ラプサイトへの旅

Ⅰ 創世代第五期

 惑星タルサでは二億年前から五つの大陸が集まりつつあった。一億年後には一つの超大陸が形成されるはずだが、現在は未完成のジグゾーパズルのように、惑星の海に散らばっていた。それでも海洋プレートの移動につれて、陸の間隔がしだいに縮まっていた。かつて大洋だった海が狭まり、大陸棚が寄せ合うところでは浅い海が拡がっていた。惑星の海に生命が発生してすでに二十億年が経っていた。ゆるやかな進化を経て、魚類に似た脊椎動物が海の中で繁栄していた。動物の活動範囲は未だ海中に限定されていたので、陸はシダ類と昆虫の天下だった。しかし一部の魚は、水際で昆虫を補食していた。彼らが水から抜け出て陸へ上がるのは時間の問題だった。と言っても、千万年単位の話だが――。
 タルサの地質年代で第四期と呼ばれる時代を、別名ラプサイト紀という。その地質時代の堆積物の中に、夥しいラプサイト化石が見つかったからである。貴婦人の指に似た巻き貝の仲間、ラプサイトの死骸が海底に積み重なり始めた時代、すなわち第四期の終わり頃、他の星からの訪問者がタルサに降り立った。

 六百万年後、汎人類世界の版図がタルサに及んだ。惑星は型通りの植民化を免れた。〝生物進化の途上にある環境をよそ者が破壊する訳にはいかない法〟が、成立後三百年にして、初めて全面的に適用された。永久に惑星改造の対象から除外されたかに思われた。
 しかしあまりにも人類の居住に適していたので、例によって政治的妥協の産物により、五つの大陸のうち、未だ植生が完全に及んでいないロンゴ大陸のみ、ごく小規模の植民が許可され、七つのドーム都市が建設された。タルサの悠久の時間の中のほんの一瞬の間借りにふさわしい、ごくつつましい社会がつくられた。人口増のない都市。都市の営みから生ずる気体、排水、熱は一度遮断され、濾過された。タルサでは、水素もしくは電気で駆動する交通機関のみ使用が許可された。


 訪問
  
 その日の朝、ニルヴァはラウスという名の駅で列車を降りた。ハルキニア山系の麓の駅である。タクシーが駅前でニルヴァを待っていた。有人タクシーだった。さびれた街道から山間部に入ると途端に道が悪くなった。年老いた運転手がぽつりとつぶやいた。
「今はこんな道は誰も使わないんだ」
 かつて道路だったところは、土砂が崩れ落ち、方々で大小のせせらぎが横切っていた。その都度、タクシーは走行モードを切り換えて、浮上しながら悪路を切り抜けた。
「ふつうは飛行機を使う。遺跡都市に空港があるからな」
 昔、うちの屋敷にいた爺さんに似ているとニルヴァは思った。  
「遺跡見物かね」
「ええ」
「大したもんだ」
 タクシーは最後の尾根を飛び越え、森林の中の下り坂を疾走した。曲がりくねった道の眼下、木々の合間に遺跡都市の遠景がちらと見えた。

 盆地全体を見渡す崖の端にニルヴァは立っていた。
 不自然なほどまっ平らな盆地の中央に遺跡都市があった。複雑に入り組んだ廃墟の上部構造の輪郭が、眩しい光の中にくっきりと浮かび上がっていた。差し渡し三十キロに及ぶ円形の廃墟は、すり鉢を逆さに伏せたように周辺から中心に向かって盛り上がっている。
遺跡都市は午前の日差しを受けて、静まり返っていた。               
「とうとうやって来た」
 ニルヴァは、ギザギザに入り組んだ遺跡都市の中心を見つめながら、胸の内の感情が一つの言葉になるのを待つ。 
「ラプサイト、ここで君に会えるだろうか」

 崖の上に吹く風が弱まった。
 老運転手が言った。
「山を越えたからここからは遺跡都市の力の場に乗っていける。場の力は弱いが、風が収まったからね」
 タクシーは断崖の端から空中へ躍り出た。数秒後、柔らかい弾力のある力の場に受け止められた。螺旋式の滑り台を滑り降りていくように、タクシーは遺跡都市を俯瞰しながら、くるくると舞い降りていった。

 遺跡都市が今なお、ある種の活動を維持しつづけていることは間違いない。われわれが観測しているものは、たぶん副次的作用の一つでしかないだろう。測定器にかかる物理的作用、われわれの内の一部の者の精神に及ぼす作用、遺跡都市の周辺で直接体験できる種々の現象は、断片的なものに過ぎないのである。我々の認識をはるかに超えたところで、遺跡都市は、太古の昔から何事かを行ってきているのだ――セイレン著「ラプサイト的なるもの」
 
 タクシーは空港の外れの道路に着地し、遺跡都市手前の管理地区を目指して走った。空港施設の横を通り過ぎた。滑走路の端に三角翼の中型輸送機が一機停まっていた。
「建物がみんなやけに背が低いだろう。遺跡都市の力場の干渉を避けるために地面の中に潜っているのさ」老運転手が言った。
 周囲を峻険な山脈に囲まれた盆地は真っ平らで、フライパンの中みたいだとニルヴァは思った。管理局は遺跡都市の公式の玄関口である。遺跡都市の西のはずれにあり、例によって建造物は大部分地中に埋められている。地上に見える建造物群は、背後の直径三〇キロにおよぶ遺跡都市の丘陵のようなスケールの前ではいかにもささやかだった。タクシーは管理区域の一角から地下トンネルに入った。数ブロック先に閉鎖扉が並んでいた。扉に付属したパネル上で、細かい光が目まぐるしく点滅している。ニルヴァはタクシーを降りた。老運転手がぼそぼそと呟いた。ニルヴァが聞き返す間もなく、タクシーはUターンして猛スピードで走り去った。どうやら「ボン・ボワイヤージュ」と言ったらしいとニルヴァは気づいた。


 渡航手続き                                  

 ニルヴァは厳重な電子チェック機構を無事通過して、管理局の来訪者ロビーに入った。オフィスに通されると、数人の職員がモニターに向かって座っていた。彼らの好奇の眼がニルヴァに向けられた。落ち着いた感じの長身の男性が椅子から立ち上がって微笑んだ。
「あなたがニルヴァですね。遺跡都市へようこそ、私は管理部長のモディです。あなたにこれを贈呈します。ラプサイト遺跡都市への公式渡航許可証です」
 応募総数一万人の中からただ一人、ラプサイト遺跡内の見学を許された当選者へのセレモニーとしては、ひどくあっさりしたものだった。ニルヴァは、モディから簡単なレクチュアを受けた。
「ラプサイト文明についての知識は、あなたの方が私より何枚も上手だから省きます。実際そうでなければ、最後の小論文による選考を勝ち抜くことは出来なかったでしょう」
「もともとツイてたんです。一次の抽選でハズレにならなかったから」
「ニルヴァ、運というのは大切です。特に異星文明に関わる仕事ではね。さて、私があなたに教えられる知識というのは、ごく事務的なことに限られます。『ラプサイト』への唯一の運搬手段である次元船の定員は四人ですが、実は委員会の内規で、次元船の乗船有資格者は委員会所属の者と決まっています。要するに、ただの外来のお客は乗せられない。そこであなたには形式上、委員会の臨時職員になっていただくことになります」
 ここまで来た以上、ニルヴァはどんな契約でも同意するつもりだったが、実際は二件ですんだ。一つは臨時の調査員に任命される件。もう一つは、事故の際の補償を放棄するというものだった。モディは淀みなく説明した。
「次元推進の危険性については、現在ほとんど無視できます。ラプサイト人の技術が習熟できていなかった二〇年前には、幾つかの悲劇が連続して起こりました。しかし未帰還船は、現在に至る五〇〇回の出航の内わずか六隻ですから、他の交通機関に比べて特に事故が多いとはいえないでしょう。帰還できていない船にしても遭難したのではなく、異次元を航行する際にときたま起こる時間流の遅れから、未だ帰着していないのかもしれないのです。それよりむしろ遺跡内での人為的な事故、たとえば調査員の規定外の行動や通常の、つまり非次元推進時の水上での操船ミスによるものがはるかに多いのです」
 モディは、この数日ラプサイトへのゲートが開かなかったこと、つい三時間前から開かれた、言い換えれば次元船の主機関が起動されたので、午後の早い時刻に出航予定となった。ニルヴァがその便に乗ることになるだろうと話した。
「出航時まで、あなたに有能なガイドをお付けします」と言い、モディは部下のミツコをニルヴァに紹介した。しかしニルヴァをミツコに紹介する時に、ホルスの有力者である父に言及されたのは不愉快だった。年格好の違わない頭の良さそうな異性に、自分の実力を割り引いて見られるのが、ニルヴァは嫌だったのだ。

 異形の船

「あわただしくなりそうですから、まず船を見に行きましょうよ」とミツコが提案した。
地下要塞とも言うべき建物の、内部を縦横に走るエレベーターを乗り継いで、ニルヴァたちは地下の巨大な空洞地点に着いた。そこは地下三〇〇メートルの深さにある「次元船の港」である。
 五〇年前の遺跡都市の発見に続く三〇年前、大空洞に初めて足を踏み入れた調査隊の一行は、六百万年の間、大地の奥深い場所にしまわれていたラプサイト人の船と彼らの港を見つけた。
 「岩盤の中の空所に封じ込まれた船」の意味するものは、当初は謎だった。船の記念博物館、遺棄された船の墓場などなど、さまざまな説が語られた。
 しかし空洞内に調査隊が侵入したことによって、一部の船が稼働状態になったらしいことが判明し、ついに調査隊の数人が船に乗り込んだ。たまたまどこかのスイッチに触れたところ、ラプサイト人の船はその本来の機能を発揮したのだった。この時、遺跡都市本体と空洞を結ぶゲートが開かれた。次元船は六〇〇万年の幽閉から解放され、遺跡都市へ渡ったのである。

「あなたが乗る船よ」ミツコが指さした。
 その船は格納庫の前の船架の上にあった。ニルヴァはラプサイトの船を初めて見る。幼い頃に絵本で見た時に味わった不思議な気持ちが蘇った。ニルヴァは金色の流麗な船体の船尾にあたる部分を下から見上げた。
「ねえ」ミツコがそっと言った。
「大昔の帆船に似ていると思わない?」
 確かに、異星人の船は、遠い昔の地球の帆船に似ていた。と同時に、夢に見る乗り物のように謎めいた形でもあった。そして船体からマストにいたるまで金色に輝く姿は、ことさら異形の船という印象を強めている。
「お気に召したかね」
よく透る低音が格納庫内に響いた。ニルヴァは夢見心地の気分が破られた。声の持ち主は格納庫を見下ろすデッキの上にいた。黒い眼帯をし、あごひげをたくわえ奇妙な服を身につけた人物。紛れもなく、遠い昔の海賊の格好だと思った。
「われわれの船、南風号へようこそ。出航は二時間後だから、乗り遅れないように」と言うと、奇声を上げてどこかへ行ってしまった。
 ニルヴァはぽかんと口を開いたまま海賊を見送った。
 ミツコは軽いためいきをつき、
「キャプテンのトモナガです。あれが歓迎の印しなの」
「フック船長みたいだ」
 ミツコはくっくと思い出し笑いをした。
「そうそう、日本のサムライの格好をした時もあった」
「へー」
「験担ぎかもしれないの」
「どういう意味?」
ミツコはあわてて言った。
「意味はないわ。えーと、トモナガは委員会の主任研究員です。元々は地球の人。海洋考古学を専攻して、すぐここに来たんです。小さい頃は,地球の海で泳いだり、魚を穫ったりしてたんですって。それに…」
ミツコは少し口ごもりながら、
「魚を食べたらしいの」
「え?」
ニルヴァにはイメージが湧かない。そもそも魚を見たことがなかった。
「なんて野蛮なこと。今でもそんな風習があるのかしら」
ミツコは大げさに顔をしかめた。ニルヴァは地球の海を知らない。ニルヴァが生まれた星、ホルスに元々海はなかった。ニルヴァの祖先たちが一〇〇年かけて惑星の地中から凍結した水を掘り出して、不毛の惑星を居住可能にしたのだ。現在の水溜まりが海と呼べるようになるまで、あと三〇〇年はかかるだろう。
「海って不思議。生命の源なのね。このタルサの海の中にだっていろんな生物が棲んでいるわ」
もちろんニルヴァは知識として知っている。しかし海の水に触ったことさえなかった。
「海で泳いだことあるの?」ニルヴァが聞いた。
「禁じられているわ。最小限の研究のためでしか海中生物は採ってはいけないし、遊泳はもちろん、船で行き来するのも許可されたときだけ。生物進化の途上にあるタルサの海は、〝禁じられた海〟なんです。でも一度だけ…」ミツコは声を落とした。
「タルサの眼―て言うの。青い満月のエンリルが、銀色の満月のイシュタルの真ん中を通過して、夜空に大きな眼ができるわ。その時私は海岸で見てて、感激してそのまま服を脱いで泳いじゃった。きれいな眼ができるのは五十年に一度なの」
 ニルヴァは、夜の海に入るミツコを想像し、ミツコに悟られまいと、慌てて言った。
「えーと、三億年後には、タルサ人が『タルサの眼』を見ながら泳いでいるだろうね」

講義

 次元船南風号を乗せた架台がレールの上を移動していった。出航直前の最終点検のためにドックに入るらしい。ミツコがあわてて言った。
「大変、大急ぎで次元船の説明をします」
 次元推進の原理は、ラプサイトの科学で解明されていない難問の一つだった。
 未知の力を仮定すれば説明できるが、その種の力を導入すると、最新の超統一理論が破綻するのだ。遺跡都市とその周辺にのみ及ぶユニーク場という宇宙におけるローカル概念なるものがむりやりひねり出され、次元推進は、甚だしく普遍性を欠いた、便宜的な理論的枠組みの中で説明されていた。
 
