お気に入りの音楽 46〜50

お気に入りの音楽 46〜50

46 無残の美

 今回の曲はかなり凄まじいです。
『トドを殺すな』の友川カズキさん。

 友川を知らない方のために、以下、略歴を記そう。1950年生まれの秋田県出身で、本名は及位典司(のぞきてんじ)と云う。この及位という姓を笑われるつらさから、勤め先の飯場で名乗ったのが「友川かずき」という芸名の発端であるという。
 1970年、岡林信康の『チューリップのアップリケ』に触発され、ギターを弾き、歌うことを始める。
 1974年、東芝から『上京の状況』でデビュー。以後、1981年までに徳間からアルバム3枚、キングからアルバム4枚をリリースし、商業的に成功したとは言えないものの、熱心なリスナーの支持を受け続ける。
 この頃、ドラマ『3年B組金八先生』でゲスト出演し、名曲『トドを殺すな』を歌う映像が残されているが、津軽三味線のようにギターをかき鳴らし、絶叫するさまは、表現の古さ、新しさとかいう言葉を無意味にしてしまうほど、迫力に満ちたものだった。

 YouTubeで『トドを殺すな』の第一声を聴いた時から、魅力(?)された。魅入られた。何曲か聴いてみるとすごい曲が……

『無惨の美』

詩を書いた位では間に合わない
淋しさが時として人間にはある


 1986年にポリドールからアルバム『無残の美』をリリース。友川はこの時、表現者として正に最盛期を迎えようとしていた。

「無残の美 
 友川は及位(のぞき)家の次男坊である。長兄一清と四男の友春は熊代に居住している。
 2歳年下の三男を(さとる)という。
 この曲は若くして逝った弟覚への追悼歌。
 覚は熊代農業高校を出たが、家業の農業を嫌って家出。流転が始まる。覚は、ちょうど兄友川がそうしたように、流れ歩く生活の中で詩作をするようになる。
 坂口安吾と山頭火を愛し、その存在を兄に教えもした。
 一時郷里に帰ったが、(昭和)55年再上京して兄のアパートに同居。川崎の建材屋で働くかたわら兄の付き人を。しかし半年後、いつもそうだったように突然の出奔。
 行方の知れないまま4年。(昭和)59年10月30日深夜、覚は阪和線富木駅南一番踏切で、上り大阪行電車に身を投げた。享年31歳。
 富木の飯場には、中島みゆきのLP『寒水魚』と10冊の文庫本が、川崎の友川の部屋には20冊の大学ノートと数10枚のメモが残された。
 遺稿は『及位覚詩集』ちなみにジャケットのオブジェは『無残の美』とタイトルされ、友人の繪魯洲が制作したもの。」

 友川の弟、及位覚は彼も詩を書いていたが、生前は無名の存在であった。彼が自ら命を絶った理由は分からないという。
 淋しさを紛らわすために多くの人は詩を書き始めるが、詩は決して救いにならない。むしろ、淋しさにはっきりとした形を与えてしまう。
 麻薬中毒の作家、W・バロウズは「ことばはウイルスだ。言語線を切れ!」と言ったが、彼の意図するところとはまるで違うかもしれないけれど、自分も、言葉は人間の心を蝕む病原体だと思うときがある。淋しさに形を与え、谺となって無制限に増殖してゆく。本当はきっと、彼は詩に対し、余りにも真摯に向き合い過ぎたのではないだろうか?

 鉄道自殺した弟の身元確認の際、「見ない方がいいですよ」と言われたものの友川は、顔半分が飛んでしまった遺体と対面する。それは自分の親族だからというのでなく(だから「いかなる肉親とても幾多の他人のひとりだ」と歌っている)
 一人の表現者が為した事すべてを受け取るために、守らなければならない厳粛な儀式だったのだ。

 弟はすでに肉体を離れ、生まれ故郷の熊代に溶けこもうとしている。「こちら側へももう来るな」、あえて解説など要らないと思うが、生の間に抱き止めてやれなかった以上、生きることが苦しみとなってしまった弟へ、兄からの精一杯の優しさを示したものだと思う。
 無残に破損された肉体と対面し、普通の人間なら嘔吐もし兼ねない状況で、「きれいだ」と言ってあげられる、これが慈悲でなくて一体何だろう。人間のこころが授けられるもので、それ以上のものがあるのだろうか?

 世には、一つの事にのめり込み過ぎたために、言い換えれば懸命に生き過ぎたために、有限の肉体をあっさり捨ててしまう火花のような人たちがいる。友川がリスペクトする、中原中也も、山頭火も、住宅顕信(すみたくけんしん)も、言葉を研ぎすませる手品みたいな事に取り付かれて、命を削った。一遍上人や、たこ八郎も、そういう意味では同じ群れの人たちだ。脆弱な肉体を持ちながら、それを忘れたかのように無茶をして、魂を純化する如く生き急いでしまう。

 行き着くところ、残された作品だけでは全てを語れないのだ。立派に生き抜いたゲーテよりも、刹那的なボードレールやランボーが多くの人に、熱烈に愛される。実は誰もが、肉声を聞くことを求めている。自分たちの肉体がたかだか数十年のうちに老いて、消滅することを知っている。芸術はこの脆い肉体から、逃げられない。結局、友川カズキの東北訛りの、決して洗練とは縁遠いあの声に我々が脅かされるのは、そういうことでは無いのだろうか。
http://anti-buddhism.doorblog.jp/archives/21920952.html

 きれいなヴァイオリンの音が耳から離れなくなります。


チューリップのアップリケ 岡林信康
https://youtu.be/YlOToxOxOME
無惨の美 友川カズキ
https://youtu.be/8nlUs8w6wBs

