魔法のナイフ / 打々須 作
透き通った海の底には、人魚の王さまの治める国があります。
人魚の王さまは大きな体を持ち、賢く、厳しい方ですが、六人いる娘たちにはとくに甘いので、親ばかの王さまとして国中から親しまれておりました。
六人のお姫さまたちはお父さまのことが大好きです。仕事のお邪魔にならないよう、昼はお城の庭やさらに向こうのほうへ泳いで遊びに行きます。そして夜はお父さまの元へ帰ってきて、今日はこんなことをして遊んだわ、なんて、その日あったことをぜんぶ話すのです。
王さまのお母さま、つまりお姫さまたちのおばあさまにあたる方は、王さまよりも厳しい性格ですが、やっぱりかわいいいお姫さまたちには甘くなってしまいます。おばあさまはとても高級なお化粧品を持っているのですが、これをお年頃のお姫さまたちに貸して貸してとせがまれると、おばあさまの大切にしている、大きな真珠がたくさん埋め込まれたくしで、お姫さまたちひとりひとりの髪を丁寧にといて、仕上げに庭に咲く花で作った赤い髪飾りをさしてくださります。
お姫さまたちはおばあさまに綺麗にしてもらうのが好きでした。髪をとくあいだにおばあさまがしてくださる海の上のお話はもっと好きです。
おばあさまは昔、お姫さまたちと同じくらいの少女だった頃、お姫さまたちと同じように海の上に憧れていました。おばあさまだけではありません。年頃の人魚たちは皆、陸という未知の世界に強く惹かれるものなのです。十五歳になると海の上を見に行っても良いというのが、いつの間にかこの人魚の国の共通のルールになっていました。
ですからおばあさまはお姫さまたちが海の上の話を聞きたがるのをとがめることができません。自分が幼かったあの日のことを、いつだって鮮明に思い出せてしまうのですから。
だけどひとつだけ、おばあさまにも譲れないことがありました。
海の上の話の結びに、おばあさまは決まって同じ文句を言います。
「陸は危険でいっぱいですよ。おまえたちは陸には行かないでちょうだいね。おばあさまのきょうだいは、人間のせいで死んでしまったのだから……」
そうして末のお姫さまに髪飾りをさして、おばあさまのお話は終わります。おばあさまのきょうだい、つまりお姫さまたちの大おじさまがなぜ死んでしまったのかをお姫さまたちはよく知りませんが、大おじさまが死んでしまったということは昔からずっとおばあさまが語ってきましたから、もっと幼いときにお母さまを病気で亡くしたお姫さまたちにも、おばあさまの悲しみがよくわかるのでした。大好きなおばあさまを悲しませるのはお姫さまたちだって嫌なのです。
それでも、陸への憧れは無くなりきらないものでした。
それから月日が経って、お姉さまたちは十五歳になったその日に海の上を見に行きました。お姉さまたちはそれぞれに、星というのが綺麗だとか、氷山というのが冷たくて気持ちがいいだとか、初めて沈んでいない船を見ただとか、泳ぎにくそうな服を着ている人間がいるだとか、まだ海の上を見られない末のお姫さまに語って聞かせました。
十五歳になったお姉さまたちは揃って海の上へ行くようになりました。仲良く手を繋いで、太陽の熱を浴びては海の中に頭を引っ込めて熱いのと冷たいのを交互に楽しみました。
人間の船が嵐に巻き込まれて沈みそうになったときには歌います。溺れることを怖がる人間に、海の中は怖くはないのよ。こちらへおいでなさい。と歌って聞かせるためです。人魚の歌声はとても美しいですが、中でもお姫さまたちはとくに歌が上手でした。しかし人間には人魚の言葉がわかりませんので、お姫さまたちが歌っても歌わなくても、人間は沈むのを怖がるのでした。
陸には動物がいて、あまり海には近づいてきません。そんな犬や猫にしっぽで水をかけて遊びます。牙を剥かれたら海に飛び込んでからかうのです。初めて見たときにはワンワン吠えられて恐ろしく感じた犬も、今では小魚たちのようにばかでかわいいいと思います。そしてまた手を繋いで海の底へ戻っては、末のお姫さまに海の上の話を聞かせます。
お姫さまは、お姉さまたちが羨ましくてたまりませんでした。
早く十五歳になりたくて、あと何日、あと何年で十五歳になるのかしらと毎日指を折って数えました。
お姫さまがお城の庭で花を摘んで遊んでいるあいだに、お姉さまたちは海の上まで泳いでゆきます。だけど一番上のお姉さまはもう海の上に行けるようになってしばらく経ちますから、陸を見るのが特別でなくなっていました。いつでも行けると思うと、あんなに憧れだった海の上も、なんだか普通のものになってしまいます。海の上で遊ぶより、海の底で綺麗な首飾りを探したり、お化粧をするほうが楽しいと思うようになりました。一番上のお姉さまだけでなく、お姉さまたち皆がそうでした。
そうして、ついに末のお姫さまの十五歳の誕生日になりました。
