お気に入りの音楽 141〜145

お気に入りの音楽 141〜145

141 この子を殺す気か

 以前、マイケル・ジャクソンを投稿したとき、ジャクソン5からフィンガー5を連想しました。

 フィンガー5は、日本の男女混合歌謡アイドルグループ。主に1970年代に活動した。沖縄県出身の男性4人と女性1人の5人兄妹が踊りながら歌い、四男の晃は変声期前のハイトーンボイスでメインボーカルを担当し、彼らの歌唱力やルックスなどが人気を博してミリオンセラーとなる。

 初めてのテレビ出演は子供の視聴が多い土曜の夕方に放映され、放映直後はテレビ局に問い合わせの電話が殺到した。1973年に世志凡太がプロデュースし、漫画家の水島新司がレコードジャケットのイラストを手掛けた『個人授業』を発売すると、ミリオンセラーとなり一気に知名度が上がる。その後『恋のダイヤル6700』『学園天国』などをリリース、いずれもミリオンセラーとなった。テレビ・映画にも多く出演した。楽曲のテーマは学校における恋愛で一貫していた。
 5人の中でも特に、年少の晃と妙子に注目が集まった。デビュー当時は11歳と10歳で、あどけない姿でステージをこなす姿が人気となった。晃が「目立ちたいから」とトレードマークとしたトンボ形のサングラスが大流行した。
 大人気によるハードスケジュールのために晃が過労で入院すると、病床の写真が週刊誌に掲載され、医師は関係者に、
「あなたたちは、この子を殺すつもりか」
と告げた。
 晃が変声期で「声変わり」を防ぐため、関係者らが女性ホルモンの注射を強く勧めたが本人は断った。

 1975年、ハードスケジュールは限界に達し、休養も兼ねて1975年から1976年に米国に留学する。これまで芸能活動で得た収入は、渡航費用で全て使い切った。芸能活動に一切口を出さなかった父の、
「芸能界で稼いだ金など、あぶく銭だ」
とする考えも反映されていた。
 帰国後は、長く日本を留守にしていたこと、メインボーカルの晃が変声期で従来のようなハイトーンが出せなくなったこと、彼らのやりたい音楽とファンのニーズが乖離してヒットに結びつかないことなどから人気が急落した。
 後の晃の述懐によると、どうすれば売れるかは分かっていたがそれは自分たちがやりたくないことであり、割り切って自分たちのやりたいことをやろうとしたら売れなくなったという。
 末期は晃に代わり妙子をメインボーカルに据えたり、バンドとしてメンバー自らの演奏を前面に出すなどを試みるも人気は回復せず、1978年に実質的に解散した。
 その後メンバーの一部は、ザ・フィンガーズなど、いくつかのバンドを結成し活動するが、大きくブレイクすることはなかった。

「毎日毎日朝から晩まで働きづくめで、意識を失って何度か幽体離脱になったこと、ありましたよ。各局,音楽番組だけでもたくさんあって、出まくっていたから。マネージャーの手帳、分刻みのスケジュールで真っ黒ですよ。よくやったな」

 当初、晃のトレードマークの大きなトンボ眼鏡はかけていなかった。ラジオの公開番組で布施明がサングラスで歌っているのにヒントを得て、新宿伊勢丹で似た眼鏡を買ってステージに立とうとした。
 ところが長兄が猛反対。晃は本番直前にかけて客の前にでた。怒る長兄。NHKのスタッフが晃のトンボ眼鏡を絶賛した。以後、晃のトレードマークになる。

 猛烈に忙しかった晃は、40度の高熱が出てもステージに立った。
「緞帳の影でマネージャーが僕にささやくんです。”晃、みんなお前のことを観に来てるんだよ。ここでおまえが倒れて、病院に行ったらこの子たち、どうする?”って。正論なんだけど、当時のオレには酷だったね。命ここまで使い切らせるんだって。子どもだから残りの10パーセントのエネルギー全部使うからね」
 仕事の途中で何度も倒れて救急車で運ばれ点滴を打った。廊下で医師がマネージャーに「あんた、これ以上仕事させたら死ぬよ」
と警告した。

