お気に入りの音楽 51〜55
51 侍ジャパンの曲は
ワールド・クラシック・ベイスボール……家でも仕事場でも繰り返し繰り返し……
聞いたことのある曲が何度も何度も。曲名が思い出せなくて気持ち悪い……
朝、仕事場で思い出した。
『キル・ビル』だ。
BATTLE WITHOUT HONOR OR HUMANITY
『新・仁義なき戦いのテーマ』
テレビ朝日系列のスポーツ番組やニュースのスポーツコーナーなどでは、侍ジャパンが出場する野球の世界一決定戦ワールド・ベースボール・クラシック(World Baseball Classic/WBC)に関連して、『新・仁義なき戦いのテーマ』が番組BGMとして使われる。
2020東京パラリンピック開会式では、アトラクションで布袋寅泰が出演し、自らの演奏で『新・仁義なき戦いのテーマ』を披露した。
2021年の第72回NHK紅白歌合戦では、布袋寅泰は白組で初出場を果たし、『BATTLE WITHOUT HONOR OR HUMANITY』をギターソロで演奏した後、『さらば青春の光』を歌唱した。
https://www.worldfolksong.com/popular/battle-without-honor-or-humanity.html
『キル・ビル』は、クエンティン・タランティーノによる、アメリカの二部作映画。監督・脚本をタランティーノが務め、ブライド(ユマ・サーマン)が、自分と生まれてくる子供を殺そうとした暗殺者チームとそのリーダーであるビル(デビッド・キャラダイン)に復讐を誓う花嫁を演じている。
1作目『キル・ビル Vol.1』は、2003年10月10日に米国で、10月25日に日本で公開され、2作目『キル・ビル Vol.2』は、2004年4月16日に米国で、4月24日に日本で公開された。
『新・仁義なき戦いのテーマ』は、2000年公開の日本映画『新・仁義なき戦い』テーマソングとして布袋寅泰が作曲した楽曲。同映画には布袋寅泰も俳優として重要な役で出演している。
曲名については、正式には英語のタイトル「BATTLE WITHOUT HONOR OR HUMANITY」(バトル・ウィズアウト・オナー・オア・ヒューマニティー)が使われる。意味は「仁義なき戦い」(英語訳)。
2003年に公開されたタランティーノ監督の映画「キル・ビル(Kill Bill)」では、テーマ曲として同曲が用いられた。
映画で曲を使うオファーが来た際、布袋は新曲書き下ろしを提案したが、『仁義なき戦い』を敬愛するタランティーノは同曲の使用に強くこだわったという。
https://www.worldfolksong.com/sp/popular/battle-without-honor-or-humanity.html
映画『キル・ビル』は日本人の俳優が多数出演している。
千葉真一 栗山千明 麿赤兒 國村隼 北村一輝 田中要次 風祭ゆき 大葉健ニ
GOGO夕張
演:栗山千明
本名は不明。性格は冷酷で好戦的であり、長い鎖のついた棘付の鉄球「ゴーゴーボール」を武器として自由自在に扱う。高校生ながら日本酒を一升瓶でラッパ飲みし、車の運転もする。
ブライド相手に有利に戦いを進め、あと一歩まで迫ったが形勢を逆転されてしまい、釘の突き出た椅子の破片で左足を刺された上に、その破片で頭を殴られ釘が頭に突き刺さり、血の涙を流しながら絶命。
︎ ︎
2000年の映画『バトルロワイヤル』で鮮烈な印象を残した栗山千明さん。そして『バトルロワイヤル』を観たタランティーノ監督から声がかかって、2003年の映画『キル・ビル』に出演しますが、直接会うまではタランティーノ監督のことは知らなかったとおっしゃっていました。
栗山さんはこの『キル・ビル』という作品で、世界的に大きな注目を集めることになるわけですが、出来上がった作品を観るまではそれほど“大ごと”だとは思っていなかったとか。
「台本を頂いた時に、何百ページあるのか、ホント分厚い台本の中で私のGOGO夕張という役が出てくるのが1ページしかなかったんです。なんで、遊びに行くじゃないですけど、チラって映るぐらいだろうなっていう感覚で行ったので」
「台本が出来上がってからトレーニングに入るんですね。私の場合は2ヶ月ぐらいロスでみんなと一緒にトレーニングしてたんですけども、トレーニングをしていく中でちょっとずつアイデアが生まれたり変わったり…っていうのが固まっていく感じですね」
当時の栗山さんはまだ高校生。しかし、トレーニング中は通訳さんがつく以外はマネージャーさんもいない環境だったとか。
「朝9時から夕方5時ぐらいまでトレーニング。ストレッチから始まってパンチ、キックをある程度やって。で、ワイヤーアクションの練習をして。あとは個々の武器があるので、武器の練習をして」
「リアル高校生で学校の単位が大変でした。一学期まるまる休んで2学期…3学期だけ出て後は補習とかでしたね。でも当時の私は、やったー!こんなに学校休んじゃっていいの!っていうようなおバカな子だったので」
https://www.tfm.co.jp/challenge/onair/detail.php?id=135
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『修羅雪姫』(梶芽衣子版)を彷彿させるシーンが多く、梶が歌う「修羅の花」が挿入歌、「怨み節」がエンディングソングに起用されている。タランティーノは梶本人に会いたかったようだが、そのことが梶に伝わらず、「会えないから歌だけでも使わせてくれ」ということになったという(梶談)。
この2曲はサウンドトラックアルバムにも収録され、梶に印税が支払われている。後に『修羅雪姫』の原作者である小池一夫が「『キル・ビル』の原作は『修羅雪姫』である」として映画会社に版権料の支払いを要求したところ、要求が認められ小池に版権料が支払われたという。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/キル・ビル
BATTLE WITHOUT HONOR OR HUMANITY
https://youtu.be/UFtsxmt55co
修羅の花
https://youtu.be/Hq_Zm8mY32U
キル・ビル ゴーゴー夕張
https://youtu.be/kgfPzkCO7vI
52 カラヤン
ヘルベルト・フォン・カラヤン(1908年4月5日 - 1989年7月16日)は、オーストリア=ハンガリー帝国出身の指揮者。
1955年より1989年までベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の終身指揮者・芸術監督を務め、一時期それと同時にウィーン国立歌劇場の総監督やザルツブルク音楽祭の芸術監督などのクラシック音楽界の主要ポストを独占し、多大な影響力を持つに至った。
20世紀のクラシック音楽界において最も著名な人物のひとりであり、日本では「楽壇の帝王」と称されていた。また、その独自の音楽性と自己演出は「魔術師カラヤン」「カラヤン美学」などと謳われ時代の寵児にもなった。
1954年11月、ドイツ音楽界に君臨していたヴィルヘルム・フルトヴェングラーが急逝したことで、翌1955年にフルトヴェングラーとベルリン・フィルハーモニー管弦楽団とのアメリカ演奏旅行の代役を果たし成功をおさめ、この旅行中にベルリン・フィルの終身首席指揮者兼芸術総監督に就任、1989年まで34年もの長期間この地位にとどまった。
戦後、フルトヴェングラーの死までカラヤンは同団の指揮台に2~3回しか登場しておらず、急転直下の就任であった。
フルトヴェングラーは、音楽と政治は関係がないから、政治が音楽に干渉しない限りどのような体制下であっても演奏ができるのだとして、ナチス政権下で演奏活動を続けた。
