悪意が見てる / 中野弘樹 作

(びょう)()は元々、壁の役割があったんだよ」
 今原(いまはら)友樹(ゆうき)は祖父、今原明(あきら)の言葉を思い出していた。七月下旬の熱帯夜を打ち消そうと、古びたエアコンがなけなしの冷風を送ってくる。が、大して効果は無く、高校の制服のシャツは汗ばんでいた。座布団はお世辞にも座り(ここ)()が良いとは言えず、友樹の足は早くも感覚を失い始めている。
「昔の日本の家にはちゃんとした壁が無かったから、こういう屏風なんかを仕切りとか壁に使っていたんだ。でも我が家にはちゃんと壁があるから、今はこうやって広げて置いてあるだけ」
 当の屏風は今、友樹のすぐ隣の壁に寄り添う様に立てられている。それなりに大きく、高さは友樹の正座とほぼ同じで、横幅は背丈ぐらいだろうか。しかも二枚組なので、広い座敷の南側の壁は半分ぐらい屏風で覆われてしまっている。
 ボーッと屏風を眺めていると、軽く背中を小突かれた。首を小さく曲げて振り向くと、父親の(まもる)数珠(じゅず)を左手で持ちながら険しい顔で前方を指さしている。よそ見をするな、ということだろう。
 前の方に目を移すと、花で飾り付けられた(かん)(おけ)の前で、()(しょう)さんが朗々とした声でお経を唱えている。()()を取り終えた鶏ガラみたいな体型の、一体どこからあんな声が出せるのだろうか。そんなどうでもいいことを考えていると、友樹の思考は再び祖父の思い出へと移っていった。

 明は古道具屋を営んでいた。と言っても、古道具屋を経営していた友人が病に倒れ、代わりの経営者を探していたところに、定年退職で暇を持て余していた明が名乗りを上げた、という経緯である。古道具屋の店主だったのはおおよそ二十年といったところだが、明はこの小さな古道具屋を愛していた。店舗に併設した(おも)()に引っ越し、リフォームを繰り返し、地方新聞に広告を載せたりもした。貯金をはたいて、祖母との幾度もの夫婦喧(けん)()を勝ち抜きながら店を改造した明だったが、「(てら)(しま)道具店」という名前だけは変えることはなかった。友人が作り上げた店だという最後の痕跡を残したかったのだろうか。
 明は古道具に対しても愛情を持っていた。愛情というより、信念と言った方がいいかもしれない。明は常々「道具は使われてこそ意味がある」と口にした。どう見たってガラクタな()(かん)も、(こつ)(とう)(ひん)として価値のありそうな皿も、同じ様な値段で同じように棚に並べていた。
「芸術作品はいいんだよ。皆に見られて褒められるために生まれたんだから。でもな、道具として生まれたのならば、道具として買われて使われるべきだ」
 七十で祖母を亡くし、悲しみに暮れながらも気丈に店を開いた。道具たちのためにと作業用の倉庫を新設し、地域ではちょっとした名物店にもなった。孫の友樹ともよく遊び、夏休みは一緒に店番をしたりもした。友樹は今高校二年生だが、時々祖父の店には顔を出す。
 しかし、死んだ。二週間ほど前、開店準備中に脳卒中で倒れ、朝勤務のために出勤したアルバイトに発見された後、昏睡と意識回復を繰り返し、昨日の明け方に眠る様に逝った。倒れてからかなりの間持ちこたえたので、友樹の家族を含めた親族は十分すぎるぐらいの別れの(あい)(さつ)と覚悟と様々な準備をすることができ、「葬式は自宅の母屋でやって欲しい」という生前の意向も叶えられた。
とは言え、通夜で(ろう)人形の様になった祖父を見た時、友樹は少しだけ泣いてしまった。涙は病室で深く深く眠る明を見た時に十分流したはずなのに、祖父の存在の痕跡がこれから徐々に消えていくことを想像すると、悲しみと言うより寂しさに近いモノが湧き上がってきたのだ。

 お経のトーンが徐々に落ち着いていき、羽が優しく地面に落ちる様に、静かに終わった。一呼吸置いて、鶏ガラ和尚が正座のままゆっくりとこちらを向いて「お疲れ様でした」と頭を下げる。周りの大人たちがそれぞれにお礼を言う中、友樹も周りに合わせて頭を下げた。
 顔を上げると、右斜め前に座る人物の後ろ姿が目に入る。天然パーマを長く伸ばして後ろで一つ結び。顔は後ろからの輪郭だけでも分かるほどに見事な馬面。そしてどことなく漂う()(さん)(くさ)さ。友樹の伯父(おじ)今原良雄(よしお)だ。明には三人の息子がおり、長男が(さとる)、次男が友樹の父の守、そして三男がこの良雄なのだが、実は友樹はこの伯父のことをよく知らない。大学在籍中に留年と海外留学をしたこと、卒業後も不安定な職に就き海外を飛び回っていたこと、結婚はまだしていないこと、せいぜいこの位のことしか友樹には分からない。
 当然親戚との繋がりも薄く、友樹自身も久しぶりに顔を見た。自分の父親の()(とく)を聞きつけ大慌てで帰ってきた様だが、正直こんなギリギリのタイミングで帰ってきてもしょうがないだろうに、と友樹は思っている。今の今まで祖父のことを気にも掛けてこなかったであろうこの伯父が、神妙な顔つきでこの場にいることに、若干の不快感を抱いてもいた。頭では、この馬面伯父も仕事で忙しかったのだろうし、何より人への愛情は時間や距離だけで測れるモノではないと分かっている。それでも、嫌な感情が自分の脳味噌に染みこんでいくのを、友樹は感じていた。
 いつの間にか良雄の後頭部を凝視していた両目を(まばた)いて、友樹は軽く頭を振るった。いや、こういうのは良くない。外見や雰囲気、少なすぎる情報だけで人を判断するべきじゃない。そもそも友樹が知っている良雄に関する話だって伯父の悟や父親、それから祖父の明がしていた会話を聞きかじったものなのだ。多少胡()(さん)(くさ)くはあるが、良雄は彼なりに明を愛していたはず。何といっても親子な訳だし。

 どうやら鶏ガラ和尚は短い法話を終え、帰り支度を始めた様で、大人たちは口々にお礼の言葉を述べながら、立ち上がり出した。それに合わせて友樹も立とうとしたが、思ったより足がしびれていたので一旦諦めた。久しぶりの正座は足にこたえる。
 見送りのために玄関へと向かう足音が遠ざかっていく。友樹以外誰もいなくなった座敷は、がらんとしていてやけに広く感じた。人がいた痕跡の様に畳に並べられた座布団が、そう思わせるのかもしれない。足のしびれが無くなったかを、座ったまま足を曲げ伸ばしして確かめた後、友樹は立ち上がって棺桶の前まで近づいた。棺桶は上から見下ろすと思いの外小さく、ここに元は祖父だったモノが入っているのが冗談の様に思えてくる。
 もう別に悲しくはなかった。十分に泣いたし、病院のベッドの前で話したいことは全部話せた。そもそもこの葬式が初めての葬式という訳ではない。ただ、この慣れ親しんだ古道具屋から祖父が消えた今、ここはどうなってしまうのか、という不安が胸の中に揺らめきながら沈殿している。幼い頃の遊び場は基本ここだったし、高校生になってからも祖父に会うためによく訪れていた。友樹は古びた道具たちに囲まれたこの店の雰囲気が大好きだった。
祖父の友人がそうした様に他人に店を引き渡すのだろうか。正直、この「寺島道具店」が残ってさえくれればそれでいいと、友樹は思っていた。例え店主が代わり、店の装いが大きく変わっても、店そのものが残り続ける限り、明が古道具たちに注いだ信念の様な何かは残り続ける、そんな気がするからだ。でも、そうなったら、もう頻繁にこの店に来る訳にはいかないな、と友樹は思った。新しい店主がいい人だといいけど、と。

ここまで考えを巡らせて、友樹は棺桶から視線を上げた。ふとした違和感を覚えたのだ。魚の小骨を食べてしまった様な、(くつ)(ひも)がほどけそうなのに気付いた様な、微妙に気になる感覚。なんだ、これ?
友樹はゆっくりと振り返った。長方形の座敷の右側には、縁側に面した廊下を隔てる障子があり、左側には壁に接する様に屏風が立てられ、座敷の反対側には(ぶつ)(だん)(たん)()が寄り添う様に置かれている。そして当然誰もいない。あるのは人数分の座布団と座敷に染みこんでいる線香の香りだけ。
友樹は棺桶の方に向き直った。周りを沢山の種類の花が山の様に覆っているが、友樹は花に疎いので全く分からない。多分、明はこの光景を嫌がるだろう。「花屋の花は好きじゃない」と祖父が言っていたのを友樹は覚えていた。
「多分、これだろうな」と目の前の棺桶と花の山を見ながら、友樹は(つぶや)いた。違和感、と言うか非日常的な要素はこの座敷において、これしか無い。当たり前と言えば当たり前だ。大して手伝いをした訳では無いが、ここ数週間は自分も周囲もバタバタと慌ただしかった。疲れてるんだろうな、そのせいだろう。
もう鶏ガラ和尚の見送りは終わってしまったかな、と友樹は振り返り、玄関に様子を見に行こうとした。

ぞわっ、とした。またあの違和感だ。さっきよりも強い気がする。二、三歩後ずさりして、友樹は棺桶をじっと見つめた。本当になんなんだろう、むずむずする感覚。これは……

視線だ。

「あ、友樹君?」
 突然の呼び声に友樹は文字通り飛び上がった。声の方へぎこちなく顔を向けると、引き戸から良雄が顔を(のぞ)かせていた。
「は、はい。どうしました?」
 答えると良雄は馬面をフニャリとさせて笑った。
「良かったー、もしかしたら名前間違えたのかと思ってさ」
「え」
「いや、だって友樹君凄く怖い顔してたんだもの」
 友樹は思わず顔に手をやった。頬の(こわ)()りが手の平からでも分かる。努めて真顔になろうとするが、上手くできている気がしない。
「……それで、どうしたんですか」
「あ、そうだ!」忘れてた忘れてた、と呟きながら良雄は座敷の中へ入ってくると
「和尚さんが数珠を忘れてきちゃったみたいでさ、探すの手伝ってくれない?」と言った。
 友樹は顔から手を放し、ゆっくり(うなず)いた。視線は、消えていた。

 本当にあるのかなぁ、とブツブツ呟きながら、ワイシャツの(そで)(まく)って座布団を一枚一枚めくっている良雄を横目に、友樹は花の山をかき分けていた。花粉独特の香りが鼻をくすぐる。
 あれは視線だった。制服のズボンについた花粉を手で払いながら、友樹はまだ鳥肌の残る腕を、服の上から()でる。確かに、背後から誰かに見られていた、間違いない。
 じゃあ誰が? 普通に考えれば良雄だろう。もう一度友樹は横目で良雄を盗み見た。今度は畳に()いつくばって、仏壇の(すき)()を覗いている。引き戸の位置やタイミングを考えれば良雄以外あり得ない。そもそも座敷には友樹しかいなかったのだ。
 でも、何か違う。あの視線からは、何というか、「いてはいけない何か」が感じられた。()(れい)なテーブルの上に泥だらけのブーツが乱暴に置かれているのを見た様な、そんな感じ。本当に、あれは良雄だったのか?
 コツコツ、という硬い音に友樹は花の山から顔を上げた。良雄も這いつくばったまま周囲を見回しているあたり、どうやら気のせいでは無い様だ。もう一度同じ音を聞いて、ようやく友樹は気がついた。窓だ。
 障子を開き、縁側の窓を開けると、もう薄暗くなっている庭に()()()()が立っていた。彼女は寺島道具店唯一のアルバイトであり、陸上部に所属する大学三年生だ。友樹も店に遊びに行った時に何度も会っており、ただのバイトというより親戚のお姉さんの様な雰囲気も感じられる。三年間ほどここでアルバイトを務め、開店準備中に倒れた明を最初に見つけたその人、ということもあり、今日の通夜に参列しているのだ。
「あれ、友樹君ここにいたんだ」麻衣は長いストレートの髪をかき上げて、意外そうに言った。
「今、和尚さんの数珠を探してるんですよ」さすがに、足がしびれて立てませんでした、とは言いたくない。
「その数珠なんだけど、和尚さんが()()の中にしまってたの忘れてたんだって」
 後ろの方で良雄が「あるんかい」と小声で呟いたのが、聞こえてきた。麻衣にも聞こえたのか、チラリと友樹の後ろを(うかが)い、
「そういう訳だから、もう一度挨拶したいから来てくれって和尚さんが言ってたよ」と言った。
 先に行くね、と言い残し、麻衣は庭を歩いて玄関へ戻っていった。良雄も慌ただしく足音を立てながら座敷を出て行く。再び一人だけになった友樹は、窓を閉めて座敷の方へ向き直った。もうあの違和感は、すっかり無くなっていた。


