あれやこれや141〜150
141 ⚪︎⚪︎屋の奥さん
14年勤めていたブティックが倒産した。途中会社名が変わっている。その頃は給料遅配が続いていた。
その後、株式会社から有限会社のグループ会社に。当時の部長たちが社長になり、しばらくは予算を達成した。
私が入った時、ワゴンのセーターは4900円だった。店頭のサービス品のコートが1万円。
棚には7万円のカシミアのセーターがあった。さすがに定価では売れなかったが、半額になると買う人がいた。半額にしても14000円の利益。
予算達成していた頃はかなりの利益があったのだろう。ご褒美の旅行が毎年あった。店長とスタッフひとりに。
北海道、韓国。京都等々。
私がお供したのは春の京都だった。一生分の桜を見た。夜桜も。食事は和風の庭のある素晴らしい店だった。
スタッフ全員ご招待の食事会も。行ったことがない豪華なところだった。鎌倉のローストビーフ。別室を貸切で。給仕がワゴンで運び切り分けてくれる。ケーキも。六本木ヒルズの上階のレストラン……2度と行けまい。
それが、毎月予算が達成できなくなってきた。客も歳をとる。年齢層が高かった。出かけるところもなくなれば服は必要ない。
宝石やバッグのイベントが次から次に。しかし客は皆、ひと通り持っているのだ。
土佐珊瑚の時は売れた。高価な珊瑚の数珠。置物。メーカーの女性の知識が豊富で○十万の数珠を娘にも、とか、初めての試みだったが売り上げが取れた。
そのあとはダメだった。景気の良い数人の客頼み。買っていただくために店長は食事に付き合い、カラオケに付き合い、デパートに付き合い、旅行に付き合った。
店長はストレスが溜まりスタッフに鬱憤を晴らした。ひとり辞めたが補充されなかった。終日スタッフがひとりで、という日も多くなった。レジが動かなければ自分で何か買う。しかし辞めるに辞められない状態。
そんな時に現れた救世主。今までで、1番のお客様が、⚪︎⚪︎屋の奥さんだった。
地元の⚪︎⚪︎屋。かつては商売敵などいなかったのだろう。噂では家の金庫が札束で閉まらないとか。
彼女が来ると店長は気を使う。スタッフも大変だ。コーヒーを淹れる。特別なカップでお出しする。なくなるまえに、もう1杯。
△△のパンが食べたいとか、アイスが食べたい、と言えば走って買いに行く。従業員の弁当を買いに行ったこともある。
肩をお揉みする。いいと言われるまで。手が痛くなる。
時々はお孫さんを連れてくる。スタッフは子守をする。手を繋ぎ、お菓子や絵本を買いにいく。
その間来店する、いちげんさんなどお構いなし。接客なんてしなくていい。
ひどい時は、ドアを閉めて貸し切り状態。
しかし、服など買っていただいても、たかが知れてる。
彼女に買わせるのは着物や宝石だ。
景気のいい時代はとうに終わった。もう、月の予算は達成できない。
店長は都心のホテルに着物を買わせに行く。客寄せに芸能人を呼ぶ。デヴィ夫人とお話ししてきたとか。
店でのイベントでは、社長は彼女のために高い酒を取り寄せ、宝石のメーカーの若い男は有名な菓子を買ってくる。
彼女には、特別なものを勧める。なんでも持っているから。デザインの凝ったものや、大きなダイヤ。
客は彼女ひとりでいい。
⚪︎⚪︎屋の奥さんは決める。店のひと月の予算分くらいの宝石。欲しいわけではない。どうでもいいのだろう。
お買い上げです。
はい、ありがとうございます。
もう、店を閉めて、スタッフも全員、寿司屋にお供、そのあとは彼女の好きなカラオケに。
翌日、彼女は現金を持ってくる。帯付きを三つ。私はすぐに銀行へ。
それでも、月月の売り上げが達成できなくなると、ますます店でのイベントが多くなった。
宝石、時計、バッグ、ウィッグ、メガネ……羽根布団もあった。
桁の違う数十万のメガネを誰が買いますか?
ひとつも売れないと、スタッフが順番に買うことに。
なんのために働いているのか?
そんな時にまた宝石のイベント。メーカーの人が来てセッティング……
もういやだ。売れなければスタッフの誰かが買わなければならない。もうスタッフは客だ。10万円以下なら買っても仕方ない……なんのために働いているのか?
翌日、黒のスーツを着ていった。宝石が映えるように黒を着るのだ。ところがメーカーの人が慌てて商品を片付け始めた。他のグループ会社の支払いが滞ったまま倒産。
驚いた。店長は聞いた。うちの社長はちゃんと払っているよね?
しかし、時間の問題だった。倒産のファックスが流れてきた時には喜んでしまった。皆同じだったのではないか?
