節穴の心眼 / 栃池矢熊 作
少し前まで校門を彩っていた桜はすっかり散り、葉の緑色が目立つようになってきた。周りの人々を見ると、新しいクラスになってから約三週間経ち、環境に慣れてきたのか、笑っている人が多いように思える。四月の終わり頃ともなれば、友達の一人や二人くらい新たにできていても不思議ではない。むしろそれが自然である。この時期は、親しい人が増えていくのが普通なのだ。これは、高校に入りたての一年生に限った話ではなく、僕たちみたいな、受験が待ち受けている三年生にも当てはまる話、のはずだった。
それに比べて僕はどうか。増えるどころか、最も親しく、最も大切だと思っていた人を失ってしまった。別に死んだわけではない。肉体的には普通に生きているが、それは僕の知っているあいつではない。僕が尊敬していたあいつは、もはや死んだも同然である。今いるのは、見た目こそ同じだが、僕の知らない内面を持つあいつなのだ。今までのあいつとは既に「永遠の別れ」だと悟っていた。僕たちの仲は、もう二度と修復できないのだ。そう思うと、人間関係の儚さをひしひしと感じて辛い。
その上、そいつも同じ高校に通っている。それも隣の教室に行けば簡単に会えてしまうのである。あの一件があるまでは、あいつのことを身近に感じて嬉しかったが、会いたくなくなった今となっては、教室が隣り合っているという事実は僕にとって非常に良くない状況だった。会うつもりがなくても、廊下などで顔を合わせてしまう可能性が高くなるからである。会ったところで仲直りができるわけではない。嫌な気分になるだけである。それ故、あれ以来下校する時には、あいつと顔を合わせないために、常に下を向いて歩いていた。こうすることで、前が見えなくなるというリスクもあるが、あいつに会って気まずい思いをするよりはマシに思えた。そして今日も、誰の顔も見ることなく下駄箱で靴を履き終えた。ここまで行けば、後は門を出て帰るだけである。何とかあいつの面を見ずに校舎を出られそうだった。
「おい」
さっきから誰かに呼ばれていたことに気付いて振り向く。?せ気味の体格には似合わないぶかぶかの学ランを着ているのと、男子にしては長い髪に寝癖がついているのとで、非常にだらしなく見える。すぐに氏家隼人であることが分かった。
「なんだ、お前か」
「なんだ、とはなんだ。不満であったか? 悪かったな」
氏家は一年生の時の同級生である。何かと気が合う奴で、クラスが変わってからも親交は続いていたが、三年生になってからは校舎が変わり、滅多に会わなくなっていた。少し前まではそのことを寂しく感じていたが、あの一件を経験したばかりの僕にとっては、氏家に会いにくいということは好都合だった。今の僕はあまり人と話したくないからである。だから、会いたいと思っていた時に会えず、こういうタイミングに限って現れた氏家は、彼自身にその気はないにしても、僕にとっては空気を読めない奴と言って差し支えなかった。
「別に不満じゃないけど」
「じゃあどうしてお主、さっきから眉間にしわを寄せておるのだ?」
氏家にそう言われるまで、僕が眉間に力を入れていたことに気付かなかった。それほどまでに苦悩していたということだ。しかし、あまりその話をしたくはない。思い出すだけでも嫌な気分になる。
「考え事をしていただけだ」
正直、こうして返答するのも苦痛だった。それを察してもらうために、さっきから敢えて素っ気ない態度をとり、誰とも話したくないというオーラを出そうとしていたのである。しかし、空気の読めない氏家は、そんなこととは露知らず、ぐいぐいと質問攻めしてくる。
「何を考えておったのだ? それがしにも教えろ」
また言いやがった。「それがし」という一人称である。今時の高校生が使う言葉ではない。鬱陶しいからその一人称をやめろといつも言っているのに、絶対にやめようとしない。元々氏家の話し方はどこか古風で、先程のように二人称には「お主」を用いているが、これはまだ百歩譲って許せる。しかし、「それがし」だけはどうも気に食わない。ただでさえ嫌なのに、こんな気分の時に聞かされれば余計に不愉快であることは言うまでもないだろう。さすがに僕も我慢の限界だった。ストレートに言うことにした。
「すまん、今は一人にしてくれないか」
そろそろ僕の本心に気付いてくれるだろうと期待していた。しかし、あいつは僕の望んでいた方向とは真逆の言動を発した。
「さてはあれだな? これが原因であろう?」
そう言って氏家は小指を立てた。こういうのを図星と言うのだろう。なんでいつも鈍感なくせに、こういう時だけ勘が鋭いのだ。
今僕たちのいるところは人通りが多い。下駄箱とは登下校の際に避けては通れない場所だから、必然的に人の流れは活発なのである。こんなところで得意げに小指を立てられては、見ているこっちが恥ずかしくなってくる。
「とりあえずその指をやめてくれ」
僕は氏家の手を下ろさせる。するとあいつは、僕が最も言ってほしくなかったセリフを口にした。
「こういう時は話した方が良かろう。全部吐き出した方がすっきりする」
直接「話せ」とは言っていないが、意味は同じである。何故こうも僕が嫌に思っている方向に会話が進んでいくのだろう。氏家は人を不快にさせる天才か。当然話したくない僕は、言葉を選びながら断る。
「こんな人前で話せることじゃないんだ」
言ってからすぐに後悔した。こんな遠回しに言ったところで、鈍感なこいつが諦めるわけがない。果たして、氏家は僕が思った通りの返答をしてきやがった。
「それならば良い場所を教えてやろう。ついて来い」
手を引っ張られ、半ば強引に連れてこられたのは、高校の近所にある神社だった。
「ここなら誰も来ぬはずだ。さあ、話せ」
とうとう「話せ」という命令口調になりやがった。全く、こいつは僕を何だと思っているのか。
「僕はな、まだ傷が癒えていないんだ」
なおも抵抗を試みた。だが、あいつの前では無駄だった。
「だからこそ話した方が良いというものだ。こんなところで立ち止まっていても傷は深まるだけであろう。ここで全部洗い流して、また前を向くしかないのだ」
「カッコつけやがって」と僕は氏家を睨む。僕のためだ、などと口では言うが、実際は他人の不幸という蜜を味わいたいだけだろう。そんな奴のために、誰が話したいと思うだろうか。
だが、心の奥底では、確かに誰かにこの話を聞いてほしいという気持ちもあった。別に、話を聞いてもらって、何か具体的な解決策を教えてもらおうというのではない。ただ共感してほしかった。共感さえしてくれれば、それで良かった。僕は話すことにした。あの人のように、共感してもらいたいという気持ちから。
全ての始まりは一通のLINEからだった。
学校から帰って少し経った後、時刻で言えば十八時頃、英語の単語テストの勉強をするために翻訳アプリを使っていたら、突然僕のスマホに通知がきたのである。羊のイラストのアイコンに、名前は「ようこ」。僕の知らない人である。LINEの友だちはおろか、実際の知り合いにもそのような名前の人物は思い浮かばなかった。しかしそのメッセージの内容を見てみると、冒頭に僕の名前が書いてある。少なくとも誤送信されたメッセージではなさそうである。しかし、だからと言ってその人が安全である保証はない。もしかしたら何かやましい気持ちがあって僕に連絡したのかもしれない。そう思うと、読んで良いのかどうか迷った。
だが、知らない人に伝えなければいけないほど重要な案件で送ってきたのなら、読まなければならない。迷った末に、とりあえずすぐには読まず、数時間置いてから既読をつけようと考えた。そうして夕食を済ませ風呂にも入り、いつでも寝られる状態になった二十二時過ぎに、そのメッセージを読んだ。
「初めまして。あなたは四賀順大さんでよろしいでしょうか《もし違っていたらごめんなさい。お手数ですが、その旨返信していただけると助かります》。私は同じ緑村高校の岸崎洋子と申します。突然の連絡申し訳ありません。本日はあなたに重要なことをお知らせするために、勝手ながら友だち追加させていただきました。
重要なこととは、筋田音緒さんに関することです。風の噂で、あなたと音緒さんが付き合っているということを耳にしました。そこで、あなたにも情報を共有しなければと思って、こうしてメッセージを送ることを決意しました。
さて、私事で恐縮ですが、私には彼氏がいました。堂川武夫という男です。あなたも同じ一年三組でしたので、ご存じかと思います。《何故私が、あなたが一年三組にいたことを知っていたかと言うと、一年の時に武夫がよくあなたの話をしていて、それが印象に残っていたからです》武夫とは中学時代から付き合っていました。なんだかんだで高校も一緒のところに進学し、幸せな時間が今日までの約四年間続きました。
でも、今日、全てが変わりました。今日というたった一日の間に、これまでの四年間で築き上げた全てが崩壊したのです。今日、私は知ってしまったのです。武夫が浮気していたことを。
私は信じられませんでした。あの武夫に限って、そんなことをするとは思えなかったのです。『ああ洋子、君は世界で一番可愛い』『君に出会えて良かったよ』『いつまでも一緒さ』……今まで彼が発した言葉が全部嘘のようで悲しいです。
では、どうして私がこんなプライベートな事情をあなたにお話ししたのか、もしかしたら既にお察しになっているかもしれませんね。まあ遠回しに言えば、それがあなたにも関係のある話だからです。ここまで言えばもうお分かりでしょう。つまり、武夫が浮気したその相手こそ、あなたの彼女である音緒さんだったのです。
別に音緒さんのことを悪く言うつもりはないのですが《私は音緒さんとは面識がないので、面と向かって文句すら言えないのです》、彼女なんかよりも私の方が彼に対する貢献度は大きかったはずです。これは自信を持って言えます。それなのに武夫は私を裏切った。許しがたいことです。失礼を承知でお尋ねしたいのですが、私と同じ立場のあなたなら、私の気持ちをお分かりになっていただけるはずです。あなたにだけは共感してほしい。恥ずかしながら、こうしてあなたにメッセージを送ったのは、あなたに事実を伝えたかったからというよりも、同じ立場のあなたに共感してほしかったからというのが正直なところです。今の私に必要なのは共感なのです。それだけは分かっていただきたいと思います。まあ、共感を求めるのが理由であなたの彼女の浮気をお知らせするというひねくれた精神を持っているからこそ、私は武夫に愛想を尽かされたのかもしれませんが。
さて、この事実を知った私は、武夫と話し合って、結局別れることになりました。こんなに辛いことは今までありませんでした。四年間の絆がこうもあっさり断たれるなんて、誰が予想できたでしょうか。恐らくあなたにも、近いうちにそのような悲しみを経験する時が来るでしょう。その時は、同じ境遇の人間がここにもいるということを思い出していただいて、少しでも悲しみを紛らわしていただければと思います。それが、あなたが私に共感していただいたことに対する、せめてものお礼になると信じています。
いきなりすみませんでした」
いや謝られても困る。むしろこんな重大なメッセージを、今まで何時間も《読めたのにも関わらず》放ったらかしにした自分の行動を後悔した。こんな重要なニュースが書かれてあると知っていたら、即刻読んでいただろうに。
音緒が浮気をしている。俄かには信じられないことである。だが、もし本当だとしたら、非常に大変なことだ。
岸崎さんという人が言った通り、音緒は僕と付き合っている。また武夫は、氏家と同じく一年生で同じクラスになり、よく僕と昼ご飯を一緒に食べ合った仲だ。そんな二人が裏で深くつながっていたということである。真剣に考えざるを得ない問題だと直感した。
僕は次にとるべき行動を考えた。僕が思い浮かんだのは三つ。音緒に事実確認をするか、岸崎さんに詳細を尋ねるか、今読んだことを全て忘れるか、の三択である。だが最後の一つなど、もし浮気が事実だった場合、浮気を見逃すということになり、それは僕にとってはあり得ないことなので、実質二択である。
となると、すぐさま音緒に直接確認すべきか。いや、それはやめておこう。まず何よりも、この時の僕はまだ岸崎さんのことを完全には信用していなかった。今まで一度も会ったことがないのに、急に友だち追加してくるような人を信じる方がおかしい。こんなに無駄が多くて長ったるいメッセージなど、そう簡単には信用できない。岸崎さんの言ったことが全部嘘だということもあり得た。だから、今の言葉が嘘だったというパターンと、本当だったというパターンの、両方について考慮しなければならないのである。
では仮に、岸崎さんの言っていることが嘘で、音緒が浮気などしていなかったとしよう。その場合、僕が慌てて音緒に問い質したら、音緒は潔白なのだから、「冗談きついよ笑」「私がそんなことするわけないじゃん笑」などと返されて、無駄に焦った僕が恥をかいてしまう。それだけで終わるならまだ良い。もし音緒が疑われたことに腹を立てて「もう私たち別れましょう」などと言おうものなら、僕が見知らぬ人間の戯言に騙されてうろたえたばかりに、僕たち二人とも何も悪くないというのに、お互いがパートナーを失うことになるのである。こんなに馬鹿げた話があるだろうか。別れ話までには発展しないにしても、二人の間の信頼関係が揺らぐことは間違いない。その危険を冒してまで音緒に直接尋ねたくはなかった。
逆に、もし音緒が本当に浮気をしていたとしても、音緒に直接確認するのはまずい。この場合において、仮に僕が、「岸崎さんという人に、音緒が浮気しているって聞いたんだけど、本当?」とメッセージを送ったとしよう。それを音緒が認めてくれれば話は早い。だが、音緒が白を切る可能性も否定できないのだ。そして困ったことに、岸崎さんの文脈を見る限り、音緒が浮気をしていたという決定的な証拠も見当たらなかった。そうなると、「あなた、証拠もないのに私を疑うの?サイテーね」などと反論されれば、もう僕もこれ以上音緒を問い詰めることができなくなってしまう。
つまり、音緒が浮気をしていようがしていまいが、どちらにしても音緒に確認するのは良くないのである。
また、先程からずっと浮気浮気と言っているが、そもそもどの程度の浮気なのかが分からなかった。岸崎さんが浮気と言っているだけで、実は大したことないという可能性もあった。世の中には、自分のパートナーが他の異性とちょっと話しただけでも浮気だと騒ぐような人もいる。岸崎さんがそれに該当し、武夫が音緒と少し会話を交わしただけで浮気だと見なされているという線も否定できなかった。
そうであった場合も、今ここで音緒を問い詰めるべきではない。世間一般的に言えば音緒は浮気していないのだから、もし僕が無駄に騒いだら、ここでも愛想を尽かされて別れ話になってしまう恐れがあった。「ずっと付き合ってきた私よりも、どこの馬の骨とも分からない、ぽっと出の女を信用するわけ?」などと音緒に返されたら、僕としてはぐうの音も出ない。
よって、浮気の程度がどれくらいなのかを確認するためにも、僕は岸崎さんに詳細な事情を尋ねるのがベストだと判断した。早速メッセージ欄をタップして伝えたいことを入力していく。
「ご連絡ありがとうございます。四賀です。
こうして読ませていただきましたが、僕はあなたをまだ信じることができずにいます。僕は音緒のことを信頼しているので、浮気なんて考えられません。また、浮気と言っても、どの程度の浮気なのかが分からないので、別れるか別れないかの判断も難しい状況です。証拠みたいなものはあったりしますか? もしあれば教えてください」
送った後、僕はベッドに仰向けに倒れ込んだ。彼女に浮気されたかもしれないというのに、良くもまあこんなに冷静でいられるものである。
さて、今度は岸崎さんの返信次第で、また僕の進むべき道は変わってくる。野球の審判ではないが、音緒の行動を「アウト」か「セーフ」かを判断する必要があるのである。
まず、岸崎さんから証拠が送られてきた場合について考えてみた。だが、証拠は証拠でも、決定的な証拠とそうでない証拠がある。前者と後者とで、僕の行動も変わってくる。
もし前者、すなわち送られてきた証拠が、誰が見ても音緒が浮気していると判断し得るものだった場合、これはもちろん「アウト」である。例えば、実際に浮気している現場を撮った写真とか、その時に記録された音声などは、決定的な証拠となり得る。もしそのような証拠が見つかったら、辛いが、その証拠を突き付けて音緒を問い詰め、彼女に浮気の事実を認めさせた上で別れることになるだろう。
しかし、岸崎さんの持っている証拠が、音緒が浮気していることを客観的に証明するには至らないものだった場合、これはまだ「アウト」とは言えない。例えば、岸崎さんが音緒の浮気現場を見聞きした、という事実だけでは、決定的な証拠にはならない。仮にこれを以て音緒を問い質しても、証拠の弱さ故に、音緒に知らぬ存ぜぬの一点張りをされる可能性があり、そうなると僕も対抗できないからである。疑わしきは罰せず、である。
また、岸崎さんが証拠を持っていなかった場合も、当然「アウト」と言うことはできない。証拠もないのに相手を責めるなんて愚の骨頂である。そんなことをすれば、僕が損をするだけである。
俄かに耳元で鳴った機械音に驚き、我に返る。スマホの着信音であった。案の定、スマホの画面に映ったのは、しばらく前にも見たあの羊のイラストのアイコンだった。僕が岸崎さんに返信してから感覚的には一時間以上経過しているように感じられたが、画面に映っている時刻を見てみると、まだ十分も経っていなかった。そして時刻の下に現れた「ようこが写真を送信しました」という無機質な文言を見て、すぐにこれが浮気の証拠であることを察した。少し遅れて、再び通知音と同時に、ロック画面に羊が一匹追加され、「二人のトーク履歴です」というメッセージが目に飛び込んできた。なるほど、確かにLINEのトーク履歴は動かぬ証拠となり得る。もちろん内容次第ではあるが、もしここに浮気していることを示す内容が書かれてあれば、客観的にも音緒が武夫と浮気をしていると証明できる。
しかし、だからと言って、そんなものを見たいわけがなかった。浮気相手同士のトーク履歴など誰が見たいものか。本能的に、見たら絶対に後悔すると分かっていた。
僕が躊躇っていると、さらに通知が飛び込んできた。「本当はもっと過激な部分もありましたが、そこまでお見せせずとも、多分これだけでも充分信じていただけるかと存じます」この文言を見て、これは相当深刻な浮気であることを直感した。人に見せられないほど過激ということは、アウトの線を大きく超えている可能性が高い。ますます見るのが嫌になった。
しかし僕は、それ以上に真実を知りたかった。音緒が本当に浮気をしたのか、それを知るまでは夜も寝られないだろう。覚悟を決めて、長細く一枚にまとめられたスクリーンショットをタップして開く。一目で音緒のトーク履歴であることが分かった。一面若葉色に染まった草原を、丸いピンク色のキャラクターが歩いているという背景。これこそ見慣れた音緒のトーク画面である。スワイプして拡大し、一番上から順に見ていく。
武夫 「俺聞いちゃったよ」「音緒に彼氏ができたこと」
音緒 「あ、もうバレちゃったんだ笑笑」「武夫には内緒にしていたのになあ」
武夫 「なんで内緒にするのさ」
音緒 「だって武夫、嫉妬するでしょ?」
武夫 「嫉妬はしないよ」「ていうかそもそも俺、嫉妬できる身分じゃないから笑」
音緒 「確かに笑笑」「でもちょっとは嫉妬してほしい自分がいる笑」
武夫 「じゃあ嫉妬しておくわ」
音緒 「何それ笑笑」「まあ、武夫に彼氏のことがバレるのはいいや」「彼氏に武夫のことがバレたら大変だけど笑」
武夫 「まあそういうことだ」「バレないように、怪しいラインは消しとこうね」
音緒 「そうだね笑笑」「今まで以上に消さなくちゃなあ笑」
武夫 「大丈夫、俺は今までずっとバレたらいけない環境にいたから」「もう既に消しのプロだね」「困ったら相談に乗るよ」
音緒 「消しのプロって何? 笑笑笑」「まあでも彼氏と四か月過ごしたけど、あの子鈍感だから気付かないよ、きっと笑」
武夫 「四か月か」「意外と長いな」「その間に音緒が心変わりしちゃったりして」
音緒 「そんなことないよ笑」「彼氏とは必要最小限のやり取りしかしていないし」「何なら武夫の方がいっぱい話しているよ笑笑」
武夫 「そうなんだ、ならいいか」「でもやっぱり」「彼氏には先を越されたくないなあ」
音緒 「大丈夫だよ、今の所そこに到達する兆しは全然ないから」
武夫 「本当?」
音緒 「うん」「でも、そんなに彼氏より先にやりたいの?」
武夫 「男とは、自分の愛する女にとっての『最初の男』になりたがる生物である」「みたいなことを聞いたことがあるよ」
音緒 「そんな言葉があるんだ」
武夫 「ちなみに女は、愛する男にとっての『最後の女』になりたいらしいね」
音緒 「確かに言われてみればそうかも」
武夫 「だからこそ、女性は浮気に厳しいんだろうね」「だって、愛する男の『最後の女』の座を、他の女に奪われるわけだから」
音緒 「それ、武夫が言えることじゃないでしょ笑笑笑」
武夫 「ごめんちゃい」
音緒 「反省する気ゼロ笑笑」
武夫 「音緒だってそうだろ」
音緒 「まあ、そうね笑笑」
武夫 「お互い、反省はしないということで」「これからもよろしく」
音緒 「よろしく笑」「でも、それにしても面白いね」「やっぱり価値観って男女で違うんだ」
武夫 「じゃあ、俺が彼氏に先を越されたくない理由分かった?」「まあつまり、愛する女の『最初の男』の座を、他の男に奪われたくないってことだね」
音緒 「うーん、分かった笑」「また考えておくよ笑」
