店長になりたかった
『この家には亡霊がいる』のスピンオフ作品です。投稿済みのもの5話をまとめました。
1 店長
瑤子ちゃん、あなた、なにやってるの?
瑤子、おまえ、なにしてるの?
瑤子、なにやってるんだ?
瑤子、なにやってるの? 計算もできないの? 考えたってわかるでしょ? 空っぽ頭!
店長、店長! あなたのようになりたかった。あなたのように……
ママ……英輔さん……亜紀? 亜紀……代わって……辛いの!
坊や……上から見ないで。見ないで!
足が……パンパン。象みたい。上から見ないで!
上から見られたら……
勉強しなさい。
どうして勉強するのかって? なに言ってるの? そこに勉強が、あるからよ。落第するわよ。空っぽ頭!
ピアノはどうしたの? 高いの買ってもらって。ピアノの先生になるんじゃなかったの?
モデル? 残念ね。背が足りないわ。
意地悪な亜紀! なにもかも手に入れた亜紀!
「瑤子。化粧、落とさないと……」
康二の声がした。うたた寝をしていた瑤子はソファーから立ち上がり、シャワーを浴びにいった。鏡に全身を映す。頭頂部も。
「カラーしなきゃ。美容院、予約しなきゃ。マッサージしなきゃ。きれいでいるのが私の仕事。でも歳を取った……」
10年前、実家に戻った。
田舎、田舎……大嫌いな故郷に戻った。駅前のブティック。瑤子はそこで働いていた。兄は海外勤務だ。まだ当分は戻れない。病気の父と、看病する母のために瑤子は都会をあとにした。
愛した男はついに1度も振り向いてはくれなかった。
思い出は封印した。許されないことをした。ひとまわり年下の、愛した男の息子を誘惑したのだ。瑤子は殴られた頬に手を当てた。
亜紀にも知られただろう。
どうして、どうしてあんな冴えない女がなにもかも手に入れるの? あんな、色の黒い、不細工な、センスの悪い……
従姉の亜紀が結婚すると聞いた時は意外だった。8歳上の亜紀とはよく比べられた。
優等生の亜紀は会うといつでも本を読んでいた。勉強嫌いな瑤子は反発していた。懐いたのは亜紀が東京に住んでいたからだ。東京に行きたかったから……
亜紀が結婚すると聞いた時は驚いた。相手は子持ちで、母親付き。
勝った!
しかし、結婚式で会った相手は……会社社長? どうせ小さな町工場の下請工場だと思っていた。
部下の三島が瑤子を見た。ひとめで虜にした。
家は古いが素敵だった。この大きな邸の女主人が亜紀だなんて!
坊やは瑤子に懐いた。三島の視線を感じた。ピアノを弾いた。夢中になった時期もあったのだ。間違えると坊やが笑った。瑤子が拗ねる。視線を感じた。坊やの父親の視線を。それを見ている亜紀。
何度も感じた。熱い視線を。瑤子はドキドキした。
店に来る客は瑤子のセンスとスタイルを褒め、上から下まで同じものを買っていった。固定客は増えていく。瑤子の崇拝者、信奉者が田舎の町に増えていった。
「店長、あなたのようになりたい。店を持ちたい。こんな田舎でも」
母親のプレゼントを買いに来た男がいた。
母の日か……苦労させた母のために取り寄せたブラウスがある。明るい色を着てもらおう。気苦労で老けてしまった母。原因のひとつが……大半が娘の瑤子だ。
過去の婚約破棄。結婚式間際の爆弾発言。保守的な母親は参ってしまった。
瑤子は男の客に母親の年齢とサイズを聞き選んだ。母親は瑤子よりひとまわり年上だ。では息子は? ひとまわりかそれ以上年下か? 男は眩しい目で瑤子を見た。見られるのは慣れている。
(女は7掛けよ。あなたの彼女でも通るわ)
もうすぐ35歳になるが……
息子は携帯で母親の写真を見せた。色の白い上品な婦人だ。高価そうなグレーのセーターを着ている。背景は自宅のリビングか? 布張りチェアも高価そうだ。
瑤子の母親のために取り寄せていたブラウスを譲った。最初は派手すぎると言っていた息子は、瑤子に説得させられた。
「気に入らなければお取り替えしますから」
丁寧にラッピングした。母親が欲しいのは気持ちだ。
あの男はまた来る……予感がした。
予感は的中した。息子の康二は母親を連れてきた。店の前で足の悪い母親を降ろし、自分は近くの駐車場に車を停めにいった。瑤子は椅子を持っていき座らせた。ブラウスがよく似合っていた。
褒めると母親は喜んでいた。ブラウスに合うパンツが欲しいと言う。病気で両足の長さが違う。オシャレとは無縁になっていた。こういう店とも……
瑤子は何本か選び、丁寧に膝をついて裾上げした。母親はいろいろ聞いてきた。瑤子の住まい、両親、学歴、職歴……
「20……8歳くらい?」
瑤子は笑っただけだ。それでも息子より5歳は年上だ。問題はそれだけのようだ。不合格……か。
「偵察に来たんですよ。息子の気に入ったのがどんな女かって」
母子が帰るとスタッフが言った。
母親が来たのはそのときだけだった。お直しのパンツを取りに来たのは康二だ。反対されたのだろう。瑤子の歳を知ったのだろう。微妙に様子が違っていた。彼はもう来ない。そう思った。
しかし数日後、康二は閉店時に店の外で待っていた。立ち話をし、年齢を明かした。康二は驚かなかった。やはり調べたのだ。高校も大学も、10年も前の婚約破棄も。
瑤子は癪だった。母親を見返してやりたいと思った。夢中にさせてやろう。困らせてやろう。興味はないが。
