お気に入りの音楽 141〜150
141 この子を殺す気か
以前、マイケル・ジャクソンを投稿したとき、ジャクソン5からフィンガー5を連想しました。
フィンガー5は、日本の男女混合歌謡アイドルグループ。主に1970年代に活動した。沖縄県出身の男性4人と女性1人の5人兄妹が踊りながら歌い、四男の晃は変声期前のハイトーンボイスでメインボーカルを担当し、彼らの歌唱力やルックスなどが人気を博してミリオンセラーとなる。
初めてのテレビ出演は子供の視聴が多い土曜の夕方に放映され、放映直後はテレビ局に問い合わせの電話が殺到した。1973年に世志凡太がプロデュースし、漫画家の水島新司がレコードジャケットのイラストを手掛けた『個人授業』を発売すると、ミリオンセラーとなり一気に知名度が上がる。その後『恋のダイヤル6700』『学園天国』などをリリース、いずれもミリオンセラーとなった。テレビ・映画にも多く出演した。楽曲のテーマは学校における恋愛で一貫していた。
5人の中でも特に、年少の晃と妙子に注目が集まった。デビュー当時は11歳と10歳で、あどけない姿でステージをこなす姿が人気となった。晃が「目立ちたいから」とトレードマークとしたトンボ形のサングラスが大流行した。
大人気によるハードスケジュールのために晃が過労で入院すると、病床の写真が週刊誌に掲載され、医師は関係者に、
「あなたたちは、この子を殺すつもりか」
と告げた。
晃が変声期で「声変わり」を防ぐため、関係者らが女性ホルモンの注射を強く勧めたが本人は断った。
1975年、ハードスケジュールは限界に達し、休養も兼ねて1975年から1976年に米国に留学する。これまで芸能活動で得た収入は、渡航費用で全て使い切った。芸能活動に一切口を出さなかった父の、
「芸能界で稼いだ金など、あぶく銭だ」
とする考えも反映されていた。
帰国後は、長く日本を留守にしていたこと、メインボーカルの晃が変声期で従来のようなハイトーンが出せなくなったこと、彼らのやりたい音楽とファンのニーズが乖離してヒットに結びつかないことなどから人気が急落した。
後の晃の述懐によると、どうすれば売れるかは分かっていたがそれは自分たちがやりたくないことであり、割り切って自分たちのやりたいことをやろうとしたら売れなくなったという。
末期は晃に代わり妙子をメインボーカルに据えたり、バンドとしてメンバー自らの演奏を前面に出すなどを試みるも人気は回復せず、1978年に実質的に解散した。
その後メンバーの一部は、ザ・フィンガーズなど、いくつかのバンドを結成し活動するが、大きくブレイクすることはなかった。
「毎日毎日朝から晩まで働きづくめで、意識を失って何度か幽体離脱になったこと、ありましたよ。各局,音楽番組だけでもたくさんあって、出まくっていたから。マネージャーの手帳、分刻みのスケジュールで真っ黒ですよ。よくやったな」
当初、晃のトレードマークの大きなトンボ眼鏡はかけていなかった。ラジオの公開番組で布施明がサングラスで歌っているのにヒントを得て、新宿伊勢丹で似た眼鏡を買ってステージに立とうとした。
ところが長兄が猛反対。晃は本番直前にかけて客の前にでた。怒る長兄。NHKのスタッフが晃のトンボ眼鏡を絶賛した。以後、晃のトレードマークになる。
猛烈に忙しかった晃は、40度の高熱が出てもステージに立った。
「緞帳の影でマネージャーが僕にささやくんです。”晃、みんなお前のことを観に来てるんだよ。ここでおまえが倒れて、病院に行ったらこの子たち、どうする?”って。正論なんだけど、当時のオレには酷だったね。命ここまで使い切らせるんだって。子どもだから残りの10パーセントのエネルギー全部使うからね」
仕事の途中で何度も倒れて救急車で運ばれ点滴を打った。廊下で医師がマネージャーに「あんた、これ以上仕事させたら死ぬよ」
と警告した。
晃の体に変化が起きた。思春期を迎える少年にとって避けられない変声期である。
「マネージャーに渋谷の耳鼻咽喉科まで連れていかれて、女性ホルモン注射打つしかないってことになった。成長を止めて、声変わりをしのぐしかないって。でも打つと毛がはえなくなるし、あそこが小さくなるって。それは無理、その場で断った。親にも兄妹にも言えなかった」
変声期がきっかけになって、人気に翳りがでた。幼いアイドルから大人に脱皮する時期が一番難しい。ショービジネスの世界で大成功をおさめながら、19歳でいさぎよく芸能界から引退した。
フィンガー5が大成功したときでも、父親はずっと東村山の冷凍工場で働いていた。前から芸能界入りを反対していた父親は子どもたちが一般人にもどることに大賛成だった。
晃が転じた次なる世界は電化製品の飛び込みセールスマンだった。
「売上げゼロでノイローゼ、メシも食えない。ガリガリで2度目の死にかけだった。地獄だったね。自殺しようと思った」
先輩から、「もっと開き直れ」と言われてからは、訪問先で挨拶代わりにかつての持ち歌を歌い、中に招き入れられ、電化製品を売り、成績アップになった。売れるとやる気がでた。20年前から歌手に復帰。
「いやなこといっぱい観てきたから、真逆で生きればいいと思った。自分は純粋でいられるから」
ーーフィンガー5って、スキャンダルがなかったですね
「ないもん。親父に殺されるから。まっとうに生きることが僕らの仕事だった」
すでに空に旅立った父親は、琉球空手の師範で、警察で教えるほどの腕前だった。
歌の世界にもどれて何がよかったといえば、尾藤イサオと同じコンサートステージに立てることだった。
「死を考えたとき、尾藤イサオさんが歌う『あしたのジョー』の主題歌に励まされて、思いとどまったんですよ。ジョーが少年院から這い上がるじゃないですか。おれもジョーに負けられないって勇気づけられる歌でしょう。尾藤さんがステージで歌っていると、緞帳の横で涙がぎゅーっと来た」
公園でエリック・クラプトンの「チェンジ・ザ・ワールド」を弾く晃。
苦楽はメロディを味わい深くするスパイスになっていた。
上の記事から……私も大好きな歌です。
♬だけど~ルルルル~ルルル~ルル~ルルル~
実はこのルルルの部分にはちゃんとした歌詞があったのを、尾藤さんがレコーディングの時歌詞を忘れてルルルでごまかしたのが
そのまま使われたそうです (本人談)コメントから。
学園天国
https://youtu.be/13ml7EINDMo?si=sWxHAS3_Mv0tkFb_
個人授業 晃
https://youtu.be/qycAD78UonU?si=tbR-Tx2-KXEG3Neu
あしたのジョー
https://youtu.be/HmbG85pw8qM?si=0AeqRhTjZ8HjZWMm
142 サザンからなぜかビージーズへ
車に乗ると連れ合いがサザンオールスターズををかける。私は聞き流す。
これは、ちょっと引っかかったので調べてみた。
『愛の言霊 〜Spiritual Message〜』(あいのことだま スピリチュアル・メッセージ)は、サザンオールスターズの楽曲。自身の37作目のシングルとして、1996年5月20日に発売された。
愛の言霊
https://youtu.be/JBUXrQwnbsA?si=2EgFWs3_WFqlhz-q
なぜか……モヤモヤっと。
調べてみると何曲か出てくる。パ・ク・リの文字が。
『不可幸力』(ふかこうりょく)は2020年1月22日に配信限定でリリースされたVaundyの楽曲。
不可抗力
https://youtu.be/Gbz2C2gQREI?si=I8UffKFVqPPZZv9E
どちらもインスパイア、オマージュ、リスペクト……?