 晃の体に変化が起きた。思春期を迎える少年にとって避けられない変声期である。
「マネージャーに渋谷の耳鼻咽喉科まで連れていかれて、女性ホルモン注射打つしかないってことになった。成長を止めて、声変わりをしのぐしかないって。でも打つと毛がはえなくなるし、あそこが小さくなるって。それは無理、その場で断った。親にも兄妹にも言えなかった」
 変声期がきっかけになって、人気に翳りがでた。幼いアイドルから大人に脱皮する時期が一番難しい。ショービジネスの世界で大成功をおさめながら、19歳でいさぎよく芸能界から引退した。
 フィンガー5が大成功したときでも、父親はずっと東村山の冷凍工場で働いていた。前から芸能界入りを反対していた父親は子どもたちが一般人にもどることに大賛成だった。

 晃が転じた次なる世界は電化製品の飛び込みセールスマンだった。
「売上げゼロでノイローゼ、メシも食えない。ガリガリで2度目の死にかけだった。地獄だったね。自殺しようと思った」
 先輩から、「もっと開き直れ」と言われてからは、訪問先で挨拶代わりにかつての持ち歌を歌い、中に招き入れられ、電化製品を売り、成績アップになった。売れるとやる気がでた。20年前から歌手に復帰。

「いやなこといっぱい観てきたから、真逆で生きればいいと思った。自分は純粋でいられるから」

ーーフィンガー5って、スキャンダルがなかったですね
「ないもん。親父に殺されるから。まっとうに生きることが僕らの仕事だった」
 すでに空に旅立った父親は、琉球空手の師範で、警察で教えるほどの腕前だった。

 歌の世界にもどれて何がよかったといえば、尾藤イサオと同じコンサートステージに立てることだった。
「死を考えたとき、尾藤イサオさんが歌う『あしたのジョー』の主題歌に励まされて、思いとどまったんですよ。ジョーが少年院から這い上がるじゃないですか。おれもジョーに負けられないって勇気づけられる歌でしょう。尾藤さんがステージで歌っていると、緞帳の横で涙がぎゅーっと来た」

 公園でエリック・クラプトンの「チェンジ・ザ・ワールド」を弾く晃。
 苦楽はメロディを味わい深くするスパイスになっていた。

 上の記事から……私も大好きな歌です。
♬だけど~ルルルル~ルルル~ルル~ルルル~
 実はこのルルルの部分にはちゃんとした歌詞があったのを、尾藤さんがレコーディングの時歌詞を忘れてルルルでごまかしたのが
そのまま使われたそうです (本人談)コメントから。


学園天国
https://youtu.be/13ml7EINDMo?si=sWxHAS3_Mv0tkFb_

個人授業 晃
https://youtu.be/qycAD78UonU?si=tbR-Tx2-KXEG3Neu

あしたのジョー
https://youtu.be/HmbG85pw8qM?si=0AeqRhTjZ8HjZWMm

142 サザンからなぜかビージーズへ

 車に乗ると連れ合いがサザンオールスターズををかける。私は聞き流す。
 これは、ちょっと引っかかったので調べてみた。

『愛の言霊 〜Spiritual Message〜』(あいのことだま スピリチュアル・メッセージ)は、サザンオールスターズの楽曲。自身の37作目のシングルとして、1996年5月20日に発売された。

愛の言霊
https://youtu.be/JBUXrQwnbsA?si=2EgFWs3_WFqlhz-q

 なぜか……モヤモヤっと。
 調べてみると何曲か出てくる。パ・ク・リの文字が。
 

『不可幸力』(ふかこうりょく)は2020年1月22日に配信限定でリリースされたVaundyの楽曲。

不可抗力
https://youtu.be/Gbz2C2gQREI?si=I8UffKFVqPPZZv9E

 どちらもインスパイア、オマージュ、リスペクト……?

『ウーマン・イン・ラブ』(1980年9月23日発売)はバーブラ・ストライサンドが歌った曲で、世界12か国でNo1になる大ヒットになった。
 この曲は、ビージーズのバリーとロビン・ギブによって書かれ、彼女の最大の国際的ヒットと見なされている。


