お気に入りの音楽 76〜80

お気に入りの音楽 76〜80

76 ジェームス・ディーンにはなれなかったけど

 前回の続きです。

やがて岡林信康は人や街を嫌い、自然の環境に身を置こうと、岐阜県中津川近くの山村に移り住み、約1年後京都府綾部市の総戸数17戸の過疎村に居を移し農耕生活を始める。

 農村に移住して、村の生活の中でリラックスし始めていたが、ギターに触れることもせず、歌手であることも忘れようとしていた。
 たまにゲスト出演などで他人のコンサートに出ても円形脱毛症になることがあった。
 そんな中、つぶれかけの蔵の中で座禅・瞑想を30分ほどするようになり、半年ばかり過ぎた頃、誰かがポンと肩を叩いたような感覚になり、
「無理をしてきたなぁ。もうこれから無理をする必要はないんだよ」
という声が聞こえ、突如背中に電気が走ったようになり、涙がとめどなく溢れてきた。
 30分ほど泣き続け、体中をしばっていた鎧が粉々に飛び散ったような爽快感が広がっていくようであった。
 それ以降、どんどんリラックスするようになり、いろんな価値観が変わっていくようになり、自分の歪をもっと知りたいと精神分析の本も読み漁ったりする中、新しい音楽を作る気持ちになった。

 1973年にCBS・ソニーへ移籍し、活動を再開。松本隆をプロデューサーに迎え制作されたロック路線のアルバム『金色のライオン』、『誰ぞこの子に愛の手を』などを発表。
 ディラン風の暗喩を多用した『あの娘と遠くまで』『26番目の秋』などの曲などを発表するが、相変わらず「フォークの神様」を期待するファンは多かった。

 数年間の農村生活の間、文明との接点は古ぼけたステレオだけ、次第に肩肘から力がとれた。
 知人である黒田征太郎宅のテレビで、西川峰子の『あなたにあげる』を聴いて感激。
「おれのものも歌だが、演歌もまた歌だ。歌にはいろいろな役目がある」
と、ぽつりぽつりと自分だけの演歌を作り始めた。
 作り始める中、いろんな演歌のレコードを買いあさり、演歌にのめり込んでいる中、自身の音楽のルーツが賛美歌やクラシック音楽だけではなく、ラジオから流れて聴いていた演歌にもあったことに気づく。
『月の夜汽車』『風の流れに』が美空ひばりに採用される。
 4年間にわたる農耕生活を終え山を降り亀岡市に転居。

 美空ひばりの後押しも受け、12月に中野サンプラザで久しぶりのワンマンコンサートも行った。

 1980年、テレビドラマ『服部半蔵 影の軍団』のエンディング・テーマである『Gの祈り』を発売。

服部半蔵 影の軍団 
https://youtu.be/eDBWJutDK7M?si=-WDMf00FDRmKFPVx


 1980年代中頃より、往年のフォークスタイルであるギターとハーモニカによる弾き語りツアー「ベアナックルレビュー」を開始、全国を巡る。
 また、この頃より、封印していた初期の曲の一部を再び歌うようになる。

 1981年にロンドンでキング・クリムゾンのロバート・フリップに
「俺たちの真似じゃない、日本人のロックを聴かせろ」
と言われたことで、日本民謡的なリズムに乗せた独自のロック『エンヤトット』を思案。平野融らとともに模索を続ける中、韓国の打楽器集団サムルノリと出会い、開眼する。
 1987年、自主制作テープ『エンヤトットでDancing!!』を発表。その後、東芝EMIや日本クラウンなどでアルバムを発表。全国各地でコンサートを行う。

「古いファンからはあまり喜ばれなかった」
と本人が語る「エンヤトット路線」ではあったが、2007年10月20日に36年ぶりの日比谷野外音楽堂ライブ「狂い咲き2007」を行うまでに至る。
 また10年以上「封印状態」にあったURCレコード時代の音源を含む全アルバムが、紙ジャケットで再発された。


 2010年、EMIミュージック・ジャパンから美空ひばりのカバー曲を中心とした『レクイエム〜我が心の美空ひばり〜』を発表。5月には久々となる全国ツアーも行った。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E6%9E%97%E4%BF%A1%E5%BA%B7

 もう新しく歌にすることはない。
そう達観していた74歳の「フォークの神様」が曲作りに向かった。創作へ駆り立てたのは、コロナ禍であらわになった文明のもろさへのおののきだ。
 悲しみは、新しい喜びを運ぶのか−。生きることの不安にもがいていた半世紀前の自身に語りかける。(林啓太)

 人間の姿が消えた地球上に草木が茂り、獣たちが駆け回る。
 23年ぶりに出したアルバム『復活の朝』
 全9曲のうち、アルバムのタイトルと同名の曲では、「地球の復活」を高らかに歌い上げる。「主役面で環境を壊す人間が、もし地球からいなくなれば、という皮肉」と言う。
https://www.chunichi.co.jp/article/245051

復活の朝
https://youtu.be/NrSaqNfsK8U

 
『人類滅亡』-Life After Peopleというドキュメンタリーを観ていた。
「ようこそ、地球へ。人口はゼロ」
 
 一番の疑問は原発はどうなるか?

