大人の階段 / 栃池矢熊 作
玄関の扉を開けると、そこには神谷がいた。
「誕生日おめでとう」彼が言った。「二十歳だね」
はあ、と思わず声が漏れてしまった。自分の脳内にカレンダーを浮かべる。そうか、今日だったか。
「あ、ありがとう……よく覚えていたね、俺の誕生日」
「当然じゃないか、親友なんだから。祝わせてくれよ」
そう言って神谷は持っていたレジ袋を掲げた。乳白色のビニールから、缶ビールが何本か透けて見える。
「これ、美味いぞ。今日から合法になったんだし、一緒に飲もうぜ」
コマーシャルでよく見る定番のビールを袋から取り出し、俺に一本寄越した。
「良いのか?」
「構わん構わん。パーっとやろうぜ」
「ありがとう。まあ入ってくれよ」
俺が手招きすると、神谷は「じゃあ、そうさせてもらうよ」と言って部屋に上がった。二十歳になってから初となる酒を友達と飲むのもまた一興だと思いながら、俺は彼を自分の部屋に案内する。神谷は持ってきた缶ビールと枝豆をおもむろに取り出し、机の上に置いた。
「さあ、飲もう飲もう」
缶の蓋を開ける神谷の向かい側に俺は腰をかけた。
「お前の記念すべき日に、乾杯!」
「乾杯」そう言って缶どうしをぶつけ合う。そのまま二人で酒を飲みながら語り合った。
神谷とは大学の授業でたまたま隣の席になった縁から親交が始まったが、今学期は授業が被ることがあまりなかった。一応同じ授業もあるにはあるのだが、そういう授業に限って神谷は欠席していることがほとんどで、そのせいで今回神谷と会うのはおよそ三か月ぶりであった。そんな中でも俺の誕生日を覚えてくれていたことが純粋に嬉しかったし、丁寧にもてなしたいという気持ちがあった。
前に会った時からブランクがあったので、近況報告だけでも話のネタが尽きなかった。どんな授業を受けているのか、先生はどういう人なのか、授業の内容は面白いのか、などと話しているだけで、いつの間にか神谷が持ってきた缶ビールをほぼ消費しきっていた。すると、ふと神谷が言った。
「でもなあ、なんか面白くないな」
「なんでだよ」
「うーん、なんでだろう。でも、なんか物足りないんだよな」
酒があり、話し相手がいる。それでも何が足りないと言うのか。
「別に俺は結構満足しているけど」
「いや、お前にはもっと誕生日を満喫してほしいんだ」
何を言っているんだろう、と俺が訝しんでいると、突如神谷が何かを閃いたのか立ち上がった。
「そうだ! もっと色んな人を誘って皆でお前をお祝いしよう! 誕生日パーティーだ!」
急に目を輝かせた神谷の意図が分からず、俺は困惑した。
「え、パーティー? そこまで大掛かりにしなくても良いんじゃない?」
「いやいや、祝う人は多い方が良いって! お前もずっと二人で飲んでいるだけじゃつまらないだろ?」
「いや、別に二人でもつまらないとは思っていないけど」
正直、俺はこのまま神谷と飲み続けるだけで充分だった。だが、神谷はどうやらもっと騒ぎたいようである。
「良いじゃないか、特別な機会なんだしさ! あ、場所と人数の確保は任せてくれよ!」
まあ神谷が全部手配してくれるなら良いか、と思った。パーティーには別にそこまで興味はなかったが、パーティーに参加する機会なんて滅多にないし、折角だから行ってみるか。
「分かったよ。じゃあ任せるわ」
「よっしゃ、お安い御用だぜ! 準備ができたら迎えに来るから、それまで待っててくれ!」
そう言って神谷は立ち上がり、颯爽と玄関を飛び出して行った。部屋に一人残されて辺りが静まり返るのと同時に、本当に神谷は色々用意できるのかと心配になった。でも神谷が自信満々に待てと言ったので、ひとまず待ってみることにした。その間、俺は手持無沙汰だったので、無駄に多く残っている枝豆をつまみながら、来週が締切のレポートに着手した。が、調べ物が捗らないのと、先程飲んだ酒のせいで頭の働きが鈍っているのとで、なかなか書けず難儀した。
そして一時間ほど俺が頭を抱えながら参考文献を読んでいると、神谷が戻って来た。
「待たせてごめんよ。準備できたぜ。ついて来てくれ」
俺がドアを開けるなり、神谷は俺を差し招いた。
「どこへ?」
