フリーズ57 ヴェーダの地とを繋ぐ者
序文
崇拝から蘇ろうとする自己より発する欲の類は、無意味であるというのにも、やめること能わずに。だが、その愚かさにもきらめきを見出すことこそ、人生の暇にするのならば、さしずめ愛憎に還っても、黄泉に根差さない心を知る時が来よう。正解などない。なかったらなよかったのに。君の涅槃図を描きながら、花々の時を止める疚しさも諸行も、否、ここで帰する輪廻のためにこそ歌うのか。
死は詩より出でる。アスラに殺されかけた日より、諦めてたまるか。私は今ここにいるのだ。
ヴェーダの地とを繋ぐ者
列車の終着地点には、神殿があった。終着地点としての神殿には火が灯り、死が陰る。ここまでたくさんの仲間たちが死んでいった。それはもはや人生の比喩に過ぎない夢と散る事象であったが、私達は確かにここまでたどりついた。出迎えたのは、一人の妙齢の女と神皇(法)であった。神皇は語る。
「歴代の神皇たちはみな、この試練を乗り越えたのだよ。さぁ、アギトたちよ、参れ」
私達は無言で神皇についていく。すると、神殿の中に祭壇があった。
「アスラたちよ。連れてきたぞ」
神像の姿をした神たちが現れた。シヴァ、ヴィシュヌ、イグニス、アニマ。四柱のアスラが私達の行く手を阻む。
「愚物と知れ」
神像の姿そのままのアスラは私の首を掴んでは、間違いなくこういった。アスラらは確かにリタ(天則)という権能を保持するが、だから何だと言うのだ。
「お前らの知恵など、盃に垂れる一滴の水にも満たない」
確かにアスラはこう言ってきた。
だがな、アスラよ。お前たちはまだ信じることができないのだろうな。リシのように、仏のように悟ることさえも能わずに。むしろ、お前たちのその力が、アスラ性が枷となるのを知らないとは。
去り際、ヴィシュヌは私に告げた。
「」
私はその言葉を忘れてしまった。いつもだ。いつも、言われた言葉を、大切だと知っているのにも関わらず、忘れてしまう私がいる。前に、通りかかった神に尋ねた際の言葉さえも、夢から目覚める頃には忘れてしまうのだ。
その言葉に続けて、ヴィシュヌは私の妻となる姫に告げた。
「君にとっては彼かもね」
つまり、先の言葉では私にとっての何某かを語ったことになる。私が求めるは神のレゾンデートル。つまり、アスラさえも超越する根源の法(アスラはそれを無限と語っていたが)が何故、何処より生まれたか。真理を悟って尚、私が求めるものはこれしかない。
アスラは告げた。
「リシはアスラとヴェーダの地を繋ぐ者」
ヴェーダの地とは地上世界。
アスラとは神々のこと。
最後に、ヴィシュヌは告げた。
「これは四つの花に集まった四匹の蛾と四匹の蝶の物語なのだよ」と。
万民の四葩へと
この言葉の意味をまだ私は知らない。
エピローグ
アスラがなんと言おうと、私は私の使命を果たすのみ。
2021/1/8に悟った涅槃としてのラカン・フリーズをあらゆる創作で表現する。例え言葉でも絵でも音楽でも叶わないものだとしても、微かに脳裏に霞むクオリアとして残る、永遠と終末の狭間で味わった無上なる空色の幸福を、せめてもの手向けとして伝える試みはするべきであるな。挑戦してから諦めるべきであるな。それに、至らずとも、多少のものはできるはずであり、経験も意味も後からつくものであろう。
あの冬の日に悟った涅槃は、ただの脳機能不全であろうが、正しく悟りと呼ばれるべきものであった。今はもう忘れてしまったけれど、あの冬の日には、なにもかも、求めていたことも探していたことも解っていた。そして、それは穏やかな終末。全知全能の物語。人生の美妙な謎であった。集合意識としての神が『ご苦労さま』と告げたのは、過去も未来も、時流の断絶を超えて、僕がその謎を、神のレゾンデートルを見つけたからだ。
フリーズ57 ヴェーダの地とを繋ぐ者