お気に入りの音楽 131〜140

お気に入りの音楽 131〜140

1話ずつ投稿したものをまとめました。

131 駅

 その歌に、駅の名は出てこない。
 
 10年前は地上2階にあったけど、地下にもぐった。
 85年間使用されたその駅を惜しみ、たくさんの人が訪れたという。
 開発と共に日に日に表情を変えてゆく街、渋谷。
 

 この楽曲は1986年に竹内まりやが中森明菜のアルバム『CRIMSON』への提供曲として書き下ろした。

 翌1987年に自身の16枚目のシングルとしてリリースし、以降、彼女の代表曲として長きに渡ってファンに愛され続けている。
 歌詞には、駅で繰り広げられる男女の切ない、「すれ違いの情景」が見事に描かれている。
 なんとも言えない余韻を残しながら幕を降ろすその物語には、二通りの解釈があるという。


 彼が「私だけを痛いほど愛してくれていた」と気づく。
 
 彼のことを「私だけが痛いほど愛していた」と気づく。

 作者がこの歌詞の込めた思いは前者の方だという。
 しかし、明菜は後者の解釈で歌唱しているのだという。

 もしかすると聴き手の心理状況で、聴こえ方が違ってくるのかもしれない。
 後に竹内自身は
「楽曲提供の依頼がなければ自分のために書く事はなかったタイプの曲ですね」
と語っている。

駅 竹内まりや
https://youtu.be/hqQUlq3V72E?si=0dAYZ_z5aysDHqFD

 ずっと、こちらの歌しか知らなかった。好きな歌だった。
 

駅 中森明菜
https://youtu.be/6NvI_egVvvc?si=vxJ0TVjnYcyh0Vt1

 最近になって明菜の歌をよく聴く。私の好きな佐藤隆が楽曲『アルマージ』を提供してるのを知ってから。


小さな鳩 ダニエル・ビダル
https://youtu.be/3eUzkn5DRxw?si=X8tRuLDqCMey_5mm

……? 
 まあ、こういうことはよくあります。

https://www.tapthepop.net/machinouta/68651/ampを参考にしました。

132 アンドレ・プレヴィンとダイナ・ショア

 アンドレ・プレヴィンさん、お顔とお名前が一致しません。
 なぜ、今回はプレヴィンさんなのか? だって、前々章に登場した女優ミア・ファローの旦那様だったから。2番目の旦那様でした。

 プレヴィンさんは5度結婚した。ミア・ファローとの間には実子が3人、ベトナム人の養女2人、韓国人の養女スン=イーがいる。(ミア・ファローには養女が多い。後に、3番目のパートナー、ウッディ・アレンとの泥沼スキャンダルに)

 プレヴィンさんは、ヴァイオリニストのアンネ=ゾフィー・ムターとも結婚している。ムターとは、シベリウスやチャイコフスキーなどの協奏曲、モーツァルトのヴァイオリン・ソナタやピアノ三重奏曲などを録音している。
 そのムターとは、2002年に再婚したが、仕事で忙しくて会えないとの理由で2006年に離婚している。

チャイコフスキー ヴァイオリン協奏曲第1楽章
https://youtu.be/rvURCB6JDEo?si=J5_k18Fl0Q5ZO1te

【アンネ・ゾフィー・ムター】
 13歳でヘルベルト・フォン・カラヤンに招かれ、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団と共演、国際的に天才少女の名をほしいままにする。
 グラミー賞を4回受賞。

 ︎

 アンドレ・ジョージ・プレヴィン(1929年4月6日- 2019年2月28日)は、指揮者、クラシック音楽・映画音楽・ジャズのピアニスト、作曲家。 
 出生名は、ドイツ名でアンドレアス・ルートヴィヒ・プリヴィンといい、アンドレはフランス風の名乗りである。
 プレヴィンは、ベルリンのユダヤ系ドイツ人の家庭に生まれた。プレヴィンの父は、法律家と音楽教師を兼ねていた。
 ベルリン高等音楽院でピアノを学び、9歳でパリ音楽院に入学。ナチス政権を逃れて一時期フランスで教育を受けた後、1938年から家族に連れられアメリカへと渡り、1943年に合衆国市民権を獲得した。
 プレヴィン自身は、混迷した時局やアメリカ亡命の渦中で出生証明が失われており、自らの生年について確実ではないとしている。(Wikipediaより)

 交響曲第7番ニ短調作品70、B.141は、ドヴォルザークの交響曲。
 第9番『新世界より』ほどではないが、第8番と共にドヴォルザークの交響曲では良く取り上げられる楽曲である。
 ブラームスの交響曲第3番からの影響を指摘する見解もある。
 ドヴォルザークは新作交響曲の依頼を受けた前年の1883年に、ブラームスの交響曲第3番の初演を聴いて新たな交響曲の作曲に意欲を抱いていた。

ドヴォルザーク交響曲第7番ニ短調作品70、B.141

https://youtu.be/a37-vqiLKhg?si=Na9_Wbqj8TR35izJ

 ドボルザークの交響曲は8番、9番は知ってるが、7番は……。
 YouTubeで観ていたドラマ、『それが答えだ』のオーケストラのコンテストの課題曲だった。人数が足りなくて変えられてしまったが。


 ︎

マイ・ファニー・ヴァレンタイン ダイナ・ショア
https://youtu.be/yguHSsB-JJ0?si=pAcg4w2BGm_6h7Ab

『マイ・ファニー・ヴァレンタイン』は、1937年にリチャード・ロジャースとロレンツ・ハートにより作詞・作曲され、ミュージカル『ベイブス・イン・アームス』で発表されたショー・チューン。(舞台のミュージカルのために書かれた歌) 代表的なジャズ・スタンダードの楽曲でもある。


 ダイナ・ショア(Dinah Shore、1916年2月29日 - 1994年2月24日)は、アメリカ合衆国の歌手、女優。テネシー州ウィンチェスター出身。
 クラブシンガーとしてスタートし、後に映画やテレビにも進出、「ザ・ダイナ・ショアショー」という自分の名を冠した番組まで持つに至り、アメリカのエンターテイメント界の最高峰にまで上り詰めた。

 アンドレ・プレヴィン率いるピアノトリオをバックに従えて名唱を聴かせてくれる。
 イントロの構成、短くも無駄なく曲の美点を引き継ぐソロ、そしてダイナの歌声を引き立たせる演奏。
 聴けば聴くほど、その魅力の深みに嵌っていく……
http://jazzbaka.blog.jp/archives/13737217.html

 天性の気品とでもいおうか……。ダイナ・ショアの歌を聴いていると、俗世間の欲とは無縁の純潔性に心が洗われるような思いがする。
 父子家庭に育った彼女は、大学卒業後にニューヨークで歌手としてのキャリアを歩み始め、39年にラジオ局の専属となりデビューのきっかけを掴む。その黄金時代は40〜50年代で、「Buttons and Bows」「The Gypsy」「I'll Walk Alone」などのミリオン・セラー・ヒットを放ち、ソフィスティケイトの極致といった感のあるムーディなヴォーカル・ワークで一時代を築いた。
 一方で彼女は新しいメディアにも常に積極的で、TV創生期の50年代初期には自分のTVショウ、70年代にもトーク・ショウをもち、どちらもロングランを記録。生き馬の目を射抜く米国ショウ・ビジネスの世界を80年代まで生き抜いた。
 とにかくアメリカン・ドリームの体現者としても、アメリカを代表するポピュラー・シンガーとしても、永遠に人々の記憶に残る存在である。
https://okmusic.jp/Dinah%20Shore

 ダイナ・ショアは、後年には女子プロゴルフの発展にも貢献し、1994年に世界ゴルフ殿堂入りをしている。
 1972年に彼女が企画した「コルゲート・ダイナ・ショア・ウィナーズ・サークル」は、1983年にメジャー昇格。
(82年からは大会名に「ナビスコ・ダイナショア・インビテーショナル」「ナビスコ・ダイナショア」「ナビスコ選手権」、2002年から14年は「クラフト・ナビスコ選手権」と呼ばれていた。
 そして、15年からは「ANAインスピレーション」、22年からは「シェブロン選手権」に変わった)

