群青-前編-

プロローグ

 ああ、何回これを観ただろうか。何度も何度も観たのに、まだまだ何回でも観たい。
 今日はよく眠れなくて、四時に起きてまった。かつては二時に起きて、それから眠れないこともあった。あの頃に比べれば、遥かにマシかもしれない。でも、よりによって今日、目はぱっちり冴えていて、これじゃあ車で寝落ちしていまいそう。目を瞑っておこうかな。
 瞼の裏に甦る記憶。

 もう何もしたくない。永遠に眠ってしまいたい。あれは高校二年生の夏だった。
 向上心の塊と化し、努力していた。でも、苦しさに蓋をしていただけだったのかもしれない。自分の価値を確かめたかっただけだったのかもしれない。
 重ねた経験は痛みに変わり、想い出の価値すらなくなる前に、全てを消し去ろうとしていた。そんな私だから、また多少身体に鞭を打ってでも、大暴れしたいと思えたんだろう。
 小学校の運動場で鬼ごっこ、夕焼けの野山で冒険気分、夏の夜の墓場。そんな子どもの世界を知らずに大人になった私は、虚構に惚れていたのかもしれない。トロイメライなど所詮架空のもので、この世が綺麗なはずがない。それでも人は美を求め、ユートピアを探している。子供の世界は汚くて、大人の世界も美しくない。私は、どうかな。全部を白で塗りつぶして、美しく変われとるやろうか。
 今の私が「子供の情景」を弾いたら、昔とは違うものになるやろね。大人から見た子供の世界を表す曲たち、子どもの夢を描いた曲。
 私にアオハルはなかったけど、遅めの青春ならできてるんやろね。

 次なる青を手に入れよう。
 今こそ、試練の時が来たんだ。は私が言うことやなくてさ。
 でも、あれはある種の夢で、今となっては淡い思い出って、こっちも私なんよ。
 私はいつでも、空に輝いとるからね。

太陽に照らされて

 私を殴って下さい。
 私は最低な人間です。
 馬鹿、無表情、悪臭、悪いところなら私にはいくらでもあります。しかし私には長所がない。何もないのです。
 ダメージジーンズにヘソ出しファッションの女と、いかにもなヤンキー風な、刺青だらけの男たちがコンビニ前でつるんでいます。あの人たちに頼めばやってくれるでしょうか。
 まずは頬をひっぱたかれた。目を閉じた瞬間にお腹に一発蹴りを入れられた。痛む部分を腕で守ろうと前屈みの体勢になると、今度はお尻を殴られた。地面にひれ伏す。あとはされるがままだった。セーラー服はあちこちが破れ、スカートのプリーツは取れて裾は解れ、白い運動靴は瞬く間に茶色くなった。口の中が、血の味がする。
 というのは事実ではありません。全て私の妄想です。でも私はこうなることを望んでいます。
 誰か、私の妄想を現実のものにして下さい。


「姫野、連立方程式の解き方二パターン言ってみろ。」
 加減法と代入法だったはず。教科書の三ページ前に載ってたのを見た。前回の授業の時ノートにも書いたし、今朝には問題集で特訓した。でも、間違っていたらどうしよう。
「えっと、あの」
 クラス中が失笑した。やっぱり姫野は答えられない。あいつは馬鹿だって、みんなに思われてる。
「替わるか。じゃあそこのお前、言ってみろ。」
 小嶋さんだ。
「加減法と代入法」
「正解。」
「綾、ナイス」
「このくらいなら誰でも分かるって。姫野が馬鹿なんだよ。」
 中年太りも甚だしい男の先生は、小嶋(こじま)さんと瑠璃(るり)ちゃんのお喋りを注意しなかった。
 瑠璃ちゃんはいつも机の上に出しているポーチからメモ帳を取り出し、何かを書き付ける。それは私の足元を滑っていき、(らん)ちゃんに受け取られた。
 姫野ちゃん、また答えられなかったじゃん。授業止まるから迷惑なんだよ。ちゃんと勉強しなきゃだめでしょ。次の休み時間には、瑠璃ちゃんたちは小言を言ってくるに違いない。こうやって、手紙を使って打ち合わせをして。毎日勉強してるのに、なんで私はこんなに頭が悪いんだろう。私は出来損ないだから、ちょっとでもマシになるために言いつけを守らなければならない。
 制服の赤いスカーフの結び目は、ぴったり左右対象になるように。上手く出来なかったら何回でもやり直し。スカート丈は膝上五センチ。長めにしなくちゃいけないと言われてる。もっとも、校則では膝下十センチなんだけど。お風呂ではシャンプーを三回、コンディショナーを二回、ボディソープはタオルを使って二回、手で二回。朝は顔を五回洗う。それより少ないと、臭いから。体重は必ず四〇キロでなければならない。デブは不摂生の証拠だから。ちなみに、私の身長は一五三センチ。痩せすぎだと、私は思う。でも食べすぎたらまた指摘される。
 これだけの掟を守るために、毎朝五時に起きる。自主的にシャワーを浴び、髪も服装もきちんとチェック。勉強も朝から二時間みっちりやる。
 たぶんお母さんは気付いてる。よくびしょびしょに濡れて帰るから。臨海公園で遊んでたからって嘘をついてるけど、お母さんの目はそれを信じている風じゃない。どうせ明日も、また今日と同じ。

「姫野ちゃん、ほんとに数学苦手なんだね。だったら、もっと勉強しなくちゃいけないよね。二年生になったら授業のレベル上がったし、頑張って。」
「ごめんなさい。私のせいでみんなに迷惑がかかってる。」
「別に、姫野ちゃんのせいだけじゃないよ。頭の良し悪しって、遺伝するじゃん。」
「ごめんなさい。勉強、もっとやるから。」
「分かってんじゃん、姫野。」
 小嶋さん、まただ。
「はい。」
「じゃあなんでやらないの。迷惑だって分かってんだろ。」
「すみ……」
「何でも謝って許されるなら、警察はいらないよ。鳳蝶(あげは)朱音(あかね)。」
「はーい。姫野ちゃん、こっち来て。」
 トイレだ。鳳蝶ちゃんは美化委員だから、あの場所なら、先生が校内の見回りをしている時間帯でも好き勝手できる。
「一回目。」
 誰も助けてくれない。今日もまた。
「二回目。」
 お弁当、これじゃあ食べる時間なくなっちゃうだろうな。
「三回目。」
 今日は体育の授業がない。運動着を持ってないから、五時間目からは濡れたまま。
 扉の向こうからケラケラと楽しそうな笑い声が聞こえてきた。
「四回目。」
 教室に戻ったら、私の机の中、どうなってるかな。
「五回目。」
 もう、いい。考えるの、やめよう。
 無になるのが一番いい。
 自業自得なんだから。みんなそう言ってるもん。
 小嶋さん、瑠璃ちゃん、鳳蝶ちゃん、朱音ちゃん、蘭ちゃん。自分を叱ってくれる人がいるというのは、幸せなことなんです。
 いつからこうなったんだろう。小学校の頃は、いつもみんな一緒だったのに。小嶋さんのポジションが、かつては私の場所だった。
 林間学校だって、運動会だって、学芸会だって、私たちは何でも共にした。私は覚えてる。六年生の卒業間近の遠足で約束したこと。中学生になって、他の小学校出身の子と出会っても、うちらは一緒にいようねって。あの時のクラスメイトの半分近くは受験して他所(よそ)の学校に進んだけど、私たちはみんな地元だから、それは他のグループよりも簡単なことのはずだった。卒業式の日に撮った、涙のせいで写りが最悪な写真は、卒業アルバムに挟んで大事に大事にとってある。
 私の場所は小嶋さんに乗っ取られ、そして四人は歪んでしまった。

 筆箱に常備しているカッターを握りしめる。河原にある公園のベンチで過ごす一時。堤防を降りたところにあって、遊具はゲートボールに使うらしいものしかない。最近ではそんなことをするお年寄りもおらず、周りには誰もいない。
 ごめんなさい。私が悪いから。私のせいでこうなったから。
 私を殴って下さい。
 もう立ち上がれなくなるまで、身体中を痛めつけて下さい。
 その場に落ちていた小さな石を手に取り、地面に叩きつけた。コンクリートで舗装されていない剥き出しの地球は、それを割るには柔らかすぎて、もちろん小石は壊れない。なんで壊れないんだよ、くたばれ、この石ころめ。何度も何度も、拾い上げては叩きつける。一向に割れそうもない石を見ていたら、なんだか胃がムカムカしてきた。
 制服の袖を捲り、カッターの刃を当てる。冷たくて気持ちいい。手前に引くと、すうっと何の抵抗もなく私の皮膚は裂けた。
 みんな同じ服を着て、みんな同じ時間に同じことをして、みんなみんなみんなみんなみんな。みんなって何? こんなところで、私は何がしたいの? 同じことの繰り返しはもう飽きた。
 ここにあるのは水の働きで細かく砕かれて、もはや砂となったものばかりなのに、これひとつだけは石ころのままだ。河口近くに小石があるなんて、理科で習ったことと違ってる。そう、これは悪目立ちだ。他のみんなと違うから。こいつも、きっとこの辺りの砂たちに叱られる。
「みんな」なんてなくなればいいのに。そうすれば私は、こんな目に遭わずにすんだのに。
 今度は何も持っていない左手で砂を掴み、ゲートボール場の芝生の上に撒き散らした。ああ、清々する。橋を渡る輸送トラックの運転手も犬を連れて散歩するおじいちゃんもみんな幸せそうで、それに対して私は一人、ここで砂と戦っている。西に傾きかけた太陽に照らされて、砂が力を帯びているように見えた。
「おい! 姫野! そこで何やってんの!」
 背後から声がした。誰よ、こんなところまでつけてくる奴は。
「姫野だよな、おい。そこで何やってるんだ。」
「ごめんなさい。すみません。」
「謝んなよ。何度も聞いてるだろ、何やってんだ。」
 もしかして、見られていたかもしれない。こんなところで、こんなことをしたのがバレたら、いったいどうなるんだろう。
「切っただろ。さっきそれが見えて驚いた。近づいたらヤバそうなオーラ出てたからここで気配消してたんだよ。お前気付いてなかったろ。振り返ってこっち見ろ。俺は小嶋たちの差し金じゃねえぞ。」
「なんでここにいるのよ。」
「部活サボってこの辺ウロウロしてただけだ。暇潰しだよ。とりあえず腕見せろ。」
 声の主が土手を降りて駆け寄ってくる足音が聞こえた。
「痛くないか?」
「全然。」
「嘘つけ。」
 傷口を指で思い切り押さえつけられた。近付いてきた男子は同じクラスの園田くんだったと、やっと判った。私とは生きる世界が違う人。だから私は自分からは関わらないし、向こうも今日まで話しかけてきたことはない。
「いった」
「ほら見ろ。こっち来い。手当てするから。」
 右手を掴まれ強引に連れて行かれた先は、土手を挟んで反対側にある細い道路沿いにある、ごく普通のアパートだった。

