英語講師が「数Ⅲ」を教える数学講師になるまでにしたこと
英語講師が「数Ⅲ」を指導する塾講師になるまでにしたこと。
第一章 夜明け
私の亡き父はウザかった。高校入試の合格発表についてきたし、就職したら2時間以上かけて勤務しとった塾まで挨拶にきた。
高校2年生の時までは、理系に進むつもりやった。ロボットを作りたかった。せやけど、四日市高校は当時男子の割合が高うて男子クラスがあり、私はその男子クラスに放り込まれた。
今もその傾向があるけど、当時も男子生徒は理系が多うて私はその中で理系に行くのが当然や思て勉強しとったけど、数学の勉強を始めるとめまいがするような感じがし始めた。
それは、公式の成り立ちを納得しとらんのに無理やり使わされることに生理的な拒否感が生まれたらしい。模試の結果によると、文系やったら難関国立大に合格できるけど、理系やとそこまではムリという結果。泣く泣く「教育学部」に進むことになった。
生きていくには英語講師になるしか選択の余地はなかった。せやけど、その英語でも真摯に向き合うと問題だらけやった。
最初に
「なんかおかしいに」
と気づいたのは、1982年にアメリカのユタ州ローガン中学校で社会の授業をしとる時。同席しとったネイティブの教師が、しばしば私の授業を中断して生徒に向かって説明し始めた。
「ミスタータカギが今つこた単語の意味はな、---」
と解説を始めた。それで、一番仲のよかった理科教師のアランに
「なんで私の授業を中断するのかな?」
と相談したら
「お前の英語は綺麗やけど、ビッグワードを使いすぎなんや」
とアドバイスをくれた。それで、注意して職員室の会話などを聞いとると、確かに中学レベルの英語をつことる。自分が受験勉強で習うた難解な単語など全く出てこやん。
not more than と no more than の違いなど、使わんのやでどうでもよかった。私の塾生たちは、高校で与えら得た「システム英単語」をつこて単語をいっぱい覚えとるけど、多分ムダになる。
アメリカから帰国した私は公的な資格を取ろう思て、とりあえず英検1級の過去問を書店で入手した。ほいて、知らん単語や表現を見つけてウンザリした。
もはや、高校生の時のように
「頑張って勉強しやんと」
と自分を責める気になれなんだ。私はネイティブの助けを借って問題を解き始めたけど
「これはなんや?なんで、日本人のお前がこんなんを」
言う。それで、
「どういう意味?」
と尋ねったら
「こりゃ、シェークスピアの時代の英語やに」
とわろとった。
せやけど、アメリカから名古屋にある7つの予備校、塾、専門学校に履歴書を送付しても全て無視されたで、私は日本の英語業界で認知されとる資格を取らざるをえなかった。
事実、英検1級を取ったらどの予備校、塾、専門学校も返事が来るようになった。結局、コンピューター総合学園HAL、名古屋ビジネス専門学校、河合塾学園、名古屋外国語専門学校などで14年間非常勤講師をすることになった。
その間に出会うた英語講師の方たちの中に、英検1級を持っとる人はおらなんだし、旧帝卒の講師の方もおらなんだ。資格を持たな雇うてもらえやんという私の見方は誤っとった。
私はその頃には受験英語をほっとった。どの資格試験の英作文も面接試験も、すべてアメリカでつことった英語で通した。つまり、中学生レベルの英語をつこて難解な内容を表現する英語やった。
ところが、今はまた受験英語を指導しとる。高校の入試問題も、大学の入試問題も30年前からなんも変わっとらんのや。受験参考書の構文も、相変わらず take it for granted that や not until の世界やに。
日本にやってくるALTが増えて、
「日本の教科書はクソや」
とか
「英語が話せやん教師が英語を教えとる!」
言うても誰も耳を貸さん。ほいて、偏差値追放、小学校から英語を、と意味不明の政策を打ち出す。私のいる予備校、塾業界も暴走族講師やらマドンナ講師やらパフォーマンスばっか。
ほいて、それマスコミが煽る。賢い生徒はあきれ返って「マスゴミ」と揶揄しとる。
せやけど、一体いつまでこのようなアホな状況が続くんか。
やけど、ほんまに英語教育界にまともな人はおらんのやろうか?私が四日市高校や名古屋大学の教育学部で出会うた学生の中にはまともな人もおった。それで、日本一レベルが高い東大や京大を受けてみることにした。
