青虫になった彼女


紫龍は巨大な青虫になってしまった元恋人の姿を見て、心からの喜びと満足を感じるのでした。彼はかつてにこれほどの快感を味わったことがありません。なんせ、元恋人の真姫に知らぬ顔で傷をつけられた、己のプライドの深い傷跡に対する復讐心が、やっと報われる結果になったのです。
 紫龍の目の前には、全長が成人女性の平均身長と変わらない、巨大な青虫がいます。青虫の体は、見れば思わず涼しくなるような、梅雨時のじめじめとした暑さとは正反対の、綺麗な緑色の体をしています。しかし、それは頭部を除いた、体部からお尻までの話です。何と驚くことに巨大な青虫は、頭部だけが人間の頭、要するに前までの真姫の首から上の部分が、そのままにくっついているのです。
 読者方は、哀れな彼女の姿を想像できるでしょうか。彼女の顎は床についていて、そして彼女の黒くて長い前髪と横髪が、だらりと情けなく床に垂れ落ちています。それはまるで飲み物を溢して、床の色が変わってしまったかのようです。
 そして何よりも奇妙に思えて仕方がないのが、彼女の後頭部が存在せず、ちょうど頭部の頂点のところを境に、頭部の後ろ半分が、人の頭が緑色の青虫の体になっているのです。これはもう、余りにも奇々怪々な見た目なので、文章を用いて緻密な描写をするのも難解であると思われます。簡単に申し上げるとするならば、読者方が正面から、真姫の姿を見られたとして、顔面だけが人間である、巨大な青虫がいるとご想像して下さい。驚くことに全長は、横に倒れた成人女性ほどもあります。
 真姫が青虫になった訳はさておき、青虫になってしまった悲劇に嗚咽する、彼女の様子についてお話しさせて頂くことにしましょう。
 彼女は最初、真正面にある紫龍の足を見て、自分の視点が余りにも低いことを、不思議に思いました。おまけに青虫には首がありませんから、彼女は顔を上に向けることができません。そこで哀れな青虫は、正面の大きな足の持ち主が、一体、誰であるのかを確認するために、真っ黒な瞳孔が瞼から落ちてしまいそうなほど、視点を最大限に上げるのでした。しかし紫龍の顔を視界に入れることができず、彼女は誰の名前を呼ぶこともありませんでした。
 「誰?あなたは誰なの?」
 実は真姫がこの部屋に来たのは、これが初めてではありませんでしたので、彼女は紫龍の足の後ろの背景を見れば、ここがどこであるのかということは、一々確認しなくても分かるはずでした。しかし彼女も相当に焦っていたのでしょう。なんせ一瞬の内に、瞳に映る世界の高さが変わってしまって、そのうえ首がないため、右にも左にも顔を動かすことができないのです。これらの急な変化に、恐怖感と憔悴心を隠せるわけもありません。
しかし彼女に絶望が襲いかかるのは、まだまだこれからのことです。まだ彼女は、ぼんやりとした抽象的な感情以外には、何も味わっていないのですから、彼女の絶望的な様子は紫龍にとって、これからのお楽しみです。
真正面を見ることしかできない真姫が、自分が青虫になってしまったことを、知るはずがありません。ですから紫龍は、自分の恋人の絶望する姿を見たいがために、真姫の顔面から斜め右、ちょうど彼女が瞳孔を少し横にずらせば目に入る位置に、手鏡を握って腰を下ろしました。すると何と紫龍の気持ちは高まったことでしょう!真姫の顔面までもが緑色になったのかと思われるほどに、彼女の顔色が真っ青に変わってしまったのです。紫龍はそのときに、「ああ!これこそが、皆が絶望と呼んでいる現象なのか!」と思わず感嘆の声を口から漏らしたのでした。

真姫の嗚咽は一時間以上も続きました。紫龍も最初の内は、巨大な青虫の泣き叫ぶ姿に、大きな好奇心を隠せずにいましたが、さすがにそれも半時間を超えると、感情の炎は時間の風に冷まされて、次第には親指一つ分の大きさにまで小さくなってしまいました。それどころか彼は、もう興奮をさせてくれない真姫に飽き飽きとして、「俺は読むにおもしろくない小説を、最後まで読む阿呆とは違うぞ。」と苛立ち始めました。
ここらで真姫が青虫になった原因を、読者方の皆様にお話ししようと思います。

紫龍は真姫と付き合っていた当初、ずっと彼女に悩まされていました。どうして彼が毎日、悩まされていたのかと申しますと、それは彼の恋人であった真姫が、余りにも美しいためだったのです。彼らは大学生の頃に出会って、それから二年が経ち、社会人となってからも、二人は恋人同士でした。しかし数日前、真姫は紫龍に「もう終わりにしたい。」と、恋人の関係を絶つように、彼に話を切り出したのです。
ここで申し上げておきますが、真姫が紫龍との関係を終わりにしようとした理由を、わたくし筆者は全く存じておりません。と申しますのも、筆者は紫龍のことならまだしも、彼女のことについては、全く知る由もないのです。
 ただ私が言えることは、彼女は誰が見ても美人に思える人物で、小さな頃から今に至るまでずっと、多くの男性の憧れの存在となる女性でした。確かに私も彼女ほどの美人を見たことがありません。長い黒髪は浜辺の砂のようにさらさらで、瞳は大きく、細かく磨かれたオニキスのように光輝いています。鼻筋は高く、まるで異邦人の物と思われ、唇は瑞々しい綺麗なピンク色で、桃の実と変わらない柔らかさが、資格を通して伝わってきます。そして肌の色は、皮膚に雪の花が解け込んで染みになったような薄白さで、笑ったときに姿を現す歯に関しては、雪とは比べ物にならない程に真っ白です。果たして、彼女ほどの美人を、読者方は見られたことがおありでしょうか?彼女の容姿をご想像して頂ければ、彼女がどれほど、多くの男に思いを寄せられてきたか、何となく理解して貰えたと思います。
 読者方はもう既に予想されていると思いますが、彼女の恋人であった紫龍も中々の美少年でした。(やはり真姫の容貌は別次元のため、彼女には遥か劣りましたが……)そして世間体の良い好青年でした。しかしそのような彼にも、いくつかの欠点がありました。
 一つ目の彼の欠点と申しますと、彼は甚だしい自己愛を患っておりました。彼にとって何よりも価値のあるものは、己の快楽を求める心の満たされることに他ならず、彼はいつでも現実に起きる目の前の現象の一つ一つが、自分の思うとおりにならなければ激しい怒り、苛立ちを硝子の心に抱えるのでした。そして彼は、もし誰かに自分の快楽の邪魔をされることがあるようであれば、容赦ない暴力で懲らしめてやろうと思うのですが、実は彼は小心者で、自分の感情を、言葉や態度に変えることができない人種なのでした。
 そして彼の二つ目の欠点と申しますのは、彼は余りにも激しい妄想癖を患っておりました。しかし作者は彼の病的な妄想癖について、ここで一々取り上げようとは思いません。なぜなら、この小説自体が、彼の妄想癖の産物のようなものであるので、読者方にはこの小説を最後まで読んで頂ければ彼の妄想癖と言うものが、十分に理解をして頂けると思います。

 話を二人が大学生であった頃に戻しますが、彼らは交際をし始めた当初、オシドリも恍惚として眺めるような、仲睦まじい恋人同士であったそうです。
 ですが、恋の幸福とは、川の泡よりも儚いものです。二人が付き合い始めて数百日が経過した頃、過ぎ去りし月日が紫龍に与えたものは、益々膨らんでいく愛情ではなくて、大きすぎる嫉妬心なのでした。それは一時も収まることがなく、腐った心臓から蛆のように湧き出ていたのです。
 先ほど真姫の容貌をお聞きした読者方には、容易に予想して頂けるとは存じますが、貧乏人が己の身を高価な宝石で飾れば、それが盗まれないように常に神経を緊張させるのと同様で、心の乏しい紫龍のようなものが、余りにも美しい恋人を持てば、いつであれ、精神力を杞憂することに使い果たしてしまうものです。
 真姫は家から出ていれば、あらゆる出先で、しばしば男に声を掛けられることがありました。紫龍も大学内で、自分の恋人が男と、楽しそうに会話するのを見かけることがあったのです。
 ここで申し上げておきますが、作者は真姫の浮気話を聞いたことはありませんし、私は彼女が心から、紫龍のことを愛していたように存じています。しかし紫龍は、いつの間にか恋愛に対する杞憂を、彼女に対する苛立ち、憤りに変えてしまったのです。
 そして数年と経って、紫龍は真姫に対して不条理な嫌悪感を、抱いてしまうまでになっていました。彼は恋人のことで悩み、そのために彼の精神は疲れ果ててしまいました。そして彼は自分をこれほどにも苦しめた、真姫が憎くてたまらないと、大きな恨みを持つようになってしまったのです。
 そして彼らが大学を卒業して、二人が社会人となってから二回目の初夏の頃、真姫は紫龍に、彼に対してもう一切の愛情がないことを告白しました。
 紫龍は失恋によって、まるで象になったのかと思われるほど、大粒の涙を大量に流しました。そして自分と別れることに対して、雀の涙ほどの雫も瞼から溢さなかった真姫が、紫龍にとっては恨めしくて仕方がありませんでした。
彼はどうして真姫が、自分から離れてしまったのかと考えました。そして彼は考えに考え耽った結果、真姫が自分の他に好きな男ができたからだ。と根拠のない絶対的確信をするのでした。
 紫龍は毎夜、恋の悲しみのために、ろくに眠ることができませんでした。彼は毎日、真姫に捨てられた理不尽さのため、悲しみが胸一杯に溜まって、硝子の心は今にでも粉々に砕けてしまうかと思われました。
 そして紫龍は、自分を捨て、他の男に浮気した真姫に対して、何かしらの復讐をしてやりたいと考えるようになったのです。ですが紫龍は小心者で、真姫に別れを告げられたときも、何一つ反発することができず、まるで言葉を知らない赤子のように泣きじゃくるばかりでした。それに比べて真姫は、彼の三倍ほどは気が強かったので、紫龍が彼女に反発をするのは、彼にとっては大変に困難なことだったのです。
 
 真姫と別れてから一ケ月と経たない或る日の夜、紫龍は晩飯の後、塩辛い雫で、食後の温かい茶の代わりに、自らの舌を濡らしていました。彼は毎日、真姫のことを恨み、己の胸を焦がすほどの、大きな復讐心に燃えておりました。「俺はあの尻軽女のために、これほどにも絶望をさせられているのだ。きっとあいつは、今夜も誰かと肉体を交えているのだろう。なんせ、あいつは美しいから、男には全く困らないはずだからな!ああ!あの尻軽め!俺は誠の愛で奴と接していたのに、相手は札付きの浮気者、己の容貌が、誰よりも美しいことを自分で知っているから、いつでも男を取替え引替えで、まるで世の中の男は誰も皆、石ころの価値でしかないらしい!自分のことが宝石のように高価だと思っている奴は!」
 紫龍は涙を常に流していたので、両頬の透明色の縦線が、涙の滴り落ちた痕跡なのか、それとも涙が肌を削って窪みを作ってしまった跡なのか、一目見ただけでは、全く分からなくなってしまいました。
 そして先ほども申しましたが、真姫と別れてから一ケ月と経たない或る日の夜、彼はとうとう、人の目には見えず、人の用いる言語では到底、言い表すことのできない偉大な存在に、左右の手の平を重ねてお祈りするのでした。
 「どうか、どうか僕の元恋人を青虫にして下さい。僕が今宵、眠りに落ちて次に目を覚ます朝、どうか僕の目の前には、青虫の姿になった真姫の姿がありますように……」
 すると驚くことに、翌朝、目覚めた紫龍の視界には、青虫になってしまった真姫の姿があったというわけです。

 真姫は涙を目から出し尽くしました。そろそろ彼女の目の内側は砂漠と化して、塩水ではなくて、細かな砂粒が瞼から落ちてきても不思議ではありません。それとも彼女の目から流れてくるものは、尖った砂粒によって傷ついた、瞼の内から溢れ出る血液でしょうか。
 真姫は近くにいるのが紫龍であると気づいて、彼に初めて声を掛けました。
 「紫龍、ここはあなたの家よね?その足は、紫龍、あなたのものでしょう?
ねえ、紫龍。これは何て卑劣を極めた悪夢なこと!ねえ、お願いがあるの。私の右頬を抓って欲しいの。きっとその痛みで、私は恐ろしい夢から覚めることができるから!」
 紫龍は真姫の言葉を聞いて、思いっきり右の頬を叩きました。このとき、紫龍は今までに感じたことのない違和感を抱きました。
 「俺は今まで、誰のことも殴ったことはない。人に暴力を働くには、やはり良心の呵責というものがあるはずだ。自分が殴る相手の痛々しい表情を想像すれば、暴力ほど恐ろしいものはないだろう。では、俺はどうして今、こいつの頬を平気で叩くことができたのだろう……」
 彼はふと浮かび上がった疑問を解決するのに、少しの苦労もしませんでした。
 「そうだ!どうして俺が、こいつに暴力を振るってしまったのか、それは考えてみれば簡単なことじゃないか!こいつが人間ではなくて、醜くて卑しく弱くて不憫な生き物になったからだ!目の前にいるこの尻軽女は、容姿の美しさで、誰を彼をも引き付けて止まなかった美女でもなくて、俺が何一つとして勝ることのなかった、才色兼備で閉月羞花の彼女でもない。今、俺の目の前にいるのは、見た目が気持ち悪くて仕方がない、顔面だけが人の形をした巨大な青虫なんだ!」
 紫龍は右頬を赤く腫らした彼女のもう片方の頬を、先ほどよりも大きな力で叩きつけました。
 「どうだ!まだ痛みが足りないとでも言うのか?ならば、思う存分にその頬を叩いてやるぞ!」
 紫龍は内気な性分ですので、これまでには暴力を働くことはもちろん、大きな声を出して相手を脅かすことなど、彼にはできっこありませんことでした。しかしだからと言って、彼が優しくて、穏やかな人物であったわけでは決してありません。そもそも人間とは、何か一つのきっかけを機会として、まるでカメレオンのように、心の色を塗り替えることができる動物なのです。例えるならば、白百合の似合う処女が、たった一つの蜜のように甘い罠を機にして、翌日には、淫乱なあばずれ女に変わってしまう。これだって、別に不思議な話でもありません。むしろ毎日、地球上のどこかで、それはまるで大自然が息でもするかのように、私達の知らない世界で、目撃されていることなのです。
 話は戻りますが、これまでは暴力を用いることができなかった紫龍が、人としての権利を失くした青虫の真姫をきっけとして、今までには無知であった、サディスティックな快感に溺れていくことになるのです。
 「痛い!すごく痛いわ、紫龍!ああ!何て悲しいこと!これはきっと、夢じゃないんだわ!」
 真姫は紫龍にそう言って、既に枯れたと思われる彼女の目元から、再び多くの透明色の涙の粒を流して、まるで天井から雨が漏れているのかと思われるほど、床をびっしょりと濡らしてしまいました。(そしてこの日はちょうど梅雨入りで、カーテンで閉ざされた窓の向こうでは、鈍い雨の音が響いておりました……)
 彼女の涙がほんわりと白い肌を伝うとき、顔面から伸びる鮮やかな緑色の体も、持ち主の悲しみが伝わっているのか、ぶるぶると震えていました。
 「紫龍、私、どうすればいいの……私、手も足も無ければ首すらも無くて、頭が一つ残されただけ。しかも頭ですら、少し緑色の悪魔に蝕まれていたじゃないの!
ああ!これではまるで、昔から伝わる奇怪な伝説、人面犬や人面魚と変わらない!いや、顔が人間で後の全ては青虫だなんて、これに勝る気持ち悪い妖怪を、私は誰からも聞いたことがないわ!」
 彼女は止まることのないように思われる涙を流しなら、元恋人である紫龍を霞む視界に映し、鼻水の味がする舌を精一杯動かして、相手に伝わるように絶望の思いを口にしました。そしてこれを聞く紫龍の様子と言えば、顔は無表情で上の空、しかし胸奥は、黴のように広がる快感に汚染され、激烈な興奮のため、舌までがカラカラに乾いていました。
 
