最愛の妻 Ⅲ
投稿済みの5話をⅢ部にまとめました。
希望 1
「母は海で溺れている子供を助けて死んだ。どうしているだろうな? 助けられた子は? 彩と同じ歳の女の子だ」
「知っているのかしら? 自分のために亡くなったって」
「……重荷だろうな」
母が亡くなったのは34の歳。母は海で溺れている子を助けて死んだ。春樹を残し。
なぜ? なぜ他人の子を助けた? 運動は止められていたのに。
目を閉じると景色が浮かぶ。3歳の春樹を抱いた母、海辺にもうひと組の母子。娘だった。春樹と同じ歳。彩と同じ歳。なぜ3歳の子が溺れたのだ? 母親はなにをしていた?
「浮気は頭の中だけで思いきりやりなさい」
「……亜紀もそうしてきたの?」
「そうね。パパとやりながら……失言」
「あなたはパパひとすじだと思っていた」
「パパの頭の中には……」
「亜紀がいる」
「あなたのママは歳を取らない」
「……パパには……女がいる?」
「プッ」
「隠し子がいる?」
「プッ」
「この頃出張が多すぎる。春樹の面倒を見てる? 自分の子供はおかあさんに任せきりにして」
「……自分で聞きなさい」
質問は打ち切られた。
「あなたのママはバカだった」
「ああ、他人の子を助けて、春樹を置いて逝った」
「助けられた子はどうしているかしらね? 憎くない?」
助けられた子?
父の度重なる出張。海外出張……誰と行ったんだ? 何度も。
まさか、父は憎んだだろう。ママを死なせた娘だ。ママは助けた。子供は海に流されたのか? それとも心中?
あなたのママは会社の功労者、株主……
3分の1は僕に、春樹に、恵まれない子供に……
「パパには甘えられない。誰かと私を比べてる。不満を言うと怒るもの。彩は自分がどんなに恵まれているかわからないのかって」
「H高の入学式にいかないか?」
父が僕を誘った。夏生との結婚が決まった年の4月、僕は26歳になっていた。
「来賓?」
「いや、知り合いの娘が新入生代表で挨拶をする。中学のディベートコンクールで優勝した」
知り合いの娘……詳しいことは言わなかったが予感はあった。娘の入学式にはいかないくせに……父とふたりで出かけたことはない。母校を訪れるのを断る理由もない。
保護者席の後ろの方に座った。知っている教師はいない。式の流れは変わらない。
新入生代表の挨拶。会場がざわめいたあと静かになった。思わず座り直した。そうする者が多勢いた。正座して聞きたいくらいだ。
15歳の娘がライトを浴びた。映し出された異様な……顔。見るからに先天性の奇形だとわかる。何度か整形したのかもしれない。筋肉が未発達なのか、話している表情は凝視に……見ているのが辛い。しかし見なければ失礼だ。
「金縷の衣は再び得べし青春は得べからず……これは私の恩人が教えてくれました。青春とは無縁だと思っていた私に、顔を上げ前を向け強くなれ、と励まし叱ってくれました……」
よく通る声、天は魅力的な声を彼女に与えた。あとはとてつもない努力のみ……
彼女、望の挨拶は校長より来賓より、誰よりも素晴らしかった。
惜しみない拍手。この高校生活、彼女は明るく過ごしていくだろう。
父の知り合いの娘、父は言わなかったが。僕の頬に涙が伝わる。悲しみの涙はコントロールできるが……感動した時の涙は抑えが効かない。父にバレないよう汗を拭くふりをした。バレているだろうが。
生徒達が教室に戻ったあと、父は彼女の母親に僕を紹介した。どういう知り合いなのかは話さない。1度聞いたが答えはなかった。2度聞く習慣は父との間にはない。彼女を強く育てた母親には誰もが敬意を払う。
父と話せないことを僕は亜紀に話す。どういう知り合いか聞いた。亜紀は珍しく言葉を濁した。
「彩と同じ歳なのに……あの子を見たら彩の悩みなんか吹き飛ぶわね」
夏、眼医者に通った。検査があるからバスで。学生には夏休みだ。そのバスにあの娘が乗っていた。すぐに気付いた。混んだ車内。顔を隠さず堂々としていたが……子供が泣き出した。
「怖いよー」
少女はマスクをし、サングラスをかけた。
「怖い思いさせてごめんね」
マスクには子供が喜ぶキャラクターが描いてあった。子供は泣き止んだが、少女は停留所で降りた。まだ駅ではないのに。
僕はあとを追いかけていた。少女は駅までの2停留所を歩いた。マスクを外した気配はない。傷ついているのだろう。生まれてから15年。数え切れないほどひどい扱いを受けたに違いない。彼女を見ればどんな不細工な顔だろうが感謝するだろう。夏生の傷も僕の過去も足元にも及ばない。
僕はあとをつけ改札口まで見送った。夏休みの部活だろうか? 得意のディベート部か?
