お気に入りの音楽 61〜65

お気に入りの音楽 61〜65

61 カウンター・テナー

『母をたずねて三千里』は、1976年1月4日から12月26日まで、フジテレビ系列で毎週日曜19:30 - 20:00に全52話が放送された、日本アニメーション制作のテレビアニメ。世界名作劇場の2作目に当たる。
 エドモンド・デ・アミーチスの著作・ "Cuore"(『クオーレ』)のMaggio (5月)の挿入話 "Dagli Appennini alle Andeを原作としたアニメ。

 1882年のブエノス・アイレスに出稼ぎに行ったまま、音信不通になっている母アンナ・ロッシを尋ねるべく、主人公のマルコ・ロッシがイタリア・ジェノヴァからアルゼンチンへと渡る姿を描く。
 主人公マルコは旅の途中で何度も危機に陥り、そこで出会った多くの人に助けられ、その優しさに触れながら成長していく。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/母をたずねて三千里

 子供たちより夢中で観ていた。ばあさまという年老いたロバが、マルコとの旅の途中、寿命で息を引き取る場面を覚えている。

 大杉 久美子(1951年7月10日 - )は、日本の歌手。東京都出身。
活動期間 1964年 -(アニソン歌手としては1969年 - )
 本名は同じ。テレビアニメ『アタックNo.1』の主題歌「アタックNo.1」をはじめ、多くの童謡・アニメソングを代表曲に持つ。
 卓越した歌唱力と包み込むような優しい歌声で、ささきいさお・堀江美都子・水木一郎とともに、1970年代には「アニソン四天王」として活躍した。
『ドラえもんのうた』のオリジナル歌手でもある。(Wikipediaより)

草原のマルコ
https://youtu.be/bY1smcIgtw8

 今回はアニメソングではなくて、カウンターテナー。

 彌勒 忠史(みろく ただし、1968年 - )は、日本の声楽家。舞台俳優、作曲家、編曲家、演出家としても広く活動している。

オペラ歌手が歌う草原のマルコ
https://youtu.be/2XQCUTodlhw


 カウンターテナーというのは、ファルセット(裏声)で歌う男性歌手の総称とされていますが、同じカウンターテナーのなかでもいろいろな音域があって、正しくは男性メゾソプラノ歌手になります。

アヴェ・マリア(カッチーニ) 村松稔之(カウンターテナー)
https://youtu.be/zd_s7MPC8JE

 日本でも近年だいぶ人口が増えてきた、カウンターテナーという声種。村松さんの場合、ボーイソプラノ→ボーイアルト→カウンターテナーと、ずっと“裏声街道”(?)を歩んできたそうです。類いまれな素質は、子どもの頃から開花していたのですね。
https://ebravo.jp/archives/116306

『アヴェ・マリア』という曲はおそらく無数にあるが、そのなかでも特に人気が高いシューベルト、バッハ=グノー、カッチーニの3曲が『三大アヴェ・マリア』と呼ばれている。
 伸びやかなメロディーが有名なシューベルトの『アヴェ・マリア』この曲はよいとして、残りの2曲はなかなかの「曲者」だ。
 まずバッハ=グノー。作者名としていつも2人の作曲家の名前がセットで出てくる珍しい作品だ。
 グノーはバッハの「平均律クラヴィーア曲集第1巻」の有名なハ長調の前奏曲を聴いて思いついた。
「この美しいピアノ曲に歌を付けてみてはどうか」
 伴奏部分はバッハの曲をほぼそのまま使い、そこに『アヴェ・マリア』の歌と詞を加えた。
 曲を作ったのはグノーといえばグノーなのだが、この優しいメロディーはすでにバッハのオリジナルのなかに隠れていたもの。だからグノー作曲と呼ぶのはためらわれる。一方、バッハのほうはこの曲を『アヴェ・マリア』のつもりで書いたわけではない。
 そこで作者名には「バッハ=グノー」と、異なる時代を生きた作曲家名が並んで登場することになる。