 人類が残す遺産の中で最も大きな「地球温暖化」の影響は根強いという。

 ︎
 
ジェームス・ディーンにはなれなかったけれど
https://youtu.be/h6OdCWJ9-EE

 この曲は尾崎豊のことを歌っている。
 尾崎豊さんは青春のカリスマ、反抗の旗手という存在になってしまって、そのまま26歳で亡くなった。
 岡林さんが東京を離れて田舎に引っ込んだのも26歳。
「あのままだったら俺はゴールデン街で行き倒れて死んでいた……
 過疎の村で田植え稲刈りの生活を始めたことで生き延びることができた。だから、新宿ゴールデン街で飲みつぶれて死に絶えた岡林を、ふと彼に重ねたのよね。俺はそこから生き続けることができてよかったなという想いを歌にした。俺は生き続けられてよかったなって」
https://rollingstonejapan.com/articles/detail/35679/7/1/1

若い歌い手が死んだ まだ26の若さ
彼は祭壇に置かれ ジェームス・ディーンになった

 ジェームズ・ディーン(1931年2月8日 - 1955年9月30日)は、アメリカ合衆国の俳優。
活動期間 1951年 - 1955年
 主な作品 『エデンの東』(1955年)『理由なき反抗』(1955年)『ジャイアンツ』(1956年)
 自身の孤独と苦悩に満ちた生い立ちを、迫真の演技で表現し名声を得たが、デビュー半年後に自動車事故によって24歳の若さでこの世を去った伝説的俳優である。
 非常に短い活動期間ながら、彼の存在は映画俳優や、ロックンロール、ロッカー、ティーンエイジャーのライフスタイル、カウンター・カルチャーにも影響を与えた。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%B3

 岡林信康さんは好きな歌手なので、あれもこれもたくさんになってしまいました。

『エンヤトットでDancing!!』から連想

アフリカン・シンフォニー  ヴァン・マッコイ & ソウル・シティ・シンフォニー
https://youtu.be/lnk2MKag7CM

佐渡 裕&シエナ・ウインド・オーケストラ / アフリカン・シンフォニー
https://youtu.be/EeZPz_rSD_4

77 若い歌い手が死んだ まだ26の若さ   

 尾崎 豊(1965年〈昭和40年〉11月29日- 1992年〈平成4年〉4月25日)は、日本のシンガーソングライター。青山学院高等部中退。身長178cm。既婚。

 1983年(昭和58年)12月、シングル「15の夜」とアルバム『十七歳の地図』で高校在学中にデビュー。
 ライブでの派手なパフォーマンスや、夢や愛、生きる意味をストレートに曲にし、同世代の若者たちから大きな人気を得た。

 1992年(平成4年)4月、26歳で急死し、メディアにて連日報道がされた。死後30年を過ぎてもなお幅広く支持され、楽曲は多くのアーティストにカバーされている。
 長男の尾崎裕哉は、同じくシンガーソングライターとして活動。

15の夜
https://youtu.be/Yu88zx_--wE

十七歳の地図 横浜アリーナ
https://youtu.be/ZN8LAQwoPks


 練馬東中学では生徒会副会長を務めたが、喫煙により停学処分が下る。
 高校受験では、青山学院高等部に合格。さらに、陸上自衛隊少年工科学校の1次試験にも20倍の競争率を突破して合格した。
 しかし髪を短くしなくてはいけないと言う理由で、青山学院高等部に進学することになった。
 高校在学中には喫煙やオートバイでの事故などで停学、さらに、高校3年生の時には渋谷で同級生らと飲酒し、同じクラスの女子生徒が一気飲みをした事によって急性アルコール中毒で搬送された挙げ句、その直後には大学生のグループとパトカーが出動するほどの乱闘騒ぎを起こし、無期限停学処分を下される。
 これがオーディションを受ける契機となる。のちに停学処分は解けたが、出席日数が足りず留年となり、自主退学した。

 高校2年生の秋、音楽で生計を立てていくことを決意した尾崎はCBS・ソニーが主催した『CBS/SONY Sound Development Audition 1982』に応募し合格する。
 デビューアルバム『十七歳の地図』は初回プレスが2,000枚ほどであり、事務所やレコード会社も積極的なプロモーションも行わなかったためにセールスは伸び悩んだ。
 その後口コミにより人気が出て、『卒業』の中の過激な歌詞が話題となり、2ndアルバム『回帰線』は大手音楽チャート1位を記録、尾崎の名は瞬く間に全国へと広がっていった。
 特に10代のころは「社会への反抗・疑問」や「反支配」をテーマにした歌を多く歌い、マスメディアからは「10代の教祖」などと呼ばれた。
 10代最後の日に3rdアルバム『壊れた扉から』を発売しヒット、同時期に行われていたツアーも満員となるなど人気は絶頂を迎える。

卒業 (有明コロシアム)
https://youtu.be/Bh6atqzUnGQ

 一世を風靡した尾崎は、20歳になり方向性を見失い突然無期限活動休止を宣言し単身渡米する。
 当時曲を生み出せないことに苦悩していた尾崎は、何の収穫もないままその年の末に帰国する。
 その後、新曲の発売がないまま1年半ぶりのライブツアーが始まるも、肉体的な疲労から倒れ、残りのツアーは中止となる。

 その年の暮れには覚醒剤取締法違反で逮捕され精神的に低迷。
 復帰後にリリースした『太陽の破片』がヒット、フジテレビ系列の『夜のヒットスタジオ』に最初で最後のテレビ出演を行い、東京ドームにて復活ライブを行う。

太陽の破片 尾崎豊
https://youtu.be/FvBmBJ1Wejk

 一方プライベートでは一般人の女性と結婚、長男が生まれ、新たな価値観を見出した尾崎は1990年(平成2年)、2枚組アルバム『誕生』をリリースし、オリコン1位を記録。翌年には大規模ツアーを行うなど、完全復活を遂げる。
 しかし事務所やマスコミへの猜疑心は止むことはなく、個人事務所「ISOTOPE」(アイソトープ)を立ち上げた。
 経営面の管理のほかにプロモートからライブスケジュールを自ら取り仕切らなければならず、多忙な日々を送る中で、再び精神的に追い詰められた尾崎は自殺を図るなど混迷を深めていった。

 その後、遺作となる『放熱への証』の制作に取りかかるが、1991年(平成3年)末に母親が急死。交友関係も狭くなっていき、精神的状況はさらに悪い方向へ向かっていた。

 20代になってからの尾崎は、かつての「自由」「反支配」といったものとは違い、「真実の愛」「贖罪」「罪」といったものを主題にした歌を多く作っていった。

 1992年(平成4年)4月25日(土)早朝、当時の尾崎の自宅であるマンションから約500メートル離れた、足立区千住河原町の民家の軒先に全裸で傷だらけで倒れていたところを、家主の妻に発見された。
 5時45分ごろ、通報で墨田区内の白鬚橋病院に運び込まれる。診察した医師は「生命に関わることも考えられるので、専門医に診てもらった方がいい」と診断したが、尾崎は妻と兄とともに自宅マンションに戻る。
 しかし、10時頃になって容体が急変、呼吸が止まっているのに気がついた家族が約1時間後の11時9分に119番通報。
 日本医科大学付属病院で手当てを受けるも、午後0時6分に死亡した。死因は肺水腫。