読みながら、頭がくらくらした。後半の方のやり取りなど、朦朧としてまともに読めなかった。トークの背景に映る丸いピンク色のキャラクターが、普段なら可愛く思えるのに、この時ばかりは化け物のように見えた。
予想通り、いや、予想以上に浮気の程度が激しかった。これはもう当然「アウト」である。客観的に見ても、これだけでも明らかに浮気していることが分かる。その上良くないことに、あの二人は、自分たちが浮気をしていると自覚した上で、なおも反省せずに浮気を続けているのである。悪気がなくて浮気をしているよりも遥かにタチが悪い。これでは二人に弁解の余地はあるまい。
しかし、読み終わった僕の中には、何か違和感が残っていた。このトーク履歴の中に、どこか引っかかるところがあったのである。しかし、この時はそれが何なのか分からなかった。いや、それを考えるほどの余裕がなかったと言った方が正しいか。そもそも僕は、このトーク履歴を見る前にも、岸崎さんからの報告にどう対応するか、そしてその後の岸崎さんの証拠次第でどのように行動するか、という難題について考えたばかりである。そこでかなり脳のエネルギーを消費していたのに、ここでさらによく分からないことを考えられるだけの体力など、残っているわけがなかった。もちろん、これからやらなければならないことは山積している。だが今は無理である。明日に回すしかない。これ以上は何も考えられないのだ。
こうして思考を放棄した僕は、もう寝ることにした。ただ、いくら脳が思考停止状態になっても、岸崎さんへの返信だけは忘れなかった。
「ありがとうございます。僕はもう何も考えられないので寝ます。明日になったら音緒と話をします」
「……とまあ、ここまでが最初の日にあった出来事だ」
実際のトーク履歴を見せながら、僕は氏家にここまでのあらすじを説明した。その間、氏家はずっと僕を見続けていた。その目が僕をなめまわすような感じだったのが若干不快だったが、それだけ熱心に聞いていたということだろう。と思っていたら、氏家ははたと手を打ち、にやけ顔になった。
「なるほど。その岸崎という人のLINEのアイコンが羊で、通知が立て続けに三つ来ていたから、羊が一匹、羊が二匹、羊が三匹の要領で、順大は眠くなったと」
前言撤回である。こいつは僕の話など聞いちゃいない。
「……なあ。そうやってふざけて聞いているのなら、もう話さないぞ?」
「あいすまぬ。なんか空気が重苦しくなっておったから、ちょっと場を和ませようとだな……」
「僕、言ったよな? まだ心の傷が癒えていないって」
「いや、悪かった。もうふざけるまい」
こんなことを言われては意識せずともため息が出る。本当にこいつは僕に共感しているのだろうか。
「しかし、前から思っておったが、音緒という女もろくでもない奴であるな」
先程までにやけていたのとは打って変わって、今度は至って真面目な表情に変わった。この男、やはりよく分からない。だが、よく分からないのは氏家だけではないことを思い出す。
「僕は、別に音緒ってそんな悪い人じゃないと思っていたんだけどな……人の心は分からないな」
「難しいものであるな。それで、結局次の日に元カノとは会えたのか?」
氏家は、どうやら僕の話に興味がないわけではないらしい。一時は本気で話すのをやめようかとも思ったが、まだ話す価値はあるようだ。
「まあ待て。順番に説明していく」
***
次の朝スマホを見ると、岸崎さんから返信があったようで、ロック画面上に「それが良いと思います」というメッセージが残っていた。
岸崎さんは何に対して「良いと思います」と返したのだろうか。僕が寝ることに対してなのか、それとも音緒と話すことに対してなのか。しばらく考えて、そのどちらでもないような気がしてきた。あの長文を見ての通り、岸崎さんは基本的に自分のことしか考えておらず、そしてそのことを自覚している。僕に「共感を求めるのが理由で」浮気のことを知らせたような人である。当然僕のことを真剣に考えているとは思えなかった。だから、この後僕がどうなろうとも、彼女にとっては知ったことではないだろう。つまり、この「良いと思います」は、「好きにしろ」みたいな意味と捉えて差し支えなさそうである。じゃあこちらも好きにさせていただこうではないか。
さて、あれだけいやらしいやり取りを見せられたのに、不思議と怒りは湧いてこなかった。ただ、だからと言って音緒を見逃すわけではない。あのような行動を許す気は一切なかった。何故なら、これまでの音緒を見る限り、あのような大胆な浮気をするとは到底思えなかったからである。音緒はそんなことをするような人ではないはずだったのだ。……などと言うと、よくテレビで見る「逮捕された犯人の近所に住む住人」の言っていることと同じような響きに聞こえて胡散臭いかもしれないが、事実そうなのである。本当に音緒は、「そんなことをするような人ではない」と言われるような人間だった。そのような人だと信じていたからこそ、僕は彼女に告白したのである。悪いことをするような女だと知っていたら、最初から付き合おうなんて思わなかったはずだ。そのような厚い信頼があったのに、彼女はそれを裏切った。そんな女に、僕が執着するなどということはあり得なかった。
しかし、音緒への興味が全くなくなったかと問われれば、そうではない。むしろ彼女からもっと話を聞きたかった。音緒に何があったのか、どうして音緒はこんなことをしたのか、僕の知っている音緒はどこに行ったのか。ただそれを知りたかったのである。
音緒と直接会って話したい。
これがこの時の僕の一番強い思いだった。
となると、何をするにしてもまず僕は学校に行かなければならない。このままベッドに横たわっていたい自分の怠け心に鞭打ち、学校へ行く支度をする。
僕の高校は自宅から徒歩三十分ほどで行ける場所にある。自転車で行ったら十分しかかからない。そういう高校を選んだのである。本当は中三だった頃の僕の偏差値では、もう一つレベルの高い高校に行くこともできたはずである。しかし、その高校は自宅から遠く、電車だけでなくバスも乗り継がないと行けないような僻地にあった。朝早く起きて満員電車に揺られるのを嫌がった僕は、レベルの高さを捨ててでも通学の利便性を求めた。その結果、今の高校を選んだというわけである。この選択を後悔したことは一度もない。同じ中学の同級生で今は遠い高校に通う友達から、毎日満員電車に乗らなければいけないという話を聞く度に、そんな経験などまっぴらごめんだと思い、やっぱり僕の選んだ進路は正解だったとつくづく感じる。
ところで、自転車通学の何が良いかと言うと、登校する時間を自分で決められるところである。確かに自転車は体力的に疲れることもあるし、安全運転を心掛けないと事故に遭うリスクが高いが、それを差し引いてもこのメリットは大きい。電車通学の人は、電車の発車する時刻に合わせて家を出なければならない。朝寝坊でもしようものなら、電車に乗り遅れてあっという間に遅刻である。しかし、自転車通学なら朝寝坊をしても被害を最小限に食い止めることができる。うちの高校では始業が八時三十分なので、それまでに登校できれば遅刻にはならない。ということは、通学時間が十分の僕の場合、八時十五分ぐらいに目が覚めたとしても、爆速で着替えて普段より急いで自転車をこげば、ギリギリセーフで遅刻にならないのである。こんなこと、電車通学ならあり得ないだろう。今まで僕が高校生活を無遅刻で過ごせているのは、自転車通学によるところが大きいのである。
そして今日、僕は早く学校に行って音緒を入り待ちしようとしていた。三年生になって僕と音緒は別々のクラスになり、自分のクラスにいただけでは音緒に会うことができないから、どこかで待機する必要があるのである。もちろん音緒を待つためには、音緒よりも早く学校に行かなければならない。とは言え、自転車登校の僕にとっては容易いことだ。何故なら音緒は電車通学である。つまり僕は、音緒が電車で登校する前に学校に到着しておき、音緒が通るであろう場所に待機していれば良いのである。この時も、僕はこの高校に進学して良かったと痛感した。
電車の時間の都合で、彼女はいつも八時十五分頃に学校に来ている。だから、僕は余裕を持って八時五分あたりに学校に着いた。この時間に来る人はそう多くはない。部活の朝練習に参加している人がいるぐらいだろう。
自分の教室に荷物を置いてから、一応音緒の教室を覗いて、音緒がいないかどうか確認してみた。音緒の教室は僕の教室の隣なので、覗くのは簡単だった。この時間の教室は人がまばらで、せいぜい二、三人いる程度だった。想定通り、その中に音緒はいなかった。
まだ音緒が登校していないことを確かめると、僕は下駄箱に行き、そこで待機することにした。生徒は、教室に行くまでの間にどうあがいても下駄箱を通らなければならない。ここで待っていれば必ず音緒を見つけられるのである。
僕は待ちながら腕を組んだ。さて、音緒がここを通った時、僕は何と声をかければ良いだろうか。もちろん第一声は「音緒!」と名前を呼ばなければならないだろう。だが、ピーク時にはこの下駄箱に何十もの人が集まる。その状況の中で、声をかけるだけで充分と言えるだろうか。もしかしたら、大声を上げたとしても、音緒の耳には届かないかもしれない。そうなると、声だけでは無視される可能性がある。やはりここは、音緒を見つけたら、すぐに音緒の方に近づいて、僕に気付いてもらえるようにしなければならないだろう。もし音緒がボーっとしていて僕が見えていないようであれば、肩を叩くなどして僕に気付いてもらえるようにするか。どちらにしても、聴覚、視覚、触覚を動員すれば、僕に気付かないなんてことはないはずだ。
問題は次である。この後僕はどのように話を切り出せば良いだろうか。さすがに出会って二秒で「お前、浮気した?」なんて聞くのは酷だろう。ここはまず、遠回しに色々聞くのが得策だろう。本題に入る前に、「ちょっと話があるんだけど」などと切り出し、昨日の岸崎さんからのLINEの話題について触れた上で、例のトーク履歴を証拠として差し出し、これを以て別れ話に持ち込むべきだろう。
……いや、その前にこの場から離れた方が良い。一度に何十人も集まるような下駄箱で別れ話をしても落ち着かないだろうし、そもそも通行人の邪魔にもなる。ここは一旦、人通りの少ない別の場所に行った方が良いだろう。でも、その別の場所とはどこであるべきか? この時間、生徒も先生もせわしなく動き回っているから、人が来ない場所などないのではなかろうか。誰も来ないところとしてパッと思いついたのは便所の個室だが、これは性別の差という高い壁があり明らかに不可能である。他には体育館の裏とか校舎の裏とかなら人通りが少ないはずだが、そもそも外へ出るためには、人の流れに逆らってこの下駄箱近くを強行突破しなければならない。音緒にとっては、一度外から中に入ったのに、また外へ出るという非常に面倒な行動をしなければならない。音緒がそんなことをしてまで僕の話に付き合ってくれる保証はなかったので、できれば外よりも校舎内のどこかで話す方が良いと感じた。しかし、校舎内だと場所も限られてくる。廊下や階段は明らかに人が多いし、どちらかの教室に行くとしても、八時十五分を過ぎたらもう教室には人がたくさん集まっているに決まっている。それならば一体どこで話すのが適しているのだろうか?
そう迷っているうちに、八時十五分になっていた。その頃になると下駄箱近くの人通りが相当増え始め、ちゃんと観察しないと誰が通っているのか分からなくなってきた。僕は音緒の下駄箱がどこにあるのか、正確な位置を把握していなかったので、通る人全てを観察しなければならない。そのため、音緒と合流した後にどこに行けば良いかなど、考える暇すらなくなっていた。必死に目を動かしながら、自分の考えの甘さを後悔した。
だが、そろそろ来ても良いはずの時間だと思ってから、一向に音緒は来ない。一応通る生徒全員を確認しているため、見逃したなどということはないはずだ。それにも関わらず、僕の目は未だに音緒の姿を捉えられずにいた。
そのまましばらく観察し続けた。人通りのピークは八時十五分から二十五分ぐらいの間で、それを過ぎるとほとんど人が通らなくなる。二十五分を過ぎた頃にやってくるような人は、大抵いつも遅刻しかけているような奴ばかりである。
少し人の流れが弱まってきたのでスマホを出して時刻を確認する。八時二十七分。さすがにこれ以上待ち続けると、今度は僕が遅刻扱いにされてしまう。折角二十分も前に登校したというのに、これで遅刻だと言われてはたまったものではない。音緒のことは諦め、僕は教室に戻ることにした。
自分の席に座って、始業のチャイムが鳴ったり、担任の先生が連絡事項を言ったりするのを聞き流しながら、何故音緒が来なかったのかを考えた。もちろん普通に遅刻をしただけかもしれないし、ただ体調が悪いから休んでいるだけなのかもしれない。しかし、このタイミングで休むということは、何か察したのではなかろうか。つまり音緒は、僕が既に浮気の事実を知ったということを分かった上で、僕を避けるために休んだのかもしれないのだ。
それでも僕が下駄箱で音緒を見逃しただけという可能性がまだ残っていたので、昼休みになってから隣のクラスを覗いてみた。隣のクラスはつい最近席替えをしたらしく、どこに音緒の席があるのか分からない。そのため、片っ端から順番に見ていかないといけなかった。こうして一人ずつ見ていくと、窓側の席で弁当を食べている男子と目が合った。どこかで会ったような顔だと思い凝視してみると、一年の時にクラスメートだった男子だと分かった。彼とは出席番号が近く、掃除を一緒にやる機会が多かったので、それなりに親交はあった。その男子は僕を見て何かを察したようで、持っていたおにぎりを弁当箱にしまって立ち上がり、僕の方に近づいてきてくれた。
「どうした順大、誰をお探しだい?」
音緒は、と言おうとした口を、すんでのところで止めた。彼は一年の時のクラスメートだから、二年の時に付き合い始めた僕と音緒の関係を知らないはずである。そんな彼に、下の名前で言っても、すぐに反応できない可能性があった。ここは丁寧に、フルネームで言うことにした。
「筋田音緒さんっている?」
「ん? 筋田さん?」
予想通り怪訝な表情をされた。明らかに音緒と僕がどういう関係なのかを窺っている顔である。咄嗟に僕は「ちょっとうちのクラスの女子に、筋田さんがいるかどうかを確かめて来いって頼まれたから……」と返した。すると彼は、未だに合点がいかないような表情ながらも、「今日は来ていなさそうだよ。朝のホームルームで、休みの連絡が入っていないって、うちの先生が不機嫌そうに言っていた」と教えてくれた。そうと分かればもうこの教室に用はない。彼にお礼の言葉だけ言って、自分の教室に戻った。
何故僕は音緒と付き合っていることを彼に打ち明けなかったのだろう。自分でも咄嗟に言ったのでよく分からない。やはりもうすぐ音緒と別れようとしている身のくせに、胸を張って「僕の彼女です」とは言えなかったのだろうか。
だがそんなことはどうでも良い。僕は音緒が来ていないことよりも、休みの連絡が学校に届いていないことの方に引っかかった。
学校を休む時は、必ず始業時間までに学校に連絡をしなければいけない。この時、学校に連絡するのは生徒ではなく、必ず親がやらなければいけないのである。これは生徒のずる休みを防ぐために設けられたルールであると言われているが、このルールがあるため、欠席は親の同意を得ないとできなくなっているのである。
しかし、今日の音緒からはその連絡が入っていない。いや、音緒から、と言うよりも、音緒の親から、と言った方が正しいか。ただ音緒の親が連絡を忘れただけなら良い。だがそうでない可能性もある。つまり、音緒が親にすら無許可で欠席しているかもしれないのである。例えば、音緒が朝に家を出たものの、学校には行かず、別の場所に行っていれば、親も欠席を把握することができない。もしそうならば、音緒は一人で街の中をうろついているかもしれない。高校生の女子が長い時間一人でぶらぶらするなど、危険と隣合わせである。それはそれで心配である。
しかし、無断欠席の時、学校は普通ならその家庭に「今日、○○さんがまだ登校していないんですけど、どうされましたか?」みたいな連絡をするはずである。学校は音緒の家族と連絡をとれたのだろうか。そしてどんな返答を得たのだろうか。これも知りたかった。だが、恐らくこれを知っているのは隣の教室の担任だろう。僕はその人とは一度も話したことがない。当然僕と音緒の関係性も知らないはずである。そんな人に「筋田家と連絡はとれましたか?」などと聞けるわけがなかった。さっきの男子の時みたいに、怪訝な表情をされるに決まっている。じゃあ正直に「僕の彼女です」と言えば良いじゃないかと思うかもしれないが、相手は大人である。そんなことを言ったところで、素性もよく分からぬ隣のクラスの男子に、自分のクラスの女子のプライベートな情報を軽々しく漏らすとは思えなかった。特に最近は個人情報について厳しく言われている時代である。彼氏彼女の関係だとしても、教えてくれないということが充分あり得た。
だが、僕は音緒の安否を知りたかった。迷った末に、音緒に直接確認するのが手っ取り早いと結論付け、LINEを開いた。
「今日は学校に来ていないらしいね。何かあったの?」
「出た。あの女との『必要最小限のやり取り』のうちの一つであるか」
ここで氏家が口を挟んできた。
「いや、音緒がそう言っているだけで、僕はそんなことないと思うんだけどな」
そう言いながらも、僕は音緒とのLINEのトークを思い出す。確かに、毎日挨拶していたわけでもないし、デートに誘ったり待ち合わせをしたり頼みごとをしたりする時くらいにしかLINEを使っていなかったので、そういう意味では「必要最小限」だったのかもしれない。
「それならば見せてみろ。本当に必要最小限ではないのかどうか」
僕が過去を振り返っているのをよそに、氏家はまた命令口調になる。相変わらず、人にものを頼む態度ではない。
「嫌だよ。そんなプライベートなやり取り、お前のようなよそ者に見せたくないよ」
「そんな冷たいこと言わずに。な? それがしは単なる友人を超えた親しい仲ではないか」
そういう問題ではない。この男にはプライバシーという考え方がないのか。それに、氏家は何か勘違いをしているのかもしれないが、僕と氏家はただの友達であって、それ以上のつながりはない。
「見せないよ。別に説明する上で見せる必要もないだろ?」
「いや。それがしには気になっておることがある。お主とあの女の馴れ初めのことだ」
「ん、お前に言っていなかったっけ、その話」
「聞いたことないぞ。そもそもお主、それがしが尋ねるまで、付き合っておったことすら隠しておったではないか」
そんなこともあったような。確かに付き合いたての頃は恥ずかしかったので、たとえ友達であっても恋人ができたということを隠していた。だが、一連の出来事を説明するためには、馴れ初めのことも話す必要がありそうである。
「じゃあ話すか。僕と音緒の馴れ初めを」
***
音緒との最初のトーク履歴に残っていたのは、今から九か月前、僕たちがまだ二年生だった去年の七月のやり取りであった。
この年、僕は初めて音緒と同じクラスになった。だが、進級したばかりの頃はお互い何の接点もなく、関わることもほとんどなかった。四月にクラスで自己紹介会をやった時も、音緒がどんな自己紹介をしていたのか覚えていないから、音緒の初対面の印象も特にない。この頃の僕にとっての音緒は、四十人いるクラスメートのうちの一人でしかなかった。
しかし、一学期が終わり、夏休みが始まってから数日後、僕が宿題から逃げてスマホをいじっていたら、それまで一回も話したことのなかった音緒から突然LINEが来たのである。
「急に追加してごめんね!」「四賀君って確か図書委員だったよね?」「夏休み中に図書室に行きたいんだけど、いつ開いているかって分かったりするかな?」
彼女が言った通り、当時の僕は、仕事内容が楽に見えたからという理由で図書委員になっていた。実際に仕事をしてみると、一か月に一度くらいの頻度で昼休みや放課後に図書室のカウンターに座り、本の貸出や返却を担当するだけという、当初の予想通り非常に負担の少ない活動だったので、怠け者の僕にとっては非常にありがたい役職だった。しかし、図書委員であることがきっかけでクラスメートに友だち追加されるとは、誰が予想できただろうか。
とは言え、音緒がこう尋ねてきたのも無理はない。うちの高校の図書室は、確かに夏休みも開いてはいるのだが、その日程や時間がまちまちなのである。基本的にはカウンターで本の貸出や返却の当番をする図書委員の都合に合わせて図書室が開くので、ある時は一日中開いているし、ある時は三十分しか開いていないということもあるのだ《そうなるぐらいなら、いっそのことその日は図書室を開けなければ良いのに、と思ってしまう》。そして馬鹿げたことに、こうした複雑なスケジュールであるにも関わらず、図書室の先生はこの日程を一般の生徒には公表しようとしないのである。その理由は、「図書委員の中にも忙しい人がいるため、当番をする予定日に、急に都合が悪くなって来られなくなってしまうことがある。そうなった場合、夏休みなので他の生徒が登校する機会も少なく、当番の代理を立てることが困難である。もし代わりの当番が見つからなければ、その日は図書室を開けられなくなってしまう。この時、仮に開室する日時を一般の生徒に公表していたら、スケジュール表を見て『この日に行こう』と事前に決める子が現れる。しかし、その日がよりによって、当番が急に休んで図書室を開けられない日だったら、折角その日に来てくれた生徒を図書室に入れることができず可哀そうだから」ということらしいが、あまりに馬鹿馬鹿しい。もし図書委員が来られなくなったら、その旨を図書室の入り口に示して、一言すみませんでしたと謝れば済む話である。開室予定日に図書室が開いていなくて怒るような生徒など、聞いたことがない。と言うか、そもそも夏休みの予定が分からない生徒が、どうやって図書室に行けると思っているのか。「スケジュールが配られたものの、図書委員の都合で閉室になることで困る生徒」と、「そもそもスケジュールが配られず、開室日時が分からなくて困る生徒」、どちらが多いですかと問われれば、明らかに後者の方が多いはずである。図書室の先生はそんなことも考えられないのか。そして僕はいつもそんな頭の悪い先生の指図を受けているのである。どうしてこの僕があの馬鹿の言うことを聞かねばならんのだ。そう考えると、無性に腹が立ってきた。
