卒業 2

卒業 2

後輩

 幸子と別れて半年、僕は幼馴染の夏生(なつお)の家庭教師をしていた。
 橘 夏生、17歳。高校3年。身長163センチ、体重は48キロ。ブラのサイズはDだった。洗濯物をチラッと見た。レースひとつついてない色気のない下着。
 ショートカットで肌はきめ細かい。頬の傷跡はまわりの皮膚より白く、見慣れた僕にはたいしたことのないように見えるが、初めての人から見たらやはり残酷なのか? 馴染みすぎててわからない。
 目は一重で鼻筋は整っている。小顔だ。唇は厚いが亜紀はセクシーだと言う。そして歯並びは完璧だ。
 横顔は左から見るとかわいい。頬に傷はないから。雰囲気は中性的、最近では下級生の女子にプレゼントをもらってきた。
 勉強はトップスリー。スポーツ万能。子供の頃から習ったものは、ピアノ、水泳、テニス、体操、英語、フランス語少々。
 趣味で作るケーキはどこの有名店のより僕の口に合っている。器用だからデコレーションもうまい。いっときパティシエになろうなんて言っていた。
 編み物も上手だ。僕のセーターは毎年増えていく。着ていないと怒る。高度な編み方らしくよく褒められる。縫い物も得意だ。彩の人形のドレスは亜紀には無理だ。レースやビーズをくっつけて、彩のリクエスト通りに作ってやる。この間の彩のピアノの発表会の3段フリフリのドレスも夏生の手作りだ。
 頬の傷さえなかったら、誰よりも女らしく生きてきただろうに。
「エーちゃん、幸子さんは元気?」
「別れた」
 さらっと言った。
「なんで?」
「彼女には好きな男がいた」
「嘘だね」
「僕よりずっといい奴だ。人間的にも、ずっと上」
「あの女、おかしいよ。潔癖症すぎる。あんなんで恋愛なんてできるわけない」
 思わず頬を叩いた。
「サディスト」
 夏生も思わず言った。
 しばし罰の悪い間だった。

 君は覚えているのか? 頬を叩いたのは2度目だ。しかし、夏生は頬の傷に関しては感情をなくすことの訓練ができていた。叩いた頬にふれたがなにも言わない。左手で右頬にふれた。傷痕をなぞった。今を逃したら聞くことはできない。
 夏生はなにも言わない。
「サディストだよ。僕は。ずっとそう思ってただろ? 僕は謝ってもいない。君が自分で転んだって言ったから。大人たちもそういうことにした。僕も忘れそうになるよ。君にしたこと」
「……」
「いっそ、責めてくれよ。君の青春を壊したって」
 しばし考えたあと夏生は言った。
「彼氏ができた」
 僕は吹き出した。なにを考え、なにを言うんだ?
「そいつに会わせろよ」
「じゃあ試験勉強みて。病気で留年した友達がいるの」


 その日、ふたりは来た。紹介され僕は和樹を見て嫌なやつを思い出した。それから美登利を見てさらに見つめた。まさかと思った。和樹が僕を見つめ、美登利はまるで初対面のように振る舞った。
 冷静を保ちふたりの勉強を見た。長年夏生を教え、夏生のために自分の試験問題を取ってあった。美登利は遅れていたので必死だった。
「パパを悲しませたくないの。絶対卒業して店を手伝うの」

 美登利の家はコンビニを経営しているが人手が足りないらしい。
 夏生の母親がおやつも食事も出してくれたが数口食べただけだった。
 犬が嫌いだ。手と顔を舐められ本気で怒った。洗面所で舐められたところをゴシゴシ洗っていた。
 潔癖症か? この家で食べたものは個包装の菓子。ボトルの飲み物。気づかれないように隠している。
「菌、付いてない?」
 美登利が聞いた。心配そうな目で。
「それだけ洗えば付いてないよ」
「菌、付いてない?」
 美登利はもう1度聞いた。
「付いてないっ!」
 思わず大声を出すとホッとした顔をした。
 嫌われたな、と風呂場で犬を洗ってやる。なぜか美登利は僕のそばを離れなかった。彼女にドライヤーを使わせた。洗った毛を恐る恐る撫でる。
「菌、付いてない」
 自分で言い納得させる。