翌日は商品の返品作業をした。合間に雇用保険のことを調べる。皆で貰える額を計算した。会社都合だからすぐ貰えるわ……
10年以上働いたから9か月分。歳だから延長も……
近くの写真屋に順番で証明写真を撮りに行った。片付いた店、空っぽになった写真を撮り社長に送信した。お疲れ様。
ああ、葬儀屋の奥さんはどうしているかしら? あれから葬儀屋は何社かできたようだし、今は家族葬が多いし。
142 癖にも慣れたけど
見栄っ張り。出したがり。
結婚前、うちに来るときは手ぶらで来たことはなかった。父に酒、タバコ、海苔 (?)。
若いのに気が利くと思っていた。
どこかの家に行くときは、どこまでも買いに行く。
友人や親兄妹には、いいところを見せたがる。
義妹が小遣いを受け取らないと、
「金余ってるんだ。ベランダからばら撒いてやろうと思ってた……」
うちはいつでも火の車。
おかずがたくさんないと不機嫌。たくさんあったらワンパターンだと文句を言う。
ブイヤベースはサフランも買って、3度使ったけど、まずいと言われた。はっきり言われた。金輪際作るものか。
テレビつけっぱなし。1日中ついている。夜中も、いびきが聞こえてるのに。消せばまたすぐつける。そしていびき。
フライパンで殴りたくなる。
私が出す音にはご不満。
焼きたてパンを食べたくて買ったパン焼き器。明け方ガタガタうるさいから無理。
まあ、そうなんだけどね。
ピアノは消音でヘッドホンしてても、叩く音がうるさい、と。
まあ、そうなんだけどね。
いなくなってよ。
出かければすぐに帰りたがる。道路が混むからと。出かけるのはビールをおいしく飲むため。
引き算ができない。給料持ってくれば、いつまでもあると思っている。
通販や広告ですぐに買う。習字の通信教育。1度も添削出さずに終わり。
真向法とかいう、体を柔らかくする体操。金だけ払って終わり。体はガチガチ。
腹筋系が2台。私がかなり使ったけど、すでにない。金魚運動とかいうわけわからないもの。レッグマジックという痩せる器具。
買うだけで満足らしい。
最近は家にいるので、料理もするようになった。電子レンジで焦げ目がつくという鍋みたいなもの。
便利かも……でも、魚はグリルでしっかり焼きたいから、結局は温めるときしか使わない。
包丁。これはよかった。こんなに切れるのね。さわっただけで、ふたり血だらけ。
掃除してないと怒る。
妊娠中に膀胱炎になった。
辛いんです。辛いけど漢方薬しか出してくれなくて、効かなかった。
辛いんです。3日たっても辛かった。辛くてゴロゴロしてたら、掃除しろと怒られた。
泣き泣き掃除した。この恨み、死ぬまで忘れない。
長女の私立高校入試の前日に、義妹家族が我が家に泊まりに来たいと言う。高校入試の前日。
姪がマーチングバンドの全国大会に出場するので見に来る。泊まるのは義妹夫婦ともうひとりの姪の3人。泊まるのは狭いマンション。
普通、娘の高校入試前日に泊まらせるか? 客間がある家ではない。
夫が電話を切ったあと、呆れた。怒れば喧嘩になるから怒りはしない。来れば、もてなしはするけど顔には出るだろう。来た方も恐縮するだろう。そこらへんが夫にはわからないらしい。
結局夫は明け方パーキングまで迎えに行き、私と娘は時間差で顔を合わせることなく家を出た。
癖も慣れたから、波風立てずに穏やかに。
ああ、こんなこともあった。
従兄妹の三兄妹は夫と違い出来が良かったそうだ。市内に大きな家があった。結婚前に紹介された叔母は口うるさい方で怖いくらいだった。結婚式に招待したときに用意した、ホテルの朝食がパンだったので文句を言い、義妹がおにぎりを買いに行ったとか……
義母が病気で亡くなったのは結婚した翌々年だった。私たちはまだ20代後半だった。田舎の実家に親戚が集まっていたら連絡が。
叔母の長男が自殺した。
義母の死を知っての行動か? 大勢の親戚はふたつの葬式に分かれた。
叔母の次男に会ったのは義父の葬式の時だった。まだ30代前半だった。
次男は東京で働いていた。夫とは歳が近いので子供の頃はよく遊んだらしい。年賀状のやりとりだけはずっとしていた。
下の妹 (従妹)はその後、若くして癌で亡くなった。かわいそうな叔母さん。それでも次男は田舎に戻らず結婚もせず働いていた。やがて叔父は認知症になり施設へ。叔母も弱ったがひとり暮らしを続けていた。
夫も従兄も、もう50代だった。夫の携帯に病院から電話が来た。従兄が横浜の病院に入院して危篤状態。
「延命治療どうしますか?」
なんの冗談?
