ヒトとして生まれて・612
012 歴史は勝者のものとは云うが
一般的に「歴史は勝者によって書き連ねられる」というが、必ずしも
そうとは云いきれないと私は考える。
「航空宇宙30年の歩み」について前述したが、あらためて全体を読み
返してみたとは云っても一字一句を読み返した訳ではない。私が40歳
代の後半の頃に大手町の本社勤めをしていて、読解力に極めて優れた方
にお会いした。その時に効率の良い読書法を教わったことがあるのだが、
「一般的に一度読んだ字句は予想以上に覚えていることが多く」 一度、
読んだ本を読み返す時には、太字の部分だけを通し読みして、気になる
ところだけを後から読み返せば大方の意味は把握し直せると教わった。
その様な昔の話を思い出してながら、航空宇宙30年の歩みの書籍を
膝に抱えて、太字だけを文頭から文末まで眼で追ってみた。
驚いたことに、文脈として、129頁の 「第4章 空本部の発展と
展望」の 「1 経営体質の改善」の冒頭に来るべき「デミング賞への
挑戦の特集記事」が、そっくり抜けている印象なのだ。
たしかに本文で「デミング賞」については、173頁に僅かに触れて
はいるのだが、全文を閲覧しても記述は次の文章のみだ。
【デミング賞への挑戦】
デミング賞挑戦の年となった、昭和51年(1976年)2月10日、
Q-Rグループを強化するために各部門からメンバーを集め室員25名
によるTQC推進室を編成し、本格的な挑戦の時期に入った。
7月8日のデミング賞受審を目前にした、この時点での推進計画では
5月末に受審査申請を行い、受審前の提出資料である 「実情説明書」
(以下、実説という)の締切は6月20日であった。
このため、実説の社内原稿の締切は4月末、それまでに2稿、3稿
を重ねるという強行スケジュールであった。
指導会、分科会を中心としての内容のつめ、横との調整を精力的に
実施し、教育もまた”勉強即実践”を掲げ、講師陣による当社独自の
コースによって、集中的かつ時間の有効活用をはかった。
6月20日に実説を日科技連に出したが、指導講師陣からは厳しい
注文が相次いだ。その大要は、
① 実情説明書がQCストーリーになっていない
② 内容にデータが少ない
③ QC面での特色がはっきりしない
などであった。
これらの処理を管理者は休日返上で行い、7月後半に入ると全般や
部門別のリハーサルが開始されるなど、全事業部が慌ただしい雰囲気
に包まれた。
受審は8月9日に田無工場、同17日に瑞穂工場、同20日に本部、
9月7日本社の順で実施された(本社は参考調査)。
審査当日は職場にも緊張感がみなぎり、審査部門はもとより守衛室、
受付、配膳室にいたるまで、全員が万全の体制で臨んだ。
【デミング賞の受賞とその後の経過】
昭和51年10月初旬に、いち早くデミング賞受賞の情報が入った。
「しんらい運動ニュース」は、ただちに号外を発行してこれを速報し、
本部全員が受賞の喜びをわかちあった。
QC月間の中日である11月15日、経団連会館において授賞式が
行なわれ、今井本部長が代表で出席して、晴れのデミング賞を受けた。
翌16日には日比谷公会堂において受賞報告会が行なわれ、本部長は
2千余人の関係者を前に受賞と経過を報告した。
これより先の10月1日に、受賞の発表を待たずに組織変更があり
TQC推進室25名の内10名がラインにもどり4名(内兼務1名)
は全社のTQC推進のため豊洲・生産技術室に移りTQC推進室には
12名が残った。
翌52年2月、第1回トップ診断が開かれ、以降、年2回開催され
これが現在に到るTQC活動の軸ともなっている。TQC活動はその
後も試行錯誤を繰り返し、変遷をたどって現在にいたっている。
たとえば、トップ診断においても、当初は各部門ごとに重点課題を
設定していたが、そののち利益計画を含む方針を設定した。また開催
の形式にも改善を加えている。
前述の文章は「航空宇宙30年の歩み」から抜粋したものだが要は
デミング賞に関する記事は、受賞にあたって、審査の準備にあたった
事務局の苦労話であって審査の対象母体となった田無工場や瑞穂工場
の活動記録はいっさい記述されていない。
当時の審査にあたって、我々瑞穂工場のデミング賞への取り組みは、
昭和51年(1976年)に、デミング賞の受審が決ってからの活動
記録だけではなく、瑞穂工場が操業開始した昭和45年(1970年)
には、生産性向上に向けて、科学的な技法の導入や小集団活動による
職場のKAIZEN活動にも取り組んできており、デミング賞の受審
に向けた取り組みについても、特別なものという意識はなかった。
しかし、実際のデミング賞の審査にあたっては田無工場が8月9日
に受審、審査員の第一声として「田無工場の現状では合格は難しい」
という速報が寄せられ、8月17日に予定されている瑞穂工場の受審
の場での巻き返しに期待するよりないということで航空宇宙事業本部
内の意思統一が図られて、17日の瑞穂の受審に期待が高まった。
瑞穂工場としては、工場の操業開始当時から、管理工学(IE)の
導入や全社的品質管理運動(TQC)導入には顧客である防衛庁とも
一緒になって航空機用ジェットエンジンの専業メーカーとしての取り
組みに徹してきており、デミング賞受審に向けての取り組みも平常心
に近い状態で接してきており、特に問題意識はなかった。
瑞穂工場におけるデミング賞の審査会場は、東工場の中2階に設け
られ、ジェットエンジンの組み立てエリアが見通せるフロアーで実施
されたため雰囲気も良好で、審査員からの質疑応答にも該当部署から
適切な対応が取られ、好ましい雰囲気のなかで審査を終了した。
これらのことから、第4章 空本部の発展と展望として「経営体質
の改善」を説くのであれば、後に続く 「55作戦の展開」の前段に
おいて、空本部にとって最大のイベントであったデミング賞への挑戦
の証ともいえる受審までの「実情説明書」について、田無工場の実説
そして瑞穂工場の実説、本部の実説の概説などが、第4章の冒頭部分
に、まさに「重要な歩み」として文中に挿入されていても良いと考え
るが、それらの記録がまったく抜け落ちているのだ。
「何故そのような抜け落ちが起きたのか?」と、考えた時に・・・
当時、歴史本としての編纂のまとめに入った時期に、私は、当時の
「30年の歩みのまとめに入っていた」事務局担当に呼ばれて、編纂
に当たっていた総括委員のU氏から、唐突的に「貴方が瑞穂工場歌に
応募して入選された歌詞」を30年の歩みに掲載したいので、事務局
まで届けてくれませんかという話が聞かされた。
当時の私の印象として 「一般従業員の拙い歌詞を何故ゆえに掲載
することになったのか」疑問であったのだが、その後の都市伝説的な
話題を聴くに及んで・・・
「長年にわたって編纂にあたり、最後の最期になって、デミング賞に
向けた記事を、そっくり抜き取るという場面に遭遇して、編纂委員と
しての意地を見せる意味合いで、私の歌詞を掲載することになった」
のかと?