「あら、お帰り。今日は早いね。」
「姉ちゃん、うちに包帯ある?」
「あるけど、怪我でもしたの?」
「ちげえよ。」
 私の姿を一目見た園田くんのお姉さんは、一瞬目を大きく見開いてから言った。
「りくちゃんが女の子連れてきた。」
「いいから包帯用意しろよ。こいつが怪我してんだよ。」
「女の子に向かって『こいつ』はダメでしょ。ごめんね、こんな弟で。」
「いえ。」
「姫野、そこ座れ。」
「ヒメノちゃんていうの? かわいいね。」
「姫野(ゆい)です。初めまして。」
「結ちゃん。消毒して、ガーゼを当てた上から包帯巻くからね。ちょっとしみると思うけど、我慢してね。」
 言い終わる前に、お姉さんは豪快に消毒液をかけてきた。てきぱきとこなす姿は、まさに大人だ。あっという間に、私の左腕はお姉さんの手で処置されてゆく。
 初めてやった。気持ちいいって聞いていたけど、それほどでもない。確かにその瞬間は何かが解放されたような思いがしたけど、今はただ痛いだけだ。自分でやるより、人に傷付けてもらった方が絶対いい。私なんて、何もできないんだから、価値なんてないんだから。
 園田くんがお茶を淹れてくれた。
「あの、すみません。こんなことしてもらって。」
「このくらい気にしないで、甘えとけばいいのよ。結ちゃん、何があったか知らないけど、こんな傷作ったら痕が残るよ。女の子なんだし、気を付けてね。」
 二人が気を遣っているのが伝わってきて、少し居づらい。私は長居はせず、早く帰ることにした。遠慮したのに、園田くんは家まで送って行くと言い張って引き下がらなかった。
「お前さ、二度とリスカなんかするなよ。」
「はい。」
「なんかノリが変だよな、お前。なんつぅか、遠慮しすぎなんじゃね? そんなんで疲れねえのかよ。」
「まあ、気にしないでください。」
「しっかしさあ、小嶋たち、ひでえ奴らだよな。女子たちが噂してるの聞いちまったんだけどさ、元々は小嶋以外の四人と姫野が仲良かったらしいじゃん。なんで今はこんなことになってるわけ? 見てて気分わりいんだよね。」
 口先だけのくせに、偉そうだな。
「私が悪いだけだから。」
「なんで姫野が悪いってことになるんだよ。どう考えても小嶋たちが悪いだろ。」
「違うって言ってるじゃない。私が悪いの。」
「じゃあなんでお前はハブられてんだよ!」
 私が口を挟む間もなく、園田くんは喋り続ける。
「さっき家でさ、お前、殴られたいとかなんとか言ってただろ。ずっとボソボソ喋ってるから何言ってんのかと思って耳を澄ましてたら聞こえた。たぶん姉ちゃんも気付いてるぞ。」
「だから何よ……」
「何言ってんのかわかんねえ、もっとデカい声で喋れよ。」
「私は私が悪いから殴られたい。これでわかった? 別に、何の問題もないでしょ。」
 パンッ
 平手打ちが左の頬に飛んできた。
「お前は本当に馬鹿だな。殴られたら痛いに決まってんじゃん。今ので分かっただろ。どうして殴られたいんだよ。何とか言えよ!」
「ごめんなさい! ごめんなさい!」
「謝るだけじゃわかんねえよ!」
「ごめんなさい、私が約束を破ったから。私が最低だから!」
「約束って何のことだよ。破ったからってハブられるような大事なことなのかよ。」
 もう一発、今度はもっと強く叩かれた。さらに何発も。何回も、何回も。
「絶対守るって言ったのに。ずっと守るって言ったのに。」
「守るってことは、お前だけじゃなくて相手も守らなきゃいけないだろ。そいつは何もしないのかよ。そんな大事な約束するような奴にくらい、なんか言えるだろ。一言くらい、言えるだろ。人に殴られたいなんか言う前に、やめてって一言がどうして言えないんだよ!」
 分かってない! 園田くんは私たちのことなんか何も知らないくせに。
「瑠璃ちゃんや鳳蝶ちゃんたちに、言えるわけないじゃん!」
 語尾が震えた。その場にうずくまる。
「え、そっち? 小嶋じゃねえの?」
 園田くんの勢いが急に弱くなった。
「絶対秘密にしてよ。園田くんが言えって言うから、仕方なく教えるんだからね。」
 情けない。自分の間違いを自分で喋る、それだけのことなのに、なんてみっともないんだ。顔を見られないように、膝を抱えて小さく丸くなった格好のまま、そっと話す。
「小学校卒業する時に、中学校でもずっとうちらは一緒だって、五人で約束したの。でも私は他の四人の誰とも同じクラスにならなかった。それで、別の友達を作ろうと思ってたとき、綾ちゃんと気が合ったの。ずっと一緒だって言ってたこと、私はまさか他の友達を作らずにうちらだけで仲良くしようって意味だとは思わなかった。だから仲間外れにされたの。綾ちゃんと友達になったから。綾ちゃんも、私がそんな大切な友達を捨てた奴なんだと思って、私から逃げて、四人のところに行った。それがいつしか、綾ちゃんがみんなの中心になってた。瑠璃ちゃんも鳳蝶ちゃんも朱音ちゃんも蘭ちゃんも、私のこと、約束破りの最低な奴って言うくせに、自分は昔のことなんか忘れちゃったんだよ。でも、どれも私が誤解してたのが原因。馬鹿でしょ、私。」
「そんな友達なんて、くっだらねえ。いらねえよ。さっさと捨てちまえ。」
「私だって、こんなのおかしいって思ってる。でもみんなを捨てたら、ずっと《《ぼっち》》になる。」
「ぼっちだって悪くないぜ。俺の姉ちゃんだって昔はずっと、」
「りくちゃん、何やってんの。結ちゃんを泣かせて。」
「え、お姉さん⁉」
「泣かせてなんかねえよ。」
「なかなか戻って来ないから、気になって見にきちゃった。なんか、よく見たら結ちゃんが泣かされてるというよりあんたと一緒に泣いてる感じだね。ごめん、姉ちゃん邪魔だね。」
「あ、いや、ちげえよ! なんだよ姉ちゃん!」
「どこからどう見てもりくちゃんと結ちゃん泣いてるわよ。これは一体何があったのよ。」
「ちょっと言い合いになっちまっただけだぜ。」
「我が弟ながら、情けない奴だな。
 で、何があったの?」
 優しい声でお姉さんは尋ねた。
「姫野、言ってもいい?」
「ええ、秘密って言ったのに。」
「姉ちゃんならいいだろ。俺も姉ちゃんも、口は堅いぞ。」
「結ちゃんとコイツとお姉ちゃんだけの秘密ね。ちゃんと守るよ。」
「わかった。」
「姫野さ、学校でハブられてんだよ。それで、今日こいつが一人で河原にいるところを俺が見つけて、それでうちに連れてった。ハブられてる理由は、約束を破ったからなんだってよ。」
「小学校を卒業してもずっと一緒だよって言ってたのに、私がその言葉を誤解して他の子と仲良くなった。約束してた子たちは、他の誰とも仲良くならずに、中学でもずっとうちらだけで一緒にいるつもりだったんです。」
「姫野は他の子とも友達になって、福原や新藤とも仲良くするっていうつもりだったらしいぜ。ひでえよ、女子たち。ちっせえよ。」
「そういうことか。思ったより単純だった。要するに、友達関係のゴタゴタでしょ。」
「ノリが変だったし。」
「今は普通に喋ってるじゃない。あんたたち、結構相性いいんじゃないの。」
 お姉さんは茶化しているのか本気なのか、私には分からなかった。
「な、何だよ姉ちゃん。そんなわけないだろ。」
「むきになるなって。
 ねえ、結ちゃんなら大丈夫だと思うよ?」
「そんな簡単におっしゃらないでください。」
「そんな重い約束するくらいなんだし、今はこじれちゃってるけど、お互い大好きだってことでしょ。それなら大丈夫。ちゃんと話せばわかってもらえるよ。誤解をとけばいいの。」
「でも、どうやって?」
「結ちゃんにとっての本当のことを、そのまま話せばいいんじゃない? 明日、早速やってみれば? 早い方がいいっしょ。」
「無理ですよ。」
「なんで?」
「私は文句なんて言える立場じゃないんです。」
「そんなこと誰が決めたの? いいから言えばいいのよ、明日。ね。」
 小指を差し出され、もうどうにもならないと観念した私は仕方なく指切りをした。
「がんばれ、結ちゃん。でもね、もう無理って思ったら諦めたっていいのよ。」


「姫野ちゃん、何言ってるの?」
「だから、私は誤解してたんです。まさかあの時の約束が他の子と仲良くしないってことだとは思っていなくて。だから、去年のクラスで綾ちゃんと友達になった。」
 朝、普段は誰ともすれ違わない通学路で、少し遠くにある高校のブレザーをおしゃれに着こなしたお姉さんに出くわした。応援されちゃったし、目の前に五人がいるし、もう後戻りはできない。放課後、私はみんなを、空き教室に呼び出した。
 園田くんには教卓の下に隠れていてもらってる。一人はどうしても嫌だから、と無理を聞いてもらった。高鳴る自分の心臓の音を出来るだけ聞かないようにしながら、私は五人と対峙している。こんな関係、やっぱり変だ。
「約束を破ったことに変わりはない。」
「それは悪かったと思ってる。綾ちゃんだって、絶対気分悪かったよなって、反省してます。」
「反省するだけで許されるわけがない。朱音、どう思う?」
 小嶋さんに当てられた朱音ちゃんは、昨日までは最低な奴に見えたのに、今日は彼女に取り入ろうと必死になっているように思えた。
「今さら何言ってんのって感じ。まるでうちらが悪いみたいじゃん。」
「そうそう、朱音に賛成。」
 三人が口々に言った。
「あとさ、瑠璃。あたしにはあの教卓の下に誰かいるように見えてるんだけど。あんたもそうでしょ。」
 まずい。
「逃げるぞ!」
 園田くんはさすがは男子の俊敏さで駆け出した。私はあっという間に置いてけぼりになる。でも、園田くんは、少し進んだところで私を待っていてくれた。
 右腕を園田くんに引っ張られながら全速力で走る。教科書やノートは、鞄ごと教室に置いたままにしてしまった。
「もうちょっとで撒ける。がんばれ!」
「うん!」
 上履きのまま校舎を飛び出して、見張りの先生がいない裏門から出てぐるりと遠回りして、そして住宅が立ち並ぶ海沿いの街を駆け抜けた。宇宙に繋がる青い大空が清々しい。川の方に向かっていると気付いたとき、私にもわかった。昨日、私が園田くんに見つかった河原まで、私を引っ張っていくつもりなんだ。私と園田くんが、初めて話した場所。
「もういいだろ。」
「たぶん、ここまでは追ってこないね。」
「なんか事件の犯人みたいだな。コンビニ強盗やって逃げる最中みたいな。俺ら何も悪いことしてねえのに!」
 二人揃って、息を切らしている。
「こうすると気持ちいいんだ。」
 園田くんは地面に寝転がって大の字になった。すかさず私も真似をする。
「お前はやめとけよ。制服汚れるぞ。」
「別にいいじゃん。ボロボロなんだから、汚したっていいでしょ。」
「それ自虐ネタにするなよ。俺は姉ちゃんに洗濯してもらえばOKだけどさ、姫野は綺麗にしろよ。」
「園田くんってさぁ、シスコンだよね。」
「はあ⁉」
「へへっ」
「あ!」
「え?」
「姫野が笑った!」

星々に照らされて

 とある地方都市の郊外にある病院の一室。
 ついさっき、この部屋で私の子供は産まれた。
 私もこんな風に声を上げて生まれたのかな、とか、この子は将来どんな子になるかな、とか、いろいろなことが頭に浮かんでくるけど、今は喜びに浸っている場合じゃない。
 私は今夜、急いでここを出なければならない。


