トマトが赤くなったら

 五月十三日、晴れ。相馬の担当です。
 今日はトマトを移植しました。わたしがこれから、責任を持って育てます。先週のような暑さは落ち着いて、体調ももう大丈夫です。
 あのときは、助けてくれて本当にありがとう。また会えて本当に嬉しいです。でも、わたしはあの頃から、いつも助けてもらってばかりで、今も自分が強くなったとは思いません。だから、今度もいつまで一緒にいられるか、わからなくて怖いのです。
 わたしの育てたトマトが赤くなったら……その日まで、少し待っていてください。強くなります。

 彼女から渡された大学ノートの一ページ目には、そう書いてあった。事の発端は、彼女の言う先週のことだ。
 雨の多かった連休を過ぎて、不意打ちの夏日。夏服にもなっていない中で、朝から放課後までそこらじゅうからうめき声が聞こえるような地獄の一日だった。その放課後、彼女が熱中症で倒れたところに、僕は偶然居合わせたのだ。
 最初、彼女は校門の花壇に花を植えていた。僕はそのとき、夕飯の支度のことなどを考えていて、足元が不注意になっていた。それで、花壇の脇に置いてあった園芸用土の袋を蹴飛ばし、横倒しにしてしまった。
「あっ、ごめんなさい」
 謝ったのはほぼ同時だった。僕はすぐに袋を起こして、こぼれた土を手ですくった。その間、彼女は耳をくすぐるような細い声で、ずっと謝っていたと思う。
「その、大丈夫です。手、汚れてしまうので。わたしが片付けますから」
「平気ですよ。僕も、土を触るのは慣れているので」
 僕のほうが悪いと思っていたので、努めて丁寧に声を掛けた。すくった土を花壇に入れて、軽快に手を打って見せる。しかし彼女は、藍色のつなぎ姿で膝をついたまま、顔を上げようとしなかった。長い前髪に隠れて表情も見えない。
「わたしが、邪魔なところに土を、置いていて……」
 その辺りで、僕は異変に気付いた。その細い声が途切れるようになり、代わりに呼吸が荒くなってきたのだ。
「あの、大丈夫ですか?」
「だ……」
 もはや、話すことも立つこともままならない様子。僕は通りがかった人に頼んで先生を呼んだ。その間にも、彼女はぐったりとその場に横たわってしまう。間もなく、中から先生が数名出てきて、彼女を担架で運んでいった。
 彼女のクラスと名前はそのときに聞いた。同い年の、相馬楓香。僕はその名前をよく知っていた。そうだったのか、と思った。
 七年前に突然引っ越して、行方も知れなかった。思ったよりもずっと近くにいることがわかって信じ難い気もしたけれど、僕がそこで見た彼女の姿は、人違いである可能性を力強く拭い去ってくれた。
 二日後、先生に彼女が登校したと聞いて、放課後に園芸部のプレハブを訪ねた。静かな場所で落ち着いて話したいと思っていたら、そうするしかなかったのだ。そこで僕を迎えてくれたのは、短い茶髪の女の先輩だった。
「ごめんください」
「おお。君、この間楓ちゃんを助けてくれた人だよね? ありがとう! まあちょっと、良かったら座ってよ。チョコも食べて。君も一年生だね?」
「はい。桂と言います」
 言われるままパイプ椅子に座って、一応名乗っておく。見た目はやや怖そうだけど、親切でてきぱきとした人だと思った。差し出された小粒のチョコレートを口に含む。プレハブの中は、扇風機が回っていて適度に涼しい。
「桂くんね。せっかく来てくれたところ悪いんだけど、楓ちゃん、まだ部活には復帰できないみたい。すごく頑張り屋で、あのときも一人であの土の袋抱えてさ……でも、ちょっと無理させちゃってたんだね。桂くんがいてくれて良かったよ。あたしらは、厳重注意もらっちゃったけど……うん」
「大事に至らなくて、良かったです」
 ともかく彼女の無事を確かめることはできたので、僕は長居せず、チョコレートをもう一粒だけ頂いて帰ろうと思った。先輩に気を遣わせてしまう。
「あの、相馬さんによろしく伝えてください。今日は失礼します」
「待って、桂くん」
 立ち上がったところで、呼び止められた。
「楓ちゃんもお礼をしたいんだって。連絡先教えてくれる?」
「はい。わかりました」
 確かにこのまま帰っては、僕が何をしに来たのかわからない。僕はちゃんと、先輩と連絡先を交換してから帰った。
 そして今日の放課後、僕は何故か先輩を介してプレハブ前に呼び出された。行ってみると、既に彼女はその場に立って待っていた。
「桂、琢実くん。やっぱり、琢実くんだよね?」
「……楓香。村の名前、憶えてる?」
「うん。忘れるわけ、ない。阿佐村」
 宣言通り、間違いなく告げられた故郷の名前。互いに相手のことを認めた瞬間だった。七年ぶりの再会に、僕は感慨深さはあったけれど、涙は出てこなかった。彼女は泣いていた。どちらかと言えば、悲しそうな泣き方だった。
「まさか、こんなところでまた会えるなんて思ってなかったよ。体はもう大丈夫?」
「うん……あのときは、ごめんね。こんなことだから、わたしはダメなのに」
 せっかくの再会だというのに、なんだかネガティブな雰囲気だ。昔を思い出しても、彼女は怖がりの恥ずかしがりではあったけれど、暗い性格ではなかったはずなのに。
「あの日は暑かったから、仕方ないよ。でも、あんまり無理はするなよ」
「無理、じゃなくしないとダメなの。今は無理でも、強くならないと……」
 そのために園芸部に入ったのだ、と。彼女は手で涙を拭いながら言った。その手には随分と力が込められていて、あの場で倒れてしまったことがとても悔しかったのだろうと思わせる。
「そこまでして、強くなりたいの?」
 彼女は何を気にしているのか。率直に聞いてみると、やや長い沈黙の後、こんな答えが返ってきた。
「だって……わたしは弱いから、村にいられなかったの」
 それを言い終えて、不意に彼女はプレハブの中へ駆け込んでしまう。中には今日、他に誰もいないようだった。彼女はすぐに戻ってきて、一冊の大学ノートを抱えていた。
「その、本当は……こうして話すこともきっと、わたしには贅沢すぎるくらいなの。だけど……琢実くんが、せめて近くにいてくれたら、もっと頑張れるから……交換日記、してください」
 そんなふうに頼まれたら、僕は断ることなど考えられなかった。一ページ目には、丁寧な字で昨日の日記が書かれている。そこに込められた思いや、覚悟みたいなものを、僕は少しでも理解してあげたいと思った。
 そういえば、彼女はトマトが苦手だったのではないか。「弱いから、あの町にいられなかった」という言葉の意味を考えながら、僕はふと思い出した。


 五月十四日、晴れのち曇り。桂です。
 あの町に、交換日記をするような友人がいなかったことを、知っていると思います。僕は交換日記どころか、普通の日記も付けたことがないので、何を書けば良いのかわかりません。つまらない内容でごめんなさい。
 それでも、また会えて嬉しかったのは僕も同じです。トマトができるのを楽しみにしています。お互い頑張りましょう。

「楓ちゃん、桂くんと交換日記してるんだって? もしかして付き合ってるの?」
 部室で返ってきた日記を眺めていると、菜々先輩が興味津々で声を掛けてきた。
「桂くんのこと、知ってるんですか」
「もちろん。楓ちゃんの恩人はあたしらの恩人だよ。先週、一回話したんだ。真面目そうな男の子だったね。さっきもそのノートを持ってきたところで会ったし」
 これはちゃんと説明しないといけないことだけど、先輩に琢実くんのことを言われて、わたしは顔が真っ赤になった。全部、わたしが招いたややこしさだ。部室の入り口に飾りの郵便受けがあって、そこで日記のやりとりをするように決めたのだった。
 本当は勢いばっかりでいきなり交換日記に巻き込んでしまって、琢実くんがどれだけ優しいといっても、日記を返してくれることは期待できなかった。こうして返ってきたノートと、琢実くんの少し癖のある字を見ていると、もう頑張るしかないなあ、と思う。
「それで、楓ちゃんは桂くんとどういう関係なの?」
「あの、それは……幼馴染です。ただの」
「幼馴染! ただのって言うけど、随分仲がよろしいんだね?」
 菜々先輩は結構ロマンチストなところがあって、「自分の育てた野菜で彼氏に手料理を作ってあげたい」という夢を持っているらしい。第一印象は少し怖かったけれど、優しくて面倒見の良い人だとわかって、わたしもすぐに話せるようになった。でも、あんまり掘り下げられるのは恥ずかしくなってしまう。
「わたしたち、出身が同じ阿佐村で……たまたま同い年で、よく一緒に遊んでいたんです。わたしが引っ越して、それ以来、会ってなかったんですけど」
「うわあ、いいなあ。それで再会して、交換日記してるの? かわいいな、もう!」
 興奮して、菜々先輩はわたしを撫でまわす。こんなふうに愛されるのは、全然悪くはない。冷たくされるよりはずっといい。
 その日は勉強会の日だった。この園芸部では、作物を育てることに加えて、その性質や利用について学ぶことも活動内容に含まれている。月に一、二回くらい、不定期に部員が持ち回りでテーマを決めて発表をすることになっている。今回は三年生の菜々先輩が担当で、テーマは園芸作物の分類のことだった。
 畑やプレハブの部室を持っていて、野菜について学ぶこともできて楽しい部活なのに、今年はわたし一人しか入部しなかったそうだ。二年生や三年生も三人ずつしかいない。本当は、琢実くんが入部してくれることを、心のどこかで期待している。それは今度こそあり得ない。仮に同じ部活だったとして、毎日のように顔を合わせるのはやっぱり……。
「というわけでだ。楓ちゃん、どうした?」
「あっ、いえ。大丈夫です。すみません」
 そんな妄想に入り込んでしまったわたしは、菜々先輩に軽々と引き戻された。じゃあいいや、と発表に戻った菜々先輩は、それでも時折、わたしにちらっと目配せをしてくる。
「ところで、楓ちゃんって阿佐村出身なんだってね? 周りでミカンとか作ってたでしょ。もしかして、実家とかそうじゃない?」
「いいえ、その……小さかったので、あんまり憶えていないです」
 この狙いすましたかのような質問に、わたしは本当のことを言えなくて、答えをごまかした。琢実くんの家がまさにミカン農家なのに、わからないはずがない。
「そっか。まあこんな感じで、木になるものは果樹。それ以外で食用のものは野菜。観賞用の花は花卉って感じの分類がされるのね。うちでは、野菜を作っていると」
 気が付くと、菜々先輩の発表も終わりが近づいていた。途中をあまり聞いていないことがわかって、とても申し訳なくなる。こんなことではダメだ。部活のときは、やっぱり琢実くんのことを考えるのはやめよう。
 そして発表が終わった後で、案の定わたしは菜々先輩にどんな素敵なことを考えていたのかと、みっちり問い詰められてしまった。


