人生の悪魔
一―一
マチュニュイとは決して繋がることのない妄想と現実を、もう二度と離れることがないほどに、固く結びつけることのできる秘術のことだ。人はマチュニュイを習得することによって、自分が脳内に思い浮かべた最高の人間像を、実際にこの現実世界に創造することができる。僕はこの秘術、マチュニュイを取得するために約半年の間、毎日欠かさずに修行に励んだ。そしてとうとう僕は、奇跡を起こすことに成功したわけだ。
今、僕のすぐ側には、僕だけが存在を感知することのできる一人の女の子がいる。彼女の名前は葵で、その名は僕が命名した。
彼女は僕と同い年の十七歳だ。けれど容姿は年齢に比べて幼く見える。彼女は全体的に小柄で、たぶん、多くの人が最初に彼女を見た時に抱く印象は、見た目が優しそうだとか、穏やかそうだとか、そういう類のものに違いない。
葵の身長は同世代の女子の平均に比べて、やや低い。丸い輪郭の顔も小さく、セミロングの肩にかかる髪がふんわりとしていて、見るからに綿飴のように柔らかそうだ。そして彼女の一番の魅力は、目尻が下がっている大きな瞳が、いつであれ茶色にはっきりと輝いていることだ。その両目には、一度見れば思わず自分の視点を留めてしまうような、可愛らしさが光り輝いて溢れている。
僕にとって葵は、一つとして落ち度のない完成された女性だ。僕は彼女の容姿も性格も、この世で最も完成されたものだと思っているし、僕は彼女のことを頭の天辺から足の爪先まで愛している。そもそも僕は彼女を、自分の最も理想的な女性像を頭に思い浮かべて創造したのだから、僕が彼女を愛さないわけがない。けれど勘違いをして欲しくないのは、僕は性的欲求を満たすために彼女を創造したわけではないから、僕は葵を自分の恋人にしようだなんて、微塵たりとも考えたことはない。
ここで誓ってもいいけれど、葵は僕の一生の純愛的な友人であり、その関係が変わることはこれから先にかけて絶対にない。僕と彼女の関係は一生を通して純白なもので、それを彼女が異性だからといって、僕がその純粋な色を濁してしまうことは絶対にしない。僕達の関係はずっと、爽やかな風のように透き通っていて、暖かな空のように光で溢れているはずだ。
僕が葵を創り始めたのは、高校一年生の秋頃だった。まず、彼女をこの世に創り出そうとした動機だけれど、僕が暇潰しのために携帯でインターネットを使っていたら、たまたま僕は、マチュニュイについての説明が記載されているウェブサイトを発見したんだ。
僕は初めてマチュニュイの存在を知ったとき、この一度たりとも聞いたことのないカタカナ読みの秘術について、全く信じる気になれなかった。こんなものは嘘っぱちに決まっているとしか思えなかった。けれども僕は、そのブログに書かれていることが嘘八百であることを知っていながらも、どうしてか心の隙間を突かれてしまったわけだ。
気付けば僕は好奇心を隠せずにまじまじと、マチュニュイについて書かれた文章を、最初から最後まで読んでしまっていた。けれどいくらその文章を一字たりとも飛ばさずに読んでみても、やはりそれを信じる気にはさらさらなれなかった。それでも葵を創り出した僕の執着心は、病的であると誰かに指摘されても仕方がないだろう。
確かにあの時の僕は病的だった。どこの部位を患っているのかと誰かに尋ねられたのならば、あの時の僕は一言で脳みそと答えただろう。それにその病は今になっても治ることはなく、現在も僕の人生を蝕み続けているわけだ。
僕はマチュニュイの存在を知ったあの頃、自分の人生に嫌気が差していた。全く面白味のない人生だけが自分に許された時間だというのならば、僕は明日にでも死んでやろうかと、いつも真面目に考えていた。
それにしてもどうして、僕がそれほどにまで漠然とした憂鬱を、胸の奥に潜めなければいけなかったのか。もし誰かが僕にそんなことを聞くのなら、そんな奴は間抜け野郎と罵ってやる!そいつはきっと、悲しみというものをちっとも知らないんだ。
まず言っておくけどね、真実の悲しみに根源などというものは存在しない。真実の悲しみというものは常に抽象的なわけだ。それは真っ白で、近づけば冷たい雫だけが衣服に纏わりつく秋の夜霧のようなものだ。もっと言えば、それは霧に例えるほど現実的なものでもないし、幽霊だとかに例えた方が妥当であるのかもしれない。
悲しみは幽霊に似ている。それらは常に僕らを脅かすけれど、いざ僕らからそれに近づいてみると、それらは絶対に姿を現してはくれないし、その存在は余りにも幻想的だ。
きっと誰かは悲しみが幻想的だなんて、お前の言うことはめちゃくちゃくちゃだ!などと反論をするかもしれないね。けれど悲しみが幻のような存在であるということは、決して大袈裟ではない事実なんだよ。そして悲しみの一番に厄介なことは、余りにも抽象的ではっきりとしない、ぼんやりとした悲しみの存在が、一年の内に多くの人間を自殺させてしまうほどの、恐ろしい力を持っているということなんだ。それは実に不思議だ。どうして視力では見られない虱よりも小さな存在のために、多くの人々が自殺をしてしまうのだろうか。これは本当に不思議なことで、そもそも僕は悲しみについて、本当は何も知らないのかもしれない。
ここで僕なりの悲しみに対する持論は終わりにするね。ここで僕が一番に伝えたかったことは、僕は高校一年生になった春からずっと、僕が先ほどに述べた悲しみというものに、自殺を考えるほど毎日を憂鬱にさせられていたってことなんだ。
僕は憂鬱というものに、大変に参ってしまっていた。鬱病患者になら理解してもらえると思うけれど、人は憂鬱に悩まされているときは、必ず何とも説明のし難い孤立感に襲われる。そして憂鬱状態に陥る者にとってはこの孤独感こそが、第一に忌み嫌うものになる。
憂鬱という虫が僕の頭皮から多量の血を吸い込んでいた頃、やはり僕だって血を吸われる痒みなんかよりも、それが無限に生み続ける孤立感のほうが辛かった。僕はその苦しみがなくなるためだったら、どんな疲労をも惜しまなかっただろうし、事実、だからこそあんなバカみたいな話を、行動に移してみようと思ったわけだ。
僕は葵を創り出すために約半年もの時間を費やしたと言ったね。自分でもよくこのバカみたいな試みを、途中で投げ出さなかったことに対して不思議に思っている。
ここで葵を創り出した過程を説明するね。
まずマチュニュイの修行を試みてから、葵が見えるという視覚的認識よりも先に、自分の聴覚を通して彼女の存在を認識することに成功した。初めて葵の声が聞こえたのは、マチュニュイの術を試みて約一ケ月が過ぎた頃だったと思う。それでも最初は会話なんてものはできなかったし、ただ人間の言葉にもならない掠れ声が、途切れ途切れ僕の耳元に聞こえてくる程度だった。
視界に映らない透明人間と会話ができるようになるまで、僕はまた多くの時間を費やした。そしてようやく会話ができるようになってからまたもや長い時間を費やして、初めて自分の視覚で葵の存在を認識できるようになったわけだ。
葵の声を初めて聴覚で感じ取ったとき、僕は初めてマチュニュイに関する情報が、嘘偽りのないものであると確信を持った。でも普通の人ならば、声が聞こえるようになるまでの一カ月間という期間で、根気負けしてしまうに違いない。いくら事前に長い期間を要することを知っていたとしても、その退屈な時間の消費の中で今に自分がやっていることがバカバカしくなって、途中で修業を放り投げ出してしまうのが、興味本位に始めた若気の至り話の結び目だろう。けれど僕は何も起こらない一カ月間で、非現実的な目標のための努力を、どれほどにバカバカしいと感じたって、一度として諦めることはしなかった。
どうして僕は、それが空想的な話であると一度として疑いを捨てなかったのに、最後まで無駄な努力をやり通すことができたのか。その理由は二つ考えられると思う。
一つ目の考えは、その僕が最後まで諦めずやり抜いた結果は、神様が僕に与えて下さった運命であるという考えだ。とは言ったものの、僕は悪魔の存在は信じていても神様の存在だなんて、ミジンコの大きさほどにも信じていない。
そしてもう一方の考えは、非常に簡単に説明をすることができるのだけれど、それは僕の頭は狂っていて、僕がキチガイだからという問題に他ならない。実際、僕は自分のことを余りにも病的なキチガイだと思っているし、やはり僕がマチュニュイの実現化を諦めずに葵という人口霊体を創り出したのも、僕が狂人の極みであるからだろう。けれどこんなことは別にどうだっていい話だ。
今日は夏休み明け最初の授業が始まる日だ。
僕は毎日、目覚めの悪さに悩まされていて、大抵、もう登校時間に間に合わない時刻まで眠っている。だから僕は高校一年生の頃はほぼ毎日、一限目から教室の席に座っていることがなかった。
僕も自分の目覚めの悪さには飽き飽きさせられている。僕だってできるものならば遅刻だなんてしたくはない。けれどこればっかりはどうしようもなくて、高校一年生の最後にもらった通知表には、軽く五十を超える数字が遅刻の欄に記入されていた。自分でも進級できたのが不思議なくらいだよ。
高校二年生になった今、僕の朝の弱さが一年前と変わるわけもない。僕はいつだって、まるで布団に強力な粘着テープが張り詰めてあるのかと思うほど、布団から起き上がれないでいる。けれど高校二年生になってからというもの、何と僕はまだ一度も遅刻をしていないんだ。これには一年時から変わらない担任も驚いていた。
でもどうして?と必ず君は思うだろう。いやもしかすると、もうその理由を予想、或いは確信しているのかもしれないね。そう、僕の遅刻が無くなったのは葵の働きのおかげなわけだ。そして、この日も僕は葵に体を揺すぶられ、やっとのことで目を覚ました。
「悠耶くん起きて下さい!今日から学校ですよ!」
僕は葵に幾度と大きな声を出してもらって、やっとのことで眠りから解放されたんだ。目を覚ませばベッドで横になる僕の頭のすぐ側で、もう僕の通う学校の制服に着替えている葵が正座していた。
ちなみに僕は毎夜、自分の部屋のベッドの中で葵と隣同士で眠っている。このことで、殆どの人が僕達の関係を疑わしく思うだろうね。確かに同い年の血の繋がっていない男女が同じベッドで眠っているなんて、誰だってその話に性的な興味を持ってしまうのは当然だ。けれど僕は多くの大衆の興味に反して、葵に対し性的欲求を全く抱いていない。なんだって僕は、彼女のことはこの世で一番の親友だと思っているし、僕は永遠の親友が欲しいことを理由に、葵をこの世に創り出したのだから。そんな彼女に僕が性的視線を注ぐわけがないよね。もし僕が葵をそのような目で一度でも見つめるものならば、それは余りにも残酷で非道徳なことだ。僕にはそのようなことは決して信じられない。
話は戻って、僕は自分の身体を頼りない両手で揺さぶる可愛らしい友達を、今開かれたばかりの寝惚け眼で見つめながら、現在の時刻を尋ねた。
「もう八時ですよ!」
僕はそれを聞いてすっかりと目を覚ました。
僕の通う高校の登校時間は八時三十五分までと決まっている。その時間になればチャイムが鳴って、その音が鳴り止まない内に校門を潜らなければ、例えまだ学校内にチャイムの音の振動の微力が余韻として残っていたとしても、その哀れな生徒は遅刻扱いとなって「遅刻カード」というものを突き付けられる。
これがまたすごく厄介な代物で、それは二枚までならばただの紙切れ同然で質の悪いペラペラの、手の平サイズの紙にすぎない。けれどそれが三枚溜まったものならば、こちらがその回数を覚えていなくても、お弁当を食べ終えた後のお昼休み、生徒指導室からわざわざ校内放送を使って有難くフルネームで呼び出されることになる。そして数多くいる生徒指導室の先生の内の一人から、十分程の社交辞令的な説教を頂戴して、その上、八百字詰めの原稿用紙まで押し付けられるものだから、ずうずうしいにも程があるよ。もしそれを受け取ってしまったのならば、例え高熱を患って休校したとしても、その日から一週間以内に反省文を書いてこなければいけない。
僕はこの阿呆な伝統的約束事が大嫌いなんだ!だって考えてごらんよ!僕が何度も遅刻をするのは、自分の朝の目覚めが病的に悪いからだけれど、こんなこと、どうして反省しなくちゃいけないんだ!
僕だって可能なことならば、毎日、朝早くに気持ちよく目覚めたい。けれどそれができないでいるから僕は遅刻をするし、それがお説教や反省文で治療できるものならば、この世に病院なんてものはいらないね!
要するに僕が言いたいことは、例え僕の他に遅刻をする者がいないとしたって、僕は決して自分の遅刻癖を治すことはできないってことなんだ。「他の皆はできている。」だなんて言葉は糞ったれだ!そんなものは、うじうじと動く虫けらみたいなもので、朝一番から雀かなんかの小鳥に突かれればいいんだ!
また僕はつまらない話をしてしまったね。再び話を戻そうとしよう。
僕は毎日、自転車で学校まで通っている。自宅から学校まで急がずにペダルを漕いだとしても、だいたい三十分ほどはかかる。
さっき葵は今の時刻を八時と答えたから、僕は大ピンチなわけだ。僕は五分間で朝の準備を済ませてしまって家の玄関を出た。
僕は勢いよくサドルに乗っかった。次に葵がサドルの後ろにある荷台にスカートを両手で押さえて座り込む。
登校中に見る景色は殆どが田んぼで、一見、僕と葵は爽やかな青春映画に出てくるような初々しいカップルにも見えるだろう。でも彼女を見ることができるのは僕一人なわけだし、誰だって僕の肋骨の辺りを両手で持ってバランスを取る葵の姿を見て、僕のことを幸せそうだなんて思わないだろうけどね。葵を見ることができるのは、この世界で唯ただ一人、僕だけなのさ。
僕はいつもより急いで自転車を漕いだ。当たり前だけれど遅刻をしないためだ。自宅を出て十分程が経過した頃、僕は左腕に巻かれた時計で時刻を確認すれば、まだまだ間に合いそうで安心した。
僕は辺りに誰もいないことを確認して葵に話しかけた。ちなみに僕にとって自分の周囲に誰もいないのを確認するということは、睡眠や食事といったことと同じくらい大切なことだ。なんせ葵を見ることができない僕以外の人からすれば、僕が葵に向ってぺちゃくちゃ喋ったりゲラゲラ笑ったりするのは異常でしかなくて、それを見る他人はきっと僕を精神異常者だと思うに違いないからね。それも軽度ではなく重度の精神異常者だ。もし知り合いにそんな光景を見られたならば、僕はきっと病院送りにされてしまって、聞いたことのないカタカナの名前の薬を、まるでフリスクのように飲み込む毎日が始まるだろうね。
周囲の安全を確かめて僕は葵に話しかけた。
「今日から授業が始まるけれど、よろしく頼むね。」
「悠耶くんも授業をサボらずに受けて下さい。いくら私がテストのときに隣で答えを教えて上げたとしても、悠耶くんがノートを取って提出しなければ、それだけで成績が下がってしまいます。」
「僕は通知表に赤点さえなければそれでいいんだ。いくら僕が提出物を出さなくても葵がしっかりと授業を聞いてくれて、テスト時に僕に答えを教えてさえくれれば、僕は良い点数を取れるわけだし、それだけで通知表の赤点は免れるからね。」
「どうして悠耶くんは高みを目指そうとしないのですか?悠耶くんがノートさえしっかり取れば、通知表は四と五の数字で埋まります。そうすれば三年生の進路を決めるときに、選択肢がたくさん増えるはずです。」
葵は自転車が風を切る音に負けないぞとばかり、大きな声で僕に話した。それでやっと弱々しい彼女の声は僕の聴覚を刺激した。
僕は穏やかな口調で、葵の髪を優しく撫でるかのように声を発した。
「僕は通知表ってものが大嫌いなんだ。あの紙切れの何が許せないかって、あのやけに上等な画用紙一枚で自分の人間価値がどうのこうのって、別にそういうわけではないんだよ。僕はあの硬すぎてトイレットペーパにもならない紙屑を、学校全体の殆どの奴が、怖れ敬っている事実が、心から情けなくて仕方がないんだ。
あれは偶像礼拝もいいところだよね。時には格好を付けて大人に反発する野郎でさえも、通知表に関わることでなら、先生にペコペコと頭を下げてしまうものなんだからさ。要するにあいつらは精神の売春をやっているんだ!あんなこと、僕には我慢できないね!それとおかしなことに、大して勉強をしていない奴でさえも通知表を受け取る日となれば、まるで気でも違ったかのように目をギラギラとさせて何かを呟いているじゃないか!それで成績が悪ければ涙目だって?厚かましいにも程があるよ!
葵、いいかい?僕はあんな脳みそ無しにはなりたかないね。僕はいつだって自分を信頼しきっているし、僕の世界では僕こそが全能である存在なんだ。通知表に膝を付き頭を下げるだなんて行為はごめんだよ。
あれ、もうこんなところまで来ていたのか。ちょっと雑談に熱を入れすぎたかな。もう先生が見えているぞ。また会話の続きは帰り道だね。」
僕が校門を潜りぬけたとき、朝から耳にするのには痛々しいような甲高いチャイム音が、ちょうど校舎から学校の玄関口にまで鳴り響いていた。
二
僕の通う高校は規則が大変に厳しい。簡単に言えばここは体育会系に他ならない学校だ。だから中学生の頃に部活動と縁がなかった内気な生徒は、高校一年生の夏休みが終わるまでに次々と消えてしまう。でも厳しさだなんて人それぞれで違うものだから、君にこの学校の厳しさを明確に伝えるのは無理なことだよね。まぁ、軍隊学校に憧れている公立高校だと思ってくれればそれで良い。
この学校の学力は全国の平均に比べれば少し低いくらいで、僕が思うには教室内で自分よりも勉強ができる生徒は一人もいない。現に僕は入学当時に受けた学力調査のテストで、三百人以上いる学生の中から学年四位という成績だった。
あの頃の僕はまだ味わったことのない高校生活という、眩しすぎて真っ白に見えてしまう輝きに、きっと太陽がこの世になくても教室内が明るく見えてしまうほど、期待と希望とを胸で膨らませて毎日を過ごしていた。
そんな僕が高校一年生最後の通知表で最悪な点数を取って、自分よりも成績が低いクラスメイトが教室内にいなかったのは、何という堕落ぶりだろう。
僕はいつの間にか自分の通う学校のことが大嫌いになっていた。どうしてそうなったのか、実は自分でも説明ができないでいる。これでは君にわがままだと言われてしまうかな?でもね、生理的に受けつけないという話は、実は毎日の生活で幾度と無意識の内に働いている、人間の本能のままの防衛機能なわけだよ。だから僕がこの学校の何もかもが嫌いだという、もはや誰かに洗脳されたかのような思いの訳を、僕はそれほど重要でもないことだと思っている。ただ僕がこの学校を、まるで病的な妄想癖によって精神を患った哀れな入院患者のように、毛嫌いしているということを知っておいてもらいたい。僕がこの学校を非常に毛嫌いしているという事実は、それは大切なことに違いないからね。
僕は長期休み明けで約一カ月ぶりの授業を、まともに受けようとは思えず、腕に瞼をそっと置いて目を瞑っていた。
葵はどうしているのかと言うと、誰も席に着いていない机の上に座って、このクラスメイトの誰よりも、もしかすれば教壇に立つ先生よりも高いところから、授業を高みの見物というわけだ。さて、またここで彼女のことについて説明を加えておかなければいけない。
まず、誰も席に着いていないこの机は、今年の五月から不登校になってしまった子の席だ。先ほど話した通りこのエセ軍人学校では年に一度、一クラスに一人、不登校生徒を創出してしまう。そしてその対象となる生徒は、言うまでもなく文化系の内気な子達ばかりだ。
まず不登校になる生徒にとって耐えられない壁となるのが、ここの体育の授業なんだ。
だって初めての体育の授業で行われるのが大声を出す発声練習で、哀れな子が羞恥心のために大きな声を出せないでいるならば、こっぴどく教師に叱られてしまう。そしていつまでたっても大きな声を出せずにいるものならば、放課後にグラウンドに一人で呼び出され、教師を納得させるまで雄叫びの練習という始末だからね。
この学校で学力が追い付かないため消えてしまうような奴は、余程の阿呆だし、まずそんな奴は余りいない。この学校から消える殆どの生徒の原因が、このエセ軍人学校の厳格な体育教育によるものだった。
ところで話は戻って、竹野くんという今は不登校になってしまった男の子がいる。葵は授業中にいつも竹野くんの机の上に座っていた。ここできっと君は、何故に彼女は椅子ではなく机の上に座っているのだろうか?と疑問に思うことだろう。それにはね、マチュニュイの性質が関わっているんだ。まず葵は、僕の感覚器官によってのみ存在を認識することができる人間なわけだ。勘違いしないで欲しいのは、僕が彼女を知覚するのは視覚と聴覚とによってのみではないということ。要するに僕は、触覚を通しても葵の非物質的肉体を感受することができる。実はこれがマチュニュイの最も不思議な点でもあるんだ。
葵は僕が生み出した妄想の具現化という、僕の視覚にのみ映し出される幻覚でしかない。けれど僕は彼女の手を握ることもできれば、その握った彼女の手の温もりを感じ取ることもできる。これはいわゆる脳の錯覚というものだけれど、これが余りにも上手く出来すぎているわけだ。何といっても不思議なのは、僕がそこには本当は存在しないはずの葵の体にぶつかってしまうとするね。普通に考えれば僕の体は彼女の肉体をするりと通り抜けてしまうに違いないだろう。だって彼女は言うならば幻像に他ならないのだから。
もし僕以外の誰かが葵とぶつかろうと、その人は微塵たりとも自分の体に衝撃を感じるわけがない。けれどもどうしたことか、僕が葵にぶつかったものならば、僕はまずその衝撃による痛みを感じるだろうし、実に不思議でならないのが、僕の体が彼女とぶつかった衝撃で反動を生じるということだ。この現象はもはや、錯覚という言葉だけでは済ませることのできない神秘さを持ち合わせている。これらのことは全て、僕の脳内で処理されているらしいんだ。というのは、例えば葵が僕に百発のビンタをお見舞いするとするね。僕は休む間もない痛みの連続にきっと気を失ってしまうだろう。けれど肝心な頬には痛む傷跡が一つとして見つからないはずだ。まぁ、傷跡が残らないのは当たり前のことなのかもしれないけどね。
長々とした説明で僕が伝えたかったのはね、葵を触れることができるのはこの世界でただ一人僕だけで、彼女が自分の手で動かすことができるのは、この世界でただ一人僕だけということなんだ。この説明をすれば、どうして葵が座っているのが椅子ではなくて机の上なのか、もう君には納得できたはずだよね。そう、彼女はしまってある椅子を引くことができないわけだ。だから彼女は机の上にしか座ることができないのさ。
それにしても僕が葵の授業態度を見て思うには、彼女は僕の理想的人間像に基づいて創造された人間であるから、今までに見たことのないくらい真面目で頑張り屋さんだ。彼女は木造の机という背もたれのない椅子に姿勢よく座りながら、授業時間の五十五分間、ノートを取ることはできないけれど、熱心に教壇の先生の目をじっと見つめて話を聞き続けている。それに葵は記憶力が良いものだから、一度授業を受けただけで、もう次のテストまでは授業内容を忘れることがないんだ。これは僕にとっては中々便利なことで、僕が彼女を創り出してからテストは二度あったけれど、このテストの期間だけは、彼女が常に僕の隣についてくれて、自分の分かる範囲でテストの解答を全て僕に教えてくれる。
まぁ、僕は学生にマチュニュイは必須だと思うね!だって、これほどにも便利なものって、どこを探しても見つからないはずだから!例え僕がこれから一度として提出物を出さないにしたって、きっと僕はある程度の成績を取ることができるはずだ。ああ、僕の心は何と狡猾なことだろう!
僕が微睡みから意識を取り戻せば午前中の授業は全て終わっていて、いつの間にかお昼休みの時間となっていた。この時間になれば、僕の席から二つ前の哀れな竹野君の机上から、葵が僕の席にやってくる。そして彼女が僕の席に辿り着いてからいつも五秒ほど遅れて、僕がこのクラスで一番仲の良い三河裕太が、いつも変わらない茶色の無地のナフキンで包まれたお弁当箱を、病人のように青白くほっそりとした手に携えて持って来るんだ。
彼は僕がこの教室で一番に愛する友達だけれど、逆にこの教室内で一番に皆から忌み嫌われている生徒でもある。彼を一言で言い表すならば「根暗」で、正にその類の人物の典型的な例と言える。もし僕が小さな幼稚園児くらいの子に、「根暗って何?」と聞かれたならば、僕は間違いなく三河を指さして、あれが根暗だよ!と教えて上げるだろうね。それほど分かりやすい回答は、何度と頭を働かしたってそれ以外には出てこない。
僕の説明で君はもう既に彼のイメージをほぼ作り上げてしまったかもしれない。そして君が三河に対して築き上げたイメージで、きっと間違いはないはずだと僕は思うよ。
彼は背が低くてよく本を読むためか、腐った花のように背が曲がってしまっている。全身には余計な脂肪が一切ついておらず、骨に皮がくっついているような見た目だから彼は縦にも横にも情けないわけだ。
三河は性格が暗い人特有の内気な人物で、たまに言葉を発したかと思えば、声が余りにも小さいので聞き取れないことだってある。
誰かが止むを得ず彼に話しかけなければならないことになったとするね。まずどのような場面であっても、三河は仲が良い僕以外の誰が話しかけようたって、絶対に何の反応も示さないはずだ。しかもその理由が内気さからではないときている。もし彼が誰かの声に知らんぷりするものならば、それは三河がそいつとは話す価値がないと決め込んでいるからなのさ。
彼は内気でひねくれ者で高慢な奴ときている。これだけ欠点が揃ってしまえば、もう誰からも嫌われてしまって当然じゃないか!
でもどうして僕が、そんな嫌われ者の彼と仲が良いのかというと、それは彼が教室内でいつも独りぼっちだったからとか、そういった同情心のためではないよ。僕だってどうしてと聞かれれば返答に困るけれど、何故だか彼と一緒にいることが、これまた不思議で仕方がないけれど非常に落ち着くのさ。きっと僕と彼とは似た者同士なのかもしれないね。けれど僕は決して彼みたいに多くの人から嫌われてなんかいないし、むしろこのクラスの道化役の僕は、けっこう皆からの人気者だったりする。まぁ、こんなことはどうでもいいことだ。話を戻そう。
僕と三河は向かい合って、一つの机に各自のお弁当を窮屈そうに置く。ちなみに僕はこの時間だけは、自分の椅子の左半分しか使わないんだ。残りの右半分は葵のために空けているからね。本当は授業中もこうしてあげればいいのだけれど、右半分のお尻だけで全体重を支えるのはなかなか辛いんだ。だって二十分もすればお尻が痛くなってくるから。だからこれは食事時だけの座り方だ。
「夏休みはどうしていたの?」
三河が僕に尋ねた。彼は僕に対してはごく自然に会話をしてくれる。これは言うまでもなく彼が僕のことを軽蔑していないからだ。そして彼がこのように普通に話しかける相手は、この教室内で僕しかいない。要するに彼は、テストの結果や通知表で人の価値を評価しない、この学校では珍しい賢い連中の内の一人ってことだ。
僕は三河の質問に答えた。
「別に大して三河と変わらないと思うよ。いつも眠りにつくのが自宅のポストに新聞が落ちた音を聞く時間だから、毎日目覚めるのはだいたい昼過ぎくらいかな?目が覚めたらまず冷蔵庫を漁りに自分の部屋を出る。そして適当に昨夜の残飯を摘まんで、また自室に戻る。その後は、本を読むかアニメを見るかで夕食までの時間を費やすわけさ。夕食はいつも八時くらいかな?それから時間が少し経てば、例の電話が掛かってくるんだ。」
「例の電話ってことは父親から?」
「うん、そうだよ。それで十分ほど歩いて、父親の住んでいるマンションにまで向かう。そして担保が一千万ほどかかっている元自宅を訪れれば、父親とその恋人が飯を食って僕のことを待っているんだ。
親父は常に酒で酔っ払っているから、僕はその話し相手になるってわけ。大体、日が変わる頃まではいるかな?自宅に帰ってしまえば、それからはぼうっとして夜を過ごしているね。別に大して用事もないんだけれど、動悸が止まらないものだから、寝るのはたいてい四時か五時さ。」
「君は父親を恨んでいるんじゃなかったっけ?」
「恨んではいるさ。それももう、小学校低学年の頃からだよ。なんせ初めて包丁を手に持ったのが料理のためではなくて、親父を殺す妄想に耽って快感を得るためだったからね!」
「なら、どうして君はその親父さんに会っているんだい?」
「そりゃ、同情心のためだろうよ!だって考えてごらん!もう僕の親父は四十代だけれど、自分の妻にも息子にも見捨てられ、銀行に預けるほどの金すら持っていない始末じゃないか!それに今だってアルバイト生活で、きっと将来もらえる年金だってありゃしないんだよ!