お姫さまはこっそりと貝殻のベッドを抜け出しました。誕生日の日には陸を見に行くと、ずっとずっと決めていたのです。お城はまだ静まり返っていて、起きているのは小魚くらいです。お姫さまは嬉しくなって小躍りしました。誰かに見つかれば止められてしまうと思ってこんなに早起きをしたのですから、うまくいってそれはもう満足でした。
だけどお姫さまがお城の外へ出ようとしたそのとき、その肩を誰かに掴んで止められてしまいました。
「どこへ行くの?」
お姉さまの声です。お姫さまはお姉さまたちのほうを見ないで答えます。
「だって、やっと海の上に行けるのよ。お祝いなんて待っていられないわ!」
お姉さまたちは顔を見合わせました。
「海の上を見に行くのね」
「パーティの前に行くつもりなんて……」
「おばあさまがなんと言うかしら!」
「お城中が大騒ぎよ!」
いつの間に、お姉さまたちはおばあさまのように厳しくなってしまったのでしょう。お姫さまはがっかりしました。海の上の話を聞かせてくれたお姉さまたちはもういないのだと思いました。
もうお姉さまたちの制止の声なんて聞きません。お姫さまのこの冒険を止められる人魚なんて誰ひとりだっていないのです。お姫さまはお姉さまの手を振り切って泳ぎ出しました。
空に向かって泳ぐほど、お姫さまの周りが明るくなります。真珠とは違う輝きをお姫さまは初めて見ました。海の底に届くのよりずっと明るい太陽の光は、あたたかくて不思議な気持ちになりました。
海の上は、初めて見るものばかりでした。
お姫さまが海の上に出たのは朝でしたから、たくさんの生き物が動き始める頃です。
お城の庭にあるのとは違う赤い花が岸に咲いています。
花の上では虫たちが踊っています。
鳥ががらがら声で鳴いていてうるさいのが新鮮でした。だって海の魚は鳴かないのです。人魚たちの話し声くらいしか音のない海の底と違って、海の上はとても賑やかでした。
太陽が高く昇ると、もっとたくさんの音が聞こえます。たくさんのものが見えました。世界はとても広くて、お姫さまは目眩がしそうでした。
遠くからも音がしました。ざああという水の音です。音のほうを見ると、大きな船が泳いでいます。
お姫さまは人間を見たことはありませんが、沈没船のところにある人間の像なら見たことがありました。お父さまとおばあさまには内緒で、お姉さまたちとこっそり行って、人間の足というのはなんて不思議なのかしら、これでどうやって歩くのかしらと言って像をじろじろ眺めたことがあります。お姫さまにとってはお気に入りの場所でした。お姉さまと喧嘩したり、お父さまに叱られたときには、この像の足元へ腰掛けて静かに物思いにふけるのです。像の人間は若い見た目で、優しい顔つきをしています。お姫さまはこの像を友達だと思って、悲しい胸中を語りかけるのです。そうして、返事のない独り言を言いながら考えます。人間はどんな声で喋るのかしら。人間はどんなものを食べるのかしら。人間も喧嘩をするのかしら。人間とどうにか話せないかしら。お姫さまの願いは、おばあさまに知られてはきっと怒られてしまうでしょう。だから心にそっとしまって、仲直りをするためにお城へ戻るのです。
それが今、お姫さまのすぐ近くには人間がいます。
お姫さまは船へ追いつくと、一番近い窓から中をこっそり覗き込みました。
そこには、人間の男の子が大人の人間たちに囲まれて立っていました。
男の子は踊り子の魚たちのしっぽみたいにひらひらで真っ白な、綺麗な服を着ています。黒い瞳は喜びに輝いています。歳はお姫さまと同じくらいか、少しだけ上か、とにかく若々しくて格好いい顔立ちでした。
実はこの男の子は、人魚の国から一番近い人間の国の王子さまで、この日は船の上で王子さまの誕生日をお祝いするパーティをしているのでした。
船室の飾りは人魚の国では見たことのないものがたくさん使われていて、どこもきらきらしています。王子さまはたくさんの大人たちと握手をして、豪華に包まれた贈り物をもらっていました。
やがて王子さまたちは甲板に出てきて踊り始めました。海の中で見るのとなんとなく似ている楽器を音楽隊が演奏します。
音楽に合わせて王子さまが歌えば、お姫さまはその声にうっとりと耳を傾けます。波に揺られるままに力を抜いて、透き通った歌声を全身で聴いていると、お姫さまもつられて歌を口ずさみます。お姫さまの歌声は波の音にかき消され、王子さまたちには聞こえていないようでした。
素敵な気分で時間が過ぎてゆきます。いつの間にか、空は暗くなっていました。そろそろお城へ帰らないとお父さまが心配してしまいます。お姫さまは後ろ髪を引かれる思いで海の中へ帰ろうとして、最後にひと目見るつもりで王子さまの姿を探すと、甲板の人間たちがお祝いと別にざわめいているのに気がつきました。
船が大きく揺れています。波が高くなっているのだと、お姫さまはしばらくして気がつきました。船は帆を張りぐんぐんと陸のほうへ走ってゆきます。遠くからごうごうと不気味な音が聞こえます。帆がまたひとつ下ろされて、船は速度を増して走ります。
