落日の再会 4

落日の再会 4

新しい入居者

 あの子はすぐ保育園に入れた。仕事をさがした。受かったのは介護施設だけだった。資格はないから周辺業務。配ぜん、洗濯、掃除。介護施設のスタッフは過酷だ。手が足りない。慢性的に。
「トイレ行きたいんです、おねえさん……」
何度も哀願され連れていってしまった。資格もないのに。
 介護士になった。食事介助、排泄、風呂の介助。いやではなかった。やがて資格を取り時間を増やす。目標ができた。私にもできる。皆やっていることだ。ひとりで育てる。シングルマザーになる。いずれ、かならず……夫を捨てる日を想像する。
 あの子にかかる金はすべて記録した。夫の小遣いから差し引いた。ミルク代とオムツ代も。家計費からではない。私の心の慰謝料とベビーシッター代として貯金はすべて移した。夫は変わった。少ない小遣いで文句を言わなかった。やがて私は正社員になり夜勤もするようになった。夫は協力した。夫とは最低限の会話しかしない。
 あの子も協力した。よく働く。掃除させればピカピカに。私よりきれいにする。キッチンもトイレも風呂も、窓ガラスも。サッシは歯ブラシと綿棒とようじまで使って完璧だ。小遣いをあげたくなったが我慢した。あの子は家政婦だと思うようにした。褒めもしなかった。私の心は水をかけられ凍りついたままだ。あの子が相手にする母親は氷の壁面。あの子は小さな庭の花がらも摘むからいつもきれいだ。葉水も欠かさずしてくれる。暖かい日差しに氷が溶けそうになる。
 疲れて肩を揉んでいるとあの子が変わって揉んでくれた。小さな手と強すぎない力がちょうどよかった。あの子は私が、もういいわ、と言うまで揉んでくれた。手が痛くなっただろうに。ありがとう、上手だね、褒めてみた。初めてだ。あの子は嬉しそうに笑った。ドキッとした。滅多に笑わないあの子のなんという笑顔。氷が溶けそうになる。
 あの子は肩揉みがうまくなった。褒められたいのか、誰かに聞いたのだろうか? 誰かに試したのだろうか? 心地よくて恐れ入る。ホントに上手だね。私は褒めた。あの子を褒めたのはそれくらいだ。

 息子は私立にあの子は公立に。かかった金は桁が違う。コツコツ貯めた金を息子には使った。太っ腹だ。あの子は金をかけなくても息子より優秀だった。癇に障った。

 就職するとあの子は家に金を入れた。私はなにも言わなかった。あの子が寄越したのは給料の3分の1くらいか。
「ひとり暮らしすれば家賃がかかるからね」
私は冷たくし礼も言わなかった。母の日、誕生日にあの子はプレゼントしてくれた。肩揉み機、テレビショッピングの枕に布団。花……高級煎茶……

 60歳になったときに契約社員に戻った。20年以上勤めている。今では1番の古株だ。
 働いて疲れて、映画を観ることもなかった。還暦の祝いに子供たちが大型テレビを買ってくれた。息子も金を出したのだろうか? まあいい。小遣いはしょっちゅうあげているのだから。好きな映画やドラマを見られるよう、息子に頼まれあの子が手続きしてくれセットしてくれた。息子はいつも口だけだ。あの子は機械にも詳しい。恐れ入る。夫は家の前の公園に孫を遊ばせにいった。孫もそっけない祖母の態度はわかるのだろう。甘えてはこない。私はあの子の義父のことを聞いた。孫が産まれて喜んだのもつかの間、義父は脳梗塞で倒れ、あの子は介護する羽目になった。苦労するために結婚したようなものだ。なのに弱音は吐かない。苦労が顔に出てはいなかった。愛されているのがわかる。
 プレゼント、ありがとうと気持ちを込めないで言った。慣れているのだろう。あの子は義父がデイケアから戻るから、と長居はしなかった。
 観たい映画をいくらでも観られる。誕生日にはあの子からリクライニングチェアが送られてきた。
 穏やかな老後……というにはまだ早いか、来年で65歳だ。仕事ももっと減らそう。夫は気を使っている。趣味を合わせてくる。庭いじり、重い土を買いに行き手伝う。らっきょうを漬けるときは皮を剥いてくれた。息子の好きならっきょう漬けにニンニク漬け、嫁の好きな果実酒。私は切らさず漬ける。あの子にはあげない。あげる必要はない。自分で作っているだろう。私より上手に。ケーキまで焼くのだから。
 ゴルフをやろうと夫は言う。あの子が生まれてから夫は好きなゴルフをやめていた。金がかかるから。好き勝手なことをしておいたのだから当たり前だ。
「球技は苦手なの。飛ばなかった。バレーボールもテニスもソフトボールも体力測定のハンマー投げさえ……」
言ったことのあるセリフだった。誰にだったか? 遠くなった過去に……
 穏やかだ。介護施設で働く女は離婚したものが多い。子供を育てているから必死だ。離婚……選ばなかった、私は。
 

 新しい入居者が決まった。ひとり亡くなっても新たな入居者はすぐ決まる。数えきれない高齢者が順番を待っているのだ。悲しみに浸りはしない。慣れた。ファイルを確認する。明日入居してくるのは……
「きみ、かわいいね……かわいいね、きみ」
偶然なのか縁なのか、声と響きが45年前を思い出させる。ひと冬の……幻の私……

落日の再会 4

落日の再会 4

  • 小説
  • 掌編
  • 青年向け
更新日
登録日
2024-03-04

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