しばらく時間が経過して、泣き疲れた青虫の真姫が、絶望からの救いを求めるように、「助けて。」と紫龍に対して口にしたときです。紫龍は何のためらいもなく真姫の頭を、細かな屑を纏った靴下で、足を乗せるように軽く踏んづけました。すると何ということでしょう!青虫の真姫の体の後端部分、彼女のお尻の上部から、橙色の角のようなものが、にょきっと生えてきたのです。その角の長さは、彼女の頭に乗る、紫龍の足よりも長いと思われます。その形は、アルファベットのVの形であると申し上げるのが、最も適しているかと思われます。これは青虫が持つ臭角(しゅうかく)と呼ばれる部位に違いありません。これは青虫が、外敵から身を守るために異臭を放つ部位なのですが、普通は頭部にあるものなのです。しかし彼女の場合は、頭が人間の物であるからでしょうか。何とお尻から臭角が、それが当然のことであるかのように、にょきっと姿を現わしたのです。尻に生えているといった、これほど奇妙な角も中々、目にできることはないかと思われます。
彼は最初、唖然として橙色の一物を見ていました。しかし三秒後には、自分の鼻を潰してしまうような刺激臭にぞっとして、すぐさま彼女の体から大幅一歩、離れはしましたが、それで異臭が届かなくなるわけがありません。
「この化物め!さっさとその気色悪い角を、尻の穴にでも引っ込めろ!
ああ!何て強烈な臭いだ!これでは俺の家が、テロ用の秘密薬品の生産でもしていると、隣人に間違われかねないぞ!それにしても何て刺激臭だ!大きさも倍なら、臭いも倍ってわけか!」
哀れな青虫の真姫は、先ほど紫龍に頭を踏まれたことよりも、どうやら自分の体から漂っているらしい、人の嗅覚を壊しかねない異臭に驚いて、まるで蛇に睨まれた蛙のような表情で、紫龍に話しかけるのでした。
「この臭いは何なの?(二度、嘔吐く。)」
彼は青虫の真姫が、自分のお尻を見ることのできる角度まで動いて、手鏡を指から垂らしました。
鏡に目をやった真姫は、自分の尻から生えている余りにも醜い臭角に、今までに感じたことのない劣等感と羞恥心とを感じました。
真姫はまるで車に跳ねられた瞬間の猫のように、最後の力を振り絞っているかとも思われるほどの、甲高い悲鳴を喉から出しました。いや、真姫は青虫の体を持ってから、お腹が以前よりもふくよかになりましたので、むしろこの大きな悲鳴は、お腹から出ていると申し上げた方が、適切なのかもしれません。
「私の体は一体、どうなってしまったというの!両手両足が消えて、首も無ければ頭と繋がった青虫の胴体一つ、おまけにお尻からは醜くて臭い角が生えている!ああ、またどうしてお尻から?せめて私の頭から伸びていた方が、まだ角らしくてマシだったのに!」
可哀そうな彼女は泣くに泣いて、私の知るこれ以上の不幸は、これ以外には何一つとしてありません。今、彼女はこの世の最大の不幸の中、恐らく人類最高の絶望に苦しめられているのでしょう。しかし彼女の悲しみとは裏腹に、紫龍の心臓の鼓動の調子はドクン、ドクンと規則正しく、何やら子どもが楽しげに踊っているようなテンポの良さです。そして彼が、喜びとは似ているようで似ていない興奮で、口の中をカラカラにしているのは、真姫からすれば考えもしなかったことに違いありません。
「これは夢よね?ねえ、紫龍。何を笑っているの?やめて、もう手鏡をどこかにやってしまって!もう自分のみっともない姿だなんて見たくない!ああ、それにしても何て臭いの!」
真姫は涙を流しながら、紫龍に訴えかけました。
「さっきからどうして、あなたは笑っていられるの?人の不幸がそれほど、あなたには楽しそうに見えるというの?」
紫龍は手鏡を離すことなく、元恋人の、今では青虫となった真姫に口を開きました。
「現実を見ろ!これは夢ではないし、現実に決まっているだろうが!それともまだ、これが夢だと信じているのか?ならばこうだ!」
そう言って、紫龍は真姫の頬を、思いっきり叩きました。
「どうだ、痛いだろう!それともまだ、これが夢だと信じるか?ならばもう一方の頬も叩いてやる!」
彼はもう一方の頬も、思いっきり叩きました。
「どうだ!これでやっと分かったか?この俺の持つ手鏡に映った、化物に違いない巨大な人面青虫、これは嘘偽りのない現実だ!
それにしても神様だって、これほど醜い化物を作れないだろうよ!ならばこの醜態は、まさに運命の悪魔の悪戯か?かつては百年に一度の美女とまで言われた女性が、今は前人未踏の巨大青虫に!何を泣いているんだ?俺の言葉が気に障ったか?だがな、不快なのはこっちのほうだ!その臭い角を、さっさと尻の中に引っ込めろ!この変体が!」
紫龍の乱暴な言葉に、真姫は唖然として、何も言葉を返せませんでした。
「どうした?何か言ってみろ!このブサイクが!」
真姫は驚きの余り腹を立てることもできませんでした。
「やっぱりこれは夢よね?だって、紫龍がこんな乱暴なことを言うはずがない。いや、もしこれが現実だとしたら、あなたは紫龍の皮を被った悪魔だわ!あなたは紫龍じゃなくて、私をこの姿に陥れた悪魔なのね!」
「ははは。いや、可哀そうなブサイクさん!お前はいくつか間違っているぞ!まず、当たり前のことだが、俺は悪魔でもなければ、俺のそっくりさんでもない。俺はお前の元恋人の紫龍だ。あと、実を言えば、お前を醜い青虫の姿にしたのは悪魔でもなければ、未知の病原体でもなくて、唯一無二の神様なのだ。
お前が青虫になった訳を、一から説明するならば、それは俺の涙から始まるんだ。俺が夜空に光る星を見上げ、両手を重ねて祈ったんだ。
ああ、神様!どうか僕の元恋人である真姫を、青虫にして下さい!もし彼女が青虫になったのならば、私の魂を一生、あなたに捧げます!
俺はこういう具合で昨夜、神様に切望した。そして今日の朝に目覚めれば、巨大な青虫になったお前がいたというわけさ。」
 紫龍は夏の太陽のように眩しい笑顔で、事の経緯を全て話しました。すると青虫の真姫が、まるで怒った犬のように、人の歯を剝き出しにしているではありませんか!これには紫龍も少し怯えてしまいました。彼は手鏡を床に落として、数歩と真姫から離れたのは、やはり動物的防衛機能からとでもいいましょうか。
真姫は紫龍を殴ってやりたいと思いました。それは無理もありません。何故なら、彼女は紫龍のため、自分の体を青虫にされてしまったのですから。
 真姫は紫龍を殴ってやりたいと思ったのですが、彼女からすれば、数歩離れただけの距離でさえ、足がなければそれを埋めることもできないのでした。いや、足はあるにあったのですが、彼女は二足直立歩行に用いる足以外のものを、当たり前のことですが、かつて動かしたことがありませんでしたから、自分の腹の内側に、人の持つ倍の数の足がついているとは、夢にも思わなかったのです。ですから彼女は、自分が歩けないものだと、勝手に思い込んでいたのです。彼女は彼を殴りたくても、自分の体をどう動かせばいいのかが分からないのでした。それに実を言えば、青虫には腕がありませんから、青虫の彼女が紫龍を殴ることは、最初から不可能だったのです。
 真姫は悔しくて泣き出しました。いや、もう悔しいという言葉だけでは、彼女の感情を表現することはできません。なんせ彼女は、元恋人の理不尽な祈りで虫の姿にされて、自分は余りにも醜い姿となり、恨むべき元交際相手の紫龍は、目の前で楽しそうにしているのです。彼女は延々と泣き続けました。すると、それを見た紫龍は、最初は何も言わず、彼女の目の前で突っ立っていたのですが、時間が少し経過すると、彼は真姫の前に再び手鏡を提示するのでした。
 「まだ部屋の中は臭くて、吐き気が胸から込み上がるが、お前の気色悪い角は、やっとのこと引っ込んだらしい。」
 真姫は自分の一物が引っ込んだと聞いて、大きな羞恥心から、少し解放されたような気がしました。見た目も気持ち悪く、人の鼻を突く刺激臭のする橙の一物は、彼女からすれば人の体のときにあった性器、もっと言えば、糞をする穴のようなものでした。そして真姫は鏡に映る自分の一物を見て、まるで自分が尻の穴を、人前で露出しているような、余りにも痛々しい羞恥的屈辱感を味わっていたのです。そして紫龍は、何故かそのことを良く理解していました。
 そして彼は、橙の一物が引っ込むのを待つために、わざと何もせず、じっとしていたのです。
紫龍の持つ鏡を見て、醜い一物が尻に引っ込んだのを知り、安堵の溜息を漏らした真姫を見て、サディスティックな彼は、またもや彼女の頭に、力を入れて片足を乗っけてやるのでした。するとその瞬間、再び青虫の真姫の大きな一物が、彼女の尻から、にょきっと姿を現したのです。そして部屋中には、さきほどにも増して、強い刺激臭が漂っているのでした。
 紫龍は「鏡を見ろ!」と、真姫に言いつけました。
 「おい!俺は昔から思っていたが、お前は何て醜い存在だろう!お前だって、鏡に映る自分の姿を見てば、自分でも納得するだろう?俺はお前を見ているだけで虫唾が走る!それに吐き気がするほどの、お前の尻の臭いときたら!
 おい、青虫!お前はどうして生まれてきたっていうんだ?お前みたいな気色の悪い奴、自分で自分を見ただけで死にたくなるだろう?お前に生きている価値なんて、この部屋の片隅の埃にも勝らないだろうさ!」
 彼は青虫になった真姫に対して、散々の暴言を吐くのでした。彼に心を抉られた真姫は緑の体に血でも流れているのかと思うほど、ずっと声を上げて泣いているのでした。そして彼女は紫龍に対して、何も言い返すことができませんでした。それはもう、自分の醜態に無力を感じている証拠とでも言いましょうか。彼女はただ、今までの幸せな日常が、全て跡形もなく壊れてしまって、もう戻ることのない人間としての生活を、青虫の姿で顧みては絶望して、「助けて下さい。」と神様に願いを託し、無に等しい小さな希望に、これからの自分の人生の全てを任せているのでした。

 紫龍は数時間の内に、何度も同じ種類の快感を味わったので、真姫の泣き顔を見るのにも飽きてしまいました。まず快楽と呼ばれている、人が依存する気持ち良さには、一日の内に人が享受できる限度と言うものがありますから、一日に何度も同じ種類の快楽を体験するのには無理があるのです。
紫龍は目の前の巨大な青虫の真姫を見て、いつの間にか、何の面白さも感じないようになってしまいって、その仕舞いには、買い物に出掛けてしまいました。もちろん、その買い物は、彼の明日からの快楽の準備に他なりません。それと言うのも、快楽というものは妙なもので、もうこれ以上は体感できないというくらい享受に溺れようと、早くて半日、遅くても一日と経てば確実に、もう味わい尽くしたと思っていた気持ち良さを、まるでそれが、ずっと我慢していたことのように感じられるものなのです。
紫龍は真姫を一人で残して家から出ました。彼は外出する際、絶望に暮れる真姫を一人残して、自分の部屋で自殺でもされないかと、不安に思いましたが、彼は元恋人の性格を良く知っていたので、彼女に自ら命を絶つ勇気が少しでもあるわけがないと、勝手に決めつけて確信するのでした。

紫龍が家を出たのは正午過ぎで、彼が帰宅したのは、もうとっくに日が暮れてしまった時間でした。彼は吐き気に襲われるほど、ずっと憎んでいた真姫が青虫の姿になったので、梅雨時の雨が降る日にも関わらず、気分は颯爽として、まるで日本の歳月が少し遡って、涼しい薫風でも吹いているのかと思われました。
彼が今日、初めて体感した快楽は不思議なもので、気持ち良さの絶頂の後、快楽には本来付き物の肉体的な怠さというものが、微塵ともありませんでした。(先ほどに申し上げたように、精神的な怠さ、飽きのようなものはあったのですが)読者の方も経験されたことがあると思いますが、酒、性、薬といった最高峰の快楽には、必ず後からその快楽と同様の怠さが、自分の体を締め付けてしまいます。しかし今の紫龍は、肩が重たいと感じるどころか、体は春風のように軽く、梅雨の湿気によって服を濡らした汗さえ気にならず、まるで不思議の国の妖精が、自分に道案内をしてくれているかのような気分でした。
彼はこの日、心から一日を満喫しました。昼食はステーキを食べて、その後、複数の店を見て回って、これからの快楽のための準備品を購入すれば、次は映画を見に行きました。そして夕食は回る寿司屋のカウンター席で、ゆっくりと一貫、一貫を味わって、もう食べられないと思うまで食べ尽くしたのです。彼にとって今日は、とても充実した一日でした。そして最高に機嫌が良かった彼に対して、今日初めて出会った快楽が更にむらむらと、彼の欲情心を煽り立て続けるのでした。そして彼は今日、眠れないほどに遊び尽くそうと企てました。それはまるで、性行為を覚えたての男子学生とでも言いましょうか。彼は満腹を脳に乗っけて、更なる満腹に満たされようと、心を躍らせて帰宅するのでした。

