理系から文系へ、英語講師から数学講師へ(後編)

理系から文系へ、英語講師から数学講師へ(後編)


第六章、数学との闘い:一つの旅

 数学との闘いは、私が四日市高校の2年生だった1970年代に始まりました。男子の割合が大きいこの学校では、理系に進むのが一般的でした。私もその一人で、男子クラスに在籍していました。


 しかし、テストの度に数学の点数が壊滅的になるという現実に直面しました。全国の模試ではそこそこな成績を収めていましたが、四日市高校の男子クラスでは、どうしても周囲の子と点数を比較せざるを得ませんでした。平均点と比べると、私の点数は常に低かったのです。


 そして、数学の難しさは点数だけではありませんでした。三角関数、対数、微積分と進むにつれて、「もう私の頭には入りきれない」と感じるようになりました。物理で13点を取った時は、「こんなのありえない!」とショックを受け、試験用紙をクシャクシャにして捨ててしまいました。


 私は数学の公式を使う場合、「証明できないと、使う気になれない」というタイプでした。しかし、今思うと、それでは前に進めないのです。結局、自分が何をやっているのか分からなくなり、気持ちが混乱し始めました。


 このエッセイは、数学との闘いという一つの旅を描いています。数学が苦手だと感じた時、それはただの開始点に過ぎません。それは、自己理解と成長への道のりの始まりなのです。そして、その旅はまだ続いています。


第七章、数学との再会:教育者の旅

 1974年、大学受験が迫る5日前。私は二階の勉強部屋で数学に取り組んでいました。突然、手足が震え始め、椅子から落ちてしまいました。私は叫びました。「お父さん、ボク変だ」。父は駆け上がってきて、私を見て言いました。「お前、何をしてんだ」。その後、私は近くの総合病院に運ばれました。


 看護婦さんは私の手足を押さえつけながら、「アレ?高木くん、どうしたの?」と言いました。彼女は私の中学校の先輩でした。診断結果は神経衰弱、いわゆるノイローゼでした。私は頭がおかしくなることを心配しましたが、医者は言いました。「そういう人もいるが、身体に症状が出る人もいる」と。


 この経験を通じて、「自分は、どうも文系人間らしい」と覚悟しました。名古屋大学の教育学部で勉強しているとき、「自分は先生かなぁ」と思い始めました。卒業後は英語講師として働き始め、数学に触れることは私にとってタブーになりました。それから20年間、ひたすら英語を勉強し、数学は中学レベルだけを教えていました。民間では、英語講師だけでは仕事が得られませんでした。


 しかし、自分で塾を始めると、「明日は理科なのに、英語の授業ですか?」と生徒から文句が出始めました。それで、英語と数学に加えて、理科、社会、国語の指導も始めました。


 やがて優秀な生徒が来ると、高田、東海、灘、ラサールなどの難関高校の数学の過去問にも取り組むようになりました。そして、ある日気づきました。そういう優秀な生徒からは、「高校に入っても指導をお願いできませんか?」というリクエストが入り始めました。最初は英語だけの約束だったのに、中学生と同じように数学の質問も入り始めました。


 それで、私は考えました。「灘高の入試問題の数学が解ける私なら、高校数学も大丈夫かな?」「高校クラスも作りたいし、試してみる価値はあるかな」と。近所の本屋に行って高校数学の参考書・問題集の棚を見ました。懐かしい「オリジナル」が目に入りました。四日市高校の悪夢が蘇りました。しかし、それは新たな挑戦の始まりでした。数学との再会、そして教育者としての新たな旅が始まったのです。このエッセイは、その旅の一部を描いています。私の経験が、あなたの旅に何かのヒントを与えることができれば幸いです。



第八章、数学への道:トラウマからの解放と教育への情熱

 それは、恐怖と興奮が交錯する瞬間だった。手に取ったのは、25年以上前に封印した記憶の箱。その箱を開けること自体が、まだ存在するトラウマに直面することを意味していた。しかし、箱を開けた瞬間、驚くべきことに、25年前の記憶が鮮明に蘇り、私の心は解放された。


