この家には亡霊がいる 16
すでに投稿済みの『ふたりの女』は本編を5000字以内に改筆したものです。
ふたりの女
久しぶりにこの店に来た。
入社して初めて配属されたアロマショップ。世話になった上司が退職する。
時計を戻す。3年前だ。
配属されたのは研究室ではなかった。
販売をやるのか? こんな小さな店で?
ひとりのスタッフの顔が浮かんだ。僕は敬意を払う。あの女性には。
「あら、久しぶり」
「……しおり、さん?」
「よく覚えてるわね」
「いずみさんは?」
「死んだわよ」
「えっ?」
「罪な人ね」
「いずみさんが亡くなった? どうして? いつ?」
「……気になる? つれなかったくせに」
「話せよ。詳しく教えてくれ」
「死んでないわ。でも死んだほうがマシ」
「どういうことだ?」
「関係ないでしょ?」
「……」
「2年になるわ。あなたにフラれたから、ホストクラブに連れていったの。忘れさせようとして。バカだった。いずみはもっとバカよ。あんたに似た悪い男に入れあげちゃって、貯金はたいて、私のお金まで使って……やめた」
「嘘だ。あの人がそんなこと……」
店長が店から出てくると栞は帰っていった。
いずみがホストに? そんなバカな……
回想する。配属されたアロマショップで教えてくれたのがいずみだった。
栞は同じ小さなビルの最上階のエステティックサロンで働いていた。本当にエステティックサロンなのかは疑問だった。昼間から男性客も出入りしていた。
派手な栞に地味ないずみ。ふたりが一緒に住んでいると聞いたときは驚いた。まるきりタイプの違うふたりの女。
それこそ太陽と月。
いずみは高卒だが仕事熱心で信頼されていた。社長の息子の僕を女性店長は教育した。直接細かく教えたのがいずみだった。
店は掃除が行き届き、観葉植物まで彼女の世話で生き生きしていた。客は女子学生が多かった。スタッフは男は皆無。
僕の周りには若い女が集まり売り上げは倍増した。足りない知識をいずみが上手にフォローした。僕は1度聞いたら忘れない。ハーブやアロマオイルの種類、効能。
敬語が崩れるといずみが注意した。地味で真面目な仕事熱心な同じ歳の女。好意を寄せたが恋愛の対象ではない。いや、恋愛に踏み込むことはできなかった。
もう生涯夏生だけ、と決めていたから。
栞はよく店に来た。最初見たときは驚いた。入ってきたとき空気が変わった。ミントの香りがした。
化粧品会社に勤める女たちとは違う美しさ。素肌だろう。たぶん。
ゆで卵を剥いたような肌。白のユニフォームは最初女医かと思った。喋らなければ夢に見たかもしれない。
男は視覚で恋をする……
栞は僕とまわりの女たちを見ると
「ホストみたい」
と言い放った。
「ホストクラブ、紹介してあげようか? あんたならすぐ……え? 社長の息子なの?」
幻滅させてくれてありがとう。
知性のかけらもない。自分はなんなのだ?
彼女は上階のエステティックサロンの凄腕のスタッフ。栞が来ると女子学生は彼女を取り巻く。『美のカリスマ』の彼女はアドバイスし、営業していく。
まつげパーマ、エクステ、長い睫毛はにせものか? 白すぎる歯もホワイトニングかセラミックか? ビキニラインの脱毛? 水着からはみ出すの……
女だらけの恐ろしさ。彼女はアートメークや永久脱毛をしたがる未成年の女たちに、高額なローンを組ませる?
したたかな女。
この女は苦手だ。見透かされている気がした。男の僕に興味を持たない。目を見ないで口元を見る。
「あなたもどう? 全身マッサージ。初回半額よ」
女子高生が笑う。裸よ。全裸になるの……見たい。三沢さんの裸……爆笑。
いずみへの友情なのか愛なのか? 同性愛者か?
栞はいずみとランチに行き、よく一緒に帰っていた。いずみは僕への好意を隠していたが、栞は気づいていた。嫉妬していた。男の僕に。
女が羨む女に嫉妬されている……?