 五月十五日、曇り。担当は相馬です。
 日記を書いてくれて、本当に嬉しくて、何度も読み返してしまっています。それで今日の部活はちょっと上の空で、先輩に注意されてしまいました。反省です。
 園芸部の三年生に、中村菜々先輩という人がいます。琢実くんのことを恩人だと言っていました(一回話したそうですね。茶髪のお姉さんです)。琢実くんのことにも興味津々のようです。もし話す機会があっても、わたしのことは、あまり話さないでいてくれると助かります。
 勢いで、部室のポストでやり取りするように言ってしまいましたが、ちょっと考えています。直接渡すのは、恥ずかしいので……下駄箱と、どっちがいいと思いますか?

 楓香のシャイなところはあまり変わっていないようだ。昔は人見知りというか怖がりで、遊ぶときは僕の目の届く範囲から離れなかったし、怖そうな男の先生とか、ちょっと乱暴な上級生とかには近づかなかった。その点では、少しは改善したのか?
 バスの車窓から、山肌の夕影を眺める。これが村へ帰るための終バスだ。部活に入っていたら間に合う時間ではない。家事の手伝いもあるし、僕には部活に入るという選択肢は考えられなかった。
 実は昨日、件の中村先輩から勧誘のメールが届いたのだ。
『桂くん、園芸部に入ってみない? 部活、何も入ってないんだよね?』
 そんな感じのごく軽い文面だったので、僕はやんわりと断った。
『すみません。家が山の中で、あまり遅い時間までいると帰れなくなってしまうのです。園芸に興味はありますが、ご期待に沿えず申し訳ございません』
 我ながら、ひどく不器用な文面だと思いながら。この後、先輩からはより砕けた調子で(というか、『OK』の絵文字一つで)返信が来た。僕に興味があるということだけれど、正直恥ずかしいので、できれば楓香にも先輩にはあまり僕のことを話してほしくはないと思った。似た者同士だ。
 ともかく、僕は部活に入ることが難しい。でも、せっかくの高校生活をただこの登下校と、勉強のみに終始してしまうことは本意ではない。そこで僕は今日、ホームセンターへ寄り道をして、トマトの苗を買ってきた。小さな黄色い花をつけていて、なるべく茎の太そうなものを三株選んだ。すぐにでも植えられる。
 母さんが管理している家庭菜園を間借りして、自分でもトマトを作ってみることにした。
 ちなみにその名目は、自由研究ということにしている。元々そんな趣味のなかった僕の申し出に母さんは訝しんだけれど、この機会に新たな趣味を探したいとか適当な理由で押し切った。その割に、最後には期待の目を向けて、前作がササゲだという「良い土地」を分けてくれたのは何だったのか。これはできたトマトの半分くらいを、地代として上納しなければならないかもしれない。
 それにしても、高々三株のトマトにできることは限られている。植えたら後は、様子を見ながら待っている時間が大半だ。交換日記のネタになるかと期待したけれど、冷静に考えると書くべきことは少なかった。
 都会の高校生は、四六時中メールで他愛もない会話に興じるらしい。「箸が転がっても面白い」とはよく言ったものだ。日々の全てが刺激に溢れていて、それを周囲と共有せずにいられない……そんなメンタリティを、少なくとも僕は備えていない。楓香はどうだろうか。都会での暮らしで、僕の想像も及ばないような変化をしているかもしれない。
『ずっと春が続けばいいのに。草原いっぱいのお花を眺めながら、暑さにも寒さにも困ることなく暮らしたい』
 別れ際の春の日、楓香はそんなことを言っていた。病気があるわけではなかったけれど、真夏にはよくのぼせていたし、真冬にはよく風邪を引いていた。だから僕は、そう言った気持ちがわからなくもない。
 でも、夏も冬も来ないと困る。暑くても虫が鬱陶しくても、めちゃくちゃな台風に襲われても、夏が来なければ作物も育たない。冬だって、花が咲く前の準備期間になる。
 それを言ったら、楓香はすぐに謝って、涙ながらに続けた。
 やっぱり、わたしはここでは暮らしていけないんだ、と。
 間もなく、楓香はいなくなった。ちゃんとした別れの挨拶もなかったと思う。


 五月十六日、晴れ。桂です。
 あの頃のことを、少しずつ思い出しています。楓香がいなくなってから小学校を卒業するまで、僕の学年はずっと一人でした。最初はすごく寂しかったのに、いつしか平気になっていました。行方も知らない友達を懐かしむより、目の前のことのほうが大切だったのです。今から申し訳なく思っても、やっぱりそのときはそうだったのです。
 僕も家でトマトを育ててみることにしました。初めてで少し不安もありますが、無事に育ってくれることを願っています。
 やり取りについて、僕はポストでいいと思います。靴箱は、もっと多くの人の目についてしまうので。

 日曜日に雨が降って、今日は少し気温が上がった。少しずつ夏が近づいてくる。普段は起きるのが大変な月曜日の朝だけど、桂くんの日記が早く読みたくて、すんなり起きられてしまった。学校に来たら真っ先に部室に向かって、ポストを開く。
 ……まだ、なかった。
 それを見つけに来れたのは、結局のところ放課後だった。
『夏が来なかったら、野菜も果物も育たなくてみんな困っちゃうよ。この花だって、冬の間に準備をして咲いてるんだ』
 あのとき琢実くんが言ってくれたことをずっと憶えている。わたしは春という季節にとどまることばかり考えていた。夏の暑さや冬の寒さがなければ、この春はありえない。そんなこともわからなかった。あの頃よりは、わたしは強くなっている。……そうだといいけれど。
 畑を見に行くと、わたしのトマトは少し丈が伸びて、花が増えていた。ちゃんと根を張ることができたらしい。まだ膝にも届かないけれど、これから光を浴びて、自分の力でぐんぐんと伸びていくのだろう。しゃがんでみて、変わったことがないか確かめる。
「おや、相馬さん。早いね」
「あっ、お疲れ様、です」
 そこに来たのは、二年生の佃浩太先輩だった。二年生の担当しているホウレンソウは収穫の真っ盛りだ。今日も鮮やかな葉を拡げてそのときを待っている。佃先輩は軍手をはめた両手で、大きな株から順に抜き取り始めた。
「早く育つとは聞いてたけれど、予想以上だったね。次もあるから助かるよ」
「次は、何を植えるんですか?」
「葉ネギにしようと思う。これで夏までは退屈しない」
 園芸部では、育てる野菜のスケジュールも自分たちで決めている。最初は先輩が選んでくれるけれど、わたしも次からは色々勉強して、自分で作物を決めなければいけない。佃先輩はそういう情報を集めて、考えるのが好きな人だ。
「相馬さんのトマトにとっても、ネギを植えると良いと思う。虫が付きにくくなるそうだ」
「それは、助かります」
 作物同士の不思議なコンビネーション。何も知らないわたしには、まだまだ勉強することがたくさんある。それでも何より、園芸は楽しいし面白い。作物が育っていく様子は毎日でも観察しに来たくなる。
 佃先輩が収穫を終えたところで、取れたてのホウレンソウを見せてもらった。両腕で抱えるくらいの量がある。
「相馬さんは、料理する人?」
「いいえ。自分では、ほとんど」
「このホウレンソウ、間違っても生で食べないようにね。不味いし、毒性もある。世の中にはサラダ用の品種もあるらしいけど」
「はい。覚えておきます」
 そんな話をしながら、わたしたちは部室へ引き上げた。
「佃先輩は、そのホウレンソウをどうやって食べる予定ですか?」
「そうだね……しばらくは、弁当のおかずのゴマ和えになるかな」
「ゴマ和え、美味しいですよね」
 選び方、育て方、食べ方。それぞれ自分で工夫して、上手くいったなら、とても楽しいことだと思った。強くなることも大切だけど、せっかく園芸部に入ったのだから、もっと楽しんで、たくさんの野菜を育ててみたい。
 ホウレンソウのおすそ分けをもらったので、自分で味噌汁を作ってみた。トマトは、どうやって食べようか……なんて、まだ植えたばかりなのに、気の早い自分がちょっとおかしかった。