「現場では、原理はさっぱりわからないけど、現に次元船は物質を通り抜けているという事実がすべてなんです。だから理論抜きでラプサイト技術を習得してきました。技術というよりマニュアルと言うべきね。その上に、人類の技術を結合させたものが、現在の次元船なんです」
 ミツコによると、ユニーク場では、船と乗員たちの系で、物質の従う状態関数のモードが通常次元から他の次元へ遷移する。言い換えれば、船と船上の人を構成する物質の存在確率が、限りなく他の次元へ移行するので、われわれの通常次元では、限りなく希薄になる。したがってこの薄い確率波の拡がりは、通常の三次元空間内の物体をやすやすと通り抜けていける。
 そのため船上の乗員にとっては、自分たちが異次元へシフトしたため、通常次元から受け取れる情報が大部分欠落し、その結果、船の電脳が巧妙に補正するとはいえ、船上から見える周囲の風景はひどく単純なものになる…。                 
 ミツコのレクチュアが終わると、ニルヴァは航海の準備のために居室に戻らねばならなかった。ドックの船のまわりに整備士たちが集まりはじめていた。
 ニルヴァとミツコは上りのエレベーターに乗った。
 扉が閉まるとミツコが言った。
「ニルヴァ、あなたが羨ましいわ」
 ニルヴァはミツコを見つめた。
「わたしラプサイトの内世界へ行ったことがないの。遺跡都市の地上へは仕事で何度も行ったわ。でもあそこはただの廃墟。重い器械を持って暑い瓦礫の迷路をひたすら歩くだけ。遠い遠い昔、ラプサイトの農園やお花畑や、冬の館などがあったのでしょう。でも今は廃墟でしかない。本当のラプサイトは地下にあるのよ。六〇〇万年前が昨日のような都が…」
ミツコの眼が一瞬遠くを見た。
 ここにもひとりラプサイトに憑かれた人間がいるとニルヴァは思った。        
「君のボスに頼んでみたら?」
「そうね、私必ず行くわ」
 エレベーターの扉が開き、ニルヴァは降りた。                  
「三〇分後に迎えにまいります。それまでに準備をなさって」
ミツコが言いおわるとエレベーターの扉が閉まった。ニルヴァは居室に戻っていった。
 ミツコと話した影響だろう、ニルヴァは今、自分が遺跡都市の入口に立っていると強く意識していた。長い放浪の終わりかもしれないし、新たな旅の始まりかもしれなかった。
                             
出航

 ニルヴァは私物の小さな荷物を持ってドックへやって来た。
 ミツコから、急用が出来て迎えに行けないとの連絡があり、一人でエレベーターを乗り継いで格納庫へたどりついたのだった。ミツコが見送りに来てくれたら、と少しほろ苦い気持ちだった。                                  
 船の周囲では、あわただしく何かの作業が行われていた。投光器の光の中で数人の整備士が忙しそうに動いていた。部品を付け替える金属音。開いた船体の中から垂れ下がったケーブルの束が測定器につながっている。作業服の一人がニルヴァにぶつかりそうになった。
「おっと」端末から顔を上げてニルヴァを見た。
「やあ、さっきの…」
名前を思い出そうとしていた。         
「ニルヴァです。あなたは…」
「トモナガだよ」
にやりとしてニルヴァにウインクした。
「さあ、船に乗ろう」
トモナガは先に立って梯子を上った。ニルヴァも続いた。
 船内にはすでに二人の乗員が乗り込んでいた。彼らはヒューイとヤンと名乗った。船外の騒音とは打って変わって静かなブリッジで、船の電脳が実行する精密な調整をモニターしていた。船内は少し狭かったが、居住性は上々に思えた。実験室や船倉のほかに台所や寝室などの居室を見て回ると、ニルヴァはブリッジに戻った。
「回路を一つ替えた」とヒューイが言った。
「もう問題はない」
「そろそろ船を出そうよ」とヤン。
「行くか」とトモナガ。

 次元船五〇一便は一〇分遅れで出発した。送迎デッキの上、委員会のお偉方に混じってミツコの姿が見えた。船は低い電子音を響かせながら、架台からゆっくり浮かび上がった。二メートル程浮かんだところでいったん停止し、姿勢を立て直した。チンチンと鐘が鳴り、船は前進を始めた。
 トモナガがニルヴァに話しかける。
「ところで君は大学生かね?」
「いえ、そうじゃないです。色々事情があって…」
「そうか、ま、どうでもいいことだ。君は私の助手をしたまえ」ニルヴァは正式にトモナガのチームの乗組員となった。      
   
 船は格納庫を過ぎると大量の水を湛えたプールに差しかかった。暗い水面の上をゆっくり進んだ。ヒューンという高周波音を発して次元推進機関が立ち上がった。と間もなく、船の輪郭が曖昧になり、ぶれるように二、三度瞬いた。金属音が高まるにつれて、船は透明化していき、同時に無音となった。今、船はさながら白昼の幽霊のように淡い存在となっていた。                                 
 ニルヴァには、周囲の世界の様相が、ひどく侘びしいものに思われた。船搭載の電脳が船の周囲に投影する映像は、モノクロームの明暗による線と面の集合に変換されているので、ドックの送迎デッキに立つミツコも、今はノイズの多い点状の電子映像でしかなかった。一方ミツコからは、ほとんど透明化した船の、かすかな輪郭をようやく捉えることができるに過ぎない。
 船は空洞内の最奥部の滝に差しかかっていた。岩の間からほとばしる水が、船体をすり抜けて、真っ直ぐ水面に流れ落ちた。通常世界への投影として実在性の希薄な船は、滝を通り抜けると、そのまま空洞の岩肌に吸い込まれるように姿を消した。
 
 船とニルヴァたちの系は通常次元から離脱し、独立した小宇宙として異次元を漂っていた。もっとも、通常次元への射影としてのみ表示されている船の情報は、遺跡都市を包む強固な岩石中を通り抜けていた。ニルヴァはその古い都市の地中深くまで延びる岩盤の断面を見ている。船は分厚い岩石の層を進んだ。モニターが映し出す映像は、鋭利なナイフで断ち切られたような物質の断面だったが、次元推進のためにリアルな質感はなく、暗いざらざらとした壁の灰色のトンネルをくぐっている感じだった。
「気分はどうだい」
ヤンがニルヴァに問うた。
「まるで地底旅行ですね」
「もっともだ。ジュール・ベルヌの世界だよ」と言い、ヤンは笑った。船は今、長いゆるやかな傾斜を上っていた―ー。

 

Ⅱ 遺跡都市へ

 基盤部を通り抜けた船は、チューブから絞り出されるように通常空間へ躍り出た。瞬時に船は実体化し、広々とした空間で静止していた。                                 
そこは周囲を高い石造りの壁をめぐらせた円形の空間で、水路が広場の真ん中を流れている。高い天井の一角から光が射し込んでおり、その広々とした空間のあちこちに微妙な光と影の模様を落としていた。次元推進機関を停止した船は、しばらく広場の一角に浮かんでいたが、やがて水路の方へ漂っていき、水面の上に降りていった。
 船底から徐々に船体が水中に沈んでいくと、船にかかる重力と浮力が等しくなるところで船は水路に浮かんだ。と同時に、南風号は今や本来の用途の「船」として、この人工の運河の流れに乗っているのだった。そして今、水流の流れのままに流されていく船の行く手には、見事なラプサイト装飾が施された、堂々たる都市の入り口が開かれていた。

  内世界
 
 ラプサイト内部への導入水路は、本来二本あると言われていた。今まさにニルヴァらの南風号が通過しつつある運河トンネルと同じものが、もう一つどこかにあるという話だったが、現在は使われていなかった。もう一か所あったとされる「次元船の港」と同様、ラプサイト人が退去した後に、閉鎖されたのかもしれなかった。

 船はトンネルの暗がりを通過すると、渓谷の急流に乗り出していた。導入水路を通ってラプサイト内の本流に合流したのである。
 渓谷に朝靄がたちこめていた。船内時間は一三時半だが、渓谷は内部時間の午前四時半だった。一日が一六時間のラプサイト内世界の早朝である。切り通しのような谷間を船は通過していたが、水面に立つ靄のために見通しが良くなかった。
「大丈夫。自然の川じゃないからね」ヤンが静かに口をはさんだ。
「それに船はオートパイロットだよ。電脳が操縦してくれている」
ヒューイが眼をくるくるさせて言った。
「航海は始まったばかり。先ずはモーニングコーヒーといきたいね」
トモナガが万能ティー・サーバーからコーヒーを淹れた。ヒューイ、ヤンそしてニルヴァにカップを配った。
「デッキへ行こうぜ」
ブリッジの後部ハッチから、外部デッキに出た。ブリッジの後ろから船尾までの船の上部の半分がデッキだった。
「やけに寒いな」。ヒューイが顔をしかめた。
「気温十度。ラプサイト高地の朝としてはこんなものさ」
 ヤンはコーヒーをすすりながら水路の行く手を眺めている。ニルヴァは渓谷を下から仰ぎ見た。水路の下流の方から明るい光が射してくると、渓谷を埋めていた靄が薄らいでいった。                      
 水路の両岸は、屏風のような断崖だった。しかしよく見ると、一定の高さで段々になっていて、崖を穿った構造物や、断崖を縫うように走る輸送路らしいものが見えた。そして水面からはるか高みには、渓谷を横断する繊細な橋が何本も架かっていた。
 何となく鉱山地帯を思わせるような、渓谷の煉瓦色の断崖は、背後の傾斜、つまり「山」に続いており、高さ千メートル位と思われる山脈の尽きるところ、「空」との境界辺りでは、雪が懸かっていた。
「寒くてやりきれん。おれはブリッジに戻る」
ヒューイはコーヒーを飲み干すと、おおげさに身震いしてみせた。すかさずヤンが皮肉った。
「先祖が熱帯に住んでいたからって、二百年も前のことじゃないか」
「DNAが受け継いでいるのさ」
ヒューイは肩をすぼめながら、さっさと船室に戻っていった。

 標識

「ところで―」
トモナガがニルヴァに語りかけた。                 
「水路の流れの速さを平均して十ノット、つまり時速一八キロとする。内世界の外週から内週へ渦巻き状に巡っている水路の延長は二百二十キロメートルだ。水上での推進機関を有していないわが南風号が流れていくと、何時間かかると思う?」
「えーと、十二時間くらいかな」素早く暗算した。
「そのとおり。もっとも途中で停泊して一泊、調査に三時間必要として、実際は二十四時間あまり。船内時間で丸一日かかることになる」
「その後は〝海〟ですね」
「そう、水路を巡った後は、ラプサイトの海を渡って対岸へ。そこからは二通りの方法で帰還する。こいつはまた後で説明しよう。それよりほら、変わった風景だろ?」
 船の行く手、下流から射し込む光が水面で眩しく反射している。その前方の水路を二つに割って、奇岩が聳えていた。流れを分けて水中から立つその巨岩は、朝日を遮って船からは逆光となる。真ん中がくびれた形の、ボウリングのピンを細く伸ばしたような形の黒っぽい岩が、水面上に突出しているのだった。
「あんな物があったら危険じゃないですか」
ニルヴァがトモナガに言った。
「あの岩は、つい最近出現した代物だ。正確に言えば、四百九十回目の航海時に初めて発見された。水路中心から少し右へ寄ってるだろ。君ならあの岩のどちら側を通るかね」
「水路幅の広い左側でしょうね」
「四百九十回目も四百九十一回目も君と同じ判断をした。しかし四百九十二回目の航海士は、三回続けて右側を見送るわけにいかぬと考えたらしい」
 彼らが話している間にも、その奇妙な黒い岩がしだいに近づいてきた。細長いボウリングのピンのように見えた岩は、実は巨大な魚の〝ひれ〟のように、水路に沿って平べったい形をしているのだった。水面上に見える高さは南風号のマスト高の三倍ほどあり、磨き上げた黒大理石のように滑らかな岩は、左右対称の流線形で真ん中に凹みがあり、正面からは、岩の最小断面を見ていたのだった。船は、岩を右舷に見る流れに入っていった。
「四百九十二回目の航海は早々と終わった」
 トモナガが気を持たせるように間を置いた。南風号は黒い巨岩の横をすり抜けていった。それは水路の上流側で急角度に聳え立ち、下流側でなだらかな線を描いて水中に没して、水面下に延びているらしかった。
「彼らの船は岩の右側を通り過ぎた。すると岩の右側を流れる水流に変化が生じ、ちょうど右に舵をきったように船が進んだ。そのまま行けば水路の右岸にまともにぶつかっちまう。彼らは青くなった。ところが不思議なことに、行く手の崖がぱっくり開き、その中へ船は呑みこまれるように入っていった」
 トモナガは崖の一角を指差した。
「あそこが入口だ。よく見ても判らないだろうけど」
 それは、周囲の景観の変化に紛れ込ませたように、巧みにカモフラージュされていたが、崖の一角に切れ目があり、船上からは一瞬、逆V字形をしたほの暗い入口が見て取れた。
「彼らにしてみれば急転直下の成り行きさ。あっという間にトンネルへ入り込んでしまい、暗闇の中でちょっとしたウォーターシュートを味わったそうだ」
 ヤンは顔の前で両掌を下に向けながら、「シューシューてなもんでね。ラプサイトの外周から内周への最短距離を通ったのさ。距離にして五キロ、トンネル内水路の勾配はゆるい滑り台だった。スピードが出過ぎないように一定の間隔でゼロ勾配の区間があった。十五分でトンネルを抜けて一気に海に出ちまった」
「ヤンはその時の航海士だった。岩の右を行くよう提案した張本人だ」
 ヤンは微笑みながら、
「誰かがやらなきゃな。試してみないと何が起こるか分からんじゃないか」。
「確かに。でも一体何だったんでしょう?」              
「一種のバイパス、つまり近道だと思う。われわれの船、ここが大事なんだが、ラプサイト人じゃない我々が乗った船があの岩の右側を通ると、十二時間かかる所がわずか十五分で済むというわけだ」と言い、ヤンはしたり顔で付け加えた。
「もっともその場合、ラプサイト都市の調査を諦めなきゃならんが」
「いずれにしても―」ヤンは続けた。
「ラプサイトは生きたシステムなんだ。われわれの訪問を感知しており、水路の例の岩だって、われわれの航行に何らかの便宜を図るために造ったんだろう」
「でも、何のためにそんな近道があるのかな」
ニルヴァが首をひねった。
「さあね。しいて言えば、われわれの船は一度航行を始めると後戻りが出来ないだろ? 重大な忘れものをしたとか、急病人が出た場合に、すぐ帰還できるじゃないか」と言いながら、あまり自信のなさそうな返事だった。
「もしそうだとしたら、航行開始後一時間のこの地点にしか造られてないのも変だね。あと二、三か所もあれば、有難いが」と、トモナガも首をひねった。
 船から見る岩は元のボウリングのピン形になり、ちょうど船上からは、右岸のカーブに隠れるところだった。                      
 ささやかな熱を伝えていた日差しが翳ってきた。「空」を仰ぐと、遥かな高みにある天蓋部分から、染み出すように暗い雲が湧き出ていた。
「雪になるかもしれん」
ヤンがぽつりと言った。
「寒くなってきたな。中へ入ろう」
 暖かい船内で二杯目のコーヒーを飲みながら、ニルヴァはヤンが体験したことの意味をぼんやり考えていた。ヒントのようなものが浮かんでいたが、航海の終わりに話そうと思った。

