掌編集 6

掌編集 6

51 健康寿命

 某サイトのまた、難しいお題。突拍子もないお題。
『アイスの寿命』

 アイスに寿命があるのか?

 命に終わりがある~恋にも終わりがくる
『粋な別れ』 石原裕次郎

 それは賞味期限を過ぎて捨てられるということ?

 実はアイスには賞味期限が表示されていないんです。
 しっかりした温度管理ができれば、極端に言うと10年後でも、理論上は食べることができるのです。
(イオンショップ北海道より)
 


 アイスクリームは何度か作った。1番おいしいのは卵黄と生クリームと砂糖だけのもの。生クリームも植物性のではなく、乳脂肪35の高いやつ。大量にはできないけど。
 大量に作るときは、牛乳800ミリリットルと卵黄に砂糖、生クリームを1本。
(私が高校生の時に買った宮川敏子さんのレシピ。ゼラチンも入った。うろおぼえだけど)
 途中何度もかき混ぜて空気を入れないと、カチカチのキャンディー状になる。
 夜は寝てしまうので、朝になれば、もう、スプーンで叩いてもビクともしない。
 それを少しずつシャーベット状にして食べる。

 あと、アイスクリームを作る小さな器具も買った。それを冷凍室に入れて冷やしておき、材料を入れて撹拌する。
 検索したけど、もう発売されてないようだ。買ったのはかなり前。
 思い出した。『どんびえ』
 
 
 この頃は市販のものを買うが、夏でも胃腸が弱い私はあまり食べない。夫が好きなのはアイスまんじゅう。
 酒も飲むしアイスも食べる。

 退職して酒の量が増えても、もうなにも言わなくなったのは、もう、死んでもいいってことだからね。
「ポックリ逝ってよ」
と口にする。
「介護させないで」

 この間、食器を整理して、
「湯呑み茶碗、10個も使わないだろう?」
と言われた。
「処分しようと思うんだけど、あなたが死んだら必要になるでしょ?」

 いや、今は病院から火葬場の霊安室みたいだから、やはり使うことはないか?

 アイスを検索したら恐ろしいものが……

 ラクトアイスは乳固形分を少なくして、植物性油などを加えているが、この油に健康を害するトランス脂肪酸が含まれている……

 トランス脂肪酸は、悪玉コレステロールを増加させる働きがあるとされ、心臓病などのリスクを高める恐れがある。
(うちの夫は心臓病)

 また、トランス脂肪酸の摂取により活性酸素の生成が促され、老化の原因となり、ガンなどを誘発する危険性も出てくる。
 世界ではこうした体への悪影響から、廃止の傾向が強まっている。が、日本ではそこまで注目されていない……(農林水産省)
https://www.maff.go.jp/j/syouan/seisaku/trans_fat/t_eikyou/trans_eikyou.html

 マーガリンとコーヒーの植物性ミルクが、悪いのは知っていたけど。


 平均寿命より、健康寿命を伸ばさねば!

52 フォークの神様

 中学2年のときに同じクラスになったS君。背が高かった。私の前の席。
 S君は後ろを向いて話しかけてきた。私は真面目すぎるくらい真面目で面白くはなかったろうに。反応がないから気になったのかもしれない。授業中も真面目な私にしつこく話しかけて、先生に怒られていた。
 1度だけ素敵だった。文化祭でギターを手に歌った。岡林信康の『くそくらえ節』
 真面目な私は知らなかった。先生はよくやらせたと思う。

https://youtu.be/Qk3UQT89cPw

 ︎
 岡林信康さんを知らない方が多いと思いますので、説明を。

 岡林 信康(おかばやし のぶやす、1946年7月22日- )は、日本のシンガーソングライター。
実家は教会で、父親は牧師。

 1968年に『山谷ブルース / 友よ』でメジャーデビュー。日本語のフォークとロックのシンボルとして、最初のカリスマ的存在となった。
 彼を語る時に必ずつく呼び名は「フォークの神様」。
 1960年代終わりから1970年代にかけての激動の政治の時代を象徴する人だが、本人の意識や意図とは別に祭り上げられてしまった面の方が大きかったかもしれない。

 1970年代の初め、岡林さんは東京を引き払って京都の山村に移住する。今も音楽活動と農作業を並行している。

✳︎
 
小さい頃、父から無理やりピアノを習わされたが苦痛で、小学校2年から始めて3年間でバイエル40番までしかいかず、教える先生もさじを投げるほどだった。
 浪人していた頃、友達がギターを置かしてくれと持って来た。
「ギターにはコードっていうのがあって、コードはこうやって弾くんだよ」
と教えてくれた。
 
 本格的にやり始めたのは、高石ともやを聴いてから。
 初めて買ったギターは、山谷の質屋で3,200円だった。

 高石ともやのコンサートで『受験生ブルース』を聴いて感動し、ギターを持ち始めたのが後に“フォークの神様”とよばれた岡林信康だった……

 山谷に住む日雇い労働者を題材とした『山谷ブルース』でビクターよりレコード・デビュー。
 翌年までに、『友よ』『手紙』『チューリップのアップリケ』『くそくらえ節』『がいこつの歌』など、名作・問題作を発表。
 その内容から、多くの曲が放送禁止となった。プロテスト・フォーク、反戦フォークが若者の間でブームとなり、中でも岡林は一世を風靡し、「フォークの神様」と言われた。