これに対して、カラヤンは、政治体制がどのようなものであれ、その政治体制を利用して自身の向上と自己の野心を満たす道を選んだ。
フルトヴェングラーがナチス体制下でナチスとは距離を置いてナチスに反抗しながら活動したのに対し、カラヤンはナチスの懐に飛び込んでその体制の中で頭角を現してきたと言える。
カラヤンは、オーストリア・ナチ党が台頭してきた極めて初期の段階の1933年4月8日に、ザルツブルグ第5地方支部でナチ党に入党し、党員番号1607525として登録された。
さらに不可解なのは、カラヤンはドイツ・ウルムで1933年5月1日に二度目のナチ入党手続きを行ったことである。(党員番号 3430914)この日以降1937年5月1日まで新たな入党が止められたので、カラヤンは駆け込みで入党手続きを取ったことになる。
カラヤンがなぜ二度も入党したのか真意は明らかではないが、カラヤンはこのザルツブルクとウルムでの入党という事実をその後一貫してもみ消そうとしてきた。
カラヤンは入党の事実は認めているが、1935年にアーヘンの歌劇場の音楽総監督の地位につくために必要だったからこのときに入党したとしている。
カラヤンはそのときの入党条件を満たしたことにより1935年にアーヘン歌劇場の音楽総監督となることができたとしている。以後、カラヤンはヒットラーの新帝国のために文化宣伝を積極的に行い、1939年にはナチスドイツの国家指揮者に昇格した。
しかし、カラヤンがナチス政権から遠ざけられることになる二つの予想外の出来事が起こった。一件は総統臨席のワーグナー公演で起こった事件、いわゆるボッケルマン事件と、もう一件が自身の二度目の結婚である。
ボッケルマン事件というのは、1940年6月総統ヒットラーが臨席していた「ニュールンベルクのマイスタージンガー」の公演のとき、歌手のルドルフ・ボッケルマンが酔って出だしを間違ってしまい、これを修正するのに手間取ってしまったという事件である。
ヒットラーはボッケルマンがお気に入りだったので、この失敗は若い指揮者が生意気にも暗譜で指揮したためだと思い激怒した。ヒットラーは劇場支配人ティーチェンにカラヤンが指揮をするならば二度とオペラを見に来ないとまで言ったという。
この事件がカラヤンを表舞台から遠ざけてしまった一つの要因となったのかもしれない。
カラヤンは、1942年10月にアニータ・ギュンターマンと二度目の結婚をしているが、アニータは4分の1ユダヤ人であった。そのため党の特赦中央情報局がカラヤンの調査を開始した。
この調査過程で、カラヤンはナチ党からの脱退を宣言したと証言している。しかし、カラヤンの結婚は黙認された形だが、離党ははっきりしないままとなった。
1945年夏、カラヤンの非ナチ化審査が始まった。非ナチ化とは、被疑者がナチスではなかったということを審査することであるが、そこでカラヤンは、(アーヘンの)音楽総監督に任命されると同時にナチに入党し、4分の1ユダヤ人の血を引くギューターマンとの結婚により1942年に脱党したと供述している。
そして、紆余曲折を経て1947年10月になってやっとカラヤンの活動が公式に認められた。フルトヴェングラーの解禁よりも半年余り遅かった。
こうして見てくると、カラヤンはナチスを利用して駆け上ってきたが、そのナチスによって振り落とされたともいえる。それでもカラヤンは自分がナチスに入党したのは、芸術上の必要に迫られたからで、ナチスについては何も知らず、関心もなかったと多くの伝記は伝えている。
何もわからなかったし、関心もなかったというのは、ナチスに関与した者が戦後かならず使っている弁解の言葉である。しかし、カラヤンのように知的で何事にも綿密に計画して動く人物が、何も知らなかったということがありうるだろうか。
仮にそれを認めたとしても、戦後ナチスの多くの行状が明るみに出たとき、自らがナチスに所属していたカラヤンは、自らの非を認め、それを正直に認めるべきではなかったろうか。戦後あれだけ成功したカラヤンならば、償う方法はいくらでもあったはずである。
政治と音楽は関係がないから、指揮者は芸術的に最高の演奏ができればよく、どんな政治体制であろうと、それに影響されるものではないというのは詭弁である。人は知名度が増すほどに、その意見や行動が人々に与える影響が大きくなるという意味で公的な人になる。そのような人がナチス党員になれば、ナチスの看板となり、人々に与える影響は大きくなり、ナチスの興隆に寄与しているのである。
ナチスには入党したが、ナチスについては何も知らず、関心もなかったというのは、あまりにも思慮に欠けた行動と言わざるを得ない。カラヤンのような人物が、これほど重大な判断を言われるままに決めたとは到底思えない。
カラヤンの楽譜を暗譜して指揮をするその演奏スタイルだけでも聴衆を魅了してしまうが、そこから生み出される音楽は多くの人に感動を与える素晴らしいものだと思う。
だからこそ、カラヤンについて語られるときにかならずその裏側とか影という表現がついてまわるのは残念なことである。それが、カラヤンの人間性だけではなく、その音楽についての好き嫌いまではっきりと分かれてしまうことになっているのだろうか。カラヤンがもしナチス時代の行いについて適切に真摯に対応していたら、カラヤンとその音楽に対する評価はどれ程違ったものになっていたであろうか。
http://to0628.blog.fc2.com/blog-entry-52.html
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チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」1964年
クラシック史上屈指の指揮者に数えられる巨匠・カラヤンは、チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」を7回録音しているが、1964年のベルリンフィルとの録音では、3楽章でシンバルが2拍遅れるという、知る人ぞ知る迷場面? と「ティンパニの混乱ぶり」がある。
演奏全体としては、独特の重厚感があり、決して悪い演奏ではなく、むしろ好演だそうだが。
ただ、この録音での3楽章でのシンバルの遅れは、かなりの「謎」とされている……
http://seiyouryouri.yokohama/essai2/pathetique.html
……私には何度聴いても迫力ある素晴らしい演奏にしか聴こえませんが……
https://youtu.be/B-8RRxGkQRw
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マーラー交響曲第5番 ヘルベルト・フォン・カラヤン/ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(1973年)
カラヤンはマーラーを長らく演奏も録音もしてこなかった。マーラーはユダヤ人であるため、彼の作品は、戦時中ナチスの支配下にあったドイツでは演奏が規制されていた。
しかし1970年代になると、マーラーの作品を意欲的に取り組み、録音もしている。マーラーの交響曲第5番はその最初を飾ったもので、カラヤンがついにマーラーを録音したと話題になったもの。
映画『ヴェニスに死す』のテーマ曲です。これを聴くために、この長い2枚組のLPレコードを買った。指揮者は誰でも良かった……
ただ、第1楽章から自信の無さを感じるのは気のせいだろうか。タタタターのファンファーレから、勇ましさはなく、どこか手探りな感じ。静かだと思ったら急に音量が大きくなったりして、曲の流れもちぐはぐ。第1楽章の途中や第2楽章の冒頭、第3楽章の途中では金管が裏返ることもあり、天下のベルリンフィルでもこの当時はマーラーに不慣れな感じが伺える。