紫龍が帰宅すれば、大きな青虫は部屋の片隅で、綺麗な肌色の頬を、涙で透明色に染めているのでした。彼女の美しい肌色は、涙を吸い込むことによって、更に光り輝いているように思えました。彼女は青虫になってしまったと言え、人間のときと変わらない彼女の顔面は、やはり昨日と同じ美しいままでした。
そして紫龍は、ずっと泣き続けている真姫を、いつまで泣いているのかと胸の内で蔑みながら、買ってきた物を洋間で整理するのでした。
紫龍はまず、部屋の片隅で泣く青虫を無視して、今日購入した、目前の青虫と変わらないほどの大きさである鏡を、面を横向きにして、倒れることのないように、今はカーテンで隠された掃き出し窓に立て掛けました。この吐き出し窓は、洋間の入口から見て正面にあって、一人分の洗濯物を干すのがやっとの、小さなバルコニーへの入り口となっていました。次に犬猫用のえさ皿に水をたっぷりと入れて、彼女の近くに置いてやりました。
そして紫龍は、彼が心から楽しみにしていた、巨大な青虫の食事の時間に掛かろうとしました。彼は真姫のために、蜜柑の木の葉を大量に買ってきたのです。そしてそれが萎れてしまわないように、真姫の涙に比べれば少し濁った硝子の花瓶を、何と十個も買ってきたのでした。それに蜜柑の木の葉の量と言えば、蜜柑の実がたくさん入った段ボールの重量と比べても、きっと劣ることはないと思われます。
読者方は紫龍がどうして、これほどの蜜柑の葉を買ってきたのかと、不思議に思われることでしょう。ですが彼にとってこの行為は、どの図鑑を見ても載っていない巨大な青虫が、一体、どれくらいの餌を必要とするのかが予想できず、元恋人である青虫を餓死させたくはないという、彼の立派な優しさの現れであったのです。(いや、実を言えば、大きな快感の連続で彼は機嫌を良くしていたため、気分気ままの行動に理性を委ねてしまったのも一つの要因ですが……)
彼は部屋の片隅で、虫の死骸のように固まる真姫に話しかけました。
「お前のために、山ほどの葉っぱを持って帰ってきてやった。さあ、好きなだけ食え。」
紫龍は数枚の葉を付けた枝を、巨大な青虫の口元に近づけました。
「さあ、食べろ。」
彼が青虫の真姫に葉を食べさせようと手を伸ばしたとき、まるで彼の心は、性交時の気持ち良さに声を上げる野獣のようでした。その理由は明らかで、彼は昨日までは美しく威厳のあった真姫が、彼の片手に握られた葉を咥えるという構図が、彼にとっては痙攣を起こしかねないほどの、快楽に違いなかったのです。
もちろん、彼が真姫の堕落ぶりに興奮していたのと同様に、青虫になってしまった真姫の自尊心は、余りにも悲劇的な憎しみで傷ついてしまいました。
何度も申しますが、真姫は小さな頃から、学才と美貌とを併せ持ち、周囲の人からその才色兼備を羨まれ、多くの老若男女から憧れの的とされていました。ですから、自らを誇りと思う自尊心は、真姫にとっては当然のものかとも思われます。しかし彼女は、自分が周りの人を惹きつけ多くの人に愛された、日本で言うならば桜のように綺麗な容貌を、紫龍に全て奪われてしまったのです。大きな青虫は、紫龍を殺したいと思いました。真姫は目の前で、自分を蔑み笑う紫龍が差し出す彼の手先を見てみれば、その手の指は、虫が餌として食する緑色の葉を掴んでいます。それを見た彼女の自尊心は大変に傷つき、彼女の憤怒は、脳みそを興奮で熱して液体のように溶かしてしまいました。そして彼女は紫龍の留守中に、足で歩くことを覚えていたので、紫龍が彼女に手を差し出した瞬間に、青虫の真姫は、腹の内に生えた多数の足を動かして、彼の手の二本の指に、思いっきり噛みついたのでした。
紫龍は人間の歯を生やした青虫に思いっきり噛まれて、今までに経験したことのない痛みに、精神病棟に住む狂人のような大声で喚き散らしました。
彼は指が千切れてしまうのではないかと思いました。ましてや真姫は、紫龍を殺すつもりで噛みついたのです。紫龍は命の危険性までは感じませんでしたが、彼が痛さの余りに逆上したのは、言うまでもありません。彼は真姫に噛まれている利き手を助けるために、もう片方の手の平を強く握り、真姫の頬を思いっきり殴りました。
成人男性のまともな暴力を顔面に受けた真姫は、頬に重く残る痛さのため、彼の指から口を離したことはもちろん、暴力による痛感と恐怖心のため、子どものように泣きじゃくりました。紫龍は虫ほどの涙も見せていませんでしたから、これが男性と女性の違いとでも言いましょうか。そして青虫になった真姫の涙を流す顔面は、幼い少女のようで、可愛らしく愛おしいものでした。
紫龍は歯形を付けられて、肌色で無くなった自分の指を眺めて、青虫という弱者に傷つけられた屈辱感が、彼の胸の内で、真姫に侮辱でもされたかのように感じさせるのでした。彼はそれが許せず、真姫に仕返しをしてやろうと思いました。そして彼は、泣きじゃくる真姫には目もくれず、広くない洋間のすぐ隣にある台所に向かいました。そして彼女に侮辱されたような気になった彼の硝子の心は、相当に傷ついてしまっていて、今すぐにでも、胸に湧きおこる屈辱感を晴らしたいと、彼は思うのでした。

ここからは余りにも暴力的な描写が多くなりますので、幾人の読者方の中には、大きな不快感を抱く方もおられるでしょう。しかし、私は作家として、真実をここに記すのが仕事ですので、紫龍が真姫に取った仕打ちを、惜しむことなく文字を連ねて、表現していこうと思います。
まず紫龍は、ステンレス製の鍋に少しの水を入れ、その中身が沸騰するまで、強火の火で熱し続けました。そして沸騰を確認した彼は、小さなスプーンを口に咥えて、その熱々の湯が入った鍋の左右の把手を両手で持ち、巨大な青虫のいる部屋に向かったのです。
鍋を持つ紫龍を見たときの、真姫の驚きはどれほど大きかったことでしょう!彼女はまさかと思い、己の身に起きるであろう惨劇に悲鳴を上げました。
紫龍が部屋に入ったとき、まだ泣き続けていた真姫は、まるで蛙と遭遇した虫、とでも言うような、目前で悪魔を見たかのような表情をしているのでした。
紫龍は洋間の中心に立って、青虫の真姫を、壁に立て掛けた、鏡の前まで来るように脅迫しました。
「すぐに鏡の前に行け!せっかく買ってきてやったんだ!さあ、早く自分の目で、その不細工な格好を見るんだ。さもなければ、熱湯地獄がお前を待っているぞ!」
こう言われれば、青虫の真姫も慌てて、幾つかの足で少しずつ、鏡までの距離を縮めていくのでした。
紫龍は鏡の前に辿り着いた真姫の隣に座り込み、すぐ側で放置されていた雑誌を熱い鍋底の敷物にして、把手から解放された片手で口元から、巨大な青虫の目程の大きさのスプーンを引き抜きました。
彼は青虫の真姫を見て、卑しい笑みを顔面に浮かべました。
「どうだ?今のお前は、とても無様な姿だろう。まるでどこかの国の神話に登場する、化物の姿と変わらないじゃないか。お前だって今の自分の姿が見苦しくて、仕方がないのだろう。どうだ?」
真姫は腹立たしさと悔しさに、歯を強く喰いしばりました。しかし熱湯の恐怖のため、彼女の口から彼に反発する言葉が出ることは、一度もありませんでした。
「おい!どうしてお前は今、鏡から目を逸らしたんだ!俺は今、憤怒の炎に体を芯から焦がされてしまいそうだ。何故なら、お前みたいな醜い化物に、俺という人間様が痛めつけられたのだからな!当たり前だが今、俺の指は痛む。しかし、一番に痛み苦しんでいるのは心だ!俺の敏感な硝子の心だ!」
彼はそう叫び終わると、小さなスプーンで、少し冷めたと思われる熱湯を掬い、それを真姫の緑色の胴体にかけてやりました。
青虫の柔らかく脆い緑の体には、その少量の湯は余りにも熱すぎて、青虫の真姫は痛々しい悲鳴を上げました。そして鏡に映る彼女を見れば、すぐさま橙色の一物をお尻から生やして、部屋一面はあっという間に臭気で汚されてしまいました。
ですが紫龍の心は、不快な臭いを気にもしないほど、青虫のくねくねと苦しそうに動く体を見て、まるでスキップをする少年のように踊るのでした。
彼は何度も何度も湯を掛けました。その度に、青虫の前胴体は少し浮いて、右に左に忙しなく動きます。
「やめて!やめて!」
真姫は緑の体に落ちる湯の熱さに苦しんで、紫龍に向って何度も悲鳴を上げ続けました。しかし彼女がどれほどに泣き叫ぼうが、紫龍の顔面の筋肉は卑しい笑みに何度も緩んで、しまいには彼の柔らかな頬が、落ちてしまうかとも思われました。
「熱い!やめて、後生だから!」
青虫の体は激しい動きに疲れることもなく、ずっと右に左にと動き続けます。彼女の胴体には湯が汗のように流れ、彼女の顔面は、汗か涙か鼻水か、水の濁った色に、肌の色を奪われています。
「死ぬ!死んじゃう!」
真姫はこのとき、死の恐怖すら感じていました。彼女は体全体が火傷をしているのか、胴体のあらゆる部位から、激痛が彼女の脳細胞に伝わってきて、彼女がふと鏡の面を見れば、そこには死の予感が漂う、自分の姿が映っているのでした。
一方、紫龍と言えば、真姫が口にした「死ぬ」という言葉に、今までに感じたことのないような、気持ち良さを感じているのでした。
紫龍はこのとき、人の生きる、死ぬといった運命を、自分の意のままにできるという、征服感によって満たされた快感を、初めて知ることができました。人の命が自分の手のひらの上で、まるで溺れるネズミのようにもがいているのです。彼は自分が神になったような気がしました。そして彼はこの生殺与奪の権利を、これから思う存分に満喫しようと思ったのです。

 紫龍がこの部屋の絶対的権力者となってから、しばらくの時が経ちました。彼は手を休ませることなく、幼虫虐待を続けましたが、コンっとスプーンが鍋底を叩く音を聞いて、鍋の中の享楽的玩具が、全て無くなってしまったことに気付いたのでした。
 自分を虐げる湯が無くなったことに気付いた真姫は、やっとのことで、自分の体を激しい動きから、解放することができるのでした。彼女はぐったりとしている様子で、「ひどいよ。ひどいよ。」と小言を漏らして、息よりも小さな声を出して、静かに泣いていました。
 「お前の体は吐き気がするほど臭いな。」
 紫龍は湯が無くなったと同時に、部屋の喉に指を突っ込んだような刺激臭に嗅覚が反応して、目の前の大きな青虫に不快な気分にさせられたことに対して、物凄く腹立たしさを覚えました。
 「おい、大きな青虫さん。お前は一度、目の前の鏡を見てみろ。尻から橙色の汚物が出ているだろう。早くそれを引っ込めろ!早く引っ込めるんだ!
何だ、お前は言うことを聞けないのか!」
 彼は怒鳴りつけましたが、真姫の目はどこを見ているわけでもなく、ただ、鏡の後ろのバルコニーよりも更に後ろにある、絶対的な絶望感を見つめているのでした。
紫龍は真姫が言うことを聞かないので、青虫は自分に反抗しているのだと、彼は勘違いをして、自分は青虫の分際に再び侮辱されたのだと思い込みました。実際、真姫はただ、不幸に身も心も疲れ果てていただけでした。彼女は身と心に蓄積した疲労のため、血を吐くような思いだったのです。
しかし何と可哀そうな彼女でしょう。紫龍は疲れ果ててぼおっとする真姫を見て、「こいつはまだまだ懲らしめる必要があるぞ。」と思いました。
紫龍は小さな鍋を手に持って、静かに立ち上がりました。そして彼は台所に向かったのです。
水道水が鍋底を叩く音を真姫が聞いたとき、彼女は数秒前に口から漏らした安堵の溜息で喉を詰まらせてしまったのか、過呼吸で死んでしまいそうなっていました。
これから後は、先ほどと同じく、青虫の真姫に対する紫龍の熱湯攻めが続くだけなので、読者方を退屈させないように、省略させて頂きます。ただ、真姫はこの日、何度も何度も「死んでしまいたい。」と思ったのでした。その理由は、一つは自分が醜い青虫になったためで、もう一つは、紫龍による生きているのも辛くなるような暴力のためでした。この日、彼女の緑の体の周辺の床が、近い内に腐敗するのではないかと思われるほど、水浸しになっているのでした。その水は、彼女の体を痛めつけた熱湯がほとんどでしょうが、きっと、彼女の涙も含まれて、指で拭き取って舐めてみれば、さぞかし塩辛かったことでしょう。そしてこの日、彼女は遊ばれるだけ遊ばれて、結局、何も食べることができずに、小さな風呂場に閉じ込められて眠るのでした。