 深夜、友樹は二階の寝室を出て、母屋の階段を慎重に降りていた。照明が薄暗いのと、年季が入り摩擦係数が限りなくゼロに近い階段のせいで、中々に緊張を要する作業になっている。えっちらおっちら足を運び、ようやく一階の廊下に落ち着くことができた。ちょっと冷たいものを飲もうと思っただけなのに、祖父の家に泊まるのはかなり久しぶりなせいで、深夜の階段が危険地帯になることを忘れていたのだ。
 台所に入り冷蔵庫を開けると、冷気が友樹の腕をつたって蒸し暑い初夏の夜の空気に逃げていく。冷えた麦茶を飲み終わり、コップを洗って寝室に戻ろうと廊下に出たところで、座敷の引き戸から光が漏れているのに友樹は気がついた。
 そう言えば、と友樹は思い出した。通夜の夜に線香を絶やしちゃいけない、みたいなのなかったっけ。線香の番の順番をどうするか、という話を大人たちが夕飯の席でしていたことを友樹は思い出した。多分、それをこの座敷でやっているのだろう。
 なんとなく、覗いてみようかな、と友樹は思い立った。興味がある訳では無かったが、歩き回ったせいで目もさえてしまっていた。引き戸から様子を確認して、線香の番が両親じゃなければ、とっとと退散すればいいだけだ。
 足を忍ばせて友樹は引き戸を少しだけ開けた。三センチほどの隙間から中を覗くが、視野が狭すぎるせいか人の気配は感じられない。このままでは(らち)があかないので、思い切って友樹は引き戸を開け、座敷を覗いた。
 誰もいない。拍子抜けすると同時に、「え」と友樹は呟いてしまった。当然人がいるものだとばかり思っていたのだ。誰もいないって、どういうこと?
 座敷で一人、ポカンとしていた友樹の耳に、「カタッ」という音が飛び込んできた。思わず周囲を見回すが、音の出所は分からない。じっとしていると、音は繰り返し聞こえてくる。そして、友樹は気付いた。この音、母屋で鳴ってない。店からの音だ。
 一瞬、「空き巣」の想像が浮かんだが、すぐに却下された。いつもならまだしも、よりによって母屋に明かりがついている今夜、空き巣に入る馬鹿はいない。と言うことは、可能性として一番高いこの音の正体は、本来線香の番をしているはずの誰かさんだ。
 友樹はそっと座敷を出た。当然誰が何をしているのか見に行くのだ。妙な深夜テンションに突き動かされていることに友樹は薄々気付いていたが、かまうものか。乗りかかった船だ。
 廊下をゆっくりと進み、中庭に通じるドアを開ける。()(だし)()(ばふ)を踏みしめながら、(かぎ)がかかっているはずの裏口のドアノブを回すと、すんなり開いた。分かってはいたが、空き巣ではないことを確信して友樹は(あん)()した。割る窓がいくらでもあるのに、ドアをわざわざピッキングする空き巣なんている訳無い。
 店内に面した廊下に入ると、例の音が一段とはっきり聞こえてきた。空調の効いていない店内は予想以上に暑く、汗がにじみ出しているのが分かる。また友樹はじっと立ち止まって耳を澄ましていたが、つと廊下の左側に向き直った。倉庫だ。明はここで傷みの激しい古道具を修理したり、修理途中の古道具を保管したりしていた。音は確かにそこから聞こえてくる。
 友樹は最大限の忍び足で倉庫の扉へじりじりと近づいた。慎重にドアの正面に立ち、ドアノブに手を掛ける。深呼吸をしてから、一気にドアを開けた。
「のうわあぁぁぁ!」派手な叫び声と同時に、何者かが倉庫の床に(しり)(もち)をつく。一つ結びの天然パーマに胡散臭い馬面、良雄だ。とんでもなく驚いた様で、両目を見開いて友樹を凝視している。
「はあぁぁー、友樹君か。びっくりした……」
 それはこちらの台詞(せりふ)だったが、気を取り直して友樹は単刀直入に尋ねた。
「良雄伯父さん、こんな所で何やってるんですか?」
「え、何ってそりゃあ」と言ってから、良雄は友樹の顔を見て二度ほど瞬きをすると、はっとした顔になり
「あー、ちょっと言えないかなー」と、やや焦った様に付け加えた。
 怪しい。凄く怪しい。倉庫の中を見回すと、尻餅をついている良雄の横には修理中の古道具が入っている木箱が一つ置かれており、(ふた)は開けられている。左右の壁に設置されている棚に置かれている他の木箱も、同じように開けられたのだろう、乱雑に置き直されている。明はこういう所でも、整理整頓を欠かさなかった。友樹は自分の()(けん)にしわが寄るのが分かった。若干の(いら)()ちをそのままに、友樹は次の質問を良雄にぶつける。
「と言うか、どうやって裏口開けたんですか? 祖父ちゃんしかあの(かぎ)持ってないはずなんですけど」
 良雄は焦りの顔から一転、きょとんとした顔になった。
「ああ、友樹君はまだ聞いてなかったんだね」
「何をですか?」
「実は僕がこの店を継ぐことになったんだよ」
 青天の(へき)(れき)、とは正にこのことだった。友樹はよろよろと立ち上がり、少し誇らしげに(ほほ)()んでいる良雄をまじまじと見つめた。こいつが? 友樹はもう一度適当に並べられた棚の木箱たちを見た。明の道具への信念も知らないであろう、こいつが? 驚きと不快感が濁流となって、友樹のなけなしの良雄への信頼を押し流した。そんな気がした。
「本当はもうちょっと僕がこの仕事に慣れてから、伝えるつもりだったんだけど。頼りなくてごめんね」
 何か言おうとした。けれど、どんな言葉でもこの場では、薄汚い(ののし)りに変わってしまう予感がした。友樹は息を吸い、顔を上げた。
「座敷の線香、消えちゃいそうでしたよ」
 友樹は倉庫を出て、後ろ手でドアを閉めた。「あ、忘れてた!」という良雄の声がドア越しに聞こえてきたが、構わず元来た通路を進んでいく。
 座敷にたどり着き、棺桶の近くまで歩み寄る。線香は本当に短くなっていて、後二分も放っておけば消えてしまいそうだ。友樹の口から、ふうっとため息が漏れ出た。
別にどんな人が店主になっても不満は無いつもりだった。友樹の中で明の存在が唯一無二である以上、その不在を完璧に満たしてくれる人が現れるとは思っていないし、仮に新しい店主が明の様に振る舞ったとしたら、それは友樹の目にはある意味冒(ぼう)(とく)として映っただろう。そう割り切っていたはずなのに、いざ()(さい)な祖父との違いを目の前にすると、どうしても戸惑いを抑えられない。そういう意味では、きっと自分は良雄に憤っている訳じゃなく、店主が代わることにまだ耐えられないだけなんだろうな、と友樹は思った。その内慣れるはずだ。友樹はもう一度息を吐いた。
もう寝よう。良雄が座敷に帰ってくる前に二階に上がっていたい。どのみちこの先何度か顔を合わせることになるだろうが、少なくとも今夜は会いたくはなかった。
 (かかと)を返して廊下に面する引き戸へと歩いていく。引き戸に手を掛けて、気がついた。むずがゆい様な感覚が、友樹の背中をそっと撫でる。

「あの」視線だ。はっきりと感じる。

ゆっくりと振り返る。が、誰もいない。いや、

いる。二枚組の屏風の隙間から「誰か」がこっちを覗いている。

 ヒュッと友樹は息を飲んだ。そんな訳がない。だって屏風は壁に接する様に立てられているのだ。裏に人が入る様な空間はない。でも、いる。確かに、誰かが屏風の裏にいるのだ。冷や汗が体中から吹き出す。
 屏風の裏側の「誰か」は、片目だけをこっちに覗かせていた。時折瞬きをしながら、じっと友樹がいる辺りを見つめてくる。恐怖というよりも嫌悪感と不快感が、ねっとりと自分を包み込む様な感覚に友樹は襲われた。どうにかしないと、逃げ出さないと。気持ちが焦るばかりで体がついて行かない。が、どうにか友樹は右足を一歩、引き戸へと向かわせることに成功した。
次の瞬間、友樹の周りをさまよっていた「誰か」の視線がピタリと僅かに動いたその右足を(とら)えた。そのまま少しずつと目線を上げていく。友樹はすぐに気がついた。こいつ、目を合わせる気だ。
目線をこちらから外さなければ。友樹は首を無理矢理動かすが、どういう訳か両目はずっと屏風の隙間に吸い寄せられる。必死の抵抗の間にも、徐々に視線は上ってくる。

 じりじり。胸。
 じりじり。首。
 じりじり。顎。
 じりじり。鼻。

「ごめんごめん。僕の代わりに線香見ててくれたんだね、ありがとう」
 良雄が座敷に入ってきた途端、張り詰めていた輪ゴムをバチンと切った様に、体が自由に動く様になった。無意識に全身に力を入れていた様で、勢い余って友樹はその場で転んでしまう。
「え、大丈夫?」
 良雄からしてみれば、(おい)っ子が突然目の前でぶっ倒れたのだから、当然驚き助け起こそうとする訳だが、友樹だってそれどころじゃない。立ち上がり素早く屏風の方へ向き直る。
 誰もいない。当然、屏風の後ろにも。屏風だけが白けた様に壁により掛かっているだけだ。
「ほんとに大丈夫? 友樹君、顔真っ青だよ」
「……ちょっと転んだだけです、ありがとうございます」
 念のため、おっかなびっくり屏風に近づき、壁との隙間を覗いてみた。何もない、(ほこり)一つさえない。
「ねえ、本当に大丈夫かい?」心配そう、というより(いぶか)しげに良雄が顔を覗き込んできた。捜し物かい? と。
「伯父さん」
「ん、何?」
「何か、変な感じしませんか?」
「いいや、全く」相変わらず訝しげに友樹を眺めていた良雄だったが、はたと気がついた表情になり、
「多分疲れてるんだよ。ほら、友樹君も色々手伝ってくれてたしさ。後は僕が見ておくから、もう寝た方がいいよ」と友樹の肩を(いたわ)る様に(たた)いた。どうやら、ここ最近の慌ただしい非日常のせいで、甥っ子が参ってしまったと思った様だ。
 駄目だ。あの「誰か」は良雄が座敷に入ってきた時点で消えていたのだろう、全く気付いていない。友樹はぐるりと座敷を見渡したが、もうあの視線は感じられなかった。思えば、通夜直後に感じた視線も出所は同じなのだろうか。
 もう一度屏風を眺める。違和感はまるで夢の様に消え去ってしまった。何なら夢であって欲しい。それでも、あの「誰か」は確実にいた。存在できるはずのない空間に、いた。あの不快感や嫌悪感と一緒に。
 友樹は鳥肌の立った腕を撫でた。当然その夜は眠れなかった。


「それで、俺はこの話を受けて、なんて言えばいいわけ?」臼山直之(うすやまなおゆき)は眉をひそめて友樹の顔をまじまじと見た。身長百八十センチで筋骨隆々な直之が、眉をひそめるとかなり凄味がある。
「別に、何も」友樹は答える。「強いて言えば、アドバイス」
 今日は高校の前期最終日だ。既に終業式を終え、そろそろ正午に差し掛かる教室は、(おの)(おの)の下校準備を済ませた生徒たちから放たれる解放感と高揚感で満たされていた。皆が口々にこの先一ヶ月をいかに有意義に過ごすかを話し合っている中、友樹は隣の席の直之、に例の通夜の夜に起こった不気味で奇妙な出来事を語って聞かせたのだ。
「アドバイスって、何だよ。『もっとストーリーに厚みを持たせてみましょう』みたいな感じのこと?」
「違う違う。今後僕がどうするべきかっていうアドバイス」
「今後って……、え? 今の実話なのか?」細目を見開いて直之は聞き返した。
「まあ、一応ね」
「一応って、なんだよ」
「僕自身も、この話が本当なのかどうかは疑わしいと思ってる。けど、だからと言って全部妄想だったなんて鼻で笑うこともできない。だから」
「だから?」
「直之にもモヤモヤして(もら)おうと思って」そう言いながら友樹は左隣に座っている直之に何かを(こす)りつける振りをした。
 直之は鼻にしわ寄せ、露骨に嫌そうな表情を作る。
「まあ、そういう訳でさ、ここは一つ僕に導きの光を」
「アドバイスかぁ……」(うな)りながら直之は太い腕を組んだ。制服越しでも盛り上がった大胸筋のシルエットがくっきりと分かる。
 友樹と直之は同じバレーボール部に所属している。ポジションが同じで、一、二年を通して同じクラスでもあり、結構仲がいい。どれぐらいかと言えば、突然怪談――それもオチのないやつ――を友樹が話し出してもまともに聞いてくれるほどには。
「正直俺はその屏風の化け物よりも、あっちの方が気になるんだけど」
「あっちって、何?」
「あー、話に出てきたお前の伯父さん。髪が長い方」
「良雄伯父さん?」
「そうそれ。その伯父さんはさ、そんな夜中に何してたんだよ」
「そりゃあ、色々でしょ。次期店主ってことでさ、店の再開準備とか有るんじゃないかな」
「それ、そんな夜中にやる必要無いだろ」
 一拍置いて「確かに」と友樹は呟いた。確かに、その通りではある。あの夜は良雄が次期店主になるというショックと、屏風から覗く不気味な「誰か」のせいで、すっかり忘れていたが、よく考えればおかしな話だ。そもそも深夜なんて、何をするにしても不向きな時間帯である。暗いし、物音も立てられないし、人手が欲しくても誰も呼べない。倉庫の整理なんてもってのほかだろう。
「俺は心霊現象とか全然詳しくないし、なんなら信じてないまであるけど、お前の伯父さんは人間だからな。断言できる。絶対怪しい」
「じゃあ、何をしてたのさ? だってもう自分の店なんだ、物を盗んだりしても意味はないよ」
「うん、そこまでは知らん」
「なんだよそれ」友樹は思わず笑ってしまった。が、直之はいたって真面目に続ける。
「少なくとも、日中にできない様な、後ろめたいことをしてたのは確かなんだ。気をつけた方がいいぜ」
「そう、私も気をつけた方がいいと思う」
 背後からの声に友樹と直之は振り返ると、色白の丸顔に丸眼鏡を乗っけた(たか)(はし)()()悪戯(いたずら)っぽく笑って立っていた。
「どこから聞いてたの」友樹は振り向いた体勢のまま尋ねる。
「どこからも何も、ナオの『気をつけた方がいいぜ』しか聞こえてないけど」
応えながら由美は空いていた二人の前の席に移動して後ろ向きに座った。
「何かあったの?」
 由美は一年生の頃二人と同じクラスになり、友樹とはそれ以来の仲だ。が、直之とは所謂幼なじみという関係らしく、彼女は直之のことを「ナオ」と呼んでいた。
 興味津々といった顔つきの由美に、友樹は渋々通夜の晩の一部始終を()み砕いて説明した。聞くにつれて由美の顔は徐々に輝いていき、全て聞き終えると幸せそうにため息をついた。うっとりした表情の由美を前に友樹と直之は顔を見合わせる。
「おい、どうかしたか?」直之が不審げに声を掛ける。
「あのね」突然由美が口を開いた。「私ちっちゃい頃に『トム=ソーヤーの冒険』を読んだことがあるの」
 脈絡のない自分語りに友樹は少々面食らったが、これが由美の平常運転だったことを思い出す。
「児童文学っていってもまあまあの長さだったから、結構読むのに苦労したんだけど、凄く面白かった。何が良かったかって言ったら、トム=ソーヤーとハックルベリー・フィンの二人が自由気ままに冒険してる姿が最高だったな。特にミシシッピ川を(いかだ)で下ろうとする話は今でも好き」
 ここで由美は一呼吸開けて、ぐいっと前に乗り出した。
「そんな感じで読めば読むほど『私も冒険してみたい』って思う様になって、読み終わって『さあ、冒険だ!』って立ち上がって、気付いたの」
 由美は二人の顔を見つめて、重々しく言った。
「私の近所に、ミシシッピ川は、無い」
友樹と直之は顔を見合わせる。
「そうか」直之が努めて素気なく返したが、由美は構わず続ける。
「百歩譲ってね、ミシシッピ川が無いのは許せるわけ。でもさ、よく考えたら、私の周りに冒険できる場所なんてもう無かったの。森も川も海も、もう全部つまらない大人たちに冒険されていて、くだらない団地と用水路に変わってた。小さかった私がトム=ソーヤーになることは、もう無かった」
 いつの間にかうつむいて語りかける様に話していた由美は、突然顔を上げると、
「しかし、今!」と勢いよく友樹に指をさした。
「うわ、やめろ」友樹は突き出された人差し指を手で払って追い返す。
「私の目の前に『冒険』が到来した。屏風の化け物? 怪しい伯父さん? 最高じゃん」冒険とやらを歓迎する様に由美は両手を広げた。
「人の不安の種を冒険呼ばわりしないでくれ」友樹は一応文句を言ってみる。
「お前って本読むんだね」直之が初耳という表情で由美を指さした。
「ちょっと、やめてよ」直之の指を由美が手で払って追い返す。
「まあ、本題に戻るとさ」
自分から脱線させておきながら、会話の修正を試みる由美には()(はや)清々しさすらあった。
「その伯父さんは絶対クロだよ。多分」
「根拠はなんだ」直之が素早く問い返す。
「屏風の化け物の話してたじゃん。そいつは伯父さんの仕掛けてる監視カメラなのよ。だから視線だけ感じて姿を捉えることはできないってわけ。これで(つじ)(つま)が合う」
「だとしたら友樹が倉庫に入った時に何で驚いたんだよ。それに友樹は『誰か』が覗いてたのを見たんだろ」
「うん。あれはカメラなんかじゃなかった」
 二人の前では冗談めかしてはいるが、友樹にとって正直あの夜の出来事は、思い出すだけでも不快だった。友樹は腕の鳥肌をそっと(ぬぐ)った。
「ほらな。あとお前『根拠』の意味分かってないだろ」
「なに、馬鹿にしてるの?」
「そこ、うるさいぞ。あと高橋は早く席に戻れ」
 二人がやり合っていると、教室に入ってきた担任が由美を注意しながら、教卓に通知表を置いた。
「はーい」適当な返事をしながら由美は二人の後ろの席に着くと、身を乗り出し、(ささや)いた。
「じゃあ、明日の十一時に、えーと、お店の名前何だっけ」
「寺島道具店」答えながら友樹は不穏な空気を感じ取っていた。まさか、こいつ。
「寺島道具店に集合ね」由美は何でも無いかの様にさらっと言った。
「え、何で?」と友樹。
「え、俺も?」と直之。
「何、夏休みの初日に用事でもあるわけ?」
由美の尋問まがいの質問に、二人は押し黙った。明日はバレーボール部の練習はない。そしてこれといった予定がある訳でもない。直之も静かな所を見ると、状況は同じ様だ。
「よし、決まりだね」由美は(うれ)しそうに呟いた。友樹は思わず天を仰ぐ。


