短編集 Ⅳ

短編集 Ⅳ

パパがカレーを

 僕の辛いときを亜紀先生は知っていた。
 飼っていた犬が死を迎えていた。パパは毎夜酔って帰り、祖母はそんな息子に絶望していた。
 その夜、僕は犬を亜紀先生のところへ連れて行った。死が近づいているのはわかっていた。夜中の1時に犬は僕の腕の中で死んだ。

 そのとき酔ったパパが入ってきた。パパにはどん底の時期だった。
 亜紀先生は酒臭いパパを僕のそばには来させなかった。大先生も出てきて、ふたりでパパを外に出した。僕はもうどうでもよかった。
 ふたりの先生になにを言われたのか、パパは黙って帰って行った。たぶん、パパの虐待に気付いていた先生は、通報するとか脅したのだろう。

 あとで聞いたところによると、亜紀先生は酔った男に、犬を洗う水道のホースで水をかけた。3月だ。まだ寒かった。パパは勢いよく水をかけられた。
「子どもを虐待するなんて、最低の大バカやろう! あの子は返さない。酒をやめるまで返さない!」
 パパはずぶ濡れで土下座したという。

 朝まで亜紀先生はついていてくれ、家に送ってくれた。パパは反省したのか、礼儀正しい男に戻っていた。亜紀先生に別人みたいね、と言われ、目が覚めました、と神妙に答えていた。
 
 ママは病気の犬を残し出て行った。大きな邸も社長夫人の座も、息子も捨てていった。この家族の最悪の時期に亜紀先生がいなかったら、僕たちはどうなっていただろう? 
 やがて亜紀先生は僕の義母になった。


 しばらくは亜紀先生と呼んでいた。
 亜紀先生は僕に勉強のやり方を教えた。パパは僕を頭の悪いやつだと決めつけていたが、やり方がわかると成績は伸びた。

 努力に勝る天才なし

 亜紀先生は励ました。
 祖母は戻った平和と妹の誕生を喜び亡くなった。唯一僕を愛してくれた人だ。母親似の僕をパパそっくりだとかわいがり、なんでも買ってくれた。
 パパは謝っていた。祖母の寿命を縮めたのは自分のせいだと……

 祖母が亡くなると家の中はパニックだ。
 亜紀先生は家事は苦手だと公言して嫁いできた。
 パパに、結婚しないのか? と聞かれ、欲しいのは、奥さんね、身の回りのことをやってくれる奥さんが欲しいわ、と答えたそうだ。

 彼女は料理のやり方を、掃除のやり方を知らなかった。
 サラダにはボロボロの茹で卵が丸ごと入っていた。野菜も麺も茹ですぎる。僕のほうがマシだった。
 ダイニングテーブルは物で狭くなり、ソファーには座れなくなった。
 パパは仕事で留守が多い。亜紀先生は仕事はやめたが、苦手な家事と育児で大変だった。僕はパパに怒られないように、山になった洗濯物を畳み掃除した。そしてパパの変わりに、妹を毎日風呂に入れるのを手伝った。

 ある夜、バスルームから歌が聞こえた。パパが歌っていた。歌いながら風呂掃除。パパが風呂掃除? 
 僕はバスルームの外で歌を聞いていた。聞き惚れていた。英語の歌。亜紀の好きな歌……いや、ママがよく口ずさんでいた歌だ。

 Don't give up……

 休みの日にパパは掃除機をかけ、キッチンでカレーを作っていた。
 パパがカレー?
「お子ちゃま用と2種類ね」
「もう、大人と同じで平気だよ」

 パパがカレーを作っている。僕のために。

アパートの手記

 君は部屋に押しかけて来た。
 風呂もない古いアパートには玄関もない。
 強引に入って来たので思わず怒った。
「靴を脱げよ」

 いや、
 入っていいと言ったわけではない。

 君は部屋を見回した。
 ここは母が独身のときに住んでいた部屋。

「早く帰ったほうがいいよ。僕は変態なんだ」
「どう変態なの?」
「スカトロ趣味なんだ」
「なにそれ?」


「……それって、食べたりするの?」
 


 君は誘惑した。
 僕を見つめ服を脱いだ。

「僕は、僕はね……EDなんだ」
「なにそれ?」

 君はくしゃみをした。下着姿で携帯をいじっていたから。
「寒気がするの。休ませて」

 仮病か? 額に手を当て僕のTシャツを出して着せた。

 薄い布団に寝かせた。何度か額に手を当て、家に電話しようか? と聞いたが返事はない。


 明け方、僕は布団の横で眠っていた。薄いカーテン越しに部屋は薄明るくなってきた。
 君は調べた通りにした。
 明け方のレム睡眠時の生理的な早朝勃起……

 僕は大胆な君に驚いた……
 いや、期待していた。 
 Tシャツを脱ぐ。いや、脱がせる。

 
 あわただしく避妊具を付け君の上にかぶさった。
「明るすぎるわ」
 それ以上の文句は言わせなかった。あとで言ったが。
「シャワー浴びてないのに、トイレも我慢しているのに……」
 
 
 喘ぎ声は曖昧だ。瞬間出た言葉は?
 
「ママって言ったの?」
「?」
「ママって言ったろ? こんなときに?」
「……安心して。ママには言わないから。責任とれなんて言わないから。
 花開き折るに堪へなば 直ちに(すべから)く 折るべし。

 

 デートからやり直し。
 映画を見た。
 君は誘惑した。シャーロック・ホームズを見ながら腿にさわってきた。

 初めてふたりでテニスをした。僕と打ち合いたくて、そのために君はテニス部に入っていたという。
 でも、下手くそ。
 君はコート中走らされ汗だくに。ベンチで息も絶え絶え。
 意地悪な僕の手を取り胸に当てた。


 海を見に行った。誰もいない海で、また君は誘惑した。
 お行儀のいいデートは終わった。
 海辺のホテル。BGMは波の音。
 2度目も痛かった……みたいだ。
 僕は別人のように優しくなる。

 
 古いアパートにこもる。
 BGMはベートーベンのソナタ。1番から流れる。
 君は我慢する。
 僕のために。
 
「幻想……」
「よく知ってるね。13番だよ」
「愛も幻想……」
「……」
「あなたにはテニスと同じ……」
 僕は嘘をつけない。
「歌って。ミラボー橋。音楽室で歌ってたでしょ」


 僕は口ずさんだ。指で奏でた。痛くないように。
「アポリネールはスペイン風邪で死んだ。30代で。僕も早死にかな。母が早かったから」
「あなたは長生きするわ。私たちの子どもがH高で出会って、結婚するまで」
「なに言ってるの?」
「あなたの子と私の子が恋をするの。ありえるわよ」
「男同士だったりして……突拍子もないこと言うなよ」


 ふたりだけの世界。建て替えの決まったアパートから住人は消えていく。

「隣も下もいなくなった。このアパートには僕たちだけ。大声出しても聞こえないよ」

「じゃあ、歌って」

 僕は歌った。音楽の時間に習った『Catari Catari』
 イタリア語でつれない心を情感込めて。

 君を抱きしめ歌う。父が歌っていた『Don't give up.』


 君は覚えてきた文章を披露する。

「情熱恋愛の専門家たちが口をそろえて僕らに教えてくれる。
 障害のある愛以外に永遠の愛はないと。
 闘争のない情熱はほとんどない、と」
「君はカミュを読むのか?」
「ママの本」

「続きは?」
「忘れちゃった」
「そうした愛は死という究極の矛盾のなかではじめて終わるものだ。ウェルテルであるかしからずば無か、そのどちらかだ」


 しだいにカーテンの薄さも気にならなくなる。シャワーを浴びていないことも。


 布団からはみ出し僕たちは絡み合う。
「僕たち。もう、離れられない……」
「……」
「私もって、言えよ」
「……バイブで充分」
 
「この口からそんな言葉が出るとはね」


 32番が終わる。
 ベートーベンのピアノソナタを4回聴いた。アパートで過ごした40時間。

 どうなるのだろう? これから。
 僕の父と君のママの間になにがあったの?

恩人

 夫が年賀状を振り分けた。私宛のものは少ない。数人の知り合いと美容室くらい。

 美容室 ミエ?
 ーー聞いたことがない。

 差出人は?
 沢 伊助?
 男性の美容師など……
 
 知らない。知らない人だ。

「昨年中は格別のご厚情にあずかり誠にありがとうございました。
 皆様のご健康とご繁栄を心よりお祈り申し上げます」


 掃除機をかけていてふと閃いた。
 慌てて紙に書いて見た。
 SAWA ISUKE
 MISAWA EISUKE
 残るのはMIE
 三沢 英輔。あの人だ。 


✳︎

 あの人の噂は聞いていた。夫の実家に行くと耳にした。
 あの、大きな邸のひとり息子は結婚を反対されて家を出た。親も、会社も捨てて……

 私は紳士服店で働いていた。 
 見覚えのある女性が入ってきた。若い男性とスーツを買いに。 
 この女性は?