3度、同じバスに乗り合わせた。彼女も僕の存在に気が付いた。改札口まで見送ると振り返った。11歳年下の、彩や春樹と同じ年の娘。薄幸とはいうまい。強い女だ。あの母親も。
もう眼医者に通うことはなくなった。仕事の帰り、僕は信じられないものを見た。彼女が停留所に座っていたのだ。僕の乗った停留所を彼女は覚えていたのだろう。夏の夕方、僕は車で通り過ぎもう1度戻った。間違いなく彼女だ。間違うわけがない。目が合った。ごく自然に彼女は助手席に乗ってきた。ごく自然に僕は車を走らせた。
「英幸さんでしょ? 三沢さんの息子さんの……幸子さんの息子さん」
「母を知っているの?」
「おかあさんは、私を助けて亡くなったのよ」
驚き声の出ない僕の横で彼女は話す。
田舎の海で出会ったふたりの母親。春樹を抱いていた僕の母。同郷の母親は娘と心中しようとしていた。娘が生まれると父親は出ていった。母は身の上話を聞き励ました。しかし母親は娘を連れて海に入った。波がふたりを引き裂くと母親は助けを求めた。水泳の得意な僕の母が助けた。命と引き換えに。
ずいぶん遠くまで来てしまった。パーキングで休み飲み物を買った。背筋を伸ばし堂々と歩く娘を行き交う人が驚きを隠さない。僕は彼女の手を握った。父もそうしてきたのだろう。
外のベンチでコーヒーを飲んだ。夜のとばりが彼女を隠した。
「私を憎む?」
「……もう、母が生きていたことのほうが嘘のようだ……」
自然に僕は肩を抱いた。
「無条件で……許す。尊敬する。もっと早く会いたかった。君の力になりたかった」
「亜紀さんが子犬をくれた」
「義母が子犬を?」
「素敵なおかあさんね。おとうさんも」
「……僕は君の兄になるよ」
彼女は涙を流した。
「感情のないことの訓練はできているのに……」
夜のとばりが現実社会を遮断した。僕は母を感じた。
「母が……」
「幸子さん?」
「ああ。喜んでるよ。僕たちを見ている。ホントだよ。僕は霊感が強いんだ」
希望 2
望を送った。小さな家に母娘は住んでいた。母親が出てきて家に上がった。ヨークシャーテリアが彼女を守っていた。居間の棚に母の写真があった。家には1枚もないはずだ。
「弟さんにもいつか謝りたい」
ポツリと彼女が言った。
「春樹にはずっと会ってない」
父は、会っているのだろうか? 芙美子おばさんにはときどきは会っているはずだ。『幸子』の残した命はどうしているだろう?
彼女の部屋に、母親が子供を抱いた絵が飾ってあった。別荘の立ち入り禁止の部屋から消えた絵だ。
「おとうさんに貰ったの。あなたのおかあさんが海辺で子供を抱いていた……重なるの。あなたのおかあさんと」
「抱いているのは僕ではない。弟でもない。女の子だ。君だよ。君を抱いてる」
記憶の最初から父はいた。父親だと思っていた。甘えさせてくれた。絶望して死にたいと言ったときに父は真実を語った。
「最愛の女がおまえを助けて死んだのだ」
「助けなければよかったのに、そうしたらこんなに苦しむことはなかった……」
望が言うと父は怒って首を絞めた……
父は最初親子を憎んだ。だが、娘の顔を見ると言葉を失った。想像した。『幸子』はこの娘を見てどんな反応をしたのだろう? 『幸子』は強い女だった。逆境には立ち向かっていった。『幸子』なら娘を隠すことなく希望を与え、強く育てただろう。父は『幸子』の遺志を継いだ。自分の子供は亜紀に任せ、愛した女が命に変えて助けた娘を強く育てたのだ。並大抵ではなかっただろう。おそらく『幸子』と心の中で話していたのだろう。自分の息子には向き合わなかったくせに……僕はあなたの愛した女の息子だから、強い女の息子だから大丈夫だとでも思っていたのか?
