短編集 Ⅲ

短編集 Ⅲ

すでに投稿済みの10話をまとめました。

キッチンの絵

 小学校高学年の家庭科の宿題だったと思う。自分の家のキッチンを描いた。
 意地悪な宿題だった。
 治の家は古くて、ゴキブリも出るから、それも絵に描いてやる、と怒っていた。

 僕の家はもっと古い。キッチンはリフォームして、広くて雑誌に出てくるようなアイランドキッチン……のはずだったが、なにしろ義母は片付けが苦手だった。
 この家に嫁いでくるまで、ごはんも炊いたことがなかった。
「欲しいのは奥さんね」
と言ってた女だ。
 結婚当初はよく祖母が片付けに来ていた。
「英輔さんに嫌われるわよ。帰ってこなくなるから」
と呆れられていた。

 物で溢れたダイニングキッチン。テーブルは半分が使えない状態。床には中元で届いた箱がたくさん。空箱も積み重ねてある。
 僕が正確に描いていると、義母は悲鳴をあげた。
「これは、絶対特賞だね」
「ちょっと待ってよ。やめなさい、エイコウ」
 義母が僕の名を呼ぶことは滅多にない。
 パパとママから1文字ずつ取った名前。僕の大嫌いな名前。
 僕はゴキブリの絵を描いた。得意な虫の絵。
「おかあさんの好きなナメクジラも」
「ナメクジは虫ではない。描くのは明日にして」
「では、30分の猶予を与える」
「無理」
「じゃあ、1時間」

 その間、僕はピアノを弾いた。
 テンペストの第3楽章。瑤子さんが好きな曲だ。
 義母の従妹の、僕よりひとまわり年上の女。従妹なのに、似ていない。顔も性格も。彼女がくると楽しかった。彼女は僕を笑わせた。
 毎週末、瑤子は三沢家を訪れていた。最近は、父の部下も。父は、ふたりを結婚させたいのだ。
 
 瑤子の好きなテンペストはパパの好きな曲でもある。
 そして、ママの好きな曲だった。

 あの男が、よく弾いていた。隣のアパートに越してきた音楽教師。家賃を払いに来て祖母に気に入られた。リビングルームで祖母のために、よくピアノを弾いていた。クラシックの好きな祖母のために。
 いや、ママのために。ママに聴かせていたんだ……

出会い

 初めて君に会ったのは、中学3年の夏。
 僕を捨てた母が亡くなったすぐあとのことだった。

 ママが危篤だと知らせが入ったとき、
「受験勉強があるから、僕は行かない」
と突っぱねた。
「ママがおまえの名を呼んでいる」
 パパは僕に頼んだ。
「頼むから一緒に来てくれ」
と土下座した。
 あのパパが土下座した。
 

 案の定、僕は不安定になった。弟の存在が決定的だった。
 ふさぎ込む僕を義母は無理やり外に連れ出した。テニスの特訓。

 スポーツはいっとき、悲しいことを忘れさせてくれる。
 隣のコートに君がいた。夏生(なつお)が、空振りばかりする君を見て吹き出した。

 悲しい時でも異性に惹かれるものだ。
 僕は、運動音痴の君を見ていた。

 マリー、小さな太陽。勝手に名付けた。

 それを気付かれたくなかった。だから、僕もわざと笑った。
 義母がたしなめた。
 感の鋭い義母は気付いたのかもしれない。

 義母は気安く君を呼ぶとコーチを買って出た。たぶん、僕のために。
 僕と夏生は君のために球拾いをさせられた。
 そして、察しのいい義母は僕に相手をさせた。

 奇跡もあるものだ。君が打ち返してきた。何度か続いたラリー。

 誓う。あなたのためなら身を粉にして努める。生きていくから叱らないでいください……
 (太宰治『狂言の神』より引用)

 どう思っただろうか? 僕を? 背も高くない、子供っぽい色の白い美……少年。
 君は、なんの魅力も感じなかったようだ。

「きれいな子だったわね。もてるでしょうね。男は視覚で恋をする」

 顔だけじゃない。素直で恥ずかしがり。一生懸命だった。
 君は視覚で恋をしない。中身のない僕に恋などしない。
「同じ学年よ。名前くらい聞けばよかったのに。ひとことも話さないで」
 僕が惹かれたのは外見か?



 大きな邸の『坊ちゃん』は窓からオレを見ていた。目が合った。
 最初は女かと思った。この美少年がピアノの奏者?
「圭君、あの子の友達になってくれない?」
 邸の気さくな女主人が言った。
「友達って、お願いされてなるもんじゃないですよ」
「……そうよね」
 痛快だった。大きな邸の女主人に小倅が生意気なことを言った。

『坊ちゃん』はオレに興味を持ったようだ。
 女主人の代わりに飲み物を差し入れに来た。裸のオレを見る。まさか……
 ドキドキしてシャツを着てすぐに仕事に戻った。

『坊ちゃん』は土の袋を持ち上げた。父が止めた。腰でも痛めたら大変だ。
 背はオレより20センチは低かった。しかし手は大きかった。ピアノを弾いているからか?
『坊ちゃん』は軽々と持ち上げた。

 トラックと花壇を何度も往復し、重い土を運んだ。ペースを乱されたのはオレのほうだ。汗がダラダラ出て呼吸も乱れた。
 後ろを向くと『坊ちゃん』は息も切らさず涼しい顔をしてオレを見た。
 暑くてシャツを脱ぎ放り投げた。
 ペースを上げ、離したと思い後ろを向いた。『坊ちゃん』はすぐそばにいて笑った。ヒヒッ……と。
 すごいな……呼吸を整え言おうとして聞かれた。
「何才ですか?」
 父が答えた。
「15ですよ。志望校はH高なんです」
『坊ちゃん』は、僕も、とは言わなかった。困ったような、嬉しいような微妙な表情だった。

「ひ弱な坊ちゃんだったのに、すごい力と根性だ」
「あの奥さんは後妻なの?」
「前の奥さんは……そっくりだな、坊ちゃんは。辛いだろうな、旦那様は」
「死んだの?」
「出て行ったんだ。坊ちゃんを残して」
「どうして?」
「さあ、大旦那様を介護して、長いこと介護して、亡くなって少しすると……いい夫婦だったのに。坊ちゃんは、大奥様にかわいがられて、わがままに育てられてた。亜紀さんはすごいな。むずかしい年頃なのに……礼儀正しく育てた」



 G駅から10分強歩くと校歌に歌われているS川が流れている。M橋を渡ると歴史の古い公立校がある。川は歌詞のような清い流れではないが。
 入学式、30年前の卒業生だという来賓の挨拶が印象的だった。 
金縷(きんる)の衣は再び()べし、青春は得べからず」

 年よりずっと若く見えた。スピーチはユニークで聞き入ってしまう。その人が私の方を見た。目が合った。そして微笑んだ。まさか?
 来賓席に戻った三沢英輔を私はずっと見ていた。
 もう1度こっちを見て。私を見てください……

 誓う。あなたのためなら身を粉にして努める。生きていくから叱らないでください……

 太宰の文章が浮かんだ。なんの小説だったか?
 私は見つめた。

 けれどもそれだけのことであった。千万の思いを込めて見つめる私の瞳の色が了解できずに終わったようだ……

 魅惑? 魅了? 恋?
 走っていってすがりたい。髪を撫でてほしい。
 ありえない。高校の入学式、30歳も年上の男性に私は恋をした……

 そのあとのことはよく覚えていない。入学生代表として立ち上がったのは同じクラスの男子生徒だった。背の高い斉田圭。たぶんいちばん成績がいいのだろう。
 クラス委員は先生が決めた。圭と私だった。それも成績で決めたのだろうか?
 隣の席の三沢英幸(えいこう)は冴えないガリ勉タイプの生徒だった。メガネをかけひどく猫背で、自己紹介のときはボソボソと小さな声でよく聞き取れなかった。英語の英に不幸の幸?
 私は、
「水谷幸子です。幸子という名前は古風だけど気に入ってます。趣味は読書。スポーツは、ダメです」
 隣の三沢英幸が吹き出した……ような気がした。すぐにポーカーフェイス。

 帰り、私は校内をうろうろした。まだあの人はいるかもしれない。
 諦めひとり帰る。
 M橋の上であの人はたたずみ川の流れを見ていた。思わず近くに寄るとあの人は振り向いた。
「スピーチ、素敵でした。とても。とても」
 間近で見た三沢英輔はもっと素敵だった。見つめられ頬が染まっていくのがわかった。
「D組の水谷幸子です」
と言うと目が合ったことを思い出してくれたようだ。
 金縷の説明をしてくれた。
 

 しばらく胸がいっぱいで食欲もなかった。夢にも出てきて私を見て笑った。私は涙を流していた。
 かつてこれほど異性を思ったことはない。同じような思いをしたことがある。それは本の中の人物だった。誰にも言えない。それは乱歩の小説の中の、同性愛者だった。私は何度もその本を読み、最後の場面では泣いた。
 おかしいのだろうか? 私の感性は?



