掌編集 3
某サイトの『お題』で書いたものです。なので、ジャンルはめちゃくちゃ。掌編とは言えない長いものもあります。
21 ライブエイドとサンシティ
国連の最高の成功例の一つが、南アフリカのアパルトヘイトを廃止させたことである。国連はほぼその創設期からアパルトヘイトとの闘いに係ってきた。
アパルトヘイトとは、南アフリカが1948年から1990年代初めまで実施した、法によって定められた人種隔離と差別の制度である。
かつての南アフリカには「アパルトヘイト」という悪しき制度「人種隔離政策」があった。白人と黒人、そして有色人種は厳格に区別され、白人以外をすべて差別の対象とする「制度」だった。
いや、例外があった。日本人である。貿易相手として南アフリカの経済におおいに「貢献」していた日本。日本人だけは「名誉白人」の”称号”を与えられ、「ある程度」、白人と同等の扱いを受けることを「許されていた」。
日本中がバブルに浮かれ、パリのブランド専門店に集団で訪れてはブランド品を買いあさり、日本人そして日本人ビジネスマンが「エコノミック・アニマル」と世界中で揶揄されていた頃のことである。
そんなに昔の話ではない。世界中からの猛烈な批判と反対運動を受け、初めて実施された全人種による総選挙でネルソン・マンデラが大統領となり、この制度が撤廃されたのは1994年のことである。
アパルトヘイト政策とは、人口の20%のヨーロッパ系の白人が国民の80%である有色人種に対し、基本的な人権を与えず支配しつくした徹底的な差別による政策。
︎
南アフリカのサン・シティでは白人の観光客のためにいろいろなイベントを催していた。
国連は1968年に人種隔離政策を続ける南アフリカとの文化・教育・スポーツ関連の交流を禁止した。
しかし、音楽関係では巨額のギャラに目が眩んでサン・シティに馳せ参じる面々も後を絶たず。同地のスーパーボウルがオープンした1981年以降、公演で訪れたのはフランク・シナトラ(こけら落とし)、ビーチ・ボーイズ、グレン・キャンベル、リンダ・ロンシュタット、ロッド・スチュワートにオリヴィア・ニュートン・ジョン、クイーン……
「そんなところに招かれたって歌うもんか!」
このリトル・スティーヴンの呼びかけには、ものすごい顔ぶれが大集合した。
リトル・スティーヴンの仲間であるブルース・スプリングスティーンやクラレンス・クレモンズ、ホール&オーツ、ピーター・ガブリエル、ボブ・ゲルドフ、ボノ(U2)、ジャクソン・ブラウン、ボブ・ディラン、ハービー・ハンコック、ボニー・レイット、ルー・リード、ジョーイ・ラモーン、ギル・スコット・ヘロン、リンゴ・スター親子、ピート・タウンゼント、ボビー・ウーマック、ピーター・ウルフにアフリカ・バンバータ……
︎
クイーンは、アパルトヘイトが行われていた南アフリカのホームランド、ボプタツワナのエンターテイメント施設、サン・シティでライブを行い、国連によるカルチャー・ボイコットを破ったアーティストとして国連のリスト(他に、ロッド・スチュワートも含まれる)に載ることとなり批判された。
これに対し、ブライアン・メイは
「バンドは政治ではない。俺たちの音楽を聴きたい人のためなら、どこでも演奏する」
と反発した。クイーンは、その得た収益の一部を、聴覚・視覚障害者のための学校へ寄付した。
映画『ボヘミアン・ラプソディ』で“LIVE AID”の奇跡(1985年7月13日)が注目を浴びているが、サン・シティ公演はその前段であり、真逆とも言えるショウだった。
問題だったのはライヴの中身ではなく、サン・シティという場所にあった。ここは南アフリカ共和国の高級リゾート地。
当時、かの国は悪名高きアパルトヘイト政策で全世界から孤立していた。経済制裁だけでなくオリンピックからも追放され、国連から文化的ボイコットが呼びかけられていた。そんな中で禁を破ってまでツアーを強行したのがQUEENだった。
●1984年10月5日-20日:南アフリカ(9公演)
南アフリカではサン・シティでのみ全9公演が行われた。ブライアン・メイ曰く、
「一年近く熟慮して行くことに決めた」
「反アパルトヘイト運動をしている人たちの助けになりたかった」
との想いを込めてツアーを実施した。
しかし、全世界はこれを許さなかった。50人もの著名なミュージシャンが参加した反アパルトヘイトのシングル『Sun City』も話題となっている真っ最中。
