とある青年作家を告発する
ちょっと差別的というか、人によっては不快になる表現があるかもしれません。
前
ようやく覚えた文字を、まさかこんな形で使うことになるなんて思っていませんでした。Eが泣いています。Eは1歳上で、僕より少しだけ背が高いです。誕生日は12月。僕は10月。Eは僕より2年ほど早くお屋敷に拾われていたようで、年の近い僕の世話係に任命されていました。
深く息を吸い込むと、生温くぬめった鉄をそのまま溶かしたような、醜悪な匂いが鼻をつきました。思わず鼻を押さえて振り向くと、カーテンを開けた窓の向こう側に黄色い月が覗いています。今日は満月だったのか。競り上がりかけたそれを飲み込むと同時に、そんなどうでもいいことがふと脳裏をよぎりました。
月の灯りにうっすらと照らされる、お館様の広い書斎。書架にずらりと挿しこまれた装丁の幾重にも並ぶ金箔文字。青白いシーツに染み込む鮮血は、今もじわじわと滲み続けています。
Eは座り込んで泣いていました。Eの手には、柄から刃先まで真っ赤に染まったナイフが握られたままでした。
絵みたいでした。一枚の絵のように、僕には見えました。人里離れたお屋敷、月明りが降り注ぐベッドに眠る華奢な男性。傍らで震える小柄な少年。さらさらの金髪、水色の瞳、伏せられた長い睫。形の良い桃色の唇。これが本当に絵画だったとしたら、それはそれは美しい、それこそこんなお屋敷の豪奢な照明によく映える、荘厳な装飾品になったことでしょう。
遠のきそうになる意識を、僕は懸命に押し留めました。しないといけないことが残っています。
粘ついた血が絡みつき、Eの指はナイフごとくっついていました。適当な、でもなるべく安心させるようなことを言いながら、僕はEの掌を開かせました。Eとお館さまの体温が残っているそれを、僕は強く握りしめました。
Eと出会ったきっかけは、僕が町で運悪く事故に巻き込まれてしまったことにあります。新聞にも載ったことなので詳細は省きますが、その当事者たちの中で最も重傷だった僕は、結果的に右目の機能を完全に失うことになってしまったのです。事故の目撃者でもあり、もともと家も身寄りもなかった僕を哀れに思ったのか、退院後の面倒を見たいと病院を訪ねてくださったのがお館様でした。そして、お館様とお付きの方に連れられて車と船を乗り継ぎ、小さな島に聳える豪華なお屋敷で僕を出迎えてくれたのがEでした。
お屋敷には年の近い何人かの使用人がいましたが、Eだけが浮いていることはすぐにわかりました。食事の時間をずらす、遠回りをする、すれ違っても目を合わせない。Eのそんな態度が先なのか周囲が先なのか、どう考えてもわざと持ち場の床を汚されていたり、いつの間にかシフトが入れ替わって非番扱いだったりということがよくありました。Eは何も言わず、ただおとなしく従っていました。
「なあ」
一番年下であり、しかも片方しか視力がないハンディキャップを考慮されてのことでしょうか。仕事を覚えてからも僕はEと同じ配置でした。シフトを組むのは使用人頭でしたが、仲間内で相談して入れ替わるのは容認されていたので、シフト表の配置がずれていても突っ込まれることはありません。その日もEは勝手に非番扱いにされていましたが、僕と一緒に地下の貯蔵庫の清掃を担当していました。
「お前さ、なんで黙ってんの? おかしいじゃん、こんなの」
かつて家もなく頼れる人もいなかった僕は、生きるためにどんなことでもしていました。そこで染みついてしまったのか、いけないと思いながらも、お屋敷で最も慣れているEにはこんな粗暴な口を聞いてしまいます。初めて会ったとき、綺麗な金髪や色白の肌や小さな顔が全然使用人っぽくなく、むしろお館様と近しいような上品さが漂っていたので、それが癪だったというのもあります。自分の卑しさに、まったく呆れてしまいます。
「別にすることないから」
「そういうことじゃなくて」
時々、Eとは話が噛み合わなくなりました。どこがどうとは説明できないのですが、何かずれているのです。
Eがとても聡明だということは察していました。だからこそ、こんな理不尽な状況に文句も言わず収まっているのが不思議でたまらず、まともな会話にならないことがもどかしくて仕方ありません。僕はただ苛々して、雑巾を床に擦りつけました。
「仕事押しつけられてんだぞ。めんどくさいから。お前だったら文句言わずやっといてくれるから。綺麗にできて褒めてもらえるときも、自分がやりましたみたいな顔して得意げにされてる。むかつかないのか? 俺はすっごい嫌なんだけど」
