この家には亡霊がいる 23
弟と妹 1
夏生と結婚した年に家を2世帯住宅に建て替えた。外溝工事に来ていたのが圭だった。圭は親方と仕事をしていた。
僕は飲み物を差し入れした。事故で入院していたとき以来だ。
手術から目覚めた圭は弘美から、美登利が輸血をしてくれたことを聞いた。美登利は圭の意識が戻ると去って行った。弘美に看病を頼んで。
美登利は弘美に譲ったのだ。夏生に僕を譲ったように。輸血したことで、美登利は圭と結ばれた。僕の血も混じったわけだが……
美登利は圭が弘美と結ばれることを望んでいた。
「夏生と結婚したのか? そうなるとは思っていたが」
高校入学の前の春休みに圭と初めて会った。あのときと同じように僕は手伝った。ブロックを壊し、車に運ぶ。あのときと違うのは、父親の代わりが親方であること、それに……
小型のミキサー車が入ってきた。降りてきた男、いや、女を見て驚いた。病院で圭の世話を焼いていた弘美だった。真っ黒に日焼けし、男に混じって引けを取らずに働く。
「かっこいいなぁ、弘美ちゃん」
僕が言うと圭は優しい目で弘美を見た。
圭は知りたいだろうが聞いてはこない。美登利がどうしているかを。
美登利は信也と付き合っている。教えると圭は安心したようだ。
「三沢さん、釣り行かない?」
弘美が誘った。
「海釣りか?」
「ヒラマサよ」
「ヒラマサを、君が釣るの?」
「女も多いのよ」
「じゃあ、夏生も誘うか」
「奥さん、仕事してるの?」
「ああ。ウェディングドレス作ってる。プレゼントしようか?」
ーーーーーーーーーー
自分が養子だと気づいたのは小学校2年の時だ。ひとつ上の姉が喧嘩したときに口を滑らした。ふたりで通っていたピアノ教室。遅くに始めた春樹が姉を追い越した。
「特別なんだからハルは」
うちの子じゃないんだから、伯母さんの子よ。伯母さんが駆け落ちした男の……子なんだから……
うすうす気がついてはいた。目を閉じれば田舎の風景が見える。波の音が聞こえる。海岸で抱かれていた。
訛りのある言葉が話しかけた。
ハル……
父親の記憶は少しもないが。
悲しくて家を飛び出した。
特別なんだ、ボクは……大事にされていた。姉よりも大事にされていた。だからわがままになっていた。弱いくせに。
公園で由佳に会った。由佳は暗い公園のベンチに座っている春樹に声をかけ顔を見ると驚いていた。
言葉に思い出と同じ訛りがあった。
店でバイトしていた男が探しにきた。春樹の遠い親戚だという。そっくりだね、と姉は言った。姉はすぐ懐き勉強やピアノを教えてもらっていた。春樹は人見知りをする。
エイコウ……聞き覚えのある名前。はっきり覚えている名前だった。
エイコウの眼差しは不思議だった。優しい時もあれば冷たい時もあった。しかしエイコウが弾いたピアノ曲に春樹は魅せられた。それから春樹はピアノにかじりついていた。
その夜は由佳のマンションに泊まった。由佳の隣の部屋には同郷の幼なじみの圭介が住んでいた。エイコウは圭介の部屋に泊まった。
由佳はエイコウが好きだったのだろう。エイコウに頼まれ春樹の家庭教師になった。由佳は春樹の悲しみを受け止め、強くなろう、と励ましてくれた。
私も引っ込み思案の弱虫だから一緒に強くなろうね、と。
エイコウと由佳と遊園地へ行った。エイコウは春樹の気持ちを察してふたりとは離れて歩いた。乗り物に乗る時もうしろにひとりで座った。
由佳はエイコウと乗りたかったんだろうな。
由佳がトイレに行ったときに聞いた。
「由佳さんを愛してるの?」
「ませたガキだな。ハルは愛がわかるのか?」
「死んだパパとママは愛し合ってた。ボクは愛の結晶なんだ」
「そうか、よかったな」
エイコウは吐き捨てるように言った。冷たかった。
家で由佳が酒を飲んだこともあった。未成年なのに父が勧め由佳は飲みすぎた。帰りはエイコウが送っていった。春樹は心配だった。エイコウはわざと由佳の肩を抱いた。
エイコウがいたのは短い間だった。ある夜、由佳と3人で店で食事をしていると、きれいな人がやってきた。エイコウの彼女だ。
彼女は終始微笑んでいた。慌てて取り乱したのはエイコウだ。由佳の様子も変だった。
そんなことがあってからエイコウは来なくなった。それは構わなかった。由佳が4年間春樹の面倒をみてくれたのだから。
由佳はたぶんエイコウに頼まれたのだろう。春樹の力になってくれと。由佳と春樹は強くなっていった。
4年の間、由佳にもいろいろあったのだろう。同郷の圭介は由佳の婚約者だ。兄を亡くしている由佳は家のために親の決めた相手と結婚する。
運命なの、と由佳は言った。
ボクのママはなにもかも捨てた。捨てろよ。由佳も。愛してない男と結婚なんかして幸せになるわけないんだ……
由佳は化粧が上手くなり強くなった。かよわかった彼女が春樹にボクシングを教えた。かよわかった彼女はいきなり泣き出し、春樹が慰めたこともある。
エイコウのピアノコンクールのビデオを見て由佳は恋をした。圭介に勧められファンレターを出したが返事はこなかった。東京の大学に入るために圭介のマンションの隣の部屋を借りた。圭介に連れてこられた春樹の親が経営しているあの店。ウェイターはエイコウだった。偶然? こんな偶然があるのだろうか?