後年、1980年代後半にベルナルト・ハイティンク、1990年代以降にクラウディオ・アバド、そして2000年代に入ってからサー・サイモン・ラトルなどとマーラーの交響曲の名演を行ってきたベルリンフィルが、1973年当時はこんな感じだったのは意外だ。正直これだけを聴くとこのカラヤン/ベルリンフィルのマーラーはイマイチだ。
ただ、そんなネガティブな印象が、第4楽章のアダージェットに進むと一変する。
本当に美しい。
この演奏は、1994年に発売されて全世界でトータル500万部を売り上げた「アダージョ・カラヤン」にも収録された1曲。
カラヤン美学が詰まったうっとりするほど美しい演奏で、3楽章までのゴツゴツした演奏がこの楽章だけ自信を持って、手の内に入れた演奏になっている。ヴァーグナーやR.シュトラウスに通じるあの官能美が、ここにはある。
そして続く第5楽章では、ベルリンフィルの機動力を持ってスケールの大きな演奏を聴かせてくれる。ただ、何かしっくりこないというか、違和感はある。クライマックスでも、響きが「そうじゃないんだよな」と思うところがある。
日本の批評家も冷遇
どうやら、このカラヤンのレコードがリリースされたとき、日本では批評家によって冷遇されたようだ。吉田秀和氏の文書「カラヤンのマーラーふたたび」によると、
「音楽の外に立ったままで、少しも中に入っていない。精彩な表現が、どれもこれもひえびえとした感触」とか「ロマンティックな傾向が強く、時にそれは過度」とか書かれたようだ。
カラヤンがどうマーラーを演奏したか知る上では大事な一枚で、第4楽章アダージェットだけは別格。
https://compass-of-music.com/reviews/mahler-sym5-karajan-bpo-1973/
https://youtu.be/YasFxVpE2wI
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カラヤンとベルリン・フィルがバックを務めて1980年に録音された、アンネ=ゾフィ・ムターのロマン派のヴァイオリン協奏曲。
カラヤンと『華麗なるソリストたち』の一枚に数えられている、当時17歳のムターが初めて挑戦したロマン派ヴァイオリン協奏曲の名作2曲のレコーディング。
どちらもたった2回のセッションで録音された。17歳のムターがカラヤン&ベルリン・フィルに臆せず立ち向かっていっている姿が彷彿とさせられる。
メンデルスゾーンではカラヤン&ベルリン・フィルの厚みのある響きがムターのソロを盛り立て、スケールの大きな演奏を繰り広げている。
白眉はブルッフ。かつては三大ヴァイオリン協奏曲に位置づけられていた名曲だけに数々名演奏は聞いたが、これほど迫力に満ちた演奏は初めて聞くような新鮮さを感じる。
この曲は協奏曲としては変わった構成で、第1楽章には「前奏曲」というタイトルを付け、第2楽章がメイン、第3楽章が終曲となっている。聞き所は第2楽章の瑞々しいロマンティシズムで、ムターの魅力が最大限に発揮されている。クライマックスは、これがとても協奏曲の伴奏とは思えぬ素晴らしさで、ムターの力強いヴァイオリンとともに曲の美しさを満喫できる。もちろんカラヤンは威圧的にねじ伏せるようなところはなく、ムターのヴァイオリンを受けて立っているものの、だからと言って手加減はしていない。
http://amadeusclassics.otemo-yan.net/e1066889.html
アンネ=ゾフィ・ムター(1963年6月29日 - )は、ドイツのヴァイオリニスト。
13歳でヘルベルト・フォン・カラヤンに招かれ、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団と共演、国際的に天才少女の名をほしいままにする最初のきっかけとなる。
これまでに、グラミー賞を4回受賞している。
元夫は、指揮者・ピアニスト等として広く知られるアンドレ・プレヴィン。プレヴィンとは、2002年に結婚し、2006年に離婚している。
プレヴィンさんは5度結婚した。女優ミア・ファローとの間に実子が3人、ベトナム人の養女2人、韓国人の養女スン=イーがいる。ヴァイオリニストのアンネ=ゾフィー・ムターとも結婚している。ムターとは、シベリウスやチャイコフスキーなどの協奏曲、モーツァルトのヴァイオリン・ソナタやピアノ三重奏曲などを録音している。そのムターとは、2002年に再婚したが、仕事で忙しくて会えないとの理由で2006年に離婚している。
ブルッフ ヴァイオリン協奏曲
https://youtu.be/rcju1td7R-M
ブラームス交響曲第1番 カラヤン ベルリンフィル 最晩年の劇的ライヴ
ブラームスの第1番は歴史に残る名演で、ベルリン・フィルの弦のうねりが聴こえる。人々の記憶に残る名演で我々に大きな感動を与える。
https://youtu.be/g3krvIERTXg
ピアニスト、ポゴレリチは1984年、3月16日、演奏会と録音を前提に、カラヤン指揮のウィーン・フィルとの共演で、チャイコフスキー『ピアノ協奏曲第1番』を試演するが、ただ一度のリハーサルのみでカラヤンと決裂、18日に予定されていたムジークフェライン・ホールでの演奏会にポゴレリチは不出演。
53 クイーン
マイケル・ジャクソンを検索していたら、フレディ・マーキュリーとのデュエットを見つけました。
やっぱりフレディ・マーキュリーの声は魅力的。
クイーンの歴史はスキャンダルとの戦いでもあった。特にフレディは特異な出で立ちもあって、タブロイド紙に追いかけ回され人格攻撃的な記事さえ書かれ続けた。
もともと繊細なフレディは常にそれと戦ってきたのだが、どこかで吹っ切れてしまったような気がする。クイーンが解散の危機に直面していた80年代初頭から、彼の生活は乱れに乱れ始める。
一方で愛を求め、愛に生きた男は誰よりも美しい曲をこのアルバムに残してくれた。
それが『生命の証(There Must Be More To Life Than This)』である。
驚くことにこの曲には、アルバムには収録されていないマイケル・ジャクソンとのデュエットテイクが存在するのだ。
1983年4月にフレディがマイケルの住むロスアンゼルスを訪ねた際、録音されたのだが未完成のまま放置されていた。そして遂に2014年、『クイーン・フォーエヴァー~ベスト・オブ・ラヴソングス』に正式な完成版が収録された。
マイケルも、スターダムの孤独の中で愛を欲して生きたカリスマである。
「人生にとってより大切なものがあるんだ 僕たちは愛のない世界の中でどうして生きられよう?」
と2人がデュエットする時、スターであることの苦悩に悩まされ続けたフレディとマイケルが、僕たちの心の中に、美しい愛に似た感情をもたらしてくれる。
マイケル・ジャクソンにも『BAD』というアルバムがあった。2人の「バッド・ガイ」は、命の炎を燃やして愛の伝道者となった。その愛は、世代を超えて伝わってくる。
生命の証(There Must Be More To Life Than This)
https://youtu.be/dkcdSj4qBWU?si=5PWkZsraZi7UGjCe
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クイーン(英語: Queen)は、イギリス・ロンドン出身のロックバンド。1970年代前半のハードロック・ブーム中にデビューし、その後も時代によってスタイルを変化させ世界中で1億7000万枚〜2億枚の音楽作品を売り上げたとされる。
ウォール・ストリート・ジャーナルの「史上最も人気のある100のロックバンド」にて第3位。「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」にて第52位。2001年には、マイケル・ジャクソン、エアロスミスらと共にロックの殿堂入りを果たしている。
