Maintzの青年 / 花都一蕗 作
HANNA(上)
目を開ければ、最近見慣れてきた薄暗い部屋にいた。どれぐらい眠っていたのだろう。汗でじっとりと濡れた長い髪がうっとうしい。自分でもよく分からない焦燥感に苛まれて、勢いよくベッドから起き上がって窓へと向かう。鎧戸を開け放てば、眩しい光が差し込んでくる。ほっと息を吐いた。
窓の外には、キルヒガルテンと呼ぶのだったか、可愛らしい木組みの家が建ち並んでいる。下を見下ろせば、歩行者天国になっている石畳の上をせわしなく人が行き交っていた。今日も雲一つない快晴で……って、太陽が高く昇ってしまっている! いくらなんでも寝過ぎだ!
慌てて階下に向かえば、足音が聞こえていたのだろう、キッチンに立つ青年が振り返った。その拍子に、日の光を受けた彼の金色の髪が揺れる。
「Guten Morgen! コーヒー淹れたぞ」
碧い目を僅かに細めて、彼は言った。彼の両手には、二つのカップが握られている。コーヒーの芳醇な香りが鼻を擽る。
彼が椅子を引いた。紳士だ、とか、妙に感心しながら椅子に座る。テーブルには、すでにパンやハム、チーズ、フルーツが並んでいた。
「Guten Morgen. マイン、私ってどれくらい寝てた?」
彼、マインは、私の言葉に首を傾げた。仏頂面のくせして、可愛らしい仕草だと思う。
「うん? 朝まで、だろう? 俺も今起きたところだ」
気を使ってくれたのだろう。これ以上追及して、真実を知るのが怖い。よって、食事のことを考えることにする。マインは、私が知っているそれよりも一オクターブ低い鼻歌を歌いながら、パンにヌテラを塗りたくった。めちゃくちゃ甘いだろうな、と思いながらそれを見る。
「ハンナ、今日はマーケットに行かないか。といっても、ただの買い出しなんだが」
その提案に、私は何度か瞬きをする。まるくと、と日本語発音で繰り返した。それって、いつもと違う場所に行けるということだ。思わず立ち上がりそうになったが、慌てて座り直す。
「Super!! それ行きたい!」
石畳の上を二人並んで歩く。古い時代の空気を肌で感じる。頭上から降り注ぐ日の光が眩しかった。進んでいくうちに、見かける人の数が次第に増えていく。カフェやレストラン、雑貨店が並ぶ街並みは、どこを見ても可愛らしかった。
たどり着いた大聖堂の前の広場には多くのお店が出ていて、たくさんの人で賑わっていた。新鮮な野菜やお肉、卵などの食材だけでなく、古着や古本、アンティーク調の雑貨が並ぶ店もある。大道芸人が来ているらしく、人だかりができていた。
「あ、オレンジジュースだ! マイン、早く行きましょう」
搾りたて、という言葉はあまりにも魅力的だ。私はマインの手を引いて駆け足で向かう。
新鮮なフルーツをふんだんに使用したアイスクリームは格別だ。歩きながら、ラズベリーとチーズのアイスにかぶりついた。
「暑い日のアイスは最高だな」
その声にマインの顔を見上げる。最高だ、と言う割に唇はきつく結ばれたままだ。
「あなた、二つも買ってしまったの? 溶けるよ?」
マインは両手にアイスバーを持っていた。彼は私の言葉など聞いちゃいない。
「たまには、アイスバーも悪くないかもしれんな」と呟き、真剣な表情でオレンジとグレープの二種類を交互に食べている。時折、すれ違う人にぶつかりそうになるのを、軽く彼の腕を引いて避けさせなければならなかった。
「というか、私たちさすがに食べ過ぎなんじゃない?」
「む、そうか?」
マインは足を止めてこちらを見た。不思議そうな顔をしている。全く分かっていないようだ。
「うん。だって、オレンジジュースでしょう、ヴルスト、ブレッツェル、クーヘン。それで今は、アイスクリーム!」
指を折りながら言う。マインがいつの間にか食べ物を買っていて、それがいつの間にか私の手元にあるのだ。彼はおいしいものを見つけるプロなのかもしれない。朝ごはんを食べたばっかりなのに。ああ、カロリーが……。ああ、頭が痛い。これが冷たいアイスクリームのせいであったならどれだけ良かったか!
「買い出しって、食事するって意味じゃないんだよね」
初手でオレンジジュース店へと駆け込んだ私が言えることじゃないけれど。
「目的は果たしただろう」
マインはアイスバーを持った左腕ごとショッピングバックを掲げてみせた。確かにそうなのだけれど。そんなに「当然だろう」という顔をされてしまったら、なんだか負けたような気持ちになる。
「……好きだろう?」
「んん?」
唐突に言われた言葉に首を傾げた。
「その、……お前が喜ぶと思って、だな」
頬を指で搔きながらマインは言った。ばつが悪いのか、目を逸らしている。言ってから恥ずかしくなってきたのか、彼の白い首筋は真っ赤になっていた。
「えと、……ありがとう」
なんだかこちらまで気恥ずかしくなってしまって、私も思わず目を逸らしてしまう。少しだけ気まずい雰囲気のまま、再び二人で歩き出す。
昔から食い意地が張っている、と言われてきたなあ、とアイスのコーンのしっぽを口に放り込みながら現実逃避気味に考えた。特に日本から出たときには、「君のその食への執着には驚かされる」と何度も言われたのだっけ。それを言ったのは誰であっただろうか。親しい人だったはずなのだけれど。
マインが急に立ち止まった。何事かと思えば、彼はほとんど棒だけになったアイスバーを凝視していた。まだ食べ終わっていなかったのか。
「と、溶けている。俺のアイスが……」
淡々とした、しかし気落ちしたようにも聞こえる声だ。足元を見れば、グレープのアイスの欠片が地面に落ちていた。彼の手にはアイスだった液体が垂れている。
「……手が、甘い」
真面目な顔で指を舐めてそう言う。それがなんだかおかしかった。
「ああもう! ティッシュ、ティッシュ!」
無造作に積み上げられた古本たちを前に、マインは釘付けになった。タイトルを見る限り、歴史、経済、科学、医療、民族、などと様々だ。中にはフランス語のものもある。共通点といえば小難しくて私にはチンプンカンプンであるということぐらいか。日本語か、せめて英語で頼む。
熱心に本を見ているマインは、ここから一歩も動きそうにない。そんな彼の横顔を眺めていても良かったのだが、広場から外れた通りにマーケットに合わせて飾り付けられたフラワーショップを遠目に見て気が変わった。ちょうど、窓辺に飾る花が欲しいと思っていたところなのだ。
「ね、マイン。私、あっちのお花屋さん見てくるね」
「ん」
マインは私が指差した方角をちらりと見ると頷いた。視線はすでに本の方に移っている。
行き交う人と人の間を通り抜けて一人進む。ふと、石畳を踏みしめる真っ白なスニーカーに違和感を持って首を傾げる。しかし、その違和感はすぐに喧騒の中に消えていく。店員と客が何か言い合う声、親子の笑い声に思わず笑みをこぼした。
カフェのテラス席にも多くの人が集まっていた。大聖堂を眺めながら食事をするのもいいかもしれない、とまた思考が食べ物のことになってしまい首を振る。
目的のフラワーショップにはたくさんの切り花や鉢花が並んでいた。建物の雰囲気も相まってとてもお洒落だ。せっかくだから、と建物の中に入ってみれば、穏やかそうな中年の女性が出てきたので挨拶をしつつ、鉢花のコーナーを眺める。お洒落な店は植木鉢までお洒落なのか、などという妙な感想を持った。
カランカラン、と扉が開く音がする。左脇に植木鉢を抱えて立ち、外の眩しい日差しに目を細めた。店員さんに相談に乗ってもらいながら決めたので、かなり時間が経ってしまったように感じる。適度な疲労感と、買い物の満足感があった。
高く昇った太陽を見上げれば、マーケットはとっくに終わってしまったころだろうか、確か十四時ぐらいまでだったような、という考えが浮かんだが、視線を落とすとその考えは否定された。オレンジの入った箱が並ぶ、最初にオレンジジュースを飲んだ店が見えたからだ。何故、そんなことを考えたのか自分でも分からなかった。暑さに頭がやられていたのかもしれない。
ぼうっとする頭で、それにしても暑いな、と考える。フラワーショップとその隣のアンティークショップの間に細い路地があるのが目についた。建物に挟まれたそこは、日差しがあまり届かないらしく、とても暗くて奥までは見えなかった。陰になった石畳は冷たそうだな、と思った。
「ハンナ」
「わ」
足を一歩踏み出したところで、私の右肩を掴む手があった。驚いて盛大に肩が跳ねる。振り返れば、息を切らせたマインが立っていた。背の高い彼が、目線だけを私の方に寄越してくると、なるほどこれは威圧感があるわけだ。
しかし、当初の目的を思い出した私は、瞬時に彼に伝えるべきことを導き出した。
「マイン、みてこれ! 〝素敵な収穫〟アリ、でしょう?」
真っ赤なゼラニウムの植木鉢を掲げてみせる。マインは薄く口を開いたまま固まった。何度か瞬きを繰り返した後、彼はいきなり両手を膝についたかと思えば、盛大にため息を吐いた。
「ああ、綺麗だな」
碧い目が僅かに細められる。優し気なその視線が私に向くだけで、単純な私は舞い上がってしまいそうになるのだ。
マインは、「帰るぞ」と言ってスマートに私の手を握って歩き出した。いつもより、少し握る手の力が強い気がする。そんなことを考えていたら、いつの間にか私が抱えていた植木鉢が彼の手にあって衝撃を受けた。
彼の荷物に古本が追加されていることから、彼の買い物も終了したらしい。心なしか足早に進んでいるのは、手に入れた本を早く読みたいからに違いない。私も、これから部屋にゼラニウムを飾るのが楽しみだ。
「これから、ちゃんとお世話しなきゃね」
独り言を零すと、マインは歩く速度を落とした。急だったので、彼の腕に激突しそうになった。
「お世話、するのか」
まじまじと私を見てマインは言う。正直、どこにそんなに驚く要素があったのかは謎だ。
「うん。夏はお水をあげなきゃ枯れてしまうしね」
「枯れるのか」
どういう意図で聞かれているのかはよく分からなかったが、とりあえず頷いた。マインは、ほとんどため息であるかのような「そうか」という言葉を吐いた。繋いだ手を揺らしながら、「それは毎日、というやつか」と問われる。それに頷けば、彼は柔らかい笑い声を漏らした。何でもないことに一喜一憂して、おかしなの!
