ローマ帝国ケルン大司教領のボンにおいて、音楽家の父ヨハン・ヴァン・ベートーヴェンと、宮廷料理人の娘である母マリア・マグダレーナ・ケーヴェリヒ・ライムの第二子として生まれた。マリアは7人の子供を産んだが成人したのは3人のみ。ルートヴィヒは長男になる。
父ヨハンは宮廷歌手であったが、無類の酒好きで収入は途絶えがちだった。
ベートーヴェンは父からその才能をあてにされ、虐待とも言えるほどの苛烈を極める音楽のスパルタ教育を受けた。
1787年春、16歳のベートーヴェンはウィーンに旅し、かねてから憧れを抱いていたモーツァルトを訪問した。
カール・チェルニーの伝える所によれば、ベートーヴェンはこの地でモーツァルトの即興演奏を聴き、彼の演奏を
「すばらしいが、ムラがあり、ノン・レガート」
と語ったという。
ウィーンで2週間程滞在した頃、ベートーヴェンは母親の危篤の報を受けてボンに戻った。母は2か月後の7月に死没した。
一方で父親のアルコール依存症と鬱病は悪化していった。
1790年12月には、当時絶頂期だったハイドンがボンに立ち寄り、ベートーヴェンの才能を認め、1792年7月には弟子としてウィーンに来れるよう約束が交わされた。
1792年11月2日の早朝に出発し、1週間かけてウィーンに到着した。
1792年12月18日には父ヨハンが死去したが、ベートーヴェンは葬儀のためにボンに戻ることはなかった。
1792年11月~1794年1月までの日記には、買い物の支出の記録やハイドンのもとでのレッスン料の記録は残っているが、父ヨハンの葬儀に関する記録は全く残っていない。
ベートーヴェンはウィーンに来てから徐々に名声をあげていき、4年が経った1796年の時点で既に同世代の中でも最も評価される作曲家となっている。
『彼は演奏の稀にみる速さによって広く称賛されており、最も手強い困難な箇所をいとも簡単に習得してしまうことで驚きを与えている。
すでに音楽の内なる聖域に入ってしまったようで、正確さ、感性、趣味において傑出している。~中略~
このような非常に偉大な天才が、その実をこれほど優れた大家たちの指導下に置いたとあれば、そもそも期待できないことなどあろうか!
彼は既に数曲の美しいソナタを作曲している。その中で最も新しいものは、特に傑出したものと評価されている」
(1796年にヨハン・フェルディナント・フォン・シェーンフェルトが刊行した『ヴィーン・プラハ音楽芸術年報』の作曲家に対する寸評)
傑作の森
20代後半頃より持病の難聴が徐々に悪化。音楽家として聴覚を失うという死にも等しい絶望感から、1802年には『ハイリゲンシュタットの遺書』をしたためて自殺も考えた。
しかし、彼自身の芸術への強い情熱をもってこの苦悩を乗り越え、ふたたび生きる意欲を得て新たな芸術の道へと進んでいくことになる。
1804年に交響曲第3番を発表したのを皮切りに、その後10年間にわたって中期を代表する作品が書かれ、ベートーヴェンにとっての傑作の森と呼ばれる時期となる。その後、ピアニスト兼作曲家から、完全に作曲専業へと移った。
交響曲第3番『英雄』は、フランス革命後の世界情勢の中、ナポレオン・ボナパルトへの共感から、ナポレオンを讃える曲として作曲された。
しかし、完成後まもなくナポレオンが皇帝に即位し、その知らせに激怒したベートーヴェンは
「奴も俗物に過ぎなかったか」
とナポレオンへの献辞の書かれた表紙を破り捨てた、という逸話がよく知られている。
しかし、このエピソードは弟子のシンドラーの創作であるとする説が有力視されている。
ベートーヴェンは終始ナポレオンを尊敬しており、第2楽章が英雄の死と葬送をテーマにしているため、これではナポレオンに対して失礼であるとして、あえて曲名を変更し献呈を取り止めたという説もある。
交響曲第5番ハ短調に副題の『運命』は付いていなかった。
弟子のシンドラーがベートーヴェンに、
「出だしのダダダダーンっていう音は