「まあ行けば分かるさ。ちゃんと人も集めておいた」神谷は得意げな顔になった。「もちろん酒も料理もたくさん用意してある。さあ行こう」
そう言うと、神谷は俺の腕を掴んで外に引っ張った。
「ちょっと待ってくれよ」俺は慌てて神谷の手を振りほどいた。「行く前に、まず俺の部屋に鍵をかけさせてくれ」
「おお、そうかそうか。すまんな」そう笑って神谷は額に手を当てる。「戸締りはしっかりとしないといけないもんな。じゃあ、先に外で待っているわ」
それだけ言い残して神谷はドアを閉めた。パーティーをやる場所と言ってもパッと思いつかず、どんな場所なのか気になった。玄関の棚にしまってあった鍵を取り出し、靴を履いて外に出る。鍵を閉め、アパートのらせん階段を下りて神谷と合流し、ここから徒歩圏内にあるという会場に向かった。
その道中でも神谷との話は尽きなかった。今度は共通の趣味の話で盛り上がり、お互い同じものが好きだということで話が弾んだ。意外だと思ったが、趣味が同じというだけで神谷との仲間意識を感じた。
そのまま十五分ほど夢中で話しているうちに、昔ながらの和風の平屋の前に辿り着いた。そこで神谷は足を止め、玄関の引き戸に手をかけた。その横の表札には「神谷」と書かれている。なるほど、ここは神谷の家か。
「お前ら! 主役のお出ましだ!」
神谷がそう言って扉を開けると、中から歓声が聞こえた。靴を脱ぎ、軽快なステップをしながら目の前の扉を開ける神谷。それに続いて俺もその部屋に入ったら、中にいた人々に拍手をされた。彼らの後ろには、酒と料理の並んだ机がある。まさにこれからパーティーをするという雰囲気であった。
「さあさあ、これを着けてくれ」
そう言われて神谷に「HAPPY BIRTHDAY」の形をしたフレームのサングラスと、バースデーケーキのハットを押し付けられた。「今日はお前が主役なんだからな」
折角なので身に付けてみると、周りの人々から「いいぞいいぞー」「似合ってるねえ、ヒューヒュー」と囃し立てられた。初対面なのに似合っているかどうかなんて分かるわけがないような気がするが、これが彼らのノリの良さなのだろう。
「にしてもすごいな。こんなに早く集められるものなのか」
「そうだな。皆、連絡したらすぐに来てくれたんだ。良い人たちだと思わないか?」
神谷は胸を張った。彼の口ぶりから推測するに、恐らくここにいるのは神谷の遊び仲間なのであろう。今日が日曜日ということもあるだろうが、それにしても一時間でよく集めたものである。正確には数えていないが、優に十人は超えているだろう。男性だけでなく、女性も三、四人は混じっていた。誰一人として俺の知っている人はいなかったが、正直神谷にこれだけの友達がいるとは思っていなかった。そして、程度の差はあれど、俺以外は全員髪を染めていた。茶髪が多いが、中には金髪もいた。この髪の明るさが、彼らの陽気さを表しているように思えた。
「さ、遠慮するな。お前は真ん中にいるべきだ」
そう言って神谷は俺の背中を押し、あっという間に俺は輪の中に押し込まれた。皆の中心に来たところで、このようなパーティーは初めてだったので何をすれば良いか分からなかったが、見よう見真似で周りの人たちと同じように、食ったり飲んだり踊ったりした。
「良いねえ。やっぱりパーティーは楽しいぞ!」
そう言いながら踊っている神谷は鼻息が荒かった。明らかに興奮していた。俺もそれにつられて、段々気分が上がってきた。
その後もパーティーは続き、窓から夕陽が差し込み、やがて消え、そのまま暗くなっても全員踊り狂っていた。あまりの激しさに、正直俺はついて行けなくなっていた。だが、踊っている連中の横で囃し立てたり、合いの手をいれてみたりすることで、皆の輪に溶け込むことができた。周りの人たちも、俺を今日の主役と認めているようで、しきりに俺に構ってくれて、何度もハイタッチを求められた。
結局そんな調子で食ったり飲んだり踊ったりを繰り返しているうちに、日付が変わる三十分前になっていた。俺がそろそろお暇すると神谷に告げると、主役がいなくなるならということで、そのままパーティーはお開きとなった。
「ああ、楽しかった! こんなにはしゃいだのは久しぶりだぞ!」