 もうひとつ、カッチーニの「アヴェ・マリア」は、さらに問題作だ。
 なにしろこの曲はカッチーニの作曲ではないのだから。カッチーニは16~17世紀を生きたイタリア初期バロック期の作曲家だ。ところがこの曲はそんな古い時代の作品には聴こえない。ずっとロマンティックで現代的だ。
 記憶をたどっても、80年代まではこの曲の存在を耳にしたことはなかったように思う。ある頃から急にみんなが歌うようになった。
 最近、この曲の(たぶん)本当の作曲者が判明した。ソ連の音楽家ヴァヴィロフという人が1970年代にあえて作者不詳の曲として発表したものが、誤ってカッチーニ作として定着したという。
 まるで貴重な骨董が現代人による贋作だとわかってしまったみたいな話である。「やっぱり」と思う反面、真実を知りたくなかった気もして少し悔しい。なんというか、現代人の作と認めるには、あの『アヴェ・マリア』はあまりにも美しすぎる。
https://ameblo.jp/sakuratsuruchitoseyama/entry-10740890519.html

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 マリアセレン(Maria Seiren)は、ニューハーフの両声ボーカリストです。
 1人でカウンターテナーとテノールとを歌い分けることができ、声楽パフォーマンスを向上させるため、3年間にわたって各種トレーニングを受けました。
 2016年にYouTube再生回数も300万回を突破し、メディアや音楽専門家からも注目されています。

脅威の歌唱力 
https://youtu.be/3RWs7yeGLyU

 この動画を見た時はびっくり。パーティのサプライズで、最初は聴いていなかった観客が……
 これを聴いてカウンターテナーに興味を持ちました。

 名前セレンの由来は、ギリシャ神話に登場する大海の歌姫Seirēnです。 ホメーロスの『オデュッセイア』、 ゲーテの『ファウスト』に登場し、 初期は海で船員を惑わす半人半鳥の「怪物」でしたが、 後世には人魚や水の精として表現されていました。
https://a-port.asahi.com/projects/maria-seiren

乾杯の歌
https://youtu.be/cCjPoteohiM

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宇宙戦艦ヤマト オペラ歌手リモート合唱
https://youtu.be/c4ppdZn0K1A

62 IKZO IKUZO

『私は泣いています』リリィ
https://youtu.be/BHcWZN4MnJ0?si=gNTKowqnyrJKnNHP
『私は泣いています』吉 幾三
https://youtu.be/Vy_iOE7KQh8

 吉 幾三さんのは初めて聴きました。リリィはかっこよかった。

 シンガー・ソングライターで女優のりりィ(本名・鎌田小恵子)さんが2016年11月11日朝、肺がんのため死去した。64歳だった。
『私は泣いています』などのヒット曲で一世を風靡した。長男は、ドリームズ・カム・トゥルーの吉田美和さんの夫で、ロックバンドのFUZZY COTROLのJUONさん。
 74年、100万枚に迫る大ヒット『私は泣いています』で名前が知られるようになる。
 所属事務所のプロフィールでは、生まれたころの詳しい家庭環境は記されていないが、日本人離れした容姿をしており、独特のハスキーがかった声質が特徴。なんとなく不幸感や倦怠感が漂っていた。大ヒットとなった『私は泣いています』は、単に失恋の歌というよりも、もっと広く、時代から置き去りにされた若者たちの心に響いた。
 すでに一部で熱狂的に支持されていた浅川マキさんや、少し遅れて登場する森田童子さんらと同じく、自身の謎めいた世界にこだわる歌い手の1人だった。
 歌謡曲の世界では当時、同い年の藤圭子さんがドスの効いた声で『圭子の夢は夜ひらく』や『命預けます』を歌っており、メジャーとマイナーの歌世界がどこかでつながり、共振しているような時代だった。
https://www.j-cast.com/2016/11/11283217.html?p=all

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 吉 幾三(1952年11月11日 - )は、日本の歌手、シンガーソングライター。
 青森県北津軽郡金木町(現・五所川原市)出身。青森県在住。公式愛称はIKZO。本名は鎌田 善人(かまた よしひと)。血液型はB型。身長178 cm、体重70 kg。靴サイズ25.5 cm。既婚。子供が3人おり、長女は歌手のKU(くー)。次女は女優の寿三美(ことぶき みみ)

 父親は昭和天皇の御前で民謡を披露したほどの民謡の名手であり、そのことについて吉は「親父は超えられない」と語っている。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%B9%BE%E4%B8%89

『俺はぜったい!プレスリー』は、歌手・吉幾三が1977年(昭和52年)11月25日に発表した楽曲である。リリース翌年には、本作をベースとした映画が『俺は田舎のプレスリー』のタイトルで公開された。

