この家には亡霊がいる 20

この家には亡霊がいる 20

小さな木の実

 母が死んだ。知らない街で。保険金が入った。

 知らない街に墓参りに行った。墓にそっと唾を吐きかけた。うまくかからなくてもう1度かけた。

 記憶に残る母は髪を金髪に染め、黒ずくめの服装で学校に来た。ある日母は消えた。猫と一緒に。私ではなく猫を連れて消えた。

 金は可哀想な犬と猫のために使おう。

 それから年賀状を。同志に。三沢君と治に。

 おめでとう。母が死んだわ。あの日の誓い、私は守った。泣かなかった。唾を吐きかけた。やったわよ。

 三沢君には秘密にしていることがあった。もう父親は話したのだろうか?

 あれは私が付き合っていた彼を送っていったときのことだった。父と同郷の彼は気に入られよく家に来て飲んだ。酔った彼を私はアパートまで送った。近くのコインパーキングに、車を止めた。気分よく酔った彼を支える。
「早くやりたい……(こう)あいしてるよー」
 隣の車から降りてきた男に聞こえただろう。恥ずかしい……
 目が合った。驚いた。知っている男だ。年は50を過ぎたばかりのはずだ。私の父と同じくらい。でも全然違う。背が高い。洗練されている……
 この男は……この男のことはよく知っている。同じ町内に住んでいる。豪邸の主人だ。何度も見たことがある。
 この男の息子のことはもっとよく知っている。私の同志だった。小学校の同級生。母親に捨てられたもの同志。この男の息子は私の初恋の人だった。
 その父親は妻に捨てられ一時期荒れた。私の父親と同じだ。しかし私の父親と違いすぐに再婚した。再婚した相手はもっともっとよく知っている。
 動物好きの私は彼女の父親の動物病院によく行った。猫の治療、去勢。まだ彼女は若かった。私はよく捨て猫を拾っては世話をした。彼女のところへ連れて行った。捨て猫の里親探し、彼女は……亜紀さんは仲間だった。 
 亜紀さんは三沢君の義母になった。

 三沢君のおとうさん……

「香……知り合いか? オレもこんな車欲しいよー」
 男も気付いた。彼が何度も私の名を呼ぶから。 
 コウ……嫌いではない。この男の後妻は褒めてくれた名だが……

 高級車の助手席から降りたのは女の子だった。髪の長い……下を向いていたので顔は見えなかった。薄暗くなっていたし、それに三沢氏は……隠した。慌てて隠した。
 彼の娘ではない。三沢君の妹はもっと背が高い。
 三沢氏は女の子を先に行かせて挨拶してきた。
「偶然だね。世間は狭い。香……さんだね。ハムスターやしきの……」
「ハムスター?」
 彼が聞き返す。
「ハムスターに交尾させて増やしていた」
 なんてことを……話題をそらせようとして……
「こうび? コウビ? 交尾……か」
 彼がバカみたいに繰り返した。
「ちゃんと避妊しろよ」
 酔った彼に三沢氏がちゃかし、彼は了解です、とふざけた。
「あの子は?」
「親戚の娘だ」
 明らかに嘘だ。私の顔色を読んだのだろう。罰が悪そうに去っていった。

 彼の部屋で抱かれた。
 心ここにあらず……三沢君のことを思った。会ったばかりの父親のことを。亡くなった母親のこと、中学3年の秋の犬のシャーロックの死を。治のことも……
 酔って疲れた彼は眠りに落ちる。私はドアを閉めて鍵をかけた。パーキングに隣の高級車はまだあった。まだ戻っていない。まだあの少女と一緒なのだろうか?

 まさか、隠し子? 妻に捨てられた男が亜紀さんを裏切っている?

 車を出し途中で戻った。高級車はまだあった。隣はあいていた。なにをしようというのか? 私は待った。待って確かめてやる。聞いてやる。亜紀さんを裏切っているのか? と。