ウーマン・イン・ラブ
https://youtu.be/Fh7_9iLET48?si=-cn6quUX2dMS_Wpb

 
 こちらは、もともとはインドネシア民謡。

『愛の言霊』も、インドネシア民謡をリメイクしているのだとか。

「インスパイア」とは、尊敬する作品に影響を受けて同じテーマの作品を作ること。動詞インスパイアの名詞形が「インスピレーション」。
 インスパイアは「思想などを吹き込む」という意味を持つため、あるアーティストの作品に感銘を受けて制作された作品を「インスパイアされた」作品と呼ぶこともある。
 後に映画化もされたブロードウェイミュージカル『ウエスト・サイド物語』はシェイクスピアの『ロミオとジュリエット』にインスパイアされた作品である。
 一方、「オマージュ」はフランス語で「敬意」「賞賛」を意味し、英語の「リスペクト」と同じ使い方をする。
「インスパイア」「オマージュ」「リスペクト」はすべて尊敬や賞賛の念が込められていて、元の作品をそのまま流用することなく、独自の表現を加えて創作されている。
 インスパイアやオマージュの場合は「インスパイアされた(オマージュを捧げる、リスペクトされた)オリジナル作品はこれです」と胸を張って主張できることが大きなポイント。
 オリジナル作品の個性を尊重しながら創造された新しい作品は、人々に意義のあるものとして受け入れられていく……
https://online.dhw.co.jp/kuritama/inspire-hommage-parody-pakuri-meaning-and-border/amp/

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『ウーマン・イン・ラブ』の作者であるビー・ジーズのバリー・ギブ (1946年9月1日 - )は、マン島出身のシンガーソングライター・音楽プロデューサー。
 2人の弟 (ロビン・ギブ、モーリス・ギブ)と結成したビー・ジーズのメンバーとして知られている。
 ビー・ジーズはオーストラリアでデビューし、イングランドに戻ってから成功した。バリーは高いピッチのファルセットを歌声で使うことで知られる。また、トップ10中5曲を同時にランクインさせた唯一のソングライターである。

『マサチューセッツ』(Massachusetts) は、ビージーズが1967年に発表した楽曲。この曲のメイン・ボーカルはロビン・ギブが務めているため、後にロビンのコンサートでの主要曲となった。
 マサチューセッツは、ビージーズにとってオーストラリアとイギリスで初めてとなるナンバー1ヒットとなり、世界中で500万枚を超える空前のヒットとなった。(Wikipediaより)

マサチューセッツ
https://youtu.be/MzJUkXhzMr0?si=IETB7UI0Uih5Em7w

 これは姉がレコードを買って聴いていた。6歳上だったのでこの頃の洋楽は姉経由でやってきた。

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 今から半世紀近くも時を遡る、1971年。日本で、意外な洋画が話題を集めていた。そのタイトルは『小さな恋のメロディ』。
 同年の配給収入で2億円を記録し、洋画の5位という大ヒット。

 ロンドンの公立学校に通う11歳のダニエルが、同じ学年のメロディに恋をする。親や教師に内緒で、友人たちとともに二人は結婚式を挙げるという、少年少女のピュアなラブストーリーは、本国イギリスではまったくヒットせず(むしろ「駄作」の烙印を押されてしまった)、先駆けて公開されたアメリカでも成績はパッとしなかった。
 しかし両国の不振に関係なく、日本では予想外のヒットを記録した『小さな恋のメロディ』は、熱狂的なファンを獲得することになる。
 ここから数年にわたって、何度もリバイバル公開が続き、TVのロードショー番組で放映されると高い視聴率を上げた。
 映画雑誌「スクリーン」ではマーク・レスターやメロディ役のトレイシー・ハイドがたびたび表紙を飾った。

メロディ・フェア
https://youtu.be/wC9035e_i8c?si=Fl7YvcWtA7IdTOxV


『小さな恋のメロディ』では、キーポイントの場面でビージーズやCSN&Y(クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤング)の曲が使われるが、そこだけがまるでミュージックビデオのような効果を発揮している。
『メロディ・フェア』『若葉のころ』は映画以前の1969年にすでに発表されていた曲だが、歌詞も含め、映像とあまりにマッチしており、驚くばかりだ。
 ビージーズは1977年に『サタデー・ナイト・フィーバー』のサウンドトラックを手がけ、爆発的ブームを起こすのだが、『小さな恋のメロディ』で彼らの曲と映画の美しいケミストリーはすでに起こっていた。

『小さな恋のメロディ』のサントラがCDで発売されたのは日本のみだった。
https://cinemore.jp/jp/erudition/376/article_377_p3.html#a377_p3_1

若葉の頃
https://youtu.be/TvoJCdH1jlI?si=51Js5gQ_gpKNXJr8

 Kinki Kidsのドラマ『若葉のころ』主題歌にも使われていました。 

 ︎

『サタデー・ナイト・フィーバー』は、1977年製作のアメリカ映画である。監督はジョン・バダム。ジョン・トラボルタの出世作。

 映画のサウンドトラック『サタデー・ナイト・フィーバー』は驚異的な売上を記録し、なかでも作中で「ステイン・アライヴ」などBillboard Hot 100 1位6曲を含む7曲を提供したビージーズはその人気を不動のものにした。
 日本ではこの映画の影響でディスコ・ダンスで踊り、熱狂することを指す「フィーバーする」という言葉が生まれた。転じてパチンコでの大当たりのシステムでも「フィーバー」という言葉が使われるようになった。