 中流域へ

 渓谷に雪が降り始めた。
 エンジンのない船は音もなく水路を流れていた。時々小さな波が船縁をたたいた。 
 トモナガは船倉で調査の準備をしていた。資料採取用の道具や測定器を点検しながら、本来の考古学者の表情に戻っていた。ヤンはしばらく水路を見張っていたが、すぐ電脳に仕事を任せる気になり、船室のベッドに寝転んでコミックを読んでいた。
 ヒューイは始終機械の調子が気になる性質で、船内を点検して回る癖があった。小さなハンマーで、配管用パイプや構造フレームの取付け部、船体などを軽く叩いた。静かな船内のとんでもない方角から、さまざまな音色の打撃音が響いた。間近で金属音が響くと、さすがにヤンが顔をしかめた。
 
(2周目)                                 
 ニルヴァはブリッジで独り外を眺めていた。
 ラプサイトの山岳地帯が続いていた。見慣れない山や森に雪が降り積もっている。水があるところに雪はあるのだった。ニルヴァはラプサイトの星に雪が降る情景を想像した。夜の海、雲間から出た月の光が海面を照らしている。ゆるやかにうねる波の上に雪が降りかかる…。地球に似た水の豊かな惑星に違いない。ラプサイトの星系が銀河系のどこに位置しているのか、未だはっきりと解らないのが不思議だった。最新の説によると、銀河系のオリオン腕の一角の、ささやかな人類の版図から銀河中心へ結んだ直線を、銀河面上の時計回りに十度プラス・マイナス一度の方向、距離にして五千ないし七千光年の範囲と推定されていた。
 今もその星はあるのだろうかと、ニルヴァは思う。
 ラプサイト人の足跡を人類が知った時、すでに六百万年がたっていた。しかし宇宙のスケールで六百万年の時間差というのは、人類と未来の「惑星タルサ人」の時間差五億年に比べて、ニアミスと言えるものだった。ましてこの宇宙には、すでに百五十億年の歳月が流れている。
 六百万年後の現在、ラプサイトの星と住人の消息は依然謎のままだった。遠い昔に滅んでしまったのか、あるいは神のような存在に進化したのか、それを知る手掛かりは全くなかった。ただ彼らの生活や母惑星の環境を伝えるものは、そっくりそのまま人類の手に渡った。「ラプサイト人の遺跡」内部は、彼らの居住した世界を再現したものに違いなかった。もっとも、人類の遠い祖先が樹上で生活していた時代の、彼らの世界だったが―。
 
 ニルヴァはディスプレイに「内世界」の見取図を表示した。内世界は差し渡し二十キロメートルの円形で、中心部にある直径九キロの「海」を、幅五キロの「陸」の部分が取り巻いている。「陸」は、水路をはさんだ幅一キロメートルの「地盤」が山岳地帯や平野部を形成しながら、円の外から内へぐるぐる渦巻き状に巡っていた。断面図で見ると、陸は「高地」から「低地」へ階段状に五層に仕切られていたが、水路つまり内世界の大河に沿った、幅一キロ、延長二百二十キロの細長い陸地であった。 南風号の位置は見取図に赤い輝点で示されていたが、それは今、最外周の水路から二周目に差しかかるところで点滅していた。
 輝点の部分を拡大していくと、一本の水路を俯瞰する画像にズーム・アップし、南風号の姿が現れた。画像をさらに拡大すると、船はディスプレイの半分位のサイズになった。画面を切り換えると、船の真上から見た画像から、正面、横から見たものへ次々に入れ替わった。不意に、画面の船の上を何かが通過した。ニルヴァがブリッジから外を見ると、巨大な石造りの橋の下をくぐり抜けるところだった。(船内午後5時、内世界7時=昼前)
 「中流域に来た」
 ブリッジに入ってきたヤンが言った。
「さっきの橋で、山岳地帯は終わった。これから平野部が始まる」
 橋を一つ抜けて、周囲の景観が一変した。渓谷の深く狭まっていた両岸が、左右に広がった。水路の幅が拡がると流れが緩やかになった。薄日が射し、気温が上がってきた。自然の川のような水路の両岸は、緑濃い森や小高い丘陵、小さな湖や小川のような流れが点在していた。そして、ねじり棒の先端を尖らせたような大小さまざまの塔が、青や黄、緑、朱、そして金色にぴかぴか輝いて、なだらかな緑の斜面の中に立っていた。そして斜面が波のように重なり合う彼方に、遠く山脈が青く霞んでいた。
「やっと春が来たようだな」
ヒューイがブリッジへ上がって来た。
「〝森は生きている〟の世界だ。季節が舞台の転換のように突然変わる。彼らの居住星がこんな風にきまぐれな気候だったのかな、ヤン」
「それは分からん。ここは人工の世界だから特に誇張されているのだろう。箱庭のような構造なんだ。たとえば、こうやって船上から眺めるととても広々として見える。あの山脈が遥か遠くに見える。でも本当は、せいぜい五百メートルくらいしか離れていない」
「あの鳥だって本物じゃないからな」
ヒューイの視線の方向、HR系恒星型スペクトルの明るい光が降ってくる「空」に、数羽の鳥が舞っていた。
「見せかけの技術さ。自分たちの故郷の世界を再現しているが、限られたスペースでスケール感を巧妙に演出しているんだね」
 一見、豊かなラプサイトの自然が溢れているように見える内世界は、実際は完璧な人工物の世界でもあった。鮮やかな緑、樹の陰で動く小動物、空をゆく鳥のすべてが、生物ではなく一種の機械だった。そうでなければ、ラプサイト人のいない六百万年の間、内世界のシステムを安定的に維持することは不可能だったに違いない。


提案(船内午後6時、内世界8時=正午)

 中流域に入って一時間。水路はますます幅が広がり、大河の流域のような風景が展開しつつあった。小川や、その他の小さい用水路から水の流入があるとはいえ、全体として水路の流量は、南風号が航行を開始した地点の二十パーセント程度しか増加していなかった。反面、水路幅はおよそ十倍にもなっていたので、中流域での水深はごく浅いはずだった。実際ディスプレイに表示された水路断面は、水路の水深が南風号の喫水下三メートル位であることを示していた。
 船は広々とした水面の真ん中を滔々と流れていく。と、両岸のあちこちから微妙に空気を震わす音が次々と響き渡った。高く低く、不思議な心地よい響きが、五色のねじり棒の尖塔から伝わって来るのだった。
「正午の時報だ。内世界のお昼だよ。船内時では午後六時だがね」とヤン。
「そういえば腹が減ったな。ランチであり、かつディナーでもあるような物を喰いたいな」
 ヒューイが目をくるくるさせながら欲張った提案をした。
「諸君、今しばらくこんなもので飢えを凌いでくれたまえ」
トモナガが芝居がかった口調で、サンドイッチを載せた盆を運んできた。
「キッチンで作ってきた」。
 四人は万能ティーサーバーで入れた紅茶を飲みながら、ブリッジで合成ツナサンドをつまんだ。雑談の途中、トモナガの口調があらたまった。
「今回はどうも未踏のE領域へ行けそうなんだ」 
 皆の視線がトモナガに向いた。ヤンが静かにうなずいた。
「ヤン、君から説明してくれ」
 ヤンはサンドイッチの残りを紅茶で飲み下した。
「みんなも知っている通り、一時間後には最初の上陸可能地点に着く。今回はパスするが二周目の終わり頃、だいたい十八キロ下流だね。そこから町が始まるわけだが、その地点で水路が二本に分かれる。陸も三つに分かれるが、水路の上流から見て左岸を『A』、右岸を『B』、真ん中の島を『C』と呼んでいる。二本の水路は、左がアルファ、右がベータだね。前置きが長くなるが、新人が居るので」
 ヤンはニルヴァを見やった。
「さらに十八キロ下流で、アルファ、ベータはそれぞれ支流をつくる。ガンマとデルタだ。だから水路は、左からアルファ、ガンマ、デルタ、ベータの四本になる。新しい島は左が『D』、右が『E』となる。つまり陸は、下流に向かって、左からA、D、C、E、Bだね」
「E領域以外は行った」ヒューイがつぶやいた。
「アルファ川沿いのA領域から上陸したんだ。歴史的に言うと」
「そう。内世界探検史は、左岸のAが最初で、次に島『C』、そして最近といっても五年前だが、右岸のBと島『D』が開放された。手つかずで残っているのが島『E』だ」
 ヒューイが頭を振りながら、
「それでEへ行けるって、どうして? あそこは聖域だっていうぞ」
「聖域というなら、他の陸地内にも行けない所はたくさんある。この前だって途中で引き返したじゃないか、ヒューイ。話を本題に戻そう、前回の調査報告書に〝初めてデルタ水路へ進めた〟と報告されている」
 ヒューイが反論した。
「しかし上陸は出来なかった。E島の埠頭が開かなかった。クルーの一人から直に聞いたから間違いない。E島はわれわれに門戸を閉ざしているのさ」
「いや例のクルーの話は裏があってね、船が接岸できるよう埠頭の入口は開いたが、パイロットの操船ミスが原因で、下流へ流されてしまったというのが真相だ。私はヘマをした当人から詳しい事情を聞いたんだ。ヒューイの友人は、仲間をかばったのさ」
「そうだったのか…。確かにデルタ水路へ入れたことは画期的なことだ。それで、前回E島への門戸が開いたから、この航海でも同じ事が起こり得る、と言いたいんだな?」
「そうだ。可能性としてだがね」と言いながらヤンは自信ありげだった。

ベータ水路へ

 内世界の正午が過ぎ、さらに気温が上昇した。
 この一日の短い世界で、日はすでに傾きかけていたが、午後のゆったりした時間の流れが感じられた。彼らの船は、中流域の田園と言うべきラプサイトの緑濃い野から、徐々に集落の稠密な町が連なるほとりへ流れていった。

 ラプサイト内世界のデザインは懐古趣味で貫かれていた。それは宇宙へ乗り出す前の世界、科学技術文明の初期の頃、地球で言えば、十九世紀中葉のような時代様式ではあるまいかと、推測されていた。惑星の自然は未だ大きな改変を受けず、人々が技術文明に素朴な夢を抱いていたような時代である。
 内世界の住宅や公共建築物が、人類と異なる星の文化の所産であるにもかかわらず、見る者に、歴史的感慨とある種の共感を引き起こすのだった。
 もちろんニルヴァらは、ラプサイト発見後二十年の間に、異星人の文化に慣らされたのかもしれない。遺跡都市に教育されたのである。
 内世界は、極度に理想化された世界でもあった。長い歴史を持つ文明でさえ、歴史上黄金期と呼べる時代は、そんなに多くはないだろう。ある過去の時代が一つの黄金期であったと回顧される場合、後世十分な財力と動機さえあれば、その時代を再現するかもしれない。ラプサイトの人々は、まさにそうした条件を備えていた。そして再現された世界は、決して事実あった世界ではなく、回顧された世界であるが故に、美しく理想化されているだろう。たぶん彼らは異郷の星の上に、回顧されたユートピアを造営したのだ。

 南風号の行く手で水路が二つに分かれていた。水路が分岐する所で始まるC島は船の舳先のように尖っていた。船は右の水路、ベータへ針路を取った。船はオートパイロットで操船されていたが、船の航海士ヤンはブリッジで前方の航路を確認していた。ニルヴァはデッキ上で、水路を渡って来る心地よい風を受けながら、岸辺に建つラプサイト人の家並みを眺めていた。絵や写真のようなメディアでつくりあげたイメージとも微妙に異なる実物の風景だった。汎人類文明と出自のことなる文明の所産であるにもかかわらず、ラプサイト人の生活の場所は、ニルヴァにとって彼の知らぬ地球のものに似ているように思われた。すくなくともニルヴァが生まれ育ったホルスやこのタルサ、他の同じような境遇の植民星(ほとんどそうだったが)より、はるかに地球を連想させる風景だった。