しかし、これは図書室の先生が悪いのであって、音緒に非はない。図書室の先生に対する怒りを音緒に八つ当たりするわけにもいかないのである。そういうわけで、色んな感情を押し殺し、僕は音緒に開室日時を伝えた。とは言え、図書委員の僕にすら夏休みの図書室のスケジュールを伝えられていなかったので、このように言う外なかった。
「実は僕も細かいスケジュールは知らされていなくて、自分が当番をする日しか分からないんだけど、その日であれば確実に開いています」「もしこの日時で都合が悪かったらごめんなさい」「多分他の図書委員に聞けば、僕とは別の日時を教えてくれると思います」「一応僕も、友達で図書委員をやっている人に当番の日時を確認してみます」
こんなことを言っておきながら、実は図書委員の友達なんていなかった。もし音緒が、僕が当番の日に図書室に行けないと言ったら、「僕の友達が一向に既読してくれない」とか「あいつ大会があるらしくて、夏休みの当番全部できなくなったらしい」などと適当に誤魔化し、「悪いけど自分で日時を調べてほしい」と返すつもりだった。音緒に献身的になった今では考えられないほど雑な応対をしようとしていたのである。そもそも一学期には音緒とまともに話したこともなく、おまけに夏休みになって会うことすらなくなったことで、顔もすっかり忘れかけていた。そんな人に対して、いちいち細かくサポートするほど僕は優しくはなかった。
とは言え、そのような冷たい対応をすることが良くないというのは分かっていた。一度でもそんな態度をとってしまえば、ただでさえ僕のことをよく分かっている友人が少ないから、音緒が僕に対する誤った認識を広めて、「四賀は冷たい奴だ」などと後ろ指をさすようになるかもしれない。それはそれで面倒である。できればそのような展開には持ち込みたくなかった。
しかし、その心配は杞憂だった。これを打ってから三十分ほど経った時に音緒から返信が来た。
「あ、その日なら私も行けそうです!」「わざわざありがとう!」
僕は胸を撫で下ろした。これで恐れていた最悪の展開になる心配はなくなったのである。そして、それと同時に、僕が当番の時に来てくれる音緒に対して興味を持った。普通、夏休みの図書室に人が来ることは稀なのだが、そんな中わざわざ図書室に来ると言った音緒とは一体どんな人だろう、という気持ちが芽生えたのである。
それから数日経って、僕が図書室の当番を担当する日になった。指定された時間通りに図書室を開室し、カウンターで待機し始めたら、開室から五分ぐらい経った頃に、果たしてドアの開く音がした。顔を上げると、サラサラな髪を後ろで一つ結びにした音緒と目が合った。
「あ、四賀君!」先に声を上げたのは音緒だった。「この前はありがとう!」
いえいえ、と手を振り、僕は気になっていたことを聞いてみた。
「ところで、どうして今日は図書室へ?」
すると音緒は目を逸らし、若干声を落とした。
「ちょっとまあ、本を借りに……ね」
何故か不自然な反応を見せる音緒。気にはなったが、もう少し他のことも聞いてみたかったので、尋ねてみた。
「本がお好きなのですか?」
そうしたら、また音緒は言葉を濁した。
「んー、まあ読まないことはないけどね……」
さすがに僕は尋ねるのをやめることにした。何か事情がありそうである。これ以上詮索するのは良くないと判断した。それに、本を借りるのであれば、必ずカウンターの僕のところにその本を持ってきて、貸出の手続きをしなければならない。その時に彼女の借りる本を見れば、彼女の目的も分かるだろう。だから敢えてここで探る必要もないのだ。
「まあごゆっくりどうぞ。今日は後二時間ほど開けておくつもりなので」
そう僕が言うと、音緒は少しほっとしたような表情で「ありがとう、四賀君」と言って、足早に本棚の方へ向かっていった。やはりこれ以上探られるのを恐れていたのだろう。
その後、僕は持参した夏休みの数学の宿題を解きながら音緒が戻ってくるのを待った。この時の図書室には僕と音緒しかいなかったので、音緒が帰ろうとしたらすぐに分かるのである。そして二十分ほど経った頃、音緒がカウンターの僕のもとにやってきた。
「これ借りたいんだけど……」
相変わらずどこか躊躇った様子で僕に本を差し出した。僕はその本をなるべく見ないようにしながら受け取った。何の本を借りたのかは気にしていないよ、ということをアピールするためである。それでも手続きをする時にはどうしても本のタイトルを見なければならない。僕は平然とした態度でそのタイトルを見た。
『頼みごとを断れない人に贈る 断り方のコツ』
顔には出さなかったが、心の中では少し拍子抜けした。人に知られたくない本の類と言えば、もっとエロ系またはグロ系のものとかを想像していたのだが、そのあたりからは随分かけ離れている。むしろ健全すぎるとも言える本ではないか。何故これを人に見せたがらないのだろうか、僕には合点がいかなかった。
でも、僕が手続きしている間ずっと不安そうな顔で僕の顔色を窺っている音緒を見て、やはりそこに踏み込むべきではないのだろうと察した。そこで、手続きをしながら別の話題を切り出すことにした。
「そういえば、全然関係ないですけど、今年の夏休みの数学の宿題って多すぎると思いませんか?」
すると、それまで黙り込んでいた音緒が急に明るい顔になった。
「うん! 私も思っていたよ! あの先生ひどいよね!」
僕は少し安心して、その話題を続けることにした。
「あれって、一日一問ずつやっても多分終わらないですよね?マジで一生終わる気がしないです」
「やっぱりそうだよね! しかも一問一問がやたら難しいし、結局解けないもん!」
「よく数学の先生って、時間をかければ解ける的なことを言うけど、あれは無理ですよね」
「無理無理! だから私、多分答えを丸写しして提出しちゃうよ!」
「まあ、これだけ難しかったらしょうがないですよね」
「そうだよ! 私が答えを丸写しするのは、先生が解けない問題を出すのが悪いんだからね!」
そのように話しているうちに、手続きが完了した。僕は返却日時を言いながらその本を返した。その際に、本の表紙を下に向けるのを忘れなかった。
「ありがとう、四賀君! お話しできて楽しかったよ!」
「こちらこそ、来てくれてありがとうございました」
これが僕と音緒のファーストコンタクトであった。
「なるほどな。夏休みの図書室の運営に問題があったおかげで二人は巡り合ったと」
氏家は自分の左手にできたかさぶたをペリペリとめくりながら僕の話を聞いている。気味が悪いので、氏家の方を見ないようにしていた。
「そうだな。結局このシステムのおかげで音緒と会えたわけだから、あの先生には感謝しているよ」
「だが、今となっては奴に裏切られたわけだから、わざわざ二人を結びつけたその先生は、やはり無能であったな」
「そう言うなよ。少なくとも、こういう経験ができたのも、あの先生のおかげなんだから……」
僕は神社の前の坂道を颯爽と下っていく自転車を見ながら呟いた。図書室で出会った時の僕らの関係は、この自転車のように前途洋々だったんだろうな、と思いながら。
「おい順大。さっきからどこを見ておる?」
氏家が僕の顔を覗き込んできた。どうやら僕が意図的に氏家を見ないようにしていたことがバレたようである。
「ああ、すまんな。あの頃のことを思い出すと、何とも言えない気持ちになってな……」
とりあえず、変に食いつかれないよう適当に言い訳することにした。
「ふうん……まあ無理もあるまい。それがしも分かるぞ、昔の方が良かったとな」
何とか怒らせずに済んだようである。しかし、依然として氏家は右手の爪で左手の甲を引っかいている。あまり意識しないよう、話の続きをした方が良さそうだ。
「……まあ良い。続きを説明するぞ」
「うむ、よろしく頼む」
***
図書室で会った当時は、音緒とはそれっきりの関係になるんだろうなと思っていた。だが、次に話す機会はすぐにやってきた。
夏休みが終わり、二学期になってから三週間経った頃、クラスで席替えをすることになった。このクラスの席替えでは、目が悪くて前の方の席じゃないと見えない人に優先的に席を選ばせた後に、それ以外の人の席をくじ引きで決めていた。僕は別に特別目が悪いわけでもないので、くじ引きによって席を決められた。そしてここで隣の席になったのが、音緒だったのである。
僕は少し嬉しかった。というのも、一学期の席替えでは、それまで一度も話したことのない人ばかり隣の席になっていて、打ち解けるのに毎回時間がかかった。もちろん僕も打ち解ける気がなかったわけではない。むしろ僕の方から仲良くなろうと話題を振っていたくらいである。ずっと一緒にくっついているような友達がこのクラスにいない中で、少なくとも隣の人だけとは仲良くしておこうという魂胆からの行動であった。
しかし、僕が隣の人と仲良くなるために積極的に話しかけると、いつも失敗してばかりだった。これは僕の話題の選択が悪いことや、話が長持ちしないことが問題であったと思う。それ故、話し始めてから少し経つとお互いが沈黙状態となり、気まずい雰囲気になってしまうことがしばしばあったのである。とは言え、なんだかんだ言っても、何度も話しているうちに何とか親しくなることはできた。しかし時すでに遅し、打ち解けた頃には席替えの時期となり、折角仲良くなった隣の人と別れる、ということの繰り返しだった。
その点、音緒は既に夏休みの図書室で話したという経験がある。まだ打ち解けた、という段階まで行ったとは思わないが、それでもスタート位置が今までの隣の席の人たちと比べて遥かに進んでいるのである。これなら仲良くなるのもそう難しくはないだろう、ということを僕は期待したのである。別に、この時から音緒のことが好きだったわけではない。音緒のことが気になっていた、と言った方が適切だろう。そんな音緒は、早速僕の期待に応えてきた。
「四賀君ってさ、数学が得意だったりする?」
隣の席になった次の日、音緒が尋ねてきたのである。
「まあ得意ではないですが、授業には何とかついていけるレベルです」
こう答えた通り、僕は数学が決して得意ではなかった。それでもどうにかして苦手にならずに済ませていた。高校で初めて数学の授業を受けた時、そのテンポの速さについていけず、相当焦った経験があった。そこから、勉強する時はまず何よりも数学を優先させる、という方針を立てた。これにより、数学の復習に時間を多く割いて、授業についていけるように努力したのである。その結果、テストでは基本問題を確実に解き、応用問題で部分点をもらうことでうまく点数を稼いでいき、何とかして平均点に届く、というスタイルを確立させることに成功したのである。ただその代わり、数学に勉強時間を奪われた古典や英語の成績が低迷するというデメリットもあったが、それでも数学の方が赤点をとる人も多く、ついていけなくなったら危ない教科だと思っていたので、このような数学優先の勉強は今でも正しいと思っている。
「良かった! じゃあ、もし数学で分からないところがあった時、教えてくれませんか?」
突然の音緒からの頼みに困惑する。僕はさっき「得意ではない」と言ったはずなのに、どうしてそんな僕に頼むのだろう。
「いや、別に僕、数学そんなにできないですし、難しいことは教えられないかと……」
このように丁重に断ろうとした。それでも音緒は諦めない。
「でも、授業にはついていけるんでしょ? だったら大丈夫だよ! 私、応用問題よりも、基本問題の方を教えてほしいから」
「しかし……」
なおも渋る僕を見て、音緒が少し顔を赤らめ、僕に近寄って囁いてきた。
「実は私、赤点の常連なので……」
そう言って俯いて舌を出す音緒。こんな可愛い動作を見せられて、誰が断れようか。ここにおいて、僕は折れた。
「僕の教えられる範囲なら」
それから僕は、数学の授業がある度に、音緒に授業内容を教えることになった。特に当時の数学の先生は毎日のように宿題を出していたので、その宿題の答え合わせに毎回付き合わされたのである。しかし、僕はそれを面倒くさいとは思わなかった。むしろ嬉しかった。自分が人に必要とされている感覚が心地良かった。音緒に頼られることが僕の生きがいにすらなっていた。
それを繰り返しているうちに、僕は音緒に段々と恋心を抱いていた。最初は隣の席の人として音緒と仲良くなろうとしていたのに、いつの間にかその域を超えてしまった。そして、自分の人生には音緒が必要だと思い込み始めたのである。
ある時から音緒に数学を教えている僕の顔が熱くなっていることに気付いた。初めて音緒に数学を教えた頃にはそんなことはなかったのだが、音緒のことが好きだと自覚した途端、急に熱くなったのである。まずい、バレてはいけない、もし僕の恋心が音緒に知られてしまえば、音緒は僕がいやらしいことを考えているのだと勘違いして、もう二度と僕に数学を教えてくれと頼まなくなってしまうかもしれない。今や僕の生きがいであるこの時間を奪われるのだけは絶対に嫌だ。だから音緒には悟られないようにしなければならない、隠さなければならない。そう思って顔の熱を冷まそうと思って焦ると、余計に顔が熱く感じる。幸い音緒はいつも手元にある宿題の練習問題をひたすら眺めていたので、僕の顔を見て内心を悟るようなことはなかったが、毎回教え終わった後に手を洗いに行くと、そこにあった鏡に深紅に染まった僕の耳が映っていた。その度に音緒に悟られなかったか、と心配になるのであった。しかし、何度数学を教えていても、音緒は僕の気持ちに気付いていないのか、一向に態度を変えてこなかった。いつも通りに接してくれる音緒を見て、僕は安心した。
だが、僕の幸せな時間は一か月で終わる。また席替えが行われ、音緒と離れることになったからである。それと同時に僕が音緒に数学を教えることもなくなった。そして音緒は、新たに隣の席になった他の男子に数学を教えてもらうようになったのである。
この時の僕の嫉妬の激しさは筆舌に尽くしがたい。音緒に数学を教える立場とは、僕にとっては特別な立場であった。そして今まで僕がいたその特別な立場を、突如現れた他の男子にとられたのである。悔しくないわけがなかった。音緒が「数学を教えて」と頼む時に舌を出したあの動作を、僕以外の男子にもしたと思うと、夜も寝られなかった。数学を教える人など僕じゃなくても良かったのかと思うと、今までやってきたことが空しく感じた。だからと言って数学の話題に限らず音緒に声をかけようにも、数学を教えるという仕事がなくなってしまった以上、僕が音緒に話しかけるきっかけもないのである。用事もないのに話しかけられるほど僕は図々しくはない。こうしてこの席の間、僕は一度も音緒と話すことができなかった。それでも僕の恋心は薄まることなく、むしろ思いは募っていった。僕はしばらく悶々とした日々を過ごした。
だが、また一か月後に席替えが行われた。僕は音緒の近くになりたいと祈った。すると願いが通じたのか、今度は音緒の後ろの席になることができたのである。
僕は喜んだ。音緒の後ろなら、何かと話す機会もあるだろう。数学に限らず、授業中にグループワークで協力する可能性だってある。その時にまた音緒と話せるのだ。ここから失われた一か月を取り戻していこう、と。
しかし、喜んだのも束の間、僕は音緒の隣の席の人がこれまた別の男子であることに気付いた。どうせ音緒はいつものように、隣の人に数学を教えてほしいと頼むはずである。そして音緒は僕のすぐ目の前にいるのだから、音緒が隣の男子にお願いをする姿を、後ろの席の僕が目にする可能性が高い。つまり、あの舌を出す動作を、僕の眼前で他の男子にやるかもしれないのである。こんな屈辱的なことがあるだろうか。音緒に貢献したくてたまらない僕という人間が近くにいながら、それを無視して僕に拷問のような目に遭わせるなんて、あまりにもひどすぎる。僕は前よりもひどい状況に置かれることを察し、一気に喜びが吹っ飛んでいった。
しかし、結局僕がそのような屈辱を味わうことはなかった。音緒は隣の席の男子ではなく、後ろの席にいる僕に、また数学を教えてほしいと頼んできたのである。
意外な展開に驚きつつも、当然僕は了承した。しかし、音緒が隣の男子に頼むとばかり思っていた僕は、何故僕が数学を教えることを頼まれたのか分からなった。
「あの、どうしてまた僕に?」
僕は聞いてみた。すると、音緒は少し考えた素振りをし、そして答えた。
「私、色んな人に数学を教えてもらってきたんだけど、やっぱり四賀君が一番分かりやすいな、と思って」
これを聞いた時に僕が安堵したことは言うまでもないだろう。この瞬間、やっぱり音緒には僕が必要であるということがはっきりと分かった。ここにおいて、先程失せていた僕の喜びが再び舞い戻ってきた。人の心とは単純なものである。音緒にとって僕は意義のある人間なんだと思うと、無意識に鼻の穴が広がった。
こうして、また音緒に数学を教える日々が戻ってきた。最後に教えた時から時間は経っていたが、相変わらず音緒に頼られることが嬉しくて仕方がない。やはり僕にはこの日常が不可欠なのだ。僕の人生で、音緒に数学を教える時以上に僕が輝ける場面など他にあるだろうか。それほどまでに、僕にとって音緒の存在は大きなものとなっていた。
この頃から、音緒に告白することを真剣に考え始めた。やはり、このまま一クラスメートとして終わるにはあまりに勿体ない。数学を教えて、たまにちょっとだけ話すという間柄では満足できなかった。できれば恋人に、それが無理でもせめて友達になりたかった。とにかくもっと音緒と関わりたかったのである。
しかし、僕は今まで一度も告白したことがない。恋をしたことなら何度かあるのだが、その度に告白できないまま終わっていた。今回もそうである。思いが募るだけ募っておきながら、肝心な行動に移せない。僕が動けなかったのは、二つのことを恐れていたからである。
まず、告白をすることで、今の音緒との関係性すら消滅してしまうことを恐れた。僕が恋心を抱いていると急に知った音緒が、どんな反応を見せるのか分からなかった。最悪の場合、「そんな気持ちで私に近づいていたのね、いやらしい。もうあなたには数学は頼みません」などと言われてしまうことも考えられた。あの聖なる時間すら奪われるくらいなら、告白をせずに数学を教えるだけの日々に甘んじた方が良いという発想である。虎穴に入らずんば虎子を得ず、と言うが、僕はその虎に襲われるリスクを冒してまで音緒と付き合いたくはなかったのである。
そしてもう一つ、僕が告白したことを、他のクラスメートに知られるのも嫌だった。特に失敗した時の反応を恐れていた。もし僕が告白に失敗したら、クラスの男子連中からは「お前、筋田に振られただろ」などとずっと馬鹿にされ、女子には「音緒を狙っていたとかキモすぎ」などと蔑まれることにもなりかねない。そういう周囲の反応を想像するだけで、告白する勇気がなくなってしまうのである。それならば他人の見ていないところで告白すれば良いじゃないかとも思われるかもしれないが、他人が見ていなくても音緒自身が友達などに「この前四賀君に告られたー」などと漏らす可能性だってある。そうなれば、他人が見ていようが見ていまいが一緒のことである。特に音緒は、自分が数学で赤点だったことを平気で暴露するなどの言動から、かなりおしゃべりな子だと思っていたので、ふとした拍子に僕を振ったことを言ってしまいそうな気がしていた。
このようなリスクを恐れた故に、やはり告白するなら、相手が確実にオッケーをしてくれると確信してからじゃないとできなかった。少なくとも、音緒が付き合ってくれることになれば、今挙げた二つの恐れていることのうちの前者の心配はなくなるわけである。そして後者についても、他の人に見られないような場所で告白すれば、解決する話なのだ。だから、まずは音緒が僕を受け入れてくれそうか確認しなければなるまい。
しかし、そのような消極的な態度でいるから、いつまで経っても解決の糸口が見つからない。こうして何もできずに待っていたら、告白できないまま二学期が終わった。そして僕は、告白するか否かを考えるのは来年でも遅くはないと、結局この件を先送りにしようとしたわけである。
さて、そんな中迎えた冬休み最初の日はクリスマスイブだった。ここで僕の転機が訪れる。
この日、僕は友達に誘われて、商店街に行った。クリスマスに一人ぼっちな者、いわゆる「クリぼっち」同士で集まって楽しく過ごそうよ、ということである。
僕の行ったことのない場所だったので、迷子になっても良いように余裕を持って家を出発した。しかし、集合予定地が結構目立つところにあったので、僕はあっさりその場所を見つけ、予定よりも十五分も早く着いてしまった。そして友達に到着した旨を伝えると、その友達から「寝坊したので遅れる」と返信が来た。ということは、友達が来るまで恐らく後二十分とかそれ以上はかかるということである。さすがにその間ずっと待っているだけなのもつまらないので、少し歩いてみることにした。
