短編集 Ⅰ

短編集 Ⅰ

長編、中編小説のエピソードをコンテスト用に2000字から5000字に改筆しました。

夏休みの思い出

 僕がなぜピアノを弾くのかは誰も知らない。パパでさえ記憶にないだろう。

「なぜあんな男に? 俺が劣っているのはピアノだけじゃないか? おまえがあいつを負かすんだ。最年少入賞という自慢の記録を塗り替えてくれ」

 酒に溺れていたパパが覚えていなくても、約束は約束だ。

 ︎

 まだ、ときどきは女の子に間違えられていた中学1年の夏休み、背は平均より低く、体重は女子より軽く華奢だった。

 区のトレーニングジムに通った。若い子は少なかった。来ているのは年配者、老人が多い。
 その日は3人が初心者だった。身長、体重、体脂肪、血圧……を測っていく。太った女がいた。年は不明。メガネをかけ青春からはじかれた体型。
 女はスポーツには無縁のようだ。ストレッチでぐらついていた。マシンの使い方をひと通り教わる。
 最後にランニングマシンで走った。隣のマシンで、太った女がバタバタ走る。呼吸を乱し、無理をしている……女は貧血を起こしたのか、僕はマシンを停止させた。コーチの声が、無理しないで、とわめく。女はしばらく休んでいた。
 話が聞こえた。歳は……高校3年、都立高。そこそこの学力。体重は70……声をひそめた。一念発起、夏休みの間に痩せたい……最初から無理しちゃダメだよ……
 
 太った女は(かつら)さん、と呼ばれていた。僕は三沢クンだから、名字なのだろう。桂はよく来ていた。僕は1日おきくらいだが、彼女はいつ行ってもいた。午後の1時間トレーニングをした。成果があるのかはよくわからないが。クラスの男子はその夏、背がぐっと伸び男らしくなった。努力している僕の身体は相変わらずで、逞しさとは程遠い……いっそ、桂の身体と交換したいくらいだ。
 隣のランニングマシンで桂が走る。もう貧血は起こさない。彼女は1キロをゆっくり走る。自分のペースで。それを何回繰り返すのか? 僕たちは口をきかない。かたくなにどちらからも話しかけない。常連たちは気軽に声をかける。痩せたんじゃない? 痩せたよ。きれいになった……桂も気さくに話していた。僕には話しかけない。かたくなに、意地でも自分から話しかけるものか……とでも。
 その日、桂の手に目が止まった。今までしっかり見ることはなかった。桂は視線を感じたようだ。なに? というように僕を見返した。
「ピアノ、弾きますか?」
 そこからは話が弾んだ。桂はコンクールを目指していた。家では思い切り弾けない。グランドピアノで弾きたい……

 急速接近。義母の亜紀は僕が初めて連れて行った女を見て驚いた。5つ年上の太った女、すでに10キロ近く体重を落としたらしいが……
 興味があるのは彼女のピアノの腕。目指すコンクール。
 桂は思いきり弾ける環境を羨ましがった。住んでいるのはマンションだった。思いきり弾いたら苦情がくるだろう。
 三沢家の古いグランドピアノで最初に弾いたのは……最初はわからなかった。ゆっくりで、別の曲かと思った。今まで僕はなにを弾いていたのだろう? この曲を速く弾いていた。モーツァルトのよさはわからなかった。簡単でつまらない……桂の8番は違った。僕は初めてモーツァルトに泣いた。恥ずかしいが、とめどもなく涙が出てきた。

 父がハンカチを頬に押し当てた。父が帰ってきたのにも気づかなかった。恥ずかしがることはない。感動したのだ。崇高な音楽に感動した…… おまえのとは大違いだ……そう思っただろう。父と亜紀と3人で拍手した。桂は父の出現に驚いたが、クラシック好きな魅力的な男にリクエストされ、次々に弾いた。
 トレーニングジムでは冴えなかった、年配のコーチにさえ軽くあしらわれていた女が、ピアノの前では魅力的だった。
 僕は彼女の前では恥ずかしくて弾けない。亜紀が菓子と果物を出し、父が紅茶を注いだ。父はいろいろ聞いていた。驚いたことに彼女に練習場所を提供した。僕に教えることを条件に。亜紀と気の合った彼女はいろいろ話していた。コンクールにドレスを着たいの。だから、痩せたい……

 その夏、桂はトレーニングに励み、僕にピアノを教えに来た。そして父が手配したピアノの教授のところへ習いに行った。コンクールに多勢入賞させてきたベテランの年配の男だった。父はそのために多額の金を使った。父は僕との約束を覚えていたのだろうか? 桂はあの男が入賞したのと同じ年、おそらく3位以上の賞を取らせたいのだろう。

 亜紀は痩せたい彼女のためにいろいろアドバイスした。父の帰りが早い日は夕飯を食べていった。太った女はメリハリのある体になっていった。亜紀は気が付いていたのだ。なぜ彼女が短期間で変わったのか。青春からはじかれていた女は一気に魅力的な女に変わっていく。
 桂はメガネからコンタクトに変えた。化粧品会社社長の父が直々に化粧を教えた。僕は真似て亜紀に化粧した。楽しかった。

 その年の秋、桂は僕の目指しているコンクールに出場し1位になった。色の濃いシンプルなブルーのドレスを着て会場の注目を浴び、演奏で一層惹きつけた。彼女から学んだことは多い。彼女の訪れが父と僕の距離を少し縮めた。
 18歳の女と42歳の男。桂は恋をしていたのだ。亜紀にはわかっていた。恋の魔力はすごい。鈍感な父にはわからないのか?

「もう、ピアノはやめてもいいのよ。ちっとも楽しそうじゃないわ」

同志

 小学校4年の時、ボクは三沢と同じクラスだった。同じ班に(こう)っていう女の子がいて、香るっていう字。香るなのに動物臭くて虐められてた。同じ班で香は宿題やってこないからいつも残り掃除。香は口もきかず長い髪は汚くて、前髪が目にかぶさり上履きも小さくて、あれは育児放棄? 臭い臭いって虐められるのを助けたのはボクだよ。三沢じゃない。
 ボクたちは香に宿題をやらせようと家に行った。庭の木は手入れされずお化け屋敷みたいだった。香は縁側でハムスターと遊んでいた。それはもう魅力的で三沢も目を輝かせてさわらせてもらった。
 女の子が、ダメ、交尾しちゃう、なんて喋ってんの。そこにオヤジさんが帰ってきて、増えたハムスターを怒り処分すると言うと香は抵抗した。私も死ぬからねって。そのハムスターをボクたちはもらってきて育てた。

 香のかあちゃんも男を作って出ていった。ボクたちは同志が増えたと喜んだ。母親に捨てられた三沢と香。父親に出て行かれたボク。ボクたちは同志連盟を作り、絶対親を許さない、親が死んでも泣かない、墓に唾を吐きかけてやろうって誓った。
 ボクたちは香がいじめられないよう前髪を切ってやった。うまくいかず香は泣き出した。しょうがないから三沢のおかあさんに切ってもらった。新しいおかあさんは世話好きだから、シャワーを浴びさせ服を洗濯しきれいにしてやった。父親のところへ行き話していた。忙しいと言う父親に虐待ですよって負けていなかった。おかあさんは香が自分のことは自分でできるよう教えた。毎日シャワーを浴びること。歯を磨くこと。髪の結き方。家の掃除、洗濯、簡単な調理。 
 だんだん香はきれいになり香の家もきれいになっていった。とうちゃんは長距離の運転から日帰りバスの運転手に変わって、香はひとりで夜を過ごすことはなくなった。ボクたちは香のとうちゃんのバスに乗ったよ。香は嬉しそうだった。とうちゃんはマイクを持って喋り乗客は拍手した。

 中学になると香は同志から抜けた。もう女らしくなって香を好きだという男もいた。三沢もボクとはレベルが違うから、あいつは成績は塾にもいかないのにトップだったから、そんなにくっつくこともなくなった。あいつは友達も作らず勉強とピアノに打ち込んでいた。香以外の女とは話もしない。いや、香も女っぽくなると話さなくなった。
 3年の夏休みに三沢を生んだ母親が亡くなった。それが原因だろう。2学期からあいつは変わった。ボクが話しかけても無視した。そのうちあいつは不良グループといるようになった。獣医のおかあさんのところから盗んだモルヒネやってるとか噂になって、ボクはどうにもできないでいると、香がやってきて、連れ戻しにいくわよ。我らが同志をってすごい剣幕で。香は自分ちのでかい犬を連れて不良の溜まり場に乗り込んだ。
 玄関で、
「出てきなさい。三沢君」
て大声で叫んだ。ワルがふたり出てきてボクはひるんだが、香は犬をけしかけてまた叫んだ。
「三沢君、こんな人たちと付き合っちゃダメ」
 あいつはようやく出てきた。
「三沢君、母親が死んだくらいでなにやってるの? 忘れたの? 親なんか乗り越えるんだって。墓に唾吐きかけるって。私はやるわよ。誓ったでしょ」
「静かにしろよ。今、犬が死にゆく」
 香の犬を門につないでボクたちは中に入った。部屋の中にバスタオルが敷いてあって、ワルのリーダーが犬をさすりながら泣いていた。皆初めて見た。いや、三沢は祖父母の死に立ち会っていた。元々は三沢のおかあさんが保護した犬で三沢が名前を付けた。シャーロックって。あいつはシャーロック・ホームズ好きだったから。シャーロックは小学生の時にリーダーに引き取られていた。シャーロックは苦しそうに見えたがモルヒネ与えられて苦しくはないんだ、と三沢が言った。下顎呼吸って言うんだ。死に向かうとこういう呼吸になる。
 苦しそうだよ。早く楽にしてやりたい。もうひとつモルヒネ飲ませてもいいか? シャーロックはもう飲み込めなかった。集まってた不良たちが犬の死に向き合っていた。1時間も見守ると犬が大きな声で泣き、最期がくるのがわかった。三沢はサッと抱き上げた。その瞬間犬はおしっこもうんちもした。ボクたちは犬をきれいにしてやり箱に入れた。三沢は手を洗い香を見た。香も犬の死に泣いていた。
「香、勇気あるな、同志」

 三沢はもとの優等生に戻り卒業式。あいつは女子にボタンをむしられボロボロだった。そこへ香の登場さ。きれいになった香は三沢の前まで歩いてくると、
「握手してください」
と手を出した。女子が見ている中であいつは香と握手した。
「香、おとうさん、大事にしろよ」
かっこよかったな。


 ︎


 母が死んだ。知らない街で。保険金が入った。

 知らない街に墓参りに行った。墓にそっと唾を吐きかけた。うまくかからなくてもう1度かけた。

 記憶に残る母は長い髪を金髪に染め、黒ずくめの服装で学校に来た。ある日母は消えた。猫と一緒に。私ではなく猫を連れて消えた。

 金は可哀想な犬と猫のために使おう。

 それから年賀状を。同志に。三沢君と治に。

 おめでとう。母が死んだわ。あの日の誓い、私は守った。泣かなかった。唾を吐きかけた。やったわよ。

  ︎

 久々に訪れた三沢邸。亜紀さんに会うのも久しぶりだ。私と父を救ってくれた恩人、私にいろいろ教えてくれた。生理のときも、女性の体のことも避妊のことも……この人の義理の息子に私は恋をしていた。初恋だ。

 三沢君がいた。中学を卒業したあとも何度か会っていた。三沢君の家の庭で。卒業式に大勢の前で握手を求めた私の気持ちは、いつも素っ気なくはぐらかされた。
「また捨て猫か。去勢されるのか、かわいそうにな」
 動物好きな私たちは慣れていた。飼っていたハムスターの下腹部が腫れて大きくなり、心配して亜紀さんに見せたときは
「睾丸よ」
と言われて安心した。
「ハムスターのタマタマは立派なの」
 睾丸、去勢、交尾、生理、……小学校4年だった私と三沢君と治は、そういう言葉を恥ずかしいとも思わず使っていた。
 私が亜紀さんに会いに行くのは里親探し……三沢君は会うたび背が伸びていた。
「香に彼氏ができたって?」
「え、ええ。三沢君は?」
「失恋した」
「男に?」
 懐かしい舌打ち。
「失恋? あなたが? 女に?」
「ああ、治に負けた。あいつはいい奴だからな。僕よりずっと」
「治ちゃん……」
「納得だろ?」
「そうね。あの子と比べられたらかなわない」
「おまえはなぜ治を好きにならなかった?」
「そうよね。治ちゃんにすればよかった」
「……負けた。負けた」
「ま、恋愛ほど苦痛と努力のいるものはありません。それに耐えれるだけの人間におなりなさい」
「青春論かよ……おまえは強いよな」