 中学の数学を徹底的に教え込む過程で、基礎が固まったのか、それとも中年になってからの精神的な鍛錬が功を奏したのか、その答えは未だに分からない。しかし、私は「オリジナル」を2周、「一対一」も2周、「チェック&リピート」も2周、「京大の数学」も2周と、自分自身を鍛え上げた。その上で、Z会の「京大即応」を8年間続け、自分の力を試すために「京大模試」を10回、「センター試験」を10回、「京大二次」を7回受けた。


 その結果、優秀な生徒の指導に必要な力を身につけることができた。成績開示の日、私の京大数学の正解率は7割だった。これにより、「暁6」の特待生や「国際科」の上位の生徒を指導することにも自信を持つことができた。


 しかし、この旅は単なる点数の問題ではなかった。私の内面には大きな変化が起きていた。数学アレルギーが全く消え、トラウマも消え去った。今では、「まぁ、たいていの問題は質問されても困らないだろう」とリラックスして授業に臨むことができる。私たちの塾は、大規模塾のように準備した授業を一方的に話すスタイルではなく、生徒の質問に答える形式なので、常に本番の状態だ。それが私たちの教育のスタイルであり、私の数学への道の結果なのだ。



第九章、数学への道:文系から理系への旅

 私が19歳の頃、人間が「文系」や「理系」に単純に分類されることに疑問を感じ始めました。その頃から、英語よりも数学の方がはるかに魅力的であると感じるようになりました。人間の分類はそんなに簡単なものではないという信念が、私の視点を変え、新たな道を切り開くきっかけとなりました。


 文系出身の私が今では、「この世の現象は数式で表現されない限り、理解したとは言えない」と信じています。これは、一見すると完全に理系の思考です。学校では習わなかった「数学3」も独学で学び、その過程で30年の歳月が流れました。まさに、「少年老い易く学成り難し」の言葉が頭をよぎります。


 しかし、その苦労が報われる瞬間もあります。私は自分が指導している理系の女子生徒のような才能は持っていませんが、人の何倍もの努力をして数学を学んだ結果、「生徒がどこでつまづくか」を理解することができるようになりました。これは、数学講師としては強力な武器となります。


 この旅路は決して平坦ではありませんでした。病院送りになったり、受験会場で不審者扱いを受けて入場を拒否されたり、みっともない経験もたくさんありました。しかし、それら全てが必要な経験であり、私を成長させてくれました。


 そして、最も大切なことを学びました。「とても頭に入らない」と感じることが、「わかる!」という喜びに変わる瞬間があるということを。今では、私は英語と数学の両方を教えることができる講師として、多くの人々に貢献しています。これが私の旅路、これが私の数学への道です。



最終章、時の流れと人生の選択:ある数学者の回顧録

 時が経つのは早いもので、気がつけば高校時代に数式を見て吐きそうだったあの日から早30年。あの頃の私は、今の高校生たちと同じように、2年後、3年後しか見えていなかった。だが、人生は予想外の方向に進むものだ。誰が私がアメリカで生活し、数学Ⅲを勉強する日が来ると予想しただろうか。


 父が亡くなる前、彼は自分が大学入試に落ちた話をしていた。戦争で中国に行ったとも言っていた。彼は大学に行って戦争を避けようとしたのだろうか。今となっては、その真意は永遠の謎となった。


 父が私の進学に強い関心を示していたのは、彼自身の経験が影響していたのかもしれない。もっと優しく接していたらよかったと、今更ながら後悔している。


 皆さんも、今の段階では想像も出来ない経験をすることでしょう。私たちがネット社会の到来に驚いたように、時代は常に激変を繰り返します。そんな高校生の皆さんに伝えたいことがあるとすれば、それはありきたりな言葉かもしれませんが、「目の前のやるべきことに全力を尽くすこと」です。これは、私自身にも言えることです。


 そして、何よりも大切なこと、それはご両親を大切にすることです。人生の選択は無数にありますが、家族の愛は何にも代えがたいものです。それを忘れないでください。

理系から文系へ、英語講師から数学講師へ(後編)

理系から文系へ、英語講師から数学講師へ(後編)

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-04-10

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