俺が玄関先で靴を履いている時、神谷はしゃがれた声で言った。
「どうだ? 楽しんでくれたか?」
足元が覚束ないのか、神谷が左右に揺れている。いや、俺が揺れているからそう見えているだけかもしれない。よく分からなかったし、どっちが揺れていようが正直どうでも良かった。
「ああ、最高だ」
俺は本心からそう言った。パーティーがここまで楽しいものだとは思っていなかった。参加できて良かったとつくづく感じた。
「それは良かった。またパーティーやろうぜ!」
ニコニコしながら俺を送り出す神谷を見て、ふと思った。
この非日常感。現実からの解放。現実逃避と言われればそうなのだが、それでも日常からの束の間の逸脱に、ある種の爽快感を覚えていた。もちろん現実に戻らなければいけないことは分かっている。しかし、家に帰ればやりかけのレポートと無造作に積まれた参考文献の山が俺を待っている。締切に追われるという焦燥感と戦いながら、なおかつ書くべきことは抜け目なく書かなければいけないという、正確性の求められる作業が待ち構えているのである。また、それが終わっても、別の授業では小テストが立ちはだかる。どこから出題されても答えられるように、授業資料を読み込み、対策を練らなければならない。そしてその小テストが終わる頃には別のレポート課題が出ていて……の繰り返しなのだ。
……これが現実である。誕生日が終われば、俺はこの現実と向き合わなければならない。それならば。
「……毎日が誕生日だったら良いのになあ」
ドアを閉める直前、思わず呟いた。ガチャンという音が聞こえる前に、神谷の声が聞こえた。
「なるほど。よし、任せてくれ。その願い、叶えてやろう」
翌朝、締切が来週かと思っていたレポートの提出期限が実はこの日だと知り、慌てて昨日の続きを書いていたら、チャイムが鳴った。扉を開けてみると、神谷が立っていた。
「誕生日おめでとう」
「は?」
思わず声が裏返った。
「俺の誕生日は昨日だぞ」
「そうだ、もちろん昨日はお前の誕生日だった」
神谷は首肯しつつも、俺が昨日被っていたバースデーケーキのハットを俺に押し付けた。
「だが、今日もお前の誕生日だ。だから、パーティーの再開だ!」
「馬鹿じゃないの?」
俺は呆れてハットを神谷に押し返した。
「俺の誕生日は昨日で終わり。パーティーも昨日で終わりだ」
すると神谷は、いかにも不思議そうな目で俺を見た。「お前、今更何を言っているんだ? 昨日言っていたこと、忘れたとは言わせないぜ?」
「昨日言っていたこと?」
何のことか分からず、オウム返しした。すると神谷は首を横に振った。
「全く、昨日のことを忘れるなんて、お前も物覚えが悪いな。毎日が誕生日だったら良いのにって言ったのはお前だぞ?」
それは確かに言った記憶がある。あれは現実に戻されたくないという趣旨の発言であり、毎日が誕生日ならずっと非日常の世界に逃げられると思っての言葉であった。しかし、いくら現実から逃げたくても、実際に逃げ続けることなんてできないことくらい俺には分かっていた。
「そんなこと言われても、俺、今日は大学に行かなきゃいけないんだよ」
眉を少し動かした神谷をまっすぐに見つめて正直に言う。「だから今日はパーティーはやめておくよ」
そう言って、俺は辞退しようとした。しかし、神谷は首を横に振った。
「そんなの休めば良いんだよ」
いともあっさりと言うが、休みたいからと言って休めるわけではないのである。
「そんなことできないよ。今日がレポートの締切なんだから」
「出さなきゃ良いだけじゃん」
「そんなこと言っても、出さなかったら単位落とすんだよ」
「別に単位落としたって死なないだろ」
「そうじゃなくて、俺は留年するかもしれないんだ」
「え、留年して何が悪い?」
なんなのだ、この男は。ああ言えばこう言う。俺はそういう議論をしたいわけではないのだ。思わず大声が出た。
「もう! とにかく落とすわけにはいかないんだ。大学に行かせてくれよ」
俺のあまりの剣幕に、神谷の肩が一瞬だけ跳ねた。それから、納得いかないような表情ながらも、神谷はしぶしぶ頷いた。
「全く、しょうがないなあ。そこまで言うのなら、今日はやめておこう」
