フリーズ21『輪廻の箱』
【摂理】
一、人が死ぬと手のひらサイズの黒い箱になる。
二、箱を開けると開けた人はその人の人生を追体験する。
三、箱は人によってしか開けられない。
四、箱は開けられるまで消えない。
五、箱は誰かに開けられると消える。
【法】
一、 聖職者以外の者が箱を開けてはならない。
二、 聖職者の箱は一般人の箱と分けて管理されなくてはならない。
三、 全ての箱の扱いは十三神皇(法)が定める。
◆Ⅰ或る水夫の夢
彼の死に際はとても穏やかだった。悪魔に取りつかれるでもなく、妄想に苛まれるでもなく、自身の死と真摯に向き合っていたのが印象的だった。彼は敬虔な信徒であった。
「私の取るに足らない人生も、フィニスの刻に必ず神が見届けてくれる」
彼は口癖のようにそう語った。そう心から信じていた。
「だから悪いことはしてはいけないのだよ。分かったね」
孫に言い聞かせているのか、己に言い聞かせているのか、私にはどうにも後者に思えた。神か。そんな都合の良い言葉でこの世界の仕組みを片付けることのできた彼らに常々私は怒りを覚えた。だが同時に、彼らのことがとても羨ましくもあった。
水夫であった彼は、特筆するべき人生は送らなかった。新たな発見もなければ、革命も、奇跡もない。まさしく平凡な人の一生であった。彼は貧しい漁村の少年として幼少を育った。体は小さく、体の線は細く、ハトのような顔をしていた。特技は釣りと料理。晩年は一日のほとんどを海釣りに費やしては、釣った魚を使って家族に料理をふるまっていた。
彼は家族に愛されていたし、彼も家族のことをこの上なく愛していた。そんな彼には夢があった。まだ恋の甘さも知らぬ幼い頃の記憶は夜の静けさの中、明かりもない大海原に浮かぶ船の上で、叔父に教えてもらった星座の話だった。ベガとアルタイル。天の川を挟んで輝く二つの星にまつわる伝承に少年は目を煌めかせ、夜凪に身を任せながら思った。もし運命を別つ二人がいるのだとしたら、僕が渡し船を漕ごう。
彼は村の娘と結ばれて、子どもを四人持ち、水夫として一生をその村で過ごした。大人になる頃には現実を生きるようになり、あの幼少の夢はもう思い出さなくなった彼だったが、それでも星空を見て抱く情動を捨てきれはしなかった。
彼の死後、箱を開けたのはその村唯一の聖職者であったが、彼の瘦せこけた軽い体が黒い箱になる刹那、彼はそれはもう嬉しそうに、幸せそうにその聖職者に語った。
「私は今、あなたの双眸の奥に神を見ています。おお、神よ。神に通じる全ての存在たちよ、本当にありがとうございます」
こうして一人の水夫の人生は幕引きとなった。
◆Ⅱ或る聖職者の夢
年老いた水夫を看取った或る女の聖職者は彼の箱を回収して、教会の金庫に入れようとしたが、金庫は黒い箱でいっぱいだった。彼女は仕方なく家の引き出しの中に入れた。
十三年に一度の法祭の日に、一つ上の位の聖職者が漁村でできた箱を回収しに来るのだが、彼女は前任者から引き継いでから今まで一度も法祭を迎えたことはなかった。今年の冬、法祭が行われる。村も法祭に向けて浮足立っていた。彼女も浮足立っていた。
漁村での時はゆっくりと流れる。待ち遠しかった冬の訪れを知らせたのはしんしんと降る雪と祈り組む手にできたあかぎれだった。
法祭の日、高貴な服装を身にまとった男の聖職者が村を訪れた。彼は教会で酒を飲み、村の娘たちに囲まれて賑やかな夜を明かした。
「どうだね、君も箱を開けてみないかね?」
彼女はその聖職者に数ある箱の中から一つを選んで開けてみてはと提案された。これは昇進の提案でもあった。聖職者は箱を開けることでようやく一人前として認められるのだ。彼女は未だに一度も箱を開けたことはないと記録されていた。だが、彼女はその提案を丁重に断った。もう箱は開けないと彼女は決めていたのだ。
彼女は子どもの頃、友人を殺していた。毎日海で一緒に遊んでいたその友達は、あっけなく溺れて死んだ。助ける勇気がなかった。殺したのも同然だ。事が終わった頃になって後悔した。どうせなら一緒に死んでいた方がましだと思うくらい、彼女は胸が締め付けられた。せめてもの償いに彼女はその友達の箱を開けた。その友達が背負っていたものを彼女も背負うことにしたのだ。そして、もう箱は開けないと誓った。
「そうか、残念だ」
男の聖職者は翌朝その漁村を去った。彼女は昔に犯した友人殺しの罪が暴かれないか心配であったが、それは杞憂に終わった。彼女が家に帰ると、水夫の箱が回収されずに残っていることに気づいた。
『私は今、あなたの双眸の奥に神を見ています。おお、神よ。神に通じる全ての存在たちよ、本当にありがとうございます』
水夫が死ぬ間際に残したこの言葉が脳裏に蘇る。あれはどういう意味だったのか。彼女は水夫のその言葉がどうしても気になってしまった。そして今、いくつかの偶然がこの箱を彼女の掌の上に存在させていることに神の導きまで感じていた。だからなのか、彼女はその黒い箱を開けることにした。
「そうだったんだ」