 彼から電話がきた。寝ちゃってごめん……おやすみ……明日電話するよ……
 窓が叩かれた。三沢氏が私を見た。窓を開ける。
「少し話そうか」
 私が助手席のドアを開けると三沢氏は乗り込んできた。
「彼は、名前は?」
「……」
「どこの家? 親は? ひとり暮らし?」
 なぜ私が質問攻めに? やましいことがあるから……
「さっきの女の子はどこの子ですか? 亜紀さんは知ってるの?」
「もちろん。君は英幸(えいこう)の同志だったな」
「ええ、母親に捨てられた同志です」
「気が強そうだ」
「ええ。亜紀さんに言いつけてやる」
 三沢氏は舌打ちをした。息子と同じ癖だ。なんともかっこいい舌打ち。
「困ったな」
「やっぱり隠し子なの?」
「英幸は知らないんだ」
「ひどい。亜紀さんを裏切るなんて」
「亜紀は知ってる」
「え?」
 三沢氏は携帯をいじり写真を見せた。亜紀さんと少女の写真。三沢氏と少女の写真。少女の顔を見て私は……
「見慣れるとかわいいんだがな……かわいくてかわいくて、いとしくてたまらない。しかし……やはりショックか?」
 三沢氏が話す。
「先天性の顔の奇形。あの子の父親は娘が生まれると姿を消した。母親は強い。強くさせた。強くならなきゃ許さない。あの子は何度も整形手術を受けた。私は明るく生きるよう育てた。私は親戚のおじさん……君の彼はひとり暮らしじゃ町内会には入っていないな。私は町内の催しには必ず出て……あの子を連れ出す。明るい子だよ。口達者で頭がいい。柔道を教えてるから誰もいじめたりできない……
 英幸の母親は海に溺れているあの子を助けて死んだ」
 三沢君が中学3年の時だ。
「母親は心中しようとした。娘と。英幸の母親が、私の前妻が、私の愛した女が助けた。自分の命と引き換えに。私はなんでもしてやる。あの子のために。幸子が助けたあの子のために。幸子の代わりに……英幸は知らない。英幸には黙っててくれないか」
「三沢君は優しい。あの子を見れば……」
「大変なのはこれからだ。年頃になれば絶望するだろう。君だったらどうだ?」
 私には答えられない。

 あの日、私の車のあとを三沢氏は付いてきた。私の家の前で三沢氏は車を止め手を上げた。さよなら、おやすみ、と言うように。
 あの日から私は何度も何度も思い返す。私は三沢氏のことを思いながら彼に抱かれた。父と同じくらいの歳の男に恋をした。

 困った私は行動を起こした。久々に訪れた三沢邸。亜紀さんは驚きもしなかった。
 亜紀さんはなんでもお見通しだ。私と父を救ってくれた恩人、私にいろいろ教えてくれた。生理のときも、女性の体のことも避妊のことも……
 この人の義理の息子に私は恋をしていた。初恋だ。それなのに……

 三沢君がいた。中学を卒業したあとも何度か会っていた。三沢君の家の庭で。卒業式に大勢の前で握手を求めた私の気持ちは、いつもはぐらかされた。
「また捨て猫か。去勢されるのか、かわいそうにな」
 動物好きな私たちは慣れていた。飼っていたハムスターの下腹部が腫れて大きくなり、心配して亜紀さんに見せたときは
「睾丸よ」
と言われて安心した。
「ハムスターのタマタマは立派なの」
 睾丸、去勢、交尾、生理、……小学校4年だった私と三沢君と治は、そういう言葉を恥ずかしいとも思わず使っていた。
 私が亜紀さんに会いに行くのは里親探し……
 三沢君は会うたび背が伸びていた。
「香に彼氏ができたって?」
「え、ええ。三沢君は?」
「失恋した」
「男に?」
 懐かしい舌打ち。
「失恋? あなたが? 女に?」
「ああ、治に負けた。あいつはいい奴だからな。僕よりずっと」
「治ちゃん……」
「納得だろ?」
「そうね。あの子と比べられたらかなわない」
「おまえはなぜ治を好きにならなかった?」
「そうよね。治ちゃんにすればよかった」
「……負けた。負けた」
「ま、恋愛ほど苦痛と努力のいるものはありません。それに耐えれるだけの人間におなりなさい」
「青春論かよ……おまえは強いよな」

 中学3年の夏、三沢君を捨てた母親が亡くなった。ずっと優等生でいたこの家の長男は、不良グループと付き合うようになった。亜紀さんの動物病院からモルヒネ盗んで……とか噂になり、私は治と飼っていた大型犬を連れて、取り戻しにいった。同志を。
「そうよね。あなたのために不良の巣窟に乗り込んだ」
 三沢君は、かつて亜紀さんが保護した犬の最期を看取っていた。三沢君が名付けたシャーロックは、まだ無邪気だった同級生に貰われていたのだ。
「恐れ入った。付き合わないか? 僕たち、いいコンビだ」
「女だと思ってないくせに」
「好きだったよ。髪がボサボサで汚くて動物臭くて……」
「言わないでっ! 私はひとりで暮らしてたのよ」
 思い出したくない。父は長距離の運転手。手入れされなくなったお化け屋敷のような家に、ほとんどひとりで暮らしていた。まだ10歳だった。
「お菓子の袋をナイフで切って、手も切った。血が襖に飛び散った。誰もきてくれない。私はそのまま泣き疲れて眠った。あんたとは違う」
 感情の失禁。私はおかしい。三沢君は私を抱き寄せた。あわれんで。
「いい匂いだ。ミサワのシャンプー。ずっとあのままでいればよかったのに。おまえが男だったらよかった」
「あんたは色が白くて女みたいだった。泣き虫だった。雷を怖がってたくせに」
「おまえと治に助けられた。おまえは父親にも歯向かって強かった。羨ましかったよ」
「私は……あなたが羨ましかった。亜紀さんがおかあさんで羨ましかった」
「じゃあ、結婚しようぜ。好きなだけ犬も猫も飼ってやる」
「この家で? 亜紀さんとおとうさんと?」
 三沢氏が義父になる……
「おまえの家に住んでもいい。オヤジさんとはうまくやれるよ」
「彼もそう言ってくれるの。父に気に入られてる」
「クソッ。また振られた」
 私たちは声を出して笑った。
「血が、怖くない?」
「怖いよ。知ってるだろ?」
「違う。母の血。結婚するの怖い。私も母みたいになるかも」
「……結婚か。恋愛の終結。恋の惰性もある。移り気もある。しかし、そのために一々離婚していたら、人の一生は離婚の一生となるだろう……」
「青春論か。亜紀さんがくれた本」
 亜紀さんが勉強の遅れをみてくれた。読書の楽しみも教えてくれた。
「ピアノ弾いてよ。小さな木の実」
「絶対いやだ。いやな女」