そう言って神谷は不服そうにハットを自分の鞄にしまい始めたので、俺はほっとした。まあまあでかいハットを押し込み鞄のチャックをしめると、神谷はまた俺に向き直った。
「んで、今日は何の授業があるんだ?」
神谷が何故そんなことを聞くのかが分からなかった。とは言え、今日は授業が一コマしかないので、とりあえずその授業のことを教えた。
「三時間目の基礎演習だよ。相馬先生の」
「なんだ、あのつまらん授業か。お前も可哀そうにな」
すると神谷はしばらく何か考えるような素振りを見せ、はたと手を打った。
「よし、いつもは休むが、お前が行くのなら久しぶりに出席してやろう。楽しみにしていてくれよな!」
この言葉を残して神谷は扉を閉めた。一緒の授業に出るだけなのに楽しみもくそもないだろうと思いながらも、とりあえず神谷を追い返せたことに安堵した。これでようやく、部屋の隅に追いやられたレポートに取り組める。とは言えもう残された時間は少ない。仕方なく、参考文献を細かく読み込むのを諦め、テーマについて深く考察をせず、何が問題点なのかをざっとまとめただけの簡単なレポートを書くことにした。あまり良い評価は期待できないだろうが、出さないよりもマシだと思い、なんとか書き上げた。そのできたてのレポートを鞄にしまい、俺は急いで大学に向かった。
電車から降りた後に走った甲斐があって、なんとか授業開始一分前に大学に着くことができた。そして授業が行われる教室に行くと、何やら騒がしい。見ると、教壇の上で相馬先生と神谷が何か言い合っていた。
「何がパーティーですか! そんなことは断固として認めませんからね!」
「お前、教授ともあろう人間が、学生の自由を奪おうってか? そうはさせねえ、パーティーをやらせろ!」
俺は神谷の正気を疑った。こいつ、公共の場でパーティーをやろうとしているのか。普通の人間が考えることではない。
「あなた分かっています? ここは大学ですよ。学問の場なんですよ。そんなところでパーティーなどしてみなさい、単位をもらえなくなりますよ!」
相馬先生はこめかみに青筋を立てている。言葉を一つ一つ選んではいるようだが、いつ激昂してもおかしくはない。
「ふん、この俺様が大学のエライセンセー如きを恐れるとでも思うか? いつも研究室に閉じこもってばかりの引きこもり風情が、俺様に意見するんじゃねえ!」
仁王立ちして一歩も譲る気のない神谷の態度に、もう相馬先生は我慢できなくなったようだ。
「あなた! これ以上授業を妨害するような発言をするのであれば、ここから出て行ってもらいますよ!」
「上等だ! お前がその気なら、もう俺様も手加減してやらねえぞ!」
そう言って、神谷は両手を大きく横に広げた。一体何をするつもりなのか分からず俺は固唾を飲む。次の瞬間、神谷は開いた両手を思いきり閉じ、力強く手を叩いた。と同時に、相馬先生の周りの空気が波打ち、相馬先生が歪んだ。堪忍袋の緒が切れたような表情を保ちながら、ぐにゃぐにゃとうねる相馬先生。二度、三度と振動し、もはや体は原型をとどめていなかった。と、その時、相馬先生が急激に細くなり、一本の波線となった。その波線も細くなり続け、やがて俺の目には見えなくなった。辺りを見回しても、先生の姿は見当たらない。一瞬で、その場からいなくなってしまったのである。
何が起きたのか分からず呆然としていると、神谷が俺に気付いて手を振ってきた。
「お、いつの間にか主役のお出ましか。これでパーティーを始められるな!」
「あの……神谷」
俺は恐る恐る尋ねた。
「先生はどうなったんだ……?」
「あ? 消したけど、なんか問題でもあった?」
あたかも当たり前かのように返答する神谷に、俺はぞっとした。人が波打ち、線のように細くなって消える。普通に考えたら意味の分からない所業である。この現象を理屈で説明できるわけがない。現実世界ではあり得ないことが起きているのである。俺の本能が、この男に逆らってはいけないと告げていた。俺も神谷に手向かったら、こうなるのだぞ、と。
「あんな奴はいなくなってしまえば良いのさ」
神谷はそう呟くと、教室の前の席で待機していた自分の仲間に命令した。
