最愛の妻 Ⅳ
投稿済みの8話をⅣ部にまとめました。
階段 1
母は強い女だった。なにかひっかかる。この間から……
僕の消えた記憶……母が突然出て行った……前後の記憶が曖昧だ。父の暴力、夏生に負わせた傷、忘れたいから記憶が抜け落ちているのだろう。
4人に話を聞いた。
母の妹の芙美子おばさん、彼女は父の援助で大学に通っていた。父の会社は業績を上げていた。家にはデパートの外商が出入りし、父の妹たちもしょっちゅう来ていた。祖父の介護は母に押し付け、取り戻した贅沢な生活を謳歌していた。
周りは皆、祖母を大奥様、大奥様とおだてていた。若いと褒められると喜んでいた。新しい担当が若奥様、と間違えると気に入り言われるままに買ってあげていた。
「きれいな介護士さんですね…… きれいな方ですね……」
それくらいなら祖母は笑っていた。祖母は母に着物をあつらえた。バッグも宝石も。介護士に間違えられた三沢家の若奥様に。
祖母は祖父にねだった。大きなダイヤ……
「パパに買ってもらいなさいって、親子に見えるって、あなた……」
祖父は妻が若く見えるのが嬉しかったようだ。
しかし、誰もが欲しがったダイヤは母にプレゼントされた。祖父の会社を救った功労者だ。
「大きなダイヤは苦労のない華奢な手には似合わない……大きな手が合うんだ……」
母は欲しがりもしなかった。母は値切った。祖父は笑っていた。
「では加工しないでおこう。会社はいつどうなるかわからないからな……」
「大奥様はきれいな人だった。でもね、あの人は……自分が1番。自分の娘たちもライバル。皆、扱いがうまかった。リア王ね。愛しています、おかあさま……大変なときには近寄りもしなかったくせに。姉は苦手だから。媚びるのは」
デパートの男が母を褒めた。褒め過ぎて感嘆したものは次からは担当を外された。祖母は母に嫉妬していた?
祖父が亡くなると母はふさぎこんだ。空を見上げてため息をついた。
「田舎に帰りたい」
ママはひとりで帰ってしまう。僕を置いて。ママは僕が嫌いなんだ……
僕は祖母に育てられた。母は祖父の介護に忙しかった。祖母は僕を甘やかした。僕は泣き虫で弱かった。祖母はなんでも買ってくれた。ブランドの子供服、高価なおもちゃ、有名店のおやつ。
「治ちゃんちなんて、いつもふかし芋だよ」
母の目が怒った。あの目は生涯忘れない。手が尻を打った。祖母が怒ったが母の剣幕はすごかった。
「忘れたんですか? 会社なんて、いつどうなるかわからない」
祖母は黙ったがあとで僕に聞いた。
「ママとどっちが好き?」
ママだよ。ママだ。
僕は走って転んで泣いた。母は助け起こしはしなかった。いつもそうだ。僕は自分で起き上がった。褒めてもらいたかったのに、母はもう僕を見なかった。怒りもない。
泣かないよ。ママ、もう泣かない。強くなるから、強くなるから置いていかないで……
「それにね……」
芙美子おばさんと島崎が付き合うようになると祖母は不機嫌になった……
「クリスティにあるでしょ? 姪の婚約者に恋慕して嫉妬する……」
島崎に夢中だったのは祖母だった? まさか? 60歳の祖母が?
夏生の母親に聞いた。当時のことを。もう話してもいいわね…… 祖母は気に入っていた。島崎を。彼は夏生一家が住むアパートの隣の部屋に越してきた。人懐こそうな小学校の音楽の教師。夏生の母親もよく差し入れした。夏生にはピアノを教えてくれた。
島崎は家賃を払いに来た。祖母が応対していた。祖母もよく面倒を見ていた。食べきれない中元の菓子や果物を渡していた。しだいに食事に招きピアノの演奏をしてもらうようになった。若返っていた。美容院に行き、化粧が濃くなった。年甲斐もなく……と父にからかわれていた。母は祖母の気持ちを知り呆れていた。祖父が亡くなったばかりだった。
音楽好きの母が島崎には無関心だった。ほとんどそばにはいなかった。年甲斐もなく恋をしている祖母の邪魔はしなかった……島崎を愛したのは祖母だった?
思い出せ……祖母は毎朝おにぎりやサンドイッチを作り、学校へ行く島崎に門のところで待ち渡していた。朝食を取る時間のない男に。60歳の祖母は年よりずっと若く見えた。しかし、島崎は芙美子おばさんではなく母を慕っていた。祖母は気づいた。嫉妬? 息子の嫁に? 祖父の介護をやり遂げた母に嫉妬した? 祖父の下の世話までやらせておきながら? 祖父は母を自分の娘たちより信頼し愛した。大きなダイヤを母に残した。
離婚させたのは祖母だ。なにがあったのだ? 母と祖母と島崎の間に?
島崎は祖母の気持ちが重荷になり引っ越していった。母への思慕を断ち切るためにも。病気になり、夏生の母親に手紙を書いた。母のことが心配だったのだろう。様子が知りたかった。祖母と気まずくなってしまったのでは? と。夏生母娘は見舞いに……夏生が僕に話し、僕は母と祖母に話した。
「和ちゃん、死んじゃうんだ……」
「居ても立ってもいられなくなり看病しにいったのは大奥様よ。毎日のようにタクシー呼んで」
連日見舞いに行き、島崎に、もう来ないでくれと言われたら? 祖母は母を憎んだろうか?
思い出せ。よく言い争いをしていた。いや、母は一方的になじられていた。息子を奪い、主人にも色目を使っていたと……中卒の田舎娘……
母はためいきをついた。
誰もがありえないことだと言った。夏生も夏生の母親も、芙美子おばさんも大先生も……なにより父が……ありえないことだ。母が不倫?
しかし、春樹がいる。間違いではない。
祖母はグラスを投げつけた。母は顔色ひとつ変えなかった。祖母は余計興奮した。汚い言葉でののしった。
「英輔をたぶらかした女」
僕を見ると母はにっこり笑った。
「ちょっと喧嘩しただけ。仲がいい証拠よ」
「幸子はあの男と……あのピアノを弾く男と……」
誤解だ。祖母の話を父も一笑に付したはずだ。しかし不安はあった。余命宣告された男……母は弱いものを放ってはおけない……
祖母は何度も言った。
「幸子はあの男と……」
母は聞き流していた。
治に確かめた。
「覚えてないのか? おまえのトラウマだろ?」
母が階段から落ちた。犬が吠えた。病気で弱っていた犬が必死に吠えた。階段の上に祖母がいた。治は夏生の家に走って行き、おばさんが救急車を呼んだ。母は足を滑らせたと、自分で落ちたと説明した。
母は妊娠していた……
ずっと欲しがっていたのにできなかった……
母は身体中打って、出血していた。
母の子が死んだ。
「天罰が当たったんだ。あの男の子どもよ。英輔は裏切られた。離婚しなさい」
父が駆けつけてくると祖母は半狂乱だった。天罰だ、天罰だ、と。
父は調べたのだろう。島崎が入院している病院に三沢幸子は連日通っていた。面会表に祖母は母の名を書いたのだ。連日見舞いに訪れた女は若い格好をしスタイルも良かった。祖母はサングラスをしていた。ブランド物のサングラスに帽子を自慢していた。
妊娠したことは父には言っていなかった。祖母に知られたらどうなるか?