 ドアを開けて玄関に入ると、冷気がすうっと友樹の体を包んだ。真っ昼間の初夏の熱気が遠のくのが分かる。靴を脱ぎ、ひんやりとした廊下を進み、リビングのドアを開けると、父親の守がソファに腰掛けスマホで電話をしていた。友樹の帰宅に気付いた様で、スマホを耳に当てたままチラリと振り返った。砕けた口調なところを見ると、相手は結構親しい間柄なのだろうが、表情は険しい。こういう時の父親は面倒なので、鞄を片付け、部屋着に着替えて、とっとと二階の自室に逃げようとしたが、
「友樹、ちょっといいか?」
捕まってしまった。
 渋々リビングに戻ると、守は怖い顔のまま壁に掛けられたカレンダーを確認していた。別におっかない父親ではないのだが、少々オンオフの切り替わりが激しすぎるきらいがある。今は、完全にオンだ。これは長引くぞ。
「どうしたの?」
悟はカレンダーから目を離すと、ため息をついて話し出した。
「祖父ちゃんの店の土蔵の鍵、どこにあるか知ってたりしないか」
「土蔵の鍵?」思わぬ質問に、友樹は思わず聞き返す。「知らないけど」
 寺島道具店には店舗に併設されている倉庫とは別に、店舗と母屋に挟まれた中庭を半分占領する形で土蔵が鎮座している。この土蔵には様々な理由で売り物にできない古道具が収納されていた。道具の損傷が祖父の手には負えない物、価値のありそうな骨董品――例えば、引き取ったはいいものの道具というより芸術品の類いで店に置く訳にはいかず、専門家の鑑定を待っている物――なんかである。
そして、土蔵の扉には常にビニール袋で保護された、古風な南京錠の様な馬鹿でかい鍵がかかっており、滅多に開けられることはない。大体年に二回、冬と初夏に大掃除がされており、本来であればもう初夏の大掃除は終わっている時期だ。(ちな)みに友樹も土蔵の中を覗いたのは数えるほどしかない。
「さっき良雄から電話があってな、土蔵の鍵が無くなってるらしいんだ」
「え」
「良雄の方で一通り探し回ってはみたらしいんだが、そもそもまだ店と母屋の作りに不慣れなのもあって、上手くいってないんだとさ」
 あ。友樹は勘づいた。面倒くさいぞ、これ。
「お前明日から夏休みだろ。どこかで探すの手伝いに行ってくれないか?」そう言い終わった後、友樹の表情がみるみる曇っていくのに気付いた様で、
「まあ、そんな顔するなよ。良雄が苦手なのも分かるけどさ、父さんも忙しいんだ。頼んでもいいか?」
と付け加えた。どうやら良雄から不穏な関係をリークされたらしい。余計なことを、と友樹は顔をしかめる。
「鍵屋さんとかに頼んだら?」
「いや、もう呼んだらしい。呼んだんだが、物が古すぎて手に負えなかったそうだ。しかも良雄が言うには、骨董的な価値があったみたいで、あんまり乱暴にしたくないだとさ」
 友樹はちょっとイラッとした。明にだって土蔵の鍵に骨董品としての価値があることぐらい、当然分かっていたはずだ。それでも明は「道具」として使うことを選んだ。恐らく良雄は、さも自分が初めて気付いた様に、父に報告したのだろう。祖父の精神を踏みにじられた様な、大事な何かを下世話な会話のネタにされた様な不快感が友樹に纏わり付く。
 元々消えかけていたやる気の火が、完全に燃えカスになったところで、友樹の頭に期待に満ちあふれた色白眼鏡の由美の顔と、もの凄く嫌そうな表情を浮かべたゴツい直之の顔が浮かんだ。友樹はおもむろに悟へ問いかける。
「その鍵探しに、僕の友達も連れて来させていいかな?」
「ん? 別に良いけど、今時の高校生は古道具屋を楽しめるのか?」
 もう一度、友樹の脳内で両手を広げて喜ぶ由美の姿が再生された。直之のは……無かった。
「喜ぶと思うよ、多分」
「ほんとか、凄いな」歯を見せて笑った所を見ると、ちょっとだけオフになった様だ。よし、今日は早いな、と友樹は安堵する。
 ふと、「後ろめたいことをしてるのは確かなんだ。気をつけろよ」という直之の言葉がリピートされる。それに合わせる様に、あの夜の、倉庫の中で尻餅をついた良雄の情けない顔が脳裏をよぎった。これも、後ろめたいことなのか。それとも、本当にただ無くしただけなのか。
こんなことなら、真夜中の探索じみた真似は止めとくんだったな、と友樹はちょっと後悔した。そしたらこんな風に頭を悩ます必要も無かった。面倒ごとは嫌いだし、冒険もお断りだ。こういうのはやりたいやつがやれば良い。その点由美は適任だな、そう思い直し、友樹はリビングを出た。

「一石二鳥って、正にこのことだよね」由美が寺島道具店の店先に自転車を停めながら、心底楽しそうに言った。
 快晴とまではいかないが、午前十時の日差しはまあまあ強い。早くも夏本番と言わんばかりの気温に友樹と直之は少々滅入っていたが、残念なことに由美は元気だった。
「冒険に宝探しも追加されるなんて、私は運いいな」
「お前はほんとに気楽だよな」由美とは対照的に直之は恨めしげに呟いた。どうやら鍵探しの人員にされることを理解しているようで、鋭い眼光を友樹に向けてくる。
「まあ、そんな怖い顔せずにさ、早く中に入ろうよ」
 店には「閉店中」の札がかかっているところを見ると、どうやら店に良雄はいないようだ。母屋で捜し物かと見当を付けて、店を回り込んで中庭に入ると
「あれが例の土蔵か」直之が左手を指さして言った。
「なんか……違和感ない?」由美もそちらを見て、少し戸惑うように言う。
 確かに、比較的手入れの行き届いた中庭に、古ぼけたずんぐりむっくりの土蔵はやや不自然に見える。夜のうちに歩いてきて、ついさっき「よっこいしょ」と腰を下ろした様に見え無くもない。それもそのはずで、店舗と土蔵が先にあって、明が店を引き継いだ時に母屋と中庭を増築したのだ。その後店舗は何度も改装を繰り返し、土蔵だけそのままの姿で残っていったというカラクリである。
 そんな様なことを二人に説明していると、母屋の玄関に到着していた。中で物音がするあたり読みは的中したようだ。呼び鈴を鳴らすと「はーい」という返事と一緒に、階段を降り廊下を小走りに向かってくる足音が聞こえてくる。が、ドンッ、という何かが床にぶつかったような音と、唸るような苦しみの声が響いた。
「……は~い」少しして弱々しい声と共にゆっくりとドアが開いた。中腰の体勢で顔をゆがめた良雄が姿を現す。その背後を友樹は覗いてみたが、玄関マットがくしゃくしゃになっているのを見る限り何があったかは、まあ、自明だった。
「あの、大丈夫ですか?」数秒の沈黙のあと、直之が質問した。笑わなかったのは普通に偉いと友樹は思った。
「ちょうど朝ご飯作ってて、手が離せなくてね。焦って転んじゃったけど、大丈夫だよ。君たちが今日手伝ってくれる友樹君の友達かい?」
漢方薬をバケツ一杯飲み下したような表情で、良雄は答えた。どうやら父親から良雄へ連絡が行っていたようだ。余計な会話をせずに済んだことに友樹は少し気が軽くなる。
「そうです! よろしくお願いします」由美が元気よく答えた。
「よろしくね。えーと、じゃあ、三人で店の方を探して貰おうかな。母屋の方は僕がやっておくから。あ、ちょっと待ってね」
 良雄は慌ただしく玄関を上がり、廊下を引き返していった。少し遅れて階段を上る音も聞こえてくる。由美が息を吐き、言った。
「なんて言うんだろう、どんくさいと言うか」
「胡散臭いな」直之が言葉を継いだ。
「ほら、言ったでしょ。あの人胡散臭いんだよ」
「あの人が、屏風に監視カメラを仕込んでるのか……」由美は腕を組んで、少し考え込んだが
「なんかイメージと違うなあ」と残念そうに息を吐いた。
「お前まだそれ言ってたのか」直之は大袈裟に目をむく。
 また足音が戻ってくると、良雄はサンダルを突っかけて玄関に降り、友樹に鍵を手渡した。
「はい、これ店の鍵ね。じゃあ、よろしくお願いします。昼頃になったら母屋に戻っておいでね。昼ご飯は僕が作るからさ」
 三人はそれぞれに挨拶を返すと、ぞろぞろと裏口へ向かった。友樹は鍵を開けて店内と倉庫に面した廊下に入ると、ひんやりとした人工的な風が三人を出迎える。良雄が気を利かせて冷房を入れておいたようだ。
「で、そもそも鍵っていってもどんな形なんだよ。さっきの錠前のサイズと見合うやつだと、結構大きそうだけど」
「いや、そうでもないよ。大体手の親指ぐらいかな。形はゲームとかで出てきそうな、ザ・鍵って感じ。っていうか問題は、『どこを探すか』なんだよね」
「なんで?」
「実は言ってなかったけど、僕を含めて親戚全員が、祖父ちゃんがどこに鍵をしまってたか知らないんだよ」
 これは昨晩、良雄が親戚に電話を掛けまくった結果発覚した事実だった。結構重要な鍵である上に、そもそも使用頻度が低かったこともあって、誰も場所が分からず、且つどこにしまわれているのか誰も見当がつかない、と言うのだ。当然、これを聞いた守の機嫌は最悪になった。
「おお、それは凄いね!」目を輝かせて由美は叫んだ。大方、ヒント無し、と言うところに更なる「冒険」を感じたのだろう。
「ああ、最悪だ」直之が呻いて友樹を睨みつけた。
「お前隠してたろ」
「人聞きが悪いなあ、忘れてただけだよ」
 直之の非難の視線を躱すように、友樹は店内に通じる引き戸を開けると二人を中に入れた。口々に喜びの声やら文句やらを発していた二人は、「へえ」と声を出す。
「思ったより広いね。ねえ、サンダルないの?」
「レジの横の靴箱に入ってるよ」
「俺のも取ってくれ」
 店の入り口近くにレジがある以外は、店内は殆どが棚で埋め尽くされており、その棚には整然と古道具が並べられている。棚も小さなアンティークから馬鹿でかい壺まで種類別に分けられていた。祖父の明の頃から変わっていない配置は、良雄が父親を意識してあえてそのままにしているのか、それともただ放置されているだけなのか。友樹は近場の棚を軽く指で触ってみたが、埃は積もっていない。少なくとも、良雄は掃除を欠かさずやっているようだ。友樹はちょっと複雑な気持ちになる。
「よし、本題に入ろう」直之が可愛らしい食器が並べられた棚の前で、腕組みしながら宣言した。険しい表情だがミッフィーのサンダルのせいで凄味が全く無い。
「まずはどこから探すか、だよね」わくわくが抑えきれないといった様子で由美が会話に参加する。
「まあ、特に当ても無いし、まずはここから始めようか」友樹はぐるりと店内を見渡した。かなり大変な作業になりそうな予感がする。


「うーん、無いね」傘を差したカエルの置物を元の位置に戻して、友樹は腰を上げてのびをした。残る二人もつられたように腰を伸ばす。
「もう十一時半か。結構探したな」
「もうこの部屋には無いんじゃない?」
友樹もこの由美の意見には賛成だった。はっきり言って、まあまあ大変どころではなかった。三人で手始めにレジの下の棚や小さな戸棚などの、如何にも鍵をしまいそうな場所から取り掛かりだしたのだが、すぐに調べ終わってしまい、その後は店内の商品という商品を片っ端からどかして虱潰しに探していったのだ。
 一旦休憩しよう、と友樹は提案し、三人は壁際にあった売り物のベンチに腰掛けた。
「なあ、ちょっといいか?」おもむろに直之が友樹の方を向いて、言う。
「どうしたの?」
「お前さ、本当に鍵が『なくなった』って、思うか?」
「……正直、どっちか分からない。誰かが盗んだのかもしれないし、祖父ちゃんが訳の分からないところにしまってるだけかもしれない。ただ、良雄叔父さんは確実に何かを隠し事をしてる」
「それって、お葬式の夜に倉庫で何かしてたから?」売り物の茄子の形をした箸置きを手遊びながら、由美が質問する。
「それもあるけど、僕たちがここに到着した時に、叔父さんは『朝ご飯を作ってるところだった』って言ってた」
「ああ、言ってたな」
「でも、僕には階段を降りる足音が聞こえた。台所は一階なのに」
 気味の悪い沈黙が三人の間に舞い降りた。由美は箸置きを棚に戻して口を開く。
「ねえ、母屋の二階には何があるの?」
「寝室と来客用の部屋、あと祖父ちゃんの書斎」
「それだ」
「それじゃん」
 二人は同時に声を上げ、そして眉をひそめてまた同時に文句を言った。
「何でそういう大事なことを先に言わない?」
「すぐに気付いた訳じゃないし、良雄叔父さんが母屋にいる間は出来ることが殆ど無いと思ったから」
「そうかもしれないけどさあ、なんか抜け駆けというか、ズルいよね」
「まあまあ、落ち着いて。で、やっぱり僕は良雄叔父さんが怪しいと思う。ただ、正直なところ、鍵を盗んだところで叔父さんにメリットは無いんだ」
「そんなこと無いでしょ」由美は何故か力強く挙手をして、反論する。
「土蔵の中に見られたくないものが入ってるのかも」
「もしそうなら、とっとと土蔵を開けて処分した方が良いだろ」
「うるさいなあ、ナオはちょっと静かにしてて」由美は眉間にしわを寄せ考え込んでいたが
「じゃあ、こういうのは?」と再び声を上げた。
「土蔵の中には滅茶苦茶値打ちのある骨董品があるの。でも、本来は遺産の一種だから独り占めが出来ない。だからわざと鍵を無くして、ほとぼりが冷めてからこっそり売り払うつもりでいる。どう?」
「どうって言われてもな。そもそも全部根拠のない妄想だろ」
「じゃあナオは私を納得させる説明が出来るわけ?」
 徐々に険悪な雰囲気になってきたので、友樹は割って入ることにした。こんなところで口喧嘩をされても困る。
「二人とも、もう良い時間だから母屋に行ってご飯にしない?」
 二人はつと顔を見合わせると、お互い苦笑して「そうしようか」と立ち上がった。店の振り子時計はもうすぐ正午を知らせようとしている。