部屋の隅にフラフープが置いてあった。
「おとうさんが買ってきてくれた。おとうさんは上手なのよ」
本もCDもたくさんあった。母が読んでいた小説、母が好きだった曲。
「柔道を教えてくれた。強くなれって。カラオケに連れていってくれた。思いきり歌うの。おとうさんは上手。それでも絶望したときは別荘に連れていってくれた。誰にも会わない。遮断するの。おとうさんと私だけ。それに……幸子さんの亡霊と」
立ち入り禁止の部屋か? ママとパパが使っていた部屋。思い出がたくさん詰まっている部屋。
「おとうさんは、とことん付き合ってくれた。先に帰りたくなるのはいつも私の方だった」
海外出張は手術のためだった。毎年のように行われた手術に父は同行した。急な出張も何度もあった。瑤子が来た時も、あれは瑤子を避けたのではなかったのか? 当時、望は小学校高学年のはずだ。その前後も、何度も父は絶望する望に付き合った。望を強くするために。
10年以上の父と望の物語が目に浮かぶ。
「学校にもしょっちゅう来てくれた。だから辛い思いはしなかったのよ。先生も保護者も生徒も、皆優しくしてくれた」
「母の話をした?」
「強い人だったと。たくましい人だったと。望は絶望の望じゃない。希望だって。同じ境遇の人に希望を与えろって。絶対、生まれてきてよかったと思わせてやるって。おとうさんに会えてよかった」
「もうすぐ母の命日だ。忘れていたが……」
「毎年お墓参りに行くの。おとうさんに引きずっていかれたわ。1年間なにをしたか、報告しろって」
僕を連れて行こうとはしなかったくせに……
怒りは湧いてこなかった。僕の顔を見なかった父、話をしなかった父。教えてもらったことはなにもない。勉強も柔道も歌も。想像する。望との出会いから今までを。歳とともに増していったであろう苦悩と絶望。
絶望か希望か? 想像する。望を抱き上げた父を。手術の間、待っている父を。母の墓前でのふたりを。海を。柔道を教える父、歌うふたり、子犬を世話するふたり、学校でのふたり、実の父娘よりも深く強い絆だ。
家に戻ると父は帰っていた。僕の口から次々に言葉が出た。
「望さんに偶然会って家まで送ってきた……ママの写真があった。絵もあった。フラフープも本もCDも」
亜紀がキッチンに消え父と息子をふたりだけにしてくれた。
「ひどいよ。パパは。僕と彩を放っておいて。あの子のためにどれだけのことをしたの? 僕も柔道を習いたかった。カラオケだって? 僕とはいったこともない。別荘も、立ち入り禁止はあの子のためだったんだね? あの子のためにいくら使ったの?」
責めはしない。恨み言を言いたかった。今まで話さなかった分、言葉が出てきた。パパは答えられない。
「あの子の学校には行ったって? 彩の行事には行かないくせに。それがママの遺志? 彩には辛く当たれって? パパを捨てた女だよ。忘れたの? 僕たちを救ってくれたのは誰か?」
パパは答えられない。
「ママは喜んでいると思う? ママを死なせた親子だよ。ひどいよ。ひどすぎる。僕はいいよ。僕は一生分の愛を貰ってる。彩とおかあさんがかわいそうだ」
亜紀が割って入る。
「おかあさんは悔しくないの? パパはママと育ててたんだ。あの子を。彩ではなくあの子を育てたんだ」
「私も協力したのよ」
「パパが留守の言い訳作りにか?」
「もうふたりで土下座するしかないわね」
「やめてよ、おかあさん」
「パパの介護はあの子がやってくれるわよ。幸子さんがおじいさんをみたように。私も、彩もパパの下の世話なんてまっぴら」
「……そんなの、僕がやるよ。決まってるだろう? パパの面倒は僕が見る。ママがおじいちゃんを介護するのを僕は手伝ったんだ」
パパが僕を抱きしめた。何年ぶりだろう? 20年……ようやく僕はパパの息子に戻った。
「パパはすごいよ。僕は……誇りに思う」
「彼女、獣医志望よ。継いでほしいわ。父の動物病院を」
「パパ、墓参りに行こうよ。夏生を連れて行く。望も一緒に。おかあさんは?」
「私の面倒もみてくれるんでしょうね?」
小さな木の実 1
母が死んだ。知らない街で。保険金が入った。
知らない街に墓参りに行った。墓にそっと唾を吐きかけた。うまくかからなくてもう1度かけた。
記憶に残る母は髪を金髪に染め、黒ずくめの服装で学校に来た。ある日母は消えた。猫と一緒に。私ではなく猫を連れて消えた。
金は可哀想な犬と猫のために使おう。
それから年賀状を。同志に。三沢君と治に。
おめでとう。母が死んだわ。あの日の誓い、私は守った。泣かなかった。唾を吐きかけた。やったわよ。
三沢君には秘密にしていることがあった。もう父親は話したのだろうか?