 船は三分割された陸地の二つ、遺跡中心側のB地とC島の間のベータ水路を進んだ。C島の反対側と陸地Aの間にはアルファ水路が流れているはずだった。南風号が行く水路の左岸、C島の河岸に溶けかかった飴のような形状の建物が延々と続いていた。それは半透明の琥珀色をした壁面がうねうねと不規則につながり、建物の屋根はなだらかな山脈の稜線のように緩い曲線を描いて、あたかも生物の神経波のパターンをなぞっているかのようだった。敷地内には細い水路が引き込まれており、患者らは水に浮かべた小舟で病院内の美しい庭園を巡ったということだ。
 もちろん庭園には、河岸と同じように彼らの愛したミズキリ樹が鬱蒼とした緑のジャングルを形成していた。ニルヴァは神経を病んだラプサイト人たちが、この庭園のなかを散歩しているイメージを想像した。そして今にも琥珀色の建物の窓から彼らの一人が船上の自分を見つめているような錯覚さえ抱いた。
 ラプサイトの少なからぬひとびとが異郷の地で精神を病んだのは無理からぬことのように思えた。定説によると、彼らは発生学的に見て地球上の爬虫類に似た沿革を経て進化していた。あくまで哺乳類である人類との比較に限っての類推だが、爬虫類の生物は環境の変化への適応性に欠けている。文明が星ぼしへの旅に乗り出しても、生まれ故郷の大地への郷愁が強かっただろう。
 船は広大な病院一帯の自然公園を通り抜けていった。
 ニルヴァはラプサイト人のこころを癒したという自然公園を見たかったが、ヤンに諭された。「船が着けられない。異星人であるおれたちはここで上陸できない。彼らにとってそっとして欲しい聖域だろう。だから先へ進む。あと一時間もすれば必ずどこかに上陸できる」

上陸

 ラプサイト時間の正午(八時)から二時間たち、日が傾き始めていた。船はC島の奥深く進んでいった。古い鉄道施設や公共の建物が並んでいた。ここかしこに船を係留するための小さい入江があったが、入り口が閉鎖されていた。

 一時間後、行く手のベータ水路はさらに二つの水路に分岐した。つまりベータとデルタ
であった。ヤンはみずから舵輪を操った。船は島Eを右に見る方向、つまりデルタ水路へ入っていった。島Eは島Cと陸地Bの間に出現した。これより以後、E島は河口近くまで幅百二十メートル、長さ八十キロの細長い陸を形成している。もちろん他の四つの陸も同様である。水路が四本に増えて陸も五つになったため、それぞれの幅は百メートルから百二十メートル位に狭まった。船上から見る景観は、まさしく運河を巡らせた異郷の都市だった。

 今やデッキの上でニルヴァのほか、トモナガとヒューイも成り行きを見守っていた。未踏の島Eが彼らの右舷をゆっくり過ぎていく。日はさらに傾き、彼らの斜め後ろ、つまり上流C島方向から射す夕日が、E島のぎっしりと建て込んだ、居住区らしい中層のくねくねとした建物群をオレンジ色に照らしていた。デッキのうえに立つニルヴァら三人の長い影が水面に伸びていた。
 E島の左岸前方にミズキリ樹とファラッパ木の生い茂ったこんもりとした公園が見えてきた。さらに遠い向こう、E島かB地区か定かではないが寺院らしい捻り棒の尖塔が家並みの屋根越しに見えた。
 ヤンは船をE島の左岸すれすれの距離に保っていた。不意に係留地が開いても、首尾よく船を入れるためである。やがてそのチャンスがやって来た。船一艘をようやく収容できる小ぢんまりとした船溜まりの一角が開いていたのだった。この機会を逃せば、もう下流ではチャンスがないかもしれない。船上のだれもがそう思ったに違いない。ヤンは一瞬の躊躇いもなく船を滑り込ませた。
 船溜まりの中は水流が反射して逆流が立ち、船は都合よく減速できた。しかも自然に岸辺の方へ寄せられた。トモナガとヒューイは大急ぎでゴムのパッドを右舷に垂らした。しかし船着き場にも厚いパッドが被せられていて、船が接岸した時に軽くバウンドした。トモナガは岸に飛び下り、船から繰り出したロープを係船柱に結わえた。
 南風号の乗員たちは九時間ぶりに陸地に上がった。短い一日が暮れかかっていた。C島の小さい丘に沈みかかる日が、最後の眩しい光りを船着き場に投げ掛けていた。
 彼らはその広場で金色の夕日の中に立ちすくんだまま、しばらく町のたたずまいを見回した。トモナガは腕時計を見た。船内時で二十二時だった。ヤンとヒューイは目を細めてぼんやりと通りを眺めた。ニルヴァと眼が合った。
「今晩はここで泊まるよ」
トモナガがニルヴァに言った。ニルヴァは一瞬目を輝かせた。が、トモナガは「ここでキャンプするわけじゃない。寝る時は船の中だ」
 日が沈み、夜の気配が漂い出した。ヤンとヒューイが魔法から解けたように船の方へ戻っていった。
「さあ、おれたちも船へ戻ろう。晩飯の準備だ」トモナガとニルヴァも船に向かった。水路に沿って一列に並んでいる街灯が点灯し始めた。

晩餐

 ヒューイが夕食を波止場でしようと主張した。折り畳み式のテーブルと椅子が船から運び出された。テーブルに真っ白のクロスが敷かれ、トモナガが腕を振るった豪勢な(船のキッチンで作ったものとしては)料理が並んだ。船のマストに吊るされた投光器が広場の一角を明るく照らしていた。まるで撮影中の映画のセットのようだった。船の冷蔵庫から取り出されたシャンパンが空けられた。
 二杯目のシャンパンが注がれたグラスを口に運びかけて、ヒューイはふとつぶやいた。
「ニューオーリーンズ広場みたいだ」
「なんだって?」ヤンが聞き返した。
「そういう場所があったんだ。むろん昔の地球の話で…今もあるのかどうか知らんが…」
 ヤンはナプキンで口元を拭って静かに言った。
「そうかい。ここが、そのニューオーリーンズ広場とやらに似てるんだね」
「ああ、なんとなく思いついたんだが…それにしても良い晩じゃないか」
ヒューイはE地区の家並の上に掛った大きな満月をうっとりと眺めた。青白く輝くその月は、彼らのいる波止場の建て込んだ家並みの背後から、するすると宙天に昇っていた。
「酔ってるのかな」
ヤンはトモナガを見た。トモナガは首を横に振って苦笑いした。
「たぶん疲れてるんじゃないか。でも、ニューオーリーンズという地名は聞いたことがある。ヒューイの先祖が住んでいたのかもな」
トモナガはシャンパンで真っ赤になっていた。
「私は地球へは行ったことがない。地球の地名を聞いてもちんぷんかんぷんだ」
ヤンは一切れ残った合成肉を名残惜しそうに口に運んだ。
トモナガがコーヒーを飲みながら言った。
「こんな季節の夜は、あの明かりに昆虫がいっぱいやって来るさ」
マストに吊るしたライトを目で示した。
「光りをもとめて小さい虫がわっとね」
虫と聞いてヤンが眉をひそめた。ニルヴァもぞくっとした。魚と同様、ホルスに虫はいなかった。
「ラプサイト人の故郷にも虫はいただろう。でもここにはいない。必要ないからだ。こうして川岸に座っていても、気持ちのいい夜風も入ってこない。人工の世界だからだ」
 静かな夜だった。しかし全くの無音というわけでもなく、デルタ水路のせせらぎや波の音、地下の導水管を流れる水の音が聞こえてきた。風の音もあった。送風機からランダムに吹いてくる微かな風の音だ。それと、月光で明るい上空から聞こえてくる羽音。二羽の黒いスパイ鳥が、先程からこちらの様子を窺っていた。彼らの赤いレンズの眼が捉えた晩餐の映像が、いったいどこへ転送されているのだろうかと、ニルヴァは思った。
 投光器の明かりを減光すると、満月の夜だったが星がよく見えた。もちろんニルヴァらが知っている夜空ではない。一見見覚えのある星座があるような気がしても、錯覚だった。

夜の散歩

 彼らは、晩餐の後片付けを済ませると散歩に出ることにした。と言ってもわずか三十分の予定だったから、波止場からせいぜい一キロ位しか足を延ばすことはできない。
 幸い夜道はまったくの暗がりではなかった。一定の距離で街灯が灯っていた。ヤンがニルヴァに言った。
「まったくご親切じゃないか。六百万年後のわれわれ侵入者の足元を照らしてくれているんだから」
 ヒューイがやんわりと反論した。
「われわれは客人だよ、ヤン」          
 彼らはデルタ水路沿いに上流の方向へ五分ほど歩き、左に折れてE島の反対方向へ進んだ。水路沿いの見通しのよい道と打って変わって、急に曲がりくねった剣呑な路地に踏み込んだ。しかも道は勾配が微妙に上下しており、道の両側に並ぶ家々は小ぢんまりとしていたが、誇張された遠近法が用いられたり、まったく同じ家が並んでいたりで、来訪者を惑わすために造られかのような街並みが続いていた。
「この街は特に遊びが過ぎるな。マップがなきゃ一分もしないうちに迷っちまう」
 彼らは十分程で迷路のような街区(と言っても直線にして百メートルの距離だった)を通り抜けてE島のベータ水路側へ出た。夜でもあり、十分前とまったく同じ風景のように思われたが、月の明かりに照らされた街の様子は幾分異なっていた。例えば、ベータ水路を隔てたB地区の背後には、黒々とした山脈が望見できた。

「そろそろ引き返そうぜ。眠くなってきたよ」
ヒューイがくたびれた声で言った。
「そういえば船内時で十一時半だな。帰りを急ごうか」
トモナガが時計を見た。彼らは来た道から一ブロック下流の道を帰途に就いた。その通りは街灯が消えていた。彼らはライトを点灯しようとしたが、その必要がないことがすぐ分かった。通りは、来た道と同じように不規則に曲がりくねった道だったが、最初のカーブを過ぎると、ちかちかと輝く小さな明かりが目に入った。それは通りの両側の家々にくっ付いた小さな光の種子のようだった。一つ一つがそれぞれ変光しながら瞬き、通りに沿ってきらきらしとた光の通路を作っていた。
 ヤンが呆れたような声で言った。
「まるで…クリスマスみたいじゃないか」
「ほんとうだ。氷の結晶が光っているように見える」
トモナガが言った。彼らは通りの中ほどで立ち止まり、しばらく光りの乱舞に見とれていた。
「きれいだ」ヒューイが呟いた。
 ニルヴァは故郷のクリスマスを思い出して嬉しくなった。そしてあることを思いついて声に出した。惑星ホルスでは決して味わえないもの――。
「雪が降らないかなあ」
 ニルヴァが言い終わるやいなや、凍えるように冷たい風が、通りに吹き付け始めた。予期しない寒風に彼らは震えた。
「まさか…」
誰かが夜空を見上げた。すると今は星空も見えず、大急ぎで製造されたらしい黒い雲の固まりから、次々と白い雪が降り始めているのだった。ラプサイト精神は、しばしば過剰を好む。彼らが通りを抜け出た時には、四人とも雪まみれだった。あっという間に降り積もった雪ではしゃいでいる内はまだ良かったが、膝まで雪に没するようになると、彼らも恐怖を感じたのだった。クルーは地球育ちのトモナガも含めて、全員が大雪の経験など皆無なので、彼らの恐怖感をことさら募らせた。マップにガイドされなければ、彼らはその通りで凍死していただろう。
 波止場には、何事も無かったように南風号が彼らの帰還を待っていた。ニルヴァたちが振り返ると、通りの上空で最後の雪雲が暗い空の一角に吸い込まれていくところだった。
 彼らは心底ほっとしながら、しかし恐怖と寒さに震えながら船に乗り込んだ。彼らは濡れた衣服を脱ぎ、乾燥室で体を暖めながら、たった今体験したことを口々に喋り、大声で笑い合った。今までに何度も危ない思いをしながら、なお未知の危険がどこに潜んでいるのか予期できないことを、クルーは思い知らされた。それが滑稽だったのだ。
自分の一言で本当にああなったのだろうか。ニルヴァはただの偶然には思えなかった。だとしたら、遺跡都市は単なる機械的システム以上の「何か」ではあるまいか―。