もしかしたら、なんだかずれているEのことなので、自分が嫌がらせをされていることに気付いていないのかも。人のいるところに行こうとしないのも、E自身が静かに読書するのが好きなような奴だから、深い意味はないのかもしれません。そう思って反論してみましたが、Eは相変わらずでした。
「なんで君が嫌だと思うの?」
バカと天才は紙一重と言いますが、きっとEのためにある金言でしょう。つい溜息をこぼすと、不意にEが笑いました。微かな声でしたが、驚いて振り向くと、Eは指を唇に当てて微笑んでいました。
「みんなEが羨ましいんだよ」
Eは本当におかしな奴だったので、自分のことを名前で呼んでいました。Eは誰にでも敬語を使っていましたが、僕に対してはそうではありませんでした。
「Eが羨ましいから、しょうもないことするんだよ。だから、可哀想な人たちだと思って、許してあげてるの」
それから何日後かの夜、消灯時間を過ぎてから、僕は足元の補助灯を頼りにお屋敷内を歩いていました。一応懐中電灯を持っていましたが、少しすれば目が薄闇に慣れてきます。せっかく持っているので、姿見のある地点で身なりのチェックに活用しました。わざわざ制服に着替えてかしこまったというのに、変なところが解れていたりボタンがずれていれば台無しです。
Eはあんな調子でしたが、放置できませんでした。きっとあの不思議に抜けたとんちんかんぶりに目をつけられ、みんなが上手く仕事をさぼっているのです。みんなのほうにもEをいじめているつもりなど少しもなく、ただEが親切で応じてくれていると思っているのかもしれませんが、それはそれで不愉快です。
悩んだ末に、直接お館様に相談してみることにしました。流れとしてはまず使用人頭なのでしょうが、Eの非番なく働いている状態に気付いてもいないところを見ると、あまり期待できそうにありません。幸いにも僕はお館様に直接お声かけいただいた身であり、しかもそうなるきっかけとして悲惨な事故に見舞われる姿を目撃されているので、少しくらいは気にかけてもらえるのではないでしょうか。またもや自分の卑しさが脳裏をよぎり、さもしく感じましたが、身の上を上手く使うのがこの時代というもの。ちょっと自分が嫌になるくらいのことでEを救えるなら、むしろ喜ばしいくらいです。
とは言え、夜遅くにお館様のお部屋を訪ねるのは緊張しました。よく明け方まで起きておられると伺っていましたが、今日はお休みかもしれません。ドアの向こうからなんの気配もしなければ出直そうと決めていました。
じっと耳を澄ませていると、微かに物音がしました。しめた。意を決してノックしようと手の甲を掲げたとき、物音に混ざって声がしたような気がしました。
何故だかとても嫌な予感がしました。背中に突然冷たい水を浴びせられたような。
町から離れた無人島を開拓してお屋敷を構え、子どもを含むとは言え何人もの使用人を雇っているわけですから、まだお若いお館様の資金力は言うまでもありません。奥様がいらっしゃらないのは、ご自身の談によると、そもそもこんなところで暮らしたがるような妙な男と添い遂げたい女性などいないとのこと。例え作家などという不安定な職ではなかったとしても。
――みんなEが羨ましいんだよ。
いつかの昼間、貯蔵庫でEは珍しく嬉しそうでした。僕はEをほとんど責めたてていたのに。
Eの不思議に抜けたとんちんかんぶりを利用しているのは、お館様ではないか。よりによって、僕はそんな考えたくないことを考えてしまったのです。
ありえない。もう一度ノックしようと構え直し――その宙に浮かせた手を、僕はそっとノブにかけました。懐中電灯はポケットにしまっています。どくんどくんと心臓が波打ちました。
音もなくノブは回りました。漏れ出てくる光はありません。補助灯の光が細く差し込みましたが、書斎の奥側はカーテンがかかっており、こちらに気付いた様子はありませんでした。
しばらくは無音でした。この闇ではカーテンに浮かぶ影もなく、本当に誰もいないかのようでした。気のせいだったのでしょうか。お館様の書斎に侵入するという信じられない禁忌を犯している自覚はありましたが、気のせいなら気のせいであることを確かめないと落ち着けません。大変なお咎めを覚悟し、もう少しだけとドアを押した瞬間、くぐもったような声がはっきりと聞こえました。
頭が真っ白になりました。なんとかそっとドアを閉じ、早歩きでその場を離れ、やがて駆け足になりました。
