雨が降れば街は輝く④

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第5章 無二

「お前、どうしてここに……!」
「開けてください。」
「お、おう。」
 カチャっと音がして、次にすうっとガラス窓は横にスライドされた。僕はそこから入る。後ろから彼女も続いた。
「新たな来客か。」
 探偵たちと向き合っていた男が言った。
「自己紹介だ。私は前原孝二という。この場所で人間の脳について研究している。知能についてが、専門分野だ。」
「君たちは、どなたかな。」
 前原孝二に尋ねられた。
「三好晶といいます。二〇〇一年生まれの、現在十六歳。名古屋市立朝丘高校一年五組。部活は、パソコン部です。」
「そちらの女の子は?」
「彼女は、磯村……」
「峯岸です。」
 君は僕を遮って名乗った。
「何をしに来たのかな?」
「全て終わらせるために来ました。」
 今度の質問にも、彼女が回答した。
「分かった。初めに言っておくが、君の目的は絶対に達成されない。理由は、聞けばわかる。私は、ここにいる五名の客人に求められて、お話をしようとしているところだ。そこに、君たちが現れた。
 私に質問したい者は、七名で全部かな。」
 顔を見合わせて、確認した。どうやら異論はないようだ。
「二人、遅刻には気を付けろよ。
 それにしても、三連休の中日に、早朝からこんなところに来るなんて、ずいぶん熱心なんだな。」
 男は一人掛けのソファにどっかりと座っていた。足を組んで、背もたれを存分に利用している。
 椅子は七人分に不足しており、僕と彼女は立ったままだった。前原のそばにいた少女が何も言わずに立ち上がると、両脇にパイプ椅子を持って戻って来た。少女はそれを広げ、「どうぞ」と言った。あまりに小さい声で、僕には聞き取れたが、彼女は困ったような顔をしていた。それを見て、前原は前に乗り出した。
「では、始めましょう。まずは何からお話しましょうか。」
 探偵は他の六人を見回し、確認をした。彼が一番に口を開いた。
「俺が知りたいのは、笹木由香という人のことです。この女性の弟は重度の知的障がいをもっていた。彼は、無断で頭に施術されてしまった。笹木さんは、弟の異変に気付き、彼を転院させた。その直後、行方不明になった。その弟がもともと入院していた病院は、あなたがかつて所属していた、中部学園大学の系列だ。」
「つまり、あなたは、私が笹木さんという女性の弟に危害を加えたのではないか、と言っているのですね。」
「ええ、前原さんを疑っています。」
「答えは、ノーだ。私ではない。」
「では、誰ですか。」
「西浦という科学者だ。」
「それは誰ですか? 前原さんとはどのような関係ですか?」
「彼は偉大な脳科学者だった。私の元上司だ。西浦先生がいたころは、私はまだ彼の助手に過ぎなかった。」
 僕は会話を聞きながら、途中でわかった。これは間違いなく、過去の殺人事件の話をしている。警察でもないただの探偵が、容疑者から自白を取ろうとしているんだ。つまり、目の前に座る男は、殺人者なのか。
 瑞浪市重度知的障がい者連続殺人事件。
 一番初めに、眼鏡女子から聞いた、探偵が長年関わり続けている案件。
「美和ちゃんの状態はいかがでしょうか?」
「知能の向上という意味では、至って順調だ。ノートパソコンを一台与えれば、アプリケーションの一つや二つ、あっという間に作り上げる。彼女は今、ラプラスの悪魔について学習しているんだ。」
 ある瞬間の全ての物質の位置と運動量を知ることができて、かつ、そのデータを解析できる能力を持った悪魔が存在すれば、過去も未来も全てわかる。つまり、未来は完全に決定している。それがラプラスの悪魔。十八世紀のフランスの数学者であるピエール=シモン・ラプラスによって提唱され、長年研究されていた。無論、中学生の年齢の少女が一人で挑むような問題ではない。
「進捗状況は逐一報告しているので、先生はスムーズに進んでいることをご存知のはずです。
 量子力学の発展に伴って不確定性原理が明らかになり、この概念自体が古いとされるようになりました。」
「そうだな。」
 少女の発言に、前原は相槌を打った。この少女が、本物の磯村美和さん?
 驚いた。
 ああ、これこそが根拠か。この子が元いた場所に戻るとき、それはすなわち、峯岸和凛が発見されるとき。失踪したわけではなかった。
 僕は私語を慎まなかった。
「君はさ、そこにいる女の子が帰ってくるのを、待っていたんだな?」
「うん、そうよ。
 もう何もかも聞いて。私はもう、隠すことはないから。今、私は君に全部知ってほしいと思ってる。
 知られたくなかったのよ。私は磯村美和ではなくて、峯岸和凛っていう別人なんだって。それを知られたら、いくら相手は君だとしても、秘密が秘密ではなくなってしまう。それだけは絶対に避けたかったの。あの子のためだから。」
「一度首を突っ込んだからには、絶対に逃げない。僕は宣言するよ。」
「私は何もかも知ってた。あの子が入ってた精神病院の防犯カメラにね、映ってたの。あの子が出ていく姿が。それを私たち一族は独自に調べ上げてた。だから帰ってくるって信じてたし、美和ちゃんの場所を守るために私が一時的に死ぬことだって受け入れられた。
 でも、もう終わりなのよね。もう私たちは変わらなきゃいけないのよね。
 今までのわがまま、全部まとめて謝るわ。ごめんなさい。」
 僕は何と返事していいかわからなかった。前原たちの方に顔を向けたままで、まるで彼女を無視したかのようになってしまう。
 そうしている間にも聞き取りは進められていく。ただ、僕は、この質疑応答に違和感があるように思った。
「では、西浦という人が、笹木さんの弟に無断で手術したんですね。」
「そうだ。」
「ではなぜ、笹木(ささき)真人(まさと)さんの姉は失踪したのですか。」
「失踪? まさか、十何年も前にいなくなった女が、まだ生きているとでも?