来たことのない商店街だが、男女が並んで歩いている割合が多いことを考えると、ここは恐らくカップルに人気なのだろう。きっと、今日がクリスマスイブということもあって、パートナーにクリスマスプレゼントを買ったりして楽しんでいるのだろう。
その時、後ろから「四賀君?」という声が聞こえた。ん? こんなところに知り合いか? まさか、そんな偶然があるなんて、と思いながら振り向いた。目を疑った。そこにいたのは音緒だったのだ。
「やっぱりそうだ! あー良かった、知らない人に声かけたら恥ずかしかったからね」
何か返そうと思ったが、あまりに唐突な出会いに心臓が高鳴り、頭が真っ白で言葉が出てこなかった。
「え、今何してるの?」
音緒が尋ねてきた。普通なら、このくらいの問いなど容易く答えられるはずである。しかし、この時の僕の頭はパニックになっていた。音緒という人物一人を認識しただけで、それが引き金となって、僕の頭の中のありとあらゆる情報が溢れ出し、脳内が混乱状態に陥ったのである。答えられずにひたすらえっと、あの、その、と言う僕を、音緒は不思議そうに見ている。そんな音緒の表情を見ると、余計に僕の頭が混乱する。駄目だ、音緒を見てはいけない。僕は目を閉じた。そのまま深く息を吸い込み、そして吐いた。少し心が落ち着いたので目を開けた。音緒はもはや不思議さを通り越して滑稽さを感じているようで、口元を手で押さえながらニヤニヤしていた。この瞬間に悟った。音緒に僕の恋心を気付かれたと。
好きだと知られたらもう観念する外ない。もはや恋心を隠す必要はないのだ。そう思うと、急に楽になった。脳の思考回路が一瞬で元通りになった。
「友達を待っています」
あっさりと答えることができた。
「クリぼっち同士会おうって約束をしていて……」
「本当? 私と一緒じゃん!」
音緒が笑った。僕は二つの意味で驚いた。もちろん、音緒が僕と同じ目的で商店街に来ていたこともそうだが、それよりも僕は音緒が僕の恋心を悟った後でも、いつも通りの態度で僕に接してくることにびっくりしたのである。
「実は私も、アイちゃんとクリぼっちデートをするつもりなんだ」
「デート」という言葉に少しドキッとした。が、クリぼっちと言っているということは、音緒にはまだ彼氏がいないということだ。それが分かって、少し安心した。
「今ちょっと迷子になっちゃって」
そう言って音緒は照れ臭そうに笑う。学校で話す時と変わらない様子である。ということは、もしかして音緒は。
「おーい、音緒ー!」
突如僕の後ろから呼び声が聞こえた。音緒が体を傾けて僕の後ろを覗き、手を挙げた。
「あ、アイちゃんだ! やっほー」
僕も振り向いてみる。見たことのある女子がこっちに向かって走ってきていた。確かこの人は、いつも音緒と一緒に登下校している人だ。僕とは同じクラスになったことがなかったので今まで知らなかったのだが、この人はアイちゃんというのか。覚えておこう。
「ん、この人は?」
当然の質問をアイちゃんが投げかける。そりゃ、仲良しの女子の隣に知らない男がいたら、何者なのか気になるだろう。
「ああ、私のクラスメート」
音緒が言った。
「前に言ったでしょ、いつも数学を教えてくれる人がいるって。それがこの人」
当たり障りのない紹介。まあ今の関係性から言えば、音緒にとっての僕はそのくらいの人間だろう、と僕は納得する。
「あ、四賀です」
一応自己紹介すると、アイちゃんと呼ばれた女子は、ふーんと頷いて、「数学ができるって羨ましいな」と言った。
「いや、でもテストの成績はそんなに良くないですよ。平均点以上を保つのがギリギリですし」
と僕が補足すると、アイちゃんは呆れたような顔をした。
「分かっていないねえ。そもそも平均点をとるというのが難しいのよ。そうでしょ、音緒?」
「でもね、四賀君に教えてもらってから、点数がこれまでの二倍になったの! 赤点からも脱出することができたし、平均点にも少し近づけたんだよ!」
これは初耳だった。直近でテストがあったのは、音緒が近くにいない席の時、つまり僕が音緒に数学を教えていない時期だったので、こうした話題が音緒と話している時にタイムリーに出ることもなかった。しかも、再び音緒に数学を教えるようになってからも、僕はテストの成績の話にはあまり触れないようにしていたから、点数がどんなものか知らなかったのである。それにしても、点数が二倍になったという発言から、二倍になる前のテストの点数が如何に悪かったかということが想像できる。そこから僕が音緒を伸ばしてやったと考えると、自分が今までやっていたことがちゃんと結果につながっていたということが分かって誇らしくなった。
「音緒ってさ、確か一学期の頃にも誰かに数学を教えてもらったって言ってなかったっけ?」
アイちゃんが尋ねる。
「うん。まあ何人かに教えてもらっていたよ。その人たちは揃って、クラスの中でトップクラスに頭が良いって噂の人たちだったけど、みんなよく分からないことばかり説明していたから、全然話についていけなかったなあ」
するとアイちゃんは僕の方を向いてきた。
「君さ、さっき平均点レベルって言っていたよね? どうして君よりも頭の良い人たちの方が教えるのが下手になるわけ?」
いやいや、そんなこと僕に聞かれても分からない。それは僕より頭の良い連中に聞いてくれよ、と思っていると、横から音緒が口を出してきた。
「いや、あの人たちだって決して教え方が下手ってわけではないと思うんだよ。数学が分かる人にとっては分かりやすいんだろうけど、私のような馬鹿には理解が追い付かないだけで。その点、四賀君は決して数学ができる人ってわけじゃないんだろうけど、だからこそ数学が分からない人の気持ちが分かるんだと思うの。それで、他の頭が良い人たちよりも、理解しにくい部分を丁寧に解説してくれるから、こんな私でも理解できるんだろうなって」
なるほどと思った。確かに、僕は自分が分からなかったという経験があるからこそ、それを音緒にも丁寧に解説しようと思うのだ。ふとアイちゃんの方を見てみると、どうやら彼女もこの説明に納得したようであった。
「だからね、私はそんな四賀君に親しみが持てるし、尊敬もしているんだ。最初の時点で数学が分からないっていうところでは私と同じなんだけど、それを四賀君は自力で理解しようと頑張っているんだから。いつも人に頼っちゃう私とは大違いだよね」
親しみが持てて尊敬もしている。これ以上の褒め言葉があるだろうか。ここまで僕の心に刺さる言葉など、今まで聞いたことがなかった。自分に酔いそうになっていると、アイちゃんに肘で小突かれた。
「良かったじゃん、褒められちゃって。まあこれからも、音緒に数学を教えてあげてちょうだい」
「そう言うアイちゃんもさ、四賀君に教えてもらおうよ」
「別にあたしは誰かさんのように赤点はとったことないから良いのよ。さ、こんなところで油を売っていないで、デートに行くわよ! 今日は行きたいお店がたくさんあるから、とことん付き合ってもらうよ」
「うん、分かった! 行こう!」
アイちゃんに促されて、音緒は歩き始めた。二、三歩進んだところで、振り返って僕に挨拶した。
「あ、じゃあ四賀君ありがとうね! また会おう!」
そう言って音緒は笑顔で手を振った。その姿が、僕の脳裏から離れなくなった。この後僕も友達と一緒に商店街を巡ったが、その頭には常に音緒が映っていた。
さあ、いよいよ僕も我慢ならなくなってきた。あの人ともっと一緒に時を過ごしたい。あの人にずっと寄り添っていたい。何と言っても、音緒には彼氏がいない。そして僕は音緒に頼られている。絶好のチャンスだ。これを逃したら、他の男に音緒をとられるかもしれない。告白するなら今だ。
しかもこの邂逅で、音緒が僕のことを嫌いではないということが分かった。もし嫌いなら、こんなところで僕に声をかけたりしないはずである。僕に気付いて、なおかつ他人の空似であるというリスクをも冒して呼びかけてくれたということは、それだけ音緒は僕のことを良く思ってくれているということだ。それに、この時音緒は僕の恋心に気付いたはずである。しかし、それでも音緒は僕に対していつも通りに接してくれた。もし音緒が僕のことを嫌っていたら、僕の恋心に気付いた途端にドン引きし、態度が変わっていただろう。そうならなかったということは、僕に好かれることを良しとしている証拠、すなわち脈ありということだ。これならば、音緒は僕の気持ちを受け止めてくれると確信した。そして、ついに僕は音緒に告白する決意を固めた。
商店街で会ってから三日後、僕は音緒とのトーク画面を開いた。さて、どのように自分の気持ちを伝えるべきか。とりあえず僕の思ったことをそのまま文字に起こしてみよう。
「もしよろしければ、僕と付き合っていただけませんか?」
駄目だ駄目だ。いきなりこんな文章を送られたら、音緒だって困るだろう。もっとちゃんと書かねば。そう思い、今書いた文章を消し、新たな文章を打ち込む。
「実は、夏休みの図書室で初めて話した時以来気になっていたのですが、隣の席になって数学を教えているうちに、いつの間にかあなたのことが好きになっていました。そして、この前の商店街で出会って、やっぱりあなたしかいないと思いました。もしよろしければ、僕と付き合っていただけませんか?」
これも良くない。今度は長すぎる。こんな無駄に長い告白など送られても、音緒の心証を悪くするだけだろう。もうちょっとコンパクトにしなければ。ということで、また書き直す。
「あなたのことが好きです。もしよろしければ、僕と付き合っていただけませんか?」
うーん、確かにうまくまとまってはいるが、あまりにもベタすぎる。思ったことの十分の一も伝えられていない。駄目だ。と言うか、そもそもLINEで告白すること自体が間違っている。そんなやり方は王道から外れている。
しかし、だからと言って直接告白しようにも、音緒に会えないからできない。少なくとも、冬休みが終わってまた学校に行くようになるまで待たなければいけないのだ。もちろん三日前の商店街の時のように偶然街中で会うことはあるかもしれないが、そんな偶然が何度も起こるわけがない。確実に今告白するのなら、やはりLINEしかないのである。
何度も書き直した末に、結局このメッセージで落ち着いた。
「今日、ちょっと電話で話したいことがあるんだけど、時間ありますか?」
もちろん面と向かって告白するのがベストである。しかし、それが叶わない今、ただLINEでメッセージを送って告白するよりも、電話をして自分の口から気持ちを伝えた方がまだマシだろうという判断である。
送信ボタンを押した指が震える。これでもう後戻りはできない。今ならまだ送信取り消しができるが、ここで退いては一生音緒とは付き合えない。しばらく観察しようと思ったら、送ってからわずか十秒後に既読がついた。急に僕は焦り始めた。もし「どうして電話なの?」などと返されたら、どう答えれば良いだろう? 告白する決意は固めたはずなのに、ここに来て怖くなってきた。
そうこう考えているうちに、音緒から返信が来た。そこにはこう書かれてあった。
「今日はこれからちょっと部活で忙しくなるので、帰った後の二十一時からで良いかな?」
その日の夜のことは緊張しすぎて何も覚えていない。どういう話の流れで告白に至ったのか、そして告白の時にどのような雰囲気だったのか、一切記憶に残っていない。冗談抜きで、あの日のことを忘れてしまったのである。消えずに残っているのは、その日の二十一時ちょうどに僕が「電話しても良さそうですか?」と送り、そこから一分と経たず音緒から「大丈夫だよー」と返ってきた後に、「音声電話 十三分五十四秒」という記録だけが残ったトーク履歴と、その日を境に僕と音緒が付き合い始めたという事実だけだった。
「なんで忘れてしまうのだ。ここが一番面白いところなのに」
氏家は腕を組んでしかめっ面をした。
「すまん、本当に思い出せないんだよ。あの時は人生で一番緊張したんだから」
「全く、つまらぬな。それがしは告白経験がないから、お主のを参考にしようと思ったのに」
この発言は意外だった。日頃の行いを見る限り、氏家は女子に全く興味がなさそうだったから、そんなことを考えているとは思わなかったのである。それにしても、氏家のようなよく分からない男子に狙われている人がいると考えると、その狙われている人が若干可哀そうな気がした。
「へえ、お前も誰かのことが好きだったのか。ちなみに誰が好きなんだ?」
そう言うと、氏家は少し顔を赤らめ、一瞬だけ片目を閉じた。
「ケケケ、教えてほしいか? まあお主になら言わないことはない。だが、まずはお主の話を終わらせてからだ」
「ちっ、相変わらずケチな奴だな」
「ケチではなかろう。お主の話、ようやく彼女ができたところで止まっておるのだぞ。そこからの展開が気になるのは当たり前であろう」
こう言われてしまえば反論できない。氏家の恋愛事情も気になるが、まずは自分の話を処理することが先決である。
「それもそうか。じゃあ続きを教えよう」
***
さて、音緒が恋人になったとは言え、今までそのような経験がなかったので、何をすれば良いのか分からなかった。とりあえず、告白した次の朝に、早速LINEで「おはよう!」と送ってみた。朝の挨拶くらいした方が良いのかなと思ってのことだった。しかし、五分経ち、十分経ったが、返信が来ない。そのまま三十分、一時間と待ってみても、一向に既読にならない。さらに時は過ぎ、気付けば午後になり、おやつの時間になり、そう思っているうちに日も暮れてきた。だが、その間僕のスマホは一度も鳴らなかった。さすがに僕も心配になってきた。昨日話したことは全部夢だったのか? とソワソワし始めた頃に、ようやく返信が来た。既に夜になっていて、「おはよー《時差ボケ》」「ごめん、今日何も予定がなかったからずっと寝てた笑笑」と言われた。最終的に会話は成り立ったとは言え、それまでに何時間も未読スルー状態になっていたのである。恋人同士のLINEって、こんな感じなのだろうかと思い、若干の物足りなさを覚えた。
その後も何度か会話を試みた。一応恋人になったのだから、相応のやり取りをしたかった。しかし、どれだけ早くても三時間は経たないと返信が来ないという状況が続いた。告白の電話のお誘いをした時にはすぐに返信が来たので、決してスマホに反応できないわけではないはずだっただけに、この返信の遅さが何を意味しているのか分からなかった。そして大晦日の日も、特に何の話題が出ることもなく、お互いに「良いお年を」という形式的な挨拶を交わしただけでその年は終わった。
年が明けた。当然僕は「明けましておめでとうございます」と新年の挨拶を送った。すると、珍しく二、三分後に「今年もよろしくね!」と返事が来た。この勢いで、何か別の話題を振ってみようと考えていたら、直後に向こうから「ヤバい、このままだと数学の宿題終わらない笑笑」と送られてきた。そして立て続けに「分からないところ教えてほしい!」と頼まれた。僕は複雑な気分になった。確かにこうして音緒に頼られることは僕の望んでいたことである。でも、数学について頼られるのは、もはや今までの学校生活と同じなのだ。数学を教えることは、これまでやってきた通り、恋人でなくてもできることである。そうではなくて、僕はデートのような、恋人ならではのことをやってみたかった。数学を教えるだけなら、わざわざ恋人になる必要もないはずなのである。
その時、僕はある疑念が湧いてきた。もしかして、音緒は僕を数学で利用するためだけに僕と付き合っているのではなかろうか? 音緒にとっての僕は、まあまあ量の多い冬休みの数学の課題を終わらせるための道具に過ぎないのではなかろうか? そのような疑いが生じて、僕は数学を引き受けるのを断ろうかと迷った。もし音緒がそんな下心を持っていたら、もはや教えるのが馬鹿馬鹿しくなってくる。数学を教えてもらうためだけに僕と恋人になり、それが終わったらすぐにお払い箱、などという考えの者に、誰が数学を教えようと思うだろうか。
しかし、それでも僕は引き受けることにした。音緒はそんな人の心がない人間ではない。そう信じたからこそ僕は告白したのである。その信頼に懸けたのである。そして、その日から早速、僕の書いた数学の解答を写真に収めて音緒に送る日々が始まった。音緒が僕の書いたことを理解できなければ、その点を重点的に解説したメッセージを送る。その度に「ありがとう!」と返されたので嬉しかった。しかし、どう頑張っても結局今まで学校でやってきたことと同じようなことの繰り返しで、僕の抱いていた心配は拭いきれなかった。
そうこうしているうちに冬休みが終わった。僕がいつも通り登校すると、下駄箱で音緒を見つけた。最後に音緒に会ったのはクリスマスイブの日で、その時はまだ告白していなかったから、恋人になってからは初めて音緒と直接会うことになる。なおも音緒のことを少し疑っているとは言え、彼女を見つけたからには無視するわけにもいかないので、僕は「おはよう」と声をかけてみた。すると、音緒が振り返り、その途端笑顔になった。
「おはよう順大!」
ここで僕はどこか違和感を覚えた。その要因が、今まで「四賀君」呼びだったのが、急に「順大」呼びに変わったからだと気付くまでに大して時間はかからなかった。
「やっぱり今まで苗字で呼んでいたけど、これからは下の名前で呼ばないとね! だから、順大も私のこと、音緒って呼んでね!」
新年早々やたら音緒の声が大きかったので、周りの人々が僕たちの方を見てきた。
「ちょ、そんなに大きい声で言わないでよ、恥ずかしい……皆に見られてるってば」
「良いじゃん! だって、私たち付き合っているんだもん!」
それを近くで聞いていたうちのクラスの男子連中が「え、マジで?」「順大って付き合っていたのか?」などと騒ぎだし、あっという間に僕の周りを取り囲んできた。「なあ、今の本当か?」「え、お前が筋田さんと?」などと、まるで報道陣の問いかけのように次々と聞いてくる。これは厄介なことになった。まあまあ、と言葉を濁しながら僕は教室に急ぐ。嫌な予感がしながら行ってみると、果たして教室に入った瞬間、僕を囲んでいた男子連中の一人が「速報! 順大が筋田さんを射止めたぞ!」と言ったのを皮切りに、既に教室にいた男子からは「ヒューヒュー」の嵐、女子同士では小さい声で「あいつ付き合ったらしいよ」みたいな会話をしながら好奇の目でこちらを見てくる。恥ずかしいったらありゃしない。後ろからついてきた音緒を見ると、どうやら僕と同じことを思っているようで、真っ赤に染まった顔を手で覆い隠していた。その日は一日中、教室の中での目線が絶えなかったように思えた。
始業式が終わり、他のクラスメートが教室を出て行った後に、僕は音緒と二人きりで話した。
「あの……さっきはごめんね。私、初めて順大を下の名前で呼ぶことができたのが嬉しくて、それで興奮しちゃって……」
僕は「もう過ぎたことだし、もう気にしていないよ」と返した。
「私、順大には本当に感謝しているの。順大のおかげで宿題を終わらせることができたからね。答えを丸写しせずに提出できるのはこれが初めてなんだ。ありがとう、順大」
そう言われ、僕は今まで音緒に疑念を抱いていた自分を恥じた。何がお払い箱だ。今の音緒の言葉を聞いたか。こんな健気な子がそんなことを考えるわけがないだろう。やはり僕がしてきたことは正しかったのだ。
「なんか、一方的に私だけ頼みごとしちゃってごめんね。もし良かったら、私も順大の頼みごとを聞くよ」
この言葉から確信した。音緒は決して僕を利用するために付き合ったのではない。純粋に僕に好意を持っているから付き合っているのだと。そうでなければ、自分から相手の頼みを引き受けようとする姿勢など見せるわけがない。そうと来れば、僕も音緒の気持ちに応えなければなるまい。お言葉に甘えて、僕はこの時唯一抱いていた希望を言った。
「あの……今度デートに行かない?」
やっぱり恋人なんだからさ、と続けようとした僕を遮って、音緒は即答した。
「当たり前でしょ! 行こう行こう!」
僕は嬉しい以上に安心した。正直言って、返事を聞くまでまだどこかに音緒を疑っている自分がいたのだ。これでようやく本格的に恋人同士の関係を味わえるだろう。
「どこへ行く? 一応僕は行きたい場所があるんだけど」
「あ、私も行きたいところがあるの! じゃあさ、今からお互いがどこに行きたいかを紙に書いて、見せ合おうよ!」
僕はルーズリーフを取り出し、それを半分に破って片方を音緒に渡した。僕は、最初のデートの場所としてこれ以上に相応しいところはないだろうという場所を書いた。二人とも書き終わったら、「せーの」の掛け声に合わせて見せた。二人とも「商店街」と書いていた。顔を見合わせて笑った。
デート当日、僕たちは商店街で待ち合わせた。とは言え、この商店街に何があるのかあまり把握していなかったため、行く店はほとんど音緒に任せることにした。そんな音緒に連れられて、様々な店を見て回った。正直自分の興味のあるものはほとんどなかったが、だからと言ってつまらないかと言われればそうではない。元々デートとはそんなものだろうと思っていたし、何よりも音緒が楽しむ姿を見ているだけで充分満足だった。だから音緒に「ごめんね、私の見たいものばかりに付き合わせちゃって」と何度か謝られたが、その度に「気にしないで良いよ。僕もこうやって見て回るの楽しいから」と返していた。
一応僕も、美味しそうないちご大福が売っていたのでそれを買って食べてはいたが、折角の初めてのデートだし、何か形に残るようなものを買いたいと思っていた。そのことを音緒に話すと、「じゃあ、ここ行こうよ!」と指した。その先にあったのは、プリクラ専門店だった。
「順大と一緒に撮りたいと思っていたんだよ! それに、これなら形に残るでしょ?」