 入学してすぐに気づいた。三沢は気づかれないとでも思ったのか? 
 オレは気づいた。三沢が幸子に気があることまで。
 同じ女を好きになった。ライバルのはずなのに……オレたちは親しくなった。亜紀さんに頼まれたからではない。
 話していて楽しかった。物知りだった。背と体格以外では勝てないだろう。
 それもいつまで? 

 夏休みに急接近した。クラス合宿の出し物のダンス、練習をさぼった三沢の家に教えに行った。亜紀さんも妹の彩ちゃんも、隣の幼なじみの夏生まで来て皆で踊った。
 亜紀さんは歌を知っていた。『嵐が丘』のキャシーの亡霊の動画を見て、いやがる三沢に女装させた。

 楽しい夏休みだった。父親は入学式で来賓の挨拶をしたかっこいい男だった。幸子が惹かれていた。
 すごい素敵な人、と。

 ダンスを披露した。女装した三沢はゾッとするほどきれいだ。
 
 この家は……この家族はうまくいっているのか? 父に聞いた前妻がいた。亡霊になって息子の中に。
 元夫は息子を見ていた。愛した妻の面影を。余程愛した女だったのだろう。親に反対されすべてを捨ててこの家を出たという。
 戻ってきたのは会社が倒産寸前、大旦那様は脳梗塞で倒れ、大奥様は介護で体を壊した……
 なにがあったのだろう? この家に。なにがあったのだろう? 

異邦人のように

 ママが亡くなったとき、僕はふすまの陰から見ていた。
 パパは少しだけふたりきりにさせてくれと頼み、布団に寝かされていたママにさわった。 
 6年ぶりに会ったかつての妻の顔をさわり、久しぶりで最後のキスをした。そしてしばらくの間隣に寝ていた。

 それからパパは叔母さんに化粧道具を借り、死化粧をした。長い時間かけて丁寧に。
 僕は興味を持ち近くで見ていた。死体が生き返っていくみたいだった。パパにこんな才能が? 

 ママが眠っていた。あの頃と変わらないまま……
 涙がポタポタ流れた。意思とは関係なく。
 涙をコントロールできないなんて……

 ママを奪った海を見に行った。
 僕を捨て、なにもかも捨て、貧困に戻り働いて、心臓が弱っていた。それなのに溺れている他人の子供を助けにいった。
 なんてバカなんだ。どこまでバカなんだ。
 僕ははしゃいで駆け回った。
「泳ぎたいな、泳いでもいい?」
「異邦人だな、まるで」

 パパは別れたあとも、再婚したあともずっとママを忘れなかった。写真など処分しても意味がない。ママそっくりの僕が、ますますママに似てきたんだ。
 色白で、隔世遺伝なのか、体毛の薄い息子。思春期にニキビもできず、体は鍛えてもまだまだ華奢だ。

 パパは目を合わさない。僕のことはすべて義母に任せてある。
 義母は憎んではいないのか? 僕を? 前妻のことを忘れさせない僕を? 僕は似たような話を知っている。思い出した。本を開く。

『私がまだ非常に若かった頃だ、ホームズ君、私は生涯で1度しか経験したことのない恋愛をした……
 彼を見ていると、いとおしい彼女のあらゆる仕草が私の記憶に蘇ってきた……』

 本当はね、パパ。
 ママの口に糠を入れてやろうと思って、僕は袋に入れてポケットに入れていたんだ。姦通した妻の口に糠を詰め込んでやろうとずっと握りしめていた。
 パパは裏切ったんだ。
 パパの罪科。
 僕を不幸にした女の口にキスをした。

 居間で妹と遊んでいるとパパの視線を感じた。見ているのは妹ではない。僕の顔にママの面影を見ているのだ。いとしいママのあらゆる仕草がパパの記憶に蘇るのだ。
 それを義母が見ている。


 日曜日の朝、僕は庭で水を撒いた。バラがもうすぐ終わる。今は業者任せだが、ママは全部手入れしていた。 
 僕は思い出す。祖父が車椅子に座り、そばで指図していた。不明瞭な言葉をママは祖母よりも理解していた。長い中腰の姿勢、ママは弱音も吐かずたくさんのバラの手入れをした。
 強い女だった。わがままで激昂する祖父の介護をやり遂げた。パパより十も若い田舎者。親戚の冷たい目にも負けず、媚びず甘えず群れなかった。パパの保護も庇護も必要なかった。置いていかれた僕は強くはない。

 幸せだった頃の光景が思い出された。そこの椅子にパパとママは腰掛け、花を眺めていた。そして洋画のようにキスをした。優しいキスだった。 
 僕はパパの膝に乗り同じようにママにキスをした。パパは僕の顔に、顔中にキスして嫌がると余計にペロペロ舐めた……

 幸せは突然こわれた。ママは、さよならも言わずにいなくなり、パパのキスは暴力に変わった。祖母は僕を守れず、祖父のところへ逝きたい、と泣いた……

 トゲが指を傷つけた。僕は血も出ていない指に口をつけた。
 視線を感じた。縁側に父と義母が立っていた。

 ママは空を見上げる。そしてため息をつく。
 田舎に帰りたい……帰ろうか……

 パパは亡霊を見た。グラスが割れた。パパの手が血だらけだ。


 クリスマスのピアノの発表会。今まで1度も来たことのないパパが、妹のために休みを取って来る。
 
 僕は先生と打ち合わせをし、お願いした。クリスマスの余興だと。
 僕の出番は最後だ。ほとんど女子だ。僕がいるから入った生徒もいる。ここぞとばかりにおしゃれして着飾っている。
 妹は初めての舞台に立ち、愛想を振りまき拍手と花束をパパから貰った。
 こんなくだらない場に来るなんて……
 
 妹と先生の連弾。
 先生の格好をした僕は妹の手をつなぎ舞台に出た。最初は誰も異様に思わなかった。
 僕は先生の黒いドレスを着て、カツラを被った。ママの髪の長さ。自分で化粧をした。

 母の面影を求めて自分に化粧する……そんなドラマを見た。その母は死んだあと糠を口に詰め込まれた。

 妹とお辞儀をした。ステージマナーは完璧だ。
 パパは固唾を飲んだ……はずだ。亡霊が妹の手を取り現れたのだ。ゆっくり見ていたかったが、客席がざわついた。
 短い曲だからすぐ終わった。またふたりでお辞儀をする。ざわつきがピークになる。
 妹を退場させ僕は戻った。この空気を一瞬で変えてみせる。僕は微笑んだ。ママを思い出して。 
 僕は最高のお辞儀をし深呼吸してから弾いた。パパの好きなテンペストの第3楽章。

 パパ、あなたのせいで僕は捻じ曲がった。
 特別サービスだ。
 嵐だ。
 嵐の夜、義母はパパと大喧嘩して出ていった。なにがあったか今なら想像できる。僕だって何度も願った。ママが帰ってくることを。
 嵐の夜、物音でパパは血迷い、かつての妻の名を呼んだか、探したか? けっして戻ってくるはずのない女を。
 
 また再び、義母の隣でかつての妻の名を呼ぶがいい。
 快感だ。今まで弾いたなかで1番の出来だ。ひとつのミスタッチもなかった。手応えがあった。聴衆の心をわしづかみにした。
 聴衆は拍手も忘れた。僕が立ち上がりお辞儀をして引っ込むときに、ようやく割れるような歓声が聞こえた。
 
 すぐに後悔した。ドレスを脱ぎ化粧を落とした。バカなことをした。先生はどう言い繕っているだろうか? 

