雨が降れば街は輝く①

第0章 追想

 俺は将来何になるのか。何がしたいのか。そのために俺はどこへ行くのか。何も決まらぬままミレニアムを迎えて丸三か月が過ぎた春の日、俺は朝丘(あさおか)高校に入学した。母がまだ若い頃の子供であるせいで、長らく一人息子だった。母親、祖父母、みんなの期待を一身に背負ってきた。ただし、父親はいない。
 小学校では、児童会の会長、中学では生徒会長を務めた。成績はいつも学年トップで、家族の期待には十分すぎるほど応えてきたつもりだ。しかし、妹の晴留(はれる)が生まれた途端、俺は一家の注目の的ではなくなった。十六も年の離れた兄妹ができて、戸惑っていたということは言うまでもない。そんな晴留も、今やあの時の俺と同じ十六歳だ。
 何も、親に見てほしかったわけではない。プレッシャーにはもううんざりしていたし、家族が俺に対する興味を失って清々していた。もう俺には優等生でいる必要はなくなったんだ。
 俺は高一の前期から早速生徒会副会長を務めて、中学までの俺なら、後期は会長を狙うかもう一期副会長をやるか、そのどちらかだったと思う。しかし、実際の俺はどの役職にも就かなかった。
 半年間、副会長として学校運営に携わった。当時の生徒会長である笹木(ささき)由香(ゆか)先輩とともに。授業に生徒会業務に塾に、今振り返れば、若さがあったから乗り切ることのできた、ハードスケジュールだったと思う。入学して間もないのにこれほど学校のために働いて、しかも勉強と両立できるのはすごい、と何人かの先輩に褒められた。

 由香先輩は、いわゆる委員長キャラとは程遠かった。集会で舞台上に立って指示を飛ばす姿は確かに生徒会長らしかったが、普段の会議や日常の雑務における彼女は、ごく普通の女子高生だった。そんな会長を支えていたのはこの俺だという自負がある。高校卒業後、彼女は弁護士を目指して、東京にキャンパスを構える国立大学の法学部に進学した。
 彼女には、生まれつき知的障がいのある弟がいた。本人から聞いたが、かなり重症だったらしい。彼はその道の素晴らしい先生がいる病院に入院、いや、もはや住んでいたそうだ。その病院は、非常に大きい大学病院だった。
 現在の由香先輩は、弁護士になってはいない。せっかく類まれな努力の末の合格だったというのに、半年も経たずに中退してしまった。先輩自身が、俺にその旨を連絡してくれた。その時に聞いた退学の理由は、弟が何かの事件に巻き込まれたからだというものだった。
 ある日、先輩に、弟を見舞いに行った両親から連絡が入った。もともとの障がいに加えて何か異変が起きている。特に手足の動きが不自然だ。まずいことになったと危険を察知した先輩は、弟の身体をよく観察した。すると、頭部に覚えのない小さな手術痕があった。大急ぎで転院させることにしたが、その手続きを済ませた直後、先輩は行方不明になった。白骨死体でも見つかればあきらめがつくが、長い年月が経ってしまった。もう望みは薄い。
 俺はあれから探偵を目指した。際どい捜査だって探偵という立場ならやりやすいはずだ。公務員は何かと制約が厳しい。警察官になっても裁判官になっても、事件が起こったという証拠がなければ動けない。それではダメなのだ。先輩が関わっている事件はそう簡単に解決しない。俺はそう直感していた。
 事件があったのなら警察が動くはずだ。警察が何も察知していないということは、事件自体が明るみになっていないのではないかと推測できる。つまり、警察ですら手が及ばない難しい事件なのだ。
 俺には他に何かやりたいことがあったわけではない。その時初めて将来の夢というものを持ったと思う。塾を勝手に辞め、自分自身の手で卒業後の就職先を探した。求人雑誌を読み漁り、あちこちの探偵事務所を訪ねた。そうしてようやく行き着いた先が、「マムール」である。
 それは一癖も二癖もある探偵事務所だった。所員は全部で四人。皆互いをあだ名で呼んでいた。そのあだ名は、彼らがかつて就いていた職業に由来していたり、所作に由来していたり、本当にめちゃくちゃだ。年長者から順に、所長、紳士、検事、弁護士。
 あらゆる職業の経験者がいることで、事件を多角的に考察することができ、そのため実績はまずまずだった。俺はここなら由香先輩の事件も速やかに解決できるのではないかと思った。
 表向きでは、この事務所に十二年勤めた。「表向きでは」と言ったのは、今の俺にマムールの所員であるという肩書はないが、しかし現在でも密接につながっているという意味である。
 紳士や検事のアシスタントやらなにやら、とにかく俺は雑務を一身に担った。たった半年だけ務めた生徒会の経験が存分に生かされた。弁護士に至っては、俺のことをパラリーガルと間違えていたのか、扱いはひどく乱暴だった。
 面接の日、なぜ探偵を志望したのか事細かに訊かれた。それには理由があり、その理由にはさらに理由があった。
 マムールという言葉は、フランス語で愛する人を意味するのだ。彼ら四人はそれぞれ事情を抱えていた。俺はこの事務所の四人には由香先輩のことをすべて話した。当然だ。先輩のために探偵になったんだから。そしてノウハウを完璧に身につけたころ、俺は自立した。

 俺は初めて三好(みよし)(あきら)と会ったとき、あの最初の日には全く気付かなかった。俺が高校生の時に、失踪した先輩を探すために探偵を志したこと。晶が隣の家に住む少女を探し出すために俺に依頼してきたこと。この二つは、本質がよく似ている。何としてもこの少年の依頼は完遂したいと思った。幸い、たいして難しい案件ではなかったので、それはわりあい簡単に達成された。
 晶を自分に、少女を先輩に、俺は重ねていた。
 少年の依頼によって判ったことを一つ一つ丁寧に見ているうちに、あることに気付いた。あの案件の調査を続けるうちに、俺がマムールの四人と協力して少しずつ見つけていた証拠のすべてが線で結ばれ、一つのストーリーが見えた。選挙で信任を獲得し、初めて生徒会室に入った日から、十七年が経っていた。

第1章 憧憬-青天-

 僕は自転車を飛ばす。足が取れるんじゃないかと思うほどジャカジャカと音を立てて漕ぐ。美和(みわ)さんと話していたおかげで今日も遅刻だ。でも、校則が非常に弛いから、有難いお説教を聞かせられることはない。月曜日はなおさらだ。いちいち注意していたら授業が二、三回くらいは止まってしまう。僕の場合、土日は生活が乱れるタイプだが、部活に勤しんでいる奴は、週明けはさぞかし疲れていることだろう。
 この朝丘高校の中学までと全く違う雰囲気には、慣れるのに時間がかかった。受験生の頃、入学後の生活を想像したりもしたけど、それ以上のものだった。やはりこの高校の一番の特徴こそが、その自由度の高さだろう。私服は黙認、学ランなんか誰も着ない。髪色がショッキングピンクの者だっている。そのくせ、偏差値は県内の公立最高峰で、大学入試の実績もトップクラス。旧制中学の時代から地域で名を轟かせてきた。
 ()(こう)(ばし)駅で地下鉄の桜通線に乗って今池まで。そのあとはおよそ二キロの道のりを自転車で。交通の便は少々悪いけど、僕はこの学校を選んで本当に良かったと思ってる。
 初めて美和さんと話したあの日、恥ずかしながら、僕は彼女の前で泣いてしまった。彼女は驚いていたけど、決して僕を変人扱いしなかった。あの状況では、大抵の人は一言くらい優しい言葉をかけてくるだろう。でもそういう人に限って内心は迷惑な奴だ、と思っているんだ。彼女は、暖かかった。