家まで送られた。送らせた。自然に。電車とバスを乗り継がねばならないのだ。送ってくれるのはありがたかった。
康二は紳士的に、毎日店の外で待ち送ってくれた。時々はスタッフも送ってくれた。スタッフにも評判がいい。
やがて付き合うようになった。友人として。食事をし、自分は酒を飲まずに送ってくれる。ありがたかった。2駅電車に乗り、そこからは本数の少ないバスを待たねばならない。少しでも遅くなればタクシーになる。康二が送ってくれるのはありがたかった。母親は悩んでいるだろう。悪い女に引っかかったと。
年齢で拒否したあなたが悪いのよ。あなたの息子なんて、運転手代わりにしているだけ……都合のいい運転手に。
2年後に父が亡くなり、さらに3年後に母も亡くなった。ひとりぼっちになった瑤子には康二が必要だった。
康二はひとりで住むには広すぎる家を掃除し、手入れをしてくれた。便利だった。風呂場の蛇口が壊れ、水が勢いよく吹き出した時も、すぐに駆けつけて応急処置をし、次の日には直してくれた。切れた電球も変えてくれる。
それに、料理が上手だった。病気の母親に変わり、しばらく家事をしていた男は、瑤子よりも手際がよかった。次々に食材やスパイスを買ってきては忙しい瑤子のために料理した。
「欲しいのは、奥さんね」
亜紀の口癖だった。結婚しないと思っていた女は、夫と子供のために変わっていった。
康二は便利な男だった。身元は確かだし。臆病だ。なにもしない。してもいいのに。マッサージがうまい。凝った肩をほぐしてくれる。パンパンになった足も……臆病な男……と自然にそうなった。
いや、誘惑したのだ。ひとまわり年下の男を誘惑した。またしても。
店長にならないか? と誘いがあった。さびれた駅の小さな店。店長が定年で辞めた時にクローズするはずだったが……
店長、店長、夢にまでみた店長。
瑤子はその店を見に行った。商店街は閉まっている店が多かった。あるのは小さなスーパーと酒屋、ラーメン屋、古い食堂、理髪店、美容院、それにコンビニ。
半額セールの初日でさえその店はガラガラだった。スタッフは全員、それでも3人だけだが、暇そうにお喋りをしていた。次長が入っていくとひとりが嬉しそうに寄ってきた。淡い色のワンピースのチーフ。
3人が瑤子を見た。皆、瑤子より年上だ。他のふたりは地味な女だった。地味なひとりがコーヒーを淹れにいった。店は古い。白い床が黒ずんでいる。ガラスケースが汚れている。観葉植物は元気がない。埃をかぶっている。
なにより、年齢層が高い。ターゲットは50代か、60代か、それ以上か? 淹れてくれたコーヒーは不味かった。客が来ないから粉が古いのだろう。インスタントのほうがマシだ。
売り上げは……桁が違う。
なにこれ? 1日の売り上げが4900円? ワゴンのセーター1枚? これをなんとかしろ? というのか?
2 チーフ
念願の店長になった。
年上のチーフは協力しない。してくれるスタッフは売れない。売る力がない。
一生懸命でも桁の違う服が売れるご時世ではない。
チーフは要領がいい。手を抜く。客に敬語を使わない。友達感覚だ。それでも客が付いていた。売れるならかまわない。自分が店長になれると思っていたのだろうか? 瑤子の言うことを聞かない。裾上げのときに服が汚れるから、と床に膝をつかない。口答えする。だって、店長……と、馴れ馴れしい。
年上の客には……かわいいみたいだ。チーフの客が来ると瑤子は任せて補佐に回る。コーヒーを淹れる。古い粉は捨てた。タイミングを見計らい、淹れ立てを出した。1度来た客の好みや特徴はロッカーの扉の裏にメモに書いて貼ってある。砂糖ふたつにミルクもふたつ出すと、チーフの客が驚いていた。
その客は『佐々木様』と呼ばれていた。何度か来たチーフの客。チーフは甘えて買わせる。
「佐々木様ァ、レジが動かないんですゥ」
ゼロで閉めたことはない。売上ゼロでは閉められない。スタッフがなにかを買う。安いアクセサリーやスカーフ。いらないスカーフはどんどん増えていく。
『佐々木様』は、しょうがないねぇ、と言って入金してくれる。服はあってもなくてもいいのだろう。
その日はチーフが休みだった。『佐々木様』はそれでも入ってきて服を見ていた。瑤子はコーヒーを淹れた。ブラックだ。他愛のない話。『佐々木様』は瑤子の髪型を褒め、どこの美容院かを聞いた。着ているカットソーを褒め色違いを買ってくれようとした。
「チーフのいるときでいいんですのよ」
彼女は笑いながらカードを出した。いつもは現金なのに。カードを受け取り驚いた。なんてことだ。
「西村様ですか?」
チーフは勝手に勘違いをしていたのだ。客の名を間違えるなんて! 1度訂正したのに、佐々木のまま。
「いいのよ。面白いから現金で払ってたの」
瑤子は立ち上がり丁寧に謝った。
「ダイレクトメールは?」
「こないわよ。佐々木様に出してるんじゃないの?」
誰なのよ? 佐々木様って? 勝手に思い違いして……
チーフにはスタッフから伝えさせた。どんな顔をするだろう? ひどすぎる。そうなると色々耳に入ってくる。スタッフが教える。チーフのミスを。返品先や転送先のミス。1度ではない。ラッピングに値札が入っていたこともある。チーフの接客には心がない。そう言われているらしい。
休みの日に小学生の息子から電話が入る。ママ、お願いします……よくあることらしい。なにをやっているの? ママは?