田舎に帰る前の日、由佳は春樹を抱きしめた。春樹は聞いた。
「エイコウは僕のおにいさん? だから由佳は僕に優しかったんだろ?」
由佳は答えられなかったが否定しなかった。
「エイコウさんはすごくいい人よ。自分のことより人のこと考えてる」
おそらく母はエイコウを捨てたんだ。だから僕を見る目が冷たかった。今の春樹より小さいときに母親に捨てられた。その兄がなぜ店で働いていたのか? 春樹を探しにきたのか? 由佳に頼んだのか? もう会うことはないのか?
姉は私立中高に進んだが春樹は区立中、都立高校に進んだ。大学へは行かない。遠慮していた。ピアノだけは続けさせてもらった。
そのかわり店の手伝いをした。高校になると夜、店でピアノの演奏をした。春樹が弾くと若い女性客のリピーターが増えた。
大学へは行かないと言うと、両親は怒った。店は繁盛しているがローンがあり楽でないのは知っている。
「おかあさんが残してくれたお金があるの」
生みの母は中卒だ。何度か行ったことがある田舎。母の実家は裕福ではなかった。6歳下の育ての母がなぜ大学を出ているのか不思議だった。
18歳になったときに春樹は聞いた。自分を産んだ母親のこと。最初の夫のこと。会社経営している裕福な家庭の息子が母のためにすべてを捨てた。数年、田舎で暮らしていた。
エイコウが生まれた。そして……母は会社の危機に、節約して貯めていた金を出した。驚くほどの金額。
母名義の会社の株は全てエイコウに譲った。しかし、母が亡くなったときに前の夫は、春樹の分を渡してくれたという。毎年配当金が振り込まれる……
春樹は母が暮らしていた家の前に立っていた。大きな邸だ。今は建て直したのだろう、2世帯住宅になっている。ここに兄のエイコウが暮らしている。母の元夫が再婚相手と娘と暮らしている。
エイコウには母親の違う妹と父親の違う弟がいる。遠い昔、店で働いたのは弟の春樹が出生に気づき不登校になったからだという。力になってくれようとしていたのか? 自分を捨てた母親の息子を?
大きな邸だ。社長夫人の座、息子まで捨てて余命宣告された春樹の父親のそばについていた……
父親の親族は春樹の存在を知っているのだろうか?
邸から若い娘が出てきた。たぶん彩だろう。背の高い娘だ。犬の散歩らしい。遊歩道を歩いていく。
春樹はあとをつけた。10分ほど歩くと大きな公園がある。なおもあとをつけるとバレた。彼女は方向転換して歩いてきて春樹の前に立ち驚いた。
「……死んだ犬に似ているから、ついあとをつけた。そっくりなんだ……」
言い訳は考えておいた。春樹は小さなトイプードルにさわろうとして吠えられた。彼女は犬を叱り抱き上げた。
「びっくり。うちの兄貴に似ているから。他人の空似かぁ」
そう言ってジロジロ見た。
「君は、似てないの? おにいさんに?」
「似てるのは背が高いことだけ」
175センチ はあるだろう。内気な春樹とは正反対のタイプだ。
公園のベンチで春樹は彩から聞き出そうとした。彩の父親のこと、母の元夫のこと。兄のエイコウのこと。しかし逆に聞かれた。
「父の親戚の子? 父の隠し子じゃないの?」
うろたえる春樹。
「いつか現れると思ってたのよ。白状しなさい。パパの隠し子でしょ? だから家を覗いてた? おかしいわよ。兄貴にそっくりなんて……」
春樹は全部喋ってしまいそうになった。君のおとうさんの前妻の息子だと。
しかし彩のじっと見つめる目が動いた。隣のベンチの男の声がした。
おまえも高3か。成長したな……
「かずちゃん!」
彩はいきなり立ち上がり隣のベンチの男に駆け寄った。
「和ちゃんでしょ? 三沢彩です」
彩は喋りまくる。
懐かしい。会いたかった。会えると思っていた。そうです。高校3年よ。この子は? 和ちゃんの彼女?