 中3の秋、H校近くの甘味屋で会った、あの人の母親だった。息子とお汁粉を食べ、口の周りを拭いてやっていた過保護な母親。
 彼女は従業員に成人式のスーツを買ってやるようだ。私の接客を褒めてくれ、話した。
「息子も働いているのよ。いなかの支店だけどね。辺鄙な所らしいわ」
「○橋支店ですか? 三沢さん? 三沢英輔さん? 売上トップの?」
「あの子、トップなの?」
「辺鄙な支店で、人口の少ない町でトップです。ひとり当たりの単価が高いんです」
 私は社報を見せた。この2年、売り上げを競っていた。同姓同名だが、まさか、と思っていた。
 母親は涙ぐんでいた。

 あの人は、いなかから出てきていた娘と結婚した。30歳になっていたが、父親に反対された。三沢家の嫁にはできないと。
 子どもも産まれたのに父親は許さない。母親は会いたくても会いに行けない。

 私は○橋支店に電話をかけた。電話に出たのは確かにあの人だった。
 低音だがよく通る声。高校の国語の時間に、ミラボー橋を惚れ惚れとした声で暗唱し、フランス語で歌った男だ。
「あなただったのね」
 母親が来店したとは言えなかった。あの人は幸せそうだ。
「君よりいい女に巡り会えた」
と冗談を言った。
 冗談ではあるまい。あの母親を捨てたのだ。家も会社も。

 篠田は元気か? と聞かれ、私も話した。
「子どもができたの。待望の。
 8月に生まれるの。あなたのお子さんの1学年下ね」
 社報に情報が載っていた。男の子だ。
「よかったな。8月か、葉月だな」
「葉月、きれいだわ。女の子が生まれたら、葉月にしようかな。恩人のあなたに名付け親になってもらうわ」
「篠田が怒るよ」
「篠田には全部話した。あなたは恩人……」
「……」
「おかあさん、大事にしなさいよ」

 あの人は恩人だ。私を救い出してくれた。そのあとも、軽蔑したりはしなかった。幸せでいてほしい。できるなら、親に認められてほしい。


 数年後、夫が言った。
「三沢が戻った。奥さんと子どもを連れて。大変らしい。あいつの親父の会社も」

 倒産寸前の父親の会社。半身不随になった父親に、介護疲れで寝込んだあの母親。あの人は放ってはおけなかったのだろう。
「三沢なら持ち直すだろう」

 そう。あの人の会社は持ち直した。そして急成長を遂げた。

 それから、何年たっただろう? 葉月が小学校1年だった。夜遅く、あの人が訪ねてきた。突然。
 夫は出張でまだ戻っていなかった。
「しばらくだな」
 酒臭かった。この世で1番嫌いな酔っ払い。
 10年ぶりか? 
 こんなにだらしないあの人を見たのは初めてだった。私は酔っ払いには拒否反応を示してしまう。
 あの人は、くどくどと話し出した。酒臭い息で、
「妻が出て行った。息子を置いて」
「……よくあることだわ」
「男がいたんだ。信じられない」
 よくあることだ。情けない男は酒に溺れる。
「子どものためにしっかりしなきゃ」
「ああ、そうだな」
「私の父は許したわよ。母の不貞を許して、それでも愛した」
 あの人はいきなり言い出した。
「篠田と離婚してくれ。俺の気持ちを知ってて、どうして篠田なんかと……」

 葉月が起きてきた。大声に怯えて。
「脅かしてごめんね、お嬢ちゃん」
「はづきよ」
 娘が教えた。
「葉月か、いい名前だ。葉月は旧暦では秋なんだ。
 秋、か。木の葉が落ちる。落ちる……この手も落ちる。ほかをごらん。落下はすべてにあるのだ……」
 酔っていてもあの人は詩人だ。
「君にはわからないだろう? 君は頭はいいがバカだ。誰の詩かわかるか? 
 けれども、ただひとり、この落下を……限りなく優しくその両手に支えている者がいる……」
 そしてまた、とんでもないことを言い出した。
「葉月ちゃん、きみの名前はおじちゃんが付けたんだ。君はおじちゃんちの子どもになるんだ。大きなおうちだよ。広い庭がある。犬も……犬は死にそうなんだ。欲しいなら買ってやる。なんだって買ってやる」
 酔ったあの人は葉月の手をつかんだ。
「三沢君、やめて」
「おにいちゃんがいるよ。君よりひとつ上だ」
 無理矢理、葉月を連れて行こうとした。
「帰ってよ。三沢君!」
 私が強く言うとあの人は怒った。
「売春してたくせに。誰が助けてやったと思ってるんだ? 支えてくれよ。その両手で……」
 恩人だと思っていた人が……
「あなたでも言うのね。酔えば言うのね。子どもの前で」
「バイシュンてなに? おじちゃんが助けたの?」
 あの人は後悔したようだ。葉月の顔を見た。そして小声で言った。
「青春だよ。青春は()べからず。ママは、モテてモテて困ってたんだ。おじちゃんが助けてやった。パパと結婚させたんだ」
「おじちゃんは恩人なのよ。恩人」
「葉月ちゃん、これは夢なんだよ。夢を見てるんだ」

 あの人は子守唄を歌った。ドイツ語で。
 高校1年の音楽の時間、歌のテストで私が歌った子守唄だ。歌は苦手だ。か細い声で、音も外れた。それでも男子は拍手した。比べてあの人が歌ったCatari Catariは素晴らしかった。先生まで聞き惚れた。私は勉強ができただけ。

 葉月は私の膝で眠った。そのまま抱いていた。娘を抱いていれば乱暴はしないだろう。
「かわいいな。寝顔を見て後悔する。帰ったら、また息子を殴ってしまう。妻にそっくりな息子を。かわいそうな息子を」
「飲むのやめなさいよ。私の父みたいになるわよ。思い出すのも嫌だけど……子どもに愛想尽かされるわ」
「ああ、もう飲まない」
「酔っ払いはそう言うのよ。父は何回も、何万回も言った。仕事も失い、娘の学費さえ払えない。タバコで畳を焦がして、何度言ってもやめてくれない。火を出したこともある。私が消したのよ。それでも、懲りない。
 殺したいと思ったわ。酔っ払っていびきをかいている父の首を絞めて……何度も思った」
「篠田が力になってたんだな」
「三沢君、失うわよ。なにもかも。汚れて、お風呂にも入らなくなる。お酒だけ飲んで肝臓壊して、栄養失調になって呆けて死ぬの。
 死んだら万々歳よ。誰も悲しまない。喜ばれるのよ。せいせいされるの」
「熱弁だな。説得力がある」
「三沢君、病院へいくのよ。専門家に相談するの。入院するの……
 いいわ。ついていってあげる。息子さんは私が面倒みる。あなたが立ち直るまで。あなたは恩人だもの」

 電話が鳴った。夫からだ。あの人は葉月を抱き上げ寝かせに行った。私は電話に出た。
「熱は下がった。よく寝てるわ。もう大丈夫よ。気をつけて」
 電話を切るとあの人はいなかった。

 どうしただろうか? 夫に話そうか? あの人の息子が心配だ。あの母親も。 
 
 翌日、カーネーションの花束が届いた。

 恩人へ    M
 花言葉は感謝。


 三沢君……立ち直ったのね。こんな年賀状で知らせてくるなんて。


 2年後、あの人は再婚した。近所に住んでいた獣医と。若いが、しっかりした女性らしい。あの人の息子は懐いている……
 
 夫の実家にいけば耳に入る。大きな邸の主人の情報は。

先輩

 高校を卒業すると進学はせずに就職した。大学へ行く金はなかった。私の分は。

 でも、自分で稼いで自由に使えるのが嬉しくて、おしゃれして会社のクラブに馬術同好会なんてのがあったから、それに入ってちょっと格が上がった気分。
 大学生が教えにきていて、そこではチヤホヤされていたのよ。

 あの日先輩がその中にいたからびっくり。縁を感じたけれど、先輩は誘われてついてきただけ。 
 でも、きれいになったって言ってくれたわ。
 平凡な女が、19の頃は少しは華があったのかしら? 
 先輩は数回来て皆で飲んで方向が一緒だから話したけれど、私はただの後輩だった。
 そのうちカネが続かないから今日が最後だって。これでまた会えなくなるわね。

 あの日、あのステキな由佳さんがクラブにやってきて、由佳さんのスタイルと乗馬に先輩は魅せられていた。
 彼女は女の私から見ても非の打ちどころのない女性。正義感が強くて、私は酔っ払いに絡まれているのを助けてもらったことがある。
 酔っ払いは殴りかかり、かわされて転んだ。女のくせにボクシングなんかやっていて憧れていた。

 由佳さんは先輩も食事に誘った。彼女の車で行った行きつけのレストラン。彼女が店のピアノを弾くと先輩は驚いていた。私も……
 妬ましかった。なにをやっても極める女性。私は足元にも及ばない。
 もっと驚いたのは先輩のピアノ。合唱コンクールでは伴奏していたけれど、こんなに弾けるとは思わなかった。
 ふたりはピアノの話で盛り上がっていた。婚約者がいるのよ、と教えても動じなかった。余計に先輩は惹かれていった。ウェルテルのように。
 ふたりで会うわけにはいかないから、私を利用した。先輩はクラブを辞めなかった。言い訳もしない。
 私も聞かない。由佳さんは来る。同好会のある日に。私に会いに。先輩に会いに。

 由佳さんに旅行に誘われていた。彼女の故郷。父親の経営している乗馬クラブで特訓してくれると。
 彼女は先輩を誘うよう言った。親密になるチャンスだと。バカな私は喜んだ。テニス部の合宿以来だもの。

 由佳さんの車で出かけた。途中先輩は運転を変わり彼女は助手席に移った。ふたりは車の話をしていた。私にはわからない。私は後ろの席で眠ったフリをしていた。
 嫌な予感はあったのに、先輩といられるのが嬉しくて、それにまさか、婚約者のいる由佳さんと先輩がああなるとは思わなかった。

 ホテルで圭介さんに紹介された。受付のカウンターから出てきて丁寧に挨拶してくれた。誠実な人に見えた。由佳さんがいうような男には見えなかった。
 用意してくれた部屋は素敵だった。最低料金で最高の待遇。先輩とは隣の部屋。私たち4人は夜遅くまでホテルのバーで飲んだ。
 由佳さんは先輩を見ていた。彼女は婚約者の圭介さんにひどく腹を立てていて、先輩に気のあるフリをしただけなのよ。あとで私に謝った。

 4人で馬に乗った。よその大学生も合宿に来ていて、私たちは混じってカレーを作って飲んで騒いだ。
 由佳さんは私の部屋に泊まった。一緒にお風呂に入った。どこから見てもどの角度から見てもきれいな人が化粧を落とした。
「平凡な顔でしょ」
私は返事に困った。化粧ってすごい。
「素顔のほうがいいって言われた。訛りのある話しかたのがいいって……」
「圭介さんに?」
「圭ちゃんは私の顔なんてどうでもいいのよ。欲しいのは私の家と財産」
「そんなこと……」
「圭ちゃんは壊したの。私の恋を」
風呂から出ると由佳さんは私に化粧を教えてくれた。目が大きくなっていく。

 朝、食堂に入っていくと先輩はびっくりしていた。
 念入りに化粧した私と素顔の由佳さん。先輩は交互に見つめ笑い出した。由佳さんがなぜ素顔で口紅もつけないでいったかわかる? 私のためなのよ。先輩をがっかりさせようと思ったの。
 先輩が好きになるのはいつもきれいな女だもの。
 女は顔だものね。でも、先輩の視線は彼女に釘づけ。化粧を落とした由佳さんは先輩よりふたつも年上には見えなかった。

 帰る前日の夜、3人で河原を散歩した。圭介さんは仕事の電話をしていた。
 両手に花? の先輩にふたりの不良が絡んできて、ひとりまわせと由佳さんを連れて行こうとした。由佳さんは先輩がどうするかを見ていた。
 先輩は彼女の手をつかみ放さなかった。何度か殴られても守ろうとした。守る必要などなかったのに。