 1年の時、軽音部だった美登利は男子生徒のアイドルだった。巨乳のハスキーボイス。病気で長期欠席していたという美登利に、かつての輝きはない。
 和樹のほうはときどき僕を観察している。夏生の話だと篠田葉月を好きだったという。葉月はテニス部の2つ上の先輩にあたる。
 僕は和樹と美登利を車で送っていった。和樹の家は母親が美容院を経営している。姉が3人。
「なるほどね。女慣れしてるよ。羨ましいね」
 少し憮然とした。

 そのあと美登利を送りながら聞いた。
「圭は元気かい?」
 無視して携帯をいじっている。
 僕は車を止め後部座席に移った。
「なにがあった? 何キロ痩せた?」
「近づかないで。苦手なのよ」
「なにが?」
「息がかかるの、苦手なの」
「……君は借金しにきたんだぞ。圭のために」
 圭の名は美登利の頭の中にはないらしい。なおも問いただすと美登利はポケットから薬を取り出し、吸入した。
「息苦しいから歩いていく」

 圭とは終わったのか? 去年金を借りにきた美登利。借金を頼むには態度がでかかった。
「圭の親友だったんでしょ? 大変なのよ。おかあさんが入院して手術しなきゃならないの。圭は昼も夜も働いて‥‥お願い、必ず返すから。1年で返す。返せなかったら、好きにしていいわ……」
 美登利はじっと僕を見た。自分の魅力を知っていた。
 好きな男のために尽くすたけくらべの美登利。
 かつて圭の父親が亡くなり夜学に移ると聞いたとき、金を出してやると言ってしまった。働いたら返してくれればいい。奨学金だと思えば……圭のプライドを傷つけ親友を失った。

 美登利には絶対僕の名は出すな、と釘を刺した。
 しかし、美登利はすぐに返してきた。
「必要なくなった。親方が貸してくれたって。よかった。これでおかあさん、手術できる」
 圭のことが好きで好きで、圭のためなら献身的だったのに。そんなこと嘘のような、借金のことさえなかったように。

美登利

 試験の成績は皆よかった。ヤマカンが当たった。
 解放されて夏生の家で集う。犬は美登利の膝の上にいる。大丈夫なようだ。夏生がピアノを弾く。和樹は歌う。はやりの歌を。歌い慣れている。僕が弾くと美登利はハッとする。
「やめてよ」
「君の歌、感動した」
 3年前の文化祭で歌った歌を僕が歌う。夏生が合わせる。
「ダメだな、ドリーじゃないと声が合わない」
 夏生の母親に勧められ美登利は歌った。僕の伴奏で。ハスキーボイスで会場を魅了した美登利だった。驚いたのは圭の登場。男生徒が皆、自分のものにしたかった女は、夜学生の圭に駆け寄って行った。圭は羨ましいくらい皆の前でドリーに甘えられていた。

 次に美登利は弾いた。楽譜を開きベートーベンの1番、1楽章。
「これ、好きだわ。発表会で弾いた」
 僕が好きなのは4楽章。美登利に代わり弾く。よく弾いた曲だ。悲しみと怒りを叩きつけた。美登利がページをめくる……

 夏生は和樹と喋っていた。いちゃついていた。ムカつく男だ。聴けよ。演奏を。腕が鈍ったか? 

 美登利は魅了されたようだ。
「ゾクゾクする。私も弾きたい。教えて……」

 家でレッスンしてやる。美登利を亜紀に会わせた。雑然としたリビング。ホコリなんかで死にはしないわ、という亜紀。怖気付いて帰るか? 
 亜紀はすぐ気づいたがなにも言わない。さりげなくウェットティッシュを置く。意外だったようだ。美登利を見てなにを感じたか? 圭の彼女だったと知ったらどんな顔をするだろう?
「おにいちゃんのあたらしいカノジョォ?」
 彩はませた口をきく。庭から駆けてきた手と服には土がついている。荒療治になるか? 