 五月十九日、晴れ。担当は相馬です。
 今日は先輩が作ったホウレンソウをもらったので、自分で味噌汁を作ってみました。甘みがあって美味しかったです。
 それで気になって、気の早い話ですが、トマトの味や食べ方について調べてみました。品種改良が進められて、今のトマトは大きさも色も形も多様化しているとのこと。それでも日本では、多くのトマトが生食向けに作られていて、料理向けの品種開発はあまり進んでいないようです。わたしが作っているのも生食向けです。ラベルに『酸味のきつくない、食べやすいトマト』と書いてあります。
 それでも、作った環境によって味は変わります。どんな味になるのか今から楽しみです。お互いのトマトができたら、交換しましょうね。

 自分が書いた日は朝に。楓香が書いた日は放課後に。そうして毎日プレハブに通うのも慣れてきた。園芸部の他の人たちにも顔を覚えられてきているような気がする。
 でも、日記を書くのはまだ少し慣れない。交換日記だからなおさらだ。今日の楓香の日記は、味噌汁とトマトの話。トマトと味噌汁のことでも、調べてみようか……。


 五月二十日、晴れのち曇り。桂です。
 苗のラベルを見ると、僕のは中玉で、甘いトマトができるようです。交換するのは楽しみですね。
 味噌汁と言えば、トマトも味噌汁に入れる地域があると聞いたことがあります。どんな味になるのか想像もできません。でも、生食用のトマトを使うなら、気をつけないと水っぽくなってしまいそうです。
 だんだん暑くなってきました。トマトも、あまり暑いのは苦手なようですね。

 暑いのが苦手。心配なことが書いてあったので、佃先輩に詳しく話を聞いてみた。そうしたら、「適切な生育環境を知るには、原産地がヒントになる」と教えてくれた。図鑑で調べてみると、トマトの原産地は南アメリカ大陸の、アンデス山脈の高原だと書いてある。正直、あまり想像がつかなかった。でも、温度とか日照とかで気を付けることがたくさん書いてあるのを見ると、日本とは全然違う環境で育っていたのかもしれないと思う。
 全く違う環境のところに連れてこられたら、繊細にもなってしまうかもしれない。だけど、トマトはもっと図太い野菜だと思っていたから、複雑な気持ちがする。


 五月二十一日、曇り時々雨。相馬です。
 トマトは高温多湿、特に夜の暑さが苦手なようです。植物は呼吸や蒸散で体温を調節しているので、暑くて湿度も高いと、熱中症みたいになってしまうのかなと思います。夜は光合成でエネルギーを補給することもできないので、もっと弱ってしまいます。
 日照不足もダメみたいです。なんだか思ったよりデリケートで、憎らしくなってしまいます。でも、南アメリカの遠いところから来た作物だから、仕方がないのかもしれません。少しだけ、わたしの境遇に似ているような気がします。複雑な気持ちです。

 多分、楓香はもう、トマトを食べられるのだと思う。でもそれは、トマトを好きになったのとは違うらしい。好き嫌いはそう簡単じゃない。
 楓香が今、頑張ってトマトを育てているのは「強くなるため」だという。それとトマトは、どう関係があるのか。無事に収穫出来たら、聞いてみようと思った。


 五月二十二日、雨。桂です。
 自分で野菜を育てていると、いつも以上に天気が気になりますね。明日も天気が悪いそうで、心配です。
 トマトは三百年以上も前に伝来して、それから日本の環境に合わせて品種改良がされても、原産地で育っていた頃の特徴が残っているのですね。なんだか不思議です。考えてみると今の日本では世界のあちこちから伝来した作物が栽培されているわけで、とても不思議です。

 野菜の個性。元々いた場所。村で少ない人数の小学校に通っていたわたしは、急にこの町の小学校に放り込まれた。最初はすごく怖くて、毎日のように眩暈を起こしていたような気がする。
 でも、少し気の休まる瞬間もあった。それは、わたしと同じようにトマトが食べられない子がいるのを知ったとき。他の野菜も、みんなが何でも平気に食べられるわけじゃない。
 お父さんもお母さんも、わたしが野菜を食べ残すと、まるでそれだけで生きられなくなるかのように怒った。それが怖くて、もっと野菜が喉を通らなくなっていた。でも、同じように野菜が苦手だけど元気な人がいることを知ってから、気が楽になった。少しずつ、わたしも野菜を食べられるようになった。
 部室に誰もいないので少しだけ日記を覗いていたら、菜々先輩が入ってきた。
「楓ちゃん、お疲れ様。それ、桂くんとの交換日記だね?」
 わたしは慌てて日記をカバンにしまう。中を覗かれたら恥ずかしくて死んでしまう。
「あっ、はい……」
「大丈夫だって、そんなに慌てなくても覗きやしないから」
 菜々先輩は笑った。覗かれないとわかっていても、やっぱりこれからは帰ってから読もうと思う。
「そういえば、まだ正式な話じゃないけど、来月楓ちゃんも研究発表やってみようか?」
「来月、ですか」
 いきなりだけど、いつかは絶対に来る話だと思っていた。そういうことからは逃げちゃいけない。
「試験明けくらいにね。まあ遅らせてもいいけど」
「やります。テーマ、考えます」
「おっ、よく言った。内容は自由だから、興味のあること何でも調べてみて」
「はい」
「あとは、試験勉強も忘れずに。赤点取ると、部活に出れなくなっちゃうぞ」
「は、はい!」
 急に重しが増えた。でも、こういうときこそ一つずつ。強くなると決めたのだから。


 五月二十三日、雨のち曇り。相馬です。
 雨が続いて、トマトは少し元気がないように見えました。明日からはまた晴れなので、元気を取り戻してほしいです。この調子だと、梅雨の季節が心配です。
 来月、園芸部の研究発表で、わたしの順番が回ってきます。興味のあるテーマがたくさんあって、一つに決められません。せっかくなら、先輩たちも知らないようなテーマで発表ができたらと思います。
 来月と言えば、そろそろ中間試験ですね。高校は勉強についていくのも大変です。もし赤点になってしまったら、部活にも出られなくなると聞きます。なんとしても落とせません!

 僕はと言えば、家で勉強する時間も多すぎるくらいだし、それでいて成績上位を目指しているというわけでもないから、試験のことはあまり気にしていなかった。楓香が頑張っているのを見ると自分でも何かしたいような気にはなるけれど、そういうものは見つかっていない。
 うちの畑は水はけが良いから、晴れた週末には適度に乾いた。最初の花のあったところには、まだビー玉よりも小さいけれど、青い実ができ始めている。茎も日に日に伸びていくから、支柱を立ててやった。
 晴れてくると、虫も出てくる。もちろん殺虫剤を使うわけにはいかない。母さんに聞くと、薄めた竹酢液を霧吹きに入れて渡された。
「全体的に撒いておいて。他の病気とかにも効くし、一遍にやらないと意味ないから」
 こんなふうに仕事を任されるのも悪い気はしない。そもそもが間借りだし、勉強にもなる。楓香の園芸部もこんな感じなのだろうかと、想像したりもする。


 五月二十六日、晴れ。桂です。
 苗を買ったときに付いていた花のところに、小さな実ができ始めていました。支柱も立てて、いよいよこれからという感じがします。
 その一方で、虫も増えてきました。僕の家ではアブラムシの対策に、薄めた竹酢液を使っています。病原菌にも効くようなので、便利だと思います。
 試験に研究発表もあって、盛りだくさんですね。体調を崩さないように気をつけてください。