『ウーマン・イン・ラブ』(1980年9月23日発売)はバーブラ・ストライサンドが歌った曲で、世界12か国でNo1になる大ヒットになった。
この曲は、ビージーズのバリーとロビン・ギブによって書かれ、彼女の最大の国際的ヒットと見なされている。
ウーマン・イン・ラブ
https://youtu.be/Fh7_9iLET48?si=-cn6quUX2dMS_Wpb
こちらは、もともとはインドネシア民謡。
『愛の言霊』も、インドネシア民謡をリメイクしているのだとか。
「インスパイア」とは、尊敬する作品に影響を受けて同じテーマの作品を作ること。動詞インスパイアの名詞形が「インスピレーション」。
インスパイアは「思想などを吹き込む」という意味を持つため、あるアーティストの作品に感銘を受けて制作された作品を「インスパイアされた」作品と呼ぶこともある。
後に映画化もされたブロードウェイミュージカル『ウエスト・サイド物語』はシェイクスピアの『ロミオとジュリエット』にインスパイアされた作品である。
一方、「オマージュ」はフランス語で「敬意」「賞賛」を意味し、英語の「リスペクト」と同じ使い方をする。
「インスパイア」「オマージュ」「リスペクト」はすべて尊敬や賞賛の念が込められていて、元の作品をそのまま流用することなく、独自の表現を加えて創作されている。
インスパイアやオマージュの場合は「インスパイアされた(オマージュを捧げる、リスペクトされた)オリジナル作品はこれです」と胸を張って主張できることが大きなポイント。
オリジナル作品の個性を尊重しながら創造された新しい作品は、人々に意義のあるものとして受け入れられていく……
https://online.dhw.co.jp/kuritama/inspire-hommage-parody-pakuri-meaning-and-border/amp/
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『ウーマン・イン・ラブ』の作者であるビー・ジーズのバリー・ギブ (1946年9月1日 - )は、マン島出身のシンガーソングライター・音楽プロデューサー。
2人の弟 (ロビン・ギブ、モーリス・ギブ)と結成したビー・ジーズのメンバーとして知られている。
ビー・ジーズはオーストラリアでデビューし、イングランドに戻ってから成功した。バリーは高いピッチのファルセットを歌声で使うことで知られる。また、トップ10中5曲を同時にランクインさせた唯一のソングライターである。
『マサチューセッツ』(Massachusetts) は、ビージーズが1967年に発表した楽曲。この曲のメイン・ボーカルはロビン・ギブが務めているため、後にロビンのコンサートでの主要曲となった。
マサチューセッツは、ビージーズにとってオーストラリアとイギリスで初めてとなるナンバー1ヒットとなり、世界中で500万枚を超える空前のヒットとなった。(Wikipediaより)
マサチューセッツ
https://youtu.be/MzJUkXhzMr0?si=IETB7UI0Uih5Em7w
これは姉がレコードを買って聴いていた。6歳上だったのでこの頃の洋楽は姉経由でやってきた。
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今から半世紀近くも時を遡る、1971年。日本で、意外な洋画が話題を集めていた。そのタイトルは『小さな恋のメロディ』。
同年の配給収入で2億円を記録し、洋画の5位という大ヒット。
ロンドンの公立学校に通う11歳のダニエルが、同じ学年のメロディに恋をする。親や教師に内緒で、友人たちとともに二人は結婚式を挙げるという、少年少女のピュアなラブストーリーは、本国イギリスではまったくヒットせず(むしろ「駄作」の烙印を押されてしまった)、先駆けて公開されたアメリカでも成績はパッとしなかった。
しかし両国の不振に関係なく、日本では予想外のヒットを記録した『小さな恋のメロディ』は、熱狂的なファンを獲得することになる。
ここから数年にわたって、何度もリバイバル公開が続き、TVのロードショー番組で放映されると高い視聴率を上げた。
映画雑誌「スクリーン」ではマーク・レスターやメロディ役のトレイシー・ハイドがたびたび表紙を飾った。
メロディ・フェア
https://youtu.be/wC9035e_i8c?si=Fl7YvcWtA7IdTOxV
『小さな恋のメロディ』では、キーポイントの場面でビージーズやCSN&Y(クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤング)の曲が使われるが、そこだけがまるでミュージックビデオのような効果を発揮している。
『メロディ・フェア』『若葉のころ』は映画以前の1969年にすでに発表されていた曲だが、歌詞も含め、映像とあまりにマッチしており、驚くばかりだ。
ビージーズは1977年に『サタデー・ナイト・フィーバー』のサウンドトラックを手がけ、爆発的ブームを起こすのだが、『小さな恋のメロディ』で彼らの曲と映画の美しいケミストリーはすでに起こっていた。
『小さな恋のメロディ』のサントラがCDで発売されたのは日本のみだった。
https://cinemore.jp/jp/erudition/376/article_377_p3.html#a377_p3_1
若葉の頃
https://youtu.be/TvoJCdH1jlI?si=51Js5gQ_gpKNXJr8
Kinki Kidsのドラマ『若葉のころ』主題歌にも使われていました。
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『サタデー・ナイト・フィーバー』は、1977年製作のアメリカ映画である。監督はジョン・バダム。ジョン・トラボルタの出世作。
映画のサウンドトラック『サタデー・ナイト・フィーバー』は驚異的な売上を記録し、なかでも作中で「ステイン・アライヴ」などBillboard Hot 100 1位6曲を含む7曲を提供したビージーズはその人気を不動のものにした。
日本ではこの映画の影響でディスコ・ダンスで踊り、熱狂することを指す「フィーバーする」という言葉が生まれた。転じてパチンコでの大当たりのシステムでも「フィーバー」という言葉が使われるようになった。
世界中で約2億枚を超えるレコード売上を誇り、今や史上最も人気の高いアーティストの一つとして確固たる地位を築いているビー・ジーズだが、実は彼らのディスコ・ヒットはバンドが苦境にある時に生まれたものだった。ギブ兄弟の長兄であるバリー・ギブは2013年、次のように語っている。
「あの頃の僕らは事実上死んだも同然でした」「ビー・ジーズのサウンドは基本的にマンネリ化していた。当時の僕らは3年くらいヒットに恵まれてなくて、何か新しいものが必要だった」
https://search.yahoo.co.jp/amp/s/www.udiscovermusic.jp/news/more-than-a-woman-bee-gees-feature%3Famp%3D1%26usqp%3Dmq331AQIKAGwASCAAgM%253D
ステイン・アライヴ
https://youtu.be/YxvBPH4sArQ?si=NutWX43HoKwMW2v5
ジョン・トラボルタ
1976年の『キャリー』で本格的な映画デビュー。
1977年に主演した青春映画『サタデー・ナイト・フィーバー』のヒット、及びアカデミー主演男優賞へのノミネートにより、スターとなった。
その後も『グリース』『アーバン・カウボーイ』のヒットでさらに人気を高めた。
しかし、1983年の『ステイン・アライブ』(『サタデー・ナイト・フィーバー』の続編)が酷評され、『セカンド・チャンス』などが興行的に失敗するなど、一時期役に恵まれなかったが、彼の大ファンだったクエンティン・タランティーノ監督の『パルプ・フィクション』(1994)のヴィンセント役で復活をし、安定した幅の広い演技力を評価され、映画自体もアカデミー脚本賞、カンヌ国際映画祭パルム・ドールを受賞、再び大スターの地位を安泰なものにした。
パルプ・フィクション ダンスシーン
https://youtu.be/u4i1RZQRZ3M?si=EgMHETIGRJNhxx6r
トラボルタ、激変……
ユマ・サーマンは素敵。『キル・ビル』の女優さん。
143 サイモン&ガーファンクル ダスティン・ホフマン
サイモン&ガーファンクル
1964年にデビューし、1970年に活動を停止するまで、フォーク、フォーク・ロックを代表するデュオとして数々のヒット曲を世に送り出した。
サウンド・オブ・サイレンス
https://youtu.be/Aa7yWJLCwVw?si=wXZyHvfnIbBgbP0g
花嫁を結婚式場から奪い去るラストシーンが、今でも語り継がれているアメリカン・ニューシネマの傑作。ブロードウェイ出身のダスティン・ホフマンは本作で主演に大抜擢され、アカデミー賞主演男優賞にノミネートされた。
教会から脱出した2人はバスに飛び乗り、どこへともなく旅立っていく。笑顔で笑い合う2人だが、やがて放心したような、不安とも取れる曖昧な表情を浮かべて去っていく。
若い衝動もいつかは色褪せる。そんな現実を暗示させるようなラストは物議を醸し、長年論争の的になってきた。
(結婚スタイルマガジンより)
映画 卒業
https://youtu.be/nc_pswv6aDM?si=0Wa_y7qy8iHsu8fn
卒業のラストは有名だけど、うまくいかないでしょ?