 世界中で約2億枚を超えるレコード売上を誇り、今や史上最も人気の高いアーティストの一つとして確固たる地位を築いているビー・ジーズだが、実は彼らのディスコ・ヒットはバンドが苦境にある時に生まれたものだった。ギブ兄弟の長兄であるバリー・ギブは2013年、次のように語っている。
「あの頃の僕らは事実上死んだも同然でした」「ビー・ジーズのサウンドは基本的にマンネリ化していた。当時の僕らは3年くらいヒットに恵まれてなくて、何か新しいものが必要だった」
https://search.yahoo.co.jp/amp/s/www.udiscovermusic.jp/news/more-than-a-woman-bee-gees-feature%3Famp%3D1%26usqp%3Dmq331AQIKAGwASCAAgM%253D

ステイン・アライヴ
https://youtu.be/YxvBPH4sArQ?si=NutWX43HoKwMW2v5

 
ジョン・トラボルタ

 1976年の『キャリー』で本格的な映画デビュー。
 1977年に主演した青春映画『サタデー・ナイト・フィーバー』のヒット、及びアカデミー主演男優賞へのノミネートにより、スターとなった。
 その後も『グリース』『アーバン・カウボーイ』のヒットでさらに人気を高めた。
 しかし、1983年の『ステイン・アライブ』(『サタデー・ナイト・フィーバー』の続編)が酷評され、『セカンド・チャンス』などが興行的に失敗するなど、一時期役に恵まれなかったが、彼の大ファンだったクエンティン・タランティーノ監督の『パルプ・フィクション』(1994)のヴィンセント役で復活をし、安定した幅の広い演技力を評価され、映画自体もアカデミー脚本賞、カンヌ国際映画祭パルム・ドールを受賞、再び大スターの地位を安泰なものにした。 

パルプ・フィクション ダンスシーン
https://youtu.be/u4i1RZQRZ3M?si=EgMHETIGRJNhxx6r

 トラボルタ、激変……
 ユマ・サーマンは素敵。『キル・ビル』の女優さん。

143 サイモン&ガーファンクル ダスティン・ホフマン

サイモン&ガーファンクル 
 1964年にデビューし、1970年に活動を停止するまで、フォーク、フォーク・ロックを代表するデュオとして数々のヒット曲を世に送り出した。

サウンド・オブ・サイレンス
https://youtu.be/Aa7yWJLCwVw?si=wXZyHvfnIbBgbP0g

 花嫁を結婚式場から奪い去るラストシーンが、今でも語り継がれているアメリカン・ニューシネマの傑作。ブロードウェイ出身のダスティン・ホフマンは本作で主演に大抜擢され、アカデミー賞主演男優賞にノミネートされた。
 教会から脱出した2人はバスに飛び乗り、どこへともなく旅立っていく。笑顔で笑い合う2人だが、やがて放心したような、不安とも取れる曖昧な表情を浮かべて去っていく。
 若い衝動もいつかは色褪せる。そんな現実を暗示させるようなラストは物議を醸し、長年論争の的になってきた。
(結婚スタイルマガジンより)

映画 卒業
https://youtu.be/nc_pswv6aDM?si=0Wa_y7qy8iHsu8fn

 卒業のラストは有名だけど、うまくいかないでしょ?

 この歌は大塚博堂さんの歌で先に聴いたので、こういう内容だとは思わなかった。

 大塚 博堂(おおつか はくどう、1944年3月22日 - 19815月18日)は、ニューミュージックのシンガーソングライター。大分県別府市出身。東洋音楽大学(現:東京音楽大学)声楽科中退。

 大塚博堂を好きな友人がいた。レコードをかけて一生懸命に説明してくれた。大原麗子さんのドラマの主題歌も歌っていた。

大塚博堂 ダスティン・ホフマンになれなかったよ
https://youtu.be/cfJ3WKaGdFc?si=IZsK6POWWyoiJiXB

 歌の1番には『ジョンとメリー』の映画が出てきます。

『ジョンとメリー』(原題:John and Mary)は、1969年制作のアメリカ合衆国の恋愛映画。ピーター・イェーツ監督、ダスティン・ホフマン、ミア・ファロー出演。