次長……? 次長も休み?
夕方の休憩時間に髪を巻く。まつ毛がカールされる。40歳をすぎた女が巻き髪であのまつ毛。誰と会うのか? 次長か? 妻帯者の。間違いない。次長と会うためか?
常連客の阿木が言った。
「絶対、カレシいるね」
チーフは瑤子がいないと阿木に話すそうだ。店長はスタイルがいいが……痩せすぎ。次長が言ってた。痩せた女は魅力ない……
「ヒッヒッヒッ」
と阿木は笑う。下品な笑い方。揉めさせるのが楽しくて仕方ないのだ。退屈だから。
地味なスタッフは事務ができる。レジ締めが早い。棚卸しも正確だ。しかし売れない。褒めるのが下手だ。正直なのだ。瑤子のことは褒める。心底から褒めてくれる。客のことは、褒めようがないのはわかるが……
瑤子は働き始めた頃を思い出した。都会のブティック。流行りの服を着たカリスマ店員になるはずが……
「あなた、大学出てるんでしょう?」
店長が呆れた。亜紀に言われた空っぽ頭は計算が苦手だ。割引セールになると計算機で1着ずつ金額を訂正する。他のスタッフは速い。
字が下手だった。ダイレクトメールは手書きで丁寧に。イベントの、素敵な封書は瑤子には書かせてもらえなかった。
観葉植物の世話、花の手入れ、それも仕事のうちだ。店長は厳しかった。
ただひとつ、瑤子の得意なこと……
以前に1度だけ来店した客が久しぶりに訪れた。店長は名前を思い出そうとした。客は名を呼ばれると喜ぶ。瑤子はメモに書いてそっと店長に渡した。
(○○様、看護師。中学受験の女の子)
○○様と呼ばれた客は気をよくした。
「お嬢さまはお元気ですか?」
と聞かれると喜んで合格した学校の自慢をした。保護者会に行くからと、勧められるまま買ってくれた。
「今日は瑤子ちゃんに助けられたわ」
瑤子は努力したのだ。苦手なことも克服したのだ。
「店長、店長、ここはとんでもない店です。客もスタッフも」
康二が店の前で待つ。ひとまわり歳下の男。母親は反対している。当たり前だ。いくら次男だとはいえ、子供を持てる可能性は少ない。
揉め事の好きな下品な阿川と、家の近い放送塔と呼ばれる児島。阿川が嫁いで来た時からの因縁らしい。実家が貧乏だとか、学歴がないとか、あることないこと、さんざん悪口を言われたらしい。児島が店にいると帰ってしまう客がいる。なにを言われるかわからないから、と。
児島がスタッフの娘の悪口を言った。スタッフは喋ってしまったのだ。娘のことを。この女の前で。
勉強が嫌いで、いつも赤点……バイトは熱心で、帰りが遅くて……心配心配。ごく普通の世間話だったが。
児島はわざわざ娘のバイト先の回転寿司まで行って見てきたそうだ。
「ブッサイクなの。偏差値の低い高校」
瑤子の後輩だ。偏差値の低い高校、か。児島はふたりの息子が自慢だ。有名大学。上場会社。嫁も高学歴。
居合わせた、お直し屋が児島の話に便乗する。こちらの息子も高学歴だ。嫁の来手はないが。電話しても挨拶もできないひとり息子。
「私の後輩だわ。私もバカ高校よ」
文句ある?