20年も会っていない従兄? 田舎の叔母ではもう、埒が明かなかったのだろう。
夫は会社を早退してきた。ふたりでわけもわからず病院へ行った。辿り着いた病院の先生と夫は話した。従兄は白血病だった。
このまま亡くなられたらどうなるの?
私たちがどうにかしなけりゃならないの?
夫はその頃仕事が忙しかった。しかし、できるだけのことをした。娘が心臓手術の時でさえ、最低限しか休まなかった。カテーテル検査にも、来なけりゃダメですか? と先生に聞いていた。
それが、20年ぶりに会った従兄の窮地のために仕事を休み何度も見舞った。従兄は幸いにも意識を取り戻し退院した。
住まいを引き払い田舎に戻る。
どうか、生きて戻れますように。どうぞ、こっちで亡くならないでください……
本気で思った。最悪を想像した。ご遺体を運ぶのか、こちらで焼くのか? もう、頼れる身内はいなかった。
幸いにも従兄はひとりで帰郷した。お礼に稲庭うどんと菓子が送られてきた。安堵した。
しかし数ヶ月後に亡くなった。夫は葬儀に出た。叔母は弱り、その後の後始末は遠い親戚がしたらしい。
143 鍛える
年の初めに目標を決める。
毎年の目標は痩せること。
それほど太っているわけではない。Lサイズだが。
ブティック時代のパンツが何本もある。今では入らなくなったが、きれいなまま取ってある。
今買っているファストファッションのものとは桁が違う値段だった。売上のために協力していた。
それが入るように痩せようと思うのだが、今年は5月からジムに通い頑張っているのだが、ウォーキングもずっと続けているのだが……
痩せない。体重はともかく、体脂肪も変わらない。
ぜんぜん効果がないということか?
でも…‥腕と足に筋が……
では、これからぐんぐん効果が現れるのか?
先日Yahooニュースで読んだ。週に2、3度ジムに通い、毎日8000歩歩けば病気や認知症になるリスクが減る、と。
そんなこと、できるか? 時間はたっぱりあるけど。
もう少しなのだ。きっと。
ゴルフもようやくドライバーが100ヤード飛ぶようになった。
(3年続けているのに100飛ばないなんて、コーチに悪くて…‥なんて考えてしまうお人好し)
きっと、もう少しのところまで来ているのだ。
でも、頑張りたいが、体にガタがきている。
日々、歳との戦いだ。
調子の良い日なんて年に数日しかない。
冬は特に……
寒くなるとぎっくり腰が増えるという。私も先日から違和感が。去年の今頃は腰痛で歩くのも辛かった。あの痛みはもう2度とご勘弁。
プールで頑張っている姉も、ばね指で包丁も持てなくて医者通い。
夫は痩せたと喜んでいたら、健康診断で、身長が3センチも縮んでいた。歳をとると縮むらしい。
私は身長は……よかった。まだ大丈夫だ。
しかし、歳をとっても体力があると大変なことも。
隣の旦那様が認知症でデイ・ケアに通うようになった。50歳くらいの娘さんとふたり暮らし。
旦那さんは認知症になるまで空き缶拾いをしていた。自転車で何度も引換所まで往復していた。暑い日も寒い日も。
今でも行きたくてしょうがない。夜でも出ていってしまう。娘の大声が聞こえる。
「もう、夜なんだよ」
そのうち、
「待ってよ。私も行くから」
娘さんは働いている。父親はもはや、朝も夜も夜中も明け方もわからないようだ。
先日も私が眠りについた頃に大声が。
「あんた、死ぬとこだったんだよ」
応答はない。
「私が迎えにいったの」
おそらく、自転車でどこまでも行ってしまい、保護されたのだろう。以前にもあったようだ。
娘には仕事があるのに、たまったものではないだろう。どんどん大声になる。逆効果なのに。
未来が怖い。認知症のお年寄りであふれる町。高齢化したマンションの廊下やエントランスには排泄物が! という記事もあった。
頭も鍛えておかなくては。
ピアノも、聴くだけにしようと諦めていた練習を再開した。
ギターは歯が立たないが。
ひとつだけ、自慢が。
友人にシフォンケーキを焼いてあげた。おととし教えてあげたのにうまくできないと。
あたりまえ。
褒められるまで何度焼いたことか。
今思うと、同じように泡立て同じようにしていたつもり。
今年はケーキが高騰しているから、デコレーションは自分でやるから、と。
うまくできたかしら?
私はセンスがないので、飾りつけは孫たちにやらせる。アラザン (銀の砂糖粒)やチョコスプレー、イチゴにキノコの山……
孫たちは大喜び。
私が施設に入ったら、面会に来てくれるかしら?