 ところがそんなことを書いた翌日の朝、園芸部のプレハブに日記を置きに行ったら、中村先輩が仁王立ちで待ち構えていた。
「おはよう、桂くん!」
「おはようございます。朝の見回りですか?」
「まあ、そうなんだけど。その日記、ちょっと待って!」
 日記をポストに入れようとしたところで止められる。
「楓ちゃんから伝言。昨日から熱が出ちゃってるから、今日は休むって。日記は桂くんが預かっておきなよ」
「わかりました。わざわざありがとうございます」
 楓香が風邪をひくことはよくあったから、あまり驚かなかった。僕は日記をバッグに戻す。すると、中村先輩が詰め寄ってきた。ちょっと呆れたような表情で、僕をじろじろと見てくる。
「あのさあ……もしかして楓ちゃんとの連絡手段ってその日記だけなの?」
 言われてみればそうだ。僕は先輩にメールアドレスを伝えただけで、まだ楓香から直接メールを受け取ってはいない。急にこういうことがあると、お互いの状況が何もわからなくなる。
「そうですね、先輩を巻き込んでしまって……」
「ひゅー!」
 とりあえず謝ろうとしたけれど、先に先輩のほうが興奮して声を上げた。
「もう、かわいいったらありゃしないな。あたしは喜んで間に入らせてもらうから、頑張りなよ!」
 僕らの関係を楽しんでいるらしい。先輩の厚意があってこのポストを使わせてもらっている面もあるので、特に気にしないことにした。楓香は多分、恥ずかしがっていると思うけれど。
 日記はどうするか迷ったけれど、とりあえず僕が毎日何か書いておくことにした。楓香が復帰したときに僕がサボっていたら、悲しむだろうから。


 五月二十七日、晴れ。桂です。
 熱が出て休んでいると、中村先輩から聞きました。お大事に……とここで書いても熱が下がるまで届かないわけですが、とりあえず気持ちだけは書き留めておきます。
 昔はお見舞いにミカンを持って行ったりしましたね。今は在庫がないので、また旬が来たらおすそ分けします。


 五月二十八日、曇り。続けて桂です。
 僕のトマトは、今日も異常ありません。そろそろ大きくなってわき芽が増えてきたので、整枝をしないといけないようです。切り口がすぐに乾くよう、晴れた日の午前中にするのが良いらしいので、週末がチャンスです。
 交換日記を一人で続けるのは、なんだかさみしいですね。中村先輩は喜んで間に入っていると言っていましたが、直接連絡が取れないのも、こういうときには不便かもしれません。もし良かったら、連絡先を交換しませんか?

 月曜日に熱が出て、二日間も寝込んでしまった。試験も近いし、研究発表の資料も集めないといけないし、何より、交換日記を途切れさせたくなかったのに。
 放課後、ポストにそれが入っているのを見つけたときには、本当に安心した。わたしがいなかった日の分も、琢実くんはちゃんと書いてくれていた。
「楓ちゃん、お帰り!」
「もう大丈夫?」
「元気そうで良かった!」
 日記をしまって部室に入ると、菜々先輩に始まり、先輩たちが次々に声を掛けてくれた。こういう扱いは嫌いじゃない。中学校まででもたびたびあった。でも、これからずっとみんなに守られて生きていけるわけでもない。やっぱり、強くならなきゃいけないと思う。
 トマトは無事だった。月曜日に具合が悪くて立てられなかった支柱も、誰かがしっかり立てておいてくれていた。ありがたい。でも、ちゃんとできなかった自分はみじめだった。
 畑ではやることがほとんどなくて、また部室に戻った。さっき部室にいた先輩たちはみんな外に出ていたけれど、代わりに二年生の浅川梅子先輩がいた。何やら本を読んでいる。部室で二人きりになるのは初めてだった。
「お疲れ様です」
 話し掛けると、梅子先輩はゆっくりと顔を上げて、ずれた眼鏡を直した。
「相馬さん。もう元気なの」
 耳にすっとなじむ、安心するような優しい声。
「はい。良くなりました」
 わたしが答えると、微笑んでくれる。独特のペースがある人だ。ハーブが好きなようで、今はプランターのペパーミントと、畑のスイートバジルを育てている。
「それは何の本ですか?」
「ハーブティー」
 ページを開いて見せてくれた。透明なガラスのポットで、藍色のお茶を淹れている写真だ。見ているだけで、
心が落ち着くような気がする。
「何のお茶ですか?」
「バタフライピー。沖縄で飲める」
「先輩は、飲んだことありますか」
「ない。飲んでみたい」
 梅子先輩は最初の自己紹介のときに、「ハーブは心の余裕を支えてくれるから好き」と言っていた。先輩自身も、一緒にいると緊張や不安が和らぐような気がする。今だって、さっきまで落ち込んでいたのが楽になった。
「もう少し、見せてもらえますか」
「いいよ」
 先輩の隣に移動して、一緒に本を眺める。色とりどりのハーブティーは、ファンタジーの世界の飲み物みたいだった。
「これは、レモンを絞るとピンクに変わる」
「マロ―ブルー……ですか」
「研究発表で、見せてあげる」
「楽しみです」
 予定では、わたしの次が梅子先輩の発表だ。一瞬、順番を代わってもらおうかと思ったけれど、やっぱりダメ。それよりも、前に進むことを考えないといけない。
「あの、わたしの研究発表、『子供の苦手な野菜の美味しい食べ方』にしようと思うんです。梅子先輩は、何か嫌いな野菜とか、ありましたか?」
「キュウリ。美味しい食べ方がわからなかった」
「そうなんですね」
 わたしは、キュウリは比較的早く食べられるようになった。サラダで食べるとたまに苦いことがあるけれど、漬物のキュウリはむしろ好きだ。
「あと、ダイコン。おでんに入ってるのとか、今も苦手」
 ダイコンはわたしもあまり好きではない。でも、やっぱり漬物は好きだったりする。中でも、いぶりがっこにチーズを乗せたものが一番好き。友達には、「意外だ」と言われる。
「教えてくれて、ありがとうございます」
 やっぱり、テーマは漬物にしようか……なんて、心が傾いた。


 五月二十九日、晴れ。相馬です。
 日記を続けていてくれて、本当にありがとう。先輩たちにも、心配を掛けたり、支柱を立ててもらったりして、感謝ばかりです。でも、わたしは弱くて、何も返せるものがない……。
 なんて、弱気になってはいられません。また頑張っていきたいと思います。
 ところで、研究発表のテーマで悩んでいます。『子供の苦手な野菜の美味しい食べ方』と、『日本各地の漬物』だったら、どちらに興味がありますか?
 あと、連絡先のことは……今は、ごめんなさい。

 楓香の漬物好きときたら大したものだ。子供の頃、楓香の家ではぬか漬けを作っていて、遊びに行くとおやつに漬物が出てきた記憶がある。一度や二度のことじゃない。それでも味は良くて、楓香が好きになるのも理解できた。
 もう一つのテーマは、楓香にとってタイムリーなテーマなのだと思う。こっちにいた頃はそれこそ、漬物以外の野菜は全然食べられなかったのだ。今、嫌いだったトマトと向き合っているところから、そういうテーマを思いついたのかもしれない。
 多分、研究発表は何度もあるだろうから、いずれどちらも扱うことになる。そうしたら、今このときに興味のある方を勧めるのが筋だと思った。


 五月三十日、曇り。桂です。
 昔、遊びに行ったときにぬか漬けを食べさせてくれましたね。おいしかったのを覚えています。トマトの漬物なんかもあるのでしょうか?
 研究発表については、子供の苦手な野菜のほうが新しいテーマなのかなと思います。そういうとき、僕なら漬物は逃げないので、どうしてもテーマが思いつかないときのために取っておきます。
 六月に入りますね。梅雨は大変そうですが、それを越えたら収穫です。頑張りましょうね。

 六月は、いきなりじっとりとした雨から始まった。トマトにも傘を差してあげたくなる。
 でも、作業のできない日は勉強に集中できる日でもある。部室はちょっと蒸し暑いけれど、先輩たちが勉強を教えてくれる。その途中で、晴耕雨読という言葉を佃先輩から教えてもらった。自然に合わせて、畑仕事をしたり、勉強をしたりする。そういう暮らしにちょっと憧れた。
 それにしてもわたしの学力では、勉強が雨の日だけだったら大変なことになってしまう。試験はもう来週だから、水曜日からは部活も休みになるし、嫌でも勉強に集中することになる。
 それでも、琢実くんが気にしているトマトの漬物のことくらいは調べて……なんてことをやると、どんどん脱線してしまう。だから、試験が終わってからにしよう。


 六月二日、雨。相馬です。
 今日は部室でも試験に向けて勉強会をしました。晴耕雨読です。今日、先輩に教えてもらった言葉ですが、園芸部にぴったりですぐに覚えました。
 試験前なので、野菜のことでいろいろ調べたいことはありますが、お預けです。水曜日からは部活も休みになるそうです。
 でも、この日記は励みになるので、少しでも毎日書いてくれたら嬉しいです。

 今日も、雨が降ったり止んだりしていた。梅雨入りもしたらしい。
 雨が続くと植物は弱る。それだけでなく、病気を起こす細菌やカビなんかは増えやすくなる。だから、こまめに見回らないといけない。予防になることはほとんどできないので、とにかく早く見つけて被害を広げないようにするしかない。最悪の場合でも、せめて一株は守りたいと思う。


 六月三日、曇り時々雨。桂です。
 晴耕雨読。僕にとっては、なかなか難しい言葉です。確かに雨の日にできる作業はほとんどありませんが、作物が気になってつい、勉強への集中が途切れてしまったりします。
 切り替えは大事だとわかっていても、なかなか上手く行きません。