階段 2
母の辛抱と献身は終わった。父が疑ったのだ。母の怒りの目に父はひるんだ。すぐ謝ったのか? 母は聖女ではない。優しいだけの女ではない。すがりつくような女ではない。母は信じてくれとは言わなかった。否定も弁解もしなかった。母は家に戻ると荷物をまとめ僕の手を引っ張った。祖母が叫んだ。
「英幸は置いていきなさい」
「選びなさい。ママかおばあちゃんか」
僕は即答できなかった。母の手は離れた。ひどい母親だ。普通の精神状態ではなかったとはいえ…… とっさに選べず母は僕の手を離した。
ひどいよ。子供だったんだ。しかたないじゃないか……
父が追いかけた。父は無理やり車に乗せた。ふたりは数日別荘で過ごした。別荘でなにがあったのだろうか? 安静にしていなければならないときに。母は全身傷だらけで待望の子を失い、夫には不貞を疑われた。母は否定しなかった。それだけであの弱い男は……
パパ、バカだよ。疑うなんて。ママは強情過ぎる。
祖母が管理人に電話をした。母は衰弱していたが父を許さなかった。2度とこの家には戻らなかった。
祖母は後悔しただろう。この家は崩壊した。
あなたの息子は酒に逃げ、孫に暴力を振るい、あなたのかわいがっていた犬を投げつけ、あなたを突き飛ばしたのだ。僕はかばった。あなたを。僕はあなたに懐いていた。あなたはかわいがってくれた。英輔そっくりだと。あなたが言えばそうなのだ。誰も母親似だとは言わなかった。
あなたは僕に謝った。心の病気だと。あれは父のことではなかったのか? 自分のことを謝ったのか? 嫉妬と妄想……
天罰……違う。天罰なんかじゃない。
「三沢君、なにやってるの? やめなさいよ」
靖を階段から突き落とした。靖は受け身が取れていた。
祖母は暴力を振るった……母は階段から突き落とされた……? 妊娠していた母が階段から落ちるだろうか? 母は祖母をかばった?
母は本当のことを言ったのだろうか? 父に、あなたの母親におなかの子を殺された、と。いや、母は言うまい。父を絶望させるようなことは決して言わなかった。その代わりに言ったのだろう。もっと打ちのめすことを。いや母は嘘はつかない。
記憶はつぎつぎに蘇る。
「やっぱり大学出た人は違うわね」
母は父に話していた。
「こんな近くに住んでて知らなかったの? 亜紀さんを?」
母は亜紀を知っていた。毎年犬に注射を受けさせに行っていた。犬の具合が悪くなれば亜紀にみせにいった。
祖母が飼っていたヨークシャーテリア、祖母は長い毛をカットさせなかった。家が大変なときに、母は祖母のために犬の手入れまでしていた。もう余裕が出てきたのだ。毎週シャンプーに連れて行く。名前は桃太郎。祖父が付けた。名前に似合わず桃太郎は長い毛を手入れされ、金をかけられた。
「あなたはしみったれすぎるわ」
母のおかげで会社は持ち直したのに、祖母は贅沢だった。その犬が脳腫瘍になった。嘔吐しソファーにも飛び乗れなくなった。
母は犬を大先生の動物病院に連れていった。遠くの病院まで検査に付き添ってくれたのが娘の亜紀だった。ふたりは同じ年だった。亜紀は父を知っていた。町内では誰もが憧れた存在だった。桃太郎は余命3ヶ月と診断されたが9ヶ月生きた。
大先生はもうすぐ80歳になるが当時のことは覚えていた。母から動物病院に電話がきた。頼まれた亜紀は様子を見にきた。毎週診察し薬を出していた。大きな邸の噂、醜聞。亜紀は桃太郎の往診に来た。
「薬飲ませている?」
僕はうなずいた。もう、桃太郎を守れるのは僕だけだ。
亜紀は僕の目の上のアザに気づいた。僕は自分で転んだ、と父を庇った。亜紀にはお見通しだったろうが。亜紀は祖母と話していた。
この家に亜紀が出入りするようになった。亜紀は僕の心配だけでなく父と祖母の心配もした。僕はしばらく橘家で暮らした。亜紀はこの家に必要な人間になった。
母は誰になにを言われようが、感情をなくす訓練はできていた。母は潔白だった。しかし、祖母の嫉妬はひどくなっていった。自分がいれば余計に……父に本当のことは言えない。母親が若い男に夢中になり、嫁に嫉妬しているなどとは言えなかった。しかし、母の誤算だ。父は弱くて情けない男だった。
僕が夏生にしたことは母には伝えなかったのだろう。傷心の母のために。それがよかったのか? 伝えていたら傷心の母は飛んできてくれただろう。僕のために。
父は橘家に謝りに行った。息子が夏生を傷つけた晩に。土下座した。全部自分が悪いのだと。夏生は自分でやったと言い張った。
「痛くないもん、こんな怪我……えーちゃんじゃないよ。自分で転んだの……」
けなげな娘の言葉に大人たちは涙した。大人たちは僕のことを心配した。僕のそばにはいつも夏生がいた。大きな怪我を負わせたのに夏生は僕を慕った。ふさぎ込む僕の心配をして笑わせた。両親は慰謝料は受け取らなかった。その代わり、アパートを壊し家を建てるとき、破格の値段で売ってもらったと……内装も他の棟よりずっといいのよ……
祖母は母がいなくなると穏やかな祖母に戻った。家政婦を雇い家の中を仕切った。
自分が1番の祖母の、1番大事な息子を奪っていったのは母だった。祖父は母を褒め祖母を非難した。あのダイヤを祖母にではなく母に与えた。皆、母を褒めた。よくできた嫁だと。容姿も褒めた。化粧しなくても飾らなくてもきれいな人だと。叔母たちも母に媚びた。年下の中卒の見下していた母に。母は会社の功労者で株主だ。
島崎のことが決定的だった。祖母の最後の恋を母は奪った。息子を奪っていった女がまた……祖母は母が憎くてたまらなかった。
亜紀は嫁いでも仕事を続けた。祖母に逆らわず祖母に従順に。亜紀の肌は日に焼けていた。色白ではない。それだけで祖母は安心した。
祖母は明け方、救急車で運ばれた。桃太郎と同じ病気だった。親戚が皆見守る中で祖母は息子を捜した。唯一自分より大事な息子……父はそばにいたのに息子を捜した。亜紀が僕の手を引っ張りあなたの手を握らせた。あなたは僕を父と間違えた。母そっくりの顔を……そして逝った。いや、あなたが捜したのは母だったのか? 謝ろうとしたのではないのか? あなたは母にしたことを覚えていたのか、忘れたのか?