『俺はぜったい!プレスリー!』
https://youtu.be/RHhxqJWkSls

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『俺ら東京さ行ぐだ』-は、シンガーソングライター・吉幾三が1984年(昭和59年)11月25日に発表した楽曲である。
 吉幾三本人が後日語ったところによると、歌詞の「テレビもラジオも電話もガスも電気も無い」など自虐的な部分が、発売当初は出身地である青森県北津軽郡金木町(現:五所川原市)から「うちはそんなに田舎じゃない」と猛抗議を受けたという。
 また、日本中の小さな農村から「ふざけるな!!」「私たちの村を馬鹿にしてるのか!?」と凄い数のクレームが押し寄せてきたとも語っている。
 しかし、彼自身の幼少期である1960年〜1970年代においては、本当に歌詞の内容と近いものだったという。
 1985年屈指の注目曲であり「NHK紅白歌合戦」出場も有力視されていたが、歌詞の中に「レーザーディスク」という実在の商品名や、警察官を「おまわり」と表現している事が問題視され、「『レーザービデオ』などに歌詞を変えたらどうですのでか?」と提案されたが、吉が、年末年始は家族サービスをしたい意向があったのと「歌詞を変えてまで出る気はない」とNHK紅白歌合戦の出演はなかった。
 この曲が有線を中心にヒットチャートを上り始めたことに注目した徳間ジャパンは、1984年にプロモーションの一環として、吉本人主演によるビデオシネマ『俺ら東京さ行ぐだ 〜純情篇〜』を製作。
 作品発表から24年が経過した2008年(平成20年)にはこの楽曲がきっかけで、インターネット上において「IKZOブーム」が起こった。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%BA%E3%82%89%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%81%95%E8%A1%8C%E3%81%90%E3%81%A0

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 吉が作詞・作曲・編曲を手掛けた『TSUGARU』は、何気ない日常の出来事や会話を全編津軽弁で歌ったもの。津軽弁がわかる人が聴けば大爆笑だが、それ以外の人が聴くと全く理解不能で、ワイドショーやSNSで連日話題に。ついにはYouTubeのMV再生数が200万回を超え、本人も「何がなんだかさっぱりわからない」状態でCD化が決定した。(2019年10月)
https://www.oricon.co.jp/news/2145704/full

 
『TSUGARU』
https://youtu.be/UVAWjRnMQfM
……秋田弁なら、少しはわかるけど。

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 2020年 、吉は5月に志村のレギュラー番組「志村でナイト」にゲスト出演することが決まっていたという。ゴールデンウィーク明けの収録予定で、志村は1月に番組制作会社を介して、
「台本もないけど、とにかく吉さんにゲストに来て欲しい。久しぶりに話したい」
と伝えてきた。トークコーナーへゲスト出演してほしいと熱望していたという。
 吉もできるだけ早く会いたいと、スケジュールを前倒ししていたが、そんな矢先の訃報だった。
「とても信じられません。
 この5月に久しぶりに番組に出る予定でいたのに…。
『入院された』との事は聞いておりましたが、何が何だか分かりません。残念でなりません。
 今はとにかく貴方の分まで生きてみせます。
 いろいろと本当にありがとう。
 僕が病気の時は、あなたに気を遣ってもらい、何もしてあげられないのが悲しくてつらいです。  
 ごめんネ…。
 ゆっくり休んでください。
吉 幾三」(2020年3月)
https://bunshun.jp/articles/-/36970?page=2

酔歌 志村けん
https://youtu.be/8QDYBgq2b-Y
……志村けんさんが真剣に歌っています。

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『北・漁・港』
 歌詞以外の情報がない。連れ合いが東北出身なので帰省する時は幾三さんの歌がずっと掛かっていた。演歌ではこの歌が好き。
 あの頃は車に乗るとすぐに眠気が。幾三さんのフォークソングにいい曲があったが思い出せない。カセットテープはすでにないし……

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『スリラー』マイケル・ジャクソンとコラボ(?)
https://youtu.be/U06gGJb0ws0
 おかしくておかしくて、
 じーさん、ばーさん、ぐーるぐる。

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『吉幾三のこれが本当のゴルフだ』https://youtu.be/E5O8TbMoCqM

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『バイオハザード・ヴィレッジ』
https://youtu.be/nmL_LzDtl4k

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『もしもIKZOが海外オーディション番組に出演したら』
https://youtu.be/ruRGJRdDQ74
……これ、信じてしまいました。

63 天性の歌声

 カレン・アン・カーペンター(1950年3月2日 - 1983年2月4日)は、カーペンターズのヴォーカリスト、ドラマー。
 声種はアルトで、3オクターブの声域を持っていた。彼女の声の美しさについては、ビートルズのジョン・レノンやポール・マッカートニーをはじめとした一流のアーティストたちも絶賛している。