 私が携帯で電話するのをもうひとりの男が止めにきた。私は先輩を守りたい一心で、由佳さんに習った護身術で、男の1本の指を逆側に折った。
 気合を入れて大声を出した。イェーッとか、どりぁーーーとか。
 男は悲鳴をあげ、圭介さんも走ってきたのでふたりの不良は逃げていった。

 由佳さんは、弱いながら必死で守ろうとした先輩に本気で好意を持ってしまった。圭介さんと由佳さんが先輩を支え、私はひとりで歩いた。
 来なければよかった。何度手痛くふられるのだろう?
 由佳さんは先輩の部屋に泊まり込み介抱した。私は怒りを抑えた。由佳さんを殴りたかった。でも、彼女は私の知っている由佳さんではなかった。必死で私に謝った。先輩を試したこと。試して傷つけたこと。そして私の好きな人を好きになってしまったことを。

 先輩が助けたのは由佳さん。先輩が介抱して欲しいのも由佳さん……
 私は翌日の朝、先に帰った。圭介さんは駅まで送ってくれた。
 慣れている。こういう思いも扱いも。2度と由佳さんに会うことはない。先輩にも……

ずっと見ていた

 失恋した。
 振られた。
 いや、私のほうから振ってやった。
 あんな男、最低の男。 
 軽い、紙のように軽い男。
 私は都合のいい女だった。

 別れてよかった。2年の間、貯金ができなかった。
 自分では決して食べない高級な肉や果物やワイン。先輩には値段は言わなかった。
 自分で稼ぐようになって、わかる日がくるだろうか? 私がどれほど先輩のために金を使ったか? 
 買ってもらったものはなにもない。出かけたこともない。
 私が部屋に行った。
 掃除して洗濯して料理して、帰りはタクシーを呼んで帰った。送らなくていいと私が言った。

 別れてから、ヴァイオリンを習った。本当はピアノにしたかったけど、家に置く場所はない。
 電子ヴァイオリンを習った。音量を調節できるから。

 子どもの頃、習い事はさせてもらえなかった。塾にもいかなかった。兄の古い参考書で理解できたし、音楽もスポーツも、ほどほどにできた。
 ほどほどでいい。金をかけられた兄より優ってはいけない。目立ってはいけない。

 先輩はピアノを教えてくれた。私のために弾いてくれた。
「姉がすぐやめたから母に無理やりやらされた」
「母親には男の子は特別かわいいのかしら?」
「そうだな。オレは特別だ。おまえにも」
 練習していると先輩は邪魔をした。私の背中を鍵盤にした。
「おまえだよ。
 月光……ずっと弱く弾くの難しいんだ」

 電子ヴァイオリンを買ったのに、若い先生は私が弾いていると居眠りをしていた。メールをしていた……私は文句を言える性格ではない。 

 いつもこうだ。軽くみられる。怒らないからなのか? 
 仕事もそうだ。大卒の女たちは要領がいい。残業をしない。
 私は重宝がられる。それだけだ。飲み会でチヤホヤされるのは彼女たちのほうだ。
 私は真面目すぎる……つまらない……

 少し飲みすぎた。2次会は行かない。ひとり電車で帰る。
 ドアの外を見ていた。電車がのろい。
 視線を感じた。
 視線の先の男、見たことがある。知っている顔だ、誰だっけ? 
 よく会う男。今日も会った。かなり間近で。

 男が会釈した。ああ、毎日会社に荷物を届けにくる宅配便の人だ。私はいつも受け取りの判を押す。近寄ればタバコの匂いがして嫌だった。それだけで恋愛対象にはならない。
 彼のほうは気があると思う。ひとことふたこと話す口からは、デンタルリンスの匂いがした。タバコをやめればいいのに。吸っている本人はわからないのだろう。
 かれこれ4年になる。私が入社したときからの担当だった。夏は汗とタバコの入り混じった匂いがして、近寄られると息を止めた。

「あなたも忘年会?」
 私は声をかけた。少し酔っていたから。
「飲みなおさない?」
 酔っていたから大胆になれた。彼は喜んでついてきた。
 私の降りる駅、駅前の安い居酒屋。おなかはいっぱいだから酒だけ飲んだ。
 明日は休みだ。お互いに。

 そのあとは、腕を絡め歩いた。
 生まれて初めて自分を見失った。
 私が誘ったのだ。彼は……名前を言ったのだろうが記憶にない。記憶にあるのはシャワーを浴びて……彼は褒めた。
 きれいだと褒めた。
 きれい? 私が? 
 レベルが低いのね? 低すぎるわ……
 私は、美しくない月……誰にも愛されない……

 自分から求めたことはなかった。欲しいものはいつも我慢した。母にも父にも。友達なんていなかった。与えてくれる人はいなかった。いつも利用されるだけ。
 人がいいから。いやと言えない性格だから。
 要するに、つまらない、取るに足らない女なのだ。

 その夜は違った。
 酔いが私を別人にした。私は指図し、命令し、怒って、先輩と同じようにさせた。できるまで許さなかった。男は私の要求通りにした。
 どうでもいい男だから羞恥心などなかった。

 先輩? 先輩……ベッドだけは優しかったね。私を練習台にしていたんだもんね。あとは最低……
 愛なんていらない。愛なんてないのにこんなに満たされて、満たされて疲れて眠りに落ちる。夢の中でも満たされた。

 朝まで眠った。
 目が覚めると、目の前に男の顔があった。
 ずっと見ていたの? こんな私を?

 母にメールした。
(終電乗り遅れた。ごめんなさい)
 もう、家を出よう。母の愛はもう求めない。

 酔いが覚めない。シャワーを浴び、馴れ馴れしくなった男を拒否した。ホテルの前で別れた。
 歩いて冷静を取り戻す。
 彼の名は? 知らない。
 月曜日、気まずいだろうな。でも後悔はない。
 金も払わなかった。ああ、払ってくれたんだ。当たり前なのに。

 きれいだと、きれいだと何度も言った。入社してきたときから、毎日会えるのが嬉しかった、と。 
 君は優しかった。ねぎらってくれるのは君だけだ。雨の日に大変ね、と言ってくれるのも……
 僕は、4年の間見てたんだ……

 先輩、私もずっとあなたを見ていた。4年、5年、6年も……見る目がないバカな女だった。

 顔立ちは悪くないのに華がない。母に冷たく言われた。ほかの人にも言われたことがある。それをきれいだなんて……レベルが低すぎる。

……月曜日、彼はいつも通りだった。いや、理容店に行ってきたようだ。髪がさっぱりしていた。私はいつもより距離を置いた。
 火曜水曜木曜日。タバコの匂いがしなかった。
 金曜日、判をもらいにきた彼に書いて渡した。 
『この間の居酒屋来れる?』
 彼はうなずく。

 この間と同じパターン。朝帰りはできないから、飲みすぎたフリをして金を払わせ、いうことを聞かせる。思い通りにさせる。
 どうでもいい男だから、どう思われても平気だった。

 同じパターンが何度も。
 おかしい。遅れてる。ありえない。避妊させたのに。きちんと。きちんと。きちんと……
 彼は謝った。ごめん、君が寝てるとき……
 私は叩いた。頬を何度も。
「いい加減な人」

 愛などなかった。誠実そうにみえたがだらしない人。
 でもタバコはやめてくれた。
 酔った私がタバコ臭くて嫌だと拒んだから。歯医者へいってきた。念入りに磨いている歯は白くなっていた。

 吉岡は、父ひとり子ひとり。高校中退。貯金なし。
 母が笑うわ。  
 趣味の釣りで金はない。趣味のバイク。
 車のローンはたくさん残っている。
 でも、釣りをやめ、バイクは売るという。釣具も売るという。仕事も増やすという。
 父親は職人だから定年はない。家はあるけど古い。古いけど一緒に住めば家賃はかからない。
 30になるのに親に寄生。稼いだ金を全部使い、家に1銭も入れていない息子。税金も年金も把握していない。選挙に行ったこともない。

「あなたとは性格が、生き方が違うの。絶対うまくいかない」
「直すから、全部直すから。いやだよ。俺の子だ。大好きな、君の……4年も思ってきたんだ」
「……借金は?」
「ないよ。オヤジには借りてる。少し」
「いくら? 返さないのね?」
「オレがだらしないとオヤジはボケないですむ……」

 呆れてものが言えない。
 父親は真面目だ。亡くなった母親を思い、酒が入るといまだに泣く。
「家の中のことは掃除も洗濯も……やらせてるの? ボケないように?
 過去にも妊娠させたことあるの?」

 過去はどうでもいい。私にも過去はある。

 家に行って父親に会った。
 こんなきれいな人が、と父親は喜んだ。
 家は古いけれど片付いていた。手作りの椅子や棚があった。仏壇には新しい花が備えてあった。 
 低姿勢で、父親が茶を入れてくれた。私のために有名な店の最中を買っておいてくれた。
 私は弱い。自分のためにしてもらった経験は少ない。
 父親は私に似ていた。他人にも息子にも利用されているのだろう。

 ヴァイオリンの発表会に出た。グループで演奏した。
 ロングスカートに白いブラウス。舞台で正面の席など初めてだ。習い始めて1年も経たないのに熱心に練習した成果。華やかな舞台。
 私の観客は……ひとりだけ。
 恥ずかしいから来ないで、と言ったのに。
 彼もこんな場所は初めてなのだろう。自分で買いにいったのかいつもと違う服。
 私が先輩にプレゼントしたブランドのものだ。高かっただろうに、店員に勧められるままに買ったに違いない。
 手には花束……演奏のあと、他の観客を真似て彼は花束をくれた。
 花をプレゼントされるなんて初めての経験だ。素敵な花束だった。奮発したのだろう。節約しなければならないのに。

 恥ずかしいから来ないで……
 あなたを見られるのが恥ずかしかった。
 ごめんなさい。
 素敵よ。はにかむ顔が素敵だわ。恥ずかしくなんかない……


 私は結婚した。結婚式はあげなかった。これから金がかかるから、と。
 両親には家に連れて行き1度会わせただけだ。兄の結婚式とマンション購入の援助で私の分は残っていない。
 4年間、家に入れていた金を、もしかしたら貯めておいてくれてるかも……なんてことはなかった。期待はしていなかったがむなしかった。
 しかし、なぜ? 望まれなかった子なのか? 私にかわいげがなかったからなのか? 無邪気に甘えれば違っていたのだろうか?