そういえば、彼の笑い声を聞くのは初めてであったな、と思った。
HANNA(下)
玄関のドアノブに手を掛け、力を込めてそれを引く。少しずつ暖かな光が差し込み、重厚なドアはギギギと音を立ててゆっくりと開いた。箒とちりとりを持って外に出る。すっかり日課になりつつあった。いつもと同じ暖かい風が私の頬を撫で、僅かに髪を揺らした。指で軽く額の汗を拭う。
「いつ見てもここは変わらないねえ」
通りを行き交う人を見て、私は独り言を零す。なんだかおばあちゃんみたいな発言だなと思いながら。
仲のよさそうな老夫婦が歩いていく。毎日見かける彼らは、散歩だろうか。この先には、川が、有名な川があって、散歩するのも楽しいだろう。誰でも知っているような、その川の名前は確か……。
「…………?」
口に出そうとして、それが出てこないことに気が付いた。喉まで出ているような気がするのに。
きゃらきゃらという笑い声が聞こえて視線を動かす。目の前を走っていく子がいた。年の離れた兄弟だろうか。二人とも明るい金髪に青い目をしていて、顔も似ている気がする。歩幅の大きい兄に、弟が「まってってば!」と叫んだ。その言葉に兄が振り返る。金色の髪が揺れた。
バツン、という音が耳元でしたような気がする。頭を殴られたような衝撃が走った。箒の柄が手から抜け落ち、金属製のちりとりが石畳の上に落ちて不快な音を立てた。足元の感覚が無くなっていき、視界が真っ白になる。咄嗟にしゃがみ込んで地面に手をつくことができた。
「っ、ハンナ!」
遠くからマインの声が聞こえた。バタバタといった足音が近づいてきた。
何十秒だろうか。次第に視界が元に戻り始める。地面についた指先が見えた。ゆっくりと視線を上げると、しゃがんで私の顔を覗き込むマインと目が合った。
「え、えっと」
視界は戻ったのに、頭の中は未だに真っ白なままで、言葉は出てこない。足に力を込めて、意味もなく勢いよく立ち上がった。
マインはしゃがみ込んだまま動かなった。顔を伏せたままなので、何を考えているのかさっぱり分からない。いつもよりもさらに低い声で「大丈夫か」と問われて、金色のつむじを茫然と眺めながら「うん」と声をひねり出した。
気が付けば、鼻先がぶつかりそうなほど至近距離にマインの顔があった。真っすぐな碧い目に射抜かれる。
「……何かあったのか?」
ゆっくりと首を横に振った。
「大したことじゃないの。少し立ちくらみしただけみたい」
碧い目が少し不愉快気に細められる。しばらくすると、私が何も言わないことを悟ったのか、眉を下げて「わかった」と言って私の頭に手を置いた。
「あ」
彼は私から視線を外さなかった。湖面のような碧が揺れた。ああ、泣きそうだ。
心配をかけてしまっただろうか。ベッドの上で薄い毛布を抱きしめる。
マインは「顔色が悪い」と言って、私をベッドに突っ込んだ。そして、「体に良さそうなものを買ってくる。待っていろ」と家を飛び出していってしまった。
部屋は物音一つしなかった。今まで出かけるときは必ず二人で、マインがいない家に一人残されることはなかったのだということに気が付いた。心細さを感じると同時に、私は詰めていた息を吐き出した。
忘れていることがある。それは確信に近かった。しかし、どんなに思考を巡らせても、思い出すことができるのはあの兄弟が走っていく場面だけだ。もっと、……もっと大切なことだったはず。それなのに、忘れていたことすら分からないうちに消えていくのではないか。
額に手を押し当てる。汗で額に張り付いた前髪がぐしゃぐしゃになる。胃の中の気味が悪いものが逆流してくるような心地がした。耳鳴りがする。
ガタン、という何かを壁にぶつけたような音が階下から聞こえてきた。それは、決して大きい音と言うわけではないが、誰もいない家の中ではやけに響く音だった。
ベッドから起き出して、手すりに掴まりながら階段を下りる。
「マイン?」
一応、声を掛けてみるが返事はない。マインが帰ってくるには早すぎる。泥棒だったらどうしようか。この家には価値のありそうな美術品が当然のように飾られていたりするから。何かあったときのために箒を持ち出し、それを構えながら廊下を進む。背中に嫌な汗が流れた。
ゴンッ、という音がしたのを耳が拾う。今度はとても近くからだった。そこにあるのは古い扉だ。マインからは物置だと聞いている。私がここに来たときに、一部屋空けるためにいろいろと整理したらしい。「適当に詰め込んでしまって危ないから近寄らないほうがいい」と言っていた。
ガタガタという音は止まらない。泥棒は窓から入ったのだろうか。扉には頑丈そうな南京錠が掛っている。わざわざそれをつけるぐらいなのだから、マインの大切なものがあるのではないか。
南京錠のダイヤルを回す。不思議と、番号ならばこれしかない、という確信があった。下二桁をゆっくりと動かした。手の震えが南京錠に伝わって、ガチャガチャと鳴った。
「一、九、……九、一」
当たりだ。床に落下した南京錠が転がった。私は箒の柄を握りしめ、ゆっくりと扉を押す。軋むような音と共に扉は動き出した。
「……、こ……くら……思って……だ!」
声がする。確実に近くからしているものなのに、随分と距離があるような、音としては聞こえているのに意味が理解できないような、そんな聞こえ方だ。
本当にこの扉を開けてもよいものか。漠然とした不安が襲い掛かる。金縛りにあったみたいに体が動かなくて、中途半端に開きかけた扉を押すことも引くこともできない。
「離してください! 止めないでくれよ!」
男が声を荒げている。今度のものは明瞭に耳に届いた。
「はな! はな、はな、花!」
知らない声が何度も呼ぶのは私の名前だ。否、それは知っている声だ。知っていなくてはいけない声だ。頭が熱を持っているような気がした。これは確かめなくてはならない、という思考が私を支配した。気が付けば、ほとんど体当たりのようにして扉を開け放っていた。
「……なに、これ」
そこにあったのは、暖かな色の部屋に似つかわしくない鉄格子だった。私は引き寄せられるように歩を進めていた。鉄格子に触れる。冷たい。
鉄格子の向こうには、雑に布を被せられた大きな額縁が部屋いっぱいに陣取っていた。
額縁がガタガタと音を立てて揺れる。その拍子に布が落ちる。私の喉が鳴るのが聞こえていた。
額縁の中には何もない。煙に包まれているように不明瞭に見えたかと思えば、しゃぼん玉の膜みたいに虹色の光が揺れていた。
「離せ! ウチの姪がその絵に食われたんだ!」
「シンくん……?」
口から飛び出したのは、一回り年の離れた叔父の名だった。
そうだ。あの日、叔父と海外旅行に、美術館に来ていたのだ。
それを認識した途端、耳鳴りが酷くなった。警鐘が頭の中で鳴り響いているようだ。頭がぐわんぐわんと揺れている。足のバランスを保てなくなってその場でへたり込む。鉄格子に縋るようにしがみついた。
「……シンくん、しんくん!」
頭上に影が差した。背後から声がする。
「聞こえてはいないぞ」
首にかさついた大きな手が回ってくる。大した力は込められていないけれど、上手く息ができなくて、出そうとした声はただの息となって消えた。
「こちらの声は向こうには届かない。……大抵は、な」
耳元で低く囁かれた。いつも聞いているマインの声のはずなのに、絡みつくような響きを持っているせいで別物のように聞こえる。それを振り払うように体を捻れば、首に回る手は簡単に振りほどけてしまった。それがなんだか拍子抜けで、私は床についた手から視線を外せないでいる。
「……見たんだな」
降ってきた声は淡々としていて、事実を確認するだけのように聞こえる。だから、思わず視線を上げてしまって後悔した。私を見下ろす彼の瞳は、陰っていて塗りつぶされたみたいに真っ黒だった。その表情が、酷く遠くにあるように思えて、私は彼の顔を見続けることができなかった。
「……あなたは」
私は黒目だけを動かして額縁を見た。警鐘は鳴りやまない。
「……忘れたままで良かったんだがな。やはりそうは上手くいかないか」
頭を掻いて髪を乱しながら彼は言った。その声もどこか遠く感じてしまって、現実味がまるでない。気まずい沈黙が落ちた。
「A-ha!」
沈黙を破ったのは、彼の明るすぎる笑い声だった。無意識に私は後退ろうとしていたようだ。背中に何かが触れる感覚がして、背後に鉄格子があったことに気が付いた。足に力が入らなくて立ち上がれない。彼は腰を折り曲げて、私と目を合わせた。
「そう。そうだな、俺は絵だ。生きた人間じゃあ、ない」
彼が目を細める。瞳がどろりと甘くとろけた色に染まり、口元が大きく弧を描く。別人のような表情だ。彼が感情をここまで露わにすることがあるのだということを、私は今まで知らなかった。ああ、眩暈がする。
「……お前は向こうでは生きられないんだ」
そう言って彼は左の口角を上げた。嫌悪と軽蔑が入り混じった笑みだった。
「……どういう」
そう言いかけたが、驚きでその言葉を飲み込んだ。彼が私を抱き寄せてきたからだ。彼の身体は思っていたよりも冷たかった。いや、これは異常だろう。温度が感じられない。少なくとも手を繋いだときはそんなことはなかったはず。
彼の胸に耳を寄せて気が付いたのは、それが静かすぎる、ということだった。生きている音が一切しないのだ。
「あの?」
「…………」
嫌々、と彼は首を振った。これ以上聞いてくれるな、ということだろうか。実際聞かない方がいい気もする。でもなあ、それって私のことなのでしょう?