亡くなったとき、父は謝っていた。寿命を縮めたのは自分のせいだと。
故郷の海が母を癒した。母は父が来るのを待っていたのではないか? 再びすべてを捨てて戻ってくるのを待っていた。何年も。何10年も。いや、思い込みだ。いや、そうであって欲しい……
亜紀は母が戻ってくることを望んだ。英輔さんに迎えに行かせようか? おかあさんは……
祖母は病気だったのではないか? 桃太郎と同じ……嫉妬と妄想であれほど人格が変わるだろうか?
亜紀はすぐに気がついた。母は気が付かなかった。桃太郎をみていながら。そもそも原因は母だったのでは? すべてを母に奪われていくストレス……
階段 3
母は大変なときに逃げ出した。強い母が逃げ出した。祖母の病気を見逃した。初期症状はあったはずだ。頭痛に嘔吐。辛かったはずだ。それを見逃しあの悲劇が起きるまで気が付かなかった。それでもわからなかった。自分を責めただろう。自分が原因なのに……
今さら祖母のそばにはいられない。真実を知れば父は苦しむだろう。この家に祖母とは暮らせない。祖母から息子を再び奪うことはできなかった。かわいがっている孫も……亜紀の気持ちはわかっていた。なぜ三沢家のために親身になり、尽くしてくれるのか。母にはわかっていたのだ。
この家には戻れない。
母が愛したのは故郷だけ。母は金持ちが嫌いだった。金に媚びなかった。金に媚びるのを嫌っていた。
僕も父もこの家も、もう母が愛する価値はなくなったのか?
待っていた男はついに来なかった。代わりに島崎が来た。自分が原因で離婚させられた女に会いに。死ぬ前にもう1度会いたかったのだろう。母は自分をずっと慕っている、死にいく男を放っておけなかった……
母にも好意はあったのだろう。芙美子おばさんはすでに結婚していた。音楽好きなふたりだ。愛はひとつではない。
「島崎と暮らしているの。元気よ。愛は奇跡を生むのね。島崎の子供が欲しい。愛の結晶」
そんなようなことを母は亜紀に言ったのではないか? 亜紀は父と結婚した。
母の汚名を返上してやりたい。しかし、母は望まないだろう。あの弱い元夫は耐えられない……母は父の子を祖母に殺されたのだ。
さすがの母も辛かったろう……
「かあさんか?」
パパは疑っていた? 僕に聞いた。階段の上で。
見ていたと思っているのか? 祖母は階段の上にいた。腰を痛めていたのに。見ていたのは桃太郎だけだった。
疑い、確信したときには彩がいた。春樹もいた……
パパとママの子はもうひとりいたんだよ。僕たちが強かったら……辛かっただろうね、パパ。だから望を育てたのか? ママの助けた娘を。
母が愛したのは、なにもかも捨てた父、残された命のすべてで母を愛した島崎……
母は田舎に帰るとずっと海を見ていた。東京に戻る日はため息をついた。母が愛したのは故郷の海だけ、その海が母を奪った。
僕を残して……大丈夫だったの? 心配じゃなかったの?
母は僕より幼い頃に父親を亡くした。
「弱い子は嫌いです」
「弱くて情けない男を好きな女もいるのよ……」
今となってはわからない。都合のいい思い込みだ。僕の願望だ。僕は母に捨てられたのではないと思いたい。なにが真実でなにが嘘なのか? 春樹がいる。愛の結晶。しかし……裏切られたのは母のほうだ。父は再婚した。僕は亜紀に懐いた。捨てられたのはママのほうだ。僕はママを憎み亜紀を慕った。
亡霊が庭をさまよっている。窓を叩く。
「Cruel Heathcliff」残酷なヒースクリフ
ママが怒る。亜紀をおかあさんと呼ぶと……
ママ、パパは愛してたよ。狂うほどママを愛していた。僕のせいだ。僕のために再婚したんだ。僕が弱かったから。治だったら、パパの力になってママを迎えに行ってた……
さすがの亜紀もこの真実には気づかなかった。いや、ドクター亜紀は気づいただろうか? 不倫が祖母の妄想だと。死んだのが父の子だと。
パパのノートを返したときだ。
「……どうして、……愛は永遠じゃないの? ひとつじゃダメなんだ? ひどいよ。ママは。こんなに愛したパパを裏切るなんて」
「……裏切ったのはパパのほうかも。再婚したパパのほうかも……」
「そんな……バカなこと」
「なんとなく、そう思うことがある……あなたも?」
「絶対違う」
「あの人が死んだときホッとした。あの人は島崎が死ぬと待っていたのよ。パパと暮らしてた故郷の部屋で。パパが帰るのを待っていた。いつパパが私と彩を捨てて、出ていくんじゃないかとびくびくしてた。会社は三島に譲って、なにもかも捨てて……あなたは渡さないわよ。あなたは私が育てた私の息子……
パパが弱いからダメなのよ。離婚なんかしないで待っていれば幸子さんは帰ってきた。私と再婚なんかしなければ、今この家にいるのはあなたのママだったのよ」
亜紀はずっと罪悪感を感じている。自分さえいなかったら……と。
亜紀、僕はあなたの息子だよ。
不思議だ。愛し合っていたと思いたい。母は島崎を愛した……春樹は愛の結晶……そう思いたい……
治、治は気が付いていた? 祖母の嫉妬、島崎の思慕……母は褒めていた。治は人の気持ちがわかる子だと。
僕は大人たちにおだてられていた。坊ちゃん、坊ちゃんと。若い女が僕の機嫌を取った。祖母に高価な宝石を買わせるために。祖母は僕の言うことを聞いた。母は宝石に詳しかった。原価の何倍もの金額で売りつけているのを知っていた。支払いは母がした。たぶん母の金で。値切って正当な価格で祖母のために支払ったのだろう。僕は母の大嫌いな人種になっていた。
僕は治にも尊大になっていた。あいつは親友だった。
「友達なくすぞ。ママが見てるぞ。ママに捨てられるぞ」
治が教えた。恥ずかしかった。
ママ、僕は恥ずかしさのために死にそうです。ママ、ごめんなさい。治みたいになるから、治みたいにひとの気持ちがわかる子に……
「治がママの子ならよかった? 僕も人の気持ちがわかる子になるよ」
ママは両手を広げた。
「弟と妹どっちが欲しい?」
「弟だよ。妹は夏生がいるから」
僕のせいだ。僕が祖母に喋った。
「僕、おにいちゃんになるんだ」
すべての不幸は僕が原因だった。母が階段から落ちたのはすぐあとだ。
風が窓を叩いた。絶望か希望か?
「弱い子は嫌いです」
強くなるよ。強くなりたいけど……
窓が震えている。
「英幸、ごめんね……」
春樹が聞いた最後の言葉が僕の耳にも聞こえた。
春樹と望の兄貴になるよ。ママ、もうすぐ孫が生まれるんだよ。
おばあちゃん、あなたは病気だった。そう思うよ。僕には優しかった。僕を愛してくれたね。あなただけだった。僕はパパにそっくりだと……彩のいい兄貴になるからね。あなたのひ孫が生まれます。
早夕里、君との約束は守れそうだ。
社長と私 1
妻にせがまれてこの地へ来た。何度も断り誤魔化し、ついに誤魔化しきれなくなった。何年も避けていた思い出の地だ。
瑤子……結納までして別れを切り出してきた。好きな男がいるからと。
妻は寝ていた。まだ早い。ひとり散歩する。思い出の地だ。瑤子と散歩した。体は許したが心は最後まで許さなかった。愛しい悪魔のようなかわいい女、瑤子……
15年以上経っているのに幻想か? 現れてほしいのか? あれほど打ちのめされながら、なお会いたいのか?