 三人は裏口を出て母屋の玄関へぞろぞろと向かった。別に楽しみと言うわけではなかったが、体はそれなりに疲れていたし、良雄が作る料理がどんなものか友樹はちょっと気になっていた。が、
「鍵閉まってるよ」由美が不満げに報告してきたのだ。
 呼び鈴を鳴らしまくったり、外から呼んでみたりもしたが、さっぱり反応はない。あいにくLINEも電話番号も知らないので連絡も取れない。所謂八方塞がりを、思わぬところで体験する羽目になってしまった。
「やっぱり私たちを飢え死にさせて、鍵を隠し続けるつもりなんだ」
「いいからどこか開いてる窓が無いか探してくれ」
 と言うわけで、母屋の周囲を回りながら鍵のかかっていない窓を探していると、縁側の窓の鍵が壊れていることが判明した。外から見るとしっかりロックが掛かっているように見えるのだが、留め具の部分が噛み合っていないのだ。
 靴を脱いで縁側に上がり、廊下に足を踏み入れる。目の前の障子を開けると、広い座敷が三人を出迎えた。
「なあ、これがもしかして例の『屏風』か?」直之が指さした先には正しくあの屏風が立っていた。葬式の夜とは違い棺桶や座布団が無くなっているせいか、より一層その存在が際立っている気がする。
「なんか、普通だね」由美がちょっと残念そうに呟いた。
 そう、普通なのだ。友樹自身も葬式の翌朝、ビクビクしながら朝食を食べに座敷に入ったのだが、屏風からは怪しげな気配はおろか、そもそも調度品としての存在感が全く無かった。本当に、ただの目立たない屏風だったのだ。
 由美は屏風に近寄ると、躊躇無く裏を覗き込んだり、縁を慎重になぞったりし始めた。目当てのものは小型の監視カメラか何かだろう。
「ねえ、この絵は何の絵なの。この鬼ごっこみたいなやつ」目的の監視カメラが無く、やや残念そうに屏風をなぞりながら、由美は質問してきた。
 二枚組のどちらにも絵が描かれており、左側に後ろを振り向き走って逃げる二人の古典の教科書で見た平安時代風の子供、右側には同じく子供のような背格好の人間が、仮面を着けてその二人を追いかけている。それを全く無人の通りでやっているのだ。
「昔の鬼ごっこ、ってことで良いのか? にしてもこの仮面には見覚えないけど」右側の仮面を着けた子供を指さしながら、直之は不思議そうに言う。
「なんか、この仮面、ぞわっとするね」
由美の言うとおり、右側の仮面の見てくれは、お世辞にも素敵なものではなかった。まず、目が怖い。異常に見開かれており、ただならぬ何かを感じさせる。口も牙こそ生えていないものの、不自然に横へと引き延ばされている。
「あと、何でこの絵の通りは無人なんだ?」
「人を書くの面倒くさかったとかかな」隠しカメラを諦め切れてないのか、今度は屏風に覆われていた壁を由美はベタベタと触っている。
「でも、だからって細かい描写が無いわけじゃないから、多分わざと描かなかったんだと思う。ほら、こことか」友樹が指を指して説明しようとしたその時、

ミシッ

 三人は同時に天井を見上げた。二階だ。
「良雄叔父さん……だよな?」
「多分。というか、もっと大事なことがある」
「大事なこと?」
「今思いついたんだけど、これだけ騒いで返事が無いってことは」
「私たちにまだ気付いてないし、もしかしたら何やってるか覗けるかも」由美が台詞を引き継いだ。
三人は顔を見合わせ、同時にうなずいた。やるなら今だ。
友樹は素早く無言で、二階へ上がる階段に一番近い座敷の引き戸を指さした。二人は頷いて応えると、友樹の後を最高級の忍び足で追う。
「階段、滑りやすいから気をつけてね」
 小声でやりとりしながら無事に階段を登り切り、寝室、客室をゆっくり通り過ぎる。近づいていくと案の定、明の書斎のドアが薄く開いているのが分かり、そこから良雄のものと思われる鼻歌が小さく聞こえてきた。床が三人の体重できしむ音で友樹の心臓が縮み上がる。ドアの前で三人は立ち止まり、互いに目配せをすると、三者三様に覗き始めた。

 書斎の中にいたのは、思った通り、良雄だった。馬鹿でかいヘッドホンを付けて、書斎のいくつもある本棚の中の一つの前で本をパラパラとめくっていた。このヘッドホンのせいで呼び鈴も声を呼んでも返事が無かったのだろう。甥っ子と友人たちから覗き見られているとはつゆ知らず、御機嫌に鼻歌を歌っている。そうしている間にも、良雄は手元の一冊を本棚に戻し、次の本をパラパラとめくり始める。このあたりから友樹は良雄が何をしているのか気がついた。鍵を探してるわけじゃない。本だ。何かの本を探している。わざわざ中身を確認していると言うことは、目当ての物がどんな見てくれなのか知らないのだろうか。
重要な点は、良雄がその捜し物、もしくは探しているということ自体を友樹たちに知られたくない、と考えていると言うところだ。そう考えると、良雄がやっているのは、鍵探しに関係することでは無い。もしかしたら、由美の戯れ言に近いことを、本当にやっているのかもしれない。直之と一緒に妄想だと笑ったはずなのに、こうして怪しげに書斎を漁っている良雄を見ると、友樹の中でその妄想が形になって、むくりと起き上がってくるように感じた。

想像と妄想が脳内で二人三脚を開始していたせいか、直之に肩を叩かれるまで、友樹は自分が扉の前で中腰の姿勢まま固まっていたことに気付いていなかった。直之が声を潜めながら指で階下を指し示す。
「由美が一旦下に降りたいってさ」
「喉が渇いたの」由美も小声で会話を参加する。
「先に降りてなよ。台所は階段を降りて突き当たりを右にある」
「了解」足音を忍ばせながら、由美は廊下を引き返していく。それを見送って、直之は友樹に問いかけた。
「どうする? 入っちまうか?」
「……やめよう。何の用意も無く問い詰めても、のらりくらりされるだけだろうし。それにこれ以上叔父さんとの関係に角を立たせたくない」
 直之は、それもそうだな、という風に頷くと、ゆっくりと振り返り、そろそろと元来た廊下を戻っていく。もう一度書斎の中の様子を確認し、友樹も後に続く。階段を半分ほど降りると、ようやく安心して普通に話せるようになった。
「にしても、叔父さんが何してたと思う?」
「多分だけど、様子を見た感じ、何かの本を探してた様に見えた」
「やっぱりか。俺もそんな感じに見えた。少なくとも、鍵を探してる訳じゃなさそうだな」
「本当に、何してるんだろうね。本を探してるのなら、葬式の夜に倉庫で何をしてたんだって話だし」
「そうか、そっちのこと忘れてた。本探すんなら、倉庫なんかいくわけ無いよな……あれ?」
 二人は一階の台所の前まで来ていた。当然その辺りに由美がいると思ったのだ。が、いない。
「台所の場所、分からなかったのか? あいつ」
「いや、多分ここに来た後、別の部屋に行ったんだと思う」友樹はシンクに置かれたコップを指さしながら言った。
「じゃあ、座敷かな。あいつ屏風に興味あるみたいだったし」

 何気なく、今由美は座敷に一人でいるのか、と友樹は思った。一人で、あの屏風と。なぜか胸騒ぎがした。凄く、嫌な予感がした。
 勝手に足が前に進む。直之が「おい、どうした」と言っていたが、構わずに友樹は座敷の引き戸に手を掛けて、気がついた。音がする。ひゅう、ひゅう、と一定間隔で。何の音だ?
胸のざわつきが最高潮に達し、友樹は一気に引き戸を開けた。

 友樹の目に飛び込んで来たのは、座敷の真ん中で棒立ちになっている由美だった。ひゅう、ひゅう、と掠れたような呼吸をしている。いや、立ってるだけじゃ無い。

 見ている。額にしわを寄せて、可能な限り瞼を見開いて、ただただ凝視している。何を。

 視線の先には、あの屏風があった。

友樹は弾けたように走り出し、由美と屏風の間に割り込んだ。両肩をつかみ、激しく揺さぶる。
「おい、しっかりしろ!」
 突然、由美の目の焦点が合った。ヒュー、と音を立てて息を吐くと、崩れ落ちるように座り込む。顔色がとんでもなく悪い。
「おいおい、マジでどうしたんだよ」数秒遅れて直之が座敷に入り、由美の様子に軽く目を見開いた。
「聞いてた話と、違うんだけど」小さく呟いて、両腕をこすりながら由美がフラフラと立ち上がる。大して冷房の効いていない座敷にいたはずなのに、シャツから覗く両腕は鳥肌がビッシリ立っていた。
「聞いてた話?」
「水を飲んだ後、暇だったからその屏風をもう一回じっくり観察しようと思って、それで、正面に立った途端に」
「あの『誰か』を、見たんだ」
「うん、その屏風の裏から、ずっとこっちを見てきた。正直滅茶苦茶怖かったけど、『これが友樹の言ってたやつか』って考えられる程には頭は回ってた。でも、その後に屏風の誰かが消えたと思ったら、なんていうか、白昼夢っていうの? 突然幻っぽいのを見たの」
「え」
 友樹は思わず声を漏らす。
「それで、どうなったの」
「内容はぼんやりとしか覚えてないんだけど、テレビの番組を切り替えるみたいに、一瞬暗転して、気付いたら誰もいない大通りを、誰かに追いかけられてた。で、私は裸足だった」
 まだ落ち着かないのか、由美は両腕をこすりながら座り込んだ。
「夢の中ではひたすら逃げ続けてたんだけど、突然肩を掴まれた感触があって、驚いて立ち止まった瞬間にまた暗転して、気付いたら友樹に揺さぶられてた」
「え、ちょっと待ってくれ。本気で言ってるのか」信じられない、といった口ぶりで直之が由美を見つめる。
「冗談とか、ドッキリとかじゃ無いよな」
「なわけないでしょ」ようやく平常運転に戻りつつある由美が、眉間にしわを寄せる。
「じゃあなんだ、本当にこの屏風には化け物が取り憑いてるのか」
「だからそうだって言ってるじゃん」
「分かった、一旦整理しよう」
 直之は一歩後ずさりして屏風から距離を取りながら、額に手を当てた。
「まず、友樹。お前は祖父ちゃんの葬式の夜に、例の怪異に出会った。それが初めてだったんだな?」
「そうだね。物心ついたときからこの屏風は座敷にあったけど、この手の体験は一度も無かったし、話に聞いたことも無い」
「そして由美。お前はお前でついさっき同じ怪異を目撃して、ついでによく分からん白昼夢まで見た」
「その夢について、他に何か覚えてることは無いの?」
 友樹の問いに由美は肩をすくめた。
「覚えてたら話してるよ、どんどん記憶が曖昧になってる気もするし」
「いや、やっぱりおかしい」
 直之は突き刺すように屏風を指さした。
「落ち着きすぎなんだ。そこまで恐ろしい思いをしたのなら、屏風のある座敷から出て行きたいってなるだろ、普通」
「……うーん。説明が難しいんだけど、別にこの屏風はそこまで怖くないの」
「矛盾してるじゃんか」
「下手かもしれないけど、例えるなら毒蛇は怖いけど、そいつを閉じ込めてるケージそのものは別に怖くない感じ。で、ケージが屏風ね。伝わるかな?」
 もどかしそうに由美が説明する。
「友樹もそうだったのか?」
「僕も上手く言葉に出来ないけど、大体そんな感じ」
 なんて言えばいいのだろう。友樹は歯がゆい気持ちで頭を掻いた。以前誰かがピッタリの例えをしていた気がするのだ。もうはっきりとは覚えてないけど。
「まあ、それを置いておいてもだ、なんでお前が幻を見て、友樹は何も無かったんだ。あと夢の中でお前を追いかけてたのは誰なんだ。それから」
「あーもう、私は分かんないって。こっちだって被害者なんだから」
 由美の声で一旦は押し黙ったが、未だに半信半疑といった表情で、直之は屏風と由美を順番に眺めている。友樹自身も屏風をじっと見つめていた。『あの誰か』は自分の妄想では無かった。しかし、分かったことはそれだけだ、とも言える。せいぜい悪夢が現実になっただけで、「なぜ、どうして」という疑問はそのままだ。そもそも友樹はこの屏風が一体いつからここにあり、誰が作ったのかさえも知らないのだ。


 ピンポーン、という極めて状況に合わない、脳天気な音が母屋全体に響いた。三人はビクッと体を動かし、同時に顔を見合わせ、つと上を向く。相変わらず二階からはまったく反応がない。
「これは、俺たちが行った方が良いのか」
「そうだね」
 という訳で三人は連れだって玄関に向かった。絶対に三人も必要無いが、誰も一人きりで座敷に残りたがらなかったのだ。
「あれ、友樹君と……お友達かな?」
 訪問者は長谷麻衣だった。友樹は自分達がここにいる理由を手短に説明し、直之と由美に彼女との間柄を話すと、逆に麻衣に質問をした。
「叔父さんに何か用ですか? 上にいるので必要なら呼んできますけど」
「ああ、もういいの。昨日の夜中に、土蔵の鍵が無くなった、って知らせが来て、正直私は明さんの親戚でも何でも無いけど、良雄さんが不慣れなお店に手間取ってたらいけないと思ってね。とりあえず来てみたんだけど、友樹君たちがいるなら安心だよ」
 良雄さんによろしく言っておいてね、と言い残して麻衣は帰って行った。車でわざわざやってきたようで、玄関越しに良雄のとは別のこぎれいな軽自動車が見える。
風のように到来し、風のように去って行った麻衣に、少々面食らった様子の由美が口を開いた。
「なんか、不思議な人だね」
「え、そうかな」
「だって歴が長いって言っても、所詮はバイトでしょ。すごく勤め先に献身的というか、私だったら無視だけどな」
「うん。『お前なら』、な」直之は鼻で笑った。それを見て友樹は、いつの間にか三人に纏わり付いていた、不気味な『誰か』による微妙な緊張がほどけたことに気がついた。麻衣さん、ありがとう。

座敷に戻って壁に背中を預けながら、直之は、ところでさ、と真顔になった。
「なあ、本当に見たんだよな」
「え、まだ信じてないの? 私も友樹も見たって言ってるじゃん」
 不愉快そうに由美は直之を睨め付ける。
「いや、もうお前らが嘘ついてるとは思ってない。さっきまで由美の顔真っ青だったしな」
「じゃあ良いじゃん」
「ただ、まだ俺は自分の目で確かめてない」
「この現実主義者め」友樹は直之を肘で小突く。
「それなら、ナオも見てみれば良いじゃんか。正直言って全くオススメしないけど」由美はあの不快感と嫌悪感を思い出したのか、顔をしかめて
「結構ろくでもないよ」と言った。
 友樹もその通り、と頷いてみる。
 直之は真剣な表情の二人を見て、一つため息をつき
「分かった、信じよう」と言った。
「なんだそのため息。気に食わないなあ」由美は少々不満げに呟く。
「まあ、とりあえず、座敷に一人で入るのは止めた方が良い。僕も由美も、一人で座敷にいたときにアイツを見てる」
「確かに、言われてみればそうだね」
「あと、何か特徴というか、条件ってあるかな」
「強いて言えば、良雄叔父さんがいっつも近くにいる、とかだろ」
「……まさかね」友樹は苦笑いした。確かにその通りだし、良雄は十分過ぎるほど胡散臭いが、この心霊現象と関わりがあるとは思えなかった。

「おーい。もしかして皆母屋にいるのかい?」二階から緊張感のない間の抜けた良雄の声が、二階から降ってきた。三人はお互いの顔を見て、いっせーのーで指をさす。友樹は直之に、直之と由美は友樹に。友樹は肩をすくめて廊下に出て、階段に向かって声を張り上げた。
「いますよー。皆座敷にいます」
「そっか。じゃあそろそろご飯にしよう。あ、そうだ」
「どうしました?」
「忘れてたよ。鍵って見つかった?」
 なるほど、こっちもすっかり忘れてたな、と友樹は思った。
「結構しっかり探しましたけど、店内には無かったです」
「そっかー、ありがとうね。お昼は炒飯だよ」
 果たしてこの「そっかー」は、『見つからなくて残念だね』なのか、『俺が隠したから見つかるわけないよね』なのか。声を聞く限り友樹には分からなかった。