空が暗いのは雨雲のせいでした。嵐が近づいているのです。
王子さまたちの船は高く持ち上げられたと思えば、波に隠れてしまったりして、お姫さまは同じように波に揺られて楽しい遊びをしているような気持ちでしたが、人間には全くそうではありません。船の上の様子はお姫さまにはよく見えませんが、皆必死でロープを握って、振り落とされないようにしているようでした。
一番大きな波がぐわんと船を飲み込んで、マストの軋む音が消えました。お姫さまが海の中から船の様子を見守っていると、海の底でよく見た船の破片と一緒に、ひとり、またひとりと海の中へ投げ出されるのが見えました。
お姫さまは王子さまの姿を探しました。嵐に気を取られて、王子さまを見失っていたことに気がついたのです。どんどん沈んでゆく人間たちの服は、王子さまの白い服とは違います。お姫さまは流れてくる船の破片を避けながら、沈んでゆく人間の中に王子さまを探しました。あまり近づいてはお姫さまの体に破片が当たってしまいますから、遠くから見ることしかできません。あのひともこのひとも違うけれど、海の底に人間が来るのはなんだか嬉しい気持ちでした。
そして海の中に、とうとう王子さまの姿が見えました。
その瞬間に、お姫さまはすっかり嬉しくなりました。海の底に王子さまもやってきてくれるのは、想像しただけで素敵です。あの瞳に見つめられながら暮らしたらどれだけ幸せかしら! と心が躍ります。
手足をばたつかせる王子さまに、海の中は怖くはないわと声をかけようと思って、お姫さまは慎重に泳ぎ始めました。
しかし途端に、人間が海の中で生きていられないのを思い出しました。おばあさまが言っていたことです。人間はえらを持っていないので、人魚のように海の中で息をすることができないのです。
お姫さまはぞっとして王子さまの元へ急ぎました。人間が海の中でどれだけもつのかわかりません。少しでも早く陸へ上げてやらないと死んでしまうというのだけわかります。
船の破片や、人間たちの荷物や飾りが、たくさん流れてきます。お姫さまはそれが王子さまにぶつからないのを願いながら必死で泳ぎました。そうしてなんとか王子さまの元へたどり着いて、その身体をしっかりと抱きしめました。王子さまはもうぐったりとしていて、手足をばたつかせる元気もないようです。まぶたは固く閉じられて、綺麗な瞳も見えません。
お姫さまは王子さまと一緒に海の底で過ごす想像を押し殺して、海の上を目指して泳ぎました。王子さまを抱いたまま大きな破片を避けるのは大変でしたが、王子さまが死んでしまうのはもっと嫌です。
なんとか海の上に出て、王子さまの頭を持ち上げます。王子さまが生きているのか、死んでいるのか、お姫さまにはわかりませんが、どうか生きていてほしいと祈りながら、波に身を任せて揺られました。
徐々に空が明るくなって、嵐は過ぎ去ってゆきました。太陽の光が海の面を照らすと、王子さまの顔も少し明るく見えました。お姫さまはうっとりとして、王子さまの冷たい額にキスをしました。そうするといくらか、王子さまの頬に血の気が戻ったように見えました。
もうすっかり海は穏やかになって、周りの様子がよく見えます。お姫さまは向こうのほうに陸が見えることに気がつくと、王子さまの頭を海の上に持ち上げたまま、慎重に泳いでゆきました。白い砂地にたどり着くと、王子さまの身体を、光がよく当たるように、頭を持ち上げて寝かせてあげました。お姫さまのしっぽでは、波のかからないところへ王子さまを連れてゆくことができません。どうにかして王子さまを助けてあげたくても、人間のことは人魚のお姫さまにはわかりませんから、これ以上できることはありませんでした。
近くの丘の上から鐘の音がしました。白い建物から、お姫さまと同じくらいの歳の人間の娘たちが出てきます。彼女たちが王子さまに気づいてくれたら、王子さまは助かるかもしれません。
「こちらに来て! お願い! このひとを助けて!」
お姫さまは叫びました。だけど人間と人魚の言葉は違うので、娘たちには珍しい鳥がぴいぴい鳴いているようにしか聞こえません。お姫さまにもそれはわかっていましたが、王子さまのことを諦めるなんてできません。
お姫さまが声を上げ続けていると、ようやく、ひとりの娘がこちらに気がついて駆けてきました。他の娘たちも気がついて駆けてきます。お姫さまは安心して、そして慌てて海へ戻りました。おばあさまから、あまり人間に姿を見せてはいけないと言われていたのを思い出したのです。人魚の存在は人間の間ではあまり知られていませんから、見つかったときに何をされるかわからないと、おばあさまが心配してお姫さまたちに約束させたのでした。
最初の娘は王子さまを抱き起こすと、お姫さまの姿を探しているのかきょろきょろとしていました。お姫さまは岩の陰で泡をかぶってじっとしていましたから、結局娘には見つからないまま、王子さまを娘たちに助けてもらうことができました。大きな布や包帯が運ばれてくると、王子さまは薄く目を開けて、娘たちと言葉を交わしているようでした。