 後日、雨の降る中4月30日(木)東京都文京区の護国寺にて葬儀・追悼式が行われ、参列者は4万人近くに上り、規模は美空ひばり、吉田茂に匹敵するものとなった。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BE%E5%B4%8E%E8%B1%8A

若い歌い手が死んだ まだ26の若さ
彼は祭壇に置かれ ジェームス・ディーンになった

 前回の岡林信康さんが作った歌は、尾崎豊さんのことを歌っています。

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ダンスホール聴き比べ 尾崎豊vs尾崎裕哉
https://youtu.be/lNYNttVQmDs

 尾崎裕哉は1989年東京都生まれ。2歳のときに父でありシンガーソングライターの尾崎豊と死別。
 その後母と共にアメリカに移住し、15歳までボストンで過ごす。
 帰国後にバンド活動を開始し、大学生活と並行しながらライブや楽曲制作などを続ける。
 2010年から2013年に「CONCERNED GENERATION」、2013年から2015年に「Between the Lines」と、InterFMのレギュラー番組でナビゲーターを務めた。
 大学卒業後、2016年7月にTBSテレビ系「音楽の日」で初のテレビ生出演を果たし、大きな注目を浴びる。同年9月には東京・よみうり大手町ホールで初のホールコンサートを開催し、初の配信シングル「始まりの街」をリリース。
 2017年3月に初のCD作品「LET FREEDOM RING」、10月に2作目のCD「SEIZE THE DAY」 を発表した。
 2018年4月には「ハリアッ!! feat. SKY-HI&KERENMI (Smooth Drive Ver.)」、11月に「この空をすべて君に」を配信。2020年10月に初のフルアルバム「Golden Hour」をリリース。
https://natalie.mu/music/artist/99886

78 チャイコフスキーの死因

 ロシアの作曲家チャイコフスキーの『1812年』の演奏を取りやめ、シベリウスの交響詩「フィンランディア」に変更、という記事があった。
 作品に罪はない……が。

『1812年』には、ロシアで親しまれる聖歌や民謡が引用され、フランス国歌「ラ・マルセイエーズ」の旋律も登場する。仏国歌の旋律が徐々に消え、帝政ロシアの国歌へと変わっていく流れで、露軍の勝利を表している。
 大砲に見立てて打楽器を打ち鳴らし、フィナーレでは勝利の鐘が響く。日本でも人気の曲で、屋外の演奏では本物の大砲が使われることもある。

1812 Overture - Tchaikovsky - with JGSDF 105mm Cannons 2010

https://youtu.be/NZmGjRualUQ

 ︎

 チャイコフスキーは聴きやすくて、大好きだ。
 ずいぶん前に読んだ本、世界のミステリー……に、チャイコの死因というものがあって、かなりショックだった。
 生きた、作曲した、愛した……(誰を?)

 チャイコフスキーの死因は、コレラとされている。1893年11月2日、観劇の後にレストランで会食しているときに川の水をグラスで飲み干したことが理由とされている。
 その数時間後、とてつもない下痢と嘔吐症状が彼を襲った。その後無尿に陥り、意識が混濁し、4日後の11月6日に死亡した。
Kornhauser P. The cause of P.I. Tchaikovsky's (1840-1893) death: cholera, suicide, or both? Acta Med Hist Adriat. 2010;8(1):145-72.

チャイコフスキー:舟歌-四季 https://youtu.be/sM5q2yIkrDI

無言歌「ベニスの舟歌Op.30-6」メンデルスゾーン 
https://youtu.be/JgQq3ZIrx3U

 チャイコフスキーの『舟唄』とメンデルスゾーンの『ヴェニスの舟唄』は好きでよく練習した。『ヴェニスの舟唄』のトリルがうまくできない。
 今はYouTubeで、ピアノの上達法の動画がたくさんある。観ていると効率よくうまくなりそうな気がする。
 もう弾くのは諦めて、聴くだけにしようと思ったけど、投稿して、読んでくださるなんて……
 楽しみを見つけてしまいました。


 チャイコフスキーの死因は一般にコレラだと言われている。多くの本に書かれているチャイコフスキーの最期は、つぎのようなものだ。

『悲愴』交響曲初演の4日後の1893年11月1日、チャイコフスキーは、アレクサンドル劇場で芝居を見た帰り、真っ赤な顔をしてレストラン・ライナーに入り、
「ネヴァ水(ネヴァ川の水)をくれ」
と言った。ボーイが驚いて
「今コレラが流行っているから、ミネラル・ウォーターしか差し上げられません」
と答えたら、彼は周囲がびっくりするほど興奮して
「ぐずぐず言わずに注文通り早く持って来い!」
と怒鳴りつけ、運ばれてきたネヴァ水を一気に飲み干した。
 翌朝、彼は発病した。弟モデストが医者を連れて来ると、チャイコフスキーは医者に向かって
「ほっといて下さい。看て下さってもどうせ駄目です。私の病気は治りません」
と弱々しくつぶやいた。 
 11月5日には、医者はみな匙を投げた。臨終の席には二人の弟、モデストとニコライを含め、16人が立ち会った。眠っていたチャイコフスキーは、急に目を開けて周囲の者を静かに眺め渡したが、それも束の間、突然目の光が消え失せ、最後の息を引き取った……。


 1970年代までは、チャイコフスキーの死因はコレラだと信じられていた。しかしここにはおかしな点がいくつもある。
 まず、通常のコレラの潜伏期から考えて、感染後5日で死亡というのは短すぎた。訃報を聞いた友人たちは誰もが「えっ、まさか!」と驚いた。その死が余りにも唐突過ぎたからだ。
 次に、コレラ患者の死の床にしては、立ち会った人数が16人というのは異常に多すぎる。
 コレラが大量の死者を出す恐るべき伝染病であることは当時から知られていた。激しい下痢、嘔吐、排尿で脱水症状を起こし、治療を施さない場合死亡率は50%を越えた。感染力が非常に強いので、患者は隔離され、布団は焼かれ、家は徹底的に検疫されるし、患者の遺体は鉛の棺に収められた。
 ところがチャイコフスキーの場合、布団は燃やされず、洗われただけだった。それどころか遺体も死後二日間も公開して安置され、葬儀の日にはあらゆる階級から多数の市民が弔問に集まり、遺体の手や顔に口づけをした。チャイコフスキーが本当にコレラで死んだなら、こうした状況は余りにも不可解ではないだろうか?