 ミア・ファローは好きな女優なのに観ていません。

 ︎

 第61回アカデミー賞と第46回ゴールデングローブ賞(ドラマ部門)、さらに第39回ベルリン国際映画祭においてそれぞれ作品賞を受賞。
 自由奔放な青年と重いサヴァン症候群の兄との出会いと兄弟愛、そして人間としての変化を描いたヒューマンドラマである。

 サヴァン症候群のキム・ピークがレイモンドのモデルであると言われている。キムと面会した作家のバリー・モローがその能力に驚愕し、小説を書きあげた。  
 当初、ホフマンは弟の役だったが、兄の役柄に大きな感銘を受け、自分が演じることを直訴。
 何度もキムに面会し、役作りに励んだ。床に落ちた爪楊枝を瞬時に計数したキム・ピークの実体験がそのまま映画のエピソードとして出てくる。(Wikipediaより)

映画 レインマン
https://youtu.be/b2IN4nkTLa8?si=i2zQyQExiPh3Iucz

 ︎

『パピヨン』は、1973年のアメリカ合衆国の伝記犯罪映画。監督はフランクリン・J・シャフナー、出演はスティーブ・マックイーンとダスティン・ホフマンなど。
 胸に蝶の刺青をしていることで「パピヨン」と呼ばれた男が、1931年に無実を叫びながら終身刑となったものの、脱獄に成功し、後にベネズエラ市民権を取得したというアンリ・シャリエールの同名自伝小説を映画化したもの。
 ジェリー・ゴールドスミスの音楽は、1973年度のアカデミー作曲賞にノミネートされ、しばしば映画音楽の名曲の一つとしてコンサートなどで取り上げられてきた。

映画 パピヨン
https://youtu.be/o-_8eWHbU5w?si=MwENWYYZtGGsLnn4

『卒業』で花嫁を奪っていったベン……ダスティン・ホフマンが、すごいです。

 ︎

 1970年発表のアルバム『明日に架ける橋 (Bridge Over Troubled Water)』の制作中に、ポールとアートの音楽に対する意見の違いが表面化した。
『明日に架ける橋』は、全世界で売上が1,000万枚を超える大ヒットとなり、グラミー賞の最優秀レコード賞・最優秀アルバム賞を受賞したものの、このアルバムを最後に2人はそれぞれのソロ活動に入った。

https://youtu.be/SZG5A5YarGs?si=PtQ63OiuFSGNgoU2

明日に架ける橋 尾崎紀世彦
https://youtu.be/AEfSqyLZdJY?si=Qdsy_SC5gj64LLx0

144 懐かしい番組

 ドラマ『3年B組 金八先生』でよく登場した南中ソーラン節。

https://youtu.be/CcPNqAwiJPg?si=yQL8UPWqr5IRAgHB

 昭和60年代。当時、校内暴力で「日本一荒れた学校」といわれた中学校が北海道稚内市にあった。
 その稚内南中学校では喫煙、いじめ、恐喝、万引きなど様々な事件が頻発していた。校長は、教師神崎と二人で非行に立ち向かおうとする。
 校長以下教師全員が父母たちに学校再建のため、街ぐるみの協力要請をする。一方、神崎は郷土芸能部の生徒達に、地域文化を理解させようとソーラン節を勧めたが、生徒達のノリは悪い。
 ところが、現代風にアレンジされたソーラン節の歌を知ると、生徒達はがぜん興味を示しはじめた……
(movie.jorudan.co.jp)

 地域に埋もれた民謡や民衆文化の発掘に取り組み、1993年稚内市立稚内南中学校の生徒のために「ソーラン節」をプロデュース。斬新な踊りを交えたソーラン節が、南中ソーラン、ロックソーラン等と言われ、全国的ブームとなり、後にCD、映画化(稚内発 学び座〜 ソーランの歌が聞こえる )される。
(伊藤多喜雄Wikipediaより)

タキオのソーラン節
https://youtu.be/KY6EAYLjcis?si=rIdZCuLIpM8CM1x3

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 金八先生、第2シリーズのラスト。 
 歴史に残ると言われている名場面がUPされていた。このドラマで、中島みゆきの『世情』を知った。
 
 沖田浩之さん、もういない。
 この動画、たぶん、すぐ削除されるのでは?

https://youtu.be/TVBxCIpFf8Y?si=APJL2yF2IDia81eJ

 YouTubeには中島みゆきさんの『世情』はカバー曲ばかり。

 こちらもカバー曲です。
 ドラマの写真がたくさん。

https://youtu.be/EzkJ65tdCCE?si=DNOItci0qukujExw


 ︎

 ずいぶん前、検索していたら、すごくいいドラマなのに放映できないという……
 
 なんと、YouTubeで観ることができた。(1話目はナシ)