 ——窓を開ける。部屋に澄んだ空気が入る。大きく吸い込む。
 僕の朝は毎日こうして始まる。すずめの声、高速道路を走り抜けるトラック。家々の向こうに見える朝焼け。雨も風も太陽も、川沿いの桜も民家に植えられたツツジも道端のタンポポも、みんな清々しい。
 名古屋市南東部にある緑区の端っこ。世界の全部を都会と田舎のふたつに分けたら都会になるんだろうけど、僕はここを田舎だと思う。背の低い住居ばかりが連なり、朝は小学生たちの声が響く。この辺りのシンボルは、名古屋市と東名古屋市の自然境界である緑川に架かる橋「渡虹橋」だ。僕はその川の西岸にある、小さな二階建ての一軒家に住んでいる。ガレージは白く塗られた住居の手前にあるが、残念ながら宝の持ち腐れだ。渡虹橋から一本道を百メートルほど北上するとこの駐車スペースがあり、そして自宅がある。
 南北方向に名古屋市を切るように緑川は流れる。土を盛って作られた堤防があるが、川自体が細いのでそれももちろん小さい。土砂の小さな山脈の上はコンクリートで舗装され、道として通れるようになっている。ただし、歩行者専用。
 堤防を川の側に降りると、狭いながらも並木道が作られ、ところどころにベンチがある。逆側に降りればごく普通の住宅街。日本の三大都市圏の一つに数えられる名古屋にもこんなにローカルな場所があるなんて、小笠原が東京都であるのと同じくらい、人々からすれば意外なのかもしれない。
 僕はベンチに座って水の流れを感じるのが好きだ。ギリギリまで川に近づいて冷たい流水に触れることももちろん良いけど、ただ座っているだけなのはもっといい。
 緑川は桜の名所として知られている。満開の季節になると、秋の香嵐渓(こうらんけい)のように、人々の集う場所になる。その美しいピンクの花を背景に、渡虹橋の真ん中で堂々とキスをするカップルは少なくないらしい。なんと、そんなふしだらなことをすると幸せになれるなどというジンクスがあるのだ。昨年には、最近各地で上映されている青春映画の撮影で、主人公の女子高生役を演じた若手女優とその恋人役に抜擢されたアイドルが、ここでキスシーンの撮影をしていた。
 僕は体操服に着替えると、窓から外に飛び出した。靴は部屋のクローゼットに隠し持っているから、その気になればいつでも抜け出せる。朝五時の街は眠っているような起きているような微妙な時間。
 両親はまだ家にいるけど、僕のことなんかはどうせ見ていない。僕はいつも一人で進む。
 でももう一人、いつも一人の子がそこにいる。常に一人の者が二人集まれば友達、なんていう乱暴なことは言わない。彼女は隣家に住む磯村(いそむら)さんの娘さんだ。「さん」が重なって変な呼び方だけど、僕はあの子の名前を知らないんだから仕方ない。
 今日も、あの子は勉強している。深夜だろうが未明だろうが関係なく、あの子の部屋の蛍光灯は灯ったままだ。勉強以外にも、本を読んだり音楽を聴いたり、きっと知的な趣味があるのだろう。無機質な白い光が途切れることはないが、しかし外を眺める目はいつも死んでいる。
 なぜそんなことを知っているのかというと、あの子はいつも窓を全開にしているから。僕は常に窓を閉めているけど、真向かいに彼女の部屋があるからあの子の様子は嫌でも見える。
 磯村家は不思議な家庭だと思う。旦那さんは医者で頭の中身は患者のことばかり。有名な脳外科の教授のもと、大学病院の医局で働いているそうだ。そして驚いたことに、まだその道では若い方なのに次期教授の座を狙っているらしい。近所のおばさん達の噂話を聞いて知った。奥さんの礼子さんは、娘の成績のことで頭が一杯。なんとかして娘も医者にさせたいのだろう。そして当のあの子は、冴えない顔をして毎朝電車に乗って学校へ出かけていく。
 あの生活は幸せなのだろうか。
 四時、起きる、顔を洗う、トイレに行く。両親、ではなく母親に挨拶をする。父親は病院に泊まり込みの日も多いし、そうでなくともろくに話していない。四時三十分。朝ごはんを食べる。家族団欒の声は聞こえない。五時。勉強を始める。七時。制服に着替える。名門私立中高一貫校の明るい色のセーラー服。決して着崩したりなどしない。鞄に教科書やノートを詰める。時々ボソボソと音読している英語の例文から、たぶんこの春から中学二年生になったんだと思う。僕より一学年下。七時十分。家を出る。携帯はおそらく持っていない。文庫本を左手に持っている。二宮金次郎のような姿で登校する。ここに越して来たときからずっと変わらない生活。
 見ているだけで息が詰まる。
 いつか窓から話しかけよう。僕が通う公立の緑川中学にあのような子はいない。だから少しだけ気にしている。王道は好きな食べ物だろうか。彼女の好みにはほんの少しだけ興味がある。そして次に趣味。何をするのが好き? だけど、重要なのは、家のことどう思ってる? 一度でもいいから訊いてみたいことが山ほどある。
 なんて、我ながらキモい。
 何もかも忘れるためかのように、僕は走る。大通りを西へ、西へ。静かな空は太陽には似合わない。
 学校のこと、部活のこと、家のこと、受験のこと、そして、君のこと。どれもくだらないことのくせに、いつも僕をストーカーしてきて気持ち悪い。頼むから、もう僕に付きまとわないでくれ。
 朝靄の中を切り裂くように前へ前へと進んだ。
 僕はスピードを上げた。一日のうちで一番冷えた空気が頬にあたって気持ちいい。頭からつま先まで冴え渡るこの感覚こそ、生きている感じがするというものだろう。一度味わったら誰でも虜になると思う。昨日までと同じようで違って、毎日同じコースなのに毎日が新鮮だ。ショッピングモールの巨大な建物がそびえ立っている。一気に最寄りの隣の駅の、徳重(とくしげ)まで駆け抜けた。小劇場や精米所、図書館があって、この辺りに住む人々の生活を感じる。
 毎日こうしているうちに、僕は正確な時間感覚を得た。おそらくそろそろ戻り始めないと学校に遅れてしまうだろう。今日はここまで。とても綺麗だとは言えない池のほとりを散歩しているおじいさんを見ながら、大きく深呼吸をした。ほんの僅かな一時だったが、仕方なく僕は引き返す。下ってきたばかりの緩やかな坂を全速力で上る。ショッピングモール、大型スーパー、車屋、イタリアンレストラン、石材屋、銭湯。ここらで道は平坦になる。地域で唯一のコンビニ、和菓子屋、桜通線渡虹橋駅、土産屋、桜並木、そして意味もなく土手を登り、進んでいった。ガスや水道のメーターを足場代わりにして、窓から部屋に入る。
 僕は学ランを着る。食パンをかじってリュックを乱暴に背負い、家を出る。鍵をかける。もう両親は仕事に行っていた。
 学校に行く。君はもう友達と会って話し込んでいたりするのかな。それともまだ電車の中かな。
 教室にはまだ誰もいなかった。この中学に通って三年目にもなれば、多くの生徒はギリギリに登校するようになる。毎日開門と同時に登校する僕は真面目すぎるだろうか。でも、誰よりも早く来ないと、扉を開けた時に黒板消しが落ちてきたり、上履きが失くなっていたりするんだから、こうするしかない。
 授業、放課、授業、放課、授業、放課、その繰り返し。ただただ同じことを繰り返すだけの日々はもう飽きた。部活は適当に嘘をついて欠席する。
 帰宅後、その日のことを振り返ることが日課だ。今日もほとんど話さなかった。君は誰かと話したかな。男友達はいるのかな。
 夕方になれば、朝と変わらない様子で君が帰ってくる。一度でいいから、隣のあの子と話してみたい、今日こそは。
 君はいつも通り部屋の窓を開けた。それと同時に僕も窓を全開にする。
「あっ」
 君が小さく声を上げた。
 僕が会釈をすると、君は会釈を返す。僕はあたふたしながら挨拶する。
「あの、その、お、おかえりなさい。」
「た、ただいま」
 君は怪訝そうな顔をする。僕は人と顔を合わせたことがなかったかのような気がした。
「えっと、その、いつも、窓開けてるよね。寒くない?」
「ううん、全然」
「そっか、」
「少し、気にしてたんだ。あ、えっと、だって、最近はまだ、少し冷えるから。」
「ありがとう。でも、ほんとに大丈夫。」
「えっと、な、名前は? ほら、家は隣なのに、話したことないから。」
美和(みわ)っていうの。美しいに、和風の和。」
「え、えっと、いいね。」
 美和さん「あなたは、」
 僕「何年生?」
 被った。
「あ、いいよ、なんて?」
「何年生?」
「中二」
「そっか」
 まだ訊きたいことはあったのに、全部忘れてしまった。代わりに涙腺が緩む。それには僕自身も驚いた。
「あの、大丈夫ですか」
「あ、これは、ほんとに、気にしなくていいから」
 僕は窓を閉めた——

 その日から、僕らは毎日窓から話した。あの春の日の翌朝、彼女の方から話しかけてくれた。他愛もない話しかしなかったから、その時本当に何を思っていたのかは今となっては分からない。僕らは学校のこと、家のことはもちろん、好きな芸能人の話とか、素敵な音楽の話とか、面白い映画の話、政治の評論だってした。彼女は優しい。
 冬に差し掛かった頃、僕らは窓から互いの部屋を行き来するようになった。大体は彼女が僕の部屋に来るから、「互いに」と言うと語弊があるかもしれないが。
 彼女はいつも何かしらの文句を言っていた。彼女の部屋に掛けられた熊の絵のアナログ時計、そこから察せられる暖かさからは想像もつかないものだった。堅苦しい、息苦しい、もっと自由にさせてほしい。親、友達、先生、見境なく愚痴を叩いた。でも、口調は至って明るい。冗談めかして語る彼女の顔は必ず笑っていた。僕はいつも黙って聞いた。
 苦しいときはいつも窓を閉めておく。そうしておくと、彼女の話を僕が、僕の話を彼女が聞いてくれる。人に自分の話をし、そして聞いてもらえるのは幸せだ。何せそうしているとき、いつも心が穏やかになれるんだから。何でも言える相手は、誰しも必要なんだと思う。
 一昨日の朝も、彼女の部屋の窓が閉まっていた。僕が二回軽くノックすると、彼女は白紙の進路希望調査用紙を見せて、「書いて」と言ってきた。もう何度も見た用紙である。このままエスカレーターで進学する、外部の高校を受験する、そんなような選択肢があった。僕は自分で決めるべきだと進言した。「決めきれないの。ねえ、どうしたらいいと思う?」彼女はそう言った。用紙の端に書かれた提出期限にはまだ少し余裕があったから、もう少し自分で考えて、それでも決められなかったら窓を閉めるように、と僕は提案した。僕の持論は、自分の進路は自分で決めるべきである、というものだ。自分がやりたいようにすればいい。結果として、それが幸せへの一番の近道だ。「私の中ではもう受験するって決めてるの。ねえ、それでいいと思う? 私は朝丘高校に行きたい。君ならどうする? それを聞いてからこの紙、書きたいんだよね。」彼女は言った。
 話しているうちに、気付いたら話題は明るい方へと転じていた。誰それがカッコよくて、誰々がかわいくて、なんとかかんとか。よくわからない話だけど、彼女が楽しそうに話しているだけで、僕は嬉しい。
「でさ、その子なんだけど成績がいいから余計ムカつくの。顔良し、頭良し、何か欠点はないのかって。」
「それはただの妬みだろう。あんまり愚痴ばかり言うな。君の品位を下げる。」
「ここしか言える場所がないの。ちょっとくらいいいでしょ。」
「ちょっとどころではない気がするな。」
「正解。ちょっとじゃ足りないわ。たくさん言うわよ。」
「あんまり愚痴ばかり言うな。君の品位を下げる。」
「同じことばかりじゃない。そういう適当な相槌ばかりじゃだめよ。君の品位を下げる。」
 してやったり、と彼女の顔に書いてある。
「今日の相談とやらは何だ。」
「話をすり替えないで。」
「ノックしたのは誰だ?」
「私。まあ図星を食らった姿が見れたからいいわ。話を戻してあげる。」
 美和さんはニタッと笑う。
「そうしてもらえるとありがたい。」
「志望校の件よ。」
「切り出し方が直球すぎやしないか。」
「いつもと同じじゃない。」
「それはそうだが」
「訊いてきたのは誰よ。」
「それはまあ、僕だ。」
「じゃあいいじゃない。何の問題もないわよ。ほら、私、中高一貫でしょ。でもこれは、親が決めた学校でレベルもよかったから、それだけで入ったわけ。前言ったでしょ。」
 既に知っている話であっても、意外性は消えない。この美和さんが親の決めた学校というだけで進学先を決めてしまうなんて。
「私、高校受験してもいいと思うの。女子のドロドロした争いとか、今の学校は決して少なくないから。もっと平和で、やりたいことができる環境が欲しいの。」
「何がしたいんだ?」
「特に決まってない。とにかくこの窮屈な場所を抜け出したいの。」
 美和さんはさらに続ける。
「こんな小さいコミュニティだけで全てを知った気になってる人ばっかりなのよ。実際のところ、何も知らないってことに気づこうとすらしないで。だからどうでもいい争いばっかりやってられるの、きっと。くだらない諍いに巻き込まれるのはもうたくさん。親だって同じよ。医者をやってるってだけで偉そうにして。その妻の方だってただの専業主婦なのにやたら気取ってるし。気持ち悪いよ、こんなの。」
「つまり周りに失望している訳か。」
「自分でもこれが失望なのかは解らないけど、きっとそれに近いと思う。
 ちょっと話ずれるけどさ、君は電車通学だよね?」
「そうだ。」
「私、学校行く時間がちょうどラッシュとかぶるからさ。いつもものすごく混んでるのよね。」
「七時台はそんなもんだろう。」
「そうよね。頭では分かってるのよ。でも、やっぱり気持ち悪いの、電車に乗ってるオッサン達が。ただ普通に気持ち悪いって言ってるわけじゃないよ。いつも暗い顔して、立ってる人なんかは席が空いた瞬間だけ俊敏に動く。あの人達の内で仕事にやりがいを感じて生き生きした生活をしてる人は、いったい何人いるんだろうって。私はあんな顔をした人間にはなりたくない。」
「誰でもそう思うだろう。しかし、そうなってしまったんだ。」
「だろうね。頭では分かってるの。私は器が小さいんだな。」
「それは違う。僕だってそんな大人達は気持ち悪いと思う。」
「だよね。あんなどす黒いオーラばっかり撒き散らされたらたまんないわ。」
「周囲の人間に何も与えないということだな。」
「言えてる。他人が見て素敵だと思える人生送ってる人は、やっぱり充実感があるよね。」
「あと幸福感。」
「そうそう。充実感と幸福感。いい大人には必須だよ。」
「僕も同感だ。でも、僕たちから見てとても素敵だとは思えない人たちだって、」
 美和さんが時計を見た。
「そろそろお母さんが様子を見にくるか?」
「そうね。もう戻らなきゃ。聴いてくれてありがとう。お互いさ、いろいろあるけど、こうやって話せるから、きっとうちらは大丈夫だよね。」
「いや、とんでもないよ」
 美和さんが桟に細い足をかけ、器用に帰っていった。