 消灯

 南風号の乗員たちは各々ベッドに入っていた。すでに船内時刻は一時。ヒューイとヤンは眠りについていた。ニルヴァと、通路をへだてたトモナガのベッドの双方から明かりが洩れていた。
「まだ寝ないのですか」ニルヴァはそっとたずねた。
 仕切りのカーテンが開いてトモナガの顔がのぞいた。
「やあ、もう寝るところだが、前回のD地区の報告を読んでたのさ。それより君も眠ってなかったのかい」トモナガも低い声である。
「今日一日を振り返っていたんです。長い一日でした。昨日の今頃は、まだ汽車に乗っていた。寝台に揺られていたんですよ」
「それが今はラプサイトの船のベッドの中ってわけだ」
ニルヴァは笑った。
「そうなんです。本当に遺跡都市の真っ只中にいるんだなあと…」
「内世界へはこれで三十七回目になるが、正直いつも戸惑っている。何かしら変わったことが起きる。この空っぽの都の中で」トモナガは苦笑した。
「内世界には本当に誰もいないのかな」
ニルヴァは独り言のように呟いた。汎人類世界でこれまで何千回、何万回となく繰り返されてきた問い掛けでもあった。
「生物反応は無い。そういう意味では誰も住んでいない。しかし内世界の精神のようなものを感じ取れるのは、ラプサイト人がここを立ち去る際に、システムに託していったのだと言われている。ただ…」
 ちょっと言い淀んだ。
「彼らが退去して六百万年になるが、あちこちに綻びが出てきたと思われる。内世界は少しずつ傷んできているようなんだ」
「ゲートが開く間隔がしだいに延びてきていると聞きましたが」
「そうだ。最近は一週間も閉鎖されることがある。その間に壊れた箇所を修復しているのだろうが、直し難くなっているようだ。ひょっとすると、内世界が崩壊する前兆かもしれん」
トモナガは欠伸を噛み殺しながら言った。ニルヴァは不安になった。
「何かのきっかけで…、つまりこの内世界が不要になる時だが、ラプサイト人が遺していった機械脳が、このシステムを不要と判断した時に、内世界は崩壊、または閉鎖されるだろうということさ」
「それはいつでしょう?」
「十万年後かもしれないし、明日かもしれんな」
「少なくとも今の調査が終わらないうちは起こってほしくないが…」
 ニルヴァとて同感である。
 もちろんラプサイトの技術といえども完全無欠ではないだろう。この宇宙で完璧なシステムなどないのだ。それはニルヴァもわかっていた。しかし遺跡都市は別なのだと思いたかった。
 この空っぽの都市は、かつてラプサイト人が一千年居住した世界なのだ。汎人類文明が歴史上初めて出会った異星文明を伝える巨大な装置である。遺跡都市に魅せられた他の多くの人々と同様に、ニルヴァにとっても小さい頃からの夢だった。しかし人類に先行する知的文明の解明は、まだ端緒に着いたばかりだった。というのも過去五百回におよぶ内世界の調査でも、文書もしくは他のあらゆる記載方法による彼らのデータの在り処が発見されていなかったからである(遺跡都市の、現在までに公開された場所に限ってだが)。
現在のルールを順守する限り、内世界ではいかなる記録も見つからないと思われた。荒っぽい野蛮な方法で彼らの情報を入手する手段も何度か検討されたが、内世界の施設の破壊を伴うので、過去の数少ない例からしても〝メモリーバンク〟(どこかにあると仮定してだが)へはとても無事に辿り着けるとは思えなかった。
 ラプサイト文明への敬意からだけでなく、そっとしておく以外にないのだった…が、それにしても惜しい話だった。遺跡都市内部へ招待されながら手引書、もしくは「本」のような物を入手できない理由について、様々な説が流布された。
「訪問者の自立的な発展を阻害せぬよう、意図的に情報が隠されている」という説が有力だったが、これに対して、彼らの簡単なプロフィールまたはメッセージが、異星人(=訪問者)の自律的発展を妨げることにはならない筈…という反論があった。
 結局彼らはただ謎めかしているだけではないかという意見もあり、この論者によると先行する宇宙文明というものは、後発の星の住人の前には決して姿を現さない。非常に思わせぶりな形跡を残すのみで、発見者は解釈に苦しまざるを得ない。理由は、発見者の属する文明に深刻なカルチュアーショックを与えないためだが、と言って偏狭な自己中心主義にも陥らせぬよう、宇宙文明の存在を小出しに示唆するために、謎めいた形式を取らざるを得ないと言うことだった。
 もっともこの論者は別項で、われわれの眼前にある先行文明の痕跡は、彼らの単なる遊戯の所産に過ぎないのかもしれないと、感想をもらしている。
 しかしともあれ、汎人類世界は、先行文明―ラプサイト文明から何か有益なメッセージ、もしくは有用な情報を、割合容易に得られるだろうと楽観していたことは間違いない。まして前世紀末の惨事から一〇〇年が過ぎ、汎人類世界は深刻な停滞期からようやく抜け出そうとしていた。ラプサイトから得た知識で、飛躍のきっかけを掴もうと考えたとしても不思議ではなかった。
 しかし遺跡都市発見から五〇年たった今、当初の熱狂に代わり、白けた幻滅が汎人類世界に広まっていた。どうやらこの空っぽの都市は、本当に「空っぽ」ではないのかと。なぜなら、知識の貯蔵庫と言えるものが見つからなかったからである。
 人類の知り得ない方法で、例えば、次元の異なる空間などに配置しているのかも知れなかったが、人類が関知できない保管庫は、当面無いも同然だった。
 それでも遺跡都市は内世界に残された数少ない文字とともに、宇宙考古学の主要な対象であり続けた。惑星環境生態学者は内世界を手掛かりにラプサイト人のプロフィールを作成していたし、天文学者は、内世界の夜空の星座からラプサイトの主星の位置を推測していた。そしていつの日かラプサイトの遺跡が、人類が理解できる形式で一遍のストーリーを語り出す時が来ると、広く信じられていた。ただ、それまで内世界が持てばの話だが…。

 ――夜明け前。
内世界の「海」の底から浮かび上がったものは、水面上に出ると急激な気圧膨張を起こした。爆発と言ってもいいくらいの膨張速度だった。「海」の中心部で発生した衝撃波が「入江」に達すると、その一陣の暴風はたちまち水路の上流に向けて陸を遡っていった。外周から三周目になると、さしもの暴風も陸上の様々な障害物のためにやや勢いを落としていたが、それでも風速四十メートルのひとかたまりの風が、その街区を駆け抜けた。町並みの屋根や路地に溜まった埃や小さなごみも一緒に巻き上げられ、飛び去った。埠頭の中の南風号はロープでしっかり結わえられていたが、突風にゆらゆら揺れた。船室の四人はぐっすり眠り込んでいたので、みじろぎ一つしなかった。三十分後、重量物を積んだ巨大なはしけが水路を音もなく下っていった。

 二日目

(船内時〇六時)                                
 船の動く気配でニルヴァは目覚めた。ブリッジへ行くと、南風号は埠頭を出てふたたびデルタ水路の流れに入っていくところだった。内世界二日目の朝である。空は曇り、E島の岸辺はまだ薄暗かった。ヤンは用心深く舵輪を回した。ニルヴァは湯気の立つコーヒーとサンドイッチをヒューイから受け取ると、折り畳み式の椅子を引き下ろして座った。サンドイッチを食べながら電脳のコンソールをいじっていたヒューイがディスプレイを指差して言った。
「内世界の一時頃に掃除屋が海からやって来たようだ。ほら、ここで大風が吹いている」風力を示す波形グラフがそこで大きく揺れていた。
トモナガが笑いながら言った。
「みんな疲れ切っていたんだな。誰も気がつかなかったみたいだ」
 ニルヴァは何のことか分からないので、怪訝そうな表情を浮かべた。ヒューイが説明した。
「深夜に吹く暴風のことだよ。夜中に船がちょっと揺れたはずだが、君は気が付かなかったかい?」
ニルヴァは頭を振った。
「内世界にたまるごみや埃を強風で一掃するんだ。上流からと下流からと、毎日風向きが変わる。どうやって風を起こしているのかまだよく分かっていないが、一種の真空状態を作っているらしい。つまりこのチューブ状の内世界が、真空掃除機のホースの内部のようになるとおもえばいい」
 南風号はデルタ水路をゆっくり進んだ。ヤンは食事時以外はずっと舵輪を握っていた。トモナガはブリッジの天蓋から頭だけ外へ出して、E島を注意深く眺めていた。時々双眼鏡であちこち見ていたが、口数は少なかった。


上陸

 内世界の水路、四周目に入ってすでに一時間半が経過していた。ヤンは相変わらず用心深く船を水路の流れに乗せている。わずかな小休止を取る時以外、オートパイロットを切り、ほぼマニュアルに近い操船をしていた。水路デルタは四周目に入って二つの支流に分かれ、さらにそれぞれが二つの支流に分かれた。南風号は今、水路が網の目のように張り巡らされた水の都の中をゆっくり進んでいた。
「われわれに開かれる水路はいつも一定していない」ヤンが舵輪を握ったまま言った。
「内世界にたぶん無数にある分岐点の、どちらへ流れていくのか分からない。常に通過してしまうエリアがある。そこはわれわれが決して足を踏み込めない場所なんだ」

 水路の幅は、南風号の船体長と同じくらいだった。水路の両岸は背の低い建物がきっちりと並んでいた。運河に沿って道が付いているが、運河を跨いで各島を結ぶ橋が見当たらなかった。彼らは常に船で往来していたのだろうか? 
「空」から眩しい日が射し、気温が上昇していた。夜明けから下流へ流され続けて三時間、一日の短い内世界の、昼近くになっていた。船上の四人は黙りこくったままだった。狭い水路の両岸が過ぎていった。

 水路が縦横に走るこの地域では、水路自体もゆるやかに蛇行し、行く手の見通しは良くなかった。ヤンは慎重に舵を操りながら水路を進んだが、あるほとりで素早く舵を右に切った。そこは古びた倉庫群の一角にある波止場のようで、内世界の時代にすでに打ち捨てられた場所のようだった。ヤン以外の三人は一瞬無反応だったが、すぐ我に帰ると、自分の任務を思い出した。うとうとしていたニルヴァはすんでのところで、椅子から転げ落ちる所だった。今度はクルーの一員らしく船の舫を岸に結わえようと、デッキに上がった。ヒューイがあわててニルヴァを制止した。
「おいおい、まだ距離がありすぎらあね」
 ニルヴァらが見守るうち、南風号は古びて朽ちた木の船着き場へ距離を詰めた。ニルヴァとヒューイは埠頭へ飛び下り、船から繰り出したロープを船着き場に繋いだ。南風号のクルーは船倉から道具を運び出した。内世界探索用の「七つ道具」と採取品を運ぶカートが揃うと彼らは調査に出発した。

 古い倉庫群の一角を通り過ぎると、彼らはたちまち立ち往生した。なぜなら彼らの進む道は、別の水路で行き止まりだったからである。が、引き返す必要はなかった。彼らの立っている道の一部が、切り取られたように道路の延長から分離し、水路をわたって対岸へ動き出したからである。
「なるほど便利なものだ。水路の底にレールでも敷いてあるのかな」ヤンが首をかしげながら感心するように言った。
「気に入ったかい。あんまり手回しが良すぎてオレは気味が悪いよ」とヒューイ。
「これで島から島へ移動できる手段が見つかったんだからいいじゃないか」
トモナガは熱心な研究者的功利主義で判断していた。確かにここは彼の領分だった。実際のところ、橋が無いことに当惑していたのだ。
 移動する道の「切れ端」は、対岸へ着くとぴたりと新たな道の先端にくっついた。その島は見たところ何の変哲もない平地だったが、数本のレールが水路と平行に走っていた。島内だけの交通機関に鉄道が使用されていたのだろう。島の下流方向に操車場らしい施設が見え、ラプサイトの汽車が停車していた。その島は、トモナガの推定によれば「生活の匂いがしない」鉄道のための天国であるらしかった。
 そこで彼らはさらに水路を渡す「道」に乗って、隣の島へ行った。これ以上時間を無駄にできなかったが、幸いなことにその島は居住用だった。整備された道路が縦横に走り、あらゆる種類の建物が立ち並んでいる。手付かずの未踏の町が彼らの前に広がっていた。
 「手分けして調査しよう」
トモナガが提案した。時間を有効に使うためだった。「二時間後にこの場所に集合だ」
彼らは各々通りを一ブロックずつ分担した。
 ニルヴァはマップに現在地点が記録されたのを確認すると、指定されたブロックに向かった。トモナガが声を掛けた。
「二時間というのを忘れるなよ、ニルヴァ」。
「分かってますよ!」ニルヴァは振り返って叫んだ。
 各人が単独行となる場合、周囲の異郷の風景が一転して恐ろしい心理的障壁に変貌することがあった。そこで、南風号のクルーたちは、始終インカムでお喋りしながら自分の割り当てられた領域を撮影したり、ラプサイト人の遺物を探して回ることになる。
「なんだか、変な所に迷い込んだよ」ヒューイの声が流れた。    
「変ってどんな?」トモナガが応じた。
「ありゃ」
ちょっと間を置いて「建物に入ったが出口が見つからないんで、ずーっと進むと、元の所へ戻っちまった」
「そいつはよかった。こっちは書庫のような場所で…畜生、やっぱり例の空っぽの本ばかりのようだ」

 イヤフォンから流れてくる仲間の話声を聞きながら、ニルヴァは通りを歩いていた。その通りはまるで、地球の片田舎の町のようにのんきな感じだった。ニルヴァは何だか親戚の家に遊びにいくような、奇妙な懐かしさを感じていた。人気のない通り。六百万年前、ラプサイト人が住んでいた。イヤフォンを外して耳を澄ますと、彼らの日常生活がざわざわと聞こえてくるようだ。いや幻聴でなく、確かにニルヴァは、建物の中から何か聞こえたような気がした。
 ニルヴァはその建物の扉をそっと開けた。内部は薄暗くだだっぴろい空間だった。六角形のかたちをした巨大な部屋の壁際に、器械のようなものがずらりと並んでいた。器械は色とりどりの光りを点滅させ、聞いたこともない奇妙な音をたてていた。ニルヴァは一台の機械の前に立った。ガラスのような窓の奥に複雑な模様が見えた。美しい色の光りがくるくる動いていた。光りの動きに合わせて、鳥の囀りのような、可愛らしい音がしきりに鳴った。ニルヴァはその魅惑的な器械の前から離れ難かった。どうかして操作できそうに思えたが、うまく行かなかった。ニルヴァは器械から離れながら、たぶん、ラプサイトのコインがあったらうまくいくのにと思った。
 六角形の部屋から隣に続く扉は閉まっていた。仕方なくニルヴァは一度通りに出てから隣の建物に入った。そこは受付カウンターのようなものがあり、役場かホテルのような場所らしかった。
 次の建物には大きな書庫があった。しかし例によって、ラプサイト文字で書かれた書物らしいモノは背表紙だけで、中身は本の形をした空っぽの箱だった。そして手の届かない高いところの本棚は、どうやら絵であるらしかった。
 とうとうニルヴァはその通りの真ん中までやってきた。ひときわ派手な色彩の建物が立ち並んでいた。一軒の家に入った。たぶん土産物屋だろうとニルヴァは推測した。ショーウインドーのように透明な陳列ケースが置かれ、色とりどりのラプサイトの商品が美しく並んでいた。ニルヴァは一つ一つ手に取って眺めた。ひょっとして…ニルヴァは胸騒ぎを感じた。しかしここでも、ラプサイト人の姿形を暗示する物は、慎重に取り除かれていた。彼らは偶像を作らなかったのだろうか?――いや、そんなことはないだろう。異星人(ラプサイト人にとっての)に自分たちの情報を故意に隠す必要は、たぶん少しはあるかもしれない。しかし六百万年遅れて登場する存在に、如何ほどの注意を払う必要があるだろうか? 彼らがここにいた当時、たぶんこの辺の星系はすべて調査済みだったに違いない。その結果、いつか地球人類がここにやってくることも予想しただろう。六百万年という時間差の故に、絶対の安全圈にいる彼らが、遠い未来の新参者を恐れる必要はないのだが…。