京大は英語の試験が和訳と英作文という珍しい大学や。それで、まず「京大模試」とZ会の「京大即応」を受講してみた。京大模試は河合、駿台、代ゼミなどを10回。Z会は8年間やって、じっくり研究してみた。
ランキングに載り、Z会からは「六段認定証」というのももろたけど、毎回の添削は納得がいかなんだ。京大模試の採点も同様や。それで、
「いったい、だれが採点してんだ?」
思い調べてみた。せやけど、企業秘密で分からん。ただ、自分が勤務しとった予備校の講師レベルやろうとは推測できた。受験参考書どおりの訂正がなされとったでだ。
京大を受けた時は、最初の2回は「受験英語」で書いてみた。すると、6割正解くらいやった。私の英語がそんなレベルであるはずがあらへん。それで、次の2回は「資格試験」の参考書に書いたったような古い口語で書いてみた。そやかて、7割くらいの正解率やった。それで、最後の3回はアメリカでつことったような中学レベルの英語で書いてみた。すると、8割正解に跳ね上がったとちゃうか。
やっぱり、京大の先生は一流だ(笑)。
私の指導させてもろとる優秀な生徒も同じ感想を持っとるらしい。
「あの先生は、自分で京大を受けたら確実に落ちる」
と、京大医学部に合格した子ぉ言うとった。それで、
「この子ぉたちなら、私の言うこと分かる」
と、英語の添削を始めた。
すると、やっぱりというか次々と京大合格者が出始めた。それだけではあらへん。京大医学部、阪大医学部、名大医学部、東京医科歯科大学、三重大医学部など、どこにも有効やに。
大学の先生は、やっぱり賢い(笑)。
やけど、そんなんを言うたら蛇蝎のごとく嫌われた。日本は和を重んじるだけで、議論をさせやんプレッシャーが半端ない。
みんな食うていかなあかんで、英語が話せやんでも、生徒が志望校に落ちても、そんなん関係あらへん。自分の生活が優先。そんなんらしい。せやけど、それで犠牲になる生徒たちはどうなるんや。大人の責任を放棄しとることにならんか?
北勢中学校におる時は英語が一番嫌いやった。点数もようなかった。数学は理科、社会、国語と同じで特に意識した科目やなかった。総合点でトップクラスにおったで、それで満足やった。
試行錯誤を繰り返す私に父は
「大学院に行きたいならお金は出したるに」
など言うた。
第二章 希望
数学に対する執着は残っとった。
最初に
「ボクは数学が苦手なのやろうか?」
と疑問を持ち始めたのは、四日市高校の2年生の頃。1970年代の四日市高校は男子の割合が大きゅう、男子クラスがあり私は男子クラスに在籍しとった。
当時、男子は理系に進むのが大多数やった。その中にあって、テストのたんびに数学が壊滅的な点数になっとった。全国の模試やったら、そこそこでも四日市高校の男子クラスではどうしても周囲の子ぉと点数を比較してしまう。平均点と比べてしまう。
点数だけでもあらへん。三角関数、対数、微積分と進むにつれて
「もうボクの頭には入りきれやん」
と友人にぼやいとったのを思い出す。物理で13点を取り、
「こんなんありえやん!」
とショックを受けて、クシャクシャにしてほってしもた。私は数学の公式を使う場合に、
「証明できやんと、使う気になれやん」
というタイプやった。今思うと、それでは前に進めやん。結局、自分が何やっとるのか分からんくなり気持ちが混乱し始めた。ほいて、1974年の大学受験の5日前を迎えた。
2階の勉強部屋で数学の勉強をしとったら、突然手足が震え始めて椅子からズリ落ちてしもた。ほいて、
「おとやん、ボク変や」
と叫んだ。二階に駆け上がって来た父は、ひっくり返った亀のように手足をバタバタしとる私を見て
「お前、何してんだ」
言うた。ほいて、近くの総合病院に担ぎ込まれた。
病院の看護婦さんは、私の手足を押さえつけながら
「アレ?高木くん、なっとしたん?」
言うた。北勢中学校の体操部の先輩やった。
診断は、神経衰弱。いわゆるノイローゼとのことやった。私は頭が狂うこと心配したけど、 医者が言うには
「そういう人もおるけど、身体に症状が出る人もおる」
とのことやった。
そうした経験を通して
「自分は、どうも文系人間らしい」
と覚悟した。それで、名古屋大学「教育学部」で勉強しとる時に
「自分は先生かなぁ」
とボンヤリ思とった。それで、卒業後は英語講師として勤務を始めた。数学に触れるのは、自分にとってタブーになっとった。それから、20年ほどひたすら英語の勉強をしとって数学は求められて中学レベルだけ指導をしとった。民間では、英語講師だけでは仕事が得られやんのや。