 義父は喜んだ。やがて生まれる孫のためにベビーベッドを作ってくれる。
 待ち望まれている子どもの名を考える。
 義父は金をくれた。息子が貯金もなくて申し訳ないからと。その金で水回りをリフォームした。 
 母親が花が好きだったので小さいが花壇がある。
 義父は野菜を作っていた。手のかからない人だ。つわりで辛いとき、出産前後の辛いとき、息子より気を使い動いてくれた。

 義父のことは信じる。夫のことはわからない。
 用意はしておく。
 いつでも捨てる用意をしておく。
 母とは違う。

放言

 父は真面目で子煩悩な男だった。
 15の歳に故郷から出てくると、手に職をつけるために小さな靴店で修行した。父の作る靴は高価だった。しかし、やがて、大量生産に負けた。父の勤める会社は給料が上がらず、ある日社長は蒸発した。
 腕のある父に仕事はあった。障害者の靴を作る会社から誘いがあった。提示された給与、賞与は以前のところとは比べ物にならない。真面目な父は人望も得た。大学病院に出入りするようになり教授と打ち合わせをする。その教授からからコーヒーの粉をもらってきた。当時はまだインスタントが主流だった。父はネルの濾し袋で、教授に教わったようにコーヒーを淹れてくれた。母と私は砂糖を3杯も入れて飲んだ。

 ようやく人並みの生活ができるようになった。父は質素だった。将棋が唯一の趣味で私に教えた。初めはハサミ将棋だったが、覚えが早いことがわかると本将棋を教えた。父と将棋を指す。幸せだった。
 父は職人だから器用だ。川に行き流木を拾ってくる。私は自転車の荷台に乗せた木を押さえた。ふたりで歩いた道、話したことを鮮明に覚えている。
「女将棋指しになるか?」
 聞かれて困った。将棋は好きだけど……
「先生になりたい」
「じゃあ、大学に行かなきゃな。おとうさんが稼いで行かせてやるからな。腕がいいから定年はないんだ」
 父は運んだ木を乾かし将棋盤を作った。私は家の前で見ていた。古い小さな平屋の借家だが、左右に小さな花壇があって、父は季節ごとに種を植えていた。なんだったろう? 松葉牡丹、ケイトウ……夏はアサガオが屋根の上まで伸び、咲いた花の数を父と数えた。
 分厚い将棋盤の脚はナイフで格好よく彫られた。立派な出来栄えだった。
 将棋はすぐに上達した。最初父は自分の駒を減らし打ったが、同格になった。父は娘の頭の良さに感心した。
「誰に似たんだろう?」

 母は無知だった。ある日、空の星を見て、
「あの星は、もうないのかもしれないのよ。何十万年も前に出た光を見ているのよ」
と私が言うと、母には理解できなかった。
「そんなバカなことがあるか」
と怒り出した。
 その頃から私は母親を軽蔑するようになった。時々は母は朝起きれず、父は何も言わずに自分で弁当を作り仕事に行った。
 
 父が作った立派な将棋盤は、真ん中から少しずつヒビが入った。分厚い将棋盤のヒビが大きくなっていった。作り方がまずかったのだろう。

 母は娘のことなど考えてはくれない。良い母親とは思えない。良い妻だとも思えない。料理は下手だし、いや、それ以前に嫌いだった。努力をしない。家事が嫌いだった。おまけに、朝、起きられなかった。血圧が高いとか、言い訳をしていたが。
 私が熱を出した時も、夜中に心配して額に手を当てるのは父だった。喉が痛いときに砂糖湯を作ってくれたのも父だった。
 それでも小学校の低学年までは母のことは好きだった。高学年になると母の性格をいやだと思うようになった。家に出入りする酒屋やクリーニング屋と長話をしていた。パート先の若い男を家に入れていた。私はおぼろげだが思い出した。小学校4、5年の頃だろうか? 

 家の近くに、住み込みで働く若い男がいた。よく母と話していた。私に菓子を買ってくれた。その男はある日いなくなった。私は遊んでこい、と、伯父に言われ、土手を歩いた。なにかあったようだ。しばらく時間を潰し戻ると、
「おまえのかあさんはしょうがないね」
と伯母が言った。それを伯父がたしなめた。
 母はいなかった。母は実家に帰ったのだ、と父が言った。私は布団をかぶって泣いた。
 記憶ははっきりしていない。あれは夢だったのか? 母は数日後には戻っていた。何が起きたのかはわからなかった。

 それから父は私を見なくなった。父は仕事から帰ると毎晩テレビを相手に晩酌をした。私も父とは話さなくなった。父娘とはそんなものなのだろうと思った。父母は喧嘩をすることもなかった。

 母は中1のときに死んだ。心不全で、あっという間だった。その日、母は友人の家に遊びに行っていた。ビールを飲んで喋っているのだ。私はひとり家にいて勉強していた。夕方、母の友人から電話がきた。
 おかあさんが具合が悪くなった……
 
 母の死は現実ではないように感じた。近くの友人の家に行くと救急車がきていた。訳もわからず私は乗せられた。母は苦しそうだったが、娘の顔を見ると笑ったような気がした。苦しくても笑おうとした。

 近くの小さな病院。入って15分もかからなかった。先生が、手遅れでしたね、と言った。何が手遅れなのだろう? 母は長くは生きられないということなのか? ほどなくして父が駆けつけた。 土曜日だった。1月の土曜日、父は仕事の後、家に戻ったところを、誰かに教えられたらしい。
 父は死に目には会えなかったが、しっかりしていた。逝ったばかりの母は苦しそうな顔をしていた。悲しみは感じなかった。こんな顔を人に見せられない……そんなことを思った。
「運命だな」
と父が呟いた。

 残された父とひとり娘。父はしっかりしていた。私に先に帰って親戚に電話するよう、それから部屋を片付けておくよう言った。

 伯母に電話をした。伯母は何度もなにがあったのか聞いた。怒鳴った。
 狭い家を片付けた。平家の借家は2部屋しかない。
 奥の私の部屋に母は寝かされた。戻った母は穏やかな顔をしていて私は安心した。近所の人達が集まってきた。町内会の女たちはテキパキと動き、私は座っているだけだった。
 伯母が駆けつけてきた。伯母は私を抱きしめた。意外だった。母の兄の妻に会ったのはしばらくぶりだった。
「おまえのかあさんはしょうがないね」
 言われたその言葉は覚えていた。あの日以来、親戚付き合いも減っていた。
 抱きしめられ、初めて涙が出た。泣かなければ悪い……そんな気がした。
 父は葬儀屋と相談していた。私は心配した。葬儀屋が提示する金額。父は高い方を選んだ。伯母が、大丈夫なの? と聞いた。

 私は家事をやらざるをえなくなった。父は娘に金を渡し、私はきちんとレシートを見せた。おかずは商店街で買った。天ぷら、フライ、焼き魚、ポテトサラダ、惣菜を作って売っていた。母もよくそこで買ってきて済ませていた。食卓は変わらなかった。ときどき、母が作っていた湯豆腐や、もつとこんにゃくの鍋にした。たいした料理をしない母だったが、この2品は好きだった。アルミの平たい鍋で真似てみた。昆布にタラ、鍋の中央に醤油と鰹節の入った湯呑み茶碗。これは母と同じ味にできた。もつとこんにゃくの味噌鍋は何度作ってもできなかった。教えてもらっておけばよかった。

 やがて父の酒の量は増え、仕事にも影響が出るようになった。朝、酒が抜けていない。仕事を間違える。だんだん信用をなくしていった。夜中に泣いている。母の名を呼んで。それほど愛していたのか? 生きているときには思わなかった。むしろ逆だ。父は怒っていた。母はいい母親ではなかった。金の管理も父がしていた。料理も母は苦手だった。手抜きだった。

 母に死なれると父の人生も終わってしまったようだ。私は夜中に泣いている父を情けないと思った。なぜ、娘のために頑張ってくれないのだ? 
 そして父はついに仕事を失った。

 その夜、大喧嘩をした。すごい剣幕で父を罵った。
「私のことはどうするの? 高校行けないの?」
 酒浸りの父は、酒が入れば饒舌になり泣く。シラフのときは無口だった。
「おまえは冷たい」
 言われて逆上した。
「酔っ払いに優しくしろって言うの? 父親のくせに。情けない」
 つぎの言葉で私は黙った。いくら酔っても今までは言わなかった。告白させてしまったのは私だ。

 歩いた。どのくらい歩いたのだろう? ここはもう隣の区だ。橋を渡ればH高がある。第1志望の都立高校。目指して頑張ってきたが……橋の上で止まった。川が流れていた。
 高校には行けない。全日制には。それどころか、もう家には帰れない。ひどい父親だと思う。いや、父ではなかったのだ。

悲しい父娘

「だからやめろって言ったじゃん」
 辰雄は小さくなった賢治につぶやいた。
「でも、これで、やっとあいつは解放される」

 悲しい父娘だった。
 妻に死なれると、男は酒の量が増えた。ひとり娘の操はまだ中学生だというのに、賢治は酒で仕事を失った。
 操はバイトしながら高校へ通った。辰雄は力になっていた。
 しかし、哀れな娘は結核が見つかり療養することになった。

 療養の手続きは操が自分でしてきた。父親は酒に逃げ、嘆くばかりで役には立たなかった。
 操はもう、当てにはしていなかった。父親の顔も見なかった。
「療養中に死んでくれればいい」
 口に出した。よほど辛く悔しかったのだろう。

 操の療養中、辰雄は父親の面倒をみに通った。鍵を開けた賢治は案の定酔っていた。
 突然現れた娘の男友達は強引だった。部屋を片付け掃除した。畳にはタバコの焼け焦げがいくつもあった。
 就寝中、火を出されたら隣の部屋の操は……
 おちおち眠ることもできなかったろう。

 洗濯をした。賢治が着ている服を脱がせ着替えさせた。
「娘のこと、考えろよ。見舞いにも行かないで」
 父親は泣く。
「どうなるのかわかってるのか? 酒だけ飲んで死にたいのか?」
 酔った賢治は饒舌だ。辰雄の話を聞かない。
「だけどね、辰雄くん。オレだって辛いんだ」
 なんでも、だけどね……だ。
 うんざりだ。強く言うと、
「やめるよ。もう、飲まないよ。オレだって意思は硬いんだ。やめようと思えばいつだってやめられる」
 辰雄は酔っ払いの言葉を信じた。しかしすぐに裏切られた。
 