ねえ、と少々非難めいた声を上げれば、突き飛ばされて背中をしたたかに打った。意味が分からない。これは一つ文句を言ってやらねばならないと思い、彼に向けて口を開こうとしてそちらを見た。彼は血の気が引いた顔で固まっていた。伸ばされた指先は宙を彷徨っている。
私はもうどうしたらいいか分からなくなって、引き攣りそうになる顔を誤魔化して曖昧に笑うしかなかった。彼は力なく腕を下ろし、唇を横に引いて視線を落とした。彼の顔が二重にぶれて見えた。視界が点滅し始める。
「Ahaha, hahahaha……!」
彼は突然に天井に向けて笑い出した。顔は右腕に覆われている。その声は、だんだんと弱々しく震えを帯びていった。
目の前はとっくにかすんでしまっている。強烈な眠気に瞼を開いたままでいるのも億劫だった。
「もう、帰したりしない。お前は俺とずっとこの世界で生きていくんだ」
最後に聞こえた声に私は思う。聞いていられないような酷い声だったと。
「……そう、この絵が朽ちるその時まで。ずっと」
HANA SHIMIZU(上)
決して離さないように、ときつく握られた、私よりも大きな手。その感触を今でもよく覚えている。
「まいん、あのね」
あんなに強く握っていたくせに、あっさりとその手は離された。
離れていく後ろ姿に手を伸ばす。彼は振り返ってくれやしない。届かない。
「まいん!」
金色が風に靡く。
碧い湖面が揺れているのが見えた。
しかし、私の体は吸い込まれていく。
「……まいんの、ばかぁ」
残った言葉はそれだけだ。
あの日から、私の中でずっと何かが足りない。
私はもう狂ってしまっているのかもしれない。
大学に入って初めての夏季休業が始まると同時に、私はバイトで稼いだ僅かなお金とお年玉貯金の総額二十万円を掴んで最近過ごし慣れてきたアパートを飛び出した。正直言って、このときの私に計画も何もなかった。大丈夫、なんとかなる、という謎の自信の下、駆け出したのである。耳に当てたスマホの向こうから、困惑気味の叔父の声が聞こえることに爽快さすら感じていた。
たどり着いたのは、フランクフルト空港だ。行先は決めてある。美術館の閉館時間をもう一度確かめてから歩き出す。初めての海外一人旅、楽しまねばなるまい。
地図を片手に親切な方に道を尋ねつつ美術館にたどり着いたのは、十六時を過ぎたころだった。平日でしかも少し遅い時間帯だったからか、人はまばらだった。それを有難く思いながら、暗めの照明がついた通路を歩く。
もう久しく美術館には来ていなかったが、絵画を見るのは好きだ。自分の口角が上がっているのが分かる。興味を引くものの前で立ち止まり、じっくり時間を掛けて見るのは楽しい。しかし、今日はどうもそんな気になれなかった。いくら好みのものを見つけても、なんだか落ち着かなくて足が自然と動き出す。
歩を進めるほど、私の足音の間隔は狭くなっていった。自分がどこに向かうべきか確信があるような感覚がしていた。
「あ」
そこに足を踏み入れた瞬間、今までと違う空気が頬を撫でた気がして立ち止まる。拳を握りしめ、その先に見えるものを真っすぐに見据え歩き出す。先ほどと一転、地を踏みしめる足は慎重になっていた。自分の足音がやけに鮮明だった。
なかなか縮まらない距離がもどかしくて、自分の足が震えていることに気が付いた。ああ、緊張しているのかもしれない。
足音が止まる。目の前のそれを見上げる。真っ暗な美術館の中で、その絵画だけが鮮やかに私の目には映った。
「Freut mich!」
するりと口から出てきた。それは、何度も練習してきた言葉だった。
「まいん……」
もちろん、そこから返事はない。しかし、確かにそこに彼は立っていた。
淡い金色の髪に碧い目を持った青年だ。雲一つない青空の下、少し眩しそうな表情をしていた。唇は一文字に引き結ばれているけれど、こちらに手を伸ばす彼は幸せそうに見えた。
彼の後ろには色鮮やかな街、大聖堂が描かれている。広場で行われているマーケットには多くの人間が行き交っているようだった。
ふとキャプションボードが目に入った。作品名は「Jugend in Mainz」、日本語にするなら「マインツの青年」あたりだろうか。作者はカール・シュミット、制作年は一九九一年。へーそうなのか、とは思ったがあまり興味はなかったので、視線はすぐに彼の方へ戻る。
とんとん、と軽く肩を叩かれて振り返ると、警備員さんがいた。彼が腕時計を指し示すので、閉館の時間になっていた、ということに気が付いた。
警備員さんに一言謝ってから、前にもこんなことがあったな、と苦笑いする。あれは、六歳のころで、日本の美術館だったが。絵の前で眠りこけているのを、警備員さんに発見されて怒られたのだ。
「びす、だん!」
私は笑顔でそう言った。
観光地に向かうわけでもなく、ぶらぶらと街を歩く。それだけで私の気分は上昇し続ける。一人だけであるという気楽さと、日本とは違う空気に浮かれているのだろう。
ふと、小さなショウウィンドウの前で立ち止まる。可愛らしいクマのぬいぐるみと目があったような気がした。たくさんのぬいぐるみが並ぶその店は、まさに楽園。
いかにも専門店、という雰囲気に、少し敷居が高いように感じるが、これは腹を括るしかあるまい。なんとしても、旅行のお供を連れて帰るのだ。そんな決意とともにドアに手を掛けた。
「ぐーてんたーく……?」
お店の中を見るときに、ちゃんと店員さんに一言挨拶した方がいい、とどっかで聞いた気がするという曖昧な知識のまま、カウンターにいた中年の男性に声を掛ける。見た感じ不愛想そうな店員さんだったのに、「Guten Tag!」と、ニコニコ笑顔で挨拶が返ってきた。これが萌え、というやつだろうか、いやそうじゃないだろう、と考え始める。
お店に並ぶぬいぐるみたちはどれも可愛らしくて、ついつい目移りしてしまう。しかし、連れて帰りたい子はショウウィンドウで見たクマさんだけだ。手に取ってみれば、実に私好みの手触り! 値札を探してみるが、どこにも見つからない。
「ゔぁず、こすてっと、だす?」
店員さんに値段を尋ねてみる。が、物凄いスピードで返ってくる言葉についていけない。これでもゆっくり話してくれていると思われるのだが。なんとか聞き取れたのは、「Achtzig」、つまり八十ユーロだ。うわ、高い。でも、諦めきれない……。
「いひ、ねーめ、だす」
ゴシック建築がデザインされた紙幣を四枚。私のドイツ語が相手に伝わっている自信がなかったので、財布からお金を取り出すことで買う意志を伝える。八十ユーロを紙幣で出し、端数はよく分からなかったので、とりあえず一ユーロ硬貨を五枚、紙幣の上に乗せた。店員さんが頷いてくれたのでほっとした。
「Hallo!」
少ししわがれた声が聞こえて振り返った。私の後ろに立っていたのは、杖、ステッキ? をついた白髪交じりの明るい茶髪の男性だ。六十代ぐらいだろうか。外国人の年齢というのはよく分からない。
どうやら男性は、店員さんと知り合いらしく、楽し気に話し始めた。私のお会計はどうなるのだろう。少し不安に思いながら彼らの話に耳を傾ける。「Enkelin」という単語が聞こえてきたので、男性の孫娘の話でもしているのだろうか。
男性が私の肩に軽く触れる。なんだろう、と首を傾げると、彼はカウンターに置かれたままのクマさんと八十五ユーロを手で示した。
「?」
「やー」
簡潔に問われた言葉に何度も頷いた。すると、男性がカウンターに置かれた四枚の紙幣から一枚を抜き出して私に渡してきた。どういうことなのか分からず困惑していると、あっという間にお会計が進んでしまった。クマさんが私の腕の中に納まり、手には二十ユーロ紙幣が一枚残った。
「Schönen Tag noch!」
「だんけ、ぐらいひふぁるす」
微笑まし気な顔をした店員さんに見送られながら、男性とともにお店を出た。
「だんけ」
私が言うと、彼は「Bitte!」と言いながら私の背をバシバシと叩いた。ちょっと痛い。
改めて手にしたクマのぬいぐるみを見て、にやけが止まらない。天に掲げてみる。きっとこの子の目には私を惹きつける魔力が宿っているに違いない。
「ずゅーす!」
「Süß?」
私のたどたどしすぎる発音に彼がにやりと笑った。
「Süß!!」
全力で真似して言い直せば、彼はゲラゲラと声を上げて笑い出した。またもや背中を叩かれ、「お前さん、面白いな」とのこと。
幾つかの単語を知っているだけのドイツ語と、中学で時が止まった英語を交えて男性と話をする。彼は自ら「フランクフルトマスター」と名乗った。結構愉快なおじいさんかもしれない。
お手軽な値段でお昼ご飯が食べられる場所があるか、と尋ねると、クラインマルクトハレを勧められた。そして、あれよあれよという間に案内していただくことになった。
クラインマルクトハレは、広々とした屋内市場だ。彼曰く、立ち食いスタイルのソーセージ屋さんには観光客なら行っておくべき、とのこと。
本場のヴルストに感動していれば、彼はいつの間にか右手にビールを持っていた。「お前さんも飲むかい?」と聞かれたが、生憎私は十九歳だ。ドイツでは十六歳からビールが飲めるらしいが、日本では飲めないし、旅行先でハメを外そうと思っているわけでもない。そう断れば、何故か近くにいたお姉さんが感動した様子で握手を求めてきた。まるで聖人のような扱いだ。
最近はワインばかり飲んでいた、と男性が言った。ちょっと意外だ。私がそんな顔をしていたのに気が付いたのか、彼は「自分の家の近くはワインも有名なのだ」と言う。驚いたか、と尋ねられたので、頷いて「オクトーバーフェスト」と口に出せば、彼は顔を顰めて、
「あんなの行かないさ。私はベルリーナーの心を持っているからね」
と言う。早口でまくし立てていたので全く聞き取れなかったが、ミュンヘンのビールに何かしらの恨みがあるらしきことは伝わってきた。どうやら、地域によってビールに違いがあり、そこに住む彼らは地元のビールに誇りがあるらしい。ここでふと私は、あれ? と思った。
「ベルリン? あなたはフランクフルトマスターなのに?」
私がそう言えば、
「生まれはベルリンだ。今はマインツァーで、ここにはよく来るから何でも知っている。Hahaha, 騙されたな!」
と、ゲラゲラと笑いながら言った。本日何度目か分からないが、背中を叩かれる。やっぱり痛い。
食べ終わると、次はこっちだ、と楽し気に彼は歩き出した。杖をついているとは思えないほどの速さだ。「スペインのタパスバーは最高だが、酒を飲まないなら止めておこう」だの、「イタリア食材店はいいぞ。私は今度孫たちとイタリアに旅行に行くんだ」だの言いながら進む。一瞬、私はドイツに来たんだよな? と疑ってかかる羽目になった。
最後にコーヒーを立ち飲みして彼とは別れた。遠くなる背を見送って、やっぱり愉快なおじいさんだったなあ、と思った。
HANA SHIMIZU(下)
二度目の夏、私は再びドイツにやってきた。フランクフルト空港から電車に揺られて三十分、マインツ中央駅で下車する。まず向かうのは、マインツ大聖堂だ。
今日は生憎の曇り空だが、徒歩で進むには心地よい気候であるとも言えた。木組みの家が並ぶ旧市街はどこもお洒落で、ついつい細い路地にまで入っていきたくなる。小さな装飾や、お店の看板を見つけてはニコニコしてしまう。すでに私のスマホは写真でいっぱいだ。
肩掛けバックにスマホをしまうため一度立ち止まる。顔を上げると、すぐそばを明るい髪の男性が通った。それを目で追ってしまっていて、私ってダメね、と首を振る。
マインツ大聖堂。行ったことがないはずなのに、その建物に見覚えがある。さらに言えば、石畳の模様にまで既視感がある。足元がふわふわとしておぼつかないような感覚だ。
ここは彼が立っていた場所だ。大聖堂に、マルクト広場。でもなんだか違うな、と思う。
人はそこまで多いとは思わなかった。今日は火曜日だったが、十四時はとっくに過ぎていて、マーケットは撤収した後だった。「巨人の柱」と呼ばれるらしいモニュメントの全貌が見える。私が絵で見たときはマーケットの出店に隠れていたのだろう。
大聖堂を背にして、今まで歩いてきたところを振り返った。これが彼の見ていた景色か。空を見上げれば、厚い雲に覆われていた。
「鉛色、か」
石畳を見下ろして一つ呟いた。ここまで来て、彼はここにはいないのだなあ、だなんて思ってみたりする。
広場の向かいのカフェがテラス席を出していたので、そこでアイスコーヒーを頼んだ。バニラアイスと生クリームがたっぷり入ったコーヒーを飲みながら遠目で大聖堂を見る。
「Guten Tag?」
後ろから声を掛けられた。一人旅の私に声を掛ける人物が思い浮かばず、ひどく驚いておそるおそる振り返ると、目に入ったのは見覚えのありすぎる白髪交じりの茶髪だ。
「フランクフルトマスターだ」
「今は、マインツマスターと呼んでくれ」
彼は自信満々ににやりと笑って答えた。
