おまえ
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１ 薔薇と棘
引っ越してじきにひと月になる。慌ただしく過ぎたひと月だった。おかげでショックも和らいだ。もう来月分の家賃を払いにいかねばならない。この引越しで貯金の半分がなくなった。こんなことのために貯めたわけではないのに……
ここに決め、大家に挨拶にいったときに出てきた奥さんが母に似ていた。世話好きな垢抜けた人だった。隣の大きな邸に住んでいる。顔を合わせると挨拶をし、菓子や果物をくれた。貰い物が多く食べきれないらしい。嫁の実家から送ってきたからと、漬け物をくれたこともある。わざわざ刻み、使い捨て容器に入れてあった。
嫁にはまだ会ったことはない。朝早く、帰りも遅いオレには知り合いもできなかった。隣の、やはり世話好きな奥さんは別だが。
隣の30半ばの奥さんも手作りの菓子や惣菜を持ってきてくれた。４、５才の女の子がいる。これが狭いアパートでピアノを弾く。電子ピアノだろうが……習いたてのバイエル、勘弁してほしい、とは言えず、
「僕も好きですから」
と言ってしまった。
土曜休みの午前中、隣の邸に家賃を払いにいった。門は開いていた。庭で若い女が花の手入れをしていた。広いツバの帽子を被り中腰で。近寄ると振り向いた。
「あの、家賃を」
女は深呼吸をしてから立ち上がった。めまいがしたようで思わず支えた。大丈夫です、と女は歩き出す。玄関に入り、待たせ、たいして待たせはせず、すぐに金を受け取り領収証を書いてよこした。きれいな字だ。
「大丈夫ですか？」
「ええ。丈夫だけが取り柄なのに。さっき、亡くなった義父が立っているのかと思った」
「亡くなった、おとうさんですか？ ちょっとショックだな」
「義父に、ひどいこと言ったから。私を恨んであの世から歩いてきたのかと思った」
「お、おかあさんは？」
「病院なの。義父の介護で腰痛めちゃったから……」
彼女の名前も年も聞けなかった。大きな邸の嫁。地味な服だった。化粧もしていなかった。それでも引きつけられた。
肩幅が広かった。手も大きかった。彼女は半身不随の義父を献身的に介護していたと、隣の奥さんが言っていた。あの世から恨んでくる……とは？
休みの日、ベランダに出てみた。３階だから隣の邸の庭がよく見える。彼女は花の手入れをする。中腰の姿勢で長い時間。視線に気づいたようだ。こっちを見上げ目があった。互いに軽く頭を下げた。
彼女の夫は何度か見かけた。朝、車が迎えにくる。オレが仕事に出かける時間。10才年上だという夫が後部座席に座り、もう書類を読んでいた。見送りに出ていた彼女はオレを見て会釈をした。
休みの日は何回もベランダに出た。小さな椅子とカモフラージュにするタバコを買った。
毎週休みのたびにそんなことをした。新しい恋の対象。忘れるためなら誰でもいい。
花屋に入った。菓子や果物、惣菜まで何度ももらっている。大家と隣の奥さんに花を買おう。
花屋になんて初めて入った。『おまえ』には花一輪プレゼントしたこともなかった。もらうばかりだった。
バラが満開になり見事だ。また家賃を払いにいくと『嫁』は庭で手入れをしていた。気づいているのに振り向かない。オレはそばに寄った。
「クイーンエリザベス。みごとだな」
「義父に言われたわ。おまえは原種だって」
「原種？」
「よく聞き取れなかったから雑種って言ったのかも」
花束を渡した。おかあさんに、と。『嫁』は笑った。
「喜ぶわ。ありがとう」
本当は……あなたに受け取って欲しい……
「ピアノが得意なんですって？」
「隣の奥さんだな、好きだって言っただけですよ」
「テンペスト、弾ける？ 生で聴いてみたい」
日曜の朝、ベランダに出てタバコを吸っているフリをした。隣の庭が見える。ベランダの小さな椅子に座り庭を見る。
目当ての彼女はバラの手入れをしていた。素手でしている。トゲで傷つけ、そこへ夫がパジャマのままやってくると、傷ついた彼女の手を舐めた。
庭の椅子にふたりは座り花を眺める。夫、彼女より10才年上の男は妻にキスをした。長い時間キスをした。洋画のようだ。唇の感触を楽しんでいる。そこに息子が邪魔をした。父親の膝に座り、真似て母親にキスした。父親が息子の顔を舐めた。嫌がる息子をペロペロ舐めた。息子は友達が呼びに来ると顔をこすり走って行った。
庭仕事に戻ろうと立ち上がった彼女を夫は後ろから抱きしめた。見られているとは思わないだろう。夫は彼女のズボンの中に手を入れ……
日曜の朝、好きな女が凌辱された。好きな女？ 前の女を忘れるために見ていただけだ。人妻だ。夫婦が休みの日の朝、愛し合う。当たり前のことだ。しかし……苦しかった。苦しくてドアを蹴った。
２年の間そばにいた女を思い出した。いや、忘れたことはない。忘れられない……毎週休みの朝早く、焼きたてパンを買い訪れた。コーヒー豆を挽いた香りが漂う。
「パンよりコーヒーよりおまえが欲しい」
肌のきれいな女。地味な下着。実家暮らしの堅実な女。白い肌の奥深く……満ち足りた時間、『おまえ』となら死んでもいいと思った……たぶん一生忘れられない。もう遅いのか？ ひざまずいて謝っても……
となりの娘のピアノが上達していく。オレは習っている先生を訪ねた。いまさらのピアノ。日曜の午後久しぶりにレッスンをした。
歩いて帰る。区民農園があった。日曜の午後、彼女と息子が農園で長靴を履いて作業をしていた。息子の方が気づき手を振った。
「おにいちゃーん」
と。隣の娘を真似て。このふたりはよくアパートの廊下でも遊んでいた。ピアノを教えてやったこともある。エリーゼのためにを弾いただけでオレはピアノの上手な人になってしまった。大家の婦人にも今度弾いてください、とお願いされた。
畑で３人で話した。葉を見ても、オレはなんの野菜だかわからない。息子が教えると彼女は笑う。野菜不足でしょ？ 取り立てのトマトをくれた。３人でトマトを食べた。彼女の息子が手を取る。３人は親子みたいに並んで歩いた。お義母さんに見られたら？
「よく義父と散歩したわ。車椅子で。最初は義母にしか面倒みさせなかった。体格のいい人でわがままで、義母のほうが体壊して」
彼女は突然笑い出した。
「初めてトイレでパンツ下ろしたとき、憤死するかと思った」
「憤死？」
「拒否するのを力づくで。孫くらいの娘に」
年は知らない。名前も聞かない。言わない。彼女は堪えきれずに笑う。十代の娘のように。
「すごいバトルだったの。夫も、義母も、義妹たちも役立たず。虐待かも」
「まさか」
「悔しかったら歩いて立てって。恨んで出てきてほしい。庭にいると感じるの。私を見てる。花を枯らしてないか、ちゃんと世話してるか……」
「じゃあ、キスしてたのも見られたな」
彼女は立ち止まってオレを見つめた。やはり、見てたのね、とは言わない。
「子供の前で。おおらかでいいな。夜の行為も見せてるとか？」
表情を変えない。息子にはただの世間話だ。
「見てみたいな。ベッドで乱れるのを」
「ベッドじゃないわ」
「え？」
「布団なの」
「……」
「この子がもっと小さい時、私の上にパパが、遊んでると思ったのね。パパの上にこの子……ハハハ」
彼女は思い出し、笑い出した。堪えようとして我慢できず、笑う。楽しそうに。つられて息子も笑う。
「バカじゃないのか？」
「ああ、おかしい。失礼しました」
『おまえ』はあんなふうに笑ったことはなかった。笑わせたこともなかった。泣かせた。何度も。２年の間、いや、それ以上の長い付き合いだったのに、『おまえ』のことは知らなかった。自分のことは話さなかった。聞き上手だった。平凡な家庭の平凡な娘。凡庸だと卑下していた。いつのまにか、あの凡庸な女と比べる癖がついた。きれいでスタイルのいい女はたくさんいるが……あんなに献身的な女はいない。過去にもいなかった。尽くしてもらうばかりだった。これからだったのに。これから喜ばせてやろうと思ったのに……
喜んでいたと思った……
次の週の日曜日、隣の邸はにぎやかだった。黒服の男女が大勢出入りした。義父の１周忌か？ 長男の嫁は１番若い。若いが敬意を払われているようだ。
隣の奥さんの話によると、あの跡取り息子は彼女のために家も家族も親が経営する会社も捨てた。10も年下の田舎の貧困の父親のいない中卒の娘。跡取り息子の嫁にはできなかったのだろう。３年間の田舎の生活。息子も生まれたが親は許さなかった。
父親が倒れ、会社の経営がうまくいかなくなった。そうなると娘たちは頑固な父親のところには寄り付かなくなった。母親は介護に疲れ体をこわし、長男は妻と子を連れ戻った。彼女は苦労するために戻ったようなものだ。介護士や家政婦を雇う余裕はなかった。彼女はすべてをこなした。父親は最初は妻以外の介護を拒否したが、彼女は強引だった。夫は彼女のおかげで仕事に専念でき会社は持ち直した。親戚は彼女を認めざるを得なくなった。
夕方になると黒服の男女はそれぞれ帰って行った。そのたびに彼女は外まで出て見送る。最後の親族が帰ったのか、彼女は庭の椅子に座った。まだ、黒服のままだ。スカート姿は初めて見た。首に大粒の真珠。彼女が待っているのは義父ではない。オレにはわかった。離れている彼女の心が手に取るようにわかった。
ベランダに出てタバコを吸った……魂が空間で触れ合った。死んだ義父が怒って出てきそうだ。彼女は人妻だ。夫が戻ってこない妻を気にかけて庭に出てきた。オレは部屋に入る。夫は疲れただろう、と妻の肩を揉む。彼女は泣き崩れた。義父のことを思い出したのか？ 揺れ動く心に罪悪感を感じたのか？
離れなければ……
離れたいが、離れられない。もう声をかけることはできない。しかし、『おまえ』と別れてから３か月も経っていない……呆れるわけだ……軽薄な男と見限られて捨てられてもしょうがない。
休みの土曜日、天罰が当たった。オレはひどい腹痛で苦しんだ。救急車を呼ぼうか迷っているうちに動けなくなった。隣の娘と彼女の息子がちょうどドアを開け、
「おにいちゃーん、ピアノ教えてー」
とやってきた。それから少しして彼女がきた。オレは支えられ抱えられ、３階から下ろされた。車に乗せられ病院に連れて行かれた。痛みで喋れない。考えられない。妻に間違えられた女はきびきびと動く。尿路結石、手術？ ペニスから管を入れる……やめてくれ。そんな説明は。妻じゃない……
帰りの車、彼女は運転しながら笑いを抑えられない。
「手術したほうがいいわ。早く」
「ああ。笑うな」
「若い看護師さんだったりして……クックックッ。」
１泊２日の入院で手術した。彼女の前で説明されたように。
次の日は休んだ。平日に庭を覗く。彼女と若い女が椅子に座っていた。オレはタバコを吸う。妹か？ 大学に通っているとかいう？ 夏休みだし。中卒の姉と大学生の妹。夫が学費を出しているのか？ 姉より垢抜けている。化粧も髪型も。似てはいない。華奢な女だ。
休みに集中してレッスンした。なぜいまさらのピアノ？ 基礎からやり直す。
『おまえ』の背中……きれいな背中を思い浮かべる。本物のピアノで聴かせたかった。
レッスンの帰り、畑の前で声かけられた。
「おにいちゃーん」
彼女の息子が叔母と手をつないで寄ってきた。
「ママの妹だよ」
ひととおりの挨拶。３人で手をつなぎながら歩く。誰に見られても困りはしない。妹は名残惜しそうに立ち止まって話し続けた。
「いつまでいるの？」
「さあ、ずっといたくなったわ」
門の中から姉が見ていた。
妹をカモフラージュにした。ベランダから堂々と手を振った。畑で堂々と話し、堂々と歩いた。そして彼女の家の庭で話をした。映画に誘われた。喜んで応じた。姉は顔色を変えない。顔に出さない。喜びもしないが。妹が席をはずした。
「似てないな。姉妹なのに」
「私は父親似だから」
「オレに惚れてる」
「……」
「オレが惚れてるのは別の人だ」
「……」
「なんとか言えよ」
「出て行って。アパートから」
ポケットからハサミを出し脅された。
「妹に手を出したら切るわよ」
「……真顔で言うなよ。恐ろしい」
夏のバラが蕾をつけている。彼女は怒ったように次々切り落とした。
「なんてことするんだ」
「夏咲かせると弱るのよ」
容赦なく切り落とし、トゲで指を傷つけた。
「バチが当たったんだ。どうして手袋をしないんだ？」
彼女の手を取り傷を舐めた。ハサミが落ちる。頬を叩かれる。妹が戻りふたりはなにごともなかったように話した。
妹と出かけた。姉妹の子供の頃の話を聞いた。姉がどれほど夫に愛されているかを聞いた。家賃を持っていき話す。
「このあいだはピアノのリサイタルにいったよ。生でテンペスト聴いてきた。おねえさんもいけばよかったのに」
「子供ができたの。ずっとできなかったのに」