まあ確かに写真なら二人でデートしたことが分かりやすく残る。しかし、どうしてわざわざ自分の顔をデコレーションしなければならないのかよく分からなかった。まあプリクラは女性向けのものがほとんどだし、女性のことを分かっていない僕には理解できないものなのだろう。とは言え、僕と音緒がデートに行ったという事実が分かる記録が手に入る貴重な機会だし、何よりも音緒が行きたいと言うのだから、これはもう行くしかない。
もちろんプリクラの店に行くのは初めてである。その入り口に「男性のみで入店するのはご遠慮ください」と書いてあるぐらいだから、今まで女子と一緒に遊びに行ったことのない僕に縁がなかったことは容易に想像できるだろう。店内には何台ものプリクラがあったが、その中でも一番入り口に近いプリクラに入った。お金は全部音緒が払ってくれた。
手筈が分からずグダグダしながら入ったプリクラの中で、僕たちは色んな写真を撮った。普通にピースをして撮ったり、指でハートを作って撮ったり、人差し指を顎につけて撮ったり……と、その他よく分からないポーズをいくつもさせられた。撮った後には機械でその写真を自由に加工することもできる。この時に目を大きくしたり、唇を赤くしたり、背景にスタンプや文字を入れてデコレーションしたりするのだ。僕の本来の目的は、この写真を残して二人のデートの記録とすることだったが、キャッキャッと楽しそうに写真を加工している音緒を見て、記録に残すだけでなく、こうして今を楽しむことも大切であるということに気付かされた。それと同時に、それこそがプリクラの真の価値であって、記録を残す以上に大事なことなんだと実感した。
プリクラを後にした僕たちは、近くの公園で休憩することにした。ちょうど良い具合にベンチが置いてあり、二人並んで座った。公園のベンチと言えば、恋愛シチュエーションとしては最適の舞台である。僕はそのあたりをよく心得ていなかったため、ここで何かしらのアクションを起こすべきか迷った。さすがにデート一回目でキスとかハグとかに踏み込んで良いものか分からなかったので、とりあえず僕は音緒の手を握ってみた。
「あら、やけに積極的だね」
「まあ、恋人関係なんだから、これくらい普通だろう」
「それもそうだね」
しばらくの沈黙が流れる。何か話題を振るべきだろうか。それともこの雰囲気を楽しむべきだろうか。僕が逡巡していると、ふと音緒が僕に尋ねてきた。
「順大ってさ、私より前に彼女いた?」
急にどうしたんだろうと思いながら、僕は正直に答えた。
「いや。去年までの十七年間、僕に彼女がいたことはなかった。音緒が初めての彼女だね」
そうなんだ、と返す音緒。何かを考えている様子である。声をかけようかどうか迷っていると、突然こちらを向いて、両手を合わせてこう言った。
「お願い! 今から言うことだけは誰にも言わないで!」
唐突な頼みに僕は困惑した。音緒の意図が分からなかったので、僕は尋ね返した。
「僕は口が堅い方だと思っているけど、一体なんで?」
「順大と付き合うにあたって、言っておいた方が良いかなって思うことがあって……私の過去についてなんだけど」
確かに音緒の過去には興味がある。さらに、それを知ることで、音緒のことをもっと知ることができる。これを聞かない手はない。
「ねえ、約束してくれる?」
まあ言う相手もいないし、と思いながら、僕は承諾した。すると、音緒は語り始めた。
「実は私、高一の時に付き合っていた人がいるの」
ほう、と声が漏れた。音緒に元カレがいることは初耳だったので、思わず声に出てしまったのである。それに構わず、音緒は続ける。
「まあ、多分名前を言っても順大には分からないと思うから言わないけど、とにかくそいつがクズでね……」
音緒の口から「クズ」なんていう単語が出てきたことに驚いた。普段ほとんど暴言を吐かない音緒がそんなことを言うぐらいだから、余程クズなのだろう。
「そいつはとんでもなくエッチな奴で……まあ私とそういうことをやりたがっていたわけなのよ」
なるほどな、と納得した。それは確かに貞操観念のしっかりしていそうな音緒から見ればクズなのだろう。
「ちなみにどっちから告白したの? やっぱり元カレ?」
「当然よ。そもそも告白された時、あいつが誰なのか知らなかったし。クラスも違ったから」
これには少し引いた。音緒も音緒で、良くもまあ知らない人と付き合う気になったものである。普通なら知らない人に声をかけられただけでも疑うはずだと思うのだが……そう思っていると、音緒から補足が入った。
「そりゃもちろん、普段なら知らない人から告白されても断るよ。でも、その日は友達と喧嘩していて落ち込んでいて……あ、順大も会ったことがあるっけ、アイちゃんと」
「ああ、クリスマスイブの時に会った……」
「そうそう、その子。そのアイちゃんと喧嘩して落ち込んでいた時に近づいてきたのよ……あいつが」
確かに落ち込んで心が傷ついている時は、慰めてほしいと思うものである。でも、だからと言って、知らない人にまで慰めてほしいと思うものなのだろうか、と思いながら続きを聞く。
「最初見た時は良い人だと思ったよ。私のことを真剣に考えてくれていそうだったし、顔もそこそこイケメンだったし。それで、そのまま付き合うことになったんだけど……」
いやいや、その過程が僕には理解できないんだってば、と話を遮りたかったが、真剣な顔をしている音緒を見て、やっぱりそのことについては触れないでおこうと思った。
「でも、やっぱりこういうのには騙されちゃいけないってことがよく分かったよ。あいつの狙いは初めから私の体だったのよ」
まあ、登場の仕方からして胡散臭かったから、こうなるのも妥当だろう。いきなり近づいてくる奴が良い人だなんて、なかなかないことである。
「一応彼氏だからデートにはついていくんだけど、その度に、今日ならやれるか、いつならやれるかとしつこく問われたの。当然私は、今日は無理、今度も無理と断り続けたけどね」
そんな過去があったのかと驚く。それなら確かに、今の彼氏である僕に話した方が良いと思っても不思議ではないし、他の人には聞かれたくないと思うのも当然である。僕は話の続きを促す。
「……で、その元カレとは結局どうなったの?」
「やった」
やったんかい、と突っ込みそうになる口を押しとどめる。話の流れからして、逃げきれたのかと思ったのに。
「でも、一回だけだった。一回やっただけで、満足したのか飽きたのか分からないけど、もう別れようと向こうから言ってきた。結果的に別れて正解だったけど、こういうところもクズなのよね。結局私はあいつにとってはただの道具だったのよ」
そう言って音緒は俯いた。今まで僕が抱いていたイメージから大きくかけ離れた音緒が、そこにいた。それ以前は、茶目っ気たっぷりで、根は真面目なとても良い子だけど、少しおっちょこちょいで天然なのかなと思っていた。失礼ながら、人生経験もあまりないだろうと勝手に思い込んでいた。しかしそうではなかった。音緒はこんなにショッキングな出来事を経験して、その上で明るく振る舞っているのだ。何という強い人だろう。今まで思い描いていた音緒の像とはだいぶかけ離れている。それはすなわち、理想と違う現実と言えた。しかし、その現実の音緒は、理想の音緒よりも輝いていたのである。こんな素晴らしい人を手放したくない。
「……音緒」
音緒は顔を上げた。目には涙がたまっていた。今度は、僕が思いを伝える番だ。
「よく、こんなに辛い過去を打ち明けてくれた。ありがとう」
音緒だって、こんなことを僕に話すのは躊躇ったはずだ。場合によっては、「思っていたのと違う!」などと僕に言われて別れ話に発展するなどということも考えられたはずだ。そのようなリスクを冒してまで、こうして打ち明けてくれたのは、それだけ僕を信頼していたということの表れと言って良い。僕はそのことが純粋に嬉しかった。
「僕はお前のことを道具などとは全く思っていない。お前は僕の人生の一部だ。お前は僕にとって、なくてはならない人なんだ。だから……」
ここで言葉に詰まる。言いたいことが溢れ出て、何から言えば良いか分からなくなってきた。
「……僕は、その元カレとは違う。僕は、音緒が近くにいてくれるだけで幸せだ。でも、僕だけが幸せなのは駄目だ。音緒も幸せにならないといけない。僕は、音緒を幸せにする。絶対に」
何だかうまくまとまってしまったが、僕は内心不満だった。まだ言いたいことの半分も言えていない。もうちょっと今思っていることを伝えきりたかった。言葉で伝えることの難しさを痛感する。
「順大……」
音緒は袖で涙を拭き、いくらか安堵したような表情で口を開いた。
「……私も、順大と一緒にいるだけで幸せです。だから、私を幸せにしたければ」
そう言って、握っていた僕の手を、一層強く握りしめた。
「……これからも、私のそばにいてね」
こんなことを言われて、否定できる馬鹿がいるだろうか。言われるまでもなく、僕は音緒のずっとそばにいたかった。その手を放したくなかった。僕はもう、完全に音緒を信頼しきっていた。この時から音緒は、僕の中では完全に不動の彼女になった。もはや「お払い箱か」などという疑念など、抱かなくなっていた。この時は、これぞ恋人の絆が深まった日だと思っていたのである。
その後は何度もデートを重ねた。いや、行き過ぎというくらいデートに誘われた。初デートの時こそ僕から誘ったが、二回目以降はほとんど音緒からの発案だった。しかし、その頻度は過剰で、春休みなど二日連続でデートに行ったことが三回あったほどである。僕は一秒でも長く音緒と一緒にいたかったから、頻繁に音緒に会えて嬉しかったのだが、デートのせいで勉強時間が削られ、この後三年生になってからいきなり授業についていけなくなったという負の側面もあった。それでも、僕たちはその間、徐々に絆を深め合った。喫茶店に行ったり、動物園に行ったり、映画館にも行った。途中からお互いお小遣いが尽き、ただ公園で話すだけという日もあった。それでも、初デートから二か月は、僕はまさに人生を謳歌していた。好きな人とずっと一緒にいることができて、僕はもう大満足だった。
しかし、三年生になり、クラスが別々になった後は、何故かしらデートのお誘いがぷつりと途絶えた。同時に会話もやや停滞気味になっていった。お互い受験生ということもあり、連絡をとるのが遠慮がちになってしまったのだろうと思い、こればかりは仕方ないと割り切ることにした。
それでも、僕が音緒の浮気を知る前の最後のトークでは、次の日曜日にデートをする約束をしていた。このデートは僕から誘ったものだが、音緒から返信が来る前は「もう受験生なんだから駄目」などと言われたりしないだろうかと思っていた。だが、僕の心配とは裏腹に、音緒はいつも通り快く賛成してくれた。若干音緒との間に疎外感を感じていた時のやり取りだっただけに、こうしていつも通りの返事をもらえたことに安堵していた。そして、この一週間が終わったら音緒とのデートが待っているんだと思うと、自然にやる気が出ていた。今僕が生きているのは、音緒とのデートのためだと言っても過言ではなかった。
ここまで話して、現実に戻る。先程まで日があたっていた僕らのいる場所も、既に日陰になっていた。
「で、デートの日を楽しみに待っておったら、浮気の事実を叩きつけられて、現在に至るわけであるか」
「その通り。あんまりだ、こんな仕打ち」
「確かにな。もしそれがしがこんな目に遭ったら、発狂するかもしれぬ。よく正気を保てたものだ」
「いや、発狂していた方が良かったかもしれない。狂いまくって全部発散しておけば、こんなにモヤモヤせずに済んでいた」
「まあそれもそうか」
もう氏家はかさぶたをめくるのをやめている。めくれるだけのかさぶたがなくなったのである。
「……待て。モヤモヤと言えば、それがしもまだ聞いておらぬことがある」
氏家がかさぶたの剥がれた左手で僕を指した。
「ん? 何か気になることがあるのか?」
「うむ。ほら、お主が最初の方に浮気相手同士のトーク履歴を見た時『違和感が残った』とか言っておった奴だ」
そういえば言っていなかった。後で説明しようとして、すっかり忘れていた。
「ああ、あれか。まあ読んでいる当時は気付かなかったが、音緒からの返信を待っている間に、その正体が分かったんだ」
「ほう、それは一体?」
これに気付いた時、僕は意味が分からなくなってモヤモヤした。折角話を聞いてもらっているのだから、氏家にもモヤモヤしてもらおう。
「それは、どうして音緒の《・》トーク履歴なのか、ということだ」
「……ん? どういうことだ?」
氏家が首を傾げた。まあ予想通りの反応だ。僕だって時間をかけてようやく気付いたんだから。僕は説明を続ける。
「だって、このトーク履歴は岸崎さんが手に入れたものだろ?」
「うむ、そうであるな」
「でも、岸崎さんが音緒からトーク履歴を流出させるって、おかしくないか?」
まさに僕が気になったのはそこである。考えてみれば、岸崎さんが音緒のトーク履歴を持っていたことは不自然だったのである。だが、氏家はまだピンとこない様子で、「……すまん、もう少し詳しく説明してくれぬか」と尋ねてきた。
「そうだな……例えば、もし岸崎さんが僕に送ってきたのが武夫の《・》トーク履歴だったら、まだ分かると思わないか? だって、あの二人は付き合っていたんだから、岸崎さんが武夫のスマホを勝手にいじることができてもおかしくない。そこでたまたま浮気の証拠となるトーク履歴を発見すれば、それをスクリーンショットに収めることができる」
「まあ確かにそうだ」
「しかし、岸崎さんが実際に入手したのは音緒のトーク履歴だった。だがここで一つ思い出してほしい。岸崎さんは音緒と面識がないと僕に明かしているんだ。ということは、下手をすると岸崎さんは音緒の顔すら知らない可能性もある。そんな顔もよく分からない音緒から、岸崎さんはどうやってトーク履歴を入手できたんだと思う?」
「……あ」
どうやら氏家も気付いたようである。三度ほど瞬いて、僕の顔を見つめた。そしてまた首を傾げた。
「なるほど……理解した。確かに言われてみればおかしいな」
「そう、これが違和感の正体だったんだ」
うーん、と唸り始める氏家を見て、僕は少し満足した。自分が悩み苦しんだ問題で他人が考え込むのを見ると、まるで自分が仕掛けた罠に獲物が狙い通りにはまったようで気持ち良かった。
「……駄目だ。考えても分からぬ。答えを教えてくれぬか。と言うかそもそも答えは分かっておるのか」
「ああ、分かっている。あの後音緒と電話して解決したんだ。それを教えてやろう」
***
返事が来ないまま週末を迎えた。その間音緒は登校していない。毎朝下駄箱で確認していたが、音緒を見かけることは一度もなかった。時々LINEのトークを見ても、一向に既読にはならなかった。そろそろLINE以外の方法で連絡をとらなければならないかもしれない、と思っていた矢先に、突然音緒からメッセージが送られてきた。
「返信遅れてごめんなさい! これまでの事情を説明したいから、電話しても良いですか?」
まず、音緒が無事であることを知り、とりあえず安堵した。浮気をしている、していないに関わらず、何日も連絡がとれない音緒のことを心配していたのである。
しかし、それと同時にこのメッセージはまた僕を悩ませることになった。音緒の意図が全く読めないのである。僕に浮気の事実を知られていると分かっていて開き直っているのか、それともそうとは知らずに本当にここ数日休んだことについての理由を語るつもりなのか、どちらもあり得たのである。音緒が何をしたいのか分からなかった。
でも答えは一つである。話をしないことには始まらないのだ。僕は何事もなかったかのように承諾した。
指定された時刻の五分前に「こっちは準備できているので、いつでも電話かけてきて良いよ」と送った。その二分後に既読がつき、「かけます」とメッセージがあった後、電話がかかってきた。すぐにチェックボタンを押して応答する。
「もしもし?」
なるべくいつもと変わらない口調を出そうとした。
「あ……順大。えっと、今までLINE読めなくてごめんね」
「いえいえ」早速本題に踏み込むことにした。「それで、今日はどんな話を?」
「えっと……何から話したら良いんだろう」
一応この電話の名目は、音緒がここ数日間登校できていなかった事情を説明することである。別にLINEで話しても良いだろうが、長くなりすぎて「岸崎メッセージ」のようになるのも良くないということで、わざわざ電話しているのである。つまり今からの話は長くなる可能性が高いのである。何から話そうか迷ってもおかしくはない。
「あの……突然こんなことを言うのはアレなんだけど」
しばしの沈黙の後、音緒が意を決したように口を開いた。
「順大には、私よりも良い人がいると思うから、その、つまり……」
……あれ? この流れってもしかして……と思っていたら、予想通りの展開になった。
「……私たち、別れましょう」
お前が言うセリフじゃねえよ、と思わず言いそうになった口を押しとどめる。浮気していた方から別れを告げるのは筋が違うだろう。とは思ったが、とりあえず黙っておくことにした。
どうも音緒は浮気の事実をまだ僕に知られていないと思い込んでいるらしい。それならば、こちらも知らないふりをしながら話を聞いた方が有利なのではないだろうか。そう考え、僕は何も知らないという体で話を聞き出すことにした。
「ほう、これまたどうして?」
とりあえず、当たり障りのない質問をしてみた。しかし、思いもよらない返答をされた。
「……驚かないの?」
しまった。言われてみれば、確かにここは普通なら驚く場面である。仮にも今まで仲良くやってきたのに、突然別れを切り出されて驚かない方がおかしい。僕は反応が薄い人間だとは思っているが、だとしてもこの状況でその受け答えは不自然だった。まずい、これで簡単にバレては聞きたいことも聞けなくなる。咄嗟に言った。
「いや、状況が呑み込めていないから驚くことすらできない」
我ながら何とも微妙な返事だ。だが、もう後戻りはできない。これで押し通すしかないのだ。
「まあ、それもそうよね」
何とかバレずに済んだようである。やはり芝居は難しい。しかし、さっきから妙に音緒の態度が上から目線に思えて段々腹が立ってきた。あんなことをしたくせに、よくそんな偉そうに話せるものだ。ふと気付いたら、いつの間にか貧乏揺すりをしていた。そうでもしなければこの怒りは発散できないのだ。電話なので当然相手に見られることはないが、このことは自分の感情を隠す上では好都合だった。なるべく怒りの感情を押し殺して、僕は尋ねる。
「とりあえず、こうなった経緯を詳しく教えて」
「もちろん。理由だけは言わなくちゃね」
僕が音緒と話したかったのは、どうして音緒が浮気をしたのか、そこまでの事情を知りたかったからである。さあ、いよいよその謎が解けるぞ、と思って僕はワクワクしてきた。
「実は私、県外の大学を志望することにしたの」
予想外の話の切り出し方に驚く。ん? 何の話だ? と思っていると、さらに続く。
「その大学の研究室がすごいから、私、そこを受けたいの。でも、ここから結構離れているし、下宿することになるから、私たちは離ればなれになると思うの」
音緒の言いたいことが分かった。こいつは嘘を吐こうとしているのだ。適当な理由を言って誤魔化し、浮気の事実を隠蔽したまま僕と別れるつもりなのだろう。第一、今は三年生の四月である。こんな時期に「大学が離ればなれになるから別れよう」なんて普通はあり得ない。
「まあ離れても遠距離恋愛という形もあるのかもしれないけど、やっぱりたまにしか会えなくなるし、お互いにとって良くないと思うの。だから……別れましょう」
とりあえず音緒の話が終わったみたいなので、僕は口を開いた。
「……本当は?」
「え?」
「え、じゃねえよ。誰がそんな嘘を信じると思ったんだよ。本当の理由を言ってほしい」
若干言葉が汚くなったな、と思った。自分としてはなるべく穏やかに言ったつもりなのだが、どうしても本心が言葉尻に表れてくるようである。あまり怒りを前面に出すと、聞きたかったことを聞けずに終わってしまうかもしれない。折角こうして話せているのだから、聞き出すべきことはちゃんと教えてもらわなければ。
「……うん、さすが順大だね。今のは嘘です。これから本当のことを言います」
これを聞いて少しほっとした。もしここで音緒が頑なにこの嘘を貫き続けてしまっていたら、話が一生続かないところであった。さて、今度こそ話を聞かせてもらおうではないか。
「実は、親に順大と付き合っていることを話したの」
……嫌な予感がした。
「そうしたら、うちのお父さんに『お前に恋愛はまだ早い!』って怒られちゃったの。どんなに順大が良い人かを教えてあげても一向に聞く耳を持ってくれなくて。それで……」
何が「恋愛はまだ早い!」だ。高校生にもなってそんなことを言う親がいるとは思えない。もうこれも嘘である。
「良い加減にしてくれ」
さすがの僕も、これ以上はくだらない嘘を聞けなかった。
「いつまで白を切るつもりだ。それで僕を騙せるとでも思ったのか。早く真実を言え」
さっきよりも言葉が荒っぽくなったことに気付く。もっと穏やかに言うべきなのだろうが、自分でも制御できなくなってきていた。それほどまでに、この時の僕はイライラしていた。貧乏揺すりもさっきよりも激しくなっていた。
「ごめんなさい、もう嘘は言いません」
謝れば良いってものでもないだろう。本当に反省する気持ちがあるのなら態度で示せ。ちゃんと本当のことを話すのだ。
「実は、私の家に泥棒が入って……」
机をぶっ叩いた。この女、二度のみならず、三度も嘘を吐こうとしている。
「おい」
僕のどこからそんな音が出たのかというくらいのドスの効いた声が出た。僕は完全にブチ切れていた。