 そんなこと、あるわけないでしょう。」
「彼女は俺の高校の先輩なんです! ずっと探し続けているんです!」
「あの女をずっと追っている? あなた、正気ですか?」
「大真面目です。」
「ではこちらからも質問します。西浦先生は、誰だと思いますか。」
「さあ、知りませんけど。」
 探偵は気付いていないようだ。
「磯村加奈子さんの、元夫。奥田さん、昨日加奈子さんに会ったときに、前の名字は西浦だったって、あの人言ってましたよ。」
「坊ちゃん、正解だ。
 こいつの方が物分かりがよさそうだな。お前、なぜ二人は別れたと思う?」
「ありきたりですが、生活のすれ違いとかですかね。」
「二問連続正解だ。至って単純だろう。研究所に籠り人類の進歩のために知能の研究をしていたんだからな。知能が向上するために、脳のどこにどのような刺激をすればよいか、動物実験で分かりつつあった。検証のため、人間でも同様の実験をしたんだ、先生は。」
「人体実験じゃないですか!」
「そうだ。私たちは長年、人体実験をしていた。その女性の弟も、知的障がいがあっただろ。それなら被験者として適合していた可能性は高い。記録を調べれば、その子の名前も出てくると思うぞ。」
「何人の人間を、彼女の弟のように、死なせたんですか。」
「記録をたどればわかる。」
「そうして死んだ人を遺棄して、それが瑞浪市重度知的障がい者連続殺人事件だ。そうですよね?」
「ええ、そうです。」
「百歩譲って、弟が死んだというところまでは納得いたしました。では、なぜあんなに素晴らしい人だった由香先輩まで消えなきゃならなかったんですか?」
「あなたは、私や西浦先生のことを、殺人者だとして差別するだろう。それはこちらも一緒だ。」
「どういうことですか!」
 探偵は立ち上がり、叫んだ。
「西浦先生は、笹木由香に殺された。」
 前原氏以外の全員、周囲の時が止まっていた。
「笹木は、お前が俺を訪ねてきたのと同じように、西浦先生を訪ねた。経緯は知らないが、笹木は人体実験の被験者に、自分の弟がされていたと突き止めたんだ。奴は西浦先生を詰問したが、納得できる答えは得られなかったんだろうな。先生は口の堅い男だった。奴は先生が席を立った隙に、先生が飲んでいた水に毒物を混入した。
 お前は、殺人者を軽蔑している? それとも私や先生を軽蔑している?
 もし前者なら、お前は、長年探し続けてきた笹木先輩のことも、軽蔑していなければならないぞ。」
「そんな……。先輩は、絶対に、そんなことはしない。」
「どんな事件でもそうだ。たとえば子供が親を殺した事件が起こったとするだろ。テレビに映る近隣の住民は、みな言うじゃないか。そんな家族には見えなかったと。お前は、その近隣住民と全く変わらない。
 お前にとっての笹木由香は、どんな人なんだ?」
「いつもよく笑って、後輩の面倒見が良くて、集会の時の彼女はいつも凛としていて、でも、ちょっと天然で、」
「ほら見ろ。美化しすぎだよ。人殺しをするような女の精神が、そんなに美しいはずがない。お前が追いかけ続けた女は、所詮その程度なんだ。」
 笹木由香、その女性のことを、僕は、直接は知らない。でも。
 いつもよく笑って、面倒見が良くて、凛としていて、でもちょっと天然で、そんな人を探偵はずっと追いかけ続けてきた。事件からは、もう十六年経っている。それだけの歳月を費やせるような女性は、きっと、前原が言うような人殺しではない。
「じゃ、じゃあ、今、先輩は……?」
「とっくに死んだ。全てを知って、西浦先生を殺した女だ。研究所の手で抹殺した。」
 探偵は、言葉を失った。眉は下がり、唇をきゅっと結んでいる。
 あの時見た表情と同じだ。
 前原司について訊かれたとき、僕は素直に答えた。それを聞いた彼の表情は、悲しみに満ちて、いつもの傲慢さの影もなかった。僕の直感は正しかったらしい。気張っているのにどこか危うくて、それは君と同様で、今にも転びそう。君がいつも笑っていたように、彼はいつも自分を大きく見せようとした。それは儚いような切ないような。君も彼も、過去に縛り付けられている。
 それを取り除くために、二人は前に進んでいる。明日が晴れることを願っている。
 何もかもはっきりさせて、疑問をなくして、理解するのに時間はかかっても、止まった時間はいつか必ず動き出す。
 今しかないんだ。
「質問者を、彼から私に交代します。」
 君が話の流れを作った。探偵は一旦、戦線離脱だ。
「ずっと人間の知能の研究をされていたんですよね。その成果は出たんですか?」
「もちろん。その成果のおかげで、知能を向上させる方法を見つけることができた。」
「何人の人が、人体実験の犠牲になったんですか?」
「きちんと数えたことはないよ。」
「二〇〇一年。頭に傷のある死体が何体も発見されて、それからしばらくは雲隠れしていた。遺棄した場所に近いここに研究所を建て、また研究を再開した。ここの順序は、私は知らないのですが、知能を向上させる方法を発見した。そしてその方法を用いて、美和ちゃんと前原司くんは賢くなった。」
「何が聞きたい?」
「この二人は、あなた方がそれ以前に被験者に仕立て上げた人たちと違って、知的障がいを持ってはいない。なぜこの二人が選ばれたんですか?」
「まず磯村美和の方から説明しよう。彼女は、かつて私が所属していた中部学園大学の系列の精神病院に入った。学内の確かなルートから、私は西浦先生の姪が入院したという情報を手に入れた。しかも彼女は、しきりに、頭が良くなりたいと言っていたそうではないか。この子に話を持ち掛け、そして許可してくれたら、私たちの研究はまた一歩前進する。それに、西浦先生の姪っ子を助けることもできる。一石二鳥だ。
 次に、息子だ。」
 息子? ああ、まさか。昨日瑞浪駅で前原司に会った。あれはたまたまではなかったのか。今みんなが話しているのは、知能を向上させる研究についてで、被験者は皆、頭に傷がある。その特徴は、前原司と同じだ。