メンバー ブライアン・メイ、フレディ・マーキュリー、ジョン・ディーコン、ロジャー・テイラー
活動期間 1971年 -
1991年にボーカルのフレディ・マーキュリーが死去したものの、現在も活動は断続的に続いている。2021年現在、ギターのブライアン・メイとドラマーのロジャー・テイラーの2人は、ボーカルにアダム・ランバートを迎えて「クイーン+アダム・ランバート」名義で活動している。
初期のクイーンは、母国イギリスとアメリカ市場での成功を収めるために努力していた。しかし、日本ではクイーンが来日する前に注目が集まり、それは今日まで続く深い絆の始まりとなった。
1974年の時点で、日本では音楽誌『ミュージック・ライフ』にバンドの写真やアルバムのレビューが掲載されていた。自分達の音楽性とステージ・ショーに日本のリスナーが魅了されていることを知ったクイーンは、1975年4月に8日間にわたる日本ツアーの実施を決定。日本での最初のコンサートは、世界的に有名な日本武道館であった。ロジャー・テイラーはこう語る。
「空港に着いてみると、想像していたのとは違う規模で、何千人もの人々が私たちを歓迎してくれていた。普段は受けないような光景でしたね」
当時、ロックグループのバンドは主に男性客に支持されていたが、『ミュージック・ライフ』がクイーンの写真を載せたことで、女性ファンとの新しい世界が開け、日本では男性のファンも女性のファンもともに獲得できた。
この最初の出会いが、クイーンと日本の深い絆の始まりとなり、それぞれがお互いに良い印象を残すことになった。1976年に発売されたオリジナル・アルバム『A Day At The Races』に収録された「Teo Torriatte(手をとりあって)」は、サビが日本語で歌われた曲で、ブライアン・メイが日本のファンへの感謝として作曲したものだ。
クイーンは1985年まで定期的に日本公演を行っていたが、バンドは常に独自のアプローチを行っていたという。
初期の頃は日本全国の都市をまわっていて、北海道の札幌に行ったり、仙台にも行っていたりした。そこまで日本全国をまわる海外のバンドは少なかったので、(日本のファンは)とても心を打たれた。日本には海外から多くバンドがやって来るが、東京と大阪にだけ行って、東京以外の都市の文化を見る機会はほとんどない。しかしクイーンは初期の頃、それも初日から日本を知ろうとした。東京や大阪以外の都市の人々も、海外のバンドを見る機会はほとんどなかったが、クイーンは多くの都市を回ることで、日本での人気がさらに高まった。
https://www.udiscovermusic.jp/news/queen-japan-part-1-greatest-series?amp=1
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女友達がクイーンを好きだった。私は存在さえ知らなかった。カセットテープに録音してくれたので、初期のアルバム5枚はよく聴いていた。
当時はフィルムコンサートというものがあってよく引っ張っていかれた。クイーンはラスト。男性客は立ち去る。聴いていられるか、というように。残った客は女ばかり。
『ボヘミアン・ラプソディ』よりも気に入っていたのがこの曲。こんな歌詞だとも知らず……
『デス・オン・トゥー・レッグス』(英語: Death on Two Legs
You suck my blood like a leech ヒルみたいに俺の血を吸って
You break the law and you breach 契約も法も破る最低野郎
クイーンがまだあまり売れてなかった頃、メンバーには週給20ポンドしか与えない一方、自分はロールスロイスを乗り回していたという当時のマネージャーへの恨みつらみを書き連ねた曲です。
フレディもこの曲に関して「自分たちが作った中で一番悪意のこもった歌」と言っていました。
https://ameblo.jp/whatenglishmakes/entry-12464772183.html
作詞作曲はフレディ・マーキュリー。1975年に発売された4作目のオリジナル・アルバム『オペラ座の夜』にオープニング・トラックとして収録された。
タイトルの「Death on Two Legs」は、「二本足で立つ死神(=生きている死神)」という意で、歌詞はクイーンの最初期のマネージャーでトライデント・スタジオのオーナーであったノーマン・シェフィールドに向けたものとされている。
クイーンは、1974年11月に発売されたアルバム『シアー・ハート・アタック』でヒットしたものの、ヒット前と変動のない給与面において不満を持ち、当時のマネジメント会社と対立。その結果として書かれたのが本作である。
しかしながらシェフィールド側から法的措置をほのめかされたことにより、メンバーは曲の内容について明言することはなかった。歌詞やタイトルにおいて、直接的に名前は登場していないものの、シェフィールドは歌詞の対象が自身であり、名誉を棄損したものとし、バンド及びレコード会社を提訴したが、後に示談が成立している。2013年、シェフィールドは回顧録を出版。タイトルは『Life on Two Legs』だった。
後にフレディは、「自分が書いた中で最も悪意に満ちた曲で、他のメンバーも歌詞にショックを受けていた。」と語っている。1976年の来日時のインタビューにおいても、フレディはこの曲を「少々不道徳な歌」と語っている。
「デス・オン・トゥー・レッグス」は、「A Day At The Races Tour』からセットリストに追加され、1977年6月6日のアールズ・コートでの演奏は映像が撮影されたのをはじめ、1977年後半から1981年にかけてメドレーに入っていたが、1981年9月からのグラットンズ・フォー・パニッシュメントと題されたツアーからは演奏されなくなった。また、ライブ音源が収録されているのは、正式リリースでは『ライヴ・キラーズ』のみである。
『ライヴ・キラーズ』バージョンでは、イントロの前のフレディによるMCに3回のピー音が入っている。この部分は「“This is about a dirty nasty man, we call him motherf--ker. Do you know what motherf--ker means? I’m sure you have a word for it. We call him… We also call him Death on Two Legs!”」と発言したものが消されたものとされている。
Death on Two Legs
https://youtu.be/kqVpk0qxmfA
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『Under Pressure』
それは2組のスーパー・スターによる一世一代のコラボレーションだった。クイーンとデヴィッド・ボウイのシングル『Under Pressure』は1981年11月21日、全英チャートの首位へ瞬く間に駆け上った。
この曲はバンドお気に入りのスイス、モントルーにあるレコーディング・スタジオ、マウンテン・スタジオでの2組の出会いから生まれた。当時、同スタジオの近隣に自宅を構えていたデヴィッド・ボウイがある夜にレコーディング中のクイーンを訪ねたのだ。「Under Pressure」はベーシストのジョン・ディーコンのリフをもとにしたジャム・セッションが発展したものだ。そのため、完成した楽曲にもフレディ・マーキュリーのスキャットが入っていたり、彼とデヴィッド・ボウイが思うままにヴォーカルを交替で取っていたりと即興の要素が多い。
