最愛の妻 Ⅱ
投稿済みの6話をII部にまとめました。
大嫌いな顔 1
この物語は『この家には亡霊がいる』のスピンオフ作品です。以降は重複します。
︎
僕の辛い時代を亜紀先生は知っていた。
飼っていた犬が死を迎えていた。パパは毎夜酔って帰り、祖母はそんな息子に絶望していた。
その夜、僕は犬を亜紀先生のところへ連れて行った。死が近づいているのはわかっていた。夜中の1時に犬は僕の腕の中で死んだ。
そのとき酔ったパパが入ってきた。パパには、どん底の時期だった。亜紀先生は酒臭いパパを僕のそばには来させなかった。大先生も出てきて、ふたりでパパを外に出した。僕は、もうどうでもよかった。
ふたりの先生になにを言われたのか、パパは黙って帰って行った。たぶん、パパの虐待に気付いていた先生は、通報するとか脅したのだろう。
朝まで亜紀先生はついていてくれ、家に送ってくれた。パパは反省したのか礼儀正しい男に戻っていた。「別人みたいね」と言われ、「目が覚めました」と神妙に答えていた。
犬を埋めたら、僕は旅に出る。ママに会って犬が死んだことを話し、海に飛び込んでやる。
しかし、その日は死ぬことも許されない日になってしまった。僕はパパに手紙を書いて机の上に置いた。
僕のせいでごめんなさい。
ママに似ててごめんなさい。さようなら。
名前は書かなかった。パパは見たくはないだろう。祖母には心の中でさよならを言った。言えば止められる。パパは病気の犬を放り投げ、僕をかばった祖母まで突き飛ばした。僕がいなくなれば元に戻るよ。そしたら、パパに優しいお嫁さんをもらってあげてね。この家にふさわしい、おばあちゃんのことを大事にしてくれる優しい人を……僕たち母子のことは忘れてください。
僕は夏生の家にもさよならを言いに行き、留守番を頼まれた。そして、夏生のひとことで人生は変わった……
その日、亜紀先生は僕を心配してやってきた。橘家の前に救急車が止まっているのを見て、先生は入ってきた。そこへ珍しくしらふのパパも帰ってきて、僕たち3人は惨状現場に残された。亜紀先生は僕を抱き上げ家に運ぶと、パパに指図し手当てした。僕は錯乱状態で自分のしたことを何度も叫んだ。亜紀先生が僕を抱きしめ背中をさすった。
パパは亜紀先生の前で僕に謝った。
「パパのせいだ。おまえは悪くない。パパのせいなんだよ。全部パパのせいなんだ」
パパはその日を境に酒をやめた。僕の手紙を読んだのだ。亜紀先生は僕だけでなくパパの心配もした。祖母の心配もした。
ママは病気の犬を残し出て行った。大きな邸も社長夫人の座も、息子も捨てていった。この家族の最悪の時期に亜紀先生がいなかったら、僕たちはどうなっていただろう? やがて亜紀先生は僕の義母になった。
しばらくは亜紀先生と呼んでいた。亜紀先生は僕に勉強のやり方を教えた。パパは僕を頭の悪いやつだと決めつけていたが、やり方がわかると成績は伸びた。
「ピアノはやめてもいいのよ。ちっとも楽しそうじゃないわ」
なぜ僕がピアノを弾くのか誰も知らない。パパでさえ記憶にないだろう。
「なぜあんな男に? 俺が劣っているのはピアノだけじゃないか? おまえがあいつを負かすんだ。最年少入賞という自慢の記録を塗り替えてくれ」
パパは覚えていなくても約束だ。
小学生の頃は色が白くて活発ではなかった僕に、亜紀先生はテニスを教えた。夏生は一緒にやりたがり、なんでも夏生のほうがうまかった。背も、パパは高い。僕は母親似だ。僕はパパの何倍も勉強し努力した。
『努力に勝る天才なし』
亜紀先生は励ました。祖母は戻った平和と彩の誕生を喜び亡くなった。最期にはパパの手ではなく僕の手をつかんだ。唯一、僕を愛してくれた人だ。母親似の僕をパパそっくりだとかわいがり、なんでも買ってくれた。パパは謝っていた。祖母の寿命を縮めたのは自分のせいだと……
祖母が亡くなると家の中はパニックだ。家政婦に来てもらえばいいのに……亜紀先生は家事は苦手だと公言して嫁いできた。彼女は料理のやり方を掃除のやり方を知らなかった。サラダにはボロボロの茹で卵が丸ごと入っていた。野菜も麺も茹ですぎる。僕のほうがマシだった。ダイニングテーブルは物で狭くなり、ソファーには座れなくなった。パパは仕事で留守が多い。亜紀先生は仕事はやめたが、苦手な家事と育児で大変だった。僕はパパに怒られないように、山になった洗濯物を畳み掃除した。そしてパパの変わりに、彩を毎日風呂に入れるのを手伝った。
ある夜、バスルームから歌が聞こえた。パパが歌っていた。歌いながら風呂掃除。パパが風呂掃除? 僕はバスルームの外で歌を聞いていた。聞き惚れていた。英語の歌。亜紀の好きな歌……いや、ママがよく口ずさんでいた歌だ。学歴のない女が英語で歌っていた。教養のあるふりをして……
Don't give up……
休みの日にパパは掃除機をかけ、キッチンでカレーを作っていた。
亜紀はすごい女だ。
試験前の夜中、僕はキッチンで自分で作ったおにぎりを食べていた。亜紀が授乳が終わったのか入ってきて、いきなり皿の上のおにぎりを食べた。冷やご飯に味噌をつけただけ。
「もう、おなかすいておなかすいてどうなってるんだろう? もうひとつ作ってくれない?」
