三枚のお札 / 栃池矢熊 作

 深い夜。
 鮮やかな紅葉に覆われた山も、夜になればその色を闇に吸収される。そんな山の麓には、一軒の家があった。
 満月の光が差すこの家で、家族三人が川の字になって寝ていた。その眠りは、いつもなら日が昇るまで覚めることのないものだった。が、この日は違った。
 暗闇の中、男が目を開け、二人の様子を(うかが)う。起きていないことを確かめると、布団から出て、立ち上がった。
 物音を立てないよう玄関まで歩き、草鞋(わらじ)を履いて、慎重に扉を開ける。念の為もう一度振り返り、家の者が横になっていることを確認し、そして閉じる。
 男はこそこそと家の裏手へ回り、物置小屋へ向かう。夜風が衣服の隙間から入り込んできて寒い。探し物を求め、男は物置小屋の前まで来ると、深呼吸した後、扉をゆっくりと開け、中を(のぞ)く。
 ない。
 いつも置いてある場所に、それは置かれていなかった。男が今朝確認した時にはあったはずだから、今日のうちになくなったということである。
 何故? 誰かが盗んだのか? 一体、何のために?
 男は不審に思い、探している物が本当にないかどうか、小屋の奥深くへ立ち入って確かめようとした。
 突然、ガサッと後ろから音が鳴った。
 男はさっと振り返り、身構える。
 腰の曲がった、背の低い一つの影。さっきまで家の中で寝ていたはずの年老いた母が、そこに立っていた。
「お前が探しているのはこれか?」
 そう言って、母が何かを男の目の前に置く。粗末な木材と縄で(こしら)えたそれは、背負子(しょいこ)であった。
「どうしてそれを……」
 動揺する男を尻目に、母はその背負子に座った。
「さあ、好きにしなさい」
 穏やかで、なおかつ決心のこもった母の顔が、月明かりに照らされた。
「『この村の老人を、残らず山へ捨てよ』……全く、お殿様の(おつしや)ることは分からないねえ」
 母は一つため息を()き、首を振りながらも、柔らかい微笑みを絶やさずに話す。
「でも、良いさ。わしを捨てることで、お前たちが助かるのなら、喜んで捨てられよう」
 覚悟を決めた母の言葉が、男の心をさらに揺さぶってくる。その心の乱れに呼応するかのように、雲が月を覆い隠していく。あたりは段々暗くなり、母がどんな顔をしているのかも判別できなくなった。
「おや、暗くなったねえ……早速山へ出発しようかと思ったけど、これだけ暗いとお前の帰り道が分からなくなるだろう。わしだけでなく、お前も山から出られなくなったら大変だからね。出かけるのは明日の朝にしようか。なぁに、大丈夫さ。わしは逃げも隠れもしないから」
 そのままゆっくりと回れ右して戻っていく母に、男は何も言えず、ただその場に立ち尽くすだけだった。


 次の朝が来た。
 家族の別れを嘲笑うかのように、残忍なまでに雲一つない快晴。
 母に会える最後の機会だからということで、山には男の息子、つまり母にとっての孫も同行することになった。この子供はまだ七つで、やんちゃ盛りであった。
 その他に家族はいなかった。男の父親は、男が結婚する以前に病死していた。さらに男の妻も、子供が物心つく前に若くして事故で亡くなっていた。
 そしてこの日、息子と孫を見守ってきた母がいなくなる。しかも、単なる病や事故ではなく、領主の理不尽な命令によって。この世の不条理に、男はやるせない気持ちでいっぱいだった。
「まあ、ここまで来れば充分だろう。さあ、わしを置いて帰るが良い」
 ある程度の山奥まで来たところで、背負子に座っている母が(うなず)いた。背負子を背負っている男はしゃがみ込み、母をその場に下ろした。
「もう二度と会うこともないだろう。達者でな、お前たち」
 母は努めて笑って手を振る。男は我慢していたが、もう限界だった。大粒の涙が男の頬を伝う。それを見て、母も目頭が熱くなった。すすり泣きとともに、一家で過ごす最後の穏やかな時間が流れていった。
「ほら、お前も祖母(ばあ)さんに挨拶しなさい」
 涙を拭いながら、男は背後できょとんとしていた自分の子供を母の前に立たせた。
「お前も、元気にするんだよ。本当は立派に成長した姿を見たかったけどねえ」
 母は(しわ)だらけの手を、寝癖のついた子供の頭の上に置く。大切な宝物を磨くかのように、何度も何度も優しく()で続けた。