あれは私が付き合っていた彼を送っていったときのことだった。父と同郷の彼は気に入られよく家に来て飲んだ。酔った彼を私はアパートまで送った。近くのコインパーキングに、車を止めた。気分よく酔った彼を支える。
「早くやりたい……香あいしてるよー」
隣の車から降りてきた男に聞こえただろう。恥ずかしい……目が合った。驚いた。知っている男だ。年は50を過ぎたばかりのはずだ。私の父と同じくらい。でも全然違う。背が高い。洗練されている……この男は……この男のことはよく知っている。同じ町内に住んでいる。豪邸の主人だ。何度も見たことがある。この男の息子のことはもっとよく知っている。私の同志だった。小学校の同級生。母親に捨てられたもの同志。この男の息子は私の初恋の人だった。
その父親は妻に捨てられ一時期荒れた。私の父親と同じだ。しかし私の父親と違いすぐに再婚した。再婚した相手はもっともっとよく知っている。動物好きの私は彼女の父親の動物病院によく行った。猫の治療、去勢。まだ彼女は若かった。私はよく捨て猫を拾っては世話をした。彼女のところへ連れて行った。捨て猫の里親探し、彼女は……亜紀さんは仲間だった。亜紀さんは三沢君の義母になった。
三沢君のおとうさん……
「香……知り合いか? オレもこんな車欲しいよー」
男も気付いた。彼が何度も私の名を呼ぶから。コウ……嫌いではない。この男の後妻は褒めてくれた名だが……高級車の助手席から降りたのは女の子だった。髪の長い……下を向いていたので顔は見えなかった。薄暗くなっていたし、それに三沢氏は……隠した。慌てて隠した。彼の娘ではない。三沢君の妹はもっと背が高い。
三沢氏は女の子を先に行かせて挨拶してきた。
「偶然だね。世間は狭い。香……さんだね。ハムスターやしきの……」
「ハムスター?」
彼が聞き返す。
「ハムスターに交尾させて増やしていた」
なんてことを……話題をそらせようとして……
「こうび? コウビ? 交尾……か」
彼がバカみたいに繰り返した。
「ちゃんと避妊しろよ」
酔った彼に三沢氏がちゃかし、彼は了解です、とふざけた。
「あの子は?」
「親戚の娘だ」
明らかに嘘だ。私の顔色を読んだのだろう。罰が悪そうに去っていった。
彼の部屋で抱かれた。心ここにあらず……三沢君のことを思った。会ったばかりの父親のことを。亡くなった母親のこと、中学3年の秋の犬のシャーロックの死を。治のことも……
酔って疲れた彼は眠りに落ちる。私はドアを閉めて鍵をかけた。パーキングに隣の高級車はまだあった。まだ戻っていない。まだあの少女と一緒なのだろうか?
まさか、隠し子? 妻に捨てられた男が亜紀さんを裏切っている?
車を出し途中で戻った。高級車はまだあった。隣はあいていた。なにをしようというのか? 私は待った。待って確かめてやる。聞いてやる。亜紀さんを裏切っているのか? と。
彼から電話がきた。寝ちゃってごめん……おやすみ……明日電話するよ……
窓が叩かれた。三沢氏が私を見た。窓を開ける。
「少し話そうか」
私が助手席のドアを開けると三沢氏は乗り込んできた。
「彼は、名前は?」
「……」
「どこの家? 親は? ひとり暮らし?」
なぜ私が質問攻めに? やましいことがあるから……
「さっきの女の子はどこの子ですか? 亜紀さんは知ってるの?」
「もちろん。君は英幸の同志だったな」
「ええ、母親に捨てられた同志です」
「気が強そうだ」
「ええ。亜紀さんに言いつけてやる」
三沢氏は舌打ちをした。息子と同じ癖だ。なんともかっこいい舌打ち。
「困ったな」
「やっぱり隠し子なの?」
「英幸は知らないんだ」
「ひどい。亜紀さんを裏切るなんて」
「亜紀は知ってる」
「え?」
三沢氏は携帯をいじり写真を見せた。亜紀さんと少女の写真。三沢氏と少女の写真。少女の顔を見て私は……