だめだ。入る金がない。
以前にも書いたが、前頭葉機能の老化予防の方法はアウトプット、なのだ。
本の内容を、インプットして知識を高めようという際には、側頭葉を使うと考えられている。
ところが、その内容を人に話すなり、ブログに書くなりして、アウトプットする時には前頭葉を使うそうだ。
だから……前頭葉はたくさん使っているはず。認知症にはならないはず。
144 しみったれクリスマス
クリスマスは毎年女だけでやっていた。私と姉と娘ふたりと女の孫ふたり。次女が男の子を産んでからはその子も加わったが。
去年は女の孫ふたり (7歳と5歳)がイブに新体操の発表会があるので、絶対体調壊したくないから、とその後に。ところが姉が忙しくて中止。
どうせ、正月には集まるし。
老夫婦にクリスマスは関係ない。ケーキもなし。友人には得意のシフォンケーキを焼いてあげたが。
その友人には、以前うちで教えてあげたが、ひとりだとうまく膨らまないのだそう。
あたりまえ。そんなに簡単にできるはずがない。何十個失敗したものを食べたことか。
デコレーションは自分でした、と写真が送られてきた。絞り出しはぐちゃぐちゃだけど苺がたっぷり。絶対おいしいはず。
地元の公園のイルミネーションが、なんとNHKで中継していた。昼間はよく通るが、イルミネーションなんて、ココ何年も、十年以上行ってない。
夫に話したが気乗りしない様子。夕方から酒を飲んで、寝るのが早い。早朝バイトは休みだけど、寒い中歩いて行くわけがない。ひとりで行こうと思っていたら、いきなり行くぞ、と言い出した。
夜出かけるなんて久々のこと。それほど寒くない。放送のせいか、公園はすごい人だ。木の根っこにつまづまきそう。
夫は趣味で始めた買ったばかりのカメラで、何枚も撮っていた。私は撮られたくないのに。でも、上手になったら、遺影を撮ってもらおう。
その日は新体操の発表会を見てきた。うちのチビたちはかわいいけど、小学生高学年や中学生になると、すごい。
皆、スタイルがいい。姿勢が違う。オーラがすごい。
人間て、姿勢でぜんぜん違うんだ! 足も長いけど。
きっと食事制限もするんだろうな。太った子は皆無。
区の主催する連盟の教室だから、月謝は安い。姉妹の2人目は半分になる。でも、衣装代はかかる。2着ずつ。本格的に髪をアップし固めて、メイクもする。
だから、皆同じに見える。探すのが大変。フープの色やリボンの色で見当をつけるけど、違う子を見ていたりして。
5歳の子のリボンの演技が様になっていた。練習も厳しかったらしい。
「○○ちゃん、聞いてる? お耳あるの?」
と怒られていたとか。
家でも動画を見て、娘が熱心に教えていた。会場の親たちも協力的。手拍子がすごい。
発達障害グレーゾーンと言われた小学校1年の孫も頑張っていた。負けず嫌いだから上手だ。 (祖母バカ)
しかし、努力する長女より、幼い次女のほうが体が柔らかいので、できてしまうのだとか。
喧嘩っ早い長女のことで散々悩んでいた娘は、次女の幼稚園の面談では褒められた。しっかりしていて他の子の面倒もみてあげるらしい。来年のお遊戯会の始めの言葉を言うそうだ。
うちの子ども達は皆引っ込み思案だったのに。
長女も落ち着いたようだ。
まだ死ねって言われるけどね。言い返さないんだ……
イブの我が家のクリスマスメニューはビーフシチュー。
前日夫がステーキ肉と間違えてスネ肉を買ってきた。国産のを少し。
だから肉を買い足して、豪華なビーフシチューを。ところが、しみったれの私が散々迷って買ったのは輸入牛肉。和洋混ざり合った牛肉のシチュー。時間をかけて煮込んだから、市販ルーだけどおいしいけどね。まあ、肉の当たり外れはあるけど。
夫からのサプライズは期待していなかったプレゼント。
ゴルフの時にしか使わないベルト。いつも夫のを借りていた。腹周りがいつのまにか、同じくらいになっていた。
145 時には母のない子なように
今までで一番泣いたのは、韓国ドラマ『秋の童話』
生まれて取り替えられた娘2人の物語。目が腫れるくらい泣いた。
ーー泣いたけど、感動なし。なんてコメントが……
最近は泣かなくなった。心が冷めている。
今年涙は流さないけど、心で泣いたのは、拙作
『ウサギで思い出したこと』
安全性のために動物実験されるウサギたち。
『泣き続ける』
食べられるために、殺されるために生まれてくる豚の話。
調べてショックを受けたけど、すぐに忘れてしまう愚かな私。
✳︎
音楽のエッセイで、いろいろ調べていると、戦争、紛争の歌が多い。
『死んだ男の残したものは』は、谷川俊太郎の作詞、武満徹の作曲による歌。