「……残酷な女だ。オレの上をいってるな。おめでとう。よかったな。よかったな。妊婦を恋焦がれたりはしない。よかったよ」
ふくらんでいくおなかを見たくはない。妹には別れを告げた。別れるほどの仲にはなっていないが。
家賃を払いに行く。ひと月は早い。半年恋焦がれた女がやつれていた。ひとめでわかった。流産したのか？
「死んでたの。おなかの中で」
「休んでろよ。顔が真っ白だ」
「バチがあたったんだわ」
「バカな、君がなにをした？ オレは出て行く。出て行くよ」
彼女はめまいがしたのか、しゃがみ込んだ。大声で義母を呼んだがいないようだ。抱き上げ寝室に運んだ。和室に布団が１組み敷いてあった。少しの乱れもない布団に寝かせた。部屋は片付いていた。
「動きすぎなんだよ。休めよ」
彼女はもう喋らない。
「オレが来ると思ってたんだろ？」
キッチンへ行きミルクを温め、彼女に飲ませる。
「おかあさんは？ 病院か？ ゆっくり休め。なにもするな。いいな」
彼女は力なくうなずく。別人みたいだ。
半年しかいなかった。彼女の前から去る。最後に……別れのパーティーを開いてくれた。彼女と息子と老婦人と隣の母娘が大家のリビングに集まった。彼女のために弾く。この半年集中して練習したテンペストの第３楽章。皆、びっくりしていた。
「宝の持ち腐れのピアノ、調律しててよかった」
老婦人が感激してくれた。アンコールに月光の第１楽章。
月光……『おまえ』だよ。『おまえ』を思って弾いた。
引っ越す前の日、彼女が部屋の査定に来た。ざっと見て敷金を返した。
「次借りるのにまたお金かかるわね」
「癌が見つかった。長いことないよ」
彼女は笑っている。嘘は見破られる。
「本当だったらついていてくれるか？」
「夫に頼んでみる」
「許してくれるか？」
「……わからない」
「ああ、嘘だよ」
「テンペスト、ありがとう。私も習ってみようと思うの。やっと時間ができたから」
「君は手がでかいからうまくなるよ」
「夫の好きな曲なの」
「ああ、そうかい」
彼女はようやく声を出して笑った。
「おかあさんが寂しがってた。あなたは義父に雰囲気が似ていた。若い頃のね。あなたのおかげで元気になれたって……」
「うまくやっているんだな。おかあさんと」
「本当の娘のように思ってくれてる」
「……ピアノのうまい男がいた。コンクールで入賞したこともある。その男の前じゃピアノ習ってた、なんて言えなかった。なにもかも中途半端で……恋も。
惚れっぽいからすぐ好きになって、１番大事にしなきゃいけない女にひどいことばかりしてた。いつも待たせて、待っていてくれると思って勝手なことしてた。別れるときに言われた。自分勝手で軽薄なひとって。ちっともよくなかった……ショックでまだ立ち直れない」
「……」
「笑えよ。君が、笑うのが好きだ」
彼女はベランダに出て指差した。この部屋と庭の中間点を。
「そこで…… 」
「ああ。そこで、何度も」
「……素敵だった」
「君の名前は？ いや、どうでもいい。すぐ忘れるから」
またフラれたよ。いつも『おまえ』のところへ戻ったけれど、もう戻れない。
やり直したいよ。初めて『おまえ』に声かけた日に戻り、もう１度最初からやり直したい。
『おまえ』は今幸せなのか？
幸せならいい。『オレ』が悪かった。いつも悪かったのは『オレ』なんだ……『おまえ』のことは忘れない。
２ 先輩
先輩、覚えてる？ テニス部に入った夏休み、Ｏ先輩の家でお酒飲んだの。あれ、学校にバレたら大変だったでしょうね。
先輩は葉月さんが来ないから不機嫌で、ガブガブ飲んですぐに潰れて別の部屋で寝かされていた。飲み過ぎた女の子もいたけれど私は羽目をはずせない。
いつも真面目過ぎて面白くないのはわかっていた。先輩はひとりで寝かされていて、私は様子を見に行った。
先輩、って声をかけたらあなたは目を開けて、私の名を呼んだ。私の名を。
そして夏の夜、先輩は酒臭い息をして私にキスしたの。覚えてないわね？
私の名前。誰が付けたのか？
美しくはない月。
太陽ではない。
太陽は兄だった。母の愛は兄に注がれた。母は倹約家だったが兄には惜しまず与えた。兄は塾も予備校も大学にも通わせてもらえた。
私の分は残っていなかった。父はおとなしい人で母に文句は言えなかった。働いて給料を運ぶだけ……
兄を恨んではいない。10歳上の兄は優しかった。誰に似たのか兄は優しかった。兄は母にも私にも優しかった。
私は自分の分というものを知っている。私はおとなしく聞きわけのよい、手のかからない子だった。塾にいかなくても難関高に合格できたし……
それがよかったのかどうか？ 先輩とは腐れ縁。
先輩は私をテニス部に勧誘した。運動部には入る気はなかった。母が遅番のときは炊事を任されていたし、ユニホームや合宿やらでお金がかかるから。
「かわいい子しか誘わないんだ」
冗談で先輩は言った。私をかわいいだなんて……
皮肉？
軽い男！
嫌いなタイプ。なのに……
「オレの目は確かだ」
先輩は私の悩みを吹き飛ばした。私は軽い神経症にかかっていたのだと思う。自分に自信が持てず醜いと思っていた。
原因は……わかっていた。
救世主だと思った。なのに、テニス部に入部してすぐに後悔した。
先輩は卒業した葉月さんに夢中だった。私はずっと球拾いをしながら先輩を目で追っていた。
最後の数分間だけ、先輩は私に教えてくれた。いつも先輩は私のところにきて教えてくれた。かわいい１年生は何人かいたのに。先輩は１番地味な私の相手をした。嬉しかったけど、なぜ？
葉月さんの次は同じクラスの|夏生さん。
葉月さんには納得したけれど夏生さんは意外だった。スタイルはいいけど頬に傷のある男みたいな女、ほんと、意外だった。でも……私は夏生さんには敬意を払っていた。私が彼女だったら……あんなに強くはなれない。彼女の存在は励みになっていた。
夏生さんは先輩と付き合っていくうちに、どんどん女らしくきれいになって、悔しいけれどお似合いだった。先輩が中身のある誠実な男に見えたわ。
先輩が卒業した年のＯＢ会ではまた飲み過ぎて、その時は出席していた葉月さんにべったり。私はまた置いてきぼり。ふたりが一緒に帰るのを見送った。
私は進学校から就職。自分で稼いで自由に使えるのが嬉しくて、おしゃれして会社のクラブに馬術同好会なんてのがあったから、それに入ってちょっと格が上がった気分。大学生が教えにきていてそこではチヤホヤされていたのよ。
あの日先輩がその中にいたからびっくり。縁を感じたけれど先輩は誘われてついてきただけ。でも、きれいになったって言ってくれたわ。
平凡な女が、19の頃は少しは花があったのかしら？ 先輩は数回来て皆で飲んで方向が一緒だから話したけれど、私はただの後輩だった。そのうちカネが続かないから今日が最後だって。これでまた会えなくなるわね。
あの日あのステキな由佳さんがクラブにやってきて、由佳さんのスタイルと乗馬に先輩は魅せられていた。
彼女は女の私から見ても非の打ちどころのない女性。正義感が強くて、私は酔っ払いに絡まれているのを助けてもらったことがある。酔っ払いは殴りかかり、かわされて転んだ。女のくせにボクシングなんかやっていて憧れていた。
由佳さんは先輩も食事に誘った。彼女の車で行った行きつけのレストラン。彼女が店のピアノを弾くと先輩は驚いていた。私も……
妬ましかった。なにをやっても極める女性。私は足元にも及ばない。
もっと驚いたのは先輩のピアノ。合唱コンクールでは伴奏していたけれど、こんなに弾けるとは思わなかった。
ふたりはピアノの話で盛り上がっていた。婚約者がいるのよ、と教えても動じなかった。余計に先輩は惹かれていった。ウェルテルのように。
ふたりで会うわけにはいかないから、私を利用した。先輩はクラブを辞めなかった。言い訳もしない。私も聞かない。由佳さんは来る。同好会のある日に。私に会いに。先輩に会いに。
由佳さんに旅行に誘われていた。彼女の故郷。父親の経営している乗馬クラブで特訓してくれると。彼女は先輩を誘うよう言った。親密になるチャンスだと。バカな私は喜んだ。テニス部の合宿以来だもの。
由佳さんの車で出かけた。途中先輩は運転を変わり彼女は助手席に移った。ふたりは車の話をしていた。私にはわからない。私は後ろの席で眠ったフリをしていた。
嫌な予感はあったのに、先輩といられるのが嬉しくて、それにまさか、婚約者のいる由佳さんと先輩がああなるとは思わなかった。
ホテルで圭介さんに紹介された。受付のカウンターから出てきて丁寧に挨拶してくれた。誠実な人に見えた。由佳さんがいうような男には見えなかった。
用意してくれた部屋は素敵だった。最低料金で最高の待遇。先輩とは隣の部屋。私たち４人は夜遅くまでホテルのバーで飲んだ。由佳さんは先輩を見ていた。彼女は婚約者の圭介さんにひどく腹を立てていて、先輩に気のあるフリをしただけなのよ。あとで私に謝った。
４人で馬に乗った。よその大学生も合宿に来ていて、私たちは混じってカレーを作って飲んで騒いだ。
由佳さんは私の部屋に泊まった。一緒にお風呂に入った。どこから見てもどの角度から見てもきれいな人が化粧を落とした。
「平凡な顔でしょ」
私は返事に困った。化粧ってすごい。
「素顔のほうがいいって言われた。訛りのある話しかたのがいいって……」
「圭介さんに？」
「圭ちゃんは私の顔なんてどうでもいいのよ。欲しいのは私の家と財産」
「そんなこと……」
「圭ちゃんは壊したの。私の恋を」
風呂から出ると由佳さんは私に化粧を教えてくれた。目が大きくなっていく。
朝、食堂に入っていくと先輩はびっくりしていた。
念入りに化粧した私と素顔の由佳さん。先輩は交互に見つめ笑い出した。由佳さんがなぜ素顔で口紅もつけないでいったかわかる？ 私のためなのよ。先輩をがっかりさせようと思ったの。
先輩が好きになるのはいつもきれいな女だもの。
女は顔だものね。でも、先輩の視線は彼女に釘づけ。化粧を落とした由佳さんは先輩よりふたつも年上には見えなかった。
帰る前日の夜、３人で河原を散歩した。圭介さんは仕事の電話をしていた。
両手に花？ の先輩にふたりの不良が絡んできて、ひとりまわせと由佳さんを連れて行こうとした。由佳さんは先輩がどうするかを見ていた。
先輩は彼女の手をつかみ放さなかった。何度か殴られても守ろうとした。守る必要などなかったのに。
私が携帯で電話するのをもうひとりの男が止めにきた。私は先輩を守りたい一心で、由佳さんに習った護身術で、男の１本の指を逆側に折った。男は悲鳴をあげ、圭介さんも走ってきたのでふたりの不良は逃げていった。
由佳さんは、弱いながら必死で守ろうとした先輩に本気で好意を持ってしまった。圭介さんと由佳さんが先輩を支え、私はひとりで歩いた。
来なければよかった。何度手痛くふられるのだろう？
由佳さんは先輩の部屋に泊まり込み介抱した。私は怒りを抑えた。由佳さんを殴りたかった。でも、彼女は私の知っている由佳さんではなかった。必死で私に謝った。先輩を試したこと。試して傷つけたこと。そして私の好きな人を好きになってしまったことを。
先輩が助けたのは由佳さん。先輩が介抱して欲しいのも由佳さん……
私は翌日の朝、先に帰った。圭介さんは駅まで送ってくれた。慣れている。こういう思いも扱いも。２度と由佳さんに会うことはない。先輩にも……
そのあとのことは知らない。先輩は電話もメールもくれなかった。私は馬術同好会を辞めた。先輩と由佳さんが一緒のところなど見たくなかったから。
腐れ縁。ＯＢ会のハガキは毎年届く。
先輩は毎年来る。まだ葉月先輩が来るとでも思っているのか？
私は無視していた。先輩にとって私は取るに足らない存在だもの。無視して飲んだ。注がれるままに飲んだ。それでも羽目をはずせない。酔わないものだ。
トイレに立つときよろけた。酔ってない、と自分に言い聞かせ歩く。フワフワするのを支えたのは先輩だった。先輩は女性のトイレの前で待ち、また私を支えた。優しかった。私は涙もろくなって恨みがましいことを言った。
「由佳さんはどうしたの？」
「由佳は圭介さんを愛してた」
「そんなの、あたりまえじゃない。フラれたの？ 先輩？ いい気味だわ」
先輩は私を送ってくれた。タクシーを止め家まで紳士的に。私が家に入るまで見届けようとした。
「先輩、覚えてる？ Ｏ先輩の家で飲んだときのこと？ 先輩は酔って私にキスしたのよ。覚えてないでしょ？」
どうして風向きが変わったのか？ 次の日先輩は電話をくれた。そして……私たちは恋人同士になった。私は先輩が愛した女を３人も知っている。皆素敵な人だった。
私たちは映画を見て遊園地に行き先輩の部屋に行った。部屋を掃除して洗濯して料理する。先輩は学生。私はボーナスが入ったＯＬ。