https://www.udiscovermusic.jp/stories/queen-bowie-feel-no-pressure?amp=1
Under Pressure
https://youtu.be/HglA72ogPCE
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『ラブ・オブ・マイ・ライフ』
内気な恋愛に始まり、婚約、破局を経験し、最後は深い愛へと導かれた2人。
フレディはメアリー・オースティンのことを「ソウルメイト」と呼び、楽曲『ラブ・オブ・マイ・ライフ』を彼女に捧げた。固い絆で結ばれた2人の関係は、フレディがゲイであることをカミングアウトし、男性と付き合っていることを彼女に打ち明けた後も続いた。
1991年にフレディがHIV感染合併症による肺炎で亡くなったとき、彼はメアリーに広大なロンドンの邸宅と彼の遺産の大部分を残した。
メアリーは“遺灰は誰にも知られない場所に散灰してほしい”という彼の願いも聞き届けた。その場所については、彼女は今も口を固く閉ざしている。
「彼の生前、私は一度もフレディを裏切ったことはありません」と彼女。「そしてこれからも決して」
https://news.line.me/detail/oa-ellejapan/8c37e25f1b98
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フレディ・マーキュリー追悼コンサート
フレディ・マーキュリーの死因がエイズによるニューモシスチス肺炎(カリニ肺炎から改められた病名)であることから、残されたクイーンのメンバー3人(ブライアン・メイ、ロジャー・テイラー、ジョン・ディーコン)が中心となり、エイズ撲滅のためのチャリティー・コンサートとして行われた。会場はクイーンのMagic Tourでも使用され、1985年のライヴ・エイドでもクイーンが伝説的なパフォーマンスを行ったウェンブリー・スタジアムとなった。
収容人数は72000人と大規模だったが、チケットは発売開始から2時間で完売したという。
チャリティーの意識は徹頭徹尾貫かれており、マスコミやフォトグラファーなどの関係者であってもチケットを購入し、その上でパスが発行されていた。コンサード・グッズなどの商品の収益もチャリティーに回された。最終的な数字は現在も継続中なのではっきりしないが、各アーティストが後にCDなどでリリースした収益なども含めると50億円以上が集まったとされ、マーキュリー・フェニックス・トラストのフレディ・マーキュリー基金に寄付された。
このコンサートでは、デヴィッド・ボウイ、エルトン・ジョン、アニー・レノックス、ジョージ・マイケル、ロジャー・ダルトリー、ロバート・プラントなど、錚々たるアーティストがクイーンをバックにパフォーマンスし、メタリカ、ガンズ・アンド・ローゼス、U2、そしてスパイナル・タップまでもが、それぞれのバンドでの短いセットを披露した。そしてこの日、1992年4月20日に、72,000人のクイーンファンが集まった会場で、4時間に渡るフレディの人生を祝う華やかな祭典が執り行われたのである。
https://rollingstonejapan.com/articles/detail/29588
アクセル・ローズ (1962年2月6日- )は、アメリカ合衆国出身のロック・ミュージシャン、シンガーソングライター。
最も尊敬するバンドの一つがクイーンで、フレディ・マーキュリー追悼コンサートにも出演。最高のアルバムは『クイーン II』と答えており、「オレが死んだらクイーンIIのアルバムを棺に入れてくれ」と述べている。
エルトン・ジョンと親交があり、フレディ・マーキュリー追悼コンサートではエルトンと一緒に「ボヘミアン・ラプソディ」を歌った。
ボヘミアン・ラプソディ
https://youtu.be/R9ecR5b8yc4
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1991年11月24日、フレディ・マーキュリーが亡くなった時、ほとんどの人がクイーンは解散するだろうと思っていた。友人の死を乗り越えようとしていた残されたバンド・メンバーたちでさえ、そうなるだろうと思っていた。
「フレディの死で、僕らはすべてが終わったと思っていました」
とドラマーのロジャー・テイラーは2019年に公開さえたドキュメンタリー『クイーン+アダム・ランバート・ストーリー: ショウ・マスト・ゴー・オン』の中で述べている。
「私たちは全てのことに揺さぶられていました。そしてもう二度とプレイするつもりはなかった」
2009年、クイーンのメンバーであるブライアン・メイとロジャー・テイラーはアメリカのオーディション番組『アメリカン・アイドル』にゲスト出演する。シーズン8の結果発表の前にふたりの演奏で最終候補者のクリス・アレンとアダム・ランバートが「伝説のチャンピオン」を熱唱する。
メイとテイラーはランバートのボーカルに惚れこみ、その場でクイーンへの参加を打診したとローリング・ストーン誌は伝えている。その件に関してその気があるのかとAP通信がランバートに聞いたところ
「それは難しい質問だね。だって、正直クイーンにならないかっていう申し出をどう断ったらいいんだ? そんなの信じられないよ!でも、今、自分でやりたいこともあって、それが僕の目標でもあるんだ。だから、できることなら両方やってみたいね」と述べている。
2011年11月、MTV Europe Video Awardsにてメイとテイラーはランバートと再共演し「ショウ・マスト・ゴー・オン」「ウィ・ウィル・ロック・ユー」「伝説のチャンピオン」の3曲をメドレーで披露した。
アダム・ランバートはクイーンとの共演について
「僕の見方としては僕はフレディの代わりを演じるつもりも、フレディの上を行くつもりも、フレディと競うつもりもまったくないし、そんなことはまるで考えてないんだ。フレディとバンドとで書いた音楽を歌って、それをステージに持っていっていいショーをやるように請われたってことはすごい光栄なことだと、そう思ってるんだ。でも、観てるみんなが比較することばかりに気を取られると、きっとライヴを楽しめなくなるとも思うよ」と語っている。
『Who Wants To Live Forever』
アダム・ランバート
https://youtu.be/AeCtU_NdCX8
フレディ・マーキュリー
https://youtu.be/Z1waL65aMOQ
クイーンは初期の曲しか知らなかった。
『Who Wants To Live Forever』を初めて聴いたのはヴァイオリニスト、デイヴィド・ギャレットのCD。
デイヴィド・ギャレット
https://youtu.be/4uRC4nUQSRQ
54 反戦歌
『風に吹かれて』は、ボブ・ディランのセカンド・アルバム『フリーホイーリン・ボブ・ディラン』(1963年)に収録され、シングル・カットされた楽曲。
ピーター・ポール&マリーのカバーが世界的にヒットして、作者のディランを一躍有名にした。
1960年代のアメリカ公民権運動の賛歌とも呼ばれ、現在に至るまでディランの作中最も愛唱されることの多い歌曲となっている。
ディラン・バージョンは1994年に、ピーター・ポール&マリー・バージョンは2003年に、それぞれグラミーの殿堂入りを果たしている。
雑誌『ローリング・ストーン』誌が2004年に選出した「ローリング・ストーンの選ぶオールタイム・グレイテスト・ソング500」では14位にランクされている。ロックの殿堂の「ロックン・ロールの歴史500曲(500 Songs that Shaped Rock and Roll)」の1曲にも選出されている。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/風に吹かれて_(ボブ・ディランの曲)