友情にしろ、愛にしろこんなに執着されたら怖い。
「飲みにいかない?」
よく店長に誘われた。店の飲み会なのに、いずみを迎えにきた栞はよく付いてきた。店の女たちも栞に一目置いていた。
栞は美の秘訣を教える。教えてエステの商品の注文を取る。高い美顔器。化粧品会社に勤める女たちが他社の商品を買う。栞のような肌になりたくて。
同性に羨ましがられる容姿の女。まわりの男性客は栞を見る。しかし、この女の美の秘訣は……
酒は飲まない。タバコは吸わない。飲むのはトマトジュース。食べるのはサラダや唐揚げやピザではない。枝豆、ぬか漬け、カツオのたたき、えいのひれ……デザートは食べない。砂糖をとらない。長いトイレから戻った栞はすでに歯を磨いていた。ミントの香りがした。
1度だけいずみと栞を送った。
栞が失恋し、やけ酒だと珍しく飲んだ。
強かった。強かったが飲みすぎた。栞が失恋? 男にか?
「あんたは彼女は? いるでしょ? いずみの気持ち知ってるくせに。どうして……どうして……」
支離滅裂で羅列の回らなくなった栞の言ったことを、聞こえなかったフリをしてタクシーで送った。
ふたりは小さな1軒家に住んでいた。新婚が住むようなまだ新しい洒落た作り。家賃は高いだろう。ひとりずつ住むよりは安いのだろうか?
完全に潰れた栞を抱き上げ2階のベッドまで運んだ。乱雑な女の部屋をすぐに出て階下に降りる。1階はキッチンとリビングの間取り。いずみのベッドが置いてある。栞のとは対照的にきちんとしている。
彼女は、ありがとうございました、とだけ言った。冷たい茶が1杯出された。僕の好みのハーブのブレンドティー。テーブルの上には生き生きとしたミニ観葉植物。部屋はかすかにラベンダーの香り。ラベンダーが僕の1番好きな香りだから……
「1階はきれいにしてるんだね」
栞の言葉が微妙な影を落とした。告白される? 高卒の田舎から出てきた娘。美しくはないが……美徳はたくさんある。誰かに似ている。誰だろう?
いずみは、もう1度ありがとうございました、とそれしか言わなかった。
帰り道、ある女を思い出した。なぜだろう? 『美しくない月』1度しか会ったことのない女に雰囲気が似ていたからか? 和樹に夢中だった女はどうしているだろうか?
栞が失恋した相手とは? どんな男なのだろう?
いずみの思いを知りながらこたえてやれなかった。いずみもなにも言わなかった。僕は1年で研究室に移り、やがていずみは郷里に帰るから、と会社を辞めた……
あのいずみがホストに入れあげた? 栞の金まで使って?
元上司はいずみのことは知らなかった。故郷へ帰ったと思っている。あんなに気のつく子はいなかった……
翌日エレベーターの前で待ち伏せた。最上階から初老の男が降りてきた。この男がマッサージを? 整体か? いかがわしいマッサージか?
栞は降りてきた。近くの居酒屋で話を聞く。栞は次々注文しトマトジュースを飲んだ。軟骨の唐揚げをボリボリかじる。
「話せよ。いずみさんのこと」
「エイズなのよ。私……」
「!」
「エイズなの」
「いかがわしい仕事してるからだ」
「いかがわしい?」
栞は自分の箸を舐め差し出した。
「これ、舐めたらいずみのこと話してあげる。舐められる? エイズの女の使ったもの?」
戸惑う僕にご馳走さま、の声を残し栞は去った。
翌々日、待ち伏せたが栞は降りてこなかった。いずみがどうなろうと、栞がどうなろうと関係ない。3年前毎日のように会っていた女たち……
治ならどうするだろうか? 治なら見捨てないはずだ。治……
ああ、彼女は、いずみは、治に似ていたのだ。あの、笑顔、いつも微笑していた。あのきれいな歯並び……
治は介護施設でバイトしていたとき、認知症の女性に言われたそうだ。おにいさんの入れ歯はきれいだね、と。治は苦笑していたが、あいつの歯はきれいだった。
僕が仕事で間違えたとき、いずみは、教え方が悪かったわね、と自分が謝った。朝は新入社員の僕より早く来ていた。店長には大卒の女より重宝されていた。客からの苦情処理も丁寧だった。
栞の電話番号は登録してあった。1度だけ電話がきた。いずみが会社を辞めたことを知らせるため。
「薄情者。あんたのせいで私たちの友情は壊れた」
勝手に罵り切った。
思い切って電話した。栞は出ない。呼び続ける。ようやく応答があった。
「辛いの。死ぬかも……」
思いきってかつて送って行った家に向かった。
インターフォンに応答はない。ドアを叩いた。胸騒ぎがした。小さな家の周りを歩き窓を確かめる。鍵がかかっていた。栞の部屋は2階だった。小さな灯りがついていた。もう1度インターフォンを押しドアを叩いた。
それからは、恐怖との戦いだった。僕は周りに誰もいないのを確かめ、柵に乗り2階の小さなベランダによじ登った。窓の鍵はかかってはいなかった。
栞は眠っていた。汗びっしょりの女の熱を、置いてあった体温計で計る。キッチンの冷蔵庫に氷はなかった。冷凍室は冷えていなかった。水で絞ったタオルを額に当てた。エイズで高熱を出し死にそうな女……
どうしよう。亜紀に電話しようか、救急車を呼ぼうか?