 この大会の優勝者は18番グリーン脇の池に飛び込み、ずぶ濡れになった体に白いバスローブを羽織って優勝トロフィーを掲げることが、恒例儀式と化していた。 
 23年に変更になった、カールトンウッズの18番グリーン脇にも池が広がっている。しかし、その池は、これまで人間が飛び込むことなど、まったく想定されていない池だった。
 そこで、大会とクラブ側はダイバーを潜らせて池の底の状態を調べ、岩や石が飛び出していないかどうかをチェックした。
 ワニやヘビが生息している池でもあるため、優勝者が飛び込むエリアにワニが近寄れないよう、水中にネットを張り巡らせて安全性を高めた。
「しかし、ヘビまではネットでは防ぎ切れない」

 最終日の優勝争いを眺めていた人々の興味と関心は「誰が勝つか」という点はもちろんのこと、「その優勝者は池に飛び込むだろうか?」という点に向けられていた。
https://egolf.jp/tournews/90605/2/

 
ダイナ・ショア名言

 人を愛せるかどうかで、若くいられるかどうかが決まるのよ。


 フランク・シナトラの『マイ・ファニー・ヴァレンタイン』
https://youtu.be/QbblEZIMqkQ?si=g1dkQNFDY42aQj56
ミア・ファローの最初の旦那様。

 1965年から、シナトラと19歳の新人女優ミア・ファローとの恋愛が話題を呼び、1966年にファローとの結婚を表明した。30歳近く年下の女優との結婚は話題を呼んだ。
 結婚当初は上手くいっているように見えたが、「ダイヤモンドのネックレスにジャック・ダニエル」が好みのシナトラに対し、「木彫りの首飾りにマリファナ」と言った流行り(子供向け)のヒッピー風が好み、さらにインドのマハリシ・マヘーシュ・ヨーギーを「尊師」とあがめるファローが長く保つはずがなかった。
 さらにファローがロマン・ポランスキー監督の「ローズマリーの赤ちゃん」の撮影中に、シナトラとファローと夫婦で出演予定の「刑事」の撮影が迫っているとシナトラが電話したところ、ポランスキーが拒否したことでシナトラは激怒した。 
 さらにファローが、シナトラと宿敵となったロバート・ケネディ上院議員たちとディスコで遊んでいたことが暴露されると、シナトラの怒りは頂点に達した。
 怒ったシナトラは弁護士をメキシコにいたファローの元に送り、何もわからず唖然とするファローに無理やり離婚届にサインをさせ、この短い結婚はわずか2年弱で幕を閉じることになった。


【マハリシ・マヘーシュ・ヨーギー】
 エリック・クラプトンの章で、親友ジョージ・ハリスンがインド文化に傾倒して、妻を省みなくなくなった……インドの文化・宗教に妻以上の価値を見出していたのかも。
 というのがありましたが、これだったようです。

【ロマン・ポランスキー監督】
 ポランスキー氏は、1970年代に当時13歳だった女性を強姦。この罪を認め、一時はアメリカで服役していたが、仮釈放中に国外へ逃亡し、米当局が身柄引き渡しを求めている。
 同氏はそれ以後も、複数の性暴力疑惑で糾弾されている。

133 銀の次は黒、赤、白で

 zorro gris de la noche の続きです。銀の次は黒、赤、白で。

黒い花びら 水原弘
https://youtu.be/LvyqHUm7Kaw?si=ZzOYQDrCffhnaN-3

 水原弘のデビューシングルにして代表曲のひとつであり、また第1回日本レコード大賞の受賞作品としても知られる。作詞は永六輔、作曲は中村八大による。
 ポール・アンカの『君は我が運命』をヒントに作曲された。

君は我が運命 ポール・アンカ
https://youtu.be/BEyQPY5ZDqo?si=pwFNQ7PE6t9r3cdh

『君は我が運命(さだめ)You Are My Destiny『ユー・アー・マイ・ディスティニ》は、ポール・アンカが作詞・作曲し、自ら歌った楽曲。  
 1957年に発表され、アメリカ合衆国のBillboard Hot 100 チャートで7位まで上昇。


 水原弘はなんと、アニメソングも歌っていました。

カムイ外伝 エンディングテーマ 水原弘
https://youtu.be/jkg9y5ZVg78?si=9g4GANWCM56n84Tf

  ︎

 二十歳くらいのとき、同僚がテープに録音してくれた渡哲也の『赤と黒のブルース』
 YouTubeで検索すると、鶴田康二の歌ばかり。

赤と黒のブルース 渡哲哉
https://youtu.be/pV2Sg2TY8G0?si=CXn6me1KV_022ulh

赤と黒のブルース 鶴田浩二
https://youtu.be/vPHrOE8Dq5M?si=8VrmSYymTqEIQ0Wj

 むかし、片思いしていた人の名が浩二さん。四男なのに。おかあさんが、鶴田浩二のファンだった。
 私なんて、父が好きだった競馬の騎手から一字もらった……


 ︎

赤いグラス アイ・ジョージ・志摩ちなみ
https://youtu.be/qhgcYEYAfm0?si=zZMc6enT74vHhBQy

『赤いグラス』は裕次郎のテープを車の中でよく聴いていた。

 ︎

いとしのマックス 荒木一郎
https://youtu.be/NM3gTnRQ2PU?si=9b7nKznvAdobmaRY

『いとしのマックス 〜マックス・ア・ゴー・ゴー〜』は、1967年のヒット曲の一つでシンガーソングライター・荒木一郎のシングル盤レコード。
 1968年時点での累計売上は125万枚。

 ︎

真っ赤なスカーフ ささきいさお
https://youtu.be/CpQTwB3FxdI?si=AEzQnkUUeO9ufQL-

 当初は同時間帯に放送されていた『アルプスの少女ハイジ』『猿の軍団』などの影響もあって視聴率が低迷。本来の予定回数、全39話から全26話に短縮された。
 しかし、再放送などで改めて注目され、再編集した劇場映画が公開される頃までには、社会現象とも言える大ブームとなっていた。子供のものと思われていたアニメ作品に中・高校生から青年層までの幅広い視聴者が存在していたことを広く示すことになった。

組曲『宇宙戦艦ヤマト』 広島シティハーモニー吹奏楽団
https://youtu.be/hC5Nu12E0Uo?si=cb0uytf53-86JygL

 映画、観に行きました。2作目まで。アルバムも買った。
 指揮は沖田艦長。

 ︎

『雪のための50の言葉』という曲は、1から50までケイトが数字を数え、その後に英国を代表するコメディアン/文化人のスティーヴン・フライがひとつずつ単語を読み上げるという不思議な曲。 
 これはエスキモー(イヌイット)には雪を表す言葉が50もあるといういわれをモチーフにしたもので、ケイト自身が雪を表す50の言葉を考えたという。
"ブリザード”や“なだれ”“大地の猛吹雪”という言葉に交じって“スパングラダシャ”“スリッパレーラ”といった謎の造語もちりばめられている。https://www.barks.jp/news/?id=1000075080
 

雪のための50の言葉 ケイト・ブッシュ スティーヴン・フライ
https://youtu.be/UGtYgN0j0RE?si=NSwEDpVUf9CZeGfS

 最初は、変なの……と思ったけど、不思議。よく聴いています。

 ︎

 ズー・ニー・ヴー(Zoo Nee Voo)は、日本のグループ・サウンズバンド。
 代表曲は2枚目のシングル『白いサンゴ礁』。この曲は当初B面だったが、ヒットしたため後年に発売された再発盤ではAB面が逆になっている。オリコン最高位18位、累計売上17.7万枚を記録した。

白いサンゴ礁 ズー・ニー・ヴー
https://youtu.be/IxeolsDW744?si=sb4OCsztBqMWTrRU


 4枚目のシングル『ひとりの悲しみ』は、改詩改題して尾崎紀世彦が歌った『また逢う日まで』の元歌として有名。

ひとりの悲しみ ズー・ニー・ヴー
https://youtu.be/KqKb42sHnE4?si=TE_wmz2iEcGXDZh_

134 コメントいただいた曲

 在庫切れ……調べたいことはたくさんあるのですが。
 フランク・シナトラの生涯、ヴァイオリンの天才少女ひまりちゃん、N響と小澤征爾、カラヤンとザビーネ等々。
 でも、投稿できるまで時間がかかりそう。