 ︎

Tchaikovsky : Serenade for Strings Seiji Ozawa 2010 チャイコフスキー弦楽セレナーデ 小澤征爾 & サイトウ・キネン・オーケストラ 2010
https://youtu.be/6TEKJIoXMVQ

 弦楽セレナード ハ長調作品48は、ピョートル・チャイコフスキーが1880年に作曲した弦楽オーケストラのための作品。チャイコフスキーの代表作の一つとして広く親しまれている。


 チャイコフスキーの死の真相に関しては、1978年に、当時ソ連にいた女流音楽学者アレクサンドラ・アナトリエヴナ・オルローヴァが驚くべき研究報告を致した。それは従来のチャイコフスキー観を根底から覆すショッキングな内容だった。

 チャイコフスキーは実は同性愛者だった。それがばれ、封建的な旧ロシア社会の圧力で彼は自殺を強要さてたのだ。
 彼は日記に書いている。
「今日、Zが異常に激しく私を苦しめる。おー、神よ、私がどんなに苦しんでいるか、Zの感情にでなく、なによりもそれが私の中にあるという事実に」
 Zとは、彼が必死に隠そうとした同性愛的性向のことである。彼は世間の目をごまかすため、好きでもない女性と結婚したり(これは悲惨な失敗に終わった)
 金持ちの未亡人ナデージダ・フォン・メック夫人から毎年6000ルーブルという多額の資金援助を受けたりした。しかし彼の情熱はこれらの女性には注がれなかった。
 メック夫人との関係はプラトニック・ラブといったものではなく、彼女はチャイコフスキーの単なる金づるに過ぎなかった。

 チャイコフスキーが本当に深く愛したのは、彼が優しく「ボビック」と呼んだ甥で出版商のウラディーミル・ダヴィドフだった。
 しかし他にも何人かの愛人がいた。その中の一人はある侯爵の甥で、ひょんなことからその侯爵に大作曲家との仲を知られてしまった。そしてこの侯爵は、何と、ロシア皇帝アレクサンドル3世に直接手紙を書いて訴えた。
 困った皇帝は、この件の処理を検事総長ニコライ・ヤコビに任せた。ヤコビは、法律学校の同窓生チャイコフスキーが同性愛という破廉恥な罪で母校の名誉を傷つけたことで怒り、また、ロシアの大作曲家としてのチャイコフスキーのブランド・イメージを守る必要も感じた。
 そこでヤコビがやったことは、秘密法廷を開き、チャイコフスキーに名誉の自殺を求める判決を言い渡すことだった。自殺用の毒薬(砒素とされる)は後日判事が届けることになった。
 チャイコフスキーは真っ青になって震えながらヤコビの家から飛び出していった。

 第6交響曲を書いている最中のチャイコフスキーは、かつてないほど自信に満ちていた。第1楽章を4日足らずで書き終えた時、
「私は人生のうちで今ほど充実し、誇らしく、幸せなことはなかったと誓って言えます」
とユルゲンソン出版社に書き送っている。
 ところが秘密法廷の直後から、チャイコフスキーは抑鬱状態となる。交響曲のリハーサルの時、彼の顔色は真っ青で、
「チャイコフスキーは妙にぼんやりしているように見えた。悪寒が彼の体を走った。彼はただ指揮者になりきろうと焦っていて、中断し、訂正したり、何か集中できなかった。時折彼はオーケストラに向かって、愛情を込めて弾いてくれ、これが私の告別の曲だとは思わないかい、永遠の別れだと? と訴えているようであった」(クルト・パーレン)
 チャイコフスキーがこの交響曲のタイトルを弟モデストと相談して「パテティチェスキー(悲愴)」に決め、出版社ユルゲンソンに宛てて指示したのは、初演わずか2日後だった。

 11月1日、レストラン・ライナーに入った夜も、チャイコフスキーは愛人ウラディーミル・ダヴィドフその他2、3人の美青年と一緒で、彼はマカロニを食べ、ミネラル・ウォーター入りの白ワインを飲んだだけだった。彼はコレラなどには感染しなかったのだ。
 チャイコフスキーの抑鬱状態はひどくなり、閉じ込もって独り言をぶつぶつつぶやいたり、すすり泣いたり、囚人のように部屋をうろつき回るようになった。
「まるで逃げ場を失った人みたいだった」
 書類を整理し、遺言状に目を通し、……そして、毒薬を持った死神は、11月5日の夜に現れた。
 チャイコフスキーは遂に毒を飲んだ。兄の苦しみに驚いた弟モデストが医者を呼んだものの、砒素を飲んだのでは手の施しようがない。
 4時間後、「悲愴」の作曲者は、封建的なロシア上流社会の掟に従い、“悲愴”な死を遂げた。

とはいえ、この説を否定する声も多く、死因はいまだに謎である。
http://oo11.web.fc2.com/MM/Tchaidth_fr.htmを参考にしました。

 ︎

 1988年のアレクサンドル・ポズナンスキーの論文を皮切りに、チャイコフスキーを診た医者のカルテなど、残されている資料を調査した結果、やはりコレラおよびその余病である尿毒症、肺気腫による心臓衰弱が死因であるという反論が出された。(チャイコフスキーの遺体は安置される前に消毒されていた記録が残っている)
 現在ではやはりコレラによる病死だったという説が定説となった。
 なおチャイコフスキー自身、発病当日にはオデッサ歌劇場の指揮を引き受ける手紙も書いている。

 ポズナンスキーは緻密な検証を行った末、結局陰謀死説なるものが
「21世紀の今となっては、歴史のエピソードに過ぎないことであり、まったく根拠のない作り話」
であると結論づけている。
https://www.wikiwand.com/ja/%E3%83%94%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%81%E3%83%A3%E3%82%A4%E3%82%B3%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC

 すみません。この説は知らなかったので陰謀説に誘導してしまいました。今なお、ネット上ではまだ陰謀説が多いです。
 チャイコフスキーが、なぜコレラを患ったのか? 母親をわずか40歳でコレラで亡くしたチャイコフスキーが、生水を飲む危険をおかすだろうか? 