 気持ち悪い、か。分からなくはない。高校入学してすぐの頃は、電車で通学するというだけで緊張していたものだ。周りばかり気にしていた。しかし、慣れた今は全然見なくなっている。美和さんは周りを良く見ていて、鋭い感覚を持っているのだろう。普通は気づかないところにまで気を配っている。きっと美和さんには僕には見えないものまで見えているんだ。
 礼子さんが彼女の部屋にいる間、僕はツイッターで情報収集をしていた。さっきは述べなかったが、我が校の生徒達はツイッターを盛んに利用している。僕も学校の一員として、多少はチェックしておこうというものだ。午後十時、全開の窓から磯村家の奥さんの声が聞こえてくる。中学三年生として、受験がないとしてもきちんと勉強しなさい。公立中学の子は高校受験で頑張るから、追い越されちゃ駄目よ。もし成績が下がったら、何のために私立に入ったのか分からないじゃない。毎日励むのよ。貴女は跡取りなんだから。
 なぜそこまで彼女が医師にこだわるのか、僕には分からない。
 美和さんはどう思っているだろうか。母親は愛娘が高校受験をするつもりだとは露知らず。
 また今日も夕飯のカロリーメイトを机上に置いていった。
 母が出ていくと、美和さんが机を飛び上がるようにして離れ、こちらを伺ってきた。もちろん僕としてはそうしてくれると心の底から嬉しい。
「続き、話す?」
「うん、そうしようか。」
「僕にも思うところはあって、」
 自分の見解を率直に述べよう。
「確かに電車内のいかにも不幸そうな面構えの人たちは、さぞやりがいなんてなく働いているだろうとは思う。でも、多分それだけじゃない。家には父の帰りを待ち焦がれた子供がいるかもしれない。若い人なら、恋人なり新妻なりが暖かい料理を作って待っているかもしれない。人それぞれなんだ。何も楽しみのない人間は、その人たちよりもっと、死んだような目をしてると思う。
 しかし、会社というのはきっと僕らが想像するより難しいものなんだ。だから、人は疲れる。ビルから一歩出たら、休みたいんだ。僕らがいつも週末を楽しみにするようにね。」
 うん、きっとそうだ。僕だってそうだったからきっとみんなも同じなんだ。そう思わなかったら、僕の神経がすり減ってしまっただろう。
 それに比べて、美和さんは強い。

 教室に着くと、数学の授業が行われていた。若い男性教諭は、僕が入室したことは無視して授業を続行している。朝からパンを食べている奴から熟睡している奴まで様々だ。僕に気を留める奴などいるはずがない。教師は確率についての熱心な説明を続けた。電車内の疲れたサラリーマンの話をしていた一昨日を思い出しつつ、僕はラッシュアワーを過ぎてガラガラの電車に乗って登校した。
 僕は平然と席につく。隣の席の、美和さんに比べて全然可愛くない眼鏡女子が、親切にも教科書を見せてくれた。
「おはよう。今ここね。」
「了解。センキュ。」
 僕は準備を整え、シャーペンを手にした。
 しかし、頭の切り替えが上手くいかない。さっき全力で自転車を漕いだせいだろうか、と一瞬だけ逡巡したが、すぐにそれではないと解った。僕は美和さんのことを考えていた。
 美和さんの受験。もしするとしたら、彼女は優秀だから、きっとトップ校に合格できるだろう。前に彼女のテスト勉強をみた時、彼女の勉強量が多いのは確かだが、それでもやはり、中高一貫校の三年生という学年を考慮しても、とても素晴らしい出来だった。彼女は非常に頭がいい。凡人には難しい問題だって、美和さんの手に掛かれば、たちまち基本問題に変貌する。私立は先取り学習をさせてもらえるので、上位層の学校なら、中三が終わる段階で既に高校内容を全て終わらせているのだ、と以前聞いたことがあった。でも、頭のいい彼女には、面倒事の多い私立に通って上の学年の勉強をする必要などないのではないか。彼女の望みは、窮屈な場所を抜け出すことだから。
 美和さんに問われたからには、きちんと答えを出さねばならない。一度は自分で考えるよう言ったが、あくまでそれは一時的な約束だった。僕なら受験するかどうか、彼女に答えなければならない。必ず正しいと証明できる式を立てられる数学とは違って、このような問には答えがない。僕は数学が得意だ。とにかくこの問題は難しい。
 さて、受験をしなくて良いが、息の詰まる環境か、厳しい偏差値競争を乗り越えなければならないが、それが出来れば息のしやすい環境。どちらがいいだろうか。僕の目には、彼女を支配する親は後者の存在を忘れているようにさえ映る。僕ならどうするだろうか。ただ、そもそも中学受験の段階で真面目に取り組んだとは思えない。きっと僕が美和さんなら、本物の美和さんとは、全く異なる今を生きていただろう。だったら、感性豊かな美和さんがそれを生かした未来を歩むなら。
 学校、家庭、電車。色々なものが見えて、僕にはわからない世界で悩み努力している美和さん。嗚呼、なおさら難しくなってきた。
「では問の二四番を、今日は六月十九日だから、出席番号十九番の方。式と答えをどうぞ。」
 しまった、聞いていなかった。
「ほら、六十二ページの練習問題。P(C)=3/5×1/50+2/50×1/100=2/125。よって取り出された部品が不良品である確率は2/125!」
 眼鏡女子が囁くのを僕は復唱した。
「オーケー、その通り。解説はなしでいいだろう。」
 眼鏡女子が僕に微笑みかけてくる。助けてもらえてほっとした。僕は礼を言う。
「助かったよ。」
「いいえ。」
 教科書を見て、僕は今答えたばかりの問題を自分で解いてみる。難なくできた。でも、美和さん。君はなんて難しいことを考えているんだ。
「ねえ、いつも何考えてるの?」
眼鏡女子が話しかけてきた。
「は?」
「いや、いつも難しい顔してるくせに授業聞いてないから、ちょっと気になって。」
「余計なお世話だ。ただし一つ言うなら、難しい顔をしているつもりはない。そう見えるならそうなのかもしれないが。」
「何を言ってるのよ。」
 眼鏡女子は呆れた素振りを見せた。
「僕には数学よりも大切で難しい問題があるんだ。今取り組んでいるものは特に難解だ。教科書の問題について思案する時間があるなら、僕はそっちに取り組むよ。」
「また赤点だらけでも知らないよ。もう今度は前みたいに助けないから。」
「二の舞にさえならなければなんでも良い。」
「またそう言って。この間はあれだけ手伝ったのに、赤点いくつあったのよ。」
「前回は高校で初めてのテストだ。勝手が分からず良い点が取れなくとも、致し方ない。」
「はは、そっか。じゃないよ! ずっとその調子でいたら、絶対留年だよ!」
 やっぱり、このおせっかいな眼鏡女子は、美和さんに比べて全く可愛くない。


 美和さんの部屋の窓が閉まっていた。美和さんが僕の答えを待っている。僕は軽く二回ノックした。
 呼び掛けると、小さく返事が聞こえた。窓が開かれる。
「進路、なんて書くか決めたか?」
「まだよ。少なくとも君の意見を聴いてから書こうと思ってるんだってば。」
「僕がもし君なら、と考えた。」
 ひと息置いてから言う。
「君は受験すべきだ。」
 美和さんは何も言わない。もしかして、もうひとつの方を彼女は期待していたのか。いや、まさかそんなことはないだろう。
「そう。」
彼女はぼそりと呟いた。
「私が受験することで周りに迷惑がかかったとしても? もし仮に親が許してくれないのには大きな理由があったとしても? 私しか、受験して得する人がいなかったとしても?」
 噛み締めるように、でも一息に君は言った。
「君自身がやりたいからするんだろ。だったら、細かいことは後からでもなんとかなる。大丈夫だよ。」
「わかった。
 振り回しちゃってごめん。でも、意見が同じなら安心した。やりたいからやる、それが一番だよね。」
 君は微笑を浮かべた。
「それはそうとして、大丈夫なのか?」
「両親を説得するのが、一番最初でしかも一番狭い関門だもんね。」
「君の熱意はきっと伝わる。惰性で過ごしている人より、目標をもって取り組む意思のある人の未来は、きっと明るいと思う。」
「カッコよ!」
 なぜか囃し立ててきた。
「もう、やめろよ。美和がいたい場所に行けばいいと思っただけだ。その方が君にとっていいと思ったんだよ。」
 人をイジるときの鉄則をこの人は知らないのだろうか。相手がボケた時こそツッコミを入れるべきだろう。
「相談してきたのはそっちだろ。僕は想像でものを言ってるだけ。聞かれたことに答えただけだ。」
「それであのセリフは出ないよ。」
「別に普通だろ。」
「わかってないなぁ」
「何が」
 僕は語気を強めた。
「女」
「女なら充分理解している。小中学校の保健でさんざん習ったじゃないか。男女の違いは、」
「はいはい、分かった分かった。」
「おい、聞いてないだろ。」
 美和さんが引っ込んでいった。
 今のは何がしたかったんだ、まったく。
 しかし、なかなか楽しかった。あれでこそ、彼女だから。