 ここで、ちょっと思いついたので、今までにコメントくださった、曲を載せてみます。
 こんなエッセイを投稿しながら、本当は無知で知らない曲ばかりなのです。
 

【500miles ピーターポールアンドマリー】
https://youtu.be/YaUweVUBfF8?si=QMn3_XLRwkoslocs

『500マイルもはなれて(500 Miles、Five Hundred Miles)』は、アメリカ合衆国のスタンダードナンバー。1961年発表。作詞・作曲・歌:ヘディ・ウエスト

 ボブ・ディランの『風に吹かれて』のカバーで、ピーター・ポール&マリーを取り上げたときに、この歌を教えていただきました。

 世界各国の歌手にカバーされて歌い継がれている。日本では『500マイルもはなれて』の邦題でピーター・ポール&マリー盤やキングストン・トリオ盤がヒット。
 日本人歌手によるカバーは当初は英語詞が主流だったが、後に複数の訳詞が発表され、特に忌野清志郎の訳詞はその後のカバーの標準となった。

 歌詞は、汽車が進むに連れて故郷や恋人と遠く離れてしまう情景が描かれている。
 単純なメロディとコード進行で構成されており、日本ではフォークギター初心者の練習曲としても普及した。1960年代後半のカレッジ・フォーク全盛期には教科書のような存在として親しまれた。

【500マイル ヘディ・ウエスト】
https://youtu.be/rwnNdqpCF8Q?si=YEdGPj3qDrLGXBOo

【500マイル 忌野清志郎】
https://youtu.be/eKuRT9MLpcQ


【500マイル 石原裕次郎】
https://youtu.be/mSdPE_sB1V0?si=o2qypYbr0d6HtjSH

 裕ちゃんは連れ合いが好きなので。
 でもこの歌は知らなかったみたい。


【案山子 さだまさし】
https://youtu.be/q-YWPosTX1M?si=j8flEX8CYWGchn74

 カセットテープを流していても、私は地味な歌だと、ぜんぜん引っ掛からなかったのですが。
 600キロメートルはなれた地方から出てきた連れ合いは、ジーンとくるようです。

 都会で一人暮らしをする弟を、雪の中にぽつんと立つ案山子になぞらえ、故郷にいる兄が気遣うメッセージを送る歌である。
 この曲のきっかけは大分から福岡へ弟と共に移動する際に、列車から見た景色だという。
 その日は雪が降っており、車窓から雪の中に案山子がぽつん立っているのを見たさだは、「かわいそうにな、雪の中に立ってて」と話しかけた。弟は鈍い反応しかしなかったが、さだはその風景と、自身が経験した都会での一人暮らし、そして弟の台湾留学中の思い出などが重なり、この曲を思いついたという。さだ曰く曲の原風景は津和野とのこと。
「これは、舞台にしている津和野の山の城跡にたくさん生えてある松の木が歌っている」のだという。
 なお、「お金はあるか、金頼むの一言でもいい」という歌詞があるが、これは親からの仕送りだけが頼りだったさだ自身の経験が基になっており、冒頭のメロディは、アマチュア時代に既に書かれていたものを使用しているという。


【検察側の証人 さだまさし】
https://youtu.be/gN6kCn-oiNY?si=tjWFqx0my_6-8AwM

 初めて聴きました。歌詞が惹きつけますね。さださん、若い!

 さだまさしの『印象派』というアルバムに収録されていた『検察側の証人』
 さだまさしの最高傑作といわれる『夢供養』の次に出されたアルバムで、一般的な評価は低く、さだまさしもスランプに陥ったと今でも語られるアルバムです。
 タイトルはさだまさしがアガサ・クリスティの同名の小説にインスパイアされてつけたものです。

 当人同士は自分は本当のことを言ってると信じているんだけども、自分が本当だという意見が3つ出てくると、それぞれに矛盾があるんだけども、誰が本当のことを言ってるんだか客観的には分からない、それをよく我々はなんだかまるで薮の中だななんて言い方をします。
 そして結局悲しいけれど、収まる場所は力のあるものに押し切られてしまう。
 ひとりの力は小さくて切ないけれど、みんなの力が集まれば何かができると思うんだけれども、人間というは3人寄れば派閥ができるというくらいで、正しい行いをしようとしていると、自分の心のなかですら今自分が行おうとしていることは本当に正しいことなんだろうか、それとも偽善なんだろうか、これは間違ったことなんだろうか、自分の中に自分に対する猜疑心が出てきたりします。
 本当のことを誰が言っているか、いったい自分は本当のことを言っているか。本当っていったいなんだろう? 
 真実というのはひとつではないんだろうか? 事実というのはひとつでも、真実がひとつとは限らないんですね。
 これが我々が心で生きている生き物である理由なんですよね。事実というのは誰が言ってもかくかくしかじかでこうなった、この事実は揺るがないんだけれども、なぜそうなったのかということについては10人いれば10の意見が出てくるものなんですね。」(さだまさしステージトークより)

 ︎
【ONE MORE CUP OF COFFEE(コーヒーもう一杯)/Bob Dylan with Emmylou Harris】
https://youtu.be/95cufW4h-gA?si=XKuBL65s4VcRE3D2

 この曲は『ボブ・ディラン』の章でライブ版を投稿しましたが、いろいろ調べたら、コーラスをエミール・ハリスがやってるのがあって……ズレてるんです。
 最初は「え?」と思ったのですが、何度も聴きたくなる魅力が。 
 それでいろいろ調べたら、
 そのズレ方がかっこいいと。
https://note.com/mrm_mfm/n/n9d121a56204c

【イノセンス 伊藤君子】
https://youtu.be/V2St84nRxL8?si=jgqqb-eTYi5uIHJ-

 映画『フォロー・ミー』のテーマ曲を取り上げたら、アニメの『フォロー・ミー』を教えていただきました。聴いてすぐにわかりました。アランフェス協奏曲の第2楽章ですね。
 アニメは観ていないのですが。

 2032年、日本。世の中は、人とサイボーグ (機械化人間)、そしてロボット (人形)の共存が進んでいた。同時に、テロが各地で続発。そんな犯罪を取り締まる政府直属の機関・公安九課の刑事バトーは、その体全てが造り物のサイボーグでありながら、純粋な部分としてわずかな脳と「素子」の記憶だけを残していた。
公開日: 2004年3月6日
監督: 押井守
音楽: 川井憲次
興行収入: 980万アメリカ合衆国ドル

【Innocences Trailer】
https://youtu.be/4smvW7YaX7g?si=8qdyVdq0UqSnwaDo

135 コメントいただいた曲2

【月光 練習曲(エチュード)第二十二番(月光)フェルナンド・ソル】
https://youtu.be/5O7182cly4s?si=kAg9vht8yUFOQ2Za
 
 クラシックギターの定番だそうです。
 このエッセイを投稿するようになって、ギターを弾いてみたくなりました。姉が若い頃やっていたけど挫折。私も、まだ手が小さかったので挫折。
 娘の旦那さんが、実家に置きっぱなしのアコースティックギターの弦を張り替えてくれたので、やってみようか、と。
 
 ベートーヴェンのピアノソナタに有名な月光(第14番作品27-2第一楽章)と呼ばれる曲があるが、ギター曲の月光はフェルナンド・ソル作曲の25の練習曲という曲集の一曲(Etude op.35-22)
 フェルナンド・ソルの月光は、クラシックギターが趣味の人なら一度は練習したことがあるくらい有名な曲で、コンサートで弾かれることもある。
 フェルナンド・ソル( 1778年2月13日 – 1839年7月10日)は、スペイン・バルセロナ生まれの作曲家・ギター奏者。
 スペインでは「ギターのベートーヴェン」とも呼ばれる。ソルは、ギターの音楽レベルを可能な限りの高め、ギターを世に広める努力をしたギターの第1期黄金期に活躍した一人である。また、過去200年において、コンサート楽器としてのギターのための曲を最も書いた作曲家の一人である。

【月光ソナタ ベートーベン】
https://youtu.be/LH8VDxwAkLo?si=xqeOuTyRGWF25Bn0



【傘がない 井上陽水】
https://youtu.be/njmeNPymPrE?si=knU-yhfpEzqOopxJ

『傘がない』は、シンガーソングライターである井上陽水の楽曲。1972年7月1日に、自身の2枚目のシングルとしてポリドール・レコードからリリースされた。
 デビュー・アルバム『断絶』からのシングルカットで、当初はヒットしなかったが、いつしか初期の陽水の代表曲といわれるようになった。

 じっくり聴いたのは初めて。なんか、ふざけた歌かと思っていたので。深いですね。タイトルは……どうなんだろう?