ノーベル文学賞を受賞したボブ・ディラン の「風に吹かれて/Blowin' in the Wind」は世界一有名な反戦歌。
姉がレコードを持っていたが、誰のカバーだったのだろう? 意味がわからないながら口ずさんでいた。
日本語も入っていた。
「いいかい坊や、お空を吹く風が知ってるだけだ〜」
https://youtu.be/sEAgwzKszEg
︎
『ミスター・ロンリー』は、1964年に全米チャート1位を獲得したボビー・ヴィントンの代表曲。
曲の内容はホームシックにかかった兵士の心情を綴ったもので、自身の兵役体験がもとになっており、詩にでてくる手紙には恋人も含むため、いわゆる「ラブ・ソング」にも含まれる。
ミスター・ロンリー
https://youtu.be/khcL3FuRkoY
日本においては、フランク・プゥルセル・グランド・オーケストラのバージョンが、TOKYO FM制作のラジオ番組『JET STREAM』のテーマ曲に長年使用され、有名となった。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ミスター・ロンリー
城達也さんの声がいい。よく聴いていました。
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「死んだ男の残したものは』は、谷川俊太郎の作を詞、武満徹の作曲による歌。ベトナム戦争のさなかの1965年、「ベトナムの平和を願う市民の集会」のためにつくられ、友竹正則によって披露された日本の反戦歌の1つである。
谷川に作曲を依頼された武満は1日で曲を完成させた。
バリトン歌手の友竹正則によって、1965年4月24日(資料によっては22日)御茶ノ水の全電通会館によって初披露されている。
死んだ男の残したものは
ひとりの妻とひとりの子ども
この歌は武満徹と石川セリを調べていた時に知った。たくさんの人がカバーしている。
高石 友也は、日本のフォークシンガー。代表作は「受験生ブルース」
死んだ男の残したものは
https://youtu.be/P1tnxd6JMwY
︎
「花はどこへ行った」
(原題 Where have all the flowers gone?)は、世界で一番有名な反戦歌とも言われるフォークの楽曲。
アメリカンフォークの父とも形容されるピート・シーガーによる作詞作曲であり、シーガーの代表作でもある。「花はどこへ行ったの」と訳される場合もある。
最初の録音の後、歌詞の一部をジョー・ヒッカーソン(Joe Hickerson)が補った形で広まったことから、シーガーとヒッカーソンの共作ともされる。
最後には必ず「いつになったら わかるのだろう」という言葉で締められているため、「戦争がいつまでも繰り返され、いつになったらその愚かさに気づくのか?」というメッセージ、今度こそもう戦争は絶対に止めようという思いを込めて盛んに歌われている。
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もう何百回聞いただろう?イマジンを……全世界では何千億回聞かれているだろうか?
1971年の曲だが、今も色あせることがない。
人類の平和を願った歌だけど、悲しいかな何十年経ってもなおイマジンの願いは届かない。
でもきっといつかは……イマジンは永遠に問いかける。
https://ai-zen.net/kanrinin/kanrinin5.html
『イマジン』は、ジョン・レノンの楽曲である。
1971年に発売された同名のアルバムに収録された。歌詞は、国家や宗教や所有欲によって起こる対立や憎悪を無意味なものとし、曲を聴く人自身もこの曲のユートピア的な世界を思い描き共有すれば世界は変わる、と訴えかけるもの。
放送音楽協会は、1999年に「20世紀を代表する100曲」の1つとして「イマジン」を挙げた。
2002年にはギネスブックを発行しているギネス・ワールド・レコーズ社が30,000人以上から取った「英国史上最高のシングル曲は?」というアンケートの結果、クイーンの「ボヘミアン・ラプソディ」に次ぐ第2位を獲得し、2004年に『ローリング・ストーン』誌が選んだ「ローリング・ストーンの選ぶオールタイム・グレイテスト・ソング500」では第3位にランクインした。
2005年1月にカナダ放送協会はリスナーによる投票で本作を過去100年のうちで最も偉大な歌とした。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/イマジン_(ジョン・レノンの曲)
ジョン・ウィンストン・オノ・レノン(1940年10月9日 - 1980年12月8日)は、イギリス出身のシンガーソングライター、ギタリスト、キーボディスト、平和運動家。
ビートルズを立ち上げたリーダーでボーカル、ギターなどを担当するとともに、ポール・マッカートニーと「レノン=マッカートニー」としてソングライティング・チームを組み、多くの楽曲を作曲した。1965年にはMBE・大英帝国第5級勲位を受章した。
1970年のビートルズ解散後はアメリカを主な活動拠点とし、ソロとして、また妻で芸術家のオノ・ヨーコ(小野洋子)と共に活動した。
1975年から約5年間音楽活動を休止した後、1980年に活動を再開するも、同年12月8日ニューヨークの自宅アパート前において銃撃され死亡した。
55 何十年経っても名曲
歴史に残る名曲『ホテル・カリフォルニア』を収録したイーグルス5枚目のアルバムは、空前の大ヒットとなったベスト盤『グレイテスト・ヒッツ 1971-1975』の後に発売された。
すでに絶頂だった人気をさらに強固にし、イーグルス旋風を巻き起こした。
米国内のセールスでは、マイケル・ジャクソンの『スリラー』及び自分たちの『グレイテスト・ヒッツ 1971-1975』に次ぐ史上3位。
A面の1曲目にタイトル曲が登場。
砂漠をドライブしていた旅人が、 たどりついたホテルで目にした堕落的な世界を哀愁いっぱいに語る。
アメリカの夢の象徴とされたカリフォルニアをテーマに、 現実の空虚さを描いた。
ドン・ヘンリーの憂いを帯びた歌声と、 ドン・フェルダー、ジョー・ウォルシュの2人によるリードギターが圧巻。
https://www.we-love-soulmusic.com/pcindex.html
作詞・作曲:ドン・フェルダー、ドン・ヘンリー、グレン・フライ
On a dark desert highway 暗い砂漠のハイウェイ
Cool wind in my hair 涼しい風が髪をなでる
Warm smell of colitas コリタスの穏やかな匂いが
Rising up through the air あたりに立ち込める
<注:コリタスとは砂漠に咲くサボテンの花で、マリファナ(マリワナ)の暗喩でもある。>
Up ahead in the distance 遠くにかすかな
I saw a shimmering light 光が見える
My head grew heavy 頭は重くなり
And my sight grew dim 視界はかすんでいた
I had to stop for the night 今夜はもう休まなければ
There she stood in the doorway 入口に女が立っていて
I heard the mission bell 礼拝の鐘が聴こえた
And I was thinking to myself 俺は自分に問いかけた
“This could be Heaven or this could be Hell" 「ここは天国か それとも地獄か」