 母親の元に行き、美和さんはついに話を切り出した。
貴女(あなた)、何言ってるの?」
「だから、私は受験を、」
「冗談じゃない。私がどれだけ苦労したと思ってるのよ。貴女をあの名門に入れるために私が何をしてあげたのか、貴女は理解しているの?」
「私、頼んでなんかいない。」
「馬鹿ね。貴女は跡取りなのよ。」
「私は、自分の将来は自分で決める。」
「そう言って、落ちたらどうするのよ。ちゃんと考えているんでしょうね。」
「簡単ではないわ。それは重々承知よ。でも、私の居たい場所はここではないの。」
「何を言ってるのよ。入学した時はあんなに『素晴らしい学校よ』って言ってたのに。貴女、もう忘れたの?」
「悪い学校だとは思ってない。でも違うの、そうじゃない。」
「何がしたいわけ?」
「息が詰まるの。ネット上の評価なんか当てにならない、実際に通った人の意見が一番参考になるって、お母さんはあの頃言ってたよね。確かにそうだと思うけど、入学してみたら実情は違ってた。悪い話がないのは率直な声を抑えつけてるだけ。偏差値は県内で一番高く出るけど、進学実績がいいからでしょ。そんなのくだらないよ。行事は盛り上がらないし、ことあるごとに競争させられるから、クラスの子たちは全然仲良くならない。」
「貴女は特進クラスじゃない。そこはより高度な勉強をするため場所なんだから当然でしょ。」
「中学時代も高校時代も、人生に一度しかないのよ。勉強ばっかりの十代なんて嫌。ワイワイガヤガヤとバカみたいに騒いでこそ高校生じゃない。私だって楽しいスクールライフを送りたいっていう願いはあるの。偏差値なんて、そう考えたらどうでもいいわ。」
「偏差値なんてどうでもいい。貴女、言ったわね。学校は勉強するところなのに、勉強ばかりは嫌だなんて。勉強して賢くなって、そして医学部に進む。それが貴女の約束された将来でしょう。あなたは愚かよ、あなたは愚者よ。」
「いくら私の話でも、ちょっとは聞いてくれたっていいでしょ。私が私の将来を決めるの。私以外、私の将来の選択には関係ないの。」
「解った。誰かにそそのかされたのね。誰に勧誘されたの?」
「自分で決めたことよ。」
 母に話をしても、まったく聞く耳を持ってくれなかった。微塵も期待していないが、同じ話を父親にもする。僕は美和さんの気持ちを、そうプロファイリングした。
 あまりに大きい声で言い合いしていたのと、美和さんが自室の部屋の窓を全開にしているせいで、会話が全部聞こえる。
「はあ? 朝丘高校を受験する? お前は何を言っているんだ。」
 続いて、部屋に籠る父のもとへ、美和さんは押しかけた。
「そのままのことよ。私は受験する。」
「わざわざ天陽を受験させた意味がなくなるだろ。」
「重要なのは、私が何をしたいか、でしょ。そんなにあの中高一貫校に通うことが大切?」
「あの学校は設備が充実しているし、生徒のサポート態勢も万全だ。なぜそのまま四年生に進級しないかの方が、俺には疑問だ。」
「少子化の影響でレベルなんて落ちてる。お父さんの時代の三十年前とは違うのよ。私立を受験してなんぼの時代は、とうの昔に終わったの。今は公立の時代よ。教育費の高騰が問題視されるようになって、私立は気取ってる人達のような印象が出来てきたわ。それに、今の学校の雰囲気だって言うほど良くない。毎月何人が相談室行きになってるのか知ってるの? カウンセリングの申し込みが増えて、学校はスクールカウンセラーを追加で雇ったのよ。あと三年もこんなところにいるなんて、頭が痛くなる。」
 一気に捲し立てる。
「そんなことで逃げようとするとは、言語道断だ。」
「そんなことって言ったわね。オッサンのあんたにはどうせわからないでしょう。あ、違った。わかろうとしないだけだったわね。」
 父の歯切れが悪い。言い合いの声を聞いたからなのか、礼子も本棚が多すぎて狭苦しい部屋に入ってきているようだ。
「おい、お前はどう思う。」
「勝手にお母さんに振らないで。私はお父さんに訊いているわ。」
「俺にはまだ仕事が残っているんだ。すぐ病院に戻る。お前の話はまた今度だ。」
「嘘つき。家で仕事することなんてないじゃない。」
「親を嘘つき呼ばわりするとは何だ。」
「家でしか威張れないからってふんぞり返ってるの、気持ち悪いからやめてくれない?」
「誰が威張ってるんだ。俺は仕事だと言っているだろ。」
「丸投げするのね。良いわよ、お父さんはそういう人だもの。」


「うち、なんかもう壊れてるわ。」
 美和さんの第一声が、こんなに物騒なものになるとは思わなかった。
「昨日の夜、言ったのか?」
 聞こえていたんだから何も聞かなくてもわかるが、一応尋ねる。美和さんは僕に対して自分の気持ちを吐き出したいはずだ。僕は美和さんの気持ちを受け止めなければならない。要りもしない使命感を感じた僕は、すっとぼけた。
「そうよ。」
「どうだった?」
「なんかもう、聞く耳持ってくれない。」
「そうか。つらいな。」
「そう言ってくれる人は君だけだよ。」
「僕は応援している。」
「心強いね。」
 何と言えばいいのか不明だ。沈黙の時間が流れる。
「こんなところ、出ていきたい。」
 またも何と返せばよいかわからない。
「まだ諦めるには早いと思う。」
「説得は続けるよ。でも用紙の提出期限は近いし、」
「だから諦めるのか?」
「諦めたくはない。」
「他の誰もに反対されたとしても、僕は必ず応援する。」
「ありがとう。」
 美和さんの元気がないと、僕も憂鬱になる。気詰まりな空気になってきたところで、スマホが軽快な音楽を奏で始めた。電話だ。僕が所属するパソコン部の、江口部長だった。僕は、彼女のことは「部長先輩」と呼んでいる。
「文化祭で流すフラッシュの件、今年も例年通りパソコン部が作ることになるから、明日の部活で一年生にはいろいろと説明するわ。全員強制参加よ。あんたはサボり魔だから一応電話したけど、いいね? 私、ちゃんと言ったからね。」
「はいはい、聞きました。了解しました。」
「サボるんじゃないよ。一年で一番大変なんだから。去年も一昨年もその前も、パソコン部総出でやったのよ。あんたも早いとこ覚悟決めてよ。」
「こんな厳しい部長がいるとは思わず入っちゃったんですよ。選択ミスでしたかね。」
 電話の向こうから先輩が吐いた息のフフッという音が聞こえてきた。
「馬鹿言ってんじゃないよ。じゃあね。切るよ。」
 お節介な部長先輩は女子っぽくない。隣の席の眼鏡女子とどことなく似た雰囲気がある。どうやら、僕はおせっかいな女に好かれるらしい。
 でも、あの人は能力があるから、言うことを聞かない訳にはいかない。参ったもんだ。帰りが遅くなったら、美和さんといる時間が減るではないか。
 できる限り君の傍にいてあげたい。僕なら悩む君の隣にいてあげられる。正直言って、フラッシュなんかどうでもいい。なるべく楽な部に入って、家にいる時間を長くしたいと思って入部を決めたが、誤算だったようだ。噂には聞いていたが、やはり文化祭前のパソコン部は相当忙しいらしい。こんなことなら、生物部に入って、毎朝ウサギの世話をする方がまだ楽だったかもしれない。
「終わった?」
「ああ、終わった。」
「誰からだったの。」
「パソコン部の部長。」
「その人って女子なの?」
「ああ、そうだ。パソコン部の部長が女子って変な感じだろ。その部長先輩が、明日はサボるな、だって。」
「まさか、いつもサボってたの?」
「最大限サボれる部活を選んだが、文化祭の時期ですら暇なところはさすがにないんだ。うちの部もこれからしばらくは忙しい。」
「高校生なのに帰りが早いから、おかしいなとは思ってたけど、そういうことだったのね。」何かに納得したようで、首を小さく縦に動かしている。
「文化祭っていつなの? 見に行きたい。」
「十月の二週目が全部そうだよ。毎年同じタイミングなんだ。」
「早くから準備するのね。まだ六月なのに。」
「規模が他校と比べて相当大きいからな。」
「すごいね。楽しみにしてる。」
「一年五組だ。待ってる。」
 僕は表情筋に何の指令も送っていないのに、勝手に動いていやがる。僕は美和さんとは反対側を向いた。
「ちょっと、なんで壁見てるの?」
 半分笑って、半分本気といった口調で聞かれた。
「ニヤけてる?」
 そうだ、と言いたいところだが、言わない。
「え、まさか泣いてる? なんで?」
 外れだ。
「君、意外と涙もろいタイプだもんね。あ、もしかしてエロいこと考えてる?」
 おい、そんなわけないだろ。茶化すにも、正しいやり方と間違ったやり方がある。
「こんなところに女の子がいたら想像しちゃうよね、男の子だもんね。」
「いい加減にしなさい。」
「図星かな?」
「馬鹿か。イジりすぎだ。」
 しまった。振り返ってしまった。
「やっぱりにやけてる。」
 嗚呼。
「私が来るのが嬉しいんでしょ?」
 美和さんは一拍置いて続ける。
「来年は、お客さんじゃなくて開催する側になれるように頑張るから、応援、よろしくね。」
 礼子さんが美和さんの部屋にいるとは知らず、僕は微笑んだ。

