この家には亡霊がいる 10

この家には亡霊がいる 10

鎮静剤

 夏休みの1週間、実家に戻っていた。
 そう、実家と呼ぼう。あのあと僕はすぐに部屋を借りた。古いアパートだ。母が昔住んでいた……
 年内で取り壊しになると聞きすぐに決めてしまった。母が20年以上前にひとりで暮らしていたアパートの同じ部屋。風呂もない。
 幼馴染の夏生ともしばらく会っていなかった。この1年で僕たちふたりは磁石が反発するように離れてしまった。

 5月の連休には夏生の従姉妹の早夕里(さゆり)が来た。そのときは夏生の家で会った。早夕里は夏生と同じ年で、長い休みには遊びに来ていたので幼い頃から知っていた。夏生と成績を競っていた。音楽とスポーツでは敵わなかったが……
 3人で話すのは楽しかった。ふたりとも年下の女の子なのに知識はすごかった。早夕里は親が医者だから当然医学部を目指していた。
 年頃になると容貌を気にした。背は小さくメガネをかけていた。きれいとか、かわいい部類ではないだろう。夏生とは似ていなかった。従姉妹なのに。
 背丈、手足の長さ、目鼻立ち。それでも夏生と取り替えたいとは思わないだろう。聞きたいのを堪えた。NOと言われたら辛い。
「容貌なんて化粧でどうにでもなる。中身を磨け」
 僕は無責任に励ました。

 本をたくさん読んでいて歴史に詳しかった。語り合う早夕里は生き生きしていて、彼女の訪れは楽しみだったのだ。
 それが、なにがあったのか、いや目覚めたのだろう、恋でもして。長年見守ってきた利発な少女は変身していた。
「エイコウ、会いたかったぁ」
 話し方まで媚びていた。メガネはやめ化粧していた。夏生のようなナチュラルメイクではない。下手な化粧。それに流行りだとかウィッグを被っていた。
「そんなのが流行っているのか?」
 夏生もそうだと言い非難しなかった。バカなダイエットもしているようであまり食べなかった。
「がっかりだな。早夕里も低俗な女になりさがったか」
「エーちゃん、早夕里は留学するのよ。しばらく会えなくなるわよ」

 そのとき僕は他人のことを思いやる余裕などなかった。この少女……もう19歳か。幼い頃から僕を慕っていた。夏生を羨ましがり、毎年長い休みにはひとりで郷里から出てきていた。
 その夜、早夕里は僕のアパートにやってきた。さよならを言いに。
「しばらく会えなくなるから」
「夏には帰るだろ?」
「君に(すす)む 惜しむ(なか)れ 金縷(きんる)の衣を
 君に勧む 惜しみ取れ 少年の時を
 花開き折るに堪へなば
 直ちに (すべから)く 折るべし
 花無きを待ちて空しく 
 枝を折ること(なか)れ」


 家のリビングに額が掛かっていた。父が入学式の挨拶に引用していた。
「エーちゃん、お願いがあるの」
「なに?」
 折って欲しい、と早夕里は言った。
「よしてくれ」
 僕の目にまったくその気がないのを悟ると早夕里は泣き出した。
「ひどいわ。勇気を出してきたのに」
「ありがたいけどね。医者志望の君だから言うけど、ED なんだよ」
「上手な断り方ね。ゲイとか」
 早夕里は机に突っ伏し泣いていた。ひどく疲れているようだった。
「明日は帰るんだろ? 送るよ」
 車に乗せると早夕里はずっと泣いていた。
「夏生と結婚するのね」
 それは子供の頃からの約束だった。
「ああ。売れ残ったらね」
「じゃあ、女の子が生まれたら早夕里って付けて」
「ああ」
 軽く聞き流した。
 夏生の家の前で降ろす。
「キスもしてくれないの?」
「君がいい女になったらね」
「哀れなのは忘れられた女です」
「なに?」
「忘れないでね。私のこと」
「ああ」


 両親と彩はハワイだ。久しぶりの家族サービス。橘一家も郷里に帰っていた。早夕里は留学先から帰っていないそうだが。
 父は僕が突然家を出た理由に気付いているだろうか? 母が暮らしていたアパートに住むことをどう思っているのか? 亜紀はうまく話しておくと言ったが。
 鈍感だから、パパは、と。
 無関心だ。それでいい。気づかれたら最悪だ。ようやく戻ってきていた父と息子の関係なのに……
 家の中はきれいになっていた。まさか、父が掃除しているとか?
 ポストを見に行った。1枚のはがきが目に止まった。動物病院のダイレクトメール。父と亜紀に宛てたハガキ。差出人は因縁のある篠田葉月。父に恋していた女だ。獣医の助手のバイト? 