『それが答えだ!」は、1997年7月2日から9月17日までフジテレビ系列「水曜劇場」枠で放送されたテレビドラマ。

 海外で「神が宿った」と評された世界的なマエストロ、鳴瀬望(三上博史)はコンサート中にオーケストラのメンバーから演奏をボイコットされ、その責任を問われて解雇されてしまった。
 そして山小屋にこもっているが……
 その日の食事と借金返済のために、田舎の中学校のたった12名のオーケストラ部でタクトを振ることになってしまった。

 マーラーの5番第1楽章が、こんなに田舎の景色に合うとは……そして、オンボロピアノを直して4楽章のアダージェット。

 主演は三上博史。他に萩原聖人、酒井美紀、藤原紀香などが出演していてキャスティングが豪華。
 また藤原竜也と深田恭子の俳優としてのデビュー作品で注目されやすいが…… 生徒役で出演していた○の逮捕で、地上波では放映できない。

それが答えだ! オープニング
https://youtu.be/oL6cDDjo-O4?si=ZArVcPSAQtxszz9M

それが答えだ メインテーマ
https://youtu.be/ciXo-tvtyhE?si=DGRVW_Z7wkZ2DQT1

最終話 ラストがマーラーの5番の4、5楽章を三上博史が指揮をする。
https://youtu.be/bKKfWfpZoyI?si=uVl8L99SOuyGdDoI

 ︎

 当時娘たちが観ていて、私は耳に入ってはきたが興味はなかった……が、なにこれ? おとぎ話? ラスト2話で泣いた。泣いた。
 まさかこの展開は予想不可能。後日Amazonで全話観た。川島なお美さんももういない。

イグアナの娘 第1話
https://youtu.be/JPLig9kuXYA?si=yT0-smcn7hHccTP7


イグアナの娘 名場面
https://youtu.be/s7dXrRXUH9E?si=uTESfJKBYKTgHbNV


 初回視聴率こそ7.9パーセントと不振であったがその後着実に上昇を続け、最終回では同時間帯第1位となる19.4パーセントを記録した。


ユア・ソング エルトン・ジョン
https://youtu.be/c0HgvuK5Szw?si=YTov28fzn5x3rIsh

『イグアナの娘』のエンディングの曲。

 この曲はエルトン・ジョンとバーニー・トーピンが一緒に暮らしていた頃に作り溜めしていたものの一部で、1969年10月27日に作曲されたものである。
 バーニーが朝食を採っている間、エルトンはバーニーが以前から作成していた歌詞に対してわずか10分間で作曲した。エルトンは、
「リヴィングに持っていって、ピアノに座って一読したんだ。美しい歌詞だったし、良すぎて台無しにしないようにしなければと思った。
 インスピレーションが凄く湧いて、一気に曲書き上げてバーニーを呼んだんだよ。二人とも聴いた時に気がついていたと思う、これは成功に向かって進んでいる確信があった」
と回想している。
 以来、エルトンはコンサートでほとんど欠かさず演奏するほど気に入っており、バーニーもインタビューで「私はそれ以来すばらしいラブソングを書いていない」と言っている。
(Wikipediaより)

145 ステンカ・ラージン

 中学のとき親しかった高砂さん、国語と歴史の成績はずば抜けていた。コーラス部で歌も上手。国語の授業中、どういう経緯か忘れたが、歌詞の説明をして『ステンカ・ラージン』を歌った。アカペラで。
 ふと思い出し、調べてみたら……省略されていた部分が。YouTubeのコメント読んだらすごい非難が。


 ︎

 ロシヤ民謡の主人公ステンカ・ラージンは、17世紀ロシヤの農民反乱の指導者である。
 当時のロシヤは、アレクセイ皇帝を戴き、東方へと版図を広げていたが、後に小国に転落してしまうスウェーデンやポーランドが、当時は大国で、南方にはイスラーム教のオスマントルコがあり、戦を繰り返していた。
 コサックというのが、その軍隊の重要な一部をなしていた。これはカスピ海の北側、ドン川とヴォルガ川の周辺に住まう、兵士にして農民の一群で、ロシヤ皇帝に雇われて戦地に赴いていた。ピョートル大帝出現以前のロシヤは、皇帝の権力もあまり強くなく、大貴族が支配していた。
 たび重なるトルコとの戦いに駆り出されたコサックは、給料の不払いに不満を募らせていた。ステンカは本名をステパンといい、コサックの指揮者の次男に生まれたが、兄は反乱の罪で処刑されていた。
 たくましい若者に成長したステパンは、ステンカのあだ名で呼ばれ、ロシヤ貴族への不平不満のたまった農民たちの間で指導者となり、遂に謀叛を起こす。
 まずカスピ海を下り、ロシヤの同盟国であるサファヴィー朝のペルシア帝国へ攻め入ったのである。


ステンカラージン 与田準一訳詩
https://youtu.be/MbXqgbc1fJQ?si=sXXeOfJxz5mysEnc

  
私が覚えている歌詞は、

ヴォルガの流れは果てなく続き
今宵も宴は??