それだけにQUEENの行動は世界の耳目を引き、評判は一気に失墜して猛バッシングの的。
しかも、当時のQUEENはメンバー同士の人間関係もギクシャクしており、このバッシングで解散寸前にまで追い込まれてしまった。
世界の反応、その後の趨勢の両面で“LIVE AID”とは正反対だった。
https://ecd.easy-myshop.jp/c-item-detail?ic=A000000110
22 遠い夜明け
スティーヴン・ビコは南アフリカの反アパルトヘイト活動家。
黒人意識運動の代表として活動していたが、1977年9月12日、拷問をうけ死去した。30歳の若さだった。
イギリス人シンガーソングライターのピーター・ガブリエルは『ビコ』をリリースし、彼に捧げた。
この歌は1980年のヒットソングである。そしてこれらの歌は、南アフリカ政府によってすぐに発禁となった。
加えて、他の反アパルトヘイト音楽にも影響を与えた。これは西側の大衆文化と反アパルトヘイトという主題を統合することに貢献した。
バントゥー・スティーヴン・ビコ(1946年12月18日 - 1977年9月12日)は南アフリカのアパルトヘイト抵抗運動活動家。思想的にはアフリカ・ナショナリストかつ、アフリカ社会主義者であり、黒人意識運動として知られる1960年代後半と1970年代の草の根的な反アパルトヘイト・キャンペーンの最前線にいた。
ビコは貧しいコーサ人の家庭に生まれ、ケープ州ギンズバーグで成長した。1966年、ナタール大学で医学を学び始め、そこで南アフリカ全国学生連盟に参加した。
白人の支配を避けるために、黒人は独立した組織を持たなければならないという見解を強め、これを実現するために1968年の南アフリカ学生機構(SASO)創設の主導者となった。
ビコは、黒人自身が持つ人種的劣等感を払拭する必要があると考え、このアイデアを「ブラック・イズ・ビューティフル」と言う一般化したスローガンで表現した。1972年、彼は黒人意識という思想を多くの人々の中に広めるため、黒人人民会議に関与した。
政府はビコを危険分子と見なすようになり、1973年に彼を活動禁止命令下に置き、その活動を厳しく制限した。
ビコは政治的に活発であり続け、ギンズバーグ地区の診療所や託児所のような、黒人共同体プログラムを組織するのを支援していた。
活動禁止中にビコは匿名の脅迫を繰り返し受け、またいくつかの機会を掴んで警察に拘束された。
ビコは1977年8月に逮捕された後、警官から激しい殴打を受け、その結果死亡した。
葬儀には20,000人以上が参列した。
ブルース・スプリングスティーンのバックをつとめたE・ストリート・バンドのギタリストで、スティーブ・ヴァン・ザントはアルバム・タイトル曲ともなる「SUN CITY」を書き上げると、賛同する多くのアーティストたちに声をかけ、このアルバムを作り上げた。
ロック、ソウル、ファンク、ジャズ、ヒップ・ホップそしてアフリカのミュージシャンなど、さまざまな分野のアーティストたちが参加した。
その名も
「アパルトヘイトに反対するアーティストたち」 (Artists United Against APARTHEID )
そこには人種の壁も、ジャンルの壁も無かった。
スティーブ・ヴァン・ザント 、盟友のスプリングスティーンとクラレンス、ピーター・ガブリエル 、ホール・オーツ 、U2のボノ 、ルー・リード、Run-D.M.C. 、JAZZからは御大マイルス・デイビス、ハービー・ハンコック、 ロン・カーター、‥‥‥etc.。
参加メンバーのダリル・ホールは、ギャラのためにリゾート地サン・シティで歌ったクイーンとロッド・スチュアートを名指しして、「クソ野郎」と罵った。
これ以外の曲もヒップ・ホップなのか、ロックなのか、ジャズなのか、アフリカン・ミュージックなのか、判然としない曲が多い。すべての音楽的要素が、混然一体となり、融け合っているのだ。
Run-D.M.C. をはじめとするラッパーたちも音楽の壁を越えて集結した。
彼らは「Let Me See Your I.D.」で皮肉たっぷりに、しかし怒りを込めて、熱くCOOLなラップを披露した。
マイルス・デイビスも、いつも以上の鋭い眼光をギラつかせ、いつも以上に眉間にシワを寄せながら、やはり熱くCOOLに演奏してみせた。