 葬儀は11月9日に行われた。六頭立ての馬車に棺が乗せられ、最初にマリインスキー劇場へ運ばれた。その葬列は聖職者、遺族、各界代表者、法律学校の学生など長いものだった。道の両側には見送るファンなどの群衆が1万人にも達していた。葬列はマリインスキー劇場を引き返しカザン大聖堂に到着し、ここで葬儀が行われた。 
 大聖堂には本来の収容人数を超えて、8000人以上の人々が参列した。そのなかには外国外交官や報道陣、そしてたくさんのファンがいた。葬儀は2日かけて行われ、それが終わるとチャイコフスキーの生前の希望で、アレクサンドル・ネフスキー大修道院のチフビン墓地に葬られた。

79 指揮者 岩城宏之

 岩城 宏之(いわき ひろゆき、1932年9月6日 - 2006年6月13日)は、日本の指揮者。指揮法を渡邉暁雄と齋藤秀雄に師事した。

 ずいぶん前、コマーシャルがありました。岩城宏之さんが指揮をする。悲愴の第1楽章。ネスカフェのコマーシャルだった。指揮者の姿を覚えています。

 東京府にて生まれた。
 9歳で木琴を始める。
 1945年5月、旧制中学1年生のとき空襲で罹災したため、親類を頼って金沢市に疎開、2学期間を旧制金沢第一中学校に学ぶ。
 敗戦後、父の勤めの関係で岐阜県瑞浪に転居、ここで1年半を過ごし、旧制多治見中学校に通学する。
 1947年、学習院中等科に編入学する。学習院高等科2年の時、映画『オーケストラの少女』を観て感動し、音楽家を志すに至る。同校在学中から放送局で木琴を独奏する。
 1951年、学習院高等科を卒業する。東京大学独文学科への進学を志していたが、第二次試験の前の晩に高熱を発して受験を断念する。
 現役で東京芸術大学音楽学部器楽科打楽器部に進んだが、1年生の終わり頃から学内規則を破って近衛秀麿のオーケストラでティンパニを演奏し始め、授業に出ることなく1年分の単位も取得しないまま、6年間在学ののち中退。
 学校には、1年後輩の友人山本直純と後輩たちに声を掛け合って集めた学生オーケストラを指揮するために顔を出す一方で、山本とともに東京芸大指揮科教員渡邉暁雄の音羽の自宅や目白の齋藤秀雄指揮教室にたびたび通って指揮のレッスンを受けた。

 作曲家の山本直純は芸大で岩城の1年後輩に当たり、2人は大学時代からの悪友であった。一足先に山本が他界したときに岩城は酷く悲しんだ。 
 山本と出会った頃、岩城は打楽器よりも指揮に興味を持つようになり、2人で「(芸大の)後輩達を騙し」て楽団を結成、その指揮者となった。 
 指揮に関する議論が白熱しすぎて大声で怒鳴りあうために議論する場に困り、2人でゲイ用のホテルに入って議論していたところ、隣室のカップルから“やかましい”と怒られたことがあった。

ベートーベン交響曲第5番『運命』第4楽章
https://youtu.be/E0ZGRDj5YvM

 この楽章では楽器編成にピッコロ、コントラファゴット、トロンボーンが加わる。そのため色彩的な管楽器が増強され他の楽章に比べて響きが非常に華やかになっている。
「暗から明へ」における「明」の絶頂で華やかに曲を閉じる。ベートーヴェンの交響曲は比較的あっけない音で終わることが多いが、この第5では執拗に念を押し、彼の交響曲の中では唯一「ジャーン」とフェルマータの音で終わる。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/交響曲第5番_(ベートーヴェン)

 当時の東京芸大音楽学部には専攻によって根強い差別が存在した。 
 作曲科と指揮科が階級の最上位に属し、次いでピアノ科、その下が弦楽器科、残りは全て
「被差別民族」であり、その中で最下位に属するのが管・打楽器部で、特に
「タイコは管・打というように、順番からして管の次なのだから、タイコ屋は、下層中の下層、少数中の少数で年中差別を感じているような状態だった」
「ピアノ科の女の子とつきあおうとして、
『お父さまにタイコの人なんかと友達になっちゃいけないっていわれたのヨ』なんて追っ払われたことが何度もある」と語っている。

 学生時代から、各所の音楽ホールに忍び込み、観客席ではなく舞台裏などで音楽を聴くことを繰り返していてブラックリスト扱いになっていた。
 指揮者を正面から見るために、舞台上の管楽器用のヒナ段の中に忍び込んでコンサートを聴くこともたびたびであった。
 数々の悪行から、後年、岩城が指揮者に就任したのちも、舞台関係者に誤って不法侵入者扱いされたことがある。

