お気に入りの音楽 132

お気に入りの音楽 132

アンドレ・プレヴィンとダイナ・ショア

 アンドレ・プレヴィンさん、お顔とお名前が一致しません。
 なぜ、今回はプレヴィンさんなのか? だって、前々章に登場した女優ミア・ファローの旦那様だったから。2番目の旦那様でした。

 プレヴィンさんは5度結婚した。ミア・ファローとの間には実子が3人、ベトナム人の養女2人、韓国人の養女スン=イーがいる。(ミア・ファローには養女が多い。後に、3番目のパートナー、ウッディ・アレンとの泥沼スキャンダルに)

 プレヴィンさんは、ヴァイオリニストのアンネ=ゾフィー・ムターとも結婚している。ムターとは、シベリウスやチャイコフスキーなどの協奏曲、モーツァルトのヴァイオリン・ソナタやピアノ三重奏曲などを録音している。
 そのムターとは、2002年に再婚したが、仕事で忙しくて会えないとの理由で2006年に離婚している。

チャイコフスキー ヴァイオリン協奏曲第1楽章
https://youtu.be/rvURCB6JDEo?si=J5_k18Fl0Q5ZO1te

【アンネ・ゾフィー・ムター】
 13歳でヘルベルト・フォン・カラヤンに招かれ、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団と共演、国際的に天才少女の名をほしいままにする。
 グラミー賞を4回受賞。

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 アンドレ・ジョージ・プレヴィン(1929年4月6日- 2019年2月28日)は、指揮者、クラシック音楽・映画音楽・ジャズのピアニスト、作曲家。 
 出生名は、ドイツ名でアンドレアス・ルートヴィヒ・プリヴィンといい、アンドレはフランス風の名乗りである。
 プレヴィンは、ベルリンのユダヤ系ドイツ人の家庭に生まれた。プレヴィンの父は、法律家と音楽教師を兼ねていた。
 ベルリン高等音楽院でピアノを学び、9歳でパリ音楽院に入学。ナチス政権を逃れて一時期フランスで教育を受けた後、1938年から家族に連れられアメリカへと渡り、1943年に合衆国市民権を獲得した。
 プレヴィン自身は、混迷した時局やアメリカ亡命の渦中で出生証明が失われており、自らの生年について確実ではないとしている。(Wikipediaより)

 交響曲第7番ニ短調作品70、B.141は、ドヴォルザークの交響曲。
 第9番『新世界より』ほどではないが、第8番と共にドヴォルザークの交響曲では良く取り上げられる楽曲である。
 ブラームスの交響曲第3番からの影響を指摘する見解もある。
 ドヴォルザークは新作交響曲の依頼を受けた前年の1883年に、ブラームスの交響曲第3番の初演を聴いて新たな交響曲の作曲に意欲を抱いていた。

ドヴォルザーク交響曲第7番ニ短調作品70、B.141

https://youtu.be/a37-vqiLKhg?si=Na9_Wbqj8TR35izJ

 ドボルザークの交響曲は8番、9番は知ってるが、7番は……。
 YouTubeで観ていたドラマ、『それが答えだ』のオーケストラのコンテストの課題曲だった。人数が足りなくて変えられてしまったが。


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マイ・ファニー・ヴァレンタイン ダイナ・ショア
https://youtu.be/yguHSsB-JJ0?si=pAcg4w2BGm_6h7Ab

『マイ・ファニー・ヴァレンタイン』は、1937年にリチャード・ロジャースとロレンツ・ハートにより作詞・作曲され、ミュージカル『ベイブス・イン・アームス』で発表されたショー・チューン。(舞台のミュージカルのために書かれた歌) 代表的なジャズ・スタンダードの楽曲でもある。


 ダイナ・ショア(Dinah Shore、1916年2月29日 - 1994年2月24日)は、アメリカ合衆国の歌手、女優。テネシー州ウィンチェスター出身。
 クラブシンガーとしてスタートし、後に映画やテレビにも進出、「ザ・ダイナ・ショアショー」という自分の名を冠した番組まで持つに至り、アメリカのエンターテイメント界の最高峰にまで上り詰めた。

 アンドレ・プレヴィン率いるピアノトリオをバックに従えて名唱を聴かせてくれる。
 イントロの構成、短くも無駄なく曲の美点を引き継ぐソロ、そしてダイナの歌声を引き立たせる演奏。
 聴けば聴くほど、その魅力の深みに嵌っていく……
http://jazzbaka.blog.jp/archives/13737217.html