 おわりだ。三沢家のひとり息子は女装癖のある変態。三沢家の恥さらし。
 ママのせいだ。死んでも僕にとりついている。

 僕は座ってガタガタ震えていた。義母が入ってきた。
「アンコールよ。お嬢さん」
 拍手が鳴り止まない。アンコールを求める声が止まらない。
「余興でしょ? 先生も悪ノリしたわね」
 義母は男の服を着せ、唇にさわった。
「化粧、私より上手だわ。アンコールよ。後始末してきなさい」

 アンコールなんて思ってもみなかった。なにを弾こう?
 男に戻った僕は盛大な拍手に迎えられた。パパも拍手していた。僕は弾き始めた。
 祖父母が存命のとき、よくレコードがかかっていた。

 ミラボー橋
 なぜこんな長い曲を……詩を……
 祖父母がよく聴いていた。幸せだった時代。
 パパもママも僕も幸せだった。僕は詩を暗唱した。レコードと同じように。

 ミラボー橋の下をセーヌ河が流れ
 われらの恋が流れる
 私は思い出す 悩みのあとには
 楽しみが 来るという
 日が暮れて 鐘が鳴り
 月日は流れ 私は残る

 女装した男の声とは思われない低い声。詩を続けると変声期の声がかすれた。喉が痛い。
 
 手に手を取り 顔と顔を向け合おう
 こうしているとわれらの腕の橋の下を
 疲れた無窮の時が流れる
 日が暮れて 鐘が鳴り
 月日は流れ 私は残る

 そのとき客席から僕と同じ声が聞こえた。同じ抑揚、同じ間合い。先生が気を利かせてパパにマイクを渡した。
 
 流れる水のように恋もまた死んでゆく
 恋もまた死んでゆく
 生命ばかりが長く 希望ばかりが大きい
 日が暮れて 鐘が鳴り
 月日は流れ 私は残る

 日が去り 月が行き
 過ぎた昔の恋は 再び帰らない
 ミラボー橋の下をセーヌ河が流れる
 日が暮れて 鐘が鳴り
 月日は流れ 私は残る
 

 長い詩をパパと僕は少しも乱れず暗唱した。
 続けてパパは歌った。フランス語で。
 僕には歌えない。
 会場の皆がパパの歌に聞き惚れ、僕は脇役にされた。
 堂々として誇らしい父親。
 幸せな家族。幸せな時代。それは確かに存在していた……

身代わりだった

君は都会の独り暮らしを終え故郷に帰る。

まるで妖怪だな、歳を取らない。

胸にいつも下がっていた血赤の珊瑚。

あれは父のプレゼントだ。

義母と従妹の君へのみやげだった。

妻と同じものをもらって、君は嬉しかったの?


✳︎


 瑤子の父親が亡くなった。

 父は海外出張中で、葬儀には僕が行かざるを得なかった。

 かつて瑤子を送った道を、義母と妹を乗せて走る。
 思い出したくない。彼女とのこと。

 しかし葬式だ。父親が亡くなったのだ。失意にある女を義母も責めはしないだろう。
 僕も平静を装う。あれから5年も経っていた。

 僕たちは目を合わさなかった。5年経っても歳を取らない。薄化粧の喪服の女、恋人らしき男もいない。


 
 帰る間際、瑤子は畑に僕を呼び出した。都会的だった女が畑で野菜をもいでいた。
「まだ怒っているの?」
「……」
「結婚するんでしょ?」
「ああ」
「おめでとう」
「……」
「喋っちゃおうかな。あなたと……」
「……喋ってみろよ。父に打ち明けてやる。父の身代わりにされたって。父はどうするだろうな……」
「……もう許してよ」
「そっちから言い出してきた」
「……乳癌なの」
「え?」
「癌なの。死ぬのよ。だから許してよ」
「嘘だ」
「英輔さんに会いたかった。最後の望みも叶わなかった。私のお葬式には来てくれるかしら? 泣いてくれるかしら?」
 瑤子の目から涙が溢れた。
「本当なのか?」
「……」
「本当なんだな? 手術は?」
「するわけないでしょ」
「バカッ」
「もう遅いの」
「どのくらいだ?」
「すぐよ」
「……父にそばにいてほしいか?」
「あなたでもいい。そばにいて。手を握っていてほしいわ」
「……」
「……」
「身代わりか? いいのか? 父に話す。望みを叶えてやる」
「やめてよ。嘘よ。冗談よ。まったく、人がいいんだから……」
 平気で嘘をつく女か? それとも……

 視覚になる木陰で、胸を直にさわられ瑤子は白状した
「やめてよ。嘘よ。あんまりつれないからからかったの」
「なんて女だ」
「ごめんね、坊や。哀れな女を許して」
「ホントに嘘なんだな」
「ホントよ。もっと確かめる?」
「なんて女だ。いいかげんに忘れろよ」
「出張から帰ったら、きっとお線香あげに来てくれるわ」
「義母と一緒にね。義母はなんでもお見通しだ。もう過去にしろ」
 瑤子は声を上げて泣いた。父親を亡くしたばかりだ。
 憎い女、憎い瑤子を抱きしめた。胸を貸す。声を貸す。
「瑤子、特別サービスだ」
 2度とこの声を聞かすまいと思ったが……父そっくりの声。
 憎めない女。哀れな女。
「もう俺のことで人生を無駄にするな。俺は、どうしようもない男だ。弱くて情けない……だらしない。無神経で……妻がいなけりゃ生きていけない。妻が怖くて浮気なんてできないんだ。それに……もう歳だよ。もう……勃たない」
 瑤子は吹き出し、笑いながら僕の胸を叩いた。

純愛

 辰雄は川を見つめている少女を見た。
 バイクで通り過ぎたが、気になり戻った。
 ただごとではない。後ろ姿が悲しみを表していた。バイクを降り声をかけた。

 彼女の頬は涙で濡れていた。
 この瞬間が私の一生を決定した……

 最初、辰雄は警戒された。どこから見ても真面目な男には見えないだろう。中3にも見えなかっただろう。
 かたくなな少女の腹の虫が泣いた。大きな音がした。泣いていた少女は恥ずかしがり真っ赤になった。

 かわいかった。この子のためならなんでもできる。早々に投げ出していた人生を取り戻すことができる。

 少女は警戒心を解いた。
「こんなところにいたら変に思われるよ」
 パン屋でサンドイッチとコーヒー牛乳を買い、近くの公園で食べさせた。

 少女から死神は去って行った。辰雄は自己紹介をした。
「篠田辰雄。家は近くだよ。中3。頭は悪い」
 少女も同じように自己紹介をした。
「大江操。家は隣の区。中3。頭は……いい」
 冗談を言った。
 帰れない、という操をどうすることもできず、歩いた。バイクを押して。
「無免許?」
「ハハハ」
「やめなさいよッ!」
 強い口調で意外だった。
「やめるよ……」
 口から出ていた。
「……不登校なの? 高校は?」
「どうだっていい」
「……バチ当たり!」
「……?」
「行きたくても行けない人がいるのに」
 操は話した。母が亡くなり父は酒浸り。
 働かないの。進学できない。
「この間、スカウトされたの。家のそばでドラマのロケやってたから、見に行ったら名刺もらった。やる気があるならおいでって」
 辰雄は操の顔を観察した。あながち、嘘ではあるまい。
「君は、なりたいの? 歌手や女優に」
 操は首を振った。
「目立つのは嫌い。引っ込み思案だし……働きながら定時制に行こうかな。H高は定時制があるから」
「じゃあ、オレもH高にする。定時制なら入れるかな?」
 辰雄も話した。親のこと。母は亡くなった。
 再婚した父に連れ子。グレている自分のことを大袈裟に。
 死にたいのは君だけじゃないさ、と。
 
 辰雄は操を送った。
 帰るところは他にはなかった。狭い路地に面した古くて小さな平家。すぐそばに小さな公園があった。
「オレはそこの公園にいるから、なにかあったらすぐに出てきな。おとうさん、心配してるぜ。きっと」
「もう寝てるわ。酔っ払って」
 辰雄はしばらく家の前を行ったり来たりした。そして公園のベンチで眠った。秋の夜風に吹かれながら。

 朝、操は制服を着て出てきた。辰雄を見ると驚いていた。
「怒られなかった?」
「寝てたわ。なにも覚えてなかった。篠田さん。帰らなかったの?」
 辰雄は住所と電話番号を書いたメモを渡した。
「篠田さんも、学校行きなさいよ」
「もう、勉強も遅れてるからな」
「教えてあげる。友達に教えるの上手よ。先生よりわかりやすいって言われる」
「ほんとか? また会ってくれるのか?」
 操は頷いた。
「図書館で勉強してるから」
 家にはなるべくいたくないのだ。テレビは1日中ついているし、勉強できる環境ではない。
「バイクは乗らないで。髪もなんとかして」
 君の言うことならなんでも聞く。
「高校行きなさいよ。全日制に」

 こうしてふたりは会うようになった。辰雄は自転車を漕いで操に会いにいった。図書館で勉強を教わった。操が教えてくれるのだ。
 大きな声を出せないから、顔を近づける。操は真剣だ。どうしたらわかってくれるか真剣に考えている。
 辰雄はいままでにないほど勉強した。真面目になった。髪も黒くし学校に行った。喧嘩もやめ親にも教師にも刃向かうことはなくなった。
 辰雄は自分の境遇を大袈裟に嘆いた。それを操が諭す。ふたりの距離は縮まった。
 