「私は息子に、自分がどんな研究をして、どんな成果が出ているか包み隠さず教えていた。美和さんのことももちろん伝えた。すると、司は自らも手術を受けたいと言った。自分は勉強が苦手だから、手術を受けて賢くなって、父と同じように人のために働きたいと言ったんだ。何度も念を押して確認したが、彼の意志は固かったので、手術を受けさせた。」
「なるほど。では、なぜ司さんは普通の高校生活をしているのにも関わらず美和ちゃんはずっとここにいるんですか?」
「賢くなる、という意味では、美和さんはこちらも驚くほどの結果が出た。年齢だと中学三年生だが、この子はすでにラプラスの悪魔について研究しているんだぞ。これは、いい意味で、予想外の事態だった。
 しかし、きっと施術の影響であろうが、この子は次第に感情を失くしていった。
 知能の分野に作用するだけのはずが、なぜか感情をつかさどる分野にも干渉してしまったんだ。理由は分からないが、だからこそ研究しなければならない。それが研究者の仕事だ。
 例を挙げるなら、食べ物を口に入れて、美味しいと言うことがなくなったんだ。この料理は旨味がいくら、酸味、甘味、苦味、塩味がどのくらいあるから、こういう味だ、という風に感想を言うようになった。音楽を聴いたときもそうだ。この子は決して、素敵な曲ね、とは言わない。ヘルツをもとに、美しい和音を見極める。
 天才になる代わりに感情を失うか、天才になることをあきらめる代わりに感情をもって生きるか、もしこの研究の現在までの成果によって装置が実用化されたら、人々はその選択を迫られることになる。誰だってそんなものには批判する。そうすれば、この社会では、我々の今までの努力はすべて、水の泡になってしまう。
 人間は感情の生き物だから、そんな装置を発明したことは許されることではないと、どこかの哲学者が言い出しそうだろう。私に言わせれば、そんなものはくだらない。人間は知能が高いことが特徴で、そのおかげで発展してきたんだ。」
「あなた方のせいで感情を奪われて、美和さんは、」
「確かにそうとも言えるかもしれない。私たちのせいで磯村美和は感情を失った。しかし、美和は自ら被験者になることを望んだんだ。それでも、同じことが言えるのか?」
 君は何も答えなかった。
「手術が成功した上に、別の影響について確認されたのなら、これは研究に値する。私は彼女の身に何が起こっているのか、そしてそのメカニズムを検証しなければならない。感情はどのようにして生まれるのか、感情が起こるメカニズム、とか将来性のある研究じゃないか。だから、当面はここにいてもらわなければならない。」
「そうですか。」
「他の皆さんは、聞きたいことはないのですか? あるなら、どうぞ。」
「被験者の記録は、全て残っているんですよね?」
 探偵の仲間たちの中で、最も年配の人が声を上げた。
「ええ。」
「私どもも、大切な人が、犠牲になった可能性が高い。被験者リストの中に、その者の名前がないか確認させて頂きたい。」
「大丈夫だ。
 美和さん。書庫からカルテを全て持ってきなさい。」
 美和さんは奥に入っていった。同時に、探偵はガックリと膝を折り、また着席した。
 横に座っている君を見ながら、僕は思った。君は、強い。
 君は何もかも知っていた。人体実験のこと、殺人事件の真相。今日ここで、君の知っていることも含めて全てを明らかにして、そして、全てを終わらせようとしている。
 僕は、探偵に君を探すことを依頼しただけ。君を見つけたのは探偵がいたからだ。今ここにいるのは、探偵も過去に苦しめられていることをなんとなく感づいたからであり、過去に事件が起こった山に行ったと聞いて心配したから、それだけに過ぎない。十六年にわたって大切な女性を探し続けた探偵と、被験者になった従姉妹のために自らを犠牲にする君、その二人には、何があろうと、僕は及ばない。
「持ってきました。」
 美和さんが両手いっぱいに書類を抱えて戻って来た。
榎本(えのもと)沙穂(さほ)。私の娘だ。」
「榎本……。ああ、あります。手術は無事に成功。翌日急変し、そのまま死亡。ざっくり言って、そんな感じです。」
 探偵は言った。
「所長、娘さんは亡くなって……。」
「沙穂ちゃん……。」
 小さく呟いたのは先の尖った革靴を履いた男だ。
「残念だ。」
「所長の娘さん、紳士も知ってるんですか?」
 探偵の質問に、所長と呼ばれた最も年配の男性が答えた。
「私にも、昔は師匠がいてね。私は二番弟子で、」
「一番弟子だ。」
 紳士が言葉を継いだ。
「沙穂ちゃんは、僕によく懐いてたんだ。職場にも、よく所長が連れてきていた。沙穂ちゃんが来た日は、仕事そっちのけで遊んだよ。それで、師匠に怒られた。」
「二人に、そんな過去が。検事は?」
「特捜部の人間として、瑞浪市知的障がい者連続殺人事件の捜査にあたった。当時の上司は、何かに気付いたんだろうな。ある時、急に捜査の打ち切りを通告されて、俺にとってのこの事件は、あっという間に終わった。大勢の人が死んでるというのに、だぞ。検察なんかさっさとやめて、もっと犯罪被害者のためになる職業があると思った。それで、マムールに入って探偵業を始めた。所長たちも関わっていると知ったのは、入った後だった。
 ずっと気になっていたんだ。この事件は。だから、俺に、ちょうどよかったのかもしれない。」
 所長も紳士も、そして検事も、みな熱い人なんだな、と思った。
「弁護士は晴ちゃんと似てるな。学校の子だろ。」
 検事が話を振った。
「そうだ。俺が通っていた中学校には障がい児学級があって、そこにいた子と仲良くなったんだ。あいつはとんでもなくヘタクソだったけど、昼休みに、よく一緒にサッカーをしたよ。赤堀くんっていう子だ。」
「いますね。赤堀(あかほり)達志(たつし)くん。手術自体は成功していますが、術後、目が覚めることがないまま亡くなっています。」