「な、何よ急に、びっくりするじゃない」
スマホ越しの声が震えていた。どうやら怯んでいるようだ。だがそんなことは知ったことではない。僕はもう我慢できなかった。
「僕はな、知っているんだよ。お前が武夫と浮気していたことくらい」
「え?」
何がえ? じゃボケ。知らないとでも思っていたのか。
「もしかして……全部気付いていた?」
音緒が、さっきの饒舌から打って変わって弱々しい声で尋ねる。
「お前が休み始める前の日の夜に知った」
もう隠す必要もないので、情報の出どころも教えてやることにした。
「岸崎さんが……武夫の彼女さんが教えてくれた」
「そう、だったの……」
今まで浮気をしていたくせに、こういうところは考えが甘い。それだけ音緒は僕のことを、浮気に気付かない程度の馬鹿だと思っていたのだろう。そう考えると余計に腹が立ってくる。そこに追い打ちをかけるように、音緒のため息が聞こえた。
「まあそういうことです。もう私には、あなたと付き合う資格はありません」
うるせえ、馬鹿。何を開き直っているのだ。良いようにまとめるんじゃない。
怒りが沸々と湧き上がるのを感じるが、ここは我慢だ。こうなった経緯を聞き出さなければならない。ぐっと奥歯をかみしめて怒りを抑え、なるべく冷静になってから尋ねる。
「別れる前に教えてほしい……どうしてこんなことになったのか」
「……バレてしまったら隠す必要もありません。あなたには全てお教えします」
そして音緒は自分の過去を語り始めた。
「あの女、今までの言動からは考えられない態度であったな。今までのお主の話では、もっと良い奴に聞こえたのだが」
氏家が鳥居にもたれかかりながら言う。相変わらず僕の体を目に焼き付けるように僕を凝視しているのが不快だったが、音緒から受けた仕打ちによる不愉快さに比べれば大したものではなかった。話が長くなっているものの、ちゃんとついていけているのだから、そんな細かいところに対して文句を言うべきではないだろう。
「お前もそう思うか。全く、分からないよ。何があいつをそうさせてしまったのか」
デートしていた頃の音緒からは考えられない豹変ぶりに、語っている僕も意味が分からなくなる。一人の人間とは思えないほどの言動の差である。音緒が多重人格者だと言われても、僕は信じてしまうだろう。
「電話したのに分からなかったのか」
「分からない……というより、理解できない、と言った方が正しいかもな」
「まあ、人の考えを理解しようとする方が愚かだ。理解する必要もなかろう」
「そんなものなのかな」
氏家の言う通りなのかもしれない。テレパシーでもない限り人の考えなんて分かるわけがないんだから、理解しようとすること自体が間違いだったりするのかもしれない。こいつも時々核心を突いたことを言うものである。
「で、ここからあの女の過去編が始まるわけであるか」
「ああ。僕の知りたかった経緯が分かったんだ」
***
音緒は中学校の頃から数学が苦手だった。当然高校に入ってからも苦手意識が消えるわけがなく、むしろどんどん授業についていけなくなって、高校最初の定期テストでいきなり赤点をとった。これはまずいということで、音緒は高校の近くにある塾に通うことになった。そして、ここで音緒は武夫と出会ったのである。
とは言え、当然最初から仲が良かったわけではない。音緒が入った頃には既に武夫もいたらしいが、最初はせいぜい廊下ですれ違う時にお互いの存在を認識していた程度だったそうだ。そもそもその塾には数学の先生が三人いたが、武夫を教えていた先生と音緒を教えていた先生は別々だった。そのため、二人が特別に話す機会もなく、仲良くなるきっかけもなかったのであった。それでも音緒は、教室の前で武夫が友達とペラペラ話しているところを聞いていたことがあり、その時によく友達に「彼女がいる」という自慢をしていたらしい。その彼女とは間違いなく岸崎さんのことだろう。実際、これは「中学校時代から付き合っていた」という岸崎さんの証言とも合うので、さすがに嘘ではなさそうである。
さて、音緒にとって転機となったのはこの年の十月のことである。四月から始まる年度の折り返し地点にして、上半期と下半期の境目ということで、この時期は何かと会社での人事が変わったりする。そしてこの塾でもそのような配置変換が起こり、それまで音緒を担当していた先生が別の校舎に異動になった。だからと言って音緒まで校舎が変わるということはなく、音緒は同じ校舎の別の先生が担当することになった。そしてそのクラスにいたのが武夫だったのである。
同じクラスになったその日に、音緒は早速武夫に、
「もしかして、緑村高校の人ですか?」
と尋ねられた。
「はい。一年一組の筋田音緒と言います」
音緒は武夫を高校で見かけたことがあったので、特に怪しいとも思わず普通に答えた。
「俺は一年四組の堂川武夫です。まあよろしく」
ここまでは当たり障りのない会話である。男女という性別の違いこそあるが、塾で同じクラスになった者同士、なおかつ高校までもが一緒なのだから、これくらいの挨拶は普通だろう。そう思っていると、武夫がいきなり攻めてきた。
「早速ですがLINEを交換しませんか?」
「え?」
この一言に、さすがの音緒も警戒心を抱いた。初めて話してから三十秒も経っていないのに、連絡先を交換しようとされれば、裏があるのではと疑ってしまうのも当然である。
「ちょっと誤解を招くような言い方でしたね、ごめんなさい」
音緒の怪訝な表情を見た武夫は、説明を付け加え始めた。
「実は、この塾にはうちの高校の人が結構いまして、皆で集まってLINEグループを作っているんです。まあ、塾の課題の解き方を教え合ったり、高校のテストの過去問を共有したりと、何かと便利なんですよ。もしよろしければ、俺を友だち追加してくれれば、そのグループに招待します、という意味でお誘いさせていただきました。言葉足らずですみませんでした。いかがでしょう、グループに入りませんか?」
なるほど、そういうことなら良いだろう。テストの過去問が手に入るところは貴重である。僕でもそのグループに入るだろう。数学のできなかった音緒も、当然のように加入した。ここにおいて、二人はLINEを交換したのである。
とは言え、その時の二人は出会いたてであり、特に話すことはない。しばらくLINEでのトークのない日々が続いた。塾で直接会ったとしても、本当に用事がある時にしか話すことがなく、話した時もお互い敬語だったため、この頃はまだ事務的な付き合いに過ぎなかった。その背景に、当時武夫が岸崎さんと付き合っていたのはもちろん、音緒も嫌々ながら例の元カレと付き合っていたわけだから、それぞれが相手を持っていたということで、お互い軽々しく異性に話しかけづらいということもあったのだろう。
しかし、初めて話した時から半年経った一年生の春休みに、二人は急接近することになる。わずか二週間程度の春休みの間に、音緒は武夫と三度も電話をしたのである。
最初に電話したのは、春休み初日のことである。まず、武夫の方から、「二年生になってからの塾についてちょっと話したいことがあるから、今日明日あたり電話できない?」とメッセージが送られてきた。これを受けた音緒は、何を話すことがあるのだろうと疑問に思ったが、塾のことなら重要なことだろうと思い、その日のうちに電話に応じることにした。すると、どうやら今度の四月からまた先生の人事異動があるらしくて、現在音緒たちを担当している先生がいなくなり、二年生から別の先生に変わるということらしいので、今までお世話になった先生へ、お礼に何か渡したいとの旨だった。この話を聞く前の音緒は、武夫が他意あって自分に電話してきたのかもしれないと疑っていたため、電話の目的が至極まっとうだったことに安堵した。そして音緒は先生へのプレゼントに賛同し、何をあげるかを考えることになった。武夫によれば、一応他の人からは花束とか色紙などをあげることが候補として挙がっていたが、その他にもアイデアがあったら教えてほしいと言われた。しかし、プレゼントの案など急に思い浮かぶわけがなく、いつまで経ってもお互いに「何が良いんだろうね」と言い合うことしかできなかった。結局いつの間にか話が脱線し、最終的にはただの雑談になっていた。これでは埒が明かないので、また日を改めて電話し、その時に考えようということになって、この電話は終わった。
するとその三日後、再び武夫から「結局何も思いついていないけど、話したら何か良いアイデアが思い浮かぶかもしれないし、とりあえず電話しよう」とお誘いがあった。この時音緒も部活で忙しく、プレゼントのことをろくに考えていなかったので、何のアイデアも持っていなかった。何も案がない者同士が話しても意味ないだろうと思いながらも音緒は電話に出た。すると、音緒が思った通り、この日も大した案は出てこず、結局前回と同じように雑談が始まった。雑談と言っても、基本的には武夫が一方的に話すのを音緒が聞き続けるというもので、とりとめのない話題に終始したが、冗談好きの武夫の冗談をずっと聞かされる羽目になった。武夫の冗談も、半分は素直に面白かったものの、もう半分は何が面白いのか分からず、あまり笑えなかった。それでも武夫は自分の冗談は誰よりも面白いと本気で思い込んでいるらしいので、音緒もその場の雰囲気に流されて、電話越しに笑っているふりだけしておいた。しかし、音緒が愛想笑いをしているだけということが電話越しに武夫にバレたのか、武夫に「あれ?俺の話、もう飽きた?」と尋ねられた。さすがにここで「はい、そうです」などとは言えず、音緒は咄嗟に否定した。ちょうど春休みの少し前に、音緒は例の「クズ」の元カレと別れた頃でもあったので、「ただ、男と話すのが苦手なだけで……」ということにした。すると武夫は「じゃあ俺で慣らそうよ」と言った。これには音緒も吹き出しそうになった。お得意の冗談がまた炸裂したのだろうと思ったのである。しかし、武夫は決して冗談で言ったわけではなかった。勢いそのままに続けて「じゃあ今日から俺、お前のことを下の名前で呼ぶわ」などと言い出し、そして本当にこの時を境にして、それまでの「筋田さん」呼びから一転して「音緒」呼びになったのである。さらに、「俺だけ下の名前で呼ぶのも不公平だから、音緒も俺のことを武夫って呼んで良いよ」などと言い始める始末。さすがの音緒も「私、そんなに話し慣れていないうちから呼び捨てにするのはちょっと……」と否定したようだが、この電話をきっかけにして、音緒は武夫に下心があることを見抜いた。
しかし、その一週間後にまた武夫から電話しようと言われた。音緒としては、前回の電話で下心に気付いたし、一人の男子、しかもつい一か月前まで大して話したことのなかった人と春休み中に三回も電話するのはいくら何でも多すぎやしないかと思い、一度は断ろうかと思った。だが、ここが音緒のよく分からないところで、その日はどうせ予定もなかったし、ちょうど誰かと話してみたかったタイミングだったという理由で、暇つぶしに話してみることにしたのである。武夫に下賤な心があると知っているのだから、あまり話しすぎると何を言われるか分かったものじゃないというのは容易に想像できたはずだ。それにも関わらず興味本位で電話に出てしまう音緒の気持ちが分からない。
電話に出ると、「別に今日は塾のこととは関係ないんだけどね」と切り出され、「やっぱり音緒と話すの楽しいから、何となく呼びだしてみた」と言われた。やはり僕が思った通りであった。音緒はこの武夫の言葉に対し「何それ」と笑っておいたが、武夫が何だか面倒くさい奴だと気付き、通話開始一分も経たずに電話に出たことを後悔し始めた。こんなことは電話をする前から想像つかないものなのだろうか。
さて、今度の電話もこれまで通り武夫のワンマンショーである。武夫が音緒の気を引こうと思ってか、ひたすら自分の武勇伝を語り続ける。そして合間合間にはセンスのない冗談が挟まり、その度に適当に笑わなければならず、音緒にとってはまさに地獄のような時間が流れていった。
自分の武勇伝が一段落すると、武夫は音緒の話題を始めた。どれも音緒を褒める内容で、「俺の話をこんなに聞いてくれるなんて、音緒は優しいね」だとか「お前が塾で同じクラスになってから、お前の勉強へのひた向きさに心打たれて、俺も勉強する意欲が湧いてきたんだ、ありがとう」などと言われるので、音緒はより一層相槌に困った。そんな武夫の熱い思いを音緒が適当に受け流しているうちに、段々武夫が話しにくそうな態度になっていることに音緒は気付いた。どうも次に言いたいことを話すのを躊躇ったような雰囲気になったのである。
こうなってしまうと、音緒も警戒心を強めざるを得なかった。音緒を褒めるという話の流れで、これまで饒舌だった武夫が急に「あのね、何と言えば良いんだろう……」などと濁し始めるということは、愛の告白以外の流れは考えられなかった。しかし、武夫に岸崎さんという彼女がいることは、音緒も知っていた。だから音緒は、あれ、この人って確か彼女がいたはずでは? 彼女がいるのに別の女に手を出してはいけないのでは? と訝しんだ。しかし、まさかと思っていると、いきなり武夫は真剣な口調になった。
「音緒、よく聞いてほしい。知っているかもしれないけど、俺には彼女がいる」
その声がどこか震えているように聞こえた。だが、音緒はまだこの続きを予想できなかった。ひとまず相槌だけしておくと、武夫は意を決したかのように音緒への気持ちを述べ始めた。
「だけど、こうして音緒と話してみて気付いたんだ。音緒がすごく良い人だってことを。だから、音緒のことがどうしても捨てがたくなってしまった。もちろん、俺にとっては今の彼女のことが一番大切だ。でも、音緒のことも、彼女に劣らないほど大事だと思っている。そういうわけなので、俺はこれから音緒のことを、世界で二番目に好きでいることにする。だから、音緒も俺のことを、世界で二番目に好きでいてくれ。なんか変なことを言っているって自分でも分かっているけど、俺たちの気持ちが平等に通じ合うには、これしかないと思うんだ。だから、音緒には俺より上に好きな人を二人以上作らないでほしい。これが俺からの、一生のお願いだ」
これまでの人生で、僕はこれほどまでに突っ込みどころの多いセリフを聞いたことがなかった。この文章から、武夫の狂気が充分垣間見えるだろう。そして、音緒がこの意味の分からないアピールに応えてしまったこともまた、狂気の沙汰という外ない。何はともあれ、これが武夫と音緒の、足を踏み入れてはいけない禁断の関係の始まりであった。
その日から二人のLINEでのやり取りが増えた。最初は朝と夜の挨拶だけだったが、そのうち学校に着いただとか、家に帰っただとかと、まるでイチャイチャカップルかのようなやり取りもしてくるようになった。面倒くさかったり、ただ単に通知に気付かなかったりして反応しなければ、その度に武夫から「返事くれよー」などとうるさく催促してくる。仕方なく反応してあげて、黙らせようとすると、逆に調子に乗って「こんなことしてくれるのは音緒だけだ」などと言う始末。音緒が電話で語ったところによれば、武夫が返事をしろと言ったから返信しただけであって、音緒は武夫のためを思っているわけでは全くない、などと腹の中で思っていたようだが、遠慮がちな音緒はそれを直接武夫に伝えることはできず、強く言い返せない状況が続いた。
そしてそんな音緒の性格に乗じて、武夫の思い込みはどんどんエスカレートしていき、ついには変なルールまで作られた。それが「絶対にお互い『好き』と言ってはいけない」という意味の分からないもので、それを聞いた音緒は心の中では苛立っていたようである。確かに武夫の思い上がりは甚だしい。音緒は武夫のことを一度も好きと言っていないのにも関わらず、このような勝手なルールを作られては、腹が立つのも当然だろう。と言うかこの前音緒のことを「二番目に好き《・・》」と言っていたのは一体何だったのか、と言いたくなる。言っていることとやっていることがまるでくちゃくちゃである。
もちろん音緒もこの矛盾には気付いていた。しかし、これも武夫に直接言うことはできなかった。こうした音緒の消極的な態度が、ますます武夫の自分勝手な態度を助長する結果につながった。
夏休みになると、武夫からの攻勢も激しくなってきた。LINEでの会話に満足できなくなったのか、「二人で会おう」と言われたのである。この時はまだ武夫は直接的な表現をしなかったが、音緒はその意図を読んだ。二人で会うとはつまり、例の元カレとやったことと同じようなことを要求される可能性が高いのである。それを証明するかのように、武夫からは会えるか、会えないか、どっちなんだ、などとしつこく聞いてくる。
とりあえず部活が忙しいので会えないという言い訳をずっと使い続けたが、この理由がずっと通用するとは限らない。心配になった音緒は、断り方のバリエーションを増やそうとした。そこで読んだのが、僕が図書委員の時に図書室で借りた『頼みごとを断れない人に贈る 断り方のコツ』であった。これはかなり有効だった。音緒は、まさに頼みごとを断れない性格の人間で、「断る」ということが苦手であった。それが災いして、元カレの時は押しに負けて行為に及んでしまったのである。だが、この本を読んだことで、音緒は様々な断り方を身につけた。そのおかげで、何とか武夫にはやられずに夏休みを終えることができたのである。
それでも塾に行けば武夫と顔を合わせることになる。武夫に岸崎さんという彼女がいることは、塾仲間では周知の事実となっていたため、武夫が表立って音緒にLINE内のような話を持ち掛けることはなかったが、それでも周りの人にはバレない程度にアイコンタクトをしてきたりした。毎度のように、飢えた獣のような顔でアピールしてくるものだから、気持ち悪いったらありゃしない。そのうち音緒は塾に行くのが嫌になっていた。幸い音緒は学校では武夫と遠く離れた教室にいたので、塾さえやめれば武夫と会う機会はなくなっただろう。そう思い、音緒は何度か親に塾を変えてほしいと頼んだ。
しかし、親は聞く耳を持たない。音緒は塾のおかげで数学で何とか赤点を回避していたのに、ここでやめたら数学の成績がどうなるか分からないではないか、という正論を言われてはどうにも反論できなかった。一度だけ「塾の友達が気持ち悪い」と、本当のことを打ち明けてみたが、結果は同じだった。友達など知ったことではない、お前の成績の方が大事だ、などと言われて一向に話が進まなかった。
こうして親を説得できなかった音緒には、塾をやめるという選択肢すら与えられていなかったのである。音緒は、まさに逃げ場のないところまで追い詰められていた。
しかし、この様子を鋭敏に捉え、二人の関係を見抜いた人物がいた。それが、あの「クズ」呼ばわりされていた音緒の元カレだったのである。
「なあ。さっきからお主、そいつのことをずっと『元カレ』と言っておるが、そいつの名前は分からぬのか?」
突然氏家が手を突き出して言ってきた。
「いや、一応音緒から聞き出したので知っているけど」
「それならば『元カレ』と言わず、そいつの名前で説明してくれ。言ってしまえばお主もあの女の元カレだから、お主の言う『元カレ』が誰のことを指しているのか紛らわしいのだ」
言われてみれば確かにその通りである。既に僕も音緒と別れて元カレとなっているから、僕とその人とは同じ立場なのである。
「でも、あんまり名前のある登場人物を増やすと、そっちの方がこんがらがるんじゃないか?」
「そのようなことはあるまい。むしろ名前の方がそれがしは分かりやすい」
「そうか? じゃあそっちで説明するか。その元カレの名前は甘粕って言うらしい。僕は会ったことないからよく分からないけど」
すると氏家が何かに気付いたのか、目を少し見開いた。
「甘粕? もしやそいつの下の名前、鉄夜であったりしないか?」
「ああ、確かそんな名前だった気がする。お前、知っているのか?」
「知っておるも何も、それがしは甘粕と二年生で同じクラスだったのだ。あいつは結構ヘラヘラした奴であったが、まさかそのような過去を持っていたとはな……」
ここに来て意外な情報である。とは言え氏家が甘粕のことを知っていることは、逆に話が通じやすく好都合である。
「へえ、やっぱり普段からヘラヘラしていたんだ。クラスではどんな立場だったんだ?」
気になったので尋ねてみた。しかし、氏家はかぶりを振った。
「おっと、今はそれがしがお主の話を聞いておる番だ。とりあえずお主の話を終わらせろ。お主から聞き終わったらまたゆっくりと話してやるから」
こう言われては仕方ない。僕の話も終わりに近づいていることだし、まずはそれを済ませよう。
「……妙に上から目線だな。まあ良い。じゃあ話を進めるぞ」
***
音緒の元カレ……すなわち甘粕は、音緒と別れた後にたまたま音緒と同じ塾に入ったらしい。とは言えクラスが違うので、お互いに話し合う機会も基本的になかった。しかし、甘粕が音緒を塾の廊下で見かけた時に、横にいた武夫に目配せされているのを見かけ、この二人には何やら関係がありそうだと勘付いたらしい。そして、ある日音緒が塾から出て帰路に就こうとしたところを、甘粕がとっ捕まえた。
「お前、あの堂川とかいう男と付き合っているの?」
開口一番に尋ねられた。
「はあ? あんたになんでそんなことを言わなきゃいけないの」
音緒は甘粕を恨んでいたため、乱暴に返した。
「お。そう答えるということは、付き合っているということだな」
そう甘粕が言うので、誤解を与えたくない音緒は本当のことを言った。
「付き合っていないし、そもそもあの人には正式な彼女がいるわよ。あんた、そんなことも知らないの?」
「え、じゃあお前はどういう関係だって言うの? 俺、この前見たよ、あいつにウインクされているところ。絶対何かあるでしょ。俺に教えてよ」