うるわしペルシャの姫を迎えて微笑むステンカラージン何を思える

ドンコサックの??起こるそしりを??

検索してもこの歌詞は出てきません。


妹尾幸陽訳詩 日本語なのに、ロシア語と同じ巻き舌が。
https://youtu.be/2LZvLe2yRms?si=CcWkRfxDn0xIjM-p


 ステパン・ラージンは16世紀の農奴解放の先駆的な首領。ステパンがステンカと変わっているのは愛称である。
 僚原の火の如くヴォルガにそったドン地方は農奴が解放されていき、ロシヤ帝国は大揺れにゆれる。
 一方ステパンはペルシャを席捲してそこの姫をうばって愛妾とした。この時代が彼の堕落時代で・ペルシャ姫の愛慾に酔い痴れる。怨嵯の声が周囲に起こった。民は永い間の戦いに疲れ、飽い、そして飢えている。
 この歌曲はつまりそうしたステパンの沈倫を歌い、豪しゃな生活を描き、やがて彼の悔恨と、一切をすてて再蹴起しようと決意して、泣き叫ぷ姫をヴォルガの河底深く投げ込むまでの、壮大な歴史的、英雄的ロマンチシズムを叙したものだ。
 歌詞は誰れが作ったか不明である。おそらく無数のひとびとの口によって当時が叙せられ、統一していき、更に洗練と推敲が加えられ、ずっとあとになってから、だれか天才的な編集者の手によって、一つの詩に纒めあげられたものであろう。
 ことにこの民謡は革命をなしとげたソヴェートの指導者たちに愛唱されたし、そのような要素で貫かれた歌だ。そうした政治的匂いとは別に「ステンカ・ラージン」の歌曲としての価値は最早永遠なものとみていいだろう。
1960/01/28 百瀬三郎【島村喬】


 民謡の二番は「ペルシャの姫なり 燃えたる(くち)と」となっている。これはステンカが、ペルシャの貴族の姫をさらって船に乗せたという伝説に基づいている。
 その後「(おご)れる姫なり」とあり、コサックの群れから、自分らは飢えているのに姫は食っていると「(そし)りが起き、ステンカは姫を頭上高く差し上げてヴォルガ川へ投げ込んだ、という伝説が知られている。
 これが事実かどうかは疑わしいのだが、この伝説を伝えたのは、反乱が終って10年ほどたって、スウェーデンの使節団に加わりペルシャを訪れたドイツ人・エンゲルベルト・ケンプフェルである。
 これは、のち日本へ来て、将軍徳川綱吉に謁見し、『日本誌』を書いたあのケンペルとも表記される人である。

和訳付きステンカラージン
https://youtu.be/m90_q8jVZpI?si=ieOVnMXTO8eFDUki


1939年ロシア映画
https://youtu.be/lgkBf6sDCj0?si=Y5X9kblkk25vfB2Y


ステンカ・ラージン
ロシア民謡
サドフニコフ作詞

島陰から河の中央へと
河波の広がりの中へと
漕ぎ出てきたのは色鮮やかな
舳先の尖った舟の群れ
漕ぎ出てきたのは色鮮やかな
舳先の尖った舟の群れ

先頭の舟ではステンカ・ラージンが
姫と抱き合って座り
新たな婚礼をあげている
陽気に酔いながら
新たな婚礼をあげている
陽気に酔いながら

だが姫は瞳を閉じて
生きた心地も無く
黙ったまま酔い痴れた
アタマンの言葉を聞いている

彼らの後ろから不平の声が聞こえる
「我等を女と取換えよった
たった一晩、女と過ごしたら
翌朝には自分も女になっちまった」

この不平と嘲笑を
怖ろしいアタマンは聞き付けた
そしてその力強い手で
ペルシアの姫の体を抱きかかえた
そしてその力強い手で
ペルシアの姫の体を抱きかかえた

黒い眉が寄り
雷が落ちようとしている
アタマンの瞳が
赤く血走った

「何も惜しまない
この猛々しい首もくれてやる」
威厳に満ちた声が
あたりの岸辺に轟き渡った

「ヴォルガ、ヴォルガ、生みの母よ
ヴォルガよ、ロシアの河よ
ドン・コサックからの贈り物を
お前は見たことが無いだろう!