 歌のテーマは、当時の日本社会に多少の皮肉を込め、世の中で起きている学生運動よりも、今は自分が「君」に会いに行かねばならないのに「傘がない」という問題のほうを考える必要があるというものである。
 制作当時はまだ学生運動の季節だった。しかし過激化した学生運動は、アルバム『断絶』やシングル「傘がない」リリースの頃にはすでに下火になっていた。
「傘がない」のリリースは、学生運動の勢いが下り坂になったあとに訪れた「シラケの季節」に丁度突入していたため、社会的問題に向き合わないミーイズム(meism: 自己中心主義)の登場とも言われた。



【マキシーのために かぐや姫】
https://youtu.be/A0xPcvOhlZU?si=7XmUrq2HUOjsPmwK

 友人がくれたカセットテープに入っていた。歌詞のせいか、嫌なのだけどよく覚えている。
 歌詞に『自殺』が。『傘がない』にも、ありますね。

 浅川マキに魅入られた喜多條忠が、南こうせつとかぐや姫に書いた歌~「マキシーのために」
 この歌に出てくる主人公マキシー(原詩ではピラニア)は、実在した喜多條忠の友人だった。
 学生運動が盛んだった頃によく知られていた女性活動家で、喰らいついたら離れないので“ピラニア”と呼ばれていた。
 やがてかぐや姫に提供した『神田川』の大ヒットによって、作詞家としての成功を掴むことになる。



【死にぞこのないの唄 友川かずき】
https://youtu.be/RssR_ckdDX0?si=zGL1F-FDAdBHuThq

 ちょっと凄まじい歌ですが、私の好きな友川かずきさんに、共感してくださった方がいらっしゃいました。



 ︎反戦歌を取り上げたときに下の2曲を教えていただきました。

【あの人の手紙 かぐや姫】
https://youtu.be/YaAWPXuIEsw?si=02zIJ1ds9ZfYscL6

 1971年アルバム『はじめまして』でデビューした、南こうせつ、伊勢正三、山田パンダの3人のフォーク・グループ。
 73年にシングル『神田川』の大ヒットで当時大流行していたフォークの代表選手となる。フォークに日本的な叙情性を入れたそのサウンドは“四畳半フォーク”とも称された。 
 以後も『赤ちょうちん』『妹よ』がヒット、伊勢が書いた『なごり雪』『22才の別れ』がカヴァー・ヒットするなど一世を風靡したが、75年に解散した。



【DIAMOND DUST THE STAR CLUB 】
https://youtu.be/G9CtY0SoUpc?si=1s63F0AdkPXH8J-q

 The Star Clubは1977年名古屋にて結成。1984年メジャーデビュー。ボーカルのヒカゲを核として40年以上の活動を続けている。



【愛する人に歌わさないで 森山良子】
https://youtu.be/x7d23yyDpHI?si=iUj5CrKbMf7_fs-9

 反戦歌を聴いて思い出しました。
 姉がレコードを買っていました。
 ずっと忘れていた歌です。

136 小澤征爾とN響事件

 今から十数年前、映画『シャイン』のモデルになったピアニスト、デイヴィド・ヘルスゴットのリサイタルに昭和記念講堂行ったとき、前の方の席にいたのは小澤征爾さんでは?
 あの髪型だった。

 ︎

 小澤征爾(おざわせいじ)1935年〈昭和10年〉9月1日 -2024年2月6日 )は、1973年からボストン交響楽団の音楽監督を30年務め、2002年 - 2003年のシーズンから2009年 - 2010年のシーズンまでウィーン国立歌劇場音楽監督を務めた、世界的な指揮者。

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小澤征爾 ザ・リハーサル1992 齊藤記念フェスティバル
https://youtu.be/LAPhpgmKBRc?si=rsdUyKPsj_ZZA453

 リハーサル、素敵です。迫力があります。笑いも。


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 満洲国奉天市生まれ。小澤家の第三子。
 1945年、長兄からアコーディオンとピアノの手ほどきを受ける。才能を感じた一家は、征爾に対して本格的にピアノを学ばせようと決意し、横浜市白楽の親類から安価に譲ってもらったピアノをリアカーに縛りつけ、父と長兄と次兄とで3日かけて立川市の自宅まで運搬した。
 1948年4月、成城学園中学校に入学。当時、小田急小田原線で新松田から成城学園前まで片道2時間かけて通学していた。
 中学ではラグビー部に所属する傍ら、豊増昇(とよますのぼる)にピアノを習う。当時はピアニスト志望だったが、ラグビーの試合で大怪我 をしたためピアノの道を断念。
(雨の試合でスクラムで右手人差し指を骨折した)
 ︎

 ピアニスト豊増昇は、日本人として初めてベルリンフィルと共演した。戦後と現代の日本で活躍している、あるいは活躍したピアニストの多くが、豊増昇の薫陶を受けている。少年時代の小澤征爾が、ラグビーで指を骨折し、ピアノを諦めようとした時、「指揮という道もあるよ」と言って新しい道を拓いてくれたのは豊増昇だった。

 ︎

 1951年、成城学園高校に進んだが、齋藤秀雄の指揮教室に入門したため、1952年、齋藤の肝煎りで設立された桐朋女子高校音楽科へ第1期生として入学。同門に山本直純がいる。
 当時、癇癪持ちの齋藤から指揮棒で叩かれたりスコアを投げつけられたりするなどの体罰を日常的に受けていたため、あまりのストレスから自宅の本箱のガラス扉を拳で殴りつけ、大怪我をしたこともあった。
 1955年、齋藤が教授を務める桐朋学園短期大学(現:桐朋学園大学音楽学部)へ進学。
 1957年夏に同短期大学を卒業。4月に卒業できなかったのは、肺炎で卒業試験が受けられなかったためであり、のちに追試を受けて卒業が認められたが、療養期間中には仲間がどんどん仕事をしたりマスメディアに出演したりするのを見て焦りと嫉妬に苦しんだという。
 ただし、このとき父から「嫉妬は人間の一番の敵だ」と言われて嫉妬心を殺す努力をしたことが、後になって大変役立ったと語っている。

 短大卒業後、1957年頃から齋藤の紹介で群馬交響楽団を振り始め、群響の北海道演奏旅行の指揮者を担当。
 1957年12月には、日本フィルハーモニー交響楽団の第5回定期演奏会におけるラヴェル『子供と魔法』にて、渡邉暁雄の下で副指揮者を務める。 
 1958年、「フランス政府給費留学生」の試験を受けたが不合格となる。しかし、成城学園時代の同級生の父である水野成夫たちの援助で渡欧資金を調達。

 1959年2月1日から、スクーター、ギターとともに貨物船で単身フランスに渡る。このとき、小澤というアシスタントを失うことを恐れた齋藤からは渡欧について猛反対を受けたが、桐朋の父兄会や水野成夫たちの支援を得て、1200ドル(約45万円)の餞別を受けた。

子どものための音楽会 ベートーベン『運命』
https://youtu.be/FUK5cXxnwAA?si=wl89_yvQZfB0LmFG

子ども向けの演奏会 小澤征爾の語りが面白い。



 1959年、パリ滞在中に第9回ブザンソン国際指揮者コンクール第1位。
 ヨーロッパのオーケストラに多数客演。
 カラヤン指揮者コンクール第1位。指揮者のヘルベルト・フォン・カラヤンに師事。
 1960年、アメリカ・ボストン郊外で開催されたバークシャー音楽祭(現:タングルウッド音楽祭)でクーセヴィツキー賞を受賞。指揮者のシャルル・ミュンシュに師事。
 1961年ニューヨーク・フィルハーモニック副指揮者に就任。指揮者のレナード・バーンスタインに師事。同年ニューヨーク・フィルの来日公演に同行。
 カラヤン、バーンスタインとの親交は生涯に渡り築かれた。

 1961年にNHK交響楽団の指揮者に招かれ指揮活動を開始するが、感情的な軋轢のためN響からボイコットを受ける。
 小澤はたった一人で指揮台に立つという苦い経験をさせられ、指揮者を辞任。このため日本では音楽活動をしないと決め、渡米した。
 その後、NHK交響楽団とは32年の歳月を経て1995年1月に共演を果たしている。