この歌は大塚博堂さんの歌で先に聴いたので、こういう内容だとは思わなかった。
大塚 博堂(おおつか はくどう、1944年3月22日 - 19815月18日)は、ニューミュージックのシンガーソングライター。大分県別府市出身。東洋音楽大学(現:東京音楽大学)声楽科中退。
大塚博堂を好きな友人がいた。レコードをかけて一生懸命に説明してくれた。大原麗子さんのドラマの主題歌も歌っていた。
大塚博堂 ダスティン・ホフマンになれなかったよ
https://youtu.be/cfJ3WKaGdFc?si=IZsK6POWWyoiJiXB
歌の1番には『ジョンとメリー』の映画が出てきます。
『ジョンとメリー』(原題:John and Mary)は、1969年制作のアメリカ合衆国の恋愛映画。ピーター・イェーツ監督、ダスティン・ホフマン、ミア・ファロー出演。
ミア・ファローは好きな女優なのに観ていません。
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第61回アカデミー賞と第46回ゴールデングローブ賞(ドラマ部門)、さらに第39回ベルリン国際映画祭においてそれぞれ作品賞を受賞。
自由奔放な青年と重いサヴァン症候群の兄との出会いと兄弟愛、そして人間としての変化を描いたヒューマンドラマである。
サヴァン症候群のキム・ピークがレイモンドのモデルであると言われている。キムと面会した作家のバリー・モローがその能力に驚愕し、小説を書きあげた。
当初、ホフマンは弟の役だったが、兄の役柄に大きな感銘を受け、自分が演じることを直訴。
何度もキムに面会し、役作りに励んだ。床に落ちた爪楊枝を瞬時に計数したキム・ピークの実体験がそのまま映画のエピソードとして出てくる。(Wikipediaより)
映画 レインマン
https://youtu.be/b2IN4nkTLa8?si=i2zQyQExiPh3Iucz
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『パピヨン』は、1973年のアメリカ合衆国の伝記犯罪映画。監督はフランクリン・J・シャフナー、出演はスティーブ・マックイーンとダスティン・ホフマンなど。
胸に蝶の刺青をしていることで「パピヨン」と呼ばれた男が、1931年に無実を叫びながら終身刑となったものの、脱獄に成功し、後にベネズエラ市民権を取得したというアンリ・シャリエールの同名自伝小説を映画化したもの。
ジェリー・ゴールドスミスの音楽は、1973年度のアカデミー作曲賞にノミネートされ、しばしば映画音楽の名曲の一つとしてコンサートなどで取り上げられてきた。
映画 パピヨン
https://youtu.be/o-_8eWHbU5w?si=MwENWYYZtGGsLnn4
『卒業』で花嫁を奪っていったベン……ダスティン・ホフマンが、すごいです。
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1970年発表のアルバム『明日に架ける橋 (Bridge Over Troubled Water)』の制作中に、ポールとアートの音楽に対する意見の違いが表面化した。
『明日に架ける橋』は、全世界で売上が1,000万枚を超える大ヒットとなり、グラミー賞の最優秀レコード賞・最優秀アルバム賞を受賞したものの、このアルバムを最後に2人はそれぞれのソロ活動に入った。
https://youtu.be/SZG5A5YarGs?si=PtQ63OiuFSGNgoU2
明日に架ける橋 尾崎紀世彦
https://youtu.be/AEfSqyLZdJY?si=Qdsy_SC5gj64LLx0
144 懐かしい番組
ドラマ『3年B組 金八先生』でよく登場した南中ソーラン節。
https://youtu.be/CcPNqAwiJPg?si=yQL8UPWqr5IRAgHB
昭和60年代。当時、校内暴力で「日本一荒れた学校」といわれた中学校が北海道稚内市にあった。
その稚内南中学校では喫煙、いじめ、恐喝、万引きなど様々な事件が頻発していた。校長は、教師神崎と二人で非行に立ち向かおうとする。
校長以下教師全員が父母たちに学校再建のため、街ぐるみの協力要請をする。一方、神崎は郷土芸能部の生徒達に、地域文化を理解させようとソーラン節を勧めたが、生徒達のノリは悪い。
ところが、現代風にアレンジされたソーラン節の歌を知ると、生徒達はがぜん興味を示しはじめた……
(movie.jorudan.co.jp)
地域に埋もれた民謡や民衆文化の発掘に取り組み、1993年稚内市立稚内南中学校の生徒のために「ソーラン節」をプロデュース。斬新な踊りを交えたソーラン節が、南中ソーラン、ロックソーラン等と言われ、全国的ブームとなり、後にCD、映画化(稚内発 学び座〜 ソーランの歌が聞こえる )される。
(伊藤多喜雄Wikipediaより)
タキオのソーラン節
https://youtu.be/KY6EAYLjcis?si=rIdZCuLIpM8CM1x3
︎
金八先生、第2シリーズのラスト。
歴史に残ると言われている名場面がUPされていた。このドラマで、中島みゆきの『世情』を知った。
沖田浩之さん、もういない。
この動画、たぶん、すぐ削除されるのでは?
https://youtu.be/TVBxCIpFf8Y?si=APJL2yF2IDia81eJ
YouTubeには中島みゆきさんの『世情』はカバー曲ばかり。
こちらもカバー曲です。
ドラマの写真がたくさん。
https://youtu.be/EzkJ65tdCCE?si=DNOItci0qukujExw
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ずいぶん前、検索していたら、すごくいいドラマなのに放映できないという……
なんと、YouTubeで観ることができた。(1話目はナシ)
『それが答えだ!」は、1997年7月2日から9月17日までフジテレビ系列「水曜劇場」枠で放送されたテレビドラマ。
海外で「神が宿った」と評された世界的なマエストロ、鳴瀬望(三上博史)はコンサート中にオーケストラのメンバーから演奏をボイコットされ、その責任を問われて解雇されてしまった。
そして山小屋にこもっているが……
その日の食事と借金返済のために、田舎の中学校のたった12名のオーケストラ部でタクトを振ることになってしまった。
マーラーの5番第1楽章が、こんなに田舎の景色に合うとは……そして、オンボロピアノを直して4楽章のアダージェット。
主演は三上博史。他に萩原聖人、酒井美紀、藤原紀香などが出演していてキャスティングが豪華。
また藤原竜也と深田恭子の俳優としてのデビュー作品で注目されやすいが…… 生徒役で出演していた○の逮捕で、地上波では放映できない。
それが答えだ! オープニング
https://youtu.be/oL6cDDjo-O4?si=ZArVcPSAQtxszz9M
それが答えだ メインテーマ
https://youtu.be/ciXo-tvtyhE?si=DGRVW_Z7wkZ2DQT1
最終話 ラストがマーラーの5番の4、5楽章を三上博史が指揮をする。
https://youtu.be/bKKfWfpZoyI?si=uVl8L99SOuyGdDoI
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当時娘たちが観ていて、私は耳に入ってはきたが興味はなかった……が、なにこれ? おとぎ話? ラスト2話で泣いた。泣いた。
まさかこの展開は予想不可能。後日Amazonで全話観た。川島なお美さんももういない。
イグアナの娘 第1話
https://youtu.be/JPLig9kuXYA?si=yT0-smcn7hHccTP7
イグアナの娘 名場面
https://youtu.be/s7dXrRXUH9E?si=uTESfJKBYKTgHbNV
初回視聴率こそ7.9パーセントと不振であったがその後着実に上昇を続け、最終回では同時間帯第1位となる19.4パーセントを記録した。
ユア・ソング エルトン・ジョン
https://youtu.be/c0HgvuK5Szw?si=YTov28fzn5x3rIsh
『イグアナの娘』のエンディングの曲。
この曲はエルトン・ジョンとバーニー・トーピンが一緒に暮らしていた頃に作り溜めしていたものの一部で、1969年10月27日に作曲されたものである。
バーニーが朝食を採っている間、エルトンはバーニーが以前から作成していた歌詞に対してわずか10分間で作曲した。エルトンは、
「リヴィングに持っていって、ピアノに座って一読したんだ。美しい歌詞だったし、良すぎて台無しにしないようにしなければと思った。
インスピレーションが凄く湧いて、一気に曲書き上げてバーニーを呼んだんだよ。二人とも聴いた時に気がついていたと思う、これは成功に向かって進んでいる確信があった」
と回想している。
以来、エルトンはコンサートでほとんど欠かさず演奏するほど気に入っており、バーニーもインタビューで「私はそれ以来すばらしいラブソングを書いていない」と言っている。
(Wikipediaより)
145 ステンカ・ラージン
中学のとき親しかった高砂さん、国語と歴史の成績はずば抜けていた。コーラス部で歌も上手。国語の授業中、どういう経緯か忘れたが、歌詞の説明をして『ステンカ・ラージン』を歌った。アカペラで。
ふと思い出し、調べてみたら……省略されていた部分が。YouTubeのコメント読んだらすごい非難が。
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ロシヤ民謡の主人公ステンカ・ラージンは、17世紀ロシヤの農民反乱の指導者である。
当時のロシヤは、アレクセイ皇帝を戴き、東方へと版図を広げていたが、後に小国に転落してしまうスウェーデンやポーランドが、当時は大国で、南方にはイスラーム教のオスマントルコがあり、戦を繰り返していた。
コサックというのが、その軍隊の重要な一部をなしていた。これはカスピ海の北側、ドン川とヴォルガ川の周辺に住まう、兵士にして農民の一群で、ロシヤ皇帝に雇われて戦地に赴いていた。ピョートル大帝出現以前のロシヤは、皇帝の権力もあまり強くなく、大貴族が支配していた。
たび重なるトルコとの戦いに駆り出されたコサックは、給料の不払いに不満を募らせていた。ステンカは本名をステパンといい、コサックの指揮者の次男に生まれたが、兄は反乱の罪で処刑されていた。
たくましい若者に成長したステパンは、ステンカのあだ名で呼ばれ、ロシヤ貴族への不平不満のたまった農民たちの間で指導者となり、遂に謀叛を起こす。
まずカスピ海を下り、ロシヤの同盟国であるサファヴィー朝のペルシア帝国へ攻め入ったのである。
ステンカラージン 与田準一訳詩
https://youtu.be/MbXqgbc1fJQ?si=sXXeOfJxz5mysEnc
私が覚えている歌詞は、
ヴォルガの流れは果てなく続き
今宵も宴は??
うるわしペルシャの姫を迎えて微笑むステンカラージン何を思える
ドンコサックの??起こるそしりを??