何を表しているのですか?」
という質問をし、
「それは運命がドアを叩く音だ」
と答えたことから呼ばれるようになったという。
が、信ぴょう性が低いため、海外では副題を使わずに番号と調号のみで表記されることが多い。
扉を叩く音を表しているが、ベートーヴェンにとっては
「音楽家生命の終わりが近づく音」
を表しているとも言われている。
1817年 (第9交響曲を作曲中のころ)、
「自作でどれが1番出来がいいと思いますか」
という詩人クリストフ・クフナーの質問に対し、ベートーヴェンは即座に「エロイカ (英雄)」と答え、
「第5交響曲 (運命)かと思いました」
と言う言葉に対しても
「いいえ、いいえ、エロイカです」
と否定している。
そういえば、以前『エロイカ変奏曲』というピアノ版をよく流していた……
エロイカの主題による 15の変奏曲とフーガ 変ホ長調 op.35
(Pf) グレン・グールド
1970年 (グレン・グールドがリサイタルで好んで取り上げた曲)
https://youtu.be/yriwvX4O7MQ?si=oY2muf3G3FRk1pwN
人物
身長は165cm前後、筋肉質でがっしりとした体格をしていた。
肌は浅黒く、天然痘の瘢痕があったとされるが、肖像画や銅像、近年明らかとなった多彩な女性関係などから容貌は美男とは言えないものの、さほど悪くなかったのではないかと思われる。
表情豊かで生き生きした眼差しが人々に強い印象を与え多くの崇拝者がいた。
服装には無頓着であり、若いころには着飾っていたものの、歳を取ってからは一向に構わなくなった。
弟子のチェルニーは初めてベートーヴェンに会ったとき、「ロビンソン・クルーソーのよう」「黒い髪の毛は頭の周りでもじゃもじゃと逆立っている」という感想を抱いたと言われる。
また作曲に夢中になって無帽で歩いていたため、浮浪者と誤認逮捕されてウィーン市長が謝罪する珍事も起こった。
部屋の中は乱雑であった一方、入浴と洗濯を好むなど綺麗好きであったと言われる。
また生涯で少なくとも60回以上引越しを繰り返したことも知られている。
潔癖症で手を執拗に洗うところがあった。
性格は矛盾と言っても差し支えのない正反対な側面があった。
人付きあいにおいて、ことのほか親切で無邪気かと思えば、厳しく冷酷で非道な行動に出るなどと気分の揺れが激しかった。
親しくなると度が過ぎた冗談を口にしたり無遠慮な振る舞いを見せたりすることが多かったため、自分本位で野蛮で非社交的という評判であったとされている。
癇癪持ちであったとされ、女中に物を投げつけるなど、しばしば暴力的な行動に出ることもあったという。
師ハイドンに、楽譜に「ハイドンの教え子」と書くよう命じられたときは、
「私は確かにあなたの生徒だったが、教えられたことは何もない」
と突っぱねた。
パトロンのカール・アロイス・フォン・リヒノフスキー侯爵には、
「侯爵よ、あなたが今あるのはたまたま生まれがそうだったからに過ぎない。私が今あるのは私自身の努力によってである。これまで侯爵は数限りなくいたし、これからももっと数多く生まれるだろうが、ベートーヴェンは私一人だけだ!」
と書き送っている。
このような「場をまったくわきまえない」発言の数々はメッテルニヒ政権成立後に仇となり、大編成の委嘱が遠ざかる。
また、後援者のリヒノフスキー家に下宿している際に正餐のために毎日4時に集まるように言われると、それを断り、
「毎日、三時半に家に帰り、服を着替え、髭を剃ったりしなくてはならないのか? まっぴらごめんだ!」
とヴェーゲラーに述べている。
テプリツェでゲーテとともに散歩をしていたところ、オーストリア皇后・大公の一行と遭遇した際も、ゲーテが脱帽・最敬礼をもって一行を見送ったのに対し、ベートーヴェンは昂然として頭を上げ行列を横切り、大公らの挨拶を受けたという。
のちにゲーテは
「その才能には驚くほかないが、残念なことに不羈奔放な人柄だ」