タングルウッド 素顔の小澤征爾
https://youtu.be/kNo_ghEGlDE?si=iUoupa2KehQbwC7x

【N響事件】

 小澤征爾とNHK交響楽団が初めて顔合わせしたのは、1961年7月の杉並公会堂における放送録音であった。
 翌1962年には、半年間、客演指揮者として契約。当初は6月の定期を含めた夏の間だけの契約予定だったが、秋の定期を指揮する予定だったラファエル・クーベリックが出演をキャンセルしたため、12月まで契約期間が延長された。
 7月4日にはオリヴィエ・メシアンのトゥーランガリラ交響曲日本初演を指揮するなど小澤とN響のコンビは順調に活動しているかのように思えたが、10月2日の香港を皮切りとするシンガポール・マレーシア・フィリピン・沖縄への演奏旅行でN響と小澤の間に感情的な軋轢が生じ、11月の第434回定期公演の出来ばえが新聞に酷評された。
 直後、11月16日にN響の演奏委員会が「今後小澤氏の指揮する演奏会、録音演奏には一切協力しない」と表明。

 小澤とNHKは折衝を重ねたが折り合わず、N響の理事は小澤を「あんにゃろう」と罵り、N響は小澤に内容証明を送りつけ、小澤も1962年12月18日、NHKを契約不履行と名誉毀損で訴える事態となった。
 このため、12月20日、第435回定期公演と年末恒例の「第九」公演の中止が発表された。

 このトラブルの原因について、小澤が遅刻を繰り返したためという説を八田利一が述べている。原田三朗もまた、小澤が「ぼくは朝が弱い」と称して遅刻を繰り返し、しかもそのことを他人のせいにして謝罪しなかったのがN響から反感を買った一因だったと述べている。
 東南アジア演奏旅行における小澤はホテルのバーで朝の6時半まで飲み明かした状態で本番に臨み、マニラ公演で振り間違いを犯して演奏を混乱させ、コンサートマスターの海野義雄らに恥をかかせた上、「38度の熱があった」「副指揮者が来なかったせいだ」と虚偽の弁解を並べて開き直ったためにN響の信頼を失ったといわれる。ただし小澤自身は、
「副指揮者なしで、孤軍奮闘したぼくは、酷暑のこの都市で、首の肉ばなれのため39度の発熱をし、ドクターストップをうけたのだった。
 このような状態で棒をふったために、些細なミスを冒してしまった。しかし、演奏効果の点では、全く不問に附していいミスであったとぼくは思う。それを楽員の一部の人たちは、ぼくをおとし入れるために誇大にいいふらし、あれは仮病であるとまでいった」
と反論している。

 後年、1984年の齋藤秀雄メモリアルコンサートを追ったアメリカのテレビドキュメンタリーで、小澤はこの事件の背景について
「僕の指揮者としてのスタイルはアメリカ的で、いちいち団員に指図するやり方だった。でも日本での指揮者に対する概念はそうではない。黙って全体を把握するのが指揮者だ。この違いに加えて僕は若造だった」
との趣旨の発言で振り返っている。しかし原田三朗はこの見解を否定し、
「アメリカで育ったような小澤の音楽と、ローゼンストック以来のウィーン楽派とシュヒターのベルリン・フィル的な訓練に慣れたN響の音楽観のちがいが、紛争の原因だという見解が当時、支配的だった。
 楽団員は若い指揮者をそねんでいるとか、もっとおおらかでなければならない、などという意見もつよかった。しかし、ほんとうの原因はそんな立派なことではなかった。
 遅刻や勉強不足という、若い小澤の甘えと、それをおおらかにみようとしない楽団員、若い指揮者を育てようとしなかった事務局の不幸な相乗作用だった」
と述べている。この時期、小澤が病気と称してN響との練習を休んだ当日、弟の幹雄の在学する早稲田大学の学生オーケストラで指揮をしている姿を目撃された事件もあり、N響の楽団員の間では小澤に対する反感と不信感が募っていった。

 この事件はN響にとどまらず政財界を巻き込む社会問題に発展し、青柳正美、秋山邦晴、浅利慶太、安倍寧、有坂愛彦、一柳慧、石原慎太郎、井上靖、大江健三郎、梶山季之、曽野綾子、高橋義孝、武満徹、谷川俊太郎、團伊玖磨、中島健蔵、黛敏郎、三島由紀夫、村野藤吾、山本健吉、由起しげ子が「小澤征爾の音楽を聴く会」を結成し、NHKとN響に質問書を提出すると共に、芥川也寸志・武満徹・小倉朗といった若手音楽家約10名が事件の真相調査に乗り出した。
 小澤は活動の場を日本フィルに移し、翌1963年1月15日、日比谷公会堂における「小澤征爾の音楽を聴く会」の音楽会で指揮。

 三島由紀夫は『朝日新聞』1月16日付朝刊に「熱狂にこたえる道―小沢征爾の音楽をきいて」という一文を発表し、
「日本には妙な悪習慣がある。『何を青二才が』という青年蔑視と、もう一つは『若さが最高無上の価値だ』というそのアンチテーゼ(反対命題)とである。
 私はそのどちらにも与しない。小澤征爾は何も若いから偉いのではなく、いい音楽家だから偉いのである。もちろん彼も成熟しなくてはならない。
 今度の事件で、彼は論理を武器に戦ったのだが、これはあくまで正しい戦いであっても、日本のよさもわるさも、無論理の特徴にあって、論理は孤独に陥るのが日本人の運命である。その孤独の底で、彼が日本人としての本質を自覚してくれれば、日本人は亡命者(レフュジー)的な『国際的芸術家』としての寂しい立場へ、彼を追ひやることは決してないだらう」
「私は彼を放逐したNHK楽団員の一人一人の胸にも、純粋な音楽への夢と理想が巣食っているだろうことを信じる。人間は、こじゅうと根性だけでは生きられぬ。日本的しがらみの中でかつ生きつつ、西洋音楽へ夢を寄せてきた人々の、その夢が多少まちがっていても、小澤氏もまた、彼らの夢に雅量を持ち、この音楽という世界共通の言語にたずさわりながら、人の心という最も通じにくいものにも精通する、真の達人となる日を、私は祈っている」
と概括した。

 結局、1月17日に黛敏郎らの斡旋により、NHK副理事の阿部真之助と小澤が会談し、これをもって一応の和解が成立した。
 しかし「あの時は『もう俺は日本で音楽をするのはやめよう』と思った」ほどのショックを受けた小澤が次にN響の指揮台に立つのは32年3ヶ月後、1995年1月のことであった。小澤は後年、N響とのトラブルが刺激になって、よく勉強したとも述懐している。

 1995年1月23日、サントリーホールにおいて小澤とN響は32年ぶりに共演を果たした。このコンサートは、日本オーケストラ連盟主催による、身体の故障で演奏活動が出来ないオーケストラ楽員のための慈善演奏会であり、ムスティスラフ・ロストロポーヴィチをソリストに迎え、以下の曲目を演奏した。

J. S. バッハ:『G線上のアリア』(阪神・淡路大震災犠牲者追悼)
バルトーク:管弦楽のための協奏曲
ドヴォルザーク:チェロ協奏曲
J. S. バッハ:無伴奏チェロ組曲第2番サラバンド(阪神・淡路大震災犠牲者追悼。ロストロポーヴィチの独奏)
 なお、小澤はこのコンサートを引き受けた理由として「(「小澤事件」を知る)昔の楽団員が退職したり亡くなったりしていなくなったから引き受けた」という趣旨の発言をしている。

小澤征爾 32年ぶりのN響
https://youtu.be/RsSd_yTD8Ho?si=E4hMdv1YDITNbIVW

 ︎

 曲の終盤からなので、聞いたことはあるけど、なんの曲かわからなかった。
情けない。

https://youtu.be/00xQFF9njAg?si=DfurllHOLnJbcr_Z
小澤征爾がサイトウ・キネン・オーケストラ(SKO)を4年ぶりに指揮。国際宇宙ステーション(ISS)の若田光一宇宙飛行士に向けて生でベートーヴェンの「エグモント序曲」を届けた。
史上初めてオーケストラの演奏が、宇宙にひびく。そして、地球にいる私たちがひとつになる。


『エグモント序曲』は池田理代子さんのマンガのタイトルにあって、何度も聴いた曲。
https://youtu.be/AoAlouGwS_4?si=bMgqHsB4NWxRQJoG

