僕は落ちこぼれのクリスチャン

「ボクは、落ちこぼれのクリスチャン」


 しかし、いま聞いているあなたがたに、わたしはこう言います。あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行いなさい。                      新約聖書 ルカの福音書 6章 27節

 敵を愛するのは難しすぎるので、「汝の隣人を愛せよ」を考えてみたい。私の隣人に中学生の息子がいました。サッカーが好きで、猫の額ほどの庭でサッカーボールを蹴るものだから、ときどきボールが私の家の窓ガラスに当たる。

「ドカーン!!」

 4回は我慢しましたが、5回目に怒りが爆発して

 窓を開けて、

「てめぇ、脳みそが腐ってんのか!!」

  と怒鳴りました。そして、隣人トラブルは避けたいので何とかしてくれと、隣人に手紙を書きました。私は塾を経営しているので、塾生の勉強が妨げられると営業妨害でもあり、生徒の静かな環境を守る義務もある。

  さて、このような隣人を愛することが出来るのか。クリスチャンとして、私はどうすべきだったのか


  また、ある時は、日曜日の朝のさわやかな気持ちのまま窓を開けたら、隣の小学生たちが窓の外を走り抜けていった。遊びまわっているのです。それまでも、隣で野球をしていてボールが壁にぶつかって睨みつけていた関係だったのです。

 それで、頭にきたので出ていって、胸ぐらをつかんで

「おい、人の家に無断で入るのは不法侵入といって犯罪なんやぞ!」

 と、つぶやいてやった。ビビって出ていきました。二度と来ないと思う。私は身長が177cmあり、少林寺拳法二段だ。小学生なら、ビビるはず。隣人との関係が悪化するのは分かっていたけれど、子供の躾けがなってない。

 そんな隣人とのつきあいは、こちらから願い下げ。


 言うまでもないが、私はマナーやエチケットを守る、常識人が相手なら親切丁寧に対応する。だからこそ、多くの人に支持されて30年間塾講師として生き残れている。私が学校の教師と違って、悪い生徒を追い出すのも支持の理由の一つなのだ。


 社会全体が落ちこぼれや、加害者の人権ばかり擁護して、被害者の権利を踏みにじり続けている。教養豊かなので口には出さないものの、非常識な人たちを苦々しく思っている


 きれいごとを言う人は、

「怒鳴りつけなくても、もっと静かに説得して説明してやればいいのに」

 と言う。現場を知らない、悪ガキの実態を知らない人の言葉だ。やさしく接すると

「アイツはオッケー」

 とつけあがってくるだけ。沖縄の成人式を思い出してほしい。あの連中は、警察が出てきて制圧するしかない。話して分かる相手ばかりなら、問題はないが、世の中がそんな人ばかりではない。



 とりあえず、ぶん殴って、蹴飛ばして、刑務所に入れないと普通の子たちが巻き込まれる。犠牲になる。説得は、制圧してからのこと。

 隣人でさえ、この状態なのに、敵にまわる相手は制圧どころか叩き潰すしかない。自衛のためだ。家族のためだ。どこに、クリスチャンの「汝の敵を愛せよ」の入る余地があるのだろう。



 アメリカで洗礼を受けてから30年、ずっと考えている。私のとった防衛策は

「周囲から非常識な人を排除する」。

 塾生は高学力の、マナーの良い子だけにして、非常識で暴力的な人は塾からも、視野から追い出した。

 すると、「えらっそうに!!」と憎まれた。しかし、マナーの良い人たちだけに囲まれた生活は、人を愛するのも容易で楽しいもの。怒鳴ったり、殴ったりする必要もない平和な毎日。



  私はマジメな人には徹底的に親切にするので、感謝されることも多く、愛し愛される楽しい日々。これは、アメリカの生活を思い出して再現しているだけだ。ユタ州のローガンでは

「怒る人が悪いのではない。怒らせる人が悪い」

 という言葉をよく聞いた。



「高木塾は近く閉鎖するので、こちらに移ったらどうですか?」

 と、戸別訪問をしながら勧誘したライバル塾があった。これはウソだし、そんな塾に指導される生徒も可哀そうだから放置できない。しかし、私のとった対応は知らせてくれた母親には感謝したものの、放置だった。



 そんな愚か者を視野に入れると、腹が立つだけだから。時間とエネルギーの無駄だし。

 こういう敵を愛せるのか。愛さなくてはならないのか。

「個人塾は負け組です。融資はできません」

 と言った銀行。

「チンケな塾講師に娘はやれん!」

 と言った奥さんの親。



 そういった罵倒してくる相手を愛さなくてはならないのか。私のとった対応は

「あっ、そう。今に見ておれ!!」

 と、塾を拡大し、他の銀行から融資を受け、英検1級を取り、京大を7回受け、塾生から京大医学部、阪大医学部、名大医学部などの合格者を出し、見返すことだった。

「ザマァミロ!」

 と思いたかったからだ。



 しかし、これでは根本的な解決にはならない。自分の気分もイマイチだし、力で制圧したのと同じで反感をかう。心酔させないと、本当の勝利と言えない。それに、イエス様は受けた屈辱とそこからわき上がってくる悪しき思いや復讐の心を戒められた。

 そういう思いに縛られている状態から解放されなさいと言っている。ほとんど人間技ではない。



  私は、今までに警察に2回、弁護士に3回依頼したことがある。

「オレに牙をむいたら痛い目に会ってもらう」

 という原則だ。やられる前にやっつけて、社会的に葬る。

 しかし、犯罪性のない常識をわきまえている人には親切かつ協力的に接する。そうやってきた。イエス様の求めはハードルが高いので、心に残しつつも悪人には容赦しない。

  私は娘たちを育て上げるためには塾を維持しなければならなかった。失敗したら、連帯保証人の父母の家もとりあげられる。だから、差別化のため英検1級をとらねばならなかったし、塾生を難関高校、難関大学に合格させねばならなかった。

 すると、通っていたキリスト教会員の間から

「高木兄弟は、この世のもの(学歴、資格、金)に執着している」

 と、陰口やら批判が増えてきた。奥さんも同じだった。奥さんの影響下にある娘たちも私に批判を口にした。

 結局、バツイチになり、教会にも行けなくなった。

 アメリカの教会は、こんなのと全然違ったのだけれど、アメリカの教会を知らない人に言っても通じない。味方だと信じていた妻も、敵になってしまった。日本のクリスチャンは、夢も希望も全て捨てて山の中で暮らす隠遁生活のようなものをキリストの教えだと信じていた。

 私は、夢も希望も捨てるつもりはないけどね。

『あなた は 隣人 を 自分 自身 の よう に 愛さ ね ば なら ない』」

                                    マタイ 22:34‐39。

 アメリカ、ユタ州のキリスト教会には、金持ちもいたし、野心を持った人もいたし、貧しい人もいたし、才能豊かな人もいた。それが自然な人間社会だと思う。ところが、日本に帰国したら、学歴の高い私は世俗の垢にまみれた人間のように扱われた。

 「清く、貧しく、美しく」というワンパターンでないとクリスチャンではないかのようだった。私は、そんな教会は去るしかなかった。でも、あれから20年、毎日聖典を読み、お祈りはしている。

僕は落ちこぼれのクリスチャン

僕は落ちこぼれのクリスチャン

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-11-28

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