「こんな貧乏たらしいもの」
僕は自分が食べていたものをゴミに捨てキッチンを出た。
少しすると亜紀は部屋にやってきた。階段を登って。夜食の味噌にぎりを差し入れに。
「亜紀ママのおふくろの味よ」
そう言って少しだけ数学を見てくれた。
「寝不足だろ?」
「また、お礼状書くの手伝ってね」
歳暮の礼状、亜紀は習字を習っていた僕に書かせる。家事もあんなにひどいわけがない。彩が生まれても寂しい思いをさせないように僕をおだてて手伝わせたんだ。
ママが危篤だと知らせが入ったとき、
「僕は行かない」
と突っぱねた。
「ママがおまえの名を呼んでいる」
パパは僕に頼んだ。
「頼むから一緒に来てくれ」
と土下座した。亜紀も勧めた。
案の定、僕は不安定になった。春樹の存在が決定的だった。
「弟がいた。やっぱり」
「彩と同じ年ね」
「余命宣告されてたのに。さっさと死ねばよかったんだ。階段から落ちて死ねばよかったんだ」
「……愛は奇跡を生むのよ」
「生んだのは父なし子だ」
「愛の結晶」
「僕こそ愛の結晶だった」
「芙美子さんが育てるわ。遠くはないわ。いつか、力になってあげなさい」
秋には亜紀は僕に、死に向かうシャーロックの面倒をみさせた。僕が名付けた犬は、今では口もきかなくなった同級生にずっと飼われていた。
「モルヒネ、あの不良たちに1度には渡せないから」
大嫌いな顔 2
その年、小さなコンクールで入賞した。パパとの約束まで2年しかない。
「パパが社報に載せるって。パーティで弾くのよ。貢献しなさい。レッスン料どれだけかかってるか」
「だから私立にはいかなかった。塾も」
「私の家庭教師代は?」
「そのうち返すよ。亜紀のためにそばかすと、しみとりクリーム作ってやる。色白になるクリームも」
「取り替えて欲しいわね。色白のボクと。あなたの顔としぐさ……失言」
「どういう意味?」
「私は不細工だってこと」
「僕はママにそっくりだよ。だから殴られた。顔もしぐさもそっくりだって」
「ごめん。いやなこと思い出させた」
「おかあさんはきれいだよ。みんな言ってる。かっこいいって。夏生も治も。|早夕里も」
取り替えて欲しいわね。色白のボクと。あなたの顔としぐさ……パパはママが出て行ってから僕を憎んだ。ママから受け継いだものすべて。目も鼻も顎もママそっくりだと叩いた。ため息をつくと怒られた。あくびをすると……ママと同じ癖、しぐさをすると叩いた。パパを裏切った女を思い出すから。名前さえ呼ばなかった。それこそ愛の結晶だった。ふたりの名を1字ずつ取っただけ。
ずっと憎んでいるのかと思った。そのほうがマシだ。
ママが亡くなったとき僕はふすまの陰から見ていた。パパは少しだけふたりきりにさせてくれと頼み、布団に寝かされていたママにさわった。6年ぶりに会ったかつての妻の顔をさわり、久しぶりで最後のキスをした。そしてしばらくの間隣に寝ていた。僕は泣かなかった。幼い春樹をあやし、笑わせて笑わせて場をわきまえろ、と父に怒られた。
それからパパは芙美子叔母さんに化粧道具を借り、死化粧をした。長い時間かけて丁寧に。僕は興味を持ち近くで見ていた。死体が生き返っていくみたいだった。パパにこんな才能が? ママが眠っていた。あの頃と変わらないまま……涙がポタポタ流れた。意思とは関係なく。涙をコントロールできないなんて……
ママを奪った海を見に行った。他人の子供を助けるために春樹を置いて逝った。僕を捨て、なにもかも捨て、貧困に戻り働いて、心臓が弱っていた。それなのに溺れている他人の子供を助けにいった。なんてバカなんだ。どこまでバカなんだ。
僕ははしゃいで駆け回った。
「泳ぎたいな、泳いでもいい?」
「異邦人だな、まるで」
パパは別れたあとも、亜紀と再婚したあともずっとママを忘れなかった。写真など処分しても意味がない。ママそっくりの僕が、ますますママに似てきたんだ。色白で、隔世遺伝なのか、体毛の薄い息子。思春期にニキビもできず、体は鍛えてもまだまだ華奢だ。
パパは目を合わさない。僕のことはすべて亜紀に任せてある。
亜紀は憎んではいないのか? 僕を? 前妻のことを忘れさせない僕を? 僕は似たような話を知っている。思い出した。本を開く。
『私がまだ非常に若かった頃だ、ホームズ君、私は生涯で1度しか経験したことのない恋愛をした……
彼を見ていると、いとおしい彼女のあらゆる仕草が私の記憶に蘇ってきた……』
僕は自分を不幸だと思っている。ママとパパのせいで僕は贖罪を背負った。
本当はね、パパ。ママの口に糠を入れてやろうと思って、僕は袋に入れてポケットに入れていたんだ。姦通した妻の口に糠を詰め込んでやろうとずっと握りしめていた。
パパは裏切ったんだ。
パパの罪科。
僕を不幸にした女の口にキスをした。
居間で彩と遊んでいるとパパの視線を感じた。見ているのは彩ではない。僕の顔にママの面影を見ているのだ。いとしいママのあらゆる仕草がパパの記憶に蘇るのだ。
それを亜紀が見ている。こんなに愉快なことはない。
「高い、して」
彩が言う。僕は肩車をしてやる。彩が妹でよかった。弟だったら毛嫌いし憎悪したかもしれない。心配ではないのか? 僕が彩を落としたりするとは思わないのか?