 中学3年の夏、三沢君を捨てた母親が亡くなった。ずっと優等生でいたこの家の長男は、不良グループと付き合うようになった。亜紀さんの動物病院からモルヒネ盗んで……とか噂になり、私は治と飼っていた大型犬を連れて、取り戻しにいった。同志を。
「そうよね。あなたのために不良の巣窟に乗り込んだ」
 三沢君は、かつて亜紀さんが保護した犬の最期を看取っていた。三沢君が名付けたシャーロックは、まだ無邪気だった同級生に貰われていたのだ。
「恐れ入った。付き合わないか? 僕たち、いいコンビだ」
「女だと思ってないくせに」
「好きだったよ。髪がボサボサで汚くて動物臭くて……」
「言わないでっ! 私はひとりで暮らしてたのよ」
 思い出したくない。父は長距離の運転手。手入れされなくなったお化け屋敷のような家に、ほとんどひとりで暮らしていた。まだ10歳だった。
「お菓子の袋をナイフで切って、手も切った。血が襖に飛び散った。誰もきてくれない。私はそのまま泣き疲れて眠った。あんたとは違う」
 感情の失禁。私はおかしい。三沢君は私を抱き寄せた。憐んで。
「いい匂いだ。ずっとあのままでいればよかったのに。おまえが男だったらよかった」
「あんたは色が白くて女みたいだった。泣き虫だった。雷を怖がってたくせに」
「おまえと治に助けられた。おまえは父親にも歯向かって強かった。羨ましかったよ」
「私は……あなたが羨ましかった。亜紀さんがおかあさんで羨ましかった」
「じゃあ、結婚しようぜ。好きなだけ犬も猫も飼ってやる」
「この家で? 亜紀さんとおとうさんと?」
「おまえの家に住んでもいい。オヤジさんとはうまくやれるよ」
「彼もそう言ってくれるの。父に気に入られてる」
「クソッ。また振られた」
 私たちは声を出して笑った。
「血が、怖くない? 母の血。結婚するの怖い。私も母みたいになるかも」
「……結婚か。恋愛の終結。恋の惰性もある。移り気もある。しかし、そのために一々離婚していたら、人の一生は離婚の一生となるだろう……」
「青春論か。亜紀さんがくれた本」
 亜紀さんが勉強の遅れをみてくれた。読書の楽しみも教えてくれた。
「ピアノ弾いてよ。小さな木の実」
「絶対いやだ。いやな女」

 私は口ずさんだ。歌は過去を蘇らせる。『小さな木の実』は小学校6年のときに音楽会で歌った。三沢君は伴奏しながら歌った。まだ高音のきれいなボーイソプラノだった。三沢君は初めての練習のときに途中で泣き出した。父親を思い泣き出した。私は父との仲が修復できていたが、三沢君は妹も生まれたが寂しかっただろう。治は天使だ。治は他人の悲しみには敏感だ。すぐに気づき大声で歌い、わざと音を外して皆を笑わせて誤魔化した。私も大声で歌った。私たちは同志だった……

先輩

 靖は優等生だった。運動神経もいい。女子には人気があった。
 しかし男子はわかっていた。靖の鬱屈を。
 時々乱暴に机を叩いた。仲のいい父子を見ると唾を吐いた。
 男子の大半は怖れたが、機嫌を取り逆らわなかった。
 数人は子分だった。彼らの中では靖は父親と同じだった。気前よく奢り、ふざけているふりをしながら本気で蹴った。
 気に入らない男子には、給食を配る時に熱いスープを指にかけた。階段から突き落とした。

 子分たちは靖のために気に入らない相手をいじめた。上履きを隠した。ノートにいたずらした。女子トイレに押し込んだ。カンニングをしたと言いふらした。
 靖は見ているだけだ。

 しかし、6年の半ば、先生が皆の前で言った。
「男子が大勢、あなたがいじめをしてるって言いにきたのよ。本当なの?」
 思い当たる。
 言いつけたのはあいつだ。あいつも。
 しかし靖は何も言えなかった。もはや孤立した。

 孤立……靖は思い知った。女子もよそよそしくなった。
 自分は弱い人間だ。父親と同じだ。
 あとは卒業まで耐えるしかない。中学は皆と違うところに通えばいい。

 真希がいた。
 真希は靖を軽蔑している。
 靖は勝てない。真希は勉強もできる。クラスが違うから比べられないが。
 運動もできる。女だから比較しようがないが。
 ただスイミングクラブでは完全に負けた。真希は選手コースなのに靖は育成コースだ。才能が違う。
 羨ましい。
 真希には父親がいないのだ。

 圭吾がカラスに突かれているカエルを助けた。 
 あいつは好きなのだ。カエルも蛇も。
 優しいのだ。
 あいつは小学校に入る前からの友達だ。あいつだけは離れていかなかった。
 あいつは真希を好きだったのだ。
 好きな女の子にカエルを見せた。
 真希は嫌がった。
 こんなにかわいいのに……
 嫌がられば余計にかまいたくなる。好きだから。
 カエルを付けられそうになり真希は走って逃げた。
 そこに何人かの男子が来た。面白がって追いかけた。
 真希は走るのは早い。走って道路に飛び出した。表通りではない通学路に運悪く車が来た。

 ︎

 真希はH高に入学した。杖を付いて階段を登る。周りは心配そうに見るが、助けはいらない。片足が不自由でも負けない。歩く速さも負けてはいない。

 同級生に葉月がいた。出席番号がひとつ前の葉月は真希の前に立っていた。
 来賓の挨拶が終わると、葉月の様子がおかしかった。
 貧血? 真希は支えた。左手で。しかし、全体重を片腕で支えることはできなかった。
 たった今、来賓の挨拶をした男性が駆けてきて崩れる葉月を抱き上げた。素敵な紳士に絵に描いたような美少女だ。30年前の卒業生だという……あんな父親がいたら……

 葉月は男子ばかりではなく、女子にも人気があった。助けてあげたくなるような……頼りない美少女だ。
 その葉月は漢文が苦手だった。当てられてトンチンカンなことを言ったから、後ろからそっと答えを教えた。
 それ以来真希は葉月に頼られた。足の悪い真希が健常者に頼られたのだ。
 葉月は腕をつかんでくる。手を貸しているつもりか? トイレまで付いてくる。

 美少女は恋をしていた。入学早々告白して振られた、という噂だ。渡したプレゼントを受け取ってもらえなかった。
 窓から三沢先輩を目で追う葉月は可憐だ。しかし、あの先輩は葉月に対してつれなかった。いや、女生徒には関心がないようだ。しかし……

 とんでもないことが起きた。
 体力測定の日。真希は運動場で葉月が走るのを見ていた。投げるのを見ていた。
 葉月はテニス部のくせに運動神経の鈍いやつ……しかし、かわいいのだろう。所作がかわいい。スコート姿の葉月は女の真希が見ても抱きしめたくなる……

 真希は用紙を落とした。風で飛んだ。先輩が、三沢先輩が拾った。
「ありがとうございます」
 手を出したがすぐには返してくれなかった。先輩は数字を見ていた。身長、体重、胸囲……
「返してください」
「君は……すごいね、握力。肺活量、男並みだ」
 褒められたのか、呆れられたのか……
「覚えてない? スイミングクラブで一緒だった。僕は育成コースだったけど」
 葉月が走ってくると彼は真希に用紙を返し去った。やはり美少女を無視した。 

 三沢英幸(えいこう)、聞き覚えがある。
 スイミングクラブにいた、ひとつ年上の、真希より背の低い、真希より色の白い美少年だった。
 あの子が? あのかわいい男の子が、あんなステキな先輩に? 
 そして、真希に興味を持った。足が悪いから? 
 翌日から彼は駅で待っていた。女生徒には関心のない彼が駅で真希を待つ。バッグを持ってくれる。かばってくれる。必要ないのに。
 女生徒は悔しがる。同情よ。同情……
 先輩に恋する葉月は喜んでくれた。内心は悔しいのだろうが。

 音楽室で真希は先輩のピアノを聴く。女生徒が大勢来ている。2年の水谷幸子がいる。葉月と男子の人気を二分している。
 幸子は後ろの席で聴いている。葉月は廊下で聴いている。
 先輩は真希の好きな曲を弾いてくれる。貸してくれたCDの曲を。

 先輩に恋する葉月に悪いと思いながら、部活に入らないふたりは一緒に帰る。女生徒の嫉妬を感じる。
 話すのはクラスの話。葉月のことを聞きたいのだ。
 先輩も、本当は好きなんでしょ?
「葉月みたいな長い髪が好きですか?」
「……真希みたいな、ショートヘアが好きだよ」
 真希の頬が染まる。
「……歌のテストがあるの」
 先輩は公園のベンチで座って歌った。真希は聞き惚れた。イタリア語のカタリ・カタリ。
 観客が集まってきた。拍手喝采。彼は立ち上がりお辞儀をした。アンコールは流行のアニメソング。
 幼い女の子が一緒に歌う。
「ごめん、男の子の歌は知らない。弟はいないんだ……」
 変わりに、順番に肩車をした。列ができた。男の子も女の子も。
 指相撲をした。長い指に小さな指を絡ませた。扱いが慣れていた。
「先輩、幼稚園の先生になれますね」
「そうかな、それもいいね」
 ダメだわ。母親が恋をしてしまう。

 プールがはじまると真希はもちろん見学だ。前の時間に終わった先輩が真希に言った。
「また見学か? 泳いでみろよ」
「私に傷だらけの足をさらせって言うの?」
 真希の語気に彼はたじろぎ謝った。
「ごめん、そういう意味で言ったんじゃない。君なら泳げると思ったんだ」
 多勢が見ていた。真希は涙を堪え早足でよろける。彼は支え、拒否されながらまた謝った。
 翌週から真希は水着を着て授業に出た。傷だらけの足をさらして。
 プールに入るとすぐに気にならなくなった。腕だけで真希は軽々と泳ぎ切った。腕の力は並ではない。
 先生も生徒も拍手した。彼はプールサイドで見ていた。真希と目が合うと笑って教室に戻っていった。

 体育祭で真希は走った。スタートはずっと前方だったしゴールしたのも最下位で時間はかかったが皆が応援した。
 先輩は1年の男子に混じって応援していた。1年の菊池君……あの男生徒は?
 
  
 真希の様子がおかしい。先輩は問い詰めた。答えないでいると、
「靖だな? A組の菊池靖。スイミングクラブで一緒だった郡司靖。君に大怪我させた。噂は本当だったの?」
 真希はうなずいた。
「ひどい奴なの。小学校のとき、お金を取られた。子分にやらせたの。上履きを隠させたり、教科書を隠したり、カンニングしたと言いふらしたり。
 気に入らない男子には給食を配る時、熱いスープを手にかけたり、階段から落としたり……」

 やがて噂が耳に入ってきた。靖が金を取られた。上履きを隠された。教科書を隠された。試験のあとはカンニングをしたという噂が……
 そしてどんどんエスカレートしていった。靖が手に火傷した。包帯を巻いていた。
 真希は先輩を問い詰めた。彼は真希に笑って話した。
「仇は取ってやるよ。学校に来られなくしてやるからね」
「……」
「次は階段から落としてやる」
「やめてよ」
「どうして? 楽しいのに」

 真希は見張っているわけにはいかない。休み時間に靖は階段から落ちた。滑って落ちた。そばにいた先輩が助け起こしたという。
「今に大怪我するぜ。真希みたいに」

 公園で先輩を問い詰めた。彼ははぐらかした。
「胸、また大きくなった?」
「……」
「80のわけないな。何センチ? 女子が話してたよ。真希のおっぱいはかっこいいって」
「嘘っ」
 いやらしい視線だ。
「葉月を好きなくせに。葉月の気を引こうとして、私に気があるふりをしてるくせに」
「葉月? そうだな、彼女のスコート姿もムラムラする」
「水谷さんを好きなくせに」
 ポーカーフェイスが崩れた。
「わかる? やっぱり。ね、彼女はどうだろう? 僕のことどう思ってるかな?」
「自分で聞けばいいでしょ」
「怒るなよ。君をからかうとおもしろい。君だから言うけど、本命は1年A組の靖。いじめるのが好きなんだ」
「やめてよ。もう」
「怒りっぽいな。生理なの?」
「いやらしい人ね」
「いやらしい? なんで? そういう話、平気な子がいたな。女の子。教えてくれたよ。ハムスターと猫には生理はないんだ。犬はあるけどね。発情期も。ハムスターの腹が膨れて心配したら、睾丸だって……ハッハッハ。女の子が、睾丸だって……」
「笑い上戸!」
「毛、剃ってるの?」
 先輩が真希の腕を撫ぜた。ぞっとした。
「僕はいつでも発情期。真希は? 想像しただろ?  僕と……」
「……想像したわよ。小学生のあんた。女みたいだった」
「やめろよ。思い出したくない」
「上級生にペットにされていたくせに」
「イヤな女」
「みんなに言いふらしてやる」
 彼は声を出して笑っていた。
「真希、杖、忘れてる」
 杖を受け取り言った。
「今度近づいたら、ぶっ叩いてやる」