『友よ』は、社会変革を訴える歌として受け止められ、1960年代末の学生運動などが盛んだった時期に、盛んに歌われるテーマソングのような存在となった。
 岡林は「反体制の象徴」となり、関西フォークを代表する大スターとなっていた。
 特に、歌詞中で繰り返される「夜明けは近い」という印象的なフレーズは、強いメッセージ性をもつものとされた。

友よ 岡林信康
https://youtu.be/MOOpLHTV8Go

 あまりに活動家の中で歌われるようになったため、
「お前の名前が警視庁のブラックリストに載っているぞ」
と言われ、「陰の指導者」だと勘違いされるくらい「反体制の象徴歌」だった。

 岡林自身は、後年のインタビューでこの曲について、
「根幹にあるのも賛美歌だ」
と語っており、別のインタビューではこの曲について、
「当時の左翼運動のテーマソングになったかと思ったら、片や自衛隊の駐屯地でも歌われていたらしい」
とし、作り手の意図を超えて左翼運動と結びついていったという見解を述べている。

 しかし、勤労者音楽協議会との軋轢や周囲が押しつけてくるイメージと本人の志向のギャップ(同時期、岡林はすでに直接的なプロテストソングに行き詰まりを感じており、ロックへの転向を模索していた)などにより1969年9月、3カ月余りのスケジュールを残したまま一時蒸発した。
 書き置きは
「下痢を治しに行ってきます」
 5分で決定したかはわからない。

がいこつの唄 岡林信康
https://youtu.be/-ffrIDEGqTY

手紙 岡林信康
https://youtu.be/lbiCLUwFwTY

山谷ブルース 
https://youtu.be/6n4mJsMi81g

 被差別部落に関わるきっかけは、山谷での日雇い労働での経験から来ており、それまで見たことのない人々や社会にショックを受けた。
 地元の滋賀に帰ってから、琵琶湖のほとりでテントを張り、自問自答していく中で、自分の身近にある社会問題に目を向けたところ、それが被差別部落問題だった。
 そのことから、山谷に行ったり来たりしながら、地元の被差別部落区域でも日雇い労働を経験しながら、部落解放運動にも参加した。

✳︎
 ︎
 友川かずきが上京して飯場にいたとき、居酒屋の有線放送で岡林信康の『山谷ブルース』が流れた。
 歌詞で
『今日の仕事はつらかった、あとは焼酎をあおるだけ』
ってのがあって、これ俺のこと言ってる! って思った。
 岡林信康との出会いから独学で音楽を始めた友川かずきは数年後、当時のアルバイト先で知り合ったミュージシャン・宇崎竜童氏に見出され、歌手デビューを果たした。
『トドを殺すな』
https://youtu.be/4nRo7N-Abw8

 1980年放送の『3年B組金八先生』に友川かずきが出演した。曲目は「トドを殺すな」と「犬」の冒頭部分。
 金八先生が三原じゅん子演じる教え子に「かきむしられるような歌だねぇ」とつぶやいた、秋田なまりの絶叫は視聴者に強烈なインパクトを与えた。

✳︎

 1970年4月、コンサートに再登場、
「ごめんやす。出戻りです。お互い堅くならんといきましょう」
と話した。
 この時期からボブ・ディランに影響を受けたロックを、当時無名だった、はっぴいえんどをバックに展開し始める。

 はっぴいえんど は、日本のロックバンド。細野晴臣、大瀧詠一、松本隆、鈴木茂によって結成された。日本語ロック史の草創期に活動したグループの一つ。

『それで自由になったのかい』『私たちの望むものは』『自由への長い旅』などの作品を発表、喝采を浴びて東京に移り住み、一夫一婦制ナンセンスを唱えて自由なヒッピー風生活をするが行き詰る。
 1971年の日比谷野外音楽堂での「自作自演コンサート 狂い咲き」および、「第3回中津川フォークジャンボリー」を最後に、再び表舞台から姿を消す。
 5分で決定したかはわからない。

✳︎

松山千春と山本コウタロー。
松山千春が、フォークシンガーを目指すきっかけとなった歌が岡林の『自由への長い旅』
 当時12歳の少年が足寄の公民館で初めて歌に感動しフォークソングに興味を持ち始めた岡林信康の代表作。
 イントロのギターは大瀧詠一さん。

私たちの望むものは 松山千春
https://youtu.be/YvubjVT7tYk

✳︎

 やがて岡林信康は人や街を嫌い、自然の環境に身を置こうと、岐阜県中津川近くの山村に移り住み、約1年後京都府綾部市の総戸数17戸の過疎村に居を移し農耕生活を始める。

 農村に移住して、村の生活の中でリラックスし始めていたが、ギターに触れることもせず、歌手であることも忘れようとしていた。
 たまにゲスト出演などで他人のコンサートに出ても円形脱毛症になることがあった。

 そんな中、つぶれかけの蔵の中で座禅・瞑想を30分ほどするようになり、半年ばかり過ぎた頃、誰かがポンと肩を叩いたような感覚になり、
「無理をしてきたなぁ。もうこれから無理をする必要はないんだよ」
という声が聞こえ、突如背中に電気が走ったようになり、涙がとめどなく溢れてきた。
 30分ほど泣き続け、体中をしばっていた鎧が粉々に飛び散ったような爽快感が広がっていくようであった。
 それ以降、どんどんリラックスするようになり、いろんな価値観が変わっていくようになり、自分の歪をもっと知りたいと精神分析の本も読み漁ったりする中、新しい音楽を作る気持ちになった。