 突然、子供はにんまりと笑った。
「おいババア」
 母の動きが止まった。
「おら、お前がいなくなってすごく(うれ)しいんだ」
 悲しい空気にしないようにと笑顔を絶やさなかった母の顔が曇っていく。その反対に、子供の顔は晴れやかになっていく。
「お前みたいな自分勝手なババア、いない方が良いんだよ」
 場の空気を凍り付かせるような発言に、男の涙は枯れはて、子供を平手で叩いていた。
「お前! 祖母さんになんてことを言うんだ!」
 男は子供を叱りつけるが、なおも悪口はやまない。
「ざまを見ろ、ババア! お前なんかおらの祖母ちゃんじゃねえ! この人でなし、そのまま野垂れ死んでしまえ!」
 男は慌てて子供の口を強引に手で塞ぎ、そのまま母から遠ざけようと引っ張っていく。子供はまだ言い足りないのか、もごもごと抵抗するが、男のげんこつが子供の頭に飛んできて、押し黙った。それでも母の視界から外れるまで、男に引き()られながらもずっと母を(にら)み続けていた。やがて二人の姿は木々の奥へと消えていき、そのまま戻ってくることはなかった。
 母は悲しんだ。子供に実の母がいない今、母親代わりに子供を育てていたのは祖母たる彼女だったのである。それにも関わらず、別れ際に突き放された彼女の悲しみは、計り知れないものがあった。
 こんなに可愛がってきたのに、どうしてあのようなことを言われなければならないのか。
 母はその場にへたり込み、一日中嘆き悲しんだ。別れ際に流そうとしていた涙がどっと押し寄せ、(とど)まることを知らなかった。
 やがて夜になると涙は干上がり、その悲しみは憎しみへと変わった。そして、恩知らずの孫に復讐(ふくしゅう)することを誓った。
 その後彼女がどうなったのかを知る者は誰もいない。

 それから間もなく、この山に山姥(やまんば)が現れたという(うわさ)が流れ始めた。
 なんでも、その山姥は自然を操れるらしい。老いた家族を山に捨てに行った若者によると、その場に大きな砂山を出して、逃げようとする(たぬき)の動きを封じて捕らえたり、空に突風を起こして、飛んでいた鳥を強引に地上に落としたり、何もないところに火を発生させ、そうして得た獲物たちを焼いて食べたりしていたとのことである。
 老人を山へ捨てるよう命じた領主は、このことを不気味に思い、山姥退治のために山を攻めさせた。しかし、この出兵は多数の犠牲を出して失敗した。生き残った兵によれば、山を攻められた山姥は巨大化し、暴れまわって兵たちを蹴散らしたという次第であった。
 当然このまま終わるわけがない。次に領主は、山の(ふもと)から火を放ち、山ごと焼き殺すという作戦に出た。
 しかし、これもうまくいかなかった。火がうまく回り始めた途端に、どこからともなく暗雲が立ち込め、たちまち山は大雨に見舞われた。その激しさに、あっという間に火は消えてしまったのである。そして火を消し終わったその雲は、領主の住む屋敷の上空に移動し、そこで雷を落とした。たちまち屋敷は炎に包まれ、領主は火事に巻き込まれ亡くなった。彼の後を継いだ新領主は、この山姥が起こしたであろう自然現象をひどく恐れ、あの山に手を出すことはなかった。こうしてこの地域に平和が戻ったのである。

 それから月日が流れた。
 紅葉に彩られた山奥に、山姥の住む粗末な家があった。粗末とは言え、普通の人間たちの住むものと同じような造りをしており、のんびり住む分には何の不都合もなかった。
 山の日没は早い。特に秋の終わりともなると、あっという間に昼が終わる。この日も日が落ち、暗くなり始めた頃であった。
「しまったなあ」
 山姥は舌打ちした。
「夕食の調達をするのを忘れていたわい」
 暗くなると獲物も見つけづらくなる。狩りに行くなら日が沈んでからでは遅かった。
「……まあ今日はそこら辺で栗でも拾うか」
 一つ伸びをし、立ち上がって身支度を整える。拾った栗を入れるための(かご)を持ち、玄関の扉を開ける。
「うわあ!」
 突然、目の前から甲高い叫び声が聞こえた。何事かと思い見てみると、そこには白衣(はくえ)(こし)(ごろも)を着た小僧が尻餅をついていた。年の頃は十歳くらいか。あどけない顔立ちだが、見ただけでわんぱくな子だと分かるほどに目が輝いていた。
「び、び、びっくりしたあ……なんか家があるなあと思ったけど、まさか本当に人が住んでいるなんて……」