 翌日の朝、彼は真希のあとをゆっくりついてきた。学校に着くと近づいて来た。真希は身構えた。
「昼休み、屋上に来いよ。終わりにしてやる」
 どういう意味?
 4時間目が終わると急いだ。屋上に出ると靖は先輩に脅されていた。そばに水谷幸子がいた。必死に止めていた。
「飛び降りろよ。死にはしないって。償うんだろ? 真希に。おまえのやったこと」
「やめなさいよ、三沢君」
「靖、飛び降りろよ」
と先輩にもう1度言われ、靖は柵を越えようとした。
 真希は走った。
「転ぶわ。危ない」
 幸子の声で支えにきたのは靖だった。
「もうやめて」
 真希は叫んだ。
「許すのか? 真希、こいつを許すのか?」
 真希は答えずにもうやめて、と繰り返した。
「行けよ。靖」
 彼のひとことで靖は去った。泣きじゃくる真希を先輩は優しく抱いた。幸子の前で。耳元で彼は言った。
「靖は何もしなかった。おおごとになり皆は関わっていない靖のせいにした。靖は責任を被って転校した。両親は離婚、靖は母親の姓になり、君は同じ高校になっても気づかなかった。靖は変わっていた。君が気づかず好意を寄せるほど」
「……」
「許してやれよ。靖はずっと苦しんでた。待ってるぜ。靖は」
「……先輩はわざと? そう。私が誤解していたの。他愛ない、いたずらだったの。お金を取られたのも。事故にあったのも。私を好きだった男の子のいたずら。菊池君はその子をかばったの」
「行けよ。靖が見てるよ」
 屋上の入り口に靖が立っていた。

 靖が真希の目を見て謝った。
「退院した日に病院に行ったんだ。謝ろうと……できなかった。怖くなって……ごめん。償うよ。一生かけて償う」
「菊池君のせいじゃない。圭吾は強くなった……背が伸びたの。レスリング部よ」
「ああ。君の様子を教えてくれた。聞き出してたんだ」
「三沢先輩……演技だったの? 全部? 火傷も、階段から突き落としたのも」
「ああ。包帯は大袈裟に巻いた。僕は柔道やってるから受け身は取れた」

「三沢先輩は水谷さんが好きなのね?」
 葉月の恋は報われず……
「篠田葉月が好きなのは三沢先輩のおとうさんだよ」

 まさか? 真希は思い出した。入学式に倒れた葉月を支えにきた来賓のステキな紳士。葉月は保健室まで抱かれていった。
 葉月は父親へのお礼のプレゼントを先輩に渡そうとしたのだ。受け取ってもらえなかった。
「似てるんだ。先輩と僕は」
「なにが?」
「……父親に殴られてた」
 

かたきうち

 三沢英幸(えいこう)とは幼稚園からの付き合いだ。あいつは3月生まれだから小さかった。中学まではボクのが背が高かった。ボクらはよく家を行ったり来たりした。あいつのママは……

 小学校に上がる前に、あいつんちが持ってたアパートに若い男の音楽の教師が越してきた。そのうちあいつはピアノを教わり、三沢の家でよくそいつは演奏してた。三沢の家にはグランドピアノがあって、あいつのばあちゃんはクラシックが好きだから、よくリクエストしてたよ。
 そのうち三沢のママの妹がそいつと付き合うようになって、ふたりは結婚するのかと思ってた。でもダメみたいになってそいつは引っ越していった。それから1年くらいしてそいつが入院してるって。そいつは癌で余命宣告されてた。あいつのママはなにもかも捨ててそいつのところへいった。何年も生きられない男の元へ。
 パパはしばらくすると近所の獣医と再婚した。よく犬をみてもらってた獣医で三沢はなついてた。きっとあいつのために父親は再婚したんだ。
 
 ボクたちは同志だった。母親に捨てられた三沢と父親に出ていかれたボク。ボクたちは絶対親を許さない、親が死んでも泣かない、墓に唾を吐きかけてやろうって誓った。

 中学になるとボクとはレベルが違うから(あいつは成績は塾にもいかないのにトップだったから)そんなにくっつくこともなくなった。あいつは簡単に心を開かなくなった。それが余計に女子にはもてたんだ。
 3年の夏休みに三沢を生んだ母親が亡くなった。それが原因だろう。2学期からあいつはますますかたくなになった。ボクが心配しても、
「おまえにオレの何がわかる」
と、心を閉ざした。

 高1の夏、三沢は高い酒を持ってきて久々にボクの家にやって来た。
「お祝いしようぜ。命日なんだ。あの女の」
 三沢を捨てて出ていった母親の命日。飲めない酒を飲んで普段無口のあいつがペラペラ喋った。
「ママが死んだ。今日死んだ……」
 ボクが飲むのを止めると、
「おまえは本当にいいやつだ。幸せにな……」
 それから出ていった。そのまま帰したら、なにかやらかすんじゃないかと思った。あいつは駅に行き電車に乗った。ボクは近くで見ていたよ。あいつのそばにきれいな髪の長い女がいて、泣いている三沢を見ていた。二十歳くらいの会社帰りって感じの。あいつは見られることには慣れているけど、涙を見られて恥ずかしかったのか、じっと見つめ返してナンパしたんだ。目だけでナンパした。三沢は女の肩を抱いて歩いていった。

 夕暮れの海浜公園。ボクはついていった。防波堤にくるとあいつは長い髪の女の髪留めを取った。横分けに止めてあるかわいいやつ。それを自分の髪に付けると大声で歌い出した。中学の時は合唱部だった。あいつは英語で歌いながら振りをつけた。路上パフォーマンスだと皆が集まってきた。高校の合宿の出し物で女装させられたダンスらしい。女みたいにきれいなあいつは、踊り続けた。奇妙で神秘的なダンスだった。

 ヒースクリフ、イッツ ミー キャシー……窓を開けて……寒いわ……みたいなパントマイム。それに側転。完璧な側転。子供に向かってあいつは大サービス。
「一緒に踊ろうぜ!」
 子供たちが数人、真似してダンスした。子供はすぐ覚えた。
 ヒースクリフ……イッツ ミー キャシーーーー
 側転まで真似した。繰り返し繰り返し。
 あいつは何度も側転して、倒れた。
  
 髪の長い女が心配してそばに寄った。あいつは今度は怒り出した。自分でナンパしておきながら、のこのこついてきた女に怒っていた。
「この顔がそんなに魅力的か? ママそっくりのこの顔が?」
 女の様子は変だった。聞こえていないのだとボクは気がついたけど、あいつは酔っててわからなかった。無視されてると思い肩を揺すった。彼女は初めて大声を出した。言葉にならない声だった。

 ボクが止める前にあいつは近くにいた男に取り押さえられた。彼女は話した。手話を使って。なにを言ってるのかはわからないが必死に。
 あいつはやっと彼女の障害に気付いた。髪に手をやったが奪った髪飾りはない。捜すと粉々に砕けていた。あいつは土下座した。大袈裟に。

 そして海に飛び込んだ。

 1番慌てたのは彼女だ。男に助けを求め三沢に叫んだ。夏の海、泳ぎのうまいあいつは彼女に手を振り潜った。

「バカ、三沢、戻ってこい」

 男が飛び込んだ。暴れるあいつを連れ戻した。梯子を登り終えるまで彼女は心配そうに大声を出していた。
 びしょ濡れのあいつはおとなしくなって、助けてくれた男の車の後ろの座席で、ボクに寄りかかって静かにしてた。彼女を家まで送り、圭介さんていう男の部屋に連れていった。こいつを家に連れて帰ったら大騒ぎになる。圭介さんはすごくいい人であいつはおとなしくなっていた。訛りがあって、ママと同じ訛りだって甘えてた。もう、ママ、ママって子供みたいに。圭介さんはトイレで吐かせ兄貴みたいに面倒見てくれた。ボクは三沢の家に、うちに泊まるからと電話して、ふたりで圭介さんの部屋に泊まった。あいつは目が覚めると猛烈な頭痛で圭介さんが薬を飲ませた。トイレにも連れていって面倒見てた。

 圭介さんは落ち着いたあいつとボクを車で送った。
 次の日、三沢はボクに頭を下げて謝った。
「治がいなかったらどうなっていたかわからない。本当におまえはいいやつだ。おまえには飾らなくてすむ。バカな自分でいられる」
「止めなかったボクが悪いんだ」
「おまえはいつも自分が悪者になる」

 それからあいつは、きちんとけじめをつけた。
 圭介さんにきちんと礼を言いにいった。菓子折持って。圭介さんはきちんとしたあいつを見て驚いて喜んだよ。

 彼女の家の場所を聞くと圭介さんはボクたちを信用して教えた。彼女の仕事帰りの時間頃、ボクたちは最寄りの駅で待った。あいつは帰れ、って言ったけど心配だった。ほぼあいつの計算通り彼女は改札を出て来た。
 三沢は……驚いたよ。三沢は彼女の前に行き、手話で謝ったんだ。たぶん、ごめんなさいって。(あや)っていう名前だった。文さんは驚いたけどきちんとした三沢を見て顔を赤らめた。ファミレスに入って、あいつは手紙と自分で買った髪留めを渡した。文さんは手紙を読んだ。酒を飲んだ訳とか書いてあったんだろう。あいつは何度も手話で謝った。あいつは許され、4歳上の文さんに交際を申し込んだ。女と付き合ったことなんかないのに。
 文さんは首を振り、考えて長い文章を書いた。あいつは憤慨し、大きくうなずいた。
 
 文さんの休みの日、ボクはまたくっついていった。犯罪者になるからついてくるな、と言われたけど。違う駅で文さんは待っていた。髪留めを付けて。約束通りあいつが来たことに少し驚いていた。文さんのあとをついて小さな米屋の前に立った。
 文さんが幼い頃、配達に来ていた米屋のオヤジ、ニコニコして菓子をくれた。文さんは信用してたんだ。ある日、文さんひとりだった。

「大きくなったね。文ちゃん、重くなったか抱っこさせてごらん」

 そんなことを言われたのだ。手を広げられて幼い文さんは不審にも思わなかった。信用してた男は文さんを抱き上げ股にさわった。母親が帰ってくると何事もないように帰っていった。文さんは母親に言えなかった。米屋のオヤジが来ると隠れた。
『引越ししても許せない。なにもできなかった自分。きっとあの男はまだ同じようなことをしている。親に話せない子がいるわ。罰を与えて』

 三沢は、行動開始だと深呼吸した。
「おまえは他人のふりをして、おおごとになったら文さんを連れて離れるんだ。絶対入ってくるなよ! 文さんの名前は出さない。出すなよ。絶対に」
 三沢は店に入っていった。あいつは殴る気だ。いや、逆にやられてしまうんじゃないか? どうしよう? 三沢はつかつかとオヤジにつめより、耳元でなにか言った。罪を確認したんだろう。それから急所を蹴った。ふさわしい罰だ。オヤジはうずくまった。あいつは米袋を投げつけようとした。けど、文さんが入っていっちまった。やめさせようとしたんだ。三沢は文さんの前に立ち塞がって顔が見えないようにした。
「マリー、仇は取ってやったからな」
 三沢は文さんを連れて出て来た。ボクは 、
「仇ってどういう意味ですか? 女の子になにをしたんです?」
と、叫んだ。
 オヤジは、なんでもない、大丈夫だって。奥からたぶん奥さんが出てきたけど変な雰囲気だった。あれはきっと知ってるね。旦那が悪いことしてるってわかってるね。かわいそうだった。 

 とにかく、かたきうちは終わり、文さんを送りファミレスで筆談。三沢はまた交際を申し込んだ。文さんは、
『4つも年上なの。障害者なの』
と断る。
『もう許すから、もう来ないで』
 あいつが諦められないでいると、紙に書いた。
『いつか恋人ができたらあなたを殴りにいってもらうわ』
 三沢はそんな返事がくるとは思ってなかったろう。手話でさよならを言った。文さんもさよなら、たぶん、忘れないわって言ったんじゃないかな。三沢の初めての失恋。4歳上の髪の長いきれいなしっかりした女だった。あれ、両思いだったぜ。きっと。

再会

 高1の夏に初めて酒を飲んだ。
 ママの命日だった。

 ママの命日……僕は親友のところで酒を飲み羽目を外した。
 
 翌日帰ると義母の亜紀はすぐ気づいた。まだ酒は抜けていなかったし、服は借りたものだった。
「パパは?」
「会社に泊まり」
 ママがいるときはどんなに遅くても帰ってきた。朝も早いのに。仮眠室もあるのに。
 命日だった。墓参りに行ったのだろうか?
 