 私はひまわり子ども園で育った。それは川と山が近いという以外何もない、ごく普通の田舎街にある。この辺りの住民の平均年齢は、もし園がなければ、きっと六十歳を越えるだろう。
 両親の顔は全く知らない。施設で一番お世話になった優子先生は「とても優しいご両親よ」と言っていたけど、まさか卒業する子どもに向かって「あなたの親は悪い人だったのよ」と言うとも思えない。私の親はどういう神経をしていたんだろう。「優しい両親」なら、腹を痛めて産んだ娘に名前くらいはくれたっていいじゃない。私に(はるか)と名付けたのは他でもない、優子先生だから。私は両親のことを、何があっても好きになれないと思う。
 なんて、さんざん貶しておいてこのザマだ。血は争えない。きっと私もこの子から嫌われると思うとつらくなる。私はなんて馬鹿なことをしたんだろう。
「遥、卒業おめでとう」
「ありがとう。来てくれたんだね」
「もちろん。来ないわけがないだろ。遥の大切な旅立ちの日なんだから。」
 (いつき)はひとつ年上で、この子の父親。彼も高校を卒業するまでひまわり園に住んでいた。みんなと別れた後、私は二人きりで会うつもりだったのに、樹は式にも参加してくれた。
 もう着ることのない制服。落ち着いた大人っぽい赤色の、珍しい色合いのブレザーで、私は気に入っていた。
「仕事は? 抜け出して怒られないの?」
「大丈夫。班長にはうまく言ってきた。」
 門出の日だから、一回くらいならいいだろうと思ったのが間違いだった。あの日のあの一回きりで、可哀想な子供が可哀想な子供を産むことになってしまった。この罪は重い。
 樹は高卒で土木工事の会社に入った。身体の細さのわりに体力はあって、彼にはぴったりの職業だ。就職先が決まったときの樹の喜ぶ顔を、私ははっきりと覚えている。
 住むところがなかったり一人ぼっちでさみしいという作業員のために、会社は寮を用意していた。樹はもちろん、そこに入った。独身寮だから、部屋は狭い。
 親のいない子供どうしが付き合って妊娠して、無事に産めたとしても育てられるはずがない。収入は二人分合わせても、あまりにも少ない。出産のための入院費用すら、用意するのに苦労したんだ。大して頭の良くない高卒の男一人が工事の仕事をしたって、稼げる金額はたかが知れている。身重の十代女子が働ける場所などあるわけがない。この世は不平等だと、私は常々思っている。
 どうせ、私はこの子の成長を見届けてあげることなんて出来ない。だったら、何か一つだけ、私と樹の子供に最高のプレゼントを。
 遥と樹を組み合わせて、遥樹。いや、それじゃあ男の子の名前だ。はるな、はるひ、はるこ。これもだめだ。樹の要素が全くない。今日はよく晴れていたから、「晴」の字を使ってみようか。晴れた日の夜に産まれたから、晴夜。はるや、せいや、はるよ。まあ、読み方は後で決めよう。そんな綺麗な月夜だから、星が見えた。「星夜」で、せいや、せいよ、ほしよ。語呂が悪くて嫌。うん、自分の力だけで決めるのは無理だ。ケータイで調べよう。
 四桁のパスコードを入力してロックを解除すると、二件の不在着信があった。両方とも発信者は優子先生。なんで? 私は園を出て以来一度も先生には会ってないし、連絡も取ってない。
 ちょっと怖いけど、折り返してみることにした。先生は普段は優しいけど、怒るとめちゃくちゃ怖い。そっと電話機のマークをタップする。プルル、プルルと二回のコールで先生は応答した。
「もしもし、遥ちゃん? よかった、繋がって。」
「もしもし、優子せ……」
「さっきね、うちに樹くんが来たのよ。びっくりした。遥ちゃん、樹くんとの間に赤ちゃんができたって。しかも、もう産まれそうだって。ついに遥ちゃんがママになるなんてね、おめでとう。いいお母さんになってね。パパがあなたのこと心配してたよ。あ、普通に電話出れてるくらいだし、もう産まれたかな?」
 ああ、樹がひまわり園に行ったんだ。今、先生はおめでとうって。なんてアホなことをしたんだって、怒らないんだ。私が赤ちゃんを産んで、先生は祝ってくれるんだ。
「こんなところにいないでさっさと病院に行きなさいって、樹くんを追い出しちゃった。それで大丈夫だったかな。」
「大丈夫です。まだ彼来てないですけど。」
「あら、まだなのね。遅いね。どっかで道草食ってんじゃないの。」
 ケータイの向こう側で、先生は場違いなジョークを言っているのか、それとも本気で心配しているのか、私はよく分からなかった。
「最近どうなの。仕事は?」
「大丈夫ですよ。産休もらえました。」
「そう、それなら安心ね。」
 嘘です。クビになりました。
「じゃあ、お祝いできたしさっさと切るわ。樹パパと、幸せにね。」
「あ、あの!」
 ねえ優子先生、ちょっと聞いてよ。話したいことがあるわけじゃなくないから、ちょっとだけ私の話を聞いて欲しい。
「どうかしたの。」
「あの、その」
「早く言いな。」
「私に遥って名付けた理由、ちゃんと聞いたことないなって。ほら、赤ちゃんの名前、どうやって決めようかなって考えてたから。先生、教えてください!」
「遥の由来か。」
 自分の名前の由来を聞いてくるという宿題がどこの小学校でも出されるんだとは知っている。施設があるからなのかは分からないけど、私が通っていた小学校は例外だった。
「うちにあなたが来たとき、ものすごく小さかったから。大きくなって欲しいと願って付けたの。お母さんがひまわり園にあなたを預けたのは、生まれてから数日、長くて一週間くらいの時だったと思うよ。」
「そんな早かったんだ。なんで?」
「さあね。それは知らない。きっとやむにやまれぬ事情があったんだよ。」
 電話の向こうから子供たちの甲高い声か聞こえる。優子先生、寝かしつけなくていいのかな。
「久しぶりだし、もっと色々話せたらいいんだけど、ごめんね、切るね。」
 やっぱり。いつでも先生は先生だ。
 看護師さんが入れ替わり立ち替わりやって来て、私は今患者なんだ、と思った。普通に考えて、出産したばかりの女が子供を捨てて病院から消えるなんて、ヤバい話だ。でも、私はそれをやろうとしている。事の重大さは理解しているつもりだけど、たぶん私は分かってない。
 でも、だって仕方ないじゃない。何日もこんなところに泊まるお金なんてないんだから。一日でも早く仕事を見つけないと、一文無しは暮らしていけない。真冬の公園で寝ることになったら、さすがにキツすぎる。
 この子だけは、私みたいにならないで欲しい。それだけは絶対譲れない。
 大きくなったら、この子にどうなって欲しい?
 心優しくて、かわいくて、人を大事にできる人。自分の未来に希望をもって、明るく楽しく生きて欲しい。一つだけ確かなのは、私や私の親みたいに、可哀想な子供を作らないで欲しいということ。そんな意味を名前に込めるなんて、なんだか気が引ける。やっぱり、私と樹の子供だから、二人の想いを詰め込みたい。
 樹は、どう思うかな。
 未来に希望。望未(のぞみ)ちゃんなんてどうだろう。未希(みき)ちゃんなんかもかわいい。夢って漢字を使うのもいいかもな。夢が叶うって書いてゆめかちゃん、とか?
 ドタドタドタドタ……
 外から足音が聞こえてきた。
 うるさいなぁ。誰よ、病院内で全力ダッシュしてる奴は。
「遥!」
 あ、この声は、樹だ。
「遥!」
 ガラッと勢いよく扉が開き、私に向かって渾身の笑顔を向けながら樹が駆け寄ってきた。そして、横にある小さな小さなベッドを覗き込む。
「ああ、かわいい。赤ちゃん、かわいいな。」
「私と、あなたの赤ちゃん」
「ああ、かわいい。」
 樹はそれしか言わなかった。
「樹。あんまり見ると情が湧くよ。」
「いいんだ。今しかしてあげられないんだろ、良い父親。」
「すぐにこの子と別れるんだよ。別れなきゃいけないんだよ。」
「いいんだ。俺は別れないから。」
「何言って、」
「遥。」樹が私に向けたまっすぐな視線と、私が樹に向けた厳しい視線がぶつかった。「大丈夫だ、遥。」
「今から動ける? 一緒に行きたいところがあるんだ。」
「今すぐ? どこ行くのよ。」
「歩いて十分くらい。」
「遠いなあ」
「分かった。俺がおぶるから。職場の人にベビーカー借りてきた。三人で行こう。俺が遥をおぶってベビーカーを押して行くから、心配いらない。」
 樹はあまりに真剣で、無下にもできないと思った。この人だいぶバカだから、そんなやり方が簡単じゃないことが分からないんだろう。樹の言うとおりにしよう。何を言っても、この調子じゃ樹は聞く耳を持たないだろうから。私は、そのくらい分かる。
 彼の背中は私より一回りは大きい。私に左手を添えて、右手一つで赤ちゃんを押して行く。
 途中、看護師さんとすれ違った。彼女はにっこり笑って、私たち家族をスルーした。あの人、絶対何か勘違いしてる。まさか私たちが逃げるなんて思ってもないんだろうな。今から三人で出掛けて、そしてその後は、フェードアウト。
「俺、遥とこの子のこと、職場の先輩に相談したんだ。」
 背後にいる私にもはっきり聞こえるくらい、大きな声で語り出した。
「一番最初は遥に赤ちゃんができたって分かった時だ。ブン殴られたよ。『お前何やってんだ! 最低だな!』って。そんなこと、さすがの俺にだって分かるって思ってた。『男の不始末のせいで一生苦しむのは女の子の方なんだぞ!』って言われて、そうか、一生なのかって気付いたんだ。」
 そのとおりだよ。当たり前じゃん。
「本当は、俺は分かってなかったんだ。遥がどれだけ苦しむことになるか。もしかしたらってことを全く考えてなかった。先輩の言うとおりだ。俺は最低なんだ。遥をこんなにつらい目に合わせて、遥の彼氏として失格だ。そんな俺が父親になるなんて無理だって思った。
 だから考えたんだ。なんとか俺たちが一緒にいられる方法がないかって。これからはちゃんとしようって決めたんだ。本当はもっと早く遥に言うべきだったと思う。こんなタイミングでごめん。
 実はな、うちの会社で事務員を一人採用しようっていう話があるんだ。男しかいないしみんな頭悪いし、書類仕事ができる人が欲しいんだ。遥ならできるよな。簿記持ってただろ?」
「うん。高校のうちに取ったけど。」
「それで、先週班長に言ったんだ。俺、いい人を知っているから紹介しましょうかって。今から行くんだよ、班長が待ってるから。」
「今⁉ 樹さ、タイミング考えなよ。」
「あんなに大きいお腹じゃ動けないかと思って、後にしたんだけど。」
「後の方が動けません。当たり前でしょ。」
 樹のテンションが下がったのが分かった。そのまま二人とも黙ってしまった。
 星が綺麗だ。さっきこの子が生まれた時と変わらず、やっぱり綺麗だ。
 樹の背中の上で、私は濃紺の空を見上げた。
 この子、めっちゃいい日に生まれてきたね。大きくなったら、あなたが生まれた日の空は快晴で、星が輝いていたんだよって、伝えてあげたい。
「遥、ここだよ。」
 まるでプレハブ小屋みたいな建物に着いた。
「ちょっと手離すね。」
 樹は赤ちゃんにそう言って、右手でインターホンを押した。
「班長。樹です。」
 扉が左にスライドし、三十代半ばくらいの日焼けした男性が現れた。この人が班長なのね。思ったより若い。
「こないだ言った、いい人です。」
「木戸遥です。」
「噂の遥ちゃんだな。聞いてたとおりかわいいな。」
「やめてくださいよ。」
 樹がツッコミを入れる。
「じゃあ、木戸さん。会社の話をするから中に入ってください。お前は隣で赤ん坊見とけ。」
「ういっす。」
 私は奥の部屋に連れていかれ、樹は手前の部屋であるリビングで座布団に腰かけた。座布団は敷いたところで意味があるのか分からないくらい薄かった。
「樹の上司の、新田(にった)といいます。聞いてますよ、木戸さんの話は。何でも、樹の将来の奥さんだそうじゃないですか。」
「将来の奥さん⁉ なんですか、それ。」
「違うんですか⁉
 いや、まあ、それはそうと、とにかくおめでとうございます。木戸さんがどう思ってらっしゃるかは分かりませんが、あいつはいい父親になると思いますよ。彼女に赤ちゃんができたって聞かされた時は驚きましたがね、今では納得です。ご存知ですかね、あいつが同僚たちに、子供の名前をどうしたらいいか訊いて回ってたこと。」
「そんなこと、知らないです。」
「うわ、余計なこと言っちゃったかな。」
「あの、今日は娘の話をしに来たわけではなかったと思いますが。」
「すいません。あの、木戸遥さん。あなたに事務員として入ってほしいんです。」
 私は新田さんの黒い瞳を見つめた。
「うちはね、社員の五割が中卒、三割が施設育ち、あとの二割が障害者なんですよ。今は書類仕事を出来る奴は、私だけなんです。前はもう一人いたんですが、辞めてしまって。一応私だけでも仕事自体は成り立っているのですが、樹が心配してくれましてね、残業しすぎだって。今思えば、あいつは始めから木戸さんを紹介するつもりだったのかもしれませんね。」
 表情筋に力を入れて、私は言った。
「私、喜んで入社させていただきます。すぐにでも働きます、明日からにしますか?」
 そして顔面に笑みを貼り付けた。
「明日なんてとんでもない! ゆっくり休んで下さい。今まで苦労なさったんでしょ。寮の一番大きい部屋が空いてますから、三人で使ってください。今日からでも大丈夫ですから。」
「あ、ありがとうございます……」
 この人、親切にしすぎ。絶対いつか痛い目に遭う。信じる者は、足元をすくわれるんだから。
「じゃあ、木戸さんは今からうちの社員ということで、よろしくお願いします。今日は二人でゆっくり過ごしてください。子供の名前、一緒に決めるんでしょ。」
 二人で一緒に? 樹は何も言ってなかったよ。
 でも分かる。樹は赤ちゃんのことを、それだけ考えていたんだ。だから「俺は別れない」なんて言い出したんだ。点と点が線で繋がるように、私は分かった。樹はずっと言い出せなかったのかもしれない。
 なんでこの班長はよく知ってるのに私に話してくれなかったのかって思えるけど、そんなことは関係ない。たぶんこの新田さんのことを樹は信頼してるんだ。この人を私以上に信頼してるんだ。
「木戸さん?」
「あ、すみません。ボーッとしてて。」
「いや、そうじゃなくて。大丈夫ですか? 泣いてらっしゃいますよ。」
「え?」
 そっと右手で顔に触れると、小さな水滴に気付いた。ねえ、樹、私はなんで泣いてるの?
「あいつ呼びますね。おい!」
 ドアから顔だけを出して、新田さんは言った。
「はい!」
「来い! じゃあ、私はこれで。」