「The Struggle Continues」 ”闘い”はまだ終わっていない。常に何かと”闘って”きたマイルス。ジャズ史にも残るべき名演となった。
https://kagenogori.hatenablog.com/entry/2020/03/22/122824
︎
2021年の推計によると、南アフリカ共和国の人口は6,014万人。エイズによる死者や白人層の国外流出が多いため、他のアフリカ諸国に比べると人口増加率は低く、2008年には人口が減少している。
現在では平均寿命は64.38歳となっている。黒人層に限ればさらに低くなる。
白人は1940年ごろには全人口の約20%を占めていたが、2009年には9.1%にまで低下した。
アパルトヘイトの廃止以降、逆差別や失業、犯罪などから逃れるために国外への流出が続いており、1995年以来、国外に移民した白人はおよそ80万人に及ぶ。
2009年、白人人口447万人の約10%にあたる約40万人が貧困層となっており、プアホワイトと呼ばれる層が出現している。
最近はジンバブエから300万人が流入するなど、周辺国から約500万人の不法移民が流入し、治安悪化の原因となっている。
現在、南アフリカの都市では、殺人、強盗、強姦、麻薬売買などの凶悪犯罪が昼夜を問わず多発している。凶悪犯罪においても、軒並み世界平均件数と比べて異常に高い犯罪率となっている。
23 自由への長い道
ネルソン・マンデラは1918年生まれ。
1944年、黒人を含め有色人種を自分らより劣等な人種と考える少数派白人による政治の独占と人種の分離に反対し、南アフリカの政党であるアフリカ国民議会Congrès national africainに入党して、弁護士になった。
1948年、与党国民党によって施行された「アパルトヘイト」法に非暴力的に反対する立場をとるが、アフリカ国民議会は、平和的抵抗では何の効果ももたらさないことから、非武装抵抗を諦め、1961年、アフリカ国民議会の分身であるUmkhonto we Sizweを率い闘争を開始する。
人間は殺さないが、例えばパスポートオフィスを爆破するなどの行為を行う。
1962年、アメリカのCIAが関与して南アフリカ警察がマンデラをほかの国民議会の党員数名とともに逮捕。
政府に対するサボタージュや物品破壊を起訴事実として1963年、リヴォニア裁判で共産主義者およびテロリストという罪状で重労働を課した終身刑に処した。
このとき以来、マンデラは、人種平等の象徴的存在となり、圧倒的な世界的支持を享受していくことになる。
1964年、投獄。囚人番号46664号。
政治犯として送り込まれたローベン島で、石を砕く強制労働などの苦役を続けた獄中生活27年ののち、1990年2月11日、マンデラ釈放。
「私は預言者としてここに立っているわけではありません。一介のみすぼらしい人間として皆さんの前に立っています」
と演説したマンデラは、人種解放のシンボルとしてのし上がり、当時の南アフリカの大統領、フレデリック・デ=クラークと調停協議を開始。
1993年には、旧体制を覆し、平和的にアパルトヘイトを解消したうえ、南アフリカに民主主義の基礎を築いた業績で、ノーベル平和賞を収受した。
長い間の黒人と白人の相克は深い傷跡を残していた。不信や暴力がはびこる心をつなぎとめなければならない。
アパルトヘイトが解消した後も仕事は続けられ、デ=クラークからマンデラへ困難な移行の中で、アパルトヘイトのパルチザンらが起こすと懸念されていた市民戦争は回避されるに至った。
1994年、はじめて全人種の大統領選挙が行われ、ネルソン・マンデラが南アフリカ共和国の初めての黒人大統領に選出されたのだった。
南アフリカ共和国の黒人初の大統領ネルソン・マンデラは、一度だけアメリカのバラク・オバマと出会っている。まだバラク・オバマが上院議員だったころだ。
オバマ大統領はマンデラが17年間投獄されたローベン島へ家族だけで出向いた。ローベン島はマンデラのために今や記念碑的な場所となっている。
クリントンもここへ来て、マンデラがいた部屋から鉄格子越しに中庭を見たというが、アメリカの黒人初の大統領オバマも少しのあいだ一人になり、この窓の前に立って外を眺めた。