 パキッと音を立てて、シャープペンの芯が折れた。折れた芯はそのまま机の上を低空飛行して、参考書のページの間に飛び込む。集中出来てないな、と友樹は思った。
「ねえ、誰か五十六ページの問題解けた?」由美の声がイヤホン越しに聞こえる。マイクと口の位置が近いのか、少々音量が大きい。
 集中出来てない原因は明白だった。「色々気になることもあるし、今夜三人で電話しよう。課題やりながらでも全然良いから」と寺島道具店からの帰り道で由美が提案したのである。軽く了解の返事をしたのだが、想像以上に通話しながらの夏休みの課題の消化は気が散る。もう三十分は経っているが、見開き一ページもワークが進んでいない。
「ちょっと、返事してよ!」反応の無さにしびれを切らした質問者が、まあまあな声量で助けを呼ぶ。
「はいはい、その問題はまずXを移項して……」直之が耐えかねた、といった様子で説明を始めた。
 昼ご飯を食べた後、三人は倉庫を探してみた。土蔵の鍵はもちろん、あわよくば葬式の夜良雄が何をしていたのか手掛かりを掴もうとしたのだが、残念なことにヒントらしい物をただの一つも見つけることなく夕方になり、良雄のねぎらいの言葉と共に帰路に着いたのだった。
 一応、昼食中に良雄に鎌を掛けてはみた。「書斎で何をやっていたんですか」と聞いてみたところ、盛大に咽せ、慌てて水を飲んでまた咽せ、肩で息をしながら「もちろん、鍵を、探してた、だけだよ」と言い、「電子レンジが壊れてたから、買い直さなきゃな」などと話題を逸らした。例に漏れず胡散臭い。
「なあ、本当に何もあの屏風について分からないのか?」どうやら由美に数学の問題を教え終わったのか、直之がおもむろに問いかけてきた。
「だから知らないって。土蔵の鍵の場所だって分かんないのに、影の薄い屏風の来歴なんて、親戚中に聞いたって無駄だと思うよ」
 倉庫を捜索中に、暇つぶしがてら例の屏風のことを話し合ったのだ。が、建設的だったかと言われると、やや苦しい。そもそも、友樹自身があの屏風について何も知らなかったからだ。
「何も?」由美が倉庫で木箱を棚に戻しながら、素っ頓狂な声で聞き返した。「そんなことってある?」
「いやいや、今ならあんなとんでもない屏風のことを、忘れてくれって言う方が無理があるけど、正直なところ、僕はあれのことを葬式の夜まで全く意識してなかったんだ」
 そう言われてもう一度屏風の見てくれを思い出したのか、由美は中空を見つめると、「まあ、確かに」と呟いた。
「僕から言えることといえば、せいぜい、気付いたときから有ったってことぐらい」
「それは、友樹の祖父ちゃんが店を引き継ぐ前から有ったってことか?」直之が棚から降ろした箱を慎重に開けながら、聞いてくる。中身は大きなひびの入った急須だ。
「あー、ごめん。そういう意味じゃない。ただいつから有ったかはっきり分からない、って言う意味。要するに僕の記憶がはっきりしてないぐらい昔から有るってこと。十年は確実に超えると思うよ」
「じゃあ、お祖父さんはあの『誰か』について何か言ってた?」ダメ元で、という感じの質問を由美が投げつけてくる。
「聞いたこともないな。僕に黙ってただけかもしれないけど」
 こんな感じで大して新しく分かったことなど何もなかったのだ。
「何も分からないってお前は言うけどな」直之の返事で友樹の脳味噌は現在に引き戻された。
「俺は帰ってから、ちょっと調べてみたんだ」少し自慢げに直之は言った。
「調べることなんて、あったっけ」音量がやや落ち着いた由美の声が問いかける。
「屏風に描いてあった、鬼ごっこみたいな遊びをしてる子供たちの絵があっただろ」
「ああ、あれね」
「あの遊び、盲鬼って言うらしい」
「メクラオニ?」友樹は思わず聞き返した。なんだそれ?
 直之曰く、盲鬼は現在の鬼ごっこの最も古い形らしく、特徴として仮面を着けた鬼が人の子を追い回すという設定があったらしい。正直、仮面を着けた鬼の役がいる、というところしか一致していない気もするが、逆に「仮面を着けた鬼ごっこ」に当てはまるのが、これしか無かったとも言える。
 直之の報告が完了してから数秒開けて
「……で?」と由美が言った。友樹も全く同じ気分だった。
「なんだ。反応が薄いな」
「内容の濃い報告をしてから言ってよ。それに多分、覗いてくるアイツと関係ないでしょ、その盲鬼ってやつ」
「そうか?」
 確かに、覗き魔と最古の鬼ごっこに大した関連はなさそうだった。
「そんなことよりさ、私今話してて気付いたことがあるんだけど」
「内容の濃い報告を頼むぞ」
「ナオ、うるさい」ドスの利いた声で直之を黙らせると、由美は
「ほら、店の商品の名前とかをまとめる、書類みたいなのってあるじゃん。なんて言うんだろ、『商品リスト』?」ともどかしそうに言った。
「うん、あるよ。祖父ちゃんパソコン上手くなかったから、紙媒体だけど」
「その商品リストにさ、屏風のこと載ってるんじゃない?」
「どうなんだろう。正直元商品じゃなかったら絶対載ってないけど、祖父ちゃんのことだから、売れ残りを母屋で使うぐらい平気でやりそうな気もする」
「言ってたもんな。友樹の祖父ちゃん、『道具』であることを大事にしてたんだっけ」
「で、商品リストはどこにあるの?」
 由美の問いに友樹は簡単に答えることが出来た。いや、答えようとした。けれど、出来なかった。なぜか。
「……母屋の二階の、書斎」
「え」
「は?」
 一拍おいて、直之が口を開いた。
「ってことは、良雄叔父さんが探してたのは、商品リストなのか」
「多分そうだと思う。あの部屋の貴重品類は遺品整理で全部片付けて有るはずだから、あの部屋にある物は祖父ちゃんの蔵書と商品リストぐらいしかない」
「それにわざわざ本を開いて確認してたこととも辻褄が合うね。叔父さんは商品リストの見た目を知らなかったんだろうな」

 友樹は考え込んだ。商品リストを探していた、ということは店の商品か在庫かについて知りたいことがあったと言うことだ。そして良雄は以前に倉庫を漁っていた。時系列にすると、①何らかの商品に用があり、まず倉庫を探した。②しかし目当ての物がなかったため、商品リストで確認しようと、取り敢えず本が大量にある書斎に目を付け、探した。……そうすると、鍵が無くなったのはなぜだろう。在庫の殆どが保管されている土蔵の鍵を、商品を探したい人間がわざわざ隠すだろうか。そうなれば、第三者が鍵を盗み出した、ということになる。
 数秒間友樹は思案した。が、全く分からない。第三者が登場した時点でもう理解不能だった。しかし、やらなければならないことは、はっきりした。まず、商品リストを探し出し、例の屏風について調べる。次に、良雄が何について知りたがっていたのか、同じく調べる。少なくとも、良雄はやましい何かをしようとしているのは確かなのだ。というわけで

「明日、もう一回僕一人で行ってみようと思う」
「え、また行くの?」由美は驚いたような声を出す。
「うん、早めにどうにかしないと手遅れになる気がするし、純粋に気にもなるんだ」
「また手伝いに来たってことにするのか?」直之が不安そうに聞いた。
「それでもいいんだけど、いざというとき邪魔が入るのは避けたいから留守を狙うつもりだよ」
「叔父さんがいつ店を空けるか分かるわけ?」
「今日の昼食中に『電子レンジを買いに行く』って言ってた」
「もし居たら?」直之が鋭い質問を投げる。
「諦める。近所の電気屋まで結構あるから、いるかいないかは、車があるかどうかで判断できる」
「どうやって入るつもり? 確実に母屋に鍵掛けて行くでしょ」
「縁側の窓の鍵が壊れてただろ」
 連投された質問に次々と答えた雰囲気に気圧されたのか、二人は「取り敢えず、気をつけろよ」とだけ言って、通話は終わった。
 静かになった部屋で、友樹は何故自分がこんなにも熱くなっているのか、つと考えた。厄介事や面倒事はお断りだったはずなのに。
 多分、と友樹は心の中で呟いた。多分、明の店が部外者に無理矢理変えられ、荒らされることをまだ許せていないのだ、あの古道具屋が悪意によってねじ曲げられるのを見たくないのだ、そう思った。
 友樹はまた、葬式の夜とは違った理由で、よく眠れなかった。

 やかましいエンジン音を近所に響かせながら、良雄を乗せてボロい白の軽自動車は走り去っていった。どうやら自転車ごと藪に隠れたのは間違いだったようで、思いっ切り排気ガスを浴びてしまい、むせかえる羽目になってしまった。
 昨晩の宣言通り、友樹は母屋に潜入すべく寺島道具店の目の前まで来ていたのだが、予想よりもかなり遅く良雄が出発したために、大急ぎで車道脇の茂みに自転車と一緒にダイビングしてやり過ごしたのである。
 服にくっついた葉を払い落とすと、藪の中でひっくり返っている自転車を車道に引っ張り上げた。肩を回しながら坂の上からチラリと見える店の屋根を確認し、残りあと少しになった坂道を自転車で一気に駆け上がる。店に到着すると自転車を目立たないよう軒下に停め、速やかに中庭へと回り込んだ。当然のことだが車は一台も止まっていない。
 念のため、友樹は呼び鈴を何回かならしてみたが、反応はなかった。ほっと一息ついて、例の縁側の窓へと向かう。鍵が壊れたままなのを確認して、手を掛ける。カラカラと小気味よい音を立てて窓が開いた。友樹は用意していたビニール袋にスニーカーを入れて、室内へ上がり、後ろ手で窓を閉めた。
 目の前に座敷へと繋がる襖がある。冷や汗が背中を伝うのが分かる。普段であればオカルトなど鼻で笑い飛ばす友樹だが、この時ばかりは台所側へと迂回した。
 廊下を進み、階段を上り、まっすぐ明の書斎へ向かう。人っ子一人居ない母屋は深夜の校舎に似た不気味な静けさがあり、心臓が波打つのが分かった。
 書斎のドアのノブを掴む。頭では誰もいないと分かってはいるけれど、この静けさのせいで余計なことを考えてしまう。呼吸を整え、一気に開け放った。当たり前だが、誰もいない。
 壁際のデスクへ迷いなく進み、下から二段目の引き出しを開けた。いつも明はここに商品リストを筆記用具と一緒にしまっていたのだ。が、何もない。空っぽだ。
 友樹は少し焦った。すんなり見つかるとは思ってなかったが、こうして行方が分からなくなると途端に不安になる。
 腕時計を確認する。最寄りの電気屋までは車で十五分だ。往復で三十分、店内に滞在する時間は十分と考えると、おおよそ四十分の猶予がある。まだ最初の五分を使ったかどうかぐらいだ。焦ることはない。
 引き出しを閉め、顔を上げて、友樹は本棚を確認しだしたが、幸運なことに商品リストはすぐに見つかった。大量のルーズリーフを分厚くまとめたもので、本棚に並ぶ他の書物とは明らかに違う。
 商品リストを本棚から引っ張り出し、デスクの上に置いた。さあ、ここからは時間との勝負だ。友樹は袖をまくった。このルーズリーフの束から、必要な屏風の情報が描かれている一枚を探し出さなくてはならない。そもそも商品リストに屏風のページがない可能性だって十分に考えられるので、結構リスキーなチャレンジではある。
 と、思っていたら、ものの二分程度で屏風のページを発見した。事前にとった屏風の写真と商品リストにある写真を慎重に見比べる。商品リストの方がかなり古い写真だったので、少々判別に難儀したが、盲鬼をする子供たちが決め手になった。間違いない。
 想像以上に順調な進み具合に気を良くしていた友樹だったが、いざ商品リストの内容を読み進めようとして、文字を追う指が止まった。

 通し番号:え―〇〇二六→なし(二〇〇〇年十二月より)
 商品カテゴリ:屏風(大型)
 価格:二万六千円→非売品
 年代:不明
 買い取り価格:不明
 来歴:不明
 前所有者の属性:不明

「なんだよ、これ」
 友樹の口から思わず戸惑いの声が漏れた。前のページと後ろのページを何枚かめくり確認したが、項目の「年代」が不明な物があっても、複数の項目が不明となっている物は一つもない。
 友樹は一歩後ずさりし、腕を組んだ。「年代」「来歴」が不明なのはまだ分かる。前所有者がきちんと覚えていないことだってあるだろう。しかし、「前所有者の属性」が不明というのは、少し理解が難しい。最初はネットを介したやりとりで買い取った商品なのかと思ったが、こうしてリストに「前任者の属性」を入れているところを見ると、明はこの項目を重要視していたのだろう。それが不明な相手から買い取りすることはちょっと考えにくい。そもそも、「買い取り価格」が不明ということは、買い取りによって手に入れた物ではないのだろうか。

「ああ、もういいや」
 取り敢えずスマホで撮影する。まだ探さなければならないページがあるのだ。今知りたいのは良雄が商品リストを探してまで見つけたかった古道具なので、付箋や書き込みがあるかどうかだけ確認しながら、手早くページをめくっていく。
 二,三分程一心不乱に確認し続けたが、とうとう最後のページを読み終えてしまった。まあ、そんな簡単に手掛かりをつかめるわけないよな、と友樹は自分を納得させながら、出来るだけ忠実に商品リストを本棚の元あった位置に戻す。もう一度腕時計を確認しながら、ふとデスクを見た友樹は、小ぶりのメモ帳サイズの付箋が貼り付けられているのに気がついた。なぜ気付かなかったのか、と一瞬考えたが、付箋がある部分は商品リストがさっきまで開かれたいた場所なのを思い出した。気付けるわけがない。
 とりあえず友樹は急いで付箋に顔を近づけた。細々とした字が並んでおり、かなり分かりづらいが、何度も読み返すうちに全体を理解することが出来た。

 明日(二十八) 二十時 陶器店へ買いに行く
 無ければ 鍵屋さんに土蔵鍵をお願い
 要予約→予約済み 二十一時から

 色々と内容について考えたかったが、そろそろ潮時だった。もしここで良雄と鉢合わせでもしようものなら、言い訳なんて出来るわけが無い。友樹はこちらも写真を撮って、急ぎ足で書斎を出た。


「なんかさ、気味が悪いね」
「同感。というか前所有者の属性が『不明』ってどういうことなんだよ」

 綺麗な夕焼けに名も知らない山々の稜線がくっきりと浮き上がっている。橙色に染まった帰路を自転車で走りながら、友樹はイヤホンを耳に押し込み直した。自転車走行中のイヤホン等の使用は何らかの法に触れるはずだが、友樹はあんまり詳しくないので一旦忘れることにした。まあ、法がいつだって正しいとは限らない。
 忍び足で店を脱出した後、安全な路地裏で友樹は入手した二枚の写真を由美と直之に送りつけていた。暇だったのだろうか、数秒後、由美から
「今から三人で通話しよう」
 と返信が来たのだ。