お姫さまはほっとすると身体から力が抜けて、そのまま海の中にもぐってしまいました。王子さまとお話ができないのは残念ですが、仕方ありません。ふわふわとした気持ちのまま、海の底のお城に向かって泳ぎます。
どんどん沈んで、海の上の明るさを忘れてしまいそうになったあたりで、お父さまと会いました。お姫さまがお城を飛び出してから丸一日帰ってこなかったのを心配して、探しに行こうとしていたところでした。
「遅くなってごめんなさい、お父さま」
お姫さまはまだふわふわした心でお父さまに謝りました。
お父さまはお姫さまを叱りませんでした。大きな身体でそっとお姫さまを抱きしめて、
「海の上は楽しかったかな」
と問いかけました。
お姫さまはお父さまの背に手を回して答えました。
「楽しいだけではなかったけれど……とても素敵だった」
お父さまはうん、と一言頷いて、お姫さまを離しました。
お姫さまが帰ってきたのに気がついたお姉さまたちもお城から出てきました。お姉さまたちはお姫さまが何を見てきたのか口々に問いかけましたが、お姫さまはその問いには答えませんでした。口に出してしまうと、真新しい思い出が泡のようにて消えてしまう気がしたのです。
それからも、お姫さまはひとりで海の上に行きました。
白い建物にまた行くと、すっかり元気になった王子さまの姿が見えました。娘たちと楽しそうに話す王子さまの姿を見ると胸が締め付けられるようでした。
王子さまが暮らしているというお城がわかってからは、バルコニーに出てくる王子さまを遠くから眺めるようになりました。柔らかい月の光に照らされた王子さまの姿はとても幻想的でした。
ある日にお姫さまはおばあさまに問いかけました。
「人間というのは、溺れて死ななければずっと生きていられるの?」
おばあさまは首を横に振って答えます。
「人間は人魚よりずっと短命ですよ。人魚は三百年生きられるけれど、人間は百年も生きられない。魂の種類が違うんだ。人魚の魂はひとりにひとつだけど、人間の魂はひとつがずっと巡って、死んだら新しい人間にまた生まれ変わる……そういうふうにできているのよ」
ならば人間の魂が欲しいと、お姫さまは強く思いました。だけどそれをおばあさまの前で言うなんてできません。お姫さまはただ俯いてしっぽを揺らしました。
おばあさまの言葉を頭の中で繰り返しながら、お姫さまはまた王子さまの姿を見に海の上に浮かんでいます。
王子さまはきっとまだ若いのでしょうが、三百年を生きるお姫さまよりずっと早く死んでしまうのです。そんなのは嫌でした。ずっと一緒に生きたいと思いました。だけど人間は海の中では生きられません。人魚も陸では生きられません。
そのときお姫さまははっと思い出しました。人魚の国の隣にある魔法使いの国には、とても力の強い魔法使いがいます。海の魔女と呼ばれていて、大きな対価と引き換えにどんな願い事でも叶えてしまうのだという噂です。行ってはならないと幼い頃から言いつけられていましたが、もしかすると今こそ、海の魔女の力に頼るときかもしれません。お姫さまはいても立ってもいられずに泳ぎ出しました。
海の魔女の家に行くには薄暗い森を抜けなければなりません。森には、そこかしこに人間の白骨がありました。他にも、船の残骸や、小さな動物の骨が落ちていて、さらには若い人魚の娘が、生きているままうねうねとした海草に締め付けられています。お姫さまは恐ろしくて立ちすくんでしまいそうでしたが、止まると次はお姫さまが締め付けられてしまいます。
どうにか進んで、ようやく森を抜けた先に、たくさんの骨でできた大きな家がありました。骨の家の周りは、灰色の砂しかありません。海草も花もありません。寂しくて気味が悪い場所だとお姫さまは思いました。
「おや、案外はやく来たんだね」
骨の家の扉が開いて、ぶよぶよした女の人魚が出てきました。
お姫さまは寒気がするのをぐっと我慢しました。
女は甲高い声で笑います。お姫さまはぞっとしてあとずさりしましたが、いつの間にか近くまで泳いできたウミヘビがお姫さまの背を家のほうへ押しました。
「綺麗な人魚のお姫さま。私はおまえがどうして来たのかわかっているよ。もちろん、おまえの願いを叶える用意もできている。ほら、お入りなさい。そのしっぽを人間の足に取り替えて、えらをなくして、おまえを人間の姿にしてやろうね」
ウミヘビに押されるがままにお姫さまは海の魔女の家に入りました。
家の中にも骨がたくさん見えて、中央には大きな鍋があります。どれもこれも気味悪く、お姫さまは少しだけ、来たのを後悔しました。
「怖いなら帰るかい? お城まで送ってやろうか」
ウミヘビがお姫さまの耳元で囁くと、海の魔女がウミヘビのしっぽを掴んで引き寄せました。ウミヘビがけたけた笑います。
「でも、わたし、幸せになりたい……」