47 夫婦だった

江利チエミと高倉健
 江利 チエミ(1937年〈昭和12年〉1月11日 - 1982年〈昭和57年〉2月13日)は、昭和期に活躍した日本の歌手・女優・タレント。
 1959年(昭和34年)、ゲスト出演した東映映画での共演が縁で高倉健と結婚、家庭に入るものの、1960年(昭和35年)に本格的に復帰。高倉と結婚した3年後の1962年、チエミは妊娠し子供を授かるが重度の妊娠高血圧症候群を発症し、中絶を余儀なくされ子宝には恵まれなかった。
 チエミの姉(異父姉)による横領事件などがあって、高倉に迷惑をかけてはならない、と1971年(昭和46年)にチエミ側から高倉に離婚を申し入れることに。チエミは数年かけて数億に及んだ借財と抵当にとられた実家などを取り戻す。
 1982年(昭和57年)2月13日午後、チエミが港区高輪の自宅マンション寝室のベッド上でうつ伏せの状態で吐いて倒れているのをマネージャーに発見され、既に呼吸・心音とも反応がなく死亡が確認された。45歳没。死因は、脳卒中と吐瀉物が気管に詰まっての窒息(誤嚥)によるものだった。 
 チエミの死は、数日前から風邪を引き体調が悪かったところにウイスキーの牛乳割りをあおり、加えて暖房をつけたまま風邪薬を飲んで寝入ったことが一因とも言われている。
 あまりにも突然過ぎる死に、チエミの親友だった「三人娘」のひばりといづみ、他にも清川虹子や中村メイコらもショックを隠しきれずに号泣し、チエミの葬儀の席でも深い悲しみに暮れていた。 
 高倉もチエミの葬儀に姿を現さなかったものの、葬式当日に本名の「小田剛一」で供花を贈り、また会場の前で車を停めて手を合わせていたという。

「酒場にて」は、1974年9月25日に発売された江利チエミのシングル。オリコンチャートの最高位は22位だったがロングセラーとなり、翌1975年のオリコン年間順位は第67位にランクされ、江利自身久々のヒット曲となった。累計売上は16万8千枚。

酒場にて 江利チエミ
https://youtu.be/YCAzHFPIF9w

 高倉 健(1931年2月16日 - 2014年11月10日)は、日本の俳優、歌手。
1959年2月16日(高倉が28歳の誕生日の時に)江利チエミと結婚。

 江利の命日には毎年、墓参りは欠かさず、花を手向け、本名を記した線香を贈っていた。

「時代おくれの酒場』は、加藤登紀子が1977年10月21日にリリースした楽曲。
 1983年11月12日公開の東宝映画『居酒屋兆治』の主題歌に採用される。

居酒屋兆治 時代おくれの酒場
https://youtu.be/gIqcL3eLaUo

『幸福の黄色いハンカチ』の冒頭で、刑務所から刑期を終え出所した直後の食堂で、女性店員についでもらったグラスに入ったビールを深く味わうように飲み干した後、ラーメンとカツ丼を食べるシーンがある。
 その収録で「いかにもおいしそうに飲食する」リアリティの高い演技を見せ、1テイクで山田洋次監督からOKが出た。あまりにも見事だったので、山田が問い尋ねると「この撮影の為に2日間何も食べませんでした」と言葉少なに語り、唖然とさせた。

 好きなミュージシャンは大塚博堂である。「自分にない何かがある」と感銘を受けたことがきっかけだった。デビュー曲『ダスティン・ホフマンになれなかったよ』はじめ、大塚とよく組んで仕事をしていた作詞家の藤公之介に「大塚と組んで曲を作ってほしい」と電話で頼んだこともあったが、この時は大塚が多忙で別の作曲家が曲を担当した。しかし、その後間もなく大塚が急死したため、「夢のコラボ」は幻に終わった。直接対面することは無かったが、大塚のメモリアルイベントなどでは、一ファンとして何度かメッセージを贈っていた。

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浅丘ルリ子と石坂浩二
 浅丘 ルリ子(1940年7月2日 - )は、日本の女優。
 1971年、日本テレビのドラマ『2丁目3番地』での共演をきっかけに石坂浩二と結婚。石坂は当時の世の男性の羨望を一身に集める事となったが、程なくして別居。2000年に離婚。

『愛の化石』は、浅丘ルリ子がテイチクレコードから1969年8月5日に出したシングルレコード。この曲をモチーフに、翌年の1970年には、浅丘と田宮二郎主演で同名映画も製作された。

愛の化石 浅丘ルリ子
https://youtu.be/h8OxllUA8OE

石坂浩二の芸名の由来は、親友の大空眞弓が自分の好きな作家・石坂洋次郎と俳優・鶴田浩二からそれぞれ拝借して名づけたことによる。
 音楽ではクラシックを好み、特にベルリオーズが好きで、日本ベルリオーズ協会の会長を務めたことがある。

 映画では1976年、横溝正史原作・市川崑監督による映画『犬神家の一族』に金田一耕助役で主演し、同年の邦画配給収入2位(13億200万円)のヒットとなり、シリーズ化される当たり役となった。

名探偵 金田一耕助 愛のバラード
https://youtu.be/C8DEFdN3xBg

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大原麗子と渡瀬恒彦・森進一
 テレビCMへの出演も多く、とりわけ、和服姿でぷっと頬を膨らませ、かすれた声で甘えるように「すこし愛して、ながーく愛して」という台詞で知られる、サントリーレッドのCMは、その言葉どおり多くの人に長く愛され、1980年(昭和55年)から1990年(平成2年)まで放送された。歌手としても、数枚のレコードをリリースした。明石家さんまや清水ミチコによく声真似をされた。

大原麗子 CM集
https://youtu.be/bXLljy_Qy_I

 2009年8月6日、連絡が取れず不審に思って警察に通報していた実弟らによって、自宅で死亡しているのが発見された。62歳だった。亡くなる2年ほど前から「私は死ぬときにはスーッと消えて、そのままいなくなりたい」と言うようになっており「孤独に追い込まれたのでなく、自ら『孤高』を選んだ」という見解を示している。

 1973年(昭和48年)9月、俳優・渡瀬恒彦と結婚したが、5年後の1978年(昭和53年)2月13日に離婚。1980年(昭和55年)6月には、歌手・森進一と再婚したが、1984年(昭和59年)に破局に至った。
 森との結婚生活については離婚会見で「家庭に男が2人いた」と振り返った。
 渡瀬恒彦と離婚したあとも、渡瀬恒彦のことが好きだったという。渡瀬との離婚の原因については、大原ははっきりとしたことを言っていない。
 大原の死去後のお別れ会には森、渡瀬の元夫2人も出席した。

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美空ひばりと小林旭
 9歳でデビューし、その天賦の歌唱力で天才少女歌手と謳われて以後、歌謡曲・映画・舞台などで目覚ましい活躍をし自他共に歌謡界の女王と認める存在となった。昭和の歌謡界を代表する歌手であり、没後の1989年7月2日に国民栄誉賞を受賞した。