 今日は久しぶりに晴れて、朝から気分が良かった。部活は休みだけれど、放課後はちゃんとトマトの様子を見てから帰ることにした。
 みんな無事だ。丈もまた少し伸びたような気がする。
 トマトを眺めていると、先輩たちも次々と来た。考えることは同じだ。
「お疲れ様。今日は気持ちのいい五月晴れだったね」
 佃先輩が、そんなふうに挨拶してくれた。気になる単語がある。
「五月晴れって、五月の晴れですか?」
「五月と言っても、旧暦の五月だね。元々はこういう、梅雨の合間の晴れを指す言葉だったんだよ」
「そうなんですね」
 後でちょっと調べてみたけれど、今の辞書にはだいたい、今の暦で五月の晴れだと書いてある。確かに五月も晴れと雨を交互に繰り返すけれど、同じ「五月晴れ」なら、梅雨の合間の晴れのほうがありがたくて、特別な感じがすると思った。


 六月四日、晴れ。相馬です。
 今日から園芸部は休みですが、放課後に気になって畑を見に行ったら、やっぱり先輩たちも野菜の様子を見に来ました。野菜に休みはありません。
 そこである先輩に、今日のような梅雨の合間の晴れを昔は「五月晴れ」と言ったのだと教えてもらいました。今は、普通の五月の晴れです。なんだか、特別な感じがなくなってしまったような気がします。
 試験が近づいてきて、だんだん緊張してきました。とりあえず、もう体調をくずさないようにしたいです。

 夜中のうちに、また雨が降り出していた。
 例年、「この季節は雨が多いな」くらいにしか思っていなかったけれど、今年はそれを意識的に感じている。トマトを育てることで、少しは生活に刺激が増えたということだろうか。
 本当の農家は、「この月には平均何日雨が降る」という指標を見て、作業の計画を立てるらしい。天気は作物の生育だけでなく、作業にも影響を与える。そのことも、体感できていると思う。


 六月五日、雨。桂です。
 また雨ですね。近所の川がかなり増水しています。毎年のことではあるけれど、意識して見ていなかったことが、今年はよく目に付くような気がしています。これも、トマトを育てているからだと思います。
 来週はずっと試験ですが、学校が早く終わるのは少し得した気分になりますね。

 休んでいたときに、一番遅れを取ってしまったのは数学だった。教科書の一節丸ごと抜けてしまっていて、友達や先輩に教えてもらってきたけれど、まだ少し自信がない。
 あとは、英語も厳しそうだ。元々苦手なのに、わからないところが増えて追いつけない。
 どうにかなりそうなのは生物と、倫理と、家庭科くらい。国語は何とも言えない。
 週末は何から勉強しようか、考えているうちに夜になってしまった。でも、焦って寝不足になるのが一番ダメなこともわかっている。落ち着いて、とりあえず琢実くんに返す日記を書いて、明日から本気出す……なんて。


 六月六日、雨のち曇り。相馬です。
 試験勉強をしないといけないのはわかっているのですが、今から焦っても仕方がないので、心を落ち着けるために日記を書きます。
 田んぼの近くを通ると、カエルの鳴き声が聞こえるようになりました。お米も茎が増えてきて、順調に育っているみたいです。どんな作物も、動物も、生きているんだなあ、と思います。
 ……これ以上書くと遅くなってしまうので、勉強に戻ります。

 週が明けて、試験は雨の中で始まった。こんな日にもちゃんと、楓香は日記をプレハブのポストまで置きに来ている。でも、不思議と本人とはすれ違わない。廊下や帰りの玄関でも見かけない。僕自身、あんまり教室から出ない生活を送っているからかもしれないけれど。
 それか、避けられている……とか?
 まあ、あまり気にしたことではないか。今週は、勉強に集中しよう。


 六月九日、雨。桂です。
 試験が始まりましたね。僕は、今日のところはまずまずです。明日の英語のために単語を一夜漬けしようと思います。
 そう言えば、「土砂降り」を英語で言うと、"cats and dogs"だそうです。大雨で犬も猫も一斉に騒ぎ回るような、ドタバタなイメージでしょうか。

 ああ、油断してしまった……。
 二時間目に英語の試験が終わって、自分にしてはまあまあ解答欄を埋められたので気が緩んだ。次の古文では単語の意味が全然出てこなかったし、現代語訳も記述問題も合せて三つくらいしか埋められなかった。
 これはもう、終わりかもしれない。
 でも、諦めたらもっとひどいことになる。明日は数学。やるしかない。


 六月十日、晴れ。相馬です。
 明日は数学なので、一言だけ。
 土砂降りの中で犬や猫がドタバタしているのは、ちょっと楽しそうだけどやっぱりかわいそうかな、と思います。

 さて、今日は数学や現国も終わって、明日の倫理と家庭科を残すのみとなった。金曜日は採点のために休みになるらしい。夕方から雨の予報だったので、早めに帰ってトマトの様子を見ておくことにした。
 ここ最近雨がちだったので、少し葉に元気がなさそうだ。それでも、実はかなり膨らんでいて、早くからついていたものは、親指と人差し指で作った輪に収まらないくらいにはなっている。そして、触ってみるとしっかり中身が詰まっている。母さんの家庭菜園の本には多湿になると果実の品質が落ちやすいということが書いてあったけれど、今のところは心配なさそうだ。
 収穫が近いとなると、少し先のことも考えないといけなくなる。楓香とはできたトマトを交換して、それからどうするのか?
 ふと、日記の最初のページを開く。楓香の文字で書かれた、「強くなります」の言葉。トマトが無事に作れたら、強くなったことになるのだろうか?
 弱いからこの村にいられなかった。話すことも、贅沢すぎるくらい。
 楓香は何か重いものを抱えて、必死に頑張っている。それに僕が報いることができるなら、何ができるだろう?
 思い立って、僕は台所に向かった。
「母さん。相馬さんのところの、楓香って憶えてる?」
「楓香ちゃん? そりゃもちろん。あんたこそ、忘れたもんだと思ってたけど」
 それはそうだ。僕は楓香について少ししか憶えていないし、そもそも大事なことは何も知らないのだと思う。だから、母さんに頼るしかない。
「実は、高校が一緒でさ。この間会ったんだ。でも、それ以来会ってくれなくて……僕と話すことが、贅沢だって言うんだ。どうしてだろう」
「……」
 すると母さんは、珍しく神妙な顔つきをして、ニンジンを切っていた手を止めてしまった。
「楓香ちゃん、体が弱かったでしょ」
「うん」
「最初はそれで、この村に来て自然の中で体力をつけるって思ってたみたいなの。だけど良くはならないし、ここだと病院も遠い。だから結局、市街に戻ったのよ」
「そうだったんだ……」
 知らなかった。想像の片隅にはあったけれど、実際それが本当だとわかるのは全然違う。
「これも、楓香ちゃんのお母さんからあんたには言わないでって言われてたんだけどね。今ならもういいでしょ」
 それは、幼い僕らを守るための、せめてもの心遣いだったのか。あの頃の僕がそれを知ったら、事の深刻さを理解できないで、もっと心無い反応をしたかもしれないと思う。
『ずっと春が続けばいいのに。草原いっぱいのお花を眺めながら、暑さにも寒さにも困ることなく暮らしたい』
 あの言葉を否定してしまったことよりも、もっと……。


 六月十一日、晴れのち雨。桂です。
 試験も終わりが見えてきましたね。僕のトマトはもうすぐ、お店で見るようなサイズになる頃だと思います。今月末くらいには収穫できそうです。
 これは僕の勝手な思い付きなのですが、お互いのトマトができたら、村に遊びに来ませんか? 送り迎えは母さんが車を出してくれます。あの頃とは違う目線で、一緒に遊んだ場所を見てみたいのです。どうでしょう?

