別居のあとさき
別居のあとさき
もう20年が過ぎ、子どもたちも三人とも大学を卒業して社会人になった。ぼちぼち書いてもええやろう思う。
もと妻と別居して数年後のことやった。母親のとこに泊まりに行っとった長女が泣きながら戻ってきた。母親が、だれか男の人と同居を始めてるらしかった。
「おとん、こんなん許せるん?」
と、訴えてきた。うちは言葉を失うた。親ちゅうものは、わしのことより子どもの気持ちを優先するものや思うとったけど、見事に予想が覆うてもうた。この時が、うちが離婚を決意した瞬間やった。形だけでも、母親の存在があった方が子供たちのためや思うとったけど、これではおれへん方がええ。
娘たちの進学費用を確保するため、もと妻が持ち出した通帳から半分返してもらう必要もあったねん。
ほんで、一生結婚せんと決めた。母親が再婚して、うちが再婚したら子どもたちの行き場所がのうなってまう。それだけは、絶対に避けよう思た。
別に、わしを犠牲にする覚悟をしたのちゃう。うちは子供たちが幸福に感じることわしの幸福やと感じるだけのこっちゃ。
塾は、30年間一度も赤字になったことあれへん。せやけど、バツイチになった頃は子どもたちが大学に進学して、授業料と毎月の生活費の仕送りで家計は火の車やった。
貯金をくずし、株を売り払い、政策金融公庫で融資を受け、そやかてバブルが弾けて、少子化が進むため徐々にしんどなっていった。ほんで、レイク、プロミス、アコムやらカードローンにも手ぇ出して、最終的には審査も通れへんくなった。
家具をモノマニアに売ろうとしたら、
「10年以上過ぎたら、ガラクタです」
言われた。もう夜逃げしかあれへんと覚悟したこともあった。
うちは、お金のすべてを子どもたちの学生生活を支えるために使うとったけど、そんな生活では女性が受け入れる思われへんかった。そやさかい、再婚なんて夢にも思われへんかった。
長女だけが大きかったさかい気づいたようで
「おとん、もう再婚してもええで・・・」
と、言うてくれたことあった。
うちは、中学、高校、大学を通じて時間の使い方を効率的にすべく鍛錬を積んできた。その技をフル回転して、英語講師から数学講師への転身を図って危機を乗り越えようとした。
40歳の頃のことやった。入試の時のトラウマを乗り越えて数学に取り組むしかあれへん。そう覚悟した。そうでなかったら、高校生に混じって、京大を7回も受けたりせえへん。結局、チェック&リピート、1対1、オリジナル、赤本を2周ずつやることになった。
奥さんのように、わしと生活習慣、人生観がちゃう人と同居しとったら実行できるこっちゃなかった。
この頃、忘れられへんA子ちゃんが登場する。彼女のことは、あまりに印象が強いさかい、別のとこに書かしてもろた。
状況は最悪やったけど、A子ちゃんが来てくれた頃にインターネットが普及し、スマホの所有率も上がっとった。うちは、無料の動画Youtubeをつこて通信生を募集しよう思た。
そら、地元の学校が左翼教育がさかんで受験に真剣に取り組む子ぉ少ないと分かったさかいだ。ここはマーケットとしてあかんさかい、日本全国にマーケットを求めたかった。
Z会やらの大手があるさかいムリやろう言う人がおったけど、うちはそう思えへんかった。なんでなら、Z会を8年やって研究し尽くしとったし、名古屋の大規模塾で40人中2番の実績があったさかいだ。Z会の採点者に負けるはずがあれへんと感じとった。
1名から始まった通信生も、5年も経ったら北海道から鹿児島まで生徒が増え、京大医学部、阪大医学部、名大医学部やらに合格者が出始めた。すると、通塾生に、四日市高校の国際科のトップクラスの子ぉや、私立の暁高校の特待生の子ぉやらが集まってくれるようになった。
いつのまにか、うちの塾は中学生の塾から高校生の塾に変貌した。そのため、月謝の踏み倒しや備品の盗難が無うなり、退塾率がゼロに近づき経営が安定した。ほんで、ブログを書き始めたら「受験生」のジャンルで1位となった。
すべてがええ方向に動き出した。
振り返ってみたら、うちの性格の多うが父の影響を受けてること分かる。亡き父とは喧嘩もしたけど、言葉に尽くされへんほど感謝してる。うちが娘たちにしてきたことは、父がうちにしてくれたことなぞってるだけや。
「A子ちゃんのこと」をブログに書いたら、「めっちゃええ話やさかい、Storys に書いたらいかがでっしゃろか」っちゅうメールを頂いた。初孫が産まれた。今度は、ええ講師、ええ父親、ええ息子に加えて、ええおじいちゃんになりたいもんや。
別居のあとさき