 天性の気品とでもいおうか……。ダイナ・ショアの歌を聴いていると、俗世間の欲とは無縁の純潔性に心が洗われるような思いがする。
 父子家庭に育った彼女は、大学卒業後にニューヨークで歌手としてのキャリアを歩み始め、39年にラジオ局の専属となりデビューのきっかけを掴む。その黄金時代は40〜50年代で、「Buttons and Bows」「The Gypsy」「I'll Walk Alone」などのミリオン・セラー・ヒットを放ち、ソフィスティケイトの極致といった感のあるムーディなヴォーカル・ワークで一時代を築いた。
 一方で彼女は新しいメディアにも常に積極的で、TV創生期の50年代初期には自分のTVショウ、70年代にもトーク・ショウをもち、どちらもロングランを記録。生き馬の目を射抜く米国ショウ・ビジネスの世界を80年代まで生き抜いた。
 とにかくアメリカン・ドリームの体現者としても、アメリカを代表するポピュラー・シンガーとしても、永遠に人々の記憶に残る存在である。
https://okmusic.jp/Dinah%20Shore

 ダイナ・ショアは、後年には女子プロゴルフの発展にも貢献し、1994年に世界ゴルフ殿堂入りをしている。
 1972年に彼女が企画した「コルゲート・ダイナ・ショア・ウィナーズ・サークル」は、1983年にメジャー昇格。
(82年からは大会名に「ナビスコ・ダイナショア・インビテーショナル」「ナビスコ・ダイナショア」「ナビスコ選手権」、2002年から14年は「クラフト・ナビスコ選手権」と呼ばれていた。
 そして、15年からは「ANAインスピレーション」、22年からは「シェブロン選手権」に変わった)

 この大会の優勝者は18番グリーン脇の池に飛び込み、ずぶ濡れになった体に白いバスローブを羽織って優勝トロフィーを掲げることが、恒例儀式と化していた。 
 23年に変更になった、カールトンウッズの18番グリーン脇にも池が広がっている。しかし、その池は、これまで人間が飛び込むことなど、まったく想定されていない池だった。
 そこで、大会とクラブ側はダイバーを潜らせて池の底の状態を調べ、岩や石が飛び出していないかどうかをチェックした。
 ワニやヘビが生息している池でもあるため、優勝者が飛び込むエリアにワニが近寄れないよう、水中にネットを張り巡らせて安全性を高めた。
「しかし、ヘビまではネットでは防ぎ切れない」

 最終日の優勝争いを眺めていた人々の興味と関心は「誰が勝つか」という点はもちろんのこと、「その優勝者は池に飛び込むだろうか?」という点に向けられていた。
https://egolf.jp/tournews/90605/2/

 
ダイナ・ショア名言

 人を愛せるかどうかで、若くいられるかどうかが決まるのよ。


 フランク・シナトラの『マイ・ファニー・ヴァレンタイン』
https://youtu.be/QbblEZIMqkQ?si=g1dkQNFDY42aQj56
ミア・ファローの最初の旦那様。

 1965年から、シナトラと19歳の新人女優ミア・ファローとの恋愛が話題を呼び、1966年にファローとの結婚を表明した。30歳近く年下の女優との結婚は話題を呼んだ。
 結婚当初は上手くいっているように見えたが、「ダイヤモンドのネックレスにジャック・ダニエル」が好みのシナトラに対し、「木彫りの首飾りにマリファナ」と言った流行り(子供向け)のヒッピー風が好み、さらにインドのマハリシ・マヘーシュ・ヨーギーを「尊師」とあがめるファローが長く保つはずがなかった。
 さらにファローがロマン・ポランスキー監督の「ローズマリーの赤ちゃん」の撮影中に、シナトラとファローと夫婦で出演予定の「刑事」の撮影が迫っているとシナトラが電話したところ、ポランスキーが拒否したことでシナトラは激怒した。 
 さらにファローが、シナトラと宿敵となったロバート・ケネディ上院議員たちとディスコで遊んでいたことが暴露されると、シナトラの怒りは頂点に達した。
 怒ったシナトラは弁護士をメキシコにいたファローの元に送り、何もわからず唖然とするファローに無理やり離婚届にサインをさせ、この短い結婚はわずか2年弱で幕を閉じることになった。


【マハリシ・マヘーシュ・ヨーギー】
 エリック・クラプトンの章で、親友ジョージ・ハリスンがインド文化に傾倒して、妻を省みなくなくなった……インドの文化・宗教に妻以上の価値を見出していたのかも。
 というのがありましたが、これだったようです。

【ロマン・ポランスキー監督】
 ポランスキー氏は、1970年代に当時13歳だった女性を強姦。この罪を認め、一時はアメリカで服役していたが、仮釈放中に国外へ逃亡し、米当局が身柄引き渡しを求めている。
 同氏はそれ以後も、複数の性暴力疑惑で糾弾されている。

お気に入りの音楽 132

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  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-02-14

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