 人恋しいのか、酔った賢治は辰雄を待つようになった。鍵は開けてある。
「来たか、辰雄くん。入れ、入れ」
 締め切った部屋はひどい匂いだ。窓を開ける。 
 古くなったものを食べ、腹をくだしていた。ひどい臭気だ。操はこんな父親の世話をしていたのか?
 辰雄は酒を流しに捨てた。探して手当たり次第捨てた。ゴミ箱にはウジがわいていた。羽化して飛んでいるのもいた。冷蔵庫もひどい臭気だった。辰雄はすべて捨てた。
 風呂場には便で汚れた下着が洗面器に何枚も入っていた。小蝿がたかっていた。地獄絵だ。絵なら臭いはないが。
 タオルで鼻と口を覆った。すべて捨てた。辰雄はこういうことは手際がいい。

 風呂場を掃除しシャワーを浴びさせた。嫌がる賢治を大声で怒鳴り、服を脱がせシャワーを浴びさせた。怒鳴ると賢治は従った。臆病だった。情けない小男だ。しかし辰雄はすぐにかわいそうになり賢治をおだてた。
「背中、流させてくれよ。オヤジさん」
 優しくすれば賢治は泣く。だけどね、と言い訳をする。背中も腕も足も洗ってやった。
「前は自分で洗え」
 情けない男はもたもた洗っていた。

 賢治は辰雄を気に入った。掃除した部屋で辰雄は将棋を教わった。酒が抜ければ父親は無口だ。いい父親なのだろうに。
 しかし、翌日にはもう酒を買ってきていた。饒舌だった。怒ると、
「だけどね」
が口癖だ。
「だけどね、辰雄くん、オレだって辛いんだ」
「操はもっと辛い思いをしてるんだ」

 買ってきた惣菜を食べさせた。辰雄は酒しか買ってきていない。冷蔵庫は整理して古くなったものはすべて捨てた。
 辰雄は賢治の話に付き合った。酔っ払いの、とめどもなくみっともない男の話に。酔っ払いは話した。15歳で東京に出てきた。頑張った。
 頑張ったんだ、オレは……
 亡くなった妻のことを話すと泣いた。泣いて話した。妻が不貞をはたらいたことを。操が自分の娘ではないことも。


 賢治は酔うと話す。妻の事。何度も何度も。男がいた……操は……
「似てるよ。オヤジさんに」
「似てる? どこが?」
「似てるよ、輪郭が。他人が見たらそっくりだ」
 そう言うと賢治は喜んだ。
「そうか、似てるか? 操はオレの子だ。操を見舞いに行く、もう飲まない、あいつはオレの子だ」
 確信もなく酒に逃げていたのか? 真実を知るのが怖くて酒を飲んだ……
「見舞いに行くぞ。連れていってくれ。いちごを買っていってやろう。操は好きなんだ。いちごに牛乳と砂糖をかける。たっぷりかける」

 しかし、朝迎えに行くと酔っ払っていた。
「ああ、辰雄くん」
「辰雄君、じゃないだろ」
 ひどい状態だった。こんなことを何度も繰り返したのだな。操はとっくに父親を見限った。見限ったけどどうすることもできない。
 もう、放っておこう。殴る価値もない。放っておけば、酒だけ飲んで死ぬ……死ねばいい。
 死ねば解放される。操を解放してやれる。

 辰雄はしばらく行かなかった。非難されることではない。自業自得だ。冷蔵庫は空っぽだ。酒だけ飲んで死ねばいい。本望だろう。隣近所も承知だ。死んでくれればほっとするだろう。いつ、火を出されるかわからない。そんな心配がなくなるのだ。

 夏の暑い日が続いた。そのうち異臭に気付いて発見されるだろう。療養中の娘はどうすることもできない。同情されるだろう。解放してやるんだ。
 これは殺人か? わかっていて放っておく。いや、慈善だ。正義だ。あの薄幸の娘を解放してやるのだ。アルコールにむしまばれている情けない父親から。今死ななければ、操は苦しみ続ける。この先ずっと。
 構うものか。疑われてもいい。罪でもいい。
 辰雄は眠れなかった。起き上がり、布団にもぐる。

 操は、予想していた?
 辰雄が行かなければとっくに死んでいただろう。父親のことを誰にも託さず頼まず、望んでいるのだ。父親が死んでくれることを。
 明日。明日、そっと近くまで行って様子を見てこよう。どうか……どうか死んでいますように。 
 どうか、生きていますように……

 夏の暑い日だ。賢治は酒を買いに行き帰り道がわからなくなった。弱った足腰で迷子のように歩き回り、倒れて病院に運ばれた。その日、家を訪ねた辰雄は近所の人に教えられ、病院へ行った。
 父親の親戚は皆、遠い田舎だ。亡くなった妻の親戚とは縁が切れていた。操には知らせられない。辰雄は甥だと嘘をついた。
 ほとんど食事を取らないで、酒ばかり飲んでいた賢治は栄養失調になっていて、しばらく入院になった。辰雄は安心した。これで酒は飲めない。

 父親は3ヶ月近く入院した。酒が抜けると別人のようだ。精神科にもかかり、依存症の治療をした。辰雄が行くと喜ぶ。将棋の本を買っていってやる。まわりには息子だと思われている。親孝行の息子だと。
「もう、飲むんじゃないぞ。息子に心配かけんなよ」
「娘の彼氏だ。いい男だろう。もう酒はやめた。キッパリやめた。辰雄君、操と結婚しろ。
 孫ができたら、兜を買ってやる。ああ、働くぞ。腕はいいんだ。腕はいいんだ」
 賢治は嬉しそうだ。詰将棋の本を読んでいる。死なせなくてよかった、と辰雄は思った。

 操に話したが喜ばなかった。皮肉な微笑だった。余計なことをしてくれたわね……と思ったのだろうか?

 そう。父親は退院するとまた飲んだ。金がなくなれば盗んでも飲むのだろう。そうして、刑務所に入れられればいい。

 操は全快し高校に戻った。辰雄に感謝した。害虫駆除がされ、部屋は掃除されていた。操の部屋には新しいカーペットが。操の好きなグリーンだ。窓ガラスもピカピカだ。風呂場のタイルの目地も白くなっていた。台所も片付いていた。この家がこんなにきれいだったことはかつてない。
 冷蔵庫には食料が。いちごと牛乳が。季節はずれのいちごはデパートまで買いに行ってきた。戸棚には缶詰やレトルト食品。菓子。
 父親は泣いた。泣き上戸だ。安っぽい涙だ。

 父親は入退院を繰り返した。肝臓も弱っていた。
 操は卒業したが進学も就職もしなかった。当時は高卒でも大企業に就職できた。しかし、病歴のある操は健康診断で落とされるだろう。操はよく通っていた図書館でアルバイトをした。
 ますます美しくなった操には誘いも多かっただろう。しかし、父親のために操は真っ直ぐ帰った。病気の父親がいると言うと男は敬遠するようだ。それでもダメなときは自分の病歴を話した。

 操が働いたのは父親の治療費のためだ。いや、病院代のためだ。入院させるために働いた。近くの精神病院はすぐに入院させてくれた。操はバイトを掛け持ちした。近くの花屋でも働いた。花屋は寒いのだ。辰雄は操の体を心配した。

 父親は退院しても酒はやめられない。操が仕事に行けば飲む。タバコの火で畳を焦がした。
「帰ったら家が燃えてた、なんて思いながら帰るのよ。燃えてしまえばいい。あんな汚い男」

 どうしようもない酔っ払いはやがてボケた。足も弱り酒を買いに行くこともできなくなった。操は介護のために働く。ヘルパーに来てもらった。1日3回。自分が見ることはしない。憎んでいるのだ。

 そして、ようやく父親は死んだ。しぶとかったが死んでくれた。遺体は病院から葬儀場の霊安室に移された。家に戻ることはなかった。火葬だけの葬式。小さくなった遺体は1番安い棺に入れられた。操は1度も顔を見なかった。誰にも知らせなかった。火葬の間、微笑していた。幸せそうに。
 骨になって戻った家。操は涙1粒流さなかった。

タチの悪い恋

 あの人は、病気だったのか? 脳の病気、それとも心の?

「智恵子は東京に空がないと言う……」

 あいつのママが教えてくれた。
「おばちゃん、田舎に帰りたいの?」

 おばちゃんと呼ぶには若くて美しすぎる人だった。真っ白で……

「治ちゃんは人の気持ちがわかるのね」
「……なんでも買えるのに……」
「なんでも買えたら幸せだと思う?」
 ボクは首を振った。
「気がつくかしらね? 大事なものなくす前に」

 あいつは金持ちの、嫌な坊ちゃんになっていた。欲しいものは、大奥様が、あいつのおばあちゃんがなんでも買って与えた。おばあちゃんもきれいな垢抜けた人だった。

 あいつはボクに見せびらかした。高価なおもちゃにゲーム。
 あいつのママは何も言わずにゲームを取るとすごい握力で壊した。壊してゴミ箱に放り投げた。見事にストライク。
 あいつは呆気に取られ、泣くことも忘れた。
 わかったのだろう。あいつは急いで後を追いかけ謝っていた。何度も何度も。
「おばあちゃんよりママがいい。ママが好きだ……」 

 
 あの男が屋敷の隣のアパートに越してきた。
 大奥様はウキウキしていた。おかずや菓子を差し入れしていた。
 あの男にあいつはピアノを教わった。
 あいつのママは無関心だった。
 そう見えただけだったのか? 

 そのうち、あいつの家に集まってピアノリサイタル……
 大奥様はクラシックファンだったから次々にリクエストしていた。
 あいつのママはキッチンでひとりで目を閉じて聴いていた。
「向こうでみんなと聴けばいいのに」
「気にして見に来てくれたの? 治ちゃんは優しいね」
 
 
 ボクは思い出す。あの男の部屋のベランダから屋敷の庭がよく見えた。あの男は見ていた。バラの手入れをするあいつのママを。
 あいつのママは近くの畑を借りて野菜を作った。大きな屋敷の若奥様が長靴履いて畑で……
 あの男は通りすがりに見ていた。見るために通りすがる……

 大奥様は……あいつのおばあちゃんは嫉妬していた?
 あの人の嫉妬があの家を壊した。

 あいつのママは妊娠していた。おなかを撫でていた。幸せそうに……
 ボクが気付くと困ったように微笑んだ。
「まだ内緒よ」
 唇に人差し指を当て、そしてため息をついた。
 なぜ? 