 操の父親は後悔したのだろうか? 仕事を探してきた。スーパーの中の靴修理の店。酒さえ飲まなければ仕事はできるのだ。しかし給料は少ない。蓄えも減った。
 父を当てにはできない。当てにしてはならない。
 操は先生に相談した。定時制高校に通える就職先を。働いて金を貯めて家を出る……

 辰雄は自分の父親に交渉した。高校へ行くから。それも都立へ。
 だから私立へ行ったらかかる分の金を出してくれ。ギターが欲しい。でなけりゃ進学しないし、家も出る、と。
 中学3年の2学期の成績。通知表を見せると父親は喜んだ。
 やればできるんだ、おまえは、と。

 辰雄はその金を操に回した。
 全日制に行け、今までの家庭教師代だよ。どんな家庭教師より優秀だ。
 操は好意を受け取った。
 バイトして返すから。絶対、返すから、と。

海辺のあばらや

 海岸通りに1軒のあばら家がある。大きな家と小さなマンションの間にはさまれて。荒れ果てた家、やぶれや、破屋(はおく)
 到底、人は住めないだろうと思うが、時々、老人が家の前に座っている。植木がかなりある。狭い歩道の半分まで伸びている。荒れている。自転車のタイヤが放置されている。壊れた傘が投げてある。食べ物のビニール袋が投げ捨てられている。
 その前を通ると……老人がブツブツ喋っている。人の名前を呼んでいるようだ。
 老人は、隣のマンションの前でも座っていた。海岸やスーパーでも。
 老人は、あばらやに住んでいるが水道も止められている。隣の人に貰うらしい。時々家の前で体を拭いている。

 男はあばら家に住み付いていた。
 流れてきた。土地勘があった。妻の故郷だ。何度か訪れた。もう20年以上も前だが。

 結婚して子供が産まれた。待望の女の子だ。妻に似てかわいいだろう。名前は決めてあった。

 現実から逃げ出した。男は弱い。ドラマにもあった。放浪して戻ると、子供は死んで、人知れず庭に埋められていた。

 娘には手術が必要だった。考える時間はない。男は拒否した。このまま、死なせてやりたい。首を振る妻を説得しようとした。死なせてやるんだ。その方がいい……
 しかし、女医の説得の方が勝った。


 男は勝手に堕ちていった。嘆き呪い堕ちていった。
 堕ちた。堕ちた。この地の者は他所者を追い出しはしなかった。

 墓地に行く。御供物をいただく。放置すればカラスに突かれ散らかる。後始末が大変だ。寺の和尚も了解済みだ。掃除して少しばかりの駄賃をもらうようになった。男は丁寧に墓の掃除をする。

 寺に、にぎやかな集団が来た。男ふたりに、女が5人。若い者も年配者も。
「お寺なのよ。はしゃいではダメ」
「大丈夫だよ。誰もいないし、ママは喜んでる」
若い男が言った。数のうちに入らないのだ。墓掃除の汚い年寄りの男は。
 集団は掃除したばかりの墓の前に立ち、豪華な花を広げた。東京から来たのか? 垢抜けた集団だ。
 女たちは丁寧に掃除をし、サングラスの女が花を供えた。背の高い女が男を見た。久作(きゅうさく)を見ていた。

 年配の男が線香を持って、すぐそばを通った。久作にお辞儀をした。こんな汚い浮浪者のような男に。同年代くらいだろうか? 天と地の差だ。服も家族も。
 背の高い娘は気がついたようだ。お供物泥棒……盗むのでは? と見張っているのだ。

 居づらくなって寺を出た。海岸まで歩く。台風が近づいているのに波は穏やかだ。20年くらい前、こんな穏やかな海で死んだ女がいたという。溺れている子供を助けて女が死んだ。自分の子を残して。

 久作は穏やかな波を見ていた。周りが騒がしくなった。また、あの集団だ。花を海に流す。まさか、この海で亡くなったという女の親族か? 
 背の高い娘が久作に気がついた。
「お墓をきれいにしてくれてありがとうございます」
きれいな娘だ。自分の娘も……思い出せない。思い出したくない。娘の顔。
「親戚のお墓なの。滅多に来られないから」

 あの女は?
「友達のおかあさん。気になるの?」
誰かに似ている。誰だったか……女の子が欲しいな。君に似たかわいい娘……
 あの子は? 髪の長いサングラスをした……
「台風が来るわ。気を付けてね」
娘は耳が遠いと思ったのだろう。大声を出し集団に戻っていった。


 ︎

 道路の向こうに娘がいた。娘は道路を渡り近づいた。
 ひどい家だ。住んでいるのか? こんな家に。ゴミが……家の中はゴミの山。
「ここに住んでるの? 台風が来るのよ」

 娘の父親が道路を横断してきた。
「君に、頼みがあるんだ」
 俺に? 頼み?
 驚いて父親の顔を見た。娘とよく似ていた。見るからに立派な成功者。
「墓を掃除してくれないか? 私はしょっちゅうは来られないんだ」
父親は話し続けた。
「前妻の、墓なんだ。妻は溺れている子供を助けて死んだ」
久作の反応を見ながら父親は話し続けた。
「さっきの墓だ。いつもきれいにしてやっててほしい」
父親は財布から札を出し、渡そうとした。
「月命日に花を備えてやってくれないか?」
「……」
「17年経つ。助けた娘は二十歳だ。強く育った。頭の良い子だ。なにをやっても負けていない」
 父親は久作の汚れた手に札を握らせた。強い力だ。
「私が父親代わりだ」
一瞬ふたりは見つめ合った。
「行こう、(あや)
父娘は道路を渡っていった。
「早めに避難しなさいよ」


 久作の頭の中にはモヤがかかっていた。話したこともすぐ忘れる。台風がくる。サイレンが鳴っている。学校へ避難するようにと。風があばら家を打ちつけた。その中で久作は別の生き方を想像してみた。

 逃げなかった。いや、1度は逃げたが……放浪して妻のところへ戻った。娘は死んでいた。いや、あれはドラマの中だ。妻と抱き合って泣いた……あれはドラマの中の話か?
 電話した。無言電話だ。聞くのが怖かった。
 娘は……生きているのか? と。

 誰かがドアを叩いた。

「おじさん、避難するのよ」
初めて声を出した。不明瞭で聞き取れなかっただろうが。
「ノ……」
 背の高い若い男が、有無を言わさず久作を背負った。車に乗せられ娘に手を握られ、久作は避難場所のホテルに連れて行かれた。

 これは、現実なのか? 豪華なホテルの部屋。風呂で若い男に体を洗われた。

 素晴らしい食事が目の前にあった。勧められたが、喉を通らなかった。女が来た。若い男の母親らしい。あの、お節介な娘と一緒に来た。母娘なのか? 女は体温計と血圧計を出し、2度測ると脈診をした。医者か? 娘が心配そうに見ていた。
「病院には?」
10年以上行ってない。
「大丈夫よ。安心して休んでね」

 若い男がしばらくそばにいた。寝具で眠るのは久々だ。
「……はが……おちる」
「なに? 歯が痛いの?」
歯は数本しか残っていない。もはや痛みも感じない。 
 葉が落ちる。寒い外で必死に耐えていた植物を妻は部屋の中に入れてやった。暖かい部屋に入れると、葉が落ちた。
 久作は死を悟った。

 翌朝、浴衣のまま外に出た。台風の去った海岸はまだ波が荒かった。風も強かった。久作は幻を見た。娘の顔を見た。消し去りたかった自分の娘……

「母は溺れている子供を助けて死んだ。心臓が悪かったんだ」
若い男の声がした。いや、父親のほうか? 
 心臓が? ああ、確かそんなことを言われた。薬を飲まないと脳に……血管が詰まると。
「ノ……」
倒れる久作を若い男が支えた。
「のぞみは元気だよ。見なかったか? サングラスをしていた娘。強い子だ。父親とは大違いだ」
「ノ……」
「僕の母が助けた。僕の父が育てた。強く強く……誰にも負けない」 

 救急車のサイレンが近づいた。


 ︎

 久作は入院したのち施設に入れられた。ゴミの山の中に通帳があった。久作は金を貯めていた。10年前までは記帳していた。切れた健康保健証も免許証も持っていた。汚い鞄にひとまとめにしてあった。
 片付けと手続きは彩がした。父親に施設に入れるよう頼んだ。優しい彩は放っておけなかった。何度も通い世話を焼き、(のぞみ)に呆れられた。望は冷ややかだった。
 久作は彩を時々、ノ……と呼ぶ。彩は返事をする。久作は幸せそうだった。