 数年間の農村生活の間、文明との接点は古ぼけたステレオだけ、次第に肩肘から力がとれた。
 知人である黒田征太郎宅のテレビで、西川峰子の『あなたにあげる』を聴いて感激。
「おれのものも歌だが、演歌もまた歌だ。歌にはいろいろな役目がある」
と、ぽつりぽつりと自分だけの演歌を作り始めた。
 作り始める中、いろんな演歌のレコードを買いあさり、演歌にのめり込んでいる中、自身の音楽のルーツが賛美歌やクラシック音楽だけではなく、ラジオから流れて聴いていた演歌にもあったことに気づく。
『月の夜汽車』『風の流れに』が美空ひばりに採用される。
 4年間にわたる農耕生活を終え山を降り亀岡市に転居。

 美空ひばりの後押しも受け、12月に中野サンプラザで久しぶりのワンマンコンサートも行った。

 1980年、テレビドラマ『服部半蔵 影の軍団』のエンディング・テーマである『Gの祈り』を発売。
 1980年代中頃より、往年のフォークスタイルであるギターとハーモニカによる弾き語りツアー「ベアナックルレビュー」を開始、全国を巡る。
 また、この頃より、封印していた初期の曲の一部を再び歌うようになる。

 
 2010年、EMIミュージック・ジャパンから美空ひばりのカバー曲を中心とした『レクイエム〜我が心の美空ひばり〜』を発表。5月には久々となる全国ツアーも行った。

✴︎

 もう新しく歌にすることはない。
 そう達観していた74歳の「フォークの神様」が曲作りに向かった。創作へ駆り立てたのは、コロナ禍であらわになった文明のもろさへのおののきだ。
 人間の姿が消えた地球上に草木が茂り、獣たちが駆け回る。
 23年ぶりに出したアルバム『復活の朝』
 

復活の朝
https://youtu.be/NrSaqNfsK8U

✴︎
 
ジェームス・ディーンにはなれなかったけれど
https://youtu.be/h6OdCWJ9-EE

 この曲は尾崎豊のことを歌っている。
 尾崎豊さんは青春のカリスマ、反抗の旗手という存在になってしまって、そのまま26歳で亡くなった。
 岡林さんが東京を離れて田舎に引っ込んだのも26歳。
「あのままだったら俺はゴールデン街で行き倒れて死んでいた……
 過疎の村で田植え稲刈りの生活を始めたことで生き延びることができた。だから、新宿ゴールデン街で飲みつぶれて死に絶えた岡林を、ふと彼に重ねたのよね。俺はそこから生き続けることができてよかったなという想いを歌にした。俺は生き続けられてよかったなって」


✳︎

 岡林信康さんは好きな歌手なので、あれもこれもたくさんになってしまいました。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8B%E3%82%88_(%E5%B2%A1%E6%9E%97%E4%BF%A1%E5%BA%B7%E3%81%AE%E6%9B%B2)
https://www.chunichi.co.jp/article/245051
https://rollingstonejapan.com/articles/detail/35679/7/1/1
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E6%9E%97%E4%BF%A1%E5%BA%B7

53 行ったことはないけど

 二十歳くらいの頃、新聞の投書欄で読んだ。

 絶望して旅に出た。
 ベナレスで夜明けのガンジス川を見た。
 自分の悩みなど、なんてちっぽけなものかと……

 そんなような内容。

 それ以来、ベナレスという地名には敏感になった。
 ベナレスで、夜明けのガンジス川を見てみたい。
 見てみたいが、行動的ではない。

 知り合いの知り合いのお嬢さんが、40年も前にひとりでインドに行ってきた。帰ってきたら熱を出して、隔離された、とか。

 私はひとり旅などしたことがない。
 映像で我慢する。
 情けないが……歌がある。
 

 ある日、河島英五のCDを借りてきたら、なんとこの歌が入っていた。

『ベナレスの車引き』

 聴くと情景が見える。

 この歌はそれ以来、私の好きな上位に入った。
 逝くときに、エンドレスで流してもらう曲に入れておこう。

ベナレスの車引き 河島英五
https://youtu.be/Obs6t5WzNGc

 ︎

 いろいろ観ていたら長渕剛の『ガンジス』を見つけました。
 10分以上の曲ですが、YouTuberさんはこの歌をきっかけに旅してきたそうです。
 ベナレスの画像もたくさんあります。

ガンジス 長渕剛
https://youtu.be/0MleI-9Un8o


 ベナレスはガンジス川沿いに位置しヒンドゥー教の一大聖地として、インド国内外から多くの信者、巡礼者、観光客を集めるインド最大の宗教都市である。

 ヴァーラーナシーのほかに、ワーラーナシー、ヴァーラーナスィーとも表記される。長母音を無視したヴァラナシ、バラナシ、ワラナシの表記もある。古名はカーシー(Kashi)。ヴァーラーナシーはサンスクリット語の読みであり、連邦公用語のヒンディー語ではバナーラス(Banāras)。かつては英領植民地時代に制定された英語表記のBenaresの誤読により、ベナレスとも日本語で称された。(Wikipedia)