とベートーヴェンを評している。
かつてベートーヴェンの弟子 (秘書)であるアントン・シンドラーが、「テンペスト」の解釈について尋ねた。
ベートーヴェンが「シェイクスピアの『テンペスト』を読め」と答えたことが、「テンペスト」という通称の由来だとされている。
交響曲第5番の冒頭について「運命はこのように戸を叩く」と語ったことや、ピアノソナタ第17番が“テンペスト”と呼ばれるようになったいきさつなど、伝記で語られるベートーヴェンの逸話は、自称「ベートーヴェンの無給の秘書」のアントン・シンドラーの著作によるものが多い。
しかし、この人物はベートーヴェンの死後、ベートヴェンの資料を破棄したり改竄を加えたりしたため、現在ではそれらの逸話にはあまり信憑性が認められていない。
ベートーヴェン ピアノソナタ第17番テンペスト第3楽章 グレン・グールド
https://youtu.be/Ygr7u3u2tXg?si=hDjpvWk1mAY6xpw6
メトロノーム
ベートーヴェンはメトロノームの価値を認め、初めて活用した音楽家だといわれている。積極的に数字を書き込んだために、後世の演奏家にとって交響曲第9番やハンマークラヴィーアソナタのメトロノーム記号については、多くの混乱が生まれている。
19世紀に実用化していたメトロノーム解読には二つの方法がある。
① 振り子の左右往復 (tic-tac))をもって1拍とみなす = double-beat method
② 振り子の片道 (tick)を1拍とみなす = single-beat method
現代の主流が ② であることは、言うまでもないが、これに従えば、19世紀のメトロノームの数値はことごとく、意図されたテンポの2倍速で演奏される事態となる。
はじめてこれを耳にする者にとっては青天の霹靂……
メトロノームが生まれるまでの音楽は、「テンポ・オルディナーリオ (普通のテンポ)」というおおよその脈拍の速さを基準とし、速度記号によって、若干テンポを調節して演奏されていた。しかし言葉だけでは具体的なテンポはわからない。脈拍は人によって違う。
実用的なメトロノームの誕生は、1815年のこと。
普遍的でない速度記号に不満があったベートーヴェンは、具体的な数字で理想のテンポを示せるメトロノームの有用性に目をつける。
そして「ライプツィヒ音楽新聞」に、それまで作曲した8つの交響曲のメトロノームテンポを掲載した。
その後もメトロノームの速度表示を自身の作品に導入したベートーヴェンは、楽譜出版社ショットへ
「もはやテンポ・オルディナーリオ (普通のテンポ)の時代は終わりました。これからの音楽は自由なひらめきを尊重すべきなのです」
と書き送っている。
こうして「普通のテンポ」の壁を打ち破り、音楽にさまざまなテンポをもたらすきっかけを作ったベートーヴェンは、メトロノームの形をした墓石の下で眠っている。
ベートーヴェンの全ソナタの中でも特別な作品として語られることが多い《ハンマークラヴィーア (ピアノというドイツ語)》
この曲だけ《ハンマークラヴィーア》という呼び名が残ったのは、恐らくリストやシューマンなど後続の作曲家が高く評価したことも関係している。
さらに重要なことは、このソナタを彼らが体感したことで、ピアノ・ソナタを書くことをやめてしまったということだ。
ベートーヴェンの後の世代の作曲家たちは、ピアノ・ソナタの発表にかなり慎重だった。シューマンとショパンは3曲、リストは1曲、ブラームスも若いころに3曲。
この《ハンマークラヴィーア》は、後世のドイツ作曲家に立ちはだかる巨大な壁だったのかもしれない。
この長大なピアノソナタを single-beat で弾いてみよう。ほぼ演奏困難に近い高速に唖然とする。
それでも作曲者の指図に忠実であろうと努めるピアニストの名人芸がある。ただ演奏はめっぽうせわしくなる。