『遙かなる影』は、バート・バカラックとハル・デイヴィッドが作った楽曲。本作品を収録したカーペンターズのアルバムのタイトルから「Close to You」と略記することも多い。
 1970年5月20日、シングルA面曲としてカーペンターズのバージョンが発表される。同年7月25日から8月15日にかけてビルボード・Hot 100で4週連続1位を記録した。
 彼らにとって初のナンバーワン・ソングである。ビルボードのイージーリスニング・チャートでも1位を記録し、ゴールドディスクに輝いた。また、1970年の年間チャート2位を記録した。

遥かなる影
https://youtu.be/V4aJMa-Livo

 食べることが大好きで、天真爛漫な性格から多くの友人に恵まれた人気者、カレン・カーペンターは長男リチャードに後れること4年、1950年に生まれた。
 リチャードがピアノの練習に精を出す傍ら、カレンといえば楽器は何をやっても続かず、すぐ野球をしに出掛けてしまうような活発な性格だった。
 そんな彼女が唯一本気になれたのがハイスクールのマーチングバンドで出合ったドラム。しかしドラムを担当する女性など当時は数少なく、「女のやることじゃない」と両親は反対。その両親を説得して兄のバンドのドラマーに就任したのが、彼女のキャリアのスタートだった。

 1966年、初めて契約しようとしていたレコード会社が、家族も、そしてカレン自身も自覚していなかった才能を見出す。
「バンドを売り出すためにはボーカルが必要だ」
と説得されたリチャードは、あるとき急遽カレンに歌わせることに。
 妹の才能を知っていた兄が披露させた天性の歌声は比類のないもので、レコード会社はリチャードなしでカレンとだけ契約を結ぼうとした。でもリチャードの才能しか信じていなかった母親は、反対する。
 母アギネスは「女は主婦としての能力があって一人前」と考えていた節がある。息子のためならLAに一家で引っ越しすらする一方で、自分が一度過小評価した人間の価値が上がることを認められず、知らず知らずのうちに才能を潰してしまう多くの人たち同様、お転婆で男勝りな娘がドラムを始めるときも、歌手デビューするチャンスにも立ちはだかった。母親は、この後一生涯、カレンが類まれな才能を持っていることを認めなかった。

『スーパースター』は、デラニー&ボニーが1969年に発表した楽曲"Groupie"。1970年に"Superstar"と改名され、1971年にはカーペンターズによるカヴァー・ヴァージョンが世界的にヒットした。
 リチャード・カーペンターがテレビ番組『トゥナイト・ショウ』を見ていた時に、ベット・ミドラーがこの曲を歌い、妹のカレンにぴったりの曲だと思ったことから取り上げられた。
 サード・アルバム『カーペンターズ』からシングル・カットされると、本国アメリカでは2位に達し、カーペンターズにとって5曲目の全米トップ10シングルとなった。日本のオリコンでは7位となり、初めて日本でもトップ10入りを果たした。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/スーパースター_(デラニー%26ボニーの曲)

スーパースター
https://youtu.be/MHs_8MB3bu0


 こうして音楽界の大舞台に姿を現したことで、人々の注目を集めるようになったカーペンターズ。しかし皮肉なことにそれがカレンの命を縮めることになる。
 あるとき、地元紙がカレンのハイスクールでの写真を差し「chubby sister」と紹介したのだ。
「太っちょの妹」。思春期の頃から体形を気にしていたカレンは、このことで食事に対して非常に気を使うようになっていった。さらに、彼女の才能がカレンの体形へのコンプレックスに拍車をかける。

『トップ・オブ・ザ・ワールド』は、カーペンターズが1972年に発表した楽曲。1973年にBillboard Hot 100において1位になり、デュオにとって2曲目のビルボード誌におけるナンバーワンシングルとなった。
 元々、カーペンターズ版はアルバム内の1曲として考えられていたが、リン・アンダーソンがこの曲をカバーし、アメリカのカントリーシングルチャートにおいて1973年の中頃2位を達成した。アンダーソン版の成功を受けてカーペンターズはアレンジし直した新しい版を作り直してシングルとして発売してみると、アメリカのポップチャートで1位になった。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/トップ・オブ・ザ・ワールド_(カーペンターズの曲)