 小僧は心臓が飛び出たかのような表情で山姥を凝視していた。だがもっと驚いたのは山姥の方である。そもそも領主が亡くなったあの一件以来、人間たちは自分を恐れてこの山に足を踏み入れようともしなかった。それなのに、まさかあの一件を起こした張本人が住む家に近づく人間がいようとは、思いもよらなかった。
 それにしても、この小僧は何者だ、と山姥は思った。自分から家の前に来たにも関わらず、山姥が扉を開けたらびっくりして腰を抜かすだなんて、自分勝手にも程がある。
「おい小僧、ここがどこか分かっているのか?」
 山姥は不快気に小僧を問い詰めた。
「はあ、婆様の家じゃないのか」
 ようやく立ち上がり、服についた汚れを手で払いながら、小僧はきょとんとした顔で答える。
「まあわしの家だが」
 山姥は、小僧が自分を見ても全然怖がらないことを(いぶか)しく思い、一つ確認してみることにした。
「では質問を変えよう。小僧、わしが誰か分かるか」
「分かんねえ」
 即答だった。全く、今時の若い奴はこの山に誰が住んでいるのかすら知らないのかと、少々不満になった。だったら教えてやるしかないと思った時、小僧が先に口を開いた。
「そんなことより婆様、おらを一晩ここに泊めてくれ!」
 いきなり小僧は、青々とした坊主頭を下げた。
「はあ? お前を泊めるだと?」
「おら、この山で栗をとっていたんだけど、いつの間にかあたりがこんなに暗くなっちまった。で、帰り道が分からなくなって困ってるんだ」
 小僧はガバッと顔を上げ、純粋な目で山姥を見据えた。ここで山姥は、小僧の背中に栗が(あふ)れんばかりに詰まっている籠があることに初めて気が付いた。これこそまさに、今の山姥が求めているものであった。
「頼む! この栗、婆様にも分けるから!」
 小僧はもう一度頭を下げる。これを見た山姥は、悪くない取引なのでは、と思った。一晩小僧を泊めることで、今から栗を拾いに行くという手間を省くことができる。山姥とて老婆の体、栗を拾うためにいちいちしゃがむのは腰に(こた)えるし、しないに越したことはない。それを踏まえれば、小僧の持ってきた栗を一緒に食べる方が良いかもしれない。そう山姥は考えた。
「分かった、分かった。じゃあお上がり」
 小僧は目を輝かせ、「やったあ!」と無邪気に飛び跳ねた。やれやれ、面倒な奴を入れてしまったかもしれぬ、と山姥は思った。


 囲炉裏(いろり)を挟んで、山姥と小僧が籠から栗を取り出し、思い思いに頬張る。小僧は食べるのに夢中なのか何も(しやべ)らず、次から次へと栗を消費している。一方の山姥は、栗を口に含みながら、考え事をしていた。
 このように、誰かと一緒に飯を食ったのは、いつぶりなんだろう。
 少なくとも山姥がこの山奥に住み着いてからは、彼女はずっと一匹狼であった。皆から恐れられ、どんな時でも孤独を貫いてきた。
 ではここに来る前はどうだったか? 山姥は記憶を辿(たど)る。山の麓にある、住み慣れた前の家。そして一緒に食卓を囲んだ家族。何があっても自分を慕ってくれた息子。いつも家庭に笑顔をもたらしてくれた孫……。
 ふと、孫の顔が山姥の頭を(よぎ)る。あの日、恩を忘れて自分を罵倒した、あの醜い笑顔。身の程を知らず「ババア」などと喜色満面に侮辱してきた、あの下劣な目つき。
 何かに、似ている。
 視線を小僧に向ける。いつの間にか籠にあった栗をほとんど平らげ、そのまま気持ち良さそうにぐっすりと眠っている。この綺麗(きれい)()られた頭から、そのまま髪の毛を伸ばしたら。
 間違いない。我が孫である!
 特徴的な丸い頭のせいで気付くのが遅れたが、ここで幸せそうに寝ている小僧こそ、まさしく山姥の孫であった。この事実を知ってしまった山姥は、もういても立ってもいられなくなった。
 とうとう見つけたぞ、我が仇敵(きゅうてき)
 死よりも恐ろしい苦しみを味わわせてやる……!
 勢いそのままに山姥は台所へ(おもむ)き、包丁を手に取った。試しに近くの柱を切りつけ、その切れ味に不満を覚えると、砥石(といし)を取り出し、立ち所に包丁を研ぎ始めた。
 こいつだけはこの手で殺さねばならん。わしはこの日のためだけに、ここまで生き永らえてきたのだ。これだけ醜い姿になってまで、こうして生き延びたのだ!
