灰色の町は今宵、 / 双月意沙 作

 昼の町には、色がついている。
 夜になると、色は消えていく。
 そして、今日も町は夜を迎える。
 灰を混ぜて濁らせた水に、ゆっくりと、沈んでいくように。
 そして、朝になれば、またゆっくりと浮かんでいく。太陽が昇るたび、灰に隠れて見えなくなっていた色がひとつずつ戻ってくるのだ。
 地上に降り立ったあの日から、いつもここで、その様子を見つめていた。来る日も、来る日も、同じ場所で。戻っていく色を数えながら、その綺麗(きれい)さにあこがれていた。
 でも、それはもう昔の話。
 日が昇って、沈んで。その繰り返しを眺めているうちに、もう何年経っただろう。いつしか朝になろうとも、(まと)わりついた灰の水は綺麗に落ちることがなく、いつまでも、町は濁った灰色のまま、本来の色を見せなくなってしまった。
 ああ、――汚い。
 町のはずれに建つ()びた鉄櫓(やぐら)の上で、古びた町並みをぼうっと眺めながら、猫はそう思った。
 眼下には、家々の屋根瓦がいくつも連なり広がっている。しかし、もう住む人もいない。町はもう夕焼けに染まっていてもいい頃だが、日差しは停滞する煙に遮られて見えず、そのせいか屋根の色はどれも不自然に濁って見えた。
 まるで、天にすら見捨てられたみたいだ。
 ここがこの町で二番目に高い場所。そして、これまでに登ったことのある中で一番高い場所だった。
 高い所は好きだった。それは、景色がよく見えるからであり、神さまのいる場所に近い気がするからでもある。
 首を伸ばして、天を仰ぐ。今いる場所よりもずっと高くそびえ立つ建物が、それで頂上まで見えた。
「ビル」だ。
 あの頂まで登ったら、ここよりもはるかに景色がよく見渡せるだろう。それでも、まだあそこに行ったことがないのは――。
 なぜだろう。自分でもよくわからない。神さまと人間たちとの対立、それに踏み入れることへの恐怖があるからか。それとも、そこへ近づいてはいけないと誰かが告げているからか。
 共存の時代は終わり、世界はぎりぎりの均衡を保っている。ひとたびそれが崩れてしまえば、もう元に戻ることはないだろう。
 そう、かつて見ていた、あの美しい色の町も。
 櫓から飛び降りて屋根の上に着地し、そのまま壁を伝って地面に足をつけた。冷たく固められた地表からは、ほのかな土の匂いすらしない。
 小さな猫の姿の自分はあまりに無力で、好きだった町はどう足掻(あが)いても戻ってこないと悟った。もはや、ここに留まる意味すらわからなくなったのである。だから、この灰色の世界がすっきり消えてしまえば、天に帰ることを許してもらえるだろうか。
 黒煙を噴き出す「ビル」へ向けて、ふらふらと、歩き出していた。
 まるで、懐かしい誰かに招かれるように。

 人は神を信じなくなり、神も人を信じなくなった。
 ここ数年で起きたのは、あまりに急激な変化だ。
 遠い昔、一匹の猫の姿として生まれたとき、この町では、空には空の、花には花の、木々には木々の色があった。日が沈めば色は消えてしまうけれど、朝にはありったけの光を受けて、再び鮮やかに照り映えていく。体の黒い猫にとっては、それがとても(まぶ)しくて、美しくて、羨ましかった。
 変わったのは突然で、兆しなどは何もなかった。
 人間たちが死ぬまで働いて建てた巨大な「ビル」は、大量の黒い煙を吐き、空の色を消した。日差しは遮られ、花も木も生気をなくし、やがて全てがひとつ残らず消えた。
 ふと立ち止まり、遠く影を落とした「ビル」を見つめる。黒光りする細い円錐(えんすい)形は上に行くほどさらに細くなり、先の尖った頂点は天に届きそうなほど高くにあった。そして、そのまわりに何重もの線を螺旋(らせん)状に巻きつけている。
 古い町並みには不釣り合いに、しかし我が物顔で立つその建物は、人間たちが天に刃向かうための槍のようにさえ見える。猫にはそれが恐ろしかった。
 人は神を信じなくなり、神も人を信じなくなった。
 だが、猫はそれでも神を信じた。