「見慣れるとかわいいんだがな……かわいくてかわいくて、いとしくてたまらない。しかし……やはりショックか?」
三沢氏が話す。
「先天性の顔の奇形。あの子の父親は娘が生まれると姿を消した。母親は強い。強くさせた。強くならなきゃ許さない。あの子は何度も整形手術を受けた。私は明るく生きるよう育てた。私は親戚のおじさん……君の彼はひとり暮らしじゃ町内会には入っていないな。私は町内の催しには必ず出て……あの子を連れ出す。明るい子だよ。口達者で頭がいい。柔道を教えてるから誰もいじめたりできない……
英幸の母親は海に溺れているあの子を助けて死んだ」
三沢君が中学3年の時だ。
「母親は心中しようとした。娘と。英幸の母親が、私の前妻が、私の愛した女が助けた。自分の命と引き換えに。私はなんでもしてやる。あの子のために。幸子が助けたあの子のために。幸子の代わりに……英幸は知らない。英幸には黙っててくれないか」
「三沢君は優しい。あの子を見れば……」
「大変なのはこれからだ。年頃になれば絶望するだろう。君だったらどうだ?」
私には答えられない。
あの日、私の車のあとを三沢氏は付いてきた。私の家の前で三沢氏は車を止め手を上げた。さよなら、おやすみ、と言うように。あの日から私は何度も何度も思い返す。私は三沢氏のことを思いながら彼に抱かれた。父と同じくらいの歳の男に恋をした。
小さな木の実 2
困った私は行動を起こした。久々に訪れた三沢邸。亜紀さんは驚きもしなかった。亜紀さんはなんでもお見通しだ。私と父を救ってくれた恩人、私にいろいろ教えてくれた。生理のときも、女性の体のことも避妊のことも……この人の義理の息子に私は恋をしていた。初恋だ。それなのに……
三沢君がいた。中学を卒業したあとも何度か会っていた。三沢君の家の庭で。卒業式に大勢の前で握手を求めた私の気持ちは、いつもはぐらかされた。
「また捨て猫か。去勢されるのか、かわいそうにな」
動物好きな私たちは慣れていた。飼っていたハムスターの下腹部が腫れて大きくなり、心配して亜紀さんに見せたときは
「睾丸よ」
と言われて安心した。
「ハムスターのタマタマは立派なの」
睾丸、去勢、交尾、生理、……小学校4年だった私と三沢君と治は、そういう言葉を恥ずかしいとも思わず使っていた。
私が亜紀さんに会いに行くのは里親探し……三沢君は会うたび背が伸びていた。
「香に彼氏ができたって?」
「え、ええ。三沢君は?」
「失恋した」
「男に?」
懐かしい舌打ち。
「失恋? あなたが? 女に?」
「ああ、治に負けた。あいつはいい奴だからな。僕よりずっと」
「治ちゃん……」
「納得だろ?」
「そうね。あの子と比べられたらかなわない」
「おまえはなぜ治を好きにならなかった?」
「そうよね。治ちゃんにすればよかった」
「……負けた。負けた」
「ま、恋愛ほど苦痛と努力のいるものはありません。それに耐えれるだけの人間におなりなさい」
「青春論かよ……おまえは強いよな」
中学3年の夏、三沢君を捨てた母親が亡くなった。ずっと優等生でいたこの家の長男は、不良グループと付き合うようになった。亜紀さんの動物病院からモルヒネ盗んで……とか噂になり、私は治と飼っていた大型犬を連れて、取り戻しにいった。同志を。
「そうよね。あなたのために不良の巣窟に乗り込んだ」
三沢君は、かつて亜紀さんが保護した犬の最期を看取っていた。三沢君が名付けたシャーロックは、まだ無邪気だった同級生に貰われていたのだ。
「恐れ入った。付き合わないか? 僕たち、いいコンビだ」
「女だと思ってないくせに」
「好きだったよ。髪がボサボサで汚くて動物臭くて……」
「言わないでっ! 私はひとりで暮らしてたのよ」
思い出したくない。父は長距離の運転手。手入れされなくなったお化け屋敷のような家に、ほとんどひとりで暮らしていた。まだ10歳だった。