 ようやく試験が終わって、雨が降っていたけれどまっすぐ畑へ向かった。この数日間は短い時間しか来ることができなかったから、じっくり様子を見ていこうと思う。
 わたしのトマトも、ピンポン球よりは大きくなっていると思う。琢実くんのほうが少し早いのかもしれない。
 そんなとき、一つの株の茎に何やら茶色っぽいこぶのようなものができているのを見つけた。わき芽を取ったところだから、かさぶたのように見える。それにしても不自然なので、わたしは一度プレハブに戻って調べてみることにした。
 プレハブに戻ると、菜々先輩が来ていた。
「おっ、楓ちゃん早いね。テストはどうだった?」
「どうにかこうにか、です。それよりも、気になることがあって……」
 そこにちょうど佃先輩も来たので、二人に見てもらった。
「これは……虫じゃなさそうだから、カビじゃあないかな」
「そうですね。念のため、ほかの株も見たほうがいいです」
 背筋が凍り付く。カビ。そんなものがあったら、トマトは……。
「とりあえず、出てるのはこの株だけか。でも三か所。削ったらどうにかなるかな?」
「プレハブに本があるはずなので、ちゃんと調べましょう」
「うん、そだね。楓ちゃん、行くよ」
「は、はい」
 わたしはもう、見ているしかできなかった。
 プレハブに戻って佃先輩が持ち出した本に、それは大きく取り上げられていた。
「灰色かび病、これですね」
 葉や茎、果実に発生し、褐色の病斑を生ずる。果実の初期病徴は灰色のリング状の病斑から始まり、これを「ゴーストリング」と呼ぶ……。
 いろいろ難しいことが書いてあったけれど、佃先輩がかみ砕いて説明してくれた。原因はここ最近続いた雨による過湿。今回は、茎のちょっとした傷に感染したらしい。果実に感染するときは枯れた花びらでカビが増えることが多いので、それを取り除いておくと良いのだとか。
 もちろん、カビに侵されたトマトは食べられないし、このままでは伝染もする。
「どうすれば、良いでしょうか」
 泣きそうだったのをこらえて、それでも声は震えた。
「早く見つけられたから、まずはカビの生えた部分を削ぎ落として様子を見よう」
「楓ちゃん、諦めないで! むしろファインプレーだよ!」
「先輩、お湯を沸かしてください。僕は道具を用意してきます」
「了解」
 二人はまだ、諦めていないのか。わたしは開かれた本のページを眺めているだけだった。その間にもほかの先輩たちが来て、事情を知るなり励ましてくれる。それでも、誰も深刻そうな表情をしていなかった。わたしに気を遣っていたのではなく、本当にそう思っていなかったのだと思う。
 菜々先輩に励まされながら、もう一度畑に出る。今度は、ゴミ袋とゴム手袋とハサミ、そして菜々先輩が電気ポットで沸かしたお湯を持っていく。
「これで、カビが出ているところを削る。胞子が飛ぶから、静かにね。そして、一か所ごとにゴム手袋ごと捨てて、ハサミは熱湯で消毒する。ポットは先輩、お願いします」
 菜々先輩は、ポットと傘の担当だ。レインコートは羽織っているけれど、やっぱり濡れないほうが集中できる。
「佃くん、頼りにしてるよ!」
「相馬さん、できそうかい」
 ここまで来たなら、逃げても意味がない。わたしはこのトマトを守り抜いて、ここでちゃんとやっていけることを証明したい。
「はい、やります」
「楓ちゃん、頑張って!」
 ハサミを持った手が震えた。腕にぐっと力を込める。まずは佃先輩に、枝分かれの間で難しそうなところをやってもらった。今度は私の番だ。茎の上のほうにできた小さなこぶ。近くを左手の指先で押さえて、狙いをつける。そして、そっと刃を当てて、少しずつ削っていく。
「……これで、どうですか」
「よし、いいね」
 すっと力が抜けた。でも、まだ終わりじゃない。ゴム手袋を捨てて、替えを受け取る。ハサミも使っていないものに交換してもらった。
「茎のもう一か所は僕がやるから、相馬さんは果実を見て」
「はい」
 本に書いてあったように、カビは果実にも生える。白い輪っかだ。上から順番に確認していく。すると、上から四番目にそれはあった。
「これは、そうでしょうか」
 親指が入るくらいの白い輪っかが、果実にへばりついている。その位置は、さっきこぶを削ったところに近い。
「そうだね。少し上のほうから切っちゃおう」
「はい」
 そのあとほかの果実や、近くの株も全部確認したけれど、とりあえずそれ以上は何も見つからなかった。使ったハサミにお湯をかけて念入りに消毒してからプレハブに戻った。
「楓ちゃん、お疲れ様」
「本当に、ありがとうございました」
「こういうものは、お互い協力してこそだからね。ほかの作物に伝染することもあるし、みんなで畑を守っていくんだよ」
「よっ! いいこと言った!」
 もう、午前中まで試験を受けていたことなんて忘れてしまっていた。収穫まであと少し。その前には研究発表もある。改めて気合を入れて、頑張っていこうと思った。


 六月十二日、雨。相馬です。
 聞いてください。試験が終わって畑を見に行ったら、わたしのトマトが「灰色かび病」という病気になっていたのです。先輩たちが助けてくれて、応急処置をしましたが、病気を見つけたときはあきらめかけてしまいました。本当に怖かったです。まだあまり広がってはいなかったので、大丈夫だと思いたいです。これからはもう、何事もないことを願います。
 村に誘ってくれて、嬉しいです。でも、もう少し考えさせてください。わたしにはまだ、行く資格がないと思うので……。

 急に誘ったのは、失敗だったか。やっぱり、この問題は楓香自身が何かを乗り越える必要があるらしい。僕にできるのはその過程をこうして見届けるだけなのだろう。
 それにしても、病害が出たとは大変だ。そこは園芸部で、近くに助けてくれる人がいて本当に良かったと思う。
 病害と言えば、僕が買った苗は本当に何気なく見た目が元気そうなものを選んだけれど、接ぎ木とワクチン接種でウイルスへの抵抗性を獲得したものだと後から知った。母さんは、そういう苗でなければ畑に植えさせてくれないつもりだったらしい。
 三連休が明けた今日はよく晴れて、気温も三十度に迫っていた。とても蒸し暑い。これはこれで、トマトにも良くない環境だ。ハウスを立てるのは無理だから仕方がないけれど、露地でトマトを育てるのはなかなか困難が多い。


 六月十六日、晴れ。桂です。
 病気が出たのは、大変でしたね。この環境では仕方がないこともあります。なるべく早く見つけて手を打つことが大事だと思います。
 僕の苗は、接ぎ木とワクチンをしているので、ウイルスに強いようです。植物にもワクチンがあるというのは驚きですね。
 村に来るのは、いつでも大丈夫です。準備ができたら声をかけてください。

 ……終わった。
 心配していた古文はギリギリでセーフだったけれど、英語のリーディングが意外と全然ダメだった。例文の書き取りの宿題に加えて、来週一週間の部活動停止が決まってしまった。
 日記を少し覗いてから、プレハブに入る。すると、とても恋しい香りを感じた。
「お疲れ様です」
 梅子先輩が、一人でハーブティーを飲みながら読書をしている。
「相馬さん。ジャスミンティー、飲む?」
「はい。いただきます」
 わたしも一緒に飲ませてもらうことにした。マグカップに、薄茶色のジャスミンティーが注がれると、香りがプレハブの中に広がる。
「外までいい匂いがするぞ。梅ちゃんだな?」
 そこに、菜々先輩が入ってきた。
「あたしももらっていい?」
「はい」
 三人でのティータイムになった。こういう場面で残念な話をするのはとても心苦しいけれど、先延ばしにしたらずっと話せなくなる。わたしは意を決して切り出した。
「菜々先輩、すみません」
「どした?」
「実はわたし、リーディングで赤点を取ってしまって……来週、来れなくなってしまいました」
「おお……そうか。まあ、そんなこともあるよ! 畑はあたしらみんなで見てるからさ、そんなに落ち込まないで」
「はい……勉強も教えてもらったのに、本当に、すみません」
 ジャスミンティーがあったのは救いだった。不安や申し訳なさが、いくらか和らいでいると思う。だけどやっぱり、これではトマトを育てる責任を果たしているとは言えない。
「楓ちゃん、大丈夫?」
 だんだん、頭が痛くなってきた。
「……すみません、今日は帰ります」
「あたしたちのこと、いつでも頼っていいからね!」
 わたしは結局、誰かに頼ってばっかりで……。


 六月十七日、曇り。

 放課後、いつものようにポストを開けてみたら……なかった。
 また休んでいるのだろうかと思い、プレハブを覗かせてもらう。そこには中村先輩ではない、前髪が長めでおとなしそうな女の先輩がいた。ほんのりとハーブのような香りがする。
「失礼します」
「桂くん。入ってくるのは珍しい」
 本当に名前を覚えられている。知らないうちに知られているのは変な感覚だ。
「今日、相馬さんが来ていないかと思って」
「……体調が悪くて、休むって聞いた」
 先輩は、手元の文庫本に目線を落としてそう言った。
「わかりました。ありがとうございます」
 それなら、この間と同じだ。また復帰したら、中村先輩が教えてくれるだろう。
「失礼します」
 僕のトマトは今朝見たら、ほんの少し赤くなっているものがあった。それでも、まだ梅雨が明けたわけではないし、油断大敵だ。