トップ・オブ・ザ・ワールド
https://youtu.be/KqtlgmjfJik


 子供が大好きで、彼女自身も子供のような無邪気さと純粋さを持ち周囲の人から好かれていた。一方で自らの体形については太りすぎという固定観念を持っており、やがて精神的な病となっていった。事実、その頃のカレンは平均的な女性と比較してぽっちゃりしていた。カレンの身長は163センチで適正体重は58.45キロだが、彼女の体重は最大66キロに達していた。カレンは「絶対に痩せてやる」と発奮しダイエットに励むようになったが、それが彼女の寿命を縮める結果となった。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/カレン・カーペンター

『イエスタデイ・ワンス・モア』は、カーペンターズが1973年に発表したシングルである。リチャード・カーペンターとジョン・ベティスの作。本国アメリカでは、1973年7月28日にBillboard Hot 100で2位を記録。日本とイギリスでのカーペンターズ最大のヒット曲で、日本での公称セールスは100万枚以上(オリコンでは約60万枚)。オリコン洋楽チャートでは26週連続1位を記録した。 
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ナウ・アンド・ゼン_(カーペンターズのアルバム

イエスタデイ・ワンス・モア
https://youtu.be/xO_Bi0duiyE

 ダイエットのためケーキを出されてもほんのひと口かじるだけの生活。
 この頃、食事の場はカレンにとって、皿に乗っている食べ物を右に左に転がすための場でしかなかった。減っているのはコップの中の水だけ。周囲の人たちの望む姿になるべく、痩せ続けていった。
 日本でのツアーを終えて、兄妹が建ててあげた両親の家を訪れると、カレンがわざわざ買ってきた着物を母は興味なさげに早々に片付け、新居の案内を始めた。母はカレンをないがしろにする癖を止めることができなかった。当時、ほぼ男性しかおらず、めったにいなかった女性のドラマーとして表舞台に立つ娘の行動は許せなかったのだ。
「結婚するまでは女性は家を出ない」ことがマナーだと信じていた保守的な母は、娘の自立すら阻み、カレンの一人暮らしも認めなかった。兄の説得で仕方なく兄妹同居という形でようやく認めたが、娘のプライバシーを絶対に作らせないよう画策した。

 発散されることのないストレスと、栄養不足からついに体は限界を迎える。コンサート中の舞台の上でカレンは意識を失い、卒倒。コンサートは中断、病院へ運び込まれた。ベッドの上に横たえられた5フィート4インチ (163cm)のカレンの体重は平均体重より16㎏下回っていたため、医師はドラッグを疑ったが、彼女が別の病に蝕まれていることに誰も気づかなかった。なぜなら彼女は休むことなくランニングやエクササイズの日課をこなしており、どこからどう見ても「健康的な生活」を送っているようにしか見えなかったから。その生活がたとえ彼女の過度な脂肪への恐怖によって支えられていても……。

 なんとか回復したカレンは、実家に引き取られる。家族で退院を祝い、仕事も順調にこなし始め実家で過ごした久しぶりの家族団らん。食卓に出てきたものは、兄リチャードの好物。家族のため、必死で少しずつ食事を口に運んだカレンは、母の足元に頽れこう懇願したという。
「私のママになってよ」。
https://www.elle.com/jp/culture/celebphotos/g26463935/carpenters-karen-carpenter-story-as-a-working-woman-190315/#

『マスカレード』は1972年にレオン・ラッセルが書いた楽曲です。
 1976年にジョージ・ベンソンがカバーして大ヒットしました。
 カーペンターズも1973年のアルバムに収録しています。

マスカレード
https://youtu.be/fLW9h76QZ50


 1980年、若手実業家のトム・バリスと結婚をするも、翌年暮れには破綻。離婚同意書にサインする直前(約束の6時間ほど前)に彼女が死去したため、現在も既婚のままとなっている。
 1983年2月4日早朝、両親の家で意識不明になっているところを発見され、同日死去した。満32歳没。死因は急性心不全。長期の闘病生活が心臓に負担をかけていたと思われる。なお、映画『カレン・カーペンター・ストーリー』によれば、晩年は過食症と拒食症の症状が繰り返し起こっており、死去前日は食欲が少し出てきたところで翌日亡くなったことになっている。彼女の死は社会に大きな衝撃を与え、拒食症などの摂食障害が社会的に認知されるきっかけとなった。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/カレン・カーペンター

64 ディープ・パープル

  今年 (2023年)は3月にディープ・パープルが来日していたんですね。

ハードロックの生ける伝説! 
 デビューから55年を迎えるレジェンドの時代を超越した圧倒的ライヴ・パフォーマンス!!