日曜日の朝、僕は庭で水を撒いた。バラがもうすぐ終わる。今は業者任せだが、ママは全部手入れしていた。僕は思い出す。祖父が車椅子に座り、そばで指図していた。不明瞭な言葉をママは祖母よりも理解していた。長い中腰の姿勢、ママは弱音も吐かずたくさんのバラの手入れをした。
強い女だった。体が不自由になっても、わがままで激昂する祖父の介護をやり遂げた。パパより10も若い田舎者。親戚の冷たい目にも負けず、媚びず甘えず群れなかった。父の保護も庇護も必要なかった。置いていかれた僕は強くはない。
幸せだった頃の光景が思い出された。そこの椅子にパパとママは腰掛け、花を眺めていた。そして洋画のようにキスをした。優しいキスだった。僕はパパの膝に乗り同じようにママにキスをした。パパは僕の顔に、顔中にキスして嫌がると余計にペロペロ舐めた……
幸せは突然こわれた。ママは、さよならも言わずにいなくなり、パパのキスは暴力に変わった。祖母は僕を守れず、祖父のところへ逝きたい、と泣いた……
トゲが指を傷つけた。僕は血も出ていない指に口をつけた。視線を感じた。縁側に父と亜紀が立っていた。父はトマトジュースを飲んでいた。
ママは空を見上げる。そしてため息をつく。
田舎に帰りたい……帰ろうか……
パパは亡霊を見た。グラスが割れた。パパの手が血だらけだ。僕は震えその場にしゃがんだ。血圧が下がり心拍が上がる。彩が泣く。父と亜紀は視野から消えた。
夏生がガラスをかぶって血だらけだ。僕のせいだ。僕が殴った。夏生があいつの名を言ったから。夏生のせいでママが出ていったから。
「和ちゃん、どうしているかな? ピアノうまかったね。死んじゃうなんてかわいそう……」
『和ちゃん』に僕はなついていた。祖母は僕にピアノを習わせた。祖母も『和ちゃん』が好きだった。夏生のママも芙美子叔母さんも好きだった。『和ちゃん』は芙美子叔母さんと結婚するのだと思っていた。
僕がママに教えなければママは出ていかなかった。なにもかも捨てて、余命宣告されていた男を選びはしなかった。
社報に載せる写真の撮影、亜紀は会社見学を兼ねて僕を連れていった。パパが大きくした会社は祖父の代とは比べものにならない。スタッフが何人もついてきた。僕は心の中に嵐が吹こうが礼儀正しくできる。
「きれいな女ばかりだね。心配じゃない?」
亜紀は無視する。まだ僕を許していない。上階の研究室。
「ここでシミ取りクリームを作ってくれるのね」
言わなきゃよかった。根に持っている。怖い。シミ取りクリームよりも、傷をカバーするものがほしい。
亜紀は僕をスタッフにあずけ先に帰った。写真の撮影。多勢の女が僕の顔をさわった。マッサージにパック。
「女の子みたい」
ママそっくりの目を褒め、同じ位置の泣きぼくろを勝手に占い、肌質を褒め化粧までした。僕は鏡の中の変化を楽しんだ。鏡の中にママがいた。
大嫌いな顔 3
クリスマスのピアノの発表会。今まで1度も来たことのないパパが、彩のために休みを取って来る。
パパの罪科。
僕がピアノを弾く理由をわかっていない。
背も肩幅も……今しかない。
僕は先生と打ち合わせをし、お願いした。クリスマスの余興だと。
僕の出番は最後だ。ほとんど女子だ。僕がいるから入った生徒もいる。ここぞとばかりにおしゃれして着飾っている。夏生は興味ないのか? 彩は初めての舞台に立ち愛想を振りまき、拍手と花束をパパから貰った。こんなくだらない場に来るなんて……
パパの罪科がふえていく。
彩と先生の連弾。先生の格好をした僕は彩の手をつなぎ舞台に出た。最初は誰も異様に思わなかった。
僕は先生の黒いドレスを着て、カツラを被った。ママの髪の長さ。自分で化粧をした。
母の面影を求めて自分に化粧する……そんなドラマを見た。その母は死んだあと糠を口に詰め込まれた。いや、詰め込まれて死んだのか? 早夕里に聞いてみよう。
彩とお辞儀をした。ステージマナーは完璧だ。
パパは固唾を飲んだ……はずだ。亡霊が彩の手を取り現れたのだ。ゆっくり見ていたかったが、客席がざわついた。
短い曲だからすぐ終わった。またふたりでお辞儀をする。ざわつきがピークになる。パパも夏生も唖然としていた。亜紀は
「やってくれたわね」
とつぶやいた。たぶん。
彩を退場させ僕は戻った。この空気を一瞬で変えてみせる。僕は微笑んだ。ママを思い出して。決して慌てることのない女だった。僕は最高のお辞儀をし深呼吸してから弾いた。パパの好きなテンペストの第3楽章。
パパ、あなたのせいで僕は捻じ曲がった。
特別サービスだ。
嵐だ。
嵐の夜、亜紀はパパと大喧嘩して出ていった。なにがあったか今なら想像できる。僕だって何度も願った。ママが帰ってくることを。嵐の夜、物音でパパは血迷い、かつての妻の名を呼んだか、探したか? けっして戻ってくるはずのない女を。
すぐにパパは、怒って出て行った亜紀を抱きかかえ連れ戻した。ふたりともびしょ濡れでそのままバスルームにこもった。どれほど謝ったのだろう……
また再び、亜紀の隣でかつての妻の名を呼ぶがいい。
快感だ。今まで弾いたなかで1番の出来だ。ひとつのミスタッチもなかった。手応えがあった。聴衆の心をわしづかみにした。これなら2年後のコンクールでも入賞できるだろう。最年少の16歳で。
聴衆は拍手も忘れた。僕が立ち上がりお辞儀をして引っ込むときに、ようやく割れるような歓声が聞こえた。
すぐに後悔した。ドレスを脱ぎ化粧を落とした。バカなことをした。先生はどう言い繕っているだろうか?