「遥、大丈夫?」
「何でもないの。」
「何でもなくない。」
「ねえ、樹は何がしたいの? 私をここに入社させようとしてたなんて初めて知ったよ。赤ちゃんはどうするの? この先のこと、何も決まってないじゃない。それなのに大丈夫なの? 早いうちに赤ちゃんポストにこの子を入れて、私は風俗でも何でもやってお金を稼ぐから。自分が暮らしていくためのお金くらい自分でなんとかするよ。樹と私は、別々でしょ……」
「俺は遥と赤ちゃんを手放したくないんだ。まだ決まってないなら、今から決めればいい。」
「そんな簡単にいくわけないじゃない。よく考えてよ。二人で働いたって子供はすぐ風邪引くから、毎日のように呼び出されるのよ。保育園はどうするの? 何もかも高いお金がかかるんだよ。小学校に上がったら勉強とか見てあげなきゃいけないし、中学に上がったら部活とかもやるから、どうしてもかかるお金は高くなる。高校生になったら、公立に行ってくれれば授業料は税金から出してもらえるけど、私立だったらどうするの? 学費払えるの? 大学なんて行かせてあげられないよ。うちらは高卒で働いて、大学に行くのを諦めて、でもこの子は大学に行きたいって言うかもしれない。このまま二人で育てたら、この子も苦労するよ。可哀想だよ。普通じゃないってのは可哀想なんだよ。普通じゃない親のもとに生まれただけでも可哀想なのに。
 そもそも、産んだのが悪いんだ。せっかく生まれてきたのに、どうせ私たちはバラバラなんだよ。この子の居場所は私たちのところじゃない。施設に行くとしても、私たちに育てられるとしても、どのみちこの子は不幸なんだよ!」
「それは違う。この子は不幸なんかじゃないよ。よく見てみてよ、赤ちゃんの顔。幸せそうに眠ってるよ。俺たちが普通じゃないから赤ちゃんを手放したって、俺たちが育てたって、どうせこの子は苦労するんだ。だったら家族がいて、大事にしてくれる親と一緒いる方がよっぽどいい。この子にやりたいことができたら、俺たちも一緒に頑張るんだよ。俺たち三人ならなんとかなるよ。遥はこの子のことを考えてるから手放すつもりなんだろ。それって、大事ってことだろ。だから遥はいいお母さんになれるはずだし、俺はちゃんとする。だからさ、あの……」
 もう、変なところで止まるんだから。
「何よ。はっきり言って。」
「いや、えっとね」
 樹は自分の膝を見た。
「赤ちゃんの名前、いいの思いついたんだ。希望とか夢とか、それよりもっと大事なこと、俺、分かったんだ。」
 樹は右手の人差し指でテーブルに見えない線を書いた。それは文字だった。
 彼は左手で赤くなった自分の耳を触った。そしてその手を下ろすと、きゅっと握った。いつもより小さい拳だった。
「俺と遥の赤ちゃん。俺らは親に捨てられても、こうして一緒にいられる相手を見つけたわけじゃん。俺らは繋がってるんだ。
 だから、赤ちゃんの名前は、結。
 俺らは結ばれてるって意味なんだ。
 姫野樹と姫野遥と姫野結。いいだろ?」
「ゆいちゃん、か。かわいいね。
 それに、木戸遥じゃなくて、姫野遥。」
 樹は両手を膝の上に置いた。
「遥。俺と、結婚してください。」
「バカだなあ。何回言えば分かるの? 一生苦労するってば。」
「遥と結がいれば、大丈夫だよ。」
「それだけ『結ばれているんだ!』って言っておいて逃げ出そうものなら、ただじゃおかないから。」
「当然だよ。家族になるんだから。」
「もう、分かったよ。いいよ。」
 スゥっと空気を吸った。澄んだ酸素が身体中に行き渡っていく。
「ふつつかものですが、末永く、よろしくお願いします。ふふっ」
 一生に一度のこの瞬間が、ダサすぎ。でも、それがうちららしくて、幸せなのかもしれないな。
 私は結を抱きしめ、樹は私を抱きしめた。樹の肩も、小さく震えていた。

ひとつ屋根の下の

 ぺりっぺりっ
 私は唇の皮膚を剥く。
「痛いよ」とか、「荒れるよ」とか、そんな忠告はもう聞かない。私にとっては、唇の皮膚はいらないもので、少しでも分厚い箇所があれば取り去ってしまう。
 悪い癖だという自覚はある。でも、剥いたあとに作られる新しい皮膚は分厚くて、唇の動きが制限される。ものを食べるときも、誰かと話すときも、何もかもを封じ込められているみたいだ。
 仕方ないじゃない。私に注意するあなただって、口癖があるでしょ?私にとっては、そういうものと、何ら変わりないのよ、この悪癖は。
 それに、ぷちっぷちっ
 私は睫毛を抜く。
 皮膚むしり症とか抜毛(ばつもう)症とか、大仰な名前の病気があるらしい。私は知っている。皮膚科ではなく、精神科に。
 私自身は、病院にかかる必要はないと思う。リップクリームを塗れば一時的にでも荒れは収まるし、睫毛だったなくても困らない。まあ、人に知られたくはないけど。
 初めて皮膚を剥いたのは、忘れもしない、五歳の頃の、晴れた日だった。今はもう十四歳。周りの子はメイクをし始めて、コンプレックスを感じるようになってきた。でも、やめられない。どうしても、やめられない。


「瑞希、ママが帰ってきたぞ。お利口に留守番できたか。」
「ほら、赤ちゃん。瑞希の弟だよ。かわいいでしょ。」
「うん!」
 ママのおなかのなかにはあかちゃんがいて、ちょっとまえにうまれたんだけど、ママのちょうしがわるくって、なんにちもおうちにかえってこなかった。やっとママはかえってきた。わたしのおとうとといっしょに。わたしはおねえちゃんになったんだ。
「瑞希、お姉ちゃんなんだからいい子にするんだよ。できる?」
「できるよ!ねえママ、あかちゃんのなまえは?」
「直希っていうんだよ。」
「なおきくん!」
「漢字で書くとね、瑞希の希と直希の希は同じ字なんだ。一文字お揃いだよ。」
「いいね!かわいいなまえだね!」
 あした、ようちえんでじまんしよう。おとうととわたしは、かんじにすると、ひともじおそろいなんだよって。おとうとができたってママにいわれたひ、ようちえんでみんなにはなしたら、みんなわたしをうらやましいっていっていた。
 でも、みうちゃんだけはちがった。
 みうちゃんにもちいさいおとうとがいて、みうちゃんは、おうちにかえっても、ひとりであそんでいるんだって。おかあさんにおねがいがあっても、おとうとのことでいっぱいいっぱいだから、じぶんでやりなさいっていわれちゃうんだって。みうちゃんは、おとうとなんていらないっていっていた。
 らいねん、いちねんせいになったら、ひとりでおでかけできるようになるから、みうちゃんちにあそびにいくやくそくをしてるんだ。みうちゃんのおとうとに、あいにいくんだ。
 かわいいけどかわいくないって、みうちゃんはいっているおとうと。
「あのね、おかあさんは、わたしよりあかちゃんのほうがだいじなんだよ。」

 きょうは、ようちえんからかえってきて、ママといっしょにおりがみをするやくそくだ。
 つるのつくりかたを、おしえてもらうんだ。でも、ママはなんだかたいへんそう。
 もうまちきれないから、わたしだけで、さきにはじめちゃった。
 パンダ、ロケット、きりん。つくりかたをおぼえているやつを、ひとりでおる。ぜんぶで5つかんせいしたら、もうかみがなくなった。
「ねえママ」
「ちょっと待って。」
「ねえ」
「だから少し待って。」
「ねえ」
「静かにしなさい。」
 ママ、おこってる。おりがみがもうなくなったよって、いおうとしただけなんだけどな。
「直希、ミルク飲もうね。」
 なおきは「あぅ」とか「うぅ」しかいわない。こんなじかんにのむんだ。よるごはんのじかんはまだなのに。なおきは、もうおなかすいたのかな。
「おりがみ……」
「本を読んで自分で作りなさい。ママは、今忙しいから。」
「ちがうの。もうないの。」
「そこの棚に新しいの入ってるから、自分で出しなさい。お姉ちゃんなんだから、できるでしょ?」
 じぶんでやりなさい。じぶんでやりなさい。
 あたまのなかだけで、なんかいもきこえる。みうちゃんがいっていた、おかあさんのこと。それって、もしかして、こういうこと?
 なおきがうまれてから、わたしはじゃまになっちゃった。
 おねえちゃんより、あかちゃんのほうがだいじなんだって、それはとってもよくわかった。みうちゃんがいっていたことが、わたしにもわかる。
 おとうとなんて、いらない。
 ぺろり、とくちびるをなめたら、ちいさくあたるものがあった。
 これは、なに?
 ゆびでひっぱってみたら、ペリペリ、ととれた。
 これは、かわ?かわがむけちゃった。
 もういちど、さわってみる。
 さっきむいたところは、ちょっとヒリヒリしたけど、いやなかんじはしなかった。むしろ、おもしろい。つめがひっかかるところをみつけて、またひっぱる。こんどは、もっとたくさんとれた。
(なにこれ……!)
 おおきいのがとれると、うれしい。
 たのしい!
「瑞希、おまたせ。鶴折ろっか。」
「ママは何色?」
「うーん、赤がいいな。」
「はい、ママ!」
 あかいろのおりがみをふくろからだして、ママにわたした。そしたら、ママはわたしのかおをみて、いった。
「ねえ、唇どうしたの?」
「え?えっと……」
「上の右側、すごい赤くなってるけど。痛くない?大丈夫?」さっきむいたところをゆびさした。
「ぜんぜん、へいき」
「そう。それならいいんだけど……」
 なにしたのかばれたら、きっとおこられる。かくさなきゃ。もうやめなきゃ。
「ねえ、はやくおしえてよ。」
「ごめんごめん。
 瑞希、まずは、三角に折ってね。」
「できた」
「次は、もう一回、三角に折ってね。」
「できた」
 ママがつくったかっこいいつると、わたしがはじめてつくりあげた、つる。むずかしかったけど、なんとかわたしもかんせいした。パパがかえってきたら、この2つをみせて、びっくりさせてやろう。きっと、すごいって、いってくれる。
 あ、でも、なおきがいるから。さきになおきのところにいって、いないいないばあするかもな。もしそうだったら、わたしはじゃまになる。
 いっぱいれんしゅうして、もっとじょうずにできたら、ママとパパにあげたいんだ。なおきは、おもちゃがあるから、いらないよね。


 あの日、初めての日。直希がうちにやってきた時から、私の居場所はなくなった。家族は、両親は、親戚縁者は、みんな直希をちやほやする。年増の女なんて必要ない。
 小学生の時も、私はいつも、皮を剥いていた。
 あの頃はまだ、睫毛を抜いてはいなかった。


「みずきちゃん、口から血が出てるよ。」
 田中くんがわたしにこえをかけた。
 わかってる、そんなこと。またやっちゃったから、ちょっと深くむきすぎたから、ただそれだけ。
 まわりの子はみんな、ちょっと口が切れただけでおおさわぎする。なかには先生にいう子だっている。口が切れていることはわるいことで、このクセは恥ずかしいものなんだ。
 むいてはなめる。むいたところペロペロのなめてごまかす。できるだけ、人に口をみられないようにしなくちゃ。
 今日はしっぱいした。田中くんには、これからはようちゅういだ。
 けさ、ママが私の顔を見て言った。
「唇荒れてるね。皮膚科行ったほうがいいかな。」
 ダメだ、ぜったい、それはやめさせなくちゃ。私が自分で自分のくちびるをきずつけているなんて、そんなことがバレたらおこられる。ぜったい、ぜったい、おこられる。
 私は、きっとこのクセをなおしてやる。
 今日からはもうむかない。


 そうして決意を固めても、結局私は剥いてしまった。ワセリンを処方されて、毎日塗って、それでも良くならない私の皮膚を、母はずいぶん心配していた。
 そんなこと、無駄だよ。だって、私が私を傷付けてるんだから。

「ええ、嘘……。」
 いつも通り、ベッドでゴロゴロしながらTwitterを見ていた。トレンドとして画面に映し出されるそのワードに、私は目を疑った。
「皮膚むしり症」
 字面を見るだけで、これが私の癖に当てはまっているということはわかる。
 皮膚をむしる。皮膚を剥く。
 それって、同じことだよね。
 私は、病気だったんだ。
「変な癖」に説明がついて安心すると同時に、私は怖くなった。子供のころから、自分には自傷癖があったということ。それを、記事は証明してしまっていた。こんなこと、誰にも言えない。
 このことは、いったい誰のせい?
 決まってる。直希が産まれて以来、私は邪魔者になったから。私は要らなくなったから。両親にとって。間違いなく、これは親のせいだ。
 あの毒親め。
 私は親ガチャという言葉を知っている。親は自分では選べない。だからガチャガチャと一緒だっていうこと。私はハズレを引いてしまったんだ。私は親ガチャに外れた。
 いや、逆にいえば、親からすれば子ガチャに外れたということ。子供は自分では選べない。私みたいな、まだ子供の直希よりも要らないこんな奴が、小学生の直希より劣る中学生があなたの子供で、申し訳ない。私は、要らない存在だ。
 だったら、美しい唇を取り戻すしかない。今までのことをなかったことにして、そうすれば、私はきっと要る人間になれるから。
 誰か、お願いします。私に、綺麗な唇をください。