 スタート曲の『ハイウエースター』からアリーナ席は総立ちで会場のボルテージは最高潮となった。
 ボーカルのイアン・ギランのシャウトにギター、ベース、キーボード、ドラムの見せ場が随所にちりばめられたパフォーマンスは、これぞディープ・パープルの本領発揮。
 ライブ後半のキーボードのソロでは、クラシックやジャズ曲調のメドレーにプロ野球阪神タイガースの応援歌『六甲おろし』のメロディーが差し込まれるサービスぶりだった。


 1968年のバンド結成から55年。18年以来5年ぶり16回目の来日公演は、イアン・ギラン、ロジャー・グローヴァー、イアン・ペイス、ドン・エイリー、サイモン・マクブライトのメンバーが参加。
 13日の日本武道館を皮切りに17日広島、19日福岡と回り、21日大坂がジャパンツアーの最終公演だった。 (Yahooニュースより)



 ディープ・パープルは、イングランド出身のハードロック・バンド。
 日本ではレッド・ツェッペリンと並びハードロック・バンドの代表格の一つに数えられ、後のハードロック、ヘビーメタル・バンドにも大きな影響を与えた。
 2016年度に「ロックの殿堂」入りを果たした。代表曲には『ハイウェイ・スター』『スモーク・オン・ザ・ウォーター』『紫の炎』 (バーン)『チャイルド・イン・タイム』などがある。アルバムセールスは、全世界で1億枚を突破している。

 1967年に結成され、1976年から1984年までの8年間に活動休止期間を経て、現在も「第9期」メンバーにより存続し、第9期に至るまで、度重なるメンバーチェンジが行われたバンドとしても知られている。
「ハードロック」を構築したバンドであり、また「ヘヴィメタル」の先駆的存在。
 また、クラシック音楽が導入されていることも大きな特徴。
 代表曲『バーン』『ハイウェイ・スター』の間奏部分はバッハのコード進行を引用したものだそう。

 
 二十歳の頃、ラジオでロックのベストテン番組を聴いていた。1位、ディープパープル、2位、レッドツェッペリン、3位、クイーン……
 でもレコードを買ったのは、ユーライアヒープとスコーピオンズ。当時はディープパープルには興味がなかった。
 娘が中学のとき吹奏楽部で『ディープパープルメドレー』を演奏した。初めて、いい曲だなあと思いCDを借りてきた。

【スモーク・オン・ザ・ウォーター】
 イギリスのハードロックバンド ディープ・パープルの6thアルバム「Machine Head」 (1972年)に収録されている曲。
 もともとシングルとしてリリースされる予定はなかったものの、1973年にアメリカでシングルとしてリリースし、ビルボードチャートで予想外の好成績 (シングルチャート最高4位)を獲得。
 本国イギリスでのシングルリリースは、だいぶ後の1977年。
 歌詞の内容は、バンドが実際に目撃した「レマン湖畔の火事」と、それによって予定変更となった「自身のレコーディング」について書かれた。
 1971年、ディープ・パープルはローリング・ストーンズの移動式スタジオ「The Rolling Stones Mobile Studio」を借り、スイスの観光地モントルーにあるカジノのステージでレコーディングする予定だった。
 しかし、そのステージで行われていたフランク・ザッパのライヴ中に火災が発生、カジノを含めたリゾート施設一帯が全焼した。
 メンバーは場所を移し、なんとかレコーディングを完了させたものの、この一件はメンバーにとって忘れられないものとなった。
 タイトル『スモーク・オン・ザ・ウォーター』は、レマン湖の対岸から見た火事の光景。

スモーク・オン・ザ・ウォーター
https://youtu.be/Sy1_wvkJjsE


 ルチアーノ・パヴァロッティ (イタリアのオペラ歌手、2007年死去)と話していて、
「ロック歌手が羨ましくなることがある」
と言われたことがある。
 俺が『スモーク・オン・ザ・ウォーター』を歌うのを6回聴いたことがあるけど、毎回異なった歌い方をしていたってね。
 クラシックだと音符を1つ変えるだけで死に値する罪だと言っていたよ (笑)。
 クラシックは決められた枠内で自分を高めていく音楽だ。それに対して、ロックはいかに枠を壊すかが重要な音楽なんだ。 (イワン・ギラン)