54 不完全燃焼

 昨日の夜は早く寝た。だって、疲れて疲れて……

 本当は、楽しい事なのだろう。
 時間にして3時間弱。
 それは昼間のことだったのだけど、
「もう、勘弁して〜」
と言いたくなるのを我慢して、最後まで付き合ったから、お尻が痛くなった。
 
 夫も途中寝るかと思ったけど、最後まで……
 だから、昨日の夜はふたりとも早く寝た。

 年に1度のことだから気合いがすごい。
 あれは、雰囲気が大事。
 自分は『上手』だと暗示をかけるの。
 練習してきたのだもの。テクニックというか、指遣い。
 でも、左手、強すぎ……ぜんぜん良くないのに。
 楽器がいいから、強くしないで! と言われたでしょ? 
 すぐに忘れるのね。しょうがないか、一生懸命なのはわかる。
 がんがん、がんがん、攻撃的で、良さがわからない。
 大事なのは気持ちでしょ?
 もっと、優しく弱く……弱くするのって難しい?

 もう、不完全燃焼!



 昨日は孫(女の子)のピアノの発表会に行った。
 おととしの5歳くらいから習い始めたが、先生の言うことを全然聞かなかったらしい。すぐに辞めてしまった。
 幼稚園でも、教室を飛び出し水たまりで遊んでいた子だ。
 3歳児検診で
「お名前は?」と聞かれて、おもちゃで遊んでいた。何度も「お名前は?」と聞かれ、「お名前は?」と復唱した。
 発達障害グレーゾーンだとかで、そういう教室にも通っていた。

 次の先生は……
 1度頼まれてピアノの送り迎えをして、レッスンを見ていたことがある。
 大きな邸の優雅な先生。グランドピアノに素敵なテーブル。
 その上で塗り絵やシール張りで指を柔らかくして、ピアノに触るのは短時間。
 これで上達するのかと思ったけど、楽しそうに弾いていた。

 昨日は7歳の孫の初めてのピアノの発表会。
 おチビちゃんが30人。
 4分の1は女の子。皆ドレスにティアラみたいなカチューシャ。まるでドレスの品評会。
 孫は入学式のを着せると言ってたのに、ネットで4000円で買ったというブルーのロングドレス。
 薄いブルー。
 不思議にピンクのドレスを着た子はひとりもいなかった。自分で選ぶのだろうか? ピンクは人気ない? 
 真っ赤がひとり。あとは、薄いグリーン、ブルー、イエロー。
 男の子はベストにネクタイ。
 ひとりだけ半袖のボーダーのTシャツの普段着の男の子がいた。曲は、なんとかブギ?
 1番目立っていた。

 パパ、ママ、ジジ、ババは花束やプレゼントを持ち、かわいいかわいい、うちの子は、孫は。
 演奏は下手でも。

 この中で3年後、5年後続けているのは何人いるだろう?

 それに、下の子がじっとしているわけがない。おしゃべりな5歳の女の子を宥めてあやして〜ホールの外に連れ出して……

 そういえば、うちの次女も上ふたりとは歳が離れているから、静かにさせておくのが大変だった。
「おなかすいた、すいたって言うんじゃないわよ!」
と何度も言ったのに(あの頃の口癖だった)
「おかあさん、おなか〜」
と大声。私が、怖い顔で睨むと、
「すいてないっ!」

 あの子も一児のママになった。姉妹なのにあの子は今は70キロ超え。
 夫がふざけて、
「少し痩せろ、怪獣」
と言うと、孫は健気に言った。
「これはね、怪獣じゃないの。ヤマトくんのママなの」

 息子のために、痩せなさい。

 長女は孫と連弾。
 長女は体型を保っている。
 ピアノもうまかった。7歳の時にはふたつ上の長男を追い越してバイエルも終わっていた。
 あの頃はバイエルも分厚い上下2巻。今は何冊にも分かれていて、そのたび本代がかかるのだ。

 
 孫は、弾きながらこっちを見た。すごい余裕だ。よく、スーパーのピアノで弾いているという。
 
 ソロのあとは連弾だ。パパ、ママとの連弾が結構いた。この世代は弾ける確率が高いのか?
 習い始めて7か月というパパもいた。娘と連弾できるなんて! 嬉しいだろうな。
 私もピアノを習い始めたのは、連弾してみない? と先生に勧められてから。
 最初は楽しいのだ。

 仕事に忙しかった夫は、子どもたちの発表会にもほとんど来られなかった。
 今になって、「ピアノ、よく買えたな」と言う。
 なぜ買えたかって?
 食費を切り詰めたのよ。金をかけずに手間ひまかけて。
 切り詰めても誰にも気づかれず。娘は安い砂肝の唐揚げをステーキより高いと言うと信じていた。
 
 夫は孫の写真を撮り動画を撮り、嬉しそうだった。
 私は……小学生ばかりでがっかり。ほとんど低学年。短い曲ばかり。
 連弾の最後に、高校生くらいの男子が出てきた。妹との連弾だろうか?
 この子は、ネクタイを緩めてかっこよかったあ。ソロで聴きたかったな。