 力を込め、がむしゃらに刃先を磨いていく。その度に家中に金属の擦れる音が響き渡る。それはまるで、山姥の怨念が包丁にこもり、(うな)り声を上げているかのようであった。
 山姥は脇目も振らず、一心不乱に包丁を磨く。日頃から手入れしていたのもあって、あっという間に片面を研ぎ終えた。
「この時を何年も待ったのだ。普通に殺すだけでは物足りぬ。……そうだな、まずは手足の爪を剥ぎ取り、その上で一本ずつ指を切り落とそう。その次は……」
 ここで山姥は、さすがに大きい音を出しすぎているかもしれないと思い、ふと小僧の方を見てみる。
 小僧と目が合った。寝ぼけ(まなこ)だが、体は震えていた。
 しまった。起きていたか。もう少し静かに研げば良かったかもしれぬ……山姥は冷静さを欠いた自分の衝動的な行動を後悔した。
 ……だが悔やんでいても仕方がない。恐らく今の独り言も全て聞かれてしまっただろう。包丁がまだ完璧な状態ではないが、やむを得ん。こうなったら。
「婆様。おら、小便がしたい」
 小僧の思わぬ言葉に山姥は少し固まる。
 小便? ということは、小便をしたいから震えているだけで、別に今のことは聞かれていなかったということか。
 それならば丁度良い。あと半分研げば包丁の準備が整う。(かわや)に行かせている間に研ぎ切って、小僧が帰って来たところで、地獄の処刑を始める。これで行こう。
 しかし、それでも山姥は不安だった。もし仮に、小僧がこれを聞いていたとしたら。「小便に行きたい」ということは逃げるための口実なのかもしれない。高々十歳の小僧ごときにそこまでの知恵が働くのか分からないが、念には念を、である。折角執念深く生き続けてきたのに、ここで小僧に逃げられては全てが水の泡だ。
「……分かった。ただな、このままでは行かせることはできぬ」
「どういうこと?」
「……この山の夜は恐ろしい生き物が出てくる。何かあったらいかんから、この縄をつけなさい」
「縄? なんで?」
「……お前が何かに襲われそうになったら、大声を出すが良い。そうしたら、わしがこの縄を引っ張って、お前を助けてやろう」
 もちろん、全部嘘である。小僧を逃がさないために、縛り付けることが目的である。
 小僧は納得いかないような表情をしながらも、「うーん、分かった」と、縄に巻かれることを了承した。
 山姥はなるべく小僧を強めに縛った。小僧がどう足掻(あが)いても(ほど)けないように。「婆様、少しきついよ」と小僧が不満を垂らしたが、「このくらい縛らないと、うまく引っ張れないのさ」と返した。
 なぁに、きついと言われるくらいに縛るのが丁度良いのだ。この際、最も怖いのは縄を解かれることなのだから。小僧の力ではビクともしない程度に巻きつければ良い。そう考え、これだけ縛ればさすがにもう大丈夫だろうと思ったところで、山姥は小僧を厠へ行かせた。
 小僧が外へ出たのを確認して、山姥は包丁研ぎの続きを始めた。いよいよ、我が念願が叶う。そう考えると、包丁を研ぐ皺だらけの手に、より一層力がこもった。
 もちろん、包丁を研ぐのに夢中になっていてはいけない。この包丁の餌食になる小僧が逃げていないことを、逐一確認する必要がある。少し経った後、山姥は手を止めた。
「おい、小僧、まだか」
 山姥は厠に向かって叫ぶ。すると、厠の方から返事が聞こえた。
「もうちょっと待って」
 その声を聞き、山姥は少し安心した。そのまま目線を包丁の方へ戻し、作業を続ける。
 さらに時間をかけ、ついに山姥は包丁のもう片面も充分に研ぎ終えた。そろそろ小僧が帰ってくると思ったが、これだけかかっても小僧はまだ戻ってこない。縄を少し引っ張り、小僧が(つな)がっていることを確認しながら問いかける。
「小僧、まだなのか」
「まだまだ」
 妙に時間のかかる奴だと思いながら、砥石を元の場所にしまう。そして研いだ包丁の切っ先を念入りに確かめながら、なおも小僧の帰りを待ち続ける。それでも一向に厠から出てくる気配はない。
「小僧! 小便でそんなに時間がかかるのか!」
「小便が止まらねえんだ」
「そんなこと、あるものか!」
 山姥はとうとう我慢できず厠へ向かった。
「おい、小僧!」
 扉をガバッと開けた。
 そこに小僧はいなかった。
 おかしい。さっきまで声はしていたはずなのに。見ると、どう解いたのか知らないが、縄は柱に括りつけられている。
「どこに隠れた、小僧!」
 山姥は叫ぶ。すると、また返事が聞こえた。
「まだ小便が出るんだ」
 その声の出どころを見て、山姥は目を見開いた。驚いたことに、その声を発しているのは、なんと厠の柱であった。柱の一部が、あたかも人間の口のような形に変化して、(しゃべ)っているのである。
「なんだこれは!」
 見間違いかと思い、目を擦る。しかし、次の瞬間、柱から生えた口はまた声を発した。
「婆様、もうちょっと待ってくれ」
 小僧と丸っきり同じ高さの声が、柱から聞こえた。つまり、信じ難いことだが、今まで返事をしていたのはこの柱だったのである。
「ということは」
 小僧にまんまと逃げられた!