「僕もその項目が不明になってることには引っかかったんだけど、多分理由は分かったと思う」友樹は直之の問いに答えた。
「君の意見を聞こうじゃないか、ワトソン君」由美が意地悪く茶化す。
「おそらくあの屏風は祖父ちゃんが店を引き継ぐ前からあったんだよ。で、引き継いだ時点で既に屏風についての詳しい情報は失われていた。そう考えると、買い取り価格が『不明』になっているのにも説明がつく」
「要するに前店主の時から商品だったってこと?」
「商品とは限らないけど、そういうことだと思う。祖父ちゃんが店を引き継いだ時点で、前の店主さんの病気は相当ひどかったらしいから、知りたくても聞けなかったのかも」
「結局、商品リストにはああいう書き方しか出来なかったってことか」
 納得がいかない、というように直之はイヤホン越しに唸った。由美も同意見な様で
「要するに『何にも分かんない』ってことでしょ」と諦めたような口調で言う。振り出しになっちゃったじゃん、と。
「しょうがないよ。祖父ちゃんにとってはただの素性の分からない屏風でしかなかったんだから、調べてすらなかったかも」
「非売品になってるのは何でだと思う?」
「買い手が全然見つからなかったとかじゃないか。屏風なんて普通はおいそれと買うようなものじゃないだろ」
 直之は由美の疑問に取って付けたような答えを返すと、切り替えたように口を開いた。
「そんなことよりも、もう一枚の写真は差し迫ってるな」
「差し迫ってる? 何が?」友樹は思わず聞き返した。
「何がって、見れば分かるだろ。『明日(二十八)』って、今日が七月二十七日なんだから、明日のことだぞ」
「ああ、そうか」
 休日が続き、日付の感覚が狂っていたようだ。夏休み恐るべし、友樹は心の中で呟く。
「『二十時 陶器店へ買いに行く 無ければ 鍵屋さんに土蔵鍵をお願い』……。これってつまり、目当ての物を陶器店に買いに行って、もし無ければ土蔵を開けて中の物で代用するってことなのか?」直之が慎重に考えを口に出していく。
「だとしたら順序がおかしいんじゃない? わざわざ鍵屋さんに頼んで土蔵を開けるなら、最初っから土蔵の中の物を使えば良いと思うんだけど」由美はすかさず反論する。
「いや、別に不自然じゃない」友樹は言葉を返す。
「そもそも良雄叔父さんは、土蔵の鍵に骨董品としての価値があるとかで、いじりたがってなかった。だから土蔵を開けるのは最終手段なんだと思う。もしくは手に入れたい物が出来れば新品がいいとかかな」
「ふうん。なるほどね」
 由美が呟いたのを最後に、暫しの静寂が訪れた。友樹は視線を上げ、オレンジ色から紫色のグラデーションがかかった初夏の夕暮れ時の空を眺めた。西の空では太陽がしぶとく地平線にしがみついている。

 良雄の目的は一体何なのだろうか。遠くに見える点滅する青信号に合わせるように自転車を減速させながら、友樹は顎を引いてつと考え込んだ。『陶器店』で何かを入手しようとしている様子を見ると、骨董品関係が目的なのか。ともかく、土蔵の錠前を鍵屋に開けさせようとしているということは、良雄が土蔵の鍵を持っている訳ではなさそうだ。結局、鍵は本当にただ無くなっただけなのか、それとも他の誰かが盗み出したのか。色々な「?」が友樹の頭の中で雑多に混ざり合い、複雑怪奇な謎となって頭蓋の内側をノックしている。

「ねえ、明日みんなでパパラッチしない?」
 突然の由美の提案に、二人は反応出来なかった。少しして
「張り込んで、写真を撮るってことか?」と直之が聞き返す。
「当たり前じゃん。だってメモの時間見た? 『予約済み←二十一時から』なんて絶好の時間帯だよ。土蔵を開けて何を持ち出すのか見たくないわけ?」
「いや。そりゃ知りたいけどな、陶器店で目当ての物手に入れてたら、無駄足だぞ」
「分かってるって。でも、叔父さんは結局土蔵を開けることになると思うな」
「根拠を述べろよ、ホームズ君」直之が合いの手を入れる。
「だって、もう鍵屋を予約してるんだから、多分だけど、陶器店の方は元々一か八かで、本命が土蔵なんじゃない」
「確かに。必要なくなるかもしれないのに、わざわざ予約してるってことは、そういうことなのかも」友樹は思わす納得の声を出してしまう。
「おい。懐柔されるんじゃねえ」
「大丈夫だって。遠くから数枚写真を隠し撮りして、とっとと帰るだけだから」
「ばれたらどうするんだよ」直之はしつこく食い下がる。
「忘れたの、ナオ? 叔父さんはこの一連の動きを私たちに隠してるんだよ。疚しいところがあるんだから、ばれたところでお互い痛み分けよ。何なら写真を持ってるこっちが有利まである」
「……」
 黙りこくった直之目がけて、由美は勝ち誇ったように言い放った。
「二人とも、ここまで来たら最後まで見届けるのが義務だと思わない? 私たちは冒険をしてるんだよ」
「俺はしてないぞ」
 直之の最後の抵抗は、由美の
「じゃあ、何時に集合する?」の声にかき消される。
「おい、友樹。お前は良いのかよ」
 直之の矛先を変えた質問に、友樹はすぐに答えた。
「僕は行くよ。純粋に良雄叔父さんの目的が気になる」
「ほらね!」
 嬉しそうに由美が叫ぶ。
「ええ……」
 困惑したような直之の情けない声がイヤホンから響いた。夕日はいつの間にか沈みきって、もうすぐ夜が来る。



 七月下旬と言っても、さすがに二十時を回ると辺りはしっかりと暗くなる。店舗のすぐそばに立つ電灯からは、蒸し暑い初夏の夜には似つかわしくない青白い光が投げかけられ、人っ子一人居ない歩道を浮かび上がらせている。
「ああ、なんでついて来ちまったんだ」
 直之は明かりの無い店の前で苦しそうに呻いた。由美曰く、出発時にかなりごねたので、無理矢理連れてきたらしい。弱みでも握られているのだろうか。
「ちょっと、静かにしてよ。友樹、自転車はどこに停めたら良い?」
「僕が昨日停めた所だと、叔父さんが帰ってきたときにバレるだろうから、そこの路地に停めちゃおう」
 近所の野良猫ぐらいしか使わなさそうな路地に三人は自転車を押し込んだ。上手い具合に街灯の光が入ってこないので、気付かれる心配はなさそうだ。
「で、叔父さんが帰ってくるまで四十分ぐらいあるけど、どこで待機しようか」
「母屋の中に入ろうぜ。こんな所まで来て蚊に刺されたくない」
 直之はそういって顔の辺りで手を振った。確かに時折あの不快な羽音が耳元で聞こえてくる。
「そうしよう。それで、二十一時ちょっと前になったら外に出て、土蔵の裏手に隠れる」
「写真はどうやって撮る?」由美が勢いよく挙手をして質問した。
「僕は正直、写真は必要ないと思うんだ。こんな夜中に鮮明な写真を撮ろうと思ったら、フラッシュは絶対必要だけど、確実に見つかるだろうし」
「じゃあどうするんだよ」
「確認するだけで良い。叔父さんの目的が何なのか、それだけ分かれば十分なんだ。写真を撮るのは僕たちがバレたときに、開き直って撮影すれば良い」
「友樹がいいなら、私はそれでもいいよ」
 由美は意外にもあっさり同意した。直之はどうだろう、と友樹が顔を見ると、顔の前で両手を振り回している。どうやら屋内に入れさえすれば、もう何でも良いらしい。
「取り敢えず母屋に行こうか。細かいことは入ってから考えよう」
「はいはい、早く行こう。俺もう刺されちゃったよ」
 例によって三人は店を回り込んで母屋へ向かった。近所の人間に見られたら面倒なことになるかもしれない、と思っていたが、友樹の予想に反して店の前の道には相変わらず人気が無いままだった。明かりの一切無い中庭は、隣家からこぼれてくる光で辛うじて歩ける程度になっている。
「ねえ、もしかして監視カメラとか設置されたりしてないよね」
「こんな小さい古道具屋に、そんな大層な物がついてるわけないよ」
 返事をしながら、友樹は鍵の壊れた縁側の窓に手を掛けた。一瞬鍵が直されている可能性を考えたが、問題なく窓はすんなりと開き、後ろの方から安堵のため息が聞こえてくる。友樹だってヤブ蚊にご馳走をするのはお断りなので、胸をなで下ろした。取り敢えず三人は廊下に腰を下ろす。
「でさ、叔父さんは何を欲しがってると思う?」
 由美が左腕を掻きながら聞いてくる。早くも蚊に食われたようだ。
「うーん、順当に考えれば、祖父ちゃんの頃に商品を予約してた人から連絡が来て、その商品が土蔵の中にあることが分かった、とかになるんだろうけど」
「それなら俺たちに隠す必要は、無い、ってことになる」
 直之が引き継いで、腕を組んだ。
「まあ、大きい物じゃないだろうな。だって陶器だろ。ティーセットとか人形とか、そんな感じじゃないか」
「分かんないよ、馬鹿でかい信楽焼きの置物かも」
 ああでもないこうでもないと話し合っている二人を見ながら、友樹は廊下が結構暑いことに気付いた。エアコンなんてあるわけないので当たり前ではある。
「ねえ、ここ暑くない?」
 友樹の問いかけに二人は顔を見合わせ、口々に
「確かに」と応えた。
「どうする? 座敷の中で待機する?」
 由美は気味悪げに襖を見てから首を横に振ったが、直之は逆に襖に手を掛けて言った。
「そうしよう。別に一人だけじゃないから、大丈夫なんじゃないか」
「ナオはあの化け物を見たこと無いから、分かんないんだよ。あの気味悪い感じがさ」
「でも、一人で見なきゃ問題ないんだろ。現に俺だってお前たちと一緒に何回も見てるけど、特に何もなかったんだから」
 ここまで言って直之は意地悪く笑った。
「あ、お前もしかして、怖じ気づいてる?」
 由美の眉間に深くしわが寄った。屏風に掛かっていた直之の手を払いのけて、語調も荒く言い放つ。
「分かったわよ。入れば良いんでしょ、入れば」
 台詞を吐いたと同時に襖を勢いよく開け、ずんずんと座敷の中へ進んでいく。友樹もその後に続き、座敷の敷居を跨いだ。

「はーじめーましょ」

 視界が暗転すると同時に、声が聞こえた。


 裸足の足が砂っぽい地面を捉えると、平安時代風な建造物が前から後ろへ流れていく。心臓の音が深い振動となって耳の奥から響いてくる。
 すぐ横を由美も跳ねるように駆けてきた。今にも飛ばんとする鷹のように走り抜ける。
 二人で人気の無い大路を、旋風のごとく両の足を動かしながら通り過ぎた。友樹は由美に向かって呼びかける。
「これが、由美の言ってた」
「そう、『白昼夢』」
 なんなんだ、ここは。友樹は混乱していた。意識していないのに、足の回転が止まらない。大体友樹はこんなに早く走れないのだ。幸いなのは、障害物らしき物が通りのどこにも見当たらない事だろうか。
 が、次の十字路を右へ曲がった途端、唐突に目の前の塀の一部が吹き飛ばされた。同時に足の自由が利くようになり、驚いて立ち止まった二人だったが、目の前でもうもうと上がる土煙の中からぬっと現れた人影に度肝を抜かれた。
 平安時代を彷彿とさせる古めかしい服装で、体格は友樹と殆ど変わらない。そして、見覚えのある仮面を着けていた。異常に見開かれた目、横に無理矢理引き延ばされたような口、これは、あの屏風の仮面だ。
 滲み出る不快感に二人は一歩たじろいだが、仮面を着けた人物はその場で回れ右をした。突然後ろを向いたその姿に、友樹は心当たりがあった。これは、まるで
「鬼ごっこだ」
「え」
「こいつ、鬼ごっこしようとしてる」
「じゃあ、こいつが『鬼』?」
 応えるように、鬼が足を踏みならした。数秒の間隔を空けて、もう一回。由美が何かに気がついたように息を飲んだ。
「これ、スタートまでの時間を数えてるんだ」
「急ごう、出来るだけ距離を稼ぐんだ」
 二人は元来た道を一目散に引き返す。十数秒後、時間になったのか、鬼の足音が追いかけてきた。
 足音に違和感を覚えて振り返った友樹は、思わず驚きの声を漏らした。
 鬼は凄まじい勢いで追ってきていた。しかも、四足を使って。両手両足を不規則に出しているので、牛や馬とも違う、気持ちの悪い足音になってる。そして何故か、鬼を見る度に、不快感や嫌悪感が襲ってくる。立ち居振る舞いから来るものでは無い、不気味な感覚だ。
 走り続けていると、さっき通った十字路が見えてきた。由美が走りながらおもむろに左側を指さす。友樹は頷き、十字路に差し掛かったところで素早く右へ曲がった。
 醜い足音が一瞬立ち止まった後、遠のいていく。どうやら由美の方を鬼は追っていったようだ。さて、どうしようか、と友樹は走りながら考えを巡らす。逃げ切れば勝ちなのか、時間制限はあるのか。何も分からない。
 突然開けた場所に出た。最初は広場か何かに出たのかと思い、速度を緩めて左右を見渡すが、すぐに勘違いに気付いた。広場ではなく、幅が異様に広い大通りに出たのだ。並木も電柱も何も無い、だだっ広い道が左右両側にどこまでも伸びている。平安京にこんな様なナントカ大路があると授業で聞いた記憶がある。
 そうしてしばらく走っていたが、違和感に気付く。友樹の足音に混じって、別の足音が近づいてきている。少しの間そのまま走り続けたが、やがて想像は確信に変わった。気味の悪い、あの足音だ。どうやら由美は捕まったらしい。
 捕まった後、一体どうなるのかという疑問には一旦蓋をすることにした。今は兎に角逃げ切るしか無い。友樹は再び速度を上げて通りのど真ん中を走り出した。
 後方でまた壁が崩れる音がした。見なくても分かる、鬼が追いついてきたのだ。友樹の体は更に加速していき、地面すれすれを滑るように駆け抜けていく。こんなところで捕まる訳にはいかない。
 猛然と走り続けていると、大通りの幅の広さとは全く釣り合っていない、こぢんまりとした建物が近づいてきた。何やら既視感を覚えた友樹は、よく見ようと眉を寄せ、危うく転びそうになった。あれは、寺島道具店の母屋だ。どういう訳かはさっぱりだが、確かに母屋が迫ってくる。
 必死に走っているはずなのだが、いつの間にか鬼の足音はすぐ後ろまで迫っていた。そのままの勢いで母屋の入り口に突っ込み、転がる様に中へ飛び込んだ。廊下を直進し、座敷の引き戸を素早く開ける。座敷の中を見渡し、見つけた。押し入れだ。
 友樹が押し入れに飛び込んだと同時に、屋敷の入り口の方から汚らしい足音が聞こえてきた。鬼が屋敷の中に入ったのだ。足音はそのまま廊下を進み、座敷に到着する。友樹はそっと押し入れの扉を、片目で覗ける程度に開けた。
 座敷の真ん中に鬼が、何やら観念した様子で仁王立ちしている。友樹を探している様子は、何故か無い。数秒後、両手をその仮面に伸ばすとゆっくりと外し始めた。

 バサリと長い髪が露わになる。

 仮面が畳に落ちた。現れた「見覚えのある」その素顔見て、友樹は思わず声を上げてしまった。
「え、なんで?」
 声に反応したのか、鬼は押し入れの隙間に向き直った。が、相変わらず友樹を捕らえる素振りを見せることは無く、ひどく悔しげな表情を顔に浮かべると、座敷の空気に溶け込むように消えていった。何が何やら分からないまま、取り敢えず押し入れから出ようと友樹は引き戸に手を掛けたが、次の瞬間、前触れ無く友樹の目の前は真っ暗になった。