「ねえ、直希。皮膚むしり症って知ってる?」
「知らないけど、それがどうかしたの?」弟はゲームする手を止めないまま、口だけで返事した。
「いや、何でもない。」
「ふうん、そんなことはいいからさ、姉ちゃんもゲームしようぜ。」
「いやよ。」
 弟の部屋を去ろうとしたとき、もう一つ聞いてみようと思った。一息おいて、私はそれを恐る恐る声に出す。
「あとさ、一応きいておきたいんだけど、あんたは姉ちゃんの名前知ってるわよね?」
「知ってるに決まってるだろ。みずきだろ。」
「漢字で書ける?」
「無理だよ。希の字は書けるけどさ、瑞は習ってねえもん。」
じゃああんたが姉ちゃんの名前を書くときは「みず希」って書くわけね。
「「みず」は平仮名で、希だけ漢字? 字面キモイでしょ。」
「別にいいだろ。
 てかさ、なんでそんなこと聞くわけ?」
 これは適当にごまかすしかない。直希も今や小学5年生になり、知恵がついてきた。しかし、姉の名を漢字で書くことはできない。
「えっと、なんていうか、あのね。
 子供って、案外家族の名前書けないんだって、今日学校で話題になったのよ。お前はどうかなって思って、一応確認してみただけ。」
 二時間目の家庭科の授業中、話が逸れて、先生が延々と雑談していた。その時の内容が、小学生の娘が自分の名前を書けなかったことにショックを受けた、というものだった。
 クラスメイトの反応は、人それぞれだった。小さい弟や妹がいる子は、「うちの弟大丈夫かな」などと近くの席の子たちで盛り上がっている。興味のない子は、首を九十度に折り曲げて俯き、寝息を立てている。私は誰とも交流せず、でも顔は前を向いていた。
「あっそ。ゲームしないならさっさとあっち行って。」
 冷たい。親の愛情を一身に受けているくせに、姉には冷淡な対応。わがまま野郎。
 弟の悪口だったらいくらでも言える。
 あいつはこの家の邪魔ものだ。母親は、ダイニングテーブルに「お姉ちゃん」宛てに手紙を残し、いつもパートに行ってしまう。父は私に無関心。私の興味を持っている家族はいない。こんなの、家族じゃないと思う。いうなれば、仮面家族?仮面夫婦というのはよく聞くから、こういう言い方が一番しっくりくる。
 こんな言い方、まるで家族を求めているみたいで恥ずかしい。でも、これが本心だから、心の中だけで声に出す。
 私を見て。
 お願いだから、私を見て。
 それはいくら大声で叫ぼうと、誰にも聞こえない。家に居場所がなくて、学校ではみんなが自分と違ってしあわせそうに見える。みんな、誰一人として、私をわかってくれる人はいない。
 この世の中には、信じられる人はいない。
 私はそう思う。

 自分の部屋に戻った私は、ベッドに転がり込んだ。右手人差し指の爪を、皮膚が剥がれかけたところにひっかける。そして親指と人差し指で皮膚を挟み込み、左に引っ張った。
 ペリペリ ペリペリ
 私の皮膚は剥ける。地肌が露出して、唇の動きを遮るものはもうない。そっと舌で剥いたところを舐めると、血の味がした。表皮だけでなく、皮下組織も傷つけてしまったようだ。痛い。でも、気持ちいい。
 だからどうしてもやめられない。何度やめようとしてもやめられない。このペリッと剥いたときの、解放感? なんて言えばいいのかわからないけど、これが良くも悪くもクセになる。
 今度は左手人差し指をめくれた部分に引っかけ、皮膚を剥いた。ペリペリ。ペリペリ。気持ちいい。気持ちいい。
 そして、向ける唇の皮膚がなくなると、私はまつ毛に手を伸ばす。親指を人差し指で毛を挟んで、グイっと引っ張る。すると、プチっと毛根が私から分離して、さらにゆっくり引き出すと、一本の立派なまつ毛が取れる。
 私は無我夢中で、毛を抜き続けた。

「お姉ちゃん、ご飯よ!」
「はーい。」階下まで聞こえるように、大声で返事をする。
音を立てずに移動して、リビングの扉を開けると、びっくりされた。
「うおっ! 姉ちゃんもっと気配出してよ。」
 直希だ。
「なあ、今日調子悪いの?」
「あら、そうなの? お姉ちゃん。」
 母も直希の発言に乗っかる。
「別に。」
 会話は途切れた。
 両親は、私を「お姉ちゃん」と呼ぶ。違う、あんたの姉なんかじゃない。私はあんたの娘だよ。瑞希だよ。
「お姉ちゃん、また唇あれてるわね。ワセリン塗っときなさいよ。」
「わかってるよ」
「直希はそんなことないのにねえ。お姉ちゃんだけ荒れるん、なんでかね。」
「姉ちゃんよく口触ってるじゃん。それでしょ。」
「お姉ちゃん、あんま触っちゃいかんよ。」
「わかったわかった。」
 母も弟も、私の唇に気付いているくせに、何もわからない。私の気持ちなんてわからない。だから私も、家族なんて信じない。信じる価値なんてないの、家族なんかに価値なんかないの!
「ところでさ、お母さん、私の名前漢字で書ける?」
「何言ってんの? 娘の名前くらい当然書けるわよ。」
「だよね。よかった。
 だけど直希は、姉ちゃんの名前書けないってさ。今日家庭科の先生がさ、家族の名前を全員分漢字で書けるかって授業で話題にしたんだよ。まさか書けないわけがないと思ったけどさ、直希に聞いてみたら案外そうじゃないのね。お母さんはさすがに大丈夫でしょ。」
「そんなの、当たり前よ。」
 母は唐揚げを口いっぱいに頬張った。
「うーん、この唐揚げ美味いわ。自分で作っといて変な感じだけど、本当においしい。」
 お母さん、もう私の話に興味ないんだな。
 お母さんは、私の話より、自分が作った唐揚げの自慢にしか興味がないらしい。
 ああ、イライラする。こんなやつの子供に生まれたから、唇がボロボロになった。まつ毛も、抜きすぎてかなり少なくなってる。こんなの、全部、家族のせいだ。
「お母さん、私の話、まだ途中なんだけど。ねえ、私のことにも興味もってよ。」
「お姉ちゃんの話だって聞いてるわよ。」
「お母さん、皮膚むしり症って知ってる?」
 今しかない。私がこんなにも家での居場所に困ってて、小さいころから蔑ろにされてきて、それで今、こんなに唇が汚くなって、目も汚くなって……。すべての不満をぶつけてやる。直希が生まれたからだ。直希が生まれて以来、私は邪魔者になったんだから。除け者にされ続けてきたんだから。
「ワセリンを塗ったところで、私の唇は良くならないよ。だって自分で自分の皮膚剥いてるんだもん。お母さんは知らないだろうけど、知ってると思ってないけど、ワセリン塗れ塗れ言われて、もうほんと、ウザい。どうしてこんなことに……。」
「皮膚、むしり症……。」
 母は小さく呟く。
「私は直希が生まれたから、いらなくなったんでしょ。そんなこと百も承知よ。ずっと、誰も、私に興味もってくれない。小学校の授業参観だってお母さんは直希のほうばっかりだったし、子供のころ、一緒に折り紙やりたくても直希が優先だった。私より直希が大事なんでしょ。私なんてどうせいらないのよ!」
 私は何もかもぶちまける。弟は不審者を見つけたような目で姉を見つめていた。
「あなた、変よ。何があったの?」
 心配そうに母は私を見つめる。直希とお母さんの二人の視線を一身に浴びているうち、私の目はいうことを聞かなくなった。喉に空気の塊が詰まる。何とか飲み込んでも、またすぐにせりあがってくる。
 右目から、小さな雫が零れ落ちた。
「病院に行くなら、皮膚科じゃなくて精神科のほうがいいよ。
 自分で皮膚を剥くのがやめられないのは、自傷行為がやめられないのと一緒なんだって。」
「お姉ちゃん、何かあったの? 辛かったらなんでも言うのよ。お母さんが嫌ならお父さんでもいいわ。」
 はあ⁉ お前の口が何を言うか。お前のせいで、私はボロボロになったのに。お前たちのせいで‼
「誰があんたなんかに悩み相談するのよ。お父さんは飲み会ばっかりで全然帰ってこないじゃない。私を! ずっと! 除け者にし続けてるじゃない‼」
 お母さんは、弟の顔を見つめた。
 突然壊れた娘が怖いのか、それとも本気で心配してくれているのか。火を見るよりも明らかだった。
「お母さんとお父さんに、何か原因があるのね。ごめんね。本当にごめんなさい。」
 お母さんは頭を下げる。
 頭頂部では、頭皮がうっすら見えているのが気になった。
「違うの。違うのよ……。」
「じゃあ学校? 何があったの? 教えてちょうだい。お姉ちゃんが何に苦しんでいるのか知りたいのよ。」
「お姉ちゃんじゃない。」
「え?」
「私はお姉ちゃんなんかじゃない‼」
 違う。私をお姉ちゃんと呼ぶ人にわかるわけない。私はお姉ちゃんじゃない。
「幼稚園のころ仲良かった美羽ちゃん、覚えてる? あの子にも弟がいてね、言ってた。弟なんていらないって。」
「姉ちゃん、ひどいよ!」
「弟がいると自分が除け者にされるから。頭では理解できててもね、心からわかることはできないの。下の子が優先になって、自分は親の目に見えなくなる。誰も私を最優先にしてくれない。そんなこと、誰にも言えるわけないじゃない。唇と目が汚くなった原因は自分で自分を傷つけてるからだなんて。」
 あの日、Twitterで「皮膚むしり症」を見つけた時、私の周りは時間が止まった。私は病気だったんだ。私は正常じゃないんだ。そう思うと、うれしくもあり、悲しかった。私は家族のせいで異常になったんだ。私はつらいんだって、認められたんだ。
 でも、結局、私は何がしたいの? 自分でも自分がわからない。突然意味不明なことを言い出して、母も弟も、私は困らせている。私は自分の主張ばかりぶちまけている。こんなの、自己中だ。
 ああ、また剥きたくなってきた。
 自分で自分の悪口を言うとき、頭の中で自分の悪口を叫ぶとき、私は皮膚を剥きたくなる。皮膚がダメなら、睫毛だ。それを繰り返しているうちに、私の顔はボロボロになった。私はボロボロなんだ。私は汚いんだ。私は要らないんだ。
「ああ、もう‼」
 私は部屋に飛び込んだ。そのままベッドに直行。枕を濡らす。
 いつの間にか私の意識は夢の中で、気が付いた時には朝を迎えていた。
「おはよう。」
 先に起きてゲームをしていた直希と朝ごはんの支度をしているお母さんとあいさつを交わす。
「ねえ、ちょっと待って。」
「何よ。」
「これ、昨日の夜調べたんだけど、精神科の病院。唇と睫毛、治したいわよね? ごめんね。何も気づいてなくて。今日学校終わったら、一緒に行こう?」
「わかった。」
 母が提示した紙は、メンタルケアクリニックのチラシだった。今まで大学病院で勤務していた優秀な先生が最近開業したらしい。
「これ、直希。ゲームやってないで学校行く準備しなさい。」
「はいはい。」
「『はい』は一回でよろしい。」
 母と弟の何気ない会話が私の心に重くのしかかる。お父さんは日が昇る頃に出発して、お母さんが一人で見送る。いつもランドセルを背負って駆けていく弟を、私とお母さんで見送る。今日も元気で頑張ってね、そんな思いを込めて。お母さんは、弟が家を出てすぐに出勤する。私は戸締りをして、最後に出発する。誰もいないのだから学校をサボっても特に誰にとがめられるということもない。でも、私は意地でも毎日真面目に通っている。でも。
 今日くらいいいかな。
 理由はいくらでも作れる。昨日泣いて、目が腫れているのを見られたくないから。仮病を使ってもいい。英語、数学、国語、理科、社会。主要五科目なんて呼ばれているけど、人生でそんなもの必要? 私は要らないと思う。もっと大事なものがあるはずだ。それなら、勉強に追われなくたっていいじゃない。サボったっていいじゃない。休んでもいいじゃない。
「どうしたの?」
 あ、しまった。ボーっとしていた。母は心配そうに私の顔を見つめる。そして何事もなかったかのように直希に檄を飛ばした。
「直希! もう行く時間でしょ。また朝ごはん食べずに行くつもり?」
「別にいいでしょ、腹減ってないんだから。もう行く!」
「こら! ちゃんと食べなさい!」
「じゃ、母ちゃん。み、瑞希。行ってきます!」
 私ははっとした。瑞希って呼ばれた。直希が私のことを「瑞希」って呼んだ。思わず、また涙が零れそうになる。
「わ、私ももう行こうかな。」
「食べないの?」
「お腹すいてないや。ごめん。」
「もう。一生懸命作った意味がないじゃない。」
「行ってきます。」
「行ってらっしゃい、瑞希。」