この年齢ですが、生きるためになんでもしていました。Eとお館様がどういう関係なのかはわかりました。でも僕が知っている意味合いとは違っています。その意味合いでないなら、幼いEがそんなことをする必要はないはずです。
走りながら、知らず涙が溢れてきました。お館様は、野垂れ死ぬ不安から救ってくれたと思っていました。実際はそうではありませんでした。僕は右目を代償に、それまでとは違う、別の痛みが突き刺す地獄に来ただけだったのです。
Eをバカだと思いましたが、放ってはおけません。聡明なくせに、本の内容をそのまま鵜呑みにするくらいバカなEのことですから、お館様にそれらしいことを言われればあっさり堕ちることでしょう。Eがいじめられているような状況になっていることも、お館様の差し金と見て間違いなさそうです。Eの拠りどころを自分だけにすることで、一層Eを楽しい玩具にしているのです。
Eに話すのは得策ではありませんでした。聞かせたところでバカ正直にお館様に打ち明け、するとお館様は、お前だけがこうして寵愛を受けることに嫉妬しているのだと猫撫で声で諭すのです。その後の光景まで目に浮かぶようで、僕は頭を振りました。
僕を拾ってくれたお館様がそんな変態だったこともショックですが、まずはEを正気に戻さなくてはなりません。それとなく探っている中で、このお屋敷では、経営の険しい孤児院出身の子を優先的に雇っていることがわかりました。つまりここにいる使用人の子たちは、自ら望んで早い年齢で働きに出ているということです。そして、その子たちそれぞれの意思で、いつでも使用人を辞めることができます。
早くも問題が出てきました。行く当てがなければ、そもそもお屋敷を出る選択肢がありません。お館様は時折気まぐれに町に出て行かれるのですが、その足で行き場のない子を拾ってくることがあるそうです。聞き調べる限り、Eがまさにそうでした。Eはやはりと言うべきか、どこぞやの離散した貴族のお屋敷にひとり取り残されていたそうです。
Eの出自などはどうでも良いでしょう。重要なのは、僕とEだけがお屋敷を出る道はなく、Eが正気に戻ったところで何か行動を起こせるとは限らないということです。もしお館様の機嫌を損ね、寒空の下に放り出されるようなことがあったら、翌朝生きてすらいられません。
Eの様子を見ていましたが、何日かごとの夜以外はお館様との接点はなさそうでした。
次の逢瀬までに対策をと焦ると同時に、どうして誰もお館様とEのことに気付かないかと僕は苛立っていました。いや、すべてはお館様が仕向けていることです。僕だけがたまたまその思惑から外れてしまったに過ぎません。お館様が妙なことをしているのではと使用人頭に仄めかしたことがありましたが、拾っていただいた身で何を言っているのかと眉を顰められるばかりでした。いっそ第三金曜日に出る物資調達の船にこっそり乗り込んで、誰か大人に助けを求めようか。そこまで考えたとき、はたと思いつきました。
お館様が行き場のない子を拾ってくるなら、今現在、自分とEしかその対象がいないのはおかしいのではないか。家も親もない子がここに来て働いて、その後行き先なんてできるだろうか。
さすがに考えすぎだ。恐ろしい妄想を振り払いたくて、雑巾を強く絞りました。そうだ、お給金を貯めて、新しく生活を始めるために本土に戻った可能性だってある。誰か親戚が名乗り出てきて引き取られたということも。
居ても立ってもいられず、僕は客間を出ました。頼りにはなりませんが、過去のことは使用人頭が詳しいでしょう。
そして、Eの前にも2人お館様が連れてきた子がいて、両方使用人を辞めていたことが判明したのです。
眩暈がするようでした。熱もないのにぐるぐると世界が廻るような。四方を海に囲まれたこの島で、例えば殺人が起きたとしたら――遺体が出てくるはずはありません。なにせお館様は気まぐれに町に繰り出すのです。自分が連れて来た子なんだから、最後も送り届けたいと言い出しても誰も不審に思わないでしょう。島を出る本人が他の使用人たちに挨拶をしなかったとしても、年端行かない子どものお別れのことですから、それらしい理由を嘯くことだってできます。
いえ、お館様が何かしなくても、使用人頭にでも夜のうちに親戚の方がお見えになったと告げれば済むことです。
気付けば床が水浸しになっていました。さっきは固く絞りすぎて手が痛いくらいだったのに、今度は絞るのを忘れていたようです。濡らしてしまった床を丁寧に拭きながら、僕は更に考えました。Eと同じシフトのはずでしたが、例に倣ってどこか違うところに追いやられていたため、僕はひとりで客間の掃除をしていました。