 シャワーを浴びた僕の目を亜紀は覗き込んだ。
「お酒は嫌いでしょ?」
 妻に出て行かれ、父はいっとき酒に溺れた。
「ドラッグとセックスは?」
「やってない」
「もう無理だわ。私には。初めから無理だったのよ。思春期の男の子なんて。パパはなんの役にもたちゃしない」
 僕は土下座して謝った。
「ごめんなさい。おかあさん。もう2度とバカなことはしません。お願いがあります。手話を教えてください。理由は聞かないで」

 ︎

 義母の亜紀の乗った電車が雷の影響で止まり、僕は車で迎えに行った。亜紀は若い女とふたりでタクシー乗り場から離れて待っていた。ごった返したタクシー乗り場。こんな状況なのに楽しそうに話している……?
 相手の女は……見覚えのある女。亜紀が気づいて車に寄ってきた。亜紀が後部座席に女を……あの女性を乗せる。その隣に亜紀が座る。
 手話で説明する。僕にはわからないが、たぶん、息子なの……
 あの人は気がついた。

 時計を戻す。何年前だろう? 高校1年の夏休み、母の命日、親友の家で酒を飲み……電車に乗った。視線を感じた。じっと見ている女がいた。
 涙を見られた。恥ずかしくて僕は見返した。かなり酔っていたんだ。女は降りる駅に着いたのだろう。僕はすがったのだ。目で訴えた。降りないでくれ。お願いだ。 

 誓う。あなたのためなら身を粉にして努める。生きていくから叱らないでいください……
 
 けれどもそれだけのことであった。千万の思いを込めて見つめる私の瞳の色が了解できずに終わったようだ……(太宰治『狂言の神』より引用)

 太宰の小説とは違った。女は了解してくれたのだ。僕の思いをわかってついて来た。自殺でもするのでは、と思ったのだろうか?  
 
 僕は彼女の肩を抱き歩いた。夢を見ているのだと思った。夢の中だからなんでもできた。
 海浜公園へ行き、歌い、踊り、海に飛び込んだ……

 ︎

 感のいい亜紀は思い出したようだ。十年も前に僕が亜紀から手話を習ったことを。なにも聞かずに教えてくれと頼んだ。その原因の人が座っていた。亜紀は運転を変わり僕を(あや)の隣に座らせた。僕は話せない。手帳を出し筆談。
「変わらないね。文さんは。僕は? 成長しただろ?」
「あなたのおかあさんだなんて。うれしいわ」
「元気にしていた?」
「あなたは、幸せそうね」
「君は?」
「結婚するの」

 亜紀は雰囲気を察し、文を家に招いた。夕方の1時間、文は三沢家で過ごした。彼女は驚く。邸の大きさ、庭の広さ、グランドピアノ……
 帰りは僕が送った。文を家の前で下ろす。筆談。
「ウェディングドレス、僕の彼女に作らせようか?」
「本当? また会いたいわ……亜紀さんに」
 僕はアドレスを教えた。


 夜中に携帯が鳴った。夢の中でか? いまだに夢を見る。母が帰ってくる夢を。命日だ。母は家には入れない。亜紀がいるから。ママはさまよっている。様子の変わった我が家で。庭で……
 夢ではない。夜中の1時。メールの相手は……
 3ヶ月過ぎていた。
『死にたい』
 幸せそうだった文からのメール。
『どこにいる?』
 文は家の外に泥酔して立っていた。僕を見ると倒れ込んできた。亜紀が起きてきた。
「結婚なんかできないって。できると思っていたのか? って。障害者のくせに……」
 夜中のひと騒動。亜紀と文との会話には入れないが……客間で亜紀は朝まで文についていた。明け方眠りについた文を置いて、僕は仕事に行くしかなかった。
 
 その夜亜紀が言った。       
「浮気するんじゃないわよ」
「なにを言い出すんだ?」
「ムラムラしたでしょ?」
「しないよっ!」 
「浮気は頭の中だけで思いきりやりなさい」
「……亜紀もそうしてきたの?」
「そうね。パパとやりながら……失言」
「あなたはパパひとすじだと思っていた」
「パパの頭の中には……」
「亜紀がいる」
「あなたのママは歳を取らない」
 
 亜紀が心配したように文から謝りのメールがきた。僕たちはメールを始めた。彼女は僕にとっては特別な女性。
  海が見たい……何度も同じメールがきた。気晴らしにドライブに誘った。波の荒い初秋の海。彼氏と来たのだろうか? 
 文は波を見ていた。
「寒くなってきた。もう帰ろう」
 後ろ姿に話しかけた。文は振り返らない。十年前と逆。涙を見られた文は僕を……誘惑した。僕の胸にすがる。腕が抱きしめていた。文はキスを求めてきた。壊れた愛を忘れるため。ダメだ。
「トモダチ」
 僕の唇を読んだ文は絶望し……発作的に死のうとした。走り出した。波に向かって。第三者は現れなかった。僕は海に入っていく文を捕まえ、叫びながら抵抗するのを抱きかかえ連れ戻した。コートをかけ車に乗せた。暖房をかける。文はなにも言わず目を閉じている。あの日の僕のように。
「休んでいかない?」
 そう聞こえた。シャワーを浴びさせたいよ。風邪をひかないように。僕も浴びたい。

 1時間半、飛ばした。家には亜紀がいない。こんなときに……
 シャワーを浴びさせる。怖いから浴槽の残り湯を抜いた。女のシャワーは長い。自殺できるものはない……はずだ。ボディータオルで首を? 心配で覗いた。文は泡だらけの体をシャワーで流すと誘惑してきた。シャワーを止め、抱きついてきた。僕は彼女の唇から逃げた。乱暴にはできなかった。精神的に不安定な女はなにをするかわからない。
「ダメだ」
 浮気は頭の中だけ……ダメだ。女を殴ることはできない。手が求めてきた。このままでは……
「ダメだ」
 ボディータオルで求めてくる文の手を縛った。拒否されたことは屈辱なのだろう。
「死ぬわ。舌を噛みわ」
 勘弁してくれ。もう1枚のタオルでさるぐつわをした。そのとき……最悪だ。ドアが開けられた。亜紀が見たのは全裸で手首を縛られ、口を塞がれている女とTシャツをまくりハーフパンツを下ろしかけた息子。
「誤解するな」
「出て行きなさい」
 亜紀は嘆き、文にバスタオルをかけボディータオルをほどいた。
「逆だ。逆だよ。違うんだ。信じて……」 
「私の息子が……私が育ててきたのが、これ?」
「僕はあなたの息子だよ。あなたが育てた息子だ、信じて……」
「なんでわざわざ家で? よそでやればいいのに……」
 文が説明する。亜紀との激しい手話。
 文は本当のことを話している……ようだ。海で死のうとしたのを助けられて、誘惑した……

 亜紀は息子を信じた。少しの間、僕に文を見張らせ、自分の服を取りに行った。すぐに戻ると僕を締め出した。間抜けな僕は文の服を洗濯機にかけた。洗い乾燥する間、亜紀はリビングで文といた。僕は自分の部屋で謹慎させられた。
 服が乾いた頃には文は落ち着いたようだ。亜紀が僕に送るよう言いにきた。
「いやだよ。亜紀が送れよ」
「あなた、文と結婚しなさい」
「僕はなにもしていない」
「運命よ」
「まったく、運命が好きな女だな」
「いいから、プロポーズするのよ。見たいの」
「なにを?」
「条件のいい私の息子より、咽頭癌で声帯を取り、文のために別れた、5年後生きてるかもわからない男を選ぶかどうか……」

 文は僕に謝り素直に送らせた。途中で病院に寄った。亜紀に知り合いの見舞いを頼まれたからと。ロビーで文を待たせ、僕は個室をノックし開けた。文を捨てた男がベッドの上から僕を見た。かつて聴覚障害者の文が働くところを取材にきた。その新聞記者は文に好意を持ち、やがてふたりは付き合うようになった。親にも上司にも反対されたが、男の気持ちは揺らがなかった。しかし声帯を取られ最愛の女を手放すことにした。文のために。苦労させたくない……
 男は座って本を読んでいた。ベッドの横には文の写真があった。
 僕は部屋を間違えました、と頭を下げ廊下に出た。逆方向から戻りトイレで時間を潰した。文は何分待つだろう? 30分過ぎると、文は病室の方へ歩き出した。605号室とは言ってある。
 見ることはできないが想像できる。文は605号室の患者の名を見て驚く。ありふれた名前だ。同姓同名だろう。文はノックして開ける。僕がそこにるいるはずだ。個室には患者ひとりしかいない。男は文を見て本を落とす。文はすべてを察する。文の愛した男は手話で聞く。僕にはできない手話で。
 さらに30分、文はようやく出てきて僕を見た。僕たちは屋上で話した。
「亜紀が君を気に入ってる。三沢家の嫁になるかい?」
 文は微笑んだ。
「亜紀さん、大好き」
「僕もだよ」
「ありがとう。戻ります。オサムのところへ」
 文は僕を残し去った。見事だった。

 オサム? 親友と同じ名か? あいつのようにいいやつなんだろうな……あいつに会いたい……僕は返していない。あいつには助けられるばかりだった。

まっしろな孤独

 幼馴染の夏生(なつお)の家で紹介された美登利(みどり)を見て、まさかと思った。
 留年した友人に勉強を教えて、と頼まれたのだ。
 2学年下の美登利は高校1年の時、男子のアイドルだった。巨乳のハスキーボイス。
 
 美登利は親友の彼女だった。

 病気で長期欠席していたという美登利に、かつての輝きはない。青白い顔に細い首。鎖骨が出過ぎている。
 冷静を保ち勉強を見た。夏生の母親がおやつを出してくれたが、数口食べただけだった。
 犬が嫌いだ。手と顔を舐められ本気で怒った。洗面所で舐められたところをゴシゴシ洗っていた。
 潔癖症か? この家で食べたものは個包装の菓子。ボトルの飲み物。気づかれないように隠しているが。
 
「圭は元気かい?」
「誰それ?」
「……なにがあった? 何キロ痩せた?」

 圭とは終わったのか? 去年金を借りにきた美登利。
「圭の親友だったんでしょ? 大変なのよ。おかあさんが入院して手術しなきゃならないの。圭は昼も夜も働いて‥‥」

 かつて圭の父親が亡くなり夜学に移ると聞いたとき、金を出してやると言ってしまった。働いたら返してくれればいい。圭のプライドを傷つけ親友を失った。
 美登利には絶対僕の名は出すな、と釘を刺した。
 しかし、美登利はすぐに返してきた。待ち合わせた公園。浴衣姿の彼女は輝いていた。
「必要なくなった。親方が貸してくれたって。よかった。これでおかあさん、手術できる」
慣れない下駄で足の指を痛めていた。圭と出かけるのに……僕はキズバンドを渡した。
 圭のことが好きで好きで、圭のためなら献身的だったのに。

 犬の散歩に行った。美登利はなぜか付いてきた。恐る恐る便をつかむ。肛門を拭く。ウェットティッシュを何枚も使う。
「自分のうんちは平気なのか?」
美登利が呆れた顔で僕を見る。
「あんたって、圭の言ったとおり……」
「圭がなんて言った?」
「……みかけと全然違うって」
美登利は風呂場で犬を洗う。まくった手首にサポーターを巻いていた。
「重いもの持つから痛めたの」
彼女は家業のコンビニを手伝っている。恵まれたお坊ちゃんとは違うんだ……圭の声と重なる。
 美登利は犬を丁寧に洗う。ペニスも肛門も口の中も。丁寧に丁寧に丁寧に……圭もこんなに洗われたのか?
 サポーターの腕は……自傷癖のあと?
 
 僕は美登利に勉強を教えるようになった。強迫神経症と自傷癖の彼女をなんとかしてやりたい。卒業させてやりたい。
 美登利は自転車で僕の家に来る。帰りは車に自転車を乗せ送って行く。
 彼女はピアノを弾いた。習っていたという。
 
 僕はある映画を思い出した。自傷癖の女とサディストのアブノーマルな純愛映画。
 ミスタッチをした美登利の手を叩いた。
 漢字を間違えるとデコピン。
 数学を解けない彼女の腿を叩いた。
 椅子に乗り、曲がった額を直さずにはいられない彼女の尻を叩いた。
 僕の手作りのおにぎりを無理やり食べさせた。椅子に縛り付けて。

 それが項を奏した。
 映画をベースにした僕と美登利の物語。
 元来勝気な美登利はしごきに耐え、勉強も追いつき、体重も増えていった。
 
 しかし終業式間近、彼女は体育で単位を落としそうになった。
「体育館で、体育座りなんて無理、寝るなんて無理」
「補習は学校の周り百周? 80キロ? 無理だな」
「大丈夫よ。練習付き合って。足も、心臓も大丈夫。弱いのは精神だけ」
 スポーツセンターのランニングコースを美登利と走る。しごかれた美登利は元の体型と体力を取り戻していた。

 マラソンの補習。年内に終わるのか? 毎日学校まで迎えに行き家まで送る。誰もいない部屋、美登利が風呂に浸かっている間、部屋を眺める。
 圭が読んでいた本。映画のDVD。圭の好きな映画だ。この部屋でふたりで観たのか? 