ベトナム戦争のさなかの1965年、「ベトナムの平和を願う市民の集会」のためにつくられ、友竹正則によって披露された日本の反戦歌の1つである。
谷川に作曲を依頼された武満は1日で曲を完成させた。
死んだ男の残したものは
ひとりの妻とひとりの子ども
他には何も残さなかった
墓石ひとつ残さなかった
死んだ女の残したものは
しおれた花とひとりの子ども
他には何も残さなかった
着物一枚残さなかった
死んだ子どもの残したものは
ねじれた足と乾いた涙
他には何も残さなかった
思い出ひとつ残さなかった
死んだ兵士の残したものは
こわれた銃とゆがんだ地球
他には何も残せなかった
平和ひとつ残せなかった
死んだ彼らの残したものは
生きてる私 生きてるあなた
他には誰も残っていない
他には誰も残っていない
死んだ歴史の残したものは
輝く今日と また来る明日
他には何も残っていない
他には何も残っていない
(著作権無視。あとで削除します)
この歌は武満徹と石川セリを調べていた時に知った。たくさんの人がカバーしている。
高石 友也は、日本のフォークシンガー。代表作は「受験生ブルース」
✳︎
こちらは、親元から引き離されて、アフリカからアメリカへ連れて来られた黒人労働者たち。
もう二度と生きて母親には会えないという過酷な運命を顧みながら、その境遇が時々「母のない子のように」感じられると嘆き悲しむ。
歌詞には「A long ways from home」、すなわち「故郷アフリカから遠く離れて」とあるが、この「home」が意味する所は、決して現実世界の生まれ故郷の意味だけではなく、彼らにとって唯一の心の支えでもある主イエスの御許、人間界での苦役を終えて、魂が帰る安息の地を意味しているようにも思われる。
過酷な労働と劣悪な生活環境に晒され、黒人労働者たちは幾度も生死の境をさまよいながら、栄養状態も悪く痩せこけた体に鞭打ってひたすら労働を続ける。
ついに「くたばる直前 (I feel like I'm almos' gone)」までに至れば、死ぬほど苦しんだ過酷な運命も
「もうすぐ終わりだ Soon-Ah Will Be Done」
となるのだろうか。
【お題】 今年一番泣いた物語はこれ
146 それでも言うのね
結婚して最初の正月。妊娠してつわりがあったので買い物はほとんど夫に任せた。買い方は豪快だ。ふたりなのに大量買い。正月明けには大量に捨てることに。
それは……最近まで続いた。
屠蘇器と重箱のセット。40年前、夫は4段の立派なものを買ってきた。中身を埋めるのは大変だ。そして埋めたものは残る。残りは廃棄される。
いつのまにか立派な重箱セットは正月のインテリアに。
1度やってみたい。何も作らない、何も買わない。夫の大好きなカップラーメンで過ごす正月……私はパンと紅茶だけで……浮いたお金は山分けに。
慌ただしいが、年末が来ないと換気扇は掃除しない。数年前キッチンをリフォームした。換気扇は奮発し掃除の楽なものにした。簡単に外せる小さなファン。
揚げ物などほとんどしない老夫婦だ。汚れはひどくはない。それを時々食洗機に入れればいいものを。なぜ1年間やらないのだ? 掃除した時はきれいを保とうとは思うのだが。
乾物類が廃棄される。使わない香辛料。何年前からあるだろうか? 思い切って捨てよう。オレガノ、オールスパイス、シナモンも滅多に使わなくなった。
作るものは、栗きんとん。暮れになると冷凍の裏漉ししたさつまいもが出回るので買っておく。作り方は袋の裏側に印刷してある。簡単だ。水飴は省略するがおいしくできる。
煮なますは鈴木登紀子さんのレシピ。20年も前に作ったら、初詣に行っている間に、娘が友人と鍋半分平らげていた。たいそうおいしかったらしい。
材料はヘルシーだ。切り干し大根、しいたけ、にんじん、蓮根、しらたき、牛蒡、油揚げ、すべて千切りにして炒め調味し、最後に酢を入れる。翌年から材料を倍にしたら味がボケた。最初の感激したおいしさにはできない。それでもこれは女には人気がある。年始早々のダイエット料理。
煮物はいっとき、分けて煮ていた。濃い味のものと薄味のもの。ある年に、焼き豆腐とがんもどきをレシピを見て煮てみた。絶対食べ残されると思ったら……夫がうまいうまいと食べた。何がヒットするかはわからない。
最近の煮物は鶏肉を入れひとつの鍋で。このときだけは奮発して、どんこ (干し椎茸)を使う。それに太く切ったきんぴらごぽう。子どもの頃、母はそれをタラコで和えていた。父がどこかの家でご馳走になり気に入った。よその家の味を私も姉も引き継いだ。薄味のきんぴらをタラコで和える。