わからない以上は最悪の前提を保つべきです。そうでなければ生き延びられなかった経験が活きてきました。お館様が本当に用済みになった子を排除しているとして、用済みになるタイミングはいつなのか。良い人面をした変態作家。最悪の前提を想定するなら、考えられる瞬間はひとつだけでした。
消灯時間直前、僕はお館様の書斎をノックしました。意外にも声だけの応答ではなく、すんなりと扉が開いてお館様が半身を覗かせました。
「こんな時間にすみません。どうしてもお話ししておきたいことがあって」
お館様が驚いた顔をしたのは一瞬だけでした。いつものように温和に微笑み、どうしたの、と言いながら僕の頭を撫でました。その手を跳ねのけたくなりましたが大丈夫です。お屋敷内で素直な良い子を演じているうちに、本当に素直な良い子になったような気になっていたので、自分に嘘を吐くくらいなんてこともありません。
消灯時間が過ぎればEが来るかもしれません。そうかと言って別の誰かとすれ違うのも避けたかったので、必然的に消灯直前を狙うことになってしまいました。
「そう言えば、僕、お館様にちゃんとお礼を言ってないなと思っていたんです。お仕事とお食事と立派なベッドを与えてくださったのに。僕にまともな人間の生活を与えてくださったこと、とても感謝しています。ありがとうございました」
これは嘘ではありませんでした。後半は少し怪しいですが、僕がお館様のお計らいで食うか食わずかの日々を脱したことは間違いありません。それはそれ、これはこれと切り離してお礼をちゃんと言えたことで、僕は少し気が落ち着きました。
「そんなかしこまったことはよしておくれよ。私が君を連れ帰ったことなんて、ほんの偶然だったんだから。それよりも、あれは酷い事故だった」
年若い青年と言う割に、細くしなやかな指が眼帯に触れました。そんなふうに直に触れられるのはいつぶりだったでしょうか。
「目は痛まないかい? もし痛むようなら薬をあげるよ。ここに医者はいないが、万一のことのために鎮痛剤はあるんだ」
「大丈夫です」
「そう。もう遅い時間だけど、お風呂には入った? 制服だけど」
「着替えてきたんです。お館様にお会いするのに、寝間着なんて失礼ですから」
「トニーは本当にちゃんとしてるね。君が私になかなか会えないのは、私が不規則な生活をしているせいなのに。ずっと気にしてくれていたのかい」
お館様は再度僕の頭を撫でると、愛おしそうに目を細めました。ここまで来ればもうひと押しです。僕は俯き気味に黙り、されるがままにおとなしくしていました。
「お入りよ。せっかくだからね。ココアでも淹れよう」
お館様は扉を大きく開きました。書架に納まるたくさんの本たち、床には書き損じた原稿用紙でしょうか、何枚かの紙が落ちています。
僕は一応驚いたような顔をして見せてから、慎ましく頷きました。子どもは夜更かしが好きなものです。これで多少は時間を稼げるだろうから、その間にEをなんとかしなければ。
そのときの僕は、微塵の疑いもなく自分の行いが正しい――とは言いませんが、事態を好転させることができると信じていました。それがまさかあんなことになるなんて、まったく想像もしていなかったのです。
後
あの事故に居合わせたこと自体は偶然だったかもしれないが、僕は初めからそういう対象で引き取られていた。つまりEが用済みになる日は近い。じゃあ、それは一体いつなのか。直接訊ねるわけにはいかず、僕ができる最善手は自ら自分を差し出すことでした。お館様としてはそんなイレギュラーが起こるなんて思っていないでしょうから、しばらくは遊んでくれるでしょう。かくして、お館様は僕とEを不定期に呼びつけるようになりました。
Eが書斎を訪ねる頻度が減るのは当然ですから、お館様に依存しているEの様子が少しおかしくなることくらいは考えていました。思った通りEはどこか上の空で、つまらないミスを繰り返しては、使用人頭にまで溜息を吐かれるようになっていました。その姿を見る度に胸が痛みましたが、間違っていないはずだと自分に言い聞かせました。
この島にいる大人は信用できません。外部に連絡を取ろうにも、お屋敷で使用人が使える電話は内線のみです。外線もあることにはありますが、使用人頭が管理する他はお館様の書斎に一機あるだけ。まさかお館様の目の前で使えるはずもなく、うっかり寝るかシャワーでも浴びてくれればと思いますが、お館様は僕から片時も注意を逸らしませんでした。僕にできるのは、次の第三金曜日まで時間を稼ぐことだけでした。