アパルトヘイトによる、ひとつの人種によるほかの人種へのたとえがたい圧力、激しい不平等と人権蹂躙。抑圧された人種の人権回復への固い意志と信念。政治犯とされて終身刑を受ける過酷さ、27年の重労働と忍耐の重さ。そして、鉄格子のむこうへ希望をつなぎとめる力と。
イギリスでは「マンデラ解放」のためのコンサートがいくつも開かれた。Simple Mindsの「Mandela Day」はマンデラが70歳の誕生日の1988年と、解放された1990年に行われ、コンサートは11時間も続いたという。
ネルソン・マンデラは、チベットのダライラマ、ローマ法王のような精神世界のトップにも会った。カダフィー、アラファト、ホメイニ、イギリスのダイアナ、マイケル・ジャクソン……
暗黒大陸アフリカ、ということばは、南アフリカがこうしてアパルトヘイトを解消し、マンデラのカリスマ的な人柄とともに、忍耐と情熱と時間と、獲得されなければならなかった人間の根本の平等と平和という名の下に、大きく影が薄らいだようにすら見える。
その半生が「政治犯」という汚名のために監獄で費やされたことで、アメリカの大統領が二人、クリントンとオバマがその監獄の中に入り、頭を垂れてマンデラの苦しい獄中生活に思いをはせたというその事実は、いったい何を物語るものなのか。
https://shigeko-hirakawa.org/blog/?p=8233
24 3人の女
20代前半の遠い日、保険会社の営業所の事務員3人は、流行りのように妻のある男性に恋をしていた。
ひとりは職場の所長に恋をしていた。転勤後も逢いに行ったが、報われなかった。
もうひとりは、彼氏がいながら付き合っている男がいた。
彼氏は毎日職場に電話を寄越し長電話をしていた。(携帯などない時代)
所長や外勤さんが出払ってしまえば、事務室には事務員が3人だけ。仕事も月末以外は忙しくはない。
彼氏はときどきは迎えに来た。私たちとも顔馴染み……
妻のある男は彼氏の友人だった。考えてみればとんでもないこと……
隠れて会い、それを私たちに逐一報告した。
「たまたま好きになった人に妻がいただけ……」
なぜか、親身になり聞いていた。彼氏に告げ口しようなどとは思いもしなかった。
障害のある愛だけが永遠の愛だ
そういう愛は死という究極の矛盾の中で初めて終わるものだ
ウェルテルであるか しからずば無か
そのどちらかだ
(カミュ シーシュポスの神話より)
オープンだった。
ほんとにオープンだった。
仕事中、彼女は医者に行った。
保険会社の指定医の内科、婦人科。
よく書類を届けていたから、医者の奥様とは親しかった。
彼女は彼氏に(妻帯者じゃない方)に性病を移された。
激怒した。
彼氏は彼女とそうなる前に風俗に通っていた。
激怒したが別れなかった。
やがて、彼女は彼氏と結婚した。
営業所の近くに部屋を借り新婚生活。
私たちは何度かお邪魔し、料理を手伝った。
子供ができたのは私の方が早かったから、退職し、その後はあまり会わなくなった。
やがて彼女も子供が産まれ、義母と同居した。
所長も交えて会おうという日、我が家には義妹たちが来た。
楽しみにしていた再会は夫のひとことで消えた。
「行かなくたっていいんだろ!」
いつしか年賀状も途絶えてしまった。
数十年が過ぎ、地元で暮らす私は外交員さんに偶然会った。
所長に恋していた彼女は、ずっと独身のままだった。おそらく定年退職しただろう。
数十年が過ぎ、ウェルテルにはすでに共感できなくなっていた。
25 自分がいちばん
少し前、ラジオをかけていたら、W.A子さんが、
「線状降水帯を初めて聞いた」
と喋っていた。
「前からあるの?」
と。
聞かれた男性は丁寧に受け答えしていた。
︎
某ブティックに凄腕の店長がいた。(女性)
売り上げがすごい。最高の接客をして、買っていただく。
固定客が数人いた。熱烈な店長のファン。(女性)
開店から20年。せっせと買い続けている方もいた。家1件買えるくらい使っただろうに借家に住んでいる。
新人のスタッフは研修期間の3ヶ月が終わっても更新せずに、どんどん変わっていった。
○が入った時、他のふたりも新人同様だった。半年も経っていない。本部のマネージャー(女性)は店長に言った。
「いやなら、変えますから」
○はよく店長に注意された。口の利き方を知らない、と。
社長(男性)からの電話。
「店長いる?」
「はい、おります」