 なんとなくの経緯だけは、全員分知っていた。しかし、いつどこで出会ったのか、どんな関係だったのか、詳細は初めて聞いた。長いことこの人たちと仕事をしていても、俺は由香先輩のことや、その時請けた依頼のことで頭がいっぱいで、それでは探偵として駄目だ。
 誰しも、何かに、苦しんでいる。それは自分だけではなくて、所長も紳士も検事も弁護士も、そして美和こと和凛も、晶も。みんなに大切な人というのは必ずいて、その人が傷つくと自分のことのように悲しい。
 それって、なんて尊い感情なんだ。
 そして、それを受け止められるためには、強くなくてはならない。
 俺以外のみんなは、きっとそれを知っていた。だから、自分をそっちのけで、人のために尽くせる。
 俺はそんな探偵に、いや、人間になりたい。強くなりたい。
「晴ちゃん、大丈夫か?」
 検事が俺の顔を覗き込んだ。
 俺は立ち上がった。全員に背を向ける格好で、俺は後ろを向いた。
「笹木真人さんは……?」
「彼は術後起き上がれるまでに回復した。しかし、ある日パタッと逝ってしまった。」
「もしよろしければ、庭をご覧になりませんか。」
 突然、今まで黙っていた磯村美和が、口を開いた。
「庭?」
「もしよろしければ、私がご案内します。奥田さん。」
「俺だけですか? ああ、では、よろしくお願いします。」
「晴ちゃん、俺たちは車で待ってるわ。」
 弁護士が言った。そして四人が建物から去って行き、一階には、和凛と晶と前原の三人だけが残された。
 わけがわからないまま、思わず了承してしまった。すでに美和さんはさっさと先に進んでいる。後ろをハッと振り返ると、みなが自分を見ていた。
「こちらです。」
 階段で二階に上がり、薄気味悪い廊下を歩く。両側には、家具の一つもない部屋がずらりと並んでいた。
「これは、かつての入院フロアです。今は誰も使っていません。私の部屋は、一階の特別室です。
 こちらです。どうぞ。」
 美和さんが扉を開けると、そこには洋風の庭園があった。
 真ん中に大きな木があり、その下に特大の石が置かれている。植物が整然と植えられ、秋の花々を咲かせていた。レンガが敷かれ、道を形作っている。
「ここは、前原先生が管理しています。」
 美和さんはスタスタと歩いて行った。中央の木の下に立ち、白いワンピースが風に揺られている。スカートの下から覗く脚は華奢で、真っ直ぐ下に伸びていた。赤、黄、白、緑。様々な色が美しい色彩を作り、まるで天然の極彩色だ。俺はぐるりと一周、ゆっくり歩いた。彼女は木の下で空を見上げたまま、一歩も動かない。気付けば、朝から空を覆っていた灰色の雲は、すでにどこかへ流れていったようだ。
「奥田さん、こちらを見てください。」
 美和さんは石の裏側を指した。
「なんだ?」
 文字が、そこに刻まれていた。いや、正確には、ペンで書かれている。読みにくいので屈んで顔を近づけてみると、わかった。
 ——赤堀達志 榎本沙穂 笹木真人 笹木由香
 知っている名前だけで、四人。
「なんと、これは……。」
「前原先生手作りの、慰霊碑です。西浦先生の頃の方から全員、ここに書いてあります。つまり、この庭は、霊園です。」
「死者の弔い、か。」
「なぜ、入院病棟は、現在は使われていないのだと思いますか?」
「それは、もう研究が終わったから。」
「そうです。終わりました。
 先生は、全て終了するつもりです。私が、ここにいる最後の被験者です。確かに亡くなった方はたくさんいらっしゃいます。でも、この研究のおかげで、人間の脳の仕組みの解明は、確実に前進しました。表に出せないことをしているので、最後まで、先生は一人で取り組まなければなりません。それを、途中で切り上げたのです。その理由は、私は知りませんが、想像することはできますよね。先生の想いだって、たくさんの困っている人々のために問題解決してきた探偵なら、分かりますよね。
 技術によって、天才になることはできます。でも、人間がその技術を扱うには、まだ早すぎた。また、その技術を生み出したことは、私たち人間にとって時期尚早だったのです。天才になるかならないか、なれるかなれないか。その選択肢を前に、今の人間は何もできません。これでは、西浦先生と前原先生の成果は、闇に葬られてしまいます。そして、私も、いつまで元気に暮らしていられるかは、未知数です。
 奥田さんは、前原先生を、恨んでいますか?」
「ノーと答えれば、嘘になる。」
「そうですか。
 でも私は、天才になれて嬉しいですよ。
 では、お先に失礼します。
 奥田さんも早めに戻ってきてくださいね。山奥の朝は寒いですから。」
 美和さんは、ドアを開け、建物に引き上げていった。
 俺は驚いた。美和さんの放った言葉に。
 あれは、間違いなく彼女の意見だ。まだ彼女には意見が残っている。残された時間を、彼女と彼女の従姉妹たち、親族たちとともにしあわせに過ごしてもらいたいと、心から思った。