第1章 憧憬-雨天-

 窓を開け、僕は地面に向かって飛び降りる。今日の磯村家も騒がしい。このところ親子喧嘩が絶えない。美和さんに受験を薦めたのは僕だから、なんだか申し訳ない。
 朝の日課であるランニングは、夏休みだろうと関係なく、毎朝五時から行う。起床後、朝帰りしてソファで寝ている母を尻目に、顔を洗う。服装も化粧もばっちり決め、高い能力をもつ女性社員が、まさか家ではこんな姿で寝ているなんて、誰が想像するだろうか。自室に戻ると見せかけて外に出て、僕は空気を吸い込む。
 六時に家に戻ると、出発前には寝ていたはずの母は既にいなくなっていた。
 美和さんの部屋に向かって呼び掛ける。厳しい名門校の夏休みは短い。あと一時間もしたら、美和さんは出発だ。本来勉強に充てるべき彼女の朝は、僕との時間として使われている。と言っても、僕たちがする話は勉強の内容ばかりだ。そんな中気になるのは、最近の彼女がいつも元気ないということ。
「動滑車が三つあったら、この紐にかかる力は六分の一になるってことでいいよね? なんかこの問題、どうしても合わないんだけど。」
 今日も例外ではなく、彼女はいきなり質問してきた。仕方ない、夏は受験の天王山だ。
「この因数分解、もしかしてたすき掛けを二回やらなきゃいけない系? それ高校内容じゃん。別に解の公式でも無理じゃないけどさ、たすき掛けの方が早いもんね。ちゃんとやっといて良かったぁ。」
「『北緯六六.六度の場所では、夏至の日に太陽の日周運動はどのようになるか。解答欄に合わせて図示せよ』。うわあ、苦手なやつ。こんなのの解き方、もう忘れちゃったよ。」
 話を聞いていると、彼女が文系であることが見えてくる。
「ねえ、こないだうちの学校の過去問パラパラ眺めてみたんだけどさ、国英は意外と出来そう。ただね、理数はどうもね。」
「僕は理系だから、いくらでも教えるよ。」
 そうして二人で勉強しても、受験を許されなければ意味がない。これがどうにも厄介だ。娘の思いを少しは理解したのか、一応態度が軟化している。しかし、はっきりとは認めていない。
 本日も十時から部活がある。美和さんの勉強をみて、彼女が残していく難問を片付け、そして電車に乗る。各団体が発表で使うものとして依頼してくる為、パソコン部が制作するフラッシュの数は、部員数のおよそ三倍だ。つまり、パソコン部員は夏休みの前半、コンピュータ室の椅子に座り続けて尻が痛くなるくらい、自分が担当するフラッシュ三つと格闘しなければならない。というのも、フラッシュが早いうちに出来ていないと他に支障がある、という団体は少なくなく、パソコン部は準備期間が相当短い。夏休みを目一杯使いたいところだが、それは不可能なのだ。しかし、八月は暇という訳もなく、修正を頼まれる場合は多い。一部の部員は、目薬必須の生活を強いられている。僕は一年の一、二組と吹奏楽部を担当することになった。これは、全員参加させられたあの日に分担したものである。かなり多い。部長先輩改め、鬼先輩に呼び名を変えてやろうか。
「どこまで進んだ?」
 げっ。鬼先輩が僕のところに様子を見に来た。
「半分くらいっすかね。」
「そう? ちょっと見せて。」
「あ、大丈夫です。問題なく、かつ順調に作れてますから。」
「目が泳いでるけど。」
 はい、すみませんでした頑張ります不服は全くありません。
「まあ、頑張って。」
 右の口角だけが上がっている。怒ってるやつだ、これ。
「来週リハあるから。間に合わせてね。」
 鬼は一体何を言ってるんだ、と思った。リハーサルまでに全部作り終わるなんて、今のペースで進めていたら無理だ。
「おい、どこまで進んだ?」
 仕方なく、屈辱感を味わいながらあいつに訊きにいった。
「最後のひとつが、あと半分ってところだ。」
「ちょっと僕の分、手伝ってくれない?」
「ああ、いいよ。」
 僕には小学生以来やっと友達らしいものが出来た。同じ部でクラスは違う、前原だ。彼は定期考査で学年一位を獲得し、さらには入学式の首席挨拶も担当していたため、既に校内の有名人だ。同じ中学からここに進学した者曰く、僕は柔らかくなったらしい。僕自身としては心外だ。いつも思い出すことは変わらない。
「お前さ、彼女でもいるのか。」
 唐突に前原は僕に質問した。
「何だ、気になるのか。」
「その反応は、いるってことだ。そうか、いるのか。お前は見てくれがいいからな。」
 画面からは目を離さないこの友に、僕は僻まれている気がした。
「彼女はいないが、素敵な子ならいるぞ。」
「羨ましいな。」
「ガールフレンド、欲しいのか。」
「ノーコメントだ。」
「僕だけに言わせるのはずるいぞ。」
「実は最近な、」それだけ言って黙りやがった。
「何だよ。さっさと言え。」
「お前は幸せそうだな。」
「妬みかよ。」
「ちょっと、無駄口叩く暇あったらキーボード叩いてくれない?」
 鬼先輩の怒号が飛んでくる。
「さーせん。」
 嗚呼、面倒臭い。
「これいつになったら終わるんだよ。」
 僕は私語を慎まなかった。
「あと一週間くらいだろ。」
「長いな。」
「ちょっと知り合いが受験生でさ、今度模試があるんだよ。親が反対してるんだけどさ、本人を僕は応援してるから。」
「高校受験に反対してるのか?」
「そうだ、中高一貫校なんだよ。」
「なるほど。それで?」
「何とか模試の結果を見て考えて欲しいって彼女が頼んだんだよ。それが今度の日曜ってわけだ。」
「もう少しじゃないか。」
「彼女、塾に行かせてもらえないから、僕が勉強をみてるんだ。なかなかレベル高くてね。大変だよ。」
「そうか。」
「だから、何とかして頑張って貰いたいんだ。早く帰って一緒に闘ってやりたい。」
「ここまで全部ノロケですかい。」
 やれやれ、とでも聞こえてきそうだ。
「朝丘を目指してるんだが、絶対に落ちない受験でないならやらせないなんてスタンスでうちは無理だろう。何せ父親は立派な脳外科医、娘は中学から天陽。絵に描いたようなエリート一家で、親は判定がAAAでなかったら駄目だといって譲らなくてさ。」
「ハードル高いな。AAAだったらほぼ間違いなく受かるって意味だろ。」
「その通りだ。」
「その子に俺も応援していると伝えておいてくれ。」
「了解。きっと彼女、喜ぶぞ。」
「結果、出たら教えろよ。」
「おう。」
 美和さんが模試で一点でも多くもぎ取れるように、僕は早く家に帰らなければならない。一応両親が「模試でAAAだったら受験してもいい」と言ったんだ。彼らはあまり乗り気でないとはいえ、ここまで多少なりとも好意的になったのは大きな進歩。このチャンスを活かさない訳にはいかない。
「そういえば、住田(すみだ)先輩が盲腸になったって聞いたんだが、大丈夫か。」
 前原が話題を変えた。
「病状は知らないが、大丈夫だろ。もう盲腸なんてさほど深刻な病気でもないしな。」
「手術したらしいぞ。これ見ろ。」彼は使用していたパソコンの画面をこちらに向けた。パソコン向けのラインのトーク画面だった。
「江口先輩から頼まれた。『住田くんは少しの間休むから、前原くん、お願い。』ってな。」
 さすが前原、部長にも信頼されている。
「手術か。大変だな。一日も早い復帰を祈るよ。」
「あまり人には言ってないんだが、俺も昔手術を受けたことがあってさ、苦労はよく分かる。住田先輩、心配だな。」
「お前も大きい病気したことがあったのか。僕は経験ないけど、ああ、もしかしてお前も虫垂がないのか?」
「違う。頭の手術だ。中一の春休みから中二の一学期を丸ごと棒に振った。まだ右耳の後ろ辺りに痕が残っている。これでもプライドはあるから、成績がオール一になるのだけは避けたくて、病室で勉強してたさ。定期テストも、担任の先生が親切で、病院で特別に受けさせてくれた。それのおかげで、俺は朝丘に入れたのかもしれねえな。」
「初耳だよ。お前、苦労してるんだな。」
「まあ、人並みには。」
 僕は、彼は人並み以上に苦労していると思ったが、それは口に出せなかった。前原なりの謙遜なのだろう。
 続く言葉がなくなり、会話は自然に終了した。鬼が満足そうにこちらを見たことが分かった。


「美和、どう?」
「ちょっと数学みてくれない?」
「了解。どの問題だ?」
「問四」
「うわ、面倒なやつだな。これ出題回数少ないと思うぞ。」
「重要って書いてあるんだもの。」
「解きたいんだな?」
「まあ、そういうこと。」
「これは、地道にやるのが案外近道かもな。
 まず円周角の定理を使って角Cを求める。すると向かいのAも判るのは基本だな。」
「そこまでは出来たの。」
「次に角Bから対角線を引き、Aから対角線を引いたところの交点を見つける。」
「あっ。判ったかも。」
「自分でやってみるか?」
「うん。」
 美和さんがついさっきまでやっていた社会の問題集を覗く。なるほど、地理か。資料を読み取り、それぞれの国名を答える。なかなかマニアックな知識が必要になるが、どうやら美和さんは正しく答えを導けたようだ。国社英ができれば後は数学。公立の入試問題は県内の全校で同じなので、中堅層でも解ける問題ばかりだ。美和さんなら、理数が苦手だとしても問題ないだろう。
 僕らの頭を悩ませるのは、試される場が模試であるということだ。
 第一志望校が最難関私立の者も受験する、非常にレベルの高いフィールドで戦うことになる。美和さんより出来る奴がどれだけいるか。ご両親もよく考えたものだ。
「いけそうか?」
「うん、大丈夫。」
「これ、去年僕が中三だった頃使ってた問題集だ。おそらく君のレベルに合っていると思う。良かったら使ってくれ。」
「あら、ありがとう。」
「僕はこれからやることがあるんだ。戻るよ。」
「今日もありがとね。」
「頑張ってな。でも無理するなよ。」
「うん、わかった。」
 僕は美和さんの部屋の窓から出て自室に帰る。ノートパソコンを立ち上げ、プログラムのファイルを開く。キーを叩き、気がつけば深夜になる。最近のルーティンだ。
 カタカタカタ
 木霊する音、夜の静けさ、静寂。僕の周りには無機質な音以外のものはない。
 気付けば、僕は机に突っ伏して眠っていた。