「望、会いたくないか? 父親に?」 
僕が聞くと、望は空を見上げた。
「私の父は銀河系宇宙」
「なに?」
「あなたのおとうさんに言われたわ。私は、あなたのママと銀河系宇宙が性交して産まれた娘」

 望とふたりで墓参りに行った。
 施設に寄った。窓から海が見える。普段は面会に来る者もいない。殺風景な個室だ。小さなプレーヤーから波の音が聴こえていた。意識のない久作のために流している。久作は眠っていた。口を開けて眠っていた。

 僕が事務所に行っている間、望は久作の部屋で待たせた。もう長くはない。もう最後だろう。僕は望に会った日のことを思い出した。


 薄々感じていた。父の秘密……不在がちなこと、まさか、隠し子か? いや、ありえない。
 疑惑をそのままにし、僕の結婚が決まった年の春、
「H高の入学式にいかないか?」
父が誘った。僕と父の母校。
「来賓?」
「いや、知り合いの娘が新入生代表で挨拶をする。中学のディベートコンクールで優勝した」
知り合いの娘……詳しいことは言わなかったが予感はあった。彩の入学式にはいかないくせに…… 
 
 新入生代表の挨拶。会場がざわめいたあと静かになった。思わず座り直した。そうする者が多勢いた。正座して聞きたいくらいだ。
 15歳の娘がライトを浴びた。映し出された異様な……顔。見るからに先天性の奇形だとわかる。何度か整形したのかもしれない。筋肉が未発達なのか、話している表情は……見ているのが辛い。

金縷(きんる)の衣は再び()べし、青春は得べからず……これは私の恩人が教えてくれました。青春とは無縁だと思っていた私に、顔を上げ前を向け強くなれ、と励まし叱ってくれました……」

 よく通る声、天は魅力的な声を彼女に与えた。
 あとはとてつもない努力のみ……
 父の知り合いの娘……父は言わなかったが。僕の頬に涙が伝わる。悲しみの涙はコントロールできるが……感動した時の涙は抑えが効かない。父にバレないよう汗を拭くふりをした。

 生徒達が教室に戻ったあと、父は彼女の母親に僕を紹介した。どういう知り合いなのかは話さない。1度聞いたが答えはなかった。
 彼女を強く育てた母親には、誰もが敬意を払う。

 夏、眼医者に通った。検査があるからバスで。
 学生には夏休みだ。そのバスにあの娘が乗っていた。すぐに気付いた。混んだ車内。顔を隠さず堂々としていたが……子供が泣き出した。
「怖いよー」
少女はマスクをし、サングラスをかけた。
「怖い思いさせてごめんね」
マスクには子供が喜ぶキャラクターが描いてあった。子供は泣き止んだが、少女は停留所で降りた。まだ駅ではないのに。
 僕はあとを追いかけていた。少女は駅までの2停留所を歩いた。マスクを外した気配はない。傷ついているのだろう。生まれてから15年。数え切れないほどひどい扱いを受けたに違いない。
 僕はあとをつけ改札口まで見送った。夏休みの部活だろうか? 得意のディベート部か?

 
 仕事の帰り、僕は信じられないものを見た。彼女が停留所に座っていたのだ。僕の乗った停留所を彼女は覚えていたのだろう。
 夏の夕方、僕は車で通り過ぎ、もう1度戻った。間違いなく彼女だ。間違うわけがない。
 目が合った。ごく自然に彼女は乗ってきた。ごく自然に僕は車を走らせた。 
英幸(えいこう)さんでしょ? 三沢さんの息子さんの……幸子さんの息子さん」
「母を知っているの?」
「おかあさんは、私を助けて亡くなったのよ」
驚き、声の出ない僕の横で彼女は話す。
 
 田舎の海で出会ったふたりの母親。同郷の母親は娘と心中しようとしていた。娘が生まれると父親は出ていった。母は身の上話を聞き励ました。しかし母親は娘を連れて海に入った。波がふたりを引き裂くと母親は助けを求めた。水泳の得意な僕の母が助けた。命と引き換えに……

 ずいぶん遠くまで来てしまった。パーキングで休み飲み物を買った。背筋を伸ばし堂々と歩く娘を行き交う人が驚きを隠さない。僕は彼女の手を握った。父もそうしてきたのだろう。
 外のベンチでコーヒーを飲んだ。
「私を憎む?」
「……もう、母が生きていたことのほうが嘘のようだ……」
自然に僕は肩を抱いた。
「無条件で……許す。尊敬する。もっと早く会いたかった。君の力になりたかった……僕は君の兄になるよ」
彼女は涙を流した。
「感情のないことの訓練はできているのに……」
夜のとばりが現実社会を遮断した。僕はママを感じた。
「母が……」
「幸子さん?」
「ああ。喜んでるよ。僕たちを見ている。ホントだよ。僕は霊感が強いんだ」

 
 記憶の最初から父はいた。父親だと思っていた。甘えさせてくれた。絶望して死にたいと言ったときに父は真実を語った。
「最愛の女がおまえを助けて死んだのだ」と。

「もうすぐ母の命日だ。忘れていたが……」
「毎年お墓参りに行くの。おとうさんに引きずっていかれたわ。1年間なにをしたか、報告しろって」

 
 ︎ ︎ ︎
 
 望は父親の残した金を受け取らなかった。頑なに拒否した。

 新しい墓の前で僕が立ち止まり、手を合わせると、望も真似をした。
「ママの墓掃除をしてくれてた人だよ」

誰が断をくだす

 久しぶりにこの電車に乗った。
 結婚前まで住んでいた町は、ますます人口が増え始発の電車も増えた。
 始発でさえ座る場所はない。誰も立っている老人にも妊婦にも席を譲ろうとはしない。
 
 二駅先は彼が……三沢君が降りていた駅だ。三沢君と、彼の幼馴染の治……

 もう十年以上になる。
 初恋は実らないものだ。辛い初恋だった。辛い試練だった。死にたいと思った。消えてしまいたいと思った。
 月日が私を癒していった。いや、私を癒してくれたのは、治……
 今では三沢君の顔よりも治の顔を思い出す。 
 時々は、後悔する。
 特に、夫と諍いをしたあとは、治と人生を共にしていたら……なんて都合のいい想像をしてみる。

 どうしているだろう? 
 あの、素晴らしく優しい、自分のことより人のことを思いやる、私のヒーロー……

  ︎
 
 治が病室に来た。誰もいない時を見計らって。 
 なにもかも知った治が私を見た。私の眼から涙が溢れた。
 私は口止めしたのだ。

 私は治の気持ちを知っていた。死ぬ気などなかった。
 私は厳しい母への当てつけに手首を切った。なにが起きても死ぬ気などはなかったのだ。
 治は自分が悪者になって私を救った。
 三沢君は誤解した。
 治は誤解されたまま、再び私を助けた。私は治にしか話せなかった。
 治は全力で私を、私の未来を守った。

  ︎

 なんという偶然!
 乗り込んできた治は女性と一緒だった。ずいぶん若いかわいい、まだ高校生くらい。
「親父が心臓の手術をするんだ」
 治の父親は彼がまだ幼いとき、離婚して出て行ったはずだ。
「妹なんだ。2番目の奥さんの……」
 次の次の駅で電車のドアが開き、今度は大柄の、声の大きな女が乗ってきた。
「ふたりおそろいで、あれ? 来てくれたの?」
 女はそばにいた私を、もうひとりの彼の妹と勘違いした。そちらは父親を許していないらしい。

 複雑な治の父親の子供たち。2度目の結婚もふたりの子を置いて離婚。この大柄な女は3人目の妻……
 治を捨てた父親が心臓手術をする間、3人は病院のロビーで待機するという。
 母親の違うふたりの子どもと、現在の妻という組み合わせは、治だから可能なのだろう。

 勘のいい治は私の心の棘に気がついた。
「大丈夫? 幸子さん、なにか悩みがあるんじゃ?」
 自分が大変な時でさえ他人の心配をする。片親で、学歴もなく、背も高くなく、仕事は介護士をずっと続けている。
「子供ができたの。3人目」
 喜ばしいことなのだ。夫にも。
 しかし、私には予定外のことだった。復帰した仕事も軌道に乗り、夫と喧嘩した。普通なら逆だろう。
 いらない、と言うのは男の方だ。