「よし、お前たち、待たせたな。これで邪魔者はいなくなった! 鞄から料理を出せ。パーティーの始まりだ!」
歓声が上がり、連中は馬鹿騒ぎの準備を始める。どうやら彼らは、神谷が今やったことを当然だと思っているようだ。連中も連中で異常な奴らだと思った。
「え、何? あんたたち今からパーティーやんの?」
教室の後ろの席にいたモヒカンの男子が身を乗り出した。彼はいつも授業には出るものの、毎度のように机に突っ伏して寝ているため、立ち上がったところを見るのは非常に珍しかった。
「おう! どうだ、折角ならお前も参加してくれよ! 人数が多い方が楽しいからさ!」
神谷の言葉に、モヒカンが目を輝かせる。そのまま一も二もなく「じゃあ、お言葉に甘えさせてもらうよ」と言って教室の前の方に行った。それを皮切りに、同じく授業を受けにきた他の連中も、我も我もと神谷の方へ集まって行った。彼らも先生が消えた時は何が何だか分からずざわめいていたが、いざ神谷がパーティーを始めようとしたらそれに賛同して乗っかろうというのだから、学生がどれだけ授業をサボりたかったのかが分かるだろう。あるいは、サボる気はなくても、神谷に逆らってはいけないと直感的に思ってパーティーに参加する人もいるのかもしれない。もちろん、俺もその一人であった。
「ちょっと待った!」
教室の後ろの方から鋭い声が聞こえた。その場にいた全員が一斉に振り向くと、そこには一人の学生が立っていた。彼もまた、普通に授業を受けにきただけの人のようである。が、他の連中とは違って眉間に皺が寄っているところを見るに、神谷の行動に異を唱えようとしているのだろうと推測できた。そんなことなどやらなければ良いのに、と思ってしまう。
「パーティーってどういうことだ? 今日はレポート発表の日だったはずだぞ?」
彼が発した正論は、しかし、この場にいた連中に笑われた。こんな真面目な話が、異常な連中に通用するわけがなかった。
「レポート発表? そんなつまらんことはやらねえよ」神谷が教壇を降りて彼のもとへ歩いて行く。「それよりパーティーをやろう。授業よりももっと面白いぞ」
「そ、そんな」学生は自分の書いたレポートを両手で握りしめて神谷に詰め寄った。「じゃ、じゃあ僕が今までしてきた努力は何だったんだ。レポートのために、何日徹夜したと思っているんだ」
「さあ? レポートなんて、そんなの最初からやらなければ良いじゃないか」神谷が冷淡に返す。
「ひ、ひどい」そう言うと、学生はレポートを神谷の顔の前に持って行って見せつけた。
「これはな、僕の努力の結晶なんだ。こいつのために、僕は睡眠時間を削った。見ろ、このくまを。ここまで寝ずに頑張った証拠だ。なのに、それが全部無駄になるなんて、そんなこと……!」
すると神谷は、再び手を叩いた。途端に今度は学生の持っていたレポートが波打ち、やがて消えた。あ――と一言発して動かなくなった学生に対し、神谷は笑顔でウインクした。
「そんなつまらんものなんて、世の中にはいらないぜ。本当に必要なのは、楽しむことだ。さ、パーティーを楽しめ!」
魂が抜けたかのように膝から崩れ落ち、涙を流す学生。それを不思議そうに眺めて、「ん、パーティーに参加しないの? なら邪魔だからここから消えてくれよ」と言い放って無情に手を叩く神谷。それを見た俺は、神谷の恐ろしさを実感するとともに、この男に反逆する勇気を完全に失った。その日は神谷に言われるままに踊り、食い、そして飲んだ。途中で教室に注意をしに来た人々は、全員神谷に消された。そしてそのまま昨日と同じくパーティーは夜まで続き、その日俺は二十三時まで大学から出られなかった。
大学からなんとか帰っても、地獄は終わらない。次の日も、神谷はアポなしで俺の部屋のチャイムを鳴らしてきた。
「誕生日おめでとう」
「おめでとうじゃなくて」
俺は何の躊躇いもなくハットを被せようとしてくる神谷の手を押さえた。
「お前、またパーティーをやるつもりなの? これで三日連続だぞ?」
「パーティーなんて何日やっても飽きないぜ! さ、今日も踊るぞ!」