137 カラヤン ザビーネ・マイヤー事件

【ザビーネ・マイヤー】
 西ドイツ(当時)のバーデン=ヴュルテンベルク州クライルスハイム生まれ。クラリネット奏者の父親から手ほどきを受けて、少女時代からクラリネットを吹き始める。
 シュトゥットガルト音楽院で専門教育を終えた後、1979年ボンのドイツ音楽コンクールで第2位入賞。バイエルン放送交響楽団にクラリネット奏者として入団する。

モーツァルト クラリネット協奏曲
https://youtu.be/Q7LctOkceuo?si=pZ8BO2sav47zpY47
バセット・クラリネットという大きなクラリネット


 1981年1月、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 の首席クラリネット奏者のオーディションを受ける。カール・ライスターと並ぶもう一人の首席奏者が空席となったため行われたものであった。
 芸術監督兼終身指揮者であったヘルベルト・フォン・カラヤンはマイヤーに強い関心を示したが、楽団員の総意は
「マイヤーの音には、当団の管楽器奏者にとって不可欠の、厚みと融合性が欠如している」
というものであった。
 マイヤーを仮採用(1年間)するか否かの楽員投票がなされない状況で、マイヤーはアメリカ公演(ライスターは不参加)に、カラヤンの指名で客員首席クラリネット奏者として参加したが、翌1982年晩秋の楽団員全員による投票で、マイヤーの仮採用は否決された。

ウェーバー クラリネット協奏曲第1番
https://youtu.be/0vTdJTsM-V8?si=_64CUPtPeVQmy2dt


 1981年4月のザルツブルク復活祭音楽祭で、カラヤンは音楽界の「顔」として、ドイツ・グラモフォン、フィリップス、ソニーと共に「コンパクト・ディスク・オーディオ・システム」を世界で初めて披露した。CD時代の始まりである。
 知名度、影響力、財力、いずれの面でもカラヤンは抜きん出ていた。8月に先輩指揮者カール・ベームが死去したことで、カラヤンの発言力はさらに強まるはずだった。が、そういう状況を快く思わない者もいた。
「カラヤンはあまりに長い間、権力を独占してはいないか」
 そう考え、妬む者はベルリン・フィル内部にもいたのである。

バッハの管弦楽組曲
1968年 ベルリン・フィル
https://youtu.be/9aFUuHIdV1o?si=6fCDtjOrxvOEnMNU


 決裂の火種となったのは、ザビーネ・マイヤーという弱冠21歳の女性クラリネット奏者。81年1月、ベルリン・フィルのオーディションを受けたマイヤーの演奏を聴き、カラヤンは「彼女以外にいない」と言った。一方、オーケストラ側は初の女性奏者を受け入れることに難色を示した。マイヤーは試験採用すらされず、フリーの代理奏者として契約された。
 82年11月、オーケストラ内で最終的にマイヤーを試験採用するかどうか投票が行われ、不採用と決まった。ただ、事前に女性ヴァイオリン奏者マデライネ・カルッツォを試験採用することで、マスコミから女性差別批判が出ないよう手を打っておいた。
 オーケストラは「カラヤンの意のままにはならない」と意思表示したも同然だった。当然、カラヤンは激怒した。彼は契約に定められてある最低限のコンサート数をこなす以外、ベルリン・フィルとの活動を中止すると宣告した。
 このままでは確実にベルリン・フィルの収入は激減する。総支配人ペーター・ギルトはマイヤーに仮採用の契約書を発行した。これに怒ったオーケストラはギルトの解雇を要求、大臣も巻き込んでの騒動となり、事態は泥沼化した。
 この頃から、カラヤンはウィーン・フィルに接近してゆく。

ビゼー アルルの女 第2組曲
1978年 ベルリン・フィル
https://youtu.be/M7p74wVffpI?si=Ubipm5OJtdqP4Ci3

 
 83年6月、カラヤンは脊髄の大手術を受けたが、7月のザルツブルク音楽祭で復帰。ウィーン・フィルと共に得意の『ばらの騎士』を大成功に導いた。
 84年5月、マイヤーが採用投票を辞退。6月にはギルトが事実上解雇された。ギルトの後任は、すでに引退していた老練のシュトレーゼマン。カラヤンは不服だったが、彼としてもこの辺でそろそろ歩み寄らなければならない事情があった。
 82年に新設した映像制作会社「テレモンディアル」で手がけているベートーヴェンの交響曲全集が、まだ完成していなかったのである。これまで撮りためてきたベルリン・フィルとの演奏フィルムを破棄すれば、大損害を被ってしまう。
 84年秋、カラヤンとベルリン・フィルは和解した。しかし、両者の関係は元に戻らなかった。すでに彼にとって大事なオーケストラはベルリン・フィルではなくウィーン・フィルになっていた。 
 85年6月、教皇ヨハネ・パウロ2世により聖ピエトロ大聖堂で挙行されたミサにも、カラヤンはウィーン・フィルを率いて参加したのである。
https://www.hmv.co.jp/news/article/901280102/

ドヴォルザーク交響曲第9番第4楽章冒頭
1966年、ベルリン・フィル
https://youtu.be/P_1N6_O254g?si=zPGd6tIKT7cPoIFY

 この「ベルリン・フィル入団騒動」でマイヤーはかえって有名になり、以来世界の100か所以上を回って、数多くの主要なオーケストラと共演する、世界屈指のクラリネット奏者となった。室内楽や協奏曲の演奏・録音に取り組んでおり、中でもモーツァルトやウェーバーの解釈で高い評価を得ている。

 1993年からリューベック高等音楽院(ドイツ語版) 教授の職にある。
https://otomamire.com/sabine-meyer/


エグモント序曲 1975年ベルリン・フィル
https://youtu.be/N1JWz8jwWsQ?si=oqGFt0wZaSWrrij8

 前回のラストが小澤征爾さんの『エグモント序曲』だったので。

 カラヤンの指揮はやはり素敵だ。
 以前カラヤンを取り上げたときに、闇の部分も知ったが、大衆の支持さえ勝ち得れば不満分子がいても 帝王として君臨できたのだ。

138 マリア・カラスの呪い

 オペラはいまだに興味がないのですが、カラヤンを調べていたら、ちょっと面白そう……

 ︎
 イタリアミラノのスカラ座では、過去に多くの歌手や指揮者が、天井桟敷の熱狂的なオペラファン達によるブーイングの洗礼を受けてきた。

 スカラ座はイタリアオペラの殿堂ともいえるオペラハウスで、オペラハウスの中でも最高峰といわれる劇場。
 そのスカラ座には、天井桟敷と呼ばれる最も舞台から遠くて天井に近い位置にも席(席といっても半分お尻を凭れるくらいのちゃちな椅子の席ですが)があって、熱狂的なオペラファンが陣取っている。
 ブーイングのほとんどは主にこの天井桟敷から出てくる。

 彼らは足繁くスカラ座に通うので、料金の安い天井桟敷の席をとるのだが、耳が肥えていて特にイタリアオペラには厳しい。
 歌手が失敗したり、下手だと、容赦なくブーイングの嵐を浴びせる。
 豚のようなブーブーという音(声)を出す。

 中でもヴェルディの椿姫では『マリアカラスの呪い』から始まり悶着がいろいろとあった。
 イタリアの殿堂ミラノのスカラ座では、これまで何度となくジュゼッペ・ヴェルディのオペラ『椿姫』が上演されてきた。
 ところが約30年もの間にわたり全く椿姫が上演されなかった時期がある。

マリア・カラス La Traviata
https://youtu.be/I4cSVnqGmOc?si=Df-Zb9DEGbI4fz_M

 天才歌手マリア・カラスがスカラ座で椿姫を歌って絶賛されて以来、あまりにマリア・カラスのイメージが強かったので、しばらくの間椿姫をやる勇気のある歌手がいなかったし、スカラ座運営者も避けたのだろう。

アニメでわかる椿姫
https://youtu.be/x7wDngvfII8?si=nCI_--O8gqRog-XQ

 
 それでも一度勇気をもって椿姫を上演した時が一度だけあった。
 その時の指揮者がカラヤンで、ヴィオレッタを歌ったのがミレッラ・フレーニというソプラノ歌手。
 ミレッラ・フレーニといえば、オペラ界では知らない人がいないような有名なソプラノ歌手だ。
 最もその当時はまだ若かったが。