 私たちは激しく言い争いをした。夫にとってそれは殺人と同じこと。夫は口を滑らした。
「中絶は殺人だ。たとえレイプの被害者であったとしても」
 夫が漏らした言葉は決定的だった。
 私は離婚するつもりで帰ってきたのだ。
 そして住んでいる州では許されないことをするために……

「4人目だけどね」
「幸子さん、大丈夫?」
「また…‥殺すのよ。最低でしょ? 私」
「今日、ずっと遅くなるかもしれないけど……」
「ごめんなさい。久しぶりに会って、大変なときに……」

 治は乗り換え駅で降りて行った。大変なときに、また私は治に甘え余計な心配をさせてしまった。

  ︎

 おかしいと思ってたんだ。治が君の嫌がることをするはずがないんだ。幼稚園から知ってるんだよ。あいつは人がよすぎるくらいにいいやつなんだ。
 誘ったのは君のほうだろ? 酒が入れば、みだらにもなる。
 君は酔いが覚めて後悔した。治は君には不釣り合いだからね。自殺未遂はおかあさんへの当て付けだ。
 治は無理やり君を自分のものにしたと、自分が悪者になった。君は治を除外しようとした。親も学歴も収入も。
 とても治をおかあさんには紹介できない。僕は都合よかったからね。背は高いし頭もいい。父は会社経営してるし義母は獣医。土地も家も高級車もある。おかあさんの受けもいいだろう。
 君は僕と付き合いながら治と比べ、治の方が人間的にはずっと上だって気づいたんだ。治を愛しているんだよ。ほら、否定しないんだな……

  ︎

 高校生が乗り込んできた。
 殺した子の年を数えるようになったのはいつからだろう。
 キリスト教原理主義の考え方によれば、レイプされて授かった命は、レイピストである父親の罪であり、まだ生まれていない子どもの罪ではないから、その子どもは殺されるべきではない。
 宗教は絶対だ。

 高校生が短歌を読んでいる。
《母にはじまり無限の人を並べたる不滅の列にわたしはをらず》 春日井健
《水滴よりつめたく断を下すものわれの背筋に添ひて流れつ》 齋藤史

 誰が断を下す?
 私は医院のある駅で降りた。にぎやかだ。人が多すぎる。自然がない。


 こんな所で……子育てなんてできない。

ロカさんの息子

 今度の介護施設は家庭的な雰囲気だ。
 ひとりは意識がない。まだ若いが。

 若すぎる。息子と同じ年の男性だ。
 17歳の夏から眠り続けている。20年以上も。

 自殺に失敗したのだ。首を吊ったのだが、発見されてしまった。まさか、こうなるとは思いもしなかっただろう。

 部屋に入る。
 ベッド周りには家族の写真が飾ってある。
 父親は……ロカさんだ。
 眠り続ける男は、徳冨有一……ロカさんの息子。 
 父親は亡くなった。以前働いていた施設で。

 ロカさんは、若き日に半年だけ付き合っていた…… あだ名は蘆花(ロカ)


 3か月前、娘がビデオデッキを取り付けてくれた。
 ようやく観ることができる。
 ロカさんの遺品に貰ってきた、ふたりで観た思い出の映画。

 テープは……映画ではないようだ。
 
 映ったのは……ロカさん? 
 若い頃の高校生くらいのあの人? 
 いや、違う。その頃にはビデオはまだなかったはず。
 それではこの子は? 

「おとうさん、ごめんなさい。おばあちゃんのところへ行きます。
 体育館で記事について責められ逃げ場がなくなった。助けてくれと叫んでも助けてくれるものはいなかった。
 死ねばみんなが喜んでくれるだろう」

 短い……すぐに終わった。
 なに、これ? 
 これは……遺書? 
 
 コーヒーを淹れてきた娘が、ケースを確認した。
 折った古びたチラシが入っていた。
 
『新聞部の徳冨有一君は学校批判の記事を載せようとしたところ、先生に咎められた……
 苦にして自殺を図った。命は取り留めたが意識は戻らない。
 学校側に責任が……』

 ロカさんの息子は、父親が危篤の時にも会いに来なかった。
 来られなかったのだ。

 娘が携帯を見せた。この娘は行動が早い。



19 ︎ ︎/9/3
自宅で、K高校のY・Tくん(高2・16)が自殺未遂。
6/8 Yくんは、学校批判の新聞記事を掲載しようとして、担任教師や新聞部の先輩に見つかり、集団リンチを受けた。大けがをし、11日間の入院。それ以降、登校していなかった。 学校側は、リンチなどの暴力沙汰を否定。
 

「おにいちゃんと同じ高校よ。1学年下」



 ︎



 寛之(ひろゆき)は子供の頃から恵まれていた。家庭にも才能にも。
 だが、ひとりっ子だった。父の跡を継がねばならない。好きな脚本家の道も諦めた。
 好きな女も諦めた。アパートに住む高卒の女。 
 反対されるのはわかっていた。

 見合い結婚した。申し分のない相手だと母は喜んだ。敷地内に家を建て一男一女に恵まれた。
 しかし、父が亡くなると、妻と母の折り合いが悪くなっていった。
 互いに行き来をしなくなった。自分も同じ敷地内に住みながら、母とは滅多に顔を合わせなくなった。
 自分が悪かったのだ。母の孤独に気がついてやれなかった。

 冬の朝、母は首を吊って亡くなっていた。
 息子が見つけた。夢に現れたという。
 中学1年生の息子は祖母に物置の縄を取ってくるよう頼まれた……

 息子は教師になりたいと言っていた。真面目だった。
 残酷だった。自分の用意した縄で祖母は首を吊ったのだ。
 息子は物音に怯え、それでも長男として葬儀の席では気丈にしていた。

 優しかった息子は自分を責めた。
 かわいがってくれた祖母を自殺に追い込んだことを。
 妻はいたたまれなくなり出て行った。子供たちはついてはいかなかった。

 息子は高校に進学し新聞部に入っていた。正義感が強かった。
 駐輪場で恐喝されたが、金を出さず殴られた。 
 大柄な先輩が助けてくれた。それからは、その先輩と親しく話すようになった。

 高校2年の6月、息子になにが起きたのか?
 息子は制服のまま帰って来るなり倒れた。全身打撲。
 息子は大勢に囲まれ、やられた、と話した。
 駐輪場の恐喝者か? 詳しくは話さない。イジメか? 
  いじめられるような性格ではないと思っていた。友人もいたはずだ。
 学校では思い当たる節がないと言う。

 2学期が始まる明け方、息子は首を吊った。祖母の跡を追うように。同じ場所で。
 発見が早かったが、意識のない容態が続いた。

 見舞いに来た生徒はひとりだけだった。
 恐喝されていたのを助けてくれた優しい少年だった。
 何度も見舞いに来てくれ、寛之はつい、愚痴をこぼした。

「学校が原因なんだ」
 つい口を滑らした。進学校の闇……

 友人は息子の自殺未遂の日を忘れないと言ってくれ、言葉通り毎年息子に会いに来てくれた。
 寛之も待つようになった。

 息子は眠り続けた。



 寛之も年を取った。体に自信もなくなってきた。
 息子より長生きはできまい。心残りだ。
 会社は同業者に譲り、家も売った。
 
 アパートに移った。銭湯に通った。
「竹の湯に行ってたの?」

 ーー誰だったか? 

 頭が混濁している。
 息子よ、おまえはどうしている? 
 まだ眠り続けているのか? 

 もういい。とうさんと一緒に、行こう。
 おばあちゃんのところへ。



 もう1度会いたかった。
 あの娘とやり直せたら……

 あの娘……
 ああ、あの少年に、あの青年に似ていたな。

おまえ

 1年経った。おまえにひどいことをしてから1年。おまえにとっては腐れ縁。もう懲り懲りだろうに。
 それでもおまえは来た。年に1度のテニス部のOB会。もう、自惚れはしない。おまえが来るのはオレに会うため、なんて、もう思わないが……来てくれて嬉しかった。 

 おまえは無視していた。無視して飲んでいた。男たちがきれいになったおまえに酌をする。おまえは乱れない。いや、少し酔った。トイレに立つときよろけた。オレは支えた。オレは女性のトイレの前で待ち、また支えた。おまえは初めて恨みがましいことを言った。
「あのひとはどうしたの?」
「……」
「フラれたの? 先輩? いい気味だわ」

 おまえを家まで送った。家に入るときにおまえは言った。
「先輩、覚えてる? テニス部に入った夏休み、O先輩の家で集まって飲んだときのこと? 先輩は酔って私にキスしたのよ。覚えてないわね」
 ドアは閉められた。夢だと思っていた。おまえにキスしたのは夢の中だと……