幻想ではなかった。瑤子が走ってきた。向こうから。変わらず完璧なプロポーション、早朝のランニングはノーメイクだろう。なのに変わらず美しかった。
「瑤子」
女は立ち止まった。いきなり止まり苦しくなったようだ。深呼吸し息を整えた。
「しばらく。元気だった? 仕事で?」
「いや、妻と」
「……よかった」
「よかったか。君は……妖怪だな。歳を取らない」
立ち話をした。不思議に穏やかだった。今の自分が幸せだからだろうか? 殺したいほど愛した女だった。
「ひとりよ。まだ。お店を持つの。雇われ店長」
ブティックを持つのが夢だった。妻と歳は変わらない。
瑤子の携帯が鳴った。電話に出た声が震える。顔が真っ青になっていく。
「母が畑で倒れた」
瑤子は走り出した。追いかける。また電話が鳴り病院に運ばれたと。タクシーは電話してもつながらない。
私はすぐ近くの滞在しているホテルに寄り、車で瑤子を病院まで送った。瑤子は小銭しか持っていなかった。妻から電話がきた。散歩の途中で具合が悪くなった人を病院に連れて行く……と言い訳をした。
母親は亡くなっていた。瑤子は突然のことに呆然としていた。
私は離れられなかった。瑤子は父親を3年前に亡くしていた。親戚が集まってくる。妻には適当に話し、ひとりで観光してもらった。
社長に電話した。通勤前だからすぐに出てくれた。私がこの地へ来ていることは言ってある。15年以上経っているのだ。妻と旅行すると話したとき、社長は奥さん孝行しろよ、とだけ言った。
瑤子の母親は亜紀さんの叔母だ。瑤子に偶然会った……母親の突然の死を社長は信じただろう。なるべく早く行く……君は……お願いします……私は電話を切った。君は奥さんのところへ戻れ、と言われる前に。
高校を卒業して就職した。当時は人手不足で先代の社長はわざわざ地方の高校まで求人に来た。小さな工場だが寮もある。
私はすぐに決めた。東京に出て働きたかった。真面目だけが取り柄の私を先代の社長は認めてくれた。社長の1人息子は将来を約束されていたが、結婚を反対され家を出た。息子を失くした社長は私をかわいがってくれた。
忙しかった。生産が間に合わないと休みを返上した。給料は上がりボーナスは大手企業の大卒よりも多かった。頑張った分だけ出してくれた。社長が好きだった。尊敬していた。
社長夫人はよく差し入れをしにきた。母より10は年上の夫人が驚くほど若くてきれいだった。私は初めて会った日に失態をさらした。三沢です、と言われ、娘さん? と聞いてしまったのだ。何度も謝ったが夫人は喜んでいた。世辞など言えない、言葉遣いもひどい若造の私は気に入られた。
寮で不自由だろうと惣菜を差し入れてくれたり、服まで買ってくれた。成人式にはスーツを新調してくれた。ひとり息子に出ていかれ寂しかったのだろう。
チェーン店に行くと、きれいな女性が採寸してくれた。顔に出してはいけない……夫人の前で……
「懐に入ればかわいがってくれるが、敵に回したら怖いよ」
先輩に言われていた。特に女子の事務員は美人はいないだろ?
さすがに、夫人のがきれいです……とは言えなかった。ふたりは楽しそうに話していた。
「あの子、頑張っているのね」
あの子?
社長が脳梗塞で倒れると途端に会社は傾いた。ワンマン経営、皆次々に離れていったが私は残った。貯金もあるし恩もある……
息子が戻ってきた。私よりひとまわり上の、女房の故郷で暮らしていたというひとり息子は、実にスーツが似合っていた。会社を見捨てず残っていた者は皆息子を知っていた。皆戻ってきたのを喜んでいた。余程人望があったのだろう。彼は誰よりも早く出社し経理の不正をすぐに見抜いた。私に給料明細と源泉徴収表を探させるとざっと見て怒りだした。実際よりもらっていることになっていた。3年間私の給料は誤魔化されていた。私が見ていたのは手取り金額だけだった。
「俺の女房だって見抜くぞ」
社長に信頼されていた甥の経理部長は帳簿を誤魔化し、家と別荘、高級車、小型の船まで買っていた。訴えるというのを嫁が止めたという。社長夫人ががショックを受けるから。夫人は介護疲れで寝込んでいた。
「おふくろが目をかけかわいがっていた甥だ」
甥は謝り全てを売って会社に残った。
「オヤジは次期社長にするつもりだった。バカなやつ。俺? 俺は田舎が気に入っているんだ」
息子に肩書きはない。英輔さんと呼ぶ。
英輔さんは夜遅くなっても家に帰った。仮眠室もあるのに。
「女房の顔が見たいから……」
息子の顔じゃないのか?
「オヤジを風呂に入れなきゃな。女房に任せっきりで罰が当たる」
帰っても大変なのだ。介護士や家政婦を雇う余裕はない。
寮を追い出された。
「悪いが売る……当面うちに来い。食事付きだ。女房のメシはうまいぞ」
女房、女房……親も家も会社も捨てさせたのはどんな女房なのだ?