おわりだ。三沢家のひとり息子は女装癖のある変態。三沢家の恥さらし。ママのせいだ。死んでも僕にとりついている。
もう取り返しがつかない。いや、かまわない。夏生の苦しみに比べたら……むしろ歓迎だ。さげすむがいい、ツバを吐いて石を投げつけろ。僕は罰を受けていない。夏生に助けられ大人たちに守られ、なんの罰も受けていない。僕は座ってガタガタ震えていた。亜紀が入ってきた。
「アンコールよ。お嬢さん」
拍手が鳴り止まない。アンコールを求める声が止まらない。
「余興でしょ? 先生も悪ノリしたわね」
亜紀は男の服を着せ、唇にさわった。
「会社のパーティでもやってみる? 化粧、私より上手だわ。コマーシャルに出てみる? 」
亜紀は僕を抱きしめ落ち着かせた。
「アンコールよ。後始末してきなさい」
アンコールなんて思ってもみなかった。なにを弾こう?
男に戻った僕は盛大な拍手に迎えられた。パパも拍手していた。僕は弾き始めた。
祖父母が存命のとき、よくレコードがかかっていた。
ミラボー橋
なぜこんな長い曲を……詩を……
祖父母がよく聴いていた。幸せだった時代。
パパもママも僕も幸せだった。僕は詩を暗唱した。レコードと同じように。
ミラボー橋の下をセーヌ河が流れ
われらの恋が流れる
私は思い出す 悩みのあとには
楽しみが 来るという
日が暮れて 鐘が鳴り
月日は流れ 私は残る
女装した男の声とは思われない低い声。詩を続けると変声期の声がかすれた。喉が痛い。
手に手を取り 顔と顔を向け合おう
こうしているとわれらの腕の橋の下を
疲れた無窮の時が流れる
日が暮れて 鐘が鳴り
月日は流れ 私は残る
そのとき客席から僕と同じ声が聞こえた。同じ抑揚、同じ間合い。先生が気を利かせてパパにマイクを渡した。
流れる水のように恋もまた死んでゆく
恋もまた死んでゆく
生命ばかりが長く 希望ばかりが大きい
日が暮れて 鐘が鳴り
月日は流れ 私は残る
日が去り 月が行き
過ぎた昔の恋は 再び帰らない
ミラボー橋の下をセーヌ河が流れる
日が暮れて 鐘が鳴り
月日は流れ 私は残る
(ギョーム アポリネール)
長い詩をパパと僕は少しも乱れず暗唱した。
続けてパパは歌った。フランス語で。僕には歌えない。会場の皆がパパの歌に聞き惚れ、僕は脇役にされた。
堂々として誇らしい父親。
幸せな家族。幸せな時代。それは確かに存在していた……
僕は亜紀に土下座した。
「すぐ謝るのはパパそっくり」
「パパは? 動揺してなかった?」
失敗か?
「あなたのママがこの家に初めて来たときのことを言ってたわ。まだ19 歳の中卒の田舎の父親のいない貧困の娘。おとうさんや妹たちの哀れみ、あざけり。あなたのママはパパの顔さえ見ずに立ち上がるとお辞儀をして出て行った。パパはその日にすべてを捨てた。家も家族も会社も。おじいさんが倒れあなたのママはパパに土下座されてお願いされて戻ったのよ」
僕は知らない。僕にはこの家以外の記憶はない。裕福だった。大人たちが僕にチヤホヤした。祖母にかわいがられていた僕に。
「財産目当てがうまくいかなかったんだ。介護したのに財産もらえないで当てが外れた」
「誰が言ったの? そんなこと」
「みんな言ってたよ。大きな邸に社長夫人の座、息子まで捨てて、よほど……」
よほどセックスが素晴らしかったんでしょうね!
「私はなんて言われてるのかしらね? 大きな邸に社長夫人の座、息子まで奪って……」
「僕はあなたの息子だよ」
「息子が母親に似るのはあたりまえ」
「こんな顔、いやだ。パパに似たかった。おばあちゃんはパパそっくりだって言ってた。そう思ってたのに……名前も変えたい」
「贅沢言うとバチが当たるわ」
「もう当たってるよ」
「あなたはパパにも似てるのよ。親子だもの。声と話し方はそっくり。パパかと錯覚するほどよ。それにね、その下品な舌打ち、それもパパと同じ。その癖は直しなさい。行動する前に考えなさい。内面を磨きなさい」
「……」
「ミラボー橋。詩は素敵だわね」
意味深な言い方だった。
「なにが素敵じゃないの?」
「素敵よ。小説も」
亜紀はおかしそうに笑ってから僕の名を呼んだ。説教するときにしか呼ばない名前。
「喜びのあとには……わかる?」
「……なに?」
「妊娠させるのよ。妊娠。妊娠」
僕は鼻で笑った。
「女は大嫌いだ」
「男でも、感染症は蔓延してるのよ……」
亜紀こそ、もう弟なんて……弟なんていらないからな。
「おかあさんこそ、弟がほしいな」
男の子を産んでパパの後継にすればいい。
書斎で本を探した。アポリネールの小説はなかった。
三島由紀夫の『午後の曳航』を読んだとき亜紀に聞かれた。
「感想は? いやらしいなんて言わないで」
僕は困って関係ないことを聞いた。
「ブティックに勤めてる瑤子さんは元気?」
亜紀は顔色を変えいきなり僕の頬を叩いた。訳がわからず怒りがこみ上げてきた。
「ごめん。ごめんなさい」
亜紀はすぐに謝ったが僕は手をあげていた。それをグッと我慢した。2度と女に暴力は振るわないと誓っていた。
「いいよ。許す」
亜紀になら、なにをされても許すよ。
僕はなんと答えればよかったのか? 主人公とは大違いだ。凡才で感情を抑えられず、いまだに血が怖くて震える。言ってみたい。
『僕らは感情のないことの訓練をしているのだから、怒ったりしちゃ変だ』
『血を見るとなんて気分がせいせいするんだろう』
思い出 1
もうすぐ30歳になる。また見合いだ。いやになる。夏の終わり、久しぶりにジムに行きプールで泳いだ。日曜の3時。子供と年寄りが多い。そこに目を引く若い女がいた。目を引いたのは泳ぎだ。延々と泳いでいる。広い肩幅。クロールと背泳を交互に。俺は同じコースであとを追った。等間隔でずっと泳いだ。彼女は自分のペースを崩さず4時に上がり更衣室へ行った。
急いでシャワーを浴び着替えた。受付の近くで待つ。帽子とゴーグルで髪型も目もわからない。彼女はなかなか現れなかったが俺より早く帰るはずはない。
しばらくして彼女は来た。あの肩幅。ダメだ。若すぎる。まだ高校生かもしれない。化粧していない光っている肌。染めていない長い黒髪、目が印象的だ。その下の泣きボクロ。スタイルもいい。肩幅だけ広すぎるが。おしゃれとはいえない服。しかしそのほうが引き立つ。
彼女は歩き出す。誘うのは……できない。ただあとをつけた。彼女は近くのラーメン屋に入った。時間は5時前。
俺は少し考え店に入った。まだ客はいない。彼女もいない? 夫婦でやっている店らしかった。彼女はこの店の娘か? ラーメンを注文する。しばらくして運んできたのは彼女だった。営業用の愛想笑い。働いているのか? この店で?