紫龍が目を覚ませば、雨の音が外から部屋に伝わり、どうやら六月の梅雨時の今日この頃、彼は雨時特有の憂鬱な怠さを両肩に感じて、敷布団から上半身を起こすのでした。
起床した彼は、昨夜、自分が何時間ほどの夢を見ていたのか、現実と夢の区別に脳内が錯乱してしました。
まず、彼はまるで夢物語のような昨日の出来事を、夢ではなかったと確認するために、真姫を閉じ込めておいた風呂場へと向かいました。そして彼が風呂場の引き戸を開けると、そこには狭い風呂場で窮屈そうにしている、大きな緑色の青虫がいました。
紫龍が浴場を覗いたとき、青虫の尻が彼の方を向いていたので、まさかこの尻の向こうに人の顔面が付いているとは、彼以外の者が知るはずもありません。青虫の真姫は昨夜の疲れで弱っていて、まるで溺死した虫の死骸のように動きません。彼女は眠っていたのです。
紫龍は顔に満面の笑みを浮かべて、大変に喜びました。昨日の出来事が夢ではなかったと確信したのです。その喜びは、一般市民が思わぬ幸運のため王様となり、一人のかよわい少女を奴隷として初めて買った喜び、とでも申しましょうか。そして彼は、目の前にある大きな緑色の尻を、一度、叩いてみたくなりました。彼は青虫の体が破けないほどに、大きな尻を打って、痛めつけてやりたいと欲情したのです。
彼は一度、洋間に戻って敷布団をぐちゃぐちゃと丸め、それを大きな団子にして、洋間の入り口のすぐ側に付いている、物入れの中にしまい込みました。そして彼は、布団を投げ入れた物入れから、数年前に使っていた腰巻ベルトを取り出したのです。
彼は真姫が新たに天から授かった、緑色の青虫の体を、叩いてやりたいとは思いましたが、虫嫌いの彼にとって、それは耐え難いことでもありました。やはり、暴力に対する欲情も、本能的な嫌悪感には勝りません。ですから彼は、ベルトを用いて、直接には手を下さず、間接的に大きな青虫を痛めつけようと考えたのです。
彼はベルトを手に持つと、眠っている真姫がいる風呂場に再び向かいました。
紫龍が風呂場のドアを開けたとき、彼の目の前に大きな緑色の尻が再び現れることで、彼はどれほど興奮したことでしょう!それはまるで、性行為を前に控えた十代の少年とでも申しましょうか。欲情心に対する抑制力を知らない彼は、これからの展開に興奮して、思わず涎を垂らしてしまうのでした。
紫龍は青虫の尻が破けないほどに、上から下にベルトを、青虫の尻に向かって振り落としました。ベルトは力なく、だらりと鈍く青虫の体を叩いただけでしたが、それは青虫の真姫にとって、まるで雷にでも打たれたかのような衝撃でした。それも当然で、緑の体は人の物に比べて非常に脆く、例えるならば、その緑色の体は羽毛のように柔らかいのでした。人間で例えるならば、生まれたての赤子の桃色の肌とでも申しましょうか。とにかくその体は、衝撃に対して大変、敏感であったのです。
青虫の真姫は、先ほどまで眠っていたのにも関わらず、まるで下手な演技者の大袈裟な喘ぎ声のように、雷鳴のような悲鳴を、小さな口から鳴らしてみせるのでした。このときの紫龍の興奮は、私が文章を用いて表現するまでもありません!彼はもう、今までには知らなかった性の嗜好を、それが昔からの性分でもあったかのように、新たなる快感が、彼の脳内の主要部を占領してしまっているのでした。
彼は何度も何度も、愛の玩具を用いて間接的に、青虫の柔らかくふっくらとした体を、思う存分に弄ぶのでした。そして真姫はただただ、悲痛に叫ぶだけでした。
読者方は、終わらない苦しみの理不尽な享受を、肉体と精神の両方で経験されたことがおありでしょうか?どれほど苦しみを口で訴えようが、決して終わることのない苦しみは、いつになれば終わるのかも分かりません。これこそ、苦しみを受ける者にとっては、まさに悪魔という存在の仕業ではないかとも思われます。ですから、真姫はきっと悪魔に蹂躙されていたのです。それとも悪魔の業に翻弄されたのは、もしかすると紫龍のほうでしょうか?彼は彼自身の指先から繰り出す暴力で、「痛い!」と苦しむ真姫を見ることに対して、己の性的欲求心を大いに満足させていたのです。今の紫龍を見れば、この日を境に彼の真姫に対する暴力化が甚だしく激化していくであろうことは、誰もが予想をすることができると思います。
紫龍は真姫の苦痛に満ちた表情を見るために、何度も何度も暴力を重ねました。青虫の真姫が目覚めたときから、彼は数千回と彼女に悲鳴を上げさせました。そしてお昼頃には、彼女の喉から出る声が、青虫の体のように、みっともなくなっていたのです。
 真姫は次から次へと襲い掛かってくる、蠅のように飛び回る暴力に疲れ果ててしまいました。そして彼女が、紫龍の暴力に対して苦心するのはもちろんですが、やはり何といっても彼女を襲う最もの辛苦は、吐き気がするほどの空腹、または今までに感じたことのないような、激烈な食欲でした。実は彼女の青虫の体は、蛹になる少し手前の時期に入っていて、そのため彼女の青虫の体は、蛹となるため多量の餌を必要としていたのです。彼女はどれほど紫龍に痛めつけられようが、死んでしまいそうなほどに腹が減っていて、とりあえず空腹を満たしたくて、仕方がありませんでした。
 人間である読者方からすれば、聞くのも辛い暴力の最中、よくも飯のことなどを考えられるものだ。とお考えになるでしょう。しかしそれは、世界の幼虫達に実に失礼で、彼らにとっては、成虫になることが彼らの生きる道理なのですから、そのための栄養補充というものは、己の胴体の半分よりも大切といっても、全く過言ではありません。(いや、やはりそれは大袈裟かもしれませんが……)彼らからすれば、充分な栄養を取らなければ、蛹の殻を破って飛び出たとき、羽が一枚しかない蝶となって生れてくる。ということもありえるのです。やはり、どの世界の青虫達も、障害のない完全な蝶の姿で、蛹から出ることを望んでいるに決まっています。
要するに彼らにとって、食するということは、己の生の時間を、精一杯に引き延ばすことでもあるのです。ですから青虫の真姫が、耐え難い空腹に苦しみ、今に受けた痛みにさえ無感覚になってしまっているとはいえ、別に大して可笑しなことでもありません。青虫の真姫は、空腹に死ぬほど苦しんでいたのです。
 それでも彼女は、目の前の暴君に餌を求めることは決してしませんでした。小さな頃から真姫は自分の存在を誇りに思い、誰に対しても羞恥心を感じたことがありませんでした。そのような彼女が、人前で虫の餌を人の口でむしゃむしゃと食べるという、人に蔑まれるような愚行をするくらいなら、いっそのこと死んでしまいたいと、餓死を決意するのも当然のことと思われます。それに彼女にしてみれば、殺意を抱くほど憎んでいる人の前で、青虫の餌を食べる姿を見せることが、嫌で、嫌で仕方がありませんでした。
 彼女は紫龍に体を虐げられながら、餓死をする決心をしました。すると鞭の痛みかそれとも違う原因があるのか、急に涙が絶えず頬を汚してしまうのでした。
 「やめて!もうやめて!痛い!やめてよ、リュウ!」
 紫龍は久しぶりに、まだ恋人であった真姫が自分に使っていた呼び名を聞いて、彼女の声の大きさが、彼に新たなる性的興奮を教えるのでした。当然、彼の暴力は終わることなく、それが延々と続くのでした。

 紫龍にとって一日はあっという間で、真姫にとっての一日は、まるで千の長さとでも言いましょうか。真姫は自分が散々と泣き喚いたので、どうして泣くだけの赤ん坊が、一度眠ったら中々目を覚まさないのかを、今日、初めて理解することができました。
 彼女は眠くてたまりませんでした。しかし、大きな眠気にも増して、彼女の本能による食への欲情心が、彼女に血を吐く思いをさせるのでした。彼女は人間のときでは考えられない、異常な空腹感に、一秒たりとも苦しまずにはいられませんでした。このとき、彼女は生れて初めて、本能的欲情と戦いました。彼女は餌が欲しくてたまらず、きっと世界中の男子を探しても、今の彼女の敵に勝るであろう、性の欲求心はないものと思われます。
 梅雨の曇り空で光る月が隠れる時刻、紫龍は食卓のない洋間で、毎日変わらない即席のカップラーメンを、利き手で持ち座り込んでいました。そして彼は食事時ですら、真姫の苦心する表情を見るために努力をしました。      
そして彼は、適量の熱々のスープを口に含み、塩分がたっぷり詰まった湯を、真姫の青虫の体に発射するのでした。
 青虫の真姫は、熱いスープを掛けられ、やはり悲鳴は上げるのですが、心底からの悶絶の訳は、目の前で食事をする紫龍を見ることでした。もはや彼女は、自分の体を熱くするものは、熱々のスープでもなければ、己の欲求心であると、錯覚するほどになっていました。彼女はもう、餌が欲しくて、欲しくて我慢できなくなっていたのです。そして彼女は莫大な欲望から、涙まで流してしまったのでした。
 紫龍は彼女の流す涙が、彼女の苦心から湧き出るものだと思っていました。しかし、彼女が泣きながら、彼の予想とはまるで違うことを訴えたとき、紫龍はどれほど、呆気に取られてしまったことでしょう。
 「葉が欲しいよ。お腹が空いて辛いよ。しんどいよ。昨日、見せてくれた葉が欲しいよ。お願い、お願いだから私に葉を食べさせて。」
 甲高い声で欲望を叫ぶ彼女は、もし人であったなら狂人、もしくは気違いと呼ばれたこと
でしょう。真姫は彼が承認するまで、何度も発狂したかのように叫び続けるのでした。
 「早く!お願いだから早く、餌を食べさせて!もう無理!死んでしまう!」
 紫龍は真姫が急に餌のことを口にしたので、目の前の青虫は気でも狂ったのかと思いました。なんせ、彼にひどい暴力を、今朝からずっと振るわれてきた彼女が、急に狂ったかのように感情を吐露すると思ったら、まさか彼女の訴えの内容は、餌が欲しいということなのでした。紫龍は思わず、大声で笑ってしまいました。そして、それを見た真姫は大きな不安に襲われました。何故なら、空腹を感じていた彼女の瞳には、死という概念がはっきりと映っていたからです。
 「お願い、餌をちょうだいよ!お願いだから!嫌だ、死にたくない。私は死にたくない。お願いだから、食べさせて!お願いだから食べさせて……」
 真姫は絞られた雑巾のように、ぼろぼろと涙を流し始めました。彼女は蜜柑の葉を食べたくて、食べたくて仕方がなかったのです。彼女のこの気持ちは、きっと人間の体では、理解不能なものであると思われます。まさにこれが、人間と昆虫の違いとでも言いましょうか。真姫が紫龍の暴力さえ気にかけず、ただ食のことばかりを口にするのは、やはり彼女の青虫の体が、もっと言えば青虫の本能が、強く生を欲しているからなのでした。
 紫龍は快く真姫の願いを聞き入れました。プライドの高い真姫が、厭らしく虫の餌を食べているところを、やっと観察することができると思うと、彼の体中は興奮で熱くなってくるのでした。
 彼は洋間から出てキッチンに向かい、台所上に置かれている花瓶に挿された、蜜柑の枝を一つ取り上げました。そして彼は真姫のところに戻り、それを彼女の口元に差し出しました。それと同時に真姫が葉を噛みついた速さといったら、紫龍も思わず彼自身の指が、噛み千切られたのではないかと思うほどでした。
そして真姫はあっという間に、一本の枝に付く全ての葉を、完食してしまったのです。すると真姫は、理不尽に対抗できなかった自分のプライドに対して、莫大な屈辱と絶望とを感じて、それらが彼女の顔面で混ざり合いました。彼女の表情は敗北感で歪み、多量の涙だけが彼女の気持ちを表現しているのでした。ですが、悲しみに暮れる彼女は驚くことに、まだ終わらない空腹感を、紫龍に訴えました。
 「もう一本、蜜柑の枝を持ってきて、私に食べさせて下さい……」
 紫龍はその言葉を聞いたとき、どれほど喜んだことでしょう!まるで自分は王様で、真姫が無償の施しを求める乞食とでも言いましょうか。さらに彼女の命は、まるで神のように彼が握っているのです。彼が餌をやらないと言えば、きっと真姫は泣き喚いたでしょう。しかし紫龍は、快く彼女の欲求を聞き入れました。そして彼は再び、台所まで木の枝を取りに行ったのです。
 台所から洋間に戻った紫龍は、枝を持つ手を再び、真姫の口元まで持っていこうとしましたが、それでは優しすぎると思い、もっと彼女の自尊心を打ち砕いてやりたいと考えるのでした。そして彼は手に持った枝を、まるでごみでも捨てるかのように、真姫の口元に投げ捨てました。
 青虫の真姫は、目の前に投げ捨てられた葉を見て、一瞬はそれを食べたものかと考えましたが、彼女は舌で枝に付いた葉を動かして、涙で塩辛くなった葉を一枚、二枚と口に入れて頬張るのでした。その食べ方は犬よりも下品で、人間のときの彼女の雅やかな気品は、今では亡き者となってしまいました。
 真姫は目の前に落ちている枝を舌で回転させながら、枝に付いているたくさんの葉を、全て食べ尽くしてしまいました。そして、それでもまだ衰えていない自分の食欲に、彼女は彼女自身でも恨めしく感じましたが、もはや本能的な欲望は理性では抑えられません。真姫は涙を流しながら、再び紫龍に蜜柑の葉のおかわりを頼むのでした。
 紫龍は真姫の食欲を見て、驚嘆と好奇心とを隠せませんでした。すると彼は真姫の体を見て、思わず笑いを溢してしまいました。
 「青虫の体は太くて、よく見れば巨大な青虫は、豚と少しも変わらないじゃないか!しかも実際に大食いの豚野郎ときたか!」
 彼はまた台所に行って、今度は葉の付いた枝が入っている花瓶ごと、彼女の目の前に持って来るのでした。そして、彼は真姫の口元に花瓶を倒したので、真姫の顔面も含めて、床は水浸しになってしまいました。しかし青虫の真姫はそんなことも気にせず、口周りを水で汚しながら、涎がへばりついたように見える口元で、たくさんの葉を食い荒らすのでした。彼女はいくら自分が醜いことをしようとも、生に対する希望を捨てることができませんでした。これこそが虫の本能とでも言いましょうか。さすがの紫龍もこの光景にはぞっとして、巨大な青虫の食欲を気色悪く思いました。そして紫龍の真姫に対する暴言は、益々、悪化するばかりで、動物を呑み込み溺死させる川の流れのように、その暴言は終わることを知りませんでした。
 紫龍は葉を食べる真姫を見ながら、「このデブ!お前には美しさの美の字もない!死んでしまえ、醜態の極まりないデブな巨大青虫女が!」といったような罵りを、彼女のために倒された二個目の花瓶に詰まる葉が、一枚残らず無くなってしまうまで、飽きることなく吐き続けるのでした。