検索してもこの歌詞は出てきません。
妹尾幸陽訳詩 日本語なのに、ロシア語と同じ巻き舌が。
https://youtu.be/2LZvLe2yRms?si=CcWkRfxDn0xIjM-p
ステパン・ラージンは16世紀の農奴解放の先駆的な首領。ステパンがステンカと変わっているのは愛称である。
僚原の火の如くヴォルガにそったドン地方は農奴が解放されていき、ロシヤ帝国は大揺れにゆれる。
一方ステパンはペルシャを席捲してそこの姫をうばって愛妾とした。この時代が彼の堕落時代で・ペルシャ姫の愛慾に酔い痴れる。怨嵯の声が周囲に起こった。民は永い間の戦いに疲れ、飽い、そして飢えている。
この歌曲はつまりそうしたステパンの沈倫を歌い、豪しゃな生活を描き、やがて彼の悔恨と、一切をすてて再蹴起しようと決意して、泣き叫ぷ姫をヴォルガの河底深く投げ込むまでの、壮大な歴史的、英雄的ロマンチシズムを叙したものだ。
歌詞は誰れが作ったか不明である。おそらく無数のひとびとの口によって当時が叙せられ、統一していき、更に洗練と推敲が加えられ、ずっとあとになってから、だれか天才的な編集者の手によって、一つの詩に纒めあげられたものであろう。
ことにこの民謡は革命をなしとげたソヴェートの指導者たちに愛唱されたし、そのような要素で貫かれた歌だ。そうした政治的匂いとは別に「ステンカ・ラージン」の歌曲としての価値は最早永遠なものとみていいだろう。
1960/01/28 百瀬三郎【島村喬】
民謡の二番は「ペルシャの姫なり 燃えたる唇と」となっている。これはステンカが、ペルシャの貴族の姫をさらって船に乗せたという伝説に基づいている。
その後「奢れる姫なり」とあり、コサックの群れから、自分らは飢えているのに姫は食っていると「誹りが起き、ステンカは姫を頭上高く差し上げてヴォルガ川へ投げ込んだ、という伝説が知られている。
これが事実かどうかは疑わしいのだが、この伝説を伝えたのは、反乱が終って10年ほどたって、スウェーデンの使節団に加わりペルシャを訪れたドイツ人・エンゲルベルト・ケンプフェルである。
これは、のち日本へ来て、将軍徳川綱吉に謁見し、『日本誌』を書いたあのケンペルとも表記される人である。
和訳付きステンカラージン
https://youtu.be/m90_q8jVZpI?si=ieOVnMXTO8eFDUki
1939年ロシア映画
https://youtu.be/lgkBf6sDCj0?si=Y5X9kblkk25vfB2Y
ステンカ・ラージン
ロシア民謡
サドフニコフ作詞
島陰から河の中央へと
河波の広がりの中へと
漕ぎ出てきたのは色鮮やかな
舳先の尖った舟の群れ
漕ぎ出てきたのは色鮮やかな
舳先の尖った舟の群れ
先頭の舟ではステンカ・ラージンが
姫と抱き合って座り
新たな婚礼をあげている
陽気に酔いながら
新たな婚礼をあげている
陽気に酔いながら
だが姫は瞳を閉じて
生きた心地も無く
黙ったまま酔い痴れた
アタマンの言葉を聞いている
彼らの後ろから不平の声が聞こえる
「我等を女と取換えよった
たった一晩、女と過ごしたら
翌朝には自分も女になっちまった」
この不平と嘲笑を
怖ろしいアタマンは聞き付けた
そしてその力強い手で
ペルシアの姫の体を抱きかかえた
そしてその力強い手で
ペルシアの姫の体を抱きかかえた
黒い眉が寄り
雷が落ちようとしている
アタマンの瞳が
赤く血走った
「何も惜しまない
この猛々しい首もくれてやる」
威厳に満ちた声が
あたりの岸辺に轟き渡った
「ヴォルガ、ヴォルガ、生みの母よ
ヴォルガよ、ロシアの河よ
ドン・コサックからの贈り物を
お前は見たことが無いだろう!
自由な者たちの間に
不和の種を蒔かぬためだ
ヴォルガ、ヴォルガ、生みの母よ
さあ、受け取るがいい、美しい娘を!」
彼は力強き手で
美しい姫を抱き上げて
打ち寄せる波の只中へと
舷から彼女を投げ込んだ
打ち寄せる波の只中へと
舷から彼女を投げ込んだ
「どうした悪党め、何故黙っている?
えい、フィールカよ、畜生め、踊れ!
兄弟よ、雄雄しく歌声響かせて
彼女の魂慰めよう!
えい、兄弟よ、雄雄しく歌声響かせて
彼女の魂慰めよう!」
島陰から河の中央へと
河波の広がりの中へと
漕ぎ出てきたのは色鮮やかな
舳先の尖った舟の群れ
漕ぎ出てきたのは色鮮やかな
舳先の尖った舟の群れ
ステパン・ラージン(1630-1671)を歌った民謡。
歌詞を見ると、今の時代、批判が恐ろしくて女性の前では歌えないような……
歌詞は民俗学者・詩人のドミトリー・サドフニコフ(1847-1883)が亡くなる年に「ヴォルガ通報」に発表した詩が元となっており、1890年頃には早くも民謡化していたと言われている。
ロシア語版Wikipediaのこの曲の記事によれば、スキターレツの名前で活躍していた作家・詩人でアマチュア音楽家でもあったステパン・ペトロフ(1869-1941)が文学者のサークルでしばしば演奏したことで有名となり、歌う俳優フョードル・シャリャーピン(1873-1938)が取り上げたことにより世界的に有名となった。
この曲も様々な版の歌詞があり、ロシア革命後の1917年から歌われる歌詞は全部で11番(1番の繰り返しを含めると12番)からなる長大なものだが、その全てを歌い通すということは滅多になく、適宜抜粋して歌うのが普通となっている。
バス歌手のエフゲニー・ネステレンコ(1938-)はこの曲を2度メロディアに録音しているが、8番(「ヴォルガ、ヴォルガ、生みの母よ」)を除く10番を丁寧に歌っている。
最初の録音が日本で発売された際、解説を書かれた北川剛氏が「史上最高の名演!」と絶賛した。
アレクセイ・セルゲーエフを独唱に立てたアレクサンドロフ・アンサンブルの演奏では、1,2,4,5,8,10,11,繰り返しの1番の順で歌われている。
【ステパン・ラージンの処刑】
ラージンは、盗賊団の首領として大規模な海賊行為を繰り返し、ペルシャの民衆なども大量虐殺。ロシア政府にも反逆し、農奴制を廃した、貴族と官吏のいない平等な国をつくると謳って多くの人々を巻き込んで戦闘をおこなった。
しかし装備の勝る政府軍に敗北して捕えられ、公開の場で両手、両足を切断ののち、頭を切り落として処刑された。
ステンカラージンの処刑 ショスタコーヴィチ
https://youtu.be/x9357vfx6-U?si=0-oZH1OFOVq-xQiJ
ショスタコーヴィチと意気投合した若い詩人、エフゲニー・エフトゥシェンコが書き上げた「ステパン・ラージンの処刑」は、刑場に連行され刑を執行されるまでの様子を描いた。
題材的には、ロマノフ王朝時代の政府に対して反旗を翻した人物の処刑ということもあってか、ソ連政府からは特に睨まれることも無く、1964年に無事初演され、1968年にはグリンカ賞すら受賞している。
作品は、モスクワの広場にラージンが引かれてくるところから始まる。野次馬たちがラージンに唾を吐きかけて罵ると、集まった民衆たちがどよめくという場面は独特の迫力があり、やがてラージンの独白を受け、民衆が、唾を吐きかけているのは自分自身に対してではないかと自問するところや、警官が登場して民衆に対し、ラージンの刑執行を祝うよう迫るあたり、そして刑執行からエンディングまでの緊迫感など、ショスタコーヴィチの筆致も冴え渡っている。
146 ちんぺいさん
同僚がさだまさしと谷村新司を好きだった。よくラジオ番組の話をしていた。ちんぺいさんとかベーヤンとか。
谷村新司のラジオ番組はかなりエロトークだった……YouTubeに音声だけアップしてありますが、かなりすごいです。
谷村新司さん。
2023年3月急性腸炎のため入院。6月よりアリスの全国ツアーを控えていたが、ドクターストップにより休止した。
同年10月8日死去。74歳没。
さだまさしのコメント
いやいや、俺は信じない。何度か電話しても出ないから、どっか旅にでも出たに決まってる。
出会ったのは51年前。デビューしたてのアリスが長崎にキャンペーンでやって来た。以来、兄貴の如く仲良くしてもらった。甲子園や後楽園で野球の試合もした。軽井沢ではテニスの試合もした。静岡では一緒に飲み歩いた。長崎でも、武道館でも、あっちこっちでも一緒に歌った。
最近ゆっくり会ってないけど、ホテルニューオータニ大阪のディナーショーは、いつも1日違いだったから、毎年必ず会えた。思い出したらキリがない。
春に入院したとき慌てて電話したら「大丈夫、大したことないのよ」って言ってたじゃん。
8月の終わりと9月の半ばに電話したけど、いつもなら必ず折り返してくれるのに返事がなかったけどね。
一言も、なにも言わずにいなくなりましたって?