彼女はサッちゃん。入ってきた常連客がそう呼んだ。幸子か? 繁盛している店だった。幸子目当ての客が多い。近所の若い工員が気安くサッちゃん、と呼ぶ。彼女はきびきび動く。無駄がない。ビールとチャーハンを追加。会計は暗算で素早い。俺は釣りをもらい彼女の手を見て驚いた。若い女の手ではない。大きくて苦労した手だった。傷があった。手のひらに……
外に出て涙が出そうになった。小1時間いて得た情報。年は18歳。名前は幸子。秋田か青森の出身。中卒で東京に出てきて家に仕送りしている。水泳だけが楽しみ。今日も泳いできたのか? と聞かれていた。店は9時まで。
9時に店の前で待つ。幸子は俺を見て戸惑い、どんな表情をしようか考えた。笑うか無視するか?
無視して歩き出した。深呼吸して走り出す。まさか走って逃げるとは……それが速い。追いかけ肩をつかむと……不覚。彼女は腕を振り上げ、振り下ろし一瞬で逃げた。護身術か?
決めた。笑わせてやる。心の底から。
翌日仕事帰りに寄った。彼女が注文を取りに来た。ビールと高い順に3品頼む。店主の愛想がよくなる。
「顔が引きつってるぞ」
上客の俺に営業用の笑顔。石鹸の香り。
「今日も泳いできたのか?」
「プールでシャワー浴びるほうが銭湯行くより安いの」
彼女は客に言われ領収書を書く。難しいワタナベ、と言われポケットからメモ用紙を出しさらさら書いていく。難しいワタナベを何種類も書けるのか?
俺も領収書をもらう。
「ツゲ」
「?」
幸子はメモ用紙に書く。
(拓殖)
難しい名前を探す。
「リンタロウ」
(林太郎、麟太郎、凛太郎)
1週間通い詰めた。営業用の愛想のいい笑顔。店の常連客が幸子のおかげでまた増えた。母は察した。だが、聞いたら驚くだろう。論外だと。
毎日領収書をもらう。徳川慶喜、諸葛亮。幸子はメモにサラサラ書いて笑う。愛想笑いではない。楽しんでいる。
「今日は誰?」
「スティーブン、キング」
彼女は英語で書いた。
(Stephen King)
中卒だなんて嘘だ。
「君の好きな男の名でいいよ」
「Heathcliff」
ヒースクリフ?
「今、読んでるの」
嵐が丘か? あんな長い難解な小説を。
日曜日3時のプール。幸子は泳いでいた。あとをつける。彼女は笑った。営業用ではない。その日はラーメン屋まで並んで歩いた。嵐が丘の話をした。
「9時に待ってる」
彼女は頷いた。千万ドルの笑顔。俺に向けられた幸子の笑顔だった。
久しぶりに家で食事した。見合いは断った。母は彼女がいるなら連れてこいと言う。まだ彼女ではないし、不可能な恋。
その夜から9時に店の外で待ち彼女を送る。風呂もないアパート。幸子は11歳上の男を恋愛対象とは思っていない。おにいさん、と呼ぶ。言葉に訛りが残る。
「田舎に帰りたい」
愛しくて抱きしめた。
足を踏まれる前に離し飛びのいた。
「おにいさん、私は男には興味ないの。レズビアンなの。男にさわられると蕁麻疹が出る」
幸子はボリボリ腕をかく。
「たくましい腕だ。若い娘の腕じゃないな」
泣くか? 殴るか?
「バイバイ、おじさん。若い彼女が待ってるの」
おにいさんが抱き締めてはいけなかった。
「俺がおまえの故郷になってやる」
なぜそんなことを言ったのか?