【ハイウェイ・スター】
 ディープ・パープルの6thアルバム「Machine Head」 (1972年))に収録されている曲。
 アグレッシヴなイントロと、間奏のスリリングな演奏が素晴らしい、ハードロックの名曲。
 タイトル『ハイウェイ・スター』を直訳すると"幹線道路の星“ (日本の高速道路はフリーウェイ、エクスプレスウェイと呼ぶ方が正しいよう)
 ハイテンションなサウンドにマッチするスピード狂の曲。
 クルマ、オンナ、ギターと3拍子揃った、いい意味でおバカな歌詞。

ハイウェイ・スター
https://youtu.be/CfgGXWA4c-Q

【Burn】
 ディープ・パープルの8thアルバム「Burn」 (1974年)の表題曲。
 疾走感溢れるギターリフと、「Burn!」のキメフレーズが気分を盛り上げる曲。歌詞の内容は「炎を起こして人間に復讐する魔女」を題材にした。
 語り手である主人公は、事件を目の当たりにした証人のような立場? 舞台は現代というよりは近代 (18~19世紀頃?)あたりかも。

Burn
https://youtu.be/dlalQBnrxtE

 
✳︎

【チャイルド・イン・タイム 】
 冷戦に若干触発されたこの曲は、1970年のアルバム『ディープ・パープル・イン・ロック』に初収録されており、10分を超える演奏時間である。

 この楽曲の一部が、1996年の映画『ツイスター』『奇跡の海』と『23』の中で流れた。
 この楽曲は、1999年にアカデミー賞を受賞したドキュメンタリー『9月のある日』 (1972年ミュンヘンオリンピックの人質危機に関する作品)に使われた。
 最終的な空港銃撃戦の激しい結末での素早いモンタージュ編集間に演奏されている。

(ディープ・パープルが初来日した、1972年8月の公演の模様を実況録音したライブ・アルバムから)

 ロック史上に残るライブ・アルバムの傑作として名高い。後に、多くのバンドが同じような日本でのライブ・アルバムを発売することとなるが、その先駆けとしても意義深い。 
 この時期のディープ・パープルは第2期、いわゆる「黄金期」と言われるメンバーを擁し、バンドは十分な一体感を持っていた。

リッチー・ブラックモア Ritchie Blackmore - ギター
イアン・ギラン Ian Gillan - ボーカル
ロジャー・グローヴァー Roger Glover - ベース
ジョン・ロード Jon Lord - オルガン
イアン・ペイス Ian Paice - ドラムス

チャイルド・イン・タイム (ライブインジャパン)
https://youtu.be/t5QpqrEFj0o


✳︎


【ディープ・パープル・メドレー】
 吹奏楽ポップス史上、最高の編曲と言っても過言ではない名曲。
 原曲の良さと、吹奏楽の魅力の両方を十分に表現できる、素晴らしい編曲となっている。
 ドラム及び、ベースのリズムセクション部分は、原曲に近い編曲だそうで、ロックのスピード感を表現するのにとても大事なパートとなる。


 幕張総合高校の男子のタンバリン演奏が素敵。
 楽しそう!


ディープ・パープルメドレー
https://youtu.be/Hc4DniNiOVI



https://lyriclist.mrshll129.com/deeppurple-highway-star/
https://suibaka.com/deep-purple-medley/
https://lyriclist.mrshll129.com/deeppurple-burn/
https://suibaka.com/deep-purple-medley/
https://rollingstonejapan.com/articles/detail/28770/2/1/1

65 ベルバラと男役

 ディープ・パープルを調べていたら、『スモーク・オン・ザ・ウォーター』という映画を見つけました。(予告だけ)

ウタヒメ彼女たちのスモーク・オン・ザ・ウォーター
https://youtu.be/9xbsd7n9bbk

 五十嵐貴久の人気青春小説「1995年のスモーク・オン・ザ・ウォーター」を映画化。
 悩み多きパート主婦の美恵子、美恵子の後輩でバツイチのかおり、万引きをやめられない雪見、謎めいた元ロッカー・新子の4人の中年女性がひょんなことから出会い、ロックバンドを結成して一夜限りのコンサートにのぞむことになる。
 新子以外はまともに楽器に触ったこともないなか、「ディープ・パープル」の名曲『スモーク・オン・ザ・ウォーター』の演奏を目標に練習を繰り返す4人は、ぶつかり合いながらも次第に輝きを取り戻していく。
 主人公の4人の女性に扮するのは、黒木瞳、木村多江、山崎静代(南海キャンディーズ)、真矢みき。
https://eiga.com/movie/57578/