先輩の誕生日に私は奮発して肉やワインや果物を買っていった。私が洗い物をしていると先輩は背後から抱きしめた。
「護身術習ったんだろ？ 由佳に。どうする？ こういう時は？」
「由佳さんはひどい。先輩が殴られるのを見ていた」
「おまえが助けてくれたんだな。オレのために」
１杯のワインが私を饒舌にさせた。
「由佳さんはひどい。私の気持ちを知ってたのに。先輩もひどいよ。ずっとずっと好きだったの知ってたくせに」
先輩は私をなだめ謝った。
薄明かりの下で……比べないで……比べないで。あの、きれいな人たちと。
先輩にしては長く続いたわね。２年の間、私は通い妻。都合のいい女だった。部屋はきれいになるし、自分のためには買わない高い食料。服もプレゼントした。
そして清潔なベッドで先輩はいろいろ試した。私は恥ずかしくて……
恥ずかしいと言うと先輩は罰を与える。恥ずかしいのに先輩は聞く。どうして欲しい？ と。
私がして欲しいことはひとつだけ。
「電気消して」
先輩が褒めるのは肌だけ。ほかに優れているところはない。
もうひとつ言っていいなら、
「優しくして」
真っ暗にすると先輩も羞恥心がなくなったのか、不思議なことを言った。
「１番大事にしなきゃいけなかったのに、ごめんな……」
私の感情は抑えがきかなくなった。涙があふれ、震えた。先輩は優しく涙をぬぐい、優しいタッチで私にふれた。優しくて優しくて……
その夜は眠ってしまい目が覚めたら真夜中だった。泊まっていけよ、と先輩は言ったけど私はタクシーを呼んで帰った。
先輩に抱かれているなんて、信じられない。先輩が私に夢中になるなんて……
ベッドの上だから先輩は平気で嘘をついた。
好きだ……愛してる……もう離さない……
取るに足らない存在の私。こんなことが続くわけがない。私を征服してしまうと先輩は飽きてしまう。やがて新しい恋をして新しい恋に走る。
先輩は就職すると、思った通り帰りが遅くなった。華やかな女たちと先輩は遊ぶ。
私は待ちぼうけ。会えない日が続いた。先輩はメールもよこさない。
休みの日の早朝、私は鍵を開けて部屋に入った。毎週先輩は朝の訪れを待っていた。
「焼き立てパンよりおまえを食べたい」
その日は違った。よほど疲れているのか、先輩はコーヒー豆を挽く音でも起きなかった。
パンは完全に冷めた。仕事のせいなのかと初めは思った。でも……
先輩は寝言で名前を呼んだ。私の名前ではない。
私はもう冷めたパンになった。先輩は捨てる……
私はキッチンで汚れ物を洗い包丁を持った。頭の中でめまぐるしく場面が変わっていった。私はヒロイン。修羅場のヒロイン。葉月さんは、由佳さんはどう思うだろう？ 母は？
取るに足りない存在の私。どんなヒロインにもなれない。
次の日、私は預かっている鍵を返しにいった。部屋の中の自分のものを整理して、置き手紙も残さずに消える。
もう待つのは嫌だ。追いかけるなんてもっと嫌だ。このまま、お互い離れていく……高かったコーヒーメーカー。先輩のために買ったのに、置き土産に残していく。新しい女のために先輩は使うだろうか？
階段を降りるときに先輩は帰ってきた。私を見てもなんの反応もなかった。
悪いな、とそれだけ。そのとき携帯が鳴り先輩はすぐに出た。
「ああ、今帰ったよ。ああ、明日もいくから……おやすみ」
ナホ？
私に優しかったのはもう過去になった。私の存在など忘れたように先輩はため息をついた。
「先輩も新しい彼女ができたのね。よかった。言い出しにくかったの。私も彼ができたの。私だけを思ってくれる人。私のことだけを愛してくれる人」
虫の居所が悪かったのか、都合のいい話なのに先輩は怒ってきた。どうしてあんなことになってしまったのか？
先輩は怒って私の頬を叩いた。母にも叩かれたことはない。愛されはしなかったが。
「先輩なんか、何度も私の心を踏みにじった。いつも自分勝手で薄っぺらい男」
怒涛のようにセリフが出た。今までは我慢してきた。自分でも驚いた。あんなに感情的になるなんて……
なにを言ったかはっきり覚えていない。
先輩なんか、自分勝手でちっともよくなかった。合わない……なにもかも……性格も、価値観も、温度も……
捨てセリフにもっとひどい捨てセリフ。私は凍りついた。最後のセリフは封印した。
３ ずっと君を
別れてよかった。２年の間貯金がたまらなかった。天引の社内預金と団体保険、それだけしか増えなかった。
自分では決して食べない高級な肉や果物やワイン。先輩には値段は言わなかった。自分で稼ぐようになってわかる日がくるだろうか？ 私がどれほど先輩のために金を使ったか？
買ってもらったものはなにもない。出かけたこともない。私が部屋に行った。そのほうがいいと私が言った。帰りはタクシーを呼んで帰った。送らなくていいと私が言った。
私はバイオリンを習ってみた。本当はピアノにしたかったけど家に置く場所はない。買う金はあっても。
電子バイオリンを習った。音量を調節できるから。子供の頃、習い事はできなかった。できなくても成績はよかった。塾にはいかなくても兄の古い参考書で理解できた。音楽はテストも楽器もできた。ほどほどに。スポーツも。ほどほどにできた。ほどほどでいい。金をかけられた兄より優ってはいけない。目立ってはいけない。
先輩は電子ピアノで私に教えてくれた。私のために弾いてくれた。
おまえだよ。月光……ずっと弱く弾くの難しいんだ。姉３人がすぐやめたから母に無理やりやらされた。
「母親には男の子は特別かわいいのかしら？」
「そうだな。オレは特別だ。おまえにも」
私が練習していると先輩はヘッドホンをはずし、耳にキスした。私の背中を鍵盤にした。トリル。ピアニッシモのトリル……
電子バイオリンを買ったのに、バイトの若い先生は私が弾いていると居眠りをしていた。メールをしていた……私は文句を言える性格ではない。いつもこうだ。軽くみられる。怒らないからなのか？ 仕事もそうだ。大卒の女たちは要領がいい。残業をしない。生理休暇も有給休暇も当然のように取る。私は重宝がられる。それだけだ。飲み会でチヤホヤされるのは彼女たちのほうだ。私は真面目すぎる……つまらない……
少し飲みすぎた。２次会は行かない。ひとり電車で帰る。ドアの外を見ていた。電車がのろい。視線を感じた。酔っていたから少し大胆になれた。視線の先の男、見たことがある。知っている顔だ、誰だっけ？ よく会う男。今日も会ったはずだ。
男が会釈した。ああ、毎日会社に荷物を届けにくる宅配便の人だ。私はいつも受け取りの判を押す。近寄ればタバコの匂いがする。それだけで恋愛対象にはならない。彼のほうは気があると思う。ひとことふたこと話す口からはデンタルリンスの匂いがした。タバコをやめればいいのに。吸っている本人はわからないのだろう。
かれこれ４年になる。入社したときからの担当だった。夏は汗とタバコの入り混じった匂いがした。
「あなたも忘年会？」
私は声をかけた。少し酔っていたから。
「飲みなおさない？」
彼は喜んでついてきた。私の降りる駅、駅前の安い居酒屋。おなかはいっぱいだから酒だけ飲んだ。明日は休みだ。お互いに。
たまには酔ってもいいわよね？
生まれて初めて自分を見失った。私が誘ったのだ。彼は、名前を言ったのだろうが記憶にない。記憶にあるのはシャワーを浴びて、ふたりで浴びて、彼は褒めた。きれいだと褒めた。きれい？ 私が？ レベルが低いのね？ 低すぎるわ……私は、美しくない月……誰にも愛されない……
自分から求めたことはなかった。欲しいものはあっても我慢した。親にも友達にも、いや、友達なんていなかった。与えてくれる人はいなかった。いつも利用されるだけ。人がいいから。いやと言えない性格だから。要するに、つまらない、取るに足らない女なのだ。
その夜は違った。酔いが私を別人にした。私は指図し、命令し、怒って、先輩と同じようにさせた。できるまで許さなかった。男は私の要求通りにした。どうでもいい男だから羞恥心などなかった。
先輩？ 先輩……ひどいこと言ったわね。あれ、嘘よ。ホントは、先輩、ベッドだけは最高だった。私を練習台にしてたんだもんね。念入りだった。あとは最低……
愛なんていらない。愛なんてないのにこんなに満たされて、満たされて疲れて眠りに落ちる。夢の中でも満たされた。
朝まで眠った。初めてだ。こんなことは。母にメールした。
（終電乗り遅れた。ごめんなさい）
もう、家を出よう。母の愛はもう求めない。
酔いが覚めない。シャワーを浴び男を拒否した。ホテルの前で別れた。歩いて冷静を取り戻す。彼の名は？ 知らない。月曜日、気まずいだろうな。でも後悔はない。
金も払わなかった。ああ、払ってくれたんだ。当たり前なのに。きれいだと、きれいだと何度も言った。入社してきたときから毎日会えるのが嬉しかった、と。君は優しかった。ねぎらってくれるのは君だけだ。雨の日に大変ね、と言ってくれるのも……僕は、４年の間見てたんだ……
顔立ちは悪くないのに花がない。母に言われた。ほかの人にも言われたことがある。それをきれいだなんて……レベルが低すぎる。
……月曜日、彼はいつも通りだった。いや、床屋に行ってきたようだ。髪がさっぱりしていた。ふたりとも敬語で接した。
火曜水曜木曜日。いつも通り。会えるから名前は聞いていない。
金曜日、判をもらいにきた彼に書いて渡した。
この間の居酒屋来れる？
彼はうなずく。
何時？
８時。
この間と同じパターン。朝帰りはできないから、飲みすぎたフリをして金を払わせ、いうことを聞かせる。思い通りにさせる。
上になる。先輩とは恥ずかしかったのに……
どうでもいい男だから、どう思われても平気だった。
きれいな肌だ、と男が褒めた。
先輩も褒めた。
誰にも見せるなよ。誰にもこんなことさせるな……
同じパターンが何度も。おかしい。遅れてる。ありえない。避妊させたのに。きちんと。きちんと。きちんと……
彼は謝った。ごめん、君が寝てるとき……外に……
私は叩いた。頬を何度も。
「いい加減な人」
愛などなかった。誠実そうにみえたがだらしない人。でもタバコはやめてくれた。酔った私がどうしてもタバコ臭くて嫌だと、キスを拒んだから。歯医者へいって歯石を取ってきた。念入りに磨いている歯は白くなっていた。
貯金なし。父ひとり子ひとり。高校中退。母が笑うわ。
趣味の釣りで金はない。趣味のバイク。車のローンはたくさん残っている。でも、釣りをやめ、バイクは売るという。釣具も売るという。仕事も増やすという。
父親は職人だから定年はない。家はあるけど古くて借地権。古いけど一緒に住めば家賃はかからない。
30になるのに親に寄生。稼いだ金を全部使い、家に１銭も入れていない息子。税金も年金も把握していない。選挙にいったこともない。
あなたとは性格が、生き方が違うの。絶対うまくいかない。
直すから、全部直すから、いやだよ。俺の子だ。大好きな、君の……４年も思ってきたんだ。夢のような……
借金は？
ないよ。オヤジには借りてる。少し。
いくら？ 返さないのね？
オレがだらしないとオヤジはボケないですむ……
呆れてものが言えない。父親は真面目だ。亡くなった母親を思い、酒が入るといまだに泣く。家の中のことは掃除も洗濯も……やらせてるの？ ボケないように？
過去にも妊娠させたことあるの？
ないよ。
過去は？ 過去はどうでもいい。私にも過去はある。
診断書見せて。感染症は？
家に行って父親に会った。こんなきれいな人が、と父親は喜んだ。家は古いけれど片付いていた。手作りの椅子や棚があった。仏壇には新しい花が備えてあった。低姿勢で、父親が茶を入れてくれた。私のために有名な店の最中を買っておいてくれた。私は弱い。自分のためにしてもらった経験は少ない。父親は私に似ていた。他人にも息子にも利用されているのだろう。
バイオリンの発表会に出た。グループで演奏した。ロングスカートに白いブラウス、舞台で正面の席など初めてだ。習い始めて１年も経たないのに熱心に練習した成果。華やかな舞台。
私の観客は……ひとりだけ。恥ずかしいから来ないで、と言ったのに。彼もこんな場所は初めてなのだろう。自分で買いにいったのかいつもと違う服。私が先輩にプレゼントしたブランドのものだ。高かっただろうに、店員に勧められるままに買ったに違いない。
手には花束……演奏のあと、他の観客を真似て彼は花束をくれた。花をプレゼントされるなんて初めての経験。素敵な花束だった。奮発したのだろう。節約しなければならないのに。センスの良い素敵な花束だった。
恥ずかしいから来ないで……あなたを見られるのが恥ずかしかった。ごめんなさい。あなたはわかっているのね。素敵よ。はにかむ顔が素敵だわ。恥ずかしくなんかない……