あまりの自由さに呆れを通り越して笑えてくる。何故こうも人をないがしろにできるのか。流石にもうパーティーに参加したくなかった。しかし、「大学があるから」という理由が通用しないことは昨日学んだ。また、昨日消された人々の二の舞になるわけにもいかない。大学とは別の理由で、なおかつなるべく神谷の気分を害さないように、言葉を選んで慎重に抵抗する。
「あのさ、神谷、そんなに毎日パーティーやって疲れないの?」
「疲れる? パーティーをしただけで? そんな馬鹿な。俺様はどれだけパーティーをやっても体力を消費しきれないぞ」
「体力あるんだな」俺は神谷を褒めて、なるべく良い気分にさせようとした。「でもな、俺はもう疲れてきたんだよ。お前と違って、俺はすぐ疲れてしまうんだ。流石に休ませてくれないか?」
俺としては、だいぶ丁寧に頼み込んだつもりだった。しかし、神谷は俺の言っていることが理解できなかったのか、首を傾げた。
「そんなことはないだろう。《《まだまだ疲れるには早すぎるぞ》》」
俺の言い分があっさりと切り捨てられる。これ以外に神谷を納得させるような主張を考えるが、出てこない。俺が良い口実を思いつこうと、えっと、そうじゃなくて、その、などと口ごもっているうちに、俺は神谷に腕を掴まれていた。
「さ、行こうぜ。今日は俺の家に皆を待たせているんだ」
そのまま有無を言わさず俺を引っ張る神谷。その力は人間とは思えないほど強く、あっという間に玄関から引きずり出されてしまった。鍵を、と言おうとしたその時、俺が指差した玄関の扉が目の前から消えた。その代わり、俺は机の上に並んだご馳走の山に指を突き立てていた。どうやら照り焼きチキンの間に指が挟まったようで、慌てて指を抜くと、タレが指にべたついていた。何が何だかよく分からず周りを見回すと、神谷の仲間たちが爆音で流れる流行りの曲に合わせて踊っていた。彼らは突如現れた俺に対して一瞬驚いたような表情をしたものの、すぐに笑顔を見せた。
「なんだ、お前か。びっくりさせるなよ。瞬間移動でやって来やがって」
金髪の男が笑いながら言う。瞬間移動? こいつは何を言っているんだ? と思っていたら、後ろから「そんな文句言うなよ」という声が聞こえた。振り向くと神谷がいた。
「別に驚かせるつもりはないんだよ。ただ早くここに来たかったから瞬間移動しただけで」
神谷は口をツンと尖らせている。
「それでも驚いちゃうんだよ。頼むから普通にやって来てくれよ。その方が心の準備もしやすいし」金髪男はぼやきながらも自分の踊りの世界へ戻って行く。
「しょうがないなあ。まあなるべく使わないように努力するか」
そう言って神谷は俺の肩に手を置いた。
「今の良かっただろ? 瞬間移動さ」
「いやいや、そんな当然のように言われても困る」
何事もなかったかのように話す神谷に待ったをかけた。
「今の一瞬で何が起こったんだ」
「お前、鈍いなあ。瞬間移動って言っているだろ。お前の部屋から俺様の家まで一瞬で移動したの。俺様が掴んだ相手も一緒に移動できるんだよ。こんなことまで説明しないといけないか?」
神谷が明らかに不機嫌になっている。余計なことを聞いてしまったと思った。考えてみれば、昨日みたいに人を消せる能力があるのなら、これくらいできてもおかしくなかった。
「……すまん。理解した。確かに便利だな」
「だろ? 分かってくれるじゃないか。さ、今日もパーティーをやるぞ!」
神谷の顔から険しさが消え、いつもの笑顔に戻る。しかし、いつまた怒りの表情に変わるか分からない。もしまた神谷を怒らせてしまったら、今度こそ俺は終わる、と俺の第六感が告げていた。それを恐れ、結局俺は昨日と同じように夜まで踊り狂うことになった。
その次の日も、また次の日も、神谷は俺をパーティーに誘いに俺の部屋までやって来た。もちろん断りたかったが、人知を超えた神谷の能力を体験してしまった今、断れるわけがなかった。下手に逆らって自分が消される恐れがあることは、どれだけ踊って疲れ果てていても分かっていた。消されたらどうなるのか、想像しただけで背筋が凍った。ここは何としてでも耐え抜き、消されずに生き続けなければならない。