 亜紀に頼まれ犬の散歩に行った。美登利は恐る恐る便をつかむ。肛門を拭く。ウェットティッシュを何枚も使う。
「自分のうんちは平気なのか?」
 美登利が呆れた顔で僕を見る。
「あんたって、圭の言ったとおり……」
「圭がなんて言った?」
「……みかけと全然違うって……私と似てるって」
 美登利は風呂場でズボンをまくり犬を洗う。まくった手首にサポーターを巻いていた。
「重いもの持つから痛めたの」
 恵まれたお坊ちゃんとは違うんだ……圭の声と重なる。
 美登利は丁寧に洗う。ペニスも肛門も口の中も。丁寧に丁寧に丁寧に……亜紀が耳元でささやく。
「あの子と寝るときはこんなに洗われるわね」


 美登利はレッスンに来る。弾く前にピアノを磨く。数日で上達していた。熱心にハノンから練習してくる。貸してやったハンドグリッパーで指の力もついていた。
 美登利が使うトイレと洗面所はピカピカになる。雑然としたリビングは整頓されていく。こんな病気なら歓迎だ。体重は増えているようだ。
 額が曲がっていると椅子に乗り直す。ホコリを拭き取る。
「なんて書いてあるの?」
「青春のときを無駄にするな、と。掃除と手洗いで無駄にするな、と」
「わかってるわよ。亜紀さんみたいだったらどんなに楽か……亜紀さんがママだったらよかった」
「ああ、僕は幸せだ」
 スープの匂いがしてきた。いい匂い……と美登利が言うが……
「犬に、鷄の手羽先を茹でてる。そのあとが人間様のスープ」
 美登利は蓋をあけて驚く。丸ごとの皮付きのジャガイモ、キャベツ、カブ、玉ねぎ、にんじん……ハサミで切って盛り付ける。
「君には無理だ」
「亜紀さんのなら平気」
 美登利は口に含む。味は確かだ。これだけは絶品だ。美登利とふたりで鍋いっぱい平らげた。亜紀は呆れたが美登利の食欲を喜んで、今度は美登利に作らせた。話している。
 パパにお持ち帰り? パパ以外にいないの? 食べさせてあげたい人……

 美登利はドクター亜紀のカウンセリングに来る。亜紀は圭の元彼女の力になろうとしている。庭仕事をさせる。彩と3人で花を植える。手袋をして。
 話している。楽しそうに。体重は増えているようだ。
 夜中にメールがきた。 
(起きてる?)
(眠れないのか?)
(興奮して目が冴えて……写真送るね)
(よせ、いらない)
 画像が送られてくる。イングリッシュガーデン?
(なに考えてるの? こういう素敵な花壇にしたい)

 美登利は園芸に魅せられた。本を買い研究する。亜紀に任せられ美登利ははりきった。連日付き合わされ足りない植物を買いに行き、植えるのを手伝わされた。
「花の名前、よく知ってるのね」
「手伝わされたからな。死んだ母に。自慢の庭だった。5年前にガレージ増やしてバラは半分に減った」
 かつて圭と父親が工事した庭。圭と僕が土を入れた花壇。センスのない花壇が変わっていく。美登利のレイアウトで。
 土の汚れも気にならなくなる。手袋をしていない。悲鳴をあげていた虫にも驚かなくなる。中腰で長い時間……
「少し休めよ。腰痛めるぞ。手首も」
 根性のある女だ。体力も戻ってきたようだ。日に当たり健康的になり、かつてのドリーに戻っていく……
 完成したイングリッシュガーデンは見事だった。訪れるものが目を奪われた。

 夏生の18歳の誕生日、夏生の父親も僕の両親も妹の彩も美登利も集まった。
 父は息子が傷つけた幼馴染みの誕生日には毎年都合をつけて出る。僕の罪を幼いなりに庇ってくれた夏生の優先順位は娘の彩より高い。
 父は美登利に花壇の礼を言い褒めた。進路について聞いている。美登利は進学はしない。父の知り合いの造園会社を紹介しようか、と言われ考えている。

 和樹が夏生をエスコートしてやってきた。夏生は恥ずかしがりなかなか入ってこない。
 そこにいたのは夏生ではなかった。ふわっとしたショートカットにナチュラルメイクだが、頬の傷は薄くなっていた。ピンクの口紅に淡いピンクのワンピース。夏生にピンク? ミニスカートから伸びた足は長い。皆絶句。彩が、
「ナツオ、ウソォ」
と叫んだ。皆口々に褒める。夏生は照れて顔を隠す。美登利が、耳打ちした。息がかかった。
「この服和樹のプレゼントよ。このブランド、高いわよ」
 夏生は和樹の母親や3人の姉にいじられて変身した。
 両親は涙ぐんでいた。僕は声も出ない。亜紀がうしろから肩を抱いた。
 もう重荷はおろしていいのよ、と言うように。父はなにも言わない。自分の罪だと言ったくせに。
 夏生に化粧? パパの領分じゃないか? いや、僕がやるべきだった。なぜ思いつかなかったのだろう? 亜紀も。
 男の格好をしているのが当たり前になっていた。
 先を越された。