と言ったらあとで怒られた。
「いらっしゃいます」
と言うらしい。自分も母親に注意されたそうだ。
それからは、
「はい、いらっしゃいます」
社長もご存知だ。微妙なニュアンス。皮肉な嘲笑。君も大変だな……
大変なのは、おだてられ、会社のために売ってきた店長だ。
絶対店長制。客でさえ機嫌を取る。
お客様の姓を間違って書いていた。片山様を庁山様とDMに書いていた。素敵を素的と書いていたが、誰も注意できなかった。
片山様本人も店長には言えなかった。ある意味すごい人だった。
面白かったのは、真顔で客に聞いた。
「総裁選、誰に入れます?」
聞きかじりで、知ったかぶり。
客も、笑うに笑えない。
恥をかかせないよう気を遣った。新しいスタッフが入ると言った。
「気を遣ってくださいね。くれぐれも、気を遣ってください」
全然ダメなスタッフもいた。
お喋り。
聞いてはいけないことを聞く。
帰り、彼氏が迎えに来ている。(旦那様はいる)
目立つベンツで。
周りの酒屋でも、八百屋でも知らないわけがない。それでも気がつかないふりをしなければならない。
彼氏は、客の友人だった。客は自慢げに紹介したら、店長に入れ上げてしまった。
なんと言っても魅力的な方だから。
本人は、誰より若く、誰よりスタイルが良く、色が白く……
ご自分で言う。
魔性の女と。
その客は2度と店に来なくなった。携帯に無言電話がかかってきて、店長は○のことも疑った。
別の客のことも疑い憤慨されていた。
おしゃべりなスタッフは辞めさせられた……
辞めさせるわけにはいかないから、辞める方向に持っていった。怒ったスタッフは来なくなった。
二十歳で母を亡くした◯には、母親代わりだといろいろ教えてくれた。
時代の流れとは逆の年賀、中元、歳暮、誕生日は、その度差し上げるものなのだ。
旅行すれば土産を。店長はじめお客様にも。
妄想癖、虚言癖。
自分が一番。
客と話していると、店長の母親はいつのまにか英語がペラペラに。
家のテレビは超大型。
孫は学校でトップの成績。
偉いと思ったのは、嫁の悪口を言わなかったこと。
嫁を褒めた。嫁はやり手だった。店長の上をいっていた。
「おかあさーん」
と、孫を連れて店に来る。スタッフは子守りをさせられた。
ガラスケースのある店内で走り回る。怖くてしょうがない。
おばあちゃんは、店の経費で、高級和牛だの果物だの買って持たせた。領収書は、お客様の名前。
26 髪なんかどうだって
おしゃれにはあまり関心がなかった。
眉を整えられない。髪をうまくブローできない。服の組み合わせがわからない。
化粧は得意ではない。アイライナーを入れてもすぐに拭き取る。つけまつげが流行った時も無関心。ネイルも苦手。
そんな私がブティックで14年働いた。流行りの店の服を着て、髪にパーマをかけ、朝濡らしてムースをつける。(1番楽な髪型)
口紅は店長に言われるままに、濃いピンク。よくいただいた。派手な店長が付けると似合わないのだ。地味な私が付けると褒められた。
スタッフは皆オシャレだった。服が好きで好きで働いているのだ。
Kさんは、着てきた服が気に入らないからと、店長にお願いして、タクシーを呼んで着替えに行った。スマートなので店の服は大きすぎる。
店長は、「気持ち、わかるわあー」と許した。私にはわからない。
店長は、客がいない時は鏡を見る。日に何度も。手鏡を持ち後頭部も。
この人は、前髪が伸びると自分でちょくちょく切っていたが、どうしても気に入らなかったらしい。私をひとりにして美容院にカットしにいった。
そんなことがちょくちょくあった。少しの白髪も許さず、部分部分しょっちゅう染めていた。
髪には相当のダメージだ。もうお歳だ。薄くなった髪にボリュームをつけるのに必死だった。
そういえば、保険会社の営業所にいたときも、Sさんはよく遅刻してきた。髪型がキマらないからと。
そして昼休みに美容院へ行った。彼氏に会う日だったのかもしれない。
でも、女はあれくらい気にした方がよかったのかも。
夫にはよく言われた。
「もっとおしゃれすれば?」
娘にはよく言われた。
「貧相な格好で学校来ないで」
かなりきつい。
娘は勉強はダメだったが、美容には気を使っている。
先日、娘の家に行ったら美容の本があった。もうすぐ40歳になる娘は、子供2人産んだあとも体型を保っている。
本をパラパラめくったら、
髪は乾かさないで寝るなら洗うな!