ベートーベン交響曲第6番『田園』第4楽章
https://youtu.be/ftwdAX8AJnU

 交響曲第6番 ヘ長調 作品68『田園』は、ドイツ出身の古典派音楽の作曲家、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770年 - 1827年)が1808年に完成させた6番目の交響曲。 演奏時間は約39分(第1楽章:11分、第2楽章:13分、第3楽章 - 第4楽章 - 第5楽章:15分)
 古典派交響曲としては異例の5楽章で構成されており、第3楽章から第5楽章は連続して演奏され、全曲及び各楽章に描写的な標題が付けられるなど、ベートーヴェンが完成させた9つの交響曲の中では合唱を導入した交響曲第9番と並んで独特の外形的特徴を持つ。
 また、徹底した動機展開による統一的な楽曲構成法という点で、前作交響曲第5番(作品67)とともにベートーヴェン作品のひとつの究極をなす。
 第6交響曲は、ベートーヴェンの交響曲の中で標題が記された唯一の作品である。ベートーヴェンが自作に標題を付した例は、他に「告別」ピアノソナタなどがあるが、きわめて珍しい。
 また、各楽章についても標題が付されている。
「田舎に到着したときの愉快な感情の目覚め」
「小川のほとりの情景」
「田舎の人々の楽しい集い」
「雷雨、嵐」
「牧歌 嵐の後の喜ばしい感謝の気持ち」

 NHK交響楽団初代事務長有馬大五郎からの誘いと推薦により、1954年(芸大4年)の9月から同楽団指揮研究員として副指揮やライブラリアンの仕事を始め、1960年の同楽団世界一周演奏旅行では常任指揮者ヴィルヘルム・シュヒター、指揮研究員同僚の外山雄三とともに指揮者陣の一人として同行、ヨーロッパ・デビューを果たす。
 これが機縁となり、1963年、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団に招かれてオール・チャイコフスキー・プログラムを指揮した。
 1970年の日本万国博覧会開会式では、NHK交響楽団が当日の式典での楽曲演奏を担当したが、その指揮をしている。
 1977年、急病のベルナルト・ハイティンクの代役として、日本人として初めてウィーン・フィルハーモニー管弦楽団定期演奏会の指揮台に登り、ベルリオーズの幻想交響曲他を指揮した。
 翌シーズンのウィーン・フィル定期にも登場、バルトークの管弦楽のための協奏曲他を指揮した。
 そのほか、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団やロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の指揮台にも立った。

『英雄』第4楽章フィナーレ 変ホ長調。4分の2拍子。 
https://youtu.be/KO64v6rr_yo

 交響曲第3番変ホ長調 作品55『英雄』は、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンが1804年に完成させた交響曲。『英雄』のほか、イタリア語の原題に由来する『エロイカ』の名で呼ばれることも多い。
 ベートーヴェンの最も重要な作品のひとつであると同時に、器楽音楽による表現の可能性を大きく広げた画期的大作である。
 フランス革命後の世界情勢の中、ベートーヴェンのナポレオン・ボナパルトへの共感から、ナポレオンを讃える曲として作曲された。
 しかし、完成後まもなくナポレオンが皇帝に即位し、その知らせに激怒したベートーヴェンは「奴も俗物に過ぎなかったか」とナポレオンへの献辞の書かれた表紙を破り捨てた、という逸話がよく知られている。

 晩年の顕著な活動としては、2004年12月31日の昼から翌2005年1月1日の未明にかけて、東京文化会館でベートーヴェンの全交響曲を1人で指揮したことが知られている。
 同様の公演は、翌2005年12月31日にも東京芸術劇場で行われた。なお、2回目の公演では健康面に配慮して途中1時間の休憩時間を設けたり、医師を聴衆として立ち会わせ、休憩時間に体調チェックを行ってプログラムを消化していった。
 この演奏会はインターネットでもストリーミング中継された。

 ピアニストの木村かをりは妻。
 指揮活動のほかにも、打楽器奏者としての演奏活動、テレビ・ラジオへの出演、プロデューサー、音楽アドバイザー、執筆など多彩な活動を行った。
 また、東京芸術大学指揮科客員教授として後進の育成にも当たった。

 メルボルン交響楽団時代にストラヴィンスキー作曲『春の祭典』の演奏で振り間違えたことがある。
 テレビ・コンサートの公開収録中、並の指揮者なら混乱しつつも何くわぬ顔で演奏を続け、自らの責任を回避しようとするところであるが、岩城はあえて演奏を中断し、聴衆に向かって指揮を間違えたことを詫びた。
 異例の事態に聴衆も楽員も凍りついていたが、テレビ用に編集しやすい部分をコンサートマスターと相談し、楽員全員に演奏再開の箇所を告げた。
 すると聴衆だけでなく楽員からも大拍手が沸き起こり、岩城に対する同楽団の信頼はより固いものになったという。

「初演魔」として知られ、特に自身が音楽監督を務めたオーケストラ・アンサンブル金沢では、コンポーザー・イン・レジデンス(専属作曲家)制を敷き、委嘱曲を世界初演することに意欲を燃やした。また、黛敏郎の作品を精力的に指揮した。

チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲
https://youtu.be/dMdL1rKe1Wk

 OE金沢のコンマスを務めるダウスの独奏による協奏曲。
日頃統率しているオケとの協演だけに,双方とも「物分かりが良すぎ」て駆け引きの緊張感には少々欠けるが,一方で仲間との室内楽を愉しむような寛いだ味わいは捨て難い。神経を休めたい時に聴こう。
-- 内容(「CDジャーナル」データベースより)

 チャイコフスキーほど初演につまずきのあった人も少ない。
(中略)この曲(チャイコフスキー:ヴァイオリン協奏曲)など、今日傑作として知られている彼の作品の初演の時の評判はさっぱりだったのである。彼はそれだけ、その当時の聴衆の感覚よりも、50年先、100年先を先取りした作曲家だったといえよう。  
 この曲は、(中略)民族的な情感こそが、この曲の最大の魅力なのである。ことに、カンツォネッタ(小さい歌)と題された第2楽章にただようスラブ的憂愁の美しさは、比類がない 。
出典:志鳥栄八郎 著 「不滅の名曲はこのCDで」p216より引用
https://www.alpacablog.jp/entry/tchaikovsky-vn-concerto

 チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲ニ長調 作品35は、1878年に作曲されたヴァイオリンと管弦楽のための協奏曲。ベートーベン、メンデルスゾーン、ブラームスのいわゆる三大ヴァイオリン協奏曲に、本作を加えて「四大ヴァイオリン協奏曲」と称されることもある。