お祭りマンボ 美空ひばり
https://youtu.be/r1btMGQiCYw

 1962年、小林旭と結婚。出会いは雑誌が企画した対談の場だった。交際を始めるが、小林は結婚をまだ考えていなかったにも関わらず、ひばりが入れあげ、父親代わりでもあった田岡一雄に、自分の意志を小林へ伝えるよう頼んだ。ひばりの意を汲んだ田岡は小林に結婚を強引に迫ってきたので、小林は断れず1962年(昭和37年)に結婚した。
 小林は「結婚生活でのひばりは懸命によき妻を演じようとし、女としては最高だった」と『徹子の部屋』で述懐している。小林は入籍を希望していたが、ひばりの母に不動産処分の問題があるからと断られ続け、入籍しておらず、戸籍上ではひばりは生涯にわたり独身であった。
 ひばりは一時的に仕事をセーブするようになるが、実母にしてマネージャーである喜美枝や周辺関係者が二人の間に絶え間なく介入し、結婚生活はままならなかった。
 また、ひばりも歌に対する未練を残したままだったため、仕事を少しずつ再開し小林が求めた家庭の妻として傍にいてほしいという願いも叶わなかった。
 別居後の1964年、わずか2年あまりで小林と離婚。「和枝(ひばりの本名)が僕と結婚しているより、芸術と結婚したほうが幸せになれるのなら、と思って、理解離婚に踏み切った」と説明。 
 この「理解離婚」という言葉は当時流行語となった。
「未練はいっぱいある。皆さんの前で泣きたいくらいだ」
と離婚は小林の本意でなかったとも語っている。
 その1時間半後にひばりも田岡に同席してもらい、記者会見を行った。ひばりは田岡に口添えされながら、
「理由をお話したいのですが、それを言ってはお互いに傷つける」
「自分が幸せになる道を選んだ」と答えた。また「私が芸を捨てきれないことに対する無理解です」
「芸を捨て、母を捨てることはできなかった」とも語り、今後は舞台を主に頑張ると語った。

『熱き心に』は自他ともに認める小林の大ファンを公言していた大瀧詠一が書き下ろした楽曲で、ストリングス(弦楽器)を用いたサウンドが特徴。味の素ゼネラルフーヅ(現・味の素AGF)「マキシム」のCMソングに採用された。
 小林によると、デモテープの時点ではいまいち気乗りのしない曲だったが、スタジオに入ってストリングス・アレンジの事を知り、イントロを聞いた際に「日活映画の世界ではなく、西部開拓史、ジョン・ウェインの世界だ」と気付き、これならいけると思ったという。
 翌年に渡って売り上げを伸ばし、累計約37.6万枚を売り上げた。オリコンチャートでの最高位は第12位だったが、1986年のシングル年間チャートでは、第20位に入った。

 素敵な曲だとは思っていたけど大瀧詠一さんの曲だとは知りませんでした。

48 マイケル・ジャクソン

 マイケル・ジョセフ・ジャクソン(1958年8月29日 - 2009年6月25日)は、アメリカ合衆国出身のシンガーソングライター、ダンサー。
 一般的に「キング・オブ・ポップ」と称されている。全世界総売上は4億枚以上であり、ビートルズ、エルビス・プレスリーに次いで史上最も売れた音楽家とされる。
 これまでに13のグラミー賞(ノミネートは38回) を受賞。ギネス世界記録から「人類史上最も成功したエンターテイナー」として認定されている。
 1982年12月、アルバム『スリラー』を発表。推定約7000万枚を売り上げたとされており、ギネス世界記録において「史上最も売れたアルバム」として認定されている。また、収録曲9曲のうち7曲がシングルカットされ、その全ての曲が全米チャートでトップ10入りするという前人未到の快挙が成し遂げられた。その価値は批評家にも認められ、2年後の第26回グラミー賞では史上最多となる7部門を制覇する。

……実はマイケル・ジャクソンはニュースで耳に入ってくるくらいのことしか知らなかった。しっかり聴いたこともない。整形を繰り返し、肌を白くし破滅したスーパースター、ネバーランド、児童虐待の裁判等々……

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 ゲーリーの貧しいアフリカ系家庭に五男として誕生、幼い頃から兄弟たちとともに音楽の才能を発揮。1970年代に兄弟グループ「ジャクソン5」の天才リードシンガーとして一世を風靡した。

 1968年1月、『ビッグ・ボーイ』でデビュー。1969年10月、『帰ってほしいの』でメジャーデビュー。全米チャートで1位を獲得した。
 可愛らしさ溢れるマイケルの歌声や、秀逸な楽曲群に加え、ダイアナ・ロスが発掘したという架空の設定も話題となり、グループは全米で人気を博すようになる。この頃からやっとジャクソン5と名乗るようになる。

 1970年2月、シングル2作目の『ABC』がビートルズの『レット・イット・ビー』に代わり1位を獲得。その後、続く『小さな経験』と『アイル・ビー・ゼア』もチャートを制し、デビューから4曲連続で全米チャート1位を獲得するという偉業を成し遂げた。

 1971年10月、シングル『ガット・トゥ・ビー・ゼア』でソロデビュー。ソロでも堅調なヒットを重ね、1972年7月発表のシングル『ベン』は、ソロでは初となる全米チャート1位を獲得した。

……ずっと連想してました。やはり、ありました。「個人授業』『学園天国』の「フィンガー5」は、米国で当時大ヒットしていた同じ5人兄弟で結成された「ジャクソン5」を意識し、母親が名付けた。

 1979年6月、ソロ・アルバム『オフ・ザ・ウォール』を発表。全米で800万枚を売り上げるなど大ヒットを記録。批評家からも高い評価を受けた。

『ビリー・ジーン』は、1983年にマイケル・ジャクソンが発表した楽曲、及び同曲を収録したシングル。アメリカのビルボード誌では、1983年3月5日に、週間ランキング第1位を獲得。ビルボード誌1983年年間ランキングは第2位。
 1983年の『モータウン25周年記念コンサート』の際、この曲に合わせてムーンウォークを初披露し大きな話題となり、エミー賞にもノミネートされた。
 マイケルの曲の中でも特に人気が高く、YouTubeの公式ビデオはマイケルの曲で最も多い10億再生を記録している。