ああ、枕にタオルを敷いて、濡れた髪で何十年も寝ていた私……
娘はストレートの長い髪を、自分でキレイに染めている。孫ふたりもロングヘアー。いつも編んだりかわいくしている。
私は苦手だった。娘は不満だったろう。
そういえば、亡くなった父が、薄くなった前髪を気にして、私にドライヤーを借りた。
一生懸命セットして、前髪をキメてスナックに行った父を思い出してしまった。
27 映画3本
『愛の嵐』 1974年のイタリア映画。
1957年、冬のウィーン。
とあるホテルで夜番のフロント係として働くマックスは、戦時中はナチス親衛隊の将校で、現在は素性を隠してひっそりと暮らしていた。
ある日、客としてアメリカから有名なオペラ指揮者が訪れる。マックスはフロントに現れた指揮者の妻を見て困惑する。
彼女、ルチアは13年前、マックスが強制収容所で弄んだユダヤ人の少女であったからだ。
ホテルの一室に元ナチ将校の面々が集まっていた。彼らは戦後のナチ残党狩りを生き延びるために、ナチス時代の所業を互いにもみ消し合い、時には証人の抹殺まで行っていた。
そんな彼らの会合の中で、図らずもルチアの存在が取りざたされる。
(リリアーナ・カヴァーニが、倒錯した愛とエロスを見せる一編。ルキノ・ヴィスコンティが絶賛したと言われる)
︎
オーストリアは1942年の時点で、国民のおよそ10パーセントにあたる68万8478人がナチ党員であった。その比率はドイツ側の7パーセントを大きく上回る。
この数値からオーストリア国民のナチ政策への加担は極めて大きかったことがわかる。
彼らの一部は親衛隊に志願し、ユダヤ人の摘発、移送や東方のドイツ占領地域にあった強制収容所管理業務等において重要な役割を果たしていた。
ユダヤ人迫害の責任者になったアイヒマン親衛隊中佐はオーストリアで育っている。
極右はドイツよりもヒトラーの母国であるオーストリアで強い支持を得ている。
ヘルベルト・フォン・カラヤンは、オーストリア=ハンガリー帝国、ザルツブルク公国ザルツブルク生まれの指揮者。
ナチ党員だった。
『フリーダム・ライターズ』
アメリカ合衆国での実話を基にした2007年の映画。
1994年、ロサンゼルス郊外の公立高校に赴任した新人英語教師・エリン・グルーウェルは、荒れ放題のクラスを受け持つことになる。
人種ごとにいがみ合い、授業を受ける気など更々ない生徒たちを相手に、エリンは授業の進め方に苦心する。
ある日の授業中、ラテンアメリカ系のティトが黒人のジャマルをバカにした絵を描く。
エリンはその絵を見て、第二次世界大戦のホロコーストがこうした差別から生まれたことを説明するが、生徒たちは理解ができない。
「ホロコーストを知らないの?」(驚愕!)
エリンは『アンネの日記』を教材にしようとするが、教科長に予算の無駄と拒否されてしまう。
エリンは毎日何でもいいから日記を書くように、と1冊ずつノートを配る。
最初は罵り言葉ばかりしか書いていなかった生徒たちは次第に「自分の声で語る」ようになり、エリンは生徒たちの環境の厳しさを知るようになる。
エリンは日記を通して、生徒たちと向き合うようになり、生徒たちも次第にエリンに心を開いていき、悲観的だった将来を改めていく。
アンネ一家を支えていたミープ・ヒースも招待する。
生徒たちが書いた日記は、集められて1冊の本として出版され、ベストセラーとなった。その後、グルーウェルと生徒らによりNPO団体「フリーダム・ライターズ基金」が設立された。
2008年7月3日、フジテレビ系『奇跡体験!アンビリバボー』で取り上げられた。
『手紙は覚えている』
2015年製作のカナダ、ドイツ映画。ホロコーストを題材にしたサスペンス映画。
ゼヴは今年90歳で、ニューヨークの介護施設で暮らしている。最近は認知症が進行し、最愛の妻、ルースが死んだことさえ忘れてしまうようになっていた。
ある日、ゼヴは友人のマックスから1通の手紙を託される。
2人はアウシュビッツ収容所からの生還者で、ナチスに大切な家族を殺されていた。
その手紙には2人の家族を殺したナチスの兵士に関する情報が記されていた。その兵士の名はオットー・ヴァリッシュといい、現在は"ルディ・コランダー"という偽名を使って暮らしているという。
体が不自由なマックスに代わりゼヴは復讐を決意、1通の手紙とかすかな記憶だけを頼りに、単身オットー・ヴァリッシュを探しに旅に出る。
ーーーー
ルディー・コランダーの家に向かい、コランダーの娘と孫に出迎えられ、遂に"ルディ・コランダー"と対面する。
コランダーに
「家族に聞かれたくないから外で話そう」
と促され、テラスへ移動する。
その時、セヴの息子、チャールズがコランダー家を訪れ、コランダーの娘と孫がテラスへ案内する。