 ハッとした。
「美登利?」
浴槽で寝ている美登利を起こした。
「見たわね?」
「バカ、死ぬぞ。早く上がれ」
圭の愛した女の裸を見て逃げ出した。痩せていた女が、元の巨……

 マラソンの最終日に美登利は走り切り抱きついてきた。
「お礼するわ。キスしていいわ。あなたとならできそう」
「無理するなよ」
「キスするとアドレナリンが放出されコレステロール値が下がる。細菌を交換することで免疫力を高める効果がある」

 圭とは? 細菌を交換したのか? 
「圭、おまえとならキスできそうだ。女は不潔だからな」
 高1の夏の、驚いた、大好きだったあいつの顔!
 圭、また……同じ女を好きになった。

 しかし、美登利との付き合いは終わった。
「卒業したらもう僕は必要ない?」
「お礼はしたでしょ」
「僕は本気だ」
 美登利は鼻で笑った。
「あなたといると圭のこと忘れられない。セットでついてくるの。忘れたいのよ」

 美登利と別れた日、雪が積もっていた。あいつと喧嘩別れした日もそうだった。
 また自分ひとりだけの足跡か。
 孤独だ。まっしろな孤独。

 しかし僕は知る由もなかった。美登利が夏生のために僕を諦めたなんて。

卒業

 圭は急いでいた。授業が始まる。親方は早く行け、と急かしてくれたが、もう夜学はやめてしまおうかと考えていた。
 正門を入ったところで女生徒とぶつかりそうになった。女生徒は身軽によけたが、よけようとした圭が倒れた。女生徒は自転車を起こし、大丈夫? と聞いた。起き上がった圭が見た女は遠目に見ていた女とは違った。

 遠目では茶髪に染めパーマをかけていた。H校は校則がゆるいが見かけないタイプだ。衣替えの時期を過ぎても上着を着ていた。上着を着ていても胸の大きさは隠せない。2年生か? いや、見かけたのはこの春からだ。部活のあと正門の前で集まっている。男の中に女がひとり。
「ごめん。ブレーキが効かなくなってたんだ」
「すぐそこに自転車屋、あるわ」
「ああ、時間がないんだよ。自転車屋の開いている時間には行けないんだ」
君たちと違って……

 女生徒はドリーと呼ばれていた。遠目でも目立っていた。男子に取り巻かれチヤホヤされていた女が、圭の汚い自転車を軽々と起こした。ドリー? 茶髪にパーマは地毛だ。たぶん。

 授業が終わり自転車を漕いだ。軽くなりブレーキが直っていた。まさか? 鍵はとうになくしていた。
 まさか、あの子が?

 翌日ドリーは圭のところへ歩いてきた。
「君が直しに行ってくれたのか?」
「迷惑だった?」
「いや、助かったよ。行く暇なかったんだ」
ドリーはレシートをよこした。
「安くしてくれたわ。磨いてくれたし。サビは落ちないけど」
(君が行けばサービスするだろう。男なら君を見て……)
「きれいになったよ。ありがとう」
圭は札を出し渡した。
「お釣りはお駄賃でいい?」
圭はうなずく。
「駅の近くのコンビニ、パパが経営してるの。買いに来て」

 夜学をやめる気はふっとんだ。毎日圭はドリーの顔を見るのが楽しみになった。会えるのはほんの少しだ。話すわけでもない。本名さえ知らない。しかし、ドリーは圭を見てくれた。圭を見て微笑む。優越感が湧いた。うしろで見ている男子たちに。

 その日は間に合いそうになかった。圭は諦めていた。向こうからドリーが歩いてきた。取り巻きに囲まれて。圭は通り過ぎようとした。
「待って」
自転車はスッと止まった。ドリーは駆けてきてカバンからビニール袋を出しよこした。
「家庭科で作ったの」
ああ、ドリーと男子が嘆く。圭はすでに漕いでいた。君の作ったクッキーならだれもが欲しがるだろうに。
 翌日礼を言うとメモをよこした。携帯の電話番号とアドレス。alissa@……
 その夜にメールした。自己紹介。

 僕は斉田圭。1年の2学期までは全日制にいたんだ。父が亡くなり今は親方について仕事を教わってる。趣味、スポーツ観戦。サッカー部だった。
 
 私は今井美登利。自分の名前好きじゃないからドリーと呼んで。部活は軽音楽。ピアノと歌が好き。スポーツも得意。中学は陸上やってた。走り高跳。

 メールで話す。美登利のことを知っていく。美登利はたけくらべの美登利。かわいいじゃないか。
 好きな言葉は? 禁欲? 自己犠牲? なに? 君はクリスチャンか? 違うわ。外見が派手だから……贅沢で自己中だと思われてる。
 君の本質は僕が知ってるよ。

 夏休みに入ると顔を見られなくて寂しかった。休みの日圭はコンビニに行った。ドリーはレジにいた。カゴに商品を入れレジに並ぶ。
 買いに来てくれたのね、と聞かれ、現場が近くなんだと嘘をついた。言いたくはなかった。かっこよくエクステリア。外構工事……

 翌日親方とコンビニに入った。思った通りの反応。男好きする顔だ。親方は圭の気持ちに気づき毎朝寄ってくれる。休日には海に誘えと言った。初めての誘いが海? 

 親方夫婦と6年生の娘、ドリーは初め忙しいからと断ったが来た。奥さんも瞬間的に眉をひそめ、娘の弘美は敵対心を燃やした。圭のために地味にしてきたのがわかる。地味にすると余計に際立つ。肌の白さ。睫毛の長さ。水着のうえに揃いのスカートに胸を隠すパーカー。海には入らず海岸で弘美と砂遊び。奥さんに言われ圭はドリーと海に入った。パーカーを脱いだ下にはまだタンクトップを着ていた。ドリーはどんどん泳いでいく。圭は追いかけた。そして捕まえた。ドリーの左手首には……リストカット?

 帰りの車でドリーははしゃいでいた。歌を歌い親方に褒められていた。疲れた弘美は圭にもたれ眠っていた。ドリーは奥さんが寝ても疲れもみせず外を見ていた。涙が流れていた。車の後部座席で圭は慰めることもできなかった。真夏に長袖を羽織っている。

 コンビニの前で圭も降りた。約束だ。帰ったら話すと。ドリーは5階の自分の部屋に通した。父は店だから、と。
 ドリーは本を取った。
(アンドレ ジッド『狭き門』)
 1年の時の倫理の教材だった。
「私はアリサなの」

 美登利の母はアリサの母親と同じことをした。若い男と不倫して出て行った。
「以前は酒屋だったの。真面目な父は客商売だから顔には出さず置いていかれた私を哀れんだ。親戚は、おまえのママはしょうがないな、と聞こえるように言った。結婚前からそうだったのよ。近所中で知らないものはない。学校でもインランと呼ばれた。意味もわからない頃よ。大人たちは聞こえるように話した。あの子も今にきっと……私は父が大好きだった。具合が悪い時も看病してくれたのは父だった。母は実家の親に甘やかされお金もあったからホスト遊び。母性なんてなかった。私は大嫌いだった。父に似たかった。性格は父親似なの。外見は大嫌いな母に似てくる。
 男は、生徒も先生も私にチヤホヤした。そのぶん女には嫌われたわ。真面目にして頑張っても。そのうち開き直った。私が頼めば店の売り上げが伸びる。あなたも買いに来てくれたでしょ。真面目なのよ。私は真面目で几帳面。神経質なくらい」
圭はなにも返せない。
「なんで私が自分の名を嫌いだかわかる? 美登利は遊女になるのよ。私は処女のまま死ぬの」


 圭は三沢英幸(えいこう)を思った。美登利は似ている。あいつに。

 倫理の時間、『狭き門』を読んだ感想をグループで話し合い、幸子は怒っていた。三沢がなにも意見を出さないと。圭が聞くとあいつは、
「オレもアリサだ」
とすねた。


 ︎

 
 大きな邸の坊ちゃんは窓から圭を見ていた。この美少年がピアノの奏者?
 
 坊ちゃんは土の袋を持ち上げた。圭と同じように。
 父が止めた。腰でも痛めたら大変だ。背はまだ20センチは低かった。しかし手は大きかった。坊ちゃんは軽々と持ち上げた。トラックと花壇を何度も往復し重い土を運んだ。
 ペースを乱されたのは圭のほうだ。汗がダラダラ出て呼吸も乱れた。後ろを向くと坊ちゃんは息も切らさず涼しい顔をして圭を見た。暑くて圭はシャツを脱ぎ放り投げた。ペースを上げ、離したと思い後ろを向いた。坊ちゃんはすぐそばにいて笑った。
 すごいな……呼吸を整え言おうとして聞かれた。何才ですか? 父が答えた。15ですよ。今度H高に入学……坊ちゃんは、困ったような、嬉しいような微妙な表情だった。

 入学してすぐに気づいた。三沢は気づかれないとでも思ったのか? 圭は気づいた。三沢が幸子に気があることまで。同じ女を好きになった。ライバルのはずなのに……ふたりは親しくなった。
 楽しかった。物知りだった。背と体格以外では勝てないだろう。それもいつまで? 
 
 父が亡くなり圭が夜学に移ると言ったとき、三沢は金を貸してやると言った。考えたすえに言ったのだ。
「学費だけじゃない。母は病弱だから医者代もかかる。そんなに持っているのか?」
「母の形見のダイヤがある」
「形見なら大事にしろよ」
「ただの石さ。嫌な思い出しかない」
「そんなもので友情が買えると思っているのか?」
本当は嬉しかったのだ。三沢は取り返しのつかないことを言ってしまったと思ったのだろう。
「ああ。買えるさ。金があれば友達でもなんだって……」
喧嘩別れした。抱き合っていたらよかった。あいつがいじらしかったのに意地を張ってしまった。大事な親友をなくした。

 ︎


 母が死んだ。長い闘病生活だった。
 葬儀が終わると気が抜けた。眠れない日が続いていた。風邪気味で薬も飲んでいた。心の中は空虚だ。

 1カ所だけ封印している場所がある。7年前の恋だ。封印してある。思い出すと辛いから。思うのを抑える。あんなに好きだった女、いや、まだ少女のままだった。深い悩みを抱えていた……力になると誓ったのに、残酷に残酷に裏切ってしまった。
 どうすることもできなかった。謝ることも。2度と顔を合わせることはできなかった。

 衝撃……自損事故か。
 よかった。誰も巻き込んでいないならいい。死んでもいい。死んでもいい。あの女が呼んでいる。悲しい女だ。愛した少女の母親。愛した少女の憎んだ母親、あの女が呼んでいる。

「来てくれたのね、美登利。私に似てきたわね、ね、圭?」
「ママの恋人?」
「責めないで。もうすぐ死ぬのよ。今までこんなに親身になってくれた男はいなかった。手術しろって言うの。どうせ死ぬのよ。きれいなまま死にたい」
「よろしくね、圭……さん。ママをよろしく」

 ドリー。許してくれ。幸せでいてくれ。おまえといた時間だけが幸せだった……

 屋上で女はタバコを吸っていた。隣の個室の女だ。
「なに? 悪い? それとも心配してくれるの?」
「別に」
「坊や、毎日きてるわね。おかあさん? 幸せね」
圭は黙っていた。金のことで頭がいっぱいだ。
「ねえ、買い物頼まれてくれない? 頼める人、誰もいないのよ。天涯孤独なの」

 最初は雑誌やCDだった。多すぎる駄賃をくれた。
「取っておきなさい。どうせ死ぬのよ。使いきれないの」
 女は金を貸してくれた。先生に話をつけ母の手術の段取りをつけていた。圭は断れなかった。
「返すよ。必ず返す」
「無理よ。死ぬほうが早いから。その代わり付き合いなさい。遊びたいの。死ぬ前に」

 ボーリングをした。女はうまかった。酒を飲みにいきダンスを教わり歌を歌った。金のため……それだけではない。同情……
 その店で幸子に会った。言われたことが引っかかった。女が歌いにいったとき、
「うまいわね。プロ級ね。ねえ、ドリーに似てない?」

 圭はもう1度女に聞いた? 身内はいないのか? 女は嘘がうまかった。
 その夜、飲み慣れない酒とひどい疲労で女の部屋で眠ってしまった。ドリーの夢を見た。圭の母親のことを自分のことのように心配して励ましてくれている。ドリーがいるから夜学も卒業できた。辛い境遇も恨まずにすんだ。

 ドリーが、ドリーの声が圭を誘った。性的な行為は嫌った。ふれあうのは手と腕、頬、髪……ドリーがしないことなのになぜ? 酔いが判断力を鈍らせた。


 圭はマスクとサングラスをしてドリーの部屋を見上げた。電気がついている。とてつもない悲しみを与えてしまった。ドリーは心の病気になった。1年留年した。母親に聞き出させた。
 母親を断ち切ることはできなかった。金を借りている。もうすぐ死んでいく女だ。憎んでいてもドリーの母親だ。ドリーに対しては、もうどうすることもできない。窓を見上げて、電気が消えるまで見守る。
 月に祈る。満月に祈れば効果がありそうな気がした。
 
 遠目で痩せたドリーがやがて元気を取り戻した。下ばかり向いていたドリーが前を向くようになった。同じクラスの橘夏生と親しくなり、彼女の家で勉強しているという。卒業して父親の店を手伝うのだと。夏生は三沢の幼馴染だ。家が隣同士だ。夏生のそばには三沢がいる。

 三沢がドリーを送ってきた。ドリーの隣に三沢がいた。かつて圭の親友だった男。ドリーに似た境遇の、すねていた男。ドリーは笑っている。三沢がドリーを立ち直らせている。三沢なら安心だ。安心して任せられる……


 ︎

 手術は成功した。回復は早かった。体から管が次々に外れていく。
 圭の意識が戻ったとき、そばにいたのは親方の娘の弘美だった。夢を見ていたのか? ドリーの声が聞こえた。

(血をあげたからね。私の血が圭の中に入ったのよ。やっとひとつになれたね)

「輸血してくれた。ドリーと三沢さん。ずっとついててくれたわ」

(弘美ちゃん、ずっと圭のこと好きなのね。ずっとそばにいてくれたのね。弘美ちゃんならいいよ。
 圭、弘美ちゃんを大事にしてあげてね……)

悪女

 3月の終わりの夜遅く、女が門の外に立っていた。はかなげな後ろ姿、白い服。風が吹いて木々がざわめく。長い髪がなびく……

 亡霊! ママの亡霊!