 歌詞の内容は事実に基づいたものではないとされているが、ストーカーに遭遇したマイケル自身または兄ジャッキー・ジャクソンの実体験を基にして作られたのではないかとの推測も存在した。 1988年に出版された自伝『ムーンウォーク』によれば、プロデューサーのクインシー・ジョーンズは、人々が「Billie Jean」から女子プロテニス選手のビリー・ジーン・キングを連想することを危惧して、『Not My Lover』の題名で発表することを勧めていたという。これに対し、マイケルは「実在する誰のことでもない」と強調し、自らのアイデアを貫いた。

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 1984年1月、ペプシのCM撮影において、事故で頭部に火傷を負う。和解金によってペプシとの関係悪化は避けられたものの、頭部の皮膚の深くにまで至る傷を残したこの事故は、後にマイケルが整形手術の繰り返しや鎮痛剤中毒に陥ってしまうきっかけとなり、その後の人生を大きく狂わせた。なお、事故で受け取った和解金はマイケルがすべて病院に寄付した。

 1984年1月27日、ペプシのコマーシャル撮影時に、ステージに仕掛けてあった花火が予定より早く作動し、マイケルさんの髪に引火。マイケルさんが気づくまでの11秒間勢いよく燃え続けた後、周りのスタッフらが一斉に駆けつけて消火したが、マイケルさんは頭や顔などに第二~三度の火傷を負い、当時大きく報道された。
マイケルさんの髪は瞬く間に燃え広がり、消火した後も大きな円形跡が残って、その部分は二度と頭髪が生えてこなかったという。この事故がきっかけで、マイケルさんは複数回にわたって頭皮の外科手術を受け、多量の鎮痛剤を常用するようになったと言われている。
https://search.yahoo.co.jp/amp/s/eiga.com/amp/news/20090716/19/%3Fusqp%3Dmq331AQIKAGwASCAAgM%253D

 1987年8月『バッド』を発表。シンセサイザーの多用が生んだより先鋭的なサウンドに加え、世界平和や世相批判などをテーマにした楽曲が本作の大きな特徴となった。最終的に本作の売上は多く見積もって3500万枚に達した。

 1988年1月、自伝『ムーンウォーク』を発表。
 同年5月、推定3800万ドルで購入した豪邸「ネバーランド・ランチ」に引っ越す。

 1991年11月『デンジャラス』を発表。本作の売上は前作『バッド』を上回り、前作同様多くのシングルヒットが生まれた。特に先行シングル「ブラック・オア・ホワイト」は、人種の壁を乗り越えようというその歌詞が多くの人に受け入れられ、20か国のチャートで1位を獲得した。

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 1993年8月、ジョーダン・チャンドラーに性的虐待の訴訟を起こされる。

 この背景には、少年の父親エヴァンが多額の金を必要としていた事実がある。この時点でエヴァンはすでに少年の母親のジューンとは離婚していたが、週末は息子が父親宅に来て一緒に時を過ごしていた。少年がマイケルと親しくなることを当初はエヴァンも歓迎していたが、少年がマイケルに夢中になるにつれ、父親である自分への愛情を奪われたと感じ始めた。またエヴァンは歯科医であったが映画脚本家になりたいという夢を持っており、この夢の実現のために多額の金を必要としていた。
 少年は母のジューンに引き取られており、エヴァンは養育費の支払いも滞っていた。そして当時少年をめぐって、ジューンとエヴァンは熾烈な親権争いをしていた。こうした背景において、エヴァンにとっては、マイケルは金をゆするうってつけの対象だった。エヴァンは、自分の陰謀にぴったりの悪徳弁護士バリー・ロスマンに代理を依頼し、2人でマイケルから金を恐喝する策略を立てて行動に出た。

 少年は当初、マイケルは自分に対して何も不適切な行為をしていないと語っていた。しかしあるときから突然この意見を変えてしまう。当時、少年の歯を抜くためにエヴァンが治療を行った際、バルビツール酸系の催眠鎮静剤であるアモバルビタールを使用した直後のことであった。
 裁判ではこの事実を持ち出せば無罪になる可能性が高かった。

 警察がマイケルのネバーランドおよびロサンゼルスのマンションの家宅捜査令状を取って動き出すと、この情報がメディアに流れて世界中に報道され、一大ショックを巻き起こした。
 家宅捜索の際に警察官はマイケルの家の花瓶を蹴り倒し、25万ドル相当の金貨数枚も紛失したが、この件に関しては不問とされ起訴もされなかった。
 また1993年12月20日、警察はマイケルを全裸にして体中を調べ、ペニス、尻、太ももを撮ったが、少年の証言と一致するような証拠は見つからなかった。しかし、このようなマイケルにとって有利なニュースは大々的に報道されることはなかった。

 裁判が推定7年近くかかることや、マイケルが精神的に危険な状態にあったことなどにより、音楽活動への多大な影響を懸念してマイケル側は和解金を支払うことを選択した。ここで和解を結んでしまったことで世間からは偏見の目を向けられることとなり、この問題は後のマイケル・ジャクソン裁判まで尾を引いてしまった。
 マイケルはすでに「Dangerous World Tour」を欧州から開始していたが、刑事捜査と同時に民事訴訟が提起されるなど、とてもツアーを続けられるような状況ではなくなってしまった。
 これらのプレッシャーとストレスに加え、10年前のCM撮影で負った頭部やけどの皮膚再生手術をツアー直前に受けていたこともあって鎮痛薬を処方されていた。そのためこの薬物の依存症になり、ワールドツアーを途中で断念せざるを得なくなってしまった。
 彼はメキシコでツアー中止の理由として「虚偽の疑惑からの屈辱と不名誉、メディアの虚偽報道などからくるストレスとプレッシャー、パフォーマンスで必要とされる大きなエネルギーとが、僕を追い詰め、身も心も疲れ果ててしまいました」
と発表した。マイケルはツアーを中断して薬物依存症の集中的治療を受けるべく、エリザベス・テイラーの献身的な支援に支えられてメキシコから英国に渡った。