そこにはコランダーに銃を突きつけるゼヴがおり、3人は驚愕する。孫に銃を向けられたコランダーは、
「自分は捕虜ではなくナチスであったこと、アウシュビッツのブロック責任者としてユダヤ人虐殺に加担したこと、ドイツ人としての本名はクニベルト・シュトルムであること」
を打ち明ける。
ゼヴが「ちがう、お前はオットー・ヴァリッシュだ」と問いただすもコランダーは「ゼヴこそがオットー・ヴァリッシュだ」と主張する。
話を聞けばコランダーとゼヴは2人ともアウシュビッツのブロック責任者であり、終戦の際、ユダヤ人であると偽ってアメリカへ渡った。
腕の囚人番号もユダヤ人だと偽るために自分たちで彫ったものだという。その証拠にコランダーの左腕には、ゼヴの囚人番号より1つ若い番号が彫られていた。
ゼヴは混乱し、詰め寄るコランダーを撃ってしまう。そしてすべてを思い出したゼヴは、息子のチャールズの顔を見た後、自らの頭を撃ち抜き自殺する。
後日、ゼヴがいた介護施設で老人たちがニュースを見ており、コランダー家で起きた事件が報じられていた。
老人たちは、ゼヴは自分が何をしたかわかっていないのだろうと話すが、マックスは老人たちに「ゼヴは自分がしたことをわかっている。ゼヴが殺した男の名はクニベルト・シュトルム、ゼヴの本当の名はオットー・ヴァリッシュ、その2人が自分の家族を殺した」ことを話す。
すべてはマックスによって仕組まれた壮大な復讐だったのである。
︎
ドラマ『相棒』で、赤ん坊の写真を見せられた右京さん。
「ヒトラーですね」
過去に戻れたら(?)「ヒトラーを殺すか?」と聞かれた場面があった。
なんと答えたかは覚えていない。
(Wikipedia参考にしました)
28 違法でも
私は違法なことに手を出したのかもしれない。きっとそうだ。
でも、仕方ない。それしか方法がなかった。
罪の意識は感じるけど、あのロッカーを開け、◯◯を取り出せば、無事終了。
大丈夫。下見もしてある。ロッカーは引っ込んだ目立たない場所にあるし。
相手からのメールは届いていた。
コインロッカーのナンバーは0005。
今どきのロッカーはナンバーと暗証番号がわかれば誰でも開けることができる。だから、可能なのだな。
ここ、何十年もコインロッカーなど使っていない。
不安はあるが。
焦った。やはり開け方がわからない。
焦れば焦るほどわからない。
落ち着け。離れたところに操作する機械があった。
タッチパネルで「取り出し」を押す。
メールに届いていた暗証番号を押す。それから、ロッカーナンバーを。
解除。
ああ、こんなに手間取るなんて。
開いた。当たり前だ。開かずのロッカーではないのだから。
あった。
中には◯◯と現金まで。
大きな荷物を引きずり、駐車場へ向かう。これがまた大変だ。長い連絡通路を渡り、車を探す。
大きなスーツケースを乗せ、発進させた。
なにも起こらなかった。
このまま無事に着きますように。
現金は駐車料金ピッタリ入っていた。
︎
久々の飛行機での旅行。
羽田空港の駐車場は予約がいっぱいだった。
朝、早いのでバスも無理。タクシーしかないと思っていたところ、娘が教えてくれた……
空港前で業者と待ち合わせして車を預ける。
帰りは空港の駐車場に入れておいてくれ、空港のコインロッカーに車の鍵を入れておいてくれるというもの。
これは違法?
「空港ターミナル前道路の駐停車禁止」プラス「空港内駐車場での車の受け渡し禁止」
もう2度としません。
もう2度と行けないだろうし。
29 文才なし
夢でした
車も家も
今のまま
︎
費やした
時間は無駄に
バカみたい
︎
残された
大量の文字
一瞬で
︎
お墓より
残してほしい
我が駄文
︎
匿名で
ずいぶん書いて
ごめんなさい
︎
ストレスを
吐き出しました
生きられた
︎
子供たち
読んでびっくり
毒親か?
︎
はらいせに
書かれたあなた
立場なし
︎
投稿を
身内は知らず
材料に
︎
某サイト
筆をすべらせ
星消えた
︎
書きたいの
批判されても
そういうの
︎
書くのなら
裸で歩く
覚悟ある?
(寂聴さんの言葉)
︎
削除して
残しておこう
愛の文
︎
書くことで
知った高揚
不眠症
︎
筆が乗る
家事さえ手抜き
気付かれた?
︎
この努力
一円にさえ
ならぬのに
︎
費やした
大量の時
無駄なのか?
︎
この道は
いつまで続く
最期まで
︎
呆けないわ
頭の中は
文字たくさん
︎
呆けたなら
なにを言うやら
恐ろしい
︎
良き妻で
良き母祖母で
いたはずよ
︎
読まれたら
困るわ困る
家族には
︎
読まれたら
困るわ困る
友人に
︎
すみません
気を悪くさせ
許してね
︎
いつだろう?