Then she lit up a candle 女はロウソクを灯して
And she showed me the way 俺を案内した
There were voices down the corridor 廊下の先から聞こえた声は
I thought I heard them say こんな風に言っていた
“Welcome to the Hotel California 「ようこそホテル・カリフォルニアへ
Such a lovely place とても素敵な場所
Such a lovely face とても素敵な外観
Plenty of room at the Hotel California たくさん部屋があるホテル・カリフォルニア
Any time of year 一年中いつでも
You can find it here" ご利用できます」
Her mind is Tiffany-twisted 彼女はティファニーに夢中
She got the Mercedes bends メルセデス・ベンツにもご執心
She got a lot of pretty, pretty boys 素敵な彼氏達もたくさんいる
That she calls friends 彼女は「友達」と呼んでいる
<注:bends(ベンズ)とbenz(ベンツ)の言葉遊び>
<注:ティファニーは「高級ブランド・高級装飾品」の象徴、ベンツは「高級車」の象徴としての意味合い>
How they dance in the courtyard 彼女たちは中庭で踊ってる
Sweet summer sweat 甘い夏 ほとばしる汗
Some dance to remember 思い出に浸るダンスや
Some dance to forget 忘れたい気分のダンスも
So I called up the Captain 俺はマスターを呼んだ
“Please bring me my wine" 「ワインを頼む」
He said, “We haven’t had 彼は言った
That spirit here since 1969" 「1969年から そういうお酒は置いていないんです」
<注:spirit(スピリット)は「酒」と「精神」のダブルミーニング>
<注:大事に保管され熟成されたワインは、伝統的な文化や精神の象徴。それが1969年以降、失われてしまったとの意味合い>
And still those voices そしてまだその声は
Are calling from far away 遠くから聞こえている
Wake you up in the middle of the night 真夜中に目を覚まさせ
Just to hear them say その声はこう聞こえるんだ
“Welcome to the Hotel California 「ようこそホテル・カリフォルニアへ
Such a lovely place とても素敵な場所
Such a lovely face とても素敵な外観
They living it up at the Hotel California みな楽しく過ごしています。ホテル・カリフォルニア
What a nice surprise なんて素敵な驚き
Bring your alibis" アリバイをご用意ください」
<注:アリバイとは、その場所にいなかったことを証明するための証拠のこと。つまり、このホテルは居たことが知られてはいけないようなヤバイ場所だということ。>
Mirrors on the ceiling 鏡張りの天井
The pink champagne on ice 氷の上にピンク・シャンパン
And she said: 彼女は言った
“We are all just prisoners here 「私たちは皆ただここで
Of our own device" 自分自身のオリに囚われてる」
And in the master’s chambers 支配人の部屋へ
They gathered for the feast 宴に集まる人々
They stab it with their steely knives 鋭いナイフで突き刺すが
But they just can’t kill the beast 獣を殺すことはできない
Last thing I remember, I was 最後に覚えているのは
Running for the door 俺がドアへ走っていった事
I had to find the passage back 見つけなければ
To the place I was before 元の場所へ戻る道を
“Relax," said the night man 「落ち着いて」夜警が言った
“We are programmed to receive 「私たちは受入れるよう指示されてる
You can check out any time you like あなたはいつでもチェックアウトできる
But you can never leave!" だが決してここを去る事はできない!」
https://www.worldfolksong.com/popular/hotel-california.html
当時は意味もわからないで聴いていた。今でもイントロを聞けば、この曲だとすぐにわかる。
『Hotel California』は世界中で爆発的なヒット曲となり、イーグルスの曲の中で知名度はダントツ。
『ホテル・カリフォルニア』の人気の秘密は、楽曲の良さはもちろんのこと、聴く者の想像力を駆り立てる短編小説のような歌詞にあるのかもしれない。
『ホテル・カリフォルニア』の歌詞については、たくさんの憶測や解釈が飛び交っていた。
『ホテル・カリフォルニア』の解釈として、インターネット上では、次のようなものが散見される。
メキシコでマリファナのことをコリータス(colitas)という。
メキシコ人だったイーグルスのツアーマネージャーがマリファナのコリータスという呼び方をメンバーに教えた。
離婚したばかりの男の歌。
ドラッグが止められない人の歌。
悪魔崇拝のアントン・ラヴェイのことを歌っている。
メンバーが語った歌詞の意味
アメリカの文化の節操のないところと、メンバーが知っているある女の子たちについての曲。
芸術と商業の危ういバランスついての曲でもある。
未熟な状態から成熟した状態へ変容していく道のりについて歌った曲。
コリータス(colitas)は植物一般的に思い浮かぶカリフォルニアの姿がベースになっている。
https://usamimieigo.com/truth-meaning-of-hotelcalifornia/
ホテルカリフォルニア(ライブ1977年)
https://youtu.be/09839DpTctU
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『ストレンジャー』は、ロックアーティスト、ビリー・ジョエルによる楽曲で、1977年の同名のアルバムに収録されている。
この曲は日本、ニュージーランド、オランダ、オーストラリアでシングルとしてリリースされ、特に日本ではソニーのCMソングとして起用されて大人気になり、オリコン総合チャートで最高2位にまで達した。
ビリー・ジョエルはもともとインストルメンタルとして演奏したかったが、ビリーが口笛でこのメロディーを作った際に、プロデューサーのフィル・ラモーンがビリーにインストルメンタルの案をやめ、代わりに口笛を吹くようにビリーに説得した。
この曲は衝撃でした。でも、アメリカではシングルカットされませんでした。
日本独自のシングル発売