君、これが僕の実の父親だよ!これは、愛せずにはいられないだろう!そうだ、僕は同情心で、僕の心が留めることのできる最大限の憐れみで、自分の父親を愛しているんだ!」
「母親にはまだ気付かれていないの?」
「もし母さんに気付かれでもしたら、僕は母さんに殺されてしまうだろうよ!だって僕の母は、親父のことが大嫌いだからな!
僕達が親父から逃げ出すまでは、母さんは毎夜、親父の酒のあてに大量の塩水を両目から垂れ流していたんだからさ!
母さんは親父のことを呪っているはずだよ。もし僕が親父と密会しているのがばれたら、僕の母はそれこそ、大きな塩の結晶を目に詰まらせて、失明してしまうかもしれないね!」
「それでも君は親父さんとの密会をやめないの?」
「やめないよ!」
「どうして?」
「愛しているのだもの!」
「ふうん。僕には分からないな。」
彼はいつものように口元だけを僅かに緩めて笑っていた。この笑い方はきっと、彼が母胎にいた頃からの癖に違いない。彼はいつも僕の話を聞いて、蔑み、さも見下したかのような態度でふふんと笑うんだ。なんて嫌な奴。
「それでモカは?」
「夏休みは抑えていたね。」
「今日は?」
「もう二粒目だよ!」
僕がこう言い終えると、彼は珍しく声に出して笑った。
ここで僕がモカと呼ぶものについて、少しだけ説明しておかなければいけない。モカとは、僕がその正式名称から二文字を抜きとって呼び名としている、どこの薬局にも置いてある眠気覚ましのことだ。
僕は何故だかこの薬、モカに夢中になっていて、眠くもないのに一日に規定された量を遥かに超える数を服用していた。僕はまるでラムネ菓子のように、茶色の錠剤をパクパクと口に放り込むんだ。
どうして眠くもないのに、僕がモカを服用しなければいけない理由があるのか。それは僕自身にも理解できないんだよ。
「君は実に愉快だ。眠気覚ましを使って自傷行為に及ぶ奴を、僕は今までに聞いたことがない。」
「自傷行為?」
「自傷行為だよ。君は自分を傷つけたくて、うずうずとしているのさ。そうじゃなかったら、わざわざ吐き気を我慢するほどに、眠気覚ましを飲む奴がどこにいるのさ。ほら、言ってるそばから君はえずいているじゃないか。」
「朝から動悸がひどくて、そのうえ吐き気が止まらないんだよ。」
ここで葵が、「大丈夫?」と僕の顔を見て尋ねてきた。だから僕は彼女の方を向いて、
「大丈夫だよ。」と呟いた。
「なに、例の彼女かい?」
葵の存在を唯一知っている三河が、ニヤリとして僕に尋ねた。僕はマチュニュイについてその技を試みる前から、彼にそのことについて話していたんだ。
「恋人じゃないって、何度言ったら分かるんだ!」
「藤原、彼女できたの?」
僕の隣の席で数人の友達と食事をしている遠山光が、僕の発した恋人という言葉に反応して話しかけてきた。
遠山光は、僕がこの教室で一番に仲良くしている女の子だ。ちなみに三河とも遠山とも一年生のときから同じクラスで、特に遠山とは腐れ縁なのか、高校生初めての席替えのときから今に至って、いつも席が近くだった。
彼女は不健康そうな肌白さが特徴的で、それのためか痩せた鎖骨の辺りに落ちた黒い髪の色が綺麗に見えた。
遠山は真面目で大人しく、見た目こそは賢そうな雰囲気を醸し出してはいる。だけれど彼女は勉強が全然できなくて、僕は授業中、よく彼女にアホだのバカだのと言って、ちょっかいをかけることに夢中になっていた。だから僕はよくクラスメイトに、「藤原は遠山が好きなの?」と聞かれたりするけれど、そんな気持ちは全く持っていない。ならどうして何度も何度も自らちょっかいをかけるの?とよく聞かれるけれど、僕はただ遠山光という人間が人として好きなだけなんだ。僕は遠山のことを女性としてだとか、そういう性的なことを一切抜きにして、ただ、人として彼女のことを愛しているわけだ。
ちなみにね、僕は「性」という言葉が大嫌いだ。もっと分かりやすく言えば、男と女の肉体的関係ってのが、僕はこの世で一番大っ嫌いなんだ!
僕の年頃の男連中ときたら、きっと猿以下の脳みそしか持っていない。もしあいつらの脳みそを頭から取り出したならば、車に轢かれたミミズ一匹分ほどの分量に決まっているんだ。僕はもう高校生男児にはうんざりしているよ。だって、あいつらと何か話そうとしたって、いっつもセックスのことばっかりなんだからね!
もし教室の一隅に男子達が集まっていて、何かのひそひそ話で盛り上がっているとするね。僕がおもしろい話を期待して、その輪の中に入って行くとしよう。すると聞こえてくるのは女性の肉体の話ばっかりなわけだ。もうそんな話はクソくらいだよ!僕は下劣な話をしている連中を見ると、気分が悪くなって吐き気に襲われてしまうんだ!
僕は生涯、女性とは性的な関係を一切除外した、純白な関係を築きたいと思っている。
いいかい?これは君にも覚えておいて欲しいな。男と女の友情はね、一度でも性を意識したとき、その友情がどれほどに潔白なものであったとしたって、血で汚れたかのように濁ってしまうんだ。
僕はね、全ての女性を愛していて、男という全存在が大嫌いなんだ。まず僕が女性を愛して止まない理由は、彼女らの精神が素朴で純真で嫋やかな花のように柔らかいため、余りにも脆く弱弱しくて、こっちが守って上げたいと心の底から思える存在だからさ。それに比べて男ときたら、一生を生れ持った陰部の奴隷と化して、精神の枷を自ら外すことなんてできやしない。あいつらは眠っているときでさえ息を荒げて、女性の肉体を嘗め尽くそうとしているんだ。尻軽な女に男が群がる早さと言えば、あれは蛆虫と何ら変わりがないね!
僕はよく三河と議論するテーマがある。それは「男女の性を抜きにした友情はありえるか?」ということなんだけれど、そんなの存在するに決まっているんだ。
三河とかいう間抜けな嫌われ者で女性と縁がない奴でさえ、自分の性欲に道徳性を呑み込まれてしまうだなんて!
これはきっと正義の問題なんだよ。要するに僕と葵の友情や、僕と遠山の友情を純粋なものに思えない奴らは皆が皆、罪人なんだ!僕はそういう奴らを見ると、何故だか胸が痛くなってしまってモカを一錠飲み込んでしまう。僕は眠気覚ましのモカを服用すれば、急にテンションが上がってきて陽気になれるからね。そして何もかもが楽しくなってきて、一日のモカの服用する数が増えれば増えるほど、僕はこの世の全てのものが愉快に思えてくるんだ。まあ、その代わりに後から激しい動機と吐き気と過剰な脱力感に襲われるんだけどね。でも高等学校っていうのはね、さっき話した僕の話でも分かるように、僕の嫌いな奴ばっかりが集まっている舞台なわけさ。もうこりゃ僕にとって、ここに来ること自体が自殺行為なわけだよ!
話を戻そう。僕は遠山の問いに答えた。「僕に彼女ができるわけがないだろう。お
前とは違って、こちとら独り身なんだよ。」
「私も独り身だよ。」
「え?お前、先月に付き合った彼氏は?」
「一昨日に別れたよ。」
「嘘……」
僕はこのとき何とも口にし難いような、急な喜びと嬉しさを感じて、その安堵感に顔の筋肉が歪んでしまった。
「どうして笑っているの?」
遠山が不審そうな目をして僕に尋ねてきた。僕はこのとき遠山に指摘されて初めて、自分がニヤニヤしていることに気が付いた。僕は何故だか思いっきり急所を突かれたかのような気がして、緩む顔面の筋肉を片手で押さえつけた。そして僕は彼女に言ってやった。
「いや、哀れだなと思って。可哀そうに。」
「大きなお世話よ。」
僕はこのとき、正直嬉しかった。だって遠山は僕にとっては、姉か、もしくは妹のような存在だし、自分の知らない男と付き合って、悲しい思いをして欲しくなかったから。
僕は知っているんだ。小さな頃から少女漫画を読み耽り、ロマンチックな恋愛を崇拝して学校生活を送ってきた少女が、いざ男子と付き合うことになるとするね。すると彼女は現実における恋愛が、理想とは程遠い汚物でしかないことを知るんだ。現実の恋愛にロマンだなんて、微塵たりとも存在しない。そこにあるのは汚らわしい性的快感だけだ。
ああ、僕はこんなことを考えただけでも、何故だか死にたくなってくる!
僕は空になったお弁当箱を机の側に放ってある鞄に直して、右半分のお尻の痛さに耐えかねて立ち上がった。そして前後左右、クラスの連中をざっと眺めたら、何だか教室が性のうっぷんの吐き捨て場に思えてきて、急にそこから逃げ出したくなってきた。
僕はポケットのモカを一錠口に含んで飲み込んだ。すると脳内に大量のアドレナリンが流れてくるような気がして、僕は眠気覚ましによる快感を味わいながら、隣のクラスへと向かうことにした。
三
僕は隣の二年四組の教室に入って行った。
この教室には僕の中学生の頃からの友人が一人いて、僕は昼休みにはいつもここに遊びに来る。
僕が教室に入ったと同時に、教室の後ろの隅に集まっていた男子連中が、僕の存在に気付いてニヤニヤとした。さっきも言ったけれど、僕はこの学校の人気者だったりする。なんせ僕はいつも、大きな声でアホなことを言って、その発言の幼稚さゆえに皆を笑わせているんだからね。
僕はいつだって周りの連中を蔑んでいるけれど、僕はそいつらよりも下劣なことを大きな声で言って、皆から笑いを取ることが大好きなのさ。読者から見れば、僕はピエロみたいな道化者に見えるだろうね。そう、僕も自分自身のことは、生きるにも値しない赤鼻気違いだと思っているよ。けれどね、一つだけ弁解させて欲しい。僕は思い上がりから、こういうことをしているわけではないんだ。ただね、無理やりにでも大きな声でバカなことを言って、ゲラゲラと痴呆者みたいに笑っていないと、自分の心が壊れてしまいそうなくらい息苦しくなるんだ。この思いはきっと、一度でも自殺を考えたことがある人には納得がいくだろうね。本当に心の中が悲しみで埋め尽くされそうになったとき、人はこうするしか術がなくなるんだよ。
僕はこの自己防衛機能が働いたときはいつだって、後からくる莫大な自己嫌悪と後悔の念に苦しんでいる。その理由は簡単なことさ。もともと内気で静かな僕だからね、「どうしてあんな破廉恥で下品なことを、大声でヘラヘラと笑いながら言えたものだろうか!」と後からずっと自己否定に苛まされてしまって、挙句の果てには芯の出ていないシャープペンシルの尖端で、手首の肌をリストカットするみたいに傷つけてしまうんだ。
これがひどいときには、夜中にも関わらずモカを服用して、自ら不眠に陥いっては、夜明けまで自分の体を傷つけている。僕はこの世で一番のマゾヒストかもしれない。自分の体に傷一つ入ることが、気持ちよくて仕方がないのだから!もしくは僕はマゾヒストなんかじゃなくて、この世で一番の自分嫌いなサディストなのかもしれないな!まあ、こんなことはどうだっていい話だけれど。
僕は教室に入るとすぐさま、中学生の頃から仲が良い平山のところに向かった。彼は言動の全てが万人受けをするような奇才児で、いつでもクラスメイトの人気者だった。彼は中々ハンサムで運動もできるし、僕のクラスの三河とは、まるで正反対の存在なわけだ。
僕が彼らの集団(平山を合わせて六人いた)に近づけば、僕は鼻をツンと刺す甘い香りに気付いて、それが何であるのかを尋ねた。
「この甘い香りは何さ?」
「聞いてくれよ、藤原!すごく面白い話があるんだよ!今日は南條が色気をムンムンとさせて、女がエッチな気分になるとかいう香水を付けて登校してきやがったんだ。まず、この甘い香りに誰が一番早くに反応したと思う?朝、校門に突っ立っていた生徒指導室のババアが、誰よりも早くに反応しやがったらしいんだ!もうそれは、待てをできず涎を垂れ流しては餌に飛び掛かる阿呆な犬並みの早さときたもんだ!きっと五十のババアも好きなものは好きに決まっているんだな、これが!」
隣にいた平山の友人の南條が、俺の出番がきたとばかりに話し出した。
「いや、中山の奴も俺の匂いに気付くだけならよかったよ。でも、さっき生徒指導室に呼び出されて行ってみれば、嫌味なお説教と反省文を八百字詰め原稿用紙に二枚だよ。これだったらまだ、ババア相手に誘惑された方がマシだったよ!」
「誘惑されたら、君は中山が相手でも抱き締められたのかい?」
僕はニヤリとして言ってみせた。南條を除いた五人はゲラゲラと笑っていた。
「そんな馬鹿な!俺にも人を選ぶくらいの権利はあるよ。それに俺は熟女好きじゃないから、五十代のババアだなんてごめんだよ!」
「でも、お前の放つ香りに誰よりも早く反応した中山は、もしかすればショタコンかもしれないぜ!あいつはきっとお前の肉体を求めていたのさ!」
僕の言葉に、今度は南條までもが身を崩してと笑った。そして話しはいつも通り、どのクラスの誰が可愛いだとか、いや、正確に言えば、どのクラスの誰とセックスがしたいかという会話になっていた。
僕はこういう会話が大嫌いだけれど、今日で三錠目のモカが効いているのか、とてつもなくバカなことを言ってみたくなった。何か一つ過激な発言をして、皆をアッと驚かせてみたくなったのさ。
「藤原は好きな子はいないのかい?」
平山が僕に尋ねてきた。
「僕は同年代の女だったら誰だっていいな!ブサイクな女が相手なら、何かいっそ互いに汚れてしまいたくなるから、スカトロジーとかはどうだろう!もし綺麗な女が相手なら、それこそ相手をめっちゃくちゃに汚してしまいたくなるから、やっぱりスカトロジーとかはどうだろう!」
「気違いだ!こいつは気が狂ってやがる!」
皆は僕の余りにもお下劣な会話に興奮していた。
「藤原、君は女性の糞尿まみれになりたいのかい!」
「やっぱり汚いのはごめんだ!それよりも、俺は同年代なんてよりも、まだ何も知らない純粋な少女を汚してしまいたいね!小児性愛だなんてどうだろう!もし生きている少女を汚すのが犯罪ならば、僕は性の対象が死体でも構いはしないさ!死体相手にでもセックスをしてやろう!」
「こいつは気が狂ってやがる!」
「お前はラブホテルに行くよりも早く、精神病院に連れていかれそうだな!」
「気違いだ!気違いだ!」
「もはや、精神異常者だぞ、これは!」
僕の言葉に皆の笑い声が絶えなかった。皆が僕のことを気違いだと言う。でもね、僕はこれが気持ち良くってやめられないんだ!
また、くだらないお下劣な話を続けていたら、平山が僕の触れて欲しくないことを話題にした。
「そういえば、お前のクラスにいる遠山光だっけ?あいつなかなか可愛いよな。」
「しかもエロそうだよね。むっつりっていうか。」
「すぐにやらせてくれそう。」
最後の発言を口にしたのがブサイクな顔面の持ち主だから、僕は非常に驚いた。男ときたら自分がどれほどにブサイクだったとしても、「すぐにやらせてくれそう。」だなんて、バカげたことを言いやがる!そんなやつの陰部は挟みで切り取って、池で泳ぐ鯉にでもやったらいいんだ!鯉は一口で、パクッと完食するだろうよ!
僕は友達の遠山光を話題にされて、急に目の前の奴ら全員が憎たらしくなってきて、自分の心が言の葉の尖端で抉られたような気がした。遠山をお前らのようなお下劣な話しかできない、大きな燃えるごみ野郎と一緒にするなと思って、僕は心の底から嫌気を感じた。
そして僕は「そろそろ戻るよ。」と呟いて、見た目は平然を装いながら教室を出た。
僕は午後の授業中、眠たいわけでもないのに両腕を重ねて、その中にずっと顔を沈めては目を瞑っていた。これは、荒ぶる神経の興奮を抑えるためだ。
僕は昼休みの例の出来事を思い出して、消えてしまいたいほどの、自己嫌悪と自己否定の思いに苛まされ続けていた。
どうしてああいう種の話を嫌う僕が、あれほどにもゲスな話をすることができたのだろうか。僕は少女を汚すという自分の発言が、どうしたって許せなかった。僕は子どもと女性の味方だというのに。それなのに僕は、何てことを口にしてしまったんだろう!
ああ、神様!愚劣極まりない僕のことを殺してください!
僕は自分の言動に対する後悔の念が積み重なってくる度に、じわじわと出てくる涙の代わりに、自分の腐乱した柔らかな心から、何ともいえない汁が流れているような気がした。そして僕はどこからか刺激的な悪臭を感じて、吐き気が止まらなくなってしまった。
これならば、泣いてしまったほうが随分と楽だろう!どうせなら、果てしない自己嫌悪によって僕を泣かせてくれ!涙すら流せずに、これ程にも苦しまないといけないのは嫌だ!
僕の学校生活は、いつもこんな感じだ。僕は頼りない腕に伏せていた顔面を起こして、二つ前の机に座る葵の背中を見た。彼女は僕が心の底から欲した純粋な人間像の表れだ。僕にとっては最大の理想でもあり希望でもある。僕は彼女を愛している。僕と彼女の関係には、汚らわしさだなんて微塵たりとも混じっていないんだから。
四
帰宅してからはずっと自分の部屋に閉じ籠っていた。ちなみに僕の家は二階建ての木造建築で、外から見ればかなりの年季が入っていることが分かる。聞いたところによれば、僕の母親よりもこの家は年を取っているのだとか。
そして僕の一人部屋はこの家の二階で、階段を上がってすぐ右のところに入り扉がある。
部屋の引き戸を開ければ、横幅が狭く奥行きだけは深い部屋が現れる。入口から見れば、左奥の隅に合わせて、小学生の頃からお世話になっている勉強机が置かれている。そして机の真向いに椅子は置かれていなくて、その代わりに就寝用のベッドが、勉強机の脚から手の平一つ分くらいの間隔だけを残して置かれている。これは僕が願ってこうなったわけではなくて、部屋の狭さゆえにこうするしかなかったんだ。
もし僕が潔癖症ならば、自分の部屋の椅子代わりとなるものが、就寝用のベッドが一つだけということに対して、我慢ができなかっただろう。けれど僕は数年の貧乏生活のため、デリケートさが全く感じられない、雑草みたいな人間になってしまっていた。だから学校の制服のまま、自分のベッドに腰を下ろすことだってへっちゃらなのさ。
僕は帰宅すれば制服から着替えもせずに自分の部屋に向かって、そのままベッドの中に倒れ込んだ。そして眠たいわけでもないけれど、両腕を枕にしてうつ伏せになった。
僕の胴の側に葵が座って、布団を通して柔らかな衝撃が伝わってくる。彼女はお尻をベッドに乗せて、足は床に下ろしていた。
「眠気覚ましを飲んだのにも関わらず、眠たいのですか?」
「眠たさは全くないよ。ただね、憂鬱なんだ。何だかすごく気怠くて、ちっとも体を動かしたくないんだよ。眠たくはないけれど、ずっとこうやって横になっておきたい。何故だか今日はとても疲れたよ。」
「悠耶くんは、学校で無理をしているのだと思います。」
「無理ってなんのことだい?」
僕は体を回転させて仰向けになり、後頭部に両手の枕を差し込んで、すぐ側にある葵の目を見つめた。
「私がよく知るこの家での悠耶くんと、皆が知っている学校での悠耶くんと、どっちが本当の悠耶くんなのですか?私は皆の前で、悠耶くんが無理をしているようにしか思えないのです。」
「無理をしているか……いや、もしかすれば僕は、学校の皆に嘘をついているのかもしれないね。」
僕はそう言ったとたん、部屋の電気がぱっと消えたかと思うほど強い脱力感を感じたので、力を入れて目を瞑った。その瞬間、目の前の明かりは全て消えて、真っ暗な闇が視界に広がった。すると僕は却って気が休まったかのように感じられた。
「悠耶くんが皆にどのような嘘をついているのですか?」
僕は目を再び開けて、こちらを見る葵の視線を受け止めながら話した。
「本当はね、僕はとても性格の暗い人間なんだ。僕はきっと三河よりも、陰湿な人間に違いないよ。もし社会が許してくれるのならば、僕は一日中、自分のベッドの布団にうずくまっているだろうし、まず、家から出ないだろうね。
正直、葵の顔以外は誰の顔も見たくはないし、君以外の人とは、他の誰とも話すことだって嫌なのさ。僕はね、もうそれは立派な人間嫌いなんだよ。人間が嫌いで嫌いで仕方がないんだ。」
「じゃあ、どうして人前では、ふざけて、わざとおっちょこちょいなことをして、多くの人から注目されるようなことをするのですか?悠耶くんは皆からどう思われたくて、今日のお昼休みみたいな少しも思っていないことを、大きな声で言ったりするのですか?」
「それは自分でも分からないんだ。僕は実を言えば学校にいるときだって、ずっと一人で教室の隅の方で静かに突っ立っていたい。友達も話し相手すら一人もいらないから、ずっとずっと教室の片隅で、人の目に見つけてもらえず箒で掃かれることのない小さな埃のように、背中を丸めてうずくまっていたいのさ。でも何故だか僕はいざ学校の校門をくぐってしまえば、まるで何者かに手先で操られているかのように、自分の理想とは真逆の言動を、哀れにもどっかのサーカスでケラケラと笑う道化師みたいに、何の躊躇もなく取ってしまうんだ。もうこれは一種の病的なものじゃないのかな?なぁ、葵。君から見て、学校での僕はどのように見えるのかな?」
葵は開きかけた口に再び力を入れて、言葉を発するのを躊躇した。きっと彼女は優しいから、自分のこれから口に出す言葉が、もしかしたら僕を傷つけてしまうかもしれないと思ったのだろう。僕は葵の心を察して、彼女の発言を待たずに口を切った。
「いや、分かっているさ。きっと学校の誰の目を通しても、僕は目立ちたがり屋なお調子者に見えるだろうね。周りから注目されたいがために、誰かに構って欲しいがためにふざけて、わざと滑稽なことをしてみたり、バカげたことを言ってみたりする。僕のことを見る皆が、あいつは間違いなく発達が遅れている頭の弱い奴だ。と思っているに違いないだろうね。
けれどさっきも言ったように、本当の僕は三河よりも根暗な人間なんだよ。ならどうして、それと真逆の人間を演じているのかってことだよね。でも、これは演じているだとか、そういう器用なことをしているわけではないんだよ。もうこれは一種の病に違いないのさ。
僕だって、この病には苦しんでいる。たまにね、思うわけさ。もしかしたら僕は多重人格者なのかもしれないって。僕自身の中には何人かの人物がいるんだって。そう思うときが確かにあるんだよ。
僕は自分が何者なのか、分からなくなってしまうことがけっこうあって、そういうときは胸がとても苦しくなる。僕はそういうとき、君は本当に藤原悠耶かい?と自分に何度も尋ねてみるのさ。するとその内、自分が本当に藤原悠耶なのか分からなくなってしまって、発狂しそうになってしまうのさ。」
僕は言いたいことを全て言ってしまって、また体を回転させてうつ伏せになった。多量の言葉を次々に吐き出したせいか、僕の心臓は息が詰まりそうなほど激しく動いていた。
僕は胸の動悸とは相対的なゆっくりとしたテンポで、深呼吸を数度とした。すると葵はその深呼吸に僕の体調不良を察したらしく、僕の背中に愛らしい言葉を落とした。
「動悸ですか?」
「うん。ちょっとだけね。」
僕は葵を心配させないために、できるだけ明るげな調子で言った。けれどもその言葉は、むなしくも僕の口の真向いにある、布団の繊維に複雑に絡まってしまって、彼女を安心させることはできなかった。
「悠耶くんは、眠気覚ましをたくさん飲む行為を止めたほうがいいと思います。悠耶くんがよく体調を崩すのも、夜になかなか眠れないでいるのも、原因は眠気覚ましの過剰な服用のせいに違いないのですから。」
僕は再び体を回転させて、葵のほうに視線を向けた。
「分かっている。そんなことは分かっているさ。でもね、駄目なんだ。これはね、決して意味がないわけじゃないんだよ。僕がモカを服用する理由は二つあってね。一つ目はモカに含まれている多量のカフェインで、自分の神経を興奮させないと、僕はきっと何も喋らない廃人同様になってしまうんだ。二つ目はこれが一番の理由なんだけれど、もしこれをやめてしまったら、きっと僕の体は傷だらけになってしまうってことなんだ。」
「どうして悠耶くんの体が、傷だらけになってしまうのですか?」
「それはね、僕が僕自身のことが大嫌いで、自分の存在する意味を否定してしまっているからなのさ。
僕はね、自分のことがどうしたって好きになれなくてね。それだけならまだいいんだけれど、僕は自分のことが大嫌いで常に自らを憎く思っているものだから、挙句の果てには、自分のことを傷つけたくて堪らなくなるときがあるんだ。
それはさっきも言ったように、理想と現実の違いの理解に苦しむときや、何か失敗をしてしまったとき、僕は自分の体を傷つけたくて、もう全身がウズウズしてくるのさ。葵が僕のもとに来てくれるまでは、よく夜中にカッターナイフを手に持って、自分の体を傷つけようと思ったものだよ。なんど、あの醜い衝動性に襲われたことだろう!それにね、何が一番愚かなことかって言えばね、今、僕の手首には小さな傷が一つすらないってことなんだよ!
それがどうしてか分かるよね?僕は、リストカットだなんて血が出るだろう行為は、もう吐きそうなほどに怖いのさ!怖い!でも傷つけたい!これを解決するために僕が導き出した答えがモカなんだよ!