「栞! 救急車を呼ぶぞ」
「インフルエンザ」
「え?」
「たぶんインフルエンザよ。移るわよ」
「エイズは?」
「エイズは……いずみ」
「なんだって?」
氷を買いに行く。自分の頭も冷やしたい。
あの人が? あの人がエイズ? ありえない。
ホストに移された? どうしているんだ? 今。どこにいる?
朝まで栞を看病した。朦朧としている女を裸にし着替えさせた。
「あんた、なにやってるの? どうやって入ったの? 最低」
水分を取らせ眠らせる。部屋を見回す。当時よりは片付いていた。1階のいずみの部屋にはふたりのダイニングテーブルだけ。荷物ひとつ残っていない。
栞は引っ越さないのか? この広さは家賃も高いだろうに。稼ぎがいいのか?
明け方、熱は下がった。夢を見ていたようだ。起きると安心していた。
「よかったぁ」
「どんな夢をみた?」
「……歯が抜ける夢……みたことない?」
「ないと思う」
「まあまあ、きれいな歯だものね。歯、磨かなきゃ」
まあまあ、きれいな歯? 自慢じゃないが歯は丈夫だ。治には負けるが。
母はよく魚を煮ていた。骨ごと食べられるように。あらの煮付けもよく食べた。
亜紀のひどい料理も今思うと健康を考えて作っていたのだろう。鶏の手羽先と野菜のスープ。手作りのおやつなど作れなかった。犬のために砂肝を薄く切りオーブンで焼いていた。硬い硬い犬の砂肝のおやつを、亜紀は僕にも食べさせた。歯が丈夫になるように……
ふたりの妻のおかげで父の歯も丈夫だ。
治の家に行くと、おばあちゃんのおやつはふかした芋や煮干しに昆布。
ふらつく栞を支えて階下に下ろす。栞はトイレに入ったあと歯を磨いた。念入りに。栞の歯は、この女は歯も別格だ。たぶんセラミック……芸能人みたいに。手入れが大変なのか?
変な想像をした。夏生がここのところ忙しくて仕事場に泊まり込みだから……してない。
歯を抜く夢? 盲妹?