私は結婚した。結婚式はあげなかった。これから金がかかるから、と。両親には家に連れて行き１度会わせただけだ。兄の結婚式とマンション購入の援助で私の分は残っていない。
４年間、家に入れていた金を、もしかしたら貯めておいてくれてるかも……なんてことはなかった。期待はしていなかったがむなしかった。
しかし、なぜ？ 望まれなかった子なのか？ 私は？ 私にかわいげがなかったからなのか？ 無邪気に甘えれば違っていたのだろうか？
義父は喜んだ。やがて生まれる孫のためにベビーベッドを作ってくれる。待ち望まれている子供の名を考える。
義父は金をくれた。息子が貯金もなくて申し訳ないからと。その金で水回りをリフォームした。母親が花が好きだったので小さいが庭ある。義父は野菜を作っていた。手のかからない人だ。つわりで辛いとき、出産前後の辛いとき、息子より気を使い動いてくれた。
義父のことは信じる。夫のことはわからない。用意はしてある。自分の貯金は手をつけていない。いつでも捨てる用意はできている。実家には戻らない。
４ 軽薄な男
テニス部のＯＢ会で『おまえ』が結婚したことを聞かされた。別れた翌年だ。
子供ができて結婚式もあげていない……？
あの真面目な『おまえ』が……
『おまえ』が別れ際に言ったことは嘘だと思っていた。冷静に考えてみればわかったはずだ。二股をかけるような女ではない。
当時家庭教師をしていた小学生の菜穂のために、『おまえ』のことをおろそかにした。話していればよかった。
なぜ話さなかったのだろう？
おろそかにしていたのだ。軽く見ていたのだ。放っておいても、待っていてくれると。
感謝も謝罪もたくさんあったのに、口に出さなかった。そのためにいちばん大切な女を失った。それもひどい別れかただった。
おとなしい女が怒りをぶちまけた。
「何度も踏みにじった。真心を。愛を……」
それでも言い足りなかっただろう。
「薄っぺらい人、軽薄な人、軽薄なひと……」
二股をかけるような女ではない。別れたあとに出会ったに違いない。バカな『オレ』を忘れるために結婚したのか？
しかし相手の男は幸せだ。
いい母親になるだろう。つねに自分のことより相手のことを考えていた。だからそれに甘えた。
おとなしく控えめで……
１年と少ししか経っていない。やり直せるかも……なんて思っていた。
ああ、『オレ』はバカだ。
本当に愛していた。
ひとつ年下の女、Ｈ高に入学してきたときにテニス部に勧誘した。『おまえ』はいつも『オレ』を見ていた。葉月先輩を恋する『オレ』を。
夏生と付き合ったときもなにも言わずに見ていた。
その次はもっと残酷だった。『おまえ』の前で見せ付けたのだ。あの婚約者のいる乗馬服の女に魅せられて夢中になった。ひどい男だ。
それでも『おまえ』は……
未練……
幸せなのか？
和樹は営業マンを装い家のそばを歩いた。
見れば『おまえ』にはわかるはず。ひとめでわかるはず。
古くて小さな家だ。旦那の父親か？ 庭で作業していた。ベビーベッドを作っている。そこへ『おまえ』だ。
おとうさん、休んで、
と、茶を持ってきた。
大きなおなかは見たくない。
２年の間、『おまえ』は『オレ』のものだった。
しっかりした女だった。妊娠を恐れていた。厳格な家庭の娘だと思っていた。決して泊まっていくことはなかった。
その女が妊娠して結婚……？
ふたりはベンチに座り子供の名前を決めていた。懐かしい声が話している。義父は幸せそうだ。生まれてくるのは、女の子か？
『おまえ』は子供の名付けさえ義父に従った。なぜ自分の意思を通さない？ なぜいつも従順なんだ？
幸せなのか？
幸せなのだろう。声が弾んでいる。
里帰りしないのか？
と聞かれ、否定している。口ごもり。
実家には帰らない……
ここがおとうさんとハジメさんと、私とユウコの家だから……
和樹はその場を立ち去った。完全に過去になった。
幸せに……
無事に出産するように。
もう涙は見たくない。悲しみはいらない。
幸せに。
皆が幸せに。泣いた女が皆幸せになるよう……
名も知らぬ人妻もいた。皆泣いた。
『あの女』も『あいつ』も和樹の前では勝気な女が泣いた……
先輩……先輩はつかみどころのない女だった。
「女は顔だものね」
別れる前に『おまえ』に言われた。先輩に惹かれたのは顔か？ そうかもしれない。
テニス部の夏の合宿、肝試し。
あみだくじで当たった相手が先輩だった。男子に羨ましがられた。
初めて先輩とふたりだけで話した。
「先輩は霊とか信じますか？」
「……いつでもそばにいてくれ。どんな姿でもいい。俺をいっそ狂わせてくれ！ おまえの姿の見えない、こんなどん底にだけは残していかないでくれ！」
いきなりのせりふ。
「な、なんですか？ それ？」
「教えない」
「いじわるですね。いいですよ。調べるから」
「あなたはピアノやってたんでしょ？ テンペスト弾ける？」
また、いきなり……
「先輩は？ 習ってるの？」
「すぐやめた。ハノンやりながら寝てたら母が呆れて」
この女は２歳年上には思えない。かわいくて抱きしめたくなる。しかし、Ｈ高の男子は皆知っている。先輩が好きな男はＨ高の伝説の男。音楽室に写真が貼ってある。音楽の女性教師も彼のファンだった。
文学好きなクラスメイトに答えを聞いた。
先輩に言うとアドレスを教えてくれた。
cathy……@
それからは毎日メールした。返信してくれるのが嬉しかった。
話題は部活のこと。
趣味は？
読書
なるほど。
太宰治
カミュ？
詩はゲーテ あとはマンガ……ホントはマンガばかり……
やがて、卒業式。
和樹は告白した。返ってきた言葉は、
「売春」
「？」
「してるの」
「！」
「バイト先に来て、娘に選んでほしいってマフラー選ばせて私にプレゼントしてくれた。父だと思ってたの。私の本当の父親が探してくれたんだって。いろいろプレゼントしてくれて、小遣いもくれ、勉強できる部屋も借りてくれた。名のれないけど父だと信じていた。抱かれるまで」
「な、なんのマンガ？」
「脅されてるの。言うこと聞かないとばらすって。助けて」
「冗談やめてくれ」
信じない。いや、信じた。先輩の告白を。信じて逃げてきた。あんな清純そうな顔をして……嘘だ。ありえない。
いや、先輩は被害者だ。卑劣なのは男のほうだ。
この思い、許せない。あんな無垢な女が……
嘘だ。嘘だ。バイトしてるって？ いつ？ 部活と受験勉強でそんな暇なかったはず……
嘘だ。また、なにかのセリフだ。『オレ』を試したんだ。それとも？
……だから、あの伝説の男をずっと片想いしているのか？ 告白もできずに。
それともあの男にも助けを求めたのだろうか？ いや、絶対に知られたくないはずだ。愛しているのなら……
殺してやるから教えろよ。男はどこにいる？
犯罪者になるの？ 私のために？
ああ。今日殺す
駅で待ってて
本当か？ 本気か？ 引っ込みがつかない。
先輩は手をつないできた。歩いて小さなマンションの前で止まる。
「308よ」
エレベーターが降りてきた。引っ込みがつかない。乗り込んだ。先輩が手を振った。容赦なく上昇。どうする？
ドアを叩いて……逆にやられる。やられてもいい。傷害で訴えてやる。先輩のことは話さない……
しかし、小さなマンションに308号室はなかった。
降りていくと先輩は抱きついてきた。
「いい人ね」
「嘘なのか？ 本当に脅されてたりしないんだな？」
「ごめんなさい」
勢いでキスしようとしたが先輩は避けた。
エントランスに人が入ってきた。先輩はもう１度手を取り、ふたりは夜の街を手をつないで歩いた。先輩は楽しそうだった。
あれは、なんだったのだ？ 試したのか？ 本気かどうか？ 合格だろう？ でもダメなのか？ ２歳年下の男ではダメなのか？ 伝説の男への想いがあまりにも強すぎて、他の男を受け入れることはできないのか？
メールは続いた。先輩はときどきテニス部に顔を出したがふたりで会うことはなかった。
やがて３年。
知ってますか？ 頬に傷のある男みたいなやつ。同じクラスだ
先輩は興味を持ったようだ。
きれいな子よね
きれい？ あいつが？
あの子は……三沢英幸の幼馴染み
初めてその名を出した。先輩の好きな男。
その日から頻繁にメールがきた。先輩は聞いてくる。クラスの様子。
感じた。知りたいのは、あの幼馴染みの様子。
斜め前の席だ。今日、制服のボタンを付けてもらった。見かけによらず器用な女だ
出てこられる？
会ってくれるのか？ ふたりだけで？
先輩はますますきれいになっていた。ふたりでパフェを食べた。幼馴染みのことを話すと喜んだ。『あの人』に繋がることはなんでも聞きたいのか？
先輩は和樹の口に付いたクリームをナフキンで拭いてくれた。
三沢英幸の幼馴染みは……
まさか夏生に夢中になるとは思わなかった。高校３年のクラス替え、斜め前の席に夏生がいた。話したことはそれまでなかった。頬に傷のある男みたいな女に興味はなかった。しかし、三沢英幸の幼馴染み……か。
その日、和樹の学生服のボタンが取れた。裁縫道具を持っていたのは夏生だけだった。夏生は和樹の上着のボタンをあっという間に付けた。
その日から夏生を観察した。ショートカットの男のような女がスカートを履いていた。筋肉質な脚は長い。
夏生は授業中も目立っていたが、体育の時間は更に目立った。女子は平均台をやっていた。夏生は台の上で側転……体操部か？
いや、確か吹奏楽部で歌も歌っていた。確かフィンランディアを美声で。合唱コンクールでは伴奏した……
ドリーが……病気で留年したドリーが夏生を見ている和樹を見た。軽蔑した目で。
ああ、この間まで葉月先輩を思っていた。恋焦がれ告白してふられたんだ。
葉月先輩の好きな男は夏生の幼馴染み。音楽コンクールで最年少で３位入賞。聴衆賞。ショパンのソナタ？
『オレ』も続けていれば弾けただろうか？
音楽室の中で誰かが弾いていた。木枯し、か？
弾いていたのは夏生だった。ドリーがそばで聴いていた。男みたいな夏生と、痩せ細ったかつてのアイドル、ドリー。魔性の女と、陰口を叩かれ女子には嫌われていたドリー。今はみる影もないが……おかしな組み合わせだった。
楽譜をめくってやると夏生は驚いたようだが集中力は途切れなかった。長い指が奏でた。
弾きたい、『オレ』も……拍手して聞いた。
「音大いくのか？」
ドリーが代わりに答えた。
「いきたいのは服飾学校」
意外だった。いや、納得した。
葉月先輩は『あの人』のことを知りたくて、和樹に会う。『あの人』のことならどんなことでも知りたくて……
だから夏生に近づいた。気があるふりをしてアドレスを聞いた。メール攻め。返事はすぐに返ってきた。男みたいな夏生が和樹を意識している。
ドリーが『あの人』に勉強をみてもらう？ 夏生の家で？
『オレ』も仲間に入れてくれ！
『あの人』のことを知るために葉月先輩は和樹と会う。『あの人』と繋がるために……
だから意地悪した。
『あの人』はドリーに急接近した。病気で留年したドリーを『あの人』が面倒見ている。勉強だけではない。『あの人』の別荘にも行った。ドリーは『あの人』の両親にも気に入られている……『あの人』は……ドリーと付き合っている。夢中だよ……
「あなたは、あの子に夢中なのね」
「……」
「無理よ。あのふたりは特別なんだから」
そう……夢中だ。先輩のことより夏生のことを考えている。男みたいな夏生は変わっていった。『オレ』のために。
『オレ』のためにか？
楽しい１年だった。いや、後半は辛かった。
夏生はもっと辛かっただろう。
和樹は愛した。捨て子の夏生を。いや、同情か？
いとしかった。涙まみれの夏生、涙まみれの、鼻水までいとしかった。
しかし……先輩の言った通りだ。
「三沢さんを愛してるんだな？」
『あいつ』は答えなかった。
「言ってやろうか？ おまえは捨て子だって。三沢家の嫁にはふさわしくないって」
頬の傷さえ隠さずに強く生きてきた女が泣いていた。
「友達で、……なんて言うなよ。別れてやるよ。いい人のまま別れてやる」
抱きしめて、別れのキス……それさえ夏生は拒んだ。
「忘れるなよ。おまえを、男みたいなおまえを女にしたのはオレだからな」
葉月先輩と会ったテニス部のＯＢ会。
和樹は悪酔し先輩に送られた。先輩はまだ『あの人』のことが忘れられない。
バカだ。バカな女だ。三沢には夏生の背後霊がついてる。
やめておけよ。もう……望みのない恋はもう諦めろ……
「美月」
「美月？」
「美月は今日もあなたを見てたわ。あなたは夏生を、夏生は三沢さんを、三沢さんは……
一瞬でいい。愛されたい。だって、あの人のおとうさんは……
私の母を愛してたのよ。英輔さんはママを愛していた」
５ 乗馬服の女
美月をテニス部に勧誘したのは和樹だった。
「かわいい子しか誘わないんだ」