お姫さまがつぶやくと、海の魔女は深く頷いて、小さな瓶を取り出しました。
「そうだ。おまえは今の幸せでは満足しきれない」
海の魔女が指をさすと、大きな鍋の下に火がつきます。お姫さまは初めて火を見ました。赤くて、黒くて、太陽とは違う、不気味な光です。魔法の火はめらめらと燃えて、真っ黒な鍋の中身はあっという間にぐつぐつと音を立てました。
「ああ、お代の話を忘れていた」
海の魔女は瓶を持ったままお姫さまを振り返りました。
「いくらでしょう?」
お姫さまは震える声で尋ねます。
「お金じゃあないんだ、魔法の対価というのはね。このくすりはとても強い力があって、とても貴重なんだから、相応に大切なものをもらわないといけない。そうだね……おまえの声なんか、ちょうどいいんじゃあないかな」
「でも、声がなければ、あのひとと話せないわ」
「声がなくとも、おまえにはその綺麗な容姿があって、上品な歩き方があって、そしてよくものをいう目がある。十分に王子さまをとりこにできるだろうさ」
お姫さまは怖くなってしまいましたが、王子さまを諦めることもできませんでした。海の魔女の濁った色の瞳を見つめ返して頷くと、海の魔女は満足げにほほ笑みました。
「おまえにこのくすりをやるつもりで支度をしていたからね。帰ってしまわれると、もったいなくて困るんだ」
そう言って笑って、海の魔女は鍋を三回かき混ぜると、中身を瓶に移しました。黒いと思っていたくすりは、瓶に入った途端に透明になって、淡い金の光をまとっています。
海の魔女は瓶の口に栓をすると、お姫さまの手に瓶を握らせました。
「さっきも言ったけれど、このくすりはとても強い力がある。これをたった一度飲むだけでおまえはずっと人間のまま。人魚にはもう戻らない」
お姫さまは金の光を見つめました。こんなに綺麗なくすりで願いを叶えられるなら、嬉しくて仕方ありません。
「だけど、そんなに都合のいいくすりなんてのは、魔法の力があっても作れない。おまえはこのくすりで人間の姿になれるけれど、歩くたびに足をナイフで貫かれるような痛みがずっと続くんだ。それに、人魚には戻れなくとも、やっぱり人間でいられるのは永遠じゃない。王子さまと結ばれるためのくすりなんだから、王子さまが他の女と結婚でもしたら、次の朝、おまえは人間の寿命を待たずに泡になって消えてしまう。それでも耐えられると心が決まったら、陸の上でこのくすりを飲むんだよ」
海の魔女はお姫さまの手をくすりの瓶ごと握り込みました。ぶよぶよした手の肉は、案外あたたかいものでした。
海の魔女はとても力の強い、誰からも恐れられている魔法使いですが、実際のところ、悪さを働くような性格ではありません。ただ誰に対しても恐ろしいくらいに平等なのです。悩みと願いを持って訪ねてきたものなら、善人も悪人も海の魔女のお客様なのです。
「もうお代をもらっても?」
海の魔女が静かな声で問いかけます。
お姫さまはこくりと頷きました。
海の魔女は小さなナイフを持って、お姫さまの舌を切りつけました。魔法のナイフがお姫さまの血を吸って、お姫さまの声をとってゆきました。お姫さまが声を出そうとしても、もう口からは泡しか出ません。
「ほら、これで取引は終わりだよ。帰り道は安全そのものだからね、さっさと夢を叶えにおゆき」
お姫さまは魔女に背を押されるがままに骨の家を出て、暗い森を抜けて、熱いどろの上を渡りました。不思議なことに、海の魔女の言った通り、帰り道はとても安全で、恐ろしくもありませんでした。お姫さまの手の中でくすりが輝くと、自然と道が開かれていくのです。
お姫さまはこれからの幸せな未来を胸に、お城へ戻って来ました。お城の明かりは消えているので、きっと皆眠っているのでしょう。起きていたところでもう声の出せないお姫さまにはお別れを言うことができません。悲しくても、海の上へ向かうことはやめられないのでした。
海の上に着いたときも、まだ夜明け前でした。王子さまのお城には、海とつながる大理石の階段があります。お姫さまはどうにか海から出て階段に腰掛けると、いつも王子さまを見るバルコニーのほうを見つめて、瓶の中のくすりを一気に飲み干しました。
お腹の中がかあっと熱くなって、身体中に痛みが走りました。
頭が締め付けられるように苦しくて、気が遠くなって、その場に倒れ込みました。
次にお姫さまが目を覚ますと、太陽の光が心地よくお姫さまの身体を温めていました。
激しい痛みはまだ続いていますが、目を上げると、あの王子さまがお姫さまのことを覗き込んでおりました。
「大丈夫ですか。あなたは、どこから来たのですか」
お姫さまは驚きました。人間の言葉がわかります。それに、よく見てみれば、お姫さまのしっぽは小さな白い足に変わっているではありませんか。あのくすりが効いたんだわ! と感激していると、声を出せないことも思い出されました。