 三好晶。二〇〇一年五月十二日生まれ。現在十六歳。高校一年生。
 小学六年の終わりに、幼馴染の磯村花織を亡くした。以来、僕の纏う雰囲気は様変わりしたらしい。同級生は言っていた。彼らとは、連絡を取り合ってはいないものの、まだつながりはある。
 となりの家で暮らす君と親しくなって、早一年。中学生だったあの頃は、根暗だとかガリ勉だとか散々言われた。でも、君がいたから、乗り越えた。君のとなりで、僕は笑っていた。
「前原さん。なぜ、今日全て話されたのですか?」
「さあ、なぜだろうね。」
「もし僕たちが通報すれば、あなたと西浦氏の今までの努力は、全て水の泡だ。ヒトの脳の研究に人生を捧げてきたあなたが、どうしてあっさり告白したのか、どうしても僕にはわからないんですよ。」
「坊っちゃん、いい質問だね。
 私は、西浦先生と共に行ってきた研究は、将来必ず人類の役に立つと信じている。しかし、人殺しをしてまで生まれた成果に、果たして何人の人間が、ありがたいと思うか?
 ちなみに、生前の西浦先生も、同じことを言っていたよ。
 私たちが人類のために行ってきた研究は、複数の人間がその過程で死んだがために、無駄になるんだ。そんなこと、この私が、みすみすさせると思うか?」
「どういうことですか?」
「こんな日が来ることを全く想定していなかったわけがない。爆弾の一つや二つ、用意してあるよ。」
 爆弾――
「はあ⁉ おい、なあ、君も聞いただろ。」
「聞いたわ。
 それ、本当ですか?」
「もちろんだ。」
 前原は小さな物体を掲げて見せた、それはリモコンだった。ボタンは一つしかなく、おそらくそれを押すことで爆弾が爆発する仕組みだろう。
「私たちだって、危険を全く想定せずここに乗り込んできたわけじゃない。
 君はこういうこと苦手そうだから、関わらなくていい。私は昔、ほんの少し空手やったことがあるから。」
 君は、前原孝二に向かって突進していった。腰を低くして彼の骨盤に体当たりすると、前原はたまらず後ろに倒れこむ。君はリモコンを奪い取ろうと、必死に前原につかみかかった。
「ほんの少しやったことがある程度の小娘に、大の大人が負けるわけがねえ。」
 前原は下半身の動きを封じられても、上半身を使って君を抑え込んだ。君はあえぐ。ああ! という声が、僕の鼓膜を揺らす。前原は、再び立ち上がった。君も力強く床を踏みしめる。二人は向かい合い、腰を低くして立ち、完璧な戦闘態勢だ。でも、だめだ、僕なんかは太刀打ちできない、怖い、動けない……