褒めたつもりが、意外な反応をした。皮肉？ と目が言った。薄っぺらい男……と侮蔑の目つき。
思わず見つめ直した。頬が染まった。目は大きくはない。鼻筋は通っているが高くはない。唇は……口元はかわいい。肌がきれいだった。桃みたいな……
「かわいいよ。オレの目は確かだ」
美月は球拾いをしながら和樹を見ていた。最後の数分間、和樹は教えた。彼女を選んだのは地味で真面目だったからだ。変な噂がたち、先輩の耳に入るのがいやだった。
美月は真剣だった。運動神経もよかった。２回戦まで進んだ女子は彼女だけだった。しかし彼女は自慢はしない。目立つことを嫌う。褒めると恥ずかしがった。
部活のあと、皆で帰る。ほかの女子は冗談に笑う。コロコロ笑う。美月はいつも真面目で……重かった。女子にもそう思われていた。
真面目で几帳面な彼女は朝練にも１番に来る。サボることはない。コートの準備ができた頃、ほかの１年は来る。練習が終わったあとも皆が喋っている間に彼女は黙々とあと片付けをする。和樹は要領のいい自分の生き方を少し恥じた。
彼女はバレンタインデーにはチョコレートをくれた。ほかの女子たちと同じように。気があるのはわかっていたが、気が付かないふりをしていた。地味な彼女には……興味がなかった。
おとなしい美月は告白もしなかった。だから乗馬クラブで会ったときには驚いた。就職した彼女は薄化粧をしてきれいになっていた。
高卒なのに真面目な彼女は中堅の企業に合格し、その会社の馬術同好会に入っていた。和樹を誘った大学の馬術部の友人は、社会人の彼女たちを教えていた。
友人は美月に気があったんだ。和樹と違い女を見る目がある。だから和樹はつれなくした。
仲を取り持つよう頼まれたんだ。
あの日、馬術雑誌から抜け出たような女がクラブにやってきて、皆の視線を釘付けにした。確かにあの女の乗馬には魅せられたが、ああいうタイプは好きではない。濃い化粧、自信たっぷりの振る舞い……
あの女は馬に水を飲ませていた。
「アブネスヨ」
大声で言われた。怒られた。方言？
「後ろを通ったら蹴られるわよ」
今度は標準語で怒られた。思わず出たのか？ 東北弁か？
第１印象が崩れた。大きく崩れた。美月が走ってきて和樹の代わりに謝った。
（おまえがあの女の友達だなんて……正反対だ）
「彼氏？」
「高校の先輩です」
あの女はジロジロ見た。
（都会的で隙のない、ふたつ年上の女と、地味で……いや、きれいだ。清楚なおまえが友達？）
あの女が和樹を食事に誘った。美月と友人と。あの女の車で行った行きつけのレストラン。親の車か？ あの男が乗っていた車種、同じ色。
友人は美月を見ていた。和樹はあの女を見ていた。
あの女が店のピアノを弾いた。和樹は驚いた。久しぶりに聞いた。ベートーベンのテンペスト第３楽章。
葉月に弾けるか？ と聞かれた曲だ。彼は思わずピアノのそばに立っていた。女のくせに大きな手。弾き方があの男に似ていた。姿勢、視線、楽譜もないのに……
引き込まれた。拍手すると、
「ショシ」
「は？」
「え？」
女は笑う。
「田舎者だと思ってる？」
「と、とんでもない」
「恥ずかしい。よかった？ って聞いたのよ」
「よかったです。テンペスト好きです」
「んだ。あなたも弾けるの？」
「んだ。弾けません。弾けません……１番なら」
情景が蘇る。ベートーベンのピアノソナタ１番の第４楽章。
弾いていたのはあの男だった。そばにドリーが。和樹の横にはあいつがいた。
弾きなよ。和樹も。
冗談言うなよ。弾けるわけないだろ……
弾けるわけないだろ、あの男のあとに、なんて……
あれから練習していたんだ。あのスピードは出せないが……
終わると皆が拍手してくれた。テーブルに戻ると、友人は褒めたが美月はなにも言わなかった。あの女が言った。１文字。
「け」
自分で言って自分で笑う。
それから……あの女とピアノの話をするのは楽しかった。もう方言は出さない。
美月も楽しそうに友人と話していた。あの女には田舎に婚約者がいた。別にどうでもいい。友人の恋を成就させるために婚約者のいる女を好きになったフリをした。
あの女はトイレに行き会計を済ませていた。３人で少しばかりの金を出すと、受け取った。どうでもいいのだろう。
美月はあの女に旅行に誘われていた。あの女の故郷。父親の経営している乗馬クラブで特訓してくれると。あの女は和樹も誘った。
ホテルで婚約者に紹介された。年上の、いい男だった。用意してくれた部屋は安いのに最高の部屋。美月は隣の部屋。
婚約者も交えて夜遅くまでホテルのバーで飲んだ。あの女は婚約者の前でも和樹を見ていた。あの女は親の決めた婚約者を嫌っていた。だから年下の男に気のあるフリをした。それくらいわかっていた。
４人で馬に乗った。よその大学生も合宿に来ていて、大勢で飲んで騒いだ。美月はそこでもチヤホヤされていた。あの女といると美月の清純さが引き立つ。
変わるものだ。社会人になり、仕事にも自信がついたようだ。真面目な女は仕事でも頑張っている。
朝、食堂に女ふたりが入ってきた。美月は念入りに化粧をし、雑誌から抜け出たような女になっていた。隣に素顔のあの女。
驚いた。素顔のあの女は……あの女は和樹を驚かす。そのあたりから、和樹の気持ちは動いた。いや、もっと前だ。でなければ来なかっただろう。
初めて会って方言を聞いたときから惹かれていた。あの女は清楚で可憐だった。和樹は交互に見つめおかしくなった。たいていの男は化粧で騙される。婚約者は知っているのか？ この女の素顔と魅力を？
帰る前日の夜、３人で河原を散歩した。婚約者は仕事の電話をしていた。両手に花？ の和樹にふたりの不良が絡んできて、ひとりまわせ、とあの女をを連れて行こうとした。和樹はあの女の手をつかみ放さなかった。何度か殴られても守った。
先輩……先輩のためなら……先輩はあの男を愛している。かなわない。
夏生……おまえなら……おまえなら自分で切り抜けるだろう。長い足で回し蹴り。逃げられたら追いつけない。
いや、夏生はこんな目には合わない。あいつの頬の傷、あの傷を見たら……
オレだけだ。あいつを愛したのは……いや、あの男……ああ、あの男なら回し蹴り……
いや、回し蹴りが得意なのは……
少女だ。誰だ？ ダンスの上手な少女。足が高く上がった。
おにいちゃんは女装したの……
教えてもらった、回し蹴り。変な兄妹。母親の違う……兄は恋仇、負けた。大嫌いだ。
妹は……オレに懐いた。かわいかった……
オレも兄貴が欲しかった。教えて欲しかった。回し蹴り。あの男なら守るだろう。
ああ、武道を習っておけばよかった。空手か柔道……ボクシング……
意識が朦朧とし気がついたらホテルの部屋のベッドで寝ていた。看病してくれたのは美月ではない。あの女は、弱いながら必死で守ろうとした彼に謝った。謝った。
翌日の朝、美月が帰ったことを知った。仕事があるから予定通り『おまえ』は帰った。ひとり、電車で。メールをしようとして……やめた。
『おまえ』には友人のような誠実な男がふさわしい。
（オレのことは、愛想を尽かして忘れてくれ）
由佳は積極的だった。命がけで守った和樹の株は急上昇した。彼も由佳にどんどん惹かれていった。化粧を落とした素の女に夢中になった。
地方の金持ちの婚約者のいる女。贅沢な部屋。電子ピアノが置いてある。
「オレも来年からひとり暮らしするんだ。これなら夜でも練習できるな」
「じゃあ、プレゼントするわ。私は卒業したら田舎に帰るから」
「もらえないよ。こんな高いもの」
「どうせ処分していくから。住所教えて」
金に不自由しない女の部屋で酒を飲んだ。婚約者も来るのだろう。ダンベルが、６キロのダンベルがあった。
あの、長身の体格のいい男っぽい婚約者に抱かれている由佳を想像した。
浮気な女は誘惑した。
「婚約者がいるんだろ？」
「圭ちゃんが欲しいのは私の家と財産」
「そんな男にはみえない」
「圭ちゃんは壊したの。私の初恋を容赦なく。あなたの親にも言うかもしれない。婚約者のある女と付き合わせるなって。どうする？」
「捨てろよ。婚約者も家も」
「家も財産もない田舎者でいいの？」
「んだ」
笑ってキスをした。初めてだ。酒臭いキス。いや……こんなことがあったような……
「あの人を……」
酔った由佳が話す。
「こうやって誘惑したの」
由佳は服を脱ぐ。
「誘惑したの。どうしたと思う？」
トレーニングを欠かさない女の見事なプロポーション。理性はぶっ飛んだ。誘惑されたら突っ走る。
「あの人はトイレに逃げたの。下痢してるって。トイレに閉じこもったのよ。私が疲れて眠るまで……」
そうすればよかった。
絡みついてくる腕を振りほどき、トイレに逃げればよかった。
誘惑したのは由佳だ。酔った由佳は詩を口ずさんだ。
「自分の愛しい命を振り捨てるほど私を愛してくれるのは誰だろう？
私のために海に溺れて死ぬものがあれば、そのとき私は石から解放されて、命へ、また命へと立ち帰っていくのだ……
そんなにもにもざわめく血に私は憧れている。
石はあまりにも静かだ。私は命を夢見る。
誰も私を蘇らせてくれるための勇気を持つものはいないのだろうか？……暗記してたんだけどな」
「ゲーテか？」
「リルケよ。あの人が好きだった」
「んだ」
「笑わせないで。好きよ。命がけで助けてくれた」
避妊具まで用意していた年上の女。
由佳は詩のヒロインになりたかったのだ。運命には逆らえないが……
和樹をリードした女がベッドで泣いた。
「命を捨てるほど愛してる……」
感激して言った。互いに初めてだった。初めての相手。由佳はベッドの上で泣いた。
愛しているからだと思った。幸せなのだと思った。
素晴らしい夜だった。その夜だけ由佳は和樹のものだった。
次の日から由佳は拒否した。拒否して白状した。不良に絡まれたとき、和樹がどうするかを観察していた、と。
由佳を守るか自分を守るか。受けたダメージまで観察していた。
和樹を助けたのは美月だった。携帯で助けを呼ぼうとし、もうひとりの男に携帯を奪われそうになり、逆襲した。和樹を守るため。
彼女は由佳に習ったばかりの護身術で襲ってきた男の指を折った。
圭介が走ってきて、男たちは逃げていった。
かよわい『おまえ』 がオレを助けた？
「嬉しかった。守ってくれて。いつ放すか見ていたの。死んでも守ってくれたわね」
信じられない彼に由佳は証明した。６キロのダンベルを軽々持ち上げる。
怒りが彼を暴走させたが、無理やり抱こうとしてもかわされた。
「やめてよ。傷つけたくないの」
「ふざけるな」
ボクシングを４年もやっている女は強かった。指１本ふれられなかった。別れの乾杯をさせられた。身勝手な女。
「忘れないよ。忘れない。別れのキスを。いいだろう？ それくらい？ ほかになにかできるか？ オレがおまえに？」
目を閉じた女の唇に触れ、押し倒し両腕を押さえつけた。彼も鍛えていた。あの日から。
しかしそれ以上は無理だった。このあいだは愛しあったのに。なぜこんなことに？
和樹は由佳の上で婚約者に電話し、携帯を由佳に渡した。
婚約者が出て和樹の名を呼んだ。
由佳が喋った。
「なんでもないの。一緒よ」
「人の携帯からかけてくるな。せいぜい楽しめよ」
婚約者は怒って切った。
「おまえはオレのものだ。そうだろう？」
由佳には恐怖だ。年下の男の思い、愛は重荷。
「圭介さんを愛しているんだな？」
「……」
「答えろよ。そうしたら諦めてやる」
由佳はうなずいた。
どうしてこんなことに？
由佳は謝り続けた。年上の女は謝り続けた。
ごめんなさい、ごめんなさい、美月……
由佳は田舎に帰ったのだろう。電子ピアノが送られてきた。圭介と結婚するのだろう。
回り道してようやくたどり着いたのか？ 愛する男の元へ。
６ おまえ
回り道。
１年経った。『おまえ』にひどいことをしてから１年……
『おまえ』にとっては腐れ縁。もう懲り懲りだろうに。
それでも『おまえ』は来た。年に１度のテニス部のＯＢ会。
もう、自惚れはしない。『おまえ』が来るのは『オレ』に会うため……
なんて、もう思わないが……来てくれて嬉しかった。
おまえは無視していた。無視して飲んでいた。注がれるままに。
男たちがきれいになったおまえに酌をする。おまえは乱れない。由佳とは違う。
いや、少し酔った。トイレに立つときよろけた。
オレは支えた。オレは女性のトイレの前で待ち、また支えた。おまえは初めて恨みがましいことを言った。
「由佳さんはどうしたの？」
「彼女は圭介さんを愛してた」
「そんなの、あたりまえじゃない。フラれたの？ 先輩？ いい気味だわ」
おまえを家まで送った。タクシーで。家に入るときにおまえは言った。
「先輩、覚えてる？ テニス部に入った夏休み、Ｏ先輩の家で集まって飲んだときのこと？ 先輩は酔って私にキスしたのよ。覚えてないでしょ？」