何度か招かれた豪邸。毎年正月には招かれていた。贅沢な食事、高価な酒、上品な社長夫人、外国映画に出てくるような小犬、調度品、家具、夢のような生活をしていた……英輔さんは骨董品を売り、夫人の宝石を売り自分の高級車を売った。
「介護手伝ってくれ。女房が親父とおふくろの面倒をみてる。妹? 金をかけた妹たちは知らん顔さ。借金の相続なんてとんでもないって」
初めてあのひとを見た。日曜日の午前中に引っ越した。英輔さんとふたりで荷物を運んだ。あのひとは庭で社長とバラの手入れをしていた。
化粧品会社の社長の息子の嫁が化粧もしていなかった。車椅子の社長の姿を見て涙が出た。社長の目からも涙がこぼれた。あのひとがさりげなく拭いた。手に血がついていた。バラのトゲで傷つけたようだ。社長が怒った。言葉にはならないが。手袋面倒くさい……あのひとが言い訳を……英輔さんが手を取り舐めようとした。ふたりだけならそうしていただろう。
「おとうさん、紹介して。自慢の嫁だって。美しいバラのような女だって……ヒヒッ」
文字にすればヒヒッとだろうか。下品でも上品でもなく、形容しがたい魅力的な微笑み……この笑顔に悩殺されたんだな……
社長がなにか言った。
「雑種? そうよ。私は強い雑種」
「原種って言ったんじゃないですか?」
「原種だよ。飾らなくてもきれいで強い。原種のままでいろ。三島君、惚れるなよ、トゲがあるからな」
と英輔さんが冗談を言った。
社長と私 2
夫人は介護に疲れ驚くほど老けていた。
あのひとは結婚を反対した夫の両親の面倒をみていた。父親は嫁に従順になっていた。最初は大変だったらしいが……母親は頼りきり謝ってばかりいた。幼い息子の英幸君は母親似で愛らしかった。夫婦の愛の結晶は私をおじちゃんと呼んだ。おにいちゃんだよ、おにいちゃん……
あのひとは父親の介護に母親の世話、英幸君の世話、小犬の世話、広い家のことをすべてひとりでやっていた。食事は質素だった。金がないのだ。魚のアラなんて初めて食べた。英幸君に、食べ方がきたなーい、と叱られた。白米がうまかった。居候してからは下痢をしなくなった。英輔さんはあの人に仕事の相談もした。あのひとの助言で罪を免れた経理部長は、借入返済の期限を延ばしてもらってきた。
あのひとは計算が早い。確かにあのひとなら見抜いただろう。数字に弱い私はふたりの話についていけなかった。カタカナの言葉がわからなかった。
あのひとはクイズが得意だ。英輔さんよりも博学だ。記憶力がすごい。私は口を開けば無知を晒す。
社長と夫人は就寝前に、レコードを聴く。社長の不明瞭な言葉でのリクエストをあのひとは理解し、レコードをかける。曲が始まると腕を上げ、指揮者の真似。振り下ろすと曲は始まる。老夫妻は笑う。本当の娘のようだ。あのひとは洗い物をしに行く。英輔さんが手伝う。エルガーのチェロ協奏曲……
無知な私は高尚なクラシック音楽に眠気を誘われソファで眠った。体力も気力もあのひとにかなわない。英幸君が毛布をかけてくれる。せめて、この子の面倒くらいみなきゃならないのに…… ああ、うるさい……
「あなたには雑音ね」
あのひとの声……英幸君が起こす。おにいちゃん、お風呂入りなさい、歯磨きしなさい……
面倒を見られたのは私の方だった。ふたりで風呂に入った。体を洗ってやる。英幸君は私の背中を流してくれた。おにいちゃん、おにいちゃん、と懐いてくれた。湯船に浸かり歌を歌う。
パパとふたりでひろったー たいせつな
このみーにぎりしめー
「ママの歌なんだ。ママのパパは死んじゃったんだって。ボクくらいのときに……ここが悪かったんだって」
英幸君は心臓を押さえた。
ぼうやー つよくいきるんだー ひろいこのせかいー おまえのものー
「パパは死なないよね? パパが死んだらボク……」
「大丈夫だよ。おにいちゃんがいるから……おにいちゃんが守るから。英幸君と……ママを」
ときどきはシャンソンが流れた。ミラボー橋。老夫婦の思い出の歌らしい。英幸君がレコードに合わせて語る。意味もわからないだろうに……社長もあのひとも加わり合わせる。
ミラボー橋の下をセーヌ河が流れ
われらの恋が流れる
私は思い出す 悩みのあとには
楽しみが 来るという
日が暮れて 鐘が鳴り
月日は流れ 私は残る
手に手を取り 顔と顔を向け合おう
こうしているとわれらの腕の橋の下を
疲れた無窮の時が流れる
日が暮れて 鐘が鳴り
月日は流れ 私は残る
(ギョーム アポリネール)
初めてふたりが喧嘩するのを見た。
「こんなときだから欲しいの……欲しい。欲しい。欲しい」
なんの話だ?
「もう一生やらないっ!」
あのひとが怒って私の横を走っていった。怒った目を初めて見た。英輔さんはため息をついた。
「こんなときに子供が欲しいって……」
仲直りしただろうか? ふたりは下で寝ている。父親にいつ呼ばれるかわからないから。私は眠れずキッチンで水を飲んだ。ふたりの部屋から声が聞こえた。
「思い出すな……田舎の海」
「田舎に帰りたい」
「自分たちの生殖器は、銀河系宇宙と性交するためにそなわっているのだ」
「数本が力強く濃くなって、白い肌の奥深く……」
難しくて私にはわからなかった。
中断され子供の声。
「ずるいよママ。僕の番。パパ、僕も抱っこ。ぎゅーして…………
パパ……僕もお馬さん……えいっ!」
どんな体位で? 笑い声。あのひとのおおらかな笑い声、英輔さんの笑い声。子守唄。英輔さんの歌を初めて聞いた。社長もうまかったが……子守唄に聞き惚れた。
「パパ好き、ママ好き、おじいちゃんもおばあちゃんも、おにいちゃんも大好き」
すぐに眠ったのだろう。
銀河系宇宙との性交……続きが始まる前に私は離れた。
悲惨な空気はあの家にはなかった。会社は倒産寸前。父親は半身不随、母親は体を壊し精神も参っている。親戚は寄り付かなくなっていた。
「皆で田舎で暮らせばいいわ。なんとかなるわよ」
いよいよピアノも売られていく。今まで残っていたのが不思議だった。あのひとは自分が買う、と言い出した。私は通帳を出した。車を買うために貯めた金でピアノくらいは守れるだろう。あのひとのために……あのひとは私の気持ちに感謝してピアノを弾いた。クラシックに精通しているあのひとはどんな素敵な曲を弾くのだろう? あの人が弾いたのは……
猫踏んじゃった……
あのひとはヒヒッと笑った。社長も笑い出した。独学で練習していた。楽譜は読める。英幸君が歌う。
猫ひっかいた……
英輔さんも歌う。
猫、ごめんなさい……
若い母親は笑い転げた。つられて息子も笑い転げた。
あのひとは絶望しない。笑いが溢れていた。
「いよいよ家も手放すか……ギブアップだ。ピアノはまた買ってやる。絶対買ってやる。英幸に習わせておまえの好きなテンペストを弾いてもらおう」
あのひとは通帳を出した。
「おまえを露頭に迷わせる訳にはいかない。皆でおまえの田舎に帰ろう。俺はまたスーツを売る。任せておけ。売り上げはトップだから。帰ろう。田舎に。おまえの好きな田舎の海のそばで皆で暮らそう」
あのひとは通帳を開いた。本人名義のもの。