ではこれらの数値を、2倍遅くなる double-beat で読んでみるとどうなるか? テンポの半減が楽想に与える影響は莫大であり、その結果、音楽の中身が勝ちえることになる豊かな味覚の密度は格別のものだ。特急列車の車窓から眺める景色と、徒歩で行く道すがら野の花と愛を語らう蜜蜂にまで目が届く状景との違いだ。
ベートーヴェンが《ハンマークラヴィーア・ソナタ》を double-beat method で把握していたことに疑いの余地はなさそうだが、第3楽章 (Adagio sostenuto/8分音符 = 92))を double-beat で弾くと、およそ30分を要する長丁場となる。
『第九』はCD1枚に収録できる時間の基準になったとの逸話があり、その時間は74分だ。一方、メトロノーム表記通りだと63分ぐらいになる。
『メトロノーム表記を尊重すべきでは』となり、1970年代に当時の演奏法で演奏する動きが出てきた。
『昔はもっと速かった』という話が1990年代には世界的に広まって、解釈が色々と分かれることになった』
ハンマークラヴィーア第1楽章 辻井伸行
https://youtu.be/_MFvuwjogNs?si=SdOdCGJL_Ef9CgKL
ハンマークラヴィーアをゆっくり弾いてみたら優しさに溢れていることがわかった
https://youtu.be/9ih1GYLiJ80?si=kDKf7RBNJVNoZHYu
《ハンマークラヴィーア》は、『お気に入りの音楽』67話 演奏不可能 「50年経てば人も弾く!」に
投稿してます。
ベスト20と聴き比べ
【NHK『らららクラシック』ベスト20】
ベートーヴェンの生誕250周年を記念して行った投票の結果
第1位 交響曲第9番「合唱つき」
第2位 交響曲第7番
第3位 ピアノ・ソナタ第8番「悲愴」
第4位 ピアノ・ソナタ第14番「月光」
第5位 交響曲第5番「運命」
第6位 交響曲第6番「田園」
第7位 ピアノ協奏曲第5番「皇帝」
第8位 エリーゼのために
第9位 交響曲第3番「英雄」
第10位 ピアノ・ソナタ第17番「テンペスト」
第11位 ピアノ・ソナタ第23番「熱情」
第12位 バイオリン・ソナタ第5番
第13番 バイオリン協奏曲
第14位 ロマンス第2番
第15位 トルコ行進曲
第16位 バイオリン・ソナタ第9番「クロイツェル」
第17位 ピアノ・ソナタ第31番
第18位 ピアノ・ソナタ第21番「ワルトシュタイン」
第19位 ピアノ・ソナタ第32番
第20位 ピアノ協奏曲第4番
ピアニスト、グレン・グールドとベートーベンに興味を持ち検索して執筆しているのですがなかなかまとまりません。
変人グールドは第3位の『悲愴』を通俗的だと評価せず1度もリサイタルで弾いていません。
こちらはYouTuberさんが選んだベストテン。
https://youtu.be/Vd_L7oDpF8E?si=A7V5TD5RejPzeIZX
私の好きなピアノソナタ1番は入っていませんねえ。
ベートーヴェンのピアノソナタ全曲を流していて、引っかかった第4楽章。 (13分30秒くらいから)
自作の小説に登場させました。
ピアノソナタ第1番第4楽章
ダニエル・バレンボエム
https://youtu.be/9oIdtq9E2ZU?si=lDZfNUlGSzC7Iy0R
◇
ベートーヴェン交響曲第5番『運命』の冒頭
聴き比べ
https://youtu.be/EHjOWFKRmVE?si=20YsZyYUGi3jl9IH
「ジャジャジャジャーン」は、動機 (モチーフ)とも呼ばれ、たった四つの音から成り立っている。
このモチーフは運命がドアを叩く音を表している。
八分休符から始まっているので、
ウン (短い休み) ジャジャジャジャーン……なのです。
短い呼吸をしてから始まるため、独特の緊張感が生まれる。
休符から始まることから、冒頭の部分は合わせにくく、指揮者や楽団員にとっては緊張する瞬間!