 彼らが夕食を終えると、紫龍はシャワーを浴びるため、洋間に真姫を残して浴室に向かいました。そして再び寝間着姿で洋間を訪れたとき、彼の心はどれほど不快感を抱いたことでしょう!洋間の所々には、まるで数匹の成長しきったゴキブリかとも思われる、人の拳ほどの大きさをした、青虫の糞が幾つも転がっているのでした。真姫はと言えば、洋間の奥の片隅で、紫龍にお尻を見せながら、緑色の上半身をぶるぶると震わせているのでした。そして紫龍が部屋を糞で汚された怒りを、言葉を用いて言い表そうとしたとき、ちょうど真姫の緑色の尻の穴から、幼子が作る土団子のような糞が出てくるのでした。
 紫龍は不快感のため、両の目を突かれたかのような気がしました。幸い葉を食べる生物から出る糞は、橙色の角の臭いに比べれば我慢のできるものではありましたが、彼は自分が蔑むべき義務がある存在の、幾つもの糞の世話をするのが、気に障って仕方がありませんでした。紫龍は入り口から糞を踏まないように下を向いて歩き、鏡の手前に落ちていたベルトを拾い上げて、彼女の尻を思いっきり叩いてやりました。
 真姫は震えた声で、「ごめんなさい。」と紫龍に謝りました。そしてベルトで叩かれた青虫の尻からは、それが当然のように橙の一物が飛び出てきたのです。
 紫龍は部屋を大量の糞で汚された苛立ちのため、真姫をどうして絶望の泥沼に沈めてやろうかと考えました。しかし彼はベルトで体を殴って暴言を吐くことしか思いつかず、結局は彼が、真姫の汚物の面倒を見ることで、この日の一日は終わってしまったのでした。

真姫が青虫になってから数日が経ち、紫龍は彼女に対して、ある考えを抱くようになっていました。それは思考が整理され導き出されたというよりも、論理の破綻した妄想と名指しする方が、適切であるのかもしれません。
紫龍はここ数日で、真姫の表情に出る悲しみの波が、静かな凪の海のように落ち着いてしまったと思えて、残念さと屈辱感を感じました。確かに真姫は、青虫になった初日や二日目の日に比べれば、余り悲しそうな表情をしなくなったのです。それどころか彼女は、大きな鏡の前で、自分のことを呆然と見つめているときさえもありました。そして紫龍は、鏡で自分の顔をぼおっと見つめる真姫を見ながら、悪魔の子かとかも思われるような、残虐非道な考えを抱いたのです。
 「あいつは最近、俺がどれだけ罵ろうが、表情に少しの悲しみすらも出さなくなった。俺があいつの体をベルトで叩くときも、あいつは機械的に幾つかの言葉を用いて痛みを訴えるだけで、精神的苦痛をまるで感じていないかのようだ。
 普通の人間ならば、自分の体が青虫の姿になってしまえば、立春から冬が終わるまで、朝から晩、自分の人生を悲観して泣き叫ぶはずだろう。それがこいつときたら、もう自分が青虫になった悲しみに慣れてしまったのだろうか。それにあいつは、自ら鏡の前に行き、運命の被虐に変えられた自分の姿を、長い時間、ぼおっと見つめているじゃないか。」
 紫龍はただ、真姫の悲しみに対する慣れについて、自問自答を繰り返しましたが、やはり答えのない問題なだけに、正解に辿り着けることもありませんでした。実はと言えば、常人なら例え人体実験をされようが、決して経験することのないだろう苦しみに、乙女の心は砕け壊れてしまって、真姫は鬱病に近い症状に襲われていたのです。そして真姫が鏡の前に立つ理由は、精神病を患う者にはありがちの、自己嫌悪を快感と勘違いしてしまう、例のあの症状に変わりなかったのです。青虫の真姫は彼女自身の醜い姿を、自分の胸の内で罵ることで、胸底にびっしりと溜まった負の感情のあらゆる残り屑を、彼女は病人なりの方法で、処理をしていたわけなのです。 
ですが元々、人の気持ちを考えられない紫龍が、真姫の鬱的な状態に気づけないのは無理もないことでした。そればかりか、紫龍の考え出した答えは、猿の子どもですら口にしないような、余りにも幼稚なものだったのです。
 「そうか、分かったぞ!あいつは鏡の前で、目前に映る自分の顔面の美しさのため、緑色になった体のことさえ忘れて、思う存分に自惚れてやがるんだ!
 確かにあいつの顔は、人が持って生まれた顔面のままだし、やはり彼女は前と変わらずに美人だ。あの落ち度を知らない顔面は、日に日に美しさを帯びてきているじゃないか!だから、あいつは体が青虫になっても平気で、何度も何度も自分の顔を見て自惚れていやがるんだ!いや、それだけじゃないぞ!あいつはきっと、彼女自身の顔と俺の容姿とを比べて、俺の顔面を不細工だと思い、心の中で卑しい笑い声を上げているに違いないんだ!」
 紫龍は目の前の問題について一旦、答えを出してしまえば、それからはその空想よりも遥か遠いところにある、愚劣な考えの犬になってしまうのでした。そして彼の全身は憤怒のため温度を上昇させて、またそれが、梅雨時の蒸し暑さと上手く交わり、彼の服には多数の汗の卵が生れていました。
 「何て奴だ!あいつは青虫になってさえ、俺のことを侮辱していやがるんだ!そうやって、あいつは俺のことを軽蔑し続けるのだろう!俺があいつよりも不細工だから!そうだ、だからあいつは俺以外の野郎どもと寝床を共にして、俺の純粋な恋心を幾度も裏切ってきたんだ!もう許せない、これ以上は我慢ができないぞ!そうだ!俺はあいつの顔面に、もう人とは認識できないほどの、大きな傷をたくさん刻んでやろう!」
 紫龍は自分の企てた計画のため、まるで踊って喜ぶ雀のような、晴れ晴れしい気持ちになるのでした。
 「あいつの顔面を、俺が暴力を用いて汚してやるんだ!今思えば、俺は彼女の顔面に今まで、一度も深刻な怪我を負わせなかった。さすがの俺も、女性の顔を怪我で汚すことはできなかったか?
ああ!俺の生温い優しさが、あいつをどれほど高慢にさせてしまったのだろう!そして俺はその高慢のため、どれほどあいつに心の傷をつけられたことだろう!
 決めたぞ!あいつの顔面を、あいつが今、唯一誇りとしている人の子の顔面を、もう人間とは区別できないほどにめちゃくちゃにしてやろう!
ああ、なんて素晴らしい考えだろう!もしあいつの顔面が、人間のものと区別できなくなったなら、あいつはとうとう、青虫そのものになるんだ!誰が見ようと、あいつは皆から青虫と認識されることだろう!」
 そして紫龍は、計画を実行に移したのでした。可哀そうな真姫は紫龍の妄想のため、唯一残されたな人間の顔を、めちゃくちゃに壊されることになってしまったのです。
 私はこの光景を文章にしようとは思えません。それは余りにも残酷で、きっと読者方は、ご想像されただけでも気分を悪くされることだろうと思うからです。
紫龍は暴力を通して、自らの拳に伝わる感触が、自分の頭を興奮でぼおっと気持ち良くさせることを実感するのでした。そして彼の体の動きが止まって、彼の肺が空気中の酸素を大いに欲したとき、真姫はずっと前から意識を失ってしまって、二つの目は閉ざされているのでした。彼女の顔面は言うまでもなく痣だらけで、顔面の色は彼女の体よりも、遥かに濃い紫色です。それに彼女の鼻の穴の一つからは大量の血が出て、顔の下部を赤く染めています。おまけに唇も切れていて、そこからも薔薇色の液体が垂れているのでした。
 真姫は急な大打撃の連続に、涙すらも流せませんでした。ただ、彼女は生を自分の意識がなくなるまで、胸の中で一生懸命、神に祈り続けたのでした。真姫は紫龍に顔を殴られ続けている中で、一時も「死んで楽になってしまいたい」とは思わなかったのです。ただ、「生きたい」と最後まで希望を捨てず祈り続けた彼女は、頼りない神の思し召しでもあったのか、幸い命を失神の暗闇に落とすことはありませんでした。
 真姫が意識を失ってからも、彼女に対して暴力行為を止めなかった紫龍は、まるで自慰行為に理性を失くしてしまった猿、または悪魔とでもいいましょうか。彼は長い間、自分の体力が力尽きて過呼吸が彼を襲うまで、ずっと真姫に対して拳を振い続けていました。  
申し上げるまでもありませんが、人間の顔の面積は広くありません。長い時間を殴られ続けた真姫の顔面は、華奢な小顔に何度も拳の跡が重複して、もうそれは、人の顔とは思えないほどになっていました。私は決して、事を大袈裟に話しているわけではありません。 
真姫の顔は、人のものであると認識するには歪で、もはや本当に彼女は、人では無くなってしまったのかもしれません。紫龍は、そんな醜い彼女を見て、高慢の唯一の誇りを己の拳で壊した優越感に、素晴らしい夢心地を感じていたのでした。このときの彼は、自分がさっきまでは、過呼吸で苦しんでいたことすらも忘れてしまいました。そして彼は、「自分は目の前にいる女に比べて、何もかもにおいて勝っている、または劣っていない。」と実感するのでした。

 真姫が目を覚ましたのは、最近曇りがちだった連日では珍しく、爛々と地上を照らし続けていた太陽が、白雲を真っ赤に染める夕刻の頃でした。
真姫は目を覚ましたとき、記憶喪失を患ったかのように何も覚えていなかったのですが、顔の全体に激しい痛みを感じて、紫龍から受けた暴力を思い出して、彼女はこの日初めての涙を流すのでした。そして真姫は恐るべき紫龍を探しました。青虫の真姫には首がありませんので、彼女は紫龍を探すために部屋を一周しましたが、洋間のどこにも、彼を見つけることができませんでした。紫龍はこのとき、夕食のため出かけていたのです。真姫は彼の帰りを大変恐れましたが、それと同様に自分の激しい空腹感にも参ってしまいました。そして結局彼女は、立つことのできる足も無ければ、台所に置いてある葉も取れませんので、死にたくなかった彼女は、さきほどの痛みをまだ覚えてはいても、紫龍の帰りを、まだかまだかと待ち続けるのでした。

 紫龍が帰宅したのは、星がちょうど夜空で輝きだす時間で、真姫は彼が帰宅すると早速、餌を貰うようにお願いをするのでした。最近の彼女はずっと、昼と夜の日に二回、紫龍からたくさんの葉を貰っていました。毎日、暴力で散々に真姫を虐げる紫龍も、飯だけは忘れず彼女に与えていたのでした。(この日は真姫が気絶していたため、まだ彼女は何も食べてはいませんでした。)
 紫龍は帰宅してから、すぐに餌を真姫に与えてやりました。午前中に体力を使い果たしてしまったのか、彼は帰宅してからは、真姫を静かに過ごさせてやるのでした。紫龍は蜜柑の葉も彼女の腹が一杯になるまでやって、大量の糞の掃除にも、彼は何一つ文句を言いませんでした。そして彼は顔がぼろぼろに壊れた真姫を見つめて、彼はもはや目の前の青虫が、元々は人間であったことを覚えてはいませんでした。
 紫龍は何もかもを失ってしまった真姫を見て、やっと自分の復讐心を和らげることができました。かつては真姫の不幸を我が恨みのため、精一杯に両手を合わせて神に祈りましたが、実際に彼女がこうも情けない姿になってしまっては、もう彼の心からは、真姫に対して何の怒りも湧いてこないのでした。しかし、自分を捨てた元恋人を恨んでいたあの日、確かにあのときにはまだ知らなかった快感を、今の彼の体は強く記憶しているのでした。そしてその記憶が消えない以上、きっとこの欲求は一生続くのだろうと思われます。
 紫龍は自分と付き合っていた頃の、魚も沈み雁も落ちると思われるほどの美人であった、真姫の姿を思い出しました。今はもう青虫になってしまった彼女ですが、数日前までの紫龍は、自分の全てにおいて、彼女に勝っているものはない。とまで思っていたのです。今となっては、何と驚くべき逆転劇でしょうか。
 そして話しは変わって、真姫は大量の糞を洋間のあちこちに撒き散らした後、例の鏡の前で、ずっと自分を見つめているようでした。しかし彼女は脳を病気で患ったのか、悲哀という感情を忘れているようでした。
 「こいつはどうして死なないのだろう。だってこいつは、余りにも不幸じゃないか。どうして今、彼女は自分の唯一の誇りであった可愛らしさを奪われてさえ、涙を流したり俺を罵ったりしないのだろうか?彼女はこれほどにも不幸な目にあって、実は何一つとして、何も感じていないのではないだろうか。
 もし俺がこいつの立場なら、自分の舌を噛み千切って、自ら死を選ぶに決まっている。だって、今のこいつの現状ならば、死んでしまった方が随分も楽だろうに決まっているじゃないか!
 こいつは本当に頭がおかしくなってしまったのだろうか。どうして、あんなにも鏡の前で呆然としているんだ?あんなにも綺麗だった顔が、俺に壊されてしまったというのに!
いや、もしかすると俺が頭を殴りすぎて、脳に重い障害でも残ったのではないだろうか?そうでもしないと、生きようだなんて思えないだろう。あいつは散々な目に合ったのにも関わらず、たくさんの飯を食べたくさんの糞をして、まるで自ら生きることを望んでいるようだ!ああ、人間があれほどにも不幸に陥れるとは!俺にも少しの同情心はあるけれど、やっぱりあれは天罰というものなのだろう!ああ、神はやはり万能のお方だ!」
 紫龍は神に感謝しました。
 「彼女を青虫にして下さって、誠にありがとうございます。」
 そして糞の掃除を終えた紫龍は、巨大な青虫に風呂場へ行くように指図して、広くなった洋間で一人、ゆっくりと眠りに陥るのでした。

