漿果 / 雪六華 作
今どき「男のくせに」なんて流行らないかもしれない。それでもあえて言わせてもらうと、フジは男のくせに髪を伸ばしているような奴だった。
伸ばしていると言っても、大きな駅にいるような髪を緩やかに巻いた今どきの女性程ではなく、毛先が鎖骨にようやく届くか、くらいのものだ。それでも、田舎特有の無意味に厳しい校則に従う高校生の中では目を引く存在だった。
それでも、高校に上がった今ならまだ目立つ度合いはマシな方かもしれない。初めて会った中学の時なんか、悪目立ちしすぎて教師にしょっちゅう呼び出されてはお説教を食らっていたくらいだ。かく言う自分も同じクラスになった時は、とんでもない不良がいるもんだと遠巻きに見ては警戒していたけれど。それが何かのきっかけで話してみたら、流行のソーシャルゲームと放課後の部活を楽しみにしているような、ただのお調子者だと分かった。
それから四年、フジとはなんとなく一緒にいることが多かった。学力が一緒くらいなものだから、テストの点が悪くて補習に参加させられる回数も同じくらいだったし、示し合わせたわけでもないのに同じ高校に行った。中学で入っていたテニス部が高校にはなくて、以前から興味のあった軽音部に入ってみたら、向こうも「ここのバスケ部、ガチすぎて多分無理」とか言いながらエレキギターなんて始めていた。その間、フジの髪は肩甲骨の下縁辺りに差し掛かってみたり、かと思えば肩のラインで切りそろえられていたり、を繰り返していた。
教師にどれだけ注意されても肩より上には髪を切らないから、何か特別な理由があって伸ばしているものだと出会った当初は思っていた。しかし、何かの拍子に理由を尋ねてみた時の返答は「俺は長い方が似合うから」。そんな理由で校則を破り続けられる奔放さに呆れる反面、なんとなく憧れていたのも事実だった。
夏は暑いと言って首の後ろで適当に括っていたり、新しいヘアケア用品を試したと言って果物のような甘い香りを漂わせていたり。そういえば、珍しく寝癖を直さずに来たことがあったから、ふざけ半分で直してやろうとしたら「やめろよぉ」なんて嫌がられたこともあった。こいつのことを考えると真っ先に髪のことが出てくるな、とぼんやり思いながら、
目の前に倒れ、頭部から血を流すフジを見下ろしていた。
さっきまで、何を……。ああ、文化祭が近いからって珍しく土曜日に部活へ参加した後、いつもの通り示し合わせるわけでもなく、フジと二人で通学路を歩いていたはず。何なら、最近リリースされたゲームアプリの新キャラについて、どの娘が一番可愛いなんてくだらない談義に花を咲かせていたのに。
ブロック塀が入り組んだ交差点に差し掛かった時、せっかちなフジの足が一、二歩前に出た。その瞬間、よく見かけるような家庭用のセダンが目の前に、風を感じるような速さで突っ込んできたのだ。自分の方を向いていた両の瞳が白い鉄の塊を捉え、ワイシャツに覆われた横腹がボンネットに触れ、曲がり、押し出され……。次の瞬間には、自分の右斜め前にいたはずのフジが道路の端で血を流して地面に突っ伏していた。
走り去ったセダンの後ろ姿と、アスファルトの上に染み出し、そのどす黒さと混じって溶けてしまいそうな暗赤色の血溜まり。頭の片隅に軽く引っかかったナンバープレートの数字の並び。自分も一歩間違えればフジと同じように轢かれていたという事実への恐怖と安堵。目の前に倒れる、先程まで楽しく話していたはずの友人。全ての事実が頭の中を掠め、飛び交い、その非現実さ故に身体が浮いているような心地さえした。
横向きに倒れているから、その表情は右半分しか窺えない。それでも、半開きになった口や閉じられた瞳が、既に彼の意識がないことを悟らせる。一応呼びかけてみても、返事はない。
今更ながら、震える手をフジの口元まで近づけてみる。指先に微かな生暖かい吐息が当たり、一先ず安堵する。でも息を確認したところで、どうすればいいのか分からない。頭がフリーズして何も指示を出してくれない。学校で講習を受けた心臓マッサージなんかをやるべきなのか。でも息がある相手にやってはいけない気がするし、なにより真面目に受けてなかったから、やり方なんて覚えていない。
そうこうしている間に、フジの頭を取り囲む血溜まりはどんどん広がっていく。医療に関しては何の学もない自分でも、人間は頭を強く打ったら死ぬ可能性があることくらいは分かる。先程まで並んで歩き、くだらない雑談に興じていた友人が死んでしまうのかもしれないという事実に、世界が揺らぐような目眩を覚えた。
何もできない素人の自分がするべきことは、一刻も早く救急車と警察を呼ぶこと。ようやくその考えに至り、持っているはずのスマホを探すため、リュックサックを下ろして中身を探った。
その最中でも、身動ぎ一つしないフジの身体と広がる血溜まりは嫌でも目に入る。男にしては長い髪の毛先が、血に浸っているのも見える。その時、ふと思った。
(髪、汚れる…)
それは「車に轢かれて倒れた人が目の前にいる」という非常事態の中では、あまりにも優先順位の低い事項だった。それでも何故か、自分には一一九番通報をするより大事なことに思えたのだ。
自分が気づいていないだけで、頭は相当混乱しているのだろうか? そう自問自答しながらも、リュックサックを探っていた手は、首筋のラインに沿ってくねる髪へと無意識に伸ばされていた。
数年友人をやっているとはいえ、フジの自慢の長髪に触れるのはこれが初めてだった。その感触は、想像よりも柔らかく滑らかで、高級な絹糸の束にでも触っているような気持ちさえする。髪の表面は晩夏特有のじっとり湿った日差しに照らされ、きらきらと光っている。自分のろくに手入れされてない髪じゃこうはならないだろうな、と思いながら、小鳥を手のひらで抱きしめるようにそっと握った。この感触に、艶に、無意識のうちに焦がれていたのだと、自分の中に眠っていた寒気を感じるような欲求が昇華されていくのが分かる。
ふと、鼻腔に血液の鉄臭さが届いた。いつだったか隣を歩いた時、風になびく髪から苺をすり潰したような甘ったるい匂いがしたのを思い出す。Feの生臭さはヘアミルクの香料を打ち負かしてしまうのだ、という役に立つわけもない知識が、戦慄とうろたえで綯い交ぜにされた意識の片隅に走り書きされる。既に赤黒いヘモグロビンに染められた部分は諦めて、右半分の頭皮を覆う髪を地面から離し、首の上に乗せるようにしてまとめた。そこまでしてようやく、再びリュックサックのスマホを探し始める。一度作業を中断して心が少しは落ち着いたのか、スマホはすぐに見つけられた。
もしフジの意識が戻っても、救急車を呼ぶより先に髪が汚れないように血溜まりから避けたなんて、気色が悪くて言えないだろう。だとしたら、あのよく手入れされた柔らかい感触は、フジも知らない自分だけの秘密になるんだ。
そう思いながら、先程触れた髪とは裏腹に硬質な液晶画面をタップした。
漿果 / 雪六華 作