あとは作っても誰にも食べてもらえない、やつがしらの煮物。食べるのは私だけ。これも母は甘く煮ていた。白く丁寧に煮る。正月から私はひとりで朝晩芋を食べる。
年末慌ただしくお節料理を作るのは、正月に主婦が休むためではないのか? お節があっても夫は言う。
「何かおいしいものないの?」
毎年言う。
「たまには、おいしいものを食べたい……」
147 第九の前に
ブティックで働いていた頃は、家に帰るのは夜8時前。トイレも我慢し夕飯の支度。(朝作って温めるだけにしておく)
年末は慌ただしく、掃除に料理に大忙し。
慌ただしいのが嫌で、週や月単位で小掃除をしようと決めた。毎年のノートに掃除の欄も作り細かく記録。 (手書きです)
換気扇も月に1度はやっているはず……空白だ。
月に1度、ダスキン交換の日に家中を掃除する。タンスや冷蔵庫の上、窓、アルミサッシ、カーテンレール、エアコンの上、玄関ドア等真っ黒になるまで。
だから、どこもそんなには汚れていないはず……楽なはず。
そして、思う。なにも寒い時にやらなくたって。キッチンは、これからたくさん料理するので正月が終わってからにしよう。
今は老夫婦のふたり暮らし。物は減らした。押入れ、物入れ、開ければ一目瞭然、のはず。
掃除のときは音楽をかける。
ずいぶん前、知り合いがアマチュアオーケストラで演奏した第九のテープをくれた。
第九の前に曲名の知らないのがあり、お気に入りだった。テンポが良くて掃除がはかどる。その知り合いとは疎遠になり、曲名を確かめることはできなくなっていた。
作曲者はたしか芥川なんとか……
この曲、ずっと探していた。
いつしかカセットデッキはなくなり、聴かなくなっていたが……思い出して調べたらわかった。ほんと、YouTubeは便利。
交響管弦楽のための音楽は、芥川也寸志が1950年に作曲した管弦楽曲。演奏時間は約9分。
NHK放送25周年記念事業の懸賞募集管弦楽曲応募作として作曲、1950年2月20日に完成された。審査の結果、團伊玖磨の交響曲第1番とともに特賞入賞し、作曲者の出世作となった。
芥川 也寸志 (あくたがわ やすし、1925年7月12日 - 1989年1月31日)は、日本の作曲家、指揮者。
小説家・芥川龍之介の三男として東京市田端に生まれる。長兄は俳優・芥川比呂志。
父は1927年に自殺したが、也寸志は父の遺品であるSPレコードを愛聴し、とりわけストラヴィンスキーに傾倒した。
父・龍之介に対しては尊敬の念を抱いていたが、同時に
「学校を卒業して社会に出た時には、ことある毎に〈文豪の三男〉などと紹介され、いい年をして、親父に手を引っぱられて歩いているような気恥ずかしさに、やり切れなかった」
「父が死んだ年齢である三十六歳を越えていく時は、もっとやり切れなかった。毎日のように、畜生! 畜生! と心の中で叫んでいた。無論、自分が確立されていないおのれ自身への怒りであった」
芥川也寸志は結婚を3度している。
1948年2月、東京音楽学校で知り合った山田紗織と結婚する。このとき芥川は紗織に対して
「作曲家と声楽家は同じ家に住めない」と主張し、音楽活動を禁じている。これはマーラーが妻・アルマに取った行動と酷似しているが、芥川の場合は、彼女の歌が「作曲の邪魔になる」というもっと即物的な理由であった。
歌を禁じられた紗織は「音のない」美術に転向、程なく画家として認められる。しかし、二女をもうけた後、1957年に離婚した。
2度目の妻は女優の草笛光子である (1960年に結婚、1962年に離婚)。離婚の原因は、草笛が芥川の連れ子と不仲だったこととされる。
3度目の妻は東京芸術大学作曲科出身で石桁真礼生門下の作曲家・エレクトーン奏者の江川真澄 (1970年に結婚)
逝去の前日、容態急変を聞き付け病院に駆け付けた黛敏郎の手を握り、回らぬ舌で「あとをたのむ」と言ったというエピソードが、東京新聞に掲載された黛による追悼記事に残されている。
最後の言葉は
「ブラームスの1番を聴かせてくれないか……あの曲の最後の音はどうなったかなあ」
だった。
(Wikipediaを参考にしました)
148 ご老体
8年前、14年勤めていたブティックが倒産した。もう年齢も年齢だし、働く気はなかったが就職活動をしなければ失業手当はいただけない。
毎月ハローワークに行き、パソコンで求人を探した。しかし、働いたとしてもすぐに定年。係の人も、「ないですよねー」と簡単だった。
就活の記録を書く。募集広告を見て一応電話する。年齢を言うと断られる。