 マイケルの死後に少年が米タブロイド紙に「僕は父に嘘を言わされた。マイケルごめんなさい。」と語ったと掲載されたが、実際の本人のコメントなのかどうかは不明。少年はこの件に関して公式にコメントしていないとされている。
 2009年11月初旬、少年の父親エヴァンが、アパートの管理人により自宅のベッドの上で死亡しているのが発見された。頭部側面に拳銃による銃創があり、発見時に拳銃を手に持ったままの状態だったことからジャージー市警は自殺と断定。
 市警のスポークスマンより
「自殺と断定した。死亡時に複数の処方薬が発見され、重篤な病だったと思われる。遺書などは見つかっていない」と公式に発表した。
 彼は再婚し2児をもうけていたが離婚し、子供たちとも疎遠になっていた。またマイケルのファンからの反発を避けるため整形手術を行っており、その容姿は以前とは全く異なっていたと伝えられた。

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 1994年5月、エルヴィス・プレスリーの娘であるリサ・マリー・プレスリーと結婚。

 1995年6月、2枚組アルバム『ヒストリー:パスト、プレゼント・アンド・フューチャー:ブック1』を発表。1枚目が『HIStory Begins』と銘打たれたベスト盤、2枚目が『HIStory Continues』と呼ばれる未発表曲集という特異な構造を持つ本作では、全米に蔓延る社会問題の数々や、また93年の訴訟以降より強まることとなった世間からのバッシングに対するマイケルの怒りや悲愴が、これまでにないほど直接的に表現された。

 同年8月にシングルカットされた『ユー・アー・ノット・アローン』は全米チャートで初登場1位を記録するという前人未到の快挙を成し遂げ、こちらもギネス世界記録に認定された。

 1996年1月、リサと離婚。
「普通の結婚生活だった。しかし彼がある時点で、彼の血を吸い取るような人たちとドラッグか、または彼らか私かを選ばなくてはいけなくなり、彼は、私を遠ざけることを選んだ」と語っている。
 同年11月、デビー・ロウと結婚。

 1997年5月、ジャクソン5としてロックの殿堂入りを果たす。

 1999年6月、有志の友人たちと共にチャリティ・コンサート「マイケル・ジャクソン & フレンズ」を開催。収益金は赤十字社、ユネスコ、ネルソン・マンデラ子供基金に寄付された。
 同月、デビー・ロウと離婚。

 同年10月、主演・製作総指揮・脚本を務めた短編映画『マイケル・ジャクソン 「ゴースト」』を公開。映画はカンヌ国際映画祭にて上映された。

 2001年3月、史上最年少でロックの殿堂入りを果たす。

 アメリカ同時多発テロの被災者支援のため、ワシントンD.C.RFKスタジアムでチャリティコンサートを行い、約300万ドルの収益を集めた。
マイケルは活発な慈善活動家としても知られていた。

 2003年11月、ベスト盤『ナンバー・ワンズ』を発売。先行シングルとして「ワン・モア・チャンス」がカットされた。

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 2003年11月ギャヴィン・アルヴィーゾへの性的虐待疑惑で逮捕される。1993年の訴訟とは違って今回は刑事裁判にかけられ、マイケル・ジャクソン裁判として全世界の注目を受けることとなる。
 マイケルは少年に対する性的虐待をしたとして2度の疑惑をかけられ、それぞれ民事裁判と刑事裁判が行われたが、有罪判決を受けたことは一度もない。この一連の疑惑についてFBIも10年以上に渡る捜査と監視を行ったが、FBIはマイケルが有罪であるという証拠を一切発見できず、無実だったと結論づけている。

 現地時間2005年6月13日午後2時15分、女性秘書は判決を読み上げ始めた。
児童誘拐、監禁、恐喝を犯すための陰謀容疑 - 無罪
児童に対する猥褻行為容疑 4件- 無罪
児童に対する猥褻行為を試みようとした容疑 - 無罪
重罪を犯すことを援助するために酒を飲ませた容疑4件 - 無罪

 最後に裁判長メルビルはマイケルに視線を向け、
「ジャクソン氏。あなたは保釈から解放され、自由の身となりました」と告げた。
 裁判はすべての容疑に対し無罪判決が言い渡されるという形で幕を下ろした。マイケルが群集の前に姿を現すと凄まじい歓声がわきあがり、たくさんの白い風船や白い鳩が空に放たれた。

 ジャクソンの子供好きに性的な意味合いがあるかとも問われたが、彼の母親によればマイケルが10代の頃、夜中にテレビで世界各地の恵まれない子供たちの映像を見た際、目に涙を浮かべ「いつか僕はこの問題に立ち向かう」と話したという。これについて検察側のスタン・カッツ医師(1993年と2003年の嫌疑を担当)は「ジャクソン氏は小児性愛者でも何でもない」と述べた。

 チャールズ・トムソン(2005年のマイケル・ジャクソン裁判に関する報道について)
「裁判記録を見てみると、裁判の実態は、検察側の証人や証言に信憑性がないことが弁護側の反対尋問によって次々暴かれていったものだったことがわかるのだが、そういった検察側に壊滅的なダメージを与えた反対尋問は無視され、報道されないという傾向があった。 
 逆に、マイケルが有罪であると視聴者にほのめかすような報道や中傷コメントは常軌を逸するほど多かった。裁判では信憑性がないとされた検察側の主張が、あたかも真実であるかのように報道され続けた。 
 無罪評決が下された後も、メディアは反省や謝罪をするどころか裁判の実態を検証し正しく伝え直す報道もせず、評決前にマイケルが有罪になるとコメントしていたニュースアンカーやコメンテーターたちは無罪評決が出たことに対し『恥をかかされた』と怒り、マイケルを中傷し続けた。
 メディアは視聴者を騙し、マイケルに甚大なダメージを与えた。この裁判報道はジャーナリズム史上最も恥ずべき出来事の一つである

 マイケルを取り巻く噂話、訴訟、論争の数は計り知れないが、中には真実と完全に相反するものや事実関係を裏付ける十分な証拠が存在しないものも多い。

 2009年3月、ロンドンにて記者会見を開き、最後のツアー『THIS IS IT』を行うと発表。チケットが売り出されると4時間で50公演分が完売した。

 2009年6月25日、自宅にて心肺停止状態に陥り死去。公表された死亡原因は、「医師の過失による麻酔薬プロポフォールの過剰投与」。主治医であったコンラッド・マーレーは過失致死罪の有罪判決を受けている。