パーティーは毎日違うパターンで行われた。最も多かったのは神谷の家で騒ぎまくることだが、いつものメンバー以外に人数が欲しい時は、二日目のように大学の教室で開催して、そこにいた学生たちを巻き込んだ。他にも、神谷が歌いたい気分の時はカラオケボックスに行き、食べたいと思うものがあれば飲食店に行った。当然のように貸切状態になっていたが、あの神谷が予約などをするとは考えられず、恐らく無断でパーティーをやっているのだと考えられた。なるべく見ないようにしていたが、神谷を注意した店員が相馬先生と同じ運命を辿っていることは、容易に想像できた。
しかし、毎日のパーティーは、段々俺の気力と体力を奪っていった。何日も連続で健康とは程遠いジャンクフードを食べさせられ、肝臓が処理に困るほどの酒を飲まされ、その上でかなりハードな踊りを求められる。何故か毎日俺の誕生日ということにされているので、いつも神谷に「お前が主役なんだから」と言われるまま、目立つようなことをさせられた。そんな生活を繰り返しているうちに、精神的にも肉体的にも、俺は疲弊してきた。体力は加速度的に減っていき、体がどんどん言うことを聞かなくなり、アパートのらせん階段を上り下りするだけでいつしか息が切れるようになるほどであった。いつぶっ倒れてもおかしくなかった。
パーティー地獄が始まってから数週間経ったある日、神谷が「今日は大人数で騒ぎたい!」と言って大学でパーティーを開いた時のことである。相馬先生がいなくなった基礎演習の教室でヘロヘロになりながら踊っていると、背後で例のモヒカン男子が誰かに話す声が聞こえた。
「おいおっさん。学生でもないのによくそんなに踊れるな」
おっさん? 一体誰のことだろう。気になって振り向いてみると、モヒカンは俺のことを見ていた。
「え、何? おっさんって?」
俺がそう言うと、モヒカンは俺を指した。「しらばくっれるなよ。あんたしかいないだろ」
「いや、おっさんも何も、俺はお前と同年代のはずだけど」
「なんだ、若い奴に混じろうと嘘を吐いてんのか? そんなのバレバレだぜ? ほら、ここの皺とか、明らかに……」
そう言って、モヒカンは俺の顔をまじまじと見た。しばらく俺を観察した後、急に驚いたような顔になった。
「……あれ? もしかしてあんた、いつもこの授業に出席していた……」
なんでいつも寝ているくせに物覚えだけは良いのだろうと思いながら、俺は頷いた。
「そうだよ。俺はれっきとした二十歳の学生だよ」
「え、マジで? あんた、これで二十歳なのか?」
「……ん?」
意味が分からず俺はぽかんとした。すると流石に気まずくなったのか、モヒカンは顔を背けた。
「……ごめん。今のは聞かなかったことにしてくれ」
そのまま他の仲間の輪へ戻って行くモヒカンを見ながら、彼が言ったことを心の中で反芻した。おっさん? 皺? 若い奴に混じる? どういうことだ?
俺は気になって教室を抜け、便所に行った。大学の便所には、確か鏡があるはずである。
果たしてそこに鏡はあった。俺は映された自分の姿を見た。ぎょっとした。顔はやつれ、栄養が足りないからか皺が深くなった。また、ストレスが溜まりすぎたのか、髪の毛も白い箇所が増えていた。とても二十歳とは思えないほどのやつれ具合である。俺は先程モヒカンが言った意味が理解できた。これはいけない。早く休まないと、本当にぶっ倒れるような気がした。
だが、俺がここまで疲れていると知っているはずなのに、神谷はなおもパーティーをやめなかった。どうせ神谷など、自分の欲求を満たすためなら他人のことなどどうでも良いとでも考えているのだろう。そのように想像して、流石に俺も我慢できなくなった。
「なあ神谷」次の日俺の部屋にやって来た神谷に、意を決して言ってみた。
「……もうやめないか、こんなこと」
「こんなことって、どんなことさ」
神谷は目を丸くして尋ね返してくる。
「その……パーティーを毎日やることだよ。流石に毎日やるのは疲れるし……」
「え? でもパーティー楽しいから良いだろ?」
「そうじゃなくて」あまりにも神谷の理解能力が低すぎて呆れる。「こっちはもう疲れたんだよ。疲れてしまったら、楽しいものも楽しめない」
「そんなことはないだろ。《《お前にはまだ時間が残されているはずだ》》」
そう言うと、神谷は俺のズボンのポケットに手を突っ込んで、俺の財布を抜き取った。