栞はひとりで病院へ行き薬をもらうとすぐに回復した。
仕事帰りに見舞いに行く。食べられそうなものを買って。
「あなたは大丈夫?」
「予防注射してるからな。いずみさんのこと、話してくれ」
いずみは栞のカードでキャッシングまでしてホストと付き合った。そのうえエイズまで移されて……
いずみは栞を恨んだ。ふたりの家なのに掃除も洗濯も押し付け、要領のいい栞は広い部屋を取り、男にチヤホヤされて……
栞が止めるのも聞かずいずみは出ていった。ホストのところへ。
「連れ戻してよ。私が面倒を見る。死ぬまで面倒みる。いずみのためならなんだってする。あなたが言えば……帰ってくる。助けよう。ふたりでいずみを助けよう。お願いよ」
「そんなに彼女のこと好きなのか?」
「いずみは田舎から出てきて実家はおにいさんが継いでるから帰る場所はない。私も……ふたりの家なの。ここしかないの」
ふたりの女 続き
栞の友情に圧倒され、僕はいずみに会いに行った。元ホストは質素なマンションに住んでいた。
いずみは僕の訪れに驚き、10分程待たせると降りてきた。
やつれも病気の影も見えなかった。以前より生き生きしていた。
「栞さんに会った。店に行ったとき。店長は定年だ」
「栞は、まだ……」
「まだあの家に住んでる。君が帰るのを待っている。君の面倒を一生みるつもりでいる」
「バカね。栞。絶交したくせに」
「最初、栞の好意が不思議だった。友達になって高額商品を売りつけるのだと思った。栞といると男たちが声をかけてくるけど、栞は興味を示さない。レズビアンかとも思ったわ。
でも、あの子は家族が欲しかったのね。アパートの更新だって言ったら、ふたりで住もうって。家賃も安く済むし、あの家を見たらすぐに決めたわ。
栞はただでマッサージしてくれたし、仕事のことは勉強熱心だった。美容のこと以外は、無頓着でだらしなかった。お金のことも。
私は真面目すぎるから、逆に羨ましかった。あんなだったら楽だろうなって。
親のことや過去は話さなかった。ひとりで必死に生きていた……」
いずみは、エイズではなかった。エイズになった元ホストと暮らし面倒を見ていた。
「契約したの。身の回りの世話。病院の送り迎え、雑務、財産の管理。執筆の手伝い」
「執筆?」
「自分史。田舎から出てきて親の借金のために働いて、お金貯めて田舎に戻るつもりだった。でも、田舎には帰れなくなった。田舎では暮らせない。病名は言えない」
初めて栞と行ったホストクラブ。男はいずみと同郷だった。男の最後の仕事の日だった。
「こんなところに来るなよ。似合わないよ」
同郷のよしみで男は忠告してくれた。
「やめて故郷へ帰るの? 私も帰りたい」
「帰れないんだ。エイズだから。帰ったらパニックになる」
なぜ初対面のいずみに話したのか? 同郷のよしみ? 聞かされたいずみは放ってはおけなかった……
生活は大変ではないようだ。元々贅沢な男ではない。いずみも……
栞にはなりゆきで嘘をついた。
「反応を見たの。栞がどうするか。栞は私の使ったスプーンを舐めた。嬉しかったわ。お金は、栞は忘れてるけど、何度か貸したっきり。催促できなかったからまとめて返してもらった」
「結婚は?」
「……遺言書は作ってくれた。彼が死んだら私はお金持ち」
「移る……心配は?」
いずみは笑った。無知なのね、と口には出さない。
「エイズはいずれ完治するようになる。怖いのは差別と偏見」
「……愛してるのか?」
「さあ、あなたに似ていた」
この女は、どうしてこんな僕なんかを……
「僕が……プロポーズしたら?」
いずみは僕の目を見て吹き出した。
「いつ、結婚するの? 幼なじみと」
「そんなこと話したっけ?」
「女子高生に聞かれて答えてた。適当に言ってるのかと思ってたけど、本当なのね」
記憶にない。まったく記憶にない。意味のない会話だった。
「お願いがあるの」
いずみは栞のことを心配していた。
ミノルの話を聞いた。ふたりでよく行った安い食堂。そこで知り合った男。
派手な栞が愛した男は真面目で金のない工員だった。インクで汚れた手。男は釣り合いが取れない、と栞の愛に答えなかった。栞も親のことで引け目を感じていた。
やがて……知った現実。稔は年上の女と付き合っていた。貢いでいた。子供のいる未亡人にずっと……