 結果、オペラ『椿姫』でカラヤンとフレーニは、スカラ座の天井桟敷の人々からブーイングを浴びることになり、その後しばらく彼女はスカラ座の舞台に立つことはなかった。
 それくらい怖い天井桟敷の人たち。

 ただ、ミレッラ・フレーニもブーイングをする天井桟敷の人たちを睨みつけたとか、なかなか強い。

ラ・ボエーム プッチーニ
カラヤンとミレッラ・フレーニ
https://youtu.be/GI5TovjByB0?si=gpAzpg4VSPBw8bL0

 
 そこから約30年間スカラ座から『椿姫』の上演はなくなり、マリア・カラスの呪いと言われた。

 そうはいってもマリア・カラス自身もブーイングを受けていた。
 ガラコンサートの時にヒューヒューという口笛を鳴らした観客がいたことに腹を立てて、
 こんな人たちの前で歌えない!
と舞台から出て行ってしまったことがあった。

 とはいえ、マリア・カラスはやはりずば抜けて上手だった。
 エキゾチックな容貌で低温から高温までの安定した声と、超絶技巧もこなすというパーフェクトな歌手で、演技も抜群。

 ただ、スカラ座には当時人気を二分していたレナータ・デバルディという歌手がいた。
 こちらはまた高貴で品のある美しいソプラノ歌手で、マリア・カラスとは対象的なタイプだったので、マリア・カラスといえどもブーイングを受けていたのかも。

椿姫『さようなら、過ぎ去った日々よ』
レナータ・テバルディ
https://youtu.be/yUBD8u3ZYdI?si=f9JzfdcDBwaFB9dn


 さてそれから30年後の1992年頃にやっと椿姫がスカラ座で再開されることになったのだが、これだけ間をあけたのは、スカラ座の運営者がマリア・カラスの記憶が消えるのを待っていたとしか思えない。

 30年後のスカラ座の椿姫の上演の指揮者はリッカルド・ムーティで、ヴィオレッタを歌ったのはファブリッチーニという若いソプラノ歌手だ。

 スカラ座の運営側は、どんなことがあっても絶対に失敗できないとして、ブーイングを避けるために当日天井桟敷の席を封鎖しようとした。
 ところがそれがわかると、またしてもものすごいバッシングの嵐になった。
 最終的には天井桟敷の席も開けることにしたが、実はそこの観客は劇場側が用意したさくらだったんじゃないかと言われている。

 一応30年ぶりの椿姫は成功ということになっていますが、実はブーイングもあったよう。

 ファブリッチーニという歌手はデバルディのような美しい容姿で、この頃かなり有名になったが、そのあとはちょっとしぼんでしまった感が……

La traviata(ラ・トラヴィアータ)原題は『堕落した女(直訳は「道を踏み外した女」)』
椿姫1992年
https://youtu.be/AQLnO-2TB7g?si=T8QAYvhHofYFuO2r

 30年ぶりのスカラ座の椿姫で恋人役をやったのは当時新進気鋭のロベルト・アラーニャというテノール歌手。
 その後、彼は世界的なトップ歌手になるのだが、2006年、スカラ座でヴェルディのアイーダを歌った時に大ブーイングを浴びていた。
 アイーダの恋人役ラダメスのアリアを歌った後に起きた、ものすごいブーイングに、アラーニャは怒って舞台から降りてしまった。
 そもそも、スカラ座の天井桟敷の観客たちがいくら耳が肥えているとはいえ、アラーニャほどの大物歌手にブーイングを浴びせるとは。
 彼が怒って舞台から降りてしまったので、慌てた控えの歌手(オペラの役には必ず控えの人がいます)は着替える暇もなくジーパンのまま出てきて歌ったので、前代未聞の事件になってしまった。
 世界的に有名になっていたアラーニャの歌のアイーダでの出来がそれほど悪かったのか? と不思議だが、事前のインタビューか何かで、彼は、
「スカラ座で歌うのは闘牛場に入れさせられるのと同じだ」
というようなことを言い、ブーイングはその報復ではないかとも。
 いずれにしてもスカラ座で歌うということは、歌手にとって至難の業だ。
 スカラ座からブーイングを浴びて、二度と出なくなった歌手や、長い間遠ざかってしまう、という話はよく聞く。
 天井桟敷の人たちは、
「ここをどこだと思ってるんだ! ここはスカラ座だぞ!」 
といった怒号までかけるらしい。ファンといえどもそこまで行くとどうなのかなとも思うが、イタリアのオペラは自分たちのオペラ、オペラといえばイタリアという気持ちが強く、妥協を許さないのかも。
 日本ではそこまで厳しいオペラファンはおらず、ちょっといまいちかな?と思うような人にも拍手を送っている……
 だから日本で歌うのが好き、という歌手が多い?
https://opera-diva.com/scala-boo/


乾杯の歌 
 以前YouTubeでみつけた、ソプラノとテノールの声を歌い分ける両声ボイスのマリア・セレンさん。
天井桟敷の人が観たらどうするだろうか?
https://youtu.be/cCjPoteohiM?si=JuazU7uCOHzhRnaD

 ゴッドタレントが日本でも行われ初代チャンピオンになったマリア・セレンさん
https://youtu.be/FN2DfxGxeVk?si=IgfUtBaTSX3rkHWO

ベルディ『椿姫』第1幕全曲 マリア・カラス
https://youtu.be/FvpvCYaMgIE?si=1DmbA5Qjyf2CThVh

139 その歌詞は……

 某サイトのお題『やめて』のときに、辺見マリの『経験』を投稿した方がいらした。実は私も真っ先に連想した。だって、歌詞の初っ端が
「やめて〜愛してないなら」
なのだから。
 半世紀前の歌である。流行してテレビで流れた。まだテレビは一家に1台。家族全員で聞いた。気恥ずかしくなる。
 テレビに向かい「バカ」と言う父もなにも言えなかった。

経験 辺見マリ 昭和45年
https://youtu.be/q8BvjPL649Y?si=9KYWb81_TCHWpLW_

 ︎

 この父は、よく『さざんかの宿』を歌っていた。
「愛しても愛しても、ああ、人の妻〜」
 娘の前で。 
 歌詞だと口にできるから不思議。

 歌は不倫を純愛にする。

サザンカの宿 大川栄策1982
https://youtu.be/kJOi-_EnZug?si=EqRJEQu-KzF2sIbL

 ︎

 これは、よくカラオケで歌ったけど、不倫の歌だとは思わなかった。純粋な恋の歌かと……

恋に落ちて 小林明子
https://youtu.be/Cc5M23N2o_k?si=6ucPJtAgMlH7SVk5

「ダイヤル回して、手を止めた」
 ひとりの夜、愛する相手の声を聞こうと電話の受話器を取るのだが、ひょっとしたら家族が電話に出るかもしれない。電話していいものだろうか。そんな"ためらい"を描いた、何とも切ないフレーズだった。
https://news.yahoo.co.jp/articles/2e19691dc98631f7df15afaf50a3c58033ce69e9

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 下世話な不倫話を名曲に変身(コメントから)

LOVE AFFAIR 〜秘密のデート サザン
https://youtu.be/I7GuXGJCalc?si=S7sVNRWhamAPd57f

 2015年5月に『サザンファンがガチで選ぶ「サザンオールスターズの好きな曲」トップ10』で1位を獲得している。

 タイトルの「LOVE AFFAIR」は「不倫」を意味するものであり、不倫相手(『君』)を愛するが家族も捨てることは出来ないという男(『僕』)の切ない複雑な気持ち(『不埒ゆえに切ない関係』)が綴られている。
 なお、桑田自身は本楽曲の歌詞にあるような経験はしたことがないと明言している。
(Wikipediaより)

 ︎

 衝撃だった歌詞といえば、山口百恵の『ひと夏の経験』
 アニメ、『ちびまる子ちゃん』でまる子が歌い、おかあさんにその歌はやめなさい、といわれた。
 高校の昼休みに放送部がかけて、男子が騒いでいた。百恵ちゃんは、『いちばん大事なもの』を聞かれ、『まごころ』で通したという。
 オーディション番組で、まだ幼い女の子が歌い、審査員にいちばん大事なものはなにかと聞かれ考えて、考えて、
「処女をあげるんだと思います」
と答えていた。
 意地悪な質問だ。