「さ、取って来い」神谷は窓を開け、財布を外へ放り投げた。
「あ! 何をするんだよ!」
俺は慌てて玄関から飛び出し、アパートのらせん階段を駆け下りた。あまりに急ぎすぎて途中で転がり落ちてしまいそうだったが、なんとか踏ん張って耐えた。四階分を下って外に出てみると、歩道に俺の財布が落ちていた。特に傷もなく、中身が盗まれたわけでもなかったのでほっとした。
しかし次の瞬間、安堵とともに疲れが一気に襲ってきた。ちょっと走っただけなのに、体が言うことを聞かなかった。息が荒くなり、近くにあった柱にもたれかかった。そのままの体勢でしばらく息を整え、回復してから再び階段を上り始める。
手すりを掴みながらなんとか自分の部屋まで上りきると、神谷が玄関で待機していた。
「な? お前、まだ走れるだけの気力はあるだろ?」神谷はにやにやと笑っていた。「じゃあ大丈夫だ。パーティーを楽しめる余力があるってことさ」
「そ、そうじゃない」階段を上り下りした疲れで息が切れている俺は、せき込みながら神谷を説得しようとした。
「も、もう俺は、げ、限界なんだ」
「そんなわけないって。もっと自分の底力を信じようぜ!」
相変わらずスルーされてしまう。しかし、今度ばかりはそのままにするわけにはいかなかった。
「お前……良いか、よく聞け。俺、ちょっと前までここの階段の上り下りくらいスムーズにできたんだよ。だけど、パーティーをやるようになったらどうだ、こんなに息切れするようになってしまった……明らかに疲れているんだよ」
ここまで言い切ると立ち眩みが襲ってきて、思わず俺は壁にもたれた。そのまま次の言葉を発せずにいると、神谷の方から口を開いた。
「ま、そりゃあ前より疲れるのは人間なら当たり前だろ」神谷は二度、三度と首肯し、続けた。「だって《《毎日が誕生日》》だもんな」
自明の事実のように告げられたが、それだけで意味が分かるはずもない。毎日を俺の誕生日という扱いにしていることと、俺が疲れているという事実との間に、何の関係があると言うのか。さらに尋ねた。
「それって、どういう……」
すると神谷は、口をへの字に曲げて俺を睨んだ。
「え? 分からないのか? 毎日が誕生日ということは、つまり毎日一歳ずつ年を取っているということだ。だから、お前を最初に祝った時より疲れやすくなって当然だろ?」
意味が分からない。そんなことが現実にあってたまるか。
「一日で一歳老けるだなんて、そんなことあるわけ……」
その時、頭にものすごい衝撃を覚えた。まるで鈍器で殴られたかのような痛みが頭を襲う。思わず俺はその場にしゃがみ込む。
「てかさ、お前、いちいちうるさいんだよ。なんで俺様にそんなことまで説明させるの? くどいぞ」
神谷の声がいつもより低い。完全に逆鱗に触れてしまったようである。正直、いつかはこうなるような気がしていた。
「前から思っていたけど、お前さ、段々ノリが悪くなってない? 何なの、俺様のこと嫌いになったわけ?」
嫌いも何も、これだけ毎日踊らされては、ノリが悪くなって当然である。人間であれば分かるようなことを、こいつは何故分からないのだ。
「ほら、早く立てよ。手加減したんだぞ。人間、そのくらいで死なないんだから。さっさと戻って、パーティーの続きをやるぞ」
神谷が呼びかけ、俺の体を揺らしてくる。確かに俺は起き上がろうと思えば起き上がれた。だが、もう俺に起きるつもりはなかった。これ以上、神谷の人知を超えた遊びに付き合うことは到底できなかった。たとえ死ぬことになったとしてもそれで良かった。それでこの逃げられない現実から解放されるのなら。
「……ちぇっ。こいつ、起きなくなっちまった。たった一撃食らわせてやっただけなのに。こいつも案外脆かったな」
神谷は諦めたのか、俺を乱暴に床に叩きつけた。後頭部を強打したようで、徐々に意識が薄れてくる。
「……全く。人間などよりも遥かに優れている俺様が、お前みたいな凡人の願いを叶えてやったのに、感謝するどころかケチをつけやがって。呆れてものも言えないぜ」そう言って神谷はため息を吐いた。「じゃ、お前はもう用済みってことで。バイバイ」
神谷が手を叩く音が聞こえた。
大人の階段 / 栃池矢熊 作