「でもね。口止めされてるの。稔は人身事故起こして……死なせたの。奥さんは妊娠していた。だからずっとお金払い続けてる。栞には内緒。苦労させるから。でもね。栞は……忘れたかしら?」
「君はいずみさんに借金してただろ?」
栞は覚えていない。食費や雑費もいずみが立て替えることが多かった。
栞はだらしなさを後悔した。
「引っ越ししたら? 家賃高いだろ? ひとりでは?」
戻らないいずみのために高い家賃を払い続け、壊れた冷蔵庫も買い替えられない。
僕は電気屋につれていった。友情の褒美に買ってやろうと。
「魂胆があるの?」
「だったらどうする?」
「いくらくれるの?」
「いくら欲しい?」
「高いわよ。初ものだもの」
「嘘だろ? いくつだよ?」
「あんたと同じ」
冷蔵庫を選ぶ。栞は小型の廉価品を見ている。
「ミノル」
母親が子供を呼んだ。
その名に栞は反応した。一瞬硬直した。
「これにしよう。プレゼントだ。礼は……マッサージしてくれ。肩こりがひどいんだ」
疑っていたお詫びだ。
栞の本格的なマッサージ。腕は確かだった。
「全身マッサージしてあげる。脱いで」
「い、いいよ」
「店でやれば高いのよ」
「男の客も来るのか?」
「うちの先生はすごいのよ。癌の患者も元気になる」
「まさか」
「ほんとよ。病院にも出張に行くの。皆元気になる」
栞は熱心に話す。エナジーなんとかパワー。
「いかがわしいマッサージでもしているのかと思った」
「親もそう思ってる。マッサージの腕、みせてあげる。脱いで」
痛いが気持ちよかった。若い女の部屋のベッドでほとんど全裸になりオイルを塗られた。栞は施術しながら話す。自分の生い立ち。
「中卒なの」
「え?」
親は栞が中学の時に離婚し、母親は再婚した。栞は高校をすぐに中退し独り暮らしした。バイトを掛け持ちして。
栄養失調で倒れ病院に運ばれた。それからは割のいい仕事をした。中卒では頑張っても認められない。コンパニオンやキャバクラで働き贅沢をした。
夢はあった。看護師になりたかったのに。
通っていたエステに『先生』が来た。ときどきスタッフに教えに来る。不思議な人だった。大病した人を治す。
大ホラ吹きか詐欺師か?
最初はまやかしだと思ったがその先生は栞の体をさわると呆れた。若いのにボロボロの身体だった。冷え性で骨盤は歪み下血もした。腰痛、肩こり、便秘。顎関節症。歯茎は腫れ虫歯だらけ。肌は荒れて……
歯科医を紹介されて脅された。生活変えないと歯が抜け落ちるって。食生活はひどかった。タバコも吸ってたし。溶けた骨のレントゲン写真見せられた。
怖かった。人生終わったと思ったわ。前歯、4本差し歯なのよ。10代で差し歯。セラミックだからきれいでしょ? 虫歯も全部治療した。お金かかったわ。歯医者の先生は食事の指導もしてくれて、毎月検診に行ってる。ちゃんと磨けてるって褒めてくれる。
朝晩鏡で歯と、歯茎をチェックするの。でも、歯が抜ける夢をみるの。
ふたりの先生が私の恩人。それから……
いずみに初めて会ったとき、知ってる? あの子の歯? 歯茎がすごくきれいなの。見惚れちゃった。どんな生活してるんだろう? なにを食べてるんだろうって。友達になってくださいってお願いしたの。
真面目で、几帳面。見習わなきゃって。でも私はストレスかけただけね」
「そんなことないよ。感謝してた。君に。
会いに行くといい。マッサージしてやれよ。いずみの彼にも。腕は確かだ。体が軽くなった……」
初めて歯が抜ける夢を見た。亜紀も夏生も治もいない。10代の僕は父の再婚相手と馴染めず家を飛び出しさまよう。
リストカットを繰り返し、ホストになりエイズになった。海に飛び込んで死ぬ前に父の元へ戻った。
「抱きしめてよ。パパ。僕はパパのせいで捻じ曲がった」
パパは抱きしめてはくれなかった。僕を恐れて逃げた。
パパを追いかけ捕まえた。悲鳴をあげたパパの口の中には歯が1本もなかった。驚いた僕の口からも歯が抜け落ちた。前歯も奥歯も、上の歯も下の歯もすべて抜け落ちた……
なんという夢だ。夢でホッとした。怖くて念入りに歯を磨いた。鏡を見てふたりの母に感謝した。夏生と治に感謝した。
幼い頃、僕は菓子ばかり食べていた。おなかいっぱいでご飯が食べられないとママは激怒した。
「もう、一生食べなくて結構。お菓子だけ食べてなさい。虫歯でボロボロになって泣いてなさい」
僕は泣きながら謝って歯を磨いた。
治……ふかし芋……おばあちゃんのふかし芋……
ママが怒った。なんだったか?