 2019年3月3日、記事にて純資産が約5億ドルとなったと報道。

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 度重なる整形手術や著しい肌の色の変化は、度々マスメディアの注目を集め、議論や憶測を呼んでいた。
 初めて整形手術を施したのは1979年にステージで負った鼻の大怪我を早急に治癒する目的があった。
 1984年に負った頭部の大火傷で顔面の骨格や皮膚に後遺症が残ったことや、もともと幼い頃に家族から「デカ鼻」といじられ容姿にコンプレックスを抱いていたこともあって、その後も晩年に至るまで鼻と顎を中心に整形手術を繰り返したとみられる。
 1988年の自伝『ムーンウォーク』で自身が語ったところによれば、当時の時点で彼が施した整形手術の回数は「鼻が2回、顎が1回」であるという。
 一方で、肌の色の変化は尋常性白斑という疾患に由来するもので、死後の検死報告で公式に明らかにされた。この病気が進行し始めたのは1979年から1982年の頃で、体中の皮膚の色が斑状に変化していったという。
 1990年代以降に病気は急激に進行し、外出中は紫外線を断ち切るために常に大きな帽子、傘、サングラス、マスクの着用を余儀なくされていた。長年彼のメイクアップを担当していたカレン・フェイは
「彼も周りもずっと病気のことを隠そうとしていた。最初は白い部分を茶色のファンデーションで隠していたが、白斑が全身に広がると白くメイクするように切り替えるしかなかった」
と話している。また、1984年に負った頭部の大火傷も病気の進行を早めたと言われている。

 マイケル・ジャクソンの外観には白斑が見られるが、これは撮影の際に負った頭部火傷やストレスなどによる後天的発症であり、先天的な異常ではない。彼は長らく偏見報道に悩まされていた。皮肉にも彼の病が公的に証明されたのは死後の司法解剖であった。

Wikipediaを参照しました。


スリラー
https://youtu.be/4V90AmXnguw
ビリー・ジーン
https://youtu.be/KJWidgsCbZw

49 フルトベングラー

 百均で、フルトベングラーのCDが売られていた。
 どういうこと? 著作権が切れたらしいが憤慨!
 今はYouTubeで聴けるのでありがたい。ありがたすぎるが。

 フルトベングラーはベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者を1922年から1945年まで、終身指揮者を1947年から1954年まで務め、20世紀前半を代表する指揮者のひとりとされている。

 現在でもCDが続々と発売され、放送録音、海賊録音の発掘も多く、真偽論争となったレコードも少なくない。

 音が出る前から指揮棒の先が細かく震え始め、アインザッツが非常にわかりにくいその独特の指揮法から、日本ではフルトヴェングラーをもじって「振ると面食らう」などと評され、「フルヴェン」の愛称で親しまれている。

 ベートーヴェン、ブラームス、ワーグナー等のドイツ音楽の本流を得意とした。一般には後期ドイツ・ロマン派のスタイルを継承した演奏とされ、作曲家としても後期ドイツ・ロマン派のスタイルを継承したことから、ライバルのトスカニーニと対極に位置づけられることもあるが、
「堅固な構築性をそなえた演奏を『ロマン主義的演奏』というだけで片付けてしまうのは軽率」とする見解もあり、
またフルトヴェングラー自身は「後期ロマン主義者」と看做されることを極度に嫌い、「私はロマン主義者でも古典主義者でもない」と語ったともいわれる。

 音楽評論家の吉田秀和はフルトヴェングラーについて、
「濃厚な官能性と、高い精神性と、その両方が一つに溶け合った魅力でもって、聴き手を強烈な陶酔にまきこんだ」
「(ベートーヴェンが)これらの音楽に封じ込めていた観念と情念が生き返ってくるのがきこえる」と評している。
(Wikipediaより)

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 フルトヴェングラーを神格化して、他人に勧めまくる評論家やウェブ批評家が結構多いが、私は異を唱えたい。
 フルトヴェングラーの、今では絶滅しかかっている古き演奏様式は時として魅力的であるし、例のバイロイトの第9のように奇跡的な演奏もある。
 ただそれらは歴史的価値として評価すべきものであって、貧弱な録音を乗り越えて特別視するほどではないと言いたいのだ。
 問題は二つある。一つは言うまでもなく録音が悪いことである。EMIの正規録音もひどいものであるし、いろいろ発掘されたライブ録音などは聴くに堪えないものが殆どである。
 そもそも録音が悪ければ、指揮者が苦労して築き上げた各楽器の響きは伝わらないし、各楽器間のバランスなどの重要な要素も全くわからない。
 聴けるのは速度や全体音量の違いだけになってしまう。これはいくらフルトヴェングラーが凄い指揮者だったとしても、その魅力の半分ぐらいしか聞けないことになる。
 逆説的に言えば、速度変化や音量変化しかわからないのに神格化する連中は、かえってフルトヴェングラーに対して失礼なのではないか、とさえ思う。
 そもそもフルトヴェングラーは録音、レコードというものにあまり信頼を置いていなかったことが・伝わる言葉の端々にうかがえる。今の貧しい録音をあがめ奉る連中には苦笑いするか、
「私の芸術はこんな音で伝わるわけがない」と怒り出すのではないか。
 二つ目の問題は、そのロマン主義的、感情移入的演奏があまりに極端であり、曲そのものの構造まで壊してしまう域に達することが多い点である。
 個人的には昨今の貧弱で味気ないピリオド奏法などよりよほど心の琴線に響くし、猛烈なアッチェレランドなどの劇的手法も嫌いではない。ただ、残された大体の録音において、そのやり方が大袈裟すぎるし、ワンパターンだと思ってしまう。
 交響曲なら終楽章でテンポを思いっきり揺さぶった挙げ句に強烈に加速して終わる、というのが見え見えなのだ。言ってみれば演歌調が過ぎて、感動に至らないのである。
 その点、WPhとの5番1954年スタジオ録音は、彼の悪癖である極端なテンポ変動やステレオタイプの終曲前加速が控えめであり、欠点が少ない。その上でやたら速い演奏が多い最近の演奏と異なり、ベートーヴェンらしさを生み出すテンポ設定が誰よりも優れている。フルトヴェングラーのすべての録音の中で最も好きな演奏である。
http://chuyounotoku.jugem.jp/?eid=54&pagenum=1#gsc.tab=0