「お菓子の袋をナイフで切って、手も切った。血が襖に飛び散った。誰もきてくれない。私はそのまま泣き疲れて眠った。あんたとは違う」
感情の失禁。私はおかしい。三沢君は私を抱き寄せた。憐んで。
「いい匂いだ。ミサワのシャンプー。ずっとあのままでいればよかったのに。おまえが男だったらよかった」
「あんたは色が白くて女みたいだった。泣き虫だった。雷を怖がってたくせに」
「おまえと治に助けられた。おまえは父親にも歯向かって強かった。羨ましかったよ」
「私は……あなたが羨ましかった。亜紀さんがおかあさんで羨ましかった」
「じゃあ、結婚しようぜ。好きなだけ犬も猫も飼ってやる」
「この家で? 亜紀さんとおとうさんと?」
三沢氏が義父になる……
「おまえの家に住んでもいい。オヤジさんとはうまくやれるよ」
「彼もそう言ってくれるの。父に気に入られてる」
「クソッ。また振られた」
私たちは声を出して笑った。
「血が、怖くない?」
「怖いよ。知ってるだろ?」
「違う。母の血。結婚するの怖い。私も母みたいになるかも」
「……結婚か。恋愛の終結。恋の惰性もある。移り気もある。しかし、そのために一々離婚していたら、人の一生は離婚の一生となるだろう……」
「青春論か。亜紀さんがくれた本」
亜紀さんが勉強の遅れをみてくれた。読書の楽しみも教えてくれた。
「ピアノ弾いてよ。小さな木の実」
「絶対いやだ。いやな女」
町内会の子供会。私は彼と覗きにいった。大きな公園で模擬店、三沢氏はカレーをよそっていた。三沢氏がごはんを、あの子がカレーをかける。私に気づくと三沢氏は会員ではない私と彼にもカレーをよそってくれた。彼は少女を見てショックを受けていた。写真を見せられていた私も……町内の人たちは大人も子供も少女に好意的だった。少女は活発でクイズにも答えて景品をもらった。最後に三沢氏と少女は歌を歌った。歌詞カードが配られ子供たちはともに合唱した。きれいなメロディ、きれいな高音の声と魅力的な低音、ああ、この低音は三沢君とそっくりだ。
歌は過去を蘇らせる。私は鮮明に思い出した。この歌は小学校6年のときに音楽会で歌った。三沢君は伴奏しながら歌った。まだ高音のきれいなボーイソプラノだった。三沢君は初めての練習のときに途中で泣き出した。父親を思い泣き出した。私は父との仲が修復できていたが、三沢君は妹も生まれたが寂しかっただろう。治は天使だ。治は他人の悲しみには敏感だ。すぐに気づき大声で歌い、わざと音を外して皆を笑わせて誤魔化した。私も大声で歌った。私たちは同志だった。そんなことを父親は知らないのだろう。
小さな木の実
作詞 海野洋司
作曲 G.ビゼー
ちいさな手のひらに ひとつ
古ぼけた木の実 にぎりしめ
ちいさなあしあとが ひとつ
草原の中を 馳けてゆく
パパとふたりで 拾った
大切な木の実 にぎりしめ
ことしまた 秋の丘を
少年はひとり 馳けてゆく
ちいさな心に いつでも
しあわせな秋は あふれてる
風と 良く晴れた空と
あたたかい パパの思い出と
坊や 強く生きるんだ
広いこの世界 お前のもの
ことしまた 秋がくると
木の実はささやく パパの言葉
三沢氏と少女の歌に大人たちは感動した。歌詞に感動した。歌詞の少年は、坊やはあの少女のことだと皆が思った。三沢氏は少女のパパなのだ。
三沢氏が私のところへ来た。少女は遊んでいる。仲間に囲まれて。
「家に来たそうだね。英幸に会った……」
「三沢君が聞いたらショックを受けるわ。小さな木の実。少年は、坊やは三沢君のことよ。この歌は父と息子の絆を歌ってるの。知らないでしょ? 三沢君はこの歌を歌いながら泣いていた。母に捨てられ、父親の愛を欲しがっていた。三沢君は言ってた。僕にパパはいないって。パパは彩のパパだって。私の父に懐いてたわ。三沢君、かわいそうな三沢君……」
私は泣き出した。私の感情はどうなっているのだろう?