ママが家を出ていく前だ。僕が不幸になる前、忘れたい記憶だから思い出せない。
治の家のおやつはふかし芋ばかりだ……
怖かった。ママの目。何度も怒られた。ママの冷たい目。
僕はママに嫌われていった。僕の祖母は治の祖母よりずっと若くきれいで金持ちで、なんでも買ってくれた……
いずみから聞いた食堂。稔が食べに来る曜日、時間。
稔は来るはずだ。栞が来るかもしれない……と。
直感でわかった。雰囲気が圭に似ていた。稔は定食を頼み、年配の女店員と喋った。
なるほど……笑うときれいな歯並びがみえた。彼に比べれば僕の歯は、まあまあきれいな程度か。
稔は、笑ってはいけないかのように真顔に戻る。酒は飲まない。ドアが開くたびに目を向ける。栞がやけ酒を飲んだ日から2年か。稔はため息をつき、食べ終わると出て行った。
あとをつけた。稔は栞の家が見える場所に立ち止まった。栞の部屋を見上げる。
灯りがついていた。稔はまたため息をつき歩き出し近くの神社に行った。賽銭を投げ手を合わせる。
栞の幸せを願っているのか?
母の残したルースのダイヤ、それを持ち花を買い栞の家に行った。大袈裟にひざまずきプロポーズした。栞は大きなダイヤに驚いた。
「1桁違う生活をさせてやる」
「冗談やめて」
「本気だ。ここで暮らすか? 僕もこの家が気にいった」
栞は本気にしなかった。
「君を振った男を見返してやれ。こんなに条件のいい男はいないぞ」
栞の口にふれようとすると手で遮った。
「まだ、忘れられないのか?」
「虫歯菌ない?」
「奥歯ががぐらぐらして膿んでる。抜けそうだ」
「歯医者行ってないの?」
「怖いんだ」
「バカ。紹介するからすぐ行きなさい」
「治療しないとキスはなし?」
「あたりまえ。口開けて。見てあげる。歯には詳しいのよ」
僕の口の中を栞は点検した。
「詰め物もないのね。羨ましい。歯茎もきれいなピンク色で締まっている。大事にするのよ。自分の歯はダイヤより価値があるのよ」
「君の歯も見せろよ」
「いやよ。どこ見られるのよりいや」
「見せろよ。口をこじあけて1本1本舐めてやる」
「やめてよ」
「見なくてもわかるよ。君の歯はきれいだよ。日々の努力の賜物だ。ダイヤより価値がある。80まで抜けないよ。いい香りだ。いつも清潔なミントの香り」
嬉しいのか栞は涙を流した。
「食事に行こう」
額にキスをして腕をつかみ食堂へ連れて行った。
「安くてうまいんだ」
「ここはダメ」
ドアを開けると稔がこっちを見た。僕は稔のところへ行き挨拶した。
栞が言った。
「プロポーズされたの。この人は株式会社……なんだっけ?」
「三沢です」
「結婚するのか?」
年配の女店員が来た。
「おめでとう。栞ちゃん。よかったね。稔なんか選ばなくて。稔は人身事故起こしてるからとても栞ちゃんと結婚なんかできないからね……」
計画通り、女店員はうまくやってくれた。稔に好意的だった女はふたりが結ばれることを願っていた。
大きなダイヤは栞にはただの光る石。そうでなきゃ困る。
選べよ。薄給の、まだまだ慰謝料を払い続けていかなければならない男を。
「あの女の人は?」
「被害者の奥さんだ」
「栞、返事は? 僕のプロポーズはどうする?」
「返す。冷蔵庫も返す」
「あれはお祝いだよ。君と稔さんの結婚の。あの家に住むといい。稔さんは住みたいと思うよ。昨日も家の前に立っていた」
僕はダイヤを持ち、店を出た。栞が追いかけてきた。
「いずみさんに頼まれた。友情を復活させろよ。僕にもいずみみたいな親友がいたんだ」
親友がいたんだ。亜紀だけでなくママも褒めていた。
「あの子は人の気持ちがわかるのね」
治には助けられた。辛いとき、何度も助けられた。
僕はわからなかった。ママの気持ち。僕が治みたいだったらママは出ていかなかったの?
治はわかっていた。三沢家の事情を。そして、なにかがあった。僕が思い出せないなにかが……
治はその場にいた。僕と一緒に。なにがあった? 父の暴力、夏生の怪我、その前になにかが……治は知っている。人の気持ちがわかるあいつには……
この家には亡霊がいる 16