自由な者たちの間に
不和の種を蒔かぬためだ
ヴォルガ、ヴォルガ、生みの母よ
さあ、受け取るがいい、美しい娘を!」

彼は力強き手で
美しい姫を抱き上げて
打ち寄せる波の只中へと
舷から彼女を投げ込んだ
打ち寄せる波の只中へと
舷から彼女を投げ込んだ

「どうした悪党め、何故黙っている?
えい、フィールカよ、畜生め、踊れ!
兄弟よ、雄雄しく歌声響かせて
彼女の魂慰めよう!
えい、兄弟よ、雄雄しく歌声響かせて
彼女の魂慰めよう!」

島陰から河の中央へと
河波の広がりの中へと
漕ぎ出てきたのは色鮮やかな
舳先の尖った舟の群れ
漕ぎ出てきたのは色鮮やかな
舳先の尖った舟の群れ


 ステパン・ラージン(1630-1671)を歌った民謡。
 歌詞を見ると、今の時代、批判が恐ろしくて女性の前では歌えないような……

 歌詞は民俗学者・詩人のドミトリー・サドフニコフ(1847-1883)が亡くなる年に「ヴォルガ通報」に発表した詩が元となっており、1890年頃には早くも民謡化していたと言われている。
 ロシア語版Wikipediaのこの曲の記事によれば、スキターレツの名前で活躍していた作家・詩人でアマチュア音楽家でもあったステパン・ペトロフ(1869-1941)が文学者のサークルでしばしば演奏したことで有名となり、歌う俳優フョードル・シャリャーピン(1873-1938)が取り上げたことにより世界的に有名となった。

 この曲も様々な版の歌詞があり、ロシア革命後の1917年から歌われる歌詞は全部で11番(1番の繰り返しを含めると12番)からなる長大なものだが、その全てを歌い通すということは滅多になく、適宜抜粋して歌うのが普通となっている。
 バス歌手のエフゲニー・ネステレンコ(1938-)はこの曲を2度メロディアに録音しているが、8番(「ヴォルガ、ヴォルガ、生みの母よ」)を除く10番を丁寧に歌っている。
 最初の録音が日本で発売された際、解説を書かれた北川剛氏が「史上最高の名演!」と絶賛した。
 アレクセイ・セルゲーエフを独唱に立てたアレクサンドロフ・アンサンブルの演奏では、1,2,4,5,8,10,11,繰り返しの1番の順で歌われている。

【ステパン・ラージンの処刑】
 ラージンは、盗賊団の首領として大規模な海賊行為を繰り返し、ペルシャの民衆なども大量虐殺。ロシア政府にも反逆し、農奴制を廃した、貴族と官吏のいない平等な国をつくると謳って多くの人々を巻き込んで戦闘をおこなった。
 しかし装備の勝る政府軍に敗北して捕えられ、公開の場で両手、両足を切断ののち、頭を切り落として処刑された。


ステンカラージンの処刑 ショスタコーヴィチ
https://youtu.be/x9357vfx6-U?si=0-oZH1OFOVq-xQiJ

 ショスタコーヴィチと意気投合した若い詩人、エフゲニー・エフトゥシェンコが書き上げた「ステパン・ラージンの処刑」は、刑場に連行され刑を執行されるまでの様子を描いた。
 題材的には、ロマノフ王朝時代の政府に対して反旗を翻した人物の処刑ということもあってか、ソ連政府からは特に睨まれることも無く、1964年に無事初演され、1968年にはグリンカ賞すら受賞している。
 作品は、モスクワの広場にラージンが引かれてくるところから始まる。野次馬たちがラージンに唾を吐きかけて罵ると、集まった民衆たちがどよめくという場面は独特の迫力があり、やがてラージンの独白を受け、民衆が、唾を吐きかけているのは自分自身に対してではないかと自問するところや、警官が登場して民衆に対し、ラージンの刑執行を祝うよう迫るあたり、そして刑執行からエンディングまでの緊迫感など、ショスタコーヴィチの筆致も冴え渡っている。

お気に入りの音楽 141〜145

お気に入りの音楽 141〜145

  • 随筆・エッセイ
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-03-31

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