 美和さんが建物に入ろうとしたちょうどその時、女性の叫び声が聴こえた。下から響いているようなので、おそらく女性は和凛だろう。
「何の騒ぎだ?」
「嫌な予感がします。早く下を見に行ってきますね。奥田さんはここにいてください。」
「了解。」

 数年間この施設で暮らしてきた美和は分かる。先生は間違いなく、爆弾の存在をほのめかして、二人をつぶそうとしている。
 美和は一人、頭と足を働かせていた。
 力の差と先生の闘い方の傾向を鑑みて、和凛ちゃんが先生に寝技を仕掛けられているはずだ。先生は若い男は襲わない。あの気の強くはない晶くんならなおさらだ。心意気の立派な女の子は、あの人の好みではない。
 小さいころ、私が和凛ちゃんの家を訪れた時、晶くんと鉢合わせしたことがあった。一つ年上の二人のいとこは寛大で、四人で遊んだ。戦いごっこをしたとき、手旗信号でやり取りをした。記憶の底に眠っているあの景色を、思い出せば……。
 きっと晶くんなら覚えてる。あの時の手旗信号を使えば意思疎通できる。晶くんと一緒に和凛ちゃんに加勢すれば、三対一。相手が誰だろうと、三倍の兵力差には敵うまい。
 よし、これならいける。
 戦場に躍り出るとすぐに、彼にわかるよう、大きな動きを心掛けながら、作戦を実行……。
 いや、その前に、万が一のことを考えて、爆弾の処理をしなければ。私は走る。音を立てて気付かれないように気を付けながら、私は走る。夏に使いきれず余った花火をもって、私は爆弾のありかに向かった。私は天才! だからできる! 第二研究室に並んだ機械の間を縫って、奥へ。小さな木製の棚の前に立つ。それをぶっ倒すと、大仏の鼻のような穴に入った。ずらりと並ぶ建設当時の最新機器。なるほど、やっぱり簡単だ、だって十年近く前の「最新」だもの。
 処置を終えると、すぐに一階ロビーへ舞い戻った。様相はさっきと何も変わっていなかった。
 攻撃の合図は、両手を前に伸ばす動き。誰が仕掛けるのかは、直接指をさして伝える。子供らしすぎて、誰が見ても解読できる暗号。それでも、「暗号」というものを作るだけで楽しかったあのころの私たちより、今の私たちは強い。
 自らをさして、手を前に伸ばす。次に晶くんを指さして、手を前に伸ばす。

 美和さんだ。戻ってきた。
 ん? あれは、なんだ?
 少し考えると、時は十年くらい前のあの頃に戻った。小さかった美和ちゃんが、笑顔で僕に信号を送る。わかった、あれは、戦いごっこの暗号。そうだ、あんな日もあったんだ。すっかり忘れていたけど、たった今思い出した。
 案外、人間は優秀なんだな。
 懐かしい気持ちになる。親指を立て、彼女に向かって掲げた。わかった、の合図。
 美和さんが、前原の背後を突いた。ぐわっと声を上げて倒れこむ。しかし、やはり大人の男は強い。美和さんは押し戻される。
 よし、今だ。
 僕は美和さんによけるよう合図を送った。手を左から右に動かす。それをしながら走り、君のとなりを抜け、前原のみぞおちに蹴りを入れた。切羽詰まった時、人間は失敗しやすいけれど、それは絶対ではない。君のために、君の大切なもののために、高鳴る心臓の音をできるだけ聞かないように。戦闘態勢を見せても、相手はひるまない。
「お前たちは怖いものがないのか。爆弾があるんだぞ。全員吹っ飛ぶぞ。」
 再び、僕は前原に蹴りを入れた。相手のパンチをかわす。逆に、僕のパンチを、前原はもろに喰らった。前原は倒れる。僕は、彼に馬乗りになる。きっと、僕の今までの人生で、一番良いプレーだろう。
 その時だった。
「ああ!」
 君の声が響き渡った。前原がリモコンのボタンを押したのだ。僕はとっさに頭を守った。
 しかし、何も起こらない。その代わり、窓の外に、小さな打ち上げ花火が上がるのが見えた。
「嘘だろ⁉ どういうことだ⁉」
 前原は取り乱している。
「私が細工しました。」
 美和さんが声を上げた。細工したとは、どういうこと? 一体なにが起こっているんだ?
「和凛ちゃんたちに、死なれたくない。」
「今、何と言った?」
「死なないで。」
 一番驚いているのは、前原だ。美和さんの言葉の意味と、前原が驚いている意味が僕の頭の中で結び付けられ、ハッとさせられた。
「美和さんが、感情を……。」
「私、感情が全くなくなったわけじゃないから。まだ、少しだけ、残ってるから。強い情動があれば、感情は、私の心にも生まれるから。」
 僕は、前原先生に向き直り、尋ねた。
「前原先生、もう一回聞きます。なぜ、始めは僕たちに全て明かそうとしたのですか。」
「脳の信号の研究は、必ず役に立つ。人は、何でもできる。考えることができるから。」
 もう一発頭を殴りつけると、前原は全身の力を抜いた。彼は微笑を浮かべていた。

「所長、今、花火が!」
「何が起こったんだろうね? おい、晴ちゃ、あ、今いないんだ。」
検事は何も言わずに運転席を降りた。弁護士も続く。二人は建物の入り口へと一直線に走っていった。それを見ながら、所長と紳士は向き合って頷き、後ろからダッシュで追いかける。
晴ちゃん!
奥田!
それぞれが名を呼びながらロビーに駆け込んでいった。少年が前原孝二の上に乗ったまま、少女と話していた。三人とも、湿った目でどこか遠くを見ていて、訥々と言葉が紡がれている。