「あんたには関係ないでしょ」
「あっそう。じゃあ皆にバラしちゃおうっかなー、お前らが付き合っていること」
「だから付き合っていないってば」
「いや、だとしたら何なんだって話よ。教えないと返さないからね」
そう言うと、甘粕は音緒の持っていたスマホを強引に奪い取った。
「あ! 何するのよ!」
「返してほしい? じゃああの男とお前がどんな関係なのか、教えてよ」
音緒が何か隠しごとをしようとすると、甘粕が音緒の持ち物をひったくって「言うまで返さない」という行動は、二人がまだ付き合っていた時からしょっちゅうやられていたらしい。そのため音緒は、こうなってしまっては、白状するまで本当に持ち物を返してくれなくなってしまうことを知っていた。音緒は諦めて、仕方なくこれまでの経緯を甘粕に吐いた。塾で武夫に会い、春休みに三回電話し、その後猛アピールをされているということを全て話したのである。話を聞き終わった甘粕は満足したのか、音緒にスマホを投げ渡した。
「で、お前はどうしたいの?」
「正直言って、この関係から脱却したい」
音緒が素直に打ち明けると、甘粕はからからと笑った。
「脱却、ね。それは、堂川と別れるか、いっそのこと堂川の今カノを追い落として堂川と正式に付き合うか、どっちのことさ?」
答えは自明だろうという雰囲気で甘粕が尋ねてきた。しかし、音緒はしばらくの沈黙の後、こう答えた。
「……分からない。ただ、どっちにしても今の中途半端な関係を続けるのだけはやめたい」
この音緒の発言が僕にはよく分からない。これだとあれだけ逃げようとしている武夫と付き合っても良いということになる。当然甘粕もそこが引っかかったようで、
「ん? そうか? お前の話を聞く限りだと、お前は堂川のことをひどく気味悪く思っているようだけど」
と突っ込んだ。
「それは、あいつが彼女いるって自慢するくせに私を恋人扱いしてきたり、『二番目に好きでいてくれ』とか変なことを言ってきたりするのが嫌なだけであって、ちゃんと正式にお付き合いするのであれば、私も受け入れる用意はあるよ」
音緒はあくまでも毅然とした態度で説明した。
「ふーん。相変わらずお前も中途半端だね。俺たちが別れた時から変わらないな」
「放っといてよ」
「放っておくわけにはいかないよ。何せ、仮にもお前は俺の元カノだろ? だから、あまりそういう真似をしてほしくないってことだ。お前の中で結論が出ないのなら、とりあえず、お前ら別れようぜ」
甘粕からの突然の提案に、音緒は眉間にしわを寄せた。
「何故あんたに指図されなければいけないの」
「別に良いよ? お前たちのスキャンダル拡散してやっても」
「ちょっと、それは違うじゃない」
「何が違うのさ? 別に俺、このことを誰にも話さないなんて言っていないよね? 俺は話しちゃうよ」
音緒曰く、甘粕はやると言ったら本当に何でもやってしまうタイプの人間らしい。今回も、ここで引き止めないと本気で拡散するだろうと察し、音緒は慌てた。
「それだけは勘弁して」
「じゃあ黙って俺の言う通りにしようか。もしあいつに『何故別れなければならないのか』と聞かれたら、俺のせいにして良いからさ。『別れなければお前らの関係を皆にバラすぞ』って俺が脅してきたということにしておけば良いじゃん」
こうして音緒は、武夫に「あなたにも彼女がいるし、この関係をやめよう」と通告した。予想通り一度は抵抗されたが、甘粕の助言に従って「元カレにこの関係を知られて、別れないと皆にバラすって言っている」と言うと、渋々承諾してくれた。こうして音緒は武夫と別れ、音緒の日常にまたしばらくの平穏が訪れた。
しかし、秋が過ぎ冬になると、再び武夫からメッセージが来た。「今ちょっと落ち込んでいるから話したい」とのことである。塾で噂を聞くと、この頃少しだけ武夫は岸崎さんと喧嘩をしたらしいので、多分それのことだろうと思った。別にそんなところに頭を突っ込まなければ良いのに、何故か音緒はこの状況に興味を持ってしまった。そしてLINEで武夫に事情を尋ねてみた。すると、武夫は「彼女と別れようか迷っている」とか「俺じゃ彼女のことを幸せにはできない」などと、武夫にしてはマイナスな発言をした。そこで音緒は、とりあえず適当に慰めてみた。これで武夫が前を向き直して岸崎さんと仲直りし、再び音緒に頼ってこないようにしようと思ったのである。しかし逆効果だった。音緒に共感してもらった武夫は「こんなに優しく慰めてくれるのは音緒だけだ」などと言って、「やっぱり音緒とはつながっていたい」という流れになってしまった。こうして、別れてから三か月も経たずにまた武夫との関係が元に戻ってしまったのである。
しかも、今度は前のように「二人で会おう」という遠回しな表現ではなく、直接的な表現で「音緒にとっての最初の男になりたい」という旨をアピールされるようになった。聞けば、岸崎さんとすらそのような話にはなっていないのにも関わらず、音緒にその話を持ち掛けているということらしい。彼女がいるのにさすがにそんなことをするのは駄目でしょと反対するも、武夫は聞く耳を持たない。それどころか「俺の初めての経験をお前に捧げる、だからお前も俺に初めてを捧げろ」などと言ってくる。音緒にとっては、それ以前に元カレとやったことがあるから初めてでもないんだけど、と思いながらもそんなことは一切口に出さず、ただ二度と軽々しく行為に及ぶのはごめんだと思っていたので、ひたすら断り続けたのである。
冬休みに僕と付き合い始め、それが武夫に知られてからは、より一層武夫からのアピールが激しくなった。武夫は僕に「最初の男」の座をとられまいと、以前より急かしてくるようになったのである。その頃になると、夏休みに読んだ断り方のコツの本の知識も段々通用しなくなってきていた。それほどまでに武夫の音緒への執着が激しかったのである。音緒は武夫の魔の手からどのようにして逃げるか、ということばかり考えることになった。今思えば僕との初デート以来、音緒は僕を過剰な頻度でデートに誘ってきたが、これらは武夫と会わないための口実作りに過ぎなかったのだろう。そう思うと、あの幸せな時間は何だったのかと空しくなる。
しかし、三年生になると状況が一転する。今まで武夫は休日に音緒と二人で会おうとしていた。しかし、休日に誘っても、音緒は僕とのデートの予定を入れてしまうので、それを口実にされて会うことができなかった。そこで武夫は、いっそのこと平日の授業後に会うことを考え始め、音緒が一人で帰る時を見計らって誘い始めたのである。本当は僕と一緒に帰ることができれば、武夫の魔の手から守ることができたかもしれない。しかし、音緒は電車通学であり、自転車通学の僕と一緒に帰れないため、ここで僕を頼ることはできなかったのである。とは言え、電車通学の女友達なら、僕が商店街で会ったアイちゃんがいるから、しばらくは彼女と一緒に帰ることで、武夫が簡単に近づけないようにしていた。こうして武夫が平日に音緒を誘おうとし始めたことにより、音緒は休日に僕とのデートをする必要がなくなった。これが、三年生になってからデートのお誘いが急に途切れた理由である。
しかし、ある日の午前中、問題が起きた。アイちゃんが授業中に体調を崩し、そのまま早退してしまったのである。これは音緒にとっては一大事だ。一緒に帰る相手がいなくなってしまったのだから。
さあどうしようとおろおろする音緒。一緒に帰る人がいなければ、その日は一人で帰らなければならない。しかし、一人で帰ることは武夫に捕まるリスクが高まることにつながる。そのため、アイちゃんの代わりに一緒に帰る人を見つける必要があった。もしここで僕を頼ってくれれば何とかなっただろう。事情さえ話してくれれば、僕は自分の自転車を学校に置きっぱなしにしてでも、音緒と一緒に電車に乗っていたと思う。だが、音緒は僕を頼らなかった。こういう時に最も頼るべき恋人を無視したのである。
しかし、だからと言って一人で帰るわけにもいかず、結局誰かに頼らざるを得ない。そこで音緒が話を持ち掛けたのが、何を血迷ったのか、音緒の元カレの甘粕だったのである。
昼休みになり、音緒は甘粕にLINEで武夫が本気で自分の体を求めていることを伝え、そしてそこから逃げるために一緒に帰ってほしい旨を伝えた。すると、甘粕はすぐに返事をくれた。
「お前さ、彼氏できたんでしょ? 彼氏がいるくせに、そんな関係を続けているのは違うんじゃない?」
クズだと思っていた甘粕から正論を言われ、音緒はぐうの音も出なかった。甘粕と以前話した時にはまだ僕と付き合っていなかったため、「浮気をしている」と言えるのはあくまでも武夫だけだった。だが今回は違う。自分にも彼氏ができた今、もはや武夫との関係は浮気以外の何物でもなかった。音緒は自分の今までしてきたことを後悔した。すると、甘粕から立て続けにこんなことを言われた。
「お前と堂川がどんな関係なのか詳しく知りたいから、堂川とのトーク履歴を見せてよ」
もはやこの状況を打開するには、甘粕の助けを借りる外ない。そう思っていた音緒は、冬休み明けの武夫とのトーク履歴をスクリーンショットに写し、これを甘粕に送った。重要な点に絞って送ったつもりだったが、いざ送ってみるとなかなか膨大な量になり、写真の数は六枚に及んだ。送ってからすぐに既読がついたが、なかなか返信は来ない。きっと読むのに時間がかかっているのだろう。
そしてかれこれ十五分が経過した頃、待ちに待った着信音が鳴った。果たして甘粕は一緒に帰ってくれることを了承してくれただろうか。ドキドキしながらスマホを手に取った。しかし、スマホのロック画面に表示された通知には、とんでもないことが書かれていた。
「今のやつ、堂川の彼女に送っちゃったもんね」
甘粕はあろうことか、音緒と武夫のトーク履歴を岸崎さんに送ったというのである。最初、音緒は自分の目を疑った。浮気をしている身分としては、浮気をされている側に浮気を知られるということは、一番あってはならないことだった。それが甘粕の手によって実現されてしまったのである。
当然音緒は激怒した。怒りのメッセージを甘粕に送り続けた。ねえ嘘でしょ、どうしてこんなことをしたの、あんた私を騙したわね、と甘粕を責めたが、それらが既読になることはなかった。音緒は、甘粕を責めても意味がないことを悟り、それと同時に自分にこれから降りかかる苦難を想像し、青ざめた。こうなってしまった以上、武夫の彼女である岸崎さんに会ったら何をされるか分からない。音緒は岸崎さんと直接会ったことがないにしても、もし甘粕がトーク履歴とともに音緒の顔写真を岸崎さんに送り付けていたら、既に音緒は相手に顔を知られていることになる。同じ学校にいる者同士だから、岸崎さんが血眼になって探さなくても、学校にいるところをとっ捕まえてしまえば済む話である。こうなってしまったら見つかるわけにはいかない、明日から学校を休もうと思った。
その矢先、突如着信音が鳴った。さては甘粕が何か言ってきたか、と思ったら、見たこともない名前とアイコンの人からだった。羊のイラストのアイコンに、名前は「ようこ」……今最も恐れていた岸崎さんであった。音緒はこれまで岸崎さんとは何のつながりもなかったから、当然LINEの友だちではなかった。しかし、どういうつながりなのか分からないが、甘粕はどうやら岸崎さんと友だちだったらしい。そうなれば、音緒と岸崎さんとの間には、甘粕という共通の友だちがいることになる。そうなれば、甘粕が仲介することによって、岸崎さんは容易に音緒のアカウントを手に入れることができるのだ。こうして音緒の連絡先を突き止めた岸崎さんは、早速音緒に長文メッセージを送ったのである。僕に送ってきたもののように無駄に長い挨拶があった後、このように続いていた。
「先程、ある方からご連絡をいただきました。甘粕鉄夜さんという方です。あなたはこの方と付き合っていたそうですね。かく言う私も、先程まで付き合っていた人がいました。それが、堂川武夫という男です。甘粕さんによれば、あなたは私の彼氏である武夫と浮気していたとのこと。最初は信じられませんでしたが、証拠まで送られてきたので、信じざるを得ませんでした。そして私は武夫に問い詰めてみました。すると、武夫はあろうことか、『あ、バレちゃったか』『それならしょうがない、俺たち別れよう』『俺は今日から音緒と付き合う』などと言い出したのです。こんなにひどい言葉をかけられたことは今まで一度もありませんでした。何しろ私はあなたと違って、武夫とは中学校の頃から付き合っていたのですから、その年月の分だけショックは大きかったのです。
あなたにこの悲しみが分かりますか? 分からないでしょうね。どうせあなたも、武夫と同じで、私が武夫と別れてくれるおかげで、武夫と正式に付き合うことができる、なんて考えているのでしょうね。でも、そんなことは絶対にさせませんから。私がそんなことを許すわけがありません。何と言っても、こっちにはあなたたちが浮気をしていたことが分かるトーク履歴という決定的な証拠がありますからね。これを私が全世界に拡散してしまえば、あなたたちはもう生きていけないでしょう。そうなりたくなければ、今後二度と武夫と連絡をとらないようにしなさい。あなたたち二人が付き合っていると私が知ったその瞬間、私はインスタグラムにトーク履歴を貼り付けて、これを全世界に晒すことをここに警告しておきます。
ちなみに私から隠れてこそこそと武夫と付き合おうとしても無駄ですからね。私の友達にあなたたちと同じ塾に通っている子がいるから、その子に事情を説明してあなたたちを監視するよう頼むつもりです。そのため、塾の中でイチャイチャしていても私にはバレバレだということを把握しておいてください。もちろん学校においても、あなたのクラスにいる私の友達にあなたの動きを確認しておくようお願いするので、あなたたちが何か怪しい動きをしようとしても、私には全て筒抜けになっているということを忘れないでください。
さて、今後についてですが、まず私に謝っても無駄だということを理解してください。今回の件は謝れば済むという話ではないため、私の前での謝罪は何の意味も伴いません。あなたに謝罪されると、むしろこの件を思い出すことによって、私が封印していた怒りまでもが思い出されることにつながり、怒りが止まらなくなることが予想されます。つまり謝れば謝るほど、私にとってもあなたにとっても損しかないということです。ですから、私のこのメッセージにも何も返信しないでください。もちろん、言い訳など論外です。私はあなたと話したくないのです。だから、もう何も言わないでください。
最後になりますが、私はあなたのことを生涯許すつもりはありません。あなたさえいなければ、武夫が浮気することもなく、今日という日も平穏のうちに終わったのです。それを全て壊したのはあなたです。あなたの行動が、他人を不幸にしたということ、これをあなたは忘れてはいけません」
一通り説明し終わると、氏家は腑に落ちたような表情になった。
「なるほどな。お主の元カノが、甘粕に相談しようとして送ったスクショが岸崎に渡り、それがお主のところに巡ってきた。これがLINE流出のカラクリか」
「そういうことだ」
これが、あのトーク履歴が音緒の《・》ものであった原因である。音緒から岸崎さんに直接流れたのではなく、その間に甘粕が介在していたことで、知らない者同士の間でトーク履歴が流出したということである。残念ながら僕は甘粕や岸崎さんと直接会ったことがなく、この二人の関係を理解できていないところがあるが、それこそ同じクラスになったことがあったり、同じ部活で活動したり、同じ委員会に所属したりしていれば、LINEを交換する機会はいくらでもあるだろう。二人がどういう関係性だったのか気にならないことはないが、既に僕が最も気になっていた流出の経緯を知った今、わざわざ深く調べる必要もないだろう。
「それがしはてっきり、岸崎が武夫とあの女の浮気を最初から知っており、友達を頼るなどあらゆる伝手を使ってあの女のLINEアカウントを入手し、トーク履歴を見せるようあの女を脅したのかと思っておった」
「いや、それなら武夫を脅すので良くないか? わざわざ知らない人である音緒を探し出す必要もないだろう」
「確かにそうかもしれぬ。しかし、例の浮気の証拠のトーク履歴を見る限り、武夫は『消しのプロ』か何かを名乗っておるように、証拠の流出には非常に神経質で、それを防ぐためにトーク履歴を頻繁に削除しておったと見た。そうなると、武夫のトーク履歴に浮気の証拠となるものは残っておらず、それで岸崎が武夫を調べても埒が明かないと気付いて、あの女の方に狙いを変えた、という見方もできる」
確かに一理ある。逆に音緒の場合、俺のことをなめていたのか、「あの子鈍感だから」などと高を括って、トーク履歴の流出の対策をしていなかった可能性が高い。そうなると、浮気の証拠がしっかり残っていることになり、わざわざ武夫ではなく音緒のトーク履歴を狙う意味があると言える。
「まあ、さすがのそれがしでも、ここに甘粕が絡んでくるとは正直思っていなかったがな」
口には出さなかったが、僕の方こそ、これほどまでに氏家が深く考察していたとは、正直思っていなかった。単に僕の話を聞いて、僕をからかいたいだけなのかと思っていたが、どうやら僕の杞憂だったようだ。本当に何を考えているのかは音緒くらい、いや、それ以上に分からないが、少なくとも氏家は僕と一緒に深く考え、僕に共感してくれている。そう考えると、僕は嬉しくなった。やはり持つべきものは友達である。
「ん? どうした順大? 何やら嬉しそうであるな。鼻の穴が広がっておるぞ」
「いや、お前がちゃんと僕の話を聞いて、考察していることが純粋に嬉しかった」
「そうか。お主が嬉しくなると、それがしも嬉しい。お主の喜びはそれがしの喜びだ。これからも喜びを共有し合おうではないか」
何かと癖の強い氏家ではあるが、これでも友達の一人である。大切にしなければいけないだろう。
「で、だ。結局あの女との電話はどうなったのだ?」
再び現実に戻される。そうだった。まだ結末を話していない。僕がこの一件で最も嫌な気分になった、音緒との電話の着地点のことを。
「……知りたいか?」
「そりゃあここまで来れば最後まで聞きたいとも」
どうやら逃げるわけにはいかないようだ。
「……分かった。じゃあ話すよ。最悪の終わり方を」
***
音緒の過去を聞き終わった僕は、一つ話を聞いていた中で不満に思ったことを尋ねてみた。
「……事情は分かった。だが、お前は武夫から本格的にアプローチを受け始めた時、何故僕に相談せず、甘粕を頼ったんだ? 僕に言ってくれれば、こんなことにはならなかったかもしれないのに」
当然、浮気という事実そのものにも不満はある。だがそれ以上に、僕という彼氏がいたにも関わらず、もはや部外者とも言えるような甘粕に助けを求めたという事実が最も許せなかった。
「前にも言ったけど、元カレはクズなのよ。でも、クズだからこそ、私の負の一面をさらけ出すことに抵抗がなかったの。順大のように善良な人に、私が腐っていることを知られるのは嫌だったけど、元カレみたいにクズな奴には、どう思われても構わなかったからね」
思わず唸ってしまった。分かるようで分からない。クズな奴だからこそ信頼できない、という発想には至らなかったのか。
「それに、あんた告白の時に何と言ったか覚えていないの?」
急に話題が飛ぶ。音緒が何を言おうとしているのか、僕には分からなかった。
「悪い、覚えていない。その時はすごく緊張していたから、その日の記憶が全くないんだ」
これは事実である。電話で話したから、LINEのトーク履歴にも残っていないし、思い出すための伝手は何一つ残っていなかった。ただ一つ、僕の告白を受けた音緒を除いては。
「私なんか、あれだけ長かったくせに覚えているのよ。言ってあげようか?」
甘粕や武夫のような他の男がいたにも関わらず、良くもまあ僕の告白の言葉を覚えていられるものである。半ば感心し、半ば呆れた。とは言え普通に気になっていた僕は、ああ、とだけ呟いた。
「『別に僕は筋田さんのことを世界で一番好きだとは言いません。世界で一番あなたのことを好きなのはあなたのご家族に決まっているので、僕がそこに割って入るつもりはありません。ですが、僕は世界で一番筋田さんのことを尊敬しています。これは自信を持って言えます。こんなに僕のことを認めて受け入れてくれた人は、あなたが初めてです。その優しさと心の広さを、僕は心から尊敬しているのです。僕はもっとあなたから学びたい。僕と付き合ってください』……みたいな感じだったかしら」
聞きながら滅茶苦茶恥ずかしくなった。シンプルな告白にするべきだろうと思いながらも、結局だいぶ捻ったような言葉になったという記憶だけは残っていた。だが、こんなにも理屈じみたことを言っていたとは思わなかった。
「私はね、これを聞いて困惑したよ。別に私なんか尊敬されるような人間でもないし。でも、元カレや武夫にはないものをあんたから感じ取った。順大ならば、あの二人のようにはならないだろうってね。で、付き合うことにしたのよ。
でも、私はあんたが思っているほどすごい人間ではない。それなのにあんなことを言われてしまったら、せめて順大の前だけでも人格者のふりをしなきゃいけないわけじゃん。でも、本物の人格者が浮気をするなんてあり得ないでしょ。だから、あんたには私が浮気をしているなんて、口が裂けても言えなかった。そんなことを白状してしまえば、あんたに軽蔑されるに決まっている。私はそれを恐れたのよ。だから、武夫についての相談もしたくなかった。要は、あんたが変な告白さえしなければ、私に変なプレッシャーがかかることもなかったでしょうし、武夫についての相談だってできたはずなのよ」
ん?