 知られたら……悪いことが起こりそうだ。

 そして悪いことは……起きた。

 救急車がきて、あいつのママはおなかを押さえ言った。
「自分で落ちたの……」
 消えていく意識の中で何回か言った。

 ボクにはわかっていた。
 あの人をかばっていた。
 あの人が突き落としたんだ。階段から。
 

 ボクは自分の想像が恐ろしくなった。

 あの人は病気だったんだ。

 あいつのママは出て行った。
 近所のものは噂して喜んだ。
 羨ましがられていた大きな屋敷の醜聞。崩壊。

 父親は? まさか、知っているのだろうか? 知っていて再婚した? いや、それはないだろう。

 わからない。そもそもこの考えがあっているのかもわからない。しかし、あいつのママは……

 あの人は……

 施設にもいる。自分が1番でないと気が済まないのだ。食事も薬も風呂も1番でないと気が済まない。扱うのは楽だ。褒めておだてれば機嫌がいいのだから。



 母は強い女だった。なにかひっかかる。
 母が突然出て行った……前後の記憶が曖昧だ。

 4人に話を聞いた。

 母の妹の芙美子叔母さん。
 当時、彼女は父の援助で大学に通っていた。
 父の会社は業績を上げ、家にはデパートの外商が出入りし、父の妹たちもしょっちゅう来ていた。祖父の介護は母に押し付け、贅沢な生活を謳歌していた。
 周りは皆、祖母を大奥様、大奥様とおだてていた。祖母は、若いと褒められると喜んでいた。
 
 祖母は母に着物をあつらえた。バッグも宝石も。介護士に間違えられた三沢家の若奥様に。 
 祖母は祖父にねだった。大きなダイヤ……
「パパに買ってもらいなさいって、親子に見えるって、あなた……」

 祖父は妻が若く見えるのが嬉しかったようだ。
 しかし、誰もが欲しがったダイヤは母にプレゼントされた。
「大きなダイヤは苦労のない華奢な手には似合わない……」

 
「大奥様はきれいな人だった。でもね、あの人は……自分が1番。自分の娘たちもライバル。皆、扱いがうまかった。リア王ね。愛しています、おかあさま……」 

 デパートの男が母を褒めた。
「きれいな介護士さんですね…… きれいな方ですね……」
 祖母は笑っていた。しかし、担当を外された。

 祖母は母に嫉妬していた?


 祖父が亡くなると母はふさぎこんだ。空を見上げてため息をついた。
「田舎に帰りたい」

 ママはひとりで帰ってしまう。僕を置いて。ママは僕が嫌いなんだ……

 僕は祖母に育てられた。母は祖父の介護に忙しかった。
 祖母は僕を甘やかした。僕は泣き虫で弱かった。
 祖母はなんでも買ってくれた。ブランドの子供服、高価なおもちゃ、有名店のおやつ。
「治ちゃんちなんて、いつもふかし芋だよ」
 母の目が怒った。あの目は生涯忘れない。手が尻を打った。祖母が怒ったが母の剣幕はすごかった。

 僕は走って転んで泣いた。母は助け起こしはしなかった。いつもそうだ。僕は自分で起き上がった。褒めてもらいたかったのに、母はもう僕を見なかった。

 泣かないよ。ママ、もう泣かない。強くなるから、強くなるから置いていかないで……

「それにね……」
 芙美子叔母さんと島崎が付き合うようになると祖母は不機嫌になった……
「クリスティにあるでしょ? 姪の婚約者に恋慕して嫉妬する……」


 島崎に夢中だったのは祖母だった? まさか? 60歳の祖母が?
 
 夏生の母親に聞いた。当時のことを。
「もう話してもいいわね…… 」

 祖母は気に入っていた。島崎を。
 彼は夏生一家が住むアパートの隣の部屋に越してきた。人懐こそうな小学校の音楽の教師。
 夏生の母親もよく差し入れした。夏生にはピアノを教えてくれた。

 島崎は家賃を払いに来た。祖母が応対していた。祖母もよく面倒をみていた。食べきれない中元の菓子や果物を渡していた。
 しだいに食事に招きピアノの演奏をしてもらうようになった。

 祖母は若返っていた。美容院に行き、化粧が濃くなった。
 年甲斐もなく……と父にからかわれていた。母は祖母の気持ちを知り呆れていた。祖父が亡くなったばかりだった。
 音楽好きの母が島崎には無関心だった。そばにはいかなかった。年甲斐もなく恋をしている祖母の邪魔はしなかった……
 島崎を愛したのは祖母だった?

 思い出せ……
 祖母は毎朝おにぎりやサンドイッチを作り、学校へ行く島崎に門のところで待ち渡していた。朝食を取る時間のない男に。
 60歳の祖母は年よりずっと若く見えた。しかし、島崎は芙美子叔母さんではなく母を慕っていた。

 祖母は気づいた。
 嫉妬? 息子の嫁に? 祖父の介護をやり遂げた母に嫉妬した? 祖父の下の世話までやらせておきながら?
 祖父は母を自分の娘たちより信頼し愛した。大きなダイヤを母に残した。

 離婚させたのは祖母だ。なにがあったのだ? 母と祖母と島崎の間に?

 島崎は祖母の気持ちが重荷になり引っ越していった。母への思慕を断ち切るためにも。
 病気になり、夏生の母親に手紙を寄越した。
 母のことが心配だったのだろう。様子が知りたかった。祖母と気まずくなってしまったのでは? と。
 夏生母娘は見舞いに……夏生が僕に話し、僕は母と祖母に話した。
「和ちゃん、死んじゃうんだ……」

「居ても立ってもいられなくなり看病しにいったのは大奥様よ。毎日のようにタクシー呼んで」
 連日見舞いに行き、島崎にもう来ないでくれと言われたら? 
 祖母は母を憎んだろうか? 

 思い出せ。
 よく言い争いをしていた。いや、母は一方的になじられていた。
 息子を奪い主人にも色目を使っていたと……
 中卒の父親のいない田舎娘……


 誰もがありえないことだと言った。夏生も夏生の母親も、芙美子おばさんも大先生も……なにより父が……
 ありえないことだ。母が不倫?
 

 祖母はグラスを投げつけた。母は顔色ひとつ変えなかった。祖母は余計興奮した。汚い言葉でののしった。
「息子をたぶらかした女」
 僕を見ると母はにっこり笑った。
「ちょっと喧嘩しただけ。仲がいい証拠よ」


「幸子はあの男と……あのピアノを弾く男と……」
 誤解だ。祖母の話を父も一笑に付したはずだ。 
 しかし不安はあった。
 余命宣告された男……
 母は弱いものを放ってはおけない……

 祖母は何度も言った。
「幸子はあの男と……」
 母は聞き流していた。父は?


 治に確かめた。
「覚えてないのか? おまえのトラウマだろ?」

 母が階段から落ちた。
 犬が吠えた。病気で弱っていた犬が必死に吠えた。
 階段の上に祖母がいた。

 治は夏生の家に走って行き、おばさんが救急車を呼んだ。母は足を滑らせたと、自分で落ちたと説明した。

 母は妊娠していた……
 ずっと欲しがっていたのにできなかった……
 母は身体中打って、出血していた。

 母の子が死んだ。
「天罰が当たったんだ。あの男の子どもよ。英輔は裏切られた。離婚しなさい」
 父が駆けつけてくると祖母は半狂乱だった。天罰だ、天罰だ、と。

 父は調べたのだろう。島崎が入院している病院に三沢幸子は連日通っていた。面会表に祖母は母の名を書いたのだ。
 連日見舞いに訪れた女は若い格好をしスタイルも良かった。祖母はサングラスをしていた。ブランド物のサングラスに帽子を自慢していた。

 妊娠したことは父には言っていなかった。祖母に知られたらどうなるかはわかっていたのだろう。

 母の辛抱と献身は終わった。父が疑ったのだ。母の怒りの目に父はひるんだ。すぐ謝ったのか? 
 母は聖女ではない。優しいだけの女ではない。すがりつくような女ではない。
 母は信じてくれとは言わなかった。否定も弁解もしなかった。母は家に戻ると荷物をまとめ僕の手を引っ張った。
 祖母が叫んだ。
「英幸は置いていきなさい」
「選びなさい。ママかおばあちゃんか」
 僕は即答できなかった。母の手は離れた。

 ひどい母親だ。普通の精神状態ではなかったとはいえ…… とっさに選べず母は僕の手を離した。 
 ひどいよ。子供だったんだ。しかたないじゃないか……

 父が追いかけた。父は無理やり車に乗せた。
 ふたりは数日別荘で過ごした。別荘でなにがあったのだろうか? 安静にしていなければならないときに。

 母は全身傷だらけで待望の子を失い、夫には不貞を疑われた。
 母は否定しなかった。それだけであの弱い男は……
 パパ、バカだよ。疑うなんて。ママは強情過ぎる。
 祖母が管理人に電話をした。母は衰弱していたが父を許さなかった。
 2度とこの家には戻らなかった。

 
 祖母は後悔しただろう。この家は崩壊した。

 あなたの息子は酒に逃げ、孫に暴力を振るい、あなたのかわいがっていた犬を投げつけ、あなたを突き飛ばしたのだ。

 僕はかばった。あなたを。僕はあなたに懐いていた。あなたはかわいがってくれた。英輔そっくりだと。あなたが言えばそうなのだ。誰も母親似だとは言わなかった。

 あなたは僕に謝った。心の病気だと。あれは父のことではなかったのか? 自分のことを謝ったのか? 
 嫉妬と妄想……

 天罰……違う。天罰なんかじゃない。

 祖母は暴力を振るった……母は階段から突き落とされた……? 
 妊娠していた母が階段から落ちるだろうか? 母は祖母をかばった?