「おまえの貯金くらいじゃどうにもならないんだ」
私たちは数字を見た。言葉が出ない。覗いた数字は桁を間違えたかと思った。通帳の残高は私の金額の10倍。
「どうしてこんなに? 俺が渡した金を全部積んでいたのか?」
あの人は就職してからずっと節約して貯金していた。結婚してからは自分の配達の収入だけでやりくりしていた。夫が渡した生活費は手をつけずに貯めていた。
会社は持ち直した。あのひとの金で。私は部屋を借り三沢邸を出た。よかった。もう少しであのひとを好きになっているところだった。
英輔さんは社長になった。会社は業績を上げていった。私を昇進させた。学歴コンプレックスを一笑に付した。
「女房は中卒だ。俺よりすごい女だ。俺の片腕だ」
社長は私に苦手なことをやらせた。営業、会計、発表、スピーチ。いろいろな講習を受けさせた。高学歴の者ばかりが参加する……学歴で悩むとあのひとのことを思った。学歴など、口にしなければわからない者たちが口に出して私を見下した。
社長と私 3
先代の社長が危篤の時、病院へ行くと夫人と娘たちは泣いていた。あのひとは涙も見せず亡くなるとテキパキと後処理をした。しかし、私にはわかった。1番悲しんでいたのはあのひとだ。
会社は順調だった。家庭も順風満帆……急用ができ久々に三沢邸を訪れた。夫婦は庭の椅子に座って……キスをしていた。美男美女。映画のようだった。息子が父親の膝に乗り、真似をしてあのひとにキスをした。父親は息子の顔にキスをして舐めた。息子が嫌がると余計にペロペロ舐めた。幸せそうだった。社長が書類を取りに行った。
あのひとの肌は光っていた。あのひとはおなかをさわった。ああ、銀河系宇宙との性交……待望の子を授かったのだな。なぜかピンときた。きっと女の子だ。あの人のように強い……
「夫と会う前は、卑屈で嫌な女だったのよ。笑わない女だった。恨んでた。自分の境遇、学歴。愛想笑いしかできなかった」
「まさか」
「この家の人たちも皆嫌いだった。夫は太陽なの。夫がいたから自分を好きになることができた。結婚を反対されて当然だった……ひどいことをしたわ」
私は常々聞きたいと思っていたことを口に出した。
「その手の傷跡は社長と同じですね」
あのひとは右の掌をみた。
「夫はバカなのよ。怒りに任せて外のゴミ袋を叩いたの。ガラスが入ってた。私は食肉工場で働いてたときに、肉の中に包丁がまぎれてた。つかんだの。袋詰めしてて……」
どちらもゾッとして言葉が出ない。
「美人だから嫉妬されてた。慣れてるけどね。ヒヒッ」
名状しがたいその微笑みの輝き……私もいろいろ読んだのだ。
あのひとはまだ何か言いたそうだったが社長が戻った。
幸せな家族のはずだった。それが私があのひとを見た最後になった。
社長は数日休むと別人のようになっていた。魂が抜けた。あのひとは社長のすべてだった。あのひとが不倫? ありえないことだ。子を授かったのではなかったのか?
なぜ? 1番幸せなときなのに。あのひとは会社の救世主だ。贅沢な生活でもなんだってできただろう。親戚もあのひとを敬う。いや、あのひとはそんなものは嫌いだった。あのひとが好きなのは苦労、逆境……あのひとは息子を置いて、余命宣告された男の元へ行った……いや、ありえない。信じない。
社長は飲んで荒れた。私は毎日家まで送っていった。どうしてあんな男に……あの社長が未練がましく女々しかった。
「あいつが死ねば幸子は戻ってくる。死にかけてる男に同情しただけなんだ。おふくろがあんな男を家に入れるから……」
男はかつて私が住んでいた会社の寮に越してきた。売られた寮は買い戻しアパートになっていた。社長の母親は音楽教師の独身の若い男に興味を持った。クラシック好きな彼女は男を気に入り、英幸君のピアノのレッスンを頼んだ。男はあのひとの妹とも親しくなった。社長は私と一緒にさせたかったらしいが……
男はあのひとの妹と結婚すると思っていた。しかし破局。男はまた越して行った。数ヶ月後アパートの住人の娘が英幸君に話した。かずちゃん、死んじゃうんだって……かわいそう……それを、英幸君は母親に話した……
やがて社長は立ち直り再婚した。英幸君のためだろう。社長は乗り越えた。後妻の亜紀さんも魅力的な人だった。それよりも魅力的なのは内輪の宴で出会った彼女の従妹。社長は瑤子と私の仲を取り持った。ゴルフを教えコースに連れ出した。上手な夫妻と下手な私と瑤子。カートに乗らずに必死に走っていた瑤子……スコアを私が瞬時に計算すると、すごいっ、と大卒の女が褒めた。そんなことが嬉しかった……社長とあのひとと会っていなければ、いまだに私は計算も苦手だった。休みのたびに私は三沢邸で瑤子に会った。英幸君は前妻にますます似てきていた。私のことは覚えていなかった。瑤子がピアノを弾いた。英幸君が楽譜をめくった。英幸君は変わっていた。子供らしさが失われていた。あれほど無邪気で私に懐いていたのに……なにもかも変わったのだ。幸せだったのは幻か? それにもうすぐ妹が生まれる。
瑤子には一方的な愛だった。幸せだ、と言っても私も……とは返ってはこなかった。抱かれながら何を考えていた?
元々高嶺の花だったのだ。大卒の地方の1人娘。瑤子は学歴コンプレックスの私を笑い、自信をつけさせた。
「三島さんのが頭いいわよ。なんでも知ってる。英輔さんの片腕だもの」
だから瑤子の両親も賛成したのだ。私の母は大卒ばかりの瑤子の親戚に気後れしていた。学歴はついて回る。会社が大きくなればなるほど。まわりは大卒ばかりになっていく……
逆になった。私は酒を飲み荒れ、社長が慰め謝り送ってきた。バカなことするなよ……
バカな社長の話を聞いた。酔って息子に暴力を……社長が英幸君に暴力を? ありえない!
「英幸が幸子に話したせいだ。だから酔うと殴った。おまえのせいだと。寝ているのを起こして殴った。犬が吠えて俺の手を噛んだ。俺は犬を投げた。おふくろが止めた。おふくろが別れさせた。おふくろまで突き飛ばした。英幸はおふくろと犬を守った。責める目が幸子にそっくりだった。寝顔を見て謝っても同じことの繰り返し。犬が……死んだ。あの子はそれまでは気丈にしていた。犬に死なれてあの子は絶望した。俺は酔って亜紀の動物病院へ行った。亜紀は俺に水をかけた。酒の匂いのした私をホースで容赦なく……
子供と犬を虐待するなんて、最低の大バカやろうだと。あの子は返さない。酒を止めるまで絶対に返さない。俺は土下座して謝った。亜紀は呆れた。呆れて軽蔑して同情した。
あの1ヶ月を悔いた。悔やんでも悔やみきれない。息子は笑わなくなった。無邪気だった俺の息子が笑わなくなった。俺の前では笑わない。笑う顔は母親にそっくりだと俺が殴ったから……
亜紀と出会えたことは幸せだった。2度と愛する女は現れない。そう思っていた。容赦なく水をかけられたあの夜に、絶望の淵で光を見た。俺は土下座した。土下座なんてしたことがあっただろうか? ああ、あったな。幸子に土下座して東京に戻ってもらった。戻らなければ、親を見捨てていたら、幸子はまだ俺のそばにいたのだろうか?