 彼女が僕の部屋にいる。
 いや、でもインテリアが僕の部屋ではない。熊の絵があしらわれた壁掛けのアナログ時計、小学校四年生の時、図工で作ったペン立て、市販の計算ドリル。ああ、なるほど、そういうことか。
 僕が花織の部屋にいる。
 花織は窓から地面に飛び降りた。
 住宅街を一息に走り抜け、渡虹橋駅へ向かう。エレベーターはちょうど彼女の目の前で行ってしまったので、君は階段で改札へと向かう。桜通線の階段は尋常じゃなく長い。それを、君は一段飛ばしで下りる。長さを感じさせない、軽やかな動きだ。
 花織は機械をスムーズに操作し、切符を購入する。そこで君と僕は合流する。僕の方は、ちゃっかりエレベーターを使った。
 タイミングよく来た電車に乗り、目的地へと出発する。
 二人とも、まだあどけなさが残っていた。
 子供用のリュックサックを背負い、子供用の運動靴を履き、手には買ったばかりの子供用の切符を持っている。それには、「渡虹橋→栄」と記されていた。
 徳重、神沢、相生山、鳴子北、野並、鶴里、桜本町、新瑞橋。妙音通、堀田、伝馬町、神宮西、西高蔵、金山、東別院、上前津、矢場町、栄。
 運命の一時間。
 僕は花織について行く。てっきりサカエチカか地上のデパートにでも行ってショッピングするのだとばかり思っていたが、違うようだ。彼女は改札ではなく、名城線のホームの反対側へと移動する。また戻るだなんて、行き先を間違えたのかと訝しんだ。使い慣れないつもと違う型のホームに、僕は違和感を覚えた。僕は彼女の後ろにいる。
「ねえ、喉乾いた。どんなのでもいいからお茶買って来てくれない?」
 彼女は僕に百二十円を手渡す。僕も喉が乾いてきたところだった。周りを見渡しても自販機は見当たらないので、彼女にはその場で待っているように言い、僕はその場を離れた。地下街の端でやっと見つけた自動販売機で僕は麦茶を二本買う。五百ミリリットル入りのもののうちで、百二十円で買えるものは麦茶しかなかった。彼女が待っているはずの場所へと引き返す。しかし、花織は見当たらなかった。なぜだろう。
 花織が乗ろうとしていた名城線左回りのホームへと向かう。
 その時、複数の女性の悲鳴が聞こえた。様々な高音のキーが混ざり、不協和音となっている。実に不快な音。麦茶を抱え、僕は花織の行方を追う。彼女はさぞ驚いているだろう。
 でも、一向に見つけられない。
 そしてさっき感じた違和感の正体に、僕は気付いた。桜通線にはガードがついているのに、ここにはない。自分にとっての当たり前のものがないだけで、こんなにも不自然に感じるものだろうか。
 右手で流れてきた汗を拭ったとき、「そこの君、」と後ろから呼び掛けられた。咄嗟に振り返ると、見知らぬスーツ姿のサラリーマンの足元に、何かの物体を見た。先端は五つに分かれている。真っ赤な色をしている。一瞬はそれが何か分からなかったが、すぐに合点した。
 これは誰かの腕だ。腕が飛んできたのだ。
 それの親指の付け根には、大きな(ほくろ)がある。
 ああ、花織のものか。

 ⁉

 一歩遅れて、やっと僕は理解した。
 恐ろしくなって僕は駆け出す。何も考えられず、何でもいいから電車に乗って、この場を離れようとした。東山線藤が丘行きに飛び乗る。
 栄、新栄町、千種、今池。周囲の乗客の視線をひしひしと感じる。息を切らして乗車した少年の目線は、あまりの不安感に動き回っている。花織が好きな五人組男性アイドルグループが写った栄養補助食品の広告が貼られているのを見た。吹上、御器所、桜山、瑞穂区役所、瑞穂運動場西、新瑞橋、桜本町、鶴里、野並、鳴子北、相生山、神沢、徳重、渡虹橋。
 気がついた時には、麦茶は一本になっていた。


 僕は目覚める。午前三時半。嗚呼、また同じ夢をみていた。この内容の悪夢は、不定期に僕を襲う。
 この夢を見た日の朝は、決まって頭が痛い。イブプロフェンを口に放り込み、窓の外を見上げる。街はまだ眠っている時間だが、名二環を走るトラックのヘッドライトには切れ目がない。
 ベッドに移り、もう一度眠りにつこうとする。全身の全ての細胞が鉛に変わってしまったかのように身体が重い。でも、何故か眠れない。明日が終わって、明後日がきたらいよいよ模試だ。だるい身体をうんと力を入れて持ち上げ、パソコンの前で姿勢を正した。カフェインを摂り、自分を奮い立たせる。
 母はまだ帰ってこない。父は僕なんかに興味はない。暗い家に一人。虚しい。
 僕はパソコンを右手で払いのけると、机の引き出しから原稿用紙を一枚取り出した。書くことはもう決めている。美和さんへの応援メッセージだ。とても応援などできる気分ではなく、憂鬱が脳の大半を埋め尽くしている。しかし、僕は美和さんに喜んでほしくて、僕は美和さんの力になりたくて、ペンを手に取った。
「美和さんへ
 いよいよ模試の日がやってきましたね。緊張と不安でいっぱいになっていることと思います。今までたくさん頑張ってきたことは、知らず知らずのうちに、力になっているはずです。努力している姿は、受験の神様がきっと見てくれていたと思うよ。
 最後の最後まで、決してあきらめず、油断せず、全力で臨んでください。
 僕は勉強を教えることくらいしかできない、無力な存在です。でも、美和さんが合格できるように、この課題をクリアできるように、全力で応援します。一緒に頑張ろうね。
 三好晶より」
 書き上げると、僕はそっと全開の窓をくぐって美和さんの部屋に忍び込んだ。美和さんを起こさないように、抜き足差し足、彼女のカバンを手に取る。数学の問題集の適当なページに、今書いたばかりの原稿用紙を四つに折りたたんで挟んだ。
 僕は部屋に戻る。
 なぜか胸の奥にこみ上げるものがあった。両手で顔を覆う。泣きたいのに涙は出てきやしない。さっき払いのけたパソコンを元の位置に戻し、作業を開始する。
 しかし、まったく集中できない。仕方なく僕は着替え、窓から外に出る。まだ早いから、今日は少し遠くまで行けるだろう。いつものようにショッピングモールのある徳重方面ではなく、田畑の中を通る、細い道。一人で澄んだ空気を感じながら歩く。ゆっくりと、ゆっくりと。そうしていればいつしか、夜は明ける。オレンジ色に染まる大空。龍の形の雲は、自らがカメレオンであるかのように色を変えていく。このままどこかへ行きたい。美和さんと共に、世界中の旅に出たい。誰もいない農道で見る朝焼けは僕を強くした。何でもできる気がしてくる。アメリカ、ヨーロッパ、アジア、アフリカ。どこへ行っても、僕らはやっていける。
 たまには走らずゆっくりと満喫する。空を見て時刻を予想する。四時半頃だろうか。そろそろ美和さんは朝ごはんを食べているだろう。苦い空気の元で食べるご飯は不味い。緊張感を持って取り組むのは無論大切なことだが、息抜きは必要だ。僕は歩くのをやめ、走る。彼女のところへ早く帰ろう。僕と繋がったその場所へ。
 名二環を走る自動車は、トラックばかりだったのが変わり、一般の車が多くなっている。コンビニ前の不良はもう退散している。
 今日も朝が来た。帰ってきた途端、頭が回らなくなる。身体が重い。
 僕には美和さんさえいればいい。