 1951年 バイロイト音楽祭再開記念演奏会でベートーヴェンの交響曲第9番を指揮(7月29日、バイロイトの第九)。
 1954年 肺炎により死去。68歳。

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 1933年 ベルリン国立歌劇場でワーグナーの『マイスタージンガー』を指揮した際、首相ヒトラーと握手している写真を撮影される。
 9月15日、ヘルマン・ゲーリングの指令により、プロイセン枢密顧問官に就任。同年11月15日には帝国音楽院副総裁に就任。
 1934年 ヒンデミット事件によりナチス政府と対立。12月5日、ベルリン・フィル音楽監督、ベルリン国立歌劇場音楽監督、プロイセン枢密顧問官および帝国音楽院副総裁を辞任。
 1935年 客演指揮者としてベルリン・フィルに復帰。
 1936年 ニューヨーク・フィルの次期音楽監督にトスカニーニから指名されるが、ナチスの妨害により破談。
 1938年 ドイツのオーストリア併合後、ナチスによるウィーン・フィル解散を阻止。
 1939年 第二次世界大戦が勃発するがドイツに残る。国内のユダヤ人音楽家を庇護。
 1945年2月 ウィーン・フィルの定期演奏会後にスイスへ亡命(彼を嫌うナチス高官ハインリヒ・ヒムラーから逮捕命令を出されていた)。5月 戦時中のナチ協力を疑われ、演奏禁止処分を受ける。
 1947年 「非ナチ化」裁判の無罪判決をうけ、音楽界に復帰。ベルリン・フィルの終身指揮者に。
 1948年 シカゴ交響楽団の常任指揮者就任の要請を受けるが、ホロヴィッツ、ルービンシュタイン、ミルシテイン、ピアティゴルスキー、ハイフェッツを含むユダヤ系音楽家たちからの抗議により破談。

 1937年、トスカニーニはザルツブルクの路上でフルトヴェングラーと会い口論となった。両者は前年のニューヨーク・フィルの引き継ぎをめぐって感情のしこりがあったが、フルトヴェングラーがドイツに留まっていることに対し、トスカニーニは彼がヒトラーの言いなりであると解釈しており、双方は険悪な関係となっていた。
「あなたはナチだから出ていけ! 自由な国と奴隷化された国の双方では指揮する資格はない」
「あなたにまかせるなら出て行きます。でも音楽家にとって自由な国も奴隷化された国もない。演奏するのがたまたまヒトラーの国といって、ヒトラーの部下とは限らない。偉大な音楽こそナチスの敵ではないですか!」
「第三帝国で指揮する者は全てナチスだ!」
といった内容で喧嘩別れした。以後、2人が会うことはなかったといわれる。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/アルトゥーロ・トスカニーニ

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 フルトヴェングラーの名声には、いまもなお、暗い影がさす。彼が、ナチ政権下のドイツに留まるという、宿命的、悲劇的決断をしたためだ。  
 1933年のナチスによる政権奪取後、数千人のインテリや芸術家は亡命した。
 しかし、フルトヴェングラーは終戦直前までドイツに留まった。この、決意ゆえに、彼は「ナチスの宣伝マン」「ヒトラーのお気に入り指揮者」「悪魔の楽匠」という、永遠に続く糾弾と非難の的となった。
 しかし、彼はナチに追従したどころか、公然とヒトラーやヒムラーに叛旗をひるがえし、生命の危険もかえりみず闘った。
 
 フルトヴェングラーには音楽や政治的存在の他にも種々の側面があった。
 この端倪すべからざる人物は問題の多い作曲家であり、多弁なエッセイストであり、日記を丹念に書き続ける人であり、誠実な友人だが逆らえば強敵となる男であり、しかも救いようのない漁色家である。
フルトヴェングラー 悪魔の楽匠-下巻
サム・H・白川著 藤岡啓介・加藤功泰・斎藤静代 訳

ベートーベン交響曲第5番 ウィーンフィル1954年
https://youtu.be/onNuTOxI93Q

50 トスカニーニ

 トスカニーニは、ドイツのフルトヴェングラーと並ぶ20世紀最大の指揮者。
 ワルターを加え、19世紀生まれの「3大指揮者」と呼ばれている。
 フルトヴェングラーの芸風とは常に比較されているが、音の背後にあるドラマなどを重んじたフルトヴェングラーとは正反対の芸風で、スコア(楽譜)こそがすべてだった。
 トスカニーニは「音」にすべてを託す。よって演奏中、パッションは炎のように燃え立ち、リズムは地の底にまで突き刺ささる。楽員一人たりとも気を抜くことは許されず、全身全霊を込めた音楽を創造していくスタイル。
 この、音のダイナミズムこそがトスカニーニの芸風だった。よって、テンポは速めで、楽譜のffなどの記号も殊更強調された。ただ楽譜どおりに演奏するスタイルと一線を画しているのは、音楽に対する熱意、芸術家としての格の違いだろう。
 スコアには忠実ながらも、最高のエネルギーに満ちた「音」を聴かせてくれるのがトスカニーニなのだ。
http://nyatora.web.fc2.com/shikisha2.html

 
 若い時にローンで買ったクラシックのレコード。名曲集の指揮者はブルーノ・ワルターとジョージセル、バーンスタイン。

 ブルーノ・ワルターは、トスカニーニ、フルトヴェングラーと同じ19世紀生まれの指揮者で、この3人は19世紀生まれの3大指揮者と言われている。
 しかし、ワルターが2人と決定的に違い、我々にとって身近な存在である点は、1960年代まで長生きしたために、コロンビア交響楽団(世紀の大指揮者、ワルターの録音のためだけに結成されました)との一連の名演を、ステレオ録音で存分に鑑賞できるという点である。
 トスカニーニにはわずかにステレオ録音が残っているが、フルトヴェングラーにはない。ワルターの演奏は、1930年前後のウィーン・フィルとの一部の古い録音を除き、ステレオ録音で聴くことができる。

 アルトゥーロ・トスカニーニ(1867年3月25日 - 1957年1月16日)は、イタリア出身の指揮者。

 トスカニーニは反ファシズムの象徴でもあり、アドルフ・ヒトラーやベニート・ムッソリーニと関わることを断固拒否し続けた。
 1930年と1931年にはバイロイト音楽祭に非ドイツ系指揮者として初めて出演、大成功を収めたことは今や伝説的な出来事になっているが、ナチスが政権をとった1933年からは出演していない。
http://www.hananoe.jp/classical/takuminomori/takuminomori047.html