 無表情に冷たい舗装の上では、風もいっそう冷たく感じる。つかの間の夕凪(ゆうなぎ)が去り、昼とは逆方向へ寒気が流れはじめていた。
 昼よりもいっそう濃い、汚い夜の灰色は、もう半分くらい町を侵食している。わずかに(にじ)んだ家々の輪郭を横目に、硬く冷えきった道に沿って歩いていく。
「ビル」は思ったより随分と遠かった。近くに来たときに初めて、巻きついているものは階段だと知った。ここからではもう、どれだけ首を伸ばしても頂上は見えない。
 一段と強くなった風が、ごうごうと音を立てて「ビル」の壁をしきりに打ちつけている。が、黒い塊はびくともしない。その様はまるで、自然界への一切の干渉を拒絶してしまったとでも言わんばかりだ。
 壁や階段を成しているのは、わずかに(つや)のある硬そうな物体。自分の毛の色よりも黒く、暗がりの中でも十分な存在感を放っている。
 階段の始まりに足をかけてみた。ほんのりと冷たい、若干ざらざらした感触は石や瓦と似ているが、それとは違う。人間たちが作ったのであろうその黒い物質の名前も、どうやって作られるのかも知らないし、特別知りたいとも思えない。
 もう一歩、階段を上る。
 自分は何も知らないのだ、と今更ながらに思う。この町のことも、人間たちのことも。そして、この気が狂ってしまいそうな目まぐるしい変化のことも。
 地上に生まれ落ちる前、自分は神さまに仕える身だった。今ではそれだけのことしか思い出せない。
 天を旅立ち、一匹の猫になってこの町に生きるようになったのは、何の所以(ゆえん)か。今宵、ここに導かれた理由を考えても、答えは出ない。ただ、歩まずにはいられなかった。
 そのまま、階段を上り続けた。
 自らの意志で進んでいるような気もするし、そうでない気もする。ただ、「ビル」に触れることへの恐怖を打ち払うだけの何かが確かに起こっていた。(いざな)われるというよりはもう少し強い、例えるならば、見えない細い糸を首に巻かれ、気まぐれに引っ張られるような。
 きっと、人間たちを「ビル」の建設に駆り立てたものも、それに近い何かなのだろう。
 前脚で、後ろ脚で、どこまでも続く階段をひといきに駆けあがっていく。左側は壁で、右側は吹きさらしだ。気づけば随分と高くまで上ってきていた。階段の幅はあるものの、一歩踏み外せば命はない。
 壁伝いに走り続けるにしたがって、壁はいつしか柱のように細くなり、やがて途切れた。
 階段の端は、十歩ほどの小さな空間になっていた。煙突が立っていて、その細さからは考えられないほどに勢いよく煙を噴き出している。
 闇に包まれているはずのその空間は、まばゆい金に輝いていた。その様子に思わず目を見開く。
 煙に遮られて月も星も見えないのに、どこからか光だけがまっすぐに差しこんでいるのだ。光は煙を突き抜けて、刺すような金のすじとなって足元に降り注いでいる。
 猫は光を見上げた。
 ――神さま。
 たったそれだけの(つぶや)きが漏れた。
 灰色ばかりを見てきた目には(まぶ)しすぎるくらいの、鮮やかな強い光。すがるように、鳴いた。
 神さま、どうか。
 もう一度、共に――。
 そう願ったとき、閃光(せんこう)が周囲を覆い尽くした。爆音が鳴り響く。
 反射的に目を(つぶ)る。足元がぐらついた。

 灰色の町は灰色の水に沈みきって、ものの形もわからないほどに混濁していた。
 その中に、黒い輪郭が浮かび上がる。天を()く槍のような「ビル」は、この町の人間たちが、残らず死に絶えるまで働いて造ったものだった。
 大地から高く伸びる黒い円錐と、天上からまっすぐに降りる光のすじが交差する場所で、ひときわ強い輝きが(ほとばし)る。
 唐突に、「ビル」が爆ぜた。雷鳴に似た音が(とどろ)くと同時に、大小の破片が黒いしぶきのように飛散し、建物を構成していた全てが残らず宙に舞う。
 轟音(ごうおん)が止むと、一転して町は静けさに包まれた。

 気づいたときには、家の屋根も、舗装された道路も、お気に入りの高い櫓も、全てが綺麗に消えて無くなっていた。ただ、どこまでも広がる荒原があるだけだ。
 天空を覆っていた煙は風に吹き消され、いくつもの星が明滅している。砂の上に大量に散らばった「ビル」の欠片が、その光を浴びて淡く金色に染まっていた。
 欠片のひとつに猫は近づいた。わずかにひび割れた奥から、小さな芽が顔を出している。
 鼻先で触れてみた。ほんのりと柔らかく、懐かしい温もりに似た匂いがする。
 芽はとても澄んだ色をしていた。こんなに美しい色を見たのは、どれくらい久しぶりのことだろう。
 灰が溶けて、ささやかな色が戻ってきている。
 そんな気がした。朝が近づいている。

灰色の町は今宵、 / 双月意沙 作

灰色の町は今宵、 / 双月意沙 作

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-02-14

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