立ち去るなら2度とは会わない。諦める。諦めて見合いして結婚する。
幸子は立ち止まった。心の声が聞こえたのか? ひとりで健気に生きてきた幸子が泣き崩れた。
初めて部屋に入った。殺風景な部屋。初めてインスタントコーヒーを飲んだ。砂糖と粉末ミルクの微妙なバランス。
「おいしいでしょ?」
「ああ。うまい。毎日飲みたい」
テレビもない。働いてるラーメン屋では常についている。幸子は物知りだった。ニュースにワイドショー、政治、スポーツ、雑学、俺の知らないことを知っていた。中学の成績は良かった。漢字と数学、歴史の本があった。小説はたくさんあった。
化粧水もつけない幸子に一式プレゼントした。
「こんな高価で面倒くさいものいらない」
「塩素で雪のような肌が荒れるぞ。流れる黒髪もパサついてる」
「ノルマがあるの? 買えないわよ」
「モニター用だから使った感想聞かせてくれ」
マッサージを教えてやる。ふれる。唇にも。パックしている間に手のマッサージ。苦労して荒れた手……傷の跡……食肉工場でね……なにがあった? パックしているから喋らない。俺の15のときを思い出す。敬意を払う。ひざまずき手にキスの真似を。
「興味ないのか? 化粧もおしゃれも」
「化粧品より本がいい。CDがほしい」
太宰治がたくさんあった。パラパラとめくると線が引いてある。
『誓う。あなたのためには身を粉にして努める。生きてゆくから叱らないで下さい』
『僕は恥ずかしさのために死にそうです』
『いつでもそばにいてくれ。どんな姿でもいい。俺をいっそ狂わせてくれ! おまえの姿の見えない、こんなどん底にだけは残していかないでくれ!』
(エミリー ブロンテ『嵐が丘』)
『感情のないことの訓練をしているのだから怒ったりしちゃ変だ』
(三島由紀夫『午後の曳航』)
ひとりで都会で暮らす若い幸子。どれほど感情をなくさなければならなかったのか? 3度の転職。工場、住み込みの女中、住み込みのホテル。過去は聞きたくない。
俺は線を引いた。
『自分たちの生殖器は、銀河系宇宙と性交するためにそなわっているのだ……数本が力強く濃くなって、白い肌の奥深く藍いろの毛根を宿している自分たちの毛も、その強姦の際、恥じらいに満ちた星屑をくすぐるために生えてきたのだ……』
幸子はノートを付けていた。わからないことを書き出している。それが10冊以上。丁寧な字だ。辞書で調べるのか?
夭折の天才、揮毫……わからない言葉は調べて、済になっている。
『ベナレスで夜明けのガンジス川を見た。素晴らしかった……』
「これは?」
「新聞の投書欄。自分の悩みのなんとちっぽけなことか……絶望してたときだったから……見てみたいわ」
(連れて行ってやる)
詩もあった。断片だけ。ラジオやテレビから聞こえてきた断片だけ。
『おまえはなにをしてきたのだと吹きくる風が私に問う』
「中原中也」
「おにいさんはなんでも知っているのね」
『ブドウの花は形も色もすぐれざれどその実熟しては人と神とを酔わすものを』
「?」
『ウェルテルであるかしからずば無か』
「?」
「おにいさんでもわからないの?」
「調べとくよ」
ウイスキーのコマーシャルのピアノの曲?
コーヒーのコマーシャルの雄大な曲?
ラジオでクラシックを聴くのが好きだ。気に入った曲はCDが欲しい……
「買ったのは1枚だけ。エルガーのチェロ協奏曲、ジャクリーヌ・デュ・プレの演奏。悲劇の天才チェリスト。ラジオで聴いたの……」
「バラがあるよ。ジャクリーヌ・デュ・プレ。白いつるバラ」
庭にある。見せてやりたい。
「あと、欲しいのは、バッハのバイオリン、なんとか……無伴奏??」
「どういう曲」
「正座して聴く感じ」
「シャコンヌか」
「そうそう。シャコンヌ」
思い出 2
幸子の疑問を解明していく。何年か前のコマーシャルの曲を口ずさむ。俺も思い出し口ずさむ。
「チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番第1楽章」
幸子はノートに書く。
「おにいさんはなんでも知っているのね?」
「有名な曲を知らないんだな」
「私は無知だから……」
「無知じゃない。話していてこんなに楽しい」
「ウイスキーのほうは?」
「モルダウだよ」
この会話、クラシック好きの母が喜ぶだろう……いや、無理だ。
幸子の数年来の疑問が解けていく。次に来る時はCDを持ってきてやろう。幸子からも教わる。彼女の心をとらえたジャズ、ロック、演歌、歌謡曲も。
数学は好きだったから独学で勉強していた。高校数学の分厚い本。数列が面白いか? ラジオで英会話を聞いていた。
「もっと勉強したかった。友達の家にピアノがあって、素敵な応接セットがあって、私よりできないのに高校行った……ピアノ、習いたかった」
(今からでも習わせてやる)
「妹の芙美子には高校行かせたい」
バラエティに富んだ疑問。大半を解明してやる。
「駅弁の蓋についたごはん粒を食べ昨夜のことを思い出した? なんだ、これ?」
「週刊誌に。いくら考えてもわからない」
「なるほどね。わからなくていい。誰にも聞くなよ。そのうち……教えてやる」
キスは我慢する。この年下の娘の兄貴でいいじゃないか。やがて郷里に帰るまで見守ってやるだけで……
幸子は貪欲に曲を聞く。貸したCDが頭の中で鳴っている。俺の好きな曲に共鳴する。
「あなたは弾けないの? テンペスト」
「妹たちも続かなかった」
ピアノは宝の持ち腐れ。
「子供に習わせたいわ。男の子に。テンペストを弾いてもらうの」
「俺の子に?」
幸子は肯定も否定もしなかった。
「指揮者がいいな」
持ってきたCDをかける。俺の好きな女性歌手。
「初めて聞いたときは鳥肌が立った」
幸子は喜ぶ。英語の歌詞を必死になって聞き取ろうとする。
「ぜんぜん聞き取れない」
そして訳す。楽しんでいるやつにはかなわない。
ヒースクリフ
私よ、キャシーよ
戻ってきたわ
寒いわ!