新聞に入ってきた募集のチラシ。すぐ近くに建てている介護施設。開設までに半年あった。週3日、朝7時から10時までの3時間。資格なしでも、配膳等の手伝い……洗濯、掃除。
家から近いのが魅力だった。時間が短いのも。夫が出勤後に出ればいい。小遣い稼ぎにでもなれば。軽い気持ちで面接に行った。
受かった。半年後のことだから……いやならすぐにやめればいい、と安易に考えていた。続くとは思わなかった。
ハローワークの方も喜んでくれた。歳だから、2か月延長分の手当もいただいた。支払われなかった給与の保証も、ずっと遅れたがいただいた。
やがて介護施設がオープンした。
オープンしたての頃は入居者よりもスタッフの方が多かった。配膳もシーツ交換も3、4人で。しかし、どんどん入居者が増えるとスタッフは分散された。その後はずっと人手不足だ。配膳はひとりで。隣のユニットにも手伝いに行かねばならない。
職員が排泄介助の間、私は見守り。当時はまだ元気な方がいた。廊下に出て行ってしまう。車椅子から立ち上がってしまう。ひとりで見守るのは大変だった。
介護現場は過酷だ。じきに私は勤務時間を増やした。施設では資格がなくても身体介護ができる。私は周辺業務から介護職になった。
当時私が排泄介助、入浴介助していたのは立位が取れる人たちだった。その方たちもやがて進行しリフト浴に。亡くなった方も少なくない。
8年が過ぎた。時給はほんの少しだが上がった。
14年勤めていたブティックは1度も昇給しなかった。賞与がほんの少し出たのは最初の夏だけだった。
今の仕事は、施設からユニフォームが貸与される。なにより服を買わなくてすむ。
去年腰痛で2ヶ月休んだ。もう、復帰は無理かな、と思ったが、周辺業務に戻り、たった2時間だが働いている。
働かせていただいている。まだ役に立っている。日頃愚痴ばかり言っているが、感謝せねば。
あと10年くらいは、今のまま仕事ができたなら。
もう、歳は取らない。決めた。あと10年は体力維持。脳年齢も投稿とナンプレとロジックで維持 (できるか?)
今年は区民プールも無料のパスポートを作ったし、がんばろう。
昔ならおばあさんだけど、まだまだ若い。
わが肉体に感謝。
149 添い遂げる
父は良き夫だった。よき父親だった。家族思いで働き者だった。夫婦で旅行もしていた。
母が50歳で亡くなったあとも、
「ひとりで大丈夫だ。心配するな……」
と言ったが。
私が嫁ぐとき、2度と家の敷居は跨ぐな、と冗談で言った。
昔は結婚したら、この家の敷居は跨ぐな、と言ったらしい。
どんなに夫、姑、小姑から酷い事をされても実家には帰ってくるな、と。
姑、小姑はいなかったが……
まだ若い頃、私が仕事の日、夫は先に帰っているときもあったが、今とは大違い。私はトイレも我慢し夕飯の支度。
「家のことがおろそかになるなら辞めちまえ!」
そんなことを言う亭主関白の旦那様たち。言われた義妹は辞めました。道楽で働いているとでも思っていたのか?
「だったらもっと稼いでこい!」
なんて女同士の愚痴。義妹はまたすぐに働いたけど。
娘が旦那の愚痴をこぼす。私には愚痴をこぼせる母親はいなかった。
「離婚したいと思わなかった?」
「思ったわよ。でも、2度と実家の敷居は跨ぐな、と言われたの。生活力はないし、子ども3人いたらしょうがない。早く死んでくれって思ったけどね」
「あはは」
酒好きの父はひとりになると飲み過ぎた。連れ合いに先に逝かれた寂しさで節制できなかった。朝まで飲んで仕事もなくした。そうなることは自分でも感じていただろうに。
若い時どんなに苦労しようが……子どもの頃は好きだったけど、終わりがひどすぎ……長すぎた。
自分は子どもたちに苦労はさせたくない。夫を看取ってから逝きたいが……
長寿が怖い。施設の100歳の女性が大腿骨を骨折し手術した。しかし、骨はもろくてつかないらしい。毎日面会に来ていた旦那様はコロナで会えないまま先に逝ってしまった。もはやそれさえわからない。
自分がそうなるとは思わなかっただろう。私もそうなるとは思ってはいないが……
夫とは、ここまできたら添い遂げるだろう。あと数年はゴルフや旅行を楽しんで。長患いせずに。先に逝って。
娘の旦那の両親は離婚している。父親は子ども4人いるのに帰って来なくなったそうだ。
その父親が心臓手術をした。万が一があるかもしれない。その前に会ったそうだが、おかあさんと妹は来なかった。
その父親が孫と遊んでいる写真を見せてもらった。嬉しそうだ。孫のために頑張ってほしい。しかしひとり暮らし。術後は大丈夫なのか?