ドアは閉められた。
夢だと思っていた。おまえにキスしたのは夢の中だと……
家の前の公園のベンチに座った。おまえの歳くらいのおまえの家。小さな花壇に暑いのに花が元気に咲いていた。親もきちんとしているのだろう。２階の部屋に灯りがついた。
窓を開けてくれ。窓を開けてオレを見てくれ。
軽い男だ。風で飛んでいる紙のように薄っぺらい……
次の日電話をするとおまえは出てくれた。冷ややかな声だったが……おまえは許した。
おまえはなにをされても許すのか？
オレたちは恋人同士になった。ようやくたどり着いた。おまえの元へ……おまえはオレが恋した女を３人も知っている。
オレたちは映画を見て遊園地に行った。おまえは金を出そうとする。
「オレだって、バイトしてるから」
やがておまえはオレの部屋に来た。置いてある電子ピアノが由佳のものだとは知らない。おまえのために由佳のピアノで弾く。
「私も習いたかった」
おまえは習い事をしたことがない。塾にもいかなかった。
いかなくても成績はいいし、泳げるし、テニスもうまくなったでしょ？
と、珍しく自慢した。
ピアノを教えてやる。指使い、和音、リズム……おまえは夢中になった。覚えるのが速い。
おまえは冷蔵庫にあるもので料理をした。ろくなものはない。ラーメンくらいしか作らないのだから。
玉ねぎを刻み長い時間炒めていた。炒めながらオレに米をとがせた。とぎ方を教えた。
オレが炊いたご飯があんなにうまいなんて。
硬くなったパンと、古い粉チーズで作ったオニオンスープ。オムレツに、キャベツとにんじんだけのサラダ。ドレッシングなんて買ってない。おまえは魔法のように味付けをした。
古い昆布茶と酢と、健康のために飲んでるオリーブオイルで。褒めるとおまえは照れた。
母が倹約家だから……兄にはお金使うけどね……
部屋を掃除して洗濯して買い物に行った。オレは学生。おまえはボーナスが入ったＯＬ。おまえはカードで支払った。オレは甘えた。
オレのために高いコーヒーメーカーを買った。堅実な女は水道の水さえ無駄にしない。
オレは注意された。ティッシュの枚数。エアコンの温度まで。ケチなわけではない。誕生日にはプレゼントをくれた。ブランドの高いパーカー。
ボーナスの額を聞き驚いた。おまえは堅実に資格を取っている。簿記、経理、パソコン……社会保険労務士の勉強もしている。
洗い物をしているおまえをうしろから抱きしめた。
「護身術習ったんだろ？ こういうときはどうする？」
「由佳さんはひどい。先輩が殴られるのを見てた」
「おまえが助けてくれたんだな。度胸あるんだな」
「ひどいよ。先輩は。私がずっと好きだったの知ってたくせに」
ワインを１杯飲んでいたおまえは珍しく感情を表した。おとなしい女がオレを責めた。
驚いた。おまえには敵わない。あなどれない。
２度目のキスをした。４年ぶりのおまえとのキス。
「お酒臭い。あのときと同じ……」
３度目のキスをして抱き上げた……おまえは抵抗しなかった。
薄明かりの下でおまえはオレのものになった。
回り道をした。バカだった。いつでもおまえはオレを見ていたのに、オレはよそばかり見ていた。
おまえは尽くしてくれた。おまえは尽くしてくれた。こんなオレに。おまえだけは失いたくない。おまえはオレだけのもの。
毎週休みの朝早くおまえは部屋に来る。テニスラケットを持って。母親への言い訳に。
焼きたてパンを買ってくる。合鍵でドアを開け、オレは寝ているフリをする。コーヒーを挽く音でおまえは起こす。
パンが冷めるわ……
パンより食べたい……
食べられるためにおまえはシャワーを浴びてくる。いい匂いがした。
ラベンダー……ミサワのボディソープ、人気なの……
ミサワ？ 三沢英幸……葉月も夏生も愛したあの男の……憎らしい香り。
「先輩、乱暴にしないで」
「どうしてほしい？ 言えよ」
「……電気、消して……比べないで……」
比べないで……葉月や夏生と……そう言ったのか？
比べられていたのはオレのほうだ。比べないでくれ。あの男と。
暗闇の中でおまえに謝った。
「１番大事しなきゃいけなかったのに、ごめんな……」
おまえは泣いて、震えて泣いて、子供のようにしゃくり上げた。
「もう泣かせないから。大事にするよ。もう泣くな」
電気をつけると、おまえは毛布をかぶる。コーヒーを入れ、温めたパンをベッドで食べた。おまえの頬は紅潮していた。服は着せない。すぐ脱ぐんだから……
ヨーグルトをおまえの胸に垂らす。それを舐める。おまえは恥ずかしがる。恥ずかしいと言うとオレは罰を与える。おまえは自分の魅力に気づいていない。
誰も気づかなくていい。
おまえと連弾する。おまえはメキメキうまくなる。練習熱心だ。
ヘッドホンをし、オレをそっちのけで弾いている。オレはピアノに嫉妬し邪魔をする。おまえに悪戯する。
努力家だ。テニスもそうだった。勝ってもおまえは自慢をしない。知識をひけらかさない。
話しているとわかる。オレは知ったかぶりをし、あとで恥ずかしくなる。おまえはそれさえ気にする。オレに恥をかかせない。悪口を言わない。
オレはおまえをやり込める。強く言うとおまえは黙り込む。従順だ。いつでもおまえが正しいのに。だから謝るのはいつでもオレだ。オレは抱きしめて謝る。おまえはいつでも許してくれる。
まだ、言わないが、オレは貯金を始めたんだ。おまえと結婚するために。いつかおまえの喜ぶ顔が見たい……
そして結婚式にふたりで弾こう。エルガーの『愛の挨拶』
美月、美しい月、穏やかな安らぎ。
母親の話をした。家族のことは滅多に話さない。おまえは母に愛されていない、と嘆いた。兄には甘いのに私には……
「母親には男の子は特別だからな。甘やかされると、オレみたいになる。おまえをこんないい女に育ててくれた」
母は喜ぶだろう。おくゆかしい娘だと。姉達は驚くだろう。オレが選んだおまえを見て、オレを見直すだろう。
おまえは恥ずかしがる。もっと、もっと話せよ。話してくれ。おまえのこと。オレはなにも知らない。
知りたい。もっともっとおまえのこと。恥ずかしい……おまえの口癖。オレはもっと恥ずかしいことをしたくなる。
おまえはオレを酔わせる。白い肌の奥深く……満ち足りた時間。続くと思っていた。ずっと続くと思っていた。
おまえが離れていくなんて想像もしなかった。おまえだけはオレのものだと思っていた。おまえはオレだけのものだと……
ああ、未練がましいな……
７ 伝説の先輩
その日は急いでいた。優子を自転車のうしろに乗せて急いでいた。車と接触したのは私のほうだ。ブレーキを直しておくべきだった。支えきれずに倒れた。
車から男が降り、優子を抱き上げた。
「すみません。急いでいたので」
私は謝った。ぶつけられても謝っていたかもしれない。優子は膝を擦りむいていたが泣きもしなかった。
私は娘を乗せて走り出した。義父がデイケアから帰ってくる。幼稚園の話し合いで遅くなった。車の男がなにか言ったが聞く時間はなかった。
デイケアの車は家の前で待っていた。何度も謝り義父を家に入れる。デイケアの車と入れ違いに、ぶつけた車が入ってきた。
「ごめんなさい。車に傷付けました？ 保険入ってますから……」
少し待って、と断り義父をベッドに寝かせる。男は庭で優子と話している。
「どこか打たなかった？ 痛いところはない？」
出ていくと男は頭を下げた。
「怪我はないですか？」
家に入れてダイニングルームで話した。階下の１部屋は義父の部屋になっていた。
「大丈夫です。優子はたいしたことないし、私は……」
自分は足に擦り傷。自転車はボロだから。
「悪いのは私のほうですから……でも明日になって診断書出して治療費出せって言ったら？」
「それが普通でしょう？」
そこで初めて男の顔をしっかり見た。乗っていた車、着ているスーツ、雰囲気から素敵だとは思ったけど、顔は……
美形はきらいだ。中身を知ればがっかりするから。でもこの男は？
外に出て見送った。
「畑やってるの？」
「義父が好きだったから」
男は名刺を置いていった。私は知っていた。話したこともある。聞かれた。
「前に会ったことない？」
と。
覚えていないのだろう。
三沢英幸、Ｈ高の伝説の先輩だ。
音楽室に写真が貼ってあった。卒業したあとも。ずっと。
ピアノコンクールで入賞した人だ。
先輩と話していた人だ。私を誰かと間違えた……
名刺を見た。株式会社ミサワ。
次の日の夕方、菓子折を持ってやってきた。自転車代で示談に、と。恐縮して少し話した。
娘が優子の幼稚園と同じだと。
「入園するんだ。よろしく、優子ちゃん。早夕里っていうんだ。わがままだけど仲良くしてあげてね」
幼稚園が始まった。優子は年長組になった。
高級車から降りた母娘。垢抜けた母親には見覚えがある。
あれは……先輩が夢中になっていた女、橘夏生。夏生の娘の三沢早夕里？ 三沢？ あの人の娘？
あの人の娘は大変だ。滑り台で順番を待てない。すぐ泣く。パパーっ、と。
迎えのとき、早夕里は優子に懐いていた。夏生が喜んで見ている。
「いいお嬢さんね、羨ましいわ」
影の薄い私を覚えてはいないのだろう。優子もおとなしくて目立たなくて人に利用されるようになる。今に私みたいに……
次の日、あの人が車で送ってきた。早夕里は優子のところへ駆けてくる。
挨拶した。
あずけたあと、あの人はわざわざ門の前で私を待ち、後遺症はない？ と聞いた。
迎えは早夕里の祖母が来ていた。私のところへきて、息子が車で……と謝った。似ていない母親は早夕里に自分を亜紀ちゃんと呼ばせていた。
途中まで歩いて４人で帰った。早夕里が、優子ちゃんと遊びたい、と愚図り亜紀さんが家に連れていった。帰りは送っていくから、と。
優子は喜んで亜紀さんと手をつなぎ私に手を振った。
義父はデイケア。久々のひとり。
私は思い出した。橘夏生と先輩のこと。夏生のことはきらいではなかった。頬に傷があっても素敵な人だった。
憧れたものだ。吹奏楽部でクラリネット担当だったのに、フィンランディア讃歌を歌った。何人かが歌ったけれど夏生の高音の声がきれいだった。
この人、女だったんだ、と皆を納得させた美声。そのあと先輩と恋をして彼女は驚くほど変わっていった。
先輩、先輩もたいしたものだわ……
亜紀さんが優子を送ってきた。夏生が作ったというニンジンケーキを持ってきてくれた。
私もケーキは得意だけれど味が微妙に違った。
違うはずだ。材料が違う。ケーキ用マーガリンではなくバターだ。卵も小麦粉もスーパーの安いものではないのだろう。私も先輩のために作るときはそうしていたのだ。
３日間、妻は仕事だとかで父親が送り亜紀さんが迎えにきていた。妻の仕事のために夫も義母も協力している。
亜紀さんは帰りに優子を家に連れていく。早夕里と遊んでくれると楽だからと。帰りは犬の散歩がてら送ってくる。
優子は早夕里を羨ましがる。大きな家に広い庭。たくさんのおもちゃ、欲しがっていた人形。かわいい小犬。優しい祖母……
バザー。手作りの人形の服。私も手芸は得意だが夏生の作ったものは素晴らしくたちまち売れた。
なにをやってもかなわない。
「嫁はプロだから」
夏生は舞台衣装を作っているという。
土曜の父親参観。夫は子煩悩だ。亜紀さんに素敵なパパね、と褒められた。
素敵？ この人が？
背は高い。体格はいい。生まれつきのものだ。色は黒い。そして歯が白いから確かに素敵かもしれない。幸せそうだ。
あの人が来て挨拶をした。先日は怪我をさせて……と。礼儀正しい男は優子を連れて行った。
義父もデイケアでいない。布団を敷いて愛し合う。
三沢さん、素敵だわ、と嫉妬させる。
幸せを感じる。自分なりの幸せ。
古い家でも義父の介護をしていても、自分の親には愛してもらえなくても、あんな魅力的な義母はいなくても、ケーキにバターは使えなくても……
幸せだ。こんなに愛されてる女はいないぞ、と夫が言う。そのとおりだと思う。この家では私は女主人。夫はすべて任せてくれる。私の思うようにさせてくれる。
こんなに満たされている。
母は……父と母は冷めていた。遠い昔から冷めていた。母は１階の和室で寝ていた。仕事が不規則だからだと思っていたが、父は……
裏切ったのだ。母を、たぶん。
美しくもなく、真面目で堅実で倹約家の自分そっくりの損ばかりしている母。家のローンのために介護士の資格を取り夜勤もした。その母を父は裏切った……
母の愛は兄に向けられた。母そっくりの性格の私を、疎ましく思ったのだ。
インターフォンが鳴り慌てて降りていくとあの人が立っていた。庭でバーベキューやるからどうですか？
妹と彼氏も来てるんだ。
断り、庭の茄子とトマトを切って渡した。
あの人の頬が赤かった。なにをしていたのか、気づかれている……？