日本で大きな注目を浴びたのはデビューから遅れること5年、『ストレンジャー』のヒットによってだ。正確には『ストレンジャー』がテレビCMで使われるようになったからだ。
アメリカから届いた旬なヒット曲『素顔のままで』(’78年2月全米3位)を含むアルバム『ストレンジャー』を携えた’78年3月の初来日公演が大成功したことで、日本独自のシングル発売が米CBSから許可された。
来日公演でも客席の反応が良く、日本人好みの哀愁感漂わせた口笛のイントロから一転、ダンサブルなポップ・ナンバーに、本命ヒットを確信したCBS・ソニーは’78年5月にEPシングル『ストレンジャー』の発売に踏み切った。
同時期に、本国アメリカではアルバムからの2ndシングル「ムーヴィン・アウト」(’78年5月全米17位)がヒット中だったことを考えると、アメリカと足並みを揃えることを当然とする洋楽プロモーション時代ではまさに異例中の異例の戦略だった。
https://www.110107.com/s/oto/diary/detail/4256?ima=0000&oto=ROBO004&cd=rensai
ウィリアム・マーティン・ジョエル(1949年5月9日 - )は、アメリカのニューヨーク州サウス・ブロンクス出身のシンガーソングライター、歌手、ピアニスト、作曲家。
ポップなメロディと、都会的なアダルト・コンテンポラリー・サウンドで、1970年代後半から1990年代前半にかけてヒットを連発した。全世界で1億5000万枚以上のレコード・セールスを記録している。
代表曲に、『ピアノ・マン』、『素顔のままで』、『アップタウン・ガール』、『ストレンジャー』、『オネスティ』などがある。
イギリスのエルトン・ジョンと共に、20世紀後半〜21世紀前半、ピアノ・ロックというジャンルを確立した。
『素顔のままで』は当時の妻エリザベスに捧げられたラヴ・ソング。
当初はアルバムから外される可能性もあったが、当時ビリーの妻がマネージメントを担当していたバッキングボーカルのフィービー・スノウが、この曲を絶賛しアルバムに収録することになったという逸話がある。
ビルボード誌のシングル・チャートで、ビリーにとって初のトップ10入りを果たした曲で、最高位では3位まで達した曲でもある。また、同誌のアダルト・コンテンポラリー・チャートでは1位を獲得し、その後、グラミー賞最優秀レコード賞と最優秀楽曲賞の2部門を受賞 。
マネージャーとしてもビリーを支え続けてきた妻のエリザベス・ウェーバーは、ビリーの財産の半分を慰謝料として受け取ることを条件に1983年7月に離婚に至っている。
ストレンジャー
https://youtu.be/cpblxaLplOc
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T・レックスは、イングランド出身のロックバンド。旧名ティラノザウルス・レックス。
ロンドン出身のマーク・ボランがリーダー。
1970代前半のグラムロック・ムーブメントでは、デヴィッド・ボウイやロキシー・ミュージック、モット・ザ・フープルなどとともに、ジャンルを代表するアーティストとなった。その音楽は、T・レクスタシーと呼ばれることもあった。
1970年12月に「T.Rex」とバンド名を短縮、『ライド・ア・ホワイト・スワン』(全英2位)の大ヒットでスターダムに。
1971年に『電気の武者』がUKチャート1位の大ヒット。『ゲット・イット・オン』(全英1位・全米10位)。
イギリスでは人気グラムロック・グループとなった。また、この当時の彼らは「第2のビートルズ」との呼び声も高かった。
日本でも武道館公演を行なうほどの人気で、1973年にリリースされたシングル、『20センチュリー・ボーイ』(全英3位)は当時の日本盤の発売元、東芝EMIのスタジオでレコーディングされた。
しかし、アメリカでヒットしたのは『ゲット・イット・オン』1曲だけで、大きな成功をおさめることができなかった。
1970年代前半には、ラウドなハードロックや、演奏技術や長尺曲が特徴だったプログレッシブ・ロックが流行していた。
それらとは異なった中性的なファッションやメイク、グルーブ感あふれるビートや、ポップなメロディーを演奏していたのがグラムロックのミュージシャンたちだった。グラム・ロックは70年代後半のパンク・ロックの一部にも影響を与えることになる。
グラム・ロックは、音楽性よりもメイクや、ステージングなどの面で区別されることが多かった。
1975年に入るとグラムロックブームが終わり、急速に人気はしぼんでいった。
人気急落後のマーク・ボランは、自身の麻薬中毒ともあいまって、危機的な状況を迎える。
この時期の楽曲はブラック・ミュージック色を取り入れたもので、現在ではそれなりに評価されているが、不摂生の祟ったマークは太ってしまい、ビジュアル面でも精彩を欠いた。
だがやがて、息子の誕生などを機に、生活を改め、バンド・メンバーも一新、ソウルミュージックにも興味を示して再起を目指していた。
黒人女性シンガーのグロリア・ジョーンズ(1945〜)とは、1969年に最初に出会い、1972年に再会し、恋愛関係になっていた。
マークが恋人だったジューン・チャイルドと1970年に既に結婚していたために、グロリアとは婚姻届なしの事実婚となった。1975年に二人の間には男の子も誕生した(ロラン・ボラン)
しかし、1977年にグロリア・ジョーンズが運転する車が街路樹に激突し、同乗していた彼は29歳で死去した。
生前、「30歳まで生きられないだろう」と言っており、偶然だが30歳の誕生日の2週間前に死去した。
バンド名がT.Rexとなってからは、殆どマークのソロプロジェクト状態だったが、後年はそれがより鮮明になっていた。そのため、彼の死でT.Rexは活動を休止した。
2020年、「ロックの殿堂」入りを果たす。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/T・レックス
当時、雑誌にも漫画のストーリーの中にもT・レックスが登場していた。
マーク・ボラン、彼はまばゆいグラム・ロック界で最も可愛い男の子であり、マンボの太陽の下でレスポールをかき鳴らす中性的な王子様であり、自分と同類の神秘的な女性たちに囲まれて銀色の剣歯を持つ夢を実現していた。
悲しいことに、彼の栄光が終わりを告げるときは、あっという間にやってきた。人生のほとんどで飲酒しなかったボランも、『ザ・スライダー』後にアルコールとコカインのかすみの中に迷い込んでしまった。
そして、彼は人生の最後の年に、それまでのことをすべて整理して、60年代にR&Bシンガーだったアメリカ人の恋人グロリア・ジョーンズとともに、二人の間に生まれた息子ローラン・ボランを育てていた。
それから2週間後、ボランは交通事故で死亡してしまった。
ボウイ、ヴィスコンティ、ロッド・スチュワートが彼の葬儀に出席した。ボウイはこう語った。
「恐ろしいほど心がズタズタに引き裂かれている。彼に贈る唯一の言葉は、彼がこの世界で最も偉大な“小さな巨人”だった、だ」と。
しかし、ボランのファンには、彼が自ら進んで爆弾の中に身を投じたと言う者もいる。あれから何十年を経た現在もT・レックスのスピリットが息衝いている理由はこれだ。火星のボールルームからロックの殿堂へと途切れることなく。
https://rollingstonejapan.com/articles/detail/32976/3/1/1
毎年マーク・ボランの命日である9月16日に「マーク・ボラン追悼~グラムロックイースター」というイベントが行われる。
20センチュリー・ボーイ
https://youtu.be/c7nbXljpnq0
(Wikipediaより引用しています)
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