 来日中のカラヤンに指導を受け、「オーケストラをドライブしようとするな。キャリーせよ」とアドバイスされたという。
 これは指揮を乗馬になぞらえたもので、ドライブとは手綱を絞って強引に馬を従わせること、キャリーとは手綱を緩めて馬の自由に任せながら、騎手の意図した進路に馬を導くことだという。

 世界で活躍する日本のスポーツ選手の応援に熱心であり、音楽監督を務めるオーケストラ・アンサンブル金沢で石川県出身の松井秀喜選手の応援歌を企画していた。
 亡くなる直前には骨折で離脱した松井へエールを送っており、これが岩城が生前に出した最後の手紙だった。
 なお、岩城の企画した応援歌は2006年に、公式応援歌『栄光(ひかり)の道』(作詞:響敏也・作曲:宮川彬良)として成就した。
 著書も多く、楽器運送業に関する執筆のために、実際に運送会社で働いたこともあった。あるハープ奏者がハープの運搬を依頼したところ、業者と一緒に岩城が現れ、依頼主は大いに驚いた。

1987年  独眼竜政宗  
作曲:池辺晋一郎 指揮:岩城宏之 演奏:NHK交響楽団 

 N響正指揮者の称号を贈られた1969年10月、岩城はN響史上画期的で大胆な試みを持った定期公演を2度にわたり指揮をした。
 2つのプログラムは当時の先端をゆく日本の作曲家の現代作品だけで構成され、岩城はこの手の演奏会に対して「一度やってみたかった」と「強行することに対する不安」の2つの相反する気持ちを持ち合わせつつ指揮台に上がった。

 事件は10月29日の第531回定期公演で起こった。
 三善の『管弦楽のための変奏曲』が終わった直後、岩城は指揮台を降りて観客に対して次のように言った。
「お義理で拍手するのはやめてほしい。つまらないと思ったらヤジってけっこうです。よいと思ったら盛大に拍手してほしい」
 続く武満の『テクスチュアズ』の演奏が終わったあと、岩城は再び観客に対して「ああいうことをいったからといって、そう拍手してくれなくても……」と二度にわたり語った。

 岩城によれば、第530回定期公演は「反響も大きく、僕自身も実に感動した」内容であった。
その流れで第531回の指揮台に上がったところ、第1曲の柴田『シンフォニア』の演奏に対する拍手が「儀礼的で、冷たい」と岩城は感じた。
 2曲目の三善『管弦楽のための変奏曲』は「演奏困難なくらいむずかしい」作品であったが、この時は「うまくいった」。
 岩城はコンサートマスターの田中千香士に「うまくいったね」という意味合いで笑顔を返したところ、観客が「曲が終わっていない」と勘違いしたのか拍手を止めてしまった。
 このハプニングに岩城は「演奏家のわがままをいわせてもらえば哀しかったんです」。
 岩城が「お義理で拍手するのは……」と言ったのにはそのような背景があり、次の『テクスチュアズ』終了後の拍手に対して思わず「ああいうことを……」と言ったのであるが、岩城自身はこれについては「まったく余計だったと思います」と反省し、さらに演奏会終了後には一連の「演説」について「ああしたことはいうべきでなかったか、と苦しんだ」という。
 観客の反応としては1つ例を挙げるなら、女性会員の一人が「ああいう曲になれていないから、曲がどこで終わるものかわからない、あの場合は、多くの人が拍手するタイミングを逸してしまったのではないか」、「邦人作品は必ずしも慰めやら憩にはならないのではないか、プログラムのうちに1曲ぐらいだったら我慢もできるが、全曲ではとてもかならわない」といった趣旨の感想を述べた。
 ほかにも「岩城は不遜だったのではないか」という趣旨の厳しい意見や、逆に岩城の発言や意思を理解して擁護する意見も寄せられた。
 岩城の「演説」に関する論争はN響会員の間のみならず、やがて週刊誌も取り上げるほどの話題となった。

 1987年、頸椎後縦靭帯骨化症を患ったのを皮切りに、1989年胃がん、2001年喉頭腫瘍、2005年には肺がんと立て続けに病魔に襲われたものの、そのたびに復活し力強い指揮姿を披露した。
 しかし、2006年5月24日、東京・紀尾井ホールで東京混声合唱団の指揮後に体調を崩して入院し、同年6月13日午前0時20分、心不全のため都内の病院にて没した。73歳没。


 文字数が多くなりましたが、ほとんどが
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E5%9F%8E%E5%AE%8F%E4%B9%8B
からの引用です。
 ウィキペディアは「フリー百科事典」ということを掲げており、掲載している文章は各種表示等を条件に自由に二次利用することができます。

80 『欲望』とヤードバーズ

 タイトルを『デヴィッド・ヘミングス』にしても、知らない方ばかりで読んでいただけないかと思い、映画のタイトルにしました。50年以上前の映画ですが。
 それとヤードバーズ。ヤードバーズは知っていますか?

【欲望】
 およそ半世紀前、ミケランジェロ・アントニオーニ監督が『欲望』(1966)を発表したとき、観客はその不条理な世界を大いに楽しみ、その謎について、ああでもないこうでもないと議論を戦わせた。(シネマトゥデイより)

 当時名画座で2本立てで300円だった。目当ては『ベニスに死す』だったが、『欲望』のデヴィッド・ヘミングスはきれいだった。
 内容は?? だったが。
 詳しいことがわかったのは、インターネットが我が家に来てから。
 
 1960年代中盤のロンドンを舞台に、人気カメラマンの主人公が撮った、ある写真にまつわる奇妙な出来事を描く。
「スウィンギング・ロンドン」と言われた、当時のイギリスの若者のムーブメントを織り交ぜつつ、サスペンスかつ不条理な独特の世界観となっている。1967年のカンヌ国際映画祭にてパルム・ドールを受賞。

Immortal Movie Music 『 欲望(Blow-Up) 』 Opening Theme original source 1966.