菜穂が首を振る。菜穂は春樹を見ている。春樹は彩を見ている。彩は和樹を見ている。和樹は彩を見返し聞いた。
「夏生は?」
「兄貴と結婚したわ」
「そうだろうな。子供は?」
「まだ」
思いは9年前にさかのぼる。
「大きくなったな」
なりすぎだ。たいして和樹と変わらない。春樹はもう少し高いが。
雨が落ちてきた。和樹は菜穂を屋根のある建物の下に移した。ふたりもついてくる。
「車回してくるから待ってろ。寒くないか?」
和樹は上着を脱ぎ菜穂の肩にかけると走っていった。
「あの人の大事な子、なんだね」
春樹が彩に意地悪く言う。
和樹は傘をさしてくると菜穂を傘に入れ歩いていく。彩が和ちゃん、と呼ぶ。
「送っていくから待ってろ」
「自分はあんなに濡れて、よほど大事なんだな」
繰り返し春樹は言った。彩がにらんだ。憎しみと悲しみと弱さを含んだ目で。
出会ってから1時間もたっていない。自信たっぷりの、この世は自分のもの……という雰囲気だった。
「好きなのか? 9年ぶりに会ったとかいう男が?」
雨に濡れた、さっきまでとは別人のような弱々しい女。雨に濡れた唇に春樹はふれようとした。彩は殴ろうとした。それをかわす。両腕をつかみ無理やりやった。
蹴ってくる足をかわし体を押し付け抱きしめた。腕の中でもがく女。和樹が走ってきて、春樹は離した。今度はかわさずに殴られた。1回、2回、3回。手が痛いだろうに。
「あんた、なんなの? パパの子じゃない」
春樹は店のチラシをポケットから出し渡した。受け取らないからジャケットのポケットに入れた。
「兄貴に聞けよ」
和樹が傘をさし歩いてきた。父がどうだろうが兄がなんだろうが、つぎのことが辛かった。
彩は走っていくと汚された唇を和樹の唇で清めた。いきなりキスされた男は抵抗する間もなく……彩は雨の中を走って行った。
「なにやってんだ? おまえたちは?」
「おまえって言うな」
「君は、三沢さんの親戚か?」
「……大事な子が待ってるんじゃないの? 早く行きなよ」
和樹は春樹を置いて歩き出した。
「あの子、オレの顔ばかり見てたな。あの子はオレに惚れて、オレは彩に、彩はあんたに惚れてる。あんたは? 夏生っていう兄貴の奥さんに惚れてたのか?」
「弟か? 三沢の」
和樹のあとを春樹は追いかけ、助手席に座っている大事なお姫様に、窓を叩いて開けさせた。ポケットから店のチラシを出し渡した。
「食べにこいよ。ひとりでね」
彩から連絡はなかったが、あのお姫様は来た。ひとりではなかったが。女友達を連れてきた。
昼の混む時間を避けて来たから思いきりサービスしてやった。デザートはアイスクリームにブランデーをかけ火をつけてやった。
極めつけは春樹のピアノだ。菜穂と友達はそばに来て春樹を見ていた。
菜穂はもうオレのものだよ。和樹、だっけ?
お姫様は誘えば来た。店でバイトしないかと言うと喜んだ。
バイトは初めてなの……春樹が手取り足取り教えた。3日もすると手際よく動いた。帰りは送った。
春樹の話を熱心に聞く。聞き上手だ。中身のない男の話を真剣に聞いてくれる。頭もいい。志望は薬剤師だ。
和樹のことを聞いたが詳しくは話さない。家庭教師をしてくれていたの、とだけ。
なにをしているんだ? オレは?
彩の好きな男に嫉妬して大事なものを奪ってやろうとして、奪えるわけないのに。
菜穂の真剣さに惹かれていく。おとなしくて控えめだが強い。投げやりな春樹は恥ずかしくなる。帰り道、菜穂はキスを待っていた。春樹はできなかった。彩の感触を忘れたくない。
「和樹さんに怒られるな」
バイトは内緒にさせた。菜穂は素直に言うことを聞く。菜穂に惹かれていく。心が洗われていく。
しかし、春樹は彩に会いたくて公園に行く。犬を散歩していないかと。
日曜日の同じ時間。3人が集まった。春樹は彩に会いたくて、彩は和樹に会いたくて、和樹は誰に会いに来たのだ?
彩か? 春樹に菜穂のことを聞きに来たのか?