 もうたくさんだ。父と関わり合いのある女はもうごめんだ。
 しかしいろいろ思い出す。
 
 僕は葉月のバイトしている動物病院の前で待った。時間を少し過ぎると葉月は出てきた。車から降りて彼女の前に立つ。
 意外ではなかったようだ。彼女からは喋らない。メガネのことも口髭のことも、聞きも笑いもしない。
「少し話があるんだ」
 葉月は車に乗るのを拒んだ。
「動物の、匂いが染みついてるから……」
「平気だよ。慣れてるから」
 助手席に強引に座らせた。
「単刀直入に聞くけど父とどういう関係?」
 2度聞くと葉月は答えた。
「父親だと思っていたの。本当の父親だと。私を探してくれてたと思った。だから付き合ったの。言われるままに、信じてたのよ。父親だって。抱かれるまで」

 話したのは何度目か? まともに話したのは初めてではないか? それがこの内容。バカバカしすぎて話にならない。虚言癖か? 妄想癖か? 瑤子と同じように父に相手にされずに、想像して思い込んでいるのか?
「そう、嘘よ。三沢さんは素晴らしい人よ。私を助けてくれたの。
 売春してたの。私。卑劣な男よ。バイト先に来て、娘に選んでほしいってマフラー選ばせて私にプレゼントしてくれた。父だと思ってたの。私の本当の父親が探してくれたんだって。いろいろプレゼントしてくれて、小遣いもくれ、勉強できる部屋も借りてくれた。名のれないけど父だと信じていた。脅迫されてたの。父親だと思っていた男に」
 ますます声が出ない。ドラマのセリフか?
「ひどい男に騙されて学校にバラすって脅されてどうしようもなくなってたとき、三沢さんが助けてくれたの」
 葉月の告白、それならありえそうだ。父は葉月が立ち直るのをずっと支え見守っていた?
「軽蔑するでしょ?」
 僕は答えられなかった。葉月はさよならも言わず去っていった。かすかに動物の匂いが残った。

 父の書斎でアルバムを見た。葉月は彩と、ここでかくれんぼをしていた。彼女が来たのは僕が知る限りでは2回だ。亜紀に取り入り獣医になりたいからと相談にきていた。僕は1度だけ書斎で怒った。彩にだが。パパのものをさわってはだめだよ、と。葉月はなにも言わなかった。僕の知る限り父には会っていないはずだった。
 葉月そっくりの女が高校時代の父のクラスにいた。集合写真でも抜きん出て光って見える美少女。それにおそらく写真部が撮った写真。結婚しても再婚しても処分しなかった。母は見たのか? 亜紀は? 大事にしていたのか? それとも無頓着なだけなのか?
 美登利も写真部に撮らせていた。おそらく美登利の写真は圭が大事に持っているのだろう。マリーは断った。葉月は? 男子は葉月の写真を欲しがっていた。スコート姿の彼女……

 父は会ったはずだ。葉月の入学式に。倒れた彼女を保健室まで抱いて運んだ。そのときに母親の操に会ったはずだ。かつての同級生。
 その娘の葉月が売春? 自分を探していた父親だと思った男に騙されて? 父が助けた? 助けられるだろう。父なら。騙した男は破滅だ。いや、嘘だ。虚言だ。妄想だ。
 いや、どうでもいい。

 インターフォンが鳴った。葉月だった。この家を訪れたのは3度目か?
「まだ話すことがあるの」
 勝手知ったる他人の家、葉月は勝手にリビングに入ると窓際のロッキングチェアに座った。
「私が小学校1年の時、あなたは2年ね。
 三沢さん、あなたのおとうさんが私の家に来たの。父はまだ帰ってなかった。私は寝てたけど大きな声で目を覚ました」
 僕は彼女の横顔が見える位置に座っていた。僕たち父子のいやな時代のことだ。
「三沢さんは母に迫ってた。父と離婚しろって」
「バカな」
「離婚してそばにいてくれって。私が起きていくと私にも言った。おじちゃんの子になるんだって。君の名前はおじちゃんが付けたって」
 ハヅキはダメだ……酔って葉月のことを言ったのか? 父が名付けた?
「俺の気持ちを知ってたくせに、篠田なんかとって……母がキッパリ断ると私を無理やり連れて行こうとした。なんでも買ってやる。家にはおにいちゃんがいるよ。かわいそうな子なんだ……」
 妄想癖ではない。真実だ。それ以上はやめてくれ。話さないでくれ!
「母が止めると、帰りたくない、帰ったらまた殴ってしまう。かわいそうな息子を……」
「もういいっ!」
「ずっと夢だと思ってた。H高の入学式、三沢さんの声を聞くまで夢だと思ってた。思い出したの。耳があの人の声を覚えてた。保健室で目が覚めると、母は先生が運んでくれたと嘘を吐いた。三沢さんは私の母を愛してたの」

 父の結婚は遅かった。初恋も恋愛もあっただろう。見合いも何度もさせられた。
 父の過去に興味はない。僕の過去にも目の前の葉月にも。
 僕は息子として父のしたことを謝った。ロッキングチェアに座っている葉月の前で土下座した。僕たち父子は亜紀に何度も土下座した。謝るのはタダだ。
 葉月はすぐに立ち上がり僕の手を取り起こした。
 そして抱きついてきた。
 なにも話したくなかった。体を密着させ確かめる。売春していた女だ。抱きしめて反応をみた。
 葉月は目を閉じた。動物の匂いはしなかった。シャンプーの匂い。懐かしい匂い……
「だめだ」
「……」
「たたないんだ……君じゃ」
 露骨に言ったのに反応がなかった。
「もう帰れよ。用事があるんだ」
 葉月はアパートに行ってもいいかと聞いた。
「君が来るようなところじゃない。ボロアパートだよ。ゴキブリがウジャウジャいる」
 そのときの葉月の表情。
「来るなら覚悟してこいよ」
 アパートの住所をメモして渡した。

 想像した。
 あらゆる性的体位や奇怪な前戯。
 しかしそんなことがいかに無意味なつまらないことであるか……(午後の曳航(えいこう)から)

この家には亡霊がいる 10

この家には亡霊がいる 10

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日
2023-06-02

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