 母は本当のことを言ったのだろうか? 
 父に、あなたの母親におなかの子を殺された、と。
 いや、母は言うまい。父を絶望させるようなことは決して言わなかった。その代わりに言ったのだろうか? もっと打ちのめすことを。
 
 いや母は嘘はつかない。

タチの悪い恋 続き

 記憶はつぎつぎに蘇る。

「やっぱり大学出た人は違うわね」
 母は父に話していた。
「こんな近くに住んでて知らなかったの? 動物病院の亜紀先生を?」

 母は亜紀を知っていた。毎年犬に注射を受けさせに行っていた。

 祖母が飼っていたヨークシャーテリア、祖母は長い毛をカットさせなかった。祖父の介護が大変なときに、母は犬の手入れまでしていた。 

「あなたはしみったれすぎるわ」
 景気が良くなると祖母は贅沢になった。
 その犬が脳腫瘍になった。嘔吐しソファーにも飛び乗れなくなった。
 母は犬を大先生の動物病院に連れていった。遠くの病院まで検査に付き添ってくれたのが娘の亜紀だった。
 ふたりは同じ年だった。亜紀は父を知っていた。町内では誰もが憧れた存在だった。


 大先生はもうすぐ80歳になるが当時のことは覚えていた。
 母から動物病院に電話がきた。頼まれた亜紀は桃太郎の往診に来た。
「薬飲ませている?」
 僕はうなずいた。もう、桃太郎を守れるのは僕だけだ。
 亜紀は僕の目の上のアザに気づいた。僕は自分で転んだ、と父を庇った。亜紀にはお見通しだったろうが。亜紀は祖母と話していた。

 この家に亜紀が出入りするようになった。亜紀は僕の心配だけでなく父と祖母の心配もした。
 亜紀はこの家に必要な人間になった。
 
 母は誰になにを言われようが、感情をなくす訓練はできていた。母は潔白だった。しかし、祖母の嫉妬はひどくなっていった。自分がいれば余計に……
 父に本当のことは言えない。母親が若い男に夢中になり、嫁に嫉妬しているなどとは言えなかった。
 しかし、母の誤算だ。父は弱くて情けない男だった。

 
 祖母は母がいなくなると穏やかな祖母に戻った。家政婦を雇い家の中を仕切った。
 自分が1番の祖母の、1番大事な息子を奪っていったのは母だった。祖父は母を褒め祖母を非難した。あのダイヤを祖母にではなく母に与えた。 
 皆、母を褒めた。よくできた嫁だと。容姿も褒めた。化粧しなくても飾らなくてもきれいな人だと。

 島崎のことが決定的だった。祖母の最後の恋を母は奪った。息子を奪っていった女がまた……
 祖母は母が憎くてたまらなかった。

 亜紀は嫁いでも仕事を続け、家のことは祖母に任せた。祖母に逆らわず祖母に従順に。
 亜紀の肌は日に焼けていた。色白ではない。それだけで祖母は安心した。
 

 祖母は明け方、救急車で運ばれた。桃太郎と同じ病気だった。
 親戚が皆見守る中で祖母は息子を捜した。唯一自分より大事な息子……
 父はそばにいたのに祖母は捜した。
 亜紀が僕の手を引っ張りあなたの手を握らせた。あなたは僕を父と間違えた。母そっくりの顔を……そして逝った。
 いや、あなたが捜したのは母だったのか? 謝ろうとしたのではないのか? あなたは母にしたことを覚えていたのか、忘れたのか?

 亡くなったとき、父は謝っていた。寿命を縮めたのは自分のせいだと。
 
 故郷の海が母を癒した。母は父が来るのを待っていたのではないか? 
 いや、思い込みだ。そうであって欲しい……


 亜紀は母が戻ってくることを望んだ。
 英輔さんに迎えに行かせようか? おかあさんは……

 祖母は病気だったのではないか? 桃太郎と同じ……
 嫉妬と妄想であれほど人格が変わるだろうか?

 亜紀はすぐに気がついた。母は気が付かなかった。桃太郎をみていながら。
 そもそも原因は母だったのでは? すべてを母に奪われていくストレス……

 母は大変なときに逃げ出した。強い母が逃げ出した。祖母の病気を見逃した。初期症状はあったはずだ。頭痛に嘔吐。
 辛かったはずだ。それを見逃しあの悲劇が起きるまで気が付かなかった。それでもわからなかった。
 母は自分を責めただろう。自分が原因なのに……

 今さら祖母のそばにはいられない。真実を知れば父は苦しむだろう。この家に祖母とは暮らせない。
 祖母から息子を再び奪うことはできなかった。かわいがっている孫も……

 亜紀の気持ちはわかっていた。なぜ三沢家のために親身になり尽くしてくれるのか。母にはわかっていたのだ。
 この家には戻れない。

 母が愛したのは故郷だけ。母は金持ちが嫌いだった。金に媚びなかった。金に媚びるのを嫌っていた。 
 僕も父もこの家も、もう母が愛する価値はなくなったのか?

 待っていた男はついに来なかった。代わりに島崎が来た。自分が原因で離婚させられた女に会いに。
 死ぬ前にもう1度会いたかったのだろう。母は自分をずっと慕っている、死にいく男を放っておけなかった……
 母にも好意はあったのだろう。音楽好きなふたりだ。愛はひとつではない。

「島崎と暮らしているの」

 そんなようなことを母は亜紀に言ったのではないか? 父は亜紀と再婚した。 


 母の汚名を返上してやりたい。
 しかし、母は望まないだろう。あの弱い元夫は耐えられない……
 母は父の子を祖母に殺されたのだ。
 さすがの母も辛かったろう……


「かあさんか?」
 パパは疑っていた? 
 僕に聞いた。階段の上で。
 僕が見ていたと思っているのか? 

 祖母は階段の上にいた。腰を痛めていたのに。見ていたのは桃太郎だけだった。

 疑い、確信したときには妹の彩がいた。

 パパとママの子はもうひとりいたんだよ。

 僕たちが強かったら……
 

 母は田舎に行くとずっと海を見ていた。
 東京に戻る日はため息をついた。
 母が愛したのは故郷の海だけ。


 ママ、僕を残して……大丈夫だったの? 心配じゃなかったの?

「弱い子は嫌いです」

 母は僕より幼い頃に父親を亡くした。


 今となってはわからない。
 都合のいい思い込みだ。
 僕の願望だ。僕は母に捨てられたのではないと思いたい。
 なにが真実でなにが嘘なのか? 
 
 裏切られたのは母のほうだ。
 父は再婚した。僕は亜紀に懐いた。
 捨てられたのはママのほうだ。僕はママを憎み亜紀を慕った。
 
 亡霊が庭をさまよっている。窓を叩く。
 ママが怒る。亜紀をおかあさんと呼ぶと……
 
 ママ、パパは愛してたよ。狂うほどママを愛していた。
 僕のせいだ。僕のために再婚したんだ。僕が弱かったから。
 治だったら、パパの力になってママを迎えに行ってた……
 
 さすがの亜紀もこの真実には気づかなかった。 
 いや、亜紀は気づいただろうか? 
 不倫が祖母の妄想だと。死んだのが父の子だと。
 

「……どうして、……愛は永遠じゃないの? ひとつじゃダメなんだ? ひどいよ。ママは。こんなに愛したパパを裏切るなんて」
「……裏切ったのはパパのほうかも。再婚したパパのほうかも……」
「そんな……バカなこと」
「なんとなく、そう思うことがある……あなたも?」
「絶対違う」

「あの人が死んだときホッとした。あの人は島崎が死ぬと待っていたのよ。パパと暮らしてた故郷の部屋で。パパが帰るのを待っていた。
 いつパパが私と彩を捨てて、出ていくんじゃないかとびくびくしてた。
 会社は三島に譲って、なにもかも捨てて……
 あなたは渡さないわよ。あなたは私が育てた私の息子……
 パパが弱いからダメなのよ。離婚なんかしないで待っていれば幸子さんは帰ってきた。私と再婚なんかしなければ、今この家にいるのはあなたのママだったのよ」

 亜紀はずっと罪悪感を感じている。自分さえいなかったら……と。

 亜紀、僕はあなたの息子だよ。

 不思議だ。愛し合っていたと思いたい。母は島崎を愛した……そう思いたい……

 治、治は気が付いていた? 
 祖母の嫉妬、島崎の思慕……
 母は褒めていた。治は人の気持ちがわかる子だと。

 僕は大人たちにおだてられていた。坊ちゃん、坊ちゃんと。
 祖母は僕の言うことを聞くから。

 若い店員が僕の機嫌を取った。祖母に高価な宝石を買わせるために。
 僕は母の大嫌いな人種になっていた。
 僕は治にも尊大になっていた。
「友達なくすぞ。ママが見てるぞ」
 治が教えた。恥ずかしかった。

 ママ、僕は恥ずかしさのために死にそうです。
 ママ、ごめんなさい。治みたいになるから治みたいにひとの気持ちがわかる子に……

「治ちゃんががママの子ならよかった? 僕も人の気持ちがわかる子になるよ」
 ママは両手を広げた。
「弟と妹どっちが欲しい?」


 僕のせいだ。僕が祖母に喋った。
「僕、おにいちゃんになるんだ」
 すべての不幸は僕が原因だった。母が階段から落ちたのはすぐあとだ。


 風が窓を叩いた。絶望か希望か?
「弱い子は嫌いです」

 強くなるよ。強くなりたいけど……
 窓が震えている。
「英幸、ごめんね……」
 ママの言葉が聞こえた。

 
 ママ、もうすぐ孫が生まれるんだよ。


 おばあちゃん、あなたは病気だった。そう思うよ。僕には優しかった。
 僕を愛してくれたね。あなただけだった。僕はパパにそっくりだと……

 彩のいい兄貴になるからね。あなたのひ孫が生まれます。 



  (了)

 

ジーさん

 暑い日差しが朝から照りつける。今日も熱中症注意報だ。アパートのゴミ置き場で空き缶を集めていると、住人が声をかけた。
「暑いから気をつけなよ。じいさん」
 耳が聞こえないふりをする。今ではとがめられることもなくなった。これができなければ収入が途絶えるのだ。
 自転車に掛けられるだけのビニール袋に空き缶を集める。道行く人は、軽蔑と哀れみの表情をする。以前は自分もそうだった。
 自転車を漕いで40分、空き缶引き換え場まで日に何度も往復する。日に焼けた顔は余計老けて見える。まだ60になったばかりなのだが、70には見られるだろう。痩せているが、力も体力もある。粗食だから風邪もひかない。抵抗力もある。なによりもストレスがない。血圧が正常値に。尿路結石も十二指腸潰瘍もない。あの頃とは大違いだ。

 妻と息子にストレスをぶつけられなくなると、次郎の体は悲鳴を上げた。十二指腸潰瘍でトイレの前でのたうち回った。妻も息子も冷ややかな目で見ていた。死ねばいい……
「救急車呼びます?」
「いい。みっともない。タクシー呼んでくれ」
 息子を留守番させて妻は付いてきた。支えてくれた。心の中では死ねばいい、と思っていたに違いない。死ねば、家のローンは免除だ。高額の保険にも入っている。母子が困ることはない。死んでやればよかった。
 尿路結石で苦しんだときも冷ややかだった。ついてさえこなかった。