彩がまた和樹に言った。会いたかった、と。
和樹はひどいことを言った。本心ではあるまい。彩を、9歳も年下の女を諦めさせるために。
「背の高い女は嫌いなんだ」
彩の自信が崩れた。姿勢のよかった女がうなだれた。ひとりの女の表と裏。強さと弱さ。弱い彩がたまらなく愛しい。しかし走っていく彩を先に追いかけたのは和樹だった。
和樹は思い出した。そうだ、嫁にもらってやると言った。男は背の小さいかわいい子が好きなの……なんて言うからつい言ってしまった。覚えていたのか?
「みんなが言うの。でかい女って」
9年前の彩のコンプレックスだった。和樹は慰めた。
「僕は好きだよ。背の高い女の子。堂々としてなきゃダメだよ」
コンプレックスだったのだ。幼い頃から。
和樹が慰めて励ましたからこんなに覚えていたのか? なんてことを言ってしまったのだろう?
いつもこうだ。今度は手放したらダメだ。
和樹は追いかけた。
「背の高い女は嫌いだけど、君は特別だ」
抱きしめてキスをする。
この間からキスのゲームみたいだ。
公園だ。外国の公園ではない。子供も見ていた。春樹にも見られた。
彩はスラリとした宝塚の男役のような絵になる女だ。和樹もまあ、かっこいい部類だ。携帯で写真を撮るものもいた。
離すと拍手がおきた。彩の手を取りその場から逃げ出す。
車に乗せると彩は下を向いていた。簡単に許しはしない。
部屋に連れていく。この部屋に越してから、入れた女はいない。彩は机の椅子に座り背を向けている。うしろから肩を抱く。
「君は特別だ」
もう1度言った。椅子を回転させると彩は胸に飛び込んできた。まだ高校生の娘。三沢英幸の妹。夏生の義妹。
それがどうした?
弟と妹 2
「コ、コーヒー入れよう」
体を離しワンルームのキッチンでコーヒーを入れた。
別れた女が置いていったコーヒーメーカーは、豆から挽くから香りが蔓延する。
彩は喋るだろうな。三沢と夏生に。もう出会ったことは話しているか?
コーヒーを飲むと彩は部屋を掃除した。家でもやっているのか手際がいい。
和樹は思い出す。2年の間つくしてくれた女を。きれい好きな女だった。地味で質素で目立たないが、いや、目立たないがきれいな女だった。
テニス部に勧誘したとき、はじめはなにも感じなかった。
「かわいい子しか誘わないんだ」
和樹の軽口に戸惑い、驚きと少し軽蔑の混じった顔で見た。冗談の言えない女。
しかし、間近で見た桃のような頬、思わず見惚れた。よく見るときれいな顔だちをしていた。和樹はうれしくなった。誰もこの子がこんなに魅力的であることに気付いていない。自分でも気付いていないのだろう。
誰も気が付かないから安心していた。真面目すぎる女で面白くなかった。自分が軽薄だったのだ。彼女ほど深みのある女はいない……
恋にも一途だった。和樹一筋で……だから好き勝手なことをして傷つけた……
和樹はティッシュを取った。3枚取って鼻を拭いた。彩はなにも言わなかった。
『おまえ』は違った。もったいないと言った。2枚で大丈夫でしょ?
思わず言い返した。
ティッシュ位でケチケチするなよ。
夏は、エアコン寒すぎない?
『オレ』は暑いんだ。
『おまえ』は何も言わずにカーディガンを羽織った。
ごめん、冷やしたら不妊症になるな……抱きしめて謝った。
休みの日にATMで金を下ろすと言いたそうだった。手数料がもったいないと。水道の水もそうだ。流しっぱなしにしてると手が伸びてきて止めた。なにも言わず。このときも和樹は謝った。真剣な表情だった。
そのくせ、和樹のために買ってきた肉や果物は高かった。当時はわからなかったが自分でスーパーにいくようになるとわかった。質素な女が和樹のために惜しみなく金を使った。
『おまえ』の言うとおりにしていれば……
いや、結婚しても泣かせただろう。見限られたんだ。『オレ』は。
並んで歩くには見栄えがいい。夫にするタイプではない。別れてよかったんだ。『おまえ』のために……
彩は下着姿でバスルームを掃除していた。下着のモデルになれそうなプロポーション。
「バカ、風邪ひくぞ」
黄ばんだ部分を一生懸命こすっている。あとは流すだけだから、と追い出された。
比べないで……
『おまえ』はベッドで何度も言った。
比べないで。比べないで、葉月さんと。夏生さんと由佳さんと……あの、きれいな人たちと比べないで……
葉月と夏生は三沢を愛していた。由佳は圭介を愛していた。
『おまえ』は今のオレを見たら、やっぱりね、と言うだろう。
しかし、誰と比べたって『おまえ』が1番だったよ。『オレ』には。
だから忘れられない……『おまえ』は特別だった……
彩がバスタオルを巻いて出てきた。
「シャワー浴びちゃった。どうする?」
「バカ、早く服着てこい」
和樹はうしろを向いた。
春樹は菜穂を呼び出した。店の3階の自分の部屋。菜穂は来たことを後悔した。
だが、もっと後悔したのは春樹だった。和樹への腹いせに大事なお姫様の恋心を踏みにじってやろうと思った。
刺激的な映画を観せた。ほとんどAVと変わらない。音量を大きくする。真っ赤になった菜穂を押し倒した。
「君も和樹とやってんだろ? 生徒に手を出すなんて」
胸のボタンを外すと菜穂はひどく抵抗した。抵抗されてボタンを引っ張った。
「ハル、見ないで」
春樹がひるむと菜穂は素早く立ち上がり出て行った。
ママは心臓が弱っていた。激しい運動は止められていた。それなのに、溺れる子を放っておけなかった。
なぜ助けにいったんだ? オレを残して。ママは瞬時に決断した。
オレはなにをしているんだ?