そして迎えた第三木曜日。呼ばれたのは僕でした。ほっとしました。ご奉仕が済んだ直後のEなんて見たくありません。暗いうちにEを叩き起こして船に潜んでおくつもりだったので、そこだけが気掛かりだったのです。
潜伏がばれることは想定していました。船の操縦をするのはまったく頼りにならない使用人頭、お付きに年齢の高い使用人1人ですが、僕とEがそこまでしていれば少しは事態を鑑みるでしょう。一月分の物資を配送ではなくわざわざ調達に出るのは、個人所有の島なので便がないこと、お館様がお屋敷の場所を可能な限り外部に漏らしたくないことが理由だそうです。もし定期便があればその分だけ時間との勝負になるでしょうから、ここだけはお館様が変わり者であることに感謝したいところでした。
お館様は鍵を開けて待っています。扉を押して少しお辞儀してから身体を滑り込ませ、振り向いてどきりとしました。ベッドの傍の椅子にEがいました。Eは不貞腐れたような顔で、制服の上着を脱いだカーディガン姿でした。
睨むようなEの視線が、ずっと僕を捉えていました。何が起こっているのかわかりませんでした。
「鍵、閉めて」
その一声で、僕は我に返りました。いつものように机に面した椅子に座っていたお館様は、温和に微笑みました。
とりあえず僕はいつも通りに鍵を閉めました。Eはまだ僕を見ていました。
「あの」
何か尋常でない気配を感じ、僕は口を開きました。でも言葉が続きません。何故か心臓がうるさく脈打ち始めました。ダメだ、落ち着かなくちゃ。状況を整理しないと。何をしに来たんだっけ。お館様にいつものご奉仕を。
「……」
嫌な予感がしました。Eの様子がおかしかったのは、僕が思っていたような理由ではなかったのかもしれません。
「そんなにびっくりしなくてもいいのに。さ、トニー。こっちに」
困ったように笑うと、お館様は腰を上げて僕に手を差し出しました。力加減も感触も知っている指。いつもなら迷うことなくリードされますが、僕は動けませんでした。再度手を差し出され、僕はその手を取りかけましたが、やはりできません。焦れたようにお館様は僕の手首を掴みました。
部屋中に轟いているのではないかと思うほど、心臓が大きく鳴っていました。僕はEを生き延びさせるために、自分の経験を活かしてきたつもりでいました。チャンスは月に一度の物資調達日。その日まで絶対にEを殺させないために、どこにも行けない子どもの自分にできる方法でEを守ろうとしただけ。
じゃあ、Eが敵を見るような目で僕を睨みつけるのは?
遊べる玩具がひとつある。まだその玩具で楽しみたいが、ふたつめの玩具が意外と面白い。どうせなら、ふたつあるからこそでできることをやってみたい。
お館様がそんなふうに考えることは、ごく自然な流れです。あろうことか、僕はその可能性を考えていなかったのです。思い出してみれば、最初に知ってしまったあの日、鍵が開いていたことだっておかしいのです。
バカなEを騙すのは簡単です。例えばなんだか飽きてきたとか、そうじゃないとかもういいとか言って、Eを不安にさせることはできるでしょう。お館様しか拠りどころのないEが、自分では一生懸命なのに、毎回そんなふうに言われていたら。Eの様子がおかしかったのは、あまり呼んでもらえなくなった理由に駆られていたのではなく、抽象的な言葉で追い詰められていたからなのです。
そしてそこに僕が登場します。バカなEからすれば、こいつだったのかと納得するでしょう。じっと僕を睨むことの辻褄も合います。
あまりの卑劣さに奥歯を強く噛みましたが、今は怒りに震えている場合ではありません。今だけを乗り切れば、あとは船で待っていればいいのです。
「トニー、どうしたの? いつもと一緒だよ」
でも今を乗り切るというのは? このままEにお手本を見せるということ? 手首を掴まれたままベッドの傍に連れて来られると、肩を押さえつけられました。呼吸がおかしくなるのが自分でもわかりました。僕がいる時点でEにはリーチがかかっているのです。今だけ耐えれば明日には2人とも助かります。助かるのに。
EもEです。どうしてあれだけの本を読んで、僕が識字できないことにもすぐ気付いて、配布された筆記具を使わなくても不自然がないような順番で仕事を教えてくれるくらい気の回るEが、この異常ぶりに気付かないのでしょう。
あの筆記具は、文字の練習に使い潰しました。物覚えが悪くペンの持ち方さえままならず、仕事終わりで僕のほうが嫌になっていたのに、Eは根気よく付き合ってくれました。