 謀られた。素知らぬ顔をして、やはりあいつはわしから逃げようとしていたのだ。しかも、どうやったのかは知らないが、自分と同じように妖術を使えるらしい。これは予想以上に厄介である。両手で包んでいた獲物が、指の隙間からするりと抜けていくような感覚を覚えた。なんたる失態!
 しかし、冷静になって考えてみる。
 いくら逃げようとしたとて、ここは夜の山。いわば森の迷路である。初めてここに来た者がここを突破できるわけがない。地の利は山姥にある。今からでも追いかければ、間に合うはずなのだ。逃げたらもう一度捕まえれば良いだけのことである。
「小僧め、逃げ切れると思うなよ」
 山姥は勢いよく厠の扉を開け、外へ走り出す。その目には憎悪の炎が宿っていた。

 勢いよく地面を蹴ると、後ろに土が飛び散る。風のごとく森の中を駆け抜ける山姥。全ての動くものに目を光らせ、標的を探す。
 やがて山姥は、暗闇の中に大きく手を振って必死に走る人影を見出した。
「見つけたぞ!」
 山姥が叫ぶと、小僧は驚いた顔で振り向いた。息を切らし、一段と速度を上げて振り切ろうとする。が、何せ相手が悪すぎる。普段から寺で遊び(ほう)けている小僧が、この山を毎日駆け回っている山姥に、足の速さで敵うわけがないのである。このままいけば、追い付くのは時間の問題であった。じわりじわりと、小僧と山姥との間が埋まっていく。
「さあ観念するが良い!」
 いよいよ双方が手を伸ばせば届くだけの距離となり、山姥は両腕をガバッと広げ、一気に小僧へ飛びかかろうとした。
 突然、小僧は後ろを振り向き、何かを掲げた。
「砂の山、出て来い!」
 小僧が叫ぶや否や、小僧が手に持っているものが光り輝いた。と同時に、小僧と山姥との間に、砂山が出現した。
 小僧を捕えようとしていた山姥の腕は、砂山を(つか)んでいた。掴んだ部分が下に流れ落ち、それにつられて山姥の体もずるずると落ちていく。慌てて山姥はもがき、砂山を乗り越えようとするが、砂を掴む度に下の方へと滑り落ちてしまい、なかなか上ることができない。その間にも小僧の姿が離れていく。
「ええい! こんな砂山、吹き飛ばしてくれる!」
 山姥は一度砂山から離れ、大きく息を吸い込むと、それを一気に吐き出した。
 強烈な突風が山姥の口から発生し、砂山に激突する。砂が向こう側へ押し流され、たちまち砂煙が巻き上がった。山姥は目を(つむ)り、なおも猛烈に息を吹きかけ続ける。やがて砂山は崩壊し、大量の砂の塊が地面に落ちた。
「お前が妖術を使おうとも、わしには効かんのだ!」
 再び山姥は小僧を追いかける。距離を離されてしまったとは言え、もう一度追い付くには充分であった。
 小僧はまた追い付かれることを察し、木々の間を次々とすり抜けていき、山姥の視界から外れようとする。しかし相手はさすがの山姥、山の中の地理は網羅していると見え、小僧がどこをどう通っても必ず小僧の後ろをついて来た。小僧は一向に振り切ることができないどころか、またもや山姥の姿が大きく見えてきた。
「大人しく捕まれ!」
 山姥は小僧に向かって手を伸ばす。ここで小僧は、再び懐から何かを取り出した。
「大きな川、出て来い!」
 小僧の手に持つものが光る。次の瞬間、轟音(ごうおん)と共に、小僧の背後から大量の水が流れてきた。
 水は通り道にある木々を根こそぎ倒し、山姥目がけて押し寄せてくる。さすがの山姥も立ち止まらざるを得なかった。今だとばかりにその場から走り去っていく小僧。しかし今は慌てて追うわけにはいかない。このままでは流されてしまう。
「こんな水、飲み込んでくれる!」
 山姥はガバッと口を開け、迫りくる水を飲み始めた。瓢箪(ひょうたん)に入っている酒をぐい飲みするかのように、川の水をどんどん腹の中に入れていく。止まることのない水を前に、上半身が後ろに倒れかけたが、下半身の粘りでなんとか持ちこたえた。そして時間はかかったものの、やがて川の勢いが弱まり、水が全て山姥に飲み込まれた。
小癪(こしゃく)な真似をしおって。こんなものでわしを倒せるとでも思ったか!」
 再び山姥は走り出す。が、先程までと同じように全速力では走れなかった。というのも、水が腹の中で前後に揺れ動き、走りにくいのである。水が背中側に揺れて体が後ろに傾いたと思ったら、今度は水が前に揺れて体の平衡が崩れ、転びそうになる。腹の中でたぷんたぷんと自由に揺れる水の制御に苦しみ、なかなか本気で走ることができなかった。