いやいや、俺は信じない。うん。信じない。
【逃亡者 アリス】
https://youtu.be/h4ZRELNRNAA?si=gLrz8PF8GuGSX5yw
数あるアリスの曲の中で、いちばんお気に入りの曲です。「夢去りし街角」のB面に収録された隠れた名曲。
谷村 新司 (1948年12月11日-2023年10月8日)はシンガーソングライター、タレント、作詞作曲家、大学教授。アリスのリーダー。大阪府出身で、愛称はチンペイ。
少年時代は肥満体型で、「ブタ」と渾名されコンプレックスを感じていた。谷村は、歌を褒められることが多く、特に音楽に関心は無かったが、女にモテるためにはバンドを組んでリーダーをやらなければと思い、高校1年生の時にギターを購入して練習を始めたという。
高校在学中に同級生の山本峰幸と、友人のガールフレンドの妹で声楽をやっていた3歳年下の島津ちづ子の3人でバンド「ロック・キャンディーズ」を結成する。谷村が19歳のときに森の宮の厚生年金ホールで初めてのコンサートを行う。
ロック・キャンディーズは大阪と神戸で絶大な人気を誇る。
ロック・キャンディーズのリーダーはギターコードを多く知っていたちんぺいさんに。 (6個)
山本さんは
「ギターコードってなんや?」
【春は静かに通り過ぎていく ロック・キャンディーズ】
https://youtu.be/G1QL1tuUlF0?si=KvpIuNT2aJ2eqEvw
【どこかに幸せが ロック・キャンディーズ】
https://youtu.be/gJBu2DuWIJ0?si=GtMqGpJiJ9h6v4Wd
https://youtu.be/ckh7IFCnsAw?si=t-L06P2Zhbafze5A
【カリフォルニア・ドリーミン ロック・キャンディーズ】
1970年8月北米ツアーカリフォルニア州立大学でのライブより
https://youtu.be/t2b5dIbCfSQ?si=KPsCs69Vm9Zgh-zF
1970年、後にアリスの所属事務所「ヤングジャパン」社長となる細川健と知り合う。細川の音頭取りで実行したアメリカ・コンサート・ツアーで「ロック・キャンディーズ」や「ザ・フォーク・クルセダーズ」らと共に参加していたソウル・バンド「ブラウン・ライス」のドラマー矢沢透と知り合い意気投合。帰国したら一緒にグループを組もうと約束する。
このとき谷村の頭の中には、新グループ「アリス」の構想ができつつあった。このアメリカ・ツアー中にレッド・ツェッペリンのステージを観る機会があり、ジミー・ペイジの独特のギター・プレイに圧倒されたという。
同じく訪米中にジャニス・ジョプリンのライブを観る機会にも恵まれ、「当時彼女の生演奏に触れることのできた数少ない日本人として幸運」と谷村本人が語っている。
帰国した谷村は、アマチュア・ロック・バンド「フーリッシュ・ブラザーズ・フット」のボーカル堀内孝雄をアリスに勧誘。
谷村新司のニックネームは友人が命名。学生時代、サングラスをかけた姿が評論家・野末陳平さんに似ていた。シンジからチンジ、チンペイへと変化した―の2つの説がある。
堀内孝雄の「ベーヤン」は、堀の字つながりの赤穂浪士・堀部安兵衛から。
矢沢透の「キンちゃん」は、顔が落語家の柳家金語楼に似ていたからという。
アリスの名前の由来はエロ本アリス出版から取っている?
谷村新司がアメリカに行った時、カリフォルニアにあるUCLA (大学)内にある
「アリスのレストラン」の「アリス」のロゴがカッコ良かったため、との説がある。
1971年12月25日、谷村、堀内の2名で「アリス」結成。桑名正博の実家の蔵で練習を重ねる。
1972年3月5日、シングル「走っておいで恋人よ」でデビュー。
同年5月5日、矢沢が正式に合流し現在のアリスとなった。2ギター&ボーカル、1パーカッションという特異な編成とブルース色の強い演奏については、リッチー・ヘブンスの影響を少なからず受けているとのことである。
デビュー当初はヒット曲もなく、鳴かず飛ばずであった。地道なライブ活動 (1974年には年間303ステージという記録が残っている)と1975年の「今はもうだれも」のヒットを契機に、「冬の稲妻」「涙の誓」「ジョニーの子守唄」「チャンピオン」「狂った果実」等のヒット曲を連発する。
アリスの活動と並行して、ソロ活動も開始。ソロ名義でのアルバムやシングル制作、他の歌手への楽曲提供 (山口百恵の「いい日旅立ち」など)を精力的に行う。
アリスとは異なる音楽世界は、1979年の「陽はまた昇る」を経て、1980年の「昴」で一定の完成をみる。 (Wikipediaより)
「帰らざる日々」は、アリスの8枚目のシングル。1976年4月5日に東芝EMIから発売された。
1978年に公開された藤田敏八監督の映画『帰らざる日々』の主題歌に採用され、同年再ヒットした。
作詞した谷村新司曰く、この曲は「女の子が睡眠薬を飲んで、電話越しに自死していく様子を歌った歌」ということで、最初はブレイク前のアルフィーに提供するつもりで作ったが、その提案を受けた坂崎幸之は「ちょっと僕らには重いんじゃないですか」と返答して辞退したという。
アリス『帰らざる日々』の元ネタとして知られる荒木一郎のシングル。
『君に捧げるほろ苦いブルース』
荒木一郎。謎の男。
9歳で舞台デビューして、22歳で歌手デビュー。
日本のシンガーソングライターの先駆者。
デビュー翌年の1967年には「いとしのマックス」で紅白歌合戦出場。
紅白出場から2年後の69年には暴行事件で逮捕。
その後歌手・俳優として復帰する一方でマネージメント業で成功。プロデューサーでもあり。
切手収集家。将棋はアマ四段。そしてマジシャン。
ともあれ『君に捧げるほろ苦いブルース』は、荒木一郎が1975年にリリースしたアルバムのタイトル曲。
死別した恋人……と想像される相手に歌いかける。
“すぐに行くよ”“君と同じとこへ”“夏になれば”“君のいる処へ……”という、ほとんど後追い自殺をほのめかすかのような歌詞が、クラリネットやマンドリンをフィーチュアした、ディキシーランド・ジャズとブルーグラスを折衷したような、もの悲しくも妙にほのぼのとしたアレンジで歌われる、なんとも不思議な曲。
そしてコレ、実は愛猫の死を悼んで作られた歌だということで。
それにしてもこのサビ……
谷村さんは、「荒木さんの歌に影響されて作った」と自ら語っています。
【帰らざる日々 アリス】
https://youtu.be/umQs9MORAuA?si=pbIeEOR7Vc0eQmtM
【君に捧げるほろ苦いブルース 荒木一郎】
https://youtu.be/3Jla-qLPvQY?si=ly-xsn1BMBXMrgBD
https://lsdblog.seesaa.net/article/201701article_5.htm
147 幽霊作曲家
孫にせがまれ『戦慄の都市伝説大百科』という本を買ってあげた。7歳の女の子はYouTubeでも都市伝説を観ている。怖いくせに観たがる。そして、そんなものはいないんだよ、と言ってもらいたいのだ。
私もパラパラとめくってみて、興味深いものを発見。
︎✳︎
子どもの頃、白い幽霊を見た。
ガウンを着た、白い髪の幽霊が現れて言った。
「君を有名な音楽家にしよう」
少しして、リストの写真を見て、あの時の幽霊が、リストだったことを知った。
それから何十年も経った。
リストは再び現れた。
それ以降、夜な夜な、ベートーベンやバッハなどの作曲家の幽霊も現れた。
そして様々な曲を書かせた。
(孫の『戦慄の都市伝説大百科』より)
︎
1970年代に入ろうとする頃、ひとりのイギリス人女性にマスコミの注目が集まり始めた。
名前はローズマリー・ブラウン。50歳前後の、見る限りはごく普通の一般女性である。
関心は、彼女が持っているという、ある特異な能力に向けられていた。
霊界と通信している、死者と対話しているというのだ。
つまり霊媒である。
彼女の交信相手は、音楽史上に名を連ねる楽聖たちであり、霊界からやってくる彼らに頼まれて、彼らの作曲する楽曲を楽譜に記録していると主張したのだ。
幽霊たちの代筆をしている……まさしくゴーストライターである。ゴーストの立場が逆だけど。
彼女がコンタクトしていたという作曲家の (霊)は錚々たるものだった。
リスト、ショパン、ベートーヴェン、シューベルト、シューマン、ブラームス、グリーグ、ドビュッシー、ラフマニノフ、ヨハン・バッハ、ベルリオーズなどなど。
モーツァルトやプーランクなんかもちょこっと来たものの、あまり仲は良くなかったらしい。な
ジョン・レノンの代筆もいくつかあるという。音楽家のほかにも、アインシュタインもよく来たそうだ。
普通なら、狂人の妄言、あるいは目立ちたがり屋の狂言の類と片付けられて、相手にされなかったに違いないところだが、ローズマリーは実際に、楽譜を多数、それもわずかな期間に、個人の能力を超えていると思われる量の楽譜を生産していた。
それぞれの楽譜も、リストならリストの、ベートーヴェンならベートーヴェンの作風の個性や記譜上の癖などがそれなりに認められるものだった。
彼女は400曲以上書いたと記しているのだが、現在350曲ほどが確認されているらしい。
リストが音楽を伝える方法は、口述筆記、リスト (の霊)が音名や和音を口にし、それを書き取るというのだ。他の作曲家についても同様だったという。