 ああ、送別会で飲みすぎた。

 亡霊が振り向いた。

「瑤子……さん?」
 瑤子は義母の亜紀の8歳下の従妹。亜紀が父と結婚し、瑤子が東京で働くようになると毎週のように訪れていた。
「あの坊や?」
「どうしたの? こんなに遅く?」
「……出入り禁止」
 
 ああ、確か、父の部下との婚約を破棄した。結婚式間際で破談になり亜紀も父も大変だった。それ以来、瑤子は来なくなった。
 
 父親が入院し瑤子は仕事を辞め故郷に帰るという。
 愚図る瑤子を僕は連れて入った。
 しかし……瑤子を連れて入ったときの異様な雰囲気。亜紀も父も最初言葉が出なかった。亜紀はすぐに平静に戻ったが、父の態度は異常だった。立ち上がり出て行った。なにも言わずに。
 亜紀は1晩だけよ、と言い父のところへいった。僕は茶と菓子を出した。冷淡な扱いをされた瑤子に同情した。
「大きくなったわね。いくつになった? まだ小学生だったのに」
「もう、21歳だよ。瑤子さんは?」
「23。女は7掛けよ」
「通るね」
「あなたの彼女でも通るわ」
 沈んでいた女がお喋りになった。
 亜紀が戻り部屋に通す。客間でなにか話していた。瑤子は泣いているようだった……?
 
 夜中、瑤子のことが気になり目が覚めた。父の態度はひどすぎた。当時、両親は父の部下と瑤子とよくゴルフに行った。父は、気に入っていた部下と亜紀の従妹を一緒にさせようとしていた。部下は瑤子に夢中だった。破談になったときは酔って大変だった。父も亜紀も謝っていた。

 瑤子には当時付き合っている相手がいた。不倫だ。それを精算しようとし結婚に逃げ、逃げられず壊した。

 かすかに音楽が聞こえ僕は廊下に出た。書斎から明かりが漏れていた。ノックすると、どうぞ、と瑤子が答えた。
 瑤子は椅子に座り曲を聴いていた。23歳に見える女は僕にも座らせた。化粧を落とした瑤子は変わらずきれいだった。
「素顔もみられるね」
 瑤子はむくれる。 
「素顔のがいいって言われたわ」
 不倫相手にか? ナチュラルなロングヘアも。
「どれだけ努力してると思う? お金も。亜紀は手入れしなさすぎ。亜紀は子供の頃から本ばかり読んでた。私はおしゃれにしか興味なかった。皮肉ね。亜紀はステキな旦那と息子を手に入れた」
 勝手に喋り目を閉じ曲を聴く。
「この曲好きだわ。死ぬときに聴いていたい」
「父の好きな曲だよ。エルガーのチェロ協奏曲。エルガーは愛妻家だ。妻になるアリスに『愛の挨拶』を作曲した」
「もう止めて」
 怒った……? ああ、『妻』は禁句か?
「……亜紀はどう?」
「……いいおかあさんだよ」
「英輔さんは、愛してるのかしら?」
「決まってるだろ」
「あなたは愛してる人はいないの?」
「ふられてばかりだ」
「じゃあ、私と一緒ね」
「……明日帰るの?」
「そうよ。送ってくれる?」

 翌朝父は早くに出かけた。急な出張が入ったらしい。瑤子は早くに起きて朝食を作ったが、父は食べずに出かけたらしい。それを僕に出した。亜紀よりうまい。盛り付けもセンスがいい。
「今日帰るんでしょ?」
「英輔さん、いつまで?」
「あさってよ」
「おみやげ買いに行くから、英幸(えいこう)クン、付き合って」

 買い物に付き合わされた。
 両親に服を買っていた。下着売り場では、僕は離れて待っていた。
 たくさんの荷物を車にのせ家に戻った。瑤子は買った下着の包みを亜紀に渡した。プレゼントよ、と。
 亜紀が開ける。瑤子を見て、僕を見た。
「たまに、そういうの付けなさいよ。亜紀もおしゃれしなさいよ。今に英輔さんに愛想尽かされるわよ」
 亜紀の自信たっぷりの笑い。瑤子は気にさわったようだ。出ていった。
「幸せそうだね? パパに愛されてる自信あるんだ?」
「男は女の最初の男になりたがり、女は男の最後の女になりたがる。オスカー ワイルド」
 僕は思わず亜紀をみつめた。亜紀はパパの最後の女だ。そうでなきゃ困る。
 黒の下着を亜紀がつけるところを想像する。子供の頃抱きしめてくれた重量感のある胸の感触、スポーツで鍛えていた身体。まだ余分な脂肪は付いていない、はずだ……
 
 瑤子は書斎で音楽を聴いていた。ベートーベンのテンペスト。
「楽譜ない?」
 階下に降りピアノを弾いた。
「これだけは弾けたんだけどな。弾いてよ、ボク。うまいんでしょ?」
 僕は弾いた。瑤子は目を閉じている。
「終わったよ。拍手はないの? 寝てるの?」
「聴いてるわよ」
 次はスクリャービンのエチュード悲愴。
「明日ゴルフしない?」
「今日帰るんだろ?」
「明日ゴルフして夜帰る」
 亜紀はダメだとは言わなかった。

 ゴルフも久しぶりらしい。亜紀のウェアを着た瑤子は人目を引く。うまくはない。下手だ。空振りもする。僕が笑うと彼女はむくれ、目を閉じ集中した。僕たちは恋人同士に見られた。きれいでいることが瑤子の仕事。性格の違う亜紀のことは好きではないらしい。

 帰りの車の中、
「音楽はいらない。なにか喋って」
 瑤子は目を閉じている。
「もう、戻ってこないの?」
「そうよ。田舎で埋もれる。朽ち果てる……」
 恋人は? とは聞けない……
「喋ってよ」
「不倫……」
「知ってたの? 坊や」
「大騒ぎだったからね」
 瑤子は窓を開けた。出してはいけない話題。僕も窓を開けた。風が気持ちいい。瑤子の長い髪がなびく。
「……亜紀をどう思う? 魅力ある?」
「亜紀はちょっと面白い女だよ、って父は言うけど、ちょっとどころじゃないよ」
「面白いわね。確かに。亜紀は一生独身だと思った」
「亜紀はいなかったの? 結婚しようと思った男?」
「いいわよね。社長夫人」
「亜紀は……物欲はない」
「豚に真珠」
「ひどいな」
 瑤子の胸元に赤いサンゴのネックレスが見える。亜紀はほとんどアクセサリーを付けない。
 瑤子は目を閉じている。眠ったのか?
「話してよ。なんでも。音楽の話、映画の話、本の話。初体験でも……」
「……」
「亜紀と……想像しなかった?」
「え?」
「よくあるじゃない? 義母とやっちゃうの」
「よせよ。恐ろしい」
「去勢されるわね」
 瑤子は声を出して笑った。
「あなたのおかあさんは幸せね。死んでも忘れられない」
「……僕の母は亜紀だよ」
「〜〜死んだおんなより〜〜もっと哀れなのは〜〜忘れられたおんなです〜〜」
「なんだよ? その歌?」
「鎮静剤」

 瑤子が帰る日は伸びていく。その夜は疲れたからと眠ってしまった。
 翌日の昼過ぎ、僕は瑤子を送った。駅までのつもりが実家まで。途中バラ園に寄りまだ咲いていない庭を散策した。瑤子は腕を組んできた。紅茶を飲みアップルパイを食べた。瑤子は目を閉じ思い出に浸る。不倫相手と来たことがあるのか? もう精算してきたのだろうか? 

 実家に着いた。母親は帰りが遅くなるという。広い家に瑤子とふたり。瑤子は荷物を片付けシャワーを浴びに行った。

 期待していた。誘惑したのは彼女のほうだ。
 指の逍遥。瑤子は目を閉じている。
「ペチャパイだと思ってた。結構あるんだな」
「もっと褒めなさい。きれいだって言って。名前を呼んで。愛してるって言って」
 ベッドの上ではいくらでも言える。いや、本気になりかけている。23歳に見えるひと回り年上の女に。
「瑤子、きれいだよ。愛してる」
「大丈夫よ。今日は安全日だから」
「……」
「ドクター亜紀に教育された? 年上の女に騙されるなって」

 思考停止。瑤子は誘惑した。彼女は全身全霊で僕を誘惑した。瑤子は目を開けない。珊瑚のペンダントだけを身につけた瑤子。血赤(ちあか)の珊瑚……血赤……
 瑤子は上になる。長い髪が揺れる。血赤の珊瑚が揺れる。
 思い出す。亜紀の胸にも下がっていたことがある。なぜ? 目を閉じ喘ぐ瑤子が亜紀に見えた。亜紀、この世で1番尊敬する女……亜紀の下にいるのは?
 
 ダメだ。
 瑤子はなにも言わなかった。気づかれたことに気づいても。言葉より先に手が出ていた。女に暴力をふるった。
 平手だ。たいしたことはない。

 途中ホテルで1泊した。体を洗い流す。なにもなかったことにする。亜紀の目が怖い。見破られる。
「実家まで送って観光してきた」
 亜紀は怪しむ。
 血赤の珊瑚。気持ち悪いから覚えていた。でも確かではない。思い違いか? 思い違いかも……? 思い違いであってほしい……

 亜紀の留守のときに僕は探した。瑤子のネックレスと同じもの。亜紀の胸にかかっているのを見たのは確かなのか?
 夫婦の寝室をそっと開ける。片付けの下手な女の部屋。僕は亜紀の宝石箱を開けた。探しているものは見当たらない。感のいい女はとっくに隠していた。なぜか手に取るようにわかる。この乱雑な部屋はひとつでも動かせばわかるだろう。亜紀は僕がやることをわかっている。
 思わぬところからそれは露見した。僕にも亜紀のやることはわかるようになっていた。妹のおもちゃ箱に……
 亜紀は僕に見せまいとして手の中に隠した。
 僕は亜紀の指を力ずくで開かせようとした。互いの目には憎しみがこもる。
「私はおまえの母親よ」
 なおも続けると、足を蹴られた。
「見なくたってわかるよ。珊瑚だろ? 瑤子のおとうさんにもらった?」
「そうよ。叔父は私と瑤子に同じものを買ってきた」
 僕は亜紀の顔をじっとみつめた。眉ひとつ動かさない。とても太刀打ちできない。
「瑤子はあなたにもらったって」
「まったく……そうよ。パパのプレゼントよ。妻と妻の従妹に同じもの。面倒くさいから同じもの。瑤子は喜んだでしょ。妻と同等の扱いをされたと思ったかも」
「パパは寝たの? 瑤子と。おかあさんは妊娠してた」
「パパを侮辱しないで」
 殴られると思ったが亜紀は我慢した。
「私の息子を誘惑するなんて。瑤子の耳を薬でつぶしてやるわ。自慢の手足を切り落とし、両目をえぐり、薬で喉もつぶしてやる。それから……」
 さすがにあとは言わなかった。
「この家にやっと穏やかな暮らしが戻ったのよ。それを壊さないでくれって、パパは瑤子に土下座して頼んだのよ。瑤子は諦めるしかなかった。父親が危篤になったとき、なんて言ったと思う? パパに会えるのはもう不幸があるときだけだって。家に来たとき追い返していればよかった」
「なにもないよ。僕たちはなにもない。瑤子はそんなにバカじゃない」
 亜紀がまくしたてたおかげで僕は冷静になれた。亜紀はもう僕の様子から真実を見抜くことはできなくなっていた。
「おかあさんはどうしてパパと結婚したの? あんな弱くて情けない男。僕のため?」
「弱くて情けない男が好きな女もいるのよ」
「パパとは……うまくいってるの? 忙しすぎて………………」
「疲れたなんて言わせないわ」
「……負けた」
「勝ったわ。ハハハ」
 顔色ひとつ変えない。何百ものオスを去勢してきた女だ。
 見透かされなかったか? 瑤子とあなたを重ねたこと? 知られたら生きていけない。あなたは、光栄だわ、エイコウクン、なんて言うだろうな……