 しかし山姥と小僧の差は広がるどころか、むしろ再び縮まってきている。小僧もまた、逃げ始めた時ほど速くは走れていなかったのである。既にだいぶ疲れてきたのか、息も絶え絶えになり、横っ腹を押さえ、苦しそうに走っている。とうとう限界を迎えたようで、小僧は立ち止まり、肩で息をし始めた。
 その隙に山姥が一気に距離を詰める。走っているうちに腹の中の水の動きにも慣れ、体をうまく前後に傾けながら、小僧の方へ突き進む。
「これでお前も終わりだ、小僧!」
 三度(みたび)山姥は小僧を射程圏内に捉えた。今度こそ山姥が小僧に追い付きそうになったその時。
「火の海、出て来い!」
 小僧がまたもや何かを手にして、枯れた声を振り絞って叫ぶ。その言葉と同時に、小僧と山姥の間にあった木が燃え始めた。あたりは木々ばかり、火は風に(あお)られてどんどん他の木にも燃え移っていく。あっという間に一面火の海となり、山姥の進路が断たれた。
 小僧は()き込みながらも再び呼吸を整え、その場から逃げていった。それを追いたい山姥であったが、火の壁に阻まれて進めない。むしろ自分が火の海に飲み込まれる危険もあった。
 だが山姥は冷静であった。
「さっき飲んだ川の水を吐き出してしまえ!」
 そう言うと、山姥は再び大きく口を開けた。すると、腹の中に()まっていた水が逆流し、山姥の口から放出された。先程山姥に向かって押し寄せた時の勢いそのままに、水が火に襲い掛かる。竜のごとき水流を前に、さしもの火の海も全く歯が立たず、次々と冷却されていく。程なくして鎮火が完了し、後には黒く焦げた倒木がいくつも残った。
「ふう。これで鬱陶しい水を腹から追い出すこともできたし、一石二鳥だわい」
 ()れた口元を袖で拭き、またしても走り出そうとする山姥。
「……ん? これは?」
 ふと見ると、焼け跡に一枚の紙切れが落ちている。拾ってみると、太く力強い字で「御守」とだけ書かれてあった。
「なるほどな」
 山姥はその場で大きく頷き、にやりと笑うと、紙切れを引き裂いて後ろに放り投げた。
「逃がさんぞ、小僧!」
 山姥は走り出す。腹が空になったおかげで走りやすくなり、水を飲む前と同じくらいの速度で小僧を追跡することができた。
 一方の小僧、やはり体力切れで満足に走れず、おまけに先程まで見せていた妖術も使う気配がない。ついに小僧を追い詰める時がきたと、山姥は確信した。
 しかし、ここで山姥は一軒の寺を視界に捉えた。もしやと思っていたら、果たして小僧はその寺の中へ駆け込んでいった。
「そんなところに逃げても無駄だぞ!」
 逃げているところを追い付くよりも、隠れているところを見つける方が、小僧を捕まえるには好都合である。構わず山姥は寺を目指す。
 その時、小僧を隠した寺の扉が再び開いた。何事かと見ていると、中から黒い袈裟(けさ)を着た大人の僧が出てきた。そして扉を閉め、後ろで手を組み、走る山姥の方へ体を向け、悠然と待つ構えを見せた。
 門番のように立ちはだかるこの男に、山姥は少なからず興味を抱いた。その寺に到着するというところで走る速度を落とし、彼の数歩手前で立ち止まった。
 近くで見ても、この僧は自分を恐れている様子はない。眉に白いものが混じり、額の皺が深いことから、だいぶ老齢であることが見て取れる。強がりめ、と山姥はほくそ笑む。こういう虚勢を張っている者を脅し、その化けの皮を剥がすことほど面白いものはない。
「お前はここの寺の者だな?」
 (おもむろ)に尋ねる山姥に対し、黒衣の老僧は山姥から視線を外さずに頷いた。
「そうだな。わしはここで和尚をやっておる者だ」
 老いているのに腰は曲がっておらず、堂々としている。さすが和尚を名乗れるだけの風格はある。
「なるほど、お主が山姥か。一度顔を見てみたかったのだ」
「わしのことを知っているのか。それならば話は早い」山姥は自分の名が知られていることを内心嬉しがりながらも、和尚をきっと睨みつけ、寺を指差した。「今逃げ込んだ小僧を出せ。さもないとお前から殺してやるぞ」
 山姥はできるだけ怖い形相をして和尚を脅そうとした。しかし、和尚は顔色一つ変えない。
「お主、妙にうちの子に執着しておるみたいだな。理由を聞かせてはくれまいか」
 和尚が全然怖がっていないことに腹を立てた山姥は、さらに声を荒らげた。
「あいつはわしの孫じゃ。わしが手塩にかけて育ててきたのに、その恩を忘れてこのわしを山に捨て、あろうことかわしを侮辱しおった」