何気ない道端で

 友達は一年間。学年が上がってクラスが別れたらそれっきり。まるで消費期限が切れて捨てられる卵みたいに、「ずっと友達」なんて言ってても、何もかもプツッと途切れちゃう。クラス替えの時、先生たちは仲良しグループはバラバラになるようにするから、春になると必ずひとりぼっちになる。小学生の時は活発な性格の子が私にも話しかけてくれて、そして仲良くしてくれたから、何気に友達に困ったことはなかった。班を作るときだって、そういう優しい子が私も入れてくれたから、「グループ分けが怖い」なんかは全然思ったことはない。
 中学では、一年生の時に一人。二年生では小六の時に仲良くしてくれてた子と同じクラスだったから、なんとかなった。三年生では一人、結ちゃん。この子だけは年度が変わっても、卒業から一年以上も経った今でも友達。美術部で同じだった子と仲良くできたから、春にひとりになることもなかったし、何なら友達は多い方だった。中学は私には楽しすぎたんだと思う。
 高校に入ったら、なんとか出席番号が隣の子と仲良くなれた。二年生になってもその子とはクラスが離れなくて、結ちゃんみたいに、ずっと友達でいられるような気がしてた。でも、それは私が自惚れてるだけだった。
 私は昔から、周りの子たちとの距離感がわからない。何メートルの距離がいいのか掴めなくて、こんなことしたら遠すぎるかな、とか、これは近すぎるかな、とか、迷ってるうちに胸の中がぐるぐるしてしまう。たぶん、あの子との距離は遠すぎたんだ。もっと近かったら他の子に取られずに済んだのに。私はやっぱりバカだった。
 クラス替えでみんなが浮き足立ってた今年の春、話しかけるタイミングがわからなくなって、全然喋れなくなっちゃった。入学してから一年間私と一緒にいたはずのあの子は、いつしか別のグループに入ってた。しょうがない、私だもん。上手に友達でいることをキープできないから、取られちゃっても何も言えない。最初の一日で一年間のグループ分けは決まっちゃうから、後から仲間に入れてもらうのは私には難しい。今年は、私はずっとひとりなんだ。
 クラス委員を決める時、図書委員には誰も立候補しなかった。当番があってめんどくさいし、みんな本なんかよりマンガが好きだし、誰一人として手を挙げない。私はパッとその時思いついた。今年は委員長キャラになれば、いつも一人でもきっと浮かないって。学級委員とは仕事量も立ち位置も全然違うけど、こういう時に手を挙げればしっかり者キャラを作っていけるはず。だって、いつもそうだった。クラスで委員をやる子は目立たないしっかり者で、これなら私でも出来るかもしれない。今年はこのキャラでやっていこう。たった今、決めた。
「あの、私、やります。」
 一斉にみんなが私の方を向いて、そしてパラパラと拍手が起こり、次第にその手を打つ音は大きくなった。私が図書委員になることに異論を唱える子はいなくて、するりと私に決まった。
 それで今日は、初めての当番。放課後に一時間、つまり四時まで、図書室のカウンターで、奥の部屋で司書さんが別の仕事をしている間の番をする。借りたい子や返したい子がやってきたら私が手続きをする。間違いがあったら大変だから、委員全員に配られたマニュアルを昨日のうちに全部頭に叩き込んだ。借りる時は、まず生徒一人一人に渡されている「ライブラリーカード」のバーコードを読み取って、それから借りる本のコードをかざしてパソコンをチェック。うまくできていたら、貸し出し中リストの中に追加されているはずだ。最後に返却期日を書いた紙を本に挟んで、完了。返す時は簡単。本のコードをかざして、パソコンに返却の手続きができたというメッセージが出てくるのを確認して、それで終わり。
 最初にやって来たお客さんは三年生で、センター試験の赤本を借りていった。メガネをかけていて、真面目そうな人だった。仕事はそれっきりで、もうそろそろ終わる。想像以上に人は少なかった。
 図書室は静かで、私にはとっても居心地がいい。カウンターで明日の英単語の小テストに向けて勉強しているだけで、結局やることはほとんどない。何でやりたくないんだろう、と思った。図書館の司書さんて、毎日こんな素敵な仕事をしているのかな。私、もしかしたらこの仕事、好きかもしれない。
「あのう、当番さん。私もうちょっとやることがあって、あと少しここにいてもらってもいい?」
 何も答えられず、何と言えばいいか分からなくて、黙ってしまった。身体だけ司書さんの方を向いたまま。
「用事があるならいいのよ。無理にとは言わないから。」
「あ、いえ、大丈夫です。」
「え?」
「だ、大丈夫です。」
「そう。助かるわ。ありがとうね。」
 私、もしかして司書さんの役に立ててるのかな。ここに座っているだけで、ありがとうだなんて。
 また奥の部屋に入っていった司書さんは、扉を閉めなかった。忘れたのかな、それともわざとそうした?私はそっと音を立てないように立ち上がり、部屋の中を覗いた。
 真ん中に大きな丸いローテーブルがあって、地べたに座って作業をしている。司書さんの頭と同じくらいの高さの本の山が五つある。どれもあまりキレイとは思えなかった。透明なテープを切っては張り、切っては張り、ずっと繰り返している。傷んだ表紙を修理しているんだ。あれ、きっととっても大変。毎日ここで、たった一人で、あんなにたくさんのお仕事を?
「何見てるの?」
 あっ、やばい。ばれちゃった。
「これ見て。多いでしょう?」
 私は首を縦に振った。
「図書館、みんなあんまり来てくれないのよね。それなのにたまに借りていく子の扱いが雑だから本は傷んでいくばっかりで、人が来ないからここで働く人も増やしてもらえなくて、ほんと重労働よ。単純作業ばっかり何時間も何時間も。日の当たらない仕事よね。」
 私は黙って話を聞いた。
「当番さん、本は好き?」
「はい。少しだけど、読みます、小説を。」
「あら、嬉しいわね。だから図書委員になったの?」
 えっと、それは違う。理由、言った方がいいのかな。でもあんまり正直に言うと、ああいう話をすると必ず心配される。迷惑をかけるわけにはいかない。
「誰もやろうとしなかったんじゃない?先生方が言ってるのよ。学級委員とかは目立ちたがりな子がやってくれるから決めるのに苦労しないけど、図書委員は大変だって。当番さん、もしかして進んでやってくれたのかな?そういう子が一人でもいると、私は嬉しいわ。ありがとうね。」
 また、嬉しいだなんて。この人は私に向かって何回お礼を言うんだろう。ただ委員になっただけなのに。こんなに感謝されて、かえって申し訳ないと思う。
 そうだ、いいこと思いついた。
 あれ、手伝おうかな。きっと大変だから、そうすれば二回のお礼に見合うはず。
「あの、それ、大変ですよね。」
「分かってくれる? そうなのよ、これめんどくさいのよ。」
 なんて言えばいい? 手伝います、だとはっきりしすぎかな。断られたら恥ずかしい。手伝っても大丈夫ですよ、だと上から目線だからだめだ。こういうとき一番いいのは、提案することなんだ、きっと。
 緊張する。司書さんだって、突然提案なんてされたらびっくりするに決まってる。なんて言われるかな、私のことどう思うかな。ちょっと怖いけど、一言言うだけなんだ。私にだって、そのくらいならできるはず。私は両手をぐっと握りしめた。
「えっと、私もそれ、少し手伝いましょうか。」
「いいの、手伝ってくれるの?」
「はい。」
 あっさり喜んでくれた。
 夏目漱石、森鴎外、いろんな文豪の本がある。「人間失格」とか「たけくらべ」とか、最近かわいいカバーが付けられたことが話題になった本、それに「羅生門」や「山月記」、夏目漱石の「こころ」のように、現代文の教科書に載っている本も少し読まれた形跡がある。それらはどれも少し汚れていた。でもこれじゃあ誰も読みたがらない。みんなが好きなのは漫画。学校の図書館にそれは置けないから、せめてライトノベルにしなくっちゃ。タイムスリップものとかバトル系は人気のはずだ。
 本の山の中には、確かにラノベもあった。数は最も限られていて、でもそれらが一番汚れてる。
 昔も一度図書室で仕事をした経験があるから、テープの留め方はなんとなく覚えている。あの時も他に成り手がいなくて、でも今と違うのは押し付けられたということだ。あの時は自分から手を挙げるということが分からなかった。これでも一応、少しずつ変わってきてるんだとは思っている。でも、まだまだ全然だめだ。私は何も言えないし何もできない。
 でも今なら、ちょっとだけ勇気が出せると思う。さっき「お手伝いしましょうか」って言えたから。私は作業する手は止めないまま、司書さんに話しかけた。
「あの、その、や、やっぱり図書室にいっぱい来てほしいですよね。」
「もちろん。」
「あの、私、この本の山見てて思ったんですけど」
「なに?」
「傷だらけになっている本は見た目も堅くて真面目です。でも多少は読まれているっぽいやつは、教科書に載っている本だったり、カバーの絵がかわいいです。」
「なるほどね。そういう違いか。」
「そうです。だから、学校には漫画が置けないんだったら、教科書に載ってる作家の本とか、絵がかわいいやつとか、そういう、手に取りやすいやつを増やすといいと思うんです。いや、わかんないですけど、なんとなく。本当になんとなくです。」
「委員の子が言うなら、きっとそうなんだよ。もっと取っつきやすい本を増やせばいいんだよね。」
 うーん、と司書さんは少し唸った。
「でもね、当番さん。最近はみんな古い文学を読まなくなっているでしょ。字が細かくて、これぞ本!みたいなやつには誰も興味ない。だからね、私はこの図書室で昔の良い文学に触れてほしいの。」
「えっと、でも。確かに、それはいいと思います。でも、私は確かに読書するけど、一番最初はここにあるみたいな薄い本だったし、かんたんなものからハマっていったから、だから」
 言いながら目の前にあった派手なカバーの本を司書さんに見せた。
「最初が大事だと、思います。」
「最初か。最初、最初ねえ。」
「一度ハマれば、だんだん難しいのも読むようになると思うから。」
「確かにね。当番さんの意見もとっても的確だわ。貴重な意見をありがとうね。」
まただ、司書さんが「ありがとう」って言うのは。私はもう何も話題が思い浮かばなくて、黙った。司書さんも同じだったみたいで、二人で粛々と作業を続けた。
 補修テープをだいたいの大きさにハサミで切って貼る。縁がぼろぼろになっていたり、酷いと破れているページがあったりする。どれもサイズに合わせて手作業で直していく。
 大きすぎて余ったテープはカッターで切る。うまくできると、さらに破れたりもっとボロくなることを防げる。テープは透明で、貼ってもほとんど気にならない。
 司書さんはさすがお手のものだ。私は何年も前の感覚を呼び覚ましながら丁寧に作業を進めていった。一冊一冊、ゆっくりと。ときどき面白そうな本を見つけると、手を動かしつつ読んでみた。せっかくだし、今日直した本の中で何冊か借りてみよう。自分がその本をよみがえらせたのだと思うと、学校のものとはいえ愛着が湧いてしまう。
 私は、もしかしたら司書さんも同じ気持ちなのかもしれないと思った。ここで毎日一人で本を管理する。そんな仕事は絶対寂しいに決まってる。でも辞めないのは、この仕事が楽しいからなんだ。みんなは気付かないけど、本に触れることは楽しい。小さな液晶ばかりじゃなくて、昔ながらの紙にも良さはある。紙は、夏は冷たく冬は暖かい。
 二人で一山ずつ片付けていった。十分、三十分、一時間。