ひと夏の経験 山口百恵
https://youtu.be/RJLciB-vfT8?si=4qMDejwm6HD09eSY

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 所謂「セクシー歌謡」のなかにし礼『時には娼婦のように』
 最初、黒沢年夫はこの歌を歌うのを嫌がったと、なかにし礼が言っているが、蓋を開けてみれば80万枚の大ヒット。
 なかにし礼本人が歌う盤も15万枚のスマッシュ・ヒットを記録。 
 遊び人で14歳も年の違う兄が作った7億円もの借金を肩代わりしたため困窮していたなかにし礼が、半ばやけっぱちになって出したのがこの曲。
 予想外の大ヒットのおかげで借金を全部返済することができたと小説「兄弟」に書いている。
 ヒットの余勢をかって、なかにし礼主演で映画化(何と日活ロマンポルノ) 。脚本も本人が書いているが、あまり面白くはなかったようだ。
 なお、兄との関係を描いた 小説「兄弟」は1993年に「兄弟 〜兄さん、お願いだから死んでくれ〜」という題でドラマ化されているが、こちらは秀作だった。

時には娼婦のように 黒沢年夫
https://youtu.be/irOZ3NDwRig?si=3Uv3yszFm8TuJGUR

時には娼婦のように なかにし礼
https://youtu.be/zEnFoP6LNU4?si=PenBw5-Zde-S1R8i


 素敵なデュエット見つけました。

美輪明宏 なかにし礼 枯葉
https://youtu.be/5EbtD6JaJDY?si=Wa1fbs-Zcw10GgW9

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 娘が小学生の時、大音量でかけていた。
 なんというひどい歌詞?
「スケベー、スケベー、スケベー」

 あとは、なんて言ってるの? 

 タイトルの「スキップ・ビート」に深い意味はなく、スケベに語感が近いというだけの当て字の英語である。桑田は仮歌の段階でサビを「スケベ〜スケベ〜」と繰り返すフレーズに決めていた。歌詞にはエロティックなワードや比喩が多数含まれている。

kuwata Band スキップ・ビート(1986年)
https://youtu.be/xeobE1DQ5uo?si=TpgUD69XaKSEx0RD

『スキップ・ビート』はやや意外だが、当時サザンはまだオリコンでシングルチャート1位を獲得していなかったため、これが桑田にとって初めて1位を獲得したシングル曲となった。

 “割れたパーツのマニア”に“純生ジュニア”。サビの「スキップ・ビート(SKIPPED BEAT)」はどう聴いても“スケベ〜”と、快楽主義のカタマリ。 
 当時30歳だった桑田のエロティックなセンスとスキルが炸裂している。
“LENNONが流れるRock Cafe”や“ムラサキの煙”(ジミー・ヘンドリックスの歌)といった、洋楽リスナーをニヤリとさせるロックカルチャーのセンテンスを織り込む目配せもニクい。
https://news.1242.com/article/102505

140 最高の歌唱 人生の宝

 前回『枯葉』が登場したので、この方のをぜひ……
 この回のタイトルはYouTubeのコメントからいただきました。

枯葉 尾崎紀世彦
https://youtu.be/htKhhngIA0Y?si=XEZaI8epXMqBwMN-

 尾崎 紀世彦(1943年1月1日 - 2012年5月30日)は、日本のポップス歌手。ダイナミックな歌唱力と、立派なもみあげや髭がトレードマーク。

 バレエダンサーの両親のもと、現在の東京都渋谷区に男3人兄弟の次男として生まれ、小学校入学時より神奈川県茅ヶ崎市で育つ。
 父方の祖父はイギリス人。本人は日英クォーターである。

 幼少の頃から米軍向けラジオFENでジャズやカントリー等に親しんでいた。茅ヶ崎市立第一中学校卒業後、YMCA国際ホテル学校へ進学する。
 趣味は小学生で始めたサーフィン、乗馬、祭りの神輿担ぎ、ハーレーの収集とツーリング、縦目メルセデス(オールドベンツ)でドライブ、ヨット、沖縄でスクーバ、射撃、銀細工、シルバーアクセサリーの収集、料理。

 1971年、『また逢う日まで』『さよならをもう一度』『雪が降る』『愛する人はひとり」が次々とヒット。
『また逢う日まで』が売り上げ100万枚を突破、第13回日本レコード大賞大賞と第2回日本歌謡大賞大賞をダブル受賞する。

さよならをもう一度 尾崎紀世彦
https://youtu.be/_LOY745NGBk?si=_kdRZUFoRikcHyCS

 1972年の読売新聞に、中学時代の高梨先生が投書なさり、尾崎紀世彦さんはそれに答えて、6日後に新聞に投書した。
 新聞上の往復書簡。

「レコード大賞のO君。学歴社会気にせず自分の道切り開く」

「先生、私は歌の道貫きます」

 ファンだった私は、雑誌を読み漁り、新聞を切り抜いてしばらく持っていた。


かがやける愛の日に 東京音楽祭1973年 尾崎紀世彦 銀賞
https://youtu.be/EyihaMMAzKM?si=J02a1pO1kLSyMpId

 この歳の金賞はミッキー・ニューベリーの『祈りの歌』 (動画見つからず)

鎌倉 鯉のぼり1980年 尾崎紀世彦
https://youtu.be/nM6rRXc4-0g?si=h9NonRZmyCcPoGgE

 ファンなのですが、これは初めて聴きました。


 2012年5月30日、大ヒット曲『また逢う日まで』などで知られる歌手尾崎紀世彦さんがら肝臓がんのため東京都港区の病院で亡くなった。69歳だった。

<おくやみコメント>

◆尾崎紀世彦さんと同じころデビューした歌手研ナオコ

 私の大好きな友達が亡くなりました。とても優しい方でおしゃれ。彼の歌は誰もまねできない。素晴らしい歌手でした。残念で仕方ないです。

◆98年に尾崎さんの歌声を題材にした舞台「昨日たちの旋律」を作った三宅裕司

「THE夜もヒッパレ」で尾崎さんの生の歌声を聞いて、あまりの素晴らしさに尾崎さんの歌声を題材にした芝居を作り、ご本人にも出演していただきました。本当に残念です。

◆タレント中山秀征

 尾崎さんとは(司会した)「THE夜もヒッパレ」の時、大変お世話になりました。収録時、いっさい手を抜かない姿勢に、プロの歌手のすごさを感じると同時に、尾崎さん流に歌うかっこよさに感動しました。バイクに革ジャン姿が、今も目に焼き付いています。

◆音楽評論家富沢一誠氏

 歌い手として、日本人離れしたダイナミックな歌い方、大きな歌唱力がすごかった。彼がすごいのは、「また逢う日まで」を大ヒットさせたこと。彼がいなかったらヒットしていなかったと思う。この歌は当時、作詞家の阿久悠さんが、時代のマニフェストソングとして出した。阿久さんは、新しい、1970年代の男と女のあるべき姿をこの歌に託した。それを歌えるのは、日本的な、ちまちました、せこい男じゃダメだった。ダイナミックな歌唱で堂々と、明日に向かって歌い上げるようなボーカリストが必要とされていた。それに見事に彼はこたえた。彼がいなかったら、なかった歌だった。

◆音楽評論家反畑誠一氏

 デビュー前にライブハウスでカントリーをカバーしていたころから、歌のうまさには定評があった。Jポップという言葉もなく、ポップスといえば海外から入ってくるものと思われていた時代。パワフルな歌唱力で「また逢う日まで」を歌い上げ、欧米と肩を並べるような日本の正統派ポップスという世界に夢を与えてくれた。大人の歌い手が求められている今、円熟味が増した歌声をもっともっと聴かせてほしかった。
日刊スポーツ
https://www.nikkansports.com/m/entertainment/news/p-et-tp0-20120602-961026_m.html

尾崎紀世彦 徹子の部屋〜追悼特集
https://youtu.be/3QATkZaK0yg?si=m-6DzvFU_Q7xW73R

いとしのエリー1979年 尾崎紀世彦
https://youtu.be/DJb-YIbYgBw?si=mBTdcFVc3j6T8GFw

お気に入りの音楽 131〜140

お気に入りの音楽 131〜140

  • 随筆・エッセイ
  • 短編
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更新日
登録日
2024-02-09

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