王子さまの問いかけに答えられないのを歯痒く思いながら、お姫さまは王子さまの優しくて美しい瞳をじっと見つめました。お姫さまの綺麗な青い瞳はたいそう悲しげに見えましたから、かわいそうに思った王子さまはお姫さまの手を取ると、お城の中へ来るように言いました。
「身体を温めたほうがいい。そして綺麗な服も用意しよう。ここは安全ですから、きっとあなたも安心できますよ」
お姫さまは王子さまに手を引かれるまま、お城の階段を上りました。
一歩進むたびに、足に鋭い痛みが走りました。海の魔女の言っていた通りです。だけど王子さまと結ばれるためならば、お姫さまは喜んで我慢しました。この痛みを耐えた先に、理想の幸せがあると信じているからです。
お姫さまの足取りは軽やかで、踊るようでした。このかわいい足にナイフで刺されるような激痛があるなんて誰が想像したでしょう。お城の誰もが、かわいらしいお姫さまに驚いていました。そして口のきけないお姫さまをかわいそうに思いました。
お姫さまは絹でできた立派なドレスを着せてもらうと、髪を丁寧にといてもらいました。おばあさまのことを思い出して涙を流すと、くしを持っていた召使いがおろおろとしながら涙を拭ってくれました。
夜の食事会では、音楽に合わせて踊り子たちが踊ります。綺麗な歌を歌う娘もありました。わたしのほうが上手に歌えるのに、とお姫さまは思いましたが、声を失った今では考えてもむだなことでした。代わりに踊ってみせました。足を使った踊りは初めてでしたが、お姫さまは軽々と踊って、見たひとの心を強く惹きつけました。お姫さまが回るごとに金色の髪が揺れて輝いて、お姫さまの美しさを際立たせました。
王子さまのご両親である王さまとお妃さまも、お姫さまのことをすっかり気に入ってくださいました。
王子さまとお姫さまはすっかり仲良しになって、ずっとそばにおりました。お姫さまは毎日がとても幸せで、きっとこのまま人間として死んでしまえるのだと、安心してビロードの布団で眠りました。
だけど時折、どうしても足の痛みがひどく気になって眠れない夜がありました。
そういうときにはお姫さまは決まって、王子さまと出会った大理石の階段のところへゆきます。燃えるような足を海の水に浸して冷やすのです。冷たい水の感触は、懐かしい海の底を思い出して悲しくなりますが、同時にお姫さまの心のざわめきを落ち着かせてくれるのでした。
ある日の晩にも足を冷やしに階段を降りてゆくと、お姉さまたちがお姫さまを待っておりました。お姉さまたちは手を繋いで、ひどく悲しそうに歌を歌います。驚いたお姫さまが手を伸ばすと、お姉さまたちは近づいてきて、お姫さまの手を取って言いました。
「海の底はみんな悲しんでいるわ。お父さまは落ちこんで仕事ばかりしているの」
「おばあさまはお怒りよ。陸に上がっただけでなく、海の魔女のところへ行くなんて……」
「でも本当はあなたが心配なのよ。おばあさまはこれ以上家族を失いたくないだけなのだから」
お姉さまたちの振り返ったほうを見ると、誰かの影が見えました。お父さまとおばあさまでしょうか。陸に今以上に近づかないように、遠くから見ているのです。
「今からでも戻ってきなさいな」
お姫さまは静かに首を横に振りました。
「そんなにあの人間の王子さまが好きなの? 海のわたしたちより、あの人間なの?」
お姫さまはどちらとも答えられません。
帰りたくないわけではありません。海のことは今でも大好きです。だけどあの王子さまと結ばれるには、この方法しかわからないのでした。お姉さまたちはどうしてわかってくれないのかしらと思いました。
お姉さまたちはお姫さまのことを優しく抱きしめました。
お姫さまはお姉さまたちの背にそっと手を回しました。そしてお姉さまたちが海へもぐるのを見た瞬間に、逃げるようにお城の部屋へ戻ってゆきました。
王子さまは、毎日お姫さまをかわいがって過ごしました。お姫さまのかわいらしさも、美しさも、日ごとにまして見えるのです。ほんの少しの憂いをたたえた瞳はいつでも雄弁で、覗き込めば王子さまをよく映します。
「ぼくが命を助けてもらったときの話は、したことがあったかな」
お姫さまは首をゆっくり横に振りました。
「ぼくの誕生日パーティをしていた船が、嵐で沈んだことがある。ぼくは運よく浜に打ち上げられて、近くの修道院のひとたちに助けてもらってね」
お姫さまは強く頷きました。その日のことならよく覚えています。
「その修道院の、きみのような青い瞳の娘さんが、一番にぼくに気がついて助けてくれたんだ。命の恩人だよ。きっとあのひと以上に好きになるひとはいない……」
王子さまが悲しそうに俯くと、お姫さまも悲しくなりました。間違いなく、王子さまを海で助けたのはお姫さまですが、それを王子さまに伝えることはできません。それに、王子さまが焦がれているのは、丘の上の建物にいた娘であって、お姫さまのことではないのです。
王子さまは海の中で人魚に助けられたなんて、夢にも思っていないのでしょう!