 ピアノはスタインウェイだそうです。

55 夜中のドライブ

 息子家族が泊まった。下の孫はもうすぐ1歳だ。来た時に少し人見知りをしたが、慣れてからはにこにこニコニコ。かわいい女の子だ。
 ママが風呂に入りに行くと(自分はパパとにいちゃんと先に入った)大泣きし、パパが抱いても泣きやまない。

 わが息子ながらよく面倒を見る。おむつも変える。便をすればシャワーできれいにする。ごはんも食べさせる。前髪まで結ぶ。

 ひと時代前、世のパパはこんなに面倒を見ていたのだろうか? 
 記憶が呼び覚まされる。 
 泣きやまないと、明日の仕事に差し障る……
 そう言われて、夜遅くおぶって外を歩いた。
 おぶわれた娘に話したら、
「ありえない!」
と言う。

 しかし泣きやまない。
 集合住宅だから気になる。滅多にないことだから、まあ、いいか。
 このマンションも、久しく赤ん坊の泣き声を聞かなくなった。たまに犬の鳴き声やお年寄りの叫び声は聞こえるが。

 よく3人も育ててきたと思う。泣かれて泣かれて、そのときは大変だった。若かったから夜中に起きるのは辛かった。

 泣きやまないで、座布団の上に放り投げたこともあった。
 友人はマンションの高層階から飛び降りたら楽になれる……と思ったこともあるという。

 そういう時期を乗り切れるかは、連れ合いの言葉や態度次第だ。

  ︎ ︎

 自分の想像以上に赤ちゃんは泣く。
 赤ちゃんは泣くのが仕事、誰が悪いわけではない。
 泣かれてカッとなって激しく揺さぶってしまうと……脳にダメージをきたしてしまい、言語障害、学習障害、歩行困難、失明、死にいたることもある。

 車に乗るとすぐに寝てしまうのは、心地よい振動で、おかあさんのおなかにいたときのことを思い出しているのかも。

 そういえば、どうしようもないとき、夫もついに行動した。夜のドライブ。
 まだ猛暑日はなかったが、エアコンもない熱帯夜。
 嘘のように泣き止む深夜の国道、辛くも懐かしい子育て時代……


 どうしても泣きやまないときは、安全な場所に寝かせて、その場を離れる。自分がリラックスしてから戻りましょう。(厚生労働省)

 しかし、親思いの子に育つとしよう。親が苦労したのは3年、15年、20年? 
 子には介護が待っている。3年、15年、20年?

 それよりも心配なことがある。
 2100年の未来の天気予報を見た。気温上昇により北海道でも稲が育たなくなる。
 健康障害、生計崩壊、熱波による死亡や病気、食料不足、水資源不足……

 好きな作者さんの小説では、環境破壊は思っていたよりも速い。食料は昆虫。人類は飢餓と争乱と暴動……

56 亀さん、ごめんなさい

 息子家族の住む海辺の家に滞在していたときのことだ。お嫁が出産で実家に帰っている間、上の子の世話を頼まれた。小学校1年生の男の子。

 8月の終わり、よくふたりで海岸へ行った。
 ある日、途中の歩道に老婆がかがんでいた。見ると20センチ弱の亀がいた。車道すれすれの所。右に動けば車に轢かれてしまう。
 孫と私はカメを抱き上げ海に戻すことにした……?

 歩道から階段を降りる。長い砂浜。砂は熱い。亀を抱いたまま波打ち際まで連れて行き下ろした。
 亀は水に浸かり嬉しそう……?
 私は写真を撮った。
 亀は選べたはずだ。前へ進むか、留まるか。
 波が来る。よちよち進んだ。
 海に戻っていく。気持ちよさそうに……?
 しかし、なぜ、あんな歩道にいたのだろうか?

 やがて、亀は見えなくなった。海に戻った。
「亀さん、さよなら」
と、孫が手を振った。
 よかった。良いことをした。
 お礼に来るかも……

 息子にメールした。亀の写真を送った。
 返事が来た。
「その亀、淡水系じゃないの?」

 ガーン!
 無知は罪なり!
 女の浅知恵。

 亀よ、どうなった? 

 亀は海水でも生きられるのでしょうか? などと検索してみた。
 無理だね。死ぬ……と容赦ない回答。
 でも、打ち上げられて、細い水路から川に行ったりとか?

 だいたい、なぜあんな歩道にいたのだ?
 誰かに捨てられたか、逃げ出したのか?

 亀さん、ごめんなさい。

 戻ってきたお嫁に話したら、
「きっと、生きてますよ」
 孫には内緒だ。

57 ねえちゃんの恋

 10年前は体力に自信がなかった。1泊旅行でもぐったり。デパートへ行けば頭痛が。
 仕事は週に3日、10時から7時まで立ちっぱなし。ほぼ1日置きだが、休みの日は出かける元気もない。  
 時々、イベントで4日連勤などになるとまぶたがピクピクし、最後の日は朦朧として、風呂の湯を入れていることも忘れた。