失いたくないと感じるのはEだけでした。Eとなら、このお屋敷を出た後もやっていける気がしました。今度はちゃんとした町中に暮らすご主人様にお仕えして、お休みの日が合えば、2人で映画や動物園に行くのです。図書館ならEも喜ぶでしょうか。たまにはうんとお給金を奮発して、遠出して観劇もいいかもしれません。
たったそれだけの夢が、どうしてこんなに遠いのでしょう。右目だけでは対価が足りなかったというなら、右手や右足も取り立てていけばよかったのに。そうなる世界の因果であれば、僕もEも違う形で出会えていたかもしれないのに。いや、その因果なら、Eは貴族のままだったでしょうか。きっと子どもたちが暮らす路地によく現れる、優しい貴族のご子息だったことでしょう。
とにかく今を耐えればいいのだ。僕は決死の思いで自らを奮い立たせました。僕のこの葛藤をもお館様は楽しんでいるのです。必要以上に付き合わなくて構いません。Eがいることは考えないようにして、僕は身体の力を抜きました。今日は灯りも消えません。感触をよく知ったお館様の手が僕の頬に添えられました。
焼き尽くして尚まだ燃えようとするような、右目を失ったあの瞬間が続くほうがどれだけましだったでしょう。Eのほうを見たくなくて、僕はわざと目を逸らしていました。自分が招いたことなのだと頭の中で呪詛のように鳴り響き、こんなことでEを守ろうとしたこと自体が間違いだったのかもしれないと思い始めていました。気付けば涙が溢れていました。左目の端から滝のように流れていました。要求されるまま、僕は応じるしかありませんでした。
鈍い音がすると同時に、お館様が軽く振動したように思いました。お館様が首を回すと、身体が傾いて背後が少し見えました。Eはしゃくり上げると、もう一度体当たりしたようでした。抉るような嫌な音が微かにしました。
お館様はベッドから立ち上がろうとして、仰向けに床に倒れました。すかさずEは馬乗りになり、既に柄まで真っ赤に染まっていたナイフで何度もお館様の胸を突き刺しました。意味がわからず僕は呆然としていました。数秒遅れてやっと理解が追いつき、後ろからEの身体を抱えました。あまり食べないEの身体は軽く、すぐに僕に静止されました。
なんでナイフなんかと思いましたが、そんなことよりお館様です。が、一目でもう無理だとわかりました。お館様は目を見開き、血を吐き泡を噴いて、胸から腹から血を噴出させて死んでいました。
Eが握りしめていたのは、キッチンにあるそれとは違っていました。形自体は初めて見ますが、よくあるタイプの折り畳み式のものです。身体の中に食い込むほど深く刺していたらしく、柄も握る手も真っ赤でした。
「人、呼ばないと……」
そう言うのがやっとでした。Eはずっと泣いていて、自分でも錯乱しているのか、握りしめたままのナイフを放そうとしません。Eの手を開いてやろうとして、思い留まりました。手早く服を身に着け、Eと目の高さを合わせて、血で粘ついているEの手をナイフの柄ごと両手で包みました。
「大丈夫。俺が守ってやるから」
ぴくりとEの身体が震えました。もちろんなんの根拠もあてもありません。とにかくEを落ち着かせてやりたかったのです。それに、Eを守りたいと思ったのは本当でした。
改めてお館様の身体を見てみると、素人の僕でもわかる傷の深さに目を覆いたくなりました。一寸の迷いもない刺し傷。なんでこんなものを持っていたのかも謎です。僕は初めて、見た目も振る舞いも人形のようだったEの、ああ、こんな状況でこんなことを思う僕だからこその地獄でしょうか。僕は初めてEの人間味を見た気がしました。
Eの指を一本ずつ開かせ、血の粘度で貼りついたナイフを取り外しました。ポケットに入れて持っていようかと思いましたが、その場に置きました。持っているにしても洗ってからのほうが良さそうです。
「立てるか?」
泣きはらし、Eは酷い顔でした。僕もついさっきまで泣いていたことを思い出して一瞬固まってしまいましたが、袖で強引に目元を拭いました。
「朝が来るまでになんとかするんだ。海に――隠そう」
捨てに行こう、とは言えませんでした。お館様は限りなく黒ですが、証拠があるわけではありません。同じことをするだけだと割り切ることができず、結局そんな言葉を選びました。ひとりでしぶとく生きてきたつもりでしたが、僕は自分で思っていたより弱い人間だったようです。
僕が弱かろうとなんだろうと、今はそんなことに構っていられません。とにかくこの殺人を隠蔽しなくては。ある種興奮状態の頭を、僕は必死に回しました。