その時から、箱の記憶・水夫の人生を追体験した彼女の瞳は、死に際の水夫と同じでここではないどこか遠くを見据えていた。それから彼女は昇進し、いくつもの箱を開けるようになった。そして、最高位神官にまで上り詰めた彼女の死後に残った箱は、十三神皇の一人、7thが開けることになった。
「7th様。私はあなた様の瞳の奥に神の存在を感じているのです。ああ、あなたが神だったのですね。ありがとうございます」
今際にそう言い残した彼女に7thは一言「ご苦労様」と告げ、彼女の死後、淡々と残された箱を開けるのだった。
◆Ⅲ或る神の夢
私たち13神皇は元来神ではない。私だって田舎町の或る牧師の子どもとして生まれた。ただ、勉学や芸術に関して才があっただけだ。だが、今では人々は私を神皇と呼ぶ。もし私が神だというのなら、それは先代の7th様の箱を開けた時からだろう。そして今、私も自身の役目を終えようとしている。否、全人類の我慢がようやく実を結ぼうとしているのだ。
神殿に集ったのは13神皇、最高位神官、そして特別な許可を得た管楽の才を持つ者だった。皆一様にところどころ金の刺繡のある真っ白の布を纏っている。今から終末の儀が執り行われるのだ。
私たち13神皇は、各々が配下とする最高位神官たちに、葡萄酒が注がれた盃を渡していく。その葡萄酒に眠るように安らかに死ねる毒薬が仕込まれていることは暗黙の了解とされていたし、それを拒もうとする信徒はいなかった。神官たちは盃を受け取ると、神皇に深く、深く頭を垂れた。
「皆に、行き渡ったな?」
神皇を取り囲むように円陣を組み、盃を胸の位置に掲げる最高位神官たちに向かって、1st=万真天が確認するように問いかけた。最高位神官たちは一様に頷いて返事とした。
「では、始めるとしよう。これより一切離輪の儀を執り行う」
1stの合図とともに、管楽隊の演奏が始まった。楽曲の題は『球遠』といい、高位な神官たちの葬儀でよく演奏される交響曲の一つであった。球とは昔は星を意味していたが、今では宇宙全体を言い表す。つまり、球遠とは全時間の宇宙のことである。
曲が終わるころには、神官たちの盃は空になっていた。管楽隊らは演奏を終えると、ナイフを手にし、自身の首を掻っ切った。そして、13の神が神ではなくなった。残った13人はかつて自分らを崇拝していた者たちだった黒い箱を次々と開けていく。全ての箱が消えたら、今度は1stと13thが盃を飲む。2ndと12thが一つずつ箱を開けて盃を飲む。そして最後には7thだけが残った。7thは盃を手にし、涙を流した。7thが死ぬことで儀式は幕引きとなり、本当の終わりがやってくる。
7thは盃を傾けた。だが、葡萄酒は7thの口に落ちることはなかった。
◆Ⅳ終わりと始まり
「あなたは神官様ですか?」
床に膝をついて呆然と天を見上げていた男に問いかけたのは一人の女だった。男は焦点の合わない目を女の方に向ける。
「久しぶりに家を出たら、町から人が消えていて。何かご存知でしょうか?」
女の質問に男は応えずに立ち上がると、葡萄酒の張った床を歩いていく。女のもとまで歩くと男は女のことを抱きしめた。嗚咽しながら泣く男の震える背中を女は優しく撫でた。
Ⅴ千年後に立つ君へ
月面に建設された人工庭園にて、一人の少年が目覚めた。少年の隣に横たわる少女は、全能から眠っていた。だが、少年は彼女の全知性にも気付いていて、彼女の冷たくなった手をそっと握った。
「君はいつもこうだ。いつも安らかに眠る」
少年は少女の前髪を少しずらすと、額にキスをした。
「まるで子を想う母のように」
少女の周りには葬送の献花が手向けられ、水辺に咲いた花々でさえも、今日だけは運命を受け入れて事象の色となす。エリュシオンはとうの昔に崩壊し、このアタルヴァ・ベースは、ノアの方舟の如き人類の墓場となっていた。
少年は箱になっていく少女を見つめながら、或る曲のメロディーを口ずさむ。それは、まさしく終末に似つかわしい響きとしての凪。全能や全知、神に仏らがきっと喜んではにかむ、そんな甘美なる時の残響は、ユエン、リタ、ラカエという三位一体の化身らに導かれて、彼岸と此岸の橋となる。或る水夫の夢は今、世界の終わりによって叶う運びと相成った。君らも、ここも、もうないね。もう、教えられない、挟まらない、倒れない、揺らがない、でも、きっと、終わり。
箱になった君を開け、全知全能になった日に、認識それが、人間原理、だから、イデアの海も凍り付く。全球凍結、世界フリーズ。だから僕は、世界を凍らせたのかもしれない。
「なんだか、寒いな」
お花畑はだんだん白くなっていき、氷花らが横たわる少年を優しく包む。少年はいくつもの文明の記憶らを保持し、その脳は涅槃に至っていた。それは穏やかな死であり、凪の音が鳴りやまず、少年はその美しさに微笑んでしまう。
「赤いな。本当に赤い。でも、青いんだね」
赤い地球も、記憶を通して見ると、青く見えた。地球、僕らの星。ずいぶん遠くまでやってきちゃったな。でも、もういいさ。終わるから。楽園はここに、僕が神様、君らはいつだって子であって、いつか会えたら、また僕たちで始めよう。
フリーズ21『輪廻の箱』