スタッフに注意した。児島にはペラペラ喋らない方がいい。なにを言われるかわからないから……
「店長も、東京の男と不倫してる……ホストが迎えにきているって言われてますよ」
3 とんでもない客
瑤子は怒らせると怖い。児島を閉め出した。店に来ても相手にしなかった。
「児島様、休憩取らせていただくので、どうぞごゆっくり」
裏でスタッフに言った。児島に聞こえるように。
「コーヒーも出さなくていいから」
雰囲気を察して児島はスタッフとこそこそ喋り帰っていった。
「もう、ダイレクトメールも出さなくていいから」
阿川が面白がった。自分もさんざん悪口を言われてきたのに、面白がっている。半月もすると、
「許してやんなよ。来たくてしょうがないんだから」
また、宝石のイベントか。ここはブティック。宝石屋ではないのに。
児島にイベントのDMを出した。
『児島様のために特別にお取り寄せしました。ぜひ、いらしてください』
果たして来るだろうか? 来るということは詫びを入れて買うということだ。
宝石を売りつけてやる。何年も売れないで残っているものを。何点か。
「お手紙、わざわざありがとう」
児島はなにごともなかったように嬉しそうにやってきた。
「店長。100万までだよ」
充分だわ。
しかし、怒りがおさまらない。嫌な女。どんなにいいものを着ても宝石を付けても似合わない。
うちの店で買ったって言わないでほしい。恥ずかしい。あの頭……いつも帽子をかぶっているが、あの薄い髪……
瑤子は思いついた。ウィッグを販売した。東京の店にいた時に面白いほど売れたのだ。女は歳をとるとどうしても髪が薄くなっていく。自分でさえ若い頃から染めて染めて髪を痛めつけてきた。
社長に相談して手配してもらった。20万以上するウィッグをスタッフにもお願いした。
「ひとり1個売ってね」
この店のスタッフは瑤子に頼りきりだ。売れなければ自分で買う……なんて思ってもみないだろう。スーパーのレジと変わらない時給。店の服さえ着ていない。チーフでさえ。社割で買っているはずなのに。
東京の店では次々に服を買って着た。自分が着て勧めるから売れるのだ。売れるから安く買えた。この店は信じられないくらい高い。
ウィッグは思ったほど売れなかった。阿川は髪が多く必要ない。羨ましいくらいだ。
「毛深いんだ。亭主が、毛深いのがいいって言うんだ」
下品すぎて瑤子は口には出せない。
「なに上品ぶってるの? ヒッヒッヒッ」
金はあるが、義理で買ってくれる女ではない。長い髪は美容院で手入れしているからきれいだ。
児島はすでにウィッグを持っていた。気にしているのだろう。買ったはいいが自分ではうまく付けられない。瑤子はおだてて2個売りつけた。
「ほら、簡単よ。私も買うから。被り方教えるから」
嘘だ。安い給料で買ってなどいられない。いずれ必要になるかもしれないが。
しかし、売上がたった2個では……
そのとき初めての客が入ってきた。場違いの、汚い年寄り。恐れもせず寄ってきた。メーカーの者も瑤子も、あとひとつはどうしても売りたかった。口が動いていた。
「お試しになりませんか?」
女は声をかけられ喜んだ。とんとん拍子だった。まさか、と思ったがバッグから通帳や年金手帳を出した。スタッフにコーヒーを入れさせた。菓子を買いにいかせた。クレジットを組ませた。年金受給者は簡単に通ってしまった。女はコーヒーをお代わりし、ウィッグを被って喜んで帰って行った。
とりあえず売り上げは出来たが、後味が悪かった。どんどん卑劣な女になっていく。
「返品しにこないですかね?」
しばらくは恐怖だった。やがて忘れた。そして1年もした頃、その女は息子とやってきた。汚れたウィッグを持って。
瑤子は後悔した。スタッフは怯えている。とりあえずふたりを座らせた。
「ローンが払えないんです。なんとかしてください」
息子が言った。
なんとかしろったって、もうおたくと信販会社の問題。うちの店はもう関知しない。
息子は物静かだ。余計怖かった。精神の病気で生活保護者。母親はヘラヘラ笑っていた。自分がしっかりしなければ。後始末をしなければ……
コーヒーを出し、社長に相談した。
「支払いが滞ってる。これ以上遅れるとやばいことになる」
やばい?
丁寧に説明した。月々の支払額を減らし、期間を伸ばしてもらった。手数料は社長が払ってくれた。社長に借りができた。
どこぞの社長夫人。愛人に負けずと宝石を買いまくっていた城山。太っているから入る服はない。チーフの客だ。チーフは甘える。甘えたところで入る服はない。たばこを吸う。瑤子はコーヒーを淹れる側に回った。宝石店の若い女のスタッフが後を追って入ってきた。ふたりの女の対決は見ものだった。
「お願い。買って、買って」
露骨に宝石店の女が口にする。
社長夫人はコーヒーを出した瑤子の腕の時計をじっと見た。ロ○○○○をしている女が。タバコがなくなった。瑤子は買いに行った。抜け出したかった。戻りたくなかった。自分がなりたかった店長とは、どんどんかけ離れていく……こんな店にしたくはなかった。
タバコを渡すと城山は恐縮しバッグを買ってくれた。宝石店の女が瑤子を睨んだ。領収証を切った。作業着代として……
旦那に事故で死なれ保険金で遊ぶ女。金谷。小柄で童顔だがかなりの年だろう。ホストと旅行してきた、と自慢する。若いメーカーの男が来ると喜ぶ。こちらも買ってもらうために必死だ。膝をついて裾上げする。褒めまくる。ホストみたいだ。行ったことはないが。
いい客だ。旦那のことを聞くと泣く。いい人だったと。働き者で愛してくれた……空っぽ頭の妻は、旦那の残してくれた保険金を湯水のように使い果たした。金がなくなると買わない。買えない。それでも来た。コーヒーは出さなくなった。さんざん金を使わせておいて、金がなくなれば用はない。居座られても迷惑だ。同じ話を何度もする。聞いてやる暇はない。暇だが……
やがて金谷は来なくなった。2年後には施設に入ったと放送塔の児島が教えた。そんな年だったのか?