初めて買ったクラシック名曲集の指揮者は、バーンスタイン、ジョージ・セル、ブルーノ・ワルターだった。
何度も聴いた『運命』の指揮者は誰だったのだろう。あの頃は指揮者は気に留めていなかった。 でも頭に刷り込まれたのは重くてゆっくりだったので、速いと違和感が……
ベートーヴェン 交響曲第9番フィナーレ聴き比べ
https://youtu.be/bnU_FGqI9pQ?si=smJ_4d7QgL5JG3-S
フィナーレの最後、合唱が
"Got fenken、Got funken!"
で終わると、フルトヴェングラーは猛烈なスピードで駆け抜ける。
スコアには"Prestissimo”と指示がある。
”Presto(プレスト)”は元々アンダンテとの比較で”アンダンテよりも速く”程度のスピード感だったものが時代とともにどんどんスピード感が速まってきた。
ベートーヴェンがここに”プレスティッシモ”と書いたとき、どの程度の速さをイメージしていたのかは指揮者の判断による。
動画のラストに、トスカニーニとフルトベングラーが。フルトベングラーの演奏、観客が凄まじい……
ハーケンクロイツの旗が……
ベートーヴェン交響曲第7番フィナーレ
https://youtu.be/9811ZNlQM5o?si=lsz6XjABJxc4SSVm
ドラマ『のだめカンタービレ』で知った交響曲。YouTubeで交響曲7番を検索するとこればかり続きますね。
ベートーヴェンは酔ってこの曲を作ったのでは? と何かで読んだことが……
◇
1999年にNHKのドキュメント番組『フジコ〜あるピアニストの軌跡〜』が放映されて大きな反響を呼び、フジコブームが起こった。
その後、発売されたデビューCD『奇蹟のカンパネラ』は、発売後3ヶ月で30万枚のセールスを記録し、日本のクラシック界では異例の大ヒットとなった。
1999年、オペラシティコンサートホールでの復活リサイタルを皮切りに、本格的な音楽活動を再開し、国内外で活躍することとなる。
2001年には、ニューヨークカーネギーホールでのリサイタルを披露する。
2024年4月21日、膵臓がんのため死去。92歳没。
偶然テレビ番組を観て、CDも買いました。
フジ子・ヘミングのベートーヴェンの録画は非常に少ない。
ピアノソナタ第17番第3楽章
https://youtu.be/4TfY6kJdn1c?si=mFZGMql7Bwrl_Ud0
ピアノ協奏曲第5番第3楽章
指揮 ユーリ・シモノフ
https://youtu.be/Cy5kqCcU6O8?si=W1oNK8a2CMQXq0Xx
グレン・グールドとベートーヴェン
ようやくベートーヴェンの恋を調べようと思ったのですが『不機嫌な理由』ラストの『エロイカ変奏曲』のグレン・グールドに引っかかってしまいました。
『お気に入りの音楽』34話に投稿したグレン・グールド。
モーツァルトを辛辣にけなし、後期の曲は、芝居ががった、堕落した、
「早死ではなく死ぬのが遅過ぎた」
とまで言い放った天才ピアニスト。
彼のベートーヴェンに対する評価は?