「友樹、大丈夫か? しっかりしろ!」
 直之の声が上の方から聞こえてくる。同時に自分が肩を掴まれて、揺さぶられていることに気がついた。背中の感触から察するに、座敷の畳の上で仰向けになっているようだ。
「大丈夫。ちょっと目眩がするけど」
 友樹は体を起こして、心配と安堵をブレンドしたような表情をしている直之と由美の顔を交互に見て、聞いた。
「何か、あったの?」
「何がって、お前と由美が座敷に入った途端にぶっ倒れたんだよ。由美はその内起きたんだけど、お前は鼻つまんでも、頬を叩いても起きないから、もう救急車を呼ぼうかと思ったんだぞ」
 確かに顔がちょっとヒリヒリする。それにしても、何だったんだあの夢、と思いながら友樹がこわばった首をぐるりと回すと、畳の上で同じようにへたり込んでいる由美と目が合った。そういえばついさっき直之は、由美も倒れた、と言った。もしかして、と友樹は口を開く。
「由美もさ『あれ』、見た?」
 由美は頷く。直之は困惑したように二人の間に割って入る。
「ちょっと待てよ。『あれ』ってなんなんだ?」
「直之、落ち着いて聞いてくれ」
「分かったから早く話せ」
「僕が座敷に入った時、『始めましょう』って声が聞こえたんだ。それで、次の瞬間、その、誰もいない大通りみたいな所を、全速力で走ってた」
「それって、この前由美が言ってた夢の話だろ」
「いや、ついさっき僕と由美は同じ夢を見てたんだ」
 目を丸くしながら直之が由美の方を見る。
「私も一緒。それで楽しく走ってたんだけど、突然仮面を着けた鬼が出てきて、鬼ごっこが始まったの。ちょっとの間は逃げたんだけど、私は捕まっちゃった」
「待てよ。仮面を着けた鬼って」
 直之がスマホをポケットから取り出して慌ただしく操作し、ライトを起動させ、目の前の例の屏風を照らした。
「この盲鬼じゃんか」
 友樹は白い光の中で浮かび上がった仮面の絵を、じっくりと眺めた。間違いなく、幻の中で友樹と由美を追いかけ回したあの仮面だ。やっぱりただの奇妙な夢というわけではなさそうだ。
 直之が頭をガリガリと掻いて口を開く。
「その鬼ってのは、どんな感じだったんだ。この絵の通りなのか?」
「何というか、不気味だった。直之には伝わらないかもだけど、あの屏風から覗く『誰か』と雰囲気が凄く似てる」
 由美の方をチラリと見ると、その通りと言わんばかりに首を縦に振っている。そんな二人を見た直之は腕を組んで
「その後はどうなったんだ」と聞いた。
「その後僕は、この母屋にそっくりな建物に逃げ込んで、座敷の中の押し入れに隠れたんだ。鬼はそこまで追ってきたんだけど、座敷に入ったところで諦めて、それで」
「それで?」
 直之が促したが、友樹は少し黙ってしまった。あの顔を、思い出してしまったから。
「……それで、鬼は仮面を外した。僕は鬼の顔を見た」
 友樹はその顔の人物の名を口にした。二人は一様に訝しげな顔になる。
「え」
 思わず、といった様子で由美が呟く。
「説明は出来ないけど、見間違えじゃない」
「それで? そこで目が覚めたのか?」
「うん。そこで視界が暗転して、気がついたら直之の顔が目の前にあった」
 ふうっ、とため息をついて直之は胡座をかいて呟いた。
「一体どうなってるんだ」
 由美と友樹に説明出来るわけでも無く、直之自身もぼやいたつもりだったのだろうが、幸か不幸か沈黙が座敷に訪れた。そして、その静けさの中で一つの音が響いた。

 カチャリ

 三人は顔を見合わせ、立ち上がった。友樹は咄嗟に腕時計を見たが、二十一時までにはまだ時間がある。しかし、そんなことを言ってられない。そもそも三人ともここに居て良い人間では無いのだ。
 友樹は襖を開け廊下に出ると、出来るだけ音を出さないように窓を人が一人通れるぐらいに開けた。縁側の下に隠した靴を取り出し、突っかけながら人気の無い庭を横切り土蔵の裏へ向かった。残る二人も後に続く。
 土蔵の裏は思ったより雑草が生い茂っており、特有の青臭い匂いが充満していた。それぞれに雑草を踏み倒して安全地帯を作り、ようやく落ち着く。
「ねえ、どういうこと? まだ二十分ぐらい余裕あったはずでしょ」
「いや、僕もちょっとびっくりしたけど、もしかしたら良雄叔父さんじゃ無いかもしれない」
 友樹は二人に手招きして、土蔵の陰から中庭を覗かせる。当然だが、相変わらず庭には何も無いし、誰もいない。
「何にも無いけど」
 腑に落ちないといった表情の直之に、友樹は言った。
「この前土蔵の鍵を探しに来た時見たと思うんだけど、叔父さんはいつも庭に車を停めるんだよ」
「ああ、そういえば」
「でも車はどこにも停まってないのに、誰かが母屋に入ってきた」
「玄関の鍵を開けたってことは、お前のとこの親戚の誰かなのかな」
「さあね、取り敢えず誰であろうと、僕らは見つかったらまずいんだから、帰るまでじっとしてた方が良い」
 友樹が喋り終えた瞬間、真っ暗な母屋で何か物音が聞こえた。良雄もしくは他の人が中で何をしているのかは定かでは無いが、少なくとも母屋の中には確実にいるようだ。
 さほど間を空けずに物音は止み、その十数秒後に玄関のドアが開く音が聞こえてきた。しかし、様子がおかしい。遠ざかるとばかり思っていた足音が、友樹には徐々に近づいてきているように感じられるのだ。それもアスファルトでは無く、芝生を踏みしめる柔らかな足音である。どうやら本当にこちらへ歩いてきている。由美と直之も気付いたのか、小声で話しかけてきた。
「あれ、こっちに来てるよね。どうする?」
「静かにしてやり過ごそう。僕らに勘づいたんじゃ無いなら、こんな所まで来ないだろうし」
 友樹の予想通り、足音は土蔵の手前で止まった。それと同時に金属と金属がこすれ合うような、嫌な音が断続的に聞こえてくる。残念ながらこっちは予想外だった。何の音だ?
 もっと近くで聞こうと友樹が身を乗り出した時、足下から「パキッ」と小枝か何かを踏んづけたような、結構大きな音が出た。金属音はピタリと止み、代わりに女性の声が呼びかけてくる。
「ねえ、誰かいるの?」
 まあ、こうなるよね、と友樹は思った。ちょっと横を見ると直之が、無言で大きく口を二度動かしている。バ・カ。
 友樹は腹を括って立ち上がった。このままだんまりを決め込むことも考えたが、女性の語調から察するに音がした場所を調べるぐらいは平気でやりそうだった。藪の中で蚊に刺されている姿を発見されるよりかはマシだと踏んだのだが、情けないことに足は軽く震えている。
「あー、ちょっと待ってください」
 意味の無い受け答えをしながら、友樹は土蔵の正面へ向かう。二人もガサゴソと雑草をかき分けて付いてきた。どうにか正面に回り込んだ三人は、声の主の顔を見てちょっと固まった。
「あれ、友樹君じゃん」
 アルバイトの長谷麻衣だった。


「麻衣さんは、何しに来たんですか?」
 取り敢えず友樹は、この場で最も当たり障りのなさそうな質問をしてみる。今一番怖いのは、友樹たちがここに居る理由を聞かれることだ。一応言い訳も考えてきてはいるが、正直言ってかなり苦しい。
「私は良雄さんにお願いされてる事があるの」
「お願い?」
 友樹は戸惑いながらも聞き返す。ここで麻衣の口から良雄の名を聞くことになるとは思っても無かったからだ。麻衣は肩に掛けている、やや大きめの手提げ鞄を芝生の上に降ろし、申し訳なさそうに言った。
「そう……なんだけど、出来るだけこの用事は内緒にしてて欲しいって言われてて、だから私がここに来たことも他言無用にしてくれないかな?」
「用事ってこの土蔵と何か関係あるんですか」
 由美が全く空気の読めていない質問を返す。しかしこんな無遠慮な質問でも無いよりマシなので、友樹は心の中で由美を応援した。良いぞ、もっと変なこと聞け。
「土蔵に近づいたのは、そう言えば鍵が無くなっちゃった錠前をまだ見たこと無かったな、って思い出しただけ。だから用事とは関係ないよ」
 麻衣は中々懐が深いようで、不躾な由美の問いかけにもあっさりと応じた。そして。
「友樹君たちは、なんでこんな時間に、あんな所にいたの?」
 この状況では順当ではあるが、友樹たちにとっては非常に都合の悪い問いを投げかけてきた。仕方なく、友樹は言い訳を試みる。
「夏休みの課題を皆で集まってやりたかったので、母屋の座敷を使わせて貰えないかなと思って、来てみたんですよ」
「はいはい、なるほどね。でも良雄さんが居なかったから閉め出されたと」
 意外にも突っ込んで来ることは無く、普通に納得した様子の麻衣に、友樹は鎌を掛けてみることにした。
「逆に麻衣さんが、叔父さんがどこに行っちゃったのか、知ってたりしません?」
「えー、分かんないなあ。私も不在だって事しか知らないし」
 そう言って由美は、何かを誤魔化すように笑った。
「ほら、私って、部外者じゃん?」

 何気ない台詞だった。それを発した麻衣にとっても、それを聞いていた由美と直之にとっても。でも、友樹は少し違った。
 不意に、馬鹿げた考えが友樹の頭の中に降って湧いてきた。口にするのも憚られる様な、根拠も何も無いただの妄想。
 いつもの友樹なら誰にも言わないだろうし、そもそも考えつかないかもしれない。でも、友樹は直感でこの妄想を話し出す必要性を感じていた。仮面の下のあの素顔が脳裏にちらつく。例え理性と科学で説明できなくても、与えられたヒントは最大限活用すべきじゃないだろうか。明の思い出をこれ以上喰い物にされたくないのなら、どんな物でも利用すべきなんじゃないか。

「麻衣さん、一つお願いしても良いですか」
「なあに?」
「僕は、今から、その、嘘みたいな本当の話をします。それを全部聞いて貰って、最後に麻衣さんの感想を聞きたいんです。お願いできますか」
「嘘みたいな本当の話?」
 麻衣はオウム返しに聞いてきた。しかし友樹が至って真面目な顔をしているのに気付いたのか、苦笑をして返事をする。
「あんまり長くなければ、いいよ」
 友樹はぺこりと頭を下げて話し始めた。
「麻衣さん、母屋の座敷に屏風があるのって知ってますか」
「うん。あの二枚組の大きいのでしょ」
「あの屏風には、実は化け物が取り憑いてるんですよ」
「……」
「一人で座敷に入ると、二枚の屏風の隙間から正体不明の『誰か』がこっちを覗いてくるんです。もの凄く不気味なんですけど、他の人には見えない。そういう化け物です」
 友樹の視界の端で直之がとんでもなく変な顔をしているのが見えた。まさか屏風の怪異のことを話し出すとは思いもしなかったのだろう。
「で、ある日僕はその化け物に遭遇したんですよ。その数日後に、この由美も同じく遭遇しました。ただ、もうこの時点で十分恐ろしい思いをしたんですが、これで終わりじゃありませんでした。ついこの間、座敷に入った時、僕と由美はその屏風の怪異によって気味の悪い幻覚を見せられたんです」
 友樹はちょっと言葉を切って、改めて麻衣の顔をそっと見た。暗がりの中で麻衣はなんとも言えない、知り合いの高校生が突然怪談を始めたのには相応しい、微妙な表情をしている。
「僕たちはその幻覚の中で、鬼ごっこをやらされました。仮面を被った何者かが鬼の役で、僕たちは必死に逃げ続けてたんです。結局最後まで逃げ切ったんですが、なんと鬼は僕の目の前で仮面を外しました」
 友樹はかさかさの唇をなめた。
「その鬼の素顔は、麻衣さんの顔でした」
「おい、ちょっと」
 直之がさすがに我慢できなくなったのか、声を上げた。けれど、友樹の口は止まらない。
「え、これってさ、ドッキリか何か?」
 麻衣も不審そうに問いかけてくる。
「話を聞いていて、思ったかも知れませんが、屏風の怪異は凄く不気味で意味不明です。でも、頭を冷やして考えてみると、不自然な事が幾つかあるんです。第一に、僕も由美も、屏風そのものを『気味が悪い』と思ったことが無い、ということ。普通に考えると、今話した様な不気味な怪奇現象が起こったら、まず間違いなくそれが発生する屏風と、この母屋に寄りつかなくなるはずです。でも僕も由美も、そんなことはありませんでした。奇妙なことに、怪異と屏風がまるで別物みたいに感じられるんです」
 同じく友樹の視界の端で、由美が、確かに、といった風に頷いた。
「第二に、屏風の怪異が僕らに見せた幻想についてです。もし、僕たちに危害を加えることが目的だとしたら、幻想世界に僕たちの意識を取り込んだところで、そのまま放っておくでしょう。さもなければ、恐ろしい目に遭わせてトラウマを与えたりなど、やり用はあったはずです。なのに敢えて僕たちに鬼ごっこを仕掛け、結果として僕たちは無事に意識回復をしました。つまり、屏風の怪異はそもそも害を為すつもりが無いんです」
 友樹の突飛な話に、肯定とも否定ともとれる沈黙が間に入り込んできた。皆少々唖然としているが、それは友樹だって同じだった。出来心でここまで話してきたが、もう引くに引けなくなっていることは明白だった。一呼吸おいて、頭を整理する。チャンスを逃すわけにはいかない。
「ここまで考えて、僕は祖父ちゃんがあの屏風について、あることを言っていたのを思い出しました。祖父ちゃんは確か『屏風は昔、仕切りと壁の役割を担ってた』という様なことを僕に教えてくれたことがあったんです。この記憶がヒントになりました。僕たちは今まで、『屏風があの怪異を見せている』もしくは『屏風にあの怪異が取り憑いてる』とばかり考えてたんですが、もしかしたら逆かもしれないんです」
 麻衣が、話が見えなくなった、と言わんばかりの怪訝そうな表情をした。よく分からないだけで、後の二人も似たような顔になっているのだろう。
「例えば、あの屏風が壁だったとします。そうすると、その屏風の向こう側からこっちを覗いてくる、顔の分からない気味の悪い誰かって、差し詰めどんな人だと思いますか」
 麻衣は何も言わない。その代わり由美が声を上げた。
「不審者、とかかな」
「その通り。じゃあこう考えたらどうでしょうか。『この家に対して良からぬ事を企む悪人がいて、屏風はそれを伝えてくれていただけ』。屏風は口がきけません。じゃあどうすれば良いのか」
 今度は誰も応えない。仕方が無いので友樹はもう一度口を開いた。
「その家の者に、自身を壁に見立てて、その壁の向こうから覗き見る不気味な『誰か』の姿を見せる、そうして悪人の存在を伝えようとしていた。そう考えれば、僕と由美が屏風そのものに恐怖しなかったことの説明も出来ます」
 麻衣が軽く眉を寄せた。どうやら友樹が何を言いたいのか察したようだ。
「そして、その『誰か』を見た僕と由美を幻想の中で鬼ごっこをさせて、逃げ切ることが出来れば鬼、つまり悪人の正体を明かすというチャンスを与えていたんです。実際、鬼が仮面を取る場面を見られたのは、鬼から逃げおおせた僕だけで、途中で捕まって由美はその時点で目を覚ましてますから」
 友樹は土蔵の方へ目線を向け、錠前を指さした。
「そしてこのところ寺島道具店で起こっている良くない事と言えば、一つしか無い。で、僕はこう思って訳です。麻衣さんが土蔵の鍵を盗ったんだ、と」
 ここでようやく麻衣が口を開いた。ややあきれた様に友樹を見つめる。
「まあ、嘘か本当かは置いておくとして、よく出来たお話だと思うよ。でも、想像で人を悪人呼ばわりするのは良くないかな」
 直之が素早く友樹に近寄ると、手で無理矢理友樹の上半身を前方に折り曲げ、自分も頭を下げた。
「そうですよね、すみません」
 頭を下げながら直之は横目で友樹を睨み、小声で問い詰める。
「お前、何考えてんだ」
「いや、どうしても言いたくなって」
 そんな二人のやりとりを見て、麻衣は軽くため息をついた。
「はいはい、もうこれでお開きにしましょう。もし、今すぐに帰るんだったら、ここでコソコソしてたことは、内緒にしてあげる」
 無駄だったか、と友樹は肩を落とした。まあ、当然と言えば当然の結果だ。麻衣の言うとおり、彼女からすればこれはただの「お話」でしかない。麻衣がこの怪談を一から十まで信じ込んで、その通りで私が悪人です、と涙ながらに告白するとは、友樹だって思っていなかった。それでも、折角のチャンスが、両手の間からこぼれ落ちていったのが、悔しくて堪らなかった。
 麻衣は踵を返して車道の方へと歩いて行く。その後ろ姿を見て、やれることは全部やったのだ、と友樹は自分に言い聞かせた。少なくとも屏風の怪異に関しては真相に大きく近づいた。ここは一旦引き下がってもいいじゃないか、と。直之も同意見のようで、スマホで時間を確認し、眠そうに目を擦っている。
 しかし、その空気を全然読めていない人物がいた。由美だ。
「麻衣さん、私も一つ質問していいですか?」
「いいけど、出来るだけ手短にね」
「なんで母屋に入ったんですか?」
 麻衣の声色に刺々しい苛立ちが混じった。
「だ、か、ら、良雄さんの用事のお手伝いです。人の話はちゃんと聞いた方がいいよ」
「じゃあ、なんで電気を点けなかったんですか?」
 麻衣は息を吸い、押し黙った。
 友樹は頭の中でつい二三分前の情景を思い出す。確かに、母屋は暗いままだった。でも、なんで。
 電気を点けない、ということは母屋の中に誰かがいるという状態を近隣の住民に知られたくなかったのだろうか。となると、麻衣にはやましいことがあったと言うことだ。が、やましいことをしていたと言っても、母屋で出来ることなんて限られている。何せ一階には座敷と台所、二階は寝室と明の書斎だけだ。
 明の書斎。
「ああ、なるほど」
 友樹はようやく理解した。てんでバラバラだったここ数日の出来事がジグソーパズルのように綺麗に当てはまる。
 友樹はもう一度麻衣に向かって呼びかけた。
「麻衣さん、やっぱりあなたが土蔵の鍵を盗ったんだ」