眠たくもないのに眠気覚ましを服用する。僕はそのために体調を悪くする。何て僕の理想的な自傷行為なんだろう!まずね、それが眠気覚ましだろうと胃腸薬だろうと、意味のない薬の服用っていう危険な雰囲気が、僕には堪らないのさ!」
普段は穏やかな葵が、少しキリッとした表情をして、僕のことを睨みつけた。
「そんなの駄目です……」
僕にはその、自分のことを心配してくれている優しい言葉が、最高に気持ち良かった。
「でも、駄目なんだ。モカはやめられないよ。」
「少しずつでいいから、せめて量を減らさなければいけません……
大丈夫ですか?ほら、言うまでもありません。えずいてしまうほどの過剰な薬の服用は、絶対にいけないことです……」
「ごめんね。気を付ける……」
そう言って僕はまたえずいた。すると葵が僕の右手を、柔らかくて僕の手汗にさえも傷ついてしまいそうな、華奢な手の平で握ってくれた。
「大丈夫ですか?」
「うん、大丈夫だよ。」
「悠耶くんは、もっと自分の体を大事にしないといけません。大事にしてくれないと私、泣いてしまいます……」
僕は自分の体調を心配してくれている葵を愛しく思って、幸福に最も近い微笑みで彼女のことを見つめた。
しばらく僕たちは、お互いの存在を忘れたかのように沈黙に耽り込んだ。そして僕は三〇分間、あるいは四〇分間ほど、浅い眠りに就いてしまっていた。その眠りは夢に安らぎを邪魔されることもなく、花弁の散る音よりも静かであろう空間が、僕の体を母性的な愛で抱き締めてくれているかのように、僕は一瞬の安堵の時間を過ごすことができた。
しかしその時間も誰かからの電話の着信音に終わってしまった。僕は寝起きの頭で、頭部の側に転がしていた携帯を手に取ってみると、電話が父親からであることを知った。
僕は寝ぼけ眼をパチパチとさせながら、安らげることのできた時間を邪魔されたことに対する苛立ちを心に着火させた。そして父にはまだ帰宅していないことにしようと思って、僕は電話を出ないことにした。
着信音が長い間、狭い部屋の中で響き続けたので、僕は飛び回る蠅の羽音を嫌悪するような気持ちで、それが鳴り止むのを待った。そして着信音が鳴り終わったかと思えば、続けて二度目の着信音が部屋に鳴り響いたので、僕はまるで自分の部屋で大きな虻が飛び回っているかのような、非常な腹立たしさと嫌悪感を覚えて、横になっている自分の体を起こした。そして二つの絡み合う複雑な感情が胸から消えないうちに、葵が僕に尋ねてきた。
「どうして電話に出ないのですか?」
「今はそんな気分じゃないから。」
「着信はお父さんからですか?」
「そうだよ。また、後で掛けなおすことにするよ。どうせ、家に来いって電話だろうからね。息子は今夜も愛しきパパのお酒のおつまみ代わりってわけさ。」
僕は葵との会話中、いつの間にか静かになっていた携帯電話を一瞥して、それに手で触れることもなく、ぼおっと彼女を見つめ続けていた。僕は数十秒と彼女から視線をずらさなかった。すると彼女の健康そうな小さい両頬が、桃の色に紅潮した。
「どうして、私をずっと見るのですか?」
僕は葵の問いに、初めて自分が彼女を見つめていたことに気付いて、何故だかそれが気まずいことのように感じて、僕は葵から慌てて目を逸らした。
「いや、何も考えていなかった。少しぼおっとして……」
僕はまた寝転がった。少し時間が経ってから、僕が父親からの電話も忘れてしまったときくらいに、葵が僕に意外な質問をしてきた。
「悠耶くんは、遠山さんのことが好きなのですか?」
僕はその思いがけない質問にびっくりしてしまって、すぐさま上半身を起こした。
僕はすぐ側に座る葵の顔を見つめて言った。
「どうしてそんなことを聞くの?」
「悠耶くん、今日のお昼休みに遠山さんが彼氏さんとお別れしたって聞いて、すごく喜んでいるように見えました。」
僕だってそれは自分でも気づいていた。だから葵にそれを指摘されて、一瞬、何て言葉を返せばいいのかに迷ってしまって、内心焦ってしまった。だってあのとき、僕自身どうして喜んでしまったのか、自分でも全く持って理解できなかったから。
「やっぱり、悠耶くんは遠山さんのことが好きなのですか?」
「違う。それは違う。まずね、葵も分かっているだろうけれど、僕には男とか女とか、そういう観念は全くないからね。要するに、僕に恋と呼ばれる感情は全くないんだ。ただ、僕は遠山のことを身内のように姉のように妹のように大切に思っているし、それは葵に対しても一緒だよ。だからね、遠山も葵も僕にとってはかけがえのない親友なのさ。
僕がね、遠山の不幸を聞いて喜んだのは、それはだよ、あいつにとっては彼氏に振られたのは残念なことかもしれない。けれどね、男なんてものには良い奴だなんて一人もいないんだ。男は皆、心が汚れてしまっているのさ。きっとあいつの彼氏だって、いや、今は元彼氏だな。あいつの元彼氏だって、遠山の肉体が目当てだったに違いないんだからね。けっきょく元彼氏は、遠山の精神を最後まで愛することはなかったはずだよ。どうせ、肉体的快感が欲しいがため、遠山と付き合ったに決まっているんだからね。
葵、僕が何を言いたいのか分かるかい?僕はね、男っていう存在が大嫌いなんだ!だから僕は、僕の大切な友人の遠山が、汚れた存在である男と別れたって聞いて喜んだのさ!
皆が皆、そんな人ではないだって?いや、それは違うよ。男っていうのは、全員が糞ったれな存在なのさ!きっと僕だってそうさ!」
「私は悠耶が良い人だって知っています。それに悠耶くんだって女の子を好きになるに決まっていますよ。人は必ず人を好きになる生き物なのですから。」
「それはない。絶対にないね!なんせ、今だって僕は、君との潔白な関係を築いているじゃないか!もし僕が性を意識する人間ならば、毎日一緒にいる君に何もしないわけがない!だからね、僕は性に無関心なのさ!だから葵だって、貞操な生活を送ることができるんだよ!
僕はね、遠山に対しても君に対してもそうだけれど、君のことを大親友だとは思っているけれど、君のことを女だとは思っていないし、いや、こう言った方が分かりやすいかな。君に対して微塵たりとも性的な興味を持っていないんだ!」
「そうですか……」
興奮して長々と演じ立てた僕の視界には、このときになって初めて、葵の表情がくっきりと表れたような気がした。そして彼女の顔を見ていると何故だかそのとき、葵が寂しそうな顔をしているように思えたんだ……
五
僕の母は毎朝、僕が家を出る時間よりも早くに家を出て、午後の七時までは職場から帰ってこない。
父がいない家庭の母親は、見ているだけでも痛ましくなる。朝は三人息子のお弁当を作るために早朝から活動をして、仕事から帰宅してからの時間は、夕食の用意と終わらせなければいけない家事に当てなければいけない。この家事と呼ぶ、すなわち生きていくために必要な日常面における仕事は、消えることのない大きなゴミの山のようなものだ。底の破れた大きな袋にそれらのものを詰め込んでも、また翌日には同じ量だけの労働が用意されているのだから残酷だ。毎日休みなく働く母は、帰宅してからもただひたすら家事に懸命に取り掛かるので、自分の時間などというものは一切持っているはずがなかった。
三人の息子が父のいない家庭の母のことを、本当ならば少しでも助けなければいけないはずだ。けれども僕の母は運が非常に悪いことに三人息子の三人共が、身内に対する思いやりでさえ、さらさらとないように思われる人でなしだった。それどころか三人共が、脳内のネジに一部欠陥があるのかと思われるほど、問題点ばかりの不良少年だった。まぁ、考えてもごらん。蛙の子は蛙って言うように、僕達三人はあの父の息子なのさ。
僕は常に思っているんだけれど、母はこうした毎日を送っていて幸せなのだろうか。僕の母は結婚と呼ばれている人生最大のイベントを、これ以上はないと思われるほど最悪な形で失敗させてしまった。母子家庭ではいくら働いたって貯金ができるほどに金銭が残らず、時間だけは子を養うために大量に消費しなければいけない。それも愛する夫との間に生まれた子どものためならばまだしも、必ずしも一生、憎み、恨み続けるだろう人との間に生まれた三人の息子のために、自分の自由を運命から取り上げられることになってしまったのだ。
僕はいつの日か、確か僕が中学生の頃だったと思うけれど、母が祖母に話した母の幼い頃の夢の話を未だに覚えている。
母はまだ少女であった頃、その幼い胸の中には、少しも濁っていない未来に対する夢の輝きが、将来の不幸なぞ知らず真っ白に輝いていたのだろう。
「私はずっと、専業主婦になるのが夢だった。」
散ってしまった花弁を枝にくっつけるような気持ちで、僕は母親のもう叶うことのない儚い夢の話を聞いていた。僕はあのときほど、父親に対して殺意を覚えたことはなかったね。
僕は父親からの二度の着信を無視して、それから一時間後に掛かってきた三度目の着信で、ようやく電話に出た。電話の内容は、「今日は家で恋人と、とびっきりおいしい鍋をするから食べに来い。」というものだった。
僕はもちろん、行く気にだなんて全くなれなかった。お昼のときにも三河に話したけれど、僕は父親を心の底から憎んでいる。なら、どうして僕が今夜、父親の家で夕食に招かれに行くのか。その理由は実に簡単なことで、単に僕が行くと返事をするまで、父が何度も何度も電話を掛けてくるからだ。乱暴者の父親は、僕が父の誘いを拒否することなど絶対に認めてはくれないし、結局、父に誘われたら最後、「はい。」と言うしか答えは残っていないんだ。
僕は母が仕事からまだ帰らない七時前に、一階にある食卓に「今日、友達と夕食を食べてくる。」と置手紙を母に残して家を出た。
毎夜、僕と父が密会する場所は、僕の家から徒歩十分ほどで行ける。そこは十五階立てのマンションで、僕の父は十階に住んでいた。いや、詳しく言うと父は決してそこに住んでいるわけじゃないんだ。その部屋は父の借金のため担保に係っているため、父は売却することができずにいるってわけだ。その住まいは僕との密会のためだけに使われている。そして父が普段に生活をしているのは、そこから三十分程、車で走ったところにある彼の実家で、そこで父は両親と共に暮らしていた。
もともとこの密会に使われている家は、僕達一家が数十年以上も暮らしてきた場所だった。けれども僕が中学生の頃かな?母は父の乱暴に耐えきれなくなって、僕達三人の息子を連れて夜逃げしたというわけ。
ならどうして、元々住んでいた家から徒歩十分などといった、近所で父と遭遇しかねない場所に逃げ出したのか。きっと君はそう思うだろうね。でもこの夜逃げは、父から逃れるために行われたものじゃなくて、僕達と父が法律上の縁故関係を絶縁するために行われたことであるから、距離の隔たりというのは別にどうだってよかったことらしいんだ。
まぁ、これは大人の事情ってものだね。実を言えば僕も詳しくは知らない。でも、なんやかんや言って、僕達の新居は父にばれることもなかったし、僕は高校二年生の春休みまで、父親と顔を合わせることもなかった。
僕が父親と再会をしたのは全く運命的なもので、僕が友人と買い物をするため二人で電車に乗って街に出掛けようとした際、電車の中で「悠耶」と懐かしい声に自分の名前を呼ばれたのだった。
そのときの自分の胸に突如沸き起こった感情を、僕は未だに忘れずに覚えているけれど、それは自分にとっては妙に不可解なものだった。
僕は電車の中で数年かぶりに父親と再会したとき、自分の体が急に熱くなってきたのを感じて、瞼の奥が体に帯びる熱とは対照的に冷たくなっていることを感じた。僕は自分が涙を流そうとしていることに驚いて、瞳を濡らす水滴を蒸発してくれない顔面の熱を恨んだよ。それでも僕は友人と父の手前、泣くなどという行為はみっともないと思ったし、決して頬に涙を溢すことはしなかったけれどね。
今思えばどうしてあのとき、連絡先を父と交換してしまったのだろうか。僕は幼少期の頃から、涙に搔き暮れる弱々しい母の味方で、乱暴な言葉で母の心を血みどろにする父親の敵だったはずだ。
僕はあの頃の苦々しい記憶を忘れてしまったことなどは一度だって無かったし、今に至っても僕は父親を恨んでいる。けれど僕は父親に自分の連絡先を教えてしまった。その結果、僕は母に内緒でこっそりと、父との密会をし続けることになってしまっているのだ。
僕は毎夜、父親と会うことに対して、大きな象に体内の全ての臓器を踏みつぶされたかのような、巨獏の悔恨の痛みを抱いている。それは僕自身が、自分の母が苦しんできた父による侮辱も乱暴も全て覚えているからだ。僕はそのため、小学生の頃は毎日、せめて妄想の中では母を助けようと、家に一人でいるときは、何とも言えない快感を覚えながら包丁を握り締めていた。それなのに僕は今、母を騙してまでも、あの糞野郎の父と会っているんだ……
いつもの密会場所に辿り着けば、そこには僕の親父ともう一人、父の恋人である陽子さんがいた。二人はリビングの中央に置かれている長方形の座卓に隣同士で座っていた。座卓の真ん中には大きな鍋が置いてあった。そして鍋の側には、父自家製のどぶろくが一杯に詰まった、白く濁ったペットボトルが突っ立っていた。
父の恋人である陽子さんが、リビングに入って来た僕の姿を見て笑顔を作った。
「こんばんは、悠くん。」
僕は最近まで陽子さんのことを全く知らなかったけれど、どうやら陽子さんは父の幼馴染みで、二人は昔から仲が良かったらしい。彼女は結構な美人で見た目も若く、父と同じ四〇代だとはとても信じられないほどだ。胸の辺りまで伸びている長い黒髪は、一度見るだけで綺麗な艶を感じ取ることができる。
それに比べて僕の父は、誰もが初見で不健康という印象を抱くかと思われるほどに痩せこけていた。髪はさっぱりと短く刈り上げられていて、そこだけを見るならば若々しくて清潔感のあるスタイルだけれど、頬は肉が付かず窪みができていて、目元には大きな隈がもう十年もそこにあるかのように肌の深くまで染み込んでいた。
半袖のティーシャツから伸びた肌白い腕も、短パンから伸びた毛深い膝も、痩せすぎのせいか骨に皮が付いているだけにしか見えず、余計な脂肪は父の預金通帳と同様、一切の貯えが見当たらなかった。
「こんばんは、陽子さん!」
「お腹空いたでしょ?私が今から夕食の用意をするから、悠くんは座って待っておいて。」
「ありがとうございます。」
僕は父親と対面して座卓についた。
「悠、もう大輝らも夕食の時間か?」
「いや、母さんが帰ってくるのがいつも七時くらいで、それから夕食を作り始めるから、毎夜夕食は八時くらいだよ。」
「八時は遅いな。大輝も翔太も成長期だから、もっと早くから腹が減るだろう。それでは二人が可哀そうだ。」
「でも、母さんには仕事があるから。」
「俺から縁さえ切らなければ、お前の母さんはもっと楽ができていただろうにな。」
「はは。そうだね。」
「皆、元気にしているのか?しっかりとご飯は食べているのか?大輝も翔太も痩せすぎてはいないか?なんせ、母さんだけの給料だけではやっていけないだろう。だから俺から離れることさえなければ、お前の母さんだって、もっと楽ができたんだ。」
「はい、悠くん。ご飯ができたわ。お鍋は悠くんが来るって聞いていたから、たくさん具材を入れておいたのよ。だからたくさん食べてね。」
目の前には、ついさっき電子レンジから解放された、レトルトパックに詰まった白ご飯が置かれた。
陽子さんが小鉢に具材を掬ってくれる。小鉢の中を覗けば透き通る黄色のスープに、大きな鶏肉とアンコウの身がごろごろと転がっていた。
「悠、酒を飲んでも構わないぞ。」
僕の隣には葵が正座して座っていた。彼女はご飯を食べることができないから、鍋の中のグツグツと沸騰している様子を、ただ、まじまじと見つめているだけだった。
すると、あどけない彼女の顔は僕のほうを向いた。
「お酒は飲みすぎないで下さいね。悠耶くんはまだ、十七歳ですから……」
僕は「分かっているよ。」と言う代わりに、彼女の太腿に置かれている小さな握り拳に、自分の握り拳を広げて重ねた。
僕らはここに来るまでに着替えを済ませてきたから、もう二人とも制服姿ではなかった。彼女は白色のブラウスに桃色のスカートという姿で、その生地の薄い透明な色彩は、僕の体に透き通るような涼しさを与えてくれた。まぁ、ずっと彼女が着用していた制服にしても、今に彼女が着用している服にしたって、結局は僕の妄想が創り出しているもので、言ってしまえばそれは、彼女の体の一部みたいなものなんだけれどね。
「悠、ぼおっとしてないで、早く食べろよ。今日の鍋はとびっきりおいしいからな。おい、陽子!どぶろくをコップ一杯に注いでやれ!」
陽子さんがコップに白く濁ったアルコールを注いでくれた。
ちなみに僕はお酒が大嫌いだ。その理由は言うまでもなく、父親の酒癖の悪さを乳児の頃から見てきたからだ。幼い頃の僕の目の前で、絶望と怒りと悔しさのため、しゃっくりをして嗚咽する母の前にいるのは、いつも酒に溺れ、自分でもそれと知らず乱暴を振るう父親だった。もし、この世に酒さえ存在しなければ、僕の一家に悲劇というものは起こらなかったかもしれない。
僕は酒に呑まれて酔っ払う人間が大嫌いだし、そういう人を見ることにさえも虫唾が走るね。けれどこの場にいるときは、それでも酒を飲む他、自分の胸奥に沈むどんよりとした感情を少しでも忘却させる術はなかった。僕はそれほどにも、自分がここにいることに対して、頭痛と吐き気と動悸を伴うほどの、嫌悪感または罪悪感を抱いていた。だって、僕は心の底から父のことを恨んでいたし、今だって僕は、父のことを殺してしまいたいほどに嫌っているのだから!それならば父にそう言えばいいじゃないかと思うかい?でもね、それができれば僕だって、これ程にも苦しまないよ!
思春期で反抗期真っ盛りの少年少女ならば、親に向って「うざい。」だとか「気持ち悪い。」だとか、人を罵るようなことを平気で口から吐き出してしまうのは、きっと珍しくもないことだろう。罵声を浴びせられた親達は、まるで服が臭い嘔吐物でべとべとになったかのような、腹立たしさと悲しさに気分を悪くするに違いない。
僕だって今、殺意を胸奥から消せないほどに、目の前の親に対して嫌悪感を覚えているし、これはたぶん後十年たっても消えることは絶対にない。それくらいにね、この親父は僕にとって特別、残酷な行為をしてきたんだよ。でもどうして僕はそんな親父に対して、「死ね。」の一言さえ言えずにいるのだろう。
僕はね小学生の頃、この部屋から出ることのできるベランダで、空を駆ける流れ星に三度、「どうかお父さんを殺して下さい。」と祈ったこともある。それなのにどうして僕は今まで、「死ね。」の一言も言えなかったのだろうか。僕はこれほどにも父のことを恨んできたし、今だって憎み続けているのに!
でもね、その理由は幼い頃の僕にだって分かっていたんだ。それはもしかすると、同じ血の通う父親に対する余りにも大きな同情心だったのかもしれない。
僕は昔から今に至って、友人の家で夕食を招かれるのが嫌で嫌で堪らなかった。それは自分の父に対する同情心が、友人の父親を観察することで、ぶくぶくと自分の心から湧いてくるからだった。まずどの友人の父を見ても、僕の父ほど家族の皆に恨まれている者はいないに決まっている。
僕は自分が幼稚園児の頃、一家の主というものは、その妻と子供達から常に怯えられ、憎まれ、「もしこの手で殺すことができるなら。」と思われている存在なのだと思っていた。けれど他の家族の間では、そのような空気は一切漂っていなかったわけだ。僕はずっと、家庭に漂う空気というものは、その空気を吸い込んでしまっただけで、肺の中が紫色にでも変色するかと思われるほど腐乱したものだと思っていた。生まれたときから、それが当たり前だと思っていた。けれど僕が小学校四年生の頃に初めて友人の家に夕食を招かれたとき、その腐乱した家庭の空気は自分の家庭に限定されるものであることに気づかされた。
友達の家の主は人生の伴侶にも、天使のように笑う子供達にも愛されていた。そこには僕の知らない世界があった。そこでは家族の全員が恵まれていた。妻も僕の友達もその妹も皆で心から父のことを笑顔で迎え入れていることを、あの頃の僕は異常な光景だと思って眺めていた。
それに僕がもっと驚いたのは、友達のお父さんはお酒を飲んでいたけれど、妻に向って「ブス」だとか「死ね。」だとか、そういった類の暴言を一回たりとも吐き出さなかった。
僕は小学生四年生の頃になって初めて、自分の家が不幸であることに気付いた。すると自分達一家の全員が、まるで悲劇の登場人物であるかのように思えた。そして僕はあのとき、何故か自分の父親も母と同様、悲劇の登場人物として数えていたんだ。僕はただ、きっと自分が死んでも家族に悲しまれることはないだろう一家の主の不幸に対して、可哀そうだと思ってしまったわけだ。
これが父の自業自得で不幸な人生に対する、僕の憐れみの最大限の感情なんだ。僕の父には家族に向けられた微塵の愛もなければ、富や地位もあるはずがなく、それどころか定職すらもない。ただ僕の父にあるものは、怠惰の生活と彼自身の不甲斐なさが生み出した莫大な借金だけだった。
このような父に対して、果たして同情の気持ちを抱かずにはいられるだろうか?僕はいくら父のこのような現実や待ち受ける未来が、彼の自業自得である結果であったとしても、やはり実の父のことが可哀そうであると心の底から同情してしまうね。
まぁ、話を要約してしまえば、僕は父親のことを非常に嫌っているのだけれど、また、実の父に対する大きな同情心のしこりが、胸奥の中にしっかりと残っているというわけだ。
僕はかなり空腹を感じていたので、あっという間にレトルトバックの中の白ご飯を平らげてしまった。
「あら、もう全部食べてしまったの?まだ残っているから温めようか?」
「はい、お願いします。」
「細身のくせに食欲だけは旺盛だな。」
「皆によく言われるよ。」
僕は次の白ご飯が目の前に置かれるまでの間、酒の飲み方を知らない脳みそに任せて、まるでジュースでも飲むかのようにごくごくと、決しておいしくもないどぶろくをコップ一杯分、一気に飲み干してしまった。そして熱々の白ご飯が目の前に置かれたときには、酔いは血となり身体中を巡りに巡って、自分でも意識がぼおっとしていることに気付いた。すると一気に体が重くなったような気がして、僕は右手で両瞼を意味もなく擦り付けた。
「大丈夫ですか?もう飲んではいけませんよ?」
優しい声がした方に横目を向ければ、目の前の白ご飯よりも、真っ白でふんわりとしたブラウスを着ている葵がいた。僕は彼女を横目で見ながら、何とも言えない愛情を感じてしまって、それが罪的なものであることをすぐに察して、すぐさま目線を茶褐色の机に戻した。そして僕は二つ目のレトルトパックのご飯に箸で触れた。
「おい!陽子!悠のグラスが空っぽになっているぞ!俺の息子に対して心遣いがなっていないんじゃないか!」
「あら、本当だわ。でも悠くん、まだ飲めるかしら?」
「大丈夫ですよ、陽子さん。次の一杯で最後にしますから。」
僕がそう言うと、陽子さんは僕のグラスに、真っ白でドロドロとしたどぶろくの入った、長いペットボトルを傾けてくれた。
「ありがとうございます。」
陽子さんがお酒を注いでくれたグラスを早速手に持って一口飲む僕を見て、葵が心配そうに僕を見た。彼女は両瞼を二度、背伸びをする蝶のようにパチパチと叩いたのだった。
僕はお酒に強くないから、葵は心配してくれているのだろう。むしろ僕はお酒にすごく弱くて、アルコール指数の高くないものでさえ、一杯飲んでしまえば酔いが頭をクルクルと回ってしまうのだから。
お酒が嫌いな僕は、今日だって本当は飲みたくなかった。けれど、お酒の力を借りなければ、この瞬間の僕の胸奥にある漠然とした、形も無ければ名前すらない憂鬱感が、いつまでも消えてくれそうになかったんだ。
グラス一杯目のお酒は、憎悪する父親と食事を共にしている屈辱感と、自分が最も愛しているはずの母を裏切っているという、自分の胸を貫く鋭い罪悪感を忘れるためだった。けれどこの二杯目には、それらと一緒に葵に対する良心の呵責も混じっていた。
僕は女性とは永遠に、潔白な、濁りない関係を保とうとしているのに、お酒を一杯でも飲んでしまえば、女性に対して動物的な快感への興味を、自分でも気づかぬ間に抱いてしまうらしい。僕は隣にいる葵を横目で見ながら、どうして自分はこの子を恋人にしないのだろうか。ということを、彼女がマチュニュイであることも忘れて考えてしまっていた。そして後からハッと自分の考えの過ちに気付いた僕は、自分の持っている信念に懺悔をするかのようにお酒を飲み込んでいたのだ。
俺は目の前の親父とは違う!俺は親父と違って、性に対して淫らな生き方はしないぞ!
僕が飯を食い終わる頃には、親父はいつもと変わらず、鼾をかいて絨毯の上で横になっていた。父は僕が来る前から、かなりの量を飲んでいたらしい。僕は父が寝てしまったので、ここを出るまではずっと陽子さんと些細な世間話をしていた。そしてここを出るとき、僕は親父を起こして、もう帰る時間であることを告げて家を出た。
僕が帰宅したのは日が越してから数分後だった。僕の家は帰宅する際、玄関にある引き戸を開けてしまえば、すぐ目の前にリビングが広がっている。だから帰宅するとき、僕は母が二階の寝室のベッドで眠っていない限り、いやでも顔を合わすことになってしまう。そして母は夜遅くまで家庭の仕事をしているため、ほぼ毎日のようにこの時間帯はリビングにいる。
飲酒をした日は流石に母に顔を合わしたくはない。恐る恐る玄関の戸を横に滑らせれば、運よくリビングには母の姿がなかったので、僕は駆け足で自分の部屋へと向った。きっと母は風呂にでも入っていたのだろう。
僕の部屋の隣は寝室になっていて、僕以外の家族はその部屋に置かれているベッドで眠っている。その部屋には一応、二人の弟のための二階建てのベッドが一つと、母のためのシングルベッドが一つ置いてある。本当は今の家に移り住む前は、二階建てベッドを二つ買って、皆が寝室で寝ようというのが母の考えだった。けれど長男である僕だけは、一人部屋をもらえる約束になっていたので、僕は初めて一人部屋を持つ喜びに胸を躍らせて、例えそれがどれほどに狭い部屋であったとしても、自分はその部屋にベッドを置きたいと母にしつこく交渉したんだ。その結果、僕だけは毎夜この部屋で眠っている。
僕は自分の部屋に入ったら、そのままベッドに崩れてしまって、体が布団の生地に沈んだ直後、深い眠りに落ちてしまった。
六
昨夜、風呂も入らずに就寝してしまった僕は、お酒の影響が強く作用していたのか、今朝は死人同然であったらしい。葵が大声を出そうと僕の体を揺さぶろうと、僕はピクリとも動かなかった。
僕が鉄の詰まったかのような頭の重たさを感知したのは、もうとっくに学校の授業が始まっている時間帯だった。
深い眠りから目を覚ました僕は、体にべったりとはりついた倦怠感に逆らうように、後頭部に吸い付いて離れない枕を後ろに突き放した。
「悠耶くん、遅刻ですよ!」
僕が身を起こせば、ベッドの前には葵が突っ立っていた。
「今、何時?」
「もう十時です!」
「今日は休むか……」
「悠耶くん、夜中にずっとうなされていました。何か嫌な夢でも見ていたのですか?」
「うん。すごく嫌な夢だった……」
「夢の内容を聞いてもいいですか?」
「うん。それはね、僕が首つり自殺をしようとしている夢だったんだ。僕が毎日、授業を受けている机の上で、僕は自殺をしようとしていたんだ。
僕は授業中にも関わらず、何故か自分の机の上に立っているんだよ。けれどね、クラスメイトの皆はそんな僕にはお構いなしってわけ。そもそも皆には、僕のことが見えていないんだよ。だって、さすがに机の上に立っている奴のことを、無視するわけがないじゃないか!教壇の先生までもが、僕に気付かない始末なんだからね。
僕はずっと机の上で、天井から伸びている一本の縄を眺めていたんだ。その縄の先端は僕の頭くらいまで伸びていて、先っちょには輪っかが付いているんだよ。
余りにもおかしいよね。もうこの時点で、僕は何者かに自殺を強制されているんだよ!