 ニルヴァは宝石箱をひっくり返したようなショーケースを覗いた。黒色のビロードのような手触りの敷物の上に、きらきら光る装飾の類がばらまかれていた。たぶん、大方はすでに収集されているに違いなかった。事実二、三メインメモリーに照会すると、すでに登録済だった。エメラルドのように見える緑色の巨大な石を、ニルヴァは手に取った。ラプサイトの合金の枠におさまっていた。その深い緑色をじっと見つめると、彼らの惑星の海の色を湛えているように思えた。ふと、この石をミツコに持って帰ってやろうと思った。どうして唐突にミツコを思い出したのか不思議だったが、彼女の眼差しを連想したのかもしれなかった。少し感傷的になっていると自嘲気味に思いながら、ニルヴァはその石を個人用のポケットに入れた。              
 通信器が腰のところでバイブレーションを始めた。ニルヴァは急いでインカムを付けた。「はい何か」
「異状はないか。あと一時間だぞ」トモナガだった。                              
「了解です」
ニルヴァは会話を切り上げると、建物内部の目ぼしい品をメモリーに問い合わせ、未登録の数品を収集袋に収納した。そうした単純な作業に熱中しながらも、ニルヴァは何か不思議な、胸騒ぎに似た感情が少しずつ胸の中に湧き出てくるのを感じていた。 
―何か変だぞ。妙にぞくぞくする。           
 その部屋の調査を済ませて次の家に入った。目ぼしい物は無さそうだ。しかし何だか変に気分が高まってきた。そしてまた次の家へ。その家も、平凡なラプサイト人の住居に思えた。ぞくぞくする気持ちがひときわ高まりさえしなければ、やり過ごしていたに違いなかった。                                   
 その部屋に足を踏み入れると、高ぶった気持ちが徐々に鎮まっていった。ニルヴァはゆっくりと部屋全体を見回した。ニルヴァの視野の隅できらっと光るものがあった。ささやかだが決して見落とすことのない輝く一点が、ニルヴァの眼を捉えた。壁に掛かった小さな金属のプレートだ。星座を図案化した模様の一点が自ら発光していた。光はラプサイトの母星を表わしている。そしてそのプレートの飾り模様の下に、「ラプサイト人」の肖像が描かれていた。
 むろんニルヴァはラプサイト人の姿、形を知らない。ニルヴァのみならず、汎人類世界の誰も見たことがないはずだ。肖像の上にかかる光点は、次のような意味を込めて瞬いているように思われた。
―これが私たちだよ
円らな二つの赤い眼、ぴんと立った両耳から下顎にかけてゆったりと膨らんだ大振りな頬、小さな鼻孔と前にせり出した大きな口、額の真ん中から生えたアンテナのような二本の触角。
 その個体が、彼らの雄なのか雌なのか、或いは両性具有なのか、そもそも地球の動物学でなぞらえていいものなのか、肖像からは知り得なかった。肖像のラプサイト人は真直ぐニルヴァを見つめていた。「こんにちは」とも「さようなら」とも受け取れる表情のように思われた。肖像のモデルは、未来に出会う異星人に、一体どんな挨拶をすればいいのか戸惑っているようだった。
 ―君たちがここにやって来る時、私たちはいない。直接相見えることはなかったけれど、宇宙の長い歴史の中で、君たちとは本当に兄弟のように僅かな時間差で生まれたのだね。君たちが今いる場所は、私たちの故郷の星に似せて造った小さな世界だ。君たちのために幾つか仕掛けを作ったつもりだけど、一つ見つけたね―。
 ニルヴァは微笑んだ。
 内世界の秘密が一つ解けたからだ。彼らは後から来る者に幾つかの謎掛けをしていった。
 瞬いていた光点が薄れて消えた。そして一瞬の間を置いて肖像も消え去り、プレート上には複雑な文様の装飾が浮かび上がった。ラプサイト人は退場した。彼らは、宇宙文明の上層階へ再び戻っていった。

撤収

 ポケットの中の受信機がバイブレーションでニルヴァを現実に引き戻した。どのくらいの時間そこにいたのだろうか。
 「あと十分で集合だ。作業を終了して撤収したまえ」
トモナガの声が、ニルヴァの夢見心地を中断した。
 ニルヴァは自分がなすべきことを知った。幼児期から胸騒ぎを感じてきたものの正体とも言える。謎は一つ明らかになった。ラプサイト人のプロフィールの一つ―彼らの〝顔〟だ。ニルヴァは次の謎に向うことになると直感した。数学の公理を求める直截さで、ラプサイト遺跡都市の秘密の核心へ迫っていける。若者特有の性急さで、すぐにでも次の秘密を知りたかった。トモナガたちは、それなりに貴重な収集をしていた。ニルヴァの採取曩はわずか数品の、あまり値打ちのない収集品しか入っていなかった。  
                                   
 彼らは船に戻ると即座にもやいを解いた。内世界の日没は二時間後だった。南風号は迷路のような水路を人が歩く速度で下っていった。やがて網の目のように張り巡らされた水路から幹線の水路へ出た。流れが速くなった。様々な街が過ぎていった。ニルヴァは、船縁に座って水面と街並みを眺めていた。内世界へ来てから何時間、船縁にいたことだろう。

「人生は流れる川の如し、だ。そうだろ? ニルヴァ」
トモナガが不思議な節回しで言った。上機嫌なのは、今回の調査でラプサイト図書を一冊入手出来たからだ。船搭載の電脳では解読不能だった。基地へ持ち帰るのが待ち遠しくて堪らなかったのだ。
 
 南風号は日没ごろ海に出る。任務を終えた今、船はひたすら内世界の最後の水路を下っていた。水路の両側に立ち並ぶ建築物や塔の高さが次第に増していった。そして、行く手の水路の上、遥かな高みにアーチ状の橋が懸かっていた。水路の上をまたいで通す別の水路だった。海に近づくにつれて、アーチ橋が増していった。過剰を意味する「ラプサイト流」の典型のような都市構造だった。船が行く水路に交差するように別の水路が跨ぎ、そのまた上にも水路があり、その上にも…。ニルヴァたちが見上げる都市の景観の半分以上が、無数に重なる水路橋のアーチで覆い尽くされていた。
「あれを見ろよ」
ヒューイが指さす方向に、塔がついに空、つまり内世界の天井に繋がってしまった光景が見られた。それは、内世界の天井を支える支柱であるのかも知れなかったが、美しい曲線を描いて地上から伸びていき、基部と同様、裾広がりに天井に固着していた。
「まるで、龍巻の化石のようだ」ニルヴァは思わず叫んだ。
 確かに、それは螺旋状の形をしていて、その上、天井に接する辺りでは空の色に融け込んでいた。いったい、ラプサイト人のデザインは、精巧でメカニカルな幾何学性と、一見でたらめな不規則性の両面を備えていた。あたかも生物の特徴であるような。その塔屋にどんな用途があるのか、まったく不明だった。何か想像をめぐらしても、今は無駄だった。次の機会に待つしかなかった。

 もう海に近い。水路は、決して一本の幹線に収束されず、都市のすべての基盤を洗うように隅々まで行き渡っている。ここでは山岳もなく、大河川もなく、ただ大都会の奇想な構造物と精密な運河が入り組んでいた。彼らの船が、一つの巨大で繊細な塔の側を通ったときだった。不意に彼らの進む水路は中空に浮かんでいた。南風号のニルヴァたちは、その地下への開口部から下をのぞいた。そこには、明るく照明されたフロアーがあり、都市の地下世界が垣間見えた。ここもまた次の機会に訪れねばならないだろう…。
 ヤンは、船縁から長身の体を折るようにして水路の下をのぞき込んでいた。
「地下があったとは」フーッと大息を吐いて背筋を伸ばした。
「今まで気がつかなかった…」
「それにしても、えらく過密の都市だよな」とヒューイ。
「こんなにぎゅうぎゅう詰めにしなくたっていいじゃないか。彼らは凄い文明の持ち主なんだぜ。もっとゆったりとしたスペースを取ってもよかったんじゃないか?」
ヒューイは不満気だった。
 ニルヴァも同感だった。
「宇宙は広いんだ。この惑星タルサだって空き地だらけなのに…」
 トモナガはクルーとの隔たりを感じた。――彼らは要するに植民星の人間だ。彼らの故郷の牧歌的な都市に比べたら、地球の大都市の過密ぶりは想像も出来ないだろう――。だからトモナガは、こんな風に言わざるを得なかった。
「いやいや地球の都会によく似ていると思うよ」
「なんてこった」
 ヒューイはぞっとした。
 ニルヴァは、自分のアイディアの一端をさりげなく言った。
「必ずしも、住人はそんなに過密じゃなかったかもしれない」
「そうだな」
ヤンが相槌を打った。
「ラプサイト人にとって故郷を思い出すための装置だとすると、遺跡都市にそんなに人は住んでいなかったのかもしれないな」
 日が暮れかかっていた。ラプサイト人の居住星を模した世界の一日の終わりに、南風号は水路の終端に流れ着いた。船の前方に扉門があった。船が扉に近づくと、陸と海とを隔てる境界が開き、船が通過するとまた閉じた。

Ⅲ ラプサイト人の海


 こうして船は、空っぽの都市の運河から運河を下り、忽然として巨大な水面の拡がりへ流れ着いたのだった。それは一個の小世界が自己の内部に湛えた海であった。次元船はこの海で、地球の伝統的な船としての用途を試されることになった。
 南風号は水路から排出された慣性でしばらくゆっくり進んだが、水の抵抗ですぐに停止し、今は陸に近い水面上で漂っていた。
「凪だ。沖へ向かう風が吹くまで待つしかない」とヤンが説明した。
 ニルヴァは船のデッキから周囲を見渡した。南風号が出て来た陸の出口から海岸線が左右に伸びていた。灯火が点々と見える。それ以外に、海を取り巻いているはずの陸は見えなかった。沖の方角は延々と広がる海洋だった。水平線が空と海とを分けていた。そして、光りが失われていく空には、ラプサイト人の世界の星が瞬き始めていた。
 見事にシュミレーションされた海だとニルヴァは思う。
 黄昏色の残る水平線上に、明るい琥珀色の大きな月が現れた。暖かい風がニルヴァの頬を撫で始め、船の喫水で波がちゃぷちゃぷと音をたてた。
 何とも言えず気持ちのいい夕暮れの一刻だった。
「地球の海のようですね!」
言ってからニルヴァは恥ずかしくなった。地球の海を見たことがなかったのだ。
「そうさね、地球と同じ海の匂いがするよ」トモナガは空を見上げた。
「風が出てきたようだ。帆を上げよう」
 南風号のマストにメインセールが上がった。陸から吹き始めた風を受けて、南風号は海面を滑るように走り出す。南風号は洋上を航海する帆船となった。
「どこへ行くのでしょう」
ニルヴァは誰にともなく問うた。
「〝島〟だよ」ヤンが言った。ヒューイが頷いた。
「われわれは海の中ほどの〝島〟を見つけて、〝島〟の扉を探す。そこでゲートを潜って次元推進で元の地点、内世界の〝ターミナル〟に戻る」
「振り出しに戻るんですね」
「いや、もう一度旅をやり直す訳ではないから〝上がり〟と言うべきだ。〝ターミナル〟から、もう一度次元推進で、基地の港へ帰るのさ」
 船の舳先で前方を観測していたヤンが鋭く叫んだ。
「目印が見えたぞ!」
ヤンが指差す方向を皆が見た。水平線上に小さな明かりが瞬いていた。
「島の位置は変わっていないようだ」ヒューイが安堵して言った。
 とっぷりと日が暮れ落ちていた。空の一角に夕日の名残りがあったが、夜空には半月が上がり、その明るい光りが、ラプサイト人の星座を霞ませていた。航海は順調だった。一時間後には島に着くはずだった――。
 