「ありがとう。そんなに息子のことを思ってくれて」
「三沢君が伴奏したのに音楽会にも来ないで、運動会にも1度も来なかった……」
「他人の子供会に出てる。カレー売ってる。ひどい父親だと思うよ。英幸は許さない。許さなくていい……」
「……あなたが好きです」
「いきなり、何を言うか」
「ほんとですね。あなたも三沢君も好き」
「困った娘だな。彼が見てるよ」
「迷ってるの。プロポーズされた。どうすればいい?」
「1度失敗した男に聞くな」
「亜紀さんに言うんでしょ? 香に告白されたって。亜紀さんはモテるパパで喜ぶかしら? 亜紀さんは、最高ね。亜紀さんは……」
「最愛の女だ」
「三沢君は幸せです。亜紀さんがおかあさんで」
三沢君から絵葉書が届いた。
ベナレスで夜明けのガンジス川を見たんだ。素晴らしかった。
美容院の女
治は母と祖母の話を小耳に挟み、その美容院を訪れた。自転車で小1時間。
幼い治を捨てた父はこの美容院の女と再婚していた。いや、再再婚だ。
駅の近くではないから家賃も高くはないだろう。ひとりでやっているらしい。客がひとりいた。
「あら、珍しい」
「あら、若くていい男」
女店主と年寄りの客が言った。店主の美容師は髪は長いが……美容師か? 自分の頭をなんとかしろよ……
客は施設の入居者くらいの年、80は過ぎているだろう。
「男は滅多に来ないから雑誌もないのよ」
店主はドライブの本をテーブルの上に置いた。東京周辺のドライブの本。
「ドライブ、趣味なんですか? 運転うまそうですね」
「旦那が運転。私は酒飲んでる」
豪快に笑う。
父は運送業のはず、運転のプロだ。細い男だった。かつては……20年以上前だ。出ていったのは。治の母親は勝気だった。祖母も。ふたりの強い女に閉口して帰ってこなくなった。居場所がなくなったのだと……それなのに、この体格の良すぎる豪快な女が妻なんて……
三沢英幸、あいつの名前を借りた。住所は覚えている。簡単だ。同じ町名。同じ2丁目。あいつの家は3の4。
髪を切り話した。かかっているBGMの話。余計なことは聞いてこない。先ほどの老婦人とは親しく話していたのに。
「店長さん、ドライブ以外の趣味は?」
「海外ドラマかな。客が来ない時は奥で観てる」
治も観ているドラマだった。話に花が咲く。
カットだけだから早かった。金を払い釣りをもらう。名残惜しかった。
帰りにケーキ屋があったので6個買った。母と祖母と自分の分。2個ずつだ。また美容室の前まで戻った。美容院の女は自転車で帰るところだ。思わず声をかけケーキを渡した。
「旦那に食べさせなよ。酒飲まないんだろ?」
「こんなに……ありがとう」
大声で女は言った。
「また、おいでよ」
帰り、三沢邸の前を通った。何年ぶりだろう? 同じ町内なのに。子供の頃は毎日のように遊んだ。迎えにきた。邸の庭でも遊んだ。あいつは母親に捨てられた。だから親しくなれた。誓ったのだ。香と3人で。絶対親を許さない。親が死んでも泣かないと。墓に唾を吐きかけてやろうと。
あいつに会えるわけないな。裏切りそうだ。父が幸せで嬉しいと思う。香は守るだろうな。誓いを守るだろう。
あいつはどうしているだろうか? 墓に唾をかけに行ったか?
1か月後再び美容院を訪れた。美容師の女は覚えていた。当たり前だ。接客業なのだから。小さな店に客は治だけ。
「三沢さん、仕事は忙しいの?」
「はい。正月も関係ないです」
仕事のことを話す。女も母親のことを話した。認知症で……亡くなった。千葉の実家は荒れ放題。海まで歩いてすぐよ。いずれ、歳とったら帰る。サーファーだったのよ。
その体で?
「旦那さんも?」
「田舎なら金がなくても何とかなるからね」
「旦那さん、お金ないんですか?」
「年金はかけてるわよ。別れた子供が3人、ようやく養育費払い終わる……ひとり優秀なのがいるって自慢してる」
養育費、出していたのか?
「ドラマにあるじゃん、最初の息子に会ってもわからないの。ギター弾いて歌うの」
治は辛くて話題を変えた。仕事の話。認知症の話。女の母親もそうだった。男の介護士が来ると目の色が変わり、我が母ながら嫌だった……自分の息子より若い男に色ボケ……
自分も若くなってますからね……
私に嫉妬するのよ……
あの人も……病気だったのか? 脳の病気、それとも心の?
智恵子は東京に空がないと言う……
あいつのママが教えてくれた。
「おばちゃん、田舎に帰りたいの?」
おばちゃんと呼ぶには若くて美しすぎる人だった。真っ白で……
「治ちゃんは人の気持ちがわかるのね」
「……なんでも買えるのに……」
「なんでも買えたら幸せだと思う?」
治は首を振った。
「気がつくかしらね? 大事なものなくす前に」
あいつは金持ちの嫌な坊ちゃんになっていた。欲しいものは、祖母がなんでも買って与えた。治に見せびらかした。あいつのママは何も言わずにゲームを取るとすごい握力で壊した。壊してゴミ箱に放り投げた。見事にストライク。あいつは呆気に取られ、泣くことも忘れた。
「友達なくすぞ。ママにも捨てられるぞ」
治が叫んだ。わかったのだろう。あいつは急いで後を追いかけ謝っていた。何度も何度も。
「おばあちゃんよりママがいい。ママが好きだ……」
よくプールに連れて行ってくれた。プールに入るとずっと泳いでいた。人魚のように。帰りにケーキを食べに連れていってくれた。店員が間違えた。あいつは怒った。ボクは苺だよ。治は言った。チョコも好きだからいいよ。
あの男が夏生の部屋の隣に越してきた。夏生のママはウキウキしていた。おかずや菓子を差し入れし、夏生にピアノを教えてもらった。小学校の音楽教師にあいつもピアノを教わった。金を受け取るわけにはいかないから、あいつの祖母も高級菓子や果物を渡していた。あいつのママは無関心だった。そう見えただけだったのか?