「金を使い果たされた息子は店長を恨んでるよ……怖いわねえ」
すぐそばのスーパーの経営者夫人の伊佐。初めから不穏な雰囲気だった。いつもチーフとこそこそ立ち話をしていた。瑤子が休みのときはカウンターで座って話し込んでいるのだろう。食堂の奥さんの悪口を言っていた。痩せててなんの魅力もない……
ある日、伊佐が真っ青な顔で入ってきた。
「チーフ、どうしよう? バレちゃった」
ただごとではないらしい。いいお客様なのだ。瑤子はスタッフルームで話を聞くよう勧めた。
ドアに耳をつけて聞いた。
「バレた。娘にも言いつけるって」
「とりあえず、謝っちゃえば……」
「なんで謝らなければならないの?」
「同じ町内でやるからよ……私はダイジョウブ」
チーフは面白がっているようだ。
不倫が相手の奥さんにバレた? 修羅場。相手の男は……? まさか、あの食堂の旦那? あの、年寄りのなんの魅力も感じない……
修羅場……皆を傷つけた。婚約者の三島。従姉妹の亜紀。愛してしまった亜紀の夫、英輔さん……1度も相手にされなかった。
「英輔さんは私を見ていた」
「英輔が見てたのはあんたなんかじゃない」
「誰?」
「……英幸」
「坊や?」
「坊やのママよ。坊やそっくりの英輔の元妻。最愛の妻。ただひとりの愛した女。空っぽ頭の瑤子なんか見るわけないわ。
この家には亡霊がいるの。生き霊。ほらっ、そこ!」
亜紀が瑤子の後ろを指さした。
「坊や、もう10年経つわね。あなたももう、パパになった。いいパパになるわね」
母、母には苦労のかけ倒しだった。親孝行することもなく……この頃は後悔している。今の瑤子を見たら……嘆くだろう。
「瑤子、おまえ、なにしてるの? なくすわよ。なにもかも」
なくした。若さも。もう若くはない。
康二は? 康二をもう解放しなくては。手放さなくては。
伊佐は家を出て行った。子供を残して。食堂の夫婦は元の鞘に収まった。店は繁盛している。仲のよい夫婦の店。スーパーも繁盛している。ただ、主人は瑤子を見ると嫌な顔をする。まるで瑤子が悪いように見る。派手な女が妻をそそのかしたのだと。もう、瑤子はスーパーには行けなくなった。
4 とんでもない店
元市議会議員の奥様の沢木は開店当時からの客だ。クレジットの限度額がいつもいっぱいだ。日に3回来る。コーヒーを飲み、茶を飲み、自分には小さすぎる服を試着し伸ばす。目に余る。そして、歳だからトイレを汚して帰る。スタッフが嘆く。
彼岸には、おはぎを持ってきて我が物顔に振る舞う。瑤子は唖然とした。おはぎは好きかと聞かれ、はい、と答えたのだろう。沢木は自転車を押してくる。重箱に入った何種類もの手作りのおはぎ。皿に割り箸まで。何人分?
しかたなく瑤子は食べた。絶品だった。おもわず褒めると沢木は長々と説明した。嬉しそうに。小豆は取り寄せ、砂糖は何種類か、オリゴ糖も混ぜるの……店長、店長、もうひとつ召し上がれ……
母もよく作っていた。瑤子は年頃になると、太るからと食べなかった。ひとつくらい……母の言葉にいらついた。
「太らせたいの? ママはいいよね。がりがりで。こんなの作って待ってたって、パパもおにいちゃんも勝手なことしてる。ママも遊べば? おしゃれしてよ。お化粧くらいしてよ。恥ずかしい」
ひどい娘だった。ひたすら家を守ってきた母に、親孝行する間もなく……
おはぎは居合わせた常連、お直し屋までがご馳走になって褒めた。しかし、レジは動かない。
「困ったわねえ……」
沢木の方を見た。褒められ気をよくした女は、取り置きしてある服を入金してくれようとしたが、限度額が足りなかった。
「お直し屋さん、たまには買ってくださいよォ。似合いそう」
セーターを勧めた。調子のいい女だ。どんなに褒められようが前に侮辱されたのだ。母校をけなされたことは忘れない。バカの○徳高校、と。
チーフが辞めた。息子から電話がたびたびくることを言い、次長とのことをほのめかした。社割でよく買っているけど、誰に売っているの? と問いただすとすぐにやめると言い出した。思った通りだ。ひとりの時に定価で売れると、レジを操作し割引分を懐に入れていた。コソコソと。
チーフは有休を使いきり、もう店には来なかった。4人で回していた店を3人で回す。社長は募集する気はない。売り上げのない日曜日を休みにするから3人でやれと言う。スタッフは時間を増やす気はない。給料が増えれば引かれる金額も増える。店の服も余計に買わなければならなくなる。なにもいいことはないのだ。結果的に瑤子の出番が増えた。
次長が会社を辞め、チーフが店を出した。遠慮なく客を奪っていく。数日、売上がひどかった。康二を誘いヤケ酒を飲んだ。
ヤケ酒を飲んだ店で知り合った澤地。記憶は曖昧だった。飲んで意気投合したらしい。年配の女に、ママ、ママ、と甘えた。似ていたのは年齢だけだ。それに体型。痩せていて貧相な体つき。
澤地は派手で取り巻きがいた。瑤子は酔っても観察していた。服は高価だ。瑤子の店とも取引があるブランドだがランクが上だ。指輪の宝石は半端な大きさではない。デザインも瑤子が店で扱うようなものとは違っていた。