 外はまだまだ明るい。窓から差す陽光は青いままで、オレンジになるにはあと何時間もかかる。冬の夕方五時はなんだか切なくて、でもそれこそが冬の良さで、だけど私は夏の方が好きだ。エアコンはなく、お尻が痛くならないために敷かれたカーペットがうっとうしく感じた。私は一旦立ち上がり、鞄から水筒を出して水分補給する。中身はお茶ではなく、ただの水だ。体育の授業の時に飲み干してしまったので、運動場の東側に設置されたウォータークーラーで汲んだ。学校の水は大しておいしくないけど、飲めば生き返る。砂漠のオアシスみたいだ。
「当番さん、立ってるついでにそこの窓開けてもらえる? ちょっと換気したらすぐ閉めて。」
 私は言われたとおりに窓を開けた。
 運動場に面しているそれは案外防音効果があるみたいで、開けたとたんに野球部のかけ声が聞こえてくる。バットで白球を打つ音もはっきり分かる。カーン、と気持ちいい音だ。
 運動場のすぐ右側にはテニスコートがあって、あの子の姿が見えた。何の練習なのかはわからないけど、友達が緩く投げたボールを相手のいない反対側のコートに向けて打っている。今年あの子と友達になった彼女は、五月にバド部からテニス部に転部した。たぶん、それは友達だから。友達ができたら、部活だって変えちゃうんだ。私は運動に自信がないってだけで、せっかくあの子と仲良くなれた去年の春、天文部に入った。あの時私もテニス部にしとけばよかったんだ。今はあのふたりはいつでも一緒にいて、私は彼女に取って代わられた。私は一人になった。
「何見てるの?」
 気が付いたら司書さんも立ち上がり、私のすぐ後ろに来ていた。
「あそこでずっとボール打ってる子」指をさしながら言った。「私の友達です。」
「ふうん。」
 司書さんは一拍あけてもうひとつ付け加えた。
「ボール出しの子と打ってる子、あのふたり仲良さげで、楽しそうね。」
 うん、そう。二人は仲が良くて、お似合い。私とあの子だと、あの子ばかりが明るくて私はいつもあの子のトークを聞いて相槌をうつだけ。私じゃなくて彼女なら、お互いたくさん喋っていつも笑ってて、あの子は彼女と一緒にいる方が心地いいんだ。
「私の友達だったんです。」
「そう。」
 私には二人が輝いて見えた。
 あの子はまっすぐ相手側のコートを見つめ、自分の位置の対角線上を狙っている。彼女がふわっと投げる黄色い球はあの子のラケットの真ん中に吸い込まれ、そして大きくバウンドする。良い球が打てたのか、ときどき二人は顔を見合わせて笑う。微笑む。でもすぐに表情は元に戻って、また同じことを始める。
 二人が立つポジションには二人だけしかいなくて、他のテニス部員でさえ無関係に見える。男子に負けない力強い球は、きっとボール出しが彼女だから打てるんだ。
「今日はありがとうね。もう図書室を閉める時間だから、荷物片付けてね。」
「あ、はい。」
 私はすっかり周りが見えなくなっていたことに気付いた。カッターで切ったテープの端切れは司書さんがまとめてゴミ箱に捨ててくれている。私は自分の荷物さえ片付ければ、もうする事はなさそうだ。私は一旦カウンターに出て、単語帳とペンポーチをしまった。一応スマホの通知を確認するが、メッセージは一件も来ていない。
「当番さん。」右から呼び掛けられた。
「はい」
「お疲れ様。」
 司書さんは私の右手を取り、何かを掌に載せた。
 それはチョコチップクッキーだった。みんなが知っているような有名なものではなく、初めて見るメーカーだ。包装は至って地味。全体は透明で何も書かれておらず、縁のギザギザのところだけ白になっている。お徳用のものだろうか。勝手な想像だけど、スーパーのお菓子コーナーにあるやつの中で一番目立つし、しかも一番安いやつだと思う。
 カカオパウダーが練り込まれていて生地自体が茶色だ。その中にひときわ色の濃いチョコが入っている。パッと見る感じ、チョコは五つ、六つくらいだ。サイズの割には多い。
「あ、ありがとう、ございます……」
「ありがとう」は聞こえたと思うけど「ございます」は聞こえなかったかもしれない。お礼のひと言くらい、大きな声で言えるようになりたい。
 そそくさと司書さんは出口に向かっていった。電気消すよ、と言われると自分も後に続く。図書室専用に用意されているスリッパからローファーに履き替えた。毎日一人使っているせいで、革はもうすっかり傷んでいる。司書さんは何も言わずに職員室の方へと歩いていった。
「あの! 明日からも、ここに、来ていいですか……?」
「いつでもおいで。」
 司書さんはにっこりと笑った。


 陸上部の一年生たちが腹筋をやっている横を通っていくと通用門がある。そこが地下鉄の駅を使う私にとって一番便利。
 学校は大通りから一本外れたところにあって、いつも閑散としている。反対に、大通りはいつも若者たちで賑わっていて騒がしい。私は朝も帰りもこの道を使う。駅まではこの道をただひたすらまっすぐ歩けばいい。
 暑さで溶けてしまいそうだ。私も、さっきもらったクッキーのチョコも。太陽はまだギラギラと光っている。露出した腕や脚が焼かれていく。
 街路樹の下に立つと、私はパッケージをあけてクッキーを取り出した。記念に写真を撮ることはなく、そのまま口に運ぶ。
 クッキー生地はサクッととろけた。ココアの苦味が口いっぱいに広がる前に、チョコレートの甘さが私を包む。どちらかが主張しすぎることはなく、互いが互いを引き立てる味わいだ。こんなクッキー初めて食べた。スーパーの安物だなんて思ってごめんなさい。
 作業で消費したカロリーを一気に補給する。普段はおやつなんて食べないけど、今日はいいんだ。なんとなく食べたい気分だから。アイスでもなくガッツリしたパンでもなく、一口のクッキーが食べたい。
 私は空き袋を胸ポケットにしまった。
「おいしい」
 自分だけに聞こえる声で呟いた、その時。

「友希ちゃんまた明日ね!」
 同じクラスの南ちゃんが、後ろから駆け抜けていった。

初めての世界で

 permanentは「永遠に」。これだけがわからなかった。
 昨日、英単語テストの追試があった。私だけ不合格だった。ほかのみんなはさも当然のように満点で合格して、私はこの学校で一番バカなんだな、と思った。たかが単語一つわからなくても人生で困ることなんてない。面倒くさいことこの上ないと思う。
 ゆるっとのんびり過ごそうよって、部活や塾で忙しそうにしている同級生を見ているといつも思う。だって、大学に行くことがすべてじゃないでしょ? 自分がいたい自分でいればいいじゃない。

 さて、今日は球技大会だ。生徒会が主催し、先生方は、いなくなったのではないかと錯覚するほど、校舎内から姿を消す。職員室に籠りきりになる。
 二年生は男女混合バレーボールと、女子バスケットボール、男子サッカー。これらの種目でクラスごとに順位を争う。優勝したから何かあるとか、最下位だったからどうとか、そういうことは全くない。だけど、燃える子は燃える。燃えない子は燃えない。それでも大多数は前者で、後者は私くらいしかいないと思う。
 私は昔から、球技大会のようなみんなが一丸となる行事が苦手だった。小学校の運動会、学芸会、中学校の体育祭や生徒会主催のクラス対抗企画。そして、高校の球技大会。どれも、私はみんなの輪の中に入っていけなくて、いつも独りぼっちで、だから嫌。いつもただそこにいるだけ。そのことは嫌いだし、それを打開するために何も行動できない自分はもっと嫌い。
 はーあ。早く帰りたいな……。


 体育館に続々と生徒が入ってくる。二年五組対二年三組のバスケットボール第一試合が、これから行われるからだ。
 南はバスケットボールに選手登録していた。彼女の親友の美緒(みお)はバレー部に所属しているため、問答無用でバレーボールに登録していた。
 バスケに出場する五組の生徒は全部で十人。背番号順に、紗良(さら)彩花(あやか)夏美(なつみ)京香(きょうか)優菜(ゆうな)瑞希(みずき)(ゆい)、そして南、愛理(あいり)友希(ゆき)。ちなみに、バレーに出場するのは、美緒、沙絵(さえ)奈菜(なな)(あかね)香鈴(かりん)七海(ななみ)。スポーツ万能の彩花や京香、愛理は仲が良く、朝からずっとワイワイ騒いでいる。反対に、おとなしい系の結、優菜、夏美は隅の方で小さくなっておしゃべりしている。南は美緒と二人でいるが、会話はない。
 美緒は最近、南と過ごす時間より部活の友達や茜、七海と過ごす時間のほうが多くなっている。友達なんてそんなものだ、と南は思う。どうせ友達関係なんて長くは続かない。
 クラス内では、沙絵と香鈴はいつも一緒に過ごしているけど、来年はきっとバラバラのクラスになって疎遠になる。南はいつも、冷淡というべきか、悟っているというか……。あっさりした考えをもっていた。
 美緒が一緒にいてくれなくなると、南はぼっちになる。しかたない、美緒しか友達がいないんだから。しかも、その美緒だって、強い友情で結ばれているわけではないのだから。

 第一クオーターに出場する紗良、彩花、夏美、京香、優菜はコートに入って練習している。紗良は右からのレイアップシュートを決めた。夏美はフリースローの練習をしているが、今のところ一本も決まっていない。
 この五人のメンバーの中で期待されているのは紗良と京香だ。二人は仲がよく、同じバスケ部で活動している。また、彩花は小学校時代バスケ部だったため、期待されるメンバーのうちの一人だ。
 五組女子の作戦はこうだ。
 まず第一クオーターで紗良と京香、彩花が出場し、一気にポイントを重ねる。第二、第三クオーターは文化部勢の南、瑞希、結、愛理、友希が、点数を取れないことは覚悟の上で鉄壁のディフェンスを行う。体育の授業内で練習の時間が設けられたため、この五人はバスケ部経験者の三人からレッスンを受けた。そして第四クオーターでまた紗良、京香たちがポイントを稼ぎ、そして圧勝する。

 審判を務める三年の男子生徒が体育館に姿を現した。いよいよ試合が始まる。審判は体育倉庫に入り、使用するボールを選定している。その間に第一クオーターに出場する合計十人はコートの真ん中で列を作った。あとは試合開始のブザーが鳴るのを待つだけである。ブザーは審判のタイミングで鳴らされる。
 さあ、これから始まるぞ、楽しい楽しい球技大会が。
 でも、南の表情はさえなかった。

 ジャンプボールをする選手がセンターサークルに入った。応援に来た生徒たちはコート外から二人の選手の手先を見つめる。五組で一番背の高い彩花がその役目を買って出た。緊張の一瞬。そしてブザーが鳴らされた。

ブーーー。

 審判がボールを高く投げ上げる。最高点に達し、そして落下してくる。ボールは彩花の手にあたり、そして突き飛ばされた。優菜がそれをキャッチし、すぐに紗良に回す。紗良は素早くドリブルを始め、目の前に立ちはだかる三組の生徒二人をまとめて抜き去り、右からのレイアップを決めた。先制点は五組だ。最初の一点は五組に入る。
 歓声が巻き起こった。
「紗良ちゃんすごい!」
「いいぞ紗良!!そのままがんばれ!!」
 そんな生徒たちを、南はスマートフォンの画面越しに見つめていた――


 やった! 紗良ちゃんが決めた!
 この試合は簡単に勝てるかも。五組、案外いいじゃない。体育大会の時は一組にぼろ負けしたのに、今回は良い調子。
 緊張が高まってくる。一クオーターあたり五分、それが終わったら次はいよいよ自分の出番だ。大した活躍ができるとは思えないけど、何気に緊張してしまう。
 心臓の音が高鳴るのが、自分でもわかった。
 そして、カメラでドリブルする彩花ちゃんをおさめる。私は友達がいないけど、それでもこのクラスの一員になりたいんだ。ただそこにいるだけの存在でいるのは、もう嫌なんだ。
 私はひたすらシャッターを切り続ける。五組の思い出を私が記録に残す。話す相手は誰もいないのに、一人で大声を張り上げて応援するのは、むなしい以外の何物でもない。仕方ないから、こうするしかない。
 ドリブルしている紗良ちゃんにズーム、パスを出そうとしている夏美ちゃんにズーム、そして私が座っている位置から遠くでボールを取り合っているときは引き画で。私が持ちうるすべての技術を総動員して撮る。とにかく撮る。
 夢中になっていると、五分間はあっという間に過ぎ去り、いよいよ私の出番だ。
 第二クオーターと第三クオーター。合計十分間を任されている私たち五人はみな文化部で、体力がない。自分たちが点を入れられなくても、相手の攻撃を防げば勝てる。そうやって、試合が始まる前、私たちに向かって京香ちゃんは言った。その言葉を信じ、私たちはディフェンスに専念する。
 蟹股で立ち、いつでもどこへでも動ける姿勢をとったうえでコート内に五角形を作るようにメンバーを配置する。私は一番ゴールに近いところの位置を任せられた。理由は背が高いからだそうだ。私はクラスで彩花ちゃんの次に背が高い。一六五センチ近くある。
 走る、とにかく走る。
 撮る、とにかく撮る。
 五分かける四で二十分。風のように一瞬で過ぎ去っていった。
 作戦は大成功。三組相手に、圧勝だった。
「いやー、よかった」
 応援に来ていた男子たちの歓声が場内に響く。
「私のおかげやな」
 彩花ちゃんが言った。ジョークのつもりだろうけど、何せ本当のことだから、誰も笑わなかった。


「いやー、よかったね」
「女子強ええ」
「やっぱりバスケ部の紗良ちゃんとか京香ちゃんがすごいね。女の子だけど好きになちゃいそう!」
 口々に感想を言い合いながらクラスメイト達は教室に戻ってきた。友達同士でしゃべりながら歩いてくるから、一人でさっさと行動する私より断然遅い。
 私はスマホの画面を確認していた。
 さっき撮った写真。みんなの真剣な表情が液晶画面に映し出される。アップにして見てみても、それは変わるはずはないのに、なぜか私はズームして見ていた。
 みんな、素敵。もちろんかわいいし、それに、なんか、かっこいいな。
「バレーの時間すぐだからもう行かなきゃ」
 友希ちゃんが小さな声で言った。それを聞き漏らさなかった夏美ちゃんが声を張り上げる。
「五分後にバレー始まるので移動してください。」
 夏美ちゃんは学級委員を務めている。いっぱい仕事もあるのに頭もよい。何でもできる人っているんだな、と私はいつも感心する。かっこいいな、と思う。
 バスケで体が熱くなった女の子たちはタオルを首にかけたり水筒の茶を飲んだりしてリラックスしながら、私たちは屋外にあるバレーコートに移動した。
 よし、次もいっぱい写真撮ろう。頑張って、みんなの雄姿を記録しよう。そして、この目に焼き付けるんだ。