何を言っているんだと言わんばかりのEを無理矢理立たせ、音を立てないように家具を動かし、血で汚れた絨毯でお館様を包みました。絨毯が床全体に広げるタイプではなく、インテリアを兼ねた丸型だったのは幸いでした。また、お館様が模様替えは自分だけでやりたがるタイプだったことにも助けられました。空想を文字にし、命ある物語にしていくという僕には想像もつかない大変な作業の苦悩ゆえか、お館様は突然変なことをすると使用人たちの間では噂に事欠かないのです。仕事に行き詰まった夜中に急に絨毯を敷き替えていても、まったく不自然ではないでしょう。
何度も足を運んでいますし、そうでなくとも、使用人たち全員お屋敷の構造は熟知しています。お館様が手軽に気分転換できるよう、書斎には外に直接通じるドアがあります。そのドアから、僕たちは絨毯に包んだお館様を運びました。月の高い夜でした。
Eの汚れた服は、お館様と一緒に廃棄することにしました。支給された制服の数が合わないことになりますが、僕たちが物資調達の船に潜む予定は変わりません。お館様の失踪や僕たちの告発の前に、制服の枚数など些末なことです。仮に何か突っ込まれたとしても、例えば勢いよく引っかけて破れたとか、いくらでも言いわけできます。
やっぱりダメだとかなんとか言いそうだと思っていましたが、Eはうんともすんともなく僕の後ろをついてきます。引き返す足取りが覚束なくなってくると、僕は勝手にEの手を取りました。
空の貨物庫には鍵をかけておく必要がないためか、自由に出入りできることは確認済みです。先にEを押し込むと、僕は早足でお屋敷に戻りました。毛布の一枚くらいはないと、うっかり眠ってしまったら取り返しがつきません。当初から持ち込むつもりではありましたが、こんなことになったので、取りに戻るしかなくなってしまったのです。
ベッドから急いで毛布を取り、不意に僕は思いたち、Eにもらった筆記具も取りました。僕の分は使いきっていましたが、賢いEはメモすら不要だったので、まっさらなそれを僕に譲ってくれていました。
貨物庫でEは震えていました。僕はEとくっついて毛布を羽織りましたが、Eが横になりたいと言うので、硬い床にふたりで寝そべり、毛布にくるまりました。
どうする気なのかと訊かれたので、今後のことを話しました。僕とEは飽くまで被害者でいること。朝になれば使用人頭が来るから、そこで事情を話し、町に連れて行ってもらうこと。暗い貨物庫内でEの顔はほとんど見えませんでしたが、これほどEと近づいたこともありません。今Eがどんな表情をしているのか、なんとなく想像できる気がしました。
「ひどいと思う」
「殺したのはお前だろ」
それでもついかっとして、僕はそんなことを言ってしまいました。Eはなんとも言い返さず、また人形のようにおとなしくしています。先ほどと比べると落ち着いて見えますが、自分がしたことにまだ頭が追いつかないのかもしれません。まったく賢いのかバカなのか。いや、やはり一周回ってバカなのでしょう。そうでなければ、お館様の便利な玩具に成り下がる道理がありません。
Eの顔の横に置かれた手を取りました。びっくりするくらい冷えていました。Eは振り払おうとはしませんでしたが、握り返してもくれませんでした。
「なんでナイフなんか持ってたんだ。お屋敷のじゃないよな」
Eがもともと持ち込んだものか、お館様がお気に入りのEに直々に与えたものか。そのどちらかということになりますが、僕には思うことがありました。
どこかのお屋敷に取り残されていたEを、お館様が連れ帰って来た。そんなふうに聞いていましたが、果たしてそれはどのような状況なのでしょう。Eはお屋敷の中にいたのか、外にいたのか。それ以前に、中だったしろ外だったにしろ、お屋敷と呼べるほどの敷地で、どうしてお館様はEがひとりだと判断できたのでしょうか。予めの約束のもと、お館様が件のお屋敷に向かったと考えるほうが自然ではないでしょうか。
そう思うと、Eが見知らぬナイフを持っていることも説明できる気がするのです。僕はとても悲しくなりました。
「なんで殺したんだ?」
質問を変えました。意識してかせずかはわかりませんが、バカであることがEの防衛だったことは明白です。その結果、地頭の良さが滲み出ていたとは言え、肝心なところで常人では考えられないほどに欠けているのです。お館様はそれさえも面白く思ったのでしょうから、これほど皮肉なこともありません。
その防壁を突き抜けて、Eはお館様にナイフを突きたてました。期待はしていませんでしたが、もし聞けるものなら理由を聞きたいと思いました。