春樹はテレビを消しリモコンを投げた。菜穂の胸には大きな傷跡があった。おそらく心臓の手術のあとだろう。古くはない。
わかった。なぜ和樹があんなに大事にしていたのか。
なにをしているんだ? オレは? ママ、あなたの息子はなにをしているんだ?
置いていったバッグを持ち追いかけた。
走って大丈夫なのか? どこかで倒れているのではないか? 怖かった。
バス停で菜穂は下を向いて座っていた。バッグを渡したが顔を上げなかった。
「ごめん」
菜穂はなにも言わない。
バスが来た。立ち上がり乗り込む。もう2度と春樹の顔は見なかった。
電話もメールも反応がない。出ない。読まない。拒否はしない。
菜穂の高校の駅にピアノが置いてある。放課後、春樹はピアノを弾いた。菜穂が通り過ぎるまで。
初日、菜穂は春樹を見た。見たが走っていった。次の日は観客ができて菜穂の姿はよく見えなかった。でも耳に届けばいい。菜穂が素敵だと言った曲を次々に弾く。
3日目からは人だかりがした。菜穂はいない。届いているのか? 君だけのために弾いているのに。
1週間目、人だかりの向こうに菜穂が見えた。歩いていくと女子高生が数人春樹を取り巻いた。菜穂は歩いていく。
もう春樹の周りには若い女子が囲み、菜穂は完全に見えなくなった。それでも弾いた。聞いてくれ。君が好きだと言ったモーツァルトの8番。涙が出る。
明るくて、悲しくて……モーツァルトは好きじゃないのに。
夏生から電話がきた。9年ぶりに聞いた声は変わっていなかった。
「あんた、なにやってるの?」
「……なんだよ、いきなり」
「公園で彩となにしてた?」
なんで知ってる? 喋ったのか? 彩が?
画像が送られてきた。顔はハッキリ写ってはいないが夏生にはわかるのだろう。彩は勿論、和樹のうしろ姿も。
「彩と付き合ってるのか? 高校生だぞ。9歳も年下の私の義妹だ」
男言葉で責められた。懐かしい悪態。
高校3年の政治経済。先生は議論させた。死刑廃止やポルノ解禁まで、賛成か反対か。
夏生はよく発言した。死刑廃止論者だったから和樹とバトルになった。ポルノ解禁では黙っていた。和樹が意見を聞くと赤くなり無視した……
会えなかった年月を感じさせない。言葉遣いにデコピンしてやりたい。
「なんだよ、その口のききかた、よくオレだってわかったな? いまだに忘れられないか?」
「なに言ってんの?」
「英幸さんとはうまくいってるのか? 仲がよすぎて子供ができないって?」
「余計なお世話。あんた、エーちゃんになに言ったの? エーちゃん、ずっと誤解してた」
「ああ、産婦人科入るとこ見られたからな」
「あんたの嘘のおかげで……」
「なんだよ。おまえを女にしたのはオレだろ? 男みたいなおまえを女にしてやったのはオレだ。おまえは喜んでた。やりたいこともできたんだろ?」
いきなり携帯を奪われた。彩が入ってきていたのに気づかなかった。
夏生は喋った。あんたはいい人だった……
彩は携帯を投げつけ出て行った。
彩が来た。閉店間際の店に来た。母に正体を気づかれたら大事になる。春樹は隠すように自分の部屋に入れ鍵を閉めた。
母が携帯に電話してくる。なにやってるの? 菜穂さんはどうしたの? なにめちゃくちゃなことやってるの?