 負けた。君はこんなにきれいになって、もう僕など必要ない。
 重荷がおりるより寂しかった。大事な妹のような幼馴染みは初めて恋を知りどんどん変わっていく。
 妹の彩でさえ和樹に甘え和樹の隣に座り、兄貴などいらなくなったようだ。
「和ちゃん」
と彩が呼んだ。
 それだけのことだ。
「彩っ。おまえはこっちだよ」
 僕は彩を抱き和樹のそばから離した。
「いやだァ、和ちゃんのそばがいい」

『和ちゃん』
 幼い夏生が言ったそのひとことが僕を悪魔にした。

 和樹の隣に戻る彩。彩は和樹を選んだ。父はなにも感じていないようだった。
 彩が口ずさむ。5年も前に皆で踊った『嵐が丘』を。
 みんなで踊ったのよ、と。
 おにいちゃんは女装したの……
 勘弁してくれ。 
 夏生がピアノを弾いた。高音で歌う。彩が僕を引っ張った。
「おにいちゃんは見てるから彩、ひとりで踊ってきな」
 彩は舌打ちをして踊る。
 彩は、父親似だ。顔もそうだが背も高い。頭はいいし運動神経もいい。リーダーシップもある。彩が男の子だったら? いや、女でも父は彩にあとを継がせたいだろう。親戚も納得する。そのほうがいい。そのほうが気楽だ。
「三沢さんの女装、絶賛の嵐だったって?」
「圭に頼まれてやったんだ。君と同じ。圭のためならなんだってできた」


 夏休みに三沢家の別荘に行った。  
 和樹は親たちに評判がよかった。話題に加わる。スポーツの話、相撲やゴルフまで。広く浅い。
「ゴルフやってみたいんです」
「じゃ、今度練習場で教えるわよ」
 と、亜紀が言う。親たちに相槌を打ち酌をする。夏生と彩の頭や肩に触る。

 夜、外でバーベキューをした。僕と夏生と和樹で肉を焼く。彩は和樹にまとわりつく。大人たちと美登利は座っていた。
 美登利の隣に父が座った。除菌ティッシュの箱を置いた。父は美登利と話していた。美登利が笑う。体重も少しずつ増え、人目を引く女に戻っていた。病気と闘っている美登利に以前の軽薄さはない。僕は焼けた肉を運んだ。
「なにを話していたの?」
「本の話だ」
 本? 僕とは話したこともない。
 父は彩と花火をしにいった。まともには僕の顔を見ない。
 寝るのは和樹と同じ部屋だった。彩は和ちゃんと風呂に入ると言い、僕に叱られ、それでも和ちゃんと一緒に寝るときかず、眠った彩を亜紀のところへ連れていった。父は酒を飲んでいた。
 戻ると和樹は篠田葉月のことを聞いてきた。和樹は親たちがいなくなると態度を変える。
「葉月さんと付き合ってたんですか?」 
 亜紀から情報を聞き出したらしい。
「葉月先輩に幸子さん、皆、目立つ人ばかりですね。ドリーも、ドリーがあんなになったのは三沢さんのせい?」
「……」
「ドリーのこと意味深にみつめてる」
「誤解だよ。ドリーのことは僕が知りたいくらいだ。それにね、篠田さんがうちに来たのは僕に会うためじゃない。彼女は僕の父に会いに来たんだ。入学式に倒れて、父に抱き上げられ彼女は父に恋をした。父はモテるからね。君の恋敵は三沢英輔だよ」
 思いもしなかったろ? 
 幸子も父をステキだと言った。
 入学式に目が合ったの。私を見て笑った、と思ったけど、あれはあなたを見ていたのね。変わり者のあなたを心配して。あなたは下を向いていたけど……

卒業 2

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  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-02-11

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  1. 後輩
  2. 美登利