 電話して怒りをぶちまけようと思ったがやめた。2度とこの声を聞かせてやるものか。亜紀でさえ父と間違えるという、パパそっくりの声を。
 パパに会えるのは不幸があったときだけ……哀れな女だ。
 
 家を出てアパートを借りると言ったとき、亜紀はもう瑤子のことは聞かなかった。
「いつまでも家にいるほうがおかしいわね。勝手にしなさい。そのかわり、全部自分でやるのよ」
「そっちこそ。ちゃんと掃除しろよ」
 涙が出そうになって急いで家を出た。
 殴ってくれ。2度と妄想するなと叩きのめしてくれ。
 もうこの家には戻れない。

ふたりの女

 久しぶりにこの店に来た。入社して初めて配属されたアロマショップ。世話になった上司が退職する。
 店の前で(しおり)に会った。
「あら、久しぶり」
「いずみさんは?」
「死んだわよ」
「えっ?」
「気になる? つれなかったくせに」
「話せよ。詳しく教えてくれ」
「死んでないわ。でも死んだほうがマシ」
「どういうことだ?」
「2年になるわ。ホストクラブに連れていったの。バカだった。いずみはもっとバカよ。あんたに似た悪い男に入れあげちゃって、貯金はたいて、私のお金まで使って……やめた」
「嘘だ」
 栞は仕事だから、とエレベーターに乗った。
 
 回想する。配属されたアロマショップで教えてくれたのがいずみだった。
 栞は同じビルの最上階のエステティックサロンで働いていた。派手な栞に地味ないずみ。ふたりが一緒に住んでいると聞いたときは驚いた。
 栞はよく店に来た。入ってきたとき空気が変わった。化粧品会社に勤める女たちとは違う美しさ。素肌だろう。たぶん。ゆで卵を剥いたような肌。白のユニフォームは最初女医かと思った。
 栞は僕とまわりの女たちを見ると
「ホストみたい」
と言い放った。
「ホストクラブ、紹介してあげようか? え? 社長の息子なの?」
 幻滅させてくれてありがとう。知性のかけらもない。彼女は上階のエステティックサロンの凄腕のスタッフ。栞が来ると女子学生は彼女を取り巻く。『美のカリスマ』の彼女はアドバイスし、営業していく。まつげパーマ、エクステ、長い睫毛はにせものか? 白すぎる歯もホワイトニングかセラミックか? ビキニラインの脱毛? 女だらけの恐ろしさ。彼女はアートメークや永久脱毛をしたがる未成年の女たちに、高額なローンを組ませる……

 いずみへの友情なのか愛なのか? 同性愛者か?
 栞はいずみとランチに行き、よく一緒に帰っていた。いずみは僕への好意を隠していたが、栞は気づいていた。嫉妬していた。男の僕に。女が羨む女に嫉妬されている……友情にしろ、愛にしろこんなに執着されたら怖い。
 店の飲み会にも栞は付いてきた。皆、栞に一目置いていた。栞は美の秘訣を教える。教えてエステの商品の注文を取る。しかし、この女の美の秘訣は……酒は飲まない。タバコは吸わない。飲むのはトマトジュース。食べるのは枝豆、ぬか漬け、カツオのたたき……デザートは食べない。長いトイレから戻った栞はすでに歯を磨いていた。ミントの香りがした。
 1度だけふたりを送った。栞が失恋し珍しく飲んだ。
「あんたは彼女は? いずみの気持ち知ってるくせに。どうして……」
 支離滅裂で羅列の回らなくなった栞の言ったことを、聞こえないフリをしてタクシーで送った。ふたりは小さな1軒家に住んでいた。
 栞を抱き上げ2階のベッドまで運んだ。乱雑な女の部屋をすぐに出て階下に降りる。1階はきちんとしていた。いずみのベッドが置いてある。すぐに退散した。栞が失恋した相手はどんな男なのだろう?

 いずみの思いを知りながらこたえてやれなかった。僕は1年で研究室に移り、やがていずみは郷里に帰るから、と会社を辞めた……
 あのいずみがホストに入れあげた? 栞の金まで使って?

 翌日の夜、エレベーターの前で待ち伏せた。栞は降りてきた。近くの居酒屋で話を聞く。栞はトマトジュースを飲み、軟骨の唐揚げをボリボリかじる。
「話せよ。いずみさんのこと」
「エイズなのよ。私……」
「!」
「エイズなの」
 栞は自分の箸を差し出した。
「これ、舐めたらいずみのこと話してあげる」
 戸惑う僕にご馳走さま、の声を残し栞は去った。

 翌々日、待ち伏せたが栞は降りてこなかった。ふたりの女がどうなろうと関係ない……
 栞の電話番号は登録してあった。1度だけ電話がきた。いずみが会社を辞めたことを知らせるため。
「薄情者。あんたのせいで私たちの友情は壊れた」
 勝手に罵り切った。
 思い切って電話した。栞は出ない。呼び続ける。ようやく応答があった。
「辛いの。死ぬかも……」
 思いきってかつて送って行った家に向かった。インターフォンに応答はない。ドアを叩いた。胸騒ぎがした。栞の部屋は2階だった。
 僕は周りに誰もいないのを確かめ、柵に乗り2階の小さなベランダによじ登った。窓の鍵はかかってはいなかった。栞は眠っていた。汗びっしょりの女の熱を、置いてあった体温計で計る。キッチンの冷蔵庫に氷はなかった。冷凍室は冷えていなかった。水で絞ったタオルを額に当てた。エイズで高熱を出し死にそうな女……
「栞! 救急車を呼ぶぞ」
「インフルエンザ」
「え?」
「たぶんインフルエンザよ」
「エイズは?」
「エイズは……いずみ」

 氷を買いに行く。自分の頭も冷やしたい。
 あの人が? あの人がエイズ? ありえない。ホストに移された? どうしているんだ? 今。どこにいる?
 朝まで栞を看病した。水分を取らせ眠らせる。
 部屋を見回す。この広さは家賃も高いだろうに。稼ぎがいいのか?
 明け方、熱は下がった。夢を見ていたようだ。
 栞はトイレに入ったあと歯を磨いた。念入りに。栞の歯は、この女は歯も別格だ。たぶんセラミック……

 栞はひとりで病院へ行き薬をもらうと回復した。仕事帰りに見舞いに行く。食べられそうなものを買って。
「あなたは大丈夫?」
「予防注射してるからな。いずみさんのこと、話してくれ」

 いずみは栞のカードでキャッシングまでしてホストと付き合った。いずみは栞を恨んだ。ふたりの家なのに掃除も洗濯も押し付け、要領のいい栞は広い部屋を取り……
 栞が止めるのも聞かずいずみは出ていった。ホストのところへ。
「連れ戻してよ。私が面倒を見る。いずみのためならなんだってする。あなたが言えば……帰ってくる」
「そんなに彼女のこと好きなのか?」
「いずみは田舎から出てきて帰る場所はない。私も……ふたりの家なの。ここしかないの」

 栞の友情に圧倒され僕はいずみに会いに行った。元ホストは質素なマンションに住んでいた。
 いずみは僕の訪れに驚き、10分程待たせると降りてきた。やつれも病気の影も見えなかった。以前より生き生きしていた。
「栞さんに会った。店長は定年だ」
「栞は、まだ……」
「まだあの家に住んでる。君が帰るのを待っている。君の面倒を一生みるつもりでいる」
「バカね。栞。絶交したくせに」

「最初、栞の好意が不思議だった。高額商品を売りつけるのだと思った。でも、あの子は家族が欲しかったのね。アパートの更新だって言ったら、ふたりで住もうって。家賃も安く済むし、あの家を見たらすぐに決めたわ。栞は仕事のこと以外は……無頓着でだらしなかった」

 いずみは、エイズではなかった。エイズになった元ホストと暮らし面倒を見ていた。
「契約したの。身の回りの世話。病院の送り迎え、雑務、財産の管理。執筆の手伝い」
「執筆?」
「自分史。田舎から出てきて親の借金のために働いて、お金貯めて田舎に戻るつもりだった。でも、田舎には帰れなくなった。病名は言えない」
 栞と行ったホストクラブ。男はいずみと同郷だった。男の最後の仕事の日だった。
「やめて故郷へ帰るの? 私も帰りたい」
「帰れないんだ。エイズだから。帰ったらパニックになる」
 なぜ初対面のいずみに話したのか? 同郷のよしみ? 聞かされたいずみは放ってはおけなかった……
 生活は大変ではないようだ。元々贅沢な男ではない。栞にはなりゆきで嘘をついた。
「お金は、栞は忘れてるけど、何度か貸したっきり。催促できなかったからまとめて返してもらった」
「移る……心配は?」
「エイズはいずれ完治するようになる。怖いのは差別と偏見」
「……愛してるのか?」
「さあ、あなたに似ていた」
「僕が……プロポーズしたら?」
 いずみは僕の目を見て吹き出した。
 
 ミノルの話を聞いた。ふたりでよく行った安い食堂。そこで知り合った男。派手な栞が愛した男は真面目で金のない工員だった。男は釣り合いが取れない、と栞の愛に答えなかった。やがて……知った現実。稔は年上の女と付き合っていた。貢いでいた。子供のいる未亡人にずっと……
「でもね。口止めされてるの。稔は人身事故起こして……死なせたの。奥さんは妊娠していた。だからずっとお金払い続けてる。栞には内緒。苦労させるから。でもね。栞は……忘れたかしら?」 

「君はいずみさんに借金してただろ?」
 栞は覚えていない。食費や雑費もいずみが立て替えることが多かった。
 栞はだらしなさを後悔した。
 戻らないいずみのために高い家賃を払い続け、壊れた冷蔵庫も買い替えられない。僕は電気屋につれていった。友情の褒美に買ってやろうと。
「魂胆があるの?」
「だったらどうする?」
「高いわよ。初ものだもの」
「嘘だろ? いくつだよ?」
「あんたと同じ」
 冷蔵庫を選ぶ。栞は小型の廉価品を見ている。
「ミノル」
 母親が子供を呼んだ。その名に栞は反応した。
「これにしよう。礼は……マッサージしてくれ。肩こりがひどいんだ。」

 栞の本格的なマッサージ。腕は確かだった。
「うちの先生はすごいのよ。癌の患者も元気になる」
「まさか」
「ほんとよ。病院にも出張に行くの。皆元気になる」
 栞は熱心に話す。エナジーなんとかパワー。痛いが気持ちよかった。若い女の部屋のベッドでほとんど全裸になりオイルを塗られた。栞は施術しながら話す。自分の生い立ち。

 親は栞が中学の時に離婚し、母親は再婚した。栞は高校をすぐに中退し独り暮らしした。バイトを掛け持ちして。栄養失調で倒れ病院に運ばれた。それからは割のいい仕事をした。中卒では頑張っても認められない。コンパニオンやキャバクラで働いた。

 通っていたエステに『先生』が来た。ときどきスタッフに教えに来る。不思議な人だった。大病した人を治す。最初はまやかしだと思ったがその先生は栞の体をさわると呆れた。若いのにボロボロの身体だった。冷え性で骨盤は歪み下血もした。腰痛、肩こり、便秘。顎関節症。歯茎は腫れ虫歯だらけ。肌は荒れて……
「歯科医を紹介されて脅された。生活変えないと歯が抜け落ちるって。食生活はひどかった。タバコも吸ってたし。溶けた骨のレントゲン写真見せられた。怖かった。人生終わったと思ったわ。前歯、4本差し歯なのよ。十代で差し歯。お金かかったわ。歯医者の先生は食事の指導もしてくれて、毎月検診に行ってる。ちゃんと磨けてるって褒めてくれる。朝晩鏡で歯と、歯茎をチェックするの。でも、歯が抜ける夢をみるの。ふたりの先生が私の恩人。それから……
 いずみに初めて会ったとき、知ってる? あの子の歯? 歯茎がすごくきれいなの。見惚れちゃった。真面目で、几帳面。見習わなきゃって。でも私はストレスかけただけね」

 いずみから聞いた食堂。稔が食べに来る曜日。直感でわかった。稔は定食を頼んだ。酒は飲まない。ドアが開くたびに目を向ける。栞がやけ酒を飲んだ日から2年か。稔はため息をつき、食べ終わると出て行った。
 あとをつけた。稔は栞の家が見える場所に立ち止まった。栞の部屋を見上げる。灯りがついていた。
 
 母の残したルースのダイヤ、それを持ち花を買い栞の家に行った。大袈裟にひざまずきプロポーズした。栞は大きなダイヤに驚いた。
「冗談やめて」
「本気だ。ここで暮らすか?」
 栞は本気にしなかった。
「食事に行こう」
 腕をつかみ食堂へ連れて行った。
「安くてうまいんだ」
「ここはダメ」

 ドアを開けると稔がこっちを見た。僕は稔のところへ行き挨拶した。
「栞さんにプロポーズしました」
「……おめでとう」
「一桁違う暮らしをさせてやります。稔さんは人身事故起こしてるから君と結婚なんかできないからね……」

 大きなダイヤは栞にはただの光る石。
 選べよ。薄給の慰謝料を払い続けていかなければならない男を。
「栞、僕のプロポーズはどうする?」
「返す。冷蔵庫も返す」
「あれはお祝いだよ。君と稔さんの結婚の」
 僕は返されたダイヤを持ち、店を出た。栞が追いかけてきた。
「いずみさんに頼まれた。友情を復活させろよ。僕にも親友がいたんだ」

できごころ

 病院の前に生後1週間ほどで捨てられていた夏生(なつお)。名は付いていたという。夏生まれだから夏生。捨てた親はどんな人物なのか?
 