なにもしないから……信じてよ……事情があるんだ。あとで話すよ。
彩はコンビニで買ってきた酒をがぶ飲みした。二十歳には見える大女だ。
「こんな大女を誘う男がいる? 和ちゃんだけだった……」
酒を取り上げると叩いた。
「あなた、パパの前妻の子でしょ? パパがいまだに忘れられない女の……唯一パパが愛した女……そんなに愛されて、なにもかも捨てて出ていくなんて、なんて、バカな女……」
「そうなのか? そんなに愛されていたのか?」
「うちには亡霊がいるの。パパの前妻の亡霊……ヒースクリフ……」
彩は英語の歌を歌い踊った。階下に響く。勘違いされる……
「いつもいつも大女って言われてた。かわいいなんて言われたことない。告白なんて女の子にしかされたことない。パパも愛してくれない。こんなかわいげのない大女。兄貴は、兄貴は夏生のことばかり……夏生は和ちゃんとできていた。裏切ってる。兄貴を。和ちゃんは、和ちゃんは……」
和樹のことを聞かされただけだった。
和樹が兄嫁とできていた……?
夜遅くに送って行った。門の前で見送ろうとしたら手を引っ張られた。
「パパに紹介する。前妻の息子と愛し合ってるって」
彩は大声でわめき、エイコウが出てきた。
10年ぶりに再会した。エイコウは驚いていた。彩にはなにも聞かされていないようだ。よかった。エイコウの妹に無理やり……なんて、殴られる。
「兄貴の弟のハルよ。私たち結婚するの。運命よ」
「……飲んでも飲まれるな」
エイコウが彩を叱った。
「夏生は最低!」
年配の男が出てきた。彩の父親か? 彩に似ている。
「彩の彼氏か?」
喋ろうとする彩は兄に口を塞がれ抱き抱えられ玄関に入った。
男は春樹を見て驚愕。エイコウはかつて読んだシャーロック・ホームズの文章を思い出していた。
私がまだ非常に若かった頃だ、ホームズ君、私は生涯で1度しか経験したことのない恋愛をした。
……彼の顔に母親の面影を見ることができた……彼を見ていると、いとおしい彼女のあらゆる仕草が……
そこへ女も出てきた。彩の母親だろう。彼女は春樹を見て一瞬ですべてを理解した。
様子のおかしかった娘。付き合っていたのは春樹だったのか。まるでドラマのようだ。なんという因縁。
この家の亡霊は消えてはいない。住み着いていた家を壊され、建て直されても出てくる。亡霊の息子は元夫の娘を求める。英輔の魂を。それは同時に英輔も感じている……
春樹は頭を下げて歩き出した。ひと騒動起こりそうだ。この家に再び嵐が……?
英輔はそのまま2階の書斎に閉じこもった。
リビングで亜紀が叫んだ。
「幸子の魂が俺の魂を求めてる……そう思ってるわ。きっと。何年経つのよ? さらに鮮明に……」
亜紀がグラスを叩きつけた。この女が物に当たるのを初めて見た。彩は子供のように泣き出した。
「更年期なのよ。幸子さんはいつまでも若いままだわ。あの人が死んだときホッとした。あの人は島崎が死ぬと待っていたのよ。パパと暮らしてた故郷の部屋で。パパが帰るのを待っていた。いつパパが私と彩を捨てて、出ていくんじゃないかとびくびくしてた。会社は三島に譲って、なにもかも捨てて……あなたは渡さないわよ。あなたは私が育てた私の息子……」
亜紀は笑って泣いた。
英幸は義母を抱きしめた。かつて幼い英幸を抱きしめ救い出してくれた人だ。もう英幸の母親は亜紀だった。亜紀をいまだに悩ます母を憎らしいと思った。彩も亜紀を慰め謝った。
「僕はあなたの息子だよ」
「パパが弱いからダメなのよ。離婚なんかしないで待っていれば幸子さんは帰ってきた。私と再婚なんかしなければ、今この家にいるのはあなたのママだったのよ」
「そうしたら、私はいなかったじゃない」
「妄想だよ。亜紀、亜紀は最後の女だ」
声も話し方も英輔そっくりだ。亜紀はいっとき弱みを見せたが、すぐに自分を取り戻し砕けたグラスを拾った。
英幸が掃除機を取りに行くと英輔が階段の上にいた。
「気をつけて、パパ」
「大丈夫だ。前の家とは違うんだ。バリアフリー」
「おかあさんがグラスを割った。後始末頼むよ」
「かあさんか?」
かあさん?
掃除機を渡しドアを閉めた。
「絶対に先に死んでやる。あなたが死んでいくのを見たくない。幸子って呼ぶわ。きっと。私は殴るわよ。死にいく人を殴るの」
「亜紀は最後の女だ……白髪が増えたな」
今度は本物の夫の声だ。
「あなたのせいじゃないの。あなたは若い娘に持てて持てて……」
「共に白髪の生えるまで……」
亜紀の笑い声。抱きしめたか? また、土下座か? そして父の声。
「彩は最愛の娘だ」
「ママを大事にしないと怒るからね」
娘は両親をふたりきりにさせ出てきた。
「夏生は和ちゃんとできてる」
「……和樹?」
「夏生が妊娠したのも和ちゃんが現れた途端。和樹の子よ。兄貴は裏切られた……」
和樹の子……あの男の子供?