義妹の亭主関白だった旦那様は脳梗塞を起こしたが、義妹のおかげで大事に至らずすんだ。感謝しているだろう。
150 凡人ですが
お化けになる日……
息子が小学校の時に入っていたサッカークラブで、コーチが話した。
まだ、低学年の男の子。蹴っても蹴ってもボールは飛ばない。それが、いつか飛ぶ時が来る。超える時が来る。
それを、お化けになる日、とコーチは話した。
息子はサッカーが好きだった。
夫の影響か?
夫は中学時代、県大会まで進んだことが自慢だ。同じ町に日本代表になったゴールキーパー、田口光久さんがいた。同じ学年で対戦したことがあるのが自慢だ。
亡くなったが、町の英雄だ。
しかし、子どもの頃は、畑にゴールを作って……しょっちゅう飛んでいた。特異に見えたらしい。
バカと天才は……
彼がゴールの前に立つと、入る気がしなかったという。
その彼のチームとの対戦。
勝てるわけがない……キーパーは光久だ。
が、勝っていた。試合終了5秒前、先生は大喜び。
そのまま、そのまま、劇的な勝利。
先生は皆にうどんをご馳走してくれた。
息子は日曜日は朝から練習があるから、前の日は好きなテレビも見ないで早く寝た。しかし、好きと上手は違う。あとから入った子に抜かれ、試合にも出られなかった。
中学でも続けたが、前後半続けて試合に出ることはなかった。最後の試合でも前半が終わると、先生に肩を叩かれ交代した。本人は満足していた。
今、小学生になった孫が夢中になっているという。
高校に入ると、息子は釣り同好会なるものに入り生涯の趣味を見つけた。やがてそれは仕事になった。
息子は毎日夜明け前に船に乗る。客に大物を釣らせるために。
釣り番組には何度か出た。タモを持つ手だけだが。
私はなにをやってもだめだった。姉は一緒に始めた水泳を続けている。もう、いくらでも泳げるという。大晦日には25メートルを108本。
私はようやく25メートルを泳げるようになった時に、いろいろあって辞めてしまった。続けていたら、泳げたのだろうか?
お嫁も、水泳はバタフライも得意らしい。息子に話していた。
「陸の上とは違うよ」
ゴルフは続けているが、まだ飛ばない。
豪快な美容師さんは、若い時、ソフトボールをやっていた。ゴルフは、打ちっぱなしに1度行っただけだが、当たれば飛んだそうだ。
私はキャッチボールも届かなかった。いつか飛ぶ日が来るのだろうか?
お化けになる日が?
ピアノも諦めた。10年やっても、20年やっても上達しない。
孫が習い始めた。先生のお宅のグランドピアノ……もう1度、先生について習ってみたいとは思うが。グランドピアノで弾いてみたいとは思うが……
いや、もううちのピアノ持っていって!
もう聴くだけでいい。
そんなことを話すと、豪快な美容師さんは、偉大なる凡人、と言う。
なにをやっても、平均点。
仕事も家事もスポーツも。
それはすごいことなのだと。ひとつのことを極めなくても、母は偉大なのだ。
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田口 光久 (たぐち みつひさ、1955年2月14日 - 2019年11月12日)は、秋田県出身。元サッカー日本代表。ポジションはGK。
田口は身長175cmであるが「ゴールキーパーは身長でなく、俊敏な身体動作、ディフェンダーとのコンビネーションなどの総合力が大事である」としており、ヴァイッド・ハリルホジッチ (元日本代表監督)が唱えた「ゴールキーパーは身長190cm以上でないと良い選手とはいえない」という主張に対して反論していた。
秋田商業高等学校卒業後の1973年に三菱重工サッカー部 (現:浦和レッドダイヤモンズ)に入部。同年には日本ユース代表としてAFCユース選手権準優勝に貢献、翌1974年にもユース代表に選出され、同大会に出場した。所属する三菱では、正ゴールキーパーに横山謙三がいたため出場機会に恵まれなかったが、3年目の1975年にポジションを奪取、翌1976年には日本代表に選出され、代表でも正ゴールキーパーの座を確保するようになり、国際Aマッチ59試合に出場。また、1982年から1984年まで主将を務め、低迷期の日本サッカーを支えた。
引退後は指導者の道へ進み、秋田経法大附属高校や青森山田高校のサッカー部監督としてユース年代の育成に努めた。
2019年11月12日午前3時2分、呼吸不全のため東京都内の病院で死去。64歳没。
【お題】 試合終了5秒前
あれやこれや141〜150