「きみはあのひとによく似ている。きみがあのひとなんじゃないかって思うときすらある。あのひとにはきっともう二度と会えないけれど、そんなぼくをなぐさめるために、きみがきてくれたのかな」
王子さまはそう言って、お姫さまのことを強く抱きしめてくださいました。
お姫さまは喜ぶばかりではいられませんでしたが、それでも王子さまがお姫さまのことを深く愛しているのをよく知っていましたから、この王子さまに一生を尽くして、幸せにしてさしあげようと心に決めました。
ところが、王子さまに結婚の話がやってきました。相手はお隣の国の王女さまです。お姫さまはその話を聞いて深く悲しんで、挨拶に向かわれる王子さまの袖を弱々しく引っ張りました。王子さまも、あの修道院で出会った娘さんと再会できない限りでは、お姫さまと結婚する気持ちでお姫さまのことをよく愛しているので、お姫さまの細い手をそっと握り返して言いました。
「安心おし。ぼくは王女さまとは結婚しないとも。お父さまとお母さまだって、ぼくにむりやり結婚をさせるつもりではないだろうよ」
お姫さまはほろほろと涙を流して頷きました。修道院の娘さんの代わりになるのはしゃくですが、このままでいられれば、お姫さまは人間として生きてゆけるのです。お姫さまの夢が、もう少しで叶うのです。
「お隣の国はとても美しい場所だと聞くよ。船に乗ったことはあるかい? 海に出たことは? 海っていうのは、お城の窓から見るよりずっと素晴らしいんだよ。きっと一緒に行こう」
王子さまはお姫さまの手を引いて船に乗り込みました。船の上で、王子さまは海の話をたくさん聞かせてくれましたが、王子さまよりもずっと海に詳しいお姫さまは、海の話を聞いているのがなんだかおかしくて笑ってしまいました。お姫さまが笑うと、王子さまも幸せそうでした。
月の綺麗な晩でした。お姫さまは寝静まった船の上から、海に落ちてしまわないように、そっと海の中を見つめました。とても見えるはずがありませんが、懐かしいお城を探しているのです。お父さまの姿が見えるような気がしてもっとよく目を凝らすと、お姉さまたちがこちらに浮かび上がってくるのが見えました。お姉さまたちは海の中から口をはくはくと動かして、何か言っているようでしたが、まだ遠くて聞こえません。
お姫さまは手を振って、こちらはもう少しで願いが叶いそうですと伝えようとしましたが、お姉さまは海から顔を出すより前に、見回りの水夫がこちらに歩いてきたために、お姉さまたちは海の中へ戻って行ってしまわれました。しばらく待ってもお姉さまたちは海の上に姿を見せてはくれませんでしたから、お姫さまは痛む足で寂しく船室に戻りました。
あくる朝に、船は港に入りました。
お隣の国の王さまが盛大に歓迎してくださって、豪華な宴会と、舞踏会が催されました。そして一週間後にようやく、王子さまと王女さまのご対面の席が設けられました。
なんでも王女さまは、王女に相応しい教育を受けるために、ある修道院に行っていて、それがやっと国に帰ってきたのだと言います。
お姫さまは心がざわざわとするのを感じました。
王女さまはとても美しい方だという噂です。王女さまが通りがかっただけで街中の誰もがため息を漏らすような、誰にも負けない美しさがあるのだと、お姫さまは聞きました。美しさならお姫さまだって負けてはいられませんから、しゃんと背筋を伸ばしてご対面の席に参加します。
だけど王女さまは噂以上の美しさでした。お姫さまは王女さまの美しさにため息を漏らしましたが、同時に、王女さまとお姫さまが似ているという王子さまの言葉を思い出しました。王女さまの瞳は青空のように輝いていて、髪は絹のようなブロンドです。お姫さまは人間の中では小柄なほうですが、王女さまのすらりと背の高い立ち姿は皆の目を惹きました。
お姫さまとこの王女さまが似ていると言った王子さまは案外見る目がないのかも、とお姫さまは思いました。
そんなお姫さまの隣で、王子さまが勢いよく立ち上がりました。王子さまの座っていた椅子が、お姫さまの椅子にぶつかって音を立てました。
「ああ! あなたは、ぼくを助けてくれたひと!」
王子さまが叫んで、王女さまを抱きしめます。
「なんて幸運でしょう! どうか、ぼくと結婚してください!」
王女さまは顔を赤くして、恥ずかしそうに王子さまの背に手を回しました。王子さまのご両親も、お隣の国の王さまと王妃さまも、たいそう喜んで、握手をしています。
お姫さまは呆然とその様子を眺めていました。昨日の晩にお姉さまたちが伝えようとしていたのは、きっとこのことだったのです。
しょせん、王子さまにとって、お姫さまはこの方の代わりに過ぎなかったのだと、お姫さまにもついに認めてしまわれました。
「ねえ、きみ、祝福してくれるかい。してくれるだろうね。だってきみは、ぼくのことを誰よりわかってくれるもの」
お姫さまは弱々しく頷きました。王子さまの言っていることがよくわかりません。
「ありがとう。やっぱりきみは素晴らしいひとだ」
王子さまは踊るような足取りで王女さまの手を取って踊ります。追いかけようとつい動いたお姫さまの足はナイフで刺されたようにずきずきと、このときばかりは心までもがずきずきと傷んで、お姫さまの身体ごと引き裂かれるようでした。お姫さまの流す大粒の涙を拭ってやるひとはおりません。だって誰も、王子さま自身でさえも、王子さまが本気でこの身分も知れない口のきけない娘と結婚するなんて思ってもいなかったのですから。