「彼等は、どこで和音になり、その和音を構成する音が何であるのかを私に言ってくれるのです。彼等は調号を指定し、一つ一つの音符を言ってくれます」
作曲家によっては、彼女に憑依し彼女の手を操って自ら楽譜を書くこともあった。たとえばベートーヴェンがそうで、BBCの番組で彼の曲を書き留めてみせたときは、ものすごいスピードで自動書記のように楽譜が仕上げられていった。
彼女はシューベルトから『未完成交響曲』の続きを聴かされたそうで、楽譜として完成させられたらと願っていたが、結実はしなかったようだ。
やがて彼女が代筆した楽曲を、高く評価するプロの音楽家や音楽研究者も現れ出す。
映画音楽で名高い作曲家リチャード・ロドニー・ベネットは
「長年訓練を積んだ人でなければこれほどの音楽を偽造することはできないでしょう。
ベートーヴェンの何曲かは、私だったら書けなかったと思います」
と漏らしたそうだ。
だが、彼女は、ほんの数年ピアノのレッスンを受けたことがあるくらいで、音楽の素養はほとんど備えておらず、貧しい生まれだったためクラシック音楽を聴くという習慣すら、ろくに持ったことがないと主張していた。
露出が増えるにつれ、本当は音楽的な訓練を積んでいるのではないのかという疑惑が付きまとうようになり、それらに対する牽制もあって誇張気味になっている節もあったのかもしれない。
音楽的素養や技術が低ければ低いほど、彼女が書き付ける音楽の意外性という価値は高くなるわけだ。
英国放送協会(BBC)は彼女のドキュメンタリー番組を放映し、フィリップス・レコードは彼女が書き留めた楽曲のアルバムを制作した。
称賛と、同じくらいの量の批判や非難、懐疑が渦巻くなか、80年代に入ると高齢と病気のためにローズマリーの活動は少なくなり、次第に忘れられていき、2001年に85歳で亡くなった。
1970年にLPレコードが欧米各国で発売された。
「誌的で超常的な調べ」というサブタイトルで、どの曲も幻想的でとても素敵なアルバムのようだ。
レコードA面にはイギリスのピアニスト、ピーター・ケイティンが大作曲家の作品を、B面にはローズマリー・ブラウン自身が演奏した曲が入っている。
(廃盤になっていて高いです。調べたら二万五千円)
「作曲家たちはそれぞれ違ったやり方で私に教えてくれます。リストは私に手を添えて教え、それを私が書き取るのです。
ショパンはピアノに向かっていくつかの音符を示し、私の手を正しいキーに押しつけます。
シューベルトは歌おうとします。でも彼の声はあまりいい方ではありません。
ベートーヴェンとバッハは私をテーブルに向かわせ、紙と鉛筆をとらせ、音符とテンポを示して書き取らせます。
ブラームスは私に指を広げる練習をつけてくれました。
ラフマニノフは私にピアノのテクニックをずいぶん指導してくれました。私が関わりあいたい作曲家を自分で決めることはできません。彼らの側でそれは決められてしまうようで、多分それはリストが決めているのだと思います」
【リスト】
私が初めてリストの亡霊を見たのは子供の頃でした。でも私は小さかったので彼がリストだということがわかりませんでした。彼は私が大きくなったら音楽の贈り物をしようと言って消えました。彼は白い長い髪で黒い僧衣をまとった老人でした。でも今は、彼はずっと若返って現れます。彼はとても忍耐強く親切で、非常に精神的で教養の高い人だと思います。そして自分はもっと静かで愛らしい作品を書きたかったのだと言っています。
たそがれ時の白鳥 (リスト)
https://youtu.be/rBZcUEfg3zk?si=24ntfy9szLc2xaL1
【バッハ】
バッハは正直に言って、私にとって魅力とは感じられない交感者の一人です。彼がやってきた時は驚きました。けれど彼は私が彼の音楽の価値を受けとめるには教育が足りないだけだと思ったようです。
【ベートーヴェン】
ベートーヴェンと一緒だと少しじれったくなります。彼は多分3曲か4曲の作品を同時に書いているのでしょう。彼はこうして少しずつ完成させてゆくので完成するまではすべてバラバラなのです。彼は35歳くらいに見えます。とても元気そうで、あんなに気難しい顔はしていません。
【ショパン】
ショパンはある時、バス・ルームが水浸しになるのを助けてくれました。私はショパンと仕事をしていたのですが、彼は急に私に音楽を教えるのを止めてフランス語でしゃべり出したのです。そのうち私はやっと、彼がお風呂が水浸しになる、と言っているのだとわかりました。私はバス・ルームに急ぎ、水がバスの縁ギリギリになっているのをみつけたのです。
ショパンの5番目のバラード ローズマリー・ブラウン
https://youtu.be/o3lySptSAg8?si=FiSlzBt6GGPgwtO8
即興曲 変ホ長調 (ショパン)
https://youtu.be/gF3ZLBGpMqc?si=hTVap_f3h7ooJQsx
https://realsound.jp/2015/03/post-2796.html
【ドビュッシー】
ドビュッシーは現代に生きても困らないと思います。とてもモダンで、着ているものも俗に言うヒッピー風な感じです。今では音楽よりも絵画の方を多く手がけているそうで、いくつかの絵を見せてくれましたが、印象派風のブルーの色彩が混ざり合っただけのきれいなものでした。そしてよく目を凝らすと、中央に女性の顔がほのかに認められました。彼はこの絵は「青の女」という絵だと言いました。
【モーツァルト】
私がモーツァルトを見たのは2、3回です。でもリストは彼が戻ってきて私にもっと音楽を教えてくれるだろうと言っています。
【シューベルト】
私は未完成交響曲の結末を聴きました。あんな美しい曲は聴いたことがありません。でも書きとめておかなかったので忘れてしまいました。彼はまた繰り返しやってくれることでしょう。彼との交感はとても楽です。
【ラフマニノフ】
彼は控え目だったので最初私はかたくなってしまいました。彼は壁があると言いました。でも彼を知ってみると、彼はとても忍耐強くて親切な人です。
(音楽の友1976年4月号より)
YouTubeには他の作曲家のもあるのですが、日本語じゃないので、よくわからないのです。
148 スマイル
いつでもスマイルしようね。とんでもないことが起きてもさあ〜
孫の保育園のお遊戯会で、3歳児の合唱がなぜか、懐かしかった。
『スマイル』
最近の歌は知らないので、調べて納得。
アニメ『こちら葛飾区亀有公園前派出所 』のエンディングの曲だった。
元々は1996年にリリースされた、ホフディランのメジャーデビュー曲。この曲はとてもほのぼのとした優しいイメージ。
この歌を女優の森七菜がカバーした。最初はCM用にと30秒だけ収録をしていたのだが、要望が多かったのでついにフルバージョンにて収録された。
そして配信限定にてリリースされた。とてもかわいい雰囲気の曲だ。
ところが、笑顔を強要してる……とか、嫌味な歌詞、女性差別、なんて意見が。
森七菜 スマイル
https://youtu.be/v7BY5m2wYx4?si=El23jjrmwvQB5Iiz
『こちら葛飾区亀有公園前派出所 』のエンディング
https://youtu.be/avhZ3l2ZPRI?si=UO7b38bYNxgZNSOO
✳︎
モダン・タイムス 1936年
前作の『街の灯』 (1931年)に続いてのサウンド版で、一部にセリフが入る以外は音楽の伴奏と効果音のみによるパート・トーキー映画となっている。
また、チャップリンが初めてスクリーンで肉声を発した映画であり、キャバレーで「ティティーナ」を歌うシーンで、チャップリン自身の歌声を聴くことができる。
自作の映画音楽も映像にのせており、前述の「ティティーナ」とラストシーンで印象的な「スマイル」を作曲し、その音楽的才能も開花させている。
公開当時はすでにトーキー映画が普及していたため、この作品は「時代遅れ」と呼ばれて、あまり高い評価は得られなかった。
本作はルネ・クレール監督作品『自由を我らに』と内容が酷似している。そのためドイツの製作会社・トビス社は1937年にチャップリンを著作権侵害で提訴した。しかし、証人に立ったルネ・クレールは、「もし『モダン・タイムス』が自分の映画からヒントを得ているならば、光栄に思う」と証言したため、告訴は取り下げられている。
モダン・タイムス 1936
https://youtu.be/Ps6ck1ejoAw?si=IZf73jJmK2tcZtQP
https://youtu.be/oF-td6nbvrY?si=BE5Sp69ikz8IHN4g
数々のコメディ映画を作り上げ、喜劇王の異名をもつチャールズ・チャップリンが、1936年に大ヒットさせた映画「モダン・タイムス」のテーマ曲。
この時には、まだ歌詞がついておらず、18年後の1954年、作詞家のジョン・ターナーとジェフリー・パーソンズが歌詞をつけ、ナット・キング・コールの甘い歌声で歌い上げられた。その時にはじめて「Smile」というタイトルがついた。
スマイル ナット・キング・コール
https://youtu.be/Sh-RYJUc8A0?si=-0KrcnZOknOn5t9P
歌詞では、歌手が聴衆に対して笑っている限りは明るい明日が常にあると元気付けている。「スマイル」はチャップリンの映画で使用されて以来、スタンダードとなった。