「で、お前さん時化た顔してんな。なんだ、教会でシャガール・ブルーのステンドグラスを見ようとしたが、こんな曇りじゃ魅力半減ってか?」
ゲラゲラと笑いながら、私の背を叩く。痛い。なんだか懐かしいなこの感じ。
「いいや。ザンクトシュテファン教会はまだ行けていないの。ここの観光は楽しいよ。まあ、曇り空にはうんざりしてるけど」
彼の顔を見ていると、ふと彼が「マインツがワインも有名なのだ」という話をしていたことを思い出した。
「ところで、マインツマスター? ワインが飲めるおすすめのお店はどこ?」
「よしきた。お前さんも大人なら、パーッと飲みたい気分のときもあるよな!」
彼はやっぱり私の背を叩いた。背中の皮が厚くなりそうな予感がして、私は大きな口を開けて笑った。
「地元民御用達の知る人ぞ知るワインハウスに行こうじゃあないか。それでいいだろう?」
「やー!」
私は元気よく返事したのだが、彼は「その返事、気が抜けそうになるからやめてくれよ」と口を尖らせた。
細い路地の奥の奥、隠れ家みたいにその店は佇んでいた。
お店の中心にある艶やかで大きなカウンター、絞られた照明が素敵なムードを出している。
「Ciao!」
カウンターに立つ店主は、彼と同年代ぐらいの男性だった。私を見るなりウインクをしてきたので、かなりお茶目な人なのかもしれない。それに対し、「おいおい、私は無視かい?」と言う彼とも親しそうだ。
「んで、お前さんは絵で見たのと同じ光景を見ようとして、曇り空にがっかりしたわけだな」
ワイン片手に、うんうん分かるよ、と彼は頷いた。自分が考えていたこととは違うような気がしたけれど、そんなことまで語ろうとも思わなかったので、そうそう、と同意した。頷いてからよく考えたら、彼が言っていることは間違っていないなと思う。確かに、私はがっかりしていたのかもしれない。
「今年もその美術館に行ってきたの」
私がそう言うと、彼は何かを考えるような表情をした。自分の唇を親指で軽くなぞって、ちらりとこちらを見る。
「……お前さん、その絵の作者を知っているかい?」
「ええっと、……カール、シュミット?」
辛うじて出てきたその名を口にすると、彼は何度か頷いてから自分の胸を指差して得意げに言った。
「お前さんの目の前にいるこの老人、クラウス・シュミットっていうんだけれど?」
意味ありげに言われたその言葉を咀嚼する。
「……もしかして、関係者だったりする? 同じ姓だし」
私がそう言うと、彼の口元が意地悪気に歪む。
「バァカ、この国にシュミットさんが何人いると思ってんだ!HAHAHA!!」
彼はまたもやゲラゲラと笑って私の背を叩く。また、騙された! 「もう、ひどい人!」とわざとらしく口を尖らせる。
「……まあ、でもカール・シュミットは私の親父だよ。それで、絵の男は私の弟さ」
彼は急に真面目な顔になってそう言うと、ワイングラスに口を付けた。
「Wirklich?」
疑わし気な顔をした私に、彼は神妙な顔をして頷く。
「Wirklich……」
どうだろう。そんな巡りあわせがあっても良いものか。そんなことを考えていたところ、店主が口を開いた。
「コイツは若者を揶揄って遊ぶのが好きな変人だが、言っていることに嘘はないよ」
✽✽✽
かなり慣れてきたフランクフルトの街を歩く。それでも冬に来るのは初めてで、ぶるりと体が震える。
「シンくん、ほらこっち!」
少し先を進んでいた私は振り返り叔父を呼んだ。
「へいへーい」
叔父は呆れを隠さずにそれに応える。彼は私の元保護者だ。年の差はちょうど一回り。父親のようで、兄のようで、年の離れた友達のようで、でもなんかちょっと違う。つまりは叔父だ。全てはこれに集約する。
大学進学を機に、六歳のころから一緒に生活していた彼の家を出た。そのまま出た先で就職し、自転車で通勤できる距離に部屋を借りたわけだが、車で二時間ぐらいの距離なので結構な頻度で叔父の家を訪ねている。というか、叔父が迎えに来る。最近、立派な黒い車を買ったので乗り回したいらしい。別に車に興味はないけれど、叔父が楽しそうに話すので少しだけ羨ましくなる。
大学生のころと同じように、夏にドイツへ行こうと思っていたのだが、仕事が忙しくお盆休みまでに旅行の準備ができず断念。確か、スマホ越しに叔父にそんな愚痴を零していたような気がする。
やっと年末年始休みを迎えた、というところで、玄関のチャイムが鳴った。年末年始は叔父の家で過ごすと言ってあったから、迎えに来たのだろう。思っていたよりも少し早かったな、と思いながらドアを開ければ、案の定叔父が立っていた。そして、叔父は私を見るなり、にやりと笑ったのだった。彼のズボンのポケットから出てきたのは、二人分の航空券。そういうわけで、今私たちはここにいる。
フランクフルトに来たらまず行くのは、美術館。叔父は随分昔は美術館巡りを趣味としていたのでそのことに文句はないらしい。ただ、私が一つの美術館に執着して通っていたことは少し意外だったのか、思案顔をしていた。
周りの迷惑にならない程度に、小声で作品について話しながら歩く。叔父の作品の捉え方は、自分とは違う視点が入っていて面白い。
叔父には『彼』のことを伝えていない。叔父がその作品の前で立ち止まったとき、無意識に唾を飲み込んでいた。声に出さずに『彼』に挨拶をした後、横目で無言になった叔父の様子を窺った。
「……お前、笑ってんぞ」
叔父が揶揄うように言った。そのせいで、なんだかとっても恥ずかしいことのように思えてきた。まるで、親に恋人を紹介する人みたい。誤魔化すように口を開く。
「……そう? シンくんが気に入ってくれたのが嬉しかったからかもね」
そう言った瞬間、誰かに腕を掴まれたような感覚がした。
「え?」
KLAUS SCHMIDT
「コンニチハ」
「ふふ、こんにちは」
ベッドの住人である彼女は、「また、来てくれた、のね」とゆっくりと口にしてぎこちなく笑った。原因不明の病に侵された彼女は、もう口も上手く動かせなくなってしまったのかもしれなかった。
ベッドの横に備え付けられたパイプ椅子に腰を掛け、杖を近くの床頭台に立て掛ける。その台に備え付けられたテレビの前に、いつかのクマのぬいぐるみ、そしてゼラニウムの鉢植えが並べられていた。確か、日本では見舞いに鉢植えは良くないのではなかったか、と思ったが、部外者である私が指摘することでもないと思いなおした。
「お前さん、こんな老人よりも先に寝たきりかい?」
「それ、三回目、よ」
分かっているくせに、と向けられた視線が物語っていた。ゆったりとした動きで目が伏せられる。彼女はこんなにも諦めた目をする人だっただろうか。
「……最近、忘れっぽくてかなわんなあ」
彼女の体からは無数の管が伸びていて、手はピクリとも動かない。ぼんやりとしていて、どこか遠くを見つめている。そう感じてしまうのは、出会ったときの彼女が不慣れな言葉を使っており、必死で伝えようと目を合わせ、せわしなく身振り手振りをしていたからかもしれなかった。
「彼、どうしている、かしらね。……もう、会えないん、だった、か」
その声は哀しそうに響いた。彼、とはあの絵のことか、という言葉は飲み込んだ。否、歪な笑みを浮かべた彼女を見て飲み込まざるを得なかった。
彼女の叔父が病室に入ってきた。軽く頭を下げる仕草が彼女そっくりだ。彼は目を覚ましている彼女を見て驚いた顔をした。もう、彼女が起きている時間の方が珍しかったのだろう。
パイプ椅子から立ち上がり、彼に一つ礼をする。
「では、またな」
「ええ、また」
彼女は静かに笑って目を閉じた。
病院を出て駅までアスファルトで舗装された道を歩いた。少しの距離であるというのに、ゆだるような暑さのせいで汗が止まらなかった。日本の夏というのは終わったのではなかったのか。
彼女は私の年の離れた友人だ。初めて会ったのは、今から六年前の夏、息子の同級のヤツが働いているというぬいぐるみ専門店を訪ねたときだ。そこにいた彼女は、使い慣れないのだろう紙幣を何度も見返しながら数えていて、それがなんだか微笑ましくて近づいていったのだったか。一生懸命にドイツ語を話す彼女を見て、若いっていいな、と思ったのをよく覚えている。
二度目は、近所を散歩していたとき。ふと目についた真っすぐな黒髪に、前に会った彼女を思い出して声を掛けたところ、果たしてそれは彼女本人であったというわけだ。実際、いつぞやのクマのぬいぐるみが鞄からのぞいているのを見て、それは確信に近かったのだが。
彼女が日本からこちらにまで来たのは、幼少期に見た絵を直接見たかったからだという。二度もこちらに来る理由になるほど、彼女にとって思い入れのある絵。それが、父が最後に描いた絵だったのだからひどく驚いた。
正直、あの絵にはいい思い出がない。思い出したくない過去そのもの、といってもいいかもしれない。父が命を削るようにしてその絵を描いていたときも、私は見ているだけだった。
それでも、その絵がいいと言ってくれる存在がいるというのは嬉しいものだ。
彼女との親交はそれからも続いた。連絡を取り合うようになり、夏にこちらにやってくる彼女に必ず会うようになった。この国の文化に興味津々の彼女をあちらこちらに引きずり回し、学生である彼女の話を聞くのが年に一度の楽しみとなりつつあった。
一昨年の夏、こちらには来られないという連絡があった。社会人となった彼女は仕事で忙しかったのだろう。来年は来られるといいな、といった言葉を返した覚えがある。
それは、その年を終える頃、天気予報で日中の気温は三度、などと言われた冬の日だった。彼女が突然私の家の前に現れたのだ。そんな連絡は一切なかったので、玄関を開けた私はついに幻覚でも見たのかと思った。そのことを彼女も分かっているのか非常に申し訳なさそうな顔をしていた。
外の寒さに震える彼女は、明らかに様子がおかしかった。家の中へ案内したときも、彼女の足取りは覚束なくて、ずっと俯いていた。「なにかあったのかい?」と尋ねても、「ごめんなさい」としか返って来ず、最後には涙声が混じり始めた。結局、その日は彼女の叔父が迎えに来たのだったか。
叔父と共にいたにも関らず、わざわざ私の前に現れたのだから、何かあったのだとしたらあの絵のことだろう、とは思った。だとしても、私はそれを無理に聞き出そうとは思わなかった。あの絵について言いたくない秘密があるのはこちらも同じであるからな。彼女は何度か聞きたいことがあるような顔をしたが、結局尋ねてはこなかった。私もそうするべきだろう。
病室で、あの弟のことを「彼」と呼んだ彼女は何を考えていたのだろう。分刻みで発車する電車に乗り込みながら、そんなことを考えた。
彼女が息を引き取ったと聞かされたのは、その三日後のことだった。誰もが、まるで眠っているようだ、と言ったという。
✽✽✽
まだまだ日差しが強い外に比べれば格段に涼しい美術館を進み、その絵の前で足を止める。日常的に見ている風景が描かれた絵の中で、彼だけが異質に見えた。
「トシィ? 十六以上じゃなきゃなんねえ。これは決まりだ。……だって、ビールが飲めなきゃ可哀そうだろ」
かつて父はそう主張したんだったか。果たして理由はそれだけだったのだろうか。〝壁〟の向こうに置いてきてしまった弟。彼がいなくなったのは……。だが、何にせよ私の中の弟は永遠に四歳のままだった。
最後に弟を見たのは、私が十六のとき、そして父と共に住み慣れた家を出るときだった。
植物が絡みついた鉄の柵の前で、父と母は無益だとしか思えない言い合いを続けていた。父が持つはずだった大量の画材を拾い上げ、私はため息をつきたい気持ちでいっぱいだった。
「にいちゃん、いっちゃうの?」
母の後ろに隠れていた弟がこちらを窺っている。大人しくて感情の起伏の少ない弟だが、その目が確かに不安を訴えかけていた。私は頷くことで弟の問いに答えた。答えとなる言葉を持ち合わせていなかったからだ。
後悔はたぶんない、のだと思っていた。そのときの私には、あそこから離れなければやりたいことが出来なかった、それが全てだ、と。それでも、傷ついた顔でこちらに手を伸ばした弟の瞳が忘れられなかった。
それから三十年ほどの月日が経ったある日、父がキャンバスの前から動かなくなった。きっかけは、弟が行方不明になりそのまま死亡宣言を受けていたと知ったことだった。私たち家族を隔てていた〝壁〟が崩壊して、情報が入ってくるようになったのだ。しかも、詳しく聞いてみれば、行方不明になったのは一九七二年。つまり、十八年も前だったという。
それまで、私たちは弟がどこかで生きていて、いつか会えるものだと信じ切っていたのだ。父は寝食を忘れてその絵を描き続けた。すっかり憔悴しきっていても、眼光だけは鋭く、頑なにそこから動こうとはしなかった。まるで、そこから一歩でも動いたら死ぬとでもいうかのように。
唯一、父が穏やかな顔をしたのは、私がその絵について質問したときだった。だから、私は何度も質問を繰り返し、父はそれを喜々として語った。絵の中の彼が立つのは私たちが住んでいる場所なのだ、とか、彼は十六になってもソフトアイスが未だに大好きでマーケットではアイスクリームを必ず買うのだ、とか。それが現実であるかのように語った。