そのうち、あいつの家に皆が集まってピアノリサイタル……夏生母娘と治も呼ばれた。あいつの祖母はクラシックファンだったから次々にリクエストしていた。あいつのママはキッチンでひとりで目を閉じて聴いていた。治がそばに寄っても気づかなかった。
「向こうでみんなと聴けばいいのに」
「気にして見に来てくれたの? 治ちゃんは優しいね」
音当てゲームだ。あの男が鍵盤を叩く。夏生が当てる。あいつは少し当たる。治にはわからない。あいつのママは……
「全然わからない」
あいつのママは果物を切り盛り付けた。あいつが喜ぶように動物の飾り切り。器用な人だった。
「おばちゃん、その手の傷どうしたの?」
「前に、働いてたときに切ったの。包丁で」
「気をつけなよ」
「パパにもあるのよ。同じような傷。パパのは不注意。おばちゃんのは嫉妬。ひいきされてたからやきもちやかれたの。わかる? 治ちゃん」
治はうなずいた。だから、ここで聴いてるんだね……
あの男が苦しんでいた。あいつと夏生と、あの男の部屋に行くと死にそうだった……と思った。あいつはママを呼びに行った。ママは大人の男を、パパみたいに大きくはなかったが……支え階段から降ろすと車に乗せて病院へ連れて行った。若いふたりになにがあったのかなかったのか? ふたりきりになったのはそのときだけのはずだった。
そのあとあの男は手術をし、見舞いには夏生のママとあいつの祖母が行った。あの男に好意を寄せていたのは夏生のママの方だと思っていた。あの男よりは10も年上だったが。
それからあいつの叔母さんが家に来るようになって、ママより若い大学生。ふたりは付き合うようになった。夏生のママの淡い恋は終了。ふたりを応援するようになった。
治は思い出す。あの男の部屋のベランダから三沢邸の庭がよく見えた。あの男は見ていた。バラの手入れをするあいつのママを。祖父が亡くなるとあいつのママは近くの畑を借りて野菜を作った。三沢家の若奥様が長靴履いて畑で……あの男は通りすがりに見ていた。見るために通りすがる……
あの人は……嫉妬していた。あの人の嫉妬があの家を壊した。
あいつのママは妊娠していた。おなかを撫でていた。幸せそうに……治が気付くと困ったように微笑んだ。
「英幸はどっちが欲しいと思う?」
「弟だよ。妹は夏生がいるから」
「まだ内緒よ」
唇に人差し指を当て、そしてため息をついた。なぜ? 治にはわかっていた。
「治ちゃんは人の気持ちがわかるのね」
「気をつけて……」
知られたら……悪いことが起こりそうだ。あいつのママは自分の手を見た。
喋ったのはあいつだった。そして悪いことは……起きた。
救急車がきてあいつのママはおなかを押さえ言った。消えていく意識の中で何回か訴えた。夏生と同じだ。治にはわかっていた。夏生の頬の傷はあいつがやったんだ。どれほど悔やみ苦しんだか……いくつもの苦しみが重なりあいつの記憶にはモヤがかかっている。
治は自分の想像が恐ろしくなった。あの人は病気だったんだ。
あいつのママは出て行った。近所のものは噂して喜んだ。羨ましがられていた大きな邸の醜聞。崩壊。
亜紀さんは? 父親は? まさか、知っているのだろうか? 知っていて再婚した? いや、それはないだろう。
わからない。そもそもこの考えがあっているのかもわからない。しかし、あいつのママは……
あの人は……
治の施設にもいる。自分が1番でないと気が済まないのだ。食事も薬も風呂も1番でないと気が済まない。扱うのは楽だ。褒めておだてれば機嫌がいいのだから。
「終わったわよ」
女の声が現実に戻した。
「20年近く経ってるんだ。今更……」
「鏡の中の三沢さん」
「……」
「ケーキ3個も食べたわよ。1度に。おいしかった」
「……今日も買ってくるから食べさせなよ」
「亭主はモンブランが好きなの」
「甘党なんだな。酒飲まないのか」
「海外ドラマみたいね。あなたは……腎臓でもあげそうだわ」
「父親に似たのかな? 優しいだけじゃダメだって言われるよ」
「またおいでよ」
20年か30年後、面倒見てやるよ。あなたを……だから頼む。亭主を……
甘いな、あいつには言えない。
最愛の妻 Ⅲ