 ***

 週が明けても、中村先輩からの連絡はまだない。日記も返ってこない。さすがに気になったので、放課後に楓香のクラスの前で待ってみることにした。幸い、ホームルームは僕のクラスのほうが早く終わった。
 楓香は……いた。
 教室から出てきたところで目が合った。しかし、僕に気づくなり一目散に逃げてしまう。追いかければ追いつけるけれど、あまり追いまわすのも悪いし、何より楓香の体に負担がかかる。
 とりあえず、それなりの事情があることはわかった。しかし学校には来ている。それとなく様子を探るために、僕は今日もプレハブにお邪魔させてもらうことにした。今日は今にも雨の降りだしそうな曇りだけど、プレハブの鍵は開いていた。念のため確認したけれど、やっぱりポストに日記は入っていない。
「あっ、桂くん!」
 中村先輩だ。ところが、第一声からもう普段の楽しそうな雰囲気は感じられない。駆け寄ってきて、いきなり手を合わせて頭を下げた。
「楓香ちゃんのことだよね? ごめんね、ちょっと今大変なんだ!」
 余程大変なことがあったようだ。僕は一呼吸置いて、とりあえず事情を話してみる。
「はい。先週の水曜日くらいから日記が返ってこなくて、部活も休んでいると聞いたのですが……」
「そう、先週の水木は休んでた。でも、その間にこういうことがあって……」
 すると中村先輩は、携帯電話のカメラで撮ったらしい写真を何枚か見せてくれた。そのどれもが、黒っぽく変色したトマトの葉や茎、果実の写真だった。
「病害ですか」
「そう。この間一回出て、応急処置はしたんだけど……今度は同じ株と、隣の株」
 前回は応急処置ができるくらいだったから、大した規模ではなかったのだろう。しかし写真の状況はかなり厳しいものだった。
「こうなると、もう……」
 皆まで言うなと、先輩が頷く。それはつまり、株ごと抜いてしまって、これ以上の拡大を防ぐことに他ならない。
「それを楓香が知って、落ち込んでしまったと……」
「うん」
 しかし、まだ違和感が残る。
「でも、全部ではないですよね?」
「二株は残ってる。そっちはどうにか無事」
 確かにつらい状況だけど、無事な株があるなら、あれだけ必死になっていた楓香の心が全部折れてしまうとは思えない。それなのに今日は、学校に来ていながら部活に来ていない。何か追い打ちをかけるようなことがあったのだと思う。
 僕から逃げていく楓香の姿を思い返す。僕はとても寂しかった。また何もできないまま、彼女がいなくなってしまうような気がした。
「……僕にできることは、あるでしょうか」
 とにかく、僕にできることが知りたかった。縋るような思いだった。しかし、先輩は口を閉ざしたままうつむいてしまう。
「今は、ないかな」
 望みを断ち切るような言葉。でも、僕はその「今は」に不思議な重みがあったことに気づいた。
「見守るしかない、ですか」
「うん」
 すると先輩は、両手を僕の肩に置いて、僕の目をまっすぐ見つめた。
「とにかく、残ったトマトはあたしらが全力で守るから!」
 楓香がいつでも戻ってこられるように。僕も、自分のトマトを育て切らないといけない。
「来週また来て。その頃には、何個か収穫できそうな気がするの。そのとき楓ちゃんが来てたら……『よく頑張ったね』って、桂くんからも言ってあげて」
「はい。また来ます」
 トマトが赤くなったら。日記の最初のページには、そのときまでに強くなるという宣言が書いてあった。結局それを見届けることが、僕にできる唯一のことだということだった。


 六月二十九日、晴れ。相馬です。
 ごめんなさい。本当にごめんなさい。わたしはトマトを病気から守れませんでした。こんなに大事な時期に赤点も取ってしまって、部活に出ることもできませんでした。
 だけど、その間も先輩たちが、まだ元気なトマトを育ててくれていて……どんな顔をして会えばいいかもわかりません。それから、琢実くんにも……。
 交換日記はもう、終わりにさせてください。ここまで付き合ってくれてありがとう。こんな形で終わることになってごめんなさい。わたしが全部悪いので、気にしないでくださいね。

 一週間後の月曜日、放課後にポストを開けてみると、ノートではなく手紙が入っていた。その場で中を確認して、僕はしばらく立ち尽くしてしまった。
「桂くん! 大丈夫?」
 後ろから、中村先輩が声を掛けてくれた。とりあえず手紙は見せずに、楓香の状況を説明しようと思う。
「楓香が、交換日記をやめるって言ってます。もしかすると、このままこの部活も……ひどく自分を責めてしまっているみたいです」
「あちゃ……とりあえず、入ってよ」
 プレハブの中は、前回とは違う涼しげな香りがした。楓香が休んでいたことを教えてくれた先輩がいて、文庫本を片手にお茶を飲んでいる。
「お疲れ。梅ちゃん、今日は何?」
「ミントティーです。桂くんも、良かったら」
「ありがとうございます。いただきます」
 その間、次々出入りするほかの先輩もしっかり挨拶をしてくれた。この人たちなら、今から楓香が戻ってきたとしても歓迎するに違いない。
「自己紹介、していませんでしたね。僕は桂琢実です」
「浅川梅子。よろしく」
 自己紹介も終わったところで、ピンクの魔法瓶からティーカップにミントティーが注がれる。香りがあっという間に広がって、なんだかぜいたくな気分になるほどだ。
「どうぞ」
「いただきます」
 まずは一口。鮮烈なミントの冷感が鼻に抜けて、後からほんのりと甘味を感じる。
「どう?」
「初めて飲みましたけど、ミントの味を強く感じますね」
「あたし、もうちょっと甘いほうが好き」
 使っているミントは、浅川先輩がここのプランターで育てたものらしい。ミントはとにかく繁殖力が強くて、注意して育てないとあっという間に庭や畑を埋め尽くしてしまうと母さんから聞いたことがある。だからなのか、うちの家庭菜園でハーブは育てない。
「桂くん、時間どのくらいある?」
 ミントティーを味わいながら、次の話をした。
「えっと、三十分くらいなら」
「畑、ちょっと覗いてみない?」
 楓香が必死に育ててきたトマトがある。僕はそれを見たいと思った。
「はい。見ていきます」
 備え付けの長靴に履き替えて、校舎裏の畑に出た。ラディッシュの収穫などをしている。トマトは畑の手前側にあった。
「これですね」
 本当は四株並んでいたようだ。二株分のスペースが不自然に空いていて、胸が痛む。しかし、残った二株はちゃんと実をつけていて、いくつかはもうかなり赤色が濃くなってきていた。
「今週の後半か、来週くらいから収穫できるかな」
「ええ……」
 楓香はこの姿を見たのだろうか。それとも今は、見ることすら心苦しいのだろうか。
「楓香に、僕が会いたがっていると伝えてくれませんか」
「わかった。楓ちゃんのこと、お願いね」
 実際、この部に楓香以外の一年生はいないから、楓香が抜けてしまったら存続の危機になるだろう。それでも先輩方には、そういう損得勘定はなさそうだった。みんな、純粋に楓香を大切にして、心配してくれている。その結果がこのトマトなら、何も後ろめたいことはないと思う。
 その夜、中村先輩がうまくやってくれたのだろう。明日の放課後に楓香が会ってくれるという連絡が来た。


 ***

 放課後には雨が降っていたので、隅のほうにある空き教室で待ち合わせをした。僕が教室に入ると、楓香は一番奥の席に、身を隠すように小さく座っていた。
「楓香」
 声を掛けると、遠目にもわかるほどはっきり体を震わせた。それが恥ずかしかったのか、ますます縮こまってしまう。こちらを向いてもくれない。
「僕は、怒ってないよ」
 半分くらい近づいてから、もう一度声を掛ける。そうしたら、楓香はちらりとこちらを向いてくれた。
「楓香は頑張ってたと思う。園芸部の人たちだって、みんな心から楓香を応援してたよ。そうやって、いざというときに助けてくれる人がいることを、強さに含めてもいいんじゃないかな」
 すると、楓香は首を大きく横に振った。
「……そんなの、違う」
 か細い声。それでも、強い否定だと思った。楓香は絞り出すように言葉を続ける。
「いつまでも助けてくれる人なんて、いない。偶然助かっただけ。そうじゃなかったら、わたし、死んでたかもしれないことなんて、何度もある」
「……ごめん」
 楓香の抱えているものが垣間見えて、僕は反射的に謝った。その中にはこの間、熱中症で倒れたことも含まれているのだろう。村にいたときや、離れていた間にも、そんなことがあったのかもしれない。僕はそういうことも全部能天気に見ていて、楓香がどんな気持ちでいるのかを想像することさえしてこなかった。
「謝るのは、わたしのほう」
 こんな僕を前にしても、楓香は全部自分のせいにしようとしている。
「同じ高校にいたことも、知らなかったの。だから、浮かれて交換日記なんて始めちゃったけど、やめておけば良かったと思うこともあった。せっかく、琢実くんの記憶からこっそり消えていけるところだったのに。また、わたしがいなくなって、悲しい思いをさせてしまうから」
「じゃあ、何も言わずに村から引っ越したのも……」
「わたしがそう決めたの」
 全部僕のためだと言うから、ますます心が痛む。だけど、楓香の言うことは全部過去の話だ。これからも同じことを繰り返していくとは限らない。
「もう、僕らがここでまた会ったことは、なくなったりしないよ。そのうちまた別れるかもしれないけど、少なくとも卒業するまでは、一緒にいられるんじゃないかな」
 楓香は聞いてくれている。ここで間違えたら終わりだ。僕は慎重に続けた。
「一緒にいる間は、僕も園芸部の人たちも、みんなで楓香を助けられるから。その間は何も心配しないで、少しずつ強くなっていけばいいよ。誰も楓香を見捨てたりしない。トマトだって、もうすぐ無事に赤くなって、収穫できるよ。だから……協力させてくれないかな」
 だんだんと楓香の目に涙が浮かんでくるのがわかった。
「……はい」
 そして、僕が言い終えると、楓香は小さく頷いた。それから、手の甲で目元を押さえた。
 僕は隣まで近づいて、楓香が泣き止むまでそこにいてあげた。今度は、最初のような悔しそうな泣き方ではない。とても力が抜けていて、安心しているのがわかった。