「……私が、なんだって?」
そこに夏生も起きてきてこちらもひと騒動。
夏生は携帯の画像を見せた。
「ママの知り合いが撮ったの。三沢さんのお嬢さんじゃないかって」
「和樹の……登場か……あいつがおまえとなんてまっぴらだ」
「嘘なの? 嘘なんでしょ? 夏生が兄貴を裏切るわけない」
「嘘だよ。あたりまえだろ。全部見当違いの誤解だ。和樹は男みたいな夏生を女に戻した。和樹は本気だった。しかし夏生は僕一筋」
「そうよ。兄貴と夏生は特別だもの。妹の私より大事だもんね」
「和樹のことは忘れろ。あいつは嫌いだ」
「私は大好きなの」
「おまえは若い」
「兄貴のママだって19で結婚した。11も年上のパパと」
「そして別れた」
「パパは忘れない。和ちゃんは夏生のことなんか愛してなかった。和ちゃんが愛したのはただひとり」
「おまえか?」
「高校の後輩……和ちゃんは忘れない。和ちゃんの心に住み着いている亡霊を追い払ってやる。協力して。兄貴。和ちゃんの心にずっと住み着いてるの」
全部見当違いの誤解だ……
弟と妹 3
春樹は屋敷の周りを歩いた。離れられなかった。広い敷地だ。大きな木がたくさん植っている。旧家なのだろう。母が暮らしていた家。母と暮らしていた夫。息子。
なぜ捨てたんだ? なぜ父を選んだんだ? それほど愛したのか? 知りたい。父親のこと。母のことをもっともっと。
元夫は春樹を食い入るように見つめた。手が頬に触れようとした。手のひらに傷跡があった。
似ていたのだろうか? 前妻に。別れて亡くなった前妻をまだ覚えているのか? 憎しみさえ薄れるほどの年月が経っているだろうに。
愛しているのか? 彩が言ったように。
オレのママをいまだに忘れずに愛しているのか?
風が吹いた。広い敷地を亡霊がさまよう? 春樹は想像した。窓を叩く亡霊、バカな、あれは彩のパントマイム……
亡霊の掌にも傷があった。まるで夫婦の契りみたいだ。あの男は確かに母の愛した夫、男だ。
何度か屋敷の周りを歩き、門の前に戻るとエイコウが立っていた。
「やってくれたな」
「彩が、彩が無理やり引っ張っていったんだ。みんなで出てくるなんて思わなかった」
「電車はもうないから送ろう」
車に乗り、かつてバイトしていた叔母の店の前まで送る。
「あの、弱虫のお前が…… どうして彩と知り合った? 知っていたのか? 元夫の娘だと……」
「彩なんか……あんな年上の男に夢中な女」
「年上の男?」
「兄貴の奥さんとできてたって」
春樹が話すとエイコウは鼻で笑った。
「平気なのか? 離婚しろよ」
「一々離婚していたら、人の一生は離婚の一生となるだろう……」
「どうして、いなくなっちゃったんだよ? どうして、ずっといてくれなかったんだ?」
「……由佳のがよかっただろ?」
「由佳さんと兄貴とふたりが、3人がよかった」
「欲張りだ」
「ママは心臓が悪いのに溺れてる子を助けにいった。助けた子を母親に渡すと、そばに立っていた僕を抱き上げようとして倒れた。ママはオレを見て、エイコウって呼んだ」
「嘘だ」
「エイコウ、ごめんねって。それが最後の言葉だ。ハルじゃない」
「覚えているのか? 3歳になってなかったおまえが?」
「それだけは、はっきり覚えている。ママの顔も覚えてないのに」
頭の中に詩が流れた。
母よ僕は尋ねる
耳の奥に残るあなたの声を
あなたが世に在られた最後の日
幼い僕を呼ばれたであろうその最後の声を
三半規管よ
耳の奥に住む巻貝よ
母のいまはの その声を返せ
「パパはどんな男だったの?」
「……ピアノコンクールで最年少で3位入賞。僕はその記録を塗り替えるために生きてた。おかげで道を踏み外さないですんだ」
「憎んでるんだろ?」
「僕は、懐いてた。手をつないで歩いた。ピアノを教わった。祖母も気に入っていた。よく面倒見ていた。食事に招いて演奏してもらうのを楽しみにしていた。祖母は……」
祖母は?