恥ずかしくて鏡を見た。上気した顔がきれいだと思った。初めて自分をきれいだと思った。
幸せは簡単に壊れてしまう。私の心は壊れた。初めて訪ねた三沢邸で先輩の写真を見た。
亜紀さんに誘われ義父がデイケアから戻るまで、優子と三沢家を訪れた。
広いリビングルームに素敵な家具。写真がたくさん飾ってあった。早夕里の写真がたくさん。
その中にこの間のバーベキューの写真が。
「娘の彼氏なの」
亜紀さんのお嬢さんの彼？ あの人の妹さんの彼？
妹は若くて背が高くて宝塚の男役みたいに垢抜けていた。
目立つ女。先輩好みの……
三沢家の娘の彼氏は……先輩だった。
先輩と優子が並んで写っている……
私はトイレを借りた。取り乱すところを見られたくはない。
因果な縁。私は用事を思い出したから、と愚図る早夕里を無視して優子を連れて帰った。
封印していたセリフが何度も私をいじめた。
「おまえは都合のいい女だった。金はかからないし、タダでできたからな」
売り言葉に買い言葉だった。でも私が言ったのは真実ではなかった。先輩が言ったのは真実なのだ。
平静を保つ。三沢家の人とは距離をおこう。
優子に言い聞かせる。うちにはおじいちゃんがいるから遊びにきてもらえないでしょ？ 行ってばかりじゃ悪いからね。それに早夕里ちゃんも優子とばかり遊んでたら、年少さんのお友達ができないでしょ？
それとも、三沢さんちの子にしてもらう？ ママよりいいんでしょ？
優子は泣きながら母親の言うことを聞く。
運動会、夫と一緒に見ているとあの人が遠くから頭を下げた。亜紀さんが手を振った。隣に先輩がいた。遠目でもわかった。
私は下を向いた。その隣に背の高い女もいた。あの人の妹だ。
私は気分が悪くなったからと夫に任せて帰った。気持ちが不安定だ。めまいがした。先輩の言葉が容赦なく攻撃してくる。
おまえは都合のいい女だった……
怒りの矛先は弱くて優しい優子にぶつけられた。
おまえが三沢さんの家になんかに行くから……
介護の苛立ち。今までは感じなかった。義父は保険にも入っていたし貯金も思っていたより多かった。
民間の施設にはとても入れることはできないが。それに介護のために園児の親たちと付き合わなくてすんだ。ランチやお茶に誘われても義父がいるからと断ることができた。
長距離運転で留守がちの夫への苛立ち。私の負担を減らすために、いつかは施設に入れなければならない。そのために働いてくれているのに。
自分を下に見る女たち、夫の学歴や会社を自慢する園児の親たち。そして兄嫁。兄嫁はおさがりの服を送ってくる。
ブランドの服だ。私はもったいなくて買ってやらない。ありがたかった。ありがたかったが……明らかに洗濯していない。髪の毛がついていた。染みつきの服も入っていた。ポケットには汚れたティッシュが入っていた。
ひどい侮辱だ。あの義妹ならかまわないだろうと。母はうまくやっているのだろうか？ この嫁と。ブランドの服をこんなに買えるほど兄は収入が多いのだろうか？ マンションのローンもあるのに。
ああ、母が買ってやるのだ。優子には最低限のお祝いだけだった。実家には帰っていない。義父の介護があるから、と。
私は有名店の菓子を送った。かわいい服をありがとうございます、と手紙を添えて。きれいに洗い染み抜きして優子に着せた。喜ぶ優子が哀れだった。苛立った。
義父が優子という名に執着した。女の子がいたら付けたかったらしい。優しい子ではなく優秀な子に。人より優れた女になってほしい。そう思い義父に従った。
優子は優しい。優しすぎる。
便秘で何度もトイレにいく義父に苛立ち、私は声を荒げた。
「いいかげんにしてください。パットにすればいいでしょ」
「おじいちゃん、かわいそう」
優子が私の服を引っ張った。ママ、やめなよ、と言うように。
思わず優子の頬を叩いた。
「かわいそうなのはママのほうよ。こんなに面倒みてるのに。自分を犠牲にしてみてるのに。だったらおまえがやりなさいよ」
ハッとした。義父のすまなそうな顔をみて謝った。
部屋にこもった。優子は泣きながら義父のおなかをさすっていた。
ハッとした。今のセリフは母が父に言っていた。
「かわいそうなのは私のほうよ。こんなに面倒みてるのに。だったらあなたがやりなさいよ」
眠る優子の顔をみて謝った。泣いて謝った。しかし同じことの繰り返し。義父に当たるわけにはいかない。優子の優しさが疎ましい。
「優しいだけじゃダメなのよ。強くなきゃ。他人のことなんか考えなくていい。やり返しなさい。ママを打ちなさい」
優しい娘にはできない。いらいらして優子の腕をつねり言葉で虐めた。
「おまえなんかいらなかった。おまえのせいでママはこんな苦労を。自由のない生活を」
８ 私の娘
夜、テーブルの上に手紙が置いてあった。
ままへ うまれてごめんなさい ゆうこ
優子はいなかった。慌てて探す。なんということをしてしまったのか……
優子は公園でブランコに座っていた。そばに、あの人が立っていた。
「犬を散歩してたらひとりでいた。暗いのに」
「ごめんなさい、ごめんね。優子、帰ろう」
家に戻り、泣いて抱きしめて謝った。
「おまえなんかいらなかった。おまえのせいで私はこんな苦労を」
母が昔、私に言ったことがある。どういう意味だったのか？
母に電話していた。助けを求めた。
疲れちゃった……
母は仕事の時間だからと聞いてはくれなかった。娘の必死の思いをわかろうともしない。
兄や兄嫁の頼みなら飛んでいくくせに……
しかし、母は夫に連絡をとってくれていた。
何も気付かなかった夫は私に謝り、休暇を取りしばらく義父をショートステイに入れてくれた。
台所に立ち魚をおろし、優子と食事の支度をしていた。
プレゼントの花束にケーキ。
ああ、誕生日だった。毎年もらっていた。
この人に花をもらうのは何度目だろう？
バイオリンの発表会、優子を産んだとき、毎年の結婚記念日、誕生日。
そのたびに私は口にも顔にも出さないが、もったいない、切り花はもたないのに……ケーキも作れば安いのに……と思っていた。
今年は涙が溢れてきた。あなたの真心は金では買えないものなのに……誕生日だ……幸せなのに…こんなに愛されているのに……
介護がなくなり楽になった。持て余す時間。よけいなことは考えないようにした。こういうときはスポーツだ。テニスの無料体験に参加した。なにも考えずにボールを追う。
しかし先輩の声が聞こえる。初めて声をかけられたときのこと。
かわいい子しか誘わないんだ……
何度もひどい思いをさせられた……
おまえは都合のいい女だった……
おまえなんかいらなかった、おまえなんかいらなかった……
幼稚園に迎えに行くと、あの人が優子の髪を撫でていた。早夕里を無視し優子の頬を撫でていた。
近づくとハッとして離した。
遊びにおいで、と誘われたが断って引っ張ってきた。
あの人の様子はおかしかった。夜の公園にいたのも考えてみればおかしかった。
また、妻の仕事の忙しい時期なのか、あの人の送り迎えが続いた。あの人は優子を待っている。手を振る。迎えに行くと聞こえた。
「優子、かわいいな。好きだよ」
私を見ると舌打ちした。
あの人の異様な行為はエスカレートしていった。犬の散歩をしている。家の前は私道なのに。
犬が泣くと優子は外に出ていき、あの人と話している。犬にさわらせ優子を抱き上げる。お尻にさわる。
「離してください」
「かわいいね。ほんと優子ちゃんは食べちゃいたいね」
優子が三沢にもらった携帯で話している。私が変わると舌打ちの音。
「変われよ。優子を出せ」
「警察に行くわ」
「どうぞ。僕の肩書、地位、地域への貢献度、警察はどっちを信じるだろうな？ 僕に相手にされないおかしな女が腹いせにおかしなことを言ってると思われるよ」
三沢英幸、ゲイだとか言われていたけど、ロリコン？
さらにエスカレートしていった。三沢は優子を勝手に連れて帰った。頼まれたからと。
彼の信用……確かに誰も信じないだろう。頼んでなんかいないと抗議しても。
家にいくと、庭で遊んでいた。犬と遊んでいた。
私を見ると優子を抱きしめた。返さないとでも言うように。私は三沢の足の甲を思いきり踏んだ。優子を奪い絡みついてくる指を逆側に折った。彼は悲鳴を上げたあと笑い出した。
「なぜそんな大事な娘に……」
亜紀が玄関から出てきて三沢の頬を叩いた。
「懲りない人ね。三沢家の恥晒し」
優子は女たちにひどい目に合わされた三沢を心配した。
「家庭はばらばら、仕事もうまくいってない。優しいのは優子ちゃんだけだよ」
亜紀は呆れて早夕里をつれて家に入った。
「僕はね、美月さん。僕は女の汚さを嫌というほどみたんだ。無垢な子供にしか興味がない。優子は心も無垢だ。やすまるんだ。頼むからふたりきりにさせてくれ……優子ちゃん、今度僕の別荘に行こうか？ きれいな湖があるよ。ボートに乗ろう」
ゾクっとした。異常だ。この男は。まさか優子を道連れに？
どうしよう？ 夫はいない。義父はショートステイだ。
夜は怖かった。あの男は家の周りをうろついているのではないか？
私が眠ったら優子は出ていくかもしれない。
私は電話をかけた。携帯の番号は削除していたが覚えていた。
「美月か？」
先輩は削除していないの？ それとも覚えているの？
「先輩？ お願い。助けて」
一気に喋った。
「家の外にいるかも。優子を連れていかれる」
「英幸さんがロリコン？ 君の娘を？」
「本当なのよ」
「ありえないね」
「亜紀さんだって知ってる」
「美月、亜紀さんに聞かれたよ。おまえになにをしたのか？ って。
家でオレの写真を見てから、運動会でオレを見かけてから、おまえがおかしくなったって。オレがなにかしたか？ 二股かけて振ったのはおまえのほうだ。ひどい言葉投げつけて別れていったのはおまえのほうだ」
「先輩はまたほかの女に恋をした。わかってたわ。いつかそうなるって。私はただの都合のいい女だもの。お金のかからないおとなしい女だもの」
「オレは本気だった。おまえのために、おまえと結婚するために貯金してたんだ」
「嘘よ」
「少ないバイト料から貯金してた。おまえを、おまえしか妻になる女はいないと思ってたからな」
「嘘よ。じゃあ、ナホって誰なの？ 寝言で言った。先輩は帰らなくなった」
「バカ、菜穂は10も年下だよ。当時小学生だ」
「……」
「家庭教師してた子だよ。心臓の手術するからそばについててやってた。願掛けしてた。成功するように。だから禁欲してた」
「どうして話してくれなかったの？」
「話したら、手術が失敗するんじゃないかって思ってた。おまえならわかってくれると思ってた」
「わからないわよ。なにも言ってくれないで」
「そうだよな。オレが悪かった。もう遅いけど。」
「……」
「美月、過去の話だ。オレは何度も恋したけど、愛したのはひとりだけだった。わかるな？」
氷解。氷が溶けていく音がした。
「菜穂はなんの因果か英幸さんの父親違いの弟と付き合ってる。子供を産めないから結婚しないと言ってる」
「三沢さんは、ロリコンじゃないのね？」
……なぜそんな大事な娘に？ そう言った。
なぜ大事な娘に悲しい思いをさせるのか？ と。
罰だ。私を罰し優子の力になっていた……？
「英幸さんもおかあさんもおまえのこと心配してる。優子ちゃんのことも。本気で心配してるよ」
「どうして？」
「好きなんだよ。おまえのことも優子ちゃんのことも。優しくて奥ゆかしくていまどき珍しい女性だと」
「恥ずかしいわ」
「……」
「先輩、恥ずかしい……」
「バカヤロウ」
「……」
「亜紀さんに言われた。手放した奴は大バカヤロウだと」
「‥‥先輩、最後に言ったこと嘘よね」
「決まってるだろ？ 通帳の写真撮って送ろうか？」
「……真剣に思ってくれてたのね」
「あたりまえだろ」
「私、優子にひどいことを……イライラして、ぶったり、ひどいことを言った。あの子を見てると自分を見てるみたいで。どうかしてたの」
「優子ちゃん、素敵なお嬢さんだった。本当におまえそっくりだよ。いい子に育てたな」
「優子は許してくれるかしら？」
「おまえなら許すだろ？ おまえは何度もオレを許した」
「……」
「優しい旦那に優しい娘。ふたりから聞いてるよ。おまえの旦那は幸せだって」
「……」
「もう、オレのことなんか忘れろ…… それとも、駆け落ちしようか？」
「……軽い男」
「じゃあ、切るぞ。いいママに戻れよ」
「さよなら。先輩」
先輩、私の青春のすべて……だった……いや、１番大事にしなければならなかったのは……
翌日幼稚園であの人は待っていた。子供を送ったあと話した。
「お芝居だったのね？ 私に罰を与えた」
「まさか和樹に電話するとは思わなかった」
「怖かった。優子を道連れに心中でもするんじゃないかって」