頭の片隅に打算が働いた。誘われてデュエットし、ご馳走になった。澤地は当然のように皆の分を払った。現金で。
翌日は頭が痛くてスタッフルームで休んでいた。レジは動かない。夕方になりようやく元気が出てきた。取り置きしてある客に電話をしてみたが、誰も来てはくれなかった。買わない客ばかりが来て長居をしていく。
諦めた頃に澤地は来た。名刺を渡しておいたのだ。
閉店間際に来た澤地は1日の予算分以上を買い、現金で払ってくれた。そして誘った。瑤子は断れない。澤地はいい客になる……
思ったとおりだった。澤地は連日訪れ、来るたびに現金で買い、瑤子を誘った。寿司屋、カラオケ。すべて払ってくれた。
店で居合わせた児島が澤地に話しかけた。住まいや仕事を根掘り葉掘り。この女は誰に対してもそうだから嫌われる。澤地は相手にしない。席を立ち試着室に入った。児島が瑤子に耳打ちした。
「○○寺の奥さんよ」
「……?」
「お布施が高いわよォ。生臭坊主。金庫が札束で閉まらないって」
「……」
「地元では遊べないからねえ」
宝飾のイベントには澤地のために特別なものを用意させた。当日は社長が澤地のために取り寄せた酒を持ってきた。宝飾のメーカーの男ふたりも高価な菓子を手渡し機嫌を取った。ターゲットは澤地ひとりだ。
買う気で来ていた澤地はあっさり決めた。帯付きの札束を3つ出した。スタッフがすぐに入金に行った。そのあとは、早めに店を閉め、皆で澤地の供をした。この日ばかりは社長の奢りだ。
しかし、瑤子は疲れた。売上のために自分の時間まで削る。客に配るために次から次に菓子を取り寄せる。自腹だ。給料は上がらない。休日が減っても手当はつかない。賞与は少ない。やっていられない。やめたくなる。
澤地が痩せてきた。元気がなくなってきた。歩くのが遅くなる。病気か? ガンではないのか? 意固地な澤地は病院へは行かず、やがて店にも来なくなった。連絡も来なくなった。どうしたのだろう? さすがの児島にもわからないらしい。
「もう、自由にできるお金がなくなったんだよ。息子さんの代だし」
それでもいい。去る者は追わず。来ないで。もう、来ないで。付き合いたくない。
「トイレ、貸してください」
5歳くらいの女の子と母親が店に入って来た。
「どうぞ」
と言ってから後悔した。安っぽい服。出産後戻していない下半身。上半身は痩せているのに。黒のセーターにベージュのパンツ。下半身の太さを強調し、胸を貧相に見せている。引っ詰めた髪に個性のない服。母も娘も安価な服。
トイレを使ったあと、母親は服を見ていた。悪いから買ってくれようと思ったのかもしれない。しかし、自分が着ているのとは1桁違う価格。そのセーター1枚分が1ヶ月の食費だったりして……しかし、似合わない服。なぜ体型をカバーしようとしない?
「試着してみませんか?」
とんでもない、と、女は言った。セーターを身体に当ててみせた。ピンクの素敵なデザイン。顔がぱっと華やかになった。
「明るい色がお似合いですね。着るだけでもいいんですよ。買わなくても」
娘に勧められ女は試着室に入った。出てきたときには瑤子は黒のパンツを持っていた。
「お似合いです」
本心だった。明るい色が似合う。羨ましい。瑤子は黒が1番似合う。本当はピンクや淡い優しい色を着てみたいのだ。しかし、似合わない。ピンクなど着ようものなら……空っぽ頭、に見えてしまう。
「ママ、きれい」
娘が嬉しそうに言った。パンツを履かせ裾上げをした。失礼、と言って髪をほどいた。サンプルでもらってあったきれいなピンクの口紅を塗ってやった。これも瑤子を、空っぽ頭に見せる色だ。
「ママ、いつもそうしていて」
女はしばし生活苦から逃避した。しかしすぐに現実に戻り元の格好に戻った。
「すみません。着るだけで」
「かまわないわ。明るい色がお似合いです。口紅くらいつけたほうがいいわ」
買わない、客でもない女にサンプルの口紅をあげた。服のアドバイスをし、下半身を細くする体操を教えた。靴を脱いで教えた。
母娘を入り口まで見送った。女は恐縮して何度も礼を言った。
「ママ、きれいだったね」
「今日は、餃子作ろうか。一緒に手伝ってね」
「うん、手伝う。手伝う」
売れなくても瑤子は満足だった。次からは服の色を気にするだろう。たとえ、安い服でも。おしゃれしてほしい。生活に余裕がなくても。工夫してきれいでいてほしい。
かわいい娘だった。娘……もう、瑤子は諦めていた。
その日は売上がなく瑤子は取り置きしていたセーターを入金した。もう、やめたい。限界だ。
いちばんの客
東京のブティックで働いていた時に買った時計を阿木に褒められた。働き始めたときにどうしても欲しくて、クレジットを組んで買ったのだ。いくつも売っていた凄腕の店長は、メーカーに掛け合い安くさせてくれた。ホワイトゴールドの時計は売りに出せば大した価値はないが。
「欲しい。欲しい。金ならあるんだ」
阿木の口癖。瑤子と同じものを欲しがる。
「児島もきっと買うよ。あたしが買ったってわかれば」
やってみるか? 店長と売った時計。100万するものを売れるだろうか? いくつ?