「おはよう。ちょっといい?」
 いつも通りの口調で、美和さんは質問した。
「ああ。」
「これ、教えてくれない?」
「『メタンの燃焼の化学反応式を書け。』このくらい解説を読めばわかるだろ。自分でやってくれ。」
「昨日の夜、大丈夫だったの。」
「変なことを聞くな。特に何もなかったぞ。」
「嘘ついてない?」
「当たり前だ。」
「言っていいのか分からないけど、」
「何でも言えよ。」
「うなされてたんじゃない? 少し聞こえた。文化祭、そんなに大変なの?」
「君のところまで聞こえたのか。そんなに辛そうな声だったのか。」
「ええ、まあ。」
 優しさが体に沁みる。
「僕は全然大丈夫だ。それより、君は自分の心配をしろ。最後の詰め込み、しなくていいのか?」
「そうだね、頑張らなきゃ。今日はもう戻るよ。」
 美和さんは僕の方を気にしながら窓を跨ぐ。僕は懸命に平気な表情を作る。再び一人になった部屋の真ん中で、僕は大の字に寝転がる。布団などは敷かず、床に直に。
 息苦しい。辛い。どこかへ行きたい。
 玄関の鍵を掛ける音がした。母が家を出る時間だ。
 君は窓を決して閉めようとはしなかった。僕はそれの意味に気付かない。シャーペンを持ち、一応英語リーディングの最高水準用の問題集を広げる。環境保護についての長たらしい文など全く読まず、目は別の方向を向いていた。床に何も敷いていないので全身が痛いけど、だからといって動くのも面倒臭い。そのまま僕は眠る。彼女はずっと同じページを開いたまま、静かに座っていた。
 僕は一時間早く学校に行く。パソコンに向かい、作業の続きをする。部長先輩が僕の姿を見てぎょっとするのが分かった。せっかく打ち解けられた前原は僕を思いきり無視している。顔を見て思い出した。彼の応援メッセージを君に伝えなければ。僕はそんなに様子が変だろうか。いくつかの視線を感じ取りながら、僕は平然と作業を続ける。そして昼が来る。夜が来る。地球は動き、一日が進んでゆく。僕は家に帰り、ベッドに横たわる。そうして夢の世界に行っている間に、現実では、また今日と同じ明日が来る。同じなんかじゃなくもっといい日が来ていること。それを願って、眠りにつく。僕は昔の僕に戻った気がした。
 アラームが鳴る。彼女の特別な日でも、それはいつも通りの時刻に鳴り響く。
 美和さんと言葉を交わす。頑張って、いってらっしゃい、いってきます。僕は君の武運を祈る。今日が喜びの日になるか、悲しみの日になるか、それはまだわからない。悶々と一日を過ごし、何もしないうちに太陽は西へ傾いていく。大空は水色からオレンジ色に移り変わり、そしてそのグラデーションを眺めているうち、あっという間に今日は終わる。当たり前のことだけど、普段は気にしないから当たり前じゃないような感じだ。
 夕方、美和さんは帰ってきた。家に入る前にほんの少し足を止め、我が家の二階をそっと見上げた。彼女の姿からは、何も読み取れなかった。
「どうだった?」
「まあ、ぼちぼちかな。」
「そうか。君ならきっと大丈夫だ。」
「心強いね。」
 美和さんがいつもの明るさを持っていないような気がする。気のせい?
「出来たんだよな。」
「……」
「出来た、よな?」
「……。手紙入れたの、君だよね? ありがとう。感動した。」
「喜んで貰えたなら、何より。」
「久しぶりに、本当に感動した。」
 僕は無意識に微笑む。
「そんなに? たったあれだけなのに。」
「試験中なのに、泣きそうで、集中が、」
「集中出来なかったのか?」
「いや、そんな大袈裟なことでもないけど。」
「悪かったな。君はあれだけ頑張っていたのに。」
「ううん。いいの。そうじゃないの。」
「え?」
「嬉しかったから、いいの。謝らないで。」
「そうか。」
「うん。」
 美和さんが、にっこりと優しい笑顔を浮かべた。
「でも、ちょっとまずいかもね。」
「親?」
「そう。」
「だよな……。」
「啖呵切ったからね。結果がついてこなかったら一体どうなるやら。」
「その時は、僕の元へ来ていいよ。」
「じゃあ、その時には真っ先に君を頼ろうかな。」
「構わないよ。」
「逃避行とかする?」
「案外楽しいかもな。」
「どこへ行こう。」
「市内? 市外?」
「どうせなら県外もありかもね。」
「東京とか。」
「いいね。」
 僕は君との旅を妄想する。僕はもう自分に気がついている。
 いつかここを出る。息苦しくてたまらない、この家を出る。たとえそれが一時的な衝動だとしても、今の僕の気持ちには嘘はない。この場所を離れれば僕は解放されるだろうか。清々しい川沿いの街は好きだけど、それとこれとは話が違う。
「話は戻るけど、結果の詳細はいつ届くのか?」
「早くて一週間で届くそうよ。」
 もうそろそろ部活での文化祭関連の作業は佳境に入るはずだ。来週は美和さんとゆっくりしよう。AAAだったら、美和さんはさらに精進する。そうじゃなくても、何とか認めて貰えるように精進する。来週の一週間はゆっくりしよう。最後の呑気な休みかもしれない。
 僕らは深夜まで語り合う。もし家を出るならどこで暮らす? 食べ物はどうする? お金はどうやって稼ぐ?
 新たな日々が始まる時、僕たちはきっと笑っている。


 気ままに過ごす夏休みは心地いい。いつもは二十四時間何かに追われているからなおさらだ。
 寝不足の自分に鞭を打ち、また学校へ行く。もう仕事は終わったから、部長先輩が慰労会をしてくれるそうだ。ひとまず学校に集合したあと、全員揃って店に行く。久々に僕は自転車を全速力で漕いだ。最近はいつもダラダラと移動していた。どうしても力が出なくて、じめじめした湿気ばかりを肌で感じていた。
 今日は晴れ晴れとした夏の空気を味わう。僅かとはいえ出されている課題に手をつけないと、さすがにまずい。身体が力強く動くのとは裏腹に、脳は冷静だ。
「そういえば、前に言ってた受験生はどうなった?。」
「ああ、結果待ちだよ。もうすぐじゃないかな。」
「こないだの日曜だったよな、模試は。出来はどうだったとか、何か言ってたか。」
「ぼちぼちだと。」
「あ、そう。」
「そんなに気になるのか。」
「お前から女の話を聞くとは思わなかったからな。全くオーラがない。」
「光栄だよ。」
「煎餅食うか。」
 リュックからバリバリに割れた醤油煎餅を取り出し、前原は僕に差し出した。高級な店のもので、いつかは原形を留めたものを食べてみたいと思った。サクサクした、最高の米粉を使ったことで生まれる食感が素晴らしい代わりに、異常なほどに割れやすい。
「おう、貰うよ。」
 君はきっと大丈夫。大丈夫。

 昼で会は終了し、仲間とファミレスでカレーを食べたあと、家に帰った。カレーは不味かった。学校付近では快晴だったのに、渡虹橋は土砂降りだった。おそらくスコールのようなものだろう。傘を持っていないので、濡れるしかなかった。ひとまず終わって清々しくていかにも晴れた空が似合いそうな気分だったのに、この土砂降りの雨のせいで萎えてしまった。濡れネズミになりながら、僕は悠然と歩く。どの家も白昼なのに電気が灯っていた。
 増水した緑川を尻目に、自宅へと近づいていく。そこで僕は気がついた。美和さん宅から大きめの声が聞こえてくるが、部屋の中は真っ暗。頭上にハテナマークを浮かべながらも、そっと彼女の家に近づいた。声に耳を傾ける。
「先日の模試の結果が届いた。AAか。駄目だな。お前こそは朝丘くらい余裕とばかり考えていたが、思い違いだったようだな。世の中は決して甘くないぞ。」
「申し訳ありませんでした。でも、私は諦めません。」
「馬鹿なことを言うな。落ちたら俺の顔に泥を塗ることになるんだぞ。」
「お父さんにとっては、メンツが全てなんですか。」
「病院での立場に傷がつくんだぞ。そうなったら、美和の将来に関わる。」
「私は言ったはずです。自分の将来は自分で決めると。美和ちゃんも私も、一心同体。」
「美和もお父さんも、親子なんだからそんな堅い口調はやめたらどう?」
「真面目な話をしているんだ。」
 美和さん、ダメだったのか。
「もう一度言います。私は諦めません。」
「美和。お父さんもこう言ってるんだから、もういいんじゃない。」
「良いわけがない。私の居場所はここじゃないの。美和ちゃんだって絶対怒らない、私がここにいる間、私が私のための選択をすること。」
「つべこべ言うな。お前は、失敗したんだ。」
「まだスタートすらしていないのに、失敗も何もないでしょう。」
「これ以上楯突くなら、ここを出ていってもらうぞ。そんなに進路について不満があるなら、もうお前を置いておく理由はない。世の中いくらでも優秀な子供はいるから、俺は少しも困らない。少しは今までの感謝の意を示したらどうだ。」
「ええ、感謝はしています。でも、それとこれとは話が違う。」
「今さら違うも何もない。」
「いいえ、あります。また同じことをするんですか。あの子がいないうちは私で、美和ちゃんをどうしても医者にしたいんでしょう?」
「何年も前のことだ。忘れろ。」
「美和ちゃんはお父さんにとってそんな風に思われていたのね。忘れようと思えば簡単に忘れられるのね。」
「だったら何なんだ。」
「あなたの娘よ。美和ちゃんが不憫だわ。」
「二人とも、模試の話をしてるんでしょう。」
 礼子さんが口を挟む。
「こんなところに来るんじゃなかった。」
「嫌なら出ていっていいんだぞ。」
「喜んで出ていくわ!」
「ちょっと、あんまり大声出さないでちょうだい。」
「近所にきこえるから? どうでもいい。私には近所なんてどうせ関係ない。」
「俺にとってはずっと近所だ。」
「また周りを気にするの?」
「ねえ、あなた、何してるのよ。」
「あはは、『あなた』って、笑わせないでよ。さっきからはずっと『美和』って言ってたくせに、急に名前で呼ばなくなったのはどういう意味?
 私を美和にしたのはあなたじゃない。」
「人のせいにするな。」
「私は美和ちゃんや花織のためにここに来た。おじさんやおばさんのためじゃない。」
「俺のせいにするのか。」
「うるさいね。私は準備してるの。出ていくためのね。行き先は分かるでしょ。」
「いいか。美和はお前なんかより断然優秀になれるはずだった。弱かったからああいうことになったんだ。そんな弱点さえなければお前より必ず優秀になれた。今は仕方ないだろ。あいつに見合うくらい賢くなれなけりゃ受験は許せない。姉貴のためなら、俺はお前が出ていったところで、何も困らない。」
「わかったわ、伯父上様。」
 えっと、つまり?
 頭の中が整理しきれていないうちに、リュックを背負った君が出てきた。リュックは思いの外小さかった。
「あれ、そこにいたの? 今日お楽しみ会じゃなかったっけ。思ったより早かったね。」
「昼までで終わりだよ。ちょうど帰ってきたところだ。」
「お帰り。」
「なあ」
「聞いてたでしょ。」
「カオリって誰だ?」
「さあ、誰でしょう。」
「とぼけないでくれ。」
「君、知ってるよ。」
「あの花織のことか? あの子を知ってるのか?」
「三年前、一緒に出掛けたことがあったでしょ。それ、私知ってる。」
「どういうことだよ。」
「そんなことはいいから、今日ちょっと泊めてくれない?」
「家出か。隣の家じゃ、すぐばれるぞ。」
「大丈夫。迷惑はかけない。無理そうかな。」
「無理じゃないけど、何のお構いも出来ないぞ。飯を作るくらいならいいけど。」
「十分よ。じゃあ、よろしくお願いします。まさか、本当に君のところに行くことになるとはね。」
 玄関の鍵を開け、美和さんをリビングに通した。
「ベッド、僕の分と両親のやつしかないから、適当に客用のを出すよ。」
「聞かないのね。」
「聞きたいよ。でもその調子じゃ、君は教えてくれないだろ。」
「自分で調べてみて。」
「普通に言ってくれたっていいんだ。その方が楽だろ。」
「それは、君に対してだけは出来ないの。君は絶対驚くから。きっと私も辛いし、君も辛いと思う。」
「何なんだよ! 回りくどいな!」
 思わず大きな声が出た。慌てた美和さんは口の前で人差し指を立てる。
「でも一つだけ教えるとしたら、私には会いたい人がいるってことかな。」
 自分はさっきカレーを食べたばかりだが、僕が唯一できる料理もカレーだ。彼女の為だと思って、今日は二食同じものを食べる。ルーと人参と豚肉を買いに行かなければ。
「じゃあ、早速だけど材料を買って来るよ。適当に時間を潰して待っててくれ。」
 橋を渡ってしばらく歩いた先にある、自宅から一番近いスーパーに行った。雨は降り続き、短い距離でも服が濡れる。どうせ既に川で溺れたネズミみたいな状態だったんだから、僕には関係ない。