渦の中へ
 
異変に気付いたのはヒューイだった。
「何だか空気が湿っぽくないか」
 確かに、島を示す明かりが霞んでいた。海面から靄が発生していることに皆が気付いた時には、すでに島の明かりが見えなくなっていた。と同時に、雲一つ無かった空一面に、どす黒い雲が湧き出し始めた。
「嫌な感じだぜ」ヤンが空を仰いで言った。
風が止み、雲が低く立ち込めてきた。南風号は帆を畳み、何事かを待ち受けるかのように海面を漂った。そこかしこで稲妻が走った。
 ニルヴァはふと、巨大なプラネタリウムの中の巨大なプールで、自分たちを乗せた小船が浮かんでいるイメージを思い描いた。そして思った。肖像のラプサイト人が予告した「仕掛け」は、まだ全部終わったわけではない。とすると次は…。
 ニルヴァの目の前で、トモナガの髪が逆立っていた。そしてヤンもヒューイも。ニルヴァは自分の頭に触った。自分の髪も同じだった。
「セント・エルモの火だ!」ヒューイが叫んだ。
 船のマストの先端から青白い炎がゆらゆら尾を引いていた。そしてデッキの上の誰もが自分の髪の先や手から、ぼうっと青い光りを放っているのを見た。身体の周りでバチバチと放電する音がした。
「退避だ。全員船室にもどれ!」
トモナガが叫ぶと、みな弾かれたようにブリッジに飛び込んだ。ハッチを閉める間もなく、突風が南風号を襲った。ニルヴァは海面が急にせりあがったように見えた。次に船尾が海面を打って船首が跳ね上がった。まるできりもみ状態の飛行機のようだった。じっさい一瞬の間、船は旋風の超低圧の中心部に吸い上げられて、浮き上がったのだった。
 船室内は惨憺たる有り様だった。四人ともベルトで身体を固定するまもなく、いきなり船ごとシェーカーのように揺さぶられたのだった。船室は厚いパッドで覆われていたが、身体のあちこちをしたたかに打ち、ニルヴァが頭を抱えながらようやく半身を起こした時にも、他の三人は、まだ床の上で重なり合って伸びていた。
 船の挙動はどうやら収まっていた。相変わらず大きな揺れに見舞われたが、南風号は何とか体勢を保っていた。
 ニルヴァは痛む肩をさすりながら、窓の外の海を眺めた。
――一体何が起こっている?
 暗くたちこめた雲間に稲妻が光り、海面を照らした。海は沸騰水のように泡立っていた。船は動いているのか、どこかに向かっているのかニルヴァには分からなかった。
ヤンがうめきながら起き上がった。ニルヴァを見て、
「ボーイ、無事だったようだな」と言うと、足を引きずりながら船の計器を点検した。異常がないことを確認すると医務室へ行った。打撲した足を手当てしてブリッジに舞い戻った。
「機器は大丈夫だが…」
 ヤンは針路計を一瞥した。眉をひそめ、電脳を呼び出して何事かを確認した。
「まずい…」ヤンが唸った。
「どうした?」
頭に包帯を巻いたトモナガがやってきた。ヒューイが続いた。
 ヤンが針路計を指差した。
「船の針路は真っ直ぐ正面だが、こっちを見たまえ」
ディスプレイを切り替えた。
「船のコースだ。突風か龍巻か知らんが、さっきのにやられる前と、現在のデータがある。間のデータは壊れた。たぶん落雷が原因だろう」
「そんなことを言いたいんじゃないだろう?」
ヒューイがいらいらしながら言った。
「もちろんそうだ。おれが言いたいのは、南風号が円周上を廻っているということだ」
「どういうことだ?」
「海流がぐるぐる廻っていて、この船がその流れに乗っているということだ」
 ディスプレイには、円形の海を斜め上から俯瞰した楕円形で表示されている。楕円の中心から、同心円状に周回する海流が示され、円の半径の二分の一の距離で周回している船の位置が、画面にプロットされていた。
「まさか」
トモナガが擦れた声で呟いた。
「そういうことだ」
ヤンは淡々と言った。画面の海流の形が、回流から渦巻き状の形に変化した。南風号は渦を示す曲線上にあった。
「渦の中心に向かっている?」
ニルヴァは息をのんだ。
「確かか?」
ヒューイが喚くように言った。
「九九パーセント以上だな」あっさりとヤンが応えた。
「転針できないか…」トモナガが呟いた。
「無理だね」
「どのくらいで渦の中心に?」静かな声でトモナガが聞いた。
「三十分後」

 その時点で南風号の乗員たちに何ができただろう?
 彼らの乗る船は、次元推進以外の方法で自力で航行する能力を有していなかった。水路内で舵を切るために必要な、ごく弱い推力発生装置しか備えておらず、海全体に起こっている直径九キロメートルにおよぶ巨大な渦巻きに抗うことはできなかった。それどころか、強力な推進力を持つ船でさえ、いま南風号がいる位置では、脱出は難しかったろう。
 もちろん、彼らが手をこまねいて来るべき破局(と思われた)を待っていたわけではなかった。船の各部を念入りに点検し、船体の防水性を強化した。渦の中心から水中に引き込まれても、浸水しなければ生存の可能性が残る。しかし、渦の中心で発生する水の回転による破壊力に、船体がどの程度持ちこたえられるか、誰にも分からなかった。彼らは自分たちの身体を、それぞれベッドやブリッジの座席に縛りつけた。
「沈みゆく船と運命をともにしたという、昔の船長みたいだぜ」
ベッドに結わえられたトモナガが、あまり楽しくないジョークを吐いた。ヤンとヒューイが憂鬱そうな笑い声で応じた。
 ニルヴァに恐怖はなかった。自分が死ぬとは全然思わなかったからだ。ラプサイト見学ツアーで、こういう事態になるとは予想していなかったが、当然一定の危険は予見されたことだ。それよりニルヴァは、ラプサイト人の肖像画の前で示唆された予言の行方を信じていた。それは、「死」をもたらすものでなく、「生」の継続でなければならなかった。なぜならラプサイト巡りでは、ツーリストに「好ましい巡礼」の旅が提供されこそすれ、決してツーリストを排除するものではないはずだから―。ただし、予期しない「事故」はあるかもしれなかった。六百万年前の建設者は善意だったとしても、製作されたものに耐用年限はあるはずだから…。
「なあみんな、こいつを無事に乗り切ったら、取って置きの地球の酒を…」
 トモナガが言い終わらないうちに、南風号の乗員たちは、船が急角度で回転する時に発生するGを感じ始めていた。
 
 南風号は大渦に巻き込まれつつあった。海の中心に出来た排水口へ吸い込まれる大量の水が、壮大な漏斗状の凹みを形成していた。哀れな南風号は、四十五度の角度の巨大な水の壁の縁から、ものすごい速度でぐるぐる廻りながら、渦の中へ落ちていった。
 きりもみ状態の高Gの中で、ニルヴァは意識が遠のきながら、ミツコに手渡すはずだった石を、ポケットの中で握りしめた。ヤンはコックピットで失神する直前、渦の直下にもう一つ巨大な空洞があることをディスプレイの表示で知ったが、仲間に知らせる時間がなかった。

邂逅

それは時空連続帯の中にこつぜんと生じた、もう一つの時空だった。そこでは通常の時間が無限大に引き伸ばされ、事象は無限に遅滞していた…。

 ニルヴァは遠いところから自分を呼ぶ声を聞いたような気がした。そして長い眠りから醒めた。体を起こそうとしたが出来なかった。ふと気が付いて身体を締めつけていたベルトを外し、ベッドから起き上がった。
 ―これは夢なのか?
 頭が朦朧とし、両手で頭を抱え込んだ。小さい頃恐ろしい夢で夜中に目が醒めると、泣きながらそうした姿勢でいた。
 ―ここは家のベッドか、それとも旅籠か。あるいは病院のベッド?
  また自分を呼ぶ声が聞こえた。ニルヴァはのろのろと立ち上がり、部屋の外へ出ようとした。だが、自分の周囲しか視界が利かず、ぼんやりした映像がしきりに揺らいでいた。扉のようなものが見え、ニルヴァは外へ出た。暗がりだった。しかしその暗い一角から細い光りがニルヴァの眼を射した。次の瞬間、ニルヴァはごつごつした凹凸面の上に降りていた。その時、光りのビームは一瞬ニルヴァの横にあるものを照らした。一叟の船が、嵐の中で座礁したまま凍結していた。夢で見た船―南風号だった。
 ―とすると、夢ではないのか。
 ニルヴァの足の下は、荒れ狂い渦巻く海水の集積だった。押し寄せて反射し合い、ひしめく大量の水が、無限大に引き伸ばされた時間によって、固く凍結していた。透明な水と泡立つ水が混ざり合った波の模様のまま、ダイヤより硬く凝結しているのだった。船の周りでささくれだった形の波は、固まったシャーベットのようだった。ニルヴァは暗闇の一角から射してくる光りに誘導されて空中に浮かぶと、そのまま漂っていき、平らな場所に着地した。と、明かりがともった。というより、何かが発光していた。巨大な像だった。見上げるほど巨大なプサイト人の全身像が、ニルヴァの目の前にいた。典雅な衣をゆるやかにまとい、厳かな姿でニルヴァに対している。
――ラプサイトの神か?
 神々しく発光するラプサイト人の全身像は遺跡都市の陸で見た像と瓜二つだった。と、「ニルヴァよ」と呼び掛けられたような気がした。
 そして、もう一度「ニルヴァよ」と呼びかけられた。豊かなアルトの声が響いた。それは耳に達する音声ではなく、直接ニルヴァの頭蓋の内部に伝わってくる「ことば」だった。相対する「神」は女神のようだった。
「ここまでよく来ましたね」
 ラプサイトの〝女神〟が微笑んだように見えた。
「ここが終点ではありませんよ、ニルヴァ。そのまま進みますか、それとも出発点に戻りますか」
 ニルヴァは呆然と女神を見つめるばかりだった。
「どちらを選びますか?」
 もう一度繰り返すと、女神はニルヴァを見守った。
 ニルヴァは大急ぎで考え始めた。――これが夢じゃなく現実だとすると、自分は確かに南風号に乗って、内世界を旅していたんだ。そして海で大渦に遇って、船は渦に巻き込まれたのだった。どうやらまだ終わったわけじゃなさそうだ。これもラプサイト・ツアーに仕組まれた仕掛けだとすると…。
ニルヴァは女神に問いかけた。
「進むとどうなります?」
女神は婉然と笑って答えた。
「空の城へ行けますよ」
「空の城ですって? どこですか、それは」
「近くて遠いところ」
女神は謎めいた微笑を浮かべたきり、それ以上何も語らなかった。
ニルヴァはしばらくためらっていた。
女神はニルヴァの心を見透かすように言った。
「あなたにとって差し当たり、夢か現実かはどうでもいいことですよ。いずれにしても、私はここにいるのですから。さあ、お選びなさい」
 ニルヴァは慌てて尋ねた。
「もし、ぼくが空の城へ行けば、船の連中はどうなります?」
「あなたが仮に城で一生住んだとしても、この世界では一億分の一秒も経ってはいないのです。だからあなたが、お城でお決まりのコースを見終わって、この場所へ帰って来れば船は元通り。そのまま乗って元のまま、彼らの時空に戻れますよ」
 そこまで聞けば、ニルヴァにもうためらいは無かった。
「じゃあ行きます」
 闇の中に明かりが灯り、階段が出現した。ラプサイトの女神が促した。ニルヴァは階段を上っていった。階段を登り切ると大きな扉。扉を開けると、ニルヴァは眩しい光りに目が眩んだ。
 そこはテラスのような場所だった。眼下を雲海が流れていく。風の音。ニルヴァは石畳のテラスの縁に立った。足元から遥か下界に向かって一本の軌道が垂れ下がっていた。先端は雲海の中に消えている。ニルヴァの立つテラスの方へ向けて、一台のゴンドラが近づいて来た。
 ――その時、
 「………」ニルヴァのアームバンドが警報を告げた。内世界の異変を知らせていた。戻らねば…。            
 ニルヴァは反転して扉を開いた。再び階段へ足を踏み入れる直前、テラスに到着したゴンドラから、一人のラプサイト人が降り立つのをニルヴァは見た――。  
  