 拳を握り、許せん、と(つぶや)く山姥。しかし、和尚の反応は冷ややかなものだった。
「それは、お主があの子に侮辱されるようなことをしたからであろう。当然の報いだ」
 山姥の頭にかっと血が上った。
「お前! わしを愚弄する気か! それならばお前もただでは置かないぞ!」
「では聞くが、お主は知っておるのか? ……何故あの子がお主のことを嫌っておるのか」
「知るか! 身に覚えがない! あいつが勝手にわしの恩を忘れただけで、わしに非など一切ない!」
 和尚はため息を吐いた。
「……本当にお主は、自分(・・)が《・》した《・・》こと《・・》を忘れたのか?」
 和尚の目がギラリと光る。まるで山姥の心を見透かすかのように。
「うるさい! うるさい、うるさい、うるさーい!」
 山姥は割れ鐘のような大声を張り上げ、和尚の話を遮る。
「我が体よ、大きくなれ!」
 そう怒鳴ると、山姥は見る見るうちに大きくなり、寺と同じ高さにまでなった。
「言わせておけば良い気になって……不愉快だ! 先にお前を血祭りに上げることに決めた!」
 大きくなった山姥が、山全体が震えるほどの大声で叫んだ。
「これが、お主が山姥と呼ばれ、恐れられる能力か」
「そうだ! わしは何でもできるのだ!」
 どうだ、恐れ入ったかと得意気な顔になる山姥。しかし、和尚は相変わらず泰然としている。
「まあ大きくなるのは構わんが、わしの話はまだ終わっていない。とりあえず最後まで聞くが良い」
 和尚は首を鳴らし、続けた。
「わしがあの子に持たせたお札には、人の力を超越した、強大な霊力が宿っておる。その力を使えば、厠の柱に話をさせることもできる。砂の山を生み出すことも、大きな川を生み出すことも、火の海を生み出すことだってできるのだ。ただお札を持って、願いを唱えるだけでな」
 和尚は山姥を射るように見ながら、(よど)みなく語る。
「お主はここに来るまでの間、うちの子が作り出した様々な自然に妨害されたろう? あれは妖術などではない。お札の力だ。だからこそ、途中でお札を落としてしまったら、もうあのような足止めができなくなるわけだが」
「ふん……知っていたさ」山姥は不敵に笑う。「そのような道具に頼らなければいけないなど、人間とは不便なものだな」
「お主とてそれは変わらないだろう」
 和尚は片目を閉じ、もう一方の目で山姥を見据えた。
「このお札は反対に、うちの子によって生み出された自然を消してしまうこともできてしまう。……そして、今のお主のように大きくなることだって、お札の力があれば容易いことなのだ」
 徐々に山姥の顔が曇ってくる。
「つまりわしが言いたいのは、お主もうちの子に持たせたお札と同じものを持っている、ということだ」
 山姥は歯ぎしりをした。自分が山姥として名を(とどろ)かすことができているのは、領主を亡き者にした時のように、自然を操ることができたからである。しかし、それは山姥自身の力ではない。山姥の懐奥深くで眠っているお札があってこそ、自然を自由に扱えるのである。
 つまり、お札に頼らなければ人知を超えた力を操れないのは、小僧も山姥も同じなのである。それを知られてしまっては、山姥としての威厳は大きく損なわれてしまう。現にこの和尚は山姥のことを全く恐れていない。
「そしてこのお札は、最初からお主が持っていたわけでもあるまい。お主の前に、このお札の持ち主がいたはずだ。そうだろう? 誰からもらった?」
 まるで全てを知っているかのような目で、和尚は問いかける。山姥は苦虫を()み潰したような顔で黙っている。
「いや、聞き方が悪かったな。誰から奪い取った《・・・・・》のだ?」
 山姥は何か言葉を発しようとした。だができなかった。今山姥は、思い出してはいけないことを思い出しかけていたのである。
「今、お主の頭の中に、一人の女子(おなご)が浮かんでおる……違うか?」
 山姥の中に抑え込んでいた記憶が、今再び解放されようとしていた。山姥が思い浮かべたのは、彼女の嫁――つまり彼女の息子の妻であった。
「その女子こそ、お主が今持つお札の真の持ち主、というわけだ」
 山姥の記憶が蘇っていく。包丁を持ち、血しぶきがついた自分の手。その向こうには、髪を乱し、腹のあたりから血を出して横たわる、若い女性の姿。
「お主はどうしてその女子を殺した?」
 気に食わなかった。自分が何年もかけて立派に育て上げた息子が、ぽっと出の嫁の言いなりになっているということに。嫁の尻に敷かれ、辛そうにしている息子を救うには、こうするしかなかったのだ。