「……おい、今何て言った?」
「だから、私があんたに相談しなかったのは、あんたのせいだっていうことよ。自業自得ってやつね」
信じられない。この女、まだ自分のやった過ちを反省していない。それどころか、僕に責任転嫁しようとしている。
「あのさ」
貧乏揺すりせずにはいられなかった。
「僕が悪いって言うの?」
「当たり前でしょ。だって、あんたが告白さえしなければ、私たちは今頃付き合っていないし、私がこんな目に遭うことなんてなかったんだから」
……許せない。自分のしたことを全く反省しようとしない態度は、到底許容できるものではなかった。
「一つ、言って良いか?」
僕はこんな奴に、惚れていたのか。
「お前は何か勘違いをしているようだな。言っておくが、お前は加害者であって、被害者ではない」
「……何を言っているの。私は完全な被害者よ。元カレに弄ばれ、武夫につきまとわれ、あんたに誤解された。全部男どもが悪いのよ。私は何も悪くないわ」
「お前、それを本気で言っているのか?」
「当たり前でしょ? 私のどこが悪いと言うのよ。私に何の落ち度があったと言うのよ」
「簡単な話だ。お前が断れば良かっただけのこと。甘粕も武夫も僕も、嫌なら皆断れば良かった」
「そうやって口では簡単そうに言うけどね、私がどれだけ苦しんだのか分かっているの? 一番苦しんだ私が一番正しいに決まっている」
「違う、お前は……」
「違うことなんてない! 私は正しい! 間違っているのはあんたよ! あんたさえいなければ……」
「一度、黙れ!」
一喝した。この剣幕に、さすがの音緒も話すのをやめた。
しかし、黙らせたからと言って、僕が話すことはもはやなかった。今の音緒には、何を言っても通じなかった。いつまでも話の通用しない人間の相手をするのも時間の無駄である。
「……お前がどうしても、自分が間違っていないと言うのなら、僕はもう反対しない。だが、僕にはそんなお前と議論する気はない。本当に救いようのない馬鹿だ。二度と僕の前にその面を出さないでくれ」
そう吐き捨てると、電話越しにフフッと笑われたのが分かった。
「これであんたも分かったでしょ……私が尊敬されるべき人ではないって言った意味が」
今までの僕なら、咄嗟に「そんなことないよ」と否定できたはずだ。しかし、音緒の真の人格を知ってしまった今、僕にはそれができなかった。する必要もなかった。
「それにしても、あんたが怒るところ初めて見たけど、正直言ってそんなに怖くないわね。本当に私を叱りたければ、もっと強く怒ることね」
嘘吐け、さっきから僕が大声を出す度に怯んでいるくせに。だが、もう僕は音緒と議論しないと決めた。言葉を選んで慎重に発言する。
「僕は、お前に対して怒っているのではない。ただ……」
ここで一呼吸置いた。「音緒に対して怒っていない」は嘘である。この時音緒に対する怒りはピークに達しようとしていた。でも、音緒以外への怒りがあったことも確かである。落ち着いて呼吸を整えてから、再び口を開いた。
「……ただ、お前という人間の人格を見抜けなかった自分の見る目のなさに失望して腹が立っているんだ」
どうしてこんな女を好きになってしまったのだろう。僕が唯一悔やんでいるのはその点である。
「全くよ。おかげで私はこんな目に遭っているんだから。本当に良い加減にしてほしいものだわ」
駄目だ。この女、やはり反省の欠片も見当たらない。どう頑張っても自分が悪いという思考には至らないようである。そしてこのまま一生、彼女は被害者面をし続けるのだろう。そう考えると、どうしようもなさすぎて、哀れみすら感じてきた。もうこの女を正しい道に進ませることは、誰もできないだろう。
「でも、これで良かったのよ。私にはただの苦い思い出にしかならないけど、少なくともあんたにとっては、将来どんな人間が信頼できるかを見極めるための良い経験になったんじゃない? まあ、私はあんたに経験を積ませるだけの人形に過ぎなかったんだろうね。ああ、私の人生って悲しいな」
この女は自分のことを悲劇のプリンセスか何かだとでも思っているのだろうか。この期に及んで自分に酔っているようである。あまりに考え方が自己中心的すぎて反吐が出そうである。
「仕方ない、きっと私はこうなる運命だったのね……これが避けられない天命ってやつかしら。こればかりはどうしようもないのね……」
どうしようもないのはお前の頭だ。もうこれ以上は気持ち悪くて聞いていられなかった。スマホを耳から離し、電話を切った。これであいつと話すことは二度とないだろう。
こうして話してみたが、この女のことがやっぱり分からない。分かったのはただ一つ、この女が信用ならないことだけである。まさかここまでひどい女だとは思っていなかった。当然、付き合っていた当時に抱いていた尊敬など彼方へ吹き飛んでしまった。もはや、僕が尊敬していた音緒は見る影もない。あの時の音緒が帰ってくることは、もう二度とないだろう……
僕の話が暗くなっていくのと同時に、空模様も暗くなっていた。先程まで顔を出していた太陽は雲に隠れ、西の方から黒い雲が近づいてきているのが見える。心なしか風も強くなり、木々も音を立てて揺れている。
「まあ、こんなところだ。これで僕が話すことは全部話したつもりだ」
「うむ。よく分かった。で、どうだ? こうして全部話して、すっきりしたか」
そういえば、この一件のことを氏家に話した表向きの目的は、僕がこれまでの嫌な思いを全部吐き出してすっきりすることであった。だが、自分でもすっきりしたのかよく分からない。でも、話したことで何かが変わったのは事実だ。
「……多分、すっきりしたというレベルまではいかなかった。と言うか、これからもすっきりすることはないと思う。相変わらずモヤモヤした気持ちは残っている。でも、若干少なくなったのかも」
「それで良いのだ。心の負担は少ない方が良いに決まっておる」
「そんなものなのかな」
氏家は、まるで全てを見透かしているかのような目で僕に微笑み、「それが人生であろう」と呟いた。が、すぐに笑いを打ち消して僕に指を向けた。
「しかしこの話、よくよく考えると、恋人関係、不倫関係に入っている四人とも、皆負け組だと思わぬか?」
「負け組?」
「そうだ。平たく言えば、損をしておる、という感じか」
突然何を言うのかと思い、「それはどういうことだ?」と話を促してみる。
「そうだな。例えば、岸崎は長年付き合っていた彼氏に裏切られたから明らかに負け組だし、武夫だってなんだかんだ言って負け組だと思わぬか? 結局あいつも目的を果たせずに終わっておるわけだから」
「確かに行為には至らなかったのか。音緒も一年以上つきまとわれたのに、よく逃げきれたよな」
「まあ仮に武夫があの女を捕まえることができておったとしても同じことであろう。何故なら、あいつの目的はあの女の『最初の男』になることであろう? だがその前にあの女は既に元カレとやっておったわけだ。だから武夫は絶対にあの女の『最初の男』にはなれなかったということだ。皮肉な話であるな」
「確かにな」
「で、順大もあれだけ好きであった彼女に裏切られた。そしてその彼女も、自業自得とは言え順大に捨てられたわけだ。だから四人とも全員損しておる。それどころか全て失っておるわけだ。『三方一両損』ならぬ、『四方一文無し』であるな」
「なんだ、その言葉は」
「今それがしが考えた。だが、そんな感じであろう?」
確かに僕にとって、それまで生きがいでもあった音緒を失ったことは損なのかもしれない。しかし、本当に損ばかりかと問われたら、それは違うと思う。
「一文無しでもないだろう。少なくとも僕はそうだ」
別に全てを失ったわけではない。何と言っても、ここに僕に共感してくれる友達がいるではないか。
「まあお主が言うならば、お主は一文無しではないのであろう。しかし、他の者たちは明らかに全てを失っておる」
僕はここで、他の三人のことを思い浮かべた。四年間一緒だった武夫に浮気された岸崎さん。志半ばで音緒を射抜けなかった武夫。そして僕と別れた音緒。しかし、どうも音緒だけは何かが違うような気がした。
「だがなあ……果たして音緒は本当に負け組なのか? と僕は思うんだ」
「ん? あいつが勝ち組だと言うのであるか?」
「いや、分からない。そもそも僕には音緒の本心が分かりかねるんだ」
「と言うと?」
ここで、僕がこの電話以来どこか引っかかってきたことを話すことにした。自分でもよく分からないが、きっと氏家なら共感してくれるだろうと信じて。
「恐らく音緒は、僕のことを好きじゃなかった。僕は、音緒の本命は僕以外の誰かなんじゃないかと思っているんだ」
遠くで雷鳴が聞こえた。氏家は「ほう」と言い、「どうしてそう思うのだ?」と尋ねてきた。
「音緒と電話した時の、最後に自惚れた感じ、思い返してみると何だかわざとらしかった気がするんだ。あれは、多分何か意図があってのことだろう。つまり音緒は、僕が音緒に完全に失望するように仕向けて、本命と付き合うのに支障がないようにしたんじゃないかって考えた」
正直、自分の中でも考えがまとまりきっていない。そんなことがあり得るのかよく分からなかった。だが、「これはあくまでも僕の推測なんだけど」と前置きして続けた。
「そりゃあ、音緒の本命が僕であれば、僕と別れたことによって明らかに損をしているわけだから、負け組になるだろう。だが、もし音緒の本命が武夫ならばどうだ? その場合、武夫も音緒も自分の恋人と別れることができたから、束縛がとれて、本格的に付き合うことができる。そりゃもちろん岸崎さんが目を光らせているのは間違いない。だが、後一年辛抱すれば、大学進学とともに遠くに引っ越すことも可能だ。そうなれば、岸崎さんからも逃れられ、めでたく二人は結ばれる、なんてことも実現できる。そうなった場合、武夫とともに勝ち組にならないか?」
氏家は腕を組んで唸り始めた。無理もない。自分でも何か変なことを言っているような気がしている。恐らく論理の飛躍もあるだろう。だが、それを覚悟してでも氏家に相談せずにはいられない自分がいた。
「それに、武夫の他にもう一人、音緒の本命と言えそうな人がいる。甘粕だ。と言うのも、音緒が武夫に追い詰められた時、真っ先に相談したのは、僕じゃなくて甘粕だった。確かに彼は音緒にクズ呼ばわりされていたけど、もし仮に僕が本命で、甘粕をクズだと思っていたら、そんなことはしないはずだ。やっぱり僕には、音緒の言っていた『クズだからこそ相談できる』という論理が分からないんだ。なんだかんだ言って一定の信頼感はあったんだと思う。だから、実は最初から甘粕とよりを戻したいがために、彼に相談したのではないだろうか」
風で木がざわめき、葉が二、三枚落ちた。氏家は僕の言うことに対して時々頷いてくれた。だが、ところどころで首を傾げた。しばらく首を鳴らしながら考え込んだ後、氏家は口を開いた。
「……まあお主の言うことも分からぬことはない。しかし、まず甘粕については、例の証拠を漏らしたわけであるから、決してあの女に良く思われておらぬであろう。あれだけ激怒したことから分かるようにな」
確かにそうだ。あのトーク履歴が流出する前なら、甘粕が本命でもおかしくはなかった。だが、下手をすると音緒の人生を崩壊させかねないトーク履歴を他人に流した今、果たして甘粕は音緒にとって良い存在だと言えるだろうか。答えは否である。よって、甘粕が本命であるという線はほぼないと言って良い。
「じゃあ武夫が本命なのか」
僕は呟いた。しかし、氏家は首を横に振った。
「あの女は武夫からずっと逃げておったのであろう? だから、武夫が本命ということもないのではあるまいか?」
これまた反論できない。まさにその通りなのである。そもそも武夫から逃げている時点で武夫が本命であるわけがない。考えてみれば、僕と電話をしている時に武夫のことをあれだけ悪い奴のように話していたのだから、本当に嫌いである可能性が高い。だがそうなると、不自然な点が生まれる。
「じゃあ例の浮気の証拠のトーク履歴はなんだったんだ?」
あの文面だけ見れば、音緒は武夫と両想いのように見える。実際僕もそのつもりで音緒と電話したから、どうして音緒が武夫のことをそこまで好いていないのか理解できていなかった。
「分からぬのか。あの女は武夫に嫌われたくなかったのだ」
「嫌われたくないだと? 自分は武夫のことが嫌いなのに?」
「そうだ。それがしが思うに、あいつはいわゆる八方美人であると見た。だから、元々誰からも嫌われたくない性格なのであろう。たとえ自分が嫌いな相手であってもな」
確かにその推測が正しければ、音緒の行動が説明できる。音緒がどれだけ武夫のことを嫌いだとしても、自発的に別れ話を切り出さなかったのはそのためであると言える。一度武夫と別れた時も甘粕に強要されたからであり、自分から別れようとして別れたわけではない。そしてあのトーク履歴も、心の中では武夫を全く好きではなかったが、あたかも好きであるかのように振る舞うことで、武夫に嫌われないようにしていたのだろう。また、武夫と二人きりになるのを避ける時に、僕とデートしようとしたり他の人と一緒に帰ろうとしたりして逃げていたが、これは決して直接的に「一緒になるのは嫌だ」と言うのではなく、公明正大な理由を掲げて断ることで、少しでも武夫の気分を害しないように配慮した、とも考えられる。しかし、やはりこの理論もどこか引っかかる。
「だが、本当にそんな行動をし得るのだろうか? いくら何でも自分が嫌いな人にまで好かれたいと思うのはおかしくないか? それに、八方美人だとすると、甘粕に対して明確に素っ気ない態度をしていたことに矛盾するんじゃないか? 後、最後の電話をした時の僕への態度とかもそうだし」
「さあ、そこまでは分からぬ。嫌いな人にも好かれたいというのは心の働きであるから、理屈では説明できぬ。甘粕やお主のことについても、例外と考える外あるまい」
まあ、一応音緒と付き合っていた僕が分からないのだから、氏家が分からないのは当然とも言えるだろう。何だか変なことを聞いてしまったと反省する。だが、正直言って氏家の仮説じゃないと音緒の行動は理解できない気がする。だから音緒は八方美人だということにしよう。しかし、それでもまだ分からないことがある。
「じゃあ結局音緒は誰のことが好きだったんだ?」
元々はこれについて論じていたのであった。とりあえず僕ではなさそうだというところから始まり、話しているうちに武夫や甘粕もあり得なさそうだと明らかになった。そうなると、他にどんな可能性が残っているだろうか?
「それがしはお主であると思っておった。だが、お主の言う通り、あの女がお主のことを好きでないならば、誰のことも好きではなかったのであろう」
正直、僕もそれしかないと思っていた。音緒は、何人かの男と親密な関係になっておきながら、結局誰に対しても恋愛感情を抱いていなかったのだろう。そうなると、氏家の一文無し理論も崩れてくる。僕はここから導き出される結論を言った。
「ということは、音緒は三人の面倒くさい男たち全員と縁を切ることができて清々しているかもしれないぞ。だとすると、音緒はやはり勝ち組だと言える」
再び雷の音が鼓膜を揺らす。少しの沈黙の後、氏家は首肯した。
「お主の言う通りだ。全く、考えれば考えるほど、よく分からぬ女だ。やっぱりお主、そいつと別れて正解であったな」
結局はこの氏家の言葉が全てを物語っていると言えた。僕らがこれだけ考えて分かったのは、音緒が何を考えているか本当に分からないということだけであった。そんな女と付き合った僕がどうかしていた。音緒という人間を理解せずに衝動的に告白したことが、そもそもの間違いだったのだ。
「……全く以て、僕には人を見る目がないよ」
僕はため息を吐いた。と同時に、手の甲に水滴が落ちるのを感じた。空に手のひらを向けてみると、一滴、二滴と雨粒が落ちてきた。いつ降ってもおかしくはなかったが、天気予報では深夜に雨が降ると言われていたから、まだ大丈夫だろうと高を括っていたのである。
「そろそろまずい。帰らねばならぬな」
氏家は鞄の中をまさぐっている。恐らく折り畳み傘を探しているのだろう。
「まあ、人を見る目なんて簡単には養えないものだ。この経験を糧にして、『心眼』を磨くしかないのであろう」
なかなか傘が見つからないのか、氏家は鞄の中から筆箱や教科書を取り出している。しかし、その中でぽつりと放った言葉が僕の心に引っかかった。
「心眼……」
まさに僕に欠如していたのはこれだったのではないだろうか。人を正しく見定める力こそ、僕に足りなかったものだったのだろう。
「お、あったあった」
そう言って、氏家はところどころ穴の開いた折り畳み傘を取り出した。雨は先程よりも強くなってきている。
「では、また会おう。困った時はいつでもそれがしに相談してくれ」
「ああ、また会おう」
氏家は最後に僕を見て舌なめずりをした後、傘を開いて走って駅の方へ走って行く。その背中を見て、僕も自転車をとりに戻るため学校へ駆けた。
ケケケ、全部それがしの思い通りに動いてくれた。順大にもバレておらぬようだし、順大から彼女を引き離すというこの作戦は大成功だ。
そもそもあの音緒とかいう女がくっついてから、このそれがしを差し置いて、順大は奴とばかりイチャイチャしておった。全くけしからん。腸が煮えくり返りそうだった。このそれがしがこんなに怒りを覚えたことはない。何とかしなければ収まらぬ。この状況を打破しなければならぬ。懼前の竃をして聊漑の隧に醱らしむ。そこでそれがしは考えた。どうすれば順大と女を引き離すことができるのか。それを考えるにあたって、まずこの二人がどのようにして結びついておるのかを明らかにしようとした。そのためには、順大から奴の話を聞けば良い。そして聞いた限りでは、どうも順大はあの女のことを相当尊敬しておるらしい。それが分かったところで、次の一手を考える。あの女が順大のことをどう思っておるのか知らないが、少なくとも順大は奴のことを深く信頼しておる。ならばその信頼をぶち壊せば良い。それにはどうするべきか。パッと思いついたのは、あの女の負の部分を暴き出すということだ。どんな人間でも、人に言えぬような悪い部分を必ず持っておる。そいつを順大に見せつければ良いのである。そうすることにより、順大があの女に失望し、別れるように仕向けようと思ったのだ。
しかし、これは言うほど簡単ではない。まず、それがしがどこからあの女に関する情報を手に入れれば良いのか分からなかったのだ。情報を手に入れぬことには始まらぬが、その情報源が見つからなかったのである。それがしはここで行き詰まってしまったのだ。
だが、噂というものは流れてくるものだ。それがしは同じクラスだった甘粕が、あの女の元カレであることを知った。元カレほど良い立場の人間はあるまい。付き合っておった経験があるというだけで、情報源としてはうってつけであるからというのはもちろん、既に別れて赤の他人になっておるから、あの女にとって都合の悪い情報でもあまり躊躇せずに教えてくれる可能性が高いからだ。そしてそれがしは確信した。甘粕こそ、それがしの計画を遂げるための救世主であると。
早速それがしは甘粕との接触を試みた。同じクラスであったから、話しかけるのも容易だった。その上、甘粕と氏家では、苗字が「あ」から始まる者と「う」から始まる者という関係で出席番号も近いから、これまでにも何かと親交があった。そのおかげで、甘粕はそれがしに快くあの女の情報を提供してくれたのだ。そして、それがしはそこであの女が武夫と浮気しておることを知ることができた。正直言って、ここまで首尾良くあの女の弱みを握ることができるとは思っていなかった。それがしは幸運だったのだ。
情報さえ掴んでしまえばもう勝ったも同然だ。しかし、それがしは急がなかった。急ぎすぎてこの計画が順大にバレてしまっては、全てが水の泡だからだ。だからまずそれがしは甘粕に、次にあの女から連絡が来たらそれがしに教えるよう頼んだ。もちろん、それ相応の報酬を与えることを約束してな。すると、例のアイちゃんとやらが学校を早退した日、これに危機感を抱いたあの女が頼ってきたと甘粕から連絡が入ってきた。飛んで火にいる夏の虫とはまさにこのことであろう。それがしはすぐ、甘粕にあの女から武夫とのトーク履歴を出させるよう話を持ち掛けさせた。トーク履歴という浮気の証拠さえあれば、後はどのようにでも動けるわけであるからな。そして甘粕は、あの女からすんなりとトーク履歴を入手することに成功した。それがしはこれを、岸崎に送るよう命じた。順大に送っても良かったのだが、それがしがこの計画に関与しておることを少しでも隠すために、それがしの人間関係から離れた岸崎にまずこれを暴露させたのだ。もちろん、甘粕が岸崎と一年生の時に同じクラスで、お互いのLINEを知っておるということは調査済みであった。そして甘粕には、岸崎が武夫と話し合って別れることになった後にあの女のアカウントを岸崎に教えさせ、ここで岸崎があの女に文句を言うよう仕向けた。さらにそれが終わると、今度は順大のアカウントを岸崎に送らせて、岸崎の口から順大にこの一件を知らせるようにした。ここまでやってくれれば甘粕の任務は完了だ。ちゃんとした報酬、と言っても所詮は高校生なので、それがしの貯めたお小遣い一か月分に過ぎないが、それを与えて彼はお役御免となった。正直それがしにとっては少なくない額ではあったが、口止め料も兼ねていると考えれば安い方なのであろう。まあ、ここまで行けば後は勝手に順大の方からあの女と別れてくれる。ただあの女が次の日から失踪して別れる時期が遅れたというのは誤算であったが、それでも計画が狂うことなく二人は別れた。これにて氏家隼人、ミッション・コンプリートである。
さて、もはや順大をたぶらかす邪魔者は消えた。その上今日の会話で、順大もそれがしの良さに気付いてくれたであろう。時は満ちた。順大の傷が癒えたら、早速告白しよう。この風雅にして優美、秀麗にして聡明、高潔にして純正なる天才軍師、氏家隼人様にかかれば順大など一も二もなく支配下に置くことができよう。見事順大を手中に収めたら、後はそれがしの天下だ。好きなだけ順大とイチャイチャすることができる。想像するだけで笑いが止まらぬ。ケケケケケ……
節穴の心眼 / 栃池矢熊 作