ある日、帰宅したら妻がおらへんかった
ある日、帰宅したら妻がおれへんかった
20年前のある日、仕事を終えて家に帰ったら妻がおれへんかった。あの日からうちのシングルファーザーの生活が始まった。翌日より、食事の世話や洗濯は母の助けを借って何とかやりくりしてきた。
ちゅうのは、ちょうど同じ頃にバブルが弾け、少子化で塾生の数が減り始め、大規模塾が進出してきて、トリプルパンチをくらい、仕事が厳しい環境に置かれとったねん。
「ボクが夜逃げしたら、母は生きていけるかなぁ」
うちが大学2回生で留年した年の夏休み、両親は心配したんやろう。どういうわけか、うちの短期アメリカ旅行のために50万円を支払うてくれた。決して裕福ちゃう親やった。親戚からお金を借ってることも知っとった。
わしが父親になって、子供三人を大学に行かすためにお金を用意するのは大変やった。今更ながら、親のありがたさを感じてる。
「そんな母親を置いて夜逃げか・・・」
当時、ボクは何考えとったのやろう。月末の給与の支払いの金策ばっかり考えとった。生徒を増やす方法ばっかり考えとった。
百五銀行も、桑名信用金庫も、政策金融公庫も、すべて信用保証協会につながっとって融資は限界。電気屋さんに見積書を作ってもらい、融資を引き出し、娘の学費を名目にお金を借った。
カードローンも、レイク、プロミス、UFJやら4つ。アイフルには断られるありさま。確定申告の額が低すぎたねん。中京銀行には
「個人塾は負け組み」
と罵られ、学書の支払いを遅らせとったら
「近いうちに伺う」
言われ、怯えとった。
食器棚をモノマニアに売ろうとしたら
「10年以上のものはガラクタです」
言われた。
「そうか、うちはガラクタに囲まれて生きとったんや」
日曜も、祝日も関係のうて365日働いてもあかんかった。奥さんが連れていった末娘はわずか三歳、次女は小学生の低学年、長女は高学年やった。そんな子供たちの顔を見とったら、過労死やら怖うなかった。
父がうちのためにかけてくれとった生命保険を解約し、母の年金ばっかりか、葬儀のための積み立てさえ崩さしてもうた。娘にお金をせがまれても、出されへんかった。もと奥さんのために買うた指輪は、下取りでも1万円にしかなれへんかった。
ほんまに亡くなった父に顔向けがでけへんかった。ろくでなしの息子やった。
土地を売ろうにも、遺産相続がうもういけへんし、リバースモーゲージは都会のみ言われるし、もう万事休すで夜逃げか首吊りや思た。
その当時、講師を2名雇うとったが、どないしても1人クビにせなあかんかった。ほんなら、1人の講師と大喧嘩になりクビにできた。外国人の講師で、日本が好かん講師やったねん。
講師のせんせには、このままでは倒産であること話しとったさかい、退職金の話はでなかった。講師をクビにできたお陰で、退職金を出す必要がのうなった。
融資を受ける必要がのうなった。
高校クラス、通信制が軌道に乗り始めた。
あれは、ほんま千載一遇のチャンス。神様のご加護やった。
「もうあかん」
思た時に、生徒が来てくれ、知恵を絞って金策に走り回っとった。娘の大学入試が迫り、貯金通帳を持ち出したもと奥さんから取り返さなあかんかった。
あとで分かったことだが、奥さんは再婚するため離婚を焦っとったねん。
もちろん、守りだけに奔走しとったのちゃう。この地区は少子化やし、過疎の町やし、何より進学に興味がある人がほとんどおれへん。そやさかい、心の中で見捨てた。
もっとおっきなマーケット。ほんで、ネームバリューのあるもの。うちができること考えた。それも、お金があれへんさかいタダで出来るもの。そこで考えたのが、京大生むけの英作文の添削の通信生。その構想は以下のようなものやった。
全国をマーケットにして、京大ちゅう日本で有数の知名度を利用し、京大を受けて成績開示をし、ブログやYoutubeの動画は無料やさかい、広報する。
京大は、毎年1万人くらい受験する。Z会の仕組みはわかっとった。添削者に質問でけへんのが弱点やし、添削者の実力が開示されてへん。信用でけへん。
この1万人の1%でもお客様になってもらえたら100人や。見込みはある。写メやスキャンをつこて親切丁寧にやったら受け入れられるはず。そう信じたものの誰もやったことあれへん試み。どないなるか分かれへんかった。
「うちは英検1級、通訳ガイドの国家試験に受かってる。いける」
やるしかあれへんさかいセンター試験に願書を出したら受験会場は三重大のある教室。偶然にも、長女と同じ教室で受験やった。
結局、Z会は8年間、京大模試は河合と駿台あわして10回。センター試験は10年連続して受け、京大の二次試験は7回受けた。ほんで、成績開示を塾のホームページ、YouTube、アメブロ、フェイスブックやらで公開した。
高校数学は、オリジナル、1対1、チェック&リピート、赤本をそれぞれ2周やった。
全力を注いでも、必ずしもうもう行くとは限れへん。ほんで、その時に誰も手は貸してくれへん。家族のためなら鬼にも夜叉にもならなあかん。うちは娘たちのためなら悪魔に魂を売ることも辞せへん覚悟やった。
学校のように、人工的に与えられた「愛」や「絆」やなしに、踏まれて蹴られて地面を這いつくぼうて、絶望のどん底でもがき、戦うて、そやかて残った思いだけが「愛」や「絆」て呼べるもの。
「勝手に滅びんかい!」
うちは、手ぇ貸してくれへんかった人たちを恨み、呪いの言葉をはいとった。
人は親子かて、なかなかうもういけへん。バツイチになったうちは夫婦でもうもういけへんこと知ってる。ましてや、他人で「絆」が結べるのは一生に何人おるんやろう。
そういう現実を知ってる塾生の子ぉたちは
「また、学校のせんせがきれいごとを・・・」
とおちょくるんや。
離婚後の食事はコンビニおにぎりが主食やった。
ところが、成績開示をしたら通信生や通塾生が増えて、合格実績はどんどん上がっていった。個人指導の高校生も増えてきて、歯車がええ方向にまわり始めていった。
ウナギ丼は限りのうウマイ。コンビニの死んだ食べもんばっかりで身体が悲鳴をあげとった。生きた食べ物を身体が求めとった。温かい食べ物を身体が求めとった。生き物の本能を抑えることはでけへん。
女性と関わるのは、もう懲り懲り。自由な発想がでけへんと、ビジネスはうもういけへん。ビジネスがうもういかな罪のあれへん子供たちが飢えてまう。
うちは、奥さんが敵にまわるとは想像もでけへん迂闊な男やった。今は子供たちも独立し、ぼちぼちわしの夢を再開するつもりや。
ある日、帰宅したら妻がおらへんかった