ナタリー・コール (1950年2月6日-2015年12月31日)は、アメリカ合衆国のシンガーソングライター。ナット・キング・コールの実娘。
スマイル ナタリー・コール
https://youtu.be/qT9KWSKmCks?si=M1qxUcgMc5CoCNNB
その後も数多くのミュージシャンがカバーしている。
ダイアナ・ロス、エリック・クラプトン、ロッド・スチュワート、エルビス・コステロ、マイケル・ジャクソン、MISIAなどなど。
メロディーの美しさにも泣けるが、歌詞が素晴らしくて、悲しい時でも辛い時でも笑顔でさえいれば乗り越えられる、という内容。
スマイル ロッド・スチュワート
https://youtu.be/RJWA0fUM7-4?si=GGu0yUzTDCp_vwjU
2011年東日本大震災が発災した時に、被災地で最も多く歌われていたのが、「上を向いて歩こう」と「Smile」。被災された方々は辛く苦しく悲しいはずなのに、歌を聴いて「元気をもらいました」「頑張れそうです」と感謝の気持ちを伝えておられた。
トランペット奏者のクリス・ボッティは、エアロスミスのスティーブン・タイラーとこの曲を録音し、ボッティの2005年のアルバム『To Love Again: The Duets』に収録された。
クリス・ボッティは姉が好きで1度だけコンサートに行きました。音が耳ではなく体に響いた響いてきた。
映画『アルマゲドン』で有名なハリウッド女優、リヴ・タイラーの実父。リヴ本人は、物心付く前に両親が別れていたために、スティーヴンの顔を覚えておらず、成長してエアロスミスのファンとなった頃 (9歳の時)に、スティーヴンが自分の実父であることを知り、非常に驚いたという。
スマイル スティーブン・タイラー クリス・ボッティ
https://youtu.be/Kyyys4VenJ4?si=nybSwpNBlZ_OWKLN
マイケル・ジャクソンは、1995年の2枚組アルバム『H IStory』に『スマイル』を収録した。
ライブでは『HIStory World Tour』の最後のコンサートで、ダイアナ妃を追悼するためコンサートの最初に歌った。
スマイル ダイアナ妃追悼 マイケル・ジャクソン
https://youtu.be/qvdeSv1GHNA?si=oQKKheG75pRBP_qv
2009年7月7日のマイケルの追悼式で、以前彼と交際していたブラック・シールズが「Smile」をマイケルのお気に入りだったと語った後、マイケルの兄ジャーメイン・ジャクソンがこの歌を歌った。
スマイル ジャーメイン・ジャクソン
https://youtu.be/kEeJM_7Xv_w?si=7qW4xu4Aon_bbGTD
度重なる整形手術や著しい肌の色の変化は、度々マスメディアの注目を集め、議論や憶測を呼んでいた。
初めて整形手術を施したのは1979年にステージで負った鼻の大怪我を早急に治癒する目的があった。
1984年に負った頭部の大火傷で顔面の骨格や皮膚に後遺症が残ったことや、もともと幼い頃に家族から「デカ鼻」といじられ容姿にコンプレックスを抱いていたこともあって、その後も晩年に至るまで鼻と顎を中心に整形手術を繰り返したとみられる。
1988年の自伝『ムーンウォーク』で自身が語ったところによれば、当時の時点で彼が施した整形手術の回数は「鼻が2回、顎が1回」であるという。
一方で、肌の色の変化は尋常性白斑という疾患に由来するもので、死後の検死報告で公式に明らかにされた。この病気が進行し始めたのは1979年から1982年の頃で、体中の皮膚の色が斑状に変化していったという。
1990年代以降に病気は急激に進行し、外出中は紫外線を断ち切るために常に大きな帽子、傘、サングラス、マスクの着用を余儀なくされていた。長年彼のメイクアップを担当していたカレン・フェイは
「彼も周りもずっと病気のことを隠そうとしていた。最初は白い部分を茶色のファンデーションで隠していたが、白斑が全身に広がると白くメイクするように切り替えるしかなかった」
と話している。また、1984年に負った頭部の大火傷も病気の進行を早めたと言われている。
マイケル・ジャクソンの外観には白斑が見られるが、これは撮影の際に負った頭部火傷やストレスなどによる後天的発症であり、先天的な異常ではない。
彼は長らく偏見報道に悩まされていた。皮肉にも彼の病が公的に証明されたのは死後の司法解剖であった。
マイケルの1番好きな曲は自分の曲ではなく、大好きなチャーリー・チャップリンが作曲したこの曲だそうです。
スマイル マイケル・ジャクソン
https://youtu.be/pyRa_ygq1nc?si=snmO5gC2LVutc34D
https://www.jas-audio.or.jp/
149 エレジー
エレジーといえば『赤色エレジー』
『お気に入りの音楽 』の3話目に投稿したくらい好き。今でもよく聴いている。
エレジーは、悲しみを歌った詩などの文学作品、楽曲。日本語では悲歌、哀歌、挽歌などと訳される。
【ラフマニノフ:幻想的小品集Op.3】
ラフマニノフがモスクワ音楽院を卒業した翌年の1892年に作曲された。この曲集の第2曲前奏曲 嬰ハ短調によって、ラフマニノフは一躍有名になった。
第1曲『悲歌 』変ホ短調 "Elegie"
4分の4拍子。左手で奏される分散和音の上に、哀愁ただよう旋律が歌われる。中間部では、低音部に旋律がおかれ、これがさらに高音にあらわれたのち徐々に感情の高まりをみせる。
YouTubeを探していたらこの動画を発見。ピアノ曲なんですが、コントラバス (奏者)に心奪われました。
検索しても日本語の説明がありません。
ラフマニノフ:幻想的小品集Op.3第1曲 エレジー Adrian Ericsson コントラバス
https://youtu.be/LGMbnmJDJRc?si=kAXqYFyiMTHerb6M
第2曲『鐘』
真央ちゃんのバンクーバーオリンピックの時の曲ですね。
ラフマニノフ:幻想的小品集Op.3第2曲 鐘 YouTuber系ピアニスト ぶどう/buds
https://youtu.be/349vacDLEt0?si=qqgtg3zkzSEUvTA0
2010年2月に行われたバンクーバーオリンピック。初のオリンピックシーズンに浅田がフリースケーティングで選んだ曲は、ラフマニノフが19歳のときに書いたと言われる『前奏曲嬰ハ短調Op.3-2鐘』である。
原曲はピアノ曲だが、彼女が選んだのは管弦楽版。しかしあまりにも重厚な曲、さらにトリプルアクセルを2回入れ、演技の3分半越えてから怒涛のステップが入るという難度の高いプログラムだったため、シーズン前半は思うような結果につながらなかった。
「彼女の雰囲気に合っているのか」
「別の曲に変えた方がいいのでは」
など、心配する声も上がっていた。
だが彼女はこのチャレンジングなプログラムに真正面から取り組んでいった。
引退発表後のテレビ番組『引退特別番組 浅田真央26歳の決断~今夜伝えたいこと~』のインタビューで自身の演技を見た浅田は、
「このときが一番強い気持ちだった気がする」「鬼みたいだった気がする。自分が」
と振り返っている。
浅田真央 バンクーバーオリンピック 鐘
https://youtu.be/b61gDA7QcMs?si=ehqg3SCIehX-GwPJ
【無言歌集】
メンデルスゾーンによって作曲された一連のピアノ独奏のための作品集である。
7集第4曲目は悲歌 (エレジー)と呼ばれているわりには、優しくてあたたかい雰囲気の1曲。ずっと遠くのその先の、おとぎの国の物語。そんな幻想的な1曲です。
メンデルスゾーン 無言歌集 エレジー
https://youtu.be/aBMIe1SP5vs?si=Vtc0ZpyWH-3N7HP-
【ババジャニアン・エレジー】
アルノ・ババジャニアンはアルメニアの作曲家。エレジーはアルメニアの有名な作曲家、ハチャトリアンの死を追悼して作曲された。
知らなかった作曲家、初めて聴いた筈なのに、なぜか懐かしい……
ババジャニアン・エレジー
https://youtu.be/cRU2-hQlvPw?si=VUEEcIN03lFfRLc7
✳︎
【本牧メルヘン】
1972年・昭和47年は朴訥な背中を持った阿久悠さんがカウンターで描いた大人の悲しい童話です。
〝恋をしたこともなく悩みもないのに〟自ら命を絶って、〝かもめになった〟女性。
阿久さんは70年代を「さびしさが死ぬ価値だった時代」とし、そこへと駆り立てたのは「豊かになったあとの虚無さ」であるとしています。
戦後の急速な高度成長によって本牧も夢のお城ではなくなってしまった時、若者たちの胸にはかなわぬ夢よりもつらい白壁がひび割れていました。
そんな物語を、洋行帰りの鹿内孝さんは劇中のジョニーとスミスさながら、虚無の中で熱く優しい吐息をこよなく描きます。それは哀悼の〝苦めのコーヒー〟に溶かされていくクリームのよう。針を落とすたび、汽笛のけむりに似た哀れな湯気が、瞳の奥でぐしゃと崩れます。
鹿内 孝 (しかない たかし)
1941年2月25日 (当時31歳)、千葉県市川市生まれ、
反骨精神旺盛情緒魚座水瓶座寄り。身長:174cm、血液型B。
1959年に鹿内タカシ&ブルーコメッツを結成し日本劇場でのウエスタン・カーニバルに出演。