窓から中に入れてよ
(ケイト ブッシュ 『嵐が丘』から)
窓を開けて、と、パントマイムをすると幸子は声を出して笑い真似た。発音を教えふたりで歌う。思いきり笑った。10代の娘は笑い転げた。
「君はなんでもできるようになる」
「ならないわ。なにひとつ、うまくいかない」
夜間高校に行けるはずだった。就職してみると話は違った。食肉加工工場で男の課長にひいきされ嫉妬された。袋詰めしている肉の中に包丁が紛れ込んでいた。
「美貌の罪ね。誰がやったかわかった。怖気付いてかわいそうだった。かばってやったの。自分の不注意だって」
幸子は笑う……抱きしめた。幸子は泣きもしない。
「あなたはどこかのお嬢さんと結婚して。私は田舎へ帰る。先に死んだほうが亡霊になって会いに来るの。何10年たっても」
そうだな。それがいい。そうするしかないんだ。
連日書斎で詩を探した。ようやく巡り合えたときの嬉しさ。ゲーテだ。
恋人よ。おん身は幼い時は人にうとまれ、
母にもすげなくされ、
大きくなりても日かげ者なりきと。
さもありなん。
われもおん身を常に変われる子と思いき。
ブトウの花は形も色もすぐれざれど、
その実、熟しては、
人と神とを酔わすものを
幸子は夜食を作る。冷やご飯に味噌をつけただけのおにぎり。こんなものがなぜこんなにうまいのか?
フラフープが置いてあった。
「捨ててあったから拾ってきた。卑しいでしょ?」
あなたとは住む世界が違うのよ、と目で言った。俺の感情などおかまいなしに彼女は回してみせる。永遠に回っていそうだ。
マリー。俺はアポリネールの詩を思い出した。
ここはきみが少女みたいに踊っていた場所
マクロットダンスで、跳んだり回ったり
きみはおばあさんになっても
踊るのだろうね
マリー、きみはいつ帰ってくるの?
俺もやってみたがフラフープはすぐに落ちた。
「あのダンベルも拾ってきたのか?」
「そうよ。私は育ちが悪いの」
文句ある? そう言った。心の中で。3キロのダンベルを両手にそれぞれ持って腕を上げる。軽々と上げる。ひとりで生きていくの、と言うように。
休日は合わない。彼女は休まない。俺が休むから出かけようと言っても。
「勉強したいことがたくさんあるの。それにね」
俺に嫌われようとする。
「たくさん遊んだから」
19歳の誕生日に外に連れ出した。買ったばかりの車で迎えにいく。自慢した。バカだった。彼女は車にも詳しかった。高級車ばかり。服をプレゼントした。幸子が入ったこともない店で? 1桁違う金額の服。それを着て食事に行く。車の中で化粧してやる。淡い口紅だけで充分きれいだ。エレベーターから降り、彼女は堂々としていた。場慣れしていた。テーブルマナーは教える必要がなかった。ホテルで働いていたからだ……
「誘われるの、日常茶飯事だったんだろ?」
「当然でしょ。 百万出すって気持ち悪いのがいたわ。できないから添い寝するだけだって」
若くて美しい娘の過去になにがあったか? なぜ清貧に甘んじているのか?
宝石店で指輪を選ぶ。幸子は意味がわからない。
「時間がないんだ。また見合させられる」
「私を……選ぶの?」
「ああ、そうだよ」
「もう、働かなくていいの?」
「1桁違う生活をさせてやる」
幸子は指輪を選ぶ。正面に陳列してある、車より高いダイヤ……店員が説明する。小娘に……幸子の質問に……店員がたじたじになった。
「これがいい。傷もないし」
無理だよ。それは……
「これが欲しい。1桁じゃいや。ほかのならいらない」
幸子は指輪を置いて出て行った。
「すみません、また来ます」
この女のためなら車なんか手放す……本当に欲しいのなら……
しかし、幸子は笑っていた。笑い転げていた。ダイヤはただの光った石。
「驚いた。宝石にも詳しいんだな」
「原価も掛け率もね。ホテルで働いてたときに展示会のたびに手伝わされた……安く買えるわよ。紹介しようか? 私なら原価でいいって」
「……」
「金を払ってもいいって」
「百万で添い寝するだけか?」
幸子は俺の耳元で囁いた。
「な、め、る、だけよ。悪い? 大学いきたかった。大倹受けて……」
「……いかなかった」
「軽蔑してやるの。あなたみたいな高学歴の金持ち。バカばかり。1桁くらいじゃ……」
「……僕は恥ずかしさのために死にそうです」
「3月で都会とはお別れ。田舎にできるスーパーで働く……今より安い給料で。楽しみだわ。学歴を見下され、美貌を嫉妬され意地悪されて快感。次は何をされるか……」
幸子は手を見る。俺は想像しただけで震える。
「……じゃあ、それまで付き合うんだ。それまでに嫌いにさせるんだ。嫌いにさせてくれ」
思い出 3
冬にマフラーを編んでくれた。忙しい時間の合間に編んでくれた。服のお礼だと。アイボリーの見事な編み方。
「毛糸は奮発したのよ」
幸子とふたりで首に巻く。帰ると母は手に取って調べた。
「アラン模様ね。がんばったわね」
母の質問をかわし幸せに浸る。容赦なく時は過ぎるのに。
暮れに幸子は田舎に帰った。ホームで見送る。4日会わないだけなのに。こんなに辛いと思ったことはない。もう帰ってこないのでは? 不安が胸を押しつぶす。正月は地獄だ。親戚が口々に言う。まだ結婚しないのか?
退屈で書斎にこもる。昔読んだ本をパラパラめくる。見つけた。カミュのシーシュポスの神話。
『情熱恋愛の専門家たちが口をそろえてぼくらに教えてくれる、障害のある愛以外に永遠の愛はないと。闘争のない情熱はほとんどない、と。そうした愛は死という究極の矛盾のなかではじめて終わるものだ。ウェルテルであるかしからずば無か、そのどちらかだ』
幸子は帰ってきたが本当の別れが近づいていた。
「こっちで働いて年に何度か帰ればいいじゃないか?」
「ハイジみたいに病気になる」
幸子はため息をつく。決心は変わらない。一方的な愛だ。怒りに任せゴミ置き場の袋を叩いた。右手に激痛が走り血が流れた。ガラスか? 割れたガラスが袋に?