ベートーヴェンについて、その楽曲ごとに賛否両論を唱えたグールドは、若年より、多くの録音を残している。ベートーヴェンについても、グールドの極端なテンポ設定などの異端な解釈が賛否を呼んでいる。
ベートーヴェン 交響曲第5番運命ピアノグレン・グールド
(リストによるピアノ編曲)
https://youtu.be/Llo6oYa1Lrs?si=ccdPJU0XfjvL4Vu0
フランツ・リストは、ロマン派を代表するピアニストでもあったが、ベートーヴェンの交響曲を大胆にもピアノ演奏用に自ら編曲し、多彩なオーケストラの音響を1台のピアノで表現することを可能にした。
20世紀カナダの鬼才ピアニスト、グレン・グールドは、こうしてピアノの大作へと変貌を遂げたベートーヴェンの交響曲第5番『運命』を1967年から68年にかけて録音、話題をさらった。
当時のグールドは、交響曲全9曲の録音も予定していたらしい。
グールドはリスト作曲の作品を弾かなかったが、編曲ものは取り上げており、交響曲第5番でも第2楽章の超スローテンポなど独特の解釈で演奏している。(メーカー資料より)
動画は見当たらず。
交響曲第6番 田園 第1楽章
https://youtu.be/ggioI9j-0iA?si=EQUmsbeQzWcY-4bn
グールドがリサイタルで好んで取り上げたのはソナタ30、31、エロイカ変奏曲、ソナタ17番テンペスト。
3大ソナタ(月光・悲愴・熱情)をリサイタルで1度も演奏していないのだ。
構造を重視するグールドにとって、通俗的な有名曲は、自己中心的なもったいぶりが発揮されている作品であるという。
「私のベートーヴェン演奏の多くは、批評家たちの集中砲火を誘いました。ロマンティックすぎると言うのです。それにアクセントの付け方が伝統をひどく逸脱していると……」
ピアノソナタ第8番 悲愴第1楽章
https://youtu.be/T5lpGLrz4l0?si=AWAJpsO7ciEFbuyM
第2楽章
https://youtu.be/aBLcIhg7pcg?si=Ob9PbBIVgnXAF6zE
ベートーヴェン チェロソナタ第3番第1楽章
https://youtu.be/oytEdeD_riU?si=jOaNDaHwXuMsmIMb
グールドが左手で指揮のような身振りをしながらとても楽しそうに演奏しているのに対して、レナード・ローズが姿勢を崩さず(ニコリともせずに)淡々とチェロを弾いている。 しかし、ふたりの息はぴったりで、ベートーヴェンの音楽の愉しさとユーモアが伝わってくるようだ。
グールドの持っている(少し伝わりにくい)ユーモア精神はベートーヴェンにも通じるものがあるかも知れません。
https://maru33340.exblog.jp/32330012/
レナード・ローズ(Leonard Rose, 1918年7月27日-1984年11月16日)は、アメリカ合衆国のチェロ奏者。
現存しているクレモナの楽器の中で最も高いものの一つとされている、1662年製のアマティのチェロを使用していた。
ベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番
グレン・グールド カラヤン&ベルリン・フィル(1957年5月)
https://youtu.be/l7c4BUYrEQI?si=PSaHS9qM5NwaYspr
グールドは『ゴルトベルグ変奏曲』をリリースした翌年。
カラヤンはベルリン・フィル音楽監督に就任して2年足らず。
ライナーノーツによるとお互い尊敬の念で結ばれていたようなことが書いてある。
グールドはピアノを弾きながら左手で指揮の真似をするのが癖だったという。
そのせいで、バーンスタインとのコンチェルト録音で喧嘩して破談になったとか。
カラヤンは目を閉じて指揮していたので気にならなかった?
ベートーヴェンの恋
音楽史上、最も偉大な作曲家の一人、ベートーヴェン。
バッハは神へその才能を捧げ、モーツァルトはパトロンに捧げたが、ベートーヴェンは人生を捧げたといわれている。
あらゆる権力を嫌い自由に生きる芸術家であり、おしゃれには無頓着。頑固者で、潔癖症、尊大な性格であったといわれているが、なぜか多彩な女性関係が。
鋭い目力と類まれなる才能で数々の女性を虜にしていった?
また、難聴という問題を抱えていた天才を、女性たちは母性的なまなざしで見ていた?
女性は、少々無骨でも才気溢れる自由な芸術家に惹かれる……?