「オレにはなんの記憶もない。ママだって……ママを思うと由佳さんになる」
「訛りが懐かしかったな」
「由佳さんは兄貴を愛してた」
「由佳は圭介さんを愛してた。ふたりは結婚した。子供ももうふたりいる」
「会ってるの?」
「夏生とママの墓参りに行った。由佳のホテルに泊まったよ。幸せそうだ」
「幸せなんだ、由佳さん。ママになったのか」
過去を懐かしがったあとエイコウは念を押して聞いた。
「彩は運命の女じゃないんだな?」
「オレは、オレの運命の女は……彩のせいで、彩が悪いんだ。菜穂にひどいことをした。どうしたらいいんだ? どうしたら菜穂を取り戻せる?」
「情けないやつだ」
エイコウは携帯の番号を教えてくれた。
家に着くと母が心配して飛び出してきた。エイコウが車から降りて挨拶した。お久しぶりです、と。また、食べにきます。妻と妹と……それからなにか聞いていた。母親のことを。
英幸は由佳と圭介に思いを馳せる。ファンレターの女。英幸そっくりの演奏をした女……驚愕した。その女が圭介さんの婚約者?
由佳とはいろいろあった。酔って迫られたこともある。いろいろあったが圭介を愛していることはわかっていた。
ある日病院から電話がきた。由佳が子宮外妊娠で危険……英幸の連絡先しか言わない。
彼は病院に行き、緊急手術の書類にサインさせられ術中ロビーで待った。おなかの子の父親にさせられた。
術後の由佳を責めることはできなかった。彼は退院するまで何度も通い、部屋まで送り届け、いたわった。
傷ついた女が以前にもいた。身近に、ごく身近に。全身あざだらけで大量に出血していた。忘れたいから蓋をした。頑丈に。
思い出さなくては……
由佳は相手の名は言わなかった。
バカな女だ。バカな女はとんでもないことを言い出した。
「あなたの子だってことにして。圭ちゃんは許すわ。相手があなたなら」
あなたの子? あの男の子?
高1のとき助けられた堤防で英幸は圭介に会った。由佳の願いを叶えてやる。圭介になら殴られてやろう。そう思って土下座した。
「面白い因縁だな。君とこうなるとは思わなかった。由佳は白状したよ。由佳の相手は年下のいいやつだった。由佳のためにそれこそボコボコに殴られても守ってくれた。傷つけたのは由佳のほうだ」
「彼女と結婚するんでしょう?」
「ああ。由佳の家と財産は魅力だからな」
「そんなものがなければ、ややこしくはならなかった」
家と財産……あの女は欲しがらなかった。あの女……ママは? ママの真実は?
治は、元気か? いい子だったな。人のいい、あんな子は珍しい……君は謝ってたぞ。
ママ、ごめんなさい。治みたいになるからって。
「僕が謝った? ママ、ごめんなさい? まさか……ネコ、ごめんなさい、の間違いじゃ?」
「なんでネコに謝るんだ? ネコを虐待して階段から落として殺したのか? 屈折してたからな」
「しないですよ……歌ですよ。ネコ踏んじゃった。ネコ、ごめんなさい」
「おかしな奴だな。間違いないよ。ママ、ごめんなさいだ」
ママ、ごめんなさい……あとなんて言いましたか? 圭介は言わなかった。
「春樹も階段から落ちて死ねばよかったんだ……春樹も」
和樹が店に来た。菜穂に頼まれたのか? 1週間分のバイト代と荷物を取りに来た。
「ここはおまえの親がやってる店か?」
「来たことあるのか?」
「いや……」
この店だ。あの女と……あのピアノ、魅せられた。あの女に……
和樹は菜穂のことを話した。心臓病で子供は産めない。中絶は命取り。人工弁を交換しなければならない。まだ手術しなければならない。
諦めろ。おまえには無理だ。おまえはまだ若い。菜穂の面倒はオレが見る。ずっとみてきたんだ。菜穂はオレと結婚する。2度と近づくな。忘れろ。
酒を飲んで忘れる。ママは弱いものを放っておけなかった。目の前の弱いものを助けるためになにもかも捨てた。
助けたい。菜穂を。
だけど、情けない。酒を飲んで忘れる。忘れられない。まだ若い。諦めろ。おまえには無理だ……
ああ、情けないオレには無理だ。菜穂を助けられない。でも、でも……
助けてくれ。菜穂……おまえがいないとオレはダメだ。ママみたいに強くはない。父親に似たんだ。そばにいてくれ。オレのそばにいてくれ。
助けてくれ。兄貴……
「情けないやつだ。父親そっくりだな。ママは強い女だった。ママが命と引き換えに助けた娘に会わせてやる。おまえに謝りたがっている」
答えは出た。ママ、あなたは……
夏生、君も僕をかばった。
英幸、ごめんね……
聞かなければ、お義母さんと大先生に。
この家には亡霊がいる 23