 一同がバレーコートに集結した。私はみんながコートのラインに沿って並んで観戦している後ろに位置取りする。この場所からなら、みんなを一枚の写真に収めることが出来る。相手は二年七組。うちのクラスにはバレー部エースの白石くんがいるから、男子の第一セットは間違いなく勝てる。それに、運動神経のいい子は他にもいるし。
 私はみんなより五メートルほど後ろでかがんだ。
 さっきの試合で活躍し、汗を流している紗良ちゃん。
 紗良ちゃんの相方を務めるためにコート内を走り回った京香ちゃん。
 ほかにも、図書委員でしっかり者の友希ちゃんに、同じくしっかり者で学級委員の夏美ちゃん。みんな最初の試合を終えて緊張が取れたのか、かなりリラックスした調子で声を出していた。女の子たちは、推しの男の子の姿を目で追っている。推しがいない子はみんな白石くんを応援していた。白石くん、モテるなあ。
「白石くんがんばれ!」
「村田く~ん!」
「七瀬くんファイト!」
 予想通り、白石くんと運動が得意な七瀬くんのコンビがゲームを引っ張っていた。
 私はそれを見るのではなく聞きながらシャッターを切る。カシャ、カシャ。お揃いで作ったクラスTシャツを身にまとい、三十三人が一丸となった姿は美しい。私は思わず見とれてしまった。

 七組側のコートから飛んできたボールを七瀬くんが受け止める。そのボールをセッターのポジションについた村田くんがトンっと空中にやわらかく押し上げ、そして白石くんが地面にたたき落とす。その構図は五組のリードを保ったまま第二セットの女子への引継ぎを迎えた。
 全八クラスでトーナメント戦をするので、一種目あたり、三学年すべて合わせて二十一試合行うことになる。よってどうしても時間を節約しながら進行しなければならず、バレーボールは第二セットまでしかない。女子がこのままリードを守れるかが勝負の決め手だ。男子は無敵だとクラスの誰もが信じていた。
 女子にもバレー部のエースがいる。茜ちゃん、七海ちゃんと同じグループを形成している美緒ちゃんだ。茜ちゃんは両親が外国の出身で、少し変な日本語を話す。そんな茜ちゃんの親友が七海ちゃんで、その二人のグループに今年から美緒ちゃんが加わった。
 私は知っている。去年までは友希ちゃんと美緒ちゃんがいつも一緒にいたことを。友希ちゃんは最近いつも一人でいる。ケンカしたという話も聞いたことがないし、なぜ二人は分かれてしまったのだろう。女子の難しさを、私はそこで感じた。
 友希ちゃんは無口な子で、美緒ちゃんもそれは同様。私は、その二人では話題が持たず、美緒ちゃんが茜ちゃんに引き抜かれたのだという風に見ていた。なんとか友希ちゃんがこれから一人にならずにいられればいいな、と私は願う。
 一学期も終わりに近づいた夏の日、私は一人で帰っていく友希ちゃんを見た。慌てて追いかけて、走って抜き去るギリギリのとき、私は「友希ちゃんまた明日ね!」と声をかけた。果たしてそれが正解だったのかはわからないけど、あの子がそれをうれしいと思ってくれていたらそれでいい。

 五組のコートに飛んできたボールは奈菜ちゃんの腕でバウンドして、そして沙絵ちゃんに渡される。沙絵ちゃんはそのボールを美緒ちゃんにパスして、美緒ちゃんがアタックする。これで女子もゲームを進めていた。
 私は一人ひとりのサーブする瞬間をスマートフォンに収めていった。
 美緒ちゃんの姿勢はかっこいい。いかにも経験者という感じがする。
 沙絵ちゃんはちょっとぎこちない。小柄だから力が弱いのだろう。
 奈菜ちゃんは反対になれた手つきでボールを飛ばす。大柄でしかもテニス部だから、腕は鍛えられている。
 そして茜ちゃん、香鈴ちゃん、七海ちゃん。みんな緊張した様子だ。特に香鈴ちゃんは、この六人の中では一番下手だろう。私がそんなことを言える立場じゃないけど、なんとなく見ててそう思う。

 私は友達がいない。このクラスのなかで一人浮いてしまっていると思う。学年が上がり、新クラスが発表される日、友達を作るために一番大切な日、私は風邪をひいて学校を休んでしまった。そのせいでこの二年五組の中で親しい友達を作ることが出来なかった。広瀬南。みんな私を広瀬さんと呼ぶ。
 美緒ちゃんが私をチラッと見たのが分かった。画面の中の美緒ちゃんがこっちを見た。私は目が合った気がした。
 友達がいればな。ふとそう思った。美緒ちゃんなら仲良くしてくれるかな。
 でも、難しいよな。美緒ちゃんは茜ちゃんたちのグループだから。茜ちゃん、七海ちゃんとも親しくならない限り、あの三人のグループに入れてもらうことは難しいだろう。私もクラスの一員になりたい。こんなところで一人スマホをいじるのではなく、あの列の中に入って、バレーに出場している子たちを応援したい。
 ひそかな思いを抱えたまま、わたしはそっと、バレーコートを後にした。次は男子のサッカー。広いコートを駆け回るクラスメイト達をカメラに収めることは、私には難しすぎる。肝心のカメラだって、スマホだし。まあ、いいや。写真撮影はあきらめよう。
 私は元来、人の多い場所が苦手。友達がいれば気も紛れて平気なんだけど、なにせいっしょに観戦してくれる子はいない。私は生まれて初めて、学校を抜け出すことにした。格技場と本校舎をつなぐ渡り廊下の下を通ると正門がある。その門をくぐった先は、学校の外。塀の外。私たちの未知の世界。
 私は歩きながら思考する。
 私たちは普段、朝から夕方まで、学校にいる。つまり、その時間帯の外の世界を知らない。どんな人が歩いているかとか、空気はどんな味なのかとか、私たちは何も知らない。それって、おかしくない?学校に居たくても居たくなくても関係なく、強制力が働いているせいで、私たちは門の外にでられない。
 今日くらいはいいじゃない。いなくなっても、きっと誰にも気づかれない。
 正門の前にやってきた。真ん中に立ち、右足を一歩、外に出す。続いて左足も同様に。これで、私は学校から抜け出した。
 ほんの一歩出るだけで、世界が変わったような気がした。自分でほんの少しの努力をしよう。そうすれば世界は変わる。
 私は駆けだした。
 走る。走る。すがすがしい午前の空気で満たされたこの世界を、私は駆け抜ける。この場所では、クラス全員お揃いで作ったクラスTシャツも。ただのシャツになる。学校内では意味を成すものも、ここならなんでもなくなる。
 なんて気持ちいいんだろう。


 南の脳内で、パッヘルベルのカノンが流れていた。管弦楽部でストリングスの子たちがいつも練習している曲。南はカノンという言葉を知らず、何かのトレーニングかと思っている。
 ニ長調の滑らかな美しいメロディーが、南の気分に一致する。新入生歓迎会での演奏が脳内再生されて、ただのトレーニングでも上手に弾けると綺麗なんだな、と。カノンはいま、南の心の中に響いている。
 南はJRの線路沿いにある小路(こみち)にやってきた。


 なにこれ、こんなところ初めて見つけた。学校からたいして離れていないのに知らない場所があったなんて。小さな白い花から、甘い香りが漂ってくる。甘くてしかもすがすがしい。最高。
 中津川行きの列車が走り去っていった。あの電車に乗れば、中津川へ行ける。乗り換えれば、そのもっと先へも。なんてすばらしいんだ。電車に乗ればどこへだっていける。どこまでででも飛んで行ける。
 突如、スマホが耳慣れた音楽を奏で始めた。それはLINEの通知だった。スマホのロックを解除し、メッセージを確認する。
「あっやばい。もう行かなきゃ。」
 それは夏美ちゃんがクラスLINEで発言したものだった。
「女子バスケ五分後開始です。まだ来てない人、急いで体育館に来てください。」


 次は五組対六組。今度のクラスは強豪だ。バスケ部の子が二人もいる。うちのクラスの紗良ちゃんや京香ちゃん、彩花ちゃんだけでリードを取り、そしてそれを守り続けられるかは未知数だけど、ベストを尽くすしかない。
 審判は一年の男の子だった。かわいらしさが抜けきらない審判がブザーを鳴らして、試合開始。この試合に勝ったら、決勝進出だ。優勝するために、ここは何としても勝たなくては。負けたら三位になってしまう。それは嫌だ。五組は優勝したいんだから。昨日の昼休み、みんなで決めたんだから。
 彩花ちゃんがセンターサークルに立つと、審判はボールを高くつき上げた。
 六組の子のほうが若干早かった。彩花ちゃんはボールに触り損なり、風を切った。すると、ものすごい勢いで速攻を成功させられ、先制点を与えてしまった。最初の一点は六組に入る。その瞬間、五組の生徒が盛り下がるのが手に取るように分かった。それでも私は写真を撮り続ける。六組に負けようが、晴れて勝利を手に入れようが、そんなことは関係ない。私には私の役割があると信じる。試合で活躍はできないかもしれない。でも、そうじゃない、それだけじゃない。別の形で、みんなの心に残ることができる。それが写真だと思う。私は写真を撮る。誰に頼まれたわけでもないけど、これは私がやると決めたことなんだ。

 六組は順調に点数を稼いでいった。私の出番になったころには点数は十点ほど離れていて、文化部勢の私たちには到底埋められそうもない差だった。
 私は走った。何もかも忘れてボールを追いかけた。それは他のメンバーも同じだったと思う。しかし相手が操るボールをカットすることが出来ない。カットしようとしても逃げられてしまう。なんとかマイボールになったとしても、相手にすぐ取られてしまう。バスケットカウントを待つことなく、あえなく相手にポイントを入れられてしまった。
「ナイスファイト!」
「広瀬さん走って~!」
 応援の声が体育館に響き渡る。
 その声に掻き消されそうな小さな音が鳴った。ブザーだ。出番が終了した。
 私は何もできなかった。私がコートの中でプレーしても、全然意味なかった。私は、このメンバーで、もう少しできると思った。活躍したかった。
 私はスマホを手に取った。何かしようと思ったのではなく、自然に。もちろんスマホ依存というわけではなく、写真を撮るためだ。第二クオーターと第三クオーターの間の時間、汗だくで休憩をとるメンバーをスマホカメラに納めようとした。
 運動が出来なくても、私だからできるということはきっとある。私だから役に立てることがきっとある。そう信じるんだ。信じていれば、私はみんなのためになれる、きっとそうだ――

 試合は第四クオーターの終盤に差し掛かった。依然として両組の点数は拮抗しており、どちらが優勝者となるのかはまだまだわからない。私はスマホカメラをビデオに切り替えた。走るメンバーを追いかけつつ、写真も撮った。スマホの性能の良さに、私は感謝した。ビデオを撮りながら写真も撮るなんて、私がこのスマホを使い始めてからは初めてだ。だって、わざわざ撮るようなことがなかったから。普段の私の生活では写真なんて撮らない。必要がない、そんな生活だから。それはまあ、寂しいけど。
 紗良ちゃんが走る。走ってもボールに追い付くことはできず、相手チームがポイントを入れてしまった。これで五組は劣勢になる。総合点数は現段階で六組が上回っている。それに、今ボールを保持しているのは相手チーム。
 もう駄目か……。
 そう一同が思った時、夏美ちゃんが動いた。

 夏美ちゃんがボールをカットした。そのままの姿勢でパスを出す。その相手は紗良ちゃん。紗良ちゃんは待ってましたとばかりにドリブルを一回つくと、ポンっと手からそれを空中に向かって押し出す。試合時間、残り一秒。
ボールはネットの中を通過した。点数が入った。スリーポイントだった。
五組の決勝進出が決定した。

 キャーー!!

 女子の声だ。全部、全部、私のカメラで、記録されている。

 うぉーー!!

 男子の声。こっちも全部、記録できている。

 さっきの紗良ちゃん。あれは最高だった。その前の夏美ちゃんも。夏美ちゃんと紗良ちゃんのチームプレーがなければ、私たち五組は負けていた。
 私は撮った動画をクラスLINEに送信した。ちょっと勇気がいることだけど、今だからできた。
「あ、広瀬さん!」
「え、何?」
「広瀬さんが、さっきの紗良のスリー、動画撮って送ってくれてる!」
「ええ‼」
 早速彩花ちゃんが話題にすると、一斉に既読が付いた。みんながこれを見てるんだ。
「広瀬さんありがとう!」と口々に言われる。
「ありがとう、南ちゃん。」あの友希ちゃんも。
 こんなの、私にとっては初めてだ。いつも目立たない、ただそれだけで、ただそこに存在している、それが私。今までの私。でも、今日初めて、ここにいる意味を見つけた気がする。二年五組にいる意味。それは、私の手で。大きな意味があった。大きな意味をつくった。
 私は「ありがとう」と呟いた。

群青-前編-

後編 → https://slib.net/122719

群青-前編-

過去作を大集合させた連作短編集っぽいもの (第3回恋愛創作コンテスト応募作)

  • 小説
  • 中編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-03-14

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  1. プロローグ
  2. 太陽に照らされて
  3. 星々に照らされて
  4. ひとつ屋根の下の
  5. 何気ない道端で
  6. 初めての世界で