社長に手配してもらう。皆に買わせてやる。スタッフには……
時計が5個売れた。社長は喜んだが瑤子はもうひとつ売りたかった。クレジットを組んだひとりが癖のある客らしい。以前にもキャンセルをした。長い時間かけて考えていた。誰も勧めなかった。あとでキャンセルされるくらいなら。ところがその客は購入した。クレジットを組んだ。でもキャンセルが怖い……
そのとき社長夫人の城山が入ってきた。突然。チーフが辞めたことも知らない。入る服はないから知らせなかったのだろう。城山は憮然としていた。瑤子が丁寧に謝り灰皿を出すと機嫌を直した。時計は瑤子からは勧めない。興味はあるはずだ。金も。
城山はコーヒーを飲むと立ち上がり時計を見た。メーカーの男性が勧める。さりげなく。腕にはめる。ロ○○○○をはずして。気に入ったようだ。
「店長、100万だよ。キャッシュだから。消費税なんて言わないでよ」
「社長にお願いしてみます」
勿論OKだ。もっと負けても構わないのだ。
城山はバッグから封筒に入っている札束を出した。帯付きだ。
「確認して」
スタッフが数える。宝石店で使うつもりだったのだろう。あのスタッフに知られたら恨まれそうで怖い。
6個……凄腕の店長は面白いように売っていた。時代が違うのだ。3人は現金だ。ひとりはキャンセルになるかも、と言ったが社長は大喜びだった。
翌日、案の定キャンセルの電話があった。予感していた瑤子はスタッフに任せた。長い電話、スタッフは丁寧だ。主人がもっと安く手に入る、と。弁護士に相談する、とまで言い出したらしい。
スタッフは電話を切るなり言った。
「2度と来るな。バカヤロー。DMも抹消してやる」
おとなしいスタッフの怒りがおかしくて、瑤子は冷静でいられた。高額の商品をたやすく買えるわけがない。世のご亭主は知らないのだ。服や宝石の値段を。児島は値札をすべて取らせ、わざわざスーパーの袋に入れて持ち帰る。
あと、どんな客がいただろうか? 銀行で会った女社長も瑤子をかわいがった。瑤子の着ているスーツを褒め、銀行帰りに店に寄っては買ってくれた。この女社長は東京へ行くと瑤子が働いていた店に行き、いろいろ買ってきてくれた。
懐かしい店長のステキなラッピング。店長の見立てのプルオーバー。なによりも嬉しいのは懐かしい店の話。女社長は仕事で各地に行く。そのたび、瑤子に土産を買ってきてくれた。
瑤子の母親くらいの年齢だ。自分のことは話さなかった。瑤子も、聞かなかった。
売上のためではなかった。無理に買わせたりもしなかった。いや、してもらったことの方が多い。なぜ、あんなによくしてくれたのだろうか?
今となってはわからない。突然来なくなり携帯も繋がらなくなった。繋がりは途絶えた。あの、大地震のあとに。
介護士の山本を常連客にした。最初ワゴンを見ていた。声をかけると嬉しそうだった。冴えない、ブティックには似合わない女は毎日来るようになった。趣味もなく友人もいない。家では夫とも口を利かないと言う女は喋りまくる。夫のこと、嫁のこと、上司のこと、楽しい話ではない。聞くに耐えない悪口ばかりだ。機関銃のように吐き出していく。そして高い服を買う。似合わないが。
ワゴンの商品さえ躊躇していた女が、以前は座れなかった椅子に座り、ふんぞり返りコーヒーを飲む。『山本様』と呼ばれるのが嬉しくて服を買う。瑤子が取り寄せた1000円の菓子をもらい、高い宝石を買う。長いクレジットを組む。つけていく場所もないのに。
学校給食の調理職員がいた。初めて見たときに着ていたコートは雑誌に載っていた。太った垢抜けない女が着ると同じものには見えないが。瑤子に褒められ気をよくした女は常連客になった。ひとり暮らしの寂しい女はだんだん図々しくなっていった。花器を持ってきてカウンターに花を飾った。堂々と生ける。我が物顔にキッチンを使う。買ってくれれば文句はない。
その女は退職金の半分を2年で使い果たした。そして来なくなった。気が付いたのだろう。すべてを使い果たす前に。
どこぞの女社長はワゴンの安いセーターを従業員にと、20枚ラッピングさせ箱代をサービスしろと言ってきた。ラッピングしている間にパチンコで5万円すってきた。2度と来るな、と思ったが営業用の笑顔はたいしたものだ。
翌日女社長はまた来た。垢抜けたラッピングに従業員が大喜びしたと。
「パチンコ行かないで服買ってくださいよォ」
どの口から出るのだ? チーフがしたように甘えた。
女社長はときどき顔を出すようになった。たいしていい客ではないが。
スタッフが元気がなかった。真面目な几帳面な女だ。口臭がした。胃が悪いのか? 痩せたようだ。瑤子はデンタルリンスを買って手渡した。
「言いにくいけど、接客業なんだから」
井上は娘のことで悩んでいた。瑤子の高校の後輩の娘は髪を染め、家に帰ってこない。電話に出ない……