だってね、考えてごらん。いくら僕でも、教室の中で首つり自殺をしようとは思わないし、あれは僕が用意したものではないはずだ。
要するにあの不自然な縄は、僕の運命を象徴しているのだと思う。そして余りにも滑稽なのが、僕が何の躊躇もなくその輪っかに首を通してしまうことなんだ!何てバカげたことだろう!それに僕が縄に首を通しても教室の誰一人、僕の方を見向きもしない。これには僕もびっくりしたよ!
そしてまた滑稽なのが、僕が足で机を蹴り倒すタイミングを見計らっているとき、自分がずっと、クラスメイトの視線を気にしていることなんだ。夢の中の僕は、自分が透明色の空気と同化していることを知っていながらも、誰かが自分の自殺を気にかけてくれることを、心一杯に期待していたんだ。もう、その時の僕の心境が、最高にいやらしいんだ!
僕はどのような気持ちで、皆を眺めていたと思う?いや、助けて欲しいとは思っていなかったよ。ただね、夢の中の僕は教室内の全員に、自分のことを憐れんで欲しいと思っていたんだ。僕は自分の置かれた境遇を、皆から可哀そうだと思って欲しかったわけだ。それにも関わらず、皆が僕の存在を認識していないものだから、もう僕は餓死寸前の空腹を心の中に感じていたよ。もう、それは涎が止まらないほどの欲求心だったに違いないね。
誰も僕のことを見てくれない。すると僕は隣の席に座っている遠山を見つめたんだ。君だけには気づいて欲しい。他の連中はどうだっていいから、君だけには気づいて欲しいってね。
僕は遠山の憐れみだけを、人生の最後の瞬間に求めたんだ。夢の中の僕は、家族のように仲の良い彼女の視線を、心の底から欲したわけだよ。
遠山はそんな僕の気持ちをどうしたと思う?これが余りにも惨いのさ。彼女ですら僕の存在に気が付かないんだ!
そりゃ僕は絶望したよ!あんなものは見ていられないね!一人くらい、死のうとしている僕に気付いてくれたっていいじゃないか!でもね、誰一人として僕の存在に気付いてくれないんだよ!
結局、僕は誰にも見られないままに自殺を決行した。僕は死ぬことを欲して、思いっきり机を蹴飛ばしたんだ。すると僕の体は宙にぶら下がって、僕は想像もしなかった苦しさに泣き出してしまったのさ。
夢の中の僕は泣き喚きながら、あることを叫び続けているんだ。僕が何て叫んでいたと思う?
これがまた滑稽なんだよ。神様、ごめんなさい!ってね。僕はそれをひたすらに叫んで、激烈な苦しみに涙を流し続けていたんだ。
そこで夢から目覚めたのかって?いや、まだ続きがあるよ。ここで夢から逃れることができたなら、この夢のことを悪夢だなんて僕は言いやしないさ!
僕はひたすらに叫び続けたんだ。
神様、ごめんなさい!どうか僕を助けて下さい!僕はまだまだ死にたくありません!ってね。
挙句の果てには、僕は遠山光の名前を口にしたんだ。すると意外なことに遠山が、急に僕の方に顔を向けた。そして彼女は立ち上がり僕の側まで来て、とんでもないことを言いやがったんだ。遠山は僕に向って、足がついているよ。とさも人を軽蔑するような目で言った。
普通に考えて、さっきまでは宙に浮いていた僕の両足が、床に付いていることだなんてあり得ないよね。でもね、僕は彼女の言葉を聞いて恐る恐る足元を見てみた。すると何と足が床に着いているじゃないか!これには僕も驚いた!そして遠山は笑いながら僕に言ったんだ。自殺未遂だねって。その瞬間、他の奴ら全員が、教壇に立つ担任までもが、僕の方を向きやがる!僕は今でも、教室中に響いた自分の心臓の音を覚えているよ!
ずっと僕を無視してきた連中の全ての視線が、急に僕の方に集中したんだ。僕は初めて、人に見られることに対して恐怖感を抱いた。
それから少しの間が空いて、僕を見ている全員が、自殺に失敗した僕を指さしてゲラゲラと笑い始めた。その笑いは止むことなく、延々と長い間続いたんだ。
僕の視界からは何故か縄が消えてしまっていて、僕は自分の体を火傷させるほどの羞恥心からその場にうずくまった。僕は皆の笑い声が聞こえないように耳を塞いだ。そして、殺してくれ!誰か、僕を殺してくれ!と僕はひたすら叫び始めたのさ。そして僕が叫び続けている中で夢は終わってしまった。」
僕が話をしている間、葵はずっと震えていた僕の手の平を握ってくれていた。ベッドに座る僕の前で突っ立っている葵は、泣きそうになった真っ赤な目で、僕のことを見てくれていた。葵は本当に僕思いの優しい子なんだ。
「とても怖い夢です。私だったら一生トラウマになってしまうかもしれません。」
「確かに奇妙な夢だったよ。未来に起きる何かの暗示かな?何にせよ奇妙だ!」
「大丈夫です。大丈夫……」
僕の手を握る葵の小さな手の平は、憩いを知らない心臓のように震え続けていた。
ある熱で温められた水滴が、彼女の手の平を伝って僕の手に流れて来たけれど、それは透き通る硝子の色をした涙の雫だった。
「どうして、僕はあのような夢を見たのかな。」
「きっと悠耶くんは、毎日悩んでいるからです。」
「僕が悩んでいる?」
「はい。悠耶くんは相当、悩んでいるのだと思います。だから、さっき話してくれたような、嫌な夢だって見てしまうのです。」
葵はそう言うと、そっと僕の両手から手を離して、小さな口から出る愛らしい声を、僕の耳元に優しく届けてくれた。
「悠耶くんはお父さんのことで悩んでいます。だから毎日、苦しそうな溜息を吐いているのです。」
「僕が親父のことで悩んでいるか……でも、これだけはどうしようもないことだからね。
確かに悩んでいるのは事実だよ。僕は板挟みの不安定で困難な状況に陥っている。
葵には何度も言ったことがあるけれど、僕は親父のことが、世界で一番に大嫌いなのさ。でも、僕は本人に向かって人を悲しませるような発言はできないし、父親に対して可哀そうなことは何一つとしてしたくないんだ。きっと僕は父に殺されてしまったとしても、親父のことを攻撃的な言葉で呪えないはずだよ。
それはもしかしたら僕が、体をブルブルと震わすチワワのように臆病だからかもしれない。それとも、もしかしたら僕が、天使の持つ魂のように白百合色の心の持ち主だからかもしれない。まぁ、そんなことはどうでもいいんだよ。何が僕を苦しめているかってね、それは母に対する良心の呵責なんだ。何だって、僕は母さんをこの世で最も愛しているんだからね。
僕が父と密会しているということは、母に対する裏切り行為同然のことなんだ。なんせ僕の母親は親父のことを、自分の心を自らの憎しみで腐らせてしまうほどに呪っているからね。それなのに息子が自分に内緒で、母に対する怨敵と仲良く飯食い酒飲み大宴会を開いているとしよう。そりゃ母からすれば、僕は裏切り者だろうよ!しかもその場には、僕の母代わりとなった女性もいるんだからね!
もし母に親父との密会を知られたら、僕は何て言われることだろう!きっと、この裏切り者!嘘つき!だなんて罵られるに違いないだろうよ。けれど、これだけは分かっていて欲しい。僕だってね、親父のことは大嫌いだ。ただね、駄目なんだ。僕の複雑に構成されている心のどこかに、憐れみという好意が一切含まれていない愛情が、嘔吐物に湧く蛆のように溢れているんだよ!
葵、僕の言っていることが分かるかい?きっとね、僕みたいな人のことを意気地なしと人々は呼ぶんだろうね!」
「それは違います。悠耶くんはきっと、お父さんのことが大好きなんです。だって悠耶くんからすればお父さんは、血の繋がっている家族なのですから。血が繋がっている以上は悠耶くんにとって、どんなことがあってもパパはパパです。
それにお母さんのことだって大丈夫だと思いますよ。確かに悠耶くんがお母さんに対して隠し事をしているのは、良くないことだと思います。けれど悠耶くんのお母さんだって、悠耶くんがこんなにも苦しんでいることを知ったら、きっと許してくれるはずです。
法律上では、悠耶くんのお父さんはもう赤の他人かもしれません。でも、やはり悠耶くんのお母さんにしたって、一度は愛した人ですし、悠耶くんのお父さんはこの世で一人しかいないのですから。それに、今は離れていても元は家族だったのです。悠耶くんがしっかりと事情を話せば、お母さんも絶対に分かってくれるはずです。家族はしっかりと話し合えば、絶対に分かり合えるものですから。」
僕は葵の励ましに「ありがとう。」とだけ返した。理想に輝く葵の言葉は、美しく綺麗な光で僕を慰めてはくれるけれど、余りにも頼りなくて脆くて、儚くて淡い蛍の命のようなものだった。
僕はこの日、学校を欠席した。夜は父親から家に来いとの電話があったけれど、この日は乗り気になれなくて、体調不良だと言って断った。
二―一
夏休みが明けてから約一カ月半が過ぎた。
僕の毎日の生活は変わることがなくて、朝から夕方までは学校に行き、夜は父親に顔を見せに行く。僕は止まることの知らない振り時計のように毎日繰り返される生活を、気怠さを感じながらも送り続けていた。
十月の三週目には、夏休み明け初めてのテストが返却された。僕は葵のおかげで、全教科の点数が平均点を上回っていた。
返却されたテストが全て揃った金曜日の昼、この週の初めに席替えがあって僕と三河の席が隣同士になったので、僕らはお互いの机を対面させてお昼ご飯を食べていた。これで前よりも広々とお弁当箱を置けるようになったわけだ。
「君は全教科、僕よりテストの成績が良かったんだね。」
薄ら笑いをして三河が言った。
「まぁ、それは僕の実力ではなくて、全教科のテストが葵の助けによるものだけどね。」
「君は罪な男だね。君以外の連中は良い点数を取るために必死に勉強をする。けれど君ときたら、授業中はずっと机に頭を伏せているじゃないか。君は今日のテスト返しの時間でさえ、黒板を一度も見なかっただろう?
それに君は今朝から、眠気覚ましを数粒か服用していた。それなのにどうして君は眠ってしまえるんだ?葵ちゃんが君の顔面に接着剤でも塗ってしまったのかい?」
「はは。三河は勘違いをしているよ。僕は授業中、別に眠っているわけではないんだ。
君が隣を見れば、僕が机に顔を伏せていたとしよう。確かに僕は目を閉じてはいるさ。けれどね、別に眠っているわけじゃないんだ。じゃあ、僕がどうしていたのかだって?
僕はね、この汚らわしい空間から逃げていたのさ。前から何度も言っているけれど、僕はこの教室内の空気が大嫌いなんだ。俗な欲求の吐き捨て場って言うのかな?とにかく僕は、学校という存在そのものが嫌いで、生理的に受け付けられない。だからだよ、この腐乱した魂の臭いが漂う教室内で、その腐乱臭から自分の鼻を守るため、僕は机の上に顔を埋めていたのさ。要するにね、僕はこの教室の空気と同和したくないんだよ。
僕はね、真っ白な百合の花のように純白な色をした、心を持っていたいのさ。けれど、この教室の連中といったら、黒は黒でも油に塗れたゴキブリ色の心しか持っちゃいない!
僕は自分の新鮮な魂を、それと混ぜるのはごめんだね!それで自分の魂が灰色になるならまだましさ。でもね、きっとここの空間に混ざってしまえば、気色悪い無数の卵を身体全身に産みつくされるに違いないよ!」
「君は随分と厭世家だね」
「そんなものじゃない!僕の言っているのは真理だよ!僕はね、道徳性を重んじない奴らが大嫌いなのさ!」
「じゃあ、君は道徳性を重んじて生きているとでも言うのかい?」
「当たり前だよ!」
三河は僕の言うことを聞いて、数週間ぶりに声を出して笑った。それはまるで壊れた洗濯機のようにバスの利いた、うるさくて嫌気が指す笑い声だった。
「君が道徳について何を知っていると言うのさ。君はどちらかと言えば、道徳に背を向けて生きている側の人間だよ。君が道徳性を重んじるだなんて言い出すのは、おかしくて仕方がないね。」
「どうして僕が、道徳に背を向けている側の人間なんだ?僕は己の心が俗に汚れてしまわないよう常に気を使っているし、人の心が欲に染まらず硝子の色をしていることが、善であり徳であることを知っている。そして僕は常に徳となる道に向かうことを意識して、生きているつもりだよ。」
三河はまたもやゲラゲラと、瀕死状態の蝉のように耳障りな音を発して笑い出した。さすがの僕も、これには腹正しさを覚えたね!
「おい三河。僕の言っていることの何がおかしくて笑っているんだい?」
三河は泥のような隈に汚れた目元を、きっともう一年は溜めておいたであろう涙で、悪戯に濡らしていた。
「君は悪の権化そのものじゃないか。君は何もかもが嫌いで、何もかもに背を向けて生きている。その内、太陽にも月にも背を向け出しそうな勢いだね。」
「僕は別に何も嫌ってはいないさ。」
「さっきまで、このクラス全員を敵にするような発言をしていたじゃないか。」
「三河、君は勘違いをしているよ。僕はね、別に何もかもを嫌っているわけではないよ。僕はただね、悪を認めたくもなければ、受け入れたくもないだけなんだ。」
「悪?君は何に対して悪と言っているんだい?」
「そんなの決まっているじゃないか。純粋な心を持っていない連中のことだよ。俗な欲求心しか持っていない、お下劣野郎のことだ。」
「けれども君はどのような心に対して、俗な欲求心だと見なしているんだい?」
「それは……」
「それは?」
「口にするのは難しいかな……ただ僕が言えるのは、本当の人間愛を知らない連中は、皆、お下劣野郎さ!」
「君は本当の人間愛とやらを知っているのかい?」
「もちろん知っているさ!」
「じゃぁ聞くけど、君は誰かを愛しているの?」
「誰も彼も目に映る全ての人間をだよ!僕はこの世の皆を平等に愛しているのさ!僕はこの世界の誰をも、皆、平等に愛している!そして例え女性に対してだって、醜い感情だなんて、いっさい僕は持っていないよ!葵にだってそうさ!」
僕が葵の名を口にした瞬間、僕の真横に座る葵が急に自分の方に顔を向けた。
葵はずっと、ぼおっとしていたらしい。彼女は突如、僕に名前を呼ばれ、驚いてこちらを振り向いた。僕が自分に向けられた視線に気付いて顔を少し動かせば、すぐ目の前に葵の長い睫毛と柔らかそうな桃色の唇が目に入ってきて、僕は慌ててその反対方向に目を向けた。
「君の意見の道理はいつだって破綻しているね。もうそれは、目に見えるほどに大きな矛盾だらけだ。」
「まあ、こんなことは全部くだらないことさ!僕は隣の教室に遊びに行ってくるよ。もうお弁当を平らげてしまったからね!」
僕は未だお箸にカタツムリの体液のような、涎を光らせている三河を席に残して、隣の教室へと遊びに行った。
平山のいる教室に一歩入れば、まるで鈴の音が鳴り響いたのか、彼を含めたいつもの五人が皆、僕の方に顔を向けた。
僕は青臭い人間の塊に転がるボーリング玉のように、彼等にぶつかる勢いで近づいて行った。
「やぁ、藤原!ちょうど今、藤原のクラスの話をしていたんだよ!」
「僕のクラスの話だって?」
「そうさ。君のクラスに宮崎っているだろう?君は宮崎とは仲が良いのかい?そうか。なら、話しても大丈夫そうだね。いや、あいつが先週から菊池亮介と付き合っているのは知っているかい?そうだよ、あの菊池だよ。元野球部三年生のね。もう部活は引退したらしいから、きっと暇でもしているんだろうよ。
菊池から宮崎に告白したらしいぜ。それも知り合って一週間でさ。それがどうしたって?いや、藤原は菊池という男を知らないんだな。
菊池亮介はね、それは見た目こそは人間だけれども、見た目を除いた全ての機能は、猿にも劣る始末なんだよ。あいつの目はすごくてね、視力は人並みだとしても、動物的快楽に関わるものならば、町一つ離れていたって発見してしまうんだ!あいつは猿よりも卑猥な猿だ!あいつには理性というものが全くないのさ!それに顔面までもがお猿さんより醜いときているんだ!
それがどうしたって?藤原、菊池はどうして宮崎と付き合ったのだと思う?いや、僕もこれにはたまげたよ!
菊池はただセックスをしたいがためだけに、宮崎と付き合ったらしいぜ。しかも驚くことに、本人がそう俺の前で言いやがったんだよ。本人いわく、宮崎のことだなんて、全く愛していないらしいんだ。だから僕もどうして彼女を恋人にしたのかを聞いてみた。するとその答えがとても滑稽なんだ!
彼が言うには、自分の顔面と釣り合うのが、この学校には宮崎しかいないってわけらしいぜ。まぁ、宮崎も相当なブスだからね。けれど滑稽な話じゃないか!男が下半身につけたミミズを、猿並みの知能で破裂させないがために、好きでもない女と付き合う青春盛りの男がいるだろうか!
きっと菊池の奴は、宮崎を当分は離さないだろうよ!だって、きっと宮崎以外には、誰も菊池なんかと付き合わないだろうから!宮崎も変人だね。何て、物好きな奴だろう!
それにしても菊池は、蝉の幼虫が掘った穴の中にでさえ、動物的な欲求を感じるんだろうな!」
僕以外の皆が平山の話を聞いて、それこそ喧しい八月の蝉のように笑い転げるので、僕は皆の空気を壊さないように、瀕死の蝉を見つめるような虚しさで、大きな声を出して笑った。そして僕は皆に言った。
「僕だってそろそろ穴を掘らないとね。何だってもう冬は近づいてくるんだからさ。僕だって宮崎を蛇のように噛みついてやりたかったさ!」
「宮崎は君のことが好きだったみたいだよ。」
「え?」
僕は南條の言葉に一文字しか言葉を発せられなかった。
「知らなかったの?彼女は春からずっと、君に好意を寄せていたらしいよ。まぁ、藤原は中々イケメンだから、宮崎も気持ちを打ち明けることはできなかったみたいだけどね。
あいつも菊池と同じ思考回路で、自分の顔面に、藤原のルックスは釣り合わないと考えたのだと思う。」
「藤原、君はなかなか女に受けるんだね。」
南條が宮崎の話をした後に、平山が僕を笑いながらからかった。
「藤原、どうして君は彼女を作らないのさ。君ならちょっと肌をくすぐるだけで、二股も三股もかけられるだろうに!」
僕は固まった紙粘土のように動じない表情を、無理やりにでも動かして皆に笑いかけようとした。けれど南條の話が何故か僕を不愉快にしてしまって、僕は顔面の筋肉を無理やり動かそうものなら、顔にひびが入って崩れ落ちてしまいそうな気がした。
あれ?どうして、僕はこんなにも不愉快な気持ちになっているのだろう。僕は胸の底に沈んだ、起因の見つからない罪悪感の重さに、理由を見つけられずにいた。
宮崎が僕のことを好きだっただって?ならどうして、菊池とやらと付き合ったんだ?どうしたって自分の顔面を理由にして、自分の真実の愛を見捨てることができたんだ?どうしたって自分の容貌の醜さを理由に、決して好きでもない奴なんかと付き合えてしまうことができるんだ?
これが恋愛というものなのだろうか。恋愛ってやつは、こんなにも俗っぽくて淫らなものなのだろうか。僕がずっと思ってきた恋愛は、もっと高潔で純粋で一切の濁りがないもので……
「そういえば、藤原のクラスに遠山光っているだろう?俺の地元の奴と付き合っているみたいだよ。」
さっきまでずっと無口だった平岡が、僕にとって大問題のことを、何の躊躇もなくすらすらと言いやがった。
この平岡は、散髪を毛嫌いしているのか髪がボサボサで、廊下で擦れ違う教師連中によく注意されている。虱の卵でもくっつけていそうな彼の乱れた髪は、いかにも不潔感極まりなかった。けれども前髪だけは毎朝アイロンでも当てているのか、ピンと真っすぐに伸びていた。
彼は何を意識しているのか、全く掴みどころのない不思議な奴だ。けれどこういう連中は珍しくもなく、探せば埃のように学校から舞って出て来る。
「遠山って、藤原のクラスのまぁまぁ可愛い子だよな?」
僕は平山が遠山光の名前を出したことに関してさえ、急に起こる片頭痛に似た腹立たしさを覚えた。
「それっていつの話?」
「先週のことらしいよ。」
「遠山の彼氏はどんな奴なんだ?」
「地元では有名な不良少年だよ。北川って奴なんだけどね。北川が遠山と同じ中学の奴らと仲が良いみたいで、北川がそいつらに遠山を紹介してもらったらしい。
それにしても、遠山って見た目は素朴だけれど、中学時代は中々、やんちゃな娘だったらしいぜ。一時は金髪で中学校を登校していたとか。まぁ、北川も付き合った理由は菊池と同じだろうね。ただ、北川はかなりのイケメンだよ。」
「君、それは菊池と一緒にしちゃいけないよ!なんせ、イケメンと菊池じゃあ、猫とゴキブリくらいの差はあるんだからさ!」
平山の言葉に皆は笑い転げたけれど、僕は目に刺さった現実の太い針のせいで、目の前にいるはずの皆の姿を見失った。
「遠山も一ケ月程前に彼氏と別れたみたいだから、きっと寂しかったんだろうな。その元彼氏が、北川に強く遠山を推薦したらしいけれど。」
「それ、もうただの使い回しだよ!」
南條は興奮しているのか高らかな声で叫んだ。
どうして?どうして遠山がそんな奴と……それにしたって、どうして、僕はこんなにも胸を痛めているんだ?遠山が誰と恋愛しようったって、別に彼女の勝手じゃないか!それなのに、どうしてこんなにも苦しいんだろう。
ああ!息をするのさえもしんどい!
僕がふと右後ろを振り返ってみれば、葵が悲しそうな顔をして突っ立っていた。彼女は見るからに頼りなさげで、もうすぐにでも折れてしまいそうな、弱弱しい花のように息をしていた。葵の僕を心配してくれている様子を確認すれば、僕は余計に自分のことが惨めに思えてきた。
僕はどうして、こんなにも悲しんでいるのだろう?僕は遠山のことを、異性として好いているのだろうか。いや、それはない。僕と遠山は兄と妹、または姉と弟のような関係なのだから。ただ、僕は心配しているんだ。遠山の幸福が灰色になってしまわないように。幸福は純白な百合の色をしているけれど、少しでも汚れた色がそれに混じってしまえば、幸福は純潔な真っ白ではなくなってしまうから。僕は、潔い関係にある遠山のことを、私欲は一切無しに心配しているんだ。いや、もっと的確に言えば、彼女の濁りのない真実の幸福を、僕は自分の真心から願っているんだ。
僕は目の前の連中のせいで、確かに存在していた高潔な理想の像が、急に視界から消えてしまったような気がして、喉に汚物が通っていくような嫌悪感を覚えた。そして僕は逃げるかのように、親友の平山すらも恨みつけるような心持ちで、自分の教室へと帰って行った。
二
僕はカレンダーが十一月を飾る数日前から、学校を休みがちになった。不登校というわけではなかったけれど、週にある五日の登校日の内、最低でも二日は家に引き籠っていた。
僕が遅刻をしない日はなく、一限目から授業を出席するなんてことはほぼなかった。
葵は学校に行かない僕をよく心配してくれた。
「どうして学校に行かないのですか?」
「僕はもう、あんな汚れたところには行きたくないんだ。
葵、あそこにはね、僕の呼吸を荒くさせて苦しくさせる病原菌が、空気中に漠然と漂っているんだよ。それは呼吸を通して僕の体内に侵入して、最後には僕の心を汚染する。すると僕の心は悲しみのどん底に陥ってしまうんだ。その汚染というのがね、僕にはとても恐ろしいんだ!その病原体が僕の心を蝕んだとき、僕の心はどうなると思う?