 ***

「楓ちゃんっ!」
 琢実くんと話をして、次の日は雨が強かったので、二日後。ちょうど心の準備もできたので、わたしはまた園芸部の畑に戻った。見回りをしていた菜々先輩が、すぐにわたしを見つけて飛びついてきた。ちょっと苦しくなるくらい、強く抱きしめられた。
「ずっと来てなくて、本当にごめんなさい」
「いいよ、戻ってきてくれたんだから……また一緒に、頑張っていこうね」
「はい。よろしくお願いします」
 それから、トマトの収穫をした。大きいかどうかはわからないけれど、茎の下のほうに手のひらサイズの実が三つ四つ、真っ赤になっている。完熟だ。
「これだけ熟してたら、手でも採れるよ」
「はい」
 実際に実をつかんで、ちょっとひねってみた。すると、ヘタと茎のつながっていた部分が外れて、見慣れたトマトの形になった。なにより、ちゃんと重さを感じる。あんまり天気が悪かったりすると、スカスカの実になってしまうと聞いていた。
 個数が少ないので、収穫はすぐに終わった。
「よし、味見しちゃおうか!」
「はい」
 着替えて、調理部にナイフを貸してもらった。最初は生で食べることに決めた。ヘタを取って、よく洗って八つにくし形切りにする。
 プレハブから持ってきたお皿に盛り付けて戻ると、先輩たちがみんなで待っていた。
「さあ、楓ちゃん。ここまで来た感想は?」
 なんとなく、こういう流れになると思っていた。わたしには、先輩たちに伝えたいことがたくさんあって、選ばないといけないのがもどかしい。
「はい。大変なこともあって、途中で、こうして収穫したトマトを食べることを諦めかけたこともありました。でも、皆さんがいつも手伝ってくれて、気にかけてくれて、わたしがいない間も、トマトを守ってくれて……どれだけ感謝しても足りません。これからは、わたしもまた、少しずつでも強くなっていきたいと思います。これからも、よろしくお願いします」
「楓ちゃん、良かったよ! じゃあ、食べようか!」
「はい。いただきます!」
 トマトの味は、少し水っぽくて薄味だったけれど、最初のほうはこうなりやすいと佃先輩に教えてもらった。だから、これからに期待だ。もう少し味が安定してきたら、琢実くんと交換しようと思った。
 それから。
 わたしが止めたままにしてしまっている交換日記も、最後には琢実くんに持っていてもらいたいと思った。メールアドレスを交換したから、もう日記でやり取りをする必要はないけれど、日記でやり取りしたことを、琢実くんにはずっと忘れないでいてほしい。


 ***

 楓香が立ち直ってから一週間。梅雨が明けて、僕のトマトもどんどん収穫を迎えている。母さんへの上納も済ませた。そしてこの週末、いよいよ楓香が村に来ることになった。
 土曜日の午後、母さんと車で楓香を迎えに行って、村の小学校の傍で降ろしてもらう。車を降りると、楓香は両手を挙げて、大きく背伸びをした。久しぶりに見る私服は、澄んだ水のような色合いのロングスカートが印象的だった。
「村の空気……なんだか、懐かしい匂い」
「覚えてる?」
「なんとなく」
 僕の家に向かって歩きながら、一緒に遊んだ場所をいくつか巡った。公園に、駄菓子屋に、神社。午後とはいえ、あの頃こんな日差しの下をこんなに連れ回したら、それこそ楓香は倒れてしまっていたと思う。
「村の景色、あんまり変わらないね」
「そうかもしれないね」
「見た目は変わってなくても、本当は変わってるものもあるのかな」
「うん。気が付かないだけでね」
 僕もいつかは、この村を離れていく。そしてまた戻ったときに、今の楓香と同じようなことを考えるのだろうか。
 昔は、楓香の見ているものや、考えることに全然無頓着だった。でも、今は違う。もっと楓香のことを知っていきたいと思う。
 僕の家は坂の上にあるから、着いたときにはさすがに楓香の息が上がっていた。
「とりあえず、上がってよ。トマト、持ってきてる?」
「お邪魔します。トマト、今出すね」
 楓香から受け取ったトマトは、大変だったと聞いていたわりに良くできていた。僕のトマトのほうが少しだけ大きいけれど、品種の違いだと思う。色合いは、楓香のトマトのほうが鮮やかだ。
 台所でそれぞれのトマトを切って、居間に持っていく。
「こっちが僕ので、こっちが楓香のトマトだよ」
「ありがとう」
「じゃあ食べてみようか。いただきます」
「いただきます」
 爪楊枝で、まずは楓香のトマトを食べてみる。ほんのり甘くてまろやかな味だ。僕のトマトはラベルに書いてあったことと少し違って、熟しても皮が少し硬くて青臭さがある。
「味、わたしのと全然違う」
 楓香も僕のトマトを食べて驚いている。
「そうだね。やっぱり、品種が違うのかな」
「面白いね」
 それにしても、僕には少し気になることがあった。
「トマトを選んだのって、何か理由があったの?」
「『トマトが赤くなったら医者が青くなる』って、お母さんがわたしにトマトを食べさせようとするときによく言ってたの。それだけ、トマトが体にいいって意味なんだけど……せっかくなら、そういう野菜のほうが強くなれると思って」
 楓香は恥ずかしそうに答える。その言葉は僕も聞いたことがあった。
「前はトマト、苦手だったよね」
「うん。でもね、これは研究発表のために調べたことなんだけど、子供は味覚が発達してないし、経験も少ないから、どうしても大抵の野菜の味は嫌がるものなんだって。わたしはいつの間にか、苦手だった野菜も食べられるようになってたの。それは多分、食べられなかったときに怒られたりして、野菜自体に嫌なイメージがあったからなのかなって思ってる」
「そっか……」
 まさに、時間が解決したというわけだ。楓香のことは、全部が楽観できるものではないかもしれないけれど、これからの時間で少しでも、良い方向に向かってくれるものがあってもいいと思う。
「次は何を育てるの?」
「次はニンジン。九月くらいからハクサイも育てる予定なの。その頃には三年生の先輩たちが引退しちゃうから、勧誘もしたい」
「できることがあったら、僕も手伝うよ」
「ありがとう。あっ、それからね……」
 そこで、楓香はリュックからノートを取り出した。交換日記だ。
「これ、琢実くんに持っててもらいたいの。こんなことがあったなって、ずっと思い出せるように」
 ずっと、思い出せるように。僕は心の中で、楓香の言葉を繰り返した。それは、これまでの楓香の考えから少し変わったところだと思った。
「わかった。ありがとう」
 ところが、日記を受け取って開こうとすると、手で止められた。
「開くのは、ちょっと待って」
「何か書いてあるの?」
 なぜか、楓香の顔がトマトのように赤くなっている。
「……後で読んでね。みんなには、内緒」
 小声で告げられた内緒話に、僕まで顔が熱くなる。
「わ、わかった」
「じゃあ、あの、今日はありがとう。遅くなる前に帰るね」
「そうだね。母さん、外にいるかな」
 後はもう、お互いに何だか恥ずかしくなってしまって、そのままお開きになった。そんな様子の僕に何があったのか、母さんにはもちろんお見通しだ。
「あんた、楓香ちゃんのこと大事にしなよ? いい子じゃない」
 楓香が帰った後の車の中で、しばらくからかわれた。
 そして、夜になってから自分の部屋で、交換日記を開いてみた。
 一番新しい日付の日記を見て……僕ももっと、楓香と一緒に強くなろうと思った。


 七月十一日、晴れ。相馬です。
 改めて、村に誘ってくれてありがとう。今から楽しみで、今夜は眠れないかもしれないと思っています。
 おいしいトマトも採れました。琢実くんのトマトも楽しみです。
 そして、この日記も途中で終わりにしなくて、良かったと思います。
 今日はちょっと特別な気分なので、この日記の最後に、わたしの本当の気持ちを書きます。書くと決めました。
 わたしは、昔から琢実くんのことが大好きでした。今もそうです。わたしに優しくしてくれる人はたくさんいますが、琢実くんとの関係はそれだけで終わらない、特別なものだと思っています。
 これまで、わたしはずっと自信がなくて、ほかの人とあんまり仲良くなったり、深い関係になったりするのがこわかったのです。それは、琢実くんともそうでした。
 でも、今回のことで少し変わりました。わたしが本当に自立できるように、協力してくれる人のことはもっと大切にしたいと思ったのです。
 先週話したとき、琢実くんは、卒業までは一緒にいられると言いました。
 これは本当に、ぜいたくかもしれませんが……卒業してからも一緒にいられたら、うれしいです。
 もちろん、わたしは強くなることをあきらめません。でも、強くなったときに、まだ琢実くんがいてくれたら……。
 のぼせてしまいそうになってきたので、もうやめます。お返事とかは、すぐにはいらないので、できるだけ長くしまっておいてください。変な文章になっていたらごめんなさい。
 ここまで読んでくれてありがとう。これからも、よろしくお願いします。

トマトが赤くなったら

トマトが赤くなったら

「交換日記、してください」幼馴染から渡されたノート。また、強くなって会えるまで。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-07-08

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