 そんな時、娘がグァムで結婚するって? 4日間のグァム旅行? 
 無理だ。楽しめない。初めての海外だが。

 体力つけなきゃ。まずはウォーキングから。 
 夜、歩いた。
 目標があるからできた。
 近くに1周200メートルのウォーキングコースがある。そこで皆歩いていた。走っている者も。
 私も走ってみた。半周走り、半周歩く。徐々に距離を増やしていく。1周ずつ交互に合計2キロ。
 できるようになると欲が出る。次は2キロ続けて走れるように。
 これがすんなりできてしまった。続けて3キロ。アプリを取ってタイムを測る。
 次には遊歩道を走りスポーツセンターまで。そこの500メートルコースを1周し戻る。往復5キロを休まずに。

 走れるようになるものだ。楽しくてしょうがない。
 1度ランニングハイを経験した。知らない道を走った。
 今日は調子がいい……足も重くない。そろそろ、スポーツセンターの通りか? なんて思っていたら大通に出た。〇〇通り。そこはスポーツセンターの倍はある。

 姉と話した。グァムに行くなら泳げるようになりたい、と。
 そしてふたりで通い始めたスポーツクラブ。
 ジムで筋力をつけて、プールでウォーキング。無料のレッスンの初心者コースにも入った。コーチは年配の体格のいい女性。
 水中で息を吐く練習から。

 フリーだから、行ける日は週に何日でも。仕事があるから1日置きくらい。すでに体力はついた。
 朝、40分歩いて通う。マシンで汗を流してからプールへ。やがて有料のクラスにも入り、クロール、背泳は25メートル泳げるように。昼も食べずに、帰れば3時過ぎ。
 そして夜は走った。5キロ。私はすでに疲れを知らないおばさんに。

 グァム旅行は楽しめた。
 朝早く起き散歩した。昼はイベント、観光、買い物。ビーチで遊び、夜はプールで泳ぎ、ジャズの生演奏を聴いた。
 それでも夜中に目が覚める。眠れない。眠れない。ベッドでは眠れない。睡眠不足なんのその。朝は早くから夜遅くまで。元気でいられた。頭痛もなし。楽しかった。
 家に帰っても、まだ走りに行けそうだった。

 有料のレッスンのコーチが若い男性だった。息子より若い、ピカピカのお肌。
 入江選手の弟と一緒に練習していたとか、女の選手の◯◯は性格が悪いとか……
 平日のクラスなんて、年配の女性ばかり。男性も時々はいたけど。

 若い男のコーチが手を引っ張る。足にさわる。(バタ足をさせるのだが)
 レッスンの後、プールサイドに上がり、ほんの少しだけコーチと話す。
「姉妹なの?」
と聞かれ、それからは、お姉さん、妹さん、という呼び方に。
 姉はウキウキワクワク。水着を何着も買った。
 
 恋多き女。
 古くは舟木一夫、巨人の堀内投手、五木ひろし、ヨン様。
 プリズン・ブレイクの主人公の男性。彼が同性愛者だとカミングアウトした時はショックを受けていた。
 
 姉はいつも好きな人がいて、楽しいだろうな、と思う。
 
 私はいろいろあって、1年くらいでスイミングを辞めてしまった。でも、クロールと背泳は25メートル泳げるようになった。きれいなフォームで。
 姉はずっと続けている。
 会うと、コーチの話をした。目が輝く。
 大会にも出た。
 週に3回は通い数キロも泳げるようになった。大晦日には25メートルを108本も。
 姉が、あんなに頑張るとは思わなかった。
 続けられたのはたぶんコーチがいたから。
 何をやっても長続きはしなかった人だ。テニス、編み物、ビーズ、お菓子作り。
 使わなくなった毛糸や、高いお菓子作りの道具は私に回ってくる。

 でも、コーチはいつまでもバイトではいられない。そういう心配までしていた。だから、辞めてよそへ正社員で行った時には喜んでいた。
 残念がっていたが、皆で送別会をしたそうだ。
 さわやかな恋だった。

 そんな姉の最新の恋の相手はピアノ系YouTuberのよみい。
 

58 歩み寄り

 ブティックで働いていた頃、お客様はひとまわりくらい年上の裕福な奥様たち。高級車を停めて歩いて来る方が更年期だとかで、夏ではなくてもいつも扇子であおいでいた。
 上得意の彼女が来ると冷房の温度を下げる。長居されるので、スタッフはカーディガンを羽織ることになる。

 友人もカァーッと熱くなると言っていた。真っ赤な顔で。ホットフラッシュという。
  
 姉は、それまでは人一倍元気で行動的な人だったが、不安に取りつかれた。
 電車で息苦しくなって降りたりとか。寂しくて旦那に、
「行かないで」(会社に)
とお願いしたらしい。
 婦人科で薬を貰ったが、よくはならなかったようだ。あとは、精神科に行くしかない、と言っていた。
 子どもがいないので、私の娘がよく泊まりに行った。

 やはりブティックの客で夕方来る方がいた。更年期でやる気が起きない、と。夕方までずっとパジャマでゴロゴロしている。
 旦那が帰って来る前に、しかたない、と着替えて夕飯の買い物に行くが、途中座り込み、死にたくなる……と。
 たいした料理もしないのだろう。働いている旦那様に同情した。


 肩こり、腰痛、五十肩、めまい、鬱……
 皆が、苦しんでいるとき、私は元気だった。
 自分には、更年期は来ないのかと思っていた。
 接客業なので、家に帰れば口も利きたくない。ひとりになりたい。ひとりが好き。旦那も帰って来なけりゃいいのに…… 