 家の前の公園のベンチに座った。
 2階の部屋に灯りがついた。
 窓を開けてくれ! 窓を開けてオレを見てくれ!
 軽い男だ。紙のように薄っぺらい……
 
 次の日電話をするとおまえは出てくれた。冷ややかな声だったが……おまえは許した。おまえはなにをされても許すのか? 
 オレたちは恋人同士になった。ようやくたどり着いた。おまえの元へ……おまえはオレが恋した女を3人も知っている。

 オレたちは映画を見て遊園地に行った。おまえは金を出そうとする。
「オレだって、バイトしてるから」
 やがておまえはオレの部屋に来た。置いてある電子ピアノを鳴らす。
「私も習いたかった」
 ピアノを教えてやる。指使い、和音、リズム……おまえは夢中になった。覚えるのが速い。

 おまえは冷蔵庫にあるもので料理をした。ろくなものはない。ラーメンくらいしか作らないのだから。玉ねぎを刻み長い時間炒めていた。硬くなったパンと、古い粉チーズで作ったオニオンスープ。
 オムレツに、キャベツとにんじんだけのサラダ。ドレッシングなんて買ってない。おまえは魔法のように味付けをした。古い昆布茶と酢と、健康のために飲んでるオリーブオイルで。
「すごいな」
褒めるとおまえは照れた。

 部屋を掃除して買い物に行った。オレは学生。おまえはボーナスが入ったOL。おまえはオレのために高いコーヒーメーカーを買った。
 堅実な女は水道の水さえ無駄にしない。オレは注意された。ティッシュの枚数。エアコンの温度まで。ケチなわけではない。誕生日にはプレゼントをくれた。ブランドの高いパーカー。ボーナスの額を聞き驚いた。おまえは堅実に資格を取っている。

 洗い物をしているおまえをうしろから抱きしめた。
「ひどいよ。先輩は。私がずっと好きだったの知ってたくせに」
 ワインを1杯飲んでいたおまえは珍しく感情を表した。おとなしい女がオレを責めた。驚いた。おまえには敵わない。
 2度目のキスをした。4年ぶりのおまえとのキス。
「お酒臭い。あのときと同じ……」

 回り道をした。バカだった。いつでもおまえはオレを見ていたのに、オレはよそばかり見ていた。おまえは尽くしてくれた。こんなオレに。おまえだけは失いたくない。おまえはオレだけのもの。

 毎週、休みの朝早くおまえは部屋に来る。テニスラケットを持って。母親への言い訳に。
 焼きたてパンを買ってくる。合鍵でドアを開け、オレは寝ているフリをする。コーヒーを挽く音でおまえは起こす。
 パンが冷めるわ……

 暗闇の中でおまえに謝った。
「1番大事しなきゃいけなかったのに、ごめんな……」
 おまえは泣いて、子供のようにしゃくり上げた。
「もう泣かせないから。大事にするよ。もう泣くな」
 
 おまえと連弾する。おまえはメキメキうまくなる。練習熱心だ。ヘッドホンをし、オレをそっちのけで弾いている。オレはピアノに嫉妬し邪魔をする。おまえに悪戯する。

 努力家だ。テニスもそうだった。勝ってもおまえは自慢をしない。知識をひけらかさない。話しているとわかる。オレは知ったかぶりをし、あとで恥ずかしくなる。おまえはそれさえ気にする。オレに恥をかかせない。悪口を言わない。オレはおまえをやり込める。強く言うとおまえは黙り込む。従順だ。いつでもおまえが正しいのに。だから謝るのはいつでもオレだ。オレは抱きしめて謝る。おまえはいつでも許してくれる。

 まだ、言わないが、オレは貯金を始めたんだ。おまえと結婚するために。いつかおまえの喜ぶ顔が見たい。
 そして結婚式にふたりで弾こう。エルガーの『愛の挨拶』

 おまえはオレを酔わせる。満ち足りた時間。ずっと続くと思っていた。
 おまえが離れていくなんて想像もしなかった。おまえだけはオレのものだと思っていた。

 ああ、未練がましいな……

私の娘

 テニス部のOB会でおまえが結婚したことを聞かされた。別れた翌年だ。
 おまえが別れ際に言ったことは嘘だと思っていた。冷静に考えてみればわかったはずだ。二股をかけるような女ではない。
 家庭教師をしていた少女のために、おまえのことをおろそかにした。話していればよかった。なぜ話さなかったのだろう? 
 おろそかにしていたのだ。軽く見ていたのだ。放っておいても、待っていてくれると。
 感謝も謝罪もたくさんあったの に口に出さなかった。そのためにいちばん大切な女を失った。それもひどい別れかただった。
 おとなしい女が怒りをぶちまけた。
「何度も踏みにじった……薄っぺらい人、軽薄な人、軽薄なひと……」
 それでも言い足りなかっただろう。
 二股をかけるような女ではない。別れたあとに出会ったに違いない。バカなオレを忘れるために結婚したのか? 
 しかし相手の男は幸せだ。つねに自分のことより相手のことを考えていた。だからそれに甘えた。
 あれから、1年と少ししか経っていない。
 やり直せるかも……なんて思っていた。おまえが来るのでは……と。

 ーーああ、未練がましいな。


✳︎


 その日は優子を自転車の後ろに乗せ急いでいた。車に接触したのは私のほうだ。支えきれずに倒れた。
「すみません。急いでいたので」
 優子は膝を擦りむいたが泣きもしなかった。私は娘を乗せて走り出した。義父がデイケアから帰ってくる。車の男がなにか言ったが聞く時間はなかった。

 デイケアの車と入れ違いに、ぶつけた車が入ってきた。
「ごめんなさい。車に傷付けました?」
「怪我はないですか?」
「大丈夫です。優子はたいしたことないし、私は……」
 足に擦り傷。
「悪いのは私のほうですから……でも明日になって診断書出して治療費出せって言ったら?」
「それが普通でしょう?」
 そこで初めて男の顔をしっかり見た。乗っていた車、着ているスーツ、雰囲気から素敵だとは思ったけど……美形はきらいだ。中身を知ればがっかりする。でもこの男は?
「畑やってるの?」
「義父が好きだったから」
 男は名刺を置いていった。私は知っていた。三沢英幸(えいこう)、H高の伝説の先輩だ。音楽室に写真が貼ってあった。最年少でピアノコンクールに入賞した人だ。
 名刺を見た。株式会社ミサワ。

 H校のことは思い出したくない。

 次の日の夕方、三沢英幸は菓子折を持ってやってきた。少し話した。娘が優子の幼稚園と同じだと。
「入園するんだ。よろしく、優子ちゃん。早夕里(さゆり)っていうんだ。仲良くしてあげてね」
 
 幼稚園が始まった。優子は年長組になった。三沢早夕里(さゆり)、あの人の娘は大変らしい。先生の言うことを聞かない。
 雨の日、教室から抜け出しひとりで園庭の水溜りで遊んでいたという。それからは教室には鍵がかけられた。
 友達とうまく遊べない年少組の早夕里が、優子に懐いているらしい。

 時々、あの人が歩いて送ってくるようだ。平日が休みなのだろう。子供をあずけたあと、あの人は門の前で私を待ち話した。あの人は優子を褒めた。早夕里の話に出てくるらしい。我儘な娘と遊んでくれるのは優子ちゃんだけだ、と。優しいお嬢さんで羨ましい……


 インターフォンが鳴り、降りていくとあの人が立っていた。
「庭でバーベキューやるから優子ちゃん、お借りしてもいいですか? 優子ちゃんがいると、早夕里が聞き分けがいいんだ。あなたもどうですか? 妹と彼氏も来てるんだ」
 義父の世話があるからと、優子だけお願いした。庭の茄子とトマトを切って渡した。


✳︎


 バーベキューの写真が送信されてきた。動画も。
 素敵なリビングに広い庭。あの人と奥さん? あの人の妹? 妹の彼氏? 