ところが、自分で塾を始めたら
「明日は理科やのに、英語の授業ですか?」
と生徒から文句が出始めた。それで、英語、数学についで、理科、社会、国語の指導もせざるをえのうなった。
そのうち優秀な子ぉ来ると、高田、東海、灘、ラサールなどの難関高校の数学の過去問にも手ぇ出さざるを得やんくなった。ほいて、ある日気がついた。
そういう優秀な子ぉは
「高校に入っても指導をお願いできませんか?」
とリクエストが入り始めた。最初は、英語だけという約束やったのに中学生と同じで数学の質問も入り始めた。
それで、考えた。
「灘高の入試問題の数学が解ける私やったら高校数学もだんないかな?」
と考えた。
「高校クラスも作りたいし、試してみる価値はあるかな」
思て、近所の本屋さんに行って高校数学の参考書・問題集の棚を見た。なつかしい「オリジナル」が目に入った。四日市高校の悪夢が蘇った。
それで、恐る恐る手にとって中身をのぞいて見た。ひっくり返ってから25年以上が過ぎとった。まだトラウマがあり、手ぇ震えた(笑)。せやけど、驚いたことに、25年前の記憶が残っとりどんどん解けた。
中学の数学を徹底的に教え込んどるうちに基礎が固まったのか、中年になって精神が鍛えられたのか、よう分からん。とにかく、「オリジナル」を2周、「一対一」も2周、「チェック&リピート」も2周、「京大の数学」も2周。並行してZ会の「京大即応」を8年間やり続けた。
その間に腕試しに「京大模試」を10回、「センター試験」を10回、「京大二次」を7回受けた。
そのくらいやらな、優秀な生徒の指導には役立たん。成績開示をしたら、京大数学で7割正解やった。「暁6」の特待生、「国際科」の上位の子ぉ指導しても困らんくなった。
せやけど、そういう点数の問題だけとちゃう。自分の中でおっきな変化が起きた。数学アレルギーが全く消えた。トラウマが消えた。怖うのうなった。今では
「まぁ、たいていの問題は質問されても困らんやろう」
とリラックスして授業に臨める。当塾は、大規模塾のように準備した授業を一方的に話すスタイルやのうて、生徒の質問に答える形式やで常に本番やに。
今では、英語より数学の方がはるかに面白い思える。だから、私は19歳の時点で「文系」「理系」に分類することに疑問を持っとる。人間はそんなに簡単に分類できるものとちゃう。
文系やった私が今では
「この世の現象は数式で表現されやん限り、分かった言えやん」
と信じとる。これは、完全に理系の発想やろう。
学校では習わなんだ「数学3」も独学で勉強しとる。そうこうしとるうちに30年も過ぎてしもた。ほんま、
「少年老い易う学成り難し」だ。
ただ、分かったことある。私は自分の指導させてもろとる理系女子のような才能はあらへんのやけど、人の何倍も苦労して数学を身につけたために「生徒はどこでつまづきやすいんか」がよう分かるようになった。これは、数学講師としてはスゴイ武器になるんや。
第三章 漂流
ひっくり返って、病院送りになったり、受験会場で不審者扱いを受けて入場拒否をされたり、みっともないこと多かった。お世話になったホテルの人も最初は送迎バスは父兄は乗れな勘違いしてみえた。
せやけど、それもこれも必要なことやった。
「むっちゃ頭に入らん」が「わかる!」に変わる瞬間を知った。
こうして、今は英語と数学の両方が指導できる講師として重宝されとる。
考えてみると、高校生の時にえずきそうな思いで数式を見とった時から30年が経過した。高校生の方は私もそうであったように2年後、3年後しか見えとらんはず。そりゃ、そうや。私もまさか自分がアメリカで生活したり、数学Ⅲを勉強するハメになるなんて予想ができるはずがなかった。
父は亡くなる前に自分が大学入試に落ちた話をしとった。戦争で中国に行ったとも言うとった。大学に行って戦争に行くのを避けようとしたんやろうか。今となっては分からん。
私の進学に強い関心を示しとったのは、自分の原体験があったのかもしれん。もっと優しゅう接しとったらよかったけど、もう遅い。
皆さんも、今の段階では想像も出来やん経験をするはず。私たちがネット社会の到来に驚いたように、時代も激変を繰り返すやろう。そんな高校生の方たちに言えることあるとすると、ありきたりやけど
「目の前のやるべきことに全力を尽くすこと」
くらいやろう。それは、自分自身にも言えることだが。
ほいて、ご両親を大切にしたってください。
英語講師が「数Ⅲ」を教える数学講師になるまでにしたこと