 しかし、遅れてやってきた。重くはないが。
 少々寂しい。次女は、塾に行かないであげようか? と笑って言ってくれた。

 
 不安症はたいしたことはなかったが……
 暑い。暑い。冬でも暑い。いまだに暑い。
 夏はいいのだ。エアコンと扇風機と覚悟がある。
 ここ何年も冬を寒いと思わない。
 朝、寒いですね、と挨拶されても、実感がない。
 冬、家にひとりだと、暖房をつけない。(テレビもつけない)
 夫が帰る時間になると、暖かくしておかねばならない。
 暑い。私は暑いのに。
 キッチンで動いていれば暑くてたまらない。気が狂いそうになる。
 夫に訴えれば「脱げば?」とひとこと。もう、脱げるものはない。
 心の中で言う。
「あなたが着てよ。私は暑いのよ」
 真冬の夜にベランダに出て座っていた。
 
 おまけに夫はテレビをつけっぱなしで寝る。狭いマンションなので、隣の部屋で寝ていても聞こえる。
 音が気になる。なぜオフタイマーにしない? 頭にきて消しにいけばまたすぐに付ける。
 殺したくなる。フライパンでぶん殴りたくなる。
 これは、検索したら同じような方が大勢いた。
『もう、無理。別居したい』
 ネットで耳栓を頼んだこともある。でも付けたら耳が痒くなってダメ。

 おまけに冬は明け方暖房をつける。当たり前なのだが。エアコンの音が私をイラつかせる。

 そんな夫が、老後同じ趣味がないと捨てられたら困る……などと言い出し3年前からゴルフを始めた。
 明後日行ってきます。暑いから嫌だと言うのに……
 朝早いから、とにもかくにも最高に暑くなる前には終わるはず。

 老バカ夫婦が大丈夫だろうか?
 

59 原因は?

 背中が痛くなってからひと月以上経つ。以前にもこの痛みは経験済みだった。何度も経験した尿路結石。
 食生活か、ストレスか? 
 退職してからストレスはない……と思う。血圧も下がったし。
 では、原因は? 

 過去にひとつだけ思い当たることはある。
 健康雑誌の卵黄茶というものを信用した。卵黄3つを鍋で煮て、濃い、とてつもなく濃い煎茶を入れ混ぜたものを飲んだ。
 妻に毎日作らせ、しばらく続けた。そのせいかはわからないが、尿路結石で七転八倒。
 煎茶にはシュウ酸が100グラムに1000ミリグラム……。今検索しても、そんな健康法は載っていない。

 その後も尿路結石は3度くらい経験した。しまいには衝撃波術……


 今回は、泌尿器科で調べたが石はなく、腎臓癌、前立腺癌を疑われた。
 歳だから、それもしかたない。過去にも肺癌を疑われたことがあった。長女が結婚する前に。3回目に紹介されたのが癌研だったので、覚悟した。

 妻は、死なれた後の生活を考え生命保険を確認した。
 癌研での長い検査。夫婦で来ているものが多かった。長い時間、妻は廊下の椅子に座り待っていてくれた。

 そして、先生の話。
 違った。肺癌ではなかった。拍子抜け。妻は喜んでくれただろうか? しかしなぜ、あっちの病院こっちの病院でわからないのか?
 とにかくよかった。帰りに妻と寿司を食べた。大奮発した。

 しかし、よほどのストレスだったのか、体に異変が。背中にブツブツが。片側だけ。
 妻は騒いだ。もう病院は懲り懲りだったが、かかりつけの医院に引っ張っていかれた。
 帯状疱疹。初めての症状。妻は以前働いていた店の客から聞いていた。見せられたこともあるそうだ。帯状疱疹でブティックに来るのか? 

 手当が早かったので飲み薬と塗り薬で済んだ。妻は背中に薬を塗ってくれた。

 〜君の手がいつも優しくて石鹸の香り〜
高橋真梨子の『連絡』より

 もう、親の年齢を超えたから、いつ死んでもいい、なんて言っていたが、相当応えていたのだろう。

 腎臓といえば、副腎を片方摘出していたのだった。高血圧で、ずっと薬を飲んでいる。大学病院の先生に副腎に腫瘍があって悪さをしていると説明を受け、手術したのだった。
 あの時も妻は、毎日バスと電車を乗り継ぎ見舞いに来てくれた。だが、痛い思いをしたのに高血圧は治らなかった。

 数年後、仕事の区切りがつくと、下がった。やはり原因はストレスだったのか? 

 副腎? 副腎にはドラッグになる物質があるらしい。妻はドラマの見過ぎなのだ。 
『オックスフォードミステリー ルイス警部』でドラッグのために人を殺し副腎を摘出する……というストーリーがあったとか。
 調べてみると都市伝説がいろいろと。

 よかった。今回も検査の結果は癌ではなかった。では、腎臓に水疱があるのかも? と、また1週間後、エコーの検査をしたが見当たらず。
 妻には、ゴルフのやり過ぎでしょ、と冷たく言われ、整形に行けども、特に異常は見当たらず。毎日妻に湿布薬を貼らせ、サウナで温めマッサージを受けると少しよくなった。

 そして、妻とゴルフに行った。痛みはさほど感じず楽しかった。大振りできないからスコアは逆に良かった。ロストボールもない。妻との9度目のゴルフだ。妻も楽しくなってきたようだ。よかった。老後に同じ趣味を持って。


 背中の痛みが軽くなった。
 嘘のように痛みが引いた。痛くないことがこんなに幸せだなんて……眠っている時も目が覚めるほど痛かった。

 原因は? 
 もしかしたら? 
 