 麻衣は素早く振り返った。明らかに苛立っている。
「あのさあ、年上をからかうのもいい加減にしたら? そもそも私は鍵がどこにあるか見当も付けられないんだよ」
「そうですよね。親戚の僕らですら分からないのに、『部外者』の麻衣さんが探し出して盗める訳がない。でも、麻衣さんにも鍵を手に入れられるタイミングがあったんです」
「はあ? 何言ってるの」
「祖父ちゃんが倒れた時、バイトの出勤で店に来た麻衣さんが、気がついて救急車を呼んでくれたこと、感謝してます。ただ、祖父ちゃんが倒れた時期は、ちょうど年に二回の土蔵の大掃除の時期と被るんです。もし、その予定日に祖父ちゃんが倒れて、病院に搬送された後、店の床に何かの鍵が落ちてたとしたら。もし、祖父ちゃんが事前に麻衣さんへ店番を任せるついでに、土蔵の整理の話をしていたら。魔が差すってこともあるんじゃないですか?」
 麻衣は呆れたようにため息をついて額に手を当てると、踵を返した。
「ちょっと、私もう帰るね。君たちと付き合ってられない」
「待ってください。最後に一つだけ」
 構わず立ち去ろうとする麻衣の背中に、友樹は最後の一撃を投げつけた。

「鞄の中の商品リスト、返してもらっていいですか?」

 麻衣の足がピタリと止まった。由美の顔が一瞬で晴れ渡る。
「ああ、そういうことか」
「そう、僕も最初に麻衣さんが鍵を盗ったんじゃないか、って考えた時、何ですぐに目ぼしいものを土蔵から盗んで、行方をくらまさないのか分からなかったんだ。でも、当たり前なんだよ。商品リストがある以上、鍵がなくてもいずれ何らかの方法で土蔵が開いた時、何が無くなってるのか一目瞭然になる」
 直之がはたと気付いた表情になる。
「でも、逆に商品リストを処分してしまえば、逆に土蔵の中に何があったのか誰も知らないから、そもそも盗みが発覚すらしない」
 友樹は頷く。
「そう。その為には、良雄叔父さんが商品リストの写しを作ったりする前の、出来るだけ早い段階で処分しなきゃいけないんだ。だからこんな夜中にわざわざ母屋に来た」
「じゃあ、叔父さんからのお願いは」
「僕らに見られたから、咄嗟に思いついた言い訳だろうね」
 麻衣は立ち止まったまま、何も言わない。が、友樹が一歩近寄った瞬間、唐突に車道目がけて走り出した。
 虚を突かれた三人は、直之の「追いかけろ!」という声で一斉にスタートする。
 想像以上に麻衣は足が速く、あっという間に車道に飛び出し、角を曲がる。そう言えば大学で陸上をやっているんだっけ、とどうでもいいことを友樹は思い出した。
 友樹たちが角を曲がると、車のドアが閉まる音と共に、車道が一気に明るくなった。停めてあった車に麻衣が乗り込み、ヘッドライトを点けたのだ。
 急いで車に駆け寄り、ドアを開けようとしたが、既にロックされておりビクともしない。それどころか側面に三人を貼り付けたまま、車は走り出した。
 少しの間は併走していたが、みるみるうちに加速し坂道を下っていく。ヘッドライトがもう一度角を曲がり、見えなくなると、先頭を走っていた直之が諦めたように立ち止まった。友樹も肩で息をしながら、歩き出す。
「逃げられちまったぞ。どうする」
「兎に角、叔父さんに連絡しないと」
 さて、どうしたものかとスマホを取り出した時、坂の下の方で重い物同士がぶつかったような、ドンッという音が響いた。三人は顔を見合わせ再び走り出す。
 長い坂を下り、音のした方へ近づくと二台の車が正面衝突していた。手前側の車は見覚えのある、麻衣の白い軽自動車だ。恐らく慌てて逃げて運転を誤ったのだろう。運転席側のサイドウインドウを覗くと、座席とエアバックの間で麻衣が泡を吹いて気絶している。奥側の軽自動車にも……何故か見覚えがある。この薄汚れた感じは、良雄の車だ。慌てた様子で運転席から降りた良雄は、麻衣の車の横に立っている友樹たちに気付いたようで、
「え? なんで君たちがここに」
 と駆け寄ってきた。
 一旦良雄を無視し、友樹は塀にもたれかかった。どうにかなった、という安堵感が筋肉を弛緩させ、その場にズルズルと座り込んでしまう。ハアーと長いため息が口から漏れ出す。衝突した車に、麻衣が乗っていることにも気付いた良雄が騒ぎ始めたのを横目に、友樹はゆっくりと立ち上がった。

 翌々日、友樹と直之と由美は横一列で座布団に座っていた。昨日は主に警察の事情聴取で目が回るほど忙しく、正直殆ど眠れていない。なのに何故こうして例のごとく母屋の座敷にいるのかというと、良雄から「明日直接会って全部説明したい」と昨日の夜中に連絡があったからだ。
「遅くなってごめんね」
 良雄が片手にコップが乗っているお盆、もう片方に木箱を抱えて座敷に入ってきた。三人にお茶を配ると、横に置いていた木箱を友樹の正面に置き直し、良雄は口を開いた。
「まず、友樹君にこれを開けて欲しい」
 友樹は木箱を受け取り、ゆっくりと開けた。緩衝材の紙の束を取り除くと現れたのは
「これは、徳利と御猪口ですか?」
 徳利も御猪口も、薄い青と白が青空と雲を彷彿とさせるように折り重なった美しいデザインをしている。
「そう。友樹君、誕生日おめでとう」
 良雄は笑いながら拍手をした。両隣に座っている由美と直之もつられたように手を叩く。
「ありがとうございます」
 そう言いながら友樹は戸惑っていた。これを、良雄が?
「そのプレゼントはね、僕からじゃないんだよ」
 友樹の困惑を見透かしたように、良雄が説明を始める。
「これは父さんから君の為にって、お願いされた物なんだ」
「祖父ちゃんが?」
「そう。僕が店を引き継ぐことが決まった時、もう父さんはかなり危ない状態だったんだけど、君の誕生日プレゼントのつもりで手に入れた物があるから、自分に万が一があれば渡して欲しいって頼まれてたんだ。でも僕はうっかりしてて、それをどこに保管してたのか聞きそびれちゃったんだよ。君の誕生日も、もうかなり近づいてたから、取り敢えず葬式の夜から探し始めたんだけど、その姿をバッチリ君に見られてしまった」
「ああ、そうでしたね」
「どうしても見つからなくて、最後に残った土蔵を調べようと思ったら、今度は土蔵の鍵も無くなっててさ。あれには参ったよ。商品リストを調べたらやっぱり土蔵の中に保管されてるのが分かって、仕方ないから、陶器店にいって全く同じ物があれば良し、無ければ鍵屋さんにお願いして土蔵を開けて貰おうとしたのが昨日の晩って訳なんだ」
「なるほど、そういう事だったんですね」
 しげしげとプレゼントを眺めながら話を聞いている友樹に向かって、良雄が優しく呼びかけた。
「友樹君」
「はい」
「守兄さんから聞いたんだっけ」
「昨日の夜、教えて貰いました」

 昨夜、風呂から上がった友樹に、父の守が「ちょっと話がある」と声をかけてきた。正直なところ、人生で初めて警察署に行き、刑事にことの経緯を洗い浚い話し、もう体はくたびれ果てていた。今すぐ部屋に戻って泥のように眠りたいところだが、真面目な守の顔を窺って、リビングのソファに腰を下ろす。
「良雄が店を継ぐことに関して、お前に言ってないことがあってな。色々災難があったみたいだけど、ちょうどいい機会だから伝えておきたい」
 災難と言うにしては、積極的にトラブルへ首を突っ込んでいたような気もするが、ここは大人しく頷いておく。
「なんで、父さんが古道具屋を引き継いだのかは知ってるか?」
「祖父ちゃんの友達が病気で店を続けられなくなったのを見かねて、でしょ」
「それもだけど、本当の理由は別にあるんだ」
「本当の理由?」
「父さんはな、良雄のために店を継いだんだ」
 全く予想外の名前に、友樹は目を瞬かせた。
「何となく知ってることかと思うけど、良雄と父さんはあんまり仲が良くなかった。原因は、良雄の留年と留学だな。そもそも父さんは結構安定思考で、良雄の頻繁な留学と休学を快く思って無かったんだが、旅行のしすぎで留年したときはさすがに怒ってな、『そこまでするなら卒業後に学費を全額払え。今みたいに楽しいことだけやってても、生きていけないぞ』って発破を掛けたんだ。良雄は良雄で好き勝手生きたいタイプだから、じゃあ払ってやるよ、って海外で仕事を始めちゃったんだ。まあ、売り言葉に買い言葉だな」
 友樹はちょっと首をかしげた。明は自分の考え方で他人と衝突するような我の強い人間ではない、はずだ。友樹の様子を見て、守は微笑する。
「父さんも変わったんだよ。兎に角、どんどん二人の関係は冷え切って、良雄が海外を飛び回るようになって二年ぐらい経った頃に、父さんが古道具屋を引き継いだ。そうは言っても最初は一時的に預かってただけなんだけどな」
「そうだったの」
「ああ。向こう側で新しい店主を見つける間に預かっておく、っていう話になってたんだ。それが、突然このまま自分が引き継ぐ、って言い出してね。幸い先方も新店主の選出に難儀してたから、トントン拍子に話が進んで行ったんだ。俺たちもびっくりしてな、悟兄さんと一緒に色々理由を聞いたんだけど、そこで父さんは『良雄の気持ちが理解できたから』って言ったんだ」
「どういうこと?」
「父さん曰く、良雄がやろうとしていた『楽しいことで食べていく』事が理解できたらしい。古道具屋を切り盛りしていく内に、やりがいとは別の喜びを感じられたんだとさ。分かってやれなくて悪かった、ここで自分が古道具屋を続ければ、罪滅ぼしになると思う、そんな風に言ってた」
「じゃあ、仲直りは出来たんだ」
「いや、すぐには無理だった。長い時間を掛けて、徐々に連絡を取り合うようになったんだ。そのおかげで父さんが危なくなった時、生きてる内にこっちに帰ってこれたんだけどな」
 守は、「そういうわけで」と改めて友樹に向き直った。
「良雄が店を継ぐのは、ある意味父さんの遺志でもある。簡単に仲良くするのは難しいかもしれんが、認めてやって欲しい」

 良雄は安心したように話し出す。
「じゃあ、聞いての通りだよ。父さんには色々迷惑掛けたけど、最後に仲直りできたのはこの店のお陰みたいなものだから、今度は僕がここを守っていきたいんだ」
 友樹は頷いた。明が大事にしたものは、これからも良雄の元で大切にされていくと約束されたようで、胸のつかえが取れた様な気分になる。
「それにしても、叔父さんともう一度やり直そうって思えるほど、祖父ちゃんにこの店の仕事は合ってたんですね」
「そうだね、考えてみれば只々普通に店主として働いてただけで、別に特別考えを変えるような事は無かったはずだから、」
 良雄はそこまで言うと、ふとリビングの天井を見上げ、首を横に振る。
「あったな、そう言えば。店に空き巣が入ったのを、父さんが捕まえたことがあった」
「空き巣?」
「僕は海外にいたから又聞きなんだけど、当時市内で空き巣が多発していて、父さんはたまたま店に侵入しようとしてた犯人をその場で取り押さえたんだよ。なんでも店に客として下見に来てた犯人の顔を偶然覚えてたらしいんだけど、客だと思ってたヤツが店の窓をいじくり回してたから、咄嗟にぶん殴ったんだってさ。今考えると奇跡に近い捕り物だよね」
 友樹はちょっと黙った。「奇跡に近い」「偶然『顔』を知っていた」。似たような話をどこかで聞いた。なんなら、自分たちが体験してすらいる。
「叔父さん、その事件があったのっていつですか」
「僕が直接関わったわけじゃ無いからな……確か二〇〇〇年の冬だったはず。逃げようとした犯人が凍った水溜まりで転んで、父さんが取り押さえたっていう話だったと思うよ」
 由美が友樹の肩をつついた。
「ねえ、そこの屏風が商品じゃ無くなったのって」
 直之が膝を手で打った。
「二〇〇〇年の十二月だ」
 友樹は屏風を指さし、再び良雄に質問する。
「叔父さん。祖父ちゃんはこの屏風についても何か言ってませんでした?」
 ダメ元で聞いてみたのだが、良雄は意外にも
「ああ、言ってたよ。というか、よく分かったね」
と応えた。
「大事にしろ、家宝だと思えって。まあ、理由は分からんけど、僕が死ぬまでは丁重に扱うさ」
 友樹の口元に微笑が浮かんだ。間違いない、明は屏風の怪異に遭遇している。明も友樹たちと同じように、屏風の怪異の真意に気付いたようだ。おそらくその後、商品として売り出して良い物では無いと判断し、母屋に移動させたのだ。
 友樹は壁により掛かるようにして立てられている屏風を眺めた。友樹には、この屏風に何故この絵が描かれているのか、何故あの怪異が起こるのか、一体どこからやって来たのか、何も分からない。これらはおそらく、明も知り得なかったことだろうし、それ以前の所有者たちも同様だろう。
 ただ、分かっていることは二つだけ。一つは、この屏風が例の怪しく不気味な怪異で人々を災難から救ってきたこと。そして、明と友樹も救われていた、ということだけだ。
 良雄は改まった様子で深々と頭を下げた。
「とにかく、僕の管理が行き届いてないせいで、君たちを危険にさらしてしまった。申し訳ない。」
「そんなこと気にしなくて良いんですって。だって私たち凄く楽しかったんですよ。ねえ」
「いや、楽しかったのは多分お前だけだ」
「そんなことないって。それにほら、こんなに素敵な宝物まで手に入れてさ、冒険の締めくくりには最高だよ」
 そうだね、と友樹は応えた。色々あったけれど、これはこれで素晴らしい冒険だったかもしれない。友樹の手元で、当分使うことはなさそうな宝物たちが、夏の日差しを眩しく照り返した。

悪意が見てる / 中野弘樹 作

悪意が見てる / 中野弘樹 作

【不気味な視線は、仄暗い悪意の証】

  • 小説
  • 中編
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-02-14

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