 すべてをなくした。妻も息子も家も。残ったのは仕事だけだった。家庭を崩壊するに至った仕事だけ。養育費のために働いた。できることはそれだけだった。息子が大学を卒業するまでは死んでも働かねば。死ねば保険金でまかなえるが。すべて自分が悪いのだ。妻と子供をひどく傷つけた。あのまま終わらなければ、息子に殺されていたかもしれない。2度と会うことはない。会ってはくれまい。

 エアコンが壊れた。修理はこない。窓と玄関を開け放して扇風機をかけて寝る。暑い。鍛えているはずの肉体が根を上げる。このままだと、朝には死んでいるかもしれない。それもいいか。開け放しだ。誰か、のぞいてくれるだろう。死後の事は契約してある。金は余るはずだ。息子は受け取るだろう。せめてもの償いだ。それも拒否されれば寄付される。

 朝は来た。残念ながら朝は来た。早く行かねば遅れを取る。すぐそばにできた新築のマンション。空き缶を集めていると視線を感じた。文句を言われても聞こえないふりをする。しかし、見つめているのは杖を付いた若い女だった。25歳位だろうか? 麦わら帽子を持っている。それを差し出した。
「帽子被らないと危ないわ」
 くれるというのか? 汚いオレに? 次郎は聞こえないふりをした。
「いらないなら捨てるわ。使わないから」
「いらないならもらうよ」
「やっぱり、聞こえているんじゃない」
 足が悪くなければ無視しただろう。明るい娘だ。骨でも折ったのか?
「ありがとうよ」
 礼を言って被った。風に飛ばされないようにゴムも付けてあった。
「気をつけてね。おじさん」
 おじさん……おじいさんだろう。

 足の悪い娘にはよく会った。よく会うはずだ。次郎は日に何度も近辺をうろついて空き缶を集めているのだから。娘はそのたび声をかけてきた。時々はビニールに入った空き缶を寄越した。ただの骨折ではないらしい。生まれつきか? それとも……
「あんたが飲むのか?」
 発泡酒と酎ハイの空き缶がたくさん。
「主人はビール。私は飲めないから私の分まで」
「……?」
「妊娠してるの」
「……それは、おめでとう」
「気をつけてね。おじさん」
「じーさんでいいよ」

 次郎は息子が傷つけた少女のことを考えた。忘れたことはない。夏の日、母親は娘の手を引き乗り込んできた。あの時に、間違いに気づいていればまだ間に合っただろう。息子は嘘をつくしかなかった。金を取った、なんて父親に知られたら半殺しの目に遭わされただろう。
 自分のせいなのだ。息子があの少女を怪我させたのは。取り返しのつかないことになった。家を売り、できる限りの賠償をした。
 その後、妻と息子は出て行った。それきり会っていない。会社だけは辞めるわけにはいかなかった。息子が大学を卒業し、早期退職者を募集したときに、すぐに決めた。条件は良かった。3年分の給料7割りに退職金。
 辞めて暇だからバイトをした。いろいろとした。人と関わりたくなかった。学歴を自慢していた、有名企業に勤める外面の良い男は転落した……
 しかし、転落は苦ではなかった。むしろ、楽しかった。自由だ、ストレスがない。困らないだけの金はある。使いはしないが。

 妊婦が気になった。次郎は待つようになった。
「つわりはないのか?」
「少しね」
「旦那は優しくしてくれるか? つわりは病気じゃない、とか言わないか?」
「優しいわよ。いい旦那。いい父親になるわ」 

 次郎は思い出した。妻のつわりがひどくて食事の支度ができない……次郎は自分でラーメンを作った。
 3度までは我慢した。キッチンに溜まっていた洗い物をした。次郎は几帳面だ。鍋の汚れが我慢できない。磨き出した。なぜ、普段からきれいにしておかないんだ……鍋を叩いた。
 妻は2度と夫をキッチンに立たせることはなかった。やればできるんじゃないか。甘えていただけだ。そう言って妊娠中の妻を怒鳴った。
 膀胱炎になったときも漢方薬しか出してもらえず、妻は辛かった……それを……思い出したくない。3日ゴロゴロしていた妻を怒鳴った。掃除しろと。ひどい夫だった。妻は恨んだだろう。一生忘れないはずだ。子供がいなかったら、帰る実家があったなら、生活力があったなら、とっくに妻は出て行った。出て行く準備をしていたのだ。間に合わなかった。

「気をつけてね。ジーさん」

 足の悪い妊婦は次郎を見かけると声をかけた。
「ジーさん」
 せめて、おじいさんと呼んでくれ。
 じーさんではない? まるでアルファベットのGだ。Gさんと呼ばれている? 郡司のG。まさか。

 妊婦はゴミ出しの日は毎朝出てきた。次郎は待つようになった。土曜日は旦那と出てくる。手を振り見送る。仲が良さそうだ。
「土曜日なのに仕事なのか?」
「忙しいから」
「いいことだ」

 忙し過ぎた。忙し過ぎて心をなくした。



 無事に子供が産まれたようだ。里帰りはしないと言っていた。母親が手伝いに来ると。父親は幼い時に亡くなった。自分の母親なら甘えられるだろう。

 次郎の母親は手伝いに来ても文句ばかりだった。空気が冷えていくのがわかった。妻は感謝もしない……文句を言う母に交通費と小遣いを渡して帰らせた。その夜、喧嘩した。田舎から出てきた母に渡した金が多すぎる、と。来てもらわなければよかった。朝早く起きて、茶が飲みたいって起こされた。ほとんど寝てないのに……余計に大変だった。
 思わず怒鳴った。産後の妻を。妻も限界だったのだろう。何か言い返した。手を挙げていた。産後の妻を殴った。1度ではない。平手だが4回以上。怒りに任せて。妻は倒れ、ハーフパンツの足に噛み付いた。肉がちぎれるかと思った。
 噛まれたあとを確認した。妻は子供を置いて出ていった。産後2週間も経っていない。次郎はすぐに追いかけ、謝るべきだったのだ。妻に行くところはない。子供を残して戻らないわけがないと、たかをくくっていた。
 息子が泣き出した。それからは大変だった。慣れない手つきでオムツをはずしたら、ちょうど出ているところで手と服を濡らした。なんとか着替えさせたが泣き止まない。ミルクの作り方を読んで作った。時間がかかった。その間息子はずっと泣いていた。
 ようやく飲み終え、寝かせようとしたら吐いた。勢いよく。驚いて怖くなった。育児書を読んだ。げっぷさせなかったからか? 心配はなさそうだ。シーツを変え、もう1度着替えさせた。

 洗濯機を回そうと、もたもたしていたところに妻が帰って来た。買い物をしていた。妻は黙って手を洗うと息子の世話をした。次郎は黙っていた。口を開いて再び怒らせると面倒だ。

 
 母親になった女は2週間もするとゴミ出しに来た。元気そうで安心した。他人を気にかけることなど、なかったことだ。妻や息子のことさえ気にかけなかった。
「ジーさん、変わりない?」
 気にかけられることもなかった。
「無事、生まれたか? どっちだ? 名前は?」
「男の子、健康の健」
「健坊か」

 少しすると、母親は健坊を抱きゴミ出しに来た。杖を付いて。少しずつ外気に慣らしていく。次郎はおもわず頬に触った。母親はとがめなかった。
「かわいいなあ。いろんな顔をするんだな」
「1日中見てても飽きない」
「夜泣きしないか? 旦那にうるさいとか言われないか?」
「オムツ変えてくれるわ。ミルクも作ってくれる」
母乳は? とは聞けなかった。妻と母はそのことで険悪になった。頑張って母乳飲ませなさいよ……妻も頑張っていてのだ。ストレスで出なくなった。
 夜泣きがひどかった。仕事に差し障る。大声を出した。妻は寒い夜中に息子をおぶって外に出た。泣き止んで眠るまで外を歩いていた。

 次郎は健坊の成長を見守った。息子のことを考えた。息子は結婚はしないだろう。いや、すでに結婚して、自分のようになっているのではないか? 暴力を振るい悲惨な家庭を……そして妻に言われているのでは? 嫌ってた父親と同じことをしている、と。

 健坊の成長は次郎の生き甲斐になった。健坊は早起きだ。いつもゴミ出しを手伝った。次郎は買ってきたおもちゃをプレゼントした。消防自動車が好きだと言っていた。毎日歩いて消防署まで見に行くのだと。健坊は喜んだ。
「こんな汚いじーさんにもらったら、怒られないか?」
「汚くなんかないですよ。健はおばあちゃんはふたりいるけど、おじいちゃんはいないから。おじいちゃん代わりです」
 涙が出そうになった。孫どころか、息子に見限られた身だ。自転車を押して3人で消防車を見に行った。コンビニで菓子を買ってやる。健坊は時間をかけて選んでいた。ひとつだけ、と決められているらしい。かわいかった。この子のためならいくつだって買ってやりたい。なんだってしてやりたい。

 こんな小さな息子にも当たった。怒って泣かせ、次の日にはおもちゃを買って帰った。ひどい父親だった。懐くわけがない。

 季節が何度か巡った。母親は行事があると健坊の写真を見せた。幼稚園入園、遠足、運動会、七五三……

 小学校に入る前だ。
「引っ越しするの。家を買ったの」
 ついにきた。もう、このマンションは手狭になった。
「そうか、寂しくなるな。旦那さん、頑張ったな」
「近くだから、3丁目の建て売りだから、寄ってね、缶貯めておくから。健に会いに来て」
「あそこの建て売りか? よかった。また会えるな。健坊」
「会いに来てね。おじいちゃん」
「ああ、行くよ」
「1番奥の家よ。いずれ、夫の親に来てもらうから」
「うまくやってるんだな。ところで苗字は?」
「キクチだよ」
 健が教えた。
「菊池?」
 妻の旧姓だがよくある姓だ。
「ママの名前はきくちまき」
「えらいな。健坊。迷子になっても言えるな」
「パパの名前はきくちやすし」
「やすし……」
「僕の名前はきくちけん、だよ。おじいちゃん」


     (了)

短編集 Ⅳ

短編集 Ⅳ

  • 小説
  • 短編
  • 青年向け
更新日
登録日
2024-03-26

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. パパがカレーを
  2. アパートの手記
  3. 恩人
  4. 先輩
  5. ずっと見ていた
  6. 放言
  7. 悲しい父娘
  8. タチの悪い恋
  9. タチの悪い恋 続き
  10. ジーさん