 峯岸和凛。二〇〇一年四月十五日生まれ。現在十六歳。
 磯村美和。二〇〇二年十一月二十八日生まれ。現在十四歳。
 私は、どちらでもあって、どちらでもない。大事なのは、私は何という人なのかではなく、どんな人なのか。
 名前が変わって、引っ越してきたその街で、私は君に出会った。いつも考え事をしていて、しっかり者っぽく見えるけど本当は違って、熱くて弱い。それが君。
 私は、君のとなりにいられてよかった。君がいたから、私は立っていられた。
 君は、私にも問いかけた。
「なあ。結局さ、僕らはなんで、ここまで来たの?」
「さっきも言ったわよ。全て終わらせるためだって。」
「どうして終わらせようと思ったの?」
「さあ、どうしてだろうね。」
 僕たちはそのまま語り始めた。僕は彼の上に乗ったままで、彼女は地べたに座り込んでいる。
「でも、強いて言うなら、もう大切な人を失いたくないから、かな。」
「大切な人?」
「そう。もちろん美和ちゃんもそうだし、それに、大切な人にとっての大切な人は、私にとっても大切。」
「僕はね、感情を失くす代わりに天才になるなんて技術が実用化されてはならないと思う。人間は感じる生き物なんだ。何かを感じて、それに対して感情を持つ。考えを持つ。それが人間のすばらしさであり、欠点なんじゃないかって。
 感情のせいで発展が阻害されることもあるかもしれない。前原先生も言っていたように、人間は頭が良いという特徴があるから文明を発展させてきたし、そんなことができるのは人間だけだ。
 でも、何を不便に感じて、何をどう発展させるか決めるためには、人間は感情を持たなくちゃならない。
 頭が良いことよりも、感じることが大事なんだと思う。人間は感情の生き物ともいうしね。
 それに、感情にはその人の個性が出るんだ。何をどう感じるかは人によって違うから。だからその人の考え方を好きだと思ったならきっとその人とは気が合うし、お互いに大事な人同士になれるんだと思う。人々は繋がっていて、この世界は大切な人同士で溢れている。雨の日も、晴れの日も。この街は輝いている。
 君にとっての大切な人が、誰なのか知りたい。」
 君の目は潤んでいた。何でもない、と誤魔化すような、不器用な微笑み。君のそんな顔を、僕は初めて見た。
 沈黙が部屋を包んだ。誰も何も発しない。それを破ったのは美和さんだった。
「階段を上がって廊下を進んだ突き当たりに、ドアがあります。そこを出れば、庭です。お二人も行ってください。そして、そちらのお仲間も。先生もいかがですか?
奥田さん、たった独りですから。」

 奥田晴嵐。一九八四年十二月五日生まれ。現在三十二歳。職業は、究極の探偵。
 美和さんが去っていったあと、俺はその場でうずくまった。何年かぶりに、俺の目頭は熱くなる。膝を抱え、君を思い出した。生徒会室で、書類の山に埋もれている君。マイクを持って、全校生徒に指示を出す君。より良い学校づくりのため、熱く議論する君。そんな君のとなりで、俺は笑っていた。
 先輩が堕ちてしまったなら、俺は追いかける。どこまでも深い場所まで、二人。
「なによ、これ。とっても綺麗。」
「すごいな。」
 少年と少女の声がした。あの二人も来たのか。嗚呼、違う、ずいぶん大勢で来たようだ。晶、美和さん、和凛さん、所長、紳士、検事、弁護士、そして前原まで。
「これは私が受け継いだんだ。」
慌てて隠れようとしたが、自分の身体全体を見えなくしてくれるような物は、そこにはなかった。
「奥田さん。」
 晶が俺に近づいた。
 晶が差し出した右手を、俺は握った。晶は俺を握り返し、そして、ぐっと引っ張り上げた。一同が霊園で、地に立っている。

エピローグ

「二年八組楽しいよ!」
「ヒナ先輩、ぜひうちのクラス来てください!」
「アマネちゃん、来てくれたの。嬉しい」
 そんな生徒たちの客引きの声はいつの間にか小さくなり、朝丘高校は徐々に日常を取り戻しつつあった。今日は学校祭最終日。片付けや後夜祭準備を行う時間を確保するため、文化祭自体は午後三時で終了だ。今は二時五十五分。昼からずっと立ちっぱなしで客たちに最後尾の案内をしていたから、もう僕の足はクタクタだ。椅子に座って終了のチャイムを聞こうとしていた。
「お疲れ。」
 背後から声を掛けられ、僕はハッとした。彼は前原司だった。ニコリと笑って立ち去って行ったその横には、江口先輩の姿もある。美和さんとのことで言い合いしたあの日も、彼女を含む磯村家のことも、全部水に流したうえで、彼は僕に笑っている。笑って僕を見ている。
 僕は心から二人を応援することにした。そして彼が見えなくなるまで、その大きな背中を見つめる。また、ボーっとしていた。