今の立場がわからないのか、とはさすがに思いませんでしたが、Eはうとうとしていました。そもそも普通にお勤めをした後の夜でしたし、普通ではないショックや衝撃もありました。疲れていないはずがないのです。冷静になると余計に疲労が押し寄せてくるようで、僕もつられて目を閉じました。
「気持ち悪かったから」
はっとして目を開けました。Eはやっぱり僕の手を少しも握り返しませんでしたが、寝そうになるのを懸命に堪えているような様子で続けました。
「気持ち悪いと思ってた」
「俺を助けたのか?」
Eは否定とも肯定とも取れないような反応でした。正気とは言えない状態での咄嗟の行動だったので、自分でもよくわからないのかもしれません。
それならそれで、却って嬉しいように思いました。よくわからない中で、よくわからないなりにEは僕を気にしてくれたということです。やはりEは僕が守ってやらなければなりません。Eはもう眠ってしまったようです。静かな寝息が聞こえていました。
僕は身体の下に隠していたノートとペンを取り出しました。Eのためにも毛布を抜け出すのが一番いいとは思いますが、凍えてしまいそうなので許してもらうことにします。じっと見ていると、目が冴えてうっすらとペン先も紙面も暗闇に浮き出してくるようでした。
気持ち悪いと思ったということは、E自身も異常な境遇にいることに気付いていたということでもあります。正当防衛とは主張しがたい有様で殺してしまい、その死体を隠匿し、挙句の果てに被害者ぶり続けることに、僕はもう心折れかかっていました。こんな調子ではすぐにぼろが出てしまう、それでもEだけは助けなければと気丈ぶってみても、その道のプロの大人を欺き続ける自信も度胸もありません。やっぱり無理だと諦めかけていましたが、Eが僕を守ってくれたのなら、僕もEを守りきらねば年も背も負けた子供のままです。良い友人にはなれません。
だけど情けないことに、散々思い知らされてきた通り、僕は弱い人間なのです。身体は差し出せても、心までもを擲つことはできませんでした。
だから僕はこれを書いているのです。ああ、この文字という手段のなんと素晴らしいことでしょう。文字を知っているから、僕はここに気持ちを置いておけます。恥を忍んで、これを読む名前も知らない貴方にお願いすることができます。
名前すら知らない貴方へ。僕はトニー・J・J。作家、×××・×××に仕えていた使用人です。主人は僕の友人であり、同じ使用人であるEに殺されました。その遺体を僕が先導して海に捨てました。×××・×××の遺体が発見されて事件性を疑われた場合、僕は一切Eの名前を出さず、すべて自分ひとりの犯行であるか、もしくはEを脅して手伝わせたと供述します。遺体が発見されなかった場合、先述の通り、僕もEも主人の汚らわしい欲に玩ばれた哀れな使用人を演じ続けます。
真実を知っているのは、今これを読んでいる貴方だけです。だからどうか、バカなEを守るために、そのバカなEが守ってくれた僕がちゃんと友人でいられるように、この手記を焼き捨てていただけないでしょうか。
こんなものを書き残さなければよかったと言われればそれまでですが、僕は耐えられなかったのです。僕が言い聞かせているうちに、Eは、自分がお館様を手にかけたことなんて忘れてしまうでしょう。僕が生きるためになんでもしてきたのと同じように、Eもまた、心を生かすために極端な純情と愚鈍ぶりを形成してきたのです。そんなEを受け止め、ちゃんと守り抜くことが、僕にはできそうもない。だからここにすべてを告白し、自分の罪が世に晒される可能性を残した上で、秘匿のための最後の一手を顔も名前も知らない貴方に投じていただきたいのです。
もし貴方がこの勝手なお願いを聞いてくださるのなら、どうか直ちにこの手記を焼き尽くしていただけませんか。薄気味悪い小説を読んでしまった、手の込んだ悪戯だった、その程度の認識で構いません。見なかったことにして、この形ある実物を焼却してください。それで僕の思いはすべて達せられます。
僕はトニー・J・J。作家×××・×××に仕える使用人です。彼は若くして夢を叶えた今やベストセラー作家であり、築き上げた富と名声の下に、貧しい子どもや傾いた孤児院を救うべく活動している慈善家でもあります。僕もその恩義に与る一人です。しかし、その誰もが焦がれる素晴らしい人格の裏に、殺人すら厭わない異常な少年愛を秘めています。その罪の一端を、ここに告発いたします。
とある青年作家を告発する
どうもありがとうございました。
へき。