https://youtu.be/IqWjf92D2T4

 音楽はハービー・ハンコック。監督のアントニオーニは当初、BGM無しで映画を作ろうとしたが、ロケ地のロンドンで聴いたハンコックのジャズを気に入り採用したという。
 この映画でハンコックは、ジャズ以外にもポップ・ミュージック指向の強い楽曲も披露している。
 ゲストとして、ヤードバーズがライブハウスのシーンで出演した。ギタリストのジェフ・ベックとジミー・ペイジが、ツイン・リードとして同バンドに参加していた時代の貴重な映像としても知られる。
 当初はザ・フーに出演が依頼されたが、監督の、ギターを壊して欲しいという要望に、当時このパフォーマンスばかりが一人歩きしていることにうんざりしていたリーダーでギタリストのピート・タウンゼントが断ったという。
 完成した映画では、監督の要望通りベックがギターを壊す演技をしている。
 もっともベックはタウンゼントとは異なり、通常、ステージでギターを壊すようなことはしなかった。だがこの映画の出演を機に、一時期ヤードバーズのライブでギターや機材壊しを盛んに行っていたという。(Wikipediaより)

Blow Up - 1966 - Yardbirds - Jimmy Page & Jeff Beck

https://youtu.be/jSJGEn4FDys


 世界には掛け値なしに素晴らしいバンドが4つある。ヤードバーズはそのうちの1つだ。
 そのヤードバーズをはじめ、T・レックス、ジャパン、ワム!を渡り歩いてきた“大物マネージャー”としてしられる男サイモン・ネイピア=ベルは、自身の自伝でこう断言している。
 イギリスのアーティストを中心にマネージメントしてきた彼の言葉なので、そこにはアメリカのバンドはきっと含まれていないのだろう。
 ビートルズ、ローリング・ストーンズ、ザ・フー、キンクスに加え、レッド・ツェッペリン、クイーンなどなど、世代や具体的なセールス実績によって異なってくるので「4つ」と言い切るのは至難の業である。
 とは言え、1960年代のイギリスの音楽シーンの立役者として活躍したヤードバーズの存在は外せないだろう。
 ビートルズやローリング・ストーンズと比較すれば(特に日本では)彼らは過小評価されがちだが、エリック・クラプトン、ジェフ・ベック、ジミー・ペイジという、後に世界的な活躍をするギタリストが在籍した伝説のバンドだということは、ロックファンの間では“周知の事実”である。
 バンド名は「モダンジャズの神様」と呼ばれたサックスプレーヤー、チャーリー・パーカーのあだ名“ヤードバード(囚人)”に由来するという。 www.tapthepop.net

 ギターを破壊しているのがジェフ・ベック。
カメラマンのトーマスがデビット・ヘミングス。
ロック・ファンには有名すぎる映画。でも……意味不明……
 
欲望 blow up
https://youtu.be/bj54M1VYr5w

 特にラストは。映画評論家ポーリン・ケイルも「わからない!」と投げ出した。
『2001年宇宙の旅』は『欲望』の主人公が作ったかもしれない映画だ。巨大なSFセットや装置を作って、それをどう使うかを考えようともしないキューブリックが、本当にやりたい放題やっていると考えると楽しい。
 ある意味、これは今まで最大規模の素人映画だと言ってよい。(ポーリン・ケイル著)

デビット・ヘミングス
 1954年にデビューしたものの、B級作品への出演が続く。1966年、ミケランジェロ・アントニオーニの『欲望』に主演してブレイクした。
 1973年には監督作品『別れのクリスマス』でベルリン国際映画祭の監督賞を受賞した。2003年、ルーマニアで映画『エヴァンジェリスタ』の撮影中に心臓発作に見舞われ急死した。(Wikipediaより)

【サスペリア2】
 ホラーを映画館で観たくはなかったのですが、デビット・ヘミングスが主演なので、友人に一緒に行ってもらいました。

閲覧注意!
Deep Red Official Trailer 4K

https://youtu.be/wSgK9W9baN4

 YouTubeを観ると、映画の映像はあまりないのに、この映画の解説はとても多い。もっと評価されるべきだ、芸術だと。
 でも、「決してひとりでは観ないでください」

【パワープレイ(1978)】
 ヨーロッパの仮想小国で巻き起こったクーデターをリアルに描き、権謀術策の醍醐味を存分に味合わせてくれた知られざる傑作。
 大臣誘拐事件を機に、テロリスト一掃命令を下す大統領。だが、怪しき者は逮捕せよ、という秘密警察長官(プレザンス)の方針は、次々と無関係の犠牲者を出していた。
 知人の娘を殺された陸軍大佐(ヘミングス)は、戦術に長けた教授(モース)や同志と共にクーデターを計画、始めは拒んでいた戦車隊長(オトゥール)も加わり、遂に決行の日がやって来た……。
 前半、水面下で繰り広げられる秘密警察とクーデター派の諜報戦はサスペンスに満ち、戦車隊が街中に進撃してくる後半からはスペクタクルに溢れ、全編通じての権力争いの駆け引きは知的興奮を呼び覚ます。
 そして、それらをあくまでもリアリティにこだわって、セミ・ドキュメンタリー・タッチで淡々と見せる新鋭M・バークの演出力。
 カナダ軍の全面協力によって実現した都市制圧の図など鳥肌も立ちかねない凄さだ。仮に“クーデター映画”というジャンルがあるならば、間違いなく最高峰に位置する完成度である。(Wikipediaより)

 デビット・ヘミングスが出ているから観に行った。私には苦手な分野。でもYouTubeのコメントを見るとすごい評価。

『パワープレイ 特別版』 DVD用トレイラー POWER PLAY

https://youtu.be/qX7wJjOrTv8

『グラディエーター』に出ていた。容貌が変わってすぐにはわからなかった。
『ベニスに死す』のビョルン・アンドレセンも……

お気に入りの音楽 76〜80

お気に入りの音楽 76〜80

  • 随筆・エッセイ
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-08-18

Copyrighted
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Copyrighted
  1. 76 ジェームス・ディーンにはなれなかったけど
  2. 77 若い歌い手が死んだ まだ26の若さ   
  3. 78 チャイコフスキーの死因
  4. 79 指揮者 岩城宏之
  5. 80 『欲望』とヤードバーズ