それは僕の心に存在する透き通った水晶玉のように綺麗な思いを、なんのためらいもなく全て壊してしまうんだ。
僕のどのような思いが壊されてしまうのかって?それはね、僕の生きる世界に君臨する、真実に対する憧れの思いだよ。いや、これじゃ抽象的すぎるよね。何と言ったらいいのかな?それはね、僕の何もかもを支配している一つの真理である、最高の理想像に対する崇拝と切望の思いだよ。
例えばね、葵の視界に映っている全てのもの、いや、葵が知っている全てのこと。それら全てを支配する頂点に、この世の何もかもを支配している、この世界の最高峰の存在が君臨しているとするね。僕はね、その最高となるものが、非常に美しいものであると信じているんだ。この世で一番美しくどの宝石よりも光り輝く、どの絶景よりも綺麗で偉大な、僕たちには想像もできないようなものが、この世の何もかもを支配しているはずなんだ。
僕は今に言ったことを信じている。いつの時代の宗教徒にも劣らないくらいに、自分の認識している真理を、心の底から崇拝しているのさ。そしてその思いを、僕は自分の心にある全ての思いの中で、最も大切にしているんだよ。この思いは僕の知る限りでは、とても誠実で純粋で、真っ白の真珠のように輝いている。
でもね、この大切な僕の宝石が、何故か学校に行くと壊れてしまうんだよ。それは余りにも残酷で、僕の宝石はあそこに行くと、粉々に玉砕してしまうんだ。すると大きな破片の一つすら残りやしない。僕はもうこれ以上、自分が大切にしているものを、何かにぶち壊されたくはないんだよ!」
僕が長々と興奮に駆られて話していたとき、葵は涙を流していた。僕は話すことに夢中で、彼女がいつから泣いていたのかも知らなかった。
「ごめん。葵を泣かせるつもりはなかったんだ。ごめん……」
葵は両手の甲を涙で濡らしながら、時々、涙を布団の生地に吸い込ませて、しゃっくりにいくつかの言葉を奪われながら、震えている弱弱しい声を発した。
「だって……悠耶くんがこんなにも苦しんでいるのに、私は何もできなくて……」
僕は自分のことを思って涙を流してくれている葵を見て、彼女の優しさに感動した。
この地球上、葵よりも素直で誠実で優しくて心の綺麗な子は、果たして何人いるのだろうか。僕は自分のために泣いてくれている葵を見て、急に彼女のことがとてつもなく愛おしく感じた。
僕は彼女の体を思いっきり抱き締めた。葵の体は、自分の全体重を支えている布団よりも遥かに柔らかかった。僕は葵が泣き止むまで、彼女の体に腕を回していようと思った。
葵の小さな肩が目の前にあった。僕はただ、葵の優しさに感動して、悲しむ彼女の心を慰めたくて、情熱による衝動性によって彼女を抱き締めたのだった。最初、その肉体的接触は、幼い少年がそうであるように、僕の心は思いやりによってのみ、心を激しく熱して動かしていたのだった。けれどずっと葵を抱き締め続けることで、自分の顔の側にある彼女の黒髪が自分の首筋に触れる感触に気付くと、僕は急に身近な葵の存在を意識して、心は思いやり以外の下品で凶暴で野性的な感情に少しずつ蝕まれたていった。僕はそれにはっきりと気付いてしまった。
僕は葵に対する本能的な過ちを、自分の体から力強く振り放そうと、恐る恐るゆっくりと彼女の体から手を放すのだった。
そしてこの日以来、葵は僕が学校に朝から行かなくったって、何も言及しないようになった。
三
十一月の半ば、広葉樹の葉は緑色を奪われて、ここ最近が丁度、紅葉狩りの絶頂期に違いなかった。
そして僕はと言うと、真っ赤な紅葉が世間を色付ける頃に、これまでに経験したことがないほどの不幸に苛まされることになった。
そもそも僕が人生最大の絶望的窮地に立つきっかけとなったのは、父親との喧嘩と絶縁だった。
不幸の発端となる日のこと。この日も僕は朝から登校ができず、やっとのことで起床すれば、もう既に学校では授業が四時間目を終わろうとしている時間帯だった。
僕が目を覚まして体を起こせば、葵はいつものようにベッドに腰を掛けて、目の前の小さな本棚に並べられている小説やら漫画やらを、ぼおっと見つめていた。
「今日も遅刻してしまった。」
「悠耶くん、昨夜は遅くまで起きていましたから。今朝起こそうと思ったのですが、悠耶くんがとても苦しそうな表情をしていたので……」
「昨日は確かになかなか寝つけられなかったけれど、それにしてもこれは寝すぎだ……
きっと毎日、十時間ほどは眠っているな。昨日だなんて、起床したのがお昼を大きく過ぎて二時くらいだったし……
「きっと疲れているのですよ。」
「僕は昨日にしたって、疲れるようなことは何一つとしていないし、仮に僕が疲れているだなんて口にしたら、世間の人々にお前は甘えん坊さんだ!と言われてしまうよ。」
僕は自分では葵にそう言ったけれども、果たして本当にそうなのだろうか。誰もが誰も、夜中に完全な眠りを欲して、動悸に高鳴る胸の上に両手を重ね、余りにも長くて退屈な時間を本当に過ごしているのだろうか。僕以外の皆は、朝に寝床から起き上がるために、本当にこれほどにも苦労をしているのだろうか。本当に誰もが誰も、僕の慣習である意味のない苦労を、背中が重圧に潰れてしまいそうなほどに感じ取っているのだろうか。
僕はこの日、学校に行くことなく、いつものように自分の部屋に引き籠っていた。
僕は夜が来るまでは、いつもと変わらず不甲斐ない一日を過ごしていた。けれど悲劇の幕開けは突然にやってきたのだった。
携帯が甲高い音を鳴らして、僕に着信を教えてくれた。
僕は電話に出た。着信音を部屋に響かせたのはもちろん父親からの電話だった。
このとき、僕は父の声から異変を感じた。父の口調と声量が、いつもとは比べ物にならないほどに激しかったからだ。僕は父が怒りに狂っていることを、その声を聞いただけで察した。父はただ、「話したいことがあるから、今すぐ家に来い。」とだけ僕に言って電話を切った。
僕は嫌な予感だけを感じて家から出た。いつもに比べ外は薄ら寒くて、携帯で時刻を確認すれば、いつも父から電話をもらう時間よりも、一時間ほど後にずれていることに気付いたのだった。
僕が父親と顔を合わせたとき、父はもうかなりの酒を飲んでいたのか、瞳孔が電球にぶつかる蠅のようにうろうろとしていた。
「やっと来てくれたな。悠、今から大切な話がある。まぁ、座ってくれ。」
父は酒のせいか活舌が悪く、一言を口に出すのが精一杯であるように見えた。しかしそれにも関わらず声の大きさだけは、僕の脳の神髄にまで響くほどうるさかった。そして赤い唇が大袈裟に震え続けているときでさえ、父の瞳孔はせかせかと歩く虱のように忙しなかった。
「一体、どうしたの?」
「今から、悠のお母さんを懲らしめようと思う。」
「え?父さん、何を言っているの?」
「ここに来る途中、車で走っていたら、たまたま自転車に乗っている翔太に出くわしたんだ。
俺は自分と同じ方向に進む翔太に気付いた。自分の後ろには一台も車がなかったから、俺は翔太の横に並んで、窓を開けて翔太!と息子の名前を呼んでみたんだ。するとあいつは、どのような態度を俺に取ったと思う?あの野郎、俺のことを心底、軽蔑しきった目で一瞥しては、何の言葉も発することなく俺のことを無視して、そのまま真っすぐに行ってしまいやがったんだ!
ああ!恐ろしいことだ!これはとても恐ろしいことだ!あの翔太が俺を無視しただと!それに俺はあの人を侮辱する目を忘れられない!あれは人を小馬鹿にしている目だ!
ああ、腹立たしい!何と腹立たしいことだろう!
翔太がまだ幼かった頃は、俺に対して可愛げのある瞳をきらきらと輝かせてくれていた。俺はこれほど高価な宝石は、この世に存在しないと思っていたほどだ。それが今となってはどういうことだ!もうあの輝きはありもしない!今のあいつの瞳は、まるで石炭のようにくすんでいるじゃないか!
おい、悠耶!翔太の心があんなにも、鉄が錆びるように変色した理由は何だろう。それがお前に分かるか?何?翔太は昔から冷酷な奴だって?馬鹿が!そんなことがあるものか!あれはお前の母親に洗脳されてしまったんだ!
悠もそう思うだろう?いや、何も言わなくていいんだ。どうせ、悠も母親に洗脳されて、俺に本当のことなど言ってはくれないのだからな。お前たちは皆、悠耶も大輝も翔太も皆、あの狡猾な女に洗脳されてしまったんだ!ああ、何ということだ!俺の大事な息子達が、あんな女に洗脳されてしまうとは!
悠、俺にあいつの住む家の場所を教えろ。俺が今からあの女をとっちめてやる!ああいう卑怯な女は、一発殴ってやらなければいけないんだ!さあ、早く!あいつの居場所を俺に教えるんだ!
今まではお前が嫌な顔をして反発するから、奴の住む家の場所を聞くのは控えていた。だがな、今回は別だ。前までは興味本位でしかなかったが、今はお前達の新しい住まいの場所を把握するのには、ちゃんとした目的があるからな。あの女をボコボコに殴ってやるんだ!」
僕は父が話している間は、父が僕に向かって何を言っているのか、全く持って理解ができなかった。けれど父が言いたいことを全て言い終えて黙り込んでしまうと、僕は酒に溺れて苦しそうな呼吸をしている父の姿を見て、やっと父が何を僕に言っていたのかを理解することができた。
「翔太が父さんを無視したことに、母さんは全く関係ないよ。」
「何を言っている!やはり、悠までもがあの女に洗脳されてしまったんだな!」
「ふざけるな!翔太は父さんのことが嫌いだから、父さんのことを無視したんだろうが!それを母さんのせいにして殴ってみろ!俺はあんたのことを絶対に許さないぞ!」
僕が苛立ちを隠せずに珍しく父に対して反発心を見せつけて、それだけのことを言ってしまうと、目の前の僕の父は、まるで人間としての理性を全て失くしてしまったようで、父は一匹の獣と化して両目をギラギラと光らせていた。
「おい。お前は誰に向かってものを言っているのか、一体分かっているのか?分からない?なら、教えてやる。お前の目の前にいるのはな、お前の父親だぞ!」
「母さんに少しでも触れてみろ!俺はその瞬間、あんたとは親子の縁を切ってやるからな!」
「もう我慢できん!俺は今すぐにでもお前の母さんの居場所を探し出して、奴をボコボコにしてやるんだ!どうせ、すぐ近くなのだろうが?俺がここらに住むコネクションを全て使って、お前の糞ババアのところまで辿り着いてやるからな!」
「糞野郎はお前だろうが!あんたはどうして昔から、何の罪もない母さんのことを苦しめるのさ!あんたはいつも、自分の非を微塵とも認めようとはしないんだな!俺のどこに非があるのかだって?よく言うよ!逆に言えばあんたにしか非はないだろうが!昔から女、酒、ギャンブル!家庭が崩壊したのも、元々はそれらのせいだろうが!あんたは母さんがいるのに恋人を作ってみたり、酒に溺れては母さんを怒鳴り散らしたり、賭け事に負けては家の財産を減らして、何度も母さんを泣かせてきたんだ!あんたはろくでなしだ!」
僕が興奮を抑えられずにこれらのことを叫ぶと、父親は大きくない机を回り僕に向って猛進してきた。そのときに初めて、僕は左隣に座る葵の存在を確認した。葵は猛進する僕の父に突き飛ばされてしまって悲鳴を上げた。その僕の脳みそを貫いた悲鳴と共に、陽子さんが僕の向かい側から、父に「やめて!」と叫んだ。このときまで、僕の視界には葵も陽子さんも映ってはいなかった。
「お前は親子の問題に関係ないだろうが!邪魔だから失せろ!」
父が力任せに叫ぶと、陽子さんは恐怖感に怯んでしまって、生まれたての小動物のように静かになってしまった。
父に突き飛ばされた葵は、大したケガもなかったらしく、僕から三歩ほど離れた場所で立ち上がって、目の前の光景を不安そうに見守っていた。
「まだ言いたいことはあるのか?」
僕は父親がやってきたのと同時に立ち上がって、相手の顔を睨みつけた。背は僕の方が少し低かった。
僕は父が葵を突き飛ばしたことに対して、頭がくらっとするほどの苛立ちと、それの影響下にある興奮に脳みそをほとんど支配されていた。
僕と父は互いに睨み合った。
「俺がまた、お前の母親を泣かしてやる。」
父はそれだけを言い残して、僕に背中を見せて玄関に向おうとした。
僕は父の言葉を聞いた途端、ずっと母が受け続けてきた肉体的、精神的暴虐の数々が自分の目の前に浮かび上がってくるのを見た。
そして走馬灯のように浮かんでくる映像が、僕の消えない心の傷跡を再び痛めつけた。
僕は胸の痛みの苦しさを我慢できず、一つの希望を諦めることにした。いつだって心の隅に持っていた、微かな希望を己の手で握り潰す苦しさのために、僕は自分の服の胸辺りをくしゃっと握り締めた。そして僕は父の背中に全力で蹴りを入れた。それからの記憶は余り残っていないんだけれど、僕はうつ伏せに倒れた父親に馬乗りになって、ひたすら左右の頬を拳で殴り続けた。僕は父が顔を伏せていて声も全く出さなかったためか、今に自分が殴っているのが、自らの父親であることさえ忘れてしまっていた。
僕はひたすら父を殴り続けた。それが何分と続いたのかは分からない。僕は気づけば後ろから陽子さんに思いっきり抱き付かれて、泣きながら「やめて!」と叫ばれたのだった。
「やめて!やめて、悠くん!お父さんだよ!自分のお父さんだよ!」
僕は涙声で叫ぶ陽子さんの声を聴覚で感じて、まるで誰かに操られていたのかと思うほど、止まることを知らなかった両腕をぴたりと静止させた。
陽子さんがすぐに父の側に来て、父の名前を大声で呼んだ。
父は目を開けていた。父が陽子さんに小声で何かを言ったけれど、僕にはそれが聞き取れなかった。そして僕はふと、後ろを振り返った。するとそこには葵が、今までに見たことのないような表情で突っ立っていた。
葵は言葉では説明のつかないような、複雑な顔つきをしていた。それは目の前で繰り広げられた暴力への恐怖、または驚き、緊張、などといったものに違いなかったと思う。
僕は唖然とする葵を見て、自分の爆発した感情の焼け屑の駆除に困惑しながら、家を出ようと玄関に向かった。すると陽子さんが先程よりかは静けさを伴った涙声で、僕に向って言葉を発した。
「悠くん、悠くんのお父さんは自分の子ども達のことが大好きなんだよ。いつもね、私に子供達の思い出話を聞かせてくれるの。悠くんのお父さんは、自分の子供の話をするときだけは、いつも笑顔で、とても楽しそうに喋ってくれるんだよ。特にね、お父さんは長男の悠くんのことが大好きで、悠くんは息子達の中で一番優しかったって、いつも私に聞かせてくれるんだよ。」
僕は倒れている父親を恐る恐る見下ろして、どうして父をこれほど殴打してしまったのだろうかと考えた。
「僕は父とは絶縁します。これが僕達の家庭の運命なんです。だから、陽子さん。これからずっと、父のことをお願いします。」
僕はそれだけを陽子さんに言い残すと、その場から離れた。玄関を開ける際、自分が少しでも願ってしまっていた、父親の幸福に別れを告げるかのように、心臓の辺りの衣服の生地を力強く握り締めた。
四
父と絶縁してから数日が経った。
僕はとうとう本格的な不眠症に陥ってしまって、夜は朝方近くまで眠れず、いつも目を覚ますのは学校の一限目か二限目の授業が始まっている時間だった。だから僕は毎日、一時間目の授業を欠席していた。
僕はずっと精神的に苦しんでいた。正直、その訳を自分でも理解ができないでいた。
父との諍いから数日が経つけれども、父からの連絡は一切なかった。結局、父は本気で探せば見つかるであろう、僕等藤原家の自宅を見つけ出すこともしなかった。それどころか僕の携帯に電話をしてくることもなかった。これはすごく意外で、今までは電話に出なければ二十、三十件と電話をしてきた父が、一切僕に電話をしてこなくなったのは、最後に父が示してくれた、僕に対する優しさなのかもしれない。自分ではそう受け取っている。
話しが変わるけれど、僕は数日前から、高校のある授業にとても苦しめられていた。それは週に三度ある家庭科の授業なんだ。どうしてその授業が辛いのかって?それはね、今の家庭科の授業内容が大いに関係しているんだよ。
最近の家庭科では、家族についての授業をしているんだ。簡単に言えば、人間生活における家族の持つ役割だとか、家庭の機能の働きだとかだね。そして僕はこの授業を聞くのが、苦しくて、苦しくて仕方がないんだ。だってさ、考えてもごらんよ。家庭科の先生が黒板に黄色や赤色のチョークを使って書く一つ一つの言葉の意味が、僕には全て嘘っぱちに思えてどうしようもないんだからね!でもこれはきっと、君に共感してもらえない問題なのかもしれないね。
でもね、僕にとってはさ、何が結婚!何が家族!何が育児!何が家族愛!という感じで、もう拷問を受けているほどの苦しさなんだ。
僕は本当にあの時間が鬱陶しくて堪らないんだよ!
僕は家庭科の授業のことが、百本の足を持つムカデと同じくらいに気色悪かった。まださ、不快なだけで実害のないゴキブリのほうが可愛いもんだよ!あれは、ムカデだ!あれはどれだけ僕の心に傷をつけたことだろう!
僕は家庭科の授業が大嫌いだったから、その授業の存在を無視することにしたんだ。だから僕は一分たりとも、両腕から瞼を離しているときはなかったよ。いつだって僕の腕と瞼は、まるでオシドリ夫婦のように離れることはなかったね。でも、家庭科担当の先生は、中々に荘厳な中年女性の教師だったから、僕は数十回目の注意で、とうとうその教師の堪忍袋を爆発させてしまったんだ。
「藤原、立て!」
家庭科担当の教師である村木先生の声を聞いて、決して寝ていたわけではない僕は、すぐさまに立ち上がった。
「藤原くん、君、寝ていたわけではないのね?」
「はい。僕は決して寝ていたわけではありません。」
「じゃぁ、どうしていつも机でうつ伏せになっているの?これで何回目の注意か分かっている?それに藤原くん、いつも私が注意したらすぐに顔を上げるし、いつも眠っているわけではないのよね。ならどうして、机に顔を伏せるの?そんなに私の授業が嫌いなのかしら?」
僕は村木先生のお咎めを耳にして、今までに感じたことのない、大きな力が全身から頭に昇ってくるように感じた。僕はこれまでに演じたことのないほどの大袈裟な道化役を、皆に披露したくて堪らなくなった。そして僕はまるで大きなテントの中で意気揚々とするピエロのように、大きな声ではきはきと話し始めたんだ。
「先生、僕にはこの授業を聞けない理由があるのです。」
「それは何なの?」
教壇からは授業を中断させられて、苛立ちを隠せずにいる村木先生の声が響いた。
「まず、それを先生に知ってもらうためには、昔、僕が実話から話を創作した、短編小説について語らなければいけません。話はすぐに終わるので、少し聞いて頂けませんでしょうか?」
村木先生は不機嫌な表情を微塵とも崩さずに、僕に続きを話すよう頭を上下に動かして頷いてくれた。正直に言えば、僕にこれからペラペラと話させようとする先生も、余りにも物好きだよね!僕は喜んで、催し物のサーカスの主役になったような心持ちで、教室内の全ての方向を見回しながら話し始めたよ。
葵は僕の席から斜め後ろに四つ分くらい席が離れたところで、不安げに僕のことを見守っていた。けれど僕はそれにもお構いなしで、僕の先天性の才能によって放出される衝動的な快感を全身で認めながら、一つの物語を語り始めたんだ。
「僕が昔、創作した小説の題名はスイミーと言います。はい。確かに皆さんには聞き覚えのあるタイトルだと思います。この小説の題名は、小学校の教科書でもお馴染みのレオレオニのスイミーから取ったものです。しかい題名は同じでも内容は全く異なります。
まずこの短編小説は、僕のどうしても忘れられない記憶が基となってできています。登場人物は、僕と僕の両親と僕の兄弟二人の全員で五人です。それと今からお話させて頂くスイミーは、小学校四年生の頃の僕が主役ですので、それをご理解の上、お聞き頂ければ幸いです。
では、話に入っていきますね。まず、僕の父親は狂人でした。そして母は父の肉体的、精神的暴力に我慢ができず、とうとう僕が小学校中学年のとき、僕の母と父は別居をすることになったのです。この際、三人の子供達は母の元に残りました。それも当然の話で、まず、朝から夜まで舌にアルコールが染み付いている飲んだくれの父に、僕達の面倒を見るだなんてことは、とうてい無理な話だったからです。それにあの頃の父は、ベンゾジアゼピンとかいう精神安定剤の中毒者になってしまっていて、本当に気が狂っているようでした。
僕達は父と別居をしましたが、決して母が父による精神的虐待から逃れることはできませんでした。何故かと言いますと、毎夜、七時頃でしょうか。いつも決まった時間に父親が、僕達の自宅に電話を掛けてきたからです。母は一度受話器を取ってしまえば、一時間は当たり前で、ひどければ三時間以上も受話器を耳から離すことができませんでした。そしてそのとき男兄弟の三人は、涙声で受話器にぼそぼそと話しかけている母の周りを取り囲んで、不安だけで心を一杯にしていたのです。
このような日が毎日のように続きました。
僕達家族は毎日、時計の時刻が六時を越えると、もうそろそろやってくるであろう、恐怖の時間に対して激しい不安と憎悪の念を抱くようになっていたのです。そして電話が掛かってきてからというものは、母の自由が奪われてしまうので、僕達は空腹を我慢しながら、母が電話越しで父に侮辱されて泣いているのを、心臓が体の中で暴れ回っているのかと思えるほどの動悸に痛みすらも感じて、ただひたすら見守っていたのです。
そのような不幸な日々が毎日続く中で、とうとう僕達家族を絶望の事件が襲いました。
僕はその事が起こった月日を覚えてはいません。ただ僕の弟達が半袖を着ていた記憶が微かにありますので、たぶん七月や八月といった夏の日のことであると思います。確かあれは夜になっても肌に雫がじわじわと湧いてくる、温度の高い夜の話だったことを覚えています。
その日もまた、いつもと同じように自宅の電話機に父からの電話がありました。そしてこの日も僕達三人息子は空腹を感じながら、父に暴言を浴びせられ続けて涙声になっている母親を、皆で不安を隠せずに取り囲んでいたのです。
僕達はずっと今か今かと、母が父から解放されるのを待ち続けました。けれどこの日は、母の様子がいつもとは違いました。この日の母はまるで刃物を持つ気違いを目の前にしたような、死が間近に訪れたかのような恐れを抱いた表情をしていたのです。そして母は急に受話器を定位置に下ろして、僕達息子にこう言ったのでした。
「今からお父さんがやってくるけれど、何も心配ないからね。」
僕は母の言葉が嘘であることに気付いていました。これは後から知った話なのですが、父は母に向って、「今からそっちに行くから、俺と一緒に死んでくれ。」と言っていたようです。
僕は幼い心ながらも、父がやってくる理由に大体の予想がついていました。だから僕は母親に、「逃げるべきだよ。早く、一緒に逃げようよ!」と泣くのを我慢して訴え続けました。けれど母はただ無表情に「大丈夫だよ。」と呟いただけでした。そしてここからがこの話の題名に繋がっているのですが、急に母が僕にこのようなことを言い出したのです。
「悠耶、大輝、翔太……私達は絶対に大丈夫だよ。
国語の教科書にね、スイミーのお話があったのを覚えている?お母さんはね、音読の宿題で、悠耶からあのお話を聞くのが大好きだったの。スイミーはね、小さなお魚で、一匹だけでは全く力がないよね。けれど小さなスイミーも皆で力を合わせれば、自分よりも遥かに大きな敵をやっつけたよね。それでね、お母さん考えたの。私達はね、スイミーになればいいの。私達がスイミーになれば、きっと怖いものなんて何にもないよ。」
僕はあのときの母の言葉を忘れられません。僕は母の言葉を聞いて心に決めました。「僕が、僕が父親を殺してしまおう。僕があいつを殺せば、家族の皆が救われる。そうすればもう、大輝も翔太も、お腹を空かせることがなくなるんだ。僕が長男なんだから、僕が母さんを、家族を守らなくちゃ!」
あのときの僕は、自分の知っている中では、最も不幸な小学生でした。そしてあの頃の僕ほどに、家族を守る使命のために決意で胸を熱く焦がした少年が、この日本中のどこを探せば見つかるでしょうか。
母がスイミーの話を終えてからしばらくの時間が経過して、とうとう父が家にやって来ました。玄関からドンドンと大きな音が響いてきたのです。それはドアを叩いていた音なのか、それとも把手を思いっきり引いている音なのかは区別ができず、あの時はただ、凶暴な動物が家の前で、乱暴な雄叫びを上げ続けているものとしか思えませんでした。
母はその音を聞いたとき、金縛りにあっているのかと思われるほど、体から全ての動きを失ってしまったのです。
僕は命のない銅像のように固まった母を見て、「僕が鍵を開けなくちゃ。」と心に決めて玄関に向かいました。そして僕は玄関の鍵を開けたのです。するとその瞬間、引かれたドアは僕から離れて行って、瞬く間に恐れ多い怪物が姿を現したのでした。その怪物はまるで自分が人間であることを確かめるように、僕の母の名前を呟いていました。そして父は母の姿を視覚で確認すると、「俺と一緒に死んでくれ!」と大きな声で叫び出したのです。
僕は母がどうしているのかを確認するために後ろを振り向きました。すると母は一目散に逃げて、玄関から伸びる廊下の側にあるトイレの中に籠ってしまったのです。トイレに籠った母を捕まえるために、父は鍵の架かったトイレのドアノブを、何度も乱暴に引き続けました。そして父はまた、「俺と一緒に死んでくれ!」と叫び始めたのです。このとき僕の二人の弟達は恐怖に駆られて、どこかの部屋の中に、まるでヤドカリが殻に隠れるように籠ってしまっていたのでした。ですから直に父と対面していたのは、この僕一人だけだったのです。
僕は長男として、父から母を守らなければいけないと思いました。僕はこのときまず、神様にお願いしました。どうか父を殺して下さいと何度も心から祈り続けました。それから次に、母の両親が助けに来てくれることを願いました。特に母の父は怖い人で、祖父は僕の家から車で二十分のところに住んでいたので、僕はもしかしたら今にでも、おじいちゃんが助けにきてくれるかもしれないと信じていました。しかし母は両親に心配を掛けることが嫌だったのか、母はいつだって両親に助けを乞うことをしなかったのです。
どれだけ多様なものに助けを願っても、目の前の状況は変わってくれません。そこで僕は自分が父をやっつけようと決心しました。
僕は母が大好きでしたので、父と一緒に死んで欲しくはありませんでした。あの時に父が口にした「死」という言葉の意味は幼い頃の僕にとって、かつて感じたことのないほどの、恐れと憔悴とを僕に与えたのです。
僕は母を守るために、父に一蹴りを入れました。けれどまだ小学生だった僕は、骸骨に皮を貼り付けたかのような華奢な体をしていたので、僕の蹴りで父を家から追い出せるはずがありませんでした。父は痛みがなくとも、生意気なことをする僕に腹を立てたようで、僕の腕を乱暴に捕まえてリビングの隅の方に引っ張っていったのです。そして僕は情けなくも父からの一発のビンタに跪いてしまって、父に「正座しろ!」と大声で怒鳴られ、僕は何も反発することができず言われるがままになってしまうのでした。
父は怯えて小さく固まった僕に、大声で怒鳴り始めました。僕は父をやっつけられなかった悔しさと、父を目の前にした恐怖から、ずぶ濡れの雑巾を絞ったかのような、多量の涙を目元から垂れ流しているだけでした。
父が僕に大声で怒鳴りだすと、母はトイレから出てきて、「やめて!」と泣きながら父に立ち向かってくれました。けれど父は「お前は黙って見ていろ。」と大声で怒鳴るだけです。母は私の側にやってきて、正座をして両手で涙に濡れる両目を覆っている僕を、声に出して泣きながら抱き締めてくれました。そして僕はそれから先の記憶を、何一つとして覚えてはいないのです。
これが僕の実話を基にした、スイミーという題名のお話です。どうでしたか?僕は先生のことは嫌いではないのですが、今の家庭に関する授業が、嫌いで、嫌いで仕方がないのです。だから僕は家庭科の授業を受けたくはありません。何だって、先生が黒板に書くことは、何もかもが偽りだらけだからです。
結婚、出産、子育て、家族……ああ、何もかもクソくらいです!僕は一生、独身のままで死んでやります!」
僕が言いたいことを言い切ったとき、授業を終えるチャイムが教室一杯に鳴り響いた。
僕はこの日の放課後、担任の先生に職員室まで呼び出しをくらった。そして教室の半分の広さもない、分厚い本が書棚に数えきれない程に並べられてある、辞書の匂いが陰気臭い部屋に連れてこられた。その教室は掃除がされていないのか、僕が座らされた机の上には小さな埃の塊が落ちていた。ここでなら、埃を着飾ったネズミが現れたとしても別に驚きはしないね。
僕は担任の先生から長い説教話をされた。朝から学校に来ないこと。授業中、寝てばかりいること。そして今日の家庭科を中断させたこと。そして最後に担任が僕に言った。
「私は(担任は四十代前半の男の教師で、苗字は大西だ)藤原が留年しようと、学校を辞めてしまおうと構わないが、他のクラスメイトの邪魔をするのだけはやめて欲しい。皆は君と違って、将来のために必死になって勉強を頑張っているんだ。だからお願いだ。皆の努力を邪魔することだけはしれくれるな。」
僕は担任の先生からこう言われるまで、ずっと、自分こそが教室内の被害者だと思っていた。周りの連中の心は汚れていて、淫乱で不清潔で、そのために自分が破廉恥なクラスメイトの精神に、心から苦しんでいるものと思っていた。けれど、まさか被害者が連中の方で、悪者が僕だったとは!
僕はこの真相を聞かされたとき、自分が教室内の全員から裏切られたかのような気がしたね!
僕は大西先生に真実を告げられて、本気で学校を辞めてしまおうと思った。僕はこの学校の全ての奴らの邪魔ものなんだ!きっと僕が学校を辞めてしまえば、ここの連中は皆で、お祭りでも開催することだろうよ!