 リハーサルが過酷なことでも有名だった。トスカニーニは妥協の二文字を知らない。そのため現場はしばしば修羅場と化した。怒鳴り散らすだけでなく、物を投げたり、譜面台を壊したり、指揮棒を折ったりすることもあった。
 すぐれた芸術は唯一の絶対的指導者によって創造されるものであり、民主的で和気藹々とした雰囲気からは何も生まれない。いくつかあるトスカニーニのリハーサル音源を聴いていると、地獄絵図を延々見せられているような気分になり、胸が苦しくなる。それでもオーケストラはトスカニーニに従い、彼に指揮されることを望んだ。
 なお、義理の息子であるウラディミール・ホロヴィッツがトスカニーニと初協演する際、ヴァイオリニストのアドルフ・ブッシュから与えられた忠告は、絶対に遅刻しないこと、怒鳴り声が響いても驚かないこと、反論しないこと、の3つだったという。
http://www.hananoe.jp/classical/takuminomori/takuminomori047.html

 ホロヴィッツはトスカニーニの義理の息子!

 指揮者としてのトスカニーニがどれほど素晴らしいか、遺された音源のみを頼りに語ることは容易ではない。今日、トスカニーニの録音に接した人々が抱く最初の印象は、おそらく硬直した音が痛快なテンポで威勢よく鳴っている、というものだろう。
 トスカニーニを嫌っていたサー・トーマス・ビーチャムは、お得意の辛辣な調子で「美化された楽隊長」と揶揄したが、別に嫌っていなくても、そういうイメージを抱く人はいるはずだ。サウンドの輝かしさ、美しさ、明晰さが、貧弱な音質のせいで、ほとんど剥落しているのである。
 同じように古い音源でヴィルヘルム・フルトヴェングラーの指揮に接した人が、悪条件の音質までも含むその怒濤の演奏世界にのみこまれていくのとは異なり、トスカニーニの指揮は聴き手を酩酊させるよりも覚醒させる。
 作品の明確な表現や造形感といったものに対し、意識的になるよう促す。だからよけい音質がハンデに思える。しかし、トスカニーニの音源にどんな瑕があるにせよ、そこから圧倒的な統制力や解釈の妙味やこぼれ出る歌心を感じ取ることが全く出来ないとしたら、それは聴き手の理解不足によるものである。

 非常に短気であり、オーケストラのリハーサルの際には怒鳴り声を発することは頻繁にあった。戦前に出演したバイロイト音楽祭では、オーケストラが一音出すたびに「ノー、ノー!」と怒鳴るので「トスカノーノ」というあだ名を付けられていた。
 トスカニーニの癇癪も計算の内で、弛緩した雰囲気に喝を入れるのが目的であった。オーケストラが指示通りに演奏すると怒ることはなく、リハーサルは極めて短時間で終わった。

 リハーサル中に激怒すると、指揮棒を折る、スコアを破く、インク瓶や懐中時計を地面に投げつける、譜面台を壊したりするということもよくあり、コンサートマスターの指を指揮棒で刺してしまい、裁判沙汰になったこともあった。しかし一通り暴れ終わった後は平然とした顔で「それではリハーサルを始めましょう」と何喰わぬ顔でリハーサルを始めた。また、いかにもイタリア人らしく激しく怒っても翌日には忘れてしまい、まったく後に引くということがなかった。
 翌日も怒りが残るジョージ・セルとは対極をなし、常日頃からオーケストラの団員との会話を図るなどして人間関係の維持には心を砕いたので憎まれるようなことはなかったという。

 大変な好色家で、共演者の歌手との浮名を流すこともしばしばであった。また、トスカニーニが怒り狂った時にそれをなだめるため、若い女性があてがわれていた。
 それについて妻は常に悩んでいたという。しかし家族愛は強く家族の人数分のハートを彫刻した腕輪をはめていたり、孫のソニア(娘ワンダと娘婿ホロヴィッツとの間の娘)を溺愛し、臨終の際、ソニアが見舞いに来たときトスカニーニは、「おお、ソニア、ソニア。来てくれたのか。おじいちゃん、もうすぐ死ぬからな」と言ったという。

 トスカニーニは極度の近視であり、譜面台に置いた楽譜が見えなかったため本番もリハーサルも暗譜で指揮するのが常であった。暗譜能力は驚異的であり、合奏曲約250曲の全パート、オペラ約100曲の譜面と歌詞、更に多くの小品を完璧に覚えていたという。
 しかし、1954年4月4日の演奏会での記憶障害により指揮を一時止めてしまった。 そしてこの演奏会の直後にトスカニーニの引退が発表された。 

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ドボルザーク交響曲第9番 ホ短調 作品95『新世界より』
https://youtu.be/v9Q_jpaJZ9U

 親しみやすさにあふれるこの作品は、旋律が歌に編曲されたり、BGMとしてよく用いられたりと、クラシック音楽有数の人気曲となっている。オーケストラの演奏会で最も頻繁に演奏されるレパートリーの一つでもあり、日本においてはベートーヴェンの交響曲第5番『運命』、シューベルトの交響曲第7(8)番『未完成』と並んで「3大交響曲」と呼ばれることもある。

 トスカニーニの『新世界』は土の匂いがしないそうだ。鋼鉄!
 嫌いな人は嫌いだろうな……と。私にはわかりませんが。


メンデルスゾーン交響曲第4番 "Italy" - Toscanini (1954)
https://youtu.be/q1iLrxWmOIY

 何も言う必要はない不滅の名盤。これがあの悲劇的な引退の数ヶ月前の演奏とは、とても信じられない。
 メンデルスゾーンの十字型指揮がトスカニーニに受け継がれ、ヴァーグナーの流動的指揮がフルトヴェングラーに受け継がれた、と考えるならば、トスカニーニのメンデルスゾーンが名演なのも理解できるか。
http://classic.music.coocan.jp/sym/mendelssohn/mendelssoh

お気に入りの音楽 46〜50

お気に入りの音楽 46〜50

  • 随筆・エッセイ
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-06-14

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  1. 46 無残の美
  2. 47 夫婦だった
  3. 48 マイケル・ジャクソン
  4. 49 フルトベングラー
  5. 50 トスカニーニ