決して口には出さなかったが、やめてくれ、と思っていた。もし弟が生きていたら、と考えさせるのは。「Wenn」のことを想像したところで、それは決して現実にはならないのだから。その絵の向こうに弟がいるわけではないのだから。薄情なのかもしれないが、私はそのことを忘れたように生きていきたかった。
父は絵の完成と共に他界した。それ以来、私はその絵を見ないようにしてきた。美術館に寄贈してしまえば、そこに足を運ばない限り見ることはないわけだ。
だから、彼女に出会わなければ、私はこの美術館に足を踏み入れることは死ぬまでなかったであろう、と苦笑する。彼女があまりに楽しそうに「彼」について話すから、まるで、「彼」が生きているかのように話すから、つられてしまったのだろう。なんだか愛着が湧いてきてしまったのだ。
「……おい弟」
初めて、「彼」のことを「弟」と呼んだ。
「ハァナは、もう来ねえ……んだ、ぞ」
あいつがこちらに手を伸ばして笑っていた。最後に見た幼いあいつの表情とは大違いだ。今までなら、これが幻想でしかないのだと思い知ったような気持ちになっていたことだろう。
「原因不明の病気だってよ。体が動かなくなっちまうんだ。意味が分からないだろう?」
やはり、というべきか、絵から返答はない。それでも私は言葉を続けてしまっていた。
「老人よりも先に行っちまうとは、ひどいやつだろう? そう思わないかい? なあ、エリアス」
この『壁』の向こうの「もう一人の弟」へ。
MAIN█ (上)
ずっと声が聞こえていた。
「知っているか、そこのマーケットのオレンジジュースは最高だ」
初めはぼんやりとしか聞こえなかった声は、だんだんと鮮明になっていく。この声は俺のいる世界を広げてくれる。
「人はたくさんいた方が賑やかでいい。お前もそう思うだろう?」
彼がそう言えば、こちらの世界は人で溢れ出した。
声がする方を目指して進む。マーケットでビールを飲む人を見かけた。
「もう十六だから、お前もビールが飲めるぞ」
彼は、歌うように語った。彼がどのような顔をしているのか、知りたいと思った。
速足でマーケットの中を進む。古本が積み上げった店の前を通り過ぎた。
「大きくなったなら絵本ばかりじゃだめだからな。たくさん本を読めよ」
そして、何故そんなに泣きそうな声をしていたのかも知りたかった。
そうしてたどり着いたのは、『壁』の前だった。声がするのは、これの向こう側からだったのだ。俺は立ち止まる。これ以上先へは進めないのだと分かっていた。『壁』の向こうは、ぼやけていてよく見えなかった。
「……お前はどこにいたって、俺の息子だからな」
その言葉と共に、『壁』の向こうがやっと見えた。父さんだ。一目見ればすぐに分かる。向こう側にいる父さんは笑っていた。
父さんの手には筆が握られている。ひどく疲れた笑顔で、それでも穏やかな声で父さんは語る。父さんの語りに合わせて、その筆は動いていた。
最後に取ったその色は、きっとハイライトだ。
「……お前の名前は、俺の息子の名前は、」
そう言いかけた彼の体が傾く。もう、限界だったのだろうな、ということは薄々承知していたが、
「……なんだ? 聞こえないぞ、父さん」
何故自分からこんなにも弱々しい声が出たのかはよく分からなかった。
それからずっと、こちらの世界は止まっている。これ以上広がることはない。
『壁』越しに、代わり映えのしない廊下をずっと眺めていた。『壁』の向こうだけに変化するものがあった。
そこを通る人たちは、少し立ち止まってこちらを見ては立ち去っていく。時折、『壁』が違う廊下を映し出すことがあるものの、『壁』の向こうの人たちは、決して俺と目を合わせることはない。
その人たちが話していることを意味もなく聞いていた。廊下の向こうが「美術館」と呼ばれる場所であること、そして俺がいる世界が「絵の中」であることを知った。
その日、『壁』の向こうはいつも見ているものとは違う廊下を映していた。時折聞こえる声も、抑揚が少なく柔らかい印象を受けるものだった。ああ、こういうのを言語が違うというのだったか。いまいち実感がない。
『壁』の向こうが少し暗くなった。美術館が終わる時間なのだろう。そんなことを考えていれば、どこからか泣き声がする。その正体を探し、足元の方に小さな黒い頭を見つけた。
「何故、泣いているんだ?」
聞こえないと分かっていて声を掛けた。それなのに、だ。
「……だあれ?」
反応が返ってきた。こんなのは初めてだった。子供は辺りを見回して、それからこちらを見上げた。
その瞬間、潤んだ黒い瞳から抜け出せなくなった。彼女は確かに俺と目を合わせたのだ。
「なあ、何があった?」
問うてみるが、子供の反応は微妙だった。困惑した様子で顔を傾けた。それはどういう意味だ。
「……ねえ、なんていってるの? にほんご、じゃないね?もしかして、カイガイのひと?」
どうやら、俺の言葉は伝わってないらしい。だがそれでも、『壁』の向こうに俺の声が聞こえたのも、誰かと話せるかもしれないというのも初めてで、俺は興奮していていたらしい。
「お前、アイスクリームは好きか? 絵本は読むのか? そちらの天気はどうだ? こっちではマーケットが開かれていて賑やかなんだ」
言いたいことは山ほどあった。伝わっていなかったとしても、その反応が戸惑いだったとしても、俺の声が届いていることが嬉しかった。
小さな口を開けたまま固まっていた子供は、俺が言葉を重ねるにつれて瞳を輝かせ始める。小さな手をこちらに伸ばしてくる。
「ね、そっちにいってもいいの?」
その手はいとも簡単に、目の前の見えない『壁』をすり抜けた。まるで『壁』など無かったかのようだった。
「え、あ、ああ!」
驚きを隠しきれないままその手を掴めば、子供の体は勢いよくこちらに飛び込んでくる。
「えへへ。こんにちは、きれいなかみのおにいさん!」
腕の中にすっぽりと収まった存在は温かく、そしてとてつもなく軽かった。俺が抱き上げれば、声を立てて笑いながら俺の首に手を回してきた。
その小さな体は脈打っていた。これが鼓動というものか。心地よい音だ。俺やこの世界の住人たちにはないものだ。
子供は、俺に手を引かれながらずっと黒い瞳を輝かせていた。ありふれた景色すら、彼女にとっては物珍しいものであるようで、見るもの全てに「すごい、すごい」と言った。
「あのね、わたしね、ハナっていうんだよ。シミズ、ハナ!」
繋いだ手を揺らしながら子供は言った。それが彼女の名前らしい。
「……ええと、ハァナ?」
「ううん、ちょっとちがうかな?」
ちょっと違ったらしい。ぷくぷくと頬を膨らませているのは微笑ましい。
「ハナだよ。ハ、ナ!」
「……ハンナ?」
彼女は顎に手を添えて小首を傾げた。どうやら判定を考えているらしい。
「さっきのよりは、ちかい、かも? うん」
納得したようだ。何度か頷いた後、にぱっと笑う。
「じゃあ、おにいさんのおなまえは?」
さも当然のようにされた質問に、俺は答えられなかった。俺に名前はない。美術館に来たのだという人たちの言葉を借りるのならば、俺はただの「マインツの青年」なのだろう。俺を見つめる黒い瞳は、なかなか答えが返ってこないことを不思議に思っているようだった。
「……Jugend in Mainz.」
残念ながら、お前の期待には応えられそうにない、とやけくそ気味に言ったそれに、彼女は面食らった様子だった。
「よぉ……、まい……? ごめんね、うまくいえないや」
俺が怒っているように見えたのか、彼女は泣きそうな顔をして、もう一回、と言う。そういえば、彼女はこちらの言葉の意味が分かっていないのだったか。だから、今のが名前でないと分からなかったようだ。そう思えば、悶々とした気持ちは消えていくような気がした。
「マイン、だ」
そう言えば、彼女は「まいん、まいん」と繰り返しながらぴょんぴょんと石畳の上を跳ねた。あまりに嬉しそうにするものだから、本当はそれが名前ではないということに少しだけ罪悪感を抱いた。
小さな頭が揺れている。元々、あそこでかなり泣いていたので疲れていたのだろう。歩く速度も落ちてきていて、今にも瞼が落ちてしまいそうだ。彼女が生きるためには、眠らなくてはならないことは知っている。もう少しで「俺の家」に着くのだが、そこまで耐えてくれるだろうか。そう考えて、俺が当たり前のように彼女を絵の向こうに帰さないようにしていたことに気が付く。
「いたいよ、まいん」
そう言われて、小さな手を握る自分の手が震えていることにも気が付いた。なんだかおかしな気分だ。自分がどうにかなってしまいそうだった。
「……あのね、まいん」
眉を下げていて、寂し気に唇を噛む彼女は、言い出しづらいことを伝えようとしているのだと思った。向こう側に戻りたいと思っているのだろうか。俺よりも高い温度を持つ手。それは彼女がこちらの人間ではない証拠だ。向こう側に大切な繋がりがあるのだろう。だから、彼女が一言でも「帰りたい」と言うのならば、俺はすぐにそれに従うつもりであった、のだと思う。
「……わたし、かえらないからね。いい?」
弱々しく言われた言葉は俺の考えていたものとは真逆で、え、と声が出そうになるのを飲み込んだ。それはあまりに俺にとって都合の良い言葉だったからだ。
「だって、しんくんがね……ひどいの。ぱぱとままは、もうかえってこないってゆうの!」
その口ぶりは、怒っているというよりも、拗ねているという感じであった。少なくとも、彼女が「シンクン」とやらを嫌っていないということだけは分かる。
「……そうか」
簡単な言葉であるというのに、それを口に出すのに時間を要した。
二階から駆け下りてくる音がする。新しく買ったワンピース姿で現れた彼女は、挨拶もそこそこに「みてみて!」と言ってその場でくるくると回った。そして、テーブルに並んだ食べ物を見た瞬間、目の色を変えて着席する。
「まいん、わたしのはハムいっぱいね!」
お手伝いをするのだと言って、彼女は満面の笑みでパンにハムを挟めるだけ挟んだ。通常よりも少々多めにハムが入っているだけで、そこまで笑顔になれるものか、と感心した。
「俺はこれがいい」
蓋を開けた瓶を差し出す。彼女にとってそれは見たことのないものだったらしく、鼻を近づけてから「まいんはあまいのがすき?」と聞いてくる。甘いものが好きか嫌いかなど、今まで意識したことがなかったので言い淀んだ。
「じゃあ、いっぱいぬってあげるね!」
何がどう繋がって「じゃあ」なのかは知らないが、彼女は楽しげに歌いながらパンにそれを塗り重ねた。案の定、差し出されたそれは甘ったるいだけで、好きかどうかはよく分からなかった。
「……そろそろ買い出しに行かねばならんな」
俺が呟いたのを聞いたらしい彼女は、パンを頬張るのを一度止めて首を傾げた。その反応に、そういえば彼女は俺の言葉が分かっていないのだったということを思い出し、壁に掛けられた帽子を親指で指せば、立ち上がり「まるくと、まるくと!」とはしゃいだ様子で覚えたての言葉を口にした。
日差しが強いので、彼女の小さな頭に帽子を被せ、二人手を繋いで家を出る。彼女は、相変わらずこの景色に珍しさを感じるようで、辺りを見回して何度も立ち止まる。
マーケットでは、今までとは逆に彼女に手を引かれて進んだ。彼女は食べ物に目がないらしく、涎が垂れそうになっては、慌てて取り繕っている。「あれはなに、これはなに」と指を差し、今にも走り出していきそうだ。
「おいしいね。にぎやかだねえ、たのしいね!」
彼女が笑う。これは美味しいのか。賑やかだと楽しいのか。彼女がいると新しい発見がいっぱいだ。
「……しあわせだねえ」
彼女は繋いだ手をぶんぶんと揺らした。幸せ、か。心の中で呟いてみる。
「あ、まいんがわらった!」
彼女は俺の周りをくるくると回り、ぴょんぴょんと跳ねた。
「また、こようねえ!」
小さな唇が弧を描く。瞳が優しい色に染まる。その視線の先にいるのは、間違いなく俺だ。それは、世界が覆るような、違う世界に飛び込んでしまったかのような衝撃だった。
行き交う人をかき分けるようにして進む。今まで走ったことなどなかったため、下手くそな走り方だった。
「ハンナ! 返事をしてくれ!」
どこを見渡しても、あの黒い小さな頭は見当たらない。もしかして、帰ってしまったのか? そんなことが頭をよぎるが、すぐに否定した。先ほどまで共にいて、そんな様子はなかったではないか。
「ハンナ、ハンナ!」
大声を出してみるも、返ってくるものはない。人が多すぎて向こうが見えない。こんなに俺が叫んでいるのに、道行く人間たちは振り返りもしない。
当然だ、何もおかしいことなど無い。そう思うのに、彼女が見つからないことに気が立っているせいか、その存在が不愉快で仕方がなかった。
「……こんな」
こいつらは彼女とは違って、本当は生きていない紛い物でしかないくせに!