さて、結婚式は船の上で行われました。花嫁は浅瀬の砂のように白く美しいドレスに身を包み、花婿の頬は幸せでばら色に色づいています。お姫さまももちろん船に乗りました。王子さまがぜひ参列してほしいとお姫さまに頼んだからです。王子さまの幸せな姿を見届けて、お姫さまは泡にならなければなりません。
船に乗り込む足がナイフで刺されるようです。この日のために王子さまが特注してあつらえさせた綺麗な靴はお姫さまの小さな足にぴったりで、苦しいくらいでした。
お姫さまはただ、次の朝に訪れる暗闇について考えていました。
誰にも知られず死んでしまうのが、恐ろしくて仕方ありませんでした。
王子さまだって知りません。知ることができないからです。
日が沈み、船は王子さまたちの国に向かって進み続けます。夜が更けて、お姫さまは賑やかな甲板から少し外れたところで、静かに泣いておりました。そうしていると、波の上にお姉さまたちの姿が見えるではありませんか。お姉さまたちの腰まであった髪はざっくりと根元から切り取られて、お世辞にも綺麗とは言えません。
お姫さまは目を瞬かせて、お姉さまたちを見つめました。
お姉さまが、何か叫んでいます。
「このナイフで王子さまを殺すのよ!」
五番目のお姉さまの声がようやく届いて、お姫さまは驚いて身を乗り出しました。
「わたしたちの髪を対価に、このナイフをもらったの」
四番目のお姉さまが言いました。海の魔女のことだと、お姫さまはすぐにわかりました。
「これで王子の心臓を刺して、あなたの足に血を垂らすの! そうすればまたしっぽが生えて、魔法は解けて、あなたはお城へ戻れるのよ!」
ぎらぎら光るナイフをお姫さまに握らせて、一番目のお姉さまは言いました。お姫さまはこのナイフを覚えていました。海の魔女がお姫さまの舌を切ったあのナイフです。
「直に日が昇るわ! 急いで!」
お姉さまたちのもっと向こうに、おばあさまとお父さまの姿が見えました。お姫さまの涙は止まらなくなって、皆の姿はぼやけて見えなくなりました。
お姫さまの涙が引くと、もう東の空は白くなってきておりました。お姉さまたちの姿はありません。だけど遠くのほうに小さな影が見えて、そこにいるのだとわかります。お姫さまは大きな真珠の埋め込まれたナイフを強く握りしめました。
一歩、また一歩と進むたび、お姫さまの足が鋭く痛みます。
王子さまは、まだ甲板にいるようでした。皆疲れて眠ってしまって、その中心に王子さまも眠っていました。花嫁の姿はありません。部屋に戻って、柔らかいベッドで休んでいるのでしょう。
お姫さまは王子さまのいるところへ進みます。
歩幅が自然と大きくなって、痛みもずきずき響きます。
王子さまは、お姫さまの痛みを知りません。王子さまと一緒になるために声を失ったことも、歩くたびナイフで刺されるように足が痛むことも、王子さまは知りません。王子さまと一緒になるためにお姫さまが我慢をし続けてきたことを、王子さまは知りません。王子さまと本当に結婚したかったことも、人間の命が欲しくてたまらなかったことも、そして今日、日が昇った途端に泡になって死んでしまうことも、王子さまは知りません。
知ってもらうことができないのは、お姫さまだって承知していたつもりでした。
お姫さまは両手を高く上げました。
ナイフが昇り始めた朝日の欠片を跳ね返して、誰かの目に光が刺さりました。
眩しくて目を覚ましたそのひとがあっと声を上げる間に、お姫さまの振り下ろしたナイフは王子さまの心臓に深く、深く突き刺さりました。
叫び声が上がりました。船の上のひとたちは少しずつ目を覚まし、お姫さまと王子さまを見て叫んでいます。王女さまも出てきて叫びました。兵隊の男たちが、お姫さまを捕まえようと起き上がりました。
お姫さまはナイフをしっかりと握って王子さまの身体から抜き取りました。鮮やかな血が噴き出して、王子さまの真っ白な花婿衣装が真っ赤に染まります。
お姫さまは窮屈な靴を脱ぎ捨てて、ナイフから滴る血を慎重に足に垂らします。
今まであった痛みがすうっと消えました。
それは、晴れ晴れとした心地でした。
お姫さまは軽くなった心で考えます。人魚の魂は一度きりで、人間の魂は永遠です。それならば、お姫さまの魂を大事にしたほうがいいに決まっていました。お姫さまはまだ、三百年のうちのたった十年と少ししか生きていないのです。
それを、たった一度の、こんな恋で手放すなんて!
「ああ、わたし、なんて、ばかなのかしら!」
その美しい声に船の上のひとたちは驚いて、固まってしまいました。
王子さまの目はまだ薄く開いて、走り回るお姫さまを見ています。初めて聞いたはずのお姫さまの声は、どこかで聞いたはずの声だと、薄れる意識で気がつきました。王子さまの目から一筋の涙が流れました。王子さまの隣に王女さまが力なく座りこんでいます。
お姫さまが海に飛び込むのを、皆が見ていました。
大きな水飛沫が上がります。
ふたつあった足はくっついて、ひとつのしっぽになりました。
船の上の人間たちはお姫さまのしっぽを見て指をさしました。人魚が人間の足を珍しがるように、人間だって人魚のしっぽが珍しくて、気持ち悪くて、恐ろしいのです。
虹色のうろこをまとって輝くお姫さまのしっぽの美しさは、人間にはわからないのです。
お姫さまは力強く泳いで行って、家族の元へ戻ります。
お姉さまたちが、お姫さまを強く抱きしめました。
お父さまとおばあさまも、お姫さまを強く抱きしめました。
そうして、お姫さまたちは深い深い海の底の美しいお城へ、仲良く帰ってゆきました。
魔法のナイフ / 打々須 作