1961年、渡辺プロに入り「ロカビリー歌手」として売り出し。
1966年から1968年までアメリカ合衆国へ音楽留学。
1968年に「想い出のブルーレイン」で活動を再開。
こたび作詞:阿久悠さん、作曲:ブルコメ井上忠夫さん、編曲:川口真さんの手によるこの五臓六腑に染みこむ唄で歌謡港に帰ってまいりました。
もし世界にこれで参ったかと我が国ポップを突きつけるとしたらこの曲が威力一番かとも思う。
この時の時代の臭いを本牧の埠頭に打ち寄せる波の潮の臭いをもぶちこんだ名曲です。98点。
本牧メルヘン 鹿内孝
https://youtu.be/bIXc15sohvk?si=EZkaccl_XsHvFHAl
【哀歌(エレジー)】
2007年1月17日に発売された平井堅の25枚目のシングル。
東宝映画・日テレ・読売テレビ制作作品『愛の流刑地』主題歌。原作と映画台本を元に書き下ろされた楽曲で、ヒロイン・冬香の描写にインスパイアを受けた結果、初めて女性目線の楽曲になっている。
タイトルは100以上もの案の中から、「エレジー」という言葉の雰囲気と実際の意味が曲に合っているということでつけられた。
(哀歌) エレジー 平井堅
https://youtu.be/1XiobV-KgRg?si=PrFLH9tpSuZLkulV
【石狩挽歌】
1975年6月25日に発売された北原ミレイの8枚目のシングル。
作詞・作曲 なかにし礼 (作詞)浜圭介 (作曲)馬飼野俊一 (編曲)
石狩の海の鰊漁を舞台に、大きな夢を見て それをつかめないままに終わってしまう男、そんな男と人生をともにする女の気持ちが、鮮やかな情景とともにうたわれている。
なかにし礼自身の幼少時の体験、兄に対する複雑な気持ち、人生に対する想いが織り込まれている。なかにし礼には、15歳年上の、破滅傾向で疫病神のような兄・正一がおり、その兄が引き起こすトラブルや葛藤が人生にしつこくつきまとった。
幼少時、なかにし家は貧困の中にあり、兄はバクチのような鰊漁を行ったことがあり、せっかく大漁に恵まれたのに、それで満足せず、わざわざ本州まで運んで高く売ろうとしたために、結局せっかくの鰊も腐らせてしまい、全てを失い膨大な借金だけが残ってしまった。
そして一家は離散することになった。なかにしの内にある、そうした原体験とでも呼べるようなものがこの歌には込められているのである。
ある時期、なかにし礼は作詞に行き詰まっていたが、そこに兄が現れ、兄自身が「鰊のことを書けばいいじゃないか」と言ったという。そうしてこの作品は生まれた。
ただし、こうした体験をただそのまま表現しただけでは なかにしの体験をしていない人の心にはすんなり響かないだろうから、聞く人と気持ちを共有できる言葉を詩に織り込んだ、といった主旨のことを なかにし礼はあるテレビ番組のカメラに向かい語っていたことがある。
ヒット当時に北原歌唱版のものが有線放送でさかんに流れ一気に日本人の心に焼きつき、また八代亜紀もテレビで歌唱、その後も石川さゆりや坂本冬美らによるカバーなどもテレビで視聴され、氷川きよしなど若手の歌手も歌うなど、多くの歌手によって歌われている。
石狩挽歌 北原ミレイ
https://youtu.be/DNXaJkGu1qI?si=Fs8zd_rU4B9SdW15
150 ヨナ抜き音階(日本音階)
某サイトで日本音階のことを投稿している方がいました。
音楽を聴くのは好きだけど、音階とか難しそう。でも、とても興味を持ち調べてみました。
【ヨナ抜き音階】(日本音階)
4番目と7番目の音が抜けている音階のこと。「四七抜き音階」と書くこともある。
西洋音楽が日本に伝わってきた明治時代に、「ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ」を「ヒ・フ・ミ・ヨ・イ・ム・ナ・ヒ」と読んでいたことから、ヨナ抜きと呼ばれるようになったともいわれている。
ハ長調「ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ」の場合だと、4番目の「ファ」と7番目の「シ」を抜いた音階。
「ファ」と「シ」の2音を抜いた「ド・レ・ミ・ソ・ラ」という、5音の音階になる。ピアノの鍵盤の「ファ」と「シ」は使わない。
チューリップはヨナ抜き音階
ドレミー ドレミー
ソミレド レミレー
チューリップ
https://youtu.be/g2ceV8B1mZY?si=NzgdALWlGFTlYddM
ヨナ抜き音階の曲は、黒鍵だけで全部弾ける。
「ファ」のシャープを「ド」に見立てて弾くとヨナ抜き音階に。
黒鍵だけを弾いているのに、ちゃんとヨナ抜きの『チューリップ』になっている。
♯ファ♯ソ♯ラー ♯ファ♯ソ♯ラー
♯ド♯ラ♯ソ♯ファ ♯ソ♯ラ♯ソー
黒鍵でチューリップ
https://youtu.be/faguM4T366I?si=YSmzGy4-LtvrYKMx
民謡、演歌、琴や三味線、雅楽などの古い音楽は、西洋音楽とちがった独特の音階で作られていて、それが「和風」の雰囲気を出している。
日本に西洋音楽が入ってきて、「唱歌」などが作られ始めたのは明治時代。
西洋の音楽理論、記譜法を使っていても、それまでに耳なじんだ「ヨナ抜き音階」の世界観が染みついた日本人には、作る側も聞いたり歌ったりする側も、この音階による旋律が心地良かった。
そのため、そのころ作られた曲には「ヨナ抜き音階」の曲がとても多い。
「チューリップ」「はとぽっぽ」「おしょうがつ」「まめまき」など、文部省唱歌にたくさん見られる。
また、それ以降時代が進んでも、ヨナ抜き音階による曲は日本人の耳にとても受けがよく、歌謡曲などにもよく使われている。
リストの『ラ・カンパネラ』
https://youtu.be/aSk1bjZfqvQ?si=gckP6BxDy2BI7Age
お座敷でお琴で奏でていそうな上品な曲。(投稿者さんのコメントから)
モーツァルトの『トルコ行進曲』
https://youtu.be/PzHMqpxNCfQ?si=o_PyT8ZtEi3FFNry
トルコ感は全くなくて、お祭りのお囃子みたい。(投稿者さんのコメントから)
ドビュッシーの『月の光り』
https://youtu.be/4Se0XbWZ3NA?si=qzUmrJrMu1yHmLi6
原曲どんなのでしたっけ? 平安貴族が日本酒に月を浮かべて月見をしているような雅な感じ。(投稿者さんのコメントから)
YouTuber CANACANAさん
登録者60万人。総視聴回数2億回。 ピアニスト、編曲、作曲は姉のCANACANA、 動画撮影、編集は弟の仲良し姉弟コンビ。音大卒、海外でも研鑽を積んできたピアノの技術と編曲の実力を生かし、クラシック、ポップス、アニソン等、様々な音楽をピアノ一台で。
ベートーヴェン エリーゼのために
https://youtu.be/mh0OiZHQdF8?si=G4espkCcPd6hRx_H
これは一番混乱しながら聴きました。私は全然分かりませんが、聴けば、純和風だ、って事だけ分かります。(投稿者さんのコメントから)
日本人の琴線に触れるヨナ抜き音階は日本固有の音階ということで、日本音階と呼ばれる。
古くから伝わる民謡や童謡、唱歌などに多く、また今でも演歌や歌謡曲でも使われている。
どことなく哀愁や憂いを帯びた曲調で、抒情感やノスタルジックな思いにかられるヨナ抜き音階は、私たち日本人の遺伝子のどこか深くに根をはっている。
(ピアノレッスン 音楽の魔法から)
ヨナ抜き音階は欧米にもある。
【蛍の光】この原曲はスコットランド民謡の【Auld Lang Syne(久しき昔)】
【アメージング・グレイス】もスコットランドやアイルランド地方の民謡から来ている旋律だといわれている。
【テネシー・ワルツ】アメリカ発祥のカントリー・ミュージックを基にP.W.キングが作曲した。
このカントリーというジャンルも〈ド・レ・ミ・ソ・ラ〉の曲が多い。
【カントリー・ロード】【500マイル】など)
【SUKIYAKI】
日本の曲がアメリアに渡り全米ヒットチャート1位となった、坂本九が歌った【上を向いて歩こう】も五音音階。ヨーロッパにも紹介され広く知られた。
他にも〈ド・レ・ミ・ソ・ラ〉の音階による昭和歌謡曲はたくさんある。
・ピンクレディー【渚のシンドバッド】出だし
・キャンディーズ【春一番】
・ペドロ&カプリシャス【五番街のマリーへ】
・吉田拓郎【結婚しようよ】
・美輪明宏【ヨイトマケの唄】
……などなど。
平成のポップスにも。
AKB48の【恋するフォーチュンクッキー】のサビの部分。
そして令和にも!
NiziU【Make you happy】、瑛人【香水】
全てが〈ド・レ・ミ・ソ・ラ〉だけではなく、ファとシも使っている
が、出だしだけ、もしくはサビだけ、或いは全体を通して五音音階が基盤になっている、というように巧く使われている。
そして、この誰にも馴染みやすい五音音階を用いる事がヒットに繋がっている。
蛍の光 黒鍵演奏
https://youtu.be/UBjT7Va_8F0?si=GO1rkgF5AU7CWRFg
瑛人 『香水』ピアノカバー
https://youtu.be/PJwu_YQFS2I?si=1HLZDNDn6J-EggPn
お気に入りの音楽 141〜150