Ⅳ 帰還

 扉が閉まり、ニルヴァは階段を走り降りた。ニルヴァに投射する光りが不規則に瞬いた。
――女神が、小さくなっていた。
 ニルヴァを見下ろす程の身丈が、今ニルヴァと同じ位の高さになっていた。そして、見ている間にも、次第に縮んでいった。
「ニルヴァ、早く船に戻りなさい」女神が鋭く叫んだ。
「どうしたの? 何が…」
空間内に衝撃が走った。ニルヴァは薙ぎ倒された。
「今、説明はできない。早く船に戻って!」
 ニルヴァは起き上がり、ごつごつした凹凸の、硬く凍結した水面を走った。再び衝撃が空間を貫いた。ニルヴァは固い水の表面に身を伏せた。空間全体が軋んでいるような音を立てた。ニルヴァが船にたどり着くと南風号が大きく揺れ始めた。振り落とされそうになりながらデッキに上がり、ブリッジに飛び込んでハッチを閉めた。
「もう大丈夫。通常時空へ戻ったら、すぐ次元推進に入りなさい」
女神の発する「ことば」が、ニルヴァの頭の中で響いた。
「何が起こったんです?」
ニルヴァは、次元推進入出力スティックのストッパーを外しながら声を出して叫んだ。船がひどく揺さぶられ、ニルヴァは、ヤンが凍り付いたままで座っている椅子につかまっていた。女神は、ブリッジの窓からは、ほとんど姿が認められない位の小ささだった。
「内世界はまもなく崩壊します。帰ったらあなたの仲間に伝えて、すぐ退去しなさい。そしてニルヴァ、あなたはいつか空の城へ行けるでしょう」
「ちょっと待って! そのためにはどうすればいいの?」
 ニルヴァの問いも空しく、女神は閃光を発して消えてしまった。そしてその瞬間、ニルヴァは通常時空へ帰った。元々の時間の流れに放り出されたのだ。南風号は今、渦の直下の巨大な空洞の中へ落ちたばかりで、渦から流れ込む大量の水の瀑布にもまれていた。ニルヴァはスティックを起こした。
 コックピットのインディケーターに淡いピンク色が点灯した。南風号は複雑な水の動きに、滅茶苦茶に動かされていた。インディケーターが濃いオレンジ色に変わった。即座にニルヴァはスティックを前に倒した。南風号を乗せた流れは空洞の壁面に真っ直ぐ向かっていた。水流は岩盤にぶつかって跳ね返された。が、次元推進に入った南風号は、するりと岩の中に潜入した。
 船は、ユニーク力場が岩盤内で形成する、グレーのチューブ状のトンネルの中を疾走した。覚醒した電脳は、基地への帰還を目指していた。
 次に人間たちが目を覚ました。(と言っても、彼らが意識を失っていたのは、船内時間で僅か一分間に過ぎなかったが…)
 ヤン、ヒューイ、トモナガが次々に目を覚ました。
「何とか生きているらしい」
ヒューイが周囲を見回して言った。
「渦に落ちてから…」ヤンが時計を見た。
「一分だ。船は渦の下の空洞へ落ち込んだ」
「空洞?」トモナガが聞いた。
「渦の中心に落ちる直前、排水口の下に空洞のような空間があることに俺は気付いた。皆に知らせる前に気絶しちまったが…」
「でも、いつの間に次元推進に入ったんだい? 電脳も含めてみんなブラックアウトしてたはずだぜ」
ヒューイが首をひねった。
「ひょっとして、君じゃないのか?」
 トモナガがニルヴァに問うた。ニルヴァは南風号の同僚たちの前で、〝一分間の出来事〟について真実を言わないわけにはいかなかった。内世界が破滅に瀕していると告げられたことも――。南風号の仲間は、ニルヴァの話に衝撃を受けた。だが、内世界の崩壊自体は冷静に受け止めた。トモナガが言った。
「予想できないことじゃない。前にも言ったように兆候があったんだ。でも我々の航海の時とはね。それより君は、本当は何者なんだい?」
 ニルヴァは困惑した。仲間に話していないことがある。多分誰にも話せない。自分がラプサイト文明を読み解くキーマンの家系であると―。
「惑星ホルスの一部の人間は、ラプサイト人のメッセージを受信することが出来ると聞いた」
トモナガがさりげなく付け加えた。が、ニルヴァが聞かないふりをしたので、それ以上追及しなかった。そして、船の電脳が基地への接近を告げ始めたので、その話題は突然終わった。電脳が次元推進の解除シークエンスを朗読しはじめた。「港」が間近だった。南風号の船内に、何とも言えない安堵感が広がった。無事に帰って来れたという仲間の思いに、ニルヴァも同感した。と同時に、あと一歩で「空の城」へ入り込めたのに…という落胆した気持ちもあった。
 「空の城」への〝入国手続き〟さえ済ませていたら、「内世界」の事象と完全に切り離されたのではないか。ラプサイト文明の進化過程で一段上のステージを垣間見る機会だったかも知れないのだ。

基地の大空洞内に、七度目の警報音が鳴り響いていた。
「また一隻帰ってきたらしいぜ」
疲れ切った回収班の作業員があわただしく集まった。
「あと何隻残っている?」
「最後の船らしい」
「やれやれだな」
 二十時間前から三時間毎に帰還する次元船を、今までに計六隻収容していた。内世界に重大な異変が起こりつつあることは、空洞内に流入する水が急激に増加したことで推測された。水位は破局的に上昇し、すでに「港」の放棄が決定されていた。埠頭の大半が水没し、今は、回収作業班が待機する最上段のフロアーまで水が押し寄せていた。
 南風号の希薄な輪郭は、岩肌から飛び出ると、今は大瀑布となった滝をすり抜け、徐々に実体化した。水面を掠めるように浮遊しながら、水没していない唯一の場所へ漂っていった。
「何てことだ、水浸しじゃないか」
ヒューイががなりたてた。
「これは早く着けないと危険だな」
 ヤンは手動で船を操った。トモナガは、慌てて船倉へ戻った。全ての収集品を運び出すのは無理だと悟り、大急ぎで収集品を選んだ。南風号は、フロアーの船架に降りた。回収作業班が船を固定し、ニルヴァらがフロアーに降り立つ頃には、水はフロアーの縁すれすれまで来ていた。緊急警報が鋭く断続的に鳴った。作業班は途中で回収を放棄した。彼らがエレベーターに乗り込む時には、フロアーを乗り越えた水の先端が彼らの方へ向かっていた。

再会

「総裁のガロアだ。トモナガ一行はすぐ私の元へ来るように」
 地上へ向かうエレベーター内に、委員会総裁からのメッセージが届いた。トモナガらは顔を見合わせた。「なかなか忙しいじゃないか」
 南風号の乗組員は、エレベーターを乗り継いで基地のオフィスへ向かった。基地全体が騒然としていた。ニルヴァたちは、廊下で何度も委員会の職員にぶつかりそうになった。彼らが総裁室に入る際にも、僅か一回チェックされただけだった。トモナガたちが部屋に入ると、ガロアは電話をすぐに切り、眼鏡を掛け直して一行に向き直った。
「君たちが得た結論と同じ結論を私も得たと思う。南風号の電脳からメッセージが届いたが、じかに君たちから話を聞きたかったのだ。内世界は崩壊するというのだね?」
 トモナガは頷いた。
「間違いありません。合理的な説明はつきかねますが」
「ふむ。というと?」
「ニルヴァ―今回の航海のゲストですが」
「それは知っている」ガロアが素早く先を促した。
「われわれの船は危機的状況に陥りました。しかしニルヴァただ一人が、内世界の時空から抜け出して助けてくれました。その際、ラプサイト神に出会って、内世界の終焉を告知されたと…」
 ガロアがニルヴァを向いて言った。
「ニルヴァ、ラプサイトの神はどんな姿形をしていたかね」
 ニルヴァは一瞬ためらった。
「―進化した爬虫類のように見えました」
「なるほど…」ガロアは何か考えていたが、電話が鳴って中断された。
「もっと君の話を聞きたいものだが、今は時間が無い」
 ガロアは受話器を取りながら言った。
「退室してくれ、ご苦労さん。――それと、君たちが二年も戻れなかった訳が分かったよ」
「何ですって。われわれが二年間…」
トモナガたちは絶句した。
「会議室へ行きたまえ。他にも懐かしい連中に会えるさ」

 会議室は帰還者の臨時収容場所だった。医学検査、回収品の整理、調査航海の聞き取りなど、七隻の次元船の、帰還に伴う一連の手続きでごった返していた。トモナガたちは、二十年前に消息を絶っていた船の乗組員を見た。昨日出航したばかりといった雰囲気の二十年前の連中は、明らかに混乱していた。ヤンが呟いた。
「まさに、自覚されざる、さまよえるオランダ人だな」
 トモナガは五年前から未帰還だった船のクルーと再会した。抱き合い、乱暴に叩き合った。
突然、場内が静まり返った。総裁名で、基地からの即時撤収命令が出たのだった。短いアナウンスがまだ終わらない内から場内は騒然とした。南風号の元乗員たちは、誰からも指示を受けられず通路へ出たが、退出者で混雑していた。そして、ごったがえす人の流れの中で、ニルヴァはミツコと再会した。ニルヴァは忘れられない瞳の色に、その場にくぎづけになった。ミツコはすっかり大人の女性になっていた。二年間の歳月を、ニルヴァは思い知らされた。ミツコの眼とニルヴァの眼が合った。しかし次の瞬間、ミツコの視線は、後に逸れた。ミツコの視線の先にトモナガがいた。ミツコはトモナガの胸に飛び込み、激しく泣きじゃくった。通路の片隅で、人の流れが停滞した。退避の指示が、矢継ぎ早にアナウンスされていた。ヒューイに促され、彼らはふたたび通路の雑踏に混ざった。ニルヴァはズボンのポケット中の石を、服の上から握りしめながら、のろのろと彼らの後から付いていった。

新たな旅へ

 遺跡都市の崩壊は、直接的にはユニーク場の消失の結果である。局所的な物理力であったユニーク力が、如何なるメカニズムによって発生していたのか、結局分からずじまいだったが、遺跡都市のどこかに設置されていた発生源から生じる一種の斥力が、内世界を押し潰そうとする強大な重力に拮抗し、釣り合っていたのは確かだった。
 大地の圧力を支えてきた、目に見えない支柱が無に帰せば、たちまち大地の力に負け、さしもの壮大な地下都市も、分厚い地層に埋没してしまう道理である。
 かくて六百万年以上存在し続けた、ラプサイト人の壮大な地中の庭園は、永遠に消え去った。発掘によって遺跡の残骸が見出されるだろうが、夢のように美しい庭園都市を巡ることは、もう出来ない――。
 ユニーク場の消失に伴って、遺跡都市上部数百メートルの厚みの地層は、直径二十キロメートルの円形状に、遺跡都市の天井の高さ分だけ沈み込んでいった。さらに周囲の大地もつぎつぎに引き摺られて地滑りを起こし、全体として巨大なへこみとなった。基地の建造物群は、その大半が辛うじて窪みの縁の外に残っていたが、頻繁に続く小規模の地滑りによって、いつかは倒壊する運命にあった。盆地の一角で起こった大規模な地形の激変は、遺跡都市外縁から二十キロ離れた空港にも、激しい地震として影響が及んでいた。が、施設は大きな被害から免れたので、基地職員らの仮住居となった。

 窓から青白い月の光りが部屋の中に射し込んでいた。日没から出ていた青い月、エンリルは、夜半頃、大きく傾斜しながら西の山脈の彼方へ沈んだ。公転周期の長い銀白の大きな月、イシュタルは一夜かけてじりじりと、タルサの夜空を横切っていた。
「崩壊」から二日目の晩だった。
 ニルヴァは、仮宿舎にあてられた空港施設の一角の病室に、ヤンとともに収容されていた。二人は、他の多数の入院患者と同様に、「崩壊」時に生じた空気中の夥しい土埃を吸い込んで、気管支炎を起こしたのだった。医師によると、内世界での「冒険的な旅」による過労も一因だったようだが。
 夜半が過ぎても、ニルヴァは眠らずにいた。数回まどろんだが、何とか眠らないようにしていたのだった。ニルヴァは、ミツコに渡すはずだった石を、掌に乗せてながめていた。
―どうして自分に気があると思い込んでしまったのだろう。それに…必ずしも、ミツコがトモナガを「意中の人」と思っていないかもしれない。単に同僚を気遣うだけの気持ちだったのではないのか。
 この二日間、ニルヴァは空しい自問自答を繰り返していた。徒労に過ぎないのだが、苦痛の源に触れてみたかったのだ。
 しかしどうあれ、ニルヴァたちが内世界に旅立つ前の日のようにはならぬ。遺跡都市も無くなってしまった。ここを去る時だとニルヴァは考えた。
 ニルヴァは右眼に石を近づけて、月の光りに透かしてみた。結晶軸に沿って、様々の波長の光りが瞬いた。まるで、小さな石の中に星夜が封じ込まれているようだった。
ニルヴァはベッドから起き上がり、静かに服を着た。眠っている同室の患者に気付かれないようにそっと部屋を横切り、ドアを開けた。振り返るとヤンが上体を起こし、ニルヴァを見ていた。ニルヴァは小さい声で「さよなら」と言った。ヤンは何も言わず、微かに笑って頷いた。

 ニルヴァはとっておきのテクニックで、出入口の電子錠をまんまと騙して建物の外へ出た。法規に違反して抜け出る以上、トモナガやヒューイにも別れを告げられないのは、仕方がなかった。
 空港の敷地を出ると、銀色の月光の下、一本の道路が南の山脈へ真っ直ぐ伸びていた。来る時に通った道だった。道路の端にタクシーが停まっていた。ニルヴァが近寄るとライトが灯った。扉が開いた。老運転手が笑った。
「これは…前に乗せたお客さんだ」
 ニルヴァを乗せてタクシーが浮上した。道路がひび割れてタイヤでは走れなかった。
「料金が高くなるよ。深夜割増になるしね。それにしてもお客さん、遺跡都市はどうなったね? 消えちまったという話だが」
「崩れたのさ、ガラガラとね」
ニルヴァは乾いた声で言った。
「じゃあもう用事は無いって訳だ」
運転手が言った。
 ―そうさ。用事は終わった。
ニルヴァは心の中でつぶやいた。タクシーは険しい山道を上った。盆地を見おろす崖の上でニルヴァはタクシーを停めた。来た時と同じように、遺跡都市の一帯を見下ろした。頃合いよく、タルサの第二の月、青い宝石のようなエンリルが、今夜二度目の登場となった。二つの月に照らされて、盆地の地形がおぼろに浮かび上がった。
 遺跡都市のあった場所はクレーターのようにへこみ、暗い影のために穴の底が黒く見えた。来る時に見た、すり鉢を伏せたような地形がきれいに反転していたので、ニルヴァはちょっとおかしくなった。
 峠を越すと後は下り坂だった。タクシーは夜道をすっ飛ばした。

―さて、これからどうする?
ニルヴァは自身に問いかけた。
―また新しい旅だ。
―何のために?
―ラプサイト人に会うために。だから、とりあえず駅へ―――。

ラプサイトへの旅

ラプサイトへの旅

銀河系の一角に汎人類世界の版図が拡大した未来-。 惑星ホルス生まれのニルヴァは惑星タルサに降り立つ。600万年前にラプサイト人が遺した遺跡を見て回る機会を得たのだ。 風化した地上の遺跡と別に、ラプサイト人は地底の奥深くに都市を造っていた。地底の遺跡都市は三十年に及ぶ調査を経て一般人を調査隊のメンバーに加えるようになり、ニルヴァは抽選で選ばれたのだった。 地下300メートルの「港」から次元推進するラプサイトの船は岩盤をすり抜けて遺跡都市の大河の上流に降り立つ。船は川の流れに乗って下流へ進み、ニルヴァが加わった調査隊のクルーは船で寝泊まりしながら、遠い昔ラプサイト人が退去した町や都市を調査して海に至る――。

  • 小説
  • 中編
  • 冒険
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-06-30

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