「まいん」
声が聞こえた。近くにいるはずだ。俺は再び走り出した。
「ハンナ!」
彼女を見つけることができたのは、大聖堂から随分と離れたところだった。アンティークショップの角を曲がった路地。人通りが少なくなる場所だった。
「まいん、まいん……」
しゃがみ込んで顔を腕で覆った彼女は、こちらには気が付いていないようだった。すぐに駆け寄ることができたならば良かったのだが、彼女がそこにいたことに動揺を隠せなかった。この路地は先に進むことができない。それを俺はよく知っていた。どうやら俺は、彼女にはそれを知られたくなかったらしい。
「ぱぱ、まま。……しんくん」
拭いきれなかった涙が彼女の頬を流れ落ちる。声を掛けなくてはと思うのだが、俺の口は全く動いてくれない。
また「シンクン」とやらだ。向こうには彼女を大切にしてくれる「生きている人間」がいる。それは紛い物なんかではない。
「ハンナ、無事で良かった」
平静を装い、今来たばかりであるかのように声を掛ける。
「まいん!」
こちらに気が付いた彼女が、その小さな体にあるとは思えない力で抱きついてきた。俺はそれをしっかりと受け止めた、はずだ。俺は確かに立っているはずなのに、地が消えていくような、足元が危ういような、そんな感覚がする。
それも、彼女の温もりが心地よすぎるせいだ。鼓動が聞こえるせいだ。
「なあ、ハンナ。家に帰ろうか」
俺が差し出した手に小さな手が無言で重ねられる。言葉の意味が分からないながらも、何かを察しているのかもしれない。俺は歩き出した。
強く手を握りすぎているだろうか。許してほしい。今ぐらいはその手を放さずにいたいから。もしかしたら、歩みも速くなっているかもしれない。「まって」と小さく言ったのが聞こえた。でも、俺は止まってやれない。今、止まってしまったら全てを投げ出してしまいそうだから。
家の前を通り過ぎてしまったからだろうか。不安げにこちらを見上げている。彼女の方を振り返れなくなった。
それはある路地の奥に置かれている。金の額縁に囲まれたその『壁』は、今まで見てきた廊下を映していなかった。曇ったガラスのようだと思った。彼女がこちらに来てしまったからだろうか。
「……これって!」
彼女が鋭い視線をこちらに寄越した。怒っている、のだろうか。もしくは俺がそう思いたいだけか。
「あっ」
俺が手を離すと、彼女は心細いような小さな声を漏らした。大丈夫だというように、その背を撫でる。向こうにも彼女の手を握る奴がいるのだろう、と考えて瞼を閉じる。
「まいんは? いっしょにいこ?」
彼女は、俺の服の裾を引っ張った。俺は首を横に振った。
「俺はここから先にはいけない」
『壁』に手を触れてみたが、硬い感触がするだけだ。彼女のようにすり抜けることなどできそうにない。自分のした行動だというのに、それを改めて突きつけられて打ちのめされる。
「じゃあ、いかないよ! わたし、かえらないってゆった!まいんといっしょじゃなきゃやだ!」
俺の腕を掴んで彼女が叫ぶ。喜んではいけない、そう思うほど体が強張っていく。
「まいん、あのね、」
「待っているのだろう? 『シンクン』が」
彼女が言いかけた言葉を遮るように声を出す。その続きを聞いてはならないと思った。だからだろうか、思っていたよりも強い声が出た。「シンクン」という言葉が聞こえたのだろう、彼女はもの言いたげに口を開いたが、結局噤むことにしたらしい。温かい風の音が嫌に耳に残る。
彼女が息を吸ったのがはっきりと聞こえた。
「またあえる?」
「……ああ、きっとな」
彼女の顔を見ることができない。『壁』を見ていることを装い、そこから視線を外さなかった。
「……そっか。やくそくよ」
彼女は頷いてそう言った。彼女が歩き出すのを見て、やっと肩の荷が下りたような気がして息を吐いた。
俺は来た道を引き返すことにした。彼女があの『壁』の向こうに行く瞬間を見たくなかった。石畳が歪んで見える。視界が滲んでいることには気が付かないふりをした。決して振り返ったりしない。
「まいん!」
しかし、その覚悟は容易に覆され、俺は振り返ってしまうことになる。聞こえてきた声が、叫ぶようなその声が、あまりにも悲痛だったからだろうか。
『壁』の向こうに片足を踏み込んだ彼女は大きく目を見開いていて、俺の顔を凝視しているようだった。おそらく、俺は相当ひどい顔をしていたのだと思う。
指先がこちらに伸ばされる。走り出して、今すぐその手を掴んでしまいたい衝動に駆られたが、彼女の視線から逃れるように目を伏せて耐えるしかない。石畳が濡れていく。
「……まいんの、ばかぁ」
小さなその声が突き刺さった。顔を上げたときには、彼女は『壁』の向こうに消えていた。目の前には、曇りガラスだけが残っていた。膝の力が抜けてその場に崩れ落ちた。
ガラスの曇りが晴れていき、徐々に向こう側の様子が鮮明になっていく。俺はそこから動くこともできずにそれを見ていた。彼女が向こうに見えるのではないかと、それだけを思って。
見えたのは、警備員の男と、眠る彼女を大切そうに抱きかかえる黒髪の青年だった。その青年は、俺と同じくらいの年の容姿で、おそらくあれが「シンクン」なのだと分かる。
これでいい。彼女はこの世界の人間じゃなかった。これは俺がするはずのない経験だったのだから、これからはいつも通りの生活に戻るだけだ。
MAIN█(下)
そうだ。そう思っていたはずだった。それなのに、俺は泥沼に嵌って抜け出せなくなっていた。彼女との記憶は麻薬のように脳を侵していた。
俺は人に飢えていた。本当は彼女が良かったけれど、ひどく寒くて、寂しくて、俺は『壁』の向こうに声を掛け続けた。返事は一度たりともない。俺の声は誰にも届かない。それに打ちのめされると同時に、彼女は特別だったのだと安心したりもした。
「また会えるか」という問いに、俺はなんと返したのだったか。あのときは、どうすれば彼女を送り出すことができるのか、とばかり考えていた。しかし今は、その言葉に縋って、いつ「約束」が果たされるのか、と考えるようになっている。
「ハンナ、何故来てくれないのか」
あれから、一度も彼女と出会ったときと同じ廊下を見ることはなかった。彼女はこちらの言葉が分からないようだったから、あのときはこの絵が遠い国の美術展にでも貸し出されていたのだろう。それはある意味救いなのではないか。無駄に期待をするなということなのではないか。
変わらない廊下を見つめ、彼女を探しているうちに、『壁』の向こう側では時間が流れていることを突きつけられた。廊下を走って怒られていた、彼女よりも少し大きな子供は、今はもうスーツを着ていた。高齢だと思っていた警備員はいつの間にか見かけなくなり、若い者に代替わりしたようだった。では、彼女は? 俺の知らない間に大人になっていくのだろうか。今頃、彼女の隣を俺以外の奴が歩いているのだろうか。俺は永遠にこのままだというのに?
頭の中は、ずっと彼女の「馬鹿」という言葉が占めていた。もう、どんな声をしていたのかも思い出せないというのに。
「……馬鹿、だな」
路地に寝転んだ。頬に当たる石が冷たい。それでも目は『壁』に向いていた。
会いたい、会いたい。気が狂ってしまいそうだ。早く来てくれ。早く、はやく。
足音が近づいてくる。そんなはずはないと思いながらも、気が付けば、俺は起き上がって『壁』に手を伸ばしていた。現れたのは長い黒髪を一つ結びにした小柄な女性だ。
「会えてうれしいよ」
聞こえたのは、あのとき聞いたものではなく、俺が使う言葉だった。女性の黒い瞳が確かに俺の目を貫いていた。それは間違いなく彼女だ。あんなにも小さかった彼女は、同世代の女性となってそこに立っていた。
俺は夢中で話しかけた。お前は今までどのように生きていたのか、とか、ずっと待っていたんだ、とか、そんなことだったと思う。けれども、彼女は静かに微笑んでいるだけだった。
「なあ、……聞こえていないのか?」
俺は茫然として座り込んだ。なんで、どうして、そんな言葉ばかりが頭の中に浮かんでくる。目の前にいる彼女にとって、あの記憶はもう「過去」のことになっているのではないか、そんな考えが浮かんで体が凍り付いた。
「またね」
彼女が笑う。「また」を聞くのは二回目だ。俺がどんな気持ちでいるかも知らないで。あちらとこちらを隔てる見えない『壁』は、知らぬ間に分厚くなっていたようだ。奈落の底で置いてけぼりを食らったような気分だ。温かな手に導かれて、たどり着いたそこから見上げるのは、満面の笑みを残し去っていく彼女の背中だったと? こんなことが許されてなるものか。
そう思うが、俺は彼女の「また」という言葉に再び縋ってしまう。結局、俺と目を合わせたのは彼女だけであるのだから笑うしかない。
廊下に現れる人間の服装が一周した。一年経つというのはそういうことらしい。その「また」というのが、前とは比べものにならないほど早く訪れた。
彼女は人が少なくなる時間帯に一人で現れた。俺の声は相変わらず届かない。大学の勉強、アルバイト、部活動などについて、彼女は覚えてきた言葉を楽しそうに披露した。自分が思っていたよりも、彼女の近況を穏やかな気持ちで聞いていられたことに驚いた。
「また来年、同じ時期に」
彼女が小さく頭を下げて去っていく。「また」は三回目だった。来年、と口に出してみる。今度の「また」は決まった未来であるらしい。こうして彼女は一つずつ年を取っていくのか、とぼんやりと思った。彼女が年老いていつか亡くなるまで、どのように生きていくのかを知ることができるならば、それは悪いことではないのだろう。
彼女が映らなくなった『壁』を、意味もなく見つめ続ける今の自分の顔に表れているのは、諦めか、期待か、どちらなのだろうか。
五回目の「また」を聞いた。同じ季節に彼女がやってくることに慣れつつあった。なので今回も同じであると思っていた。
『壁』の向こうで薄手の服を着る人間が増えてきたころから彼女を待っていたのだが、彼女が来る気配がない。そのうち、向こうの人間たちの服装が変わり始めて不安が募る。彼女が来なくなってしまったとして、俺は待つことしかできないのだ。十数年も待ち続けることができたのが嘘のようだ。『壁』を見続けることも辛くなって、『壁』に背を向けて凭れかかる。
「……おい弟」
雑音交じりの不明瞭な音だった。『壁』の方を振り返ってしまったのは、あまりにもその声が父さんに似ていたからだろう。
「は」
咄嗟に口を覆った。『壁』の向こうには誰もいない。だが、その声の主が『壁』のすぐ近くで俺に話しかけていることだけは分かる。当然だが、こんなことは今までになかった。意味が分からない。
そもそも、俺を弟と呼ぶ存在などいただろうか。確かに、俺のモデルとなった人物には兄がいたが。父さんの後ろでいつも顔を顰めていて、俺が紛い物であることを責めているような気がした。
「ハァナは、もう来ねえ……んだ、ぞ」
その言葉に耳を疑った。ふざけるな、と怒鳴り散らしたくなった。だが、どうせ聞こえないのだ、そんなことに意味はない。それに、後に続いた声があまりにも途方に暮れた声だったので、どう思えばいいのか分からなくなった。
「そう思わないかい? なあ、――――」
最後の部分だけ雑音が酷くて聞き取れなかった。現実逃避のように、苦く笑うようなその声に親しさが含まれていることを意外だと考えていた。
俺は『壁』に凭れかかったまま、ずるずると座り込んだ。鈍痛がする頭を押さえ、大きく息を吐き出した。あの言葉を信じるわけではないが、現に来るはずの時期に彼女が現れないことが俺の不安を煽る。落ち着こうと目を閉じてみるものの、脳裏に彼女の笑顔が浮かんでしまい逆効果だ。
「……信じてなるものか」
自分自身に言い聞かせるように口にした。彼女はまた来ると言った。あの声の言うことは偽りだ。あれは、誰か知らない弟に向けた言葉だ。だから!