ベートーヴェンは恋多き男だった。しかも、かなり年下のピアノの教え子だったことがほとんどだった。
たとえば自分が40歳のときに17歳の教え子に恋をする。そして、たとえ失恋し玉砕しても「はい、次!」というタイプの人だったらしく、文献を見るとやたら女性の名前が多い。
しかも、全員が全員年の離れた美しい女性。
ベートーヴェンの肖像画や作風からすると、「常に恋をしていた」とはいい難い印象。でも、彼の身近な友人によると、
「彼の人生において、恋人がいなかった時期がなく、たいがい高貴な身分の女性に熱をあげていた」
というくらいに情熱的に恋をしていた男性だった。
《エリーゼのために~テレーゼ》
ピアノ曲で最も有名な曲のひとつ。ベートーヴェンと懇意にしていた医者のヨハン・マルファッティにはテレーゼという美しい姪がおり、ベートーヴェンはそのテレーゼとすぐに恋に落ちた。
しかし、身分が違うテレーゼとは結婚をすることは勿論、オープンな恋仲になることも許されることはなかった。
この曲は、前半明るく楽しい雰囲気で始まり、途中から物悲しくも激しい曲調に変化していく。
これは、テレーゼとの関係を表現しているとも言われている。
「エリーゼ」になったのは、ベートーヴェンの字が悪筆なため、秘書が読み間違えてしまったから。
エリーゼのために ランラン
https://youtu.be/s71I_EWJk7I?si=FPv86snpTjON2SIK
《ピアノソナタ第14番「月光」~ジュリエッタ》
1801年に作曲されたピアノソナタ第14番「月光」は、ベートーヴェンの恋愛遍歴でも有名な曲。
当時、ベートーヴェンがピアノを教えていた伯爵令嬢のジュリエッタ・グイチャルディに捧げるために作曲したものの、失恋してしまったというエピソードが伝えられている。
「月光」の題名は、ロマン派の詩人ルートヴィヒ・レルシュタープによって後に付けられたもので、ベートーヴェンは「幻想曲風ソナタ」として発表している。
ピアノソナタ第14番「月光」 グレン・グールド
https://youtu.be/HoP4lK1drrA?si=dbRz6RJcj08MFarH
ベートーヴェンが亡くなった直後、部屋の整理をしていた友人たちは意外な物を発見した。秘密の引出に、彼が書いた恋文が、2枚の女性の細密画と共に秘蔵されていた。
文中で「わが不滅の恋人よ」と呼びかけられている相手は、名前が明らかにされていない。さらに日付はあるが年が書かれていないなど、様々な謎に包まれている。
7月6日、朝
私の天使、私のすべて、私自身よ。今日はほんの一筆だけ、しかも鉛筆で(あなたの鉛筆で)……
私たちの愛は、犠牲によってしか、すべてを求めないことでしか、成り立たないのでしょうか。あなたが完全に私のものでなく、私が完全にあなたのものでないことを、あなたは変えられるのですか……
ああ神よ、美しい自然を眺め、あなたの気持ちをしずめてください、どうしようもないことはともかくとして……
愛とは、すべてを当然のこととして要求するものです。だから、私にはあなたが、あなたには私がそうなるのです。でもあなたは、私が私のためとあなたのために生きなければならないことを、とかくお忘れです。もし私たちが完全に結ばれていれば、あなたも私もこうした苦しみをそれほど感じなくてすんだでしょう。
7月6日、月曜日、夕方
あなたは、ひどく苦しんでおられる、最愛の人よ……ああ、私がいるところにはあなたもいっしょにいる、私は自分とあなたとに話しています。いっしょに暮らすことができたら、どんな生活!
そう!
あなたなしには……
あなたがどんなに私を愛していようと……
でも私はそれ以上にあなたを愛している……私からけっして逃げないで……
おやすみ……私も湯治客らしく寝に行かねばなりません……
ああ神よ……こんなにも近く!
こんなにも遠い!
私たちの愛こそは、天の殿堂そのものではないだろうか、そしてまた、天の砦のように堅固ではないだろうか。
7月7日、
おはよう……
ベッドの中からすでにあなたへの思いがつのる、わが不滅の恋人よ、運命が私たちの願いをかなえてくれるのを待ちながら、心は喜びにみたされたり、また悲しみに沈んだりしています……
完全にあなたといっしょか、あるいはまったくそうでないか、いずれかでしか私は生きられない……
他の女性が私の心を占めることなどけっしてありません。けっしてけっして……
おお神よ、これほど愛しているのに、なぜ離れていなければならないのでしょう……
いっしょに暮らすという私たちの目的は、私たちの現状をよく考えることによってしかとげられないのです……
心をしずめてください……愛してほしい……今日も昨日も……
どんなにあなたへの憧れに涙したことか、あなたを、あなたを、私のいのち、私のすべて……
お元気で、おお、私を愛し続けてください。
あなたの恋人の忠実な心を、けっして誤解しないで。
L.