 僕の父は母のために家を捨てた。母は貧しかったが捨て子ではなかった。話し合わなければならない。あっさり許してくれるだろうか? 許されなければ勿論夏生を取る覚悟はできている。
 夏生は諦めていた。僕の気持ちさえ疑った。夏生が二十歳になったときに、別荘に行った。それまで僕たちは抱き合い軽いキスをするだけだった。夏生は誤解した。深い関係にならないのは結婚できないからだ、と。夏生は自分の出生を恨んだ。どんなときにでも強く前向きだったのに。何度絶望に打ちひしがれたことだろう? 
 
 夏生の望んだ深い関係になったとき、腕の中で夏生が話した。おとぎ話のように。
「私はちゃんとした家の娘なの。エーちゃんと釣り合いが取れる家の娘なのよ。同じ日に生まれた子がいて取り替えられたの。その子はかわいそうな子で産んだ母親は出来心で取り替えちゃったの。もうひとりの夏生は私の本当の両親に育てられている。大切に」
「ドラマみたいだな」
「事実は小説より奇なり」
「では、僕は感謝しよう。君を誕生させてくれた両親と、取り替えて僕の元によこしてくれた哀れな女に」
 涙もろくなった夏生は自分で言い出し泣いた。
「捨てられた子はもうすぐ三沢夏生になる。もっともっと深い関係になるよ」

 夏生と休みが合うと朝早くに別荘に行った。夏生はふたりだけの時間を喜んだ。
 まるで終わりが近づいているかのように。

 夏生は眠っていた。布団をはだけて。鎖骨がきれいだ。手足が長い。夏生の想像は常軌を逸する。
「私を産んだ母親はレイプされたのかも……誰にも知られずに産んだのかも。それとも犯罪者、殺人者の子かも、それとも……」
「それともどこかのすごいお嬢様だよ。前に言っただろ? 取り替えられたんだ」
「それとも、それとも外国人の血が混ざってるかも……日本人離れした体型、音感、運動神経、厚い唇……何代前か……黒人の子が生まれるかも……」
「突拍子もないこと言うなよ」
「だから、結婚しない」

 帰りは夏生が運転した。ラジオからピアソラが流れた。
「いいな。タンゴか?」
「アルゼンチンタンゴ。衣装がステキよ」
 夏生は舞台衣装を作っている。

 夏生とゴルフに行った。
 夏生は男と同じレギュラーティーから打つ。後続組の男たちの注目を浴びた。
 注目を浴びた。朝の受付から感じていた。その男が見ているのは夏生だった。
 昼はレストランの隣の席から……夏生は個性的だ。スタイルもいい。ほどいた長い髪も美しい。
 男は夏生を目で追う。美形だ。夏生が席を離れると話しかけてきた? 
「ナツオさん」
「……はい?」
「森……さん?」
「違います」
「失礼。知り合いに似ていたもので……」
 男は離れて行った。今の会話……
 モリ ナツオ? そういう知り合いに夏生が似ているということか?
 いずれ妻になる夏生の未知の部分は……産んだ母親……

 夏生が橘家の養女になっていなければ……
 考えられない。夏生のいない過去なんて。

 夜、パソコンの前で考えた。(たちばな)夏生23歳。
 道路を隔てた橘家の養女。何度も流産した橘夫人の、入院していた病院の前に置かれていた夏生……
 もう、疲れて眠っているだろう。僕は眠れない。ひっかかっている。モリ ナツオ。森 夏生……
 パソコンをいじる。森 ナツオ……該当するものはない。思いつきで……林 夏生。ヒットした。夏生と同じ歳。夏生より7日早く生まれた女。夏生は病院に捨てられた日が生年月日になっているのか? 
 林 夏生。アルゼンチンタンゴの講師。幼少よりバレエを始め、定期公演、イベントに出演、活躍中……写真が出ていた。美しいダンサー。この女はゴルフ場で会った男の知り合いか?

 夏生が似ている? あの男の知り合いに。誰にだ?
 この女の親だ。それか兄弟姉妹。
 それは、どういうことだ?
 夏生が、林 夏生ってことだ。この女は夏生を捨てた人の娘。
 それは……どういうこと?
 同じ病院で生まれた。同じ日に。故意に取り替えた。
 まさか、何十年も前ならよくあったらしいけど…
 赤ちゃんの足バンドははずれることもある。落ちていたこともある。不審に思いDNA鑑定をした母親もいる。

 たとえば横書きの林ベビーは木村ベビーに書きかえられる。木村は林に……
 では、犯人は木村? そんな突拍子もないこと……
 あの男はこの女の恋人?
 いや、間違った推理だ。
 
 興信所で調べた。林 夏生。
 1枚の写真がすべてを物語る。ゴルフ場の男が声をかけずにいられなかったわけだ。林 夏生の母親は橘 夏生にそっくりだった。
 夏生には兄がふたりいる。春生に秋生。
 夏生が生まれた当時は小さなスーパーを経営していた。そのスーパーが今では店舗を増やし業績を上げている。
 おそらく病院で取り替えられた。故意に。故意に取り替えたあと、母親は夏生を捨てた。自分の娘に家族を与えて……
 想像が膨らむ。時間をおかず生まれたふたりの娘。恵まれた娘の名前は決まっていた。兄は春と秋に生まれ、待望の娘は夏生まれだからナツオ……そんなことを話したか聞いたのではないか? せめて名前だけは親のつけてくれた名を残してあげようと……
 ダンサーの娘はなにも知らない。恵まれた家族、特技を仕事にしている。

 見過ごしていればよかった。調べたりしなければよかった。想像通りだとしても、夏生は傷つかない。本当の両親は夏生を捨てはしなかった。待ち望まれた娘だった。しかし……もうひとりの娘は?

 タンゴか? 習いにいってみるか。
 予約を取る。土曜の午後に。

 土曜日の午前中、橘家の後方に外車が停まっていた。僕は窓から見ていた。運転席の若い女は降りて橘家の様子を伺う。あの女だ。写真のダンサー。サングラスをかけ、長い髪を下ろしているが……間違いない。女はなにもせず車に戻った。その時にこちらを見た。視線に気づいたか? 目が合ったはずだ。車は動き出す。 
 僕は追いかけた。家の住所は調査済み。離れてあとを追いかけた。気づかれてはいないだろう。着いた邸宅。事業に成功した夏生の両親。ここは夏生の家だ。
 女は駐車場に車を止め玄関に入る時に僕に気づいた。互いに知っていることを知った。女はサングラスを外した。苦悩の色が見えた。
「林 夏生さん?」
「……」
「橘夏生の婚約者です」
「誰、それ? 知らないわ」
「さっき、家の前にいたでしょう?」
「人違いです」
「目が合った」
「変なこと言わないで。ストーカーね」
「……では、おかあさんに話します」
 もうひとりの夏生は観念し、うなだれた。僕の車の後部座席に座らせた。大きな公園の駐車場に止め外に出た。

 ベンチに座り改めて自己紹介した。橘夏生の婚約者だと。
「私と同じ名前なのね」
 彼女はまだしらばくれた。
「あなたと同じ名前、同じ生年月日」
「同じではないわ」
「同じ日に生まれた」

 家に電話がきた。誰もいなくて彼女が出た。病院からだった。
「木村さんの娘さんですか?」
 聞き取れなくて間違いだと思った。
「延命処置どうしますか?」
「なんの冗談?」
 押し問答の末、彼女は病院を訪ねた。幼い頃から両親、兄たちに似ていないのは感じていた。

 意識不明の女は奇跡的に回復した。会いにきてくれた娘にすべてを話した。出産間際に父親は殺された。くだらない喧嘩で。どうしようもない男だった。出産のとき衝立1枚の向こうで先に産んだ母親がいた。あとから運ばれてきたのに3人目だから、と早かった。ほどなくして父親のいない娘も生まれた。
 出産のあと、隣の幸福な母親は話した。夏生にするの。兄は春生に秋生。単純ね。待望の女の子よ。
 待ち望まれた娘、それに比べて自分の娘の将来は? 
 林ベビーと木村ベビーは身長も体重もたいして違わなかった。髪の量も。足につけられた名札。マジックで書かれた木村ベビー。木と村の間が詰まっていた。下手な字だった。寸を消してしまえば……魔が差した。誰も見ていなかった。修正ペンがあった。

 携帯が鳴った。彼女はすぐに出た。
「……そんな」
 電話を切り
「危篤だって」
 呆然とした彼女を病院に連れて行く。母親はすでに息を引き取っていた。
 病院で見知らぬ女の遺体に対面した。ふたりの夏生の運命を変えた女は誰にも悲しまれずに逝った。
「ひどい。どうすればいいの?」
 僕は合掌した。
「ひどいけど……感謝します。あなたのしたこと。夏生に会わせてくれたこと……」
「あなたの婚約者を私の……両親と兄に会わせてあげて。私の預金も株も、車も私のものすべて、あなたの婚約者に」
「……夏生はそんなもの欲しがらない」
「……私は、ひとりで生きていける」
「彼は?」
「彼? 彼は私を捨てるわ。ブランド好きだもの」
 彼女は涙を拭き席を外した。化粧を直しに。そしてそのまま戻ってこなかった。
  
 娘は戻ってこなかった。遺体と取り残された間抜けな僕は、霊安室に遺体を保管してもらい、橘夫妻に話すべきか迷う。
 もうひとりの夏生は戻ってこなかった。事情を知っているのは僕だけだ。いや、あの男は? もうひとりの夏生と付き合っているゴルフ場で会った男。苦労知らずに見えた男はどうするか?
 
 翌日、橘家に客があった。僕は仕事にも行けず考えていた。夏生は仕事に出ていた。夏生の産みの親が訪れたという。もうひとりの夏生から電話があったという。もうひとりの夏生は行先知れず。親は心配のあまり憔悴している。打ちあけられた真実の衝撃もだが、育ててきた娘の安否を1番に心配していた。
 
 23歳になる娘がどこでどうしているか? 生みの親の遺体を残したまま……いつまでもそのままにしておくわけにはいかない。
 夏生には真実は告げられなかった。もうひとりの夏生が戻るまで。

 やがて彼女は戻ってきた。ゴルフ場で会った男と一緒に。僕たちより先に真実を調べていた彼は、ふたりの思い出の場所に迎えに行き、すでに籍を入れていた。もうひとりの夏生は親の戸籍から抜けていた。

 そのあとは慌ただしかった。ふたりの夏生が会う。運命を変えた女を火葬する。夏生は僕の胸に。もうひとりの夏生は夫の胸に抱かれて泣いた。

 夏生が夏生のウェディングドレスを作った。取り違えられた娘が本来の自分の家に行き、取り違えられた娘のために腕を披露した。

短編集 Ⅰ

短編集 Ⅰ

  • 小説
  • 中編
  • 青年向け
更新日
登録日
2023-08-24

Copyrighted
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Copyrighted
  1. 夏休みの思い出
  2. 同志
  3. 先輩
  4. かたきうち
  5. 再会
  6. まっしろな孤独
  7. 卒業
  8. 悪女
  9. ふたりの女
  10. できごころ