「中学生? まだ見たいとこある?」
「今来たばかりなんですけど、一年五組に行きたくて。」
「一緒に行こうか。五組に知り合いでもいるの?」
「はい、ぜひおいでって誘ってくれたんです。」
 明るい色合いのセーラー服の少女は、各ホームルームの発表の派手な衣装を着た人たちの中に混ざると、むしろ目立って見えた。
「ねえ、五組にお客さんだよ。」
「あれ、まだいたっけ?」
「なんかね、さっき来たばっかりだって。天陽中の子。」
 天陽中。その学校名を聞いて僕は思わず立ち上がった。駆け足で廊下に出る。
「え、三好くんの知り合い? 彼女?」
「見つめ合っちゃってるし、彼女じゃない?」
「びっくりだわ。どういう経緯なんだろ。」
「てかさ、三好くんは絶対はれるんとくっつくと思ってた。ねえ、はれるん。」
「いや、私は韓国系が好きだし。」
 そう言いながら眼鏡女子がチラッと僕を見たらしい。僕は全く気づかなかった。
「三好くんはあの顔だし、絶対倍率高いよ。狙っときなよ。」
「いや、興味ない。」
「はれるんはクールだねえ。」
 さっそく女子たちは噂話に花を咲かせていた。
「三好、案外やるな。」
「そういうお前だって、なあ。」
「お前さ、絶対ばらすんじゃねえぞ」
「俺、さっき来栖(くるす)が四組の飯島(いいじま)さんを花火に誘ってるとこ見たぜ」斉藤が大声で言った。
「お前、ばらすなって今言っただろ」
「ええ、来栖くんと飯島さん⁉️」
「美男美女じゃん。」
 当然ながら、今日はいつもより騒がしい。病院で会ったあの日以来の僕たちにとっては、これくらいがちょうどよかった。ガヤガヤしている高校生たちの声が、気まずさを掻き消してくれる。静かな家で再会したなら、何を話したらいいかわからなくて、苦しくなってしまったかもしれない。
「ねえ、花火って何?」
 君は口を開いた。
「ああ、この後の後夜祭で打ち上げられるんだ。男女で校舎の屋上から見ると幸せになれるっていうジンクスがある。」
「何それ、うちのとそっくり。」
「どこにでもあるよ、こういう話は。
 あ、ゲーム、やってくよな?」
 担当者を呼ぼうとした時、女子同士の輪から抜けてきたらしい晴留さんが、颯爽とやってきた。
「ねえ三好くん、二人で花火見るの?」
「い、いや、そういう予定はない。」
「ええ、そうなの? てっきりうちの生徒のふりして忍び込んでさ、二人で見るのかな、なんてね。でも他校の制服だと怪しまれるかもよ。ジャージで良ければ貸そうか?」
「『幸せ』に、なれるんですよね。」
 君が発言した。少し僕の方を気にしている様子だが、残念ながらどう振る舞えばよいか分からない。
「楽しんできてね!」
 どうやら晴留さんの勢いに乗せられて話は進んでしまったみたいだ。きっと晴嵐さんに対しても、いつもこんな感じなんだろう。本当に、お節介な人だ。そして、今、絶対に無縁だと思っていたことが起ころうとしている。
 教室内外の装飾を取り外し、担任が差し入れしてくれた菓子パンを食べたあと、まだ少し明るい時刻に後夜祭は始まった。彼女には、僕を待っている間はクラブハウス棟の空き部屋を使っていれば大丈夫だろう、と言っておいた。迎えに行くと、確かにそこにいた。わらわらと全校生徒たちが校庭に出てくる。僕たちは、その流れに逆らって進んでいく。
 生徒会長のアナウンスだ。
 ――第六十九回 朝丘高校学校祭後夜祭を開会します。生徒の皆さんは、校庭にお集まりください。繰り返します。生徒の皆さんは校庭にお集まりください。
 これを真剣に聞いている者は少なそうだ。

「ねえ、こないだはありがとう。」
「いや、僕は何もしてないよ。」
「呼び方。」
「ああ、まだ決めてなかったな。」
「『君』がいい。」
「わかった。」

 ファイヤートーチやダンスなどの出し物が行われ、祭典は着々とオールラストへ近づいてゆく。
 美和さんでもなく、和凛さんでもなく、君。それが、君が選んだ僕にとっての君。
 屋上にいる二人組の内で、互いに笑いあっているコンビは多かった。まっすぐ前を向いて何も話さないのは僕たちくらいだろう。六日間の最後の締めくくりに、流行りのホップスに合わせて係の者が打ち上げる。曲はミディアムバラードだった。大小様々な花が夜空に咲く。近隣のマンションに暮らす住民たちも、窓を開けて高校の上空を眺めていた。

 君が肩を震わせた。
「その格好じゃ寒いだろ。」
「全然大丈夫……。」
 と言って黙り、数秒後。
「だと思ったんだけどね。」
 僕は自分が羽織っていたカーキ色のパーカーを脱ぎ、君の肩にかける。「ありがと」と言って、君は僕を見上げた。
 少しだけ、君に触れた気がした。

雨が降れば街は輝く④

雨が降れば街は輝く④

全ての真実が明らかになる完結編

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-03-14

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  1. 第5章 無二
  2. エピローグ