「まあ、聞くまでもないか。大方、女子の勝ち気な性格と折り合わなかったのであろう。お主も頑固そうだからな」
 しかし、残った家族にこの一件を知られるわけにはいかなかった。すぐに血まみれの女を片付けなければならなかった。
 その時、死者の懐に、一枚の紙があるのを見つけた。取り出してみると、そこにはただ二文字、「御守」とだけ記されていた。だが、その文字以上に、紙からただならぬ雰囲気を感じた。
「それにしても、家族の一員を殺してもなお、残った家族と共に暮らそうなどと思うとは、お主も面の皮が厚いな。家族に知られなければそれで良いとでも思っていたのか」
 遺体を括りつけた背負子を背負い、月明かりのない夜闇の中をひたすら進む。重い足取りで山の中を歩いていく。
 もっと遠くへ。
 もっと奥へ。
 決して誰にも見つからないように。
「お主の家族には、女子は事故で死んだと伝えたそうだな。だが、あの子の目は(だま)せなかったというわけだ。たとえ直接現場を見ていなかったとしても、幼い子の勘というものは恐ろしく()えている」
 遺体の処理は滞りなく終わり、息子には疑われることもなく葬儀を済ませた。この時取り出したお札がやはり普通の紙ではないことに気付いたのは、それから間もなくのことだった。
「今、寺の中に隠れておるあの子にとって、その女子は母親だ。その女子を、お主は殺した……お主が嫌われるのは至極当然のことと言えよう」
 山姥はわなわなと震え出した。
 さっきから何なのだ、この和尚は。あの小僧に色々吹き込まれたのか、部外者のくせにあたかも自分のことをよく知っているかのように語ってくる。腹立たしい。一介の和尚ごときに、自分のことが分かってたまるか。
「関係ない奴が、人の家庭事情に首を突っ込むな!」
 あたり一面に響くほどの大声で、山姥は一喝した。あまりのうるささに、さすがに今度は和尚も一瞬目を背けたが、すぐに山姥と目を合わせ直した。
「……お主は何か勘違いをしておるようだな」
 秋の夜風が二人の間に吹く。しばらくの沈黙の後、和尚が口を開いた。
「わしはあの小僧の祖父だ」
 山姥にはその意味が理解できなかった。
「何を言う! 小僧の祖父はわしの夫だ! お前などではない!」
 やれやれ、といった様子で和尚は首を振った。
「人は誰だって、二人の祖父を持つものだが」
 そう言われて山姥は初めて気が付いた。そういえば、自分は嫁の親の顔を知らなかったということを。
「お会いしたのは初めてであったな、岳母(がくぼ)殿(どの)。うちの娘が随分世話になった」
 普通なら、自分の息子の結婚相手の親とは、もっと穏やかな状況で対面するものであろう。まさかこのような形で初めて会うとは、誰が予想できただろうか。
「ところで、だ」
 山姥が呆気(あっけ)に取られていると、和尚が目配せをしてきた。
「このお札はこの世に三枚ある。そのうちの一枚は今お主が持っているもので、元々わしが娘に授けたものだ。そしてお主も知っておる通り、別の一枚はわしが孫に持たせたものだ。どうやら途中で落としてきたようだがな」
 まだ何か言うのかと山姥が思っていると、突然和尚は後ろで組んでいた手を解き、その手を自分の懐へ伸ばした。
「つまり、これと同じものがこの世にあと一枚ある。その意味が分かるな?」
 そう言うと、和尚は懐からお札を取り出した。
「お前……!」
 山姥はそのお札を奪おうと手を伸ばした。だが遅かった。
「豆になれ!」
 和尚がそう言うと同時に、お札は光った。巨大な山姥は一瞬にしていなくなり、彼女がいた地面には豆粒と一枚のお札が残った。

三枚のお札 / 栃池矢熊 作

三枚のお札 / 栃池矢熊 作

【〇〇が老婆を山姥に変えた】 山姥だって、元は人間だった。心優しい老婆だったのに、ある日突然恐ろしい山姥になってしまった。どうして老婆は山姥になったのか。そして山姥になった老婆は、三枚のお札を前にして、何を思うのか。『三枚のお札』を山姥視点からリメイクした作品。 (御伽話リメイク:三枚のお札)

  • 小説
  • 短編
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-02-14

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