皆が誤解している。再婚したのは息子のためだと。母も息子も君も。違うんだ。亜紀は必要だった。俺が生きていくために。亜紀は怒るだろうが、幸子と重なる。心根が似ていた。芯が通っている。強い女だ。たくましい女だ。ふたりは知り合いだった。亜紀は桃太郎の獣医だった。
最初亜紀は俺を軽蔑し同情した。亜紀は心配して息子の顔を見にきた。勉強を教えにきた。私は茶を入れもてなした。リビングにふたりきり」
想像する。三沢邸のリビングルームに、社長と亜紀さんが……
「お酒は飲んでないようね」
「はい。仰せのとおりに」
「おいしい。私なんかティーバックだから」
社長は紅茶の話をする。どうでもいい話だが……
「結婚しないのか?」
「ほしいのは奥さんね。身の回りのことやってくれる奥さんが欲しいわ」
「……俺でよければ……」
それは冗談だった。亜紀さんには最低の男と思われていた筈だ。10も年上の、妻に逃げられた子持ちの情けない男。
「家事は苦手。獣医は続ける。自分のことは自分でやるのよ。期待しないで。料理とか……パンまで焼けって言いそうだわ。掃除も苦手。私の部屋を見たらその気も失せる。呆れるから」
「嘘だろ?」
「本当よ」
「本当に結婚してくれるのか? 後妻だぞ。子持ちのババア付きだ」
「亜紀と英幸は仲よくなった。俺は入っていけない。俺は息子に亜紀をプレゼントした。ひどい父親にできた最高の贈り物だ。幸子も、このために……亜紀を息子の母親にするために出ていったのではないか? そう思うほどふたりは強い絆で結ばれた。
彩が生まれると、息子は父親代わりだ。風呂に入れミルクを飲ませる。亜紀はうまく息子を育てた」
社長は、時間が解決すると言いたかったのだろう。
社長と私 4
先代の社長夫人が亡くなった。脳腫瘍だった。孫の誕生を喜び夫人は逝った。
「もしかしたら、不倫はおふくろの妄想ではなかったのか、と考えてしまうんだ。バカだな、幸子は毎日島崎の面会に行ってた。島崎と暮らしている。島崎の子供を身篭っているのに……」
社長は泣いていた。自分の不甲斐なさを。
「あのひとは社長を太陽だと言ってました。社長がいたから自分を好きになることができたと……」
知人の紹介で結婚した。会社は工場を増やし私は工場長になった。詫びのつもりか? 瑤子の裏切りの……
あのひとが危篤、あのひとの兄から電話がきた。英幸君の名を呼んでいると……ちょうど私とふたりだけのときだった。社長はすぐに動いた。私に仕事を任せ英幸君を連れ前妻に会いに行った。34歳の若さであのひとは亡くなった。あのひとは海で溺れている子供を助けて死んだ。あのひとらしい。なにより愛した故郷の海があのひとを殺した。
あのひとは大株主だった。業績はずっといいから配当金も高い。あのひとに毎年振り込まれた配当金は、男が亡くなってからは手付かずのままだった。あのひとが節約して貯めた金は男の手術代と治療費だけに使われた。
社長のことが心配だったが変化はなかった。その年の創立50周年のパーティーで社長の家族に久しぶりに会った。家族4人は受付で丁寧に挨拶していた。私は妻を連れていた。英幸君を見て驚いた。社報の写真どころではない。震えがきた。私の手は思わず彼の髪に触っていた。一瞬英幸君の目に怒りが宿った。あのひとの怒った目……だが、すぐに消えた。そっくりでしょう、と亜紀さんが目で言った。バレてしまった。あなたもなのね? ええ、慕っていました。愛していました……
私は心の中で英幸君に謝った。君の辛いとき、私は助けられなかった。社長を家まで送り届け、帰らなければよかった。馴染みのあるあの家で社長が立ち直るまで一緒に暮らせばよかった。社長と君とおばあさんと……できたはずだったのに……
許してくれ……あんなに無邪気だった君を……
あのひとの息子……社長とあのひとに手痛く傷つけられた君……笑顔を忘れた君……なにもできなかった私を許してくれ。
坊や強く生きるんだ
広いこの世界おまえのもの
14歳の息子は背丈も肩幅も手の大きさもあのひとと同じ……苦労して育ったあのひとの手は大きかった。肩幅は広かった。おそらく今が1番似ている時期なのだろう。
これでは辛いだろう。社長も亜紀さんも。英幸君は小さな妹にも従業員の子供たちにも慕われていた。少女たちが彼の取り合いをした。小さな妹は、おにいちゃんを取られたーと泣きながら亜紀さんに訴えた。
英幸君がピアノを弾いた。コンクールに入賞したという曲は瑤子が弾いていた曲だ。少年のピアノは皆を魅了した。
「スローなテンペストだね。パパの好きな曲なのに。違うよ。ここだよ」
英幸君が弾いた低音が脳天を叩いた。
「悪かったわね、下手で。坊や、弾けるの?」
「そのうち、瑤子さんよりうまく弾いてやる」
声がよみがえる。会話がよみがえる。パパの好きな曲……を瑤子が弾こうとし、英幸君が教えていた。
なぜ今まで気が付かなかったのだろう?
瑤子の愛している男は社長だ。
アンコール曲は用意されていた。先代の社長が皆の前でよく披露していた歌。社長と英幸君はふたりで詩を暗唱し歌った。かつてあのひとと3人で暗唱していた……表面は仲のよい父子だ。父子だ。血は濃い。ふたりの声と抑揚はまるで同じ。声変わりした低音……
バカな私はようやく気づいた。怒りはなかった。もうすぐ子供が生まれる。仕方ない。社長には男だって惚れる。私も惚れた。強さも弱さも。社長は気づいているのか? 亜紀さんが気づかないはずはないだろう。
英幸君が私と妻を見ていた。妻の膨らんだ腹を。この少年は瑤子と楽しそうに話していた。笑顔を忘れた少年が明るく笑っていた。ふたりは波長が合っていた。瑤子はおそらく初恋の相手だったのだろう。社長は罪な男だ。英幸君は冷ややかに私を見ていた。なぜだ? 私がなにかしたのか? 瑤子にふられたのは私の方だ。捨てられたのは私の方だよ……三沢邸のリビングで私は酔っ払っていた。英幸君は嫌いだろう。酔った男は。私は何か言ったのだ。この少年に。残酷なことを。英幸君に言ったのだ。酔っぱらって。
瑤子はおれが女にしたんだ……
子供たちにせがまれ英幸君はもう1曲弾いた。リクエストは、
猫、踏んじゃった……
子供たちは大喜びだ。英幸君と一緒に歌った。大合唱だ。彼は歌詞を覚えていた。かつて幸せだったパパとママと歌ったことは覚えているのだろうか? 社長は歌わなかった。食い入るように見つめていた。それを亜紀さんが見ていた。社長とそっくりの魅力的な低音が、おどけて歌った。
ニャーゴニャーゴ、グッバイバイ……
あのひとが亡くなった年に、あのひとの息子は歌いふざけて笑い転げた。周りの子供たちもつられて笑い転げた。
社長はだんだん仕事に意欲をなくしていった。空を見つめため息をつく。あの人が亡くなった後遺症か? 私は聞いてみた。
「亜紀がいたから思ったほどのダメージはなかった。いや、ほっとした。幸子が死んでほっとした。もう、誰のものにもならない……なんだかそんな映画があったな。運命の女が死んでくれてほっとした」
よく外出していた。まさか……恋か?