退会する日
消される日
︎
いつの日か
解約されて
いざさらば
︎
それでいい
それまで続け
られたなら
30 無知は罪なり
投稿するようになって、とうに忘れていたことを思い出した。
高校2年のことだった。夏休み明けのことだった。
教室へ行く階段で、すれ違った女子が泣いていた。教室に入ると登校していた生徒数人が泣いていた。
クラスの男子が自殺した。同じ姓の男子がふたりいたので、Y君と名前で呼ばれていた。
1年から同じクラスにいながら、話をしたことのない男子だった。髪は長く直毛ではなかった。新聞部に所属していた。話したことはほとんどない。
真面目な生徒、あの学校には真面目な生徒しかいなかった。
家庭の事情、ということだった。
集会では、生活指導の怖い先生が、どんなに楽しそうに見えても悩んでいる生徒がいる。家庭ではいろいろな事情があるんだ……そんな話をした。
クラスメイトは告別式に全員参加することになった。
私たち4人グループの女子のRが、その前にお線香をあげに行こう、と言い出した。リーダー的存在のしっかりした女子だった。活発で男子とも臆することなく話し、ふざけていた。
亡くなったY君ともそうだったのだろう。
4人で午後、家を訪ねた。牛乳屋だった。その時応対したのは父親だけだった。
父親は何も知らない私たちに話した。学校のせいだと。
新聞部のY君は日教組のことを書き、先生側と何かあったらしい。
感電死?
どうやって?
無知な私は聞いているばかりだった。突拍子もない、現実離れした話だった。
遺書を見せてくれた。
『私が死んでも悲しまないでください。悲しみは一時的なものです』
供養だから、と言われバナナを食べた。息子の好きだったレコードをもらってくれ、と言われチェイスの『黒い炎』のLPをいただいた。
当時の私には理解できないことばかりだった。
感電死がわからない。日教組も知らなかった。
告別式は雨が強かった。
何があったのか、数日後の朝、校門の前で男が印刷物を配っていた。先生はそれを止めることもせずに見ていた。
書かれた内容は当時の私にはよくわからなかったが、学校側を責めていた。
真面目な生徒ばかりの学校。誰も何も言わなかった。親しかった男子はいただろうに。
ドラマなら騒ぎになり、誰かが先生に聞くだろう。
なんで自殺したんだ? と詰め寄る生徒もいただろう。
しかし、誰もなにも言わなかった。
同姓の親しかったM君もなにも言わなかった。
生徒会も動かなかった。
学校側に説明を求めてもよかったのではないか?
それとも、したのだろうか?
ビラの説明はなにもなかった。集会があった記憶もない。
グループのリーダーのRが私たち3人を引き連れ、先生に聞きにいこうと職員室に乗り込んだ(?)
彼女は担任に、Y君の父親から聞いた話をした。
担任はタバコを取り出し吸った。間を置いたのはわかった。当時はそれができたのだ。生徒の前でタバコを吸うことが。
私はそこにいただけだ。なにが起きているのかわからなかった。
はっきりした答えはなかったと思う。
表面上は穏やかだった。ビラを配る男も数日するといなくなった。
落ち着いた頃、私達4人の女子は警察署に呼ばれた。それぞれ別々の部屋で調書を取られ拇印を取られた。
Y君の父親と何を話したのかを聞かれた。確か日当も出たと思う。
あれはなんだったのだろう?
自殺の原因が学校側の数人の先生にあると、父親が訴えたのだろうか? 私たちの名は誰が出したのだろう?
誰もなにも言わなかった。
無知な私は無知なまま過ぎてしまった。
他の大勢の生徒はもっと無知で無関心だった。
1973/9/3
自宅で、××高校のY・Yくん(高2・16)が感電自殺。
6/8 Yくんは、日教組批判の新聞記事を学校新聞に掲載しようとして、担任教師や新聞部 の先輩に見つかり、集団リンチを受けた。顔や背中に大けがをし、11日間の入院。それ以降登校していなかった。 遺書には
「体育館で記事について責められ逃げ場がなくなった。助けてくれと叫んでも助けて くれるものはいなかった。死ねばみんなが喜んでくれるだろう」
と書いていた。 学校や日教組は、リンチなどの暴力沙汰を否定。
10/11 被疑者不詳のまま、傷害罪で告発。
(指導死一覧より抜粋)
少し前、検索したらヒットした。そういえば急性肺炎で入院していた。
掌編集 3