 定年後に始めた投稿。
 ずっと座りっぱなし。座りっぱなし。すごい根の詰めよう。妻にストレッチをしろと言われてもできない。まあ、頑張り屋だ。

 昨日は何度やってもネットに繋がらなくて、もう諦めた。

 座り過ぎは飲酒や喫煙と同じくらい健康を損なうリスクがあるそうだ。30分に1度は立ち歩き、執筆はほどほどに。

 若い時は現場仕事だった。なんと視力が左右2、0。だからほこりも汚れもよく見えて、部屋が汚いとよく怒った。妻は0、0いくつだから、欠けたグラスを気づかず出して、なんの冗談? 
 それが今では自分もかなり落ちた。体重は増えた。20キロ近く。高血圧、心房細動、痩せねばならぬが…… 

 妻も腰を痛めてから整骨院に通っている。よくなったが首凝りがひどいので続けている。首の後ろに大物がいて、それがめまい、頭痛を引き起こしているという。
 以前は80錠入りの薬がすぐになくなった。これが自分にはわからない。二日酔い以外、頭痛になったことがない。妻の首凝り、頭痛の原因はわかっている。わかっていてもやめられない。
 特に悪いのは寝ながらやること。仰向けに寝て抱き枕の上でiPadを打っている。
 お互い、悪いとわかっていてもやめられない。

60 どんな水?

 8年前、近くにできた介護施設で働き始めた。資格はないので周辺業務。配膳、洗い物、片付け、シーツ交換等。歳なので短時間。朝7時から3時間。
 始めてみると過酷な現場。若いときでもこれほど動かなかっただろうと思うくらい。
 それに……死を間近で見る。
 病院に搬送されて亡くなる方もいるが、看取り介護もある。

 最初は看取りというものがわからなかった。見た目はしっかりしていた。食事のときは起こして連れてくる。
 しかし、食べない。
 食べなければ餓死する。
「おなか、すかないんですか?」
「ええ、今は」
 品のいい女性だった。いつも自分は最後でいいから、と手のかからない方だった。

 調べた。最期のときは……
 食べないから死ぬのか、死ぬから食べないのか?
 この方は夜中誰にも看取られずに亡くなった。しかたないのだ。夜勤はひとりで20人を見る。夜勤の職員も気の毒だった。

 隣の部屋の男性は、ひとり暮らしの時は、虫と排泄物でひどい状態だったらしい。施設は新築のひとり部屋。
 タンスの上には、なぜか仏像がたくさん。
 
 ある日、この方がトイレを汚した。杖をついて自分でトイレへ行けるが、90歳を過ぎている。この方は食事を摂らない。
 食べるのは息子さんが買ってくるコーヒー牛乳と甘い煎餅。食べたい時間に部屋から出てきて杖で床を叩く。
 私はコーヒー牛乳と煎餅を2枚出す。食べると杖をついて部屋に戻りベッドに横になる。朝食のパンはジャムをたくさん塗ると、ほんの少し召しあがるときもあった。おかずと味噌汁は手をつけない。それでいて悪いところはなかった。
 入居者はほとんど便秘だ。2日、3日、4日、はい、薬をなん滴。はい、浣腸……。

 そのときのトイレはホラー映画のようだった。職員は着替えを。私はトイレ掃除を頼まれた。床と壁の3面に散らばっている……。どうすればこんな惨状になるのだ? ホラー映画のようなトイレの汚れは恐ろしい血ではないが。
 時間をかけて掃除をした。最低賃金より少しばかり高い時給。この労働の対価は?

 この方も、看取り介護になった。
 様子を見にいくとお水を求められた。
 職員に、ボトルの水を持っていくように言われたので、コップに入れて渡した。看取りなのにしっかりしていて、ご自分で飲んだ。
 そして怒り出した。これじゃない、と。
 ひどい暴言を吐かれた。
「水、わからないのか?」
 この方が話すのを聞いたのは
「煎餅、ちょうだい」
 それだけだった。
 一方的に怒鳴った。看取り介護の男性が暴言の嵐。夫にもこんなに怒鳴られたことはない。
「わからないのか、いい歳してッ?」
 わかりません。なにを怒っていらっしゃるのか……
「水だろ、それは」
とは、さすがに死にゆく人には言い返さなかったが。
 だいたい、この方がコーヒー牛乳以外を飲むのを見たことがない。

 職員に伝え、時間だから私は帰った。死にいくひとに腹をたててもしょうがない。
 きっと、欲しかったのはボトルの水ではなかったのだろう。

 どんな水を飲みたかったのだろう?
 

掌編集 6

掌編集 6

  • 随筆・エッセイ
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-09-22

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  1. 51 健康寿命
  2. 52 フォークの神様
  3. 53 行ったことはないけど
  4. 54 不完全燃焼
  5. 55 夜中のドライブ
  6. 56 亀さん、ごめんなさい
  7. 57 ねえちゃんの恋
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  10. 60 どんな水?