五
僕が完全な不登校になってから一週間が過ぎた。既に十一月も中頃で、もうあっという間に今年も終わってしまうのだろう。その証拠に、だんだんと家の中にも板目の隙間を通して、十二月の風に近い寒さが伝わってくる。
僕はこの近頃、ずっと家で引き籠っていた。かと言って、家にいてもすることがないものだから、僕はひねもす自分の部屋のベッドに寝転がっていた。
本当に不思議なことだけれど、僕はどれほど一日中じっとしていたって、全く退屈には感じられなかった。と言うよりも、僕はもう何もしたくはなかったし、ずっと目を瞑って生活をしていたかったんだ。
僕はとうとう厭世家になってしまったのさ。
悟りを開いた老人が山の奥で自炊を始めるように、僕も布団の中に潜って、光を遮断した闇に埋もれることを望んだんだ。だってね、布団の中は目を閉じていなくったって、ある程度は暗くって、まるで自分が現実世界からエスケープしてきたかのように感じることができるからね。けれど僕の望んだ生活も長くは続かなかった。
僕が不登校になってから二週目の月曜日のことだ。僕はこの日も一日中、小さな空間の中で生活をしていた。
この日だって夜が来るまではいつもと変わらない一日だった。けれど部屋の窓が夜の空気に変色して、母親が僕の部屋に荒々しく入って来たときに、僕の人生の何もかもの絶望が幕を開けたんだ。
「いったい、どうしたの?」
「何がどうしたのよ。自分が一番、私が怒っている理由を知っているくせに。
え?知らないって?本当にバカは困るわ。さっき、高校の先生から連絡が来たのよ。あんた、ずっと学校に行っていないのね。一体、どうしてなの?」
僕は久しぶりに母の怒っている顔を見た。
僕は平然を装って母を見ていた。けれど僕は母が怖くて堪らず、ダンゴ虫のように背を丸く曲げて、頭を何処かに隠してしまいたいと思ったよ。でもね、葵が僕のすぐ側にいたから、僕は情けないところを彼女に見せたくはなかった。だから僕は母親に抗おうと思ったのさ。
「母さん、ちょうどそのことについて話し合おうと思っていたんだよ。母さんの方から話を切り出してくれるなんて、僕はとっても嬉しいね。
母さん、僕は学校を辞めてしまおうと思っているんだ。」
「あんたは何を言っているのか自分でも分かっているの?あんたを高校に入れるために、高い金であんたを塾に行かせていたのは、他でもない私なんだよ!それにいくら公立高校だからってね、あんたの考えを越える莫大なお金が、家の少ない財産から流出しているのよ。
いや、お金のことなんてどうだっていいの。とりあえず、馬鹿なことは言わないでちょうだい。次に学校を辞めたいだなんて口にしたら、この家から追い出してやるんだから!
それともう一つ、あんたに言っておかなければいけないことがあるの。先に聞いておくわ。あんた、私に何か隠し事をしているでしょう?え?隠し事は何もないだって?じゃあどうして、あんたの目が泳いでいるのよ。泳いでいるだけならまだマシだわ。あんたの目は何一つ嘘を隠せずに、泳ぐことはおろか、
見苦しく溺れているじゃないの!
何?私の言っていることが本当に分からないだって?本当にこの子ったら、どれだけ私を苛立たせるつもりなのかしら?
分かったわ。じゃあ、言ってやるわ。あんた、あいつと会っているんだってね。
あいつって誰かって?私にあいつの名前を言わせるんじゃないよ!この裏切り者が!あんたは私達家族を裏切ったのよ!そう、あんたは最低最悪の裏切り者だわ!よくもあんな奴に、のこのこと会いに行けたものね。私があいつにどれほど苦しめられたか幾度も見てきたくせに!裏切り者!
まだ何のことだか分からないだって?私が思い出すだけでも吐き気のする、記憶にすらも腐臭が染みついたあの家に、あんたが入って行くのを見たって人がいるのよ!この裏切り者!
はいはい。もう言い訳だなんて聞きたくないわ。とりあえず、私は当分、あんたの顔を見たくはないの。だからずっと、この部屋に籠ってらっしゃい。でも、学校にだけは行くことね。
大体、あんたは自分に甘いのよ。あんたの周りの子はあんたと違って、毎日休まず学校に行って、大学受験のためにしっかりと勉強しているじゃないの。あんたよりも努力していない高校生だなんてきっといないはずよ!
あんたは学校にも行かず毎日をだらだらと過ごして、それだけならまだいいわ。それがまさか、あいつと会っていただなんて!
あんたはね、結局、楽が好きなのよ!要するに、忍耐を知らない甘えん坊さんなのよ!少しくらいは自分に厳しくなりなさい!」
母は言いたいことを全て言い切ってしまえば、僕の部屋から出て行った。
僕は母にあれだけのことを言われたのに、何故か全く悔しいという気持ちにはなれなかった。それに僕は手垢ほどの申し訳なさも感じていなかった。ただ僕は母に多数の言葉を浴びせられた結果として、死んでしまおうとだけ考えていた。
「葵。僕、死んでしまおうと思うんだ。」
激情に駆られた母の勢いに唖然としていた葵は、僕の言葉を聞いて急に表情を険しくした。
「悠耶くん、それは言ってはいけない冗談です!」
「冗談なんかじゃないよ。僕はね、本当に死んでしまおうと思っているんだ。」
僕はそう言って、勉強机のとある引き出しから、まだ開封されていない「モカ」の箱を二つ手に取った。そして母には何も言わずに外に出て行った。
玄関を出れば外は真っ暗だった。夜風は冷たくて、僕の体は肌寒さのために固まってしまった。
僕が衝動に理性を殺されて、死人の面構えで外に出れば、葵が後ろから僕に抱き付いてきた。
「駄目です!悠耶くん、お願いだからバカな真似はしないで下さい!」
「離せ!早く離せ!」
僕は自分の後ろにいる葵の顔を直接見ていないがため、思いのほか申し訳なさを気にせず、葵に対して乱暴な口調で話すことができた。
「離せったら!俺は死ぬんだ!別にお前には何の関係もないだろう!」
「そんなことないです!」
「どうして?」
「私にとって悠耶くんは、大切な人だからです!」
「葵は幸せだろうよ!なんせこの世に直接として存在していないんだからね!だから葵に僕の苦しみが理解できるわけがないんだ!
早く離せ!頼むから僕を放って置いてくれよ!」
僕はそう言って力任せに葵を自分の体から振り払った。すると葵は僕の力の運動に流されるがまま、それに逆らうこともできず地面に転んでしまった。
僕はそのとき、どれほど傷ついたことだろう!葵は「痛い。」と地面に横たわったまま目を閉じて呟いた。きっと葵の閉じられた目が見つめているのは真っ暗闇ではなくて、自分に怪我をさせた卑怯な人間の姿に違いなかった!
僕は華奢な体を痛めた哀れな少女に視線を吸い取られながら、今までに感じたことのない自己嫌悪に襲われた。
君にはこの僕の気持ちが分かるだろうか?
僕はとうとう見つけてしまったんだ。何を見つけたのかだって?それはね、抗いようのない運命、僕がか弱き女性に暴力を振るってしまったという現実だよ!僕が言いたいことが分かるかい?そうだよ、僕も結局は憎き父親の息子ってことなんだ!
僕は倒れる葵から逃げるかのように、自分の感覚に任せて思いっきり走った。自分の体力が続くまで、鉛の色に染まった空気を乱暴に吸い込みながら走り続けた。
僕はしばらく走り続けると、息苦しさのために二本の足を順番に止まらして、すぐ側にあったコンクリートブロックに倒れ込むかのようにして座り込んだ。
僕は息切れに苦しみながら、ポケットの中からまだ開封されていない「モカ」の箱を取り出した。そして僕は手に乗る箱の軽さを感じながら、自分のことを待っている未来を考えてみた。
自分は何のためにここまで走って来たのだろうか。僕は自分が何故、闇の中で息を荒げて座り込んでいるのか、数分前の出来事を思い出そうと努めてみた。すると頭に浮かんできたのは、先ほど行われた葵とのやり取りだった。
そうだ。僕は葵に「死んでやる。」と言って、家を出てきたのだった。
僕は全てを思い出した。僕は死にたがっているんだ。でもどうして、僕は死のうとしているんだろう。そもそも、どうして葵に死んでやるなどと言って、家を出てきてしまったのだろうか……
僕は自分が葵に自殺の予告をする前の出来事を思い出そうと努めた。何が原因で僕は自殺を考えるわけになってしまったのだろう?
そして思い出した。僕は母親に侮辱されたんだ。何を言われたんだっけ?そうだ。不登校の件と父親に会っていた件だ。思い出したぞ、全て思い出したぞ!母さんは僕に「裏切り者!」と言いやがったんだ。いや、それだけじゃないぞ!母さんはもっと卑劣な侮辱を僕にしやがったんだ。僕はまだ鮮明に覚えているぞ!何という屈辱だったか!
そう、母さんは僕が周りの連中に比べて、甘ったれだと抜かしやがったんだ!何てことだ!何という、屈辱!僕の今の気持ちを分かってくれる人が、この世界に一人でも存在するのだろうか!
僕があいつらよりも苦労していないだって?そんなことがあるもんか!僕はあいつらのせいで苦しみ続けてきたのだから!
あいつらがどれほど、僕の純粋な心を汚してしまったことだろう!僕は学校なんて大嫌いだ!学校の教室だなんて、言わば性欲というゴミの吐き捨て場所じゃないか!異臭のするゴミ袋の柔らかさに僕は埋もれて、いつも息苦しさを感じていた!
ああ!僕の信じてきた純情、無垢、誠実さ。全てがあいつらに壊された!僕は学校なんて大嫌いだ!
僕はモカを大量に服用しようと思った。いや、正確に言えば僕は、自殺をしなければいけないと考えた。そうすることでしか、僕が毎日、死に物狂いの辛苦のなかで苦しみ続けていることを、母に証明できないと思ったから……
僕は「モカ」の新箱の一つを開けた。もう一つの新箱は、太腿の汗が染みたポケットの中に挟まっている。僕は新箱から錠剤の詰まった二枚のシートを取り出した。そして僕は夜の闇にも増して暗い色をした、茶の錠剤の一粒、一粒を見つめた。それから僕は一粒、一粒と連続してモカを唾液で飲み込んでいった。
自分の片手の指の本数分の錠剤を飲み終えたとき、死に逆らって尾びれで地上を打つ魚のように、僕の心臓はドキドキと暴れ回っていた。それは今までに経験したことのない動悸だったので、僕はそのときになって初めて、自分が死んでしまうかもしれないという、生れて一度も襲われたことのない恐怖と対面した。
僕はその恐怖に抗って、まるで誰かに助けを求めるかのような心境で、次々と薬を飲み続けた。
自分はもう死ぬのだ。僕は自分が悲劇の主人公になったつもりでいて、この自分の死に様を僕の知る人に見てもらいたいと願った。
僕は心の中で叫んだ。
「僕は不幸だ!僕よりも不幸な人がいるのだろうか!皆、僕の死に様を見てくれよ!僕はもう死んでしまうんだ!僕の人生はまさに悲劇そのものじゃないか!そうだ、僕こそが悲劇の主人公、悪に苦しみ続けたこの汚い世界の被害者だ!」
僕はとうとう一箱分全ての錠剤を飲み干してしまった。これから僕の体はどうなってしまうのだろうとますます不安は募って、二箱目のモカの開封に僕はためらった。この箱に入っている錠剤を全て飲み込んでしまったら、自分は本当に死んでしまうような気がした。
僕はこのときになってようやく、自分が本気で自殺を考えていないことに気が付いた。
そして僕は葵の顔を思い浮かべながら二箱目を開けた。僕が家を出て行ったとき、彼女は僕のことを心の底から心配してくれた。きっとこの世界中、どこを探してみたって、僕のことをそれほどにも気に掛けてくれるのは葵だけだろう。僕はそんなことを考えていると、急に葵のことが愛しくなってきた。そうだ、葵は僕のことを愛してくれているんだ。もちろん、僕だって彼女のことを愛している。
僕はもしかしたら葵が僕のことを助けに来てくれるのではないかと、微かな希望を胸に抱いた。もし僕が二箱目のモカを開封したとして、僕の命が危機に陥っている今、葵がまた僕の馬鹿げた行動を止めに来てくれるのではないだろうか。僕は急にそんな気がしてきて、モカの二箱目を開封した。そして箱に入った二枚のシートの内の一枚を、震える指で引きずり出して、僕は一錠、一錠と薬を飲み込んでいった。
そして三錠目のモカを飲み込んだときだった。急に自分の体が硬くなって、開いている瞼が鉄の塊のように重く感じた。そして徐々に両目の瞼が下がってきて、僕の視界はいつの間にか真っ暗闇に変わってしまっていたのだった……
六
気が付けば真っ白な天井が、どんよりと漂う雲のように、僕の視界にゆらゆらと浮かんでいた。
あれ?僕は一体、どこにいるのだろう。
僕は瞳孔と天井の間に黄色い点滴袋を見つけたとき、自分の背中を支える柔らかさが、病院の患者用ベッドであることに初めて気が付いた。
僕はその事実に驚いて、考えるよりも先に体を起こした。そして起き上がると、僕のベッドの左側には母親が、一人掛け用の小さなソファーに腰を下ろしていた。
母は僕を怒るかのように睨みながら、弱った子猫のような小さな声で、僕に体調を尋ねてきた。
「調子はどう?」
「調子?別に何ともないよ。それよりも僕はずっと眠っていたの?」
「朝からずっとよ。もう吐き気は収まった?」
「吐き気って何のこと?」
「悠耶、覚えていないの?早朝に一度目を覚まして、一時間ほど吐き続けていたじゃないの。」
「僕が朝に吐き続けていた?僕、何も覚えていないや……今は何時なの?」
「もうお昼前よ。お昼には退院予定だから、私と一緒に家まで帰りましょう。」
「退院って、僕は今まで入院していたとでも言うの?」
母は僕の言葉を聞いて、非常に驚いていた様子だった。
「ごめん。今、やっと意識が戻ったみたいで……」
「じゃぁ、もう一度言っておくわ。もう、バカな真似をするのは本当にやめて。」
「バカな真似……」
僕は母の言葉を聞いて、自分が昨夜、何処かに置き忘れてしまっていた記憶を取り戻した。
僕は昨夜、死のうとしたんだ。でも、こうやって僕は生きている。ということは、僕は自殺に失敗したってことだ。
でも、どうして昨晩からの記憶が、何も残っていないのだろう。
僕は昨夜の記憶を思い出すことに努めた。僕の昨晩の記憶の最後の切れ端は何だろうか。
確か僕はモカを一箱分飲んでしまって、それから二箱目のモカを数粒飲んだとき、急に視界が真っ暗になるのを感じたんだ。あれ?じゃぁ、僕はあれからどうやって、病院まで運ばれたのだろうか?
「母さんが気を失った僕を見つけてくれたの?」
「気を失ったとはどういうこと?」
「母さんが道端で倒れた僕を連れて、病院まで連れて来てくれたんじゃないの?」
「どこからか帰宅してきた悠耶が、体調が悪いから。と自分で近所の病院に行ったんじゃないの。その際に自分でそこの病院のお医者さんに、たくさんの薬を飲んだことを告白して、ここの病院まで救急車で運ばれてきたんでしょう?もしかしてだけれど、昨晩のこと何も覚えていないの?」
僕は自分が意識を失ってから目を覚ますまでの一切の出来事が、記憶として一欠片も残っていないことに驚いて、少しの言葉さえ口から発することが出来なかった。
黙り込む僕を見て、母はとても心配してくれた。
「もしかしたら、脳の一部分が破損して、一部の記憶が飛んでいるのかもしれないわ。私、心配だから先生を呼んでくるね。」
「待って、母さん!大丈夫だから!全部、覚えているから!ただ、少し寝起きで頭がぼおっとしていたんだ。」
「そう。ならいいのよ……」
僕は母親を心配させないために嘘をついたけれど、実際、どうして自分に気を失ってからの記憶がないのかを不安に思った。
正体の掴めない不安は、病院の部屋の雰囲気と全く同じで、息苦しさを感じさせるほどに深くて濃い白い色をしていた。
病室内での僕と母との会話は、本当に先ほどが初めてではなかったのだろうか。もし違うのだとすれば、これよりも以前に僕は母とどのような会話をしていたのだろう。
昨夜、急に視界が閉ざされてしまってから、僕の意識はずっと回復していなかったはずだ。それにも関わらず、母は僕自身の知らない僕の行動の記録を把握している。これは一体、どういうことなのだろうか。
時間が正午を過ぎた頃、僕は一日限りの入院から退院して、母の車で帰宅した。
僕は母の運転する自家用車の助手席に乗って、ずっと沈黙に耽っていた。僕が昨夜から薬物大量摂取のため入院していた事実も、空白の数十時間のためか、まるで寝起きに回想する夢のように不確かなものに思えたのだった。そのため母に対する罪悪感すらも、余り感じてはいなかった。
ただ僕はハンドルを持つ母の両手をじっと見つめながら、忘れ物を急に思い出したかのように、母が僕のために仕事を休んでくれたことを察知して、今日初めて母に対して申し訳なさを感じた。
車は二十分ほど走り続けて、僕達は我が家の前に着いた。
車が停止すると母は、「色々、話し合いたいことはあるけれど、とりあえず無事でよかった。」と真顔を小さな微笑みで少し崩した。
僕はただ、「ごめんなさい。」とだけ言った。
母は僕を我家に送り届けると、そのまま車で職場へと向かって行った。
僕は家に入ると、真っ先に二階の自分の部屋へと向かった。階段を上りきるまでの十秒間とない時間の中で、僕は自分が葵に犯した罪のことについて思い出した。
自殺をしようとする僕を、必死になって止めてくれたのが葵だった。彼女は僕のことを、まるで自分の家族のように思ってくれていて、精一杯の態度で僕の愚行と命の危険を、阻止しようとしてくれたのだ。
それに僕が自分の意識がなくなる直前に、心で一番に愛しく感じていたのが葵だった。僕はそのようなことを考えると、彼女に対して非常に申し訳ない気持ちになって、恐らく僕の部屋で待っているだろう彼女に、最初、どのような言葉をかけるべきかと考えた。
僕は数十時間ぶりに自室の引き戸を開けた。
すると驚くことに僕の視界には、この世の者とは思えない悪霊が映り込んでいた。
その悪霊の顔面全体には、大小様々の形をした血痕が、時間の経過のためか固まっていた。顔中は真っ赤で、余りにも痛々しくてずっと見ていられなかった。それには言葉では表現できないほどの醜悪さがあった。悪霊の首から下の部分は、血に染まって所々が破れているワンピースで覆われているようだった。
僕は突如、目の前に現れた奇怪的現実に、声を出して怯えることもその場から逃げることも忘れてしまった。それどころか僕は、目の前の恐怖に立つ力さえ失くしてしまって、その場で跪いてしまった。
「そんな顔で見ないで下さい。私、葵ですよ。」
僕は聞き覚えのある声に焦りと不安と驚きを絶頂にさせて、もう人間としての形を失ったと言っても大袈裟ではない、まるでゾンビと化してしまった最愛の人を僕は無口で見つめた。
「どうして無口なのですか?
私は昨夜、悠耶くんが何処かに行ってしまった後、必死で悠耶くんのことを探したのですよ。そして情けないことに悠耶くんを探している間に、私は車に跳ねられてしまいました。だから、こんな姿になってしまったのです。」
「葵が車に轢かれるはずがないだろう!君は僕の妄想でしかなくて、物質的には存在していないのだから!それなのにどうして、君が車で轢かれるんだ!
来るな!お願いだから、近づかないでくれ!」
「随分とひどいのですね。
一度死のうとした人間が、今更、何に対して恐怖を感じようと言うのですか。それにしても、自殺に失敗してしまったのですね。
話しは変わりますが、私は悠耶くんからすれば幻影でしかありません。ですが不思議なことに私には、物事を記憶することも学習することもできます。それは私に脳があることを証明しているとは思いませんか?もし、私に脳が存在するとするならば、幻にすぎない私のどこの部分に、それが隠れていると思いますか?
実は私がこうやって話しているのも、私が常に悠耶くんの脳を貸してもらっているからなのです。実を言えば私が人間らしい生活を送っているのも、悠耶くんの脳を一部分、私が貸してもらっているからなのですよ。
では、ここからが本題ですね。もし私が悠耶くんの脳を一部分ではなくて全て使ってしまえば、悠耶くんは一体どうなってしまうと思いますか?」
「もしかして昨晩からの記憶がなかったのは……いや、訳が分からないぞ。何もかもが不条理で道理が支離滅裂で、葵の言っていることが何一つとして分からないぞ!
やめろ!俺に近づくな!」
僕は腰を抜かしてしまって立ち上がれなかった。そして葵は座り込んで、僕の体を血に染まった細い両腕で抱き締めた。その瞬間、僕の視界は真っ暗になって、僕は意識を失ってしまったのだった。
三―一
僕は気が付けば教卓の側に立っていて、目の前には家庭科担当の村木先生がいた。
「藤原くん、おめでとう。藤原くんの点数がこのクラスでは最高得点よ。」
僕は村木先生から一枚の用紙を受け取った。その紙の右角の隅には、真っ赤なインクで98と記されている。僕はそれが何を意味しているのかが理解できなかった。僕はその数字の燃えるように真っ赤な色を見て、ただ何か動物的な嫌悪感を抱いただけだった。
「どの教科の先生も藤原君のことを褒めていたわ。ほとんどの教科で、このクラスの最高得点を取ったらしいわね。休みがちの時期もあったけれど、よく頑張ったわね。」
僕は村木先生が言っていることの意味を理解できなかった。テストとは一体、何のことだろうか。どの教科の先生も僕のことを褒めていた?僕がほとんどの教科でこのクラスの最高得点を取った?もしかすると村木先生は、定期テストのことを言っているのだろうか。
でも今はまだ十一月の中頃で、次の後期期末テストが実施されるのは十二月の初めだ。一体、先生は何のことを言っているのだろう。
僕が自分の席に戻ろうとして歩いていけば、自分が最近ずっと座っていたはずの席には、違うクラスメイトの女の子が座っていた。
「藤原!席替えをしたのが昨日ならまだしも、もう二日が経つぞ!藤原の席はあっちだろうが!」
クラスメイトの一人が指をさして、僕に自分の座るべき席の場所を教えてくれた。僕の席は窓の隣で、教壇から一番に遠く離れたところにあった。
僕は「ごめん。最近、物忘れがひどくて。」とだけ言って、クラスメイト全員を笑わせた。僕もそれに合わせて笑顔を作ったけれど、目の前の現実に対する違和感が、僕の胸奥で絶頂に達してしまっていた。そして心の器に収まりきらない感情は、僕の着るカッターシャツに汗となって漏れてしまっていた。
あれ?そもそもどうして僕は学校にいるんだ?僕の脳が記録している記憶の最後は……
僕は席に座って、僕よりも名簿が後ろの数人がテスト用紙を返却してもらっている間、自分に最も近い昨日を思い出していた。そして僕はそれを思い起こしたとき、テストの点数の結果を喜ぶことなどできるわけがなくて、ただ、人生に確実に存在している一種の精神的な崖から、絶望のどん底へと落ちていくのを全身で感じたのだった。
二
僕は悪魔にでも会いに行くような心持ちで、自分の家の戸を開けた。そして玄関のすぐ前にある階段を上ろうとしたとき、今までに臭ったことのない悪臭が、一階のリビングから流れてきた。
僕は階段を上るのを止めて、そのまま真っすぐにリビングへと向かった。
リビングの真ん中に置いてあるテーブルのすぐ側で、顔の一部分を腐敗させてしまった葵が立っていた。前に見た彼女の腕や膝で凝固した血液は、今となっては限りなく真っ黒に近い紫色となって、腐敗した彼女の肉体からは、鼻が千切れてしまいそうなほどの刺激臭が漂っていた。彼女の白いワンピースには真っ黒な血が至るところで固まっていて、元の真っ白な色をどこに見出だすこともできなかった。
「君は葵なのか?」
「悠耶くん、お久しぶりです。数週間ぶりの学校生活はどうでしたか?」
僕は今すぐにでもここから逃げ出してしまおうと思った。けれど今日に自分が経験した超現実を思わせるような違和感を、僕は彼女に訴えないわけにはいかなかった。そして僕が言いたかったことを全て葵に伝えると、彼女は気が狂ったかのように、数十秒間と甲高い声で笑い続けた。
「そのことに関しては以前にも説明しました。私は悠耶くんの脳の全てのパーツを、自分の思うままに使用することができるのです。
簡単に説明をするならば、私が悠耶くんの意識を操作する役割を持つ脳の一部分を、強制的に奪ってしまったのですよ。そうすると悠耶くんがどうなるかは分かりますよね?
そんなに驚いた顔をして叫ばないで下さい。
そうですよ。悠耶くんの言う通りです。私が悠耶くんの体を乗っ取ることができるわけです。もちろん、その間の悠耶くんの精神状態は、いわゆる無の状態にあります。簡単に言えば、決して夢を見ることのない就眠状態、そして最も死に近い精神状態です。
ふざけるな?そんなことはやめろ?
どうしてですか?あなたにそんなことを言われる筋合いはありません。それにあなたよりも私の方がよっぽど、生活をする価値のある人間だと思いますよ。はっきり言って、あなたには生きる意味が皆無ですから。私はあなたほど臆病で我がままで、弱虫で不甲斐ない人間を見たことがありません。
あなたはいつも、学校のあらゆる人に対する文句を私に訴えてきました。けれどあなたはただ、自分以外の人間が皆嫌いなだけです。それに比べてあなたは、自分が大事で、大事で仕方がないようですね。自分以外のものには山のような嫌悪感を抱くにも関わらず、自分のすることなすことには、微塵たりとも疑念の目を働かせずに、しまいには自分が悪事をしていることにも気が付いていないのです。
なんなら、私があなたの愚行を全て指摘してあげましょうか?