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 宝塚時代の真矢みきさんの男役を観てびっくりです。惚れてしまいました。

 男役の中でも1番男に近い、という真矢みきさん。

maya miki 1998
https://youtu.be/CIjFWvYZqH4

 真矢みきはタカラジェンヌで初めての武道館ライブを実施した。つんくプロデュースの「Miki in BUDOKAN」は大成功をおさめた。

コメントから
 宝塚歌劇団史上、最も身のこなしとセンスの良さが傑出した男役。
 かっこよすぎる。男より男だ……
 声がもう男役とか男装の麗人とかを超えてる。
 さすが宝塚の革命児。
 目力すごい。
 これに惚れない女はいないっていうくらい完璧。
 もう、宇宙的な色気……

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真矢みき 
 初舞台当初から注目を集め、歴代花組トップスターに勝るも劣らぬ個性派スターとしての道を歩み、特に1992年から1995年にかけては2番手ながらトップである安寿ミラとほぼ同等な扱いを受け、芝居・ショーともに活躍。

 真矢みきは男役としては背も小さいほうだった。正攻法で男役を追求するよりも、個性派路線で人気を確立。
 独特のハスキーな発声法やキザな所作は絶妙に乙女心をときめかせるポイントを突いていく。
 真矢みきが起こした革命と言えば、まずメイク。青いアイシャドーに真っ赤な口紅、という宝塚メイクに新風を巻き起こす。「よりナチュラルな男性に」という趣旨か、色味の少ないメイクを発明。斬新なメイクでファンを驚愕させた。

 男役のみきさんは魅力的。繰り返し観てしまう。

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『ベルばら』は好きだった。漫画は何度も読みアニメも何度も観た。映画と宝塚は1度だけ。

ベルサイユのばら 実写映画
https://youtu.be/2Ky538KnkHE

当時話題になった『ベルサイユのばら』の映画化。男友達と観に行った。付き合ってくれた。観終わったあと、
「主人公きれいだったね」
「……百恵のがいい」
「……」
 彼は百恵ちゃんのファンクラブに入っていた。

謝肉祭 山口百恵
https://youtu.be/d4jHAd96ors

『謝肉祭』は、1980年3月にリリースされた山口百恵の29枚目のシングルである。1997年、加藤登紀子のアルバムに収録された曲『影のジプシー』の曲名に対して差別的であるとの指摘を受け曲名変更に及んだのを受け、この曲もサビのジプシーが差別用語と判断された為に、以降この曲がベストアルバム等から外されるようになり、ファイナルコンサートのDVD『伝説から神話へ -BUDOKAN…AT LAST-』が発売された際もカットされた。2005年リリースの『コンプリート百恵回帰』(全曲新アレンジで構成)、2006年リリースのライブCD-BOX『MOMOE LIVE PREMIUM』に収録されたファイナルコンサートのCDとDVD、及び2007年リリースの『山口百恵ベスト・コレクション VOL.2』でようやく解禁になり、ノーカットで収録されるようになった。(Wikipediaより)

「ジプシー」が差別用語だった? 好きな歌なのに耳にしないとは思っていた。

 現代の日本においては、差別用語扱いで、放送禁止用語とみなされています。NHKでは「ジプシー」を禁止し「ロマ」を使っている様です。

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ベルサイユのばら アニメ第1話
https://youtu.be/rAqBkQJKaVA

オスカルの声 田島令子
アンドレの声 志垣太郎
このふたりの声が好きだった。

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 高校の友人が宝塚が好きで付き合わされた。後ろの方の席で500円だったような……

 鳳蘭(おおとりらん)は、宝塚歌劇団の元星組トップスターで、ミュージカル女優。兵庫県神戸市出身。愛称ツレちゃん。身長170cm。

 友人は鳳蘭の大ファンで、ツレちゃんの話ばかりしていた。男子には目もくれなかった。

 少し前、YouTubeを観たら、宝塚のベルバラがたくさんあったけど、今検索したらありません。 
 削除された?
 こういうのはイタチごっこらしい。削除されてもまた投稿……

 天海祐希、榛名由梨のオスカル、素敵だった。鳳蘭はもっと素敵だった。
 

お気に入りの音楽 61〜65

お気に入りの音楽 61〜65

  • 随筆・エッセイ
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-07-08

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  1. 61 カウンター・テナー
  2. 62 IKZO IKUZO
  3. 63 天性の歌声
  4. 64 ディープ・パープル
  5. 65 ベルバラと男役