永遠にあなたの
永遠に私の
永遠に私たちの
https://blog.goo.ne.jp/pianist-gensegawa/e/b97c8986e181b52314e8a8873bd3d39f
《ピアノソナタ第30番ホ長調作品109/ピアノソナタ第31番変イ長調作品110/ピアノソナタ第32番ハ短調作品111~アントニア》
ベートーヴェンの死後発見された”不滅の恋人“にあてた恋文。
最も有力な説はアントニア・ブレンターノという子持ちの既婚女性に宛てた手紙だったのではないかというもの。
アントニアに出会う前は、ベッティーナという若く美しい女性と恋仲だったが、ベッティーナのお兄さん夫妻をベートーヴェンに紹介したところ、このお兄さんの奥さんであるアントニアに惹かれはじめたといわれている。
アントニアと夫の夫婦関係は冷め切っていたという……
ベートーヴェンが作曲した後期のピアノソナタの傑作は、“ブレンターノという主題の下においても良いだろう”と評されるほど、その時のベートーヴェンの内面告白の色が強い作品だといわれている。
https://www.mdf-ks.com/etsafemmes/
ピアノソナタ第30番ホ長調作品109 グレン・グールド
https://youtu.be/tuNkBd_LL1s?si=z_0s5ZvtaNjbiMK8
ピアノソナタ第31番変イ長調作品110 グレン・グールド
https://youtu.be/hX6uE1LF1fc?si=Bhmf3jhW7qE-_Z5L
ピアノソナタ第32番ハ短調作品111 グレン・グールド
https://youtu.be/wivePK4jzOQ?si=OMuBIqeFfcKTouCT
《交響曲第8番へ長調~ヨゼフィーネ》
不滅の恋人には、他に候補としてヨゼフィーネという女性もいて、この女性との間にベートーヴェンの隠し子説もある……
ベートーベンはピアノの名手であり、デビュー前の若き頃貴族の家にピアノ家庭教師としての仕事もした。
ヨゼフィーネは生徒のひとり。
ふたりは両想いになったが、経済的な理由からヨゼフィーネが結婚したのはヨーゼフ・ダイム伯爵だった。
この結婚はうまくいかず離婚となり、ヨゼフィーネは息子の家庭教師として雇ったクリストフ・フォン・シュタッケルベルク男爵と再婚した。
しかし、この夫も事業に失敗し失踪、再び家族と暮らすことはなかった。
ベートーベンはヨゼフィーネがに亡くなる前まで送金を続けていたという。
https://classic.magazine7.net/beethoven-loveletter/
交響曲第8番へ長調 アンドレス・オロスコ=エストラーダ指揮 hr交響楽団
https://youtu.be/V6set4KUs4w?si=IxePRtMR-JA05MAT
実は、このヨゼフィーネとアントニアは同時期に身ごもっており、どちらもベートヴェンが父親かもしれない!?
という噂もあったとかなかったとか。
アントニアにしてもヨゼフィーネにしても、若く美しい女性に恋をしていた頃のベートーヴェンは、彼には珍しく明るくて楽しげな交響曲第8番へ長調を生み出した。
これも恋のなせる業なのか?
「不滅の恋人への手紙」が書かれた時期は、手紙の内容からの推測で1812年と結論づけられている。
1812年というと、交響曲第7番、第8番が作曲された年。
書いた場所はチェコの温泉場テプリッツで間違いないといわれている。
テプリッツに到着する3日前ベートーベンはチェコのプラハで”不滅の恋人”とデートしている。
その後それぞれ別の場所に移動したが、ベートーベンは思いが盛り上がりすぎて情熱的なラブレターを書きつけた……
べートーベーン42歳。相手は?
ベートーヴェンの“不滅の恋人”は永遠にその真実が秘められたまま、未だにさまざまな研究も行われている。
アントニア・ブレンターノとの恋の後は、彼女の甥を養子にしてその子を溺愛したという。
そんな晩年に出来たのが第九!
不機嫌な理由