まず一つ目は、あなたが自分を特別視していることです。
先ほど、私はあなたと脳の共有をしていることを話しました。そして実は私、あなたの心の声を読み取ることができるのです。
それで私は毎日、あなたの心の動きを探ってきました。まぁこれが、何と呆れたことでしょう!あなたは学校において、自分の成績が散々であることにさえ、自分が周りの凡人とは違うためであると、余りに稚拙な正当化をしてしまっていたのです。
まず言っておかないといけないのが、あなたがテストで良い成績を残せないのは、あなたが面倒くさがり屋で、地道に努力することを知らない人種だからですよ。
あなたはいつの日か私に、自分が授業を真面目に受けない理由や、テストで好成績を残そうと頑張らない理由を、長々と語ってくれました。けれど私からすれば、あなたは小さな努力もできないくせに何故だか誇りだけは持っている、勘違いのおバカさんです。
あなたは自分が勉強で結果を残せないことに対して、自分がそれに価値を見いだせず真面目に取り組めないだけだと言い訳します。けれどあなたは、きっと真面目にテスト勉強に取り組んだとしても、思うほど良い結果は残せないはずです。だってあなたは賢くありませんから。勉強をするにしても、あなたは脳みそを少ししか使えはしないはずですよ。
あなたは努力しても一番にはなれませんし、天に選ばれし特別な才能など、あなたは何一つとして持っていないのです。あなたが何か一つでも特別な才能を持っているだなんて、それはただの誇大妄想です。あなたはただの凡人、もしくは劣等種の可能性だってありますよ。
そして何よりもあなたの愚かなことは、あなたも心の隅では、そのことに気付いているということです。もっと言えば、あなたが何も努力をしない理由はそこにあるのですから。
自分がどれほどに努力をしても、決して理想の結果には追い付けられない。あなたはそのことを、自分でも一番に良く知っているのです。
ママの母胎にいたときから、究極的な自己愛のために何の根拠もなく、自分のことを特別であると信じ込んできたあなたは、自分の思い込みと目の前の現実との違いに気づかされるのが、怖くて仕方がないのです。そしてあなたはその現実から逃げるためだけに、あらゆることに屁理屈で言い訳をして、初っ端からの全面的な否定によって、目の前の現実に背中を向けてしまうようになったのです。
自分ではその愚かな逃避行為ですらも、自分が賢い人物であるためだと正当化して、それどころかあなたは、真面目に生きる周囲の人間を、あいつはバカだなどと見下しているのです。
果たしてあなたに私よりも人間的な価値があるのでしょうか?あなたは幾つかの不幸から、自分が悲劇的ヒロインであると信じていますよね?確かにあなたには色々な不幸がありました。私はあなたの不幸を、過去から現在を通して全て把握しています。多くは家族の問題に関わることですね。
しかし人間は誰もが誰も、いつかは自分一人では背負いきれない、大きな問題を抱えるものです。そして人間はその不幸と対面したとき、それを処理する術を考え大きな問題を乗り越えながら、精神的にも強くなって生きていくのです。いわば人間が大きな不幸に対面したとき、いかに真面目にその物事を受け止めるかが大切なのです。人はそういった悲しみの素直な享受を繰り返すことで、少しずつ大人になっていくのですから。
さて、あなたはどうでしょうか。あなたは大きな障壁を前にしたとき、それを乗り越える術を少しだって考えず、ただ訳の分からない眠気覚ましを飲んでいただけではありませんか。もはや狂気の沙汰としかいいようがありません。
さっきも私は言いましたが、やはりあなたは努力ができない人種なのです。いつも考えているのは逃避行の術ばっかりで、いつだってあなたは現実を受け止めることを考えません。
そして私があなたの最も気に入らない点は、あなたが人の顔を気にして大袈裟な行動をするとき、さも自分が道化者だと信じ込んでいることです。あなたは自分の卑猥な道化を、相手を楽しませるためだと思い込み、自分は一段上から取り澄ましたような顔で皆を見下しています。
まず言っておきますけれど、あなたには場の空気を読んで人々を楽しませる力が、これっぽっちだってありませんよ。あなたにそのような才能は全くないのですから。
あなたはただ、中途半端な目立ちたがり屋さんなだけです。それもただ、自分が孤独な状態でいることに怯えるがあまり、一生懸命に周囲の目を惹こうとしているのです。それを自分はピエロにも劣らないエンターテイナーだなどと、あなたはどのような顔をして言えるのでしょうか。
あなたはただの孤独を恐れる臆病者ですよ。そのくせにあなたは、ありとあらゆるものを自分から拒絶しますし、何故か自分では厭世家を気取ってさえいるのです。
さて、これ以上のわがままな人間が、この世で他にいるのでしょうか?いえ、きっといないはずですよ。
私は何度だって言いますが、あなたには生きている価値が微塵たりともありません。
きっとあなたはどれだけ歳を取ろうと、少女漫画の理想に耽る小さな乙女のように、自分の存在を理想化しては崇拝し、それにほど遠い現実は、全て自分の視線からシャットアウトしてしまう。そしてあなたは自分の望み通りにならない現実に背中を向けて、まるで小さな妖精が飛んでいる、どこか違う世界をずっと見続けて生きていくのです。その幼稚な生き方の結果が、私の誕生なのですよ。あなたは目の前の現実を毛嫌いしては、自分の殻に閉じ籠り続けました。そしてとうとうあなたはただの妄想、空想を、自分とこの世を繋ぐための命綱として、自分の世界に私という人の形をした虚像を創り出してしまったのです。そしてあなたは次第に私の存在に依存していきました。私こそが自分の世界の真理を証明することのできる、この世で最も美しい光だと信じるようになったのです。
けれどそれは誤っています。だって、あなたの信じるものは、ただの妄想でしかありませんから。もっと悪く言えば、私を創り出した行為自体が、世間からは愚かと言われ軽蔑されるであろう、現実逃避の最も完遂された形ではありませんか。
ああ、何て気持ち悪い!本当に気持ち悪いです!
あなたはいつも逃げてばっかりで、目の前の現実に向き合おうと、少しの努力をすることさえできません。そのくせに口からはぶつぶつとミジンコのような言葉を吐き出して、自分の気に入らないものは徹底的に批判します!
私の知る限り、この世であなたよりも努力をしていない人間はいないはずです。あなたは世界で一番の甘えん坊さんに違いないのですから!
私の言いたいことを、少しは分かってもらえたでしょうか?
あなたは本当に意気地なしですね!どうしてさっきから泣いてばっかりいるのですか。私に体を乗っ取られることが怖いのですか?さんざん死にたがっていたのは、もしかして演技だったのですか?やっぱりあなたは、鳥肌が立つほどの駄目人間ですね!まあ、いいでしょう。どうせあなたの虚弱な魂は、虱の卵のように潰されてしまうのですから!
今日の日が変わった頃に、私はあなたの体を頂戴します。やめてくれ?いやです。気持ち悪いから泣かないで下さい。
まぁ、余りにもあなたの人生が惨めに思えるので、最後にチャンスを与えてあげても構いません。だからあなたは、この機会を逃さないことですね。
人生が終わろうとする最後の最後に、あなたは自分の置かれている現実と向き合って下さい。すいませんが、さっきから涙声で何を言っているのかが分かりません。蚊の羽音みたいな音を出して泣かないで下さい。
もう一度言いますね。あなたは人生の最後に自分の現実と向き合って下さい。あなたは自分の好きな人に告白するのです。
私はあなたの心はお見通しでしたから、近頃のあなたがずっと、あるものに欲求心を持ち続けていたことを知っています。あなたはそれが手に入らない現実を恐れて、屁理屈で自分の心を着飾りました。しかしその装飾品こそが、あなたの情弱な心が作り出した、あなたには大きすぎる甲羅にすぎなかったのです。
私の言うことが分かりましたか?一度くらい、自分の現実と相対してみて下さい。そして自分の置かれている現実と相対することで、あなたにとって本当に大切なものを見つけて下さい。その発見の奇跡に自分の人生を、ありのままの目の前の現実を愛して下さい。あなたがその愛を見つけたのならば、私はあなたから明日からの時間を奪いません。
ですがあなたには無理でしょうね。それはそれでいいのです。だってあなたの体は私のものになって、私は一生、藤原悠耶として生きていくことができるのですから!そしてあなたという存在は死んでしまうのです。ですが遺骨は一つも残りません。だってあなたが死ぬときには、あなたの体は私のものになっているのですから!
せいぜい頑張って下さいね!ですが私はやっぱり、あなたは死ぬべき人間であると思いますよ。良かったじゃないですか!次は確実に死ねるのですから!もうあなたは茶番劇を演じる必要もありません!
三
運命の日に僕が目を覚ましたのは、もう既に三限目が始まっている時間だった。昨夜は激しい絶望心のため思うように寝付けず、結局、僕が完全な眠りに落ちたのが朝方で、目を覚ませば貴重な今日一日の時間を大幅に失っていた。
僕は今日、遠山光に告白をしなければいけない。そしてもし、それが失敗に終わってしまえば、僕の存在は葵に消されてしまう。
僕は何が何でも遠山光を自分の恋人にしなければいけない。けれど僕は遠山光のことを、本当に異性として愛しているのだろうか。僕は彼女のことを姉、もしくは妹のような存在だと思ってきたし、男性が女性に感じるような性的思考を、僕は遠山光には一切、感じてこなかったはずだ。だけど葵は僕が遠山のことを異性として愛していると言った。そしてそれは、彼女が僕の心を覗いた結果であるため間違いはないらしい。果たして本当に僕は、遠山のことを異性として愛しているのだろうか。そしてもし僕が彼女を愛しているのならば、どうして僕は今までその事実に気付かなかったのだろう。
僕は最後に見た葵の姿を思い出した。そして彼女と出会った頃のことを回顧すれば、止まることを知らない涙が次々に溢れてきた。
葵は優しくて無垢で愛しい存在だった。彼女の存在だけが、僕の暗い人生の唯一の憧れであって希望だった。そして僕は美しい彼女が豹変してしまったことに、心を象の足で踏まれたかのような痛みを感じて、一時間ほど泣き続けた。
僕が学校に着いたのはお昼前だった。その時間帯はまだ授業中だったので、靴箱には誰もいなかった。靴箱は名簿順になっていて、僕は彼女の名簿をしっかりと覚えている。だからその戸をこっそりと開けて、僕の名を記した小さな紙をそっと置いた。今日の時間割を確認すれば、彼女は放課後になるまでここを開けないはずだったから、僕は今日の授業が全て終わるまで、気まずい思いをしなくてすむだろう。僕はこうして運命の時間が訪れるまで、心臓をグラグラと揺らして待つことにした。
僕が手紙で遠山光を呼び出した場所は、体育館の裏だった。ここなら誰に見られる心配もない。この場所はいつの時代か体育館裏で喫煙する生徒がいたらしく、立ち入り禁止になっている。だからここでなら誰にも見られないはずだ。
僕は遠山光が靴箱に着く頃には既に、四方八方、あらゆる教師の目を気にして、人の目に見られない緑の雑草が、寂しく冬の風に揺らいでいる体育館裏へと到着していた。
僕はこの場所について遠山光が来るまでの間、一秒を一分のように、もしくは一分を数十分のように感じて、身体全身に熱を感じながら、彼女のことを突っ立って待ち続けていた。
僕は動悸を抑えることができず、何度も深呼吸を繰り返した。けれど心臓の震えは止まらず、目先で真っ白な光が弾けているのかと思われるほどに、僕の脳内は憔悴にクラクラとしていた。
遠山光が来たときには、僕の体は冬の風でも冷ますことのできないほどに熱くなっていた。僕は間違いなく緊張しているんだ。なんせ僕は人生で初めて、告白という行為を実践しようとしている。それも相手には恋人がいると知っているにも関わらずにだ。ただ、それは二カ月ほど前の話なので、今はどうなっているのかは分からないけれど……
遠山は僕の姿を確認したと同時に口を切った。
「伝えたいことって何?こんな場所に呼び出したりして、告白みたいで少しおもしろいんだけれど。」
「僕が今から言うことを、真剣に聞いて欲しいんだ。」
僕は間を置いて叫んだ。
「遠山、僕の恋人になってくれないか?僕は君のことを大切に思っている。だから君に僕の恋人になって欲しいんだ!」
遠山は意外な展開によほど驚いたと見えて、何も言わずに大きく見開いた目を僕に向けた。
「ずっと黙ってないで何か言ってくれよ。僕と君との仲じゃないか。まさか、拒否をするなんてことはないだろうね?」
「私、恋人がいるから……」
「それを承知で僕は遠山に告白したんだ。
僕は君に彼氏がいることは承知の上だ。でも、聞いたところによれば、君達は事の成り行きでくっついたそうじゃないか。どうせ君の彼氏は、ろくな奴でもないんだろう?僕と君との友情が、そんな浅はかな恋人ごっこに負ける訳がないよね?」
「黙って。藤原が私の彼氏について何を知っているわけなの?
私は今の自分の恋人のことが本当に大好きだから。それに見たこともない人のことをそんな風に言うなんてひどいよ。私、藤原はもっと優しい人だと思っていた。
私は今の彼氏と恋人ごっこをしているわけでもないし、本当に今の彼氏のことが大好きなの。だから藤原とは付き合えない。
例えもし私が今の彼氏と別れたって、藤原と付き合うことはないと思う。私は藤原のことを、恋愛の対象だとは思えないし。」
「遠山は僕の告白を受け入れてくれないのか?そんな……ふざけるな!」
「ふざけているのは藤原よ!私に彼氏がいることを知っていたんでしょう?私に今の彼氏を捨ててまで藤原と付き合えって意味なの?藤原ってそんなに自己中心的な人だったんだね。
藤原とはずっと友達だと思っていた。けれど藤原は自分のためになら、人の心を簡単に傷つけてしまえる人間なんだ!」
僕は完全的な自分の非を彼女の言葉に見い出した。だから彼女の発言に対して反発しようとなんて、これっぽっちも考えられなかった。
僕は遠山が創り出した障壁に対して対抗をする術がなくなったので、自分の心の内の全ての醜さを曝け出すことしかできなかった。
「お願いだ!僕と付き合ってくれ!お願いだよ、光!僕と付き合っておくれ!僕には君が必要なんだ!
君が恋人になってくれなければ僕は死んでしまう。遠山は僕を見殺しにするのかい?いや、僕は何も大袈裟なことだなんて何一つ言ってやいないよ!僕は遠山が恋人にならなければ、もうこの世では生きてはいけないんだ!気が狂ったのかって?いや、僕は大真面目だよ!僕は君を恋人にしなければ殺されてしまうんだ!光!僕を助けてくれ!今日だけでいい、今日だけでいいから僕を恋人にして欲しい!光!大好きだ、光!」
僕は遠山に近づき抱き締めようとして腕を伸ばした。けれどその瞬間、遠山の右手が僕の左頬を強く打った。僕は思いもよらぬ強打によって、心身共に痛みを受けた。そしてまるで幼子が親に叱責されたかのように泣きじゃくった。遠山は嗚咽する僕を見て、軽蔑の態度を隠せずにいた。
「藤原どうしたの?今の藤原、どうしようもないくらいに気持ち悪いよ。さっきから訳の分からないことばっかり口にしてさ。まるで薬物中毒者みたい。もしかして、いつも口にしている薬のせいで、とうとう本当に頭がおかしくなってしまったの?とりあえず、私はここを去るわ。これ以上、気持ち悪い人間を見ていられない!」
遠山は僕に背を向けて、ここから去ってしまおうとした。僕は自分の希望が報われず、どうしようもできないもどかしさに、とうとう狂人と化してしまった。僕は目の前にいる遠山に「僕は君を愛している!そもそも僕は、この世の何もかもを愛しているんだ!」と言って跪き、遠山が自分にとって神様でもあるかのように深く、深く頭を下げた。
「僕はこの世界が大好きなんだ!僕はこの世に存在するもので、自分が愛していないものなんて、一つもないと約束するよ!僕はこの世界が大好きなんだ!」
僕は大きな声でそう訴えると、自分が口にしたことを肉体で証明したくなった。それで僕はこの世界の愛し方を考えて見た。そして僕はある一瞬の閃きを妄信して、すぐさまそれを行動に移したのだった。
「僕は現実が大好きだ!僕の視界に映る何もかもが大好きだ!僕は青い空も緑の毛を生やした茶色の土も、その間に挟まる君も、何もかもが大好きなんだ!」
僕はそう叫んだとたん、幾度も緑の雑草を顔面で踏みつぶして、冬の寒さに蟻一匹もいない地面に向かってキスをした。僕は地面にキスをしては、唇に細かな石粒をくっつけながら遠山をぼおっと見つめ、また顔面を冷たくて硬い地面に押し付けた。それを幾度と続けていたら、遠山は悲鳴をあげて僕を侮辱した。
「この変態!藤原にどんな性癖があるのかは分からないけれど、あたしのことを巻き込まないで!あなたが私に感じさせた屈辱を決して忘れない。明日クラスの皆に全てをぶちまけてやるから!先生にも言ってやるんだから!」
遠山は僕の側から走り去っていった。彼女は怒りで形相を鬼と化して、制服のスカートだけが、彼女の運動によって生まれる風に柔らかく反応していた。
僕は遠山を見失ってからも大地に接吻をし続けることを止めなかった。僕は何度も地上にキスをし続けた。僕は舌に細かな石粒の無味を感じながら、鼻で雑草の匂いを吸い込んだ。地面にキスをする際に鼻の先端が砂利に当たるため、僕の鼻にはきっと小さな砂粒の痕が残っているに違いない。
しばらくすると僕の後ろから急に葵の声が響いたので、僕は跪いた姿勢のまま首だけを後ろに向けると、葵は昨日よりも腐敗がひどくなった体で背中を曲げているのだった。僕は彼女の気味の悪い容態に言葉を失って、後ろに曲げた首すらも一時の金縛りに動かなくなってしまったらしかった。すると葵は僕の眼球のすぐ側まで来るとその場でしゃがみ込んで、僕の両肩を掴み力強く僕の体を時計回りに動かした。するといつの間にか、僕の心臓のすぐ側には彼女の腐った顔面があった。
「あなたは死んでしまいます。もう何をしたって無駄ですよ。あなたの魂は確実に私に飲み込まれるのです。でも、心配はいりません。あなたは少しの痛みを味合うこともなく、永遠の眠りに陥ることができるのですから。
喜んで下さいね?だって、よく学校には遅刻していたから、眠ることは大好きですよね?
また泣いているのですね。本当に呆れた甘えん坊さんです。あなたは泣いているけれど、今は私の方が悲しいのですよ?さっきの馬鹿げた大根芝居はなんなのですか。あなたがあんな発狂行為をするから、私の明日からの学校生活がめちゃくちゃになってしまいました。泣きたいのは私の方ですよ。
どれだけ泣いたって無駄ですよ。あなたはせいぜい、残りの時間を有効に使って下さい。日付が変わるまでは、あなたの体を奪うことはしませんから。では、さようならです。」
僕はもう何をしても救われないという、決定的な絶望の未来を心の目が向く視界に映して、心臓麻痺で死んでしまった人のように、その場で気を失って倒れ込んでしまった。
四
目を覚ますと同時に土の香りがした。うつ伏せの体を横に向ければ、目の前には暗闇のせいか色を識別できない雑草が、直線に長々と伸びている。寝起き後の奇妙な光景に呆然としたけれど、少しの間が経ってからようやく僕は、自分が地面に気を失って倒れていたことを理解した。そして僕はすぐさまに自分の定められた運命の時が、すぐ側まで近づいていることを思い出したのだった。
もう外は真っ暗で、この時期は午後五時を過ぎれば暗くなるから、今の暗さが何時にあたるものなのかも分からない。ただ言えるのは、僕は体育館裏にいるはずだけれど、体育館の中からは誰一人の声も聞こえてこなかった。
僕は慌てて鞄から携帯電話を取り出して、今の時刻を確認した。
ちなみにこの学校では、携帯電話を持って登校するのは禁止されている。もし間抜けなことをして先生に見つかることがあれば、一ケ月近くは先生から返してもらえなかったという例もある。
僕はそんなこともお構いなしに、暗闇の中で液晶画面を堂々と光らせれば、今の時刻は冬季の完全下校の時間はとっくに過ぎていた。
現在の時刻は午後九時前だった。僕がこれから自転車を漕いで帰宅する頃には、僕の余命は残り三時間を切っているだろう。
僕が光る液晶画面に目を向けながら、心の視界には何も映さずにしばらくぼおっとしていると、僕の絶望が絶頂に達してしまう出来事が起こった。僕のいるところに何の偶然か、僕のクラスの担任の大西先生が見回りにやって来たのだ。僕はすぐさま先生に見つかり捕捉されて、携帯電話を没収されたあげく、学校で最も生徒に恐れられている生徒指導室に連れて行かれてしまったのだった……。
生徒指導室に入れば、ドア側にこの部屋担当の先生の仕事机が、幾つか向かい合わせになって二列に並んでいた。先生は一人しか残っていなかったらしい。その先生の机の上には、たくさんの紙切れが数で厚みを作って置かれていた。
僕は運が悪いことに、たまたま残っていた一人の先生が、この学校では一番に怖いと噂されている男性教職員だった。
僕の担任が目の前の大きな体をした、見るからに厳かな生徒指導の担当者に全ての事情を話した。この部屋の奥の右の壁際には、隣の教室に繋がる引き扉がある。二人の男性教職員は、僕をその部屋に連れて行ったのだった。
その部屋は生徒を𠮟りつけるためだけに用意されている。僕がこの部屋に来るのは今回の件が初めてだった。僕がエセ軍人高等学校の拷問部屋に入れば、教室に置いてあるのと変わらない勉強机が、八つ向かい合わせになって横向きに並んでいた。
僕は入り口側にある左から二つ目の席に座らせられた。僕の目の前には担任、その隣には生徒指導室で最高の権利を持つ先生が腰を下ろした。
まず僕は不要物を持ってきていた件に対して、今までに聞いたことがないほど大きな声音で、数十分間と怒鳴られ続けた。目の前のゴリラのように巨大な先生は、まるでドラミングをしているかのように、喉から発する大音声だけで、空気を激しく揺らし続けた。
僕の担任は穏健な人だったから、ゴリラの隣で僕をただ睨みつけるだけで、少し時間が経てば、僕の親に連絡することを口実に退席してしまった。
僕はこの時、悪漢と二人きりになったのが辛くて堪らなかった。
その男は僕の父親の年齢を十ほど越えているはずだ。そいつは正に僕の父と同様で、あらゆる問題に対して己の筋肉を用いるような、典型的な動物以上、人間未満の哺乳類だった。
僕は精神を破壊されるのではないかというほど、何度も何度も罵声を浴びさせられ続けた。僕が最初に受けた咎めは、学校に不要物を持ってきた件だ。それが終わると次は、僕が何故、立ち入り禁止をされている場所にいたのかを尋ねられた。そしてどうして僕が、生徒が誰一人も残っていない時間帯に一人きりで学校に残っていたのかを問い質された。
僕は今回の事件に携わる葵の名前を出すわけにもいかず、遠山の名前は自分の情けない記憶を思い返せば、声に出すのも恥ずかしかったので、出鱈目な嘘をつくことしかできなかった。けれど目の前の大男は、巧みに僕の嘘を問い詰めるので、僕はとうとう追い詰められてしまったんだ。そして僕は自分の都合が悪くなれば、黙り込むことしかできなくなってしまった。
僕が話を濁したり発言を避けて沈黙に徹したりすれば、目の前の大きな獣は発狂して、拳を机に振るい落としては、大きな音を部屋中で響かせ僕を威嚇した。
僕はありとあらゆる精神的拷問に苦しめられた。頭は真っ白になって、自分の脳内には、溶けた雪のようにドロドロとしたものが流れていた。僕はその冷たさが故の火傷のために気を失ってしまいそうにもなった。
僕が意識を振り子のようにふらふらとさしていると、先ほど教室を出た担任が帰ってきた。僕は生まれて初めて、教職員に感謝をしたような気がした。
大西先生は先ほど座っていた席に腰を下ろすと、「今からお母さんが来てくれるそうだ。」と僕に告げた。
大西先生は僕に叱責することなく、ずっと隣の先輩の話を聞いているだけだった。きっと大西先生は隣の野獣の迫力が凄すぎて、自分の出る幕を上手く見つけられなかったのだろう。先生は時々、獣の雄叫びが一段落したときに、横から草食動物の頭突きのような、咎めの言葉を僕に吐き出すだけだった。
僕は本当に参ってしまった。どうして僕はこれほどにも怒られなきゃいけないんだ。二人の先生が言うには、どうやらこの学校で僕のことを知らない教師はいないようで、どうやら僕はこの学校で、いわゆる問題児扱いを受けているそうだ。そういう訳で目の前の大男も、近い内に僕を呼び出して指導するつもりでいたらしい。けれど近頃、僕の無断の遅刻、欠席がなくなって、授業態度もテストの成績も良くなったので、この学校の教師共は僕が何かをきっかけに改心したものと思っていたらしい。
僕は葵のおかげで自分の評判が良くなっていたことを知った。担任も先ほど、「ここ近頃の藤原は、やるべきことを真面目にこなしていた。」と言ってくれた。大男も担任のその発言を境に、僕を罵倒するのを止めたのだった。そして僕の近頃の頑張りが、あらゆる職員の間で話題になっていると、大男は相変わらず大きな声で、しかし机に拳骨を落とすことなく、少し表情を緩めて話し出した。
僕は葵に意識と肉体を奪われた結果、今の自分が多くの人から賞賛の的となっていることを理解した。それと同時に僕は、自分の存在価値を見失ってしまった。目の前の大人二人が、「これからもその調子で。」と言う僕の人間像が、僕自身のことではなかったのだ。この学校の先生が望んでいる藤原悠耶という人間は、僕の意識が失われていた昨日までの僕自身なのだ。そして全ての教職員が憎たらしく思っているのは、今日に目を覚ましてしまった僕自身に他ならないのだ。
僕はこの事実を知ることで、自分の存在価値が、葵に比べて大きく劣っていることに気付かされた。
葵は僕の体を永久に乗っ取ろうとしている。そうなればきっと、僕は一生目を覚ますことができないだろう。けれどこの世界の住民は皆が皆、そのことを望んでいるに違いがないんだ。僕の精神が永久に消滅しようと、きっとそれに気付いてくれる者は一人もいないだろう。むしろ僕の知人の全てが、その隠された真実を喜ぶに違いない。なぜなら葵のほうが、生きていくのに必須なあらゆる能力において、僕の持つものよりも遥かに優れているのだから。逆に言えば、僕は何一つとして葵に叶わないんだ。
目の前の大人二人は、近頃の僕、つまり葵のことを褒めだしたかと思えば、また、僕に説教的な話を始め出した。僕は繰り返し自分の落ち度を指摘されることにうんざりして、もういっそのこと、この部屋から飛び出して逃げてしまおうかとも思った。
僕は長々しいお説教話にうんざりしながら、自分を待つそう遠くない絶望に体を震わせていた。その運命の圧力はゴリラの唸り声よりも僕の胸に大きく響いて、僕の着る制服の全箇所は汗でびっしょりと濡れてしまっていた。すると絶望に苦しむ僕に現れた救世主のように、僕のよく知る人物が一人の教職員に連れられてこの部屋に入って来た。それは言うまでもなく僕の母親だった。
母はエセ拷問室に入って来ると、母を連れてきた教職員が背を向けるよりも早く、僕の目の前の教職員二人に頭を下げた。僕の母は、はっきりとした声で謝罪の言葉を口にしていた。
母は仕事終わりの疲労を少しも見せずに、先生達に向かって何度も謝罪の言葉を繰り返した。母は何度も深く頭を下げ続けた。
二人の男共は、その様子でさも満足したかのようだった。そして大男は声の調子を先ほどとは変えて、急に態度が穏健になった。
担任が僕に口を開いた。
「悠耶くんが補導されていることを電話で話したら、ちょうど親御さんも必死で悠耶を探している途中だったそうだ。」
僕は意外な事実に驚いて母に尋ねた。
「どうして僕を探していたの?」
「帰ってくるのが遅いから心配したのよ。」
「お母さんは君のために、飛んで学校まで来てくれたんだよ。」
「そんな……遅いと言っても、まだ十時にもなっていないじゃないか。」
「心配したのよ。もしも何かあったのだとしたら、絶対に後で後悔するから……」
母の声の調子は震えていた。けれど震える声には、無理やり作られたような優しさの響きがあって、まるで人工的な静穏の中身に怒りの感情を隠しているのかと思われた。
母が怒りを覚えていたのには間違いがないはずだった。不良息子のせいで、わざわざここまで呼び出されたのだから。ただ、母は怒りを僕の前では微塵とも出さなかった。僕の母は先生の前だからといって、息子への叱責を遠慮するような人ではない。そして僕はその理由を明晰に理解していた。
僕の自殺未遂が母の脳裏に刻みついているんだ。それは消えない入れ墨の跡のように、ずっと母の心を傷つけていたんだ。母さんが僕のことを探してくれていたのだって、今僕に対する怒りを表情の裏に隠しているのだって、全てが僕の自殺未遂に原因があるんだ。
僕がモカを大量服薬して入院した日のことを、母が気に病んでいないわけがなかった。きっと母はずっと、自分が息子を自殺に追い込んだと考えたのだろうし、言いようのない後悔と悲しみに暮れていたに違いなかった。だって、僕が自殺未遂をしたのは、母さんに怒られた直後の事だったんだから……
僕の目の前には、走馬灯のように幼い頃からの記憶が流れ始めていた。
僕の知っている母は、僕が幼い頃から子ども思いで、自分のことはいつも後回しだった。僕の母はどのような欲求心にも惑わされることなく、母の第一はいつも僕達だった。今思えば、母はあらゆる苦労から必死で僕達を守ってくれてきた。僕の父の苦難からも、母は子どもの前では決して弱音を吐かず、酒と女と借金に溺れた父から、母は僕達三人の兄弟を守ってくれた。そして今までずっと女手一人で、小さい頃は専業主婦になりたかった母が、朝から晩まで働いて僕達を養い続けてくれたんだ。
母はどうして、僕達を引き受けてくれたのだろうか。母は僕の父のことが大嫌いだろうし、その血が流れた僕のことを嫌いになるのが普通じゃないのだろうか。どうして、母は父の血が流れている僕達男三兄弟を、残された余生の時間を全て犠牲にしてまで養い続けてくれるのだろうか。果たして本当に母は、嫌悪する父との間にできた僕達を、心から愛してくれているのだろうか?