  紫龍は敷布団の上で、無垢の子どものような寝顔をして、大きな鼾をかいていました。今宵は例の激しい運動のせいか、彼の肉体は非常に疲れていて、眠っているときでさえ、数粒の汗が、彼の寝間着を湿らせていました。」 
 紫龍の視界が真っ暗になってから、一体、何時間後のできことでしょうか。彼は急な激痛を首に感じて、星の輝かない夜更けの真っ暗闇から、目を覚ましてしまったのでした。そして彼の二つの瞳は、薄ら明るい橙色の電球の光を受け止めました。
 目覚めた紫龍は、首から伝わる激痛に、ただ絶叫することしかできず、何故か手も足も動かすことが出来ませんでした。そして彼は一体、自分の身に今何が起こっているのかを見定めるため、瞼をできるだけ大きく開きました。すると驚くことに、彼の視界の一番底に、青虫になった真姫の姿があるではありませんか!象のように巨大な青虫が、紫龍の体の上に乗って、彼の首を捕食しているのです!紫龍は激痛から逃れるため、青虫を自分の体から、急いで引きずり降ろそうとしましたが、何故だか手と足が思い通りに動いてくれません。まるで手も足も、胴体から外れてしまったかのようでした。紫龍はこのとき、ある恐ろしい考えを一つ浮かべました。彼はもう既に自分の首が千切られ、頭が胴体から取れてしまったのではないか。と思い巡らしたのです。そしてよくよく考えて見れば、自分の腹に大きな青虫が乗っているはずであるのに、彼女の柔らかな幾つかの足の感触が、全くもって彼自身に伝わってこないのでした。そして彼は、先ほどとは違う部位からの悲痛と共に、恐ろしい光景を目にするのでした。  
何と彼の手のひら一つ分ほどの距離で、巨大な青虫が、彼の顎を噛み砕いて食べていたのです。このときの彼を襲った絶望は、一体どれほど大きかったことでしょう!彼はこのときになって初めて、死んでしまうかもしれないという恐怖を感じて、自分の悲劇的な運命に絶叫してしまうのでした。彼はこれまでに、死に対する恐怖が、これほどにも痛々しいことを知りませんでした。
 彼はもはや、早く死んでしまいたいとさえ思いました。それほどに、痛みは強烈だったのです。彼は身近すぎる未来の死を、非常に恐ろしく思いながらも、今に感じている痛みから逃れるため、早く意識を失ってしまいたいと思いました。しかし彼は中々、激しい痛みに気絶をすることができず、自分の顔面が巨大な青虫に食べられていく様を、何もできずにただ延々と、彼は悲鳴を上げ続けながら見ているだけでした。
 「痛い!痛い!やめてくれ!」
 彼は何度も叫びましたが、青虫はお腹がぺこぺこなのか、忙しく動かす口をちっとも休ませませんでした。
 紫龍は絶望しました。もう彼は今、口を食べられてしまったところで、叫び声を上げることさえもできませんでした。しかし彼は、心の声で叫び続けるのでした。
 「死にたくない!死にたくないよ!やめてくれ!俺の頭をそれ以上、食わないでくれ! 
ああ!もう鼻の穴さえもが喰われてしまった!もうすぐ俺は、消えて無くなってしまうのだろうか。
 嫌だ!俺は死にたくない!無様な姿でもいいから、どうか顔面を少しだけ残しておいてくれ!人の急な不幸に対する覚悟は、余りにも不完全で歪な形をしている。俺は死にたくないんだ!例え俺が、髪の生え際だけの姿になってしまっても、どうか俺をこの世界から完全に消さないでおくれ!」
 紫龍は大きな恐怖、もしくは絶望のために、幾粒もの涙を流しました。そして彼の顔面の下半部が無くなってしまったためか、瞼に乗る涙の冷たさが、彼の脳内には、とても強く現れていました。ですが、涙を流す彼の両目も、とうとう青虫に食べられてしまって、哀れにも紫龍は視界を失い、彼に残っているものは、痛さという感覚だけでした。
彼は真っ暗闇の中、顔面の全ての部位を食べ尽くされるまで、目に見えない痛みを感じ続けるのでした。そして盲目の彼は、自分の残り僅かな肉の塊から、彼女の舌の温かさを感じて、今食べられているのだろう、顔面の部位を想像するのでした。そして、とうとう自分に残された肉体は、おでこ数センチとなったときに、彼は夢から目覚めて大きな声で叫ぶのでした。

 紫龍は苦しい悪夢のために、気が付けば上半身が起き上がっていて、背中は汗でびっしょりと濡れているのでした。
 彼はさきほどまで自分を照らしていた、電球の薄明りがないことに気付くと、真っ暗闇の中、枕元に置いてある携帯を手に取りました。そして部屋中の唯一の光である携帯の液晶画面を見て、彼は今の時間を確認すると、眠りについてから夢から覚めるまで、片手の指に収まるほどの時間しか、まだ経過していないことに気付くのでした。
 紫龍の脳裏には、先ほどまでに自分の目に映っていた光景が、嫌というほど鮮明に残っているのでした。自分に残された肉体の最後が食べられようとした、あの一瞬の恐怖心が、明確にくっきりと、彼の肉体と精神に刻まれていたのです。
 紫龍は自分が見た夢について考えました。そして彼はあの超現実的な夢を、近い内に来るのであろう、自分が彼女に殺される惨劇の暗示だと予想したのです。
 青虫の真姫が紫龍を殺すことは、読者方なら不可能だと思われることでしょう。どうして手も足もない青虫が、一人の成人男性を殺すことができましょうか。しかし彼はある病人のように、論理の破綻した妄想を、脳の中で永遠に繰り返しいたのです。
 「俺は必ず真姫に殺されるだろう。だって考えてみろ。そもそも俺が彼女に復讐ができたのは、俺が強く神様に願ったからだ。俺が神様に向かって切実に祈ったから、真姫は青虫となり不幸となった。要するに神の俺に対するお情けが、真姫の一生を全く違うものに変えてしまったんだ。
 だが、よく考えてみるんだ。彼女は俺を恨んでいるだろう。美しかった女性が体を青虫にされ、唯一残された綺麗な顔さえも、それが人のものと思えなくなるほど、俺に痛め付けられ奪われてしまったんだ。あいつが俺を殺したいと思っていないわけがないんだ。俺は少しやりすぎた。
ああ、俺を憎む彼女が、もし俺を青虫にして下さいと、神様に祈ったらどうなるだろう。もしあいつが、神様に俺を青虫にして下さいと祈れば、俺とあいつの立場は、逆転してしまうんじゃないだろうか。」
 紫龍は一度、その考えを空想から見つけ出してしまうと、一瞬たりとも、それから目を離すことができなくなってしまうのでした。
 「もし今の立場は逆転すれば、俺は先ほどの夢のような痛みを、あの顔面を抉られるような激痛を、夢ではない、現実のものとしてしまうだろう。そして俺は一日中、あいに苦しめられるに違いない。」
 紫龍は夜中に目が覚めたものの、今にありもしない真姫の暴力に怯えて、突如、動き出した心臓の鍵盤を、自分の手で制御することができなくなるのでした。
 彼は朝になっても、気を落ち着かせることができませんでした。彼は一時間、二時間、それ以上に、恐怖と相対して身を震わせていたのです。彼は長い間、自分が殺される妄想に脅かされ続けました。ですが決して、今までの愚行の後悔や反省、これからの自分に科せられた責任などは、全く持って考えませんでした。彼はただ、何時間もの間、恐怖という感情を胸の内で爆発させ、それを胸から零しては、部屋の至る所に染みを作っているのでした。彼は延々と、空間に存在もしないものを、抽象的で大袈裟な感覚を用いて、まるで馬鹿の一つ覚えのように興奮していたのでした。しかし人間とは不思議なもので、その馬鹿の一つ覚えだけでも、何時間だって時を費やすことができるのです。

 この日の紫龍は、朝になっても布団から離れず、眠ることもできないのに横になっては、乾いた両目で、まるで病人のように天井を眺め続けるのでした。彼は何度か眠ってみようとも考えましたが、そのために目を閉じてはみても、彼の瞼の内の真っ暗なキャンパスには、自分を怯えさせる映像が鮮明に描き出されるだけなので、彼は目を閉じるのも億劫になってしまいました。
 彼はとうとう、昼になっても布団から離れず、ずっと心臓は壊れたかのようで、激しく動き続けるそれはまるで、休むことを知らず工場で働き続ける、労働人のようでありました。彼はただただ、青虫に噛み千切られる妄想に怯えていたのです。そして怯えることに疲れた彼は、ときどき布団から上半身を起こしてみましたが、未来で待つ絶望のことを考える度、死とさほど変わらない虚無感に襲われるのでした。ときどき彼は、小物で散らかった洋間中を、気を抑えるために歩き回りましたが、数歩歩けば息が切れてしまって、彼はとうとう近くにあった壁に体を託して、そこから死体のように動かないでいるのでした。
 彼はこの日、真姫のことは見るのも恐ろしいので、彼女をずっと風呂場に閉じ込めていました。ですが彼は例え彼女を何時間と目に入れなくても、彼の臆病さ加減は変わらず、例えれば自分の体を天敵に不自由にされた、小動物のような気持ちになるのでした。

 紫龍は一日中を洋間で過ごして、とうとう夕食時が訪れました。紫龍は未だ真姫を見ることに対して怯えていましたが、意外にも、彼に声を掛けてきたのは真姫のほうからでした。
 時刻が八時を過ぎた頃、曇り空の一日に終止符を打つように、天からは大量の雨が地を激しく叩き始めました。そして彼は喧しい雨音のせいか、自分の腹から響く鈍い音にさえ、全く気付くことができませんでした。それは言うまでもなく空腹の音で、彼は朝から何も食べてはいませんでした。それに彼の体がいくら食を欲したところで、彼の精神は、微塵たりとも食欲を起こしませんでした。
しかし彼の飼う巨大な青虫は、そういうわけにはいかず、風呂場から真姫の甲高い声が急に聞こえてきたとき、紫龍はどれほど驚いたことでしょう!まさにそのときの彼は、幽霊に睨まれた意気地なしという具合でした。真姫の声を聞いた彼は、適切な現実逃避の術を知らないので、壁にもたれた背中の震えを、雨時の寒さと勘違いしながら、両手で左右の耳の穴を閉じて固まるのでした。彼は目を瞑ろうとしましたが、目を瞑った瞬間、自分のすぐ側に悪魔が佇んでいるような感覚のために、彼は瞬きもできずに目を傷めてしまいました。
 真姫はただ、涙声の混じった叫びで、自分の飼い主様に空腹の苦しみを訴えました。 
 「私、お腹が空いて死にそう!誰か、私に何か食べさせて!どうして今日は、葉っぱが出てこないの!」
 「黙れ!声を出すな!黙れ!」
 「嫌!今の私、空腹で死にそうなの!苦しい、死んでしまいそうなほど苦しい!お願いだから葉っぱを頂戴よ!どうして、何も食べさせてくれないの?もしかして、私を餓死させるつもり?私、お腹が空きすぎて、本当に死んでしまうわ!」
 真姫が空腹を訴える度に、紫龍は「黙れ!」と彼女に怒鳴りましたが、とうとう太っちょ青虫の食欲に、彼の精神も折れてしまいました。
 紫龍は最初、風呂場にたくさんの葉を放り込もうと思いましたが、彼は自分の体から、不健康な汗が異臭を放っている気がしたので、彼は青虫に、風呂場を糞塗れにされるのだけは、我慢ができませんでした。それゆえ彼は青虫を風呂場から出して、洋間に連れていきました。
 この日の真姫はずっと何も食べていなかったので、それを取り返すかのように、緑の葉を食べ続けました。紫龍は一体、葉の差してある花瓶を取りに行くため、洋間から台所を、何度と往復したことでしょう。彼はまるで幼子を母乳で甘やかす母のように、彼女にたくさんの餌を与えてやりました。
 作者がここで不思議に感じたのが、紫龍が葉を必死に食べる真姫を見て、今までの恐怖心を、痴呆症患者のように忘れてしまったことです。
 紫龍は青虫が葉を食べれば食べるほど、今まで胸奥で固まった恐怖心を、少しずつ懐柔することができました。
 真姫は昨日に傷つけられた口元が痛むのか、「痛い。痛い。」と涙を流しながら、一生懸命、緑の蜜柑の葉に食らいついていました。そして紫龍は、その涙を食の喜びに感謝する、青虫の心の声であると考えたのでした。(もちろんそれは、血の固まった部位から伝わる激痛のためなのですが……)
 紫龍は青虫の腹が満足したものと理解すると、一気に力の抜けた体に逆らわず、朝から敷かれたままの、小さな埃が少々重なった布団の上に倒れるのでした。
 ここで作者が驚くのは、彼が真姫を目前にどうして、のうのうと布団に就くことができたのかということです。
 紫龍は真姫に食事をさせる前までは、寿命が一年は縮んだであろうと思えるほど、死が君臨する負の抽象的観念に襲われていました。ですがどうして恐怖する感情が、真姫の葉を食べる姿に消えてしまったのでしょうか。哀れな生の惨めな姿が、彼に大きな同情心でも沸かせたのでしょうか。紫龍は真姫が痛む口元を精一杯に動かせて、たくさん葉を飲み込む姿を見れば見るほど、何故だか彼女のことが、身近な隣人のように思えてくるのでした。
 こうして、紫龍の抱えていた問題は、解決したかのように思われました。彼はいつの間にか、眠ってしまいそうなほどに気を許して、ゆっくりと瞬きをしていたのです。
 