 あの人の妹は若くて背が高くて垢抜けていた。目立つ女。先輩好みの……
 三沢英幸の妹の彼氏は……先輩だった。
 先輩と優子が並んで写っている……

 封印していた言葉がよみがえった。
「おまえは都合のいい女だった。金はかからないし、タダでできたからな」


 運動会、あの人が遠くから手を振った。隣に先輩がいた。遠目でもわかった。私は気分が悪くなったからと周囲に言い帰った。めまいがした。先輩の言葉が容赦なく攻撃してくる。

 おまえは都合のいい女だった……

 怒りの矛先は弱くて優しい優子にぶつけられた。 
 おまえが三沢さんの家になんかに行くから……
 早夕里を羨ましがる優子、大きなおうち、お庭、犬がいるの。ママ、優子も犬飼いたい……
 思わず優子の頬を叩いた。
「だったら、三沢さんちの子になればいいでしょう。おまえなんか産まなければよかった」


 眠る優子の顔をみて謝った。しかし同じことの繰り返し。介護の苛立ち。今までは感じなかった。義父は保険にも入っていたし貯金も思っていたより多かった。民間の施設にはとても入れることはできないが。
 長距離運転で留守がちの夫への苛立ち。私の負担を減らすために、いつかは施設に入れなければならない。そのために働いてくれているのに。
 私を下に見る女たち、夫の学歴や会社を自慢する園児の親たち。そして兄嫁。兄嫁はおさがりの服を送ってくる。
 ブランドの服だ。私はもったいなくて買ってやらない。ありがたかった。ありがたかったが……明らかに洗濯していない。髪の毛がついていた。染みつきの服も入っていた。ポケットには汚れたティッシュが入っていた。ひどい侮辱だ。あの義妹ならかまわないだろうと。
 義父が優子という名に執着した。女の子がいたら付けたかったらしい。優しい子ではなく優秀な子に。人より優れた女になってほしい。そう思い義父に従った。
 優子は優しい。優しすぎる。義父に当たるわけにはいかない。優子の優しさが疎ましい。いらいらして優子の腕をつねり言葉で虐めた。
「おまえのために、ママは不自由な生活を……」

 夜、テーブルの上に手紙が置いてあった。

 ままへ うまれてごめんなさい ゆうこ


 優子はいなかった。慌てて探す。なんということをしてしまったのか……
 優子は公園でブランコに座っていた。そばにあの人が立っていた。
「犬を散歩してたらひとりでいた。暗いのに」
「ごめんなさい。優子、帰ろう」
 家に戻り、泣いて抱きしめて謝った。

 夫から花束が届いた。ああ、誕生日だった。あとでもいいのに。
 毎年もらっていた。夫に花をもらうのは何度目だろう? 優子を産んだとき、毎年の結婚記念日、誕生日。そのたびに私は、もったいない、切り花はもたないのに……と思っていた。
 今年は涙が溢れてきた。あなたの真心は金では買えないものなのに……幸せなのに……


 よけいなことは考えないようにした。しかし先輩の声が聞こえる。何度もひどい思いをさせられた……おまえは都合のいい女だった……

 幼稚園に迎えに行くと、あの人が優子の髪を撫でていた。近づくとハッとして離した。
 遊びにおいで、と誘われたが断って引っ張ってきた。あの人の様子はおかしかった。夜の公園にいたのも考えてみればおかしかった。
 また、妻の仕事の忙しい時期なのかあの人の送り迎えが続いた。あの人は優子を待っている。手を振る。迎えに行くと聞こえた。
「優子、かわいいな。好きだよ」
 私を見ると舌打ちした。

 あの人の異様な行為はエスカレートしていった。犬の散歩をしている。家の前は私道なのに。犬が泣くと優子は外に出ていきあの人と話している。犬にさわらせ優子を抱き上げる。お尻にさわる。
「離してください」
「かわいいね。ほんと優子ちゃんは食べちゃいたいね」
 優子が三沢にもらった携帯で話している。私が変わると舌打ちの音。

 さらにエスカレートしていった。三沢は優子を勝手に連れて帰った。頼まれたからと。
 彼の信用……誰も信じないだろう。頼んでなんかいないと抗議しても。
 家にいくと、庭で遊んでいた。犬と遊んでいた。私を見ると優子を抱きしめた。返さないとでも言うように。
 私は三沢の足の甲を思いきり踏んだ。優子を奪い絡みついてくる指を逆側に折った。彼は悲鳴を上げたあと笑い出した。
「園長先生に話すわ」
「どうぞ。僕の信用。地域への貢献度。先生はどっちを信用するだろう?」
「……」
「家庭はばらばら、仕事もうまくいってない。優しいのは優子ちゃんだけだよ。優子ちゃん、今度、別荘に行こうか? きれいな湖があるよ。ボートに乗ろう」
 ゾクっとした。異常だ。この男は。まさか優子を道連れに?

 どうしよう? 夫はいない。夜は怖かった。あの男は家の周りをうろついているのではないか? 私が眠ったら優子は出ていくかもしれない。
 
 私は電話をかけた。携帯の番号は削除していたが覚えていた。
「美月か?」
 先輩は削除していないの? それとも覚えているの?
「先輩? お願い。助けて」
 一気に喋った。
「家の外にいるかも。優子を連れていかれる」
英幸(えいこう)さんがロリコン? 君の娘を?」
「本当なのよ」
「美月、英幸さんに聞かれたよ。おまえになにをしたのか? って。
 オレの写真を見てから、運動会でオレを見かけてからおまえがおかしくなったって。オレがなにかしたか? 二股かけて振ったのはおまえのほうだ。ひどい言葉投げつけて別れていったのはおまえのほうだ」
「先輩はまたほかの女に恋をした。わかってたわ。私はただの都合のいい女だもの」
「オレは本気だった。おまえのために、おまえと結婚するために貯金してたんだ」
「嘘よ」
「少ないバイト料から貯金してた。おまえを、おまえしか妻になる女はいないと思ってたからな」
「嘘よ。じゃあ、ナホって誰なの? 寝言で言った。先輩は帰らなくなった」
「バカ、ナホは十も年下だよ。当時小学生だ」
「……」
「家庭教師してた子だよ。心臓の手術するからそばについててやってた」
「どうして話してくれなかったの?」
「話したら、手術が失敗するんじゃないかって思ってた。おまえならわかってくれると思ってた」
「わからないわよ。なにも言ってくれないで」
「そうだよな。オレが悪かった。もう遅いけど。」
「……」
「美月、過去の話だ。オレは何度も恋したけど、愛したのはひとりだけだった。わかるな?」

 氷解。氷が溶けていく音がした。
「三沢さんは、ロリコンじゃないのね?」 
「あたりまえだろ。英幸さんに言われた。おまえを手放した奴は大バカヤロウだと」
「‥‥先輩……真剣に思ってくれてたのね?」
「あたりまえだろ」
「私、優子にひどいことを……イライラしてぶったり、ひどいことを言った。あの子を見てると自分を見てるみたいで」
「優子ちゃん、素敵なお嬢さんだった。本当におまえそっくりだよ。いい子に育てたな」
「優子は許してくれるかしら?」
「おまえなら許すだろ? おまえは何度もオレを許した」
「……」
「もう、オレのことなんか忘れろ……それとも、駆け落ちしようか?」
「……軽い男」
「じゃあ、切るぞ。いいママに戻れよ」


 翌日幼稚園であの人は待っていた。子供を送ったあと話した。
「お芝居だったのね? 私に罰を与えた」
「まさか和樹に電話するとは思わなかった」
「怖かった。優子を道連れに心中でもするんじゃないかって」
「悪かった。僕は本当に訴えられるか、刺されるかも、なんて思ったよ」
 私の目から涙がボロボロこぼれた。
「僕は携帯を渡してたから電話して励ました。ママは、今、病気なんだ。心の病気。すぐ治るから、と。手紙を書かせて公園に連れ出して君を懲らしめた。
 考えたよ。あれほど人のいい君が豹変するようなことは?
 和樹だね? 君はH高の後輩。美月さん、思い出したよ。君はずっと和樹を見ていた。
 僕は君を尊敬してたよ。優しい子に育ててる。自分より早夕里のことを考えて自分は控えめで。早夕里も他の子も皆、他の大人もそうだよ。地球は自分中心に回っていると思っている」
「私だってそう思いたいわ。いつも脇役。ヒロインにはなれない。お人よしだから人に利用されてばかり」
「和樹には君は唯一の女だった」
「嘘」
「唯一、本気で妻にしようと思った人だよ。和樹の心にずっと住み着いている。妹がかわいそうなくらい……君を妻にした旦那は幸せだよ」
「あの人は妹さんと結婚するの?」
「どうだろ、誰かと駆け落ちしたりしないかな」
 彼は笑った。私も声に出して笑った。
「久しぶりに母を思い出した。祖父の介護をして、畑で、野菜作ってた。早夕里を見せたかった……」

短編集 Ⅲ

短編集 Ⅲ

  • 小説
  • 短編
  • 時代・歴史
  • 青年向け
更新日
登録日
2024-03-25

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. キッチンの絵
  2. 出会い
  3. 異邦人のように
  4. 身代わりだった
  5. 純愛
  6. 海辺のあばらや
  7. 誰が断をくだす
  8. ロカさんの息子
  9. おまえ
  10. 私の娘