長い休暇を取った。聞いた。問い詰めた。
女、ですか? と。
「株を買ってくれないか? 私の分」
「女ですか?」
今度はうなづいた。なにもかも順調な今? 英幸君は権威あるコンクールで入賞した。社長は自慢していた。
「あの娘のことばかり考えている」
あの娘? 若い女か?
「あんなに荒れて苦しんで、新しい女だって? 亜紀さんを裏切るような、片棒担ぐことなんてできるわけないでしょう」
「亜紀は知ってる」
社長は娘の写真を見せた。
「手術させたい。幸子が助けた娘だ。この娘のためになんでもしてやりたい」
社長と私 5
あのひとはかつて社長と英幸君と暮らしていたアパートに住んでいた。男の忘形見の息子がいた。まだ2歳だった。あのひとの妹が……社長が私と一緒にしたかったあのひとの妹が、かつて愛した男の忘形見を育てている。英幸君そっくりだと、あのひとそっくりだという。
娘も同じ歳だった。あのひとが自分の息子を遺して助けた娘……
娘の母親は社長より20も年下で頼りなかった。娘と心中しようとしたのだ。社長は母娘の保護者になり、あのひとが住んでいた部屋に住まわせた。手術ができるようになると近くに呼び寄せ父親代わりになった。
社長はあのひとと暮らしていた部屋で娘の面倒を見ていた。心の中のあのひとと一緒に。
英幸君が入社した。1年目は小さなアロマショップの販売を任された。彼は1年しかいなかったが売り上げを倍にした。2年目からは研究室で同期の信也君と香りの研究をしていた。試作したラベンダー系の香りは新製品として売り出され、在庫が追い付かないほど売れた。
社長と英幸君は通販サイトに思いきった広告を入れた。若い娘たちに呼びかけた。
化粧……美しくなっていく娘たちの映像
反転……醜く化粧した娘たち、子供たち、男たち……
アザで悩む者、先天性の顔の奇形……
ナレーションが入る あのひとが助けた娘の声だ。
「この子たちに救いの手を……」
手術もできない貧しい国の子供への寄付の呼びかけ。信也君が学生時代に旅していた村で出会った男の子の映像……
コマーシャルは反響を呼び膨大な寄付金が集まった。それはテレビでも取り上げられ、あのひとが助けた娘は取材に応じた。娘の生い立ち、今の生活、高校での生活。発言する、歌う。踊る。誰にも引けを取らない。生徒が囲む。意地悪な声が聞こえる。怖い……見た? あの顔? 気持ち悪い……娘は顔を上げ前を向き背筋を伸ばす。
「私はこの顔と生きています……」
この娘にはあのひとがのりうつった。あのひとが助けたときに生まれ変わった。この娘は銀河系宇宙と性交して生まれたあのひとの娘……
社長と、亜紀さんと彩ちゃんが到着した。遅れて英幸君が来た。社長を見つめた瑤子の目を見て確信した。怒りはない。社長の胸で泣かせてやればいいのに……と思った。英幸君は社長と、瑤子を見ていた。亜紀さんはすべてを見ていた。
瑤子の周りに3人の男がいた。誰も声をかけない。かけられない。微妙な空気。男たちはそれぞれ知っていた。私が瑤子を愛したことを。瑤子が社長を愛していたことを。英幸君も知っているのだろう。そして英幸君も瑤子を慕っていた……
若い男が駆け込んできて微妙な空気は壊れた。母親の突然の死に涙も出なかった女は泣き出した。同時に若い男が抱き寄せると声を上げて泣いた。
私たち3人の男はしばし茫然とした。社長が最初に部屋を出た。微笑んでいた。英幸君も出て行った。彼も微笑んだ。仕方なく私も出てふたりきりにさせた。考えておいた言葉は必要なくなった。
私は帰る。半日ひとりで過ごした妻に償いをしなければ……
「再びどこかで会っても知らん顔しよう。そうだな。微笑んでくれよ。それだけでいい」
言いたかったが私は主人公にはなれなかった。
亜紀さんが玄関まで見送ってくれた。こんなときですけど……私は話した。
「社長からの伝言です。社長が亡くなったら伝えてくれ、と。誰が先に逝くか、なんてわからないですからね」
亜紀さんと外に出て話した。
「君はわかっている筈だ。たとえ、君の言うとおり、最期に前妻の名を呼んだとしても、それはそういう病気のせいなのだ。俺は必死でそうならないよう努力するが……そんなふうに思われていたら君より先に死ねないな……できるなら最後は最愛の君に看取られたい。欲を言えば、彩と英幸と望にいて欲しい。そして黙って逝きたいものだ。三島が伝えてくれるだろう。どんなに君を思って恋焦がれて愛していたかを……」
うまく言えただろうか? 亜紀さんはありがとうと言った。
「あなたは奥さんに自分の口で言いなさい」
車に乗るとき英幸君が走ってきた。彼は瑤子に貸した金を返した。頼まれたからと。どうでもいいのに。
「去年、墓参りをしました。母の命日に」
社長から聞いていた。あのひとが助けた娘も一緒に行ったのだと社長は喜んでいた。英幸君の目に怒りはなかった。
「おかあさんは喜んでいるだろう。あのひとが守った会社を君が立派に継ぐんだ」
英幸君は微笑んだ。
「次期社長はあなたですよ……失言」
あのひとの目が私を見つめ社長の声で言った。さらに亜紀さんの口癖も……
「と、とんでもない……私なんて……私には学歴がない……」
「皆ますますあなたを尊敬します。母は喜んでいます。あなたがずっと父を助けてくれて……記憶がないのが残念です。ありがとう、おにいちゃん……」
「懐かしいな」
「祖母はどんな人でした?」
「先代の社長夫人? 君のが知ってるだろう? きれいな人だった。社長は母親似だね。面倒見のいい人だった」
「母とはうまくいってましたか?」
「ああ。本当の娘みたいだった。かわいがってたよ。苦労かけて、謝ってばかりいた。元気になったと思っていたのに……」
「母は……父を愛してたのかな?」
「当たり前だろ? 社長は太陽だと。社長がいたからあのひとは自分を好きになることができた、と……あんなにいい夫婦は見たことない……」
「会いたいです。母に」
私は車に乗り窓を開けた。曲をかけた。あのひとが昔かけたレコードの曲。英幸君は勿論知っていた。
「エルガーのチェロ協奏曲。ジャクリーヌ・デュプレですね。悲劇の天才。本当のジャクリーヌ・デュプレは……」
話し込みそうになり彼は笑った。
「不謹慎ですね。瑤子さんが辛いときに」
彼は片手を上げた。気をつけて……奥様に埋め合わせを……
あのひとが腕を振り上げ指揮の真似をしたように見えた。あなたには雑音ね……ヒヒっと笑い声がした。名状しがたいその微笑み……
あの人が好きだったジャクリーヌ・デュ・プレ。悲劇のチェリスト。天才の悲劇。難病の……
病気の進行で脳幹を侵され、人格を壊された。感情の暴力は身近にいる家族に向けられた……
(了)
この作品は『この家には亡霊がいる』のスピンオフで、『大嫌いな顔』からは重複しています。
最愛の妻 Ⅳ