「その弟は、俺じゃない。……俺じゃないんだ」
だらりと腕を投げ出し、建物の隙間から見える青空に目を向ける。
そのとき、凭れた『壁』に、ぐんにゃりと背中がめり込むような違和感があった。
「は!?」
反射のように振り返ったが、そこにはいつもと同じ硬い『壁』が聳えているだけだった。拳を突きつけてみても、体重をかけてみても、びくともしない。
気のせいだったのだろうか。俺が彼女に会いたいがために起こした錯覚だったのだろうか。気が狂ってしまう。彼女に会いたい。頭の鈍痛は酷くなるばかりだった。
不安を振り払うかのように、『壁』の向こうに視線を向け、廊下にやってくる人間の中に黒い頭を探し続けた。向こう側の人間たちは皆、厳重な防寒対策をしているようだった。
遠くからする声だった。俺が使う、そしてずっと聞き続けている言葉とは違う響きを持っている。それが誰であるかなど、その声の主が『壁』に映っていなくとも分かる。
そら、見たことか。あの父さんに似た声の男の言葉は出鱈目だ。俺は変に誇らしい気持ちになっていた。その一方で、それならばあの声はなんだったのだろう、という疑問が浮かぶ。姿の見えないあの声の主はどこから話しかけてきたのだろう。彼女がここに来るということは、今体調に問題があるということもなさそうだ。では、将来は? あの声が、時間が流れた先で話されたものであるとすれば? こちらは時間の流れに置いていかれているのだから、荒唐無稽な話でもないような気がしてしまう。
『壁』の向こうに現れた彼女の隣には、壮年の男性がいた。また、「シンクン」とやらか。穏やかな顔で男性の方に視線を向けていた。
上手く考えが纏まらない。無性に苛立っていたということもあるだろう。ただ一つ、はっきりと分かったのは、俺はもう彼女と離れるのは耐えられない、ということだ。彼女が俺の知らないところで死ぬという可能性に気が付いてしまった。そんなことは許せない。
そうして俺は、彼女をこちらへと引きずりこんでしまったのだった。衝動的な行動だった。
ガタン、という音が聞こえた。その音に驚き、見上げた先には、傾いた額縁がある。そして、腕の中に気を失った彼女を抱えていた。
とにかく彼女を「俺の家」に運んでしまおう、と考える。何故、こんなにも落ち着いた足取りで歩を進めることができているのか、自分でもよく分からなかった。
ベッドで目を覚ました彼女は、ひどく混乱した様子だった。聞けば、記憶がないらしい。無理に引き込んだせいだろうか。自分の名前も、向こう側で何をしていたのかも、俺のことだって覚えてはいなかった。
それでも構わなかった。彼女が、あなたには初めて会った気がしない、と笑ったから。構わないということにしてしまおう。
「……『壁』など、不要だ」
軋んだ音を立てて扉が閉まったのを意味もなく見つめていた。南京錠のツルを引っ掛ける。ダイヤルは、一、九、九、一。下二桁を動かして、七、二、とする。
「あー……」
何故、その数字を並べたのかは自分でも分からなかったが、その数字の並びに無性に苛立って頭を掻いた。結局、八、九、と数字を並べてその場を後にする。
今、彼女はここにいる。それでいいじゃないか。それならば、それで。
「俺は、マインという。そして、お前の名前はハンナ。そうだろう?」
ELIAS SCHMIDT
鎖の音がする。俺はベッドの傍に置いた椅子から立ち上がった。
「……マイン。これはどういう……」
彼女が目を覚ましたらしい。非難めいた声が聞こえた。
窓から見える空は、どんなときであっても憎らしいほど鮮やかな青色だ。今までも、これからも、この色以外を見ることはないだろう。
「……私、別に逃げたりしないからね」
ベッドの上には相応しくない金属音に、窓の外に飛んでいた思考が引き戻される。
「だからさ、なくても大丈夫でしょう?」
これ、と彼女が足を上げてみせるとベッドの柱に繋がる鎖が音を立てた。彼女の視線がこちらに寄越されているのを感じていた。
「……駄目だ」
その一言を零してしまえば、胃の中に収めていたものがどろりと溶け出し抑えきれない。
「駄目だ駄目だ駄目だ。お前が何を言おうが思おうが、どんなに俺を嫌おうが、ここから出したりはしない!」
俺はこのとき初めて彼女の顔を見た。ゆるやかに目を伏せ、黒い瞳が右下へと動いた。そして、「そう」と何の感情も感じさせない声を出した。彼女に手を伸ばす。彼女は少し肩を揺らしたが、結局何も言わなかった。だから、腕の中に閉じ込めてしまおう。
「もう向こうには帰れないものだと、諦めてくれ」
滅茶苦茶なことを言っていることは承知で言い放った。彼女は黙り込んだままだった。俺は、言葉など返って来なければいいと思っていた。
「……『向こうでは生きられない』、だっけ。まるで、私が死ぬみたいねえ」
静かにその口は開かれた。動揺なんて一つもないような穏やかな声だった。その言葉と彼女の表情にひどく狼狽えていた。そのためか、口だけが動いてしまう。
「ああ、だから諦めてくれ」
違う、そういうことじゃない。首を振った。よく考えてみたが、結局、彼女が「向こうで生きられない」だなんて俺は信じようとは思わなかった。
これは俺の勝手だ。彼女の「未来」とか「幸福」とかいうものも最初から知ったことではない。生きた人間ではない俺は、時間に置き去りにされる俺は、これからそれらを理解することもないだろう。それなのに、いかにも「お前のことを思っています」というように回る口に嫌気がさしたのだ。
彼女がここにいてくれればそれでいいのだ。もう、置いてけぼりにされて一人で待ち続けるのはたくさんだ。
「ずっと一緒にいてくれ……」
彼女に聞こえないように小さく呟いた。
彼女の左手から、フォークが滑り落ちた。彼女自身、驚いた顔をしたものの、左手を何度か握ったりした後、何事もなかったかのように食事を再開した。このようなことが多くなってきている。
「あまり食欲がなくて」
そう言った彼女は、食事を半分以上残していた。時々、頭を押さえるような仕草をしており、体調が良くないのは明らかだった。それどころか、悪化の一途をたどっているようにも思えた。
「何を見ているんだ?」
ベッドの上に座り窓の外を眺める彼女に声を掛ける。緩慢な動作でこちらを見た彼女は何も言わずに微笑んだ。それをまじまじと見つめる。窓の外の青空に吸い込まれて消えてしまうそうだ、と思った。
「あ」
咄嗟に彼女の左手を掴んでいた。そのとき、彼女のTシャツがずれて鎖骨が見えた。
「……なあ、これ。どういうことだ?」
鎖骨から首にかけて、肌が青黒く変色している。痣みたいだ。彼女の肩を揺すって問い詰めるも、彼女は目を泳がせる。彼女の手が腹を押さえたのを見た俺は、その肩を軽く押した。
「え、なに」
彼女は目を見開いてベッドに転がる。俺はそこに乗り上げ、彼女のTシャツに手を伸ばした。
「やめっ……!」
彼女は俺の手を振り払った。体を丸め、両腕で腹を押さえている。隠された! 自分勝手な感情だと分かっていても、それがなんだか悲しくて、腹立たしくて、乱暴に彼女の腕を掴みシャツを捲った。
「は」
思わず低い声が出た。青黒い痣が腰の辺りまで広がっていた。俺はふらつく足でベッドから離れる。
「いつから……?」
「えと、……七日前で、す。どうしても治らなくて。どんどん広がっていくの」
それはあの日から、記憶が戻ったときからずっと、ということか。まさか、俺に対する拒絶なのか。本物ではないものばかりのこの世界は、彼女に相応しくない、と。
「……それほど、ここから出たい、と?」
「そんなはず……!」
では、なんだっていうのか! 記憶が戻るまで何ともなかったではないか。自分の世界の記憶があるから帰りたくなったのだろう。
「いいや、絶対にそうにきまっている!」
窓ガラスを震わせるような声が出た。その拍子に振り回した腕が棚に当たって、その上に飾られた植木鉢が床に落ちた。
「あ……」
彼女の悲痛な声が部屋に響いた。割れた植木鉢。それは彼女が花屋で買ったものだった。土が散乱し、赤い花びらを汚していた。
「……すまない」
そこから目が離せないまま、謝罪を口にする。彼女は黙ったまま、一つ頷いた。息苦しい空気が流れた。一度冷静になれ、この部屋を出るべきだ、ということしか分からなかった。そうしなくては、とっ散らかった思考はどうしようもなかった。
「……あなたこそ、ほんとは私のことを違うモノだと思っているんじゃないの」
扉を開く俺の背に向かって、彼女がそんなことを言う。何を伝えたかったのか理解できないまま振り返れば、彼女は明らかに失言をした、という顔をしていた。
「……ごめん」
「いいや、大丈夫だ」
まともに働かない頭で、何が「大丈夫」なのか分からないまま口を動かした。逃げるように部屋から出ると、思っていたよりも大きな音を立てて扉が閉まる。
廊下を足早に進みながら、彼女の青黒い痣を思い出す。
「何だアレ」
俺とは一緒にいられないとでもいうのか。あんなに楽しそうに笑っていたというのに、向こう側の方がいいのだな。当たり前か、彼女は向こう側に居場所がある。
いいや、本当は分かっているのだ。彼女を詰ったところで、八つ当たりでしかないことぐらい。気が付かないふりをしているだけで。そうでなくては、この膨れ上がった気持ちをどうすればいい?