紫龍が完全な眠りに落ちようとしていたときです。すぐ側に真姫を残して微睡む紫龍は、真姫でも自分のものでもない声が、自分を呼び掛けているのに気づきました。
 

「誰だ?俺に呼び掛ける声の主は誰だ?」
 紫龍は不安に憔悴しました。そして何度も、透明色の声主に話しかけるのでした。
 「誰だ?誰が俺を呼んだんだ?」
 紫龍が何度か、得体の知れない声主に呼び掛けると、何と再び、先ほどと同じ声が聞こえてきたのです。
 「ここにいるじゃないか。俺はお前を殺しにきたのさ。俺はお前のような自己愛者を見ていると、虫唾が口から出て来てしまうのさ。だから俺は今日、お前を昨夜の夢のように、噛み千切って殺してやるんだ。」
 「誰だ!俺を絶望のどん底に落し入れる奴は、一体誰だ!悪魔か?悪魔が俺を訪ねてきたとでもいうのか?」
 「俺は悪魔でもなければ人間でもない。俺は巨大な青虫の大きな糞さ。」
 紫龍が声の主の真相を知ったとき、どれほど度肝を抜かしたことでしょう!紫龍は部屋に散らかっている数々の糞を、一つ一つ厳重に注意をして見て回りました。
 「どの糞だ。一体、俺に生意気なことを言うのは、どこの糞だ!」
 「俺だ。そうだ。今、お前が視点を合わせているのが俺だ。」
 紫龍はもしかすると今の自分は、不思議の国にでも来てしまったのかと思いました。何故なら、顔面が壊れてゾンビと化した巨大な青虫の糞が、それがあたかも当然のことであるかのように、自分に話しかけてくるのです。
 紫龍に話しかけてきたのは、彼自身の握り拳よりも大きい糞で、色は彼の目の色と同じ真っ黒でした。しかし糞には目も無ければ口もありません。ですが不思議なことに、それには視覚もあれば聴覚もありますし、固い物質のどこかに、小さな口代わりの隙間があるのか分かりませんが、声を出してコミュニケーションを取ることもできるのです。
 「お前はどうして口が利ける?どこにも唇は見当たらないじゃないか。俺はとうとう、あの女と同様、頭がおかしくなってしまったのか?だって、自分の見てきた睡眠時の夢でさえ、糞が話し出したことは一度もないぞ!」
 糞は紫龍に言いました。
 「お前の祈り一つが、一人の女性を青虫にできたとして、どうして糞が口を開くのが、お前にとって不思議と言えるのか。
俺がお前にこう話していることを、あの眠っておられご主人様は、少しも驚かれないと思うがな。」
 紫龍は部屋奥の片隅で眠る、大きな青虫に目をやりました。そして彼は、再び意思疎通の関係にある糞に目を向けましたが、驚嘆することに彼の視点と相対する角度から、先ほどとは違った性質の声が聞こえてきたのです。今度は少年のように甲高い声が紫龍に話しかけるので、彼はその方向に回れ右をしました。すると、彼に声を投げかけたのは、またしても青虫の糞だったのです。紫龍は「おい!」と呼び掛けてきた糞に話しかけました。
 「なんだ、なんだ!一体、糞が俺に何の用なんだ!」
 「別に大した要じゃないよ!。」
 紫龍は糞に怒鳴りつけました。
「お前の口を切り裂いてやろうか!いや、お前らは口のない化物だったか!」
小さな糞は、赤子のように泣きじゃくりました。すると何と部屋のありとあらゆるところから、多種多様な性質の声が、彼の辛辣な言葉を非難するのでした。それは男の子や女の子のような、愛らしい声も聞こえてくれば、中年男の脂が乗った声、またや老いぼれのものと予想される、飛ぶ蚊の羽の振動音のような掠れ声も聞こえてくるのでした。
紫龍は気味の悪さに体を震え上がらせて、たくさんの声が全て、部屋中に落ちてある青虫の糞の声であることを理解しました。
「何だ!お前たちは俺に何の用があって、俺に話しかけるんだ!いいから黙っていろ!おい、そこの大きな奴め!お前さえ俺に話しかけなければ、奇妙で不快で悪臭で吐き気を起こさせる、お前らのような化物の存在など、俺は全く知る由もなかったんだ!」
大きな糞は紫龍に言いました。
「俺はお前を殺す使命のために、あるお方に奇跡を起こしてもらったのだ。俺達は弱弱しい一人の女性を助けるために、哀れなしかし純粋な祈りによって、お前を罰するためにやってきたんだ。
ここの部屋にいる糞たちは皆、昨夜にお前が苦しめられた夢を知っている。そしてここにいる全ての者たちは、これからあのお前にとっての悪夢が、似たような形で再現されることを知っているのだ。」
大きな糞は、一時とも口を閉じませんでした。そして悪人を侮辱するかのような激烈な口調で、大きな糞は紫龍に暴言を浴びせ掛けるのでした。
「お前は糞野郎だ!この自己愛者めが!お前は自分が大好きで、自分以外の物に対しては愛情を与えられない、むしろ他人の幸福を奪ってしまうような糞ったれだ!
お前はどうして、俺のご主人様を青虫にした?自分が大好きなお前はきっと、自分の心を痛め続けられた、深い悲しみのためだとでも言うのだろう。だが、言っておくぞ。お前の言う心につけられた傷だとか、心に残された痛みだとかはな、全部が嘘っぱちなのさ!お前は痴呆症を患った大根役者、台本も知らないのに大袈裟に戯れる狂人だ!
いいか、よく聞くんだ自己中心主義者めが。お前が俺のご主人様に抱いている負の感情はな、実はお前の作り上げた、でたらめにすぎないんだ。それどころか、お前はその感情を、色とりどりの装飾品の宝石で、美しく着飾っているんだ。実はお前の悲劇とやらは、その支配人にちやほやされすぎて、餌に塗れた豚のように満腹だが、自らの大きくなりすぎた腹を見ては、自分が世界で唯一の不幸者だと思い込んでいる。何て呆れた話だろう!お前は悲劇の主人公か?いや、お前にはゴキブリの役がお似合いさ!それに、まさしく主人公となるべきは、あの今は不幸な哀れな青虫、俺達の産みの親である、ご主人様に決まっているんだ!それにお前はそこの横たわった鏡を縦にして、自らの旋毛から爪先までを見てみるがいい。何て醜いことだろう!俺たちの女神は、青虫になられて、さらに人の顔面までも壊されてしまったが、それでもお前の全てよりも美しい。ご主人様はどれほどに闇の霧で運命を妨げられようが、実に綺麗な光で輝かれている。それに比べてお前は、少しの光も発することができず、己の身を輝かせることも知らなじゃないか。そしてお前はどの真っ暗闇よりも更に真っ暗だ!
 俺はお前を殺しにきた。ここにいる皆で、お前の首を切っちまおうと思っている。だが、俺の心の風向きは変わって、一つの雲が旅立ち、新たな知恵の光が俺の感覚を成長させた。
 おい、紫龍。自殺をしろ。お前は自殺をするべきだ。今までずっと、自らを蜜と錯覚して、自らの体を舐め回し愛撫をし続けて、甘さに己の胃をもたれさせてしまったお前だ。だからこそ一度くらいは、お前自身で、己の腹を切ってみろ。一度くらい、自分の愛液ではなくて血を、己の手を使って噴出させてみろ。それもできないなら、お前は精神的に何の優越もない糞野郎だ!お前は自分を愛する術以外は知らない糞野郎なのさ!糞は糞でも、もしお前の目の前にいるのがお前の出した糞であったなら、お前は一つ残さず自らの糞にキスをしただろうな!」
 紫龍は怒りに頭をふらっとさせて、今にでも気を失ってしまうのではないかと思われました。彼は爆発的な怒りのため、嘔吐の気配さえ胸に感じたのです。ですが紫龍は、敵に激しい対抗心を燃やしてはいたものの、精神的損傷が大きかったのか、何も口を聞くことができませんでした。そしてそんな彼の姿を嘲笑するかのように、部屋の一面からは笑い声が響いてきて、何故か手拍子が部屋中から鳴っているのでした。そしてその手拍子と調子を合わせて、彼を苛む言葉が四方八方から沸き起こりました。
 「自殺!自殺!」
 紫龍は踊るように弾んで耳に伝わる言葉の調子から、二つの手で両の耳を塞ぐことによって逃れようとしました。ですが、余程の数の糞が喚いているのか、その言葉の鼓動は大変に喧しく、彼に待っているのは自殺か糞に虐げられ続けることか、どちらか一つの惨めさでした。
 「黙れ!黙れ!」
 紫龍は首と体を動かして、部屋に落ちている全ての糞を見渡しました。彼の部屋には、一体どれほど多くの糞が落ちてあったことでしょう!そしてそられの糞は、どれ一つとして黙っておらず、皆で紫龍に自殺を煽るのでした。
 「やめてくれ!やめてくれ!」
 紫龍はそう叫ぶと、部屋の奥隅で眠っている真姫に気付いて、まるで紳士に助けを求める、飢えた子猫のように足を動かしました。彼は眠っている真姫を、目覚めさせようとしたのです。そして紫龍は真姫の柔らかな体を、初めて己の手で触れたのでした。
 紫龍は幼虫の体の弾力の感触を自分の手に感じたとき、それは自分の住んでいる世界のものではないような、余りにも不可思議な気色悪さを、反射的に感じ取ったのです。
 真姫は急に体に伝わってきた刺激に驚きました。そして彼女の肉体が最も驚いていたのは、尻から生えた橙色の一物を見ても分かります。紫龍は憔悴していたため、青虫を叩くときに少し力み過ぎたので、桃のように敏感な体は、紫龍にとっては少しの衝動であれ、必要以上に過剰反応をしてしまったのです。
 紫龍は真姫に対して暴力的な思いを持っていなかっただけに、今自分の目の前に出された橙色の一物のため、元恋人の真姫に裏切られたような気持ちになりました。そしてどうしたことか、真姫が喧騒の中の眠りから目覚めた瞬間、あれほど喧しかった多くの糞は、まるで遺体のように黙り込んでしまったのです。
 「おい、多くの糞たちよ。お前たちはどうして黙り込んでしまった?お前たちは俺を殺しにきたんだろう?黙っているだけじゃ、俺を殺すことは疎か、自殺に追い込むこともできないぞ!
 おい、黙るな!何かを話せ!お前たちはどうして、飢えて死にかけた乞食のように何も話さない!おい、糞野郎!一体、どうしたっていうんだ!」
 紫龍は急に黙り込む糞たちに困惑しましたが、それが真姫の目覚めてからの出来事であることに気付き、彼は胸の奥で考えました。
 「たくさんの糞たちが黙りこくったのは、その主の真姫が目覚めてからじゃないか。あいつが目覚めてから、あれほどに喚いていた糞どもは黙り込んでしまった。
 もしかすると、あの多くの糞の声は、眠っていた真姫の声ではなかったのだろうか?彼女の心の中にある爆発しそうな思いを、主が数々の奴隷の糞に背負わせて、一度に数百の思いを、俺に拡散する銃弾のように浴びせたのでないだろうか。
 糞たちがほざいた罵りの言葉、あれらは全てこいつの心の声に違いない!幾つもの糞は、真姫の代弁者にすぎなかったんだ。あれらは真姫の思いを俺にぶつけて爆発させる、余りにも醜くて歪な火薬にすぎなかった!
 見ろ!俺の目の前の憎たらしい青虫は、ただ体を触れただけの俺に対して、醜く悪臭のする、性器のようなものを突き出しているじゃないか!これは、もし人間のものであったのならば、愛や快楽のための肉体的欲求心の表れだろう。だが、こいつの憎たらしい性器は、俺に対する憎しみ、敵対心の表れなのだ!ああ、俺はいつか、本当に巨大な青虫に噛み千切られて、きっと殺されてしまうに違いない!ああ、俺を待っているのは悲劇か?それともこれは可笑しな喜劇の始まりか?」
 紫龍は部屋に散らかるいくつもの糞が、顔を紫色に腫らした真姫の顔面のように思えて、自分が何人もの真姫に、睨まれているかのように感じました。
 そして、いくつもの糞に見られているような気がした彼は、それを気持ち悪く感じて、視野に映る可能性のある糞を、全て処理しようと考えたのです。しかし彼は、さっきは自分に「自殺しろ」とまで言った糞を、例え間接的であろうが、触りたくはないと思いました。それに彼は、「どうして自分が、俺のことを殺そうとしている奴の糞を、わざわざ片付けなくてはいけないのだろうか。俺を侮辱した憎たらしい糞どもを、わざわざ俺が始末する理由もない。なら、あれの産みの親である、あいつがやればいいじゃないか。」
 紫龍は真姫にその旨を伝えました。ですが青虫の真姫には手もなければ、自分で落とした糞の処理もできるわけがありません。真姫は橙色の一物を未だ宙に漂わせたまま、紫龍に「嫌。」とだけ言いました。
 紫龍は一秒たりとも考えることをせず、自分の意見に抗った大きな青虫に激怒しました。  
 彼は体が青虫で、顔面さえも無数の傷のために人のものとは思えなくなった、あらゆる生命体の中の劣等種である彼女に反抗されたことが、悔しくてたまらなくなりました。そして彼は、怒りのまま叫び散らしたのです。
 「手がないのなら、糞を食って飲み込め!この部屋にある糞を全部、飲み込むんだ!」
 「嫌。」と再び答えた彼女は、心が機械化されたとでも言うように、無残な傷だらけの顔に少しの感情も出しませんでした。そして紫龍には、このときの真姫の何もかもが、鬱陶しく思えるのでした。ですから彼は、自分に反発する大きな虫を懲らしめるため、台所に行って刃物を一つ握りしめて、真姫のもとに戻ってきたのです。
 「喰え!糞を口に含めろ!拒否するならば刺すぞ!」
 真姫がまたもや、「嫌。」と答えたので、紫龍は何度も刃物の側面を真姫の頭に触れさせながら、「さっさと喰え!」と彼女を脅かすのでした。
 刃物を額に当てられた真姫は、声も表情も無感情に思えたのですが、緑色の体だけは生命の危険を感じているのか、体の白い女王蟻のように、ぶるぶると震わせているのでした。
 「さっさと喰え!目にすれば吐き気のするような、気色悪い見た目をしやがって!」
 紫龍は人の髪の数ほどの悪口を真姫に浴びせましたが、真姫は阿呆となって何も話しません。すると驚くことに、何と彼女の尻の橙の一物が彼に口を開いたのです!突如、橙の一物から、真姫の声よりも少し音の低い、大きな声が聞こえてきたのです。橙の一物は、右に左にぶらぶらと揺れながら、紫龍に言いたいことを全てぶちまけるのでした。
 「私はあなたのことを、全てお見通しなのよ。あなたは私に嫉妬していたんでしょう。あなたは自分の容姿を不細工と思っていて、どの分野の勉学の才能も自分にはないことを知っていた。だから私に嫉妬して、私をこんなにも醜い姿になるように、神様にお祈りしたんでしょう?でもね、言っておくわ。私が青虫になろうと、あなたは私によりも不細工よ!まず、あなたみたいな自分の手では何もできない卑怯者は、精神が最低に不細工なのよ!
それに言っておくわ。私は自分を青虫にした神様を恨みはしても、神様の糞のような存在のあなたには何も感じてはいないわ!
 あなたは自分では何もできず、強者に媚びをうることで、やっと弱者を苛めることのできる卑怯者よ!卑怯者!神様の糞!虫けら!あなたは青虫になった私よりも虫けらよ!それにあなたの精神からは、私の糞よりもひどい悪臭が漂っているわ。要するにあなたは、私よりも虫けらで、私の糞よりも糞らしいのよ!そんなあなたが私の糞を全て食べればいいのだわ!
 大きな青虫の臭覚が、嗚咽をしながら紫龍を罵り始めてから数分後、紫龍は発狂に精神を錯乱させて、持っていた刃物を青虫の臭角に向かって放り投げました。そして刃物は見事、青虫の一物に命中して、橙色の性器は、ポロリと床に落ちてしまったのです。