幸子は素早かった。近くの家のドアを叩き救急車を呼んだ。ハンカチの上から彼女の手が押さえる。気が遠くなっていく。
「しっかりするのよ」
頼もしい女だ。必死で俺を支えた。俺が守ってやる必要はない。守ってほしいのは俺のほうだ。
「一緒だな。おまえの手と……キスを……このままでは死ねない」
人間の精神力はすごい。遠のいた意識が戻った。気を失っている場合ではない。幸子の唇が正気に戻した。
怪我のおかげで幸子は帰郷を伸ばし、ずっと付いていてくれた。手術の間は家族とは離れて待っていた。ふたりきりになると世話を焼いてくれた。食事、歯磨き、体を拭き、着替えさせる。そして……勉強熱心な女はキスの研究をする。角度を変える。映画のようにステキなキスを……ずっといてくれるなら治らなくていい。
父が幸子のことを調べさせた。幸子の家族のこと。直接聞いた通りのことだ。深く付き合った男もいない。それでも反対する。母がとりなす。1度会いたい、と。なにを言われるかはわかっている。19歳の田舎の貧困の父親のいない中卒の娘。三沢家の長男の嫁にするわけにはいかないと。
5月の連休に幸子は帰る。もう戻っては来ない。俺は幸子を家に連れてきて紹介した。幸子は家の大きさに驚き、グランドピアノに驚き、飾ってある日本刀に驚いた。
「本物? 斬られるかも」
幸子は買ってやった服ではなく普段の地味な服装で来た。ソファーに座らされ質問攻め。感情をなくすことの訓練を積んでいた女は、怒りも憤慨もせず涙も見せなかった。出されたケーキには手をつけず、壁に飾ってある額を見ていた。
勧君莫惜金縷衣
勧君惜取少年時
花開堪折直須折
莫待無花空折枝
母と1番下の妹には情けがあった。編み物、上手なのね、と言われ微笑んだ。すぐ下の妹の言葉に幸子は出て行った。立ち上がり俺の顔さえ見ずに、客にお辞儀をするように丁寧に頭を下げて出て行った。
「本当のことでしょ? 財産目当て」
父は聞く耳を持たなかった。男の孫は3人いる。
追いかけると幸子は漢詩の意味を聞いた。
「花 開き 折るに堪へなば 直ちに 須く折るべし」
「花が咲いて見ごろになったら、すぐに折り取るがよい」
海辺のホテル、幸子はベランダに出てすぐ真下の海を見て波の音を聞いていた。長い時間……体が冷え切っても。
1週間後、幸子の実家に挨拶に行った。近くに部屋を借りた。幸子は当面俺を養うくらいの金は貯めていた。車を買ったばかりの俺が自由にできる金は僅かだった。幸子はスーパーで働く。籍を入れて夫婦になった。祝福は幸子の家族からだけ。
5月の海、冷たくないのか? 幸子は足を濡らす。水を得た魚だ。泳いで行ってしまいそうで怖くなる。誰もこない海。長年の幸子の疑問を解いてやる。幸子の帰りたがっていた田舎の海、青空の下で抱きかかえた。
子供ができた。母にはハガキで知らせた。父は許さないから返事はない。幸子は謝る。親と断絶させてしまったと。母になる幸子には耐えられないと。
名前は考え過ぎるくらい考えた。結果、|英幸、ふたりの名前から1字ずつ。
亜紀、
俺は捨てられない。思い出にすることだけは許してくれ。おまえは俺の最後の女だ。
「あなたはずっと前に読んでたんだ?」
「嵐の夜に。パパが……」
「……どうして……愛は永遠じゃないの? ひとつじゃダメなんだ? ひどいよ。ママは。こんなに愛したパパを裏切るなんて」
「……裏切ったのはパパのほうかも。再婚したパパのほうかも……」
「そんな……バカなこと」
「なんとなく、そう思うことがある……あなたも?」
「絶対違う」
「……嵐の夜にパパはうなされてた。起こすと一瞬夢と現実の区別がつかないみたいだった。幸せそうな顔をしたわ。全部夢だったのか、みたいな……それからは本当の悪夢ね。再婚したこと後悔してるんでしょって私に暴れられて……ああ、おかしい」
「情けない男だ」
「……おじいさんが倒れ、会社も傾き、おばあさんは介護で体を壊しパパは戻った。お金がなくなると叔母さんたちは寄り付かなくなった。おじいさんは体が不自由でも怒るしね。
あなたのママは半身不随のおじいさんの介護に、体を壊したおばあさんの世話、家の中のこと、外のこと、介護もお手伝いも頼まずひとりでやり遂げたの。パパが仕事に専念できるように。合言葉は
Don't give up.
大変な時にお金を出したの。田舎から出てきたあなたのママはずっと節約して貯金してた。パパと結婚してからも自分の収入だけでやりくりして、幼いあなたを連れて配達の仕事をして、パパが手を付けずに渡した給料は全部貯金してた。パパは紳士服ナンバーワンの売り上げだったから半端な額じゃないわ。それを3年間手を付けずに貯めていた。そのお金で会社は持ち直した。あなたのママは会社の功労者。株主なのよ」
「財産目当てじゃなかったんだ」
「3分の1はあなたに」
「春樹は?」
「3分の1。あとは……寄付した。幸子さんの遺志で恵まれない子供に」
ママはそういう女だった。
「欲がないのね。幸子さんと同じ」
「……最後のページはあなたが書いたの? 絶望か希望か」
「ああ、忘れてた。なんだったかしら?」
「パパと結婚して幸せ?」
「英語の英に不幸の幸。ひねくれてたわね……」
「教えて。パパの部下のこと。瑤子の元婚約者。この家に住んでた? 僕は覚えてない。社長は太陽だったって、酔って言ってた。誰の太陽?」
「……あなたのママよ」
「……」
「私の太陽でもある」
最愛の妻 Ⅱ