扉を開け放ち、家の外へ飛び出した。道行く人の顔はいつでも変わらない。それを見るたび、憂鬱になる。彼女は、「私のことを違うモノだと思っているんじゃないの」と言った。それに対し、俺は「そうだ」としか答えようがなかった。だって、そうだろう? この世界で、彼女だけが「実在する人物」で「本物」だ。
記憶を思い出してから、彼女の体調は確実に悪化していた。あの痣がこれ以上広がったらどうなってしまうのだろう。もしかして死ぬのだろうか。
「……ひどいな」
こんなのあんまりだろう。帰したくない。もう、離れられない。そうでなくては、今度こそ俺は、おれは……、狂ってしまう。
届かない場所で死ぬというなら、いっそ彼女の亡骸を抱えて、絵が朽ちるまで……
「……なんていうのは、さすがに」
彼女の笑顔を見ることができなくなるのは嫌だ、
そう思うなら。
金属が床に落ちる音がする。外れた枷が床に転がった。彼女の足首が赤くなってしまっていたことに罪悪感を抱く。
「あ、あの?」
困惑気味の彼女の手を無理やり引いて歩き出した。強く手を握りすぎているだろうか。強張った手では、力加減ができそうになかった。これが最後になるなら、ぎりぎりまで手を放したくない。
足は重たかった。動かすのを止めてしまったら、二度と動かすことが叶わないほどに。階段を一段下りるのが、苦痛だった。終わりが近づいてきているようで。彼女の方を振り返る勇気が、俺にはなかった。
あの部屋の扉を閉じた南京錠も、中にある鉄格子の鍵も、外してある。扉も鉄格子も開け放ってあり、容易に『壁』の前にまで進むことができてしまう。
握っていた手を離す。これで本当に最後だ。手に残った体温をかき集めるように拳を強く握りしめる。彼女の顔を見れば、かわいそうなほど真っ青になっていた。
「もう、向こうに帰った方がいい」
強く、はっきりと言い切った。彼女の背中を押す。早く行ってくれ。俺が取り繕っていられるうちに、正気であるうちに、帰ってしまってくれ。頼むから。
「ねえ、……あのさ」
しかし、彼女は俺の右手を再び握った。額縁に囲まれたその『壁』を背後に押しやり、俺を真っすぐに見上げてくる。鋭い視線が俺を射抜いた。
「私、向こうにはいけません」
大きく口を動かし、はっきりと告げられた言葉は、俺にとって都合が悪すぎた。その言い方は、幼かった彼女よりも力強い気さえする。
「言わなきゃならないことがあるの。大切なこと」
「大切なこと? そんなもの、ここには一つだってない!」
彼女もきっと気付いているんじゃないか。この世界は絵に描かれたものをもとに作られた世界だ。だから、描かれていない場所には行けない。実際、アンティークショップの角の先に進むことはできなかった。
天気だってずっと晴れで、太陽は全く動かない。ここの人間は決められた動きしかしない。どうして、俺があれらと同じでないといえるのか。
「全部、全部偽りだ。紛い物だ!」
彼女の手を振り払う。どうしようもない気持ちをぶつける先がなく、頭を押さえるしかない。
「もう、いいだろ。俺など放って、早く行ってしまえ!」
感情のまま怒鳴りつけた。すると、彼女は眦を吊り上げて大きな声を出す。
「行きません。絶対に!」
「なんで」
何故、こうも上手く行かないのか。
彼女は長く息を吐くと、一転柔らかな口調で言った。
「……この絵はさ、会えなくなったはずの息子に会うために描かれたのだって」
「知っていたのか」
俺のモデルとなった人物がいることを。
「あなたのお兄さんに聞いたの」
「彼は兄では……」
父さんの後ろに佇む彼の顔を思い出す。俺と彼の弟を同じにするな、と怒りそうだ。あのとき届いた男の声を聞いた後でも、あの顰め面の印象の方が強い。
「ううん、お兄さんだよ。あなたは弟だ、と本人がそう言ってたもの」
「……兄さん、が?」
彼女の唇が弧を描き、ゆるやかに目が伏せられる。
「それでね、彼らは『あなた』と一緒にここに来たかった。だから、描かれたのはマインツ」
そうでしょう、と彼女は首を少しだけ傾けた。
「そうだ。だからこの絵のタイトルはJugend in Mainzだ。これが俺の名前……」
「『エリアス』だよ!」
それは、俺の言葉に被せるように告げられた。
「あなたに付けられた名前は、『エリアス・シュミット』!」
彼女が俺の両手を握って、歯を見せて笑う。
「……エリアス」
それは、父さんや兄さんが呼びかけていたのだろうけれど、決して聞き取ることのできなかった名前だ。
突然彼女が床に膝をついた。青黒い痣は頬まで広がっていた。息も荒く、体調は最悪なのだろう。それなのに、彼女は大丈夫、大丈夫、と繰り返しながらゆっくりと立ち上がる。その表情は、楽しそうですらある。
「けほっ、……私は、あなたのもとになった人は人づてでしか知らないけれど、あなたのことは見てきたつもり」
得意げに口の端を持ち上げて言う。
「私が『向こうでは生きられない』のだとしたら、あなたがいないからでしょう?」
ふらつきながらも少し背伸びして、彼女は俺に顔を近づけた。黒い瞳から目を逸らせなかった。そんな俺を彼女は声を出さずに笑う。
「……描かれていない場所には行けない、だっけ? 《《エリアス》》、あなたは描かれていないものを他にも知っているでしょう?」
突き出された彼女の手は、痣が広がり青黒く変色しきってしまっている。
「は」
そして、繋がれたままの俺の手にも薄っすらと青黒い痣ができていた。
「あなたはこちらでは生きられなくなったの!」
悪戯に成功した、というような笑顔だった。初めて会ったときの彼女が思い出される。
「連れていきます。拒否権は認めません!」
彼女は胸を張って、堂々とそう宣言した。
彼女の言葉があれば、「俺が俺である」と言える。そして、彼女は俺を向こうに連れて行くとまで言ってくれる。なんて幸せなことだろう。
「ほら、行きましょう?」
繋いだ手が引かれる。その掌は少しだけ震えていたが、彼女は自信満々という様子で笑っていた。
「ああ、行こう」
何度も向こう側に行こうとして失敗した。今回もどうなるかなんて分からない。だが、もう大丈夫だという自信はあった。彼女のくれた思いさえあれば。
俺たちは『壁』に向かって力強く足を踏み出した。
✽✽✽
『壁』の向こうが見えた。
「うわっ! なんだ!?」
彼女と俺以外の声だ。そう思った瞬間、目の前に床があった。思い切り顔をぶつけたのだと気が付くのに時間がかかった。鼻を押さえながら起き上がると、ずっと見てきた美術館の廊下が視界に入る。それを隔てるものはない。
「いたた」
彼女の声だ。そちらに顔を向けると、彼女は腰を押さえていた。顔にも腕にも、青黒い痣はない。黒い髪が揺れるのが、ひどく遅く感じた。彼女が顔を上げる。
どちらからだったかは分からない。いつの間にか、俺たちは抱き合っていた。耳元で鼻をすする音がする。
くすくすと笑う声が聞こえてきた。彼女が腕の力を緩める。今顔を見られるのはまずいと思うも、もう遅い。彼女が目を細めながら、俺の目元を親指で拭った。
「ふふ、心臓の音がする」
彼女は俺の胸に耳を寄せて笑った。
HA█NA SHIMIZU
「Istnichtwahr……!?」
エリアスが指を差すのは、コンビニの一番小さい缶ビールだ。有り得ない、と言わんばかりに見つめてくる。
「いいじゃない、小さいので。私、明日も仕事だし」
「Neeeein!!」
断固拒否の姿勢で、カゴに一番大きなビールを並べていく。まあ、彼の懐事情について考えても仕方ないか。それに、すぐ隣でそんなにビールの缶を並べられてしまえば、私だって我慢できない。小さい缶を棚に戻し、大きい缶を取る。すっかり、ビールに慣れてしまったのは彼のせいということにしておこう。
コンビニの外は真っ暗、そして土砂降りだった。スマホを見れば、時間は二十二時。目的の青い軽自動車は目の前だ。そういえば、と思い出すのは、数年前、貯めたお給料を奮発して買ったときのこと。自分の車を持つと乗り回したくなる、と言った叔父の気持ちが分かったような気がする。
鞄から車のキーを取り出し、エリアスに向かって頷く。スーツが濡れる覚悟はもうできている。私たちは車に向かって走り出した。
「エリアス、もう開けているの? あと少しで家着くよ?」
左隣に目線だけを向ければ、缶のタブに指を掛けているところだった。空き缶が二つ増えていることから、おそらく三杯目。
「すまない、我慢ができなかった!」
エリアスがにっこり笑う。最近よく笑うようになってきたなとは思っていたけれど、これはダメだ。酔ってやがる。そんなことを思ってはいるけれど、私の顔は笑っていた。
古いアパートの階段を上り、やっと我が家にたどり着く。ただいま、と中に人がいるわけでもないのに呟く。すぐにでも鞄を投げ出してしまいたいところだが、ここは我慢。
「Aua!」
その声に後ろを振り返れば、頭を押さえるエリアスがいた。ドアの上部に頭をぶつけたのはこれで何度目だろう。
「また背が伸びたんじゃないの」
「いいや、もう止まった。俺はこれからムキムキになる」
気合十分、といったとこではあるが、ちょっと難しいのではないかと思う。クラウスの若いころの写真を見てからずっと言っているのだが、そう言い始めてから何年が経ったと思っているのか。
「なあ、花。これって」
エリアスはテーブルの上に買ってきたビールとおつまみを並べながら、置きっぱなしになっていたビニール袋を見ていた。
「何って。嫌がらせよ、嫌がらせ。私、根に持つタイプだから。それはもう、しつこいの」
冗談交じりにそう言いながら、ビニール袋の中から取り出したのは赤いゼラニウムだ。
「懐かしいな、その花。……それで、俺はあのとき結構、酷いことを言ったし、やったわけだが、それも根に持っているわけだ。身勝手なヤツだと」
エリアスはそう言ってから、椅子に座ると缶ビールを一気に煽る。気持ちいい飲み方だ。私も彼の正面に座り、並べられた缶の一つに手を伸ばした。
「ううん、別に。あのときは、意味の分からない痣さえなければ、永遠にあそこにいるのもアリだと思っていたしね」
こんなの、素面で言えるか! と、缶のタブを引く。
「は? そんなこと聞いてないんだが」
エリアスの目が点になっている。珍しい表情に楽しくなってきてしまって、くすくすと笑ってしまう。
「あのねえ。あなた、あのときそれを言っても信じなかったでしょう?」
ああ、いや、でも、と言葉を繰り返すエリアスを横目で見ながら、今度は焼き鳥に手を伸ばす。それに気が付いた彼が皿ごとこちらに動かしてくれたので、簡単に串へ手が届いた。
それに、酷いことを言ったのも身勝手なのもお互い様でしょうに。私は彼が何か言うたび、どう言い返してあげようかと考えていたわけだし。そして、私はどうしても忘れられない初恋を叶えるために、彼の意見も聞かずに連れ出した。そう考えて、「初恋」だなんて爽やかなものじゃなかったな、とその語感に違和感を持つ。そうそう、もう少し、いや大分、面倒くさくてしつこい感じなのだ。
エリアスはコンビニのソーセージを大真面目に採点し、批評していた。笑顔でおつまみを頬張り、あれはどうだ、これはどうだ、と次々に差し出してくる彼を見ながら思う。彼の笑顔に一目ぼれしてわざわざその絵の前で泣いていた六歳のころの自分に言ってやりたい。今の彼の方が幸せそうだぞ、と。
私はゆるやかに微笑んで、赤い花びらをつついた。
「まるで夢みたいね。目が覚めなければいいのに」
Maintzの青年 / 花都一蕗 作