僕はこのとき、自分がモカで入院した日のことを思い出した。僕が目を覚ましたときの、母の涙を溜めて真っ赤に腫らしていた目を、僕は鮮明に思い出した。そうだ、僕は母に愛されているんだ。僕は、僕達三兄弟は、この世界中で誰よりも母に愛されているんだ。
僕は隣の椅子に座る母の横顔を見つめてみた。母は担任の話を僕のために真剣な眼差しで聞いていた。そしてそれを見た僕の両眼からは、自然と数粒の涙が溢れてくるのだった。
僕が溢れる涙を目に溜められず、たくさんの水滴を頬に垂らし始めると、担任は僕が泣いていることに気づいて声を掛けた。
「藤原、どうして泣いているんだ?」
「悠耶、どうしたの?」
僕は母の声を聞いた瞬間、頬を流れる涙と同量の声を喉からこぼした。そして僕は立ち上がって、椅子を大袈裟に後ろへと引いた。そして僕は椅子の脚跡がまだ残っているはずの床に膝を付いた。床の硬さを受ける僕の肉体は、興奮のためかひどく熱くなっていて、僕はそれが椅子の脚が残した熱だと勘違いした。
僕の頭は母親の正面にあった。僕は膝を床から離すことを忘れて、腕を大きく動かして、目の前の自分よりも小さな母の体を抱き締めた。
母は僕の行動に驚いたに違いはないが、決して僕を突き飛ばすことはしなかった。
僕は驚きの余り言葉を失った母の代わりに、力を出し惜しみすることなく、さまざまな種類の感情が煮え立つ胸底から、きっと熱の籠っているに違いない声を思いっきり吐き出した。
「お母さん、大好きだ!僕はこの世の中で、誰よりもお母さんのことを愛しているんだ!
急にどうしたのかだって?急にも糞もないよ!僕のこの気持ちは、生れた瞬間からずっと変っていないんだから!
ああ、失せろ!失せろ、雄豚ども!お前たちは僕のお母さんに口を聞くな!心の汚れってものは、異臭のする口臭でも充分に伝わってしまうからな!」
僕が男性教職員の二人に向かって罵声を浴びせかけると、母は僕の頬を強く叩いた。
「痛い!どうして叩くのさ?でも、お母さんのビンタなら、僕はむしろ愛おしいくらいだ。さあ、もう片方の頬も叩いたって構わないんだよ。さあ、早く叩いて欲しい。僕の大好きなお母さん!」
母は僕の奇行にぞっとしたのか、今まではこの部屋で見せなかった態度で僕を叱責した。
「私の子はとうとう気が狂ってしまったのだわ!あんた何て私の子どもじゃありません!あんたみたいな気が狂った人間のこと、私は大嫌いよ!」
僕は母の言葉に分別を失った。今の僕の希望は母の存在そのものだった。その光だけが、蛆一匹と同等の価値しか持たない自分を、幸福の未来へと道を照らしてくれる希望だと考えていた。けれど今、僕はその光さえも失ってしまうかもしれない状況に置かれてしまったんだ。僕は思わず、床一面を涙と唾液の色に塗り替えてしまうほど、止まらない嗚咽を我慢することなく喚き散らした。
「嫌だ!嫌だよ!お願いだから僕のことを嫌いにならないで!母さん以外に僕のことを愛してくれる人はいないんだから!お願いだから、僕のことを嫌いにならないで!嫌だよ、母さんが僕を嫌ってしまえば、僕は地球上の全人類から嫌われてしまうことになる!嫌だ、そんなことって、あんまりじゃないか!母さん、僕の大好きな母さん!どうか、僕のことを愛して下さい!」
僕の瞼から垂れる涙は、流れに逆らうことなく頬を濡らし続けた。僕は大きな興奮で味覚が鈍感になってしまったのか、塩辛いはずの涙の味さえも感じなかった。
母は精神錯乱と医者は呼ぶだろう僕の状態を目にして、さっきは強く僕の頬を打った右手の平を、遠くでその様をみていた左手の平と一緒に動かして、僕の体を思いっきり抱き寄せた。そして何の罪もない母が、僕に向かって涙声を発したのだった。
「ああ、可哀そうな私の愛しい子。あなたは一体、どうしてしまったと言うの。さっきから悠耶が口にすることと言ったら、冗談なのか大真面目なのか理解もできないわ。
可哀そうな私の可愛い息子。一体、私はいつ躾を間違ってしまったのかしら。それとも小さな頃から夫婦喧嘩を幾多も見せてしまったせいかしら。いや、そもそも、あの人の子どもだからかもしれない。この子の弟の二人は、これほどの精神欠陥なんて持ってはいないけれど、この子は特別だわ。きっと精神に異常をきたしているんだわ!
泣かないで、泣かないで私の可愛い子。悠耶!もう泣くのをやめて。お願いだから!あなたのことを愛しているから!私は世界で一番、誰よりも悠耶のことを愛しているわ!そもそも自分の息子のことを、嫌いになんてなるわけがないじゃない!」
「母さん!ありがとう母さん!僕もこの世で誰よりも母さんのことを愛しているよ!
ああ、大好きな母さん、僕のことを誰よりも愛してくれている母さん!僕は母さんとの別れが辛くて、辛くて堪らない!嫌だよ、母さんと離れ離れになってしまうことが嫌だよ!
どうして離れ離れになるのかって?ああ、そうか……母さんには葵のことを話していなかったね。」
僕は母にもう一度、椅子に座るように言ってから、自分は母の前で突っ立ったまま、教職員の二人が唖然となっているのも知らぬ顔で、結構の時間を費やして葵のことを話し始めた。母は真面目にずっと、僕の話に耳を傾けてくれた。先生達も僕と母から決して近くはない距離から、僕の話を黙って聞き続けてくれた。僕はきっと、この二人の教職員の給料明細に、普段よりも数の多い残業時間を刻み付けることになるのだろう。
僕は葵のこと、マチュニュイの存在、今までの出来事の全てを、父親に関すること以外は全て話した。そして僕が全てを話し終わったとき、一番に口を開いたのは僕の担任の大西先生だった。
「大学時代の同僚で精神科医をしている友人から聞いたことがある。マチュニュイは非常に危険で、儀式を行った当本人を統合失調症に近い状態にまで誘導するらしい。正に今の君ではないか!君は統合失調症なんだ!今すぐにでも、大きな精神科病院に連れて行かなくては!」
「先生、その病気は一体、どのような病気なのですか?私の息子は恐ろしい病を患っているのでしょうか?」
「親御さんの前では非常に言いにくいのですが、それは救いようのない狂人になってしまう病気です。」
「まぁ、なんてこと!」
母親は絶望の声をあげると、椅子から立ち上がって、僕の体を再び抱き締めてくれた。
「私のせいだわ!全部、私のせいだわ!きっと今まで苦労をかけすぎたのね!ああ、家にはあなたを病院に通院させる金さえありゃしない!母子家庭こそ、この世の不幸の最大の産出物だわ!これも何もかも、私達家族の人生の幸福の可能性を全て奪った、あの憎むべきあなたの父親のせいだわ!」
「母さん!僕は葵に体を乗っ取られてしまうんだ!明日からの僕は、見た目は僕でも、体の内側にある魂は葵なんだ!何てことだろう!僕は自分が生み出した、僕だけが認識可能の架空人物に消されてしまう!
ああ、もし妄想が、僕の想像力が葵を生み出したのならば、それこそが人生の悪魔だ!現実世界の裏に潜む空想や妄想こそが、人生の悪魔に違いない!そして僕は悪魔に消されてしまうんだ!でも僕が消されてしまったとしても、僕の大好きな母さんは、そのことを決して気にかけないはずさ!だって、彼女の方が人間的に僕よりも優れているんだもの!きっと母さんは葵を気に入るし、彼女のことが好きになるはずだよ!だって、彼女は優れているんだもの!結局、僕の存在価値が彼女に劣るのが、何もかもの問題なんだ!僕は糞さ!僕は虫ケラさ!
ああ、畜生!何を阿呆面して見ているんだ!おい、さっきまでは僕に偉そうに叫んでいたくせに、お前達は僕を助ける力を一つも持っていないんだ。どうせお前達は人を蔑むことしかしらない連中さ!それが教師の生きがいなんだからね!さあ、僕のことを軽蔑しておくれ!さあ、僕という人間を使って、充分に軽蔑する楽しみを堪能しておくれ!
ああ、母さん!僕の大好きな母さん!僕は消えたくないよ!前の自殺未遂だって、実は死ぬ気だなんてさらさら無かったんだ。そもそも僕に自殺だなんて無理に決まっているのだから。だって僕は、生きるのが好きとまでは言わないけれど、死んでしまうことが怖くて、怖くて堪らないんだ!
死んでしまうということが非常に怖くて堪らない!どうしようもない程に僕は臆病なんだ。だから僕は死にたくないし、ずっと生き続けていたいんだ。
僕はもうどれだけ辛いことがあっても、何一つ文句なんて言わないから、これからは真面目に目の前の出来事を一つ一つ遂行していくから、どんな不平も不満も口にしないから!僕は死ぬことが怖くて、愛されないことに臆病な弱虫だから、それでもそんな僕を認めてがむしゃらに生き続けていくから!
僕はもう何からも逃げはしないから!自分の運命と真正面から向き合って生きていくから!どんな不幸に襲われたって、胸がいっぱいになるまで受け止め続けるから!そして、自分の運命の何もかもを受け止めては愛し続けるから!どれだけ自分が駄目人間だって、希望を捨てることは絶対にしないから!だから葵、どうか僕を殺さないでくれ!」
僕が話している間、僕の頭の中は熱湯の入ったマグカップのように火照っていて、僕の脳みそは溶けてスープになってしまったのかとばかりに、頭の中がくらくらとしていた。そして僕は言いたいことを全て言い終えてしまったら、人生で今までに二度経験した、予定よりは少し早いはずの失神に、僕の体感的な時間を止められてしまったのだった。
五
いつの間にか瞼が開けば、目の前には真っ白な天井が見えた。僕はまた、見覚えのある天井に自分が入院したものだと思った。
僕はしばらく真っ白な天井を、ぼんやりと霞むレンズを隔てて見つめていたら、それが物質的な物でないことに気が付いた。
不思議な感覚に呆然としていると、誰かが横たわる僕の頭に向かって、ゆっくりと歩いてくる足音が聞こえた。そして束の間に葵が、寝転がる僕の顔を上から覗いている。葵は真っ白なワンピースを着て、どこにも傷一つ見当たらない綺麗な顔で、僕に向かって笑顔を作ってくれた。
「やっと現実を愛することができましたね。ここは病院じゃないですよ、悠耶くん。」
「君は葵なのかい?」
「悠耶くんは不思議なことを言うのですね。私は悠耶くんに名前を与えてもらった葵ですよ。」
葵が僕に優しく笑いかけると、僕は何故だか胸に温かな血が流れているのを感じて、その温かさによって湧き出た涙を頬に溢れさせた。
「悠耶くん、どうして泣いているのですか?」
「良かった。元の姿に戻ってくれて本当に良かった。」
「今日の悠耶くんはどこか変です。」
「変と言われようが馬鹿と言われようが、僕は全然構わないさ。ただ、本当に良かった。本当に良かったよ、葵……」
葵の小さな手が仰向けに倒れる僕の胸辺りに差し伸べられた。僕はその手をもう離れないように握った。葵の柔らかな手を持った僕は、すぐに折れてしまいそうな細い糸に支えられ、上半身を上げてくるりと体を葵の正面に回転させた。僕の正面に立っているのは、僕よりも背が低くて、顔立ちは幼く自分とは同い年とは思えない女の子だった。優しさと可愛らしさが全身から満ち溢れていて、無垢という言葉はこの子のためにあると思えるような、愛らしい女の子が僕の目の前に立っていた。
僕は彼女の手を離さずに、まるで目がボンドで固定されたかのように、ずっと葵の顔を見つめていた。
「もう怪我は大丈夫なのかい?」
「大丈夫ですよ。」
「本当にもう痛いところはないのかい?」
「もうどこも痛くはありません。」
「良かった!本当に良かった!」
「やっぱり、悠耶くんは優しいですね。」
「嬉しい。僕は本当に嬉しいよ!それにしても葵、ここは一体どこなんだ?見たところ、ここが病院でないことは確かだし。」
僕は辺りをざっと見回した。上も見たし下も見た。けれど上下左右、目に映るのは真っ白に染まった、人が空間と呼ぶ存在に色をつけたようなものだけだった。
「ここは悠耶くんの心の中、つまり悠耶くんの精神世界の真ん中ですよ。」
「僕の精神世界だって?それはどういうことだ?じゃぁ、僕はもう死んでしまったと言うのか?これは葵に体を乗っ取られた後の世界だとでも言うのか?」
「それは違いますよ。私はもう、悠耶くんの体を乗っ取るようなことはしません。それにしても私は、悠耶くんが私を目の前にして、とても落ち着いているのが不思議です。私は悠耶くんの体を乗っ取ろうとしていました。それなのにどうして、悠耶くんは怖がるどころか嬉しそうな顔をしているのでしょうか。」
「そんなの決まっているじゃないか。僕は今に葵を見て確信したよ。君が僕にひどいことをするわけがないんだ。だって君は僕の想像力が生んだ理想が、魂を持ち形を持って、僕の人生という現実世界に現れたものなんだからね。君が僕を不幸に陥れるわけがないんだ。」
「悠耶くん、それは違いますよ。私はさっきまでは、本当に悠耶くんの体を乗っ取ろうとしていたのですから。」
「じゃぁ、どうして君は僕の体を乗っ取らないことにしたんだい?」
「だって悠耶くん、しっかりと現実を愛することができたじゃないですか。」
「僕が現実を愛した?それは何のことだい?僕は君に言われた通り、遠山光に告白した。けれど僕は彼女に振られてしまったじゃないか。君が言う、僕の現実とは遠山光に対する恋愛事のことじゃなかったのかい?」
「確かにそれもそうでした。けれど現実と向き合うということは、一人につき百の道があるのですよ。
悠耶くんはしっかりと自分のお母さんに対して、自分の意識する現実感を何もかも吐き出して、何一つ心の隅に思いを残すことなく、お母さんに気持ちを伝えていたではありませんか。あのとき、悠耶くんは現実を愛していたはずですよ。」
僕はきっと数分前であるはずの出来事を思い出した。果たしてあのときの僕は、葵が言うように現実と相対して、さらにそれを愛することができていたのだろうか。自分ではどうもそれが分からなかった。
「とにもかくにも、僕はもう安全であるってことなんだね?」
「はい。もう私は悠耶くんに対して何もしませんし、安心して下さい。」
「分かった……」
僕はこのとき、何故か葵を憎むことができなかった。普通ならば、僕を恐怖のどん底に陥れた彼女を、僕が憎まない理由だなんて何一つとしてないはずだ。それにも関わらず今の僕は、葵に対して何の恐れも抱かず、むしろ彼女に親密感さえ抱いていたのだった。
僕は自分で自分の感情を不思議に思った。過ぎ去った時間を顧みれば、自分はあれほどにも葵のことを恐れ、憎み、恨んでいた。けれどもう一度考えて見れば、それは決して不思議ではないことなのかもしれない。さっきも僕は葵に言ったけれど、彼女はもともと僕が自分の想像力を最大限に使って、僕の崇拝する最高の理想像として、僕自身が創り出した存在なんだ。そのような存在のことを、僕がけっして心の底から憎むことができるわけがないんだ。
僕は目の前の葵をじっと見つめた。
「葵、いっしょに帰ろう。僕は君が好きだ。また、前のように一緒に日々を過ごしていきたい。」
葵はいつものように優しげに笑った。けれどその微笑みには、萎れている花弁が綺麗な色で開いているような、どこか寂し気な雰囲気を醸し出していた。
「私と悠耶くんはここでお別れすることになっています。もう私達はこの先、お互いの目と目を合わせることはありません。これが私と悠耶くんの最後です。」
「どうして!嫌だ!そんなのは絶対に嫌だ!どうして僕と君がお別れをしなくちゃいけないんだ!」
葵はまた、熟れたが美しい色をしている果実のように、顔面の筋肉で無理やりに作った笑顔で寂しさを漂わせていた。
「私は悠耶くんにひどいことをしようとしました。私は悠耶くんの魂を消してしまおうとしたのです。そんな私が現実世界で、悠耶くんと共に身を留めることはできません。私は悠耶くんに対して、本当に酷いことをしようとしたのですから。」
「それはもういいんだ!お願いだから僕から離れないでおくれ、葵!僕はやっと気付くことができたんだ。君が好きだ!だから離れないで!葵!僕は君のことが好きなんだ!」
僕は自然と自分の思いを、彼女に伝えることができた。葵は嬉しさと寂しさに戸惑ったような、今にでも崩れ落ちてしまいそうな小さな声を発した。
「私は悠耶くんの脳をお借りしていますから、普通の人と変わらないように感情があります。だから悠耶くんに好きと言ってもらえて本当に嬉しいです。でも、私が悠耶くんと一緒にいてはいけない理由は他にもあるのです。
まず私は本来、現実世界に存在するものではありません。私はむしろ現実世界の真逆、つまり表裏一体のちょうど裏側にある世界に存在しているのです。その世界を「現実」の対義語を使って表すのならば、虚構、仮想、空想、理想と色々な表現の仕方があります。そして私も含めてそれらのものは、その世界にいるからこそ、自分の担う役割を果たしているのです。故に私が現実世界に存在してしまうことによって、私の役割、もっと言えば私の構造が、かえって壊れてしまうことになりかねません。だって私は、悠耶くんの憧れであり欲求心であり妄想であるのですから。そんな私が現実世界にいては、私の役割だけならまだしも、悠耶くんの現実世界に対する認識力までもが壊れてしまうことになります。それを簡単に表現するならば、生きていく中での障害というわけです。その障害が何であるのかを、一番に身を持って実感したのが耶くんではありませんか。
悠耶くんは私のことを好きになってはいけないのです。悠耶くんが私のことを好きになれば好きになるほど、悠耶くんは人間として堕落してしまいます。それは考えて見れば当たり前なことです。まず私は悠耶くんの妄想にすぎません。そして人間は妄想、想像の世界で生きていくほうが、現実世界の何倍も楽に決まっています。だって考えて見て下さい。誰もが思ったことを現実にできるなら、それは地球上では魔法と呼ばれて尊ばれるに違いありません。ですが現実は違います。人生という名の舞台は、そのような夢を許してくれませんから。現実は寝ている時ですら、思った通りの夢を見せてくれないではないですか。ですが悠耶くんはマチュニュイと呼ばれる秘術を用いて、不可能を可能にしてしまったのです。それは言うまでもなくルール違反なことではありませんか?だって、空想を現実に呼び起こしてしまう行為は、悠耶くんが毎日、精一杯に生きている人生の構造を無視した、生きることの自然に抗うとばかりの冒涜行為ではありませんか。現に悠耶くんは、本当は存在しない私を、それが絶対になければならない存在かのように、空想という魅力の具現化に、心から依存してしまいました。それでは駄目なのです。私と悠耶くんの関係はそれでは絶対に駄目です。悠耶くんは、悠耶くんが私に優しくしてくれたように、現実世界の人達にも愛情を込めた温和な目を向けなければいけません。悠耶くんが私を愛してくれたように、悠耶くんは現実世界の人たちをもっと愛さなくてはいけないのです。」
僕は葵と別れることが非常に辛かった。けれど僕は葵の発言を聴覚で受け取って心で感じ取り、彼女との別れに二度と不平を言わないことに決めたんだ。
僕は別れや感謝の言葉の代わりに、強く彼女の体を抱き締めた。今、僕の腕から伝わる葵の柔らかさが、もうしばらくで無くなってしまうことが僕には信じられなかった。僕は葵の体を壊してしまわないように、且つ彼女の体を失くしてしまわないように、精一杯、彼女の小さな体を抱き締めた。
「葵、僕は君が好きだ。愛している。僕はずっと君のことを愛しているよ。例え君がそれをいけないことだと言っても、僕はやっぱり君を愛するに決まっているんだ。」
「私も悠耶くんのことが大好きです。私を作ってくれた人が悠耶くんで良かった。」
「葵に好きになってもらえる長所が、果たして僕にはあるのだろうか?」
「たくさんあります。悠耶くんは自分自身の魅力に対して鈍感すぎます。生まれたての赤ちゃんでさえ悠耶くんよりも、自身の魅力をたくさん知っていると思いますよ。本当は私が一つ一つ教えてあげてもいいのですが、それは悠耶くんのこれからの人生のお楽しみのために残しておきます。今の悠耶くんならば、現実にしっかりと両足を着けて私から離れる悠耶くんになら、そんなことの一つや二つ、いや、むしろ百や二百と簡単に見つけられますよ。もう、大丈夫です。悠耶くんは、本当に愛するべきものを見つけられたのですから。」
僕は葵の背中に絡まった自分の両手を、ぼんやりとして見えなくなった視界から苦労して解いた。そして僕は目の前に立つ、霞んだ雫の分だけ離れた距離にいる葵を見つめた。
「葵、君は消えたらどこにいくんだ?私にも分からないだって?じゃぁ、一つ僕の希望を聞いてくれないか?僕は葵に完全に消えてもらいたくないんだ。例え君が自分の存在を否定したとしても、僕は葵に完全にいなくなって欲しくはない。むしろ葵はこの世界のどこかにいるべき存在なんだ。
葵は僕が君に依存をすることに対して否定をしたね?でもね、人間と言う生き物は絶対に君を愛してしまうんだ。人間は誰もが君という存在を愛さずにはいられないんだよ。
確かに君は僕の住む現実世界とは白日と闇夜のような関係で、僕と君とは余りにも対象的な存在だ。確かに葵は僕の虚構で仮想、空想や理想であるに違いない。けれどね、僕からすれば、いや僕等人類全体からすれば、それら全部ひっくるめて希望なんだよ!希望とは大袈裟だって?いや、全く大袈裟なんかじゃないね。希望って漠然としていて、実は余りにも身近でちょっとしたことだったりするものだから。
僕達人間は体の芯から欲望の塊で、何に満足することもなくいつだって欲求不満で、常に自分の精神を快楽で癒すことばっかりを考えている。そして僕達はどうしても手に入れることのできない快楽を、空想でだけはと手に入れようとする。でもね、それって決して悪いことじゃないと思うんだ。むしろ僕達はね、空想やら虚構といったもので、自分の持つ人間本来の弱さと戦っているんだよ。僕達人間はね、仮想の世界の住人となっている間、決して現実から離れているわけではないはずなんだ。むしろその時は、しっかりと自分の非弱さ、無能さという現実と血を吐くように向き合っているはずなんだ。そして人は、その余りにも遠距離な関係性から何度も失恋して、やっと、少しずつ大人になっていくんだ。
そしてね、やっぱり葵は希望だよ。だって本来は混じることのない二つの世界が巧みに重なって、その偶然によって君は僕の側に身を置いてくれていた。それは僕らにとっては奇跡そのもので、僕ら人間の追い続けてきた希望に決まっているんだ。普段は目を合わすことのできない二人が、奇跡と言われる現象によって見つめ合う。そして僕は今、愛情と言う夢心地を感じている。でも僕は決して目を閉じて眠っているわけでも、眠っていたわけでもない。僕は長い日々を一つの偉大な奇跡によって、君と共に過ごしてきたんだ。
葵、どうか僕の心の中のどこかの片隅で、ずっと生き続けておくれ。お願いだ、葵!どうか、ずっと僕の心の中にいて欲しい!きっと僕はいつだって君に恋をしているだろう。でも、それでいいんだよ!僕はきっと、乙女のように君に何度も恋をして、叶わない恋に何度も失恋して、乙女のように涙を何度も流すだろう。でもね、それでいいんだ。僕は、それを懲りずに何度も繰り返して大人になるから!僕は憧れに何度だって裏切られるだろう。でも、その分は絶対に強くなるから!だから葵は、僕の胸の一番中心で、どうか僕のことを見守っていて欲しい。お願いだ、葵!」
僕がそう言った瞬間、葵はさっき僕が彼女を抱き締めたように、僕の体を抱き締めてくれた。
「悠耶くん。私を生み出してくれて、本当にありがとうございました。」
葵の涙声は、今まで聞いてきた彼女の声の中で一番に綺麗な声だった。それは太陽の光を反射する淀みない海のように、僕の心をその流れにゆっくりと漂わせるのだった。
「私、悠耶くんと出会えて幸せでした。私だって、悠耶くんと別れることは寂しいです。でも、私だって成長しなければいけません。
先ほど悠耶くんは夢に失恋して強くなると言いましたが、それは私にだって同じことです。
悠耶くんは一つ勘違いをしています。それは、悠耶くんが希望を私に見るように、私達も悠耶くんの世界に希望を見ているのです。希望とは、現実世界に存在する人だけが見つけるものではありません。だって私達も悠耶くんの住む世界に、希望を見い出して生きているのですから。
すいません。難しい話になってしまいましたね。ただ私が言いたかったことは、私と言う妄想の世界に住む人と、悠耶くんという現実の世界に住む人が、互いのことを思い続けて、お互いの気持ちを少しでも寄せ合おうとする。それって偉大なことですよね。そして私達は常に日頃から、実は息をするように、お互いの存在のことを見つめ合って生きているのですよね。
悠耶くん、私はいつだって悠耶の心の中にいます。例えもう話し合うことがなくなってしまっても、私はずっとどこかで悠耶くんのことを見守り続けています。私は本当に悠耶くんのことが大好きでした。」
葵はそう言って両手を僕の背中に預けたまま、僕の頬に口付けをした。
僕は声に出して「ありがとう」と葵に言った。
五
いつの間にか瞼が開けば、目の前には真っ白な天井が見えた。目が開いて一秒もしない内に、僕は空っぽな目の前の空間の寂しさに泣きそうになった。そして僕が瞼を濡らした涙を目元から溢れさせようとしたとき、聞き覚えのある声が耳に入ってきた。
「悠耶!目を覚ましたのね。大丈夫?私が誰だか分かる?」
僕は母の後ろにある真っ白な壁を見て、ここが病院であることを理解した。そして僕は今溢れ出ようとした涙の理由を、母を見た一瞬の内に変えてしまった。僕はきっと今まで感じたことのない涙の温かさを頬に感じた。
「母さん、僕は母さんのことが大好きだ。」
「急にどうしたの。私だって、我が子のことが大好きに決まっているじゃない。」
「母さん、それは本当?僕は母さんが想像しているよりも気が狂っているし、僕は気違いに違いないんだ!現に僕はそれが原因で入院しているんだよね?それでも母さんは僕のことを愛してくれるって言うの?」
「当たり前でしょ。我が子なんだから。」
母さんは微笑みながら、きらきらと光る色の言葉を紡いでくれた。そして僕はその輝きの眩しさに飛び上がって、母さんの体を抱き締めた。
「ありがとう!」
僕の何もかもに対する感謝の言葉が、病室内に力強く響いた。
人生の悪魔