 町内会の子供会。私は彼と覗きにいった。大きな公園で模擬店、三沢氏はカレーをよそっていた。三沢氏がごはんを、あの子がカレーをかける。私に気づくと三沢氏は会員ではない私と彼にもカレーをよそってくれた。彼は少女を見てショックを受けていた。写真を見せられていた私も……
 町内の人たちは大人も子供も少女に好意的だった。少女は活発でクイズにも答えて景品をもらった。最後に三沢氏と少女は歌を歌った。歌詞カードが配られ子供たちはともに合唱した。きれいなメロディ、きれいな高音の声と魅力的な低音、ああ、この低音は三沢君とそっくりだ。
 歌は過去を蘇らせる。私は鮮明に思い出した。この歌は小学校6年のときに音楽会で歌った。三沢君は伴奏しながら歌った。まだ高音のきれいなボーイソプラノだった。
 三沢君は初めての練習のときに途中で泣き出した。父親を思い泣き出した。私は父との仲が修復できていたが、三沢君は妹も生まれたが寂しかっただろう。
 治は天使だ。治は他人の悲しみには敏感だ。すぐに気づき大声で歌い、わざと音を外して皆を笑わせて誤魔化した。私も大声で歌った。私たちは同志だった。
 そんなことを父親は知らないのだろう。

小さな木の実
作詞 海野洋司
作曲 G.ビゼー

ちいさな手のひらに ひとつ
古ぼけた木の実 にぎりしめ
ちいさなあしあとが ひとつ
草原の中を 馳けてゆく
パパとふたりで 拾った
大切な木の実 にぎりしめ
ことしまた 秋の丘を
少年はひとり 馳けてゆく

ちいさな心に いつでも
しあわせな秋は あふれてる
風と 良く晴れた空と
あたたかい パパの思い出と
坊や 強く生きるんだ
広いこの世界 お前のもの
ことしまた 秋がくると
木の実はささやく パパの言葉


 三沢氏と少女の歌に大人たちは感動した。歌詞に感動した。歌詞の少年は、坊やはあの少女のことだと皆が思った。三沢氏は少女のパパなのだ。

 三沢氏が私のところへ来た。少女は遊んでいる。仲間に囲まれて。
「家に来たそうだね。英幸に会った……」
「三沢君が聞いたらショックを受けるわ。小さな木の実。少年は、坊やは三沢君のことよ。この歌は父と息子の絆を歌ってるの。知らないでしょ? 三沢君はこの歌を歌いながら泣いていた。母に捨てられ、父親の愛を欲しがっていた。三沢君は言ってた。僕にパパはいないって。パパは彩のパパだって。私の父に懐いてたわ。三沢君、かわいそうな三沢君……」
 私は泣き出した。私の感情はどうなっているのだろう?
「ありがとう。そんなに息子のことを思ってくれて」
「三沢君が伴奏したのに音楽会にも来ないで、運動会にも1度も来なかった……」
「他人の子供会に出てる。カレー売ってる。ひどい父親だと思うよ。英幸は許さない。許さなくていい……」
「……あなたが好きです」
「いきなり、何を言うか」
「ほんとですね。あなたも三沢君も好き」
「困った娘だな。彼が見てるよ」
「迷ってるの。プロポーズされた。どうすればいい?」
「1度失敗した男に聞くな」
「亜紀さんに言うんでしょ? 香に告白されたって。亜紀さんはモテるパパで喜ぶかしら? 亜紀さんは、最高ね。亜紀さんは……」
「最愛の女だ」
「三沢君は幸せです。亜紀さんがおかあさんで」

 
 三沢君から絵葉書が届いた。

 ベナレスで夜明けのガンジス川を見たんだ。素晴らしかった。

この家には亡霊がいる 20

この家には亡霊がいる 20

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日
2023-06-16

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