  橙の一物を潰された青虫は、今にでも命を落としそうな病人のように、顔の面で涙と鼻水を混ざり合わせました。真姫の顔面は、顔中に精液でも塗られたのかと思われるほど、余りにも濁った不透明な透明色で、肌色を全て隠すように覆われていました。そして粘り気のある液体は、まるでそれが一つの生命体でもあるかのようでした。
 真姫は青虫になってからというもの、何度も何度も涙を流してきましたが、今回の涙だけはいつもとは全く持って違った涙でした。
 「痛い!痛い!」と彼女は発狂し続けました。そして悶絶するほどの痛さに悲鳴を上げる彼女を見れば、彼女の言葉の数が増える度に、だんだんと青虫の体の命が弱ってくることに紫龍は気づいたのです。
 紫龍は「助けて!」と真姫が叫ぶのに対して、自分がどうすれば良いのか全く分かりませんでした。紫龍は人間ならまだしも、弱っている青虫の体を救う術など知りません。彼はただ、青虫の尻の側に落ちている自分が壊した臭覚を、まるで抗えない運命に平伏すかのように見つめるのでした。
 「痛い!助けて!」と何度も叫ぶ真姫を見て紫龍は、だんだんと強くなってきた絶望の真実の影を、弱り果てて命が尽きようとしている彼女に見出だすのでした。
 紫龍は自分でもまだ気づいていない敵の正体に対して、目の前の光景が時間に強姦されるのを目にすることで、言わずと知れた不安、恐れを胸の中で膨らませるのでした。
 紫龍は真姫の命の蠟燭の火が、部屋に漂う重い空気で小さくなる度に、不安を閉じ込める堪忍袋を、割れそうなほどに膨らますのでした。そして真姫が「死んでしまう!」と言葉を吐き出したとき、彼の心臓の側にある風船は、バンッと音を立てて割れてしまったのです。そして紫龍はとうとう、姿を隠していた敵と向かい合いました。
紫龍の目の前には突如、鉛筆の芯よりも真っ黒な肌の人間が現われて、その顔面を見れば眼球の強膜と剥き出しの歯だけが、気持ち悪いほどに真っ白なのでした。
 紫龍は「悪魔だ!」と叫んで、後ろに少しさがったものの、恐怖で震える両足がバランスを崩して、彼は後ろに転けて尻を打ってしまいました。そして腰を抜かした彼が二度、瞬きをすれば、目の前の悪魔は消えていたのです。
 「俺はあの悪魔を見たことがあるぞ。あれは、俺を恐怖で脅かすためにやってきたんだ。そうだ、あれは前にも俺の目の前に現れた。どうして俺は今まで忘れていたんだ。あれは確かに、あの巨大な青虫に首を噛まれて俺が殺されたとき、奴は俺のすぐ側で笑ってこちらを見ていたじゃないか!」
 紫龍はまた、悪魔が自分に会いに来る気がして、彼は平常心まともに保てずにいるのでした。
 目の前には声が弱弱しくなった真姫が、小さくなった声で未だに、痛みと死に対する不安を、言葉を用いて訴えているのでした。
 紫龍は直に死んでしまうもしれない真姫よりも、死を己の身と心に、深く感じているように思えました。彼は死んでしまいそうな真姫を見て、まるで自分の息の根が、完全に止まってしまうような気になっていたのです。 
彼は次第にどんどんと弱っていく真姫のことは気にもかけず、自分の身と心を死から遠ざけるため、余りにも臆病な逃走劇を企てました。そして彼は滑稽なことに、彼は湯の張っていない浴槽に沈み、長い夜の時間を過ごしたのです。

 夜が朝となって、紫龍が目を覚ましたのは昼前のことでした。紫龍は目を覚めせば、自分が空の浴槽に飲み込まれているのを認め、初めて昨夜のことを思い出しました。そして彼は、自分の目が覚めてしまった不運を憎むのでした。
紫龍は洋間に戻ることに対して怖気付きました。彼はまた、あの悪魔を見てしまうのではないかと思ったのです。そして彼が息をするのも忘れて洋間に戻れば、そこには悪魔よりも奇怪で気味の悪い、変わり果ててしまった真姫の姿があったのです。
 紫龍はどれほど驚いたことでしょう!彼の頭の中には、白い靄がかかっているようでした。または脳内が大きな白い雲に占領されて、痴呆になったとでもいいましょうか。彼は思わず数個の青虫の糞を足で踏みつけて、その感触にも気づかないまま、変わり果てた真姫の体に近づいたのでした。
 「一体、これはどういうことだ!真姫の姿が変わり果てているじゃないか!もはや、もう彼女の顔すら存在しない!今、俺の目の前にあるのは、緑色の棺桶じゃないか!真姫の顔面はどこにいったんだ?そもそも彼女の体はどこにいったんだ?
 俺の洋間に横たわる緑の角ばった入れ物は、強い衝突で所々が凹んだ、歪な形の棺桶にしか見えないじゃないか!
 ああ、何という変死だ。真姫は死んでしまったんだ。真姫は死んだ。もう、俺がかつて愛した彼女の顔は、どこを探しても見当たらない!」
 ここで作者が読者方に説明をしておきたいのが、真姫は決して死んだのではないということです。ただ、彼女は幼虫として、美しい羽を持って飛ぶために、一夜を全て使って蛹になったのです。しかし紫龍は蛹になった真姫を見て、「真姫が緑色の棺桶になってしまった。」などと、きっと阿呆でも口にしないような台詞を言ったのです。
 紫龍は真姫が死んだものと思い込んでいたのでした。
 「ああ、俺は不幸だ!」
 紫龍は心から溢れる感情を、まるで部屋に転がる糞に紛れた、蛆の卵にでも話しかけるかのように、収まることの知らない思いを、喉から嘔吐物のように吐き出すのでした。
 「ああ、俺はとうとう独り残されてしまった!ああ、俺は何と不幸なのだろう!
 真姫よ!俺がかつて愛した人よ!どうして君は一人で、俺を残して逝ってしまったというのか!今まさに、俺はこの世で一番の孤独を、心の芯から経験してしまっているじゃないか!例えば絶望が人を斬る鎌のようなものとして、その鋼は俺の胸の底にある、命の芯までも貫いてしまっているではないか!
 ああ、真姫よ!俺はどうして、これ程にも今、悲しみに襲われているのだろうか。俺の今の感覚は、悲しみが爪先から顔までも浸すようで、悲しみの塩水の底で溺れ、きっと数分後には意識を失くしてしまうのだろう!」
 紫龍はかつて愛した人の死を、または自分が一人だけ残されてしまった寂しさを、心から悲しみ咽び泣くのでした。
 紫龍は自分が、悲劇の主人公にでもなったかのような気がして、自分の瞼から零れる涙の一粒一粒が、貴重な価値を持っているように感じるのでした。そして彼は、変わり果ててしまった真姫に手の平を乗せて、劇の主人公らしい真実の悟りを、絶望の闇を照らす星一つのように、自分の胸の中で輝かせるのでした。
 「ああ、真姫よ!俺は今、やっと自分の絶望について理解した!考えてみれば俺の絶望は、純粋な愛の裏返しではないか!
 かつて俺が愛した人よ!いや、今だって俺が愛している恋人よ!俺は君を愛していた!
それなのに思いは報われなかった!君さえ、俺のことを裏切らなければ、このような悲劇は起こらなかったはずなのに!
 俺は不幸だ!心から愛する人に裏切られ捨てられて、今日、再び裏切られ独り残された!君は何て自分勝手な奴なんだ!そして、ああ!何て可哀そうな俺だろうか!」
 紫龍の心の欲望の名残の粕は、憂鬱感となって瞼からゆっくりと落ちるのでした。
 
 紫龍は緑の棺桶のすぐ側に、今はもう臭くない橙色の一物を見つけました。そしてそのすぐ近くに、きっと先端に橙の破片がへばりついている、白い刃の包丁が落ちていました。そして白い刃の面には何故か、黒い糞が少しへばりついてあったのです。
 紫龍はその刃物を掴んで叫びました。
 「俺だけ一人で残されるものか!俺だって死んでやる!そして地獄でも真姫と裸で抱き合って、永遠の愛を誓い合うんだ!
 死ぬぞ!俺は裏切り者の真姫を恨んで死んでやる!」
 しかし紫龍は痛みに対する恐怖を克服できず、ここで久々、神様に対してお祈りをするのでした。
 「ああ、神様!誰にでも愛情の深い神様!どうか、神の手を用いて私を殺して下さい!
 私は臆病者です。私は今、手に持っている刃物で、自分の腹を刺して、真っ赤な血を溢れさせることを望んでいます。ですが、死に対する恐怖が、私の思いを妨げるのです。
 神様、お願いです。どうか私の代わりに、不幸な乙女を殺して下さいませ!」
 「かつての俺は、心から自分の恋人を愛していた!けれど俺は最愛の人に裏切られ、その優しくて繊細な思いは報われなかった!
 人の希望は何と不条理な運命にあるのだろう!そして希望を持つ人の運命は、何と理不尽な悲しみに満ちていることだろう!ああ、決して思い通りにはならない運命よ!その頂点で俺を見下ろすものは、一体、どのような肌の色をした悪魔なのだろうか!」
 紫龍が己の心を熱していた思いを全て口から吐き出したとき、彼は急に息苦しさを感じて、真姫の死体のすぐ側の壁にもたれて座り込みました。そして五分ほどが経過したときには、彼は急な死の病を患って、興奮のため熱を保っていた彼の肉体は、血が流れていないのかと思われるほど冷たくなっていたのでした。

  紫龍が亡くなってから数日が経ち、この世で一番と美しい結末が、幾つかの奇跡の繋がりによって実現されました。
 まず、初めに私が話したい奇跡は、空気が汗を垂らした梅雨の連日に、紫龍の死体が腐臭を放たず、それどころか腐っている部位が一か所もなかったことです。紫龍の死体はずっと綺麗なままで、洋間の壁にもたれかかっていたのです。ただ、青虫が残した糞は、人が臭いを嗅げば、きっと嘔吐をするほどの悪臭を放っていましたが、何故か紫龍の足裏にへばりつく糞だけは、全く臭いを漂わせていなかったのです。もはや無臭と言っても大袈裟ではありませんでした。
 
紫龍が亡くなってから、一体、どれくらい太陽が、または月が空に昇って雲空に隠されたことでしょうか。そして雲のない夜空で月が光る夜の頃、緑色の大きな殻を破って、一匹の蝶々が洋間を飛びました。
 ここで不思議なのは、蝶々の姿が、私達の知る既存のものに比べて、少し小さいほどの大きさしかなかったことです。幼虫のときはあれほど巨大であった体が、一体、どうすれば木の葉よりも小さな蝶々になってしまうのでしょうか。蛹のときも人が入っていると思われても、決しておかしくはない大きさでした。しかしその怪獣の卵のように大きな殻からでてきたのが、余りにも小さな蝶々だったのです。
 蝶々になった真姫は、洋間の中を飛び回りましたが、彼女は上手く飛ぶことが出来ず、何度か床に落ちてしまいそうになるのでした。 
実は彼女は幼虫の時に受けた暴力のため、二枚の羽は奇形になり、それが飛ぶことの障害となっていたのです。ですから奇形の羽では不器用に飛ぶことしかできず、彼女は少し上がっては、またすぐに落っこちてしまい、それが余りにも滑稽に思われるのでした。
 真姫は壁にもたれ死ぬ紫龍を発見しました。最初、彼女は紫龍が死んでいると気づきませんでしたが、彼の右肩で元恋人の顔を観察したとき、血の通っていない顔の余りにも青白い肌を目にして、もしかしてはと彼の鼻の上に止まるのでした。そして何度も歪な形の羽を動かして、彼の肌を叩きましたが、紫龍は一向に目覚めませんでした。そして真姫は紫龍が死んでいることを理解したのです。
真姫は鼻の上から、伸ばされた彼の片足の膝まで降りていきました。
 人の顔面を失った彼女は、人間の言葉を口から発せないので、どうして紫龍が死んだのかを、胸奥で一人、呟くのでした。
 真姫は死んでしまった元恋人に対して、可哀そうだと思いました。彼女は彼に対して同情をしていたのです。
 真姫は紫龍から受けたこれまでの暴力を、全て覚えてはいましたが、怒りを死んだ元恋人に対して、上手く胸の中で表現することができないのでした。それどころか彼女は、「もしかすれば、自分にも非があったのかもしれない。」などと、作者からすれば馬鹿馬鹿しいことを呟いたのでした。この考えこそが、暴力の奴隷となった、哀れな人々の最終的な着想点だとでも言いましょうか。
 真姫は大きな殻を破ったときから、上手く呼吸ができないような、息苦しさを感じていました。そして彼女自身も分かっていたのですが、紫龍から受けた暴力で障害を持ったのは、羽の形だけではなかったのです。
 何と哀れな運命でしょうか!真姫は紫龍による理不尽な暴力のため、宙を美しく舞うための羽を奪われただけでなく、蝶々として生きる寿命すらも奪われてしまったのです。彼女は昆虫の本能とでも言いましょうか、自分の命が今日だけであることを、そう運命に告げられたかのように自覚しておりました。しかし真姫は、紫龍に対して一切の復讐心をいだいておらず、柔らかな蝶々の羽で彼の頬を叩くようなことは、一度だって考えることもしませんでした。

 蝶々の真姫は紫龍の膝の上で、自分の運命を見返しました。真姫はもし輪廻転生が真の話であるならば、次こそは人から何も反感を買わないような、優しい人間に生まれたいと神様に祈ったのです。
 そして憐れみ深い蝶々の真姫は、若くて死んでしまった元恋人に同情をして、もしも命に来世があるならば、次こそは彼に、人としてまともな魂を持って生き続けて欲しいと、神様にお祈りをし続けました。
 真姫は何度も何度も神様に、その二つのことをお祈りして、一度も紫龍の膝の上を動かず、最後も彼の膝の上で眠るように力尽きたのでした。

青虫になった彼女

青虫になった彼女

  • 小説
  • 中編
  • ホラー
  • 成人向け
  • 強い暴力的表現
  • 強い言語・思想的表現
更新日
登録日
2023-08-21

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