「じゃあね。ばいばい。」
 美和は一人で呟いた。
「やっぱり、君にお世話になることはできないね。」


 僕はベッドに身を投げ出す。身体が鉛でできているのかとすら思う。花織がどうした? 知ってるって何故? 何を知ってる? 君はいなくなったよな? もう僕らは別々になった? 君はもう帰らない? 混乱する頭を整理しようとしたが、不可能だった。
 何をする気にもなれない。日がな一日スマホを見続け、目が霞む。動画サイトに溺れ、ありとあらゆるものを見たけど、普段は面白いものがつまらなくて、馬鹿らしく思えて、ずっと低評価ばかりつけている。どんなに現実を忘れようとしても、忘れたくても、脳はフル回転したままだ。伝統的に課題が少ない学校なのが幸いだった。今、起き上がることが億劫で仕方ない。シャープペンシルを持ちたくない。誰かと話したくて、でも相手はいない。まるで昔に戻ったみたいだ。
 でも、走ることは辞めない。いつものように早朝に家を出る。昼夜が滅茶苦茶になっても、朝五時の世界が僕にとってのオアシスであることに変わりはない。走り終わったらすぐに体操服から着替え、学校へ向かった。前原に会う。
「お前、やつれてるぞ。」
 前原は開口一番そう言った。
「仕方ない。いろいろあるんだよ。」
「お前にもそんな日があるとは驚いた。」
「なぜこうなったか訊きたいか?」
「聞きたいな。お前、何があったんだ?」
 怪訝そうな目を向けられた。
「彼女が消えたんだ。」
「は?」
「聞こえなかったか? 彼女が、」
「聞こえてるよ。お前、何をやらかしたんだ。」
「何もしていない。ただ、何か秘密を抱えてるみたいなんだ。」
 友は思い切り顔を歪めて不思議がった。
「結果なんだけどさ、成績足りない。駄目だった。それがきっかけで親と言い合いしてたんだわ。」
「あ、そう。それで?」
「リュックひとつ背負って家から出ていって、それっきりだ。」
「何日帰ってないんだ。」
「三日になる。」
「お前、何してるんだ。ほったらかしなのか。」
「追いかけたいよ。でもどこをどうやって探せばいいんだ。どうにも出来ない。」
「手を打つなら早くしろ。彼女、今頃どうしているだろうか、とか考えてみろよ。」
「ああ、そうだな。」
 見つけたいのは山々である。しかし、打てる手は少ない。
「もう駄目かもしれない。」
「お前、何を言ってるんだ。彼女が大事じゃないのか?」
「無論大事さ。大事に決まってるだろ。」
「じゃあなぜ何もしないんだ!」
「しないんじゃない、出来ないんだよ!」
「だったら頑張れよ!」
「分かってるよ。なぁ。お前だったらこの事態の対処がそんなに早くできるっていうのか。お前何なんだよ。知ったかぶりもいい加減にしろよ。」
「いや、そういうつもりじゃないんだ。」
「もうほっといてくれ。お前みたいな部外者につべこべ言われる筋合いはない。これ以上口を挟まないでくれ。」
 無性にイライラする。あいつは何も分かっていない。意表を突かれたような、驚いた顔をして、去っていった彼の後ろ姿は頼りなかった。
 しばらくして、スマホが鳴った。
(疲れたら、人を頼れ。)
(俺が悪かったよ。)
(俺になら何でも言ってくれ。)
(全部聞いてやる。)
(俺を頼れ)
 僕は既読無視した。


 自宅にて。いつも通りの電車に乗って、いつも通りの時間に帰宅して、何もかもいつも通り。それが悲しい。
「彼女 行方不明」と検索エンジンに入力した。
 虫眼鏡のマークをタップするが、めぼしい情報はない。振られただの、よりを戻したいだの、お幸せな書き込みばかりが目に入る。サイトのタイトルを斜め読みしながらスクロールしていくと、たった一つ目につくものがあった。
「知り合いが行方不明となってしまった方へ。」
 すかさずこのページに訪問する。
『大切な人が行方不明になってしまった。それは本当に悲しいですよね。ここでは、そんな時どうすればいいかお教えします。』
 ほう。
『まず、捜索願は出したでしょうか? 場合によるかもしれませんが、出すことをおすすめします。警察の力を借りることで、より早く発見できるはずです。
 出すことができないような事情がある方は自力で捜さなければならないですね。それには無理があると思います。初めに、マストで行うべきなのは、インターネットを活用し、SNS等をくまなく見ることです。SNSをやってない方でも、友達などからヒントが見える場合があります。それか、自分で『この人を捜しています。』といったことを書き込むのもよいかもしれません。親切な方から連絡が来ることが期待できます。認知症の方を捜すのであれば、病状によって見当をつけられますね。
 但し、もうどうしても駄目だと思ったら、遠慮なく人に頼って下さい。頼ることは悪いことではありません。一番の近道です。一人で無理をしていると、あなたが疲れてしまいます。』
 頼る人。一番に頭に浮かんだのは友の顔だった。
 検索ページに戻り、再び捜索を開始した。


 新学期が始まっても、君は一向に姿を見せなかった。残暑の厳しい九月、夏休みを怠惰に過ごしていた者どもは、揃いも揃ってサボっている。
 仕方ない。先生が欠席で自習と聞けば、誰しも投げ出すに決まっている。休んだ地理の先生は定年後の再雇用だったから、この蒸し暑さに耐えられなかったのかもしれない。
「ねえ、最近さ、あんた元気ないよね。」
 提出義務はないとしつつ配られたプリントに取り組みながら、隣の席の眼鏡女子が話しかけてきた。
「そんなことはない。」
「夏バテ?」
「そうだ。」
「嘘つくなって。『そう』じゃないんじゃないの? 女の勘を舐めないで。喋っちゃえば楽になるよ。」
「結構だ。僕は今、二次関数の最小値を求めるのに忙しい。」
「まあ、なんか悩んでんなら聞くけど?」
 僕は数学の問題集に取り組んでいた。資料集を見ながら括弧を埋めるという単純作業はさっさと終わらせた。どこかのワークをコピーしただけなのだろう。プリントの問いはとても簡単だった。
「君に相談することなど何もないぞ。」
「分かってるって。でも、一応ね。元気ないから気になっただけ。」
「お気遣いだけ頂いておくよ。」
 そう言ってすぐ、なぜか初めてこの女子にひとつだけ自分のことを話してみようと思った。深い話をするつもりはないが、この人が全く役に立たないとは言いきれない。
「あ、でも、」
「なによ、やっぱあるじゃん。」
「人探し、得意な人知らない?」
「人探し? あんた私だから狙って言ってるでしょう。そんな回りくどいことしなくていいのに。」
「なんのことだ。」
「だから、お兄ちゃんを紹介してほしいんでしょう。だったらはっきり言いなさいよ。」
「お兄ちゃん?」
「え、あんた知らなかった? うちの兄ちゃん、この学校では結構有名だけど。」
「知らないな。」
「まじか。この際しょうがないから説明するわ。あんたほんと疎いね。
 うちのお兄ちゃんここのOBなのよ。元生徒会副会長。辣腕を振るってたから当時としては割と有名人だったの。で、もちろん卒業後の進路も注目されてたわけなんだけど、まさかのニートでみんなびっくり。浪人して大学入るって言って先生を丸め込んだけど本人はその気なしでね、ずっと安いチップを頼りに私立探偵を名乗って食べてる。最近は今まで色んな事件を解決してきた実績が知られてきて、検索したら一個くらいはヒットするから。人助けしてるもの。尊敬できるいい兄だよ。」
「へえ、そんなことがあるとはね。まさか役に立つとは思わず訊いたらこんなにいい話があるとは。」
「『役に立つとは思わない』のとこ撤回してよね。」
「気を悪くしたなら謝る。で、その人の名は?」
晴嵐(せいらん)。奥田晴嵐。」
「連絡先は?」
「ツイッターにDM。アカウントのリンク、もし良ければすぐラインしてあげるけど、どうする? 私から言っておこうか? たぶん今日空いてると思うよ。」
「頼む。」
 ここのところずっと僕は悩まされた。花織のことをなぜ彼女が知っていたのか。花織を知っているなら、彼女はどこまで知っているのか。あの日の会話から察するに、美和という人物の存在にも、何か隠されている気がする。いくら頭を使ってもそれらしい答えを得られなかった。僕は君のことを知りたい。僕は真実を知りたい。
「わかった。少し説明しておくけど、大曽根のセブンのところでいつも営業してるよ。普段は毎週木、土の夜だけだけど、急ぐなら調整してくれるし、知り合いなら急いでなくても調整してくれたりするから。妹の友達だし、たぶん何とかしてもらえるよ。今日は木曜日だし、すぐに会いたいってことでいい?」
「それでいい。ありがとう。」
「あ、あとさ、依頼するなら条件があってね。
 十年くらい前にさ、岐阜県の方にある施設に入所してた重度知的障がい者の人たちが何人も殺された事件、知ってるよね。結構話題になったでしょ。うちのお(にい)はあれについて昔からの仲間と一緒に調べてて、何かと苦労してるから協力してほしいんだって。今も解決してなくて、メディアが面白がって今でも時々テレビで取り上げられてるよ。表には出てないけど、探偵の長年の勘って言うのかな。それか根拠があるのかは分からないけど、容疑者は今でもどこかに潜んでいるらしいよ。料金が安い代わりにってことで、お願いいたします。詳しいことはお兄から直接聞いて。そのうち話があると思うから。」
 授業後、自転車をかっ飛ばして今池まで向かい、そして電車に飛び乗った。
 依頼には大金がかかるだろう。玄関の鍵をこじ開け、すぐさま貯金箱の中身を全て取り出した。多いとは言えない自分の全財産を財布に入れ、そしてそれを通学用の黒い巨大なリュックに、丁寧にしまった。

雨が降れば街は輝く①

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雨が降れば街は輝く①

中3の晶は、隣家に住む美和と親しくなった。その1年後、中3になった美和は、地域で最も難しい中高一貫校の生徒でありながら高校受験したいと言い出した。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-03-14

Copyrighted
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Copyrighted
  1. 第0章 追想
  2. 第1章 憧憬-青天-
  3. 第1章 憧憬-雨天-