そして、後に、私が都市伝説的に知ることになる・・・
「俺の眼が黒い内は、あいつは絶対に管理職に登用しない」とT氏が
断言したと云う言葉が真実味を帯びてくる。
(T氏は航空宇宙事業本部の4代目の本部長だ)
都市伝説的に我々が聞き及んでいる話題はこうだ・・・
前述の様に、デミング賞の受賞が伝達される前に10月1日の段階
で、デミング賞の受賞の発表を待たずに組織変更がありTQC推進室
25名の内10名がラインにもどり、4名(内兼務1名)は全社的な
TQC推進のため豊洲・生産技術室に移り、TQC推進室には12名
が残った。
このときに、デミング賞の受賞準備に当たって全体の統括に当たって
いた田無工場長のT氏(後に航空宇宙事業本部の4代目の本部長に就任)
が全社への全面展開という重責を担って豊洲に移籍となった。
この後の顛末記が都市伝説的に我々にも伝わってきているのだ・・・
「T氏は、この異動の内示に激怒、次の4代目の本部長を自認していた
だけに、当時、瑞穂工場長のI氏に本部長への昇進に向けて先を越され
たと考え極度の怒りを募らせ、あらゆる策略を動員して、航空宇宙事業
本部に復帰して、自らの親衛隊を手元に結集させて、狙い通りに見事に、
4代目の本部長に就任した」
「自分自身のデミング賞の受審に際しては、田無工場の受審結果は惨敗、
瑞穂工場の受審による大いなる挽回によりデミング賞をなんとか獲得?」
「その結果?」・・・
「田無工場長T氏は、豊洲に左遷されて、苦渋を呑んだ」ものと独断的な
判断をした。
「そして、なんとも憎いのは瑞穂工場の面々、なかでも、瑞穂工場の
生産性の向上などの旗振りとして、デミング賞の受審活動にも活躍顔
を見せていた若造の佐久間は絶対に許せない?」
「一生懸命に、使命感に燃えて活躍して、憎まれると云うのも非人情
な話だが、現実としてあった話なのだ」
「しかも一緒になって健闘した恩人とも云える上司のO氏にとっても、
田無工場長のT氏は大先輩であって、逆らえない関係にあった」
今にして思えば、こんなこともあった・・・
かつて私が新入社員の時代に設計部門において、設計のイロハから
教えてくれた、H女史(数学科と哲学科出身の才女)が、私がO氏を
先輩であり恩人として、あまりにも称えるものだから・・・
「そこまで、信頼感を持ち続けて、裏切られたらどうするの?」と
聞かれたことがあったが、その時に彼女はデミング賞受審に際して、
T部長と共に「デミング賞の受審のための事務局に来ないか?」と
誘いにみえたことがあって、私は「瑞穂工場に在籍して現地の立場
から受賞に向けて貢献したい」と答えたことがあるが、既にその頃
に、先輩O氏と田無工場長T氏との親密な関係に気付いていて忠告
してくれていたのかもしれない?
いずれにせよ、田無工場長のT氏にしてみれば瑞穂のデミング賞
の受審に向けた大活躍は 「自分を豊洲に追いやった憎い連中」と
映っているため、田無工場の実情説明書の抜粋は勿論、瑞穂工場の
実情説明書の抜粋についても「30年の歩み」に掲載されるなどと
いうことは、到底許されることではないのだ。
そして、私の定年後に恩人のO氏が主宰した「OB会」に誘われ
て出席、新宿駅の周辺に、T氏を囲む親衛隊がたむろしているとの
情報が寄せられ、危険を察して帰り際に薦められたO氏からの毒盃
(その時点ではまさか毒盃とは気付かなかった)を唇に触れるだけ
で、なんとか難を逃れ、それでも帰宅後の胃部の異変から血液検査
の結果「微少の水銀が発見された」という異常を当時のかかりつけ
医に発見していただき難を逃れたが「いつまでこの執拗な仕打ち」
が続くのか、前代未聞の状況は続いていると考えて警戒はしている
が、今日も雪印牛乳店から「試飲飲料を玄関に置いておきます」と
いう電話があったが、口にするものなので遠慮した?
いまだに「危ない危ない」と云う印象なのだ。
(続 く)
ヒトとして生まれて・612