そんなこと……自分の学生時代と重なった。田舎では髪を染めるだけで大騒ぎされた。おしゃれをしたかっただけなのに。勉強は嫌いだった。高校は制服で選んだ。爪を伸ばし、スカートの丈を詰めた。試験はいつも赤点がある。母はその度学校に呼び出された。
「貧相な格好で来ないでよ」
思えばひどいことを言った。母は真面目な女だった。このスタッフと同じように。
試験が終わると休みに入る。瑤子は金髪にした。ところが数学の追試験。遊びに来ていた従姉妹の亜紀が勉強を見てくれた。亜紀が呆れるほど瑤子は遅れていた。
「空っぽ頭。今に禿げるわよ」
公式の丸暗記。暗記は得意だ。楽譜を何ページも暗譜できた。
「追試受かったら東京案内してあげる」
進級できたのは亜紀のおかげだ。
瑤子は自分の思い出話をして安心させた。飲みに連れて行った。
「たまに、ハメを外そう」
真面目すぎる女は酒が入ると陽気になった。
「なにを悩んでいたのだろう? 飲めば、こんなに楽しいのに」
ハメを外した。スタッフの夫はタクシーの運転手。その夜は帰らない。娘が、さすがに心配して電話をしてきた。瑤子は代わりに出た。
「ハーイ。あなたの先輩よ。偏差値の低い高校の。バカの大先輩。おかあさんは楽しんでるから。
今晩は帰らないからね。明日自分で起きてちゃんと学校行くのよ。もう、あんたの母親はやめたから」
大声で笑って電話を切ってやった。
どちらかなのだ。母が心配させるか、子が心配かけるか。
クレジットの明細を見て驚いた。客に配ったお取り寄せの菓子。社長は経費を出さない。販促費が遅れている。賞与は君が1番多いのだ、と。売り上げがないと自分で買っていた。スタッフには買わせずに。
客は瑤子だったのだ。社長やスタッフや客にまで褒められ、チヤホヤされて買っていた。1番のお客様は自分だったのだ。空っぽ頭だから、今の今までわからなかった。
入金しておかなければ……やばいことになる。母の残してくれた金に手を付けた。自分のわずかな貯金を使い果たした。なにをやっているのだろう? このまま続ければ母の金まで使い果たしてしまう。スタッフも同じだ。辞めたがっているのがわかる。
もうレジはゼロで締める。もうクローズだ。もう無理だ。
給食調理の女が孤独死していた。児島がどこからか聞いてきた。もうずいぶん経つ。去る者は追わず……ひどい女になってしまった。今にバチが当たる。同じように……
食欲がない。痩せた。気持ち悪い。もしかしたら……? ガン?
この曲は……英輔さんの好きな曲。いい曲だわ。死ぬ時に聴いていたい。エルガーのチェロ協奏曲。
もう戻ってこないの? そうよ。田舎で朽ち果てる……
広い家でこのまま死んでも迷惑はかけずにすむだろうか? 死んで朽ち果てるまで発見されなければ……完全に朽ち果てるまで見ないで!
悲しすぎる。亜紀……助けて。坊や、きれいだって言って……
きれいだよ。瑤子、愛してる。死ぬ瞬間は気持ちいいらしいよ。モルヒネの何倍もの快感……
君は妖怪だな。歳をとらない……三島さん……
康二、康二、私を見つけて。きれいなうちに。きれいなまま焼いて……焼いてもらわなきゃ……
「化粧落とさないと」
瑤子は悲鳴を上げた。
「焼いて。きれいなまま焼いて」
「瑤子」
「髪が……抜けた。大量に。ウィッグ買っておけばよかった」
瑤子はショックで店を休んだ。悪徳ブティック。今になにもかも失う。
失った。両親、良心。従姉妹の亜紀、英輔さん、英幸君、三島さん……
康二は、康二だけは失いたくない。
店が倒産した。スタッフの井上から電話がきた。夕方突然のことだった。ファックス1枚だけだったそうだ。それをシャッターに貼り店を閉めて帰った。
社長は電話に出なかった。翌日、店を片付けた。返品処理をした。客から電話がきた。瑤子は出ないわけにはいかない。事情を説明した。同情が多かった。頑張ったのにね……店長のせいじゃないよ。
そうよ。給料出ないのよ。まだクレジットがどれだけ残っていることか……
スタッフは喜んでいた。失業手当を計算している。瑤子の分まで。勤続10年以上……
がらんとした店内。瑤子は何枚か写真を撮った。夢のあと……終わった。しかし、これほどの解放感を味わったことはない。
店の外で康二が待っていた。
「お疲れ。なんか、晴れ晴れした顔してるね」
「せいせいした。失業手当はすぐもらえるし。しばらくのんびりしたい。ムカムカするし」
身体は疲れ切っている。精神も。吐き気がする。食欲もないし。生理も……まさか、もう更年期とか?
「もう、女じゃなくなる……?」
「瑤子?」
「薬局寄って。胃薬買うから」
駐車場で康二を待たせた。急いで目当てのものを探した。買うのは初めてだ。
冴えない客と娘の顔が浮かんだ。
(ママ、いつもきれいでいて)
チーフの息子の電話の声を思い出した。
(ママ、いますか?)
「ママになるわよ。絶対なる。勉強しなきゃ」
会計を終わると目の前に康二がいた。
康二はすでに父親の顔をしていた。
(了)
店長になりたかった