「悪かった。もう懲りただろ？ 僕は本当に訴えられるか、刺されるかも、なんて思ったよ。
はじめに気がついたのは母だ。母は観察力が鋭い。虐待された子を間近で見てたからすぐにわかった。僕も子供の頃、父からよく殴られた。
優子ちゃんは自分でぶつけた。自分で転んだ、とママを庇った。僕は君の家の外で聞いてた。おまえなんか生まれてこなければよかった……ああいうことを子供に言ってはいけない」
私の目から涙がボロボロこぼれた。
「僕は携帯を渡してたから電話して励ました。ママは、今、病気なんだ。心の病気。すぐ治るから、と。手紙を書かせて公園に連れ出して君を懲らしめた。
考えたよ。あれほど人のいい君が豹変するようなことは？
和樹だね？ 君はＨ高の後輩。美月さん、思い出したよ。君はずっと和樹を見ていた。美しくない月、と自分を卑下した。
僕と妻と母は君を尊敬してたよ。素晴らしい母親だ。君が羨ましかった。優しい子に育ててる。自分より早夕里のことを考えて自分は控えめで。早夕里も他の子も皆、他の大人もそうだよ。地球は自分中心に回っていると思っている」
「私だってそう思いたいわ。いつも脇役。ヒロインにはなれない。お人よしだから人に利用されてばかり」
「和樹には君は唯一の女だった」
「嘘」
「唯一、本気で妻にしようと思った人だよ。和樹の心にずっと住み着いている。彩がかわいそうなくらい……君を妻にした旦那は幸せだよ」
「……」
「君は愛されてる。美しい月だ」
私は赤くなった。
真昼間から娘をあずけて愛し合ってた。紅潮した頬、気づかれていた？
「あの人は妹さんと結婚するの？」
「どうだろ、誰かと駆け落ちしたりしないかな」
彼は笑った。私も声に出して笑った。
「優子は恨んでないかしら？」
「心配してるよ。ママが大好きなんだ。心の病気が治れば喜ぶだろう」
私は頭を下げた。義父に会いに行こう。明日帰ってきてもらおう。
謝ろう。夫には趣味だった釣りを……
「久しぶりに母を思い出した。祖父の介護をして、畑で、野菜作ってた。早夕里を見せたかった……」
氷解。またしても溶ける音がした。
母？ 私の実母は？
おそらく私を産んですぐに亡くなったのだ。母は不義の子を育てた。
認知の記録は本籍地が変われば消える。母に虐待された記憶はない。母は私を愛さないようにした。私を愛さないよう必死だった。
損な性格は母にそっくりだ。出産のときは分娩室の前で待っていながら、安否だけを確かめると顔も見ずに帰った。私が出産で命を落とすのでは、と心配だったに違いない。
私になにかあれば、あの人は優子を育ててくれたに違いない。お人よしで優しすぎる……
兄はおそらく知っていたのだ。知っていて、母に冷たくされる私をかばってくれた。兄は私にミルクを作り飲ませた。オムツも変えたという。
母への恨みは消えた。真実はわからない。母は父を捨てる用意はしていなかった。いや、捨てるために倹約し働いているのか？ 恨みは消えた。
真実は知りたくない。兄と兄嫁とうまくやってほしいと思う。孫に慕われてほしい。おそらく母の面倒をみるのは私だ。それでいい。用意はできている。
９ 私の娘 II
ここ数日……おへそが痛い。原因はわかっている。仕事のときに付けているゴムバンドのせいだ。蒸れてかゆかった。医者には行きたくない……
湯船に漬かり眺めた。
おへそに吸い込まれていく？
ああ、疲れているな。パートなのに正社員より動いている。
いい加減にはできない。安い時給でも。
頭が吸い込まれていく。おへその中に……おなかの中に……
誰のおなか？ 私自身か、それとも？
子が宿った。夫は言い争っていた。産むのはやめてくれ、と。土下座して頼んでいた。
もう、40歳だ。子はふたりいる。息子は大学に入ったばかりだ。金をかけた。かわいい長男には金と愛情をありったけかけた。10歳離れた妹は……
産むのはやめてくれって？
産むわけないでしょ。あなたの子なんて、２度と、２度と２度と……
息子が大学に入った。私は正社員になる。施設長も主任も歓迎してくれる。介護職は給料が安いがふたりで生活するには充分だ。大学の授業料は夫に出させる。
夫は覚悟しているはずだ。この日が来るのを。この家は私のものだ。慎ましく暮らしてきた。この家は私が探し何度も足を運び決めた。
夫は無関心だった。買う気などなかったのだ……
私の結婚前の貯金と、結婚してから生活費を切り詰めて貯めた金を頭金にした。夫とあの子には出ていってもらおう。夫は文句は言わないだろう。
あの子はもう小学校２年だ。幼いが家事は１通りできる。私がしつけたのだから。
まさかこの年になって妊娠？ ８年もレスだったのに。
この間、仕事の送別会でつい注がれて飲んでしまった。こんな地味な女を誘う男がいた。自慢してやりたくて……
８年ぶりに夫のベッドに潜り込んだ。
夫を取られた女……単身赴任させた私の罪なのか？
２度流産した私は転勤が怖かった。父が亡くなり母は私を頼りにしていた。息子はサッカーに熱中していた。中学受験にも備えなければならなかった。
夫は高卒だが大手の保険会社で真面目に働いていた。女子社員に人気があったが単身赴任を疑いもしなかった。
打ち明けられたのはあの子が生まれたからだ。女は産まない選択肢を取らなかった。時間が過ぎ早産……
あの子を産んだ母親は亡くなった。
別れていればよかったのだろうか？
当時息子とふたりで生きていく自信も意地もなかった。結局私は楽な道を選んだ。金銭的に楽な道を。
すぐに引っ越した。周りはあの子を実の子だと思っている。ふたりは父親似で疑いの余地はない。息子を産んだあと２度流産した私は、生まれるまで親には話さなかった……
８年の間、私はあの子を育てた。すぐに保育園に入れた。関わり合いは最小限に。怒りは湧き上がる。頬にふれ、撫でつねる。あの子は泣かなかった。私は強くはつねらない。叩かない。あの子は息子の幼い頃によく似ていた。
叩かないが……泣いても無視した。
息子があやす。抱いて子守唄を歌う。ミルクを作る。10歳の息子は算数が得意だ。きちんと計量できる。温度も正確だ。抱っこして飲ませる。ゲップもさせる。恐れ入る。
夜になるとベビーバスに適温の湯を張り私を呼ぶ。
息子は太陽だ。私は息子には優しい母親でいる。
おなかのなかでわたしはどんどん育っていった。産むことにしたらしい。夫はおなかを撫でる。
誰のおなかなのか？ 私か？ あの女か？
あの女と結婚して暮らしたかったのだろう。あの女の子供をふたりで育てたかったのだろう。
あの女の娘は皮肉にも私に性格が似てしまった。育ての母親にそっくりだ。おとなしく控えめで、いてもいなくてもわからない。
人には利用され、夫には尽くしても報われず浮気され捨てられる……寸前だった。
あの女が死ななければ、わずかな養育費で捨てられていたのだろうか？
夫も息子もあの子も、わたしが生まれるのを心待ちにしている。わたしが生まれる日は……あの女が死んだ日か？ あの子が生まれた日だ。
わたしが生を受けると母親は死んだ。私は死んだ。取るに足らない美しくもなく、いてもいなくてもどうでもいい女は死んだ。
わたしは病院にいたから葬式は知らない。夫と子供、親たちが泣いたかどうかも知らない。つまらない女は消えた。
私は悔いる。真面目に生きてきたことを。節約して貯めた金、人がいいから入らされた保険、夫は金には困らない。夫は長期休暇を取り育児に専念した。真面目な息子も協力した。あの子は……
あの子は私が死んだことを嘆いたのだろうか？ 愛されていないことはわかっていたはずだ。兄とは差別されてきた。兄はサッカークラブに入り高いユニフォームも買ってもらえた。
あの子は……雛人形も買ってもらえず、私が折り紙で作ったものを大事にしていた。習い事もさせてもらえず、かわいい服も着せてもらえず頼みの父親は単身赴任。
単身赴任ばかりだった。よその女に生ませた娘を私に押し付け無責任な男だった。
わたしは泣く。あの子があやすと余計に泣いてやる。あの子はソファに座りわたしを抱いて子守唄を歌う。知っている歌を次から次に歌う。いい声だ。
わたしが目をつぶるとそっと布団に寝かす。わたしはまた泣く。何度も繰り返し。幼いあの子の腕は痛むだろう。布団の上であの子も眠る。不憫な子だ。母親の愛情を求めても得られず…….
家族で順繰りにインフルエンザにかかったとき、１番先にかかり治ったあの子は皆の弁当を買いに行った。まだ小学校に入る前だ。熱の引かない私を心配し、何度もタオルを氷水で冷やし額に当ててくれた。寒い冬に冷たかったろう。幼い手で絞るのは大変だったろう。私は泣けて顔を背けた。あの子は傷ついただろう。
子育ては順調だった。母親は必要なかったのだ。夫と息子とあの子。絶妙なチームワークと愛情。わたしは病気もせずに育ち子供達の成長を見守った。息子は会計士の試験に何度も落ちたが、私の貯金と生命保険があるから勉強に専念し、30歳前にようやく受かった。受かった時にあの子は言った。
「おかあさん、喜んでるね」
あの子は息子に金がかかるから、塾へもいかなかった。いかなくても息子より成績がよかった。兄の古い参考書を読み自分で理解した。
部活は金のかからない料理部や手芸部。器用なあの子は大人顔向けの作品を作った。私の大事にしてきた家はあの子が掃除し手入れした。あの子が作るハンバーグは、
「おかあさんのと同じ味だよ」
と言われ涙ぐんだ。
私の小さな花壇にあの子はきれいな花を咲かせる。日の当たらない花壇の私の好きなクリスマスローズ。地味で下を向いて咲く花。冬に咲く花。あの子は図書館から本を借りて研究するから、可憐なクリスマスローズは寒さが厳しくなると可憐に咲く。
高校に入るとあの子は申し訳なさそうにテニス部に入りたいと言った。家事はほとんどあの子の役目だ。夫も息子も協力した。
私はピンときた。よほどの理由がなければあの子は自分の意思を通さない。あの子は恋をした。テニス部の先輩。女子に人気のある軽い男だろう。
若い男にあの子の魅力はわからない。若い男が好きなのはバラやひまわり。下を向いて咲いているあの子は相手にされない。
あの子は大声で笑わない。私がそうしてしまった。友達もあの子といてもつまらないだろう。あの子の良さがわかるのは辛く苦しいときだ。
やがて２人とも結婚した。息子の嫁は明るくて陽気で無頓着な女だった。家事はできない。息子のほうがうまい。それはかまわない。いろんな夫婦があるのだ。文句はないが……
嫁はわたしには優しかったが、あの子に対しては少し見下しているようだった。息子が話したのだろうか？ 日陰者だと。
嫁は自分の着なくなった服をあの子にくれてやる。ブランドの高い服だ。だが、明らかに洗濯していない。
酷い侮辱だ。それをあの子は、礼を言う。服を洗い染み抜きしのりをつけアイロンをかける。たいしたものだ。あの子は家事のベテラン。私に似て。家事と節約のベテラン。
あの子の夫は……最悪だった。高校中退。父ひとり子ひとり。貯金なし。おまえの貯金を出してはダメよ。いつか裏切られるかもしれない。いつでも捨てる用意をしておきなさい……
しかしあの子は幸せそうだ。男ふたりが住んでいた古くて小さな家をきれいにしていった。小さな庭で野菜まで作った。
あの子の夫は幸せだ。あの子も……満たされているのがわかる。
女の子が生まれた。名前は……旦那の父親が付けた。優子……その名に男は憧れるのだろうか？ 優子……あの子の母親の名だ。
あの子は幸せそうだ。肌が輝いている。名前の通り輝く。静かに穏やかに。あの子は幸せそうだ。
旦那の父親が倒れて、介護しなければならなくなっても。
わたしは年頃になっても異性にはひかれなかった。私はもう70歳だ。夫はもっと歳を取った。
ふたりには広すぎる家で夫と暮らす。ときどき夫はわたしを亡くなった妻と間違える。間違ってはいないのだが。
夫は仏壇の前で泣く。私の名を呼んで。許してくれ……と泣く。
病院のベッドで３人の子に看取られ夫は逝った。耳元で私は呟いた。
許すわ。あなたが許しを乞うのは優子さんでしょ。あの世で会ったら伝えてね。あの子をプレゼントしてくれてありがとう。最高のプレゼントだった。
家にひとり。ゆっくり風呂に入る。何年経ったのだろう。わたしの体はあの時の私の体と同じ、おへそが赤い。医者に行かなきゃだめだろうか？
浴室のドアが叩かれた。
「寝てるんじゃないだろうな？」
私は起こされた。
まさか、待っていた？ 私が許したとでも思っているのか？
私は思い出す。手帳に書いてある。年が変わっても書き写す。何年も。繰り越し繰り越し。
『怒りを忘れるな』
追加しなければ
『あの子を愛